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歴史

経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》 1章.尾張編《こうして信長が生まれた》

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経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》
序章
1章.尾張編《こうして信長が生まれた》

 

1章.尾張編、こうして信長はうまれた。

.応仁の乱の復習

応仁の乱は、室町幕府第8代将軍足利義政(あしかが よしまさ)は、29歳になっても子がおらず、出家して天台宗浄土寺門跡となった異母兄弟の義尋(ぎじん、後の義視)を還俗させて跡目とした。しかし、それから義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生すると、日野富子は実子・義尚の将軍職擁立を切望する。富子が義尚擁立に頼みとした山名宗全・畠山義就に近づき、足利 義視(あしかが よしみ)の後見人である元管領細川勝元が対抗するという構図の下で起こった跡目争いであります。

文正元年(1466年)7月23日、足利義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を突然、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えるという事件が勃発します。そして、8月25日には斯波義敏に越前・尾張・遠江守護職も与えました。さらに、足利義政の側近は、謀反の噂を流して足利義視の追放、誅殺を図ったのであります。

この進言に異を唱えたのが、山名宗全は一色義直や土岐成頼らと共に足利義視と斯波義廉を支持します。足利義視も後見人である細川勝元を頼りました。

こうして、足利義政は、山名宗全と細川勝元の意見を聞き入れ、謀反を進言した伊勢貞親を近江に追放、側近であった季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則も失脚して都を追われた。伊勢貞親の側近であった斯波義敏が失脚すると、取り上げられていた越前・尾張・遠江守護職も斯波義廉の元に戻ってきたのであります。

山名宗全の目的は親戚関係であった斯波義廉を助けることであり、そのまま何事もなく終わるハズでした。

しかし、その6年前から始まっていた畠山の相続争いをしていた義就(よしひろ)と政長(まさなが)の争いが加わってきたのであります。

単純に申しますと、畠山 持国(はたけやま もちくに)は、家督するハズだった政長の父、持富を差し置いて、庶子の義就を後継ぎにすることを決めた為に、持富と義就が跡目を争って内紛を起こしていました。そして、持富は間もなく没し、政長の兄である弥三郎も死去した為に政長が父・兄に代わって跡目争いを繰り広げていたという訳です。

寛正元年(1460年)9月20日に将軍である義政は分国の紀伊国で根来寺の討伐に畠山軍が大敗したことに怒り、義就は失脚させて替わって政長が家督を継がせます。その後、政長は武功を立てて、細川勝元の後任の管領に就任します。

ここでは政長の妻の従兄弟が、細川勝元ということが重要です。

寛正6年(1465年)8月に義就は細川勝元と対抗する山名宗全・斯波義廉の支持を得て挙兵します。大和で義就派の越智家栄・古市胤栄も挙兵して政長派の成身院光宣らと戦い、11月に十市遠清の仲介で両者は和睦すると、12月に義就は上洛して義政により家督を奪い返し、政長の管領をはく奪します。

政長は細川勝元を頼り、応仁元年(1467年)1月2日に上御霊神社において挙兵し、御霊合戦または上御霊神社の戦い(ごりょうがっせん/かみごりょうじんじゃのたたかい)が勃発するのであります。

細川勝元は花の御所を占拠して足利義政から畠山義就追討令を願いでますが、富子が山名宗全に漏らしていたので山名宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と室町亭を囲み足利義政に畠山政長や細川勝元らの追放を願い出るという反撃にでます。

足利義政は畠山義就追討令を聞き入れず、また細川勝元の追放は認めませんでした。しかし、諸大名が一方に加担しないことを条件に畠山義就による畠山政長への攻撃を認めました。

こうして、御霊合戦は山名宗全、斯波義廉(管領)、山名政豊(宗全の孫)、朝倉孝景らの加勢を受けた義就が勝利します。一方、細川勝元が義政の命に従って兵を出さなかった為に政長方(畠山政長、神保長誠、遊佐長直、)は一方的に敗北して逃亡しました。

御霊合戦の後、細川勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させます。それに山名宗全も対抗します。

こうして、当初の勢力は、

東軍の主力:細川勝元、斯波義敏、畠山義政、京極持清、赤松政則、武田信賢

西軍の主力:山名宗全、斯波義廉、畠山義就、一色義直、土岐成頼、大内政弘

が睨みあい、京を中心に畿内、全国へと飛び火していきました。

『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されています。

01-02 応仁の乱>

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(応仁の乱)〔応仁の乱 ウィキペディアHPより〕

応仁の乱を起こした人間関係は、

足利義視=<後見人>細川勝元=<妻が従姉弟>畠山義政 ⇔(対立)畠山義就

足利義尚=<富子>山名宗全=<親戚>斯波義廉 ⇔(対立)斯波義敏

であり、足利家、細川家、山名家、畠山家、斯波家の家督争いと権力掌握争いが合い重なっていることがよく判ります。

御霊合戦の時点では細川勝元が動かず、山名宗全の思惑で進みます。しかし、勝元が四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させると形成は逆転し、東軍の優位は揺るぎません。しかし、周防の大内政弘、伊予の河野通春ら7か国の軍勢一万と2千艘の水軍を率いて入京したことにより西軍が勢力を回復します。

ここにおいて、将軍足利義政が跡目を義尚にするという意思を示した為に、勝元も義視に出家を進められて比叡山に登ります。ところが、西軍が比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に担ぎ出すというウルトラCを行うのであります。

東軍の大将であった足利義視が、西軍の大将に変わるという寝返りが起こるのです。この事により戦果はより一層長引くことになります。

東将軍:足利義政、幕府:幕閣 日野勝光、伊勢貞親ら(東幕府)

西将軍:足利義視、幕府:幕閣 正親町三条公躬、葉室教忠ら(西幕府)

東軍と西軍の戦いは、畿内において足利義視を擁立した為か、一進一退の停滞に陥ります。足利義尚の為に戦っていたのに、足利義視が突然に大将に変わったと言われても混乱したでしょう。京の戦いは大内氏の圧倒的な戦力の前に、周りの諸武将が日和見を決めたというところでしょう。勝元の相手は、大内氏と限定されるようになってゆきます。

経済的な面を見れば、博多港を有する大内氏、堺を有する細川氏以外は、戦闘を続けるだけの財貨がなくなったのであります。

戦というのは、財貨・兵糧を消費するばかりか、長期化すると石高も減ってしまいます。況してや戦場となった田畑の収穫はほとんど見込めません。本当に大喰らいの禄でなしであります。そろそろ戦争が嫌になっていたというのが本音でしょう。

文明3年(1471年)5月21日には斯波義廉(管領)の重臣で西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政による越前守護職補任をうけて東軍側に寝返ります。これを契機に和解のムードが高まり、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれはじめます。

文明5年(1473年)3月18日に宗全が、5月11日に勝元が相次いで死去し、12月19日(147417日)には義政が義尚に将軍職を譲って隠居します。文明8年(1476年)9月14日に義政が大内政弘に和睦を持ちかけ、12月20日に義政と和睦します。

文明9年(1477年)11月11日に義視は子の義材を伴って美濃の土岐成頼のもとに亡命し、翌文明10年(1478年)7月10日に成頼と共に正式に義政と和睦しましたが、美濃に留まり続けました。こうして、応仁の乱は終りを告げます。

その10年後の長享3年(延徳元年、1489年)3月26日に9代将軍義尚が長享・延徳の乱で遠征先の近江で死去すると、義視は義材と共に上洛し、子の義材は10代将軍に擁立されます。

まとめ、

・室町幕府第8代将軍足利義政が体面を気にして、跡取りはっきりきめなかった。

---------- 足利義視 VS 足利義尚・日野富子 ----------

<お家騒動に有力守護を巻き込んだのは、まずかったでしょう>

・有力者の細川勝元と山名宗全・畠山義就の権力争い。

---------- 細川勝元 VS 山名宗全・畠山義就 ----------

<権力の陣取り合戦、身内や味方の地位や役職を勝手に弄りました>

・畠山持国が跡取りを勝手に変更、跡目の畠山持富を庶子の畠山義就に変えました。

---------- 畠山政長 VS 畠山義就 ----------

<将軍足利義政が戦に負けたからと言って、家督を変えたのは間違いだよね>

・斯波氏宗家の武衛家の家督に将軍が関与、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に。

---------- 斯波義廉 VS 斯波義敏 ----------

<守護と言っても守護代や家臣の力が、お家騒動を起こしていたんだ>

・将軍の基盤である財力と軍事力がなくなり、守護の権力争いが活性化し、紛争が続発します。

・外交が行き詰ると、最終解決は武力で決める。しかし、大内政弘などの外界の虎を呼び込んで混乱はさらに深まります。

中国に三国志と言われる有名な話があります。世が乱れ、黄巾の乱が起こると、群雄割拠して、武将や宦官などが百鬼夜行して権力争いを激化させます。そして、その味方を増やす為に外界から董卓を呼び寄せて、漢王朝は崩壊しました。

歴史とは常に繰り返すものであり、野心の旺盛な大内政弘などを巻き込んだ為に足利幕府の権威は地に落ちて、群雄割拠する時代を迎えたのであります。

 

2.尾張で起こった覇権交代

尾張が開拓されるようになったのは紀元前2世紀前のスサノオの時代であります。伊勢湾の奥に当たる尾張は、良質な漁場として発展してゆきます。また、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を祀る津島神社の当たりを海部(あま)地方といい、しそ科のえごま種子から胡麻を栽培しておりました。胡麻の栽培が盛んになった時期は、平安時代に弘法大師が悪疫退散を祈願した際にお供えしたお米のお下がりで作ったのが「あかだ」と呼ばれる油菓子であり、「不老不死の薬」を意味する仏教の「阿伽陀」に由来しているそうで、それ以降、津島神社周辺で胡麻を盛んに栽培するようになりました。

現代の油菓子「あかだ」は、硬さの後に残る上等な菜種油の風味と揚げた香ばしさ作りになっておりますが、菜種油が一般化するのは江戸に入ってからですから、当初は胡麻油を使用しておりました。織田信長の祖父である信定(のぶさだ)は、津島港を通じた荏胡麻油の専売、交易による莫大な収益で財を為し、その収益が父の信秀、信長の財政を支えております。

古代の日本は大陸の中華や朝鮮などと交易を行い、日本海が交通の要所となっております。京に最も近い若狭の敦賀は、入り江が深く絶好の港町として栄えます。敦賀から琵琶湖の西岸を通って京、敦賀から琵琶湖の東岸を通って伊勢へ延びる街道は、古代の主要街道でありました。敦賀から伊勢へ延びる街道の中間になる津島は、東海の入口として古代から栄えております。

津島の当たりを海部地方と呼んだ為かは判りませんが、越前国織田庄劔神社の祠官の系譜を引く、守護大名斯波氏の被官織田氏の支流の出身の織田信定は、忌部氏を称す藤原氏を祖とすると公言しております。これを信長の時代に平氏を祖とすると改めております。

 

7世紀に律令制が引かれますと、尾張国造の領地として尾張と名称されたのが、尾張の始まりであります。尾張には、海部・中嶋・葉栗・丹羽・春部(かすがべ)・山田・愛智・知多の八郡があり、皆、スサノオか、大海人皇子に由来する逸話や宮、神社などが多くあります。そもそも熱田神宮に奉納されている『草薙の剣』は、新羅王家に由来するものらしく、新羅の僧侶が盗み出し、河内湖の放出当たりで追っ手に追い付かれそうになって、剣を放ったとことから、大阪市鶴見区放出地区の『放出(はなてん)』という地名の由来となっております。スサノオを八坂神社で『牛頭天王』として祭っておりますが、牛頭の由来の1つが、新羅に牛頭山というのは古くから知られております。いずれにしろ、尾張には新羅系の渡来人と縁浅からぬ関係であったことが伺われます。

平安時代には、尾張国解文(おわりのくにのげぶみ)というのが残されている。これは永延2年11月8日(9881219日)付で尾張国の郡司・有力農民(田堵負名)が国守である藤原元命の非法失政を訴えるために朝廷に訴えた文書であり、「検田を行って正税を加徴する、公出挙や地子などの加徴を行う、交易の際に百姓から安価で絹を買い上げて余剰を他国で高値にて売りつける」という内容であり、国司が私利追求行為をしているという弾劾文になっている。10世紀頃、国司が悪政を働くことが横行していた証拠の1つであります。

さて、鎌倉時代になると国司は形骸化し、その役割を武家の守護が行うようになり、源頼朝の御家人であった土岐氏が美濃守護となりました。南北朝時代に土岐頼康が幕府方で活躍し、尾張守護を兼任するようになります。このとき、徳川家康の母である於大の方の実家である水野氏は、土岐氏に滅ぼされて一族飛散するという酷い目に遭いますが、応仁の乱前後の争乱に乗じて、知多半島で勢力を復活し、水野氏は織田家と今川家を手玉にとって暗躍する活躍を見せます。

形骸化したと言いましたが、調べて見ると面白い名前がでてきます。室町幕府を建てた足利家の祖先である源義康(みなもと の よしやす)は、父から下野国足利荘を相続し、足利を名字としました。その熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)を娶っております。文永2年(1265年)4月、5代目当主足利家氏(あしかがいえうじ)が、尾張守(おわりのかみ)に着任し、尾張足利氏の初代当主となっておりました。ところが4代目当主の父の泰氏が、3代執権の北条泰時の長男である北条時氏の娘を正室として迎えたために異母弟である北条家の娘から生まれた頼氏(よりうじ)が足利家の家督を継ぐことになり、頼氏が室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏の曽祖父に当たります。

4代目の泰氏の妻は執権になるはずの北条朝時の娘だったのですが、執権には異母兄の北条泰時が就くことになり、朝時は主流からはずれ、北条時政の邸宅があった「名越(なごえ)」という地名を姓にし、北条朝時の子孫は名越氏を名乗ることになります。その尾張に住んでいた末裔の集落を「なごえ」と呼び、後に「なごや」と呼ばれたそうです。

5代目当主を廃嫡された足利氏は生涯を通じて足利の姓を名乗っていたと言われます。また。家氏は陸奥国斯波郡(紫波郡、しわぐん)を領したことより、斯波の祖と言われますが、その子孫である4代目高経・5代目義将親子の頃までは代々足利を名乗り尾張守に任官したことから足利尾張守と呼ばれていたそうです。

室町幕府第3代将軍足利義満(あしかが よしみつ)は足利最盛期の時期であり、日明貿易で得た莫大な利益は幕府の財政を支え、最も足利家の力が強くなっておりました。

その義満の元で斯波氏(武衛家)6代当主斯波義重(しばよししげ)は活躍しております。『応永の乱(おうえいのらん)』では、応永6年(1399年)に守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こし、義重は負傷しながら功績を上げ、土岐氏に代わって尾張守護に任じられます。足利尾張守を名乗っていた家柄からすれば、最高のご褒美というところでしょう。さらに応永12年(1405年)には幕府管領に任じられ、新たに遠江守護も加えられました。足利・斯波政権が始まります。義重は足利義満に可愛がられ、猶子となると共に名を義教(よしのり)と『義』の字を頂いております。

01-03 足利・斯波の系図>

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〔斯波氏家系図(清和源氏足利流)HPより少し改正〕

斯波義重の家臣を見ると、

朝倉氏5代目当主の朝倉 教景(あさくら のりかげ)は、斯波氏被官の立場にありながら、室町幕府の命により度々関東に出兵しております。嘉吉元年(1441年)に結城合戦で教景は6代将軍・足利義教から「教」の偏諱を賜り、「教景」と名乗るようになったと『朝倉始末記』に書かれており、朝倉氏は斯波氏の被官でありながら、独自の立場を持っておりました。

織田 常松(おだ じょうしょう)は尾張守護代として義重と共に下り、尾張下津城主(後の清洲城)となっております。甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任したのに対して、織田氏は尾張守護代を世襲するようになりました。守護義教(義重より改名)は在京することが多く、弟の織田出雲守入道常竹を又守護代として在地支配しております。

これが織田氏惣領家の伊勢守、又守護代の大和守と総称するようになり、織田信長の家系はその織田大和守の奉行職であります。

甲斐教光(のりみつ)は4代当主斯波 高経(しば たかつね)が越前守護となった頃にその執事として入京すると徐々に頭角を現し、娘を斯波義重(のち義教)に差し出して斯波義郷を生ませ、その立場を強固なものとしました。子の甲斐将教(ゆきのり)は義教に改名した義重から偏諱を与えられ、将教と改めると越前・尾張・遠江の守護代となり、越前・遠江の両守護代職を世襲するようになります。

01-04 足利・斯波・土岐・今川の関係>

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永享8年(1436年)に斯波義郷が洛中で落馬して死去。2歳の嫡子の義健が第9代当主家督継承すると、叔父の斯波持有、次いで分家の斯波持種と執事の甲斐常治の後見を受けるという体制に変わります。

第6代将軍足利義教は籤引き(神様)に選ばれた将軍として強権を振るいました。義教は甲斐常治や朝倉氏と繋がり、斯波氏を自らの武力とする政策を取ります。余りにも強引な手法は守護から反発を買い、特に悲観した赤松氏は将軍暗殺という『嘉吉の乱』を引き起こします。

嘉吉元年(1441年)の『嘉吉の乱』で幕府に応じて今川範忠は尾張まで出陣したが、9月10日の幕府軍の総攻撃で決着します。しかし、帰りがけの駄賃でしょうか。閏9月に斯波義健と遠江の所領をめぐって争っております。

義教が暗殺されてから、管領細川持之らに擁されて9歳で第7代将軍となった足利義勝(あしかが よしかつ)が、将軍になるのは嘉吉2年(1442年)であります。将軍不在の好機に遠江を取り戻そうとしたが、守護代甲斐常治に追い払われたというところでしょう。

また、将軍義勝の後見は細川持之であり、義教・斯波政権と対立していたことを推測すると、今川範忠の遠江奪還を細川持之から黙認されていた可能性は非常に高いと思われます。こうして、斯波氏と今川氏の対立は激化してゆきます。

さて、尾張は守護代の伊勢守と又守護代の大和守とで分割統治しておりました。第9代当主義健の急な死去に伴い、同い年の分家である大野斯波義敏(しば よしとし)が斯波10代当主に選ばれます。しかし、幼い当主を支える為に守護代の甲斐氏・織田氏、被官の朝倉氏の権力が増していました。

足利義政が室町幕府8代将軍に就任してから斯波家への干渉を強くし、守護代の甲斐氏は陪臣の身でありながら前例のない室町将軍の行幸を毎年のように得ていました。

特に義政の不知行地還付政策では、神社や仏閣という実効支配が及ばない所領(不知行地)にて、守護請で領主の年貢納入を請け負う代わりに家臣にその役割を負わせて収入を得るなどして守護領国制への指向を強めていったのを止める為に、寺社も還付された所領に幕府から代官を派遣、直接支配(直務)に乗り出しました。つまり、既存の代官を追い出して幕府から直接代官を派遣した訳です。

追い出された代官は、守護である斯波義敏に訴え、義敏は幕府に訴えますが敗訴します。こうして、代官など土豪に支持された義敏と幕府の支持された陪臣(甲斐氏、織田氏、朝倉氏)と対立し、遂に武力闘争まで発展し、『長禄合戦』で負けた義敏は、九州の大内氏まで下向します。その後、関東征伐を目論む将軍義政の思惑で紆余曲折ありながら渋川家から斯波義廉が斯波氏の家督を継ぎ、しかし、細川勝元の仲介で赦免され、政所執事伊勢貞親の意見を容れ、斯波義廉を退けて、再び義敏を斯波氏の惣領に戻されたことが、斯波義敏と斯波義廉が争う『武衛騒動(ぶえいそうどう』を引き起こし、同時期に起こっていた畠山氏のお家騒動が紛争化して、細川氏と山名氏の権力争いの『応仁の乱』(1467年)を引き起こします。

斯波義敏は細川勝元が指揮する東軍に入り、一方、斯波義廉は山名宗全が指揮する西軍に組み込まれた。斯波義廉の管領、及び越前・尾張・遠江守護職は、応仁2年(1468年)710日に褫奪されるが、西軍内では管領・三州守護に留まっている。

斯波義敏と対立関係であった主だった重臣(甲斐氏、織田氏、朝倉氏)は、義廉を支持して西軍に身を寄せている。しかし、その前年文正2年(1467年)1月21日には京都に残っていた松王丸(義敏の子、後の義寛)は祖父斯波持種及び叔父の竹王丸とともに義廉によって襲撃され、京都を脱出して尾張国に逃れていた。

おそらく、松王丸が身を寄せていたのが、又守護代である織田大和守家の敏定(としさだ)の元であったと思われる。尾張守護代である織田伊勢守家の敏広(としひろ)は、管領で尾張守護・斯波義廉と共に西軍に属して戦っている。敵である敏広の元に松王丸が身を寄せる訳もなく、又守護代の敏定が守護代の敏広と対立して戦う理由は、松王丸を擁護していた以外に考えられない。

文明4年(1472年)になると、細川勝元と山名宗全の間で和議がなるが、赤松政則の不調で不発に終わる。それに気を悪くしたのか、勝元は嫡男を廃嫡して、宗全の外孫に当たる実子の聡明丸(細川政元)を擁立した後に剃髪した。

文明5年(1473年)1月に「山名鶴房」と呼ばれる山名一族の重鎮であった伯耆・備前守護の山名 教之(やまな のりゆき)が死去すると、後を追うように2ヵ月後の3月18日に宗全も病死する。そして、5月11日に勝元も死去する。応仁の乱を引き起こした当時者がなくなったことで戦は散漫となり、その年の暮れ12月19日に将軍義政が義尚に将軍職を譲って隠居する。文明6年(1474年)、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立し、山名氏が西軍から抜ける。

文明7年(1475年)11月、甲斐敏光が東軍に寝返り、すでに朝倉孝景も寝返っていたので孤立した西軍の斯波義廉(管領・尾張守護)は守護代の織田敏広を伴って京都から尾張へ下国し、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城に入城する。

すると、文明8年(1476年)11月、又守護代の敏定は主君斯波義敏の命で、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城を攻め、敏広と岳父である美濃国の斎藤妙椿ら岩倉方と戦い、勝利を収めた。その後、尾張を離れて京都に上洛したとされる。

一方、斯波義廉と織田敏広は山田郡の国府宮へと逃れていたが巻き返えして、大和守家の勢力を尾張から一時的に追放したとも言われるが定かではない。

土豪・国人衆は情勢に聡く、東軍が有利な状況で山田郡の国府宮に逃れた西軍の斯波義廉・織田敏広に付くとは考えられない。一方、東軍の斯波義敏・織田敏定の不安要素は浄土真宗の対立である。いずれ一向一揆が激化すると幕府と浄土真宗は対立することになる。しかし、蓮如は文明6年(1474年)から文明7年(1475年)まで吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在し、東軍の富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入しており、この時点では、浄土真宗と東軍は敵対していない。また、法華宗も同様であり、京の町で自警団を作って町の衆を守っているだけで積極的に政治に介入した形跡は見当たらない。

斯波義廉・織田敏広が盛り返して、斯波義敏・織田敏定を尾張から追放するのは無理筋である。もちろん、戦は水モノであり、追撃していた斯波義敏が逆襲を喰らって形勢が逆転することもあるだろう。しかし、最も考えられるのは、後々の政治的な発言力を得る為に東軍の斯波義敏は、一刻も早く上洛して、西軍を叩いた実績を作ることを重要視したと考えられる。ところが尾張を留守にしている間に斯波義廉・織田敏広が盛り返し、討伐の為に幕府の助けを借りることになったと考えられる。

文明10年(1478年)9月9日、敏定は室町幕府から尾張守護代に任じられ、「凶徒退治」(凶徒とは西軍に属す斯波義廉を指す)を下命されて京都から尾張に下国した。敵方であった美濃守護の土岐成頼・斎藤妙椿らの援助を受け、新たに守護所が置かれた清洲城に無事入城する。同年10月12日に敏広と戦い勝利するが、12月4日に敏広が清洲城を攻撃し、斎藤妙椿が敏広の救援に乗り出してきたため形勢は逆転する。清洲城は一時的に炎上し、今度は織田敏定が山田郡の山田庄に敗走している。

翌文明11年(1479年)1月19日に、斎藤妙椿の仲介で両軍は尾張を分割統治することで和睦し、尾張上四郡を守護代織田伊勢守敏広、尾張下四郡を守護代織田大和守敏定で統治する分轄統治が始まった。

01-05 享禄4年の尾張勢力図>

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〔享禄4年の尾張勢力図〕(享禄 元年 (1531) 信秀の台頭前夜 風雲勢力図ブログより)

尾張織田の台頭は、

『信長公記の軌跡 首巻   

http://hitokuti2.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-b294.html#_ga=1.26585589.97874448.1452047073

1538年 尾張国かみ下わかちの事

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/11538-3db1.html#_ga=1.203091673.97874448.1452047073

で書いておりますので、ご参考にして下さい。

 

3.経済から見た尾張

応仁の乱を武士階級から見ていますと、単なる権力争いでしかありません。学校の教科書もその点を重視しているのでまったく意味がありません。

山川の教科書には、「応仁の乱により、有力守護が在京して幕政に参加する幕府の体制は崩壊し、荘園制の解体も進んだ」とあり、その理由を詳しく載せておりません。これでは、『応仁の乱』で何が起こっていたのか判りません。

これでは、本当の主人公の名前も顔も出ていません。

応仁の乱で活躍した影の主人公がいます。たとえば、『応仁の乱』が始まると、戦果に巻き込まれて京は初期のうちに洛中の大部分は焼けてしまい、屋敷や民家や土倉酒屋などの多くの商家も姿を消しました。

その中でも金融を営む土倉酒屋は、元々神社や寺院の一部として行われていましたが、僧から還俗して俗名を持つようになっています。彼らがどれくらいの力を持っていたのかと言えば、幕府が徴集した税から想像することができます。

史料によると、幕府は年間6,000貫を目標にすると書かれております。実際、嘉吉元年(1441年)の文書には、三ケ月分の酒屋役として、三二七ケ所の酒屋から880貫600文を納めたとあり、年換算で3522貫400文となります。嘉吉元年は、大規模な徳政一揆があり、土倉役は少なかったと考えると年間6,000貫は眉唾な話ではないと思えます。

1貫を1石と換算するなら、6000石であり、太閤検地を行った慶長3年の総石高が1851万石とその石高から見れば微々たるものですが、

・天文4年(1535年)大内義隆が即位費として、2014貫を献上。

・天文6年(1537年)大内義隆が不明ですがと、1000貫を献上。

・天文10年(1541年)織田信秀が伊勢神宮遷宮、材木や銭700貫文を献上。

・天文12年(1543年)織田信秀が朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上。

・天文12年(1543年)今川義元が500貫を献上。

・弘治3年(1557年)三好長慶が大葬費として、600貫を奉納。

・永禄3年(1560年)毛利元就が正親町天皇の即位の際に2000貫文を寄進。

名立たる大名の献上金を軽く凌駕しており、その額が如何に大きな額であるのかが判ります。幕府の主収入は各地にある荘園からの年貢であり、その他の収入を含まれば膨大な予算を持っていた足利幕府が滅んだことが不思議でなりません。

もちろん、理由はあります。

よく教科書に書かれている。華美と贅沢な放漫財政が財政破綻を起こしたというのも1つの要因でありますが、最大の要因ではありません。

これは平清盛の平家滅んだのと同じ理由であります。

長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて長禄・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)など、自然災害が多数起きて農作物の収穫が激減しました。

基本的に中世は温暖期であり、農作物の収穫は増え続けておりました。しかし、炭素14濃度の測定によると、シュペーラー極小期(14101540年頃)と重なります。つまり、日照時間が足りずに農作物の収穫が減ってきた訳です。そこに大飢饉が重なります。

すると、米価が上がり、銭高から銭安に移ります。天皇や幕府の荘園は地方にあり、直轄統治をしておりません。地方の反乱や紛争が起きると徴集や流通に支障をきたします。況して、応仁の乱が始まるとそれを東西の勢力に別れて奪い合う訳ですから、朝廷や幕府へ納められる年貢は激減し、頼りの税収も京を荒廃させた為に気泡に帰します。さらに悪いことに蓄えていた銭も銭安で価値が暴落し、今日食うのにも困る有様となって、多くの公家たちが縁者を頼って地方に下向するようになったのであります。

この貨幣経済というのは金ですべての物が買えるという前提で巧く機能します。しかし、天災などに脆弱なシステムであり、物流が停滞するとすぐにハイパーインフレを起こして、金を持っていても何も買えないようになるのです。

近年、日本の経済学者の中には、日本の農産物が壊滅しても世界から買えばいいという馬鹿な学者もいますが、それは世界的な不作が起こらないことで前提であり、100年の間に起こらなかったからと言って、1000年先も起こらないとは限らないのです。

歴史的に東北大震災が起こり、10mの大津波がやってくることは予想されていましたが、誰も経験したことがないという理由で無視されていました。歴史的に世界的な大不作が起こります。自分の経験からその備えを必要ないという経済学者は国を滅ぼす無責任な意見なのです。

さて、話を元に戻しましょう。

天候不順と応仁の乱は、収穫の激減と物量の停滞を引き起こし、幕府は財政的に破綻を来たします。守護は抗争に明け暮れ、守護代も守護の尻拭いに追われ、地域の紛争や水利権など権利紛争の調停する者がいなくなった訳です。

京では、洛中にあった法華宗の二十一のお寺を中心に法華一揆という組織を作り、それが発展して、天文元年(1532年)から五年にわたって洛中を支配しました。つまり、警察と裁判を兼ねる自警団が生まれた訳です。その組織は上京・下京・洛中に広がり、「町組」と呼ばれるようになります。

これが応仁の乱で生まれた影の主役で、『町衆が自ら町を守るようになった』ことであります。

室町時代全盛期は、日明貿易をバックに栄西禅師、道元禅師によって興隆した禅林の教えの『禅林文化』が花開きましたが、応仁の乱以降、京衆は法華宗と結びつきを強くし、狩野元信・永徳、長谷川等伯、本阿弥光悦など安土桃山時代に登場する著名な芸術家は、法華教徒に変わってゆきます。禅宗の寺は洛外にあったのに対し、法華宗の寺は洛中に集中していたことが大きな要因でしょう。

地方でも同じように農民や町衆が自警団を作り、自らで防衛するようになってゆきます。その一方で一向一揆が盛んになり、加賀一向一揆は守護の内紛に介入できるくらい大きな力を持つことを示しました。被支配層であった民が、支配層なしでもやっていけることに気が付いたのであります。

興福寺の僧正である尋尊(じんそん)は、対立する長懐が年貢を取り立てようとして、農民を怒らせ、長懐が年貢を取れなかったことを僧侶たちが「よかった。よかった」と無邪気に喜ぶのを見て、日記にこう書き残しております。

「百姓の力を借りるなど、興福寺の権威を傷つけ下剋上を助長するだけではないか。何がめでたいものか」

いずれ武家や僧侶と権威が崩れ、武家や僧侶が百姓と同格になることを、無邪気に喜ぶ僧侶を嗜めているのであります。武家や僧侶も要らない社会、正に『下剋上』が起ころうしていることに尋尊は苦慮します。

この『下剋上』とは、本来、南北朝の時代に悪党である楠正成などが幕府などに抵抗したことで使われるようになります。しかし、今度の『下剋上』はそんな生易しいものではありません。

01-06 支配体制の変化>

0106

奈良、平安、鎌倉、室町と続く歴史の中で無神経に無視されていますのが、農民や町人の暮らしであります。

一般的な教科書を農民と検索すると、

・中学校社会 歴史の奈良時代

この時代に農民は貧しくて、税の負担は重く生活が苦しく、多くの農民は竪穴住居に住んでいた。etc.

・中学校社会 歴史の平安時代

貴族たちや寺社は農民らに開墾をさせ、貴族の所有する土地を広げていった。

さまざまな税が課せられた農民の中には、税を逃れるためにほかの土地に移る者が現れたり。etc.

・中学校社会 歴史の鎌倉時代

農民の負担は、荘園や公領の領主への年貢だけでなく、地頭も労役などを農民に負担させていた。etc.

・中学校社会 歴史の室町時代

農民の自治が前の時代よりも強くなった。 色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるという 寄合(よりあい) という集まりが開かれるようになった。

農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。 年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という強訴(ごうそ)をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう逃散(ちょうさん)などで、対抗しました。etc.

室町時代になってやっと少し顔を出します。

農民は常に重い税や課役などで苦しめられていたのかもしれませんが、同時に少しずつ豊かになっていたのであります。

隣の国である中国の農民を見て下さい。

貧富の差が広がり、農民は悪政に苦しんでおりますが、むかし比べれば贅沢な食事とスクーターなどの乗り物や、携帯やテレビという文明の力を享受しております。

同じように

奈良⇒平安⇒鎌倉⇒室町

と、農民の暮らしは少しずつ豊かになっており、鎌倉時代にかなり豊かになっていたからこそ、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮が比叡山を飛び出して、新興宗教を起こす余地が生まれていたのであります。

序章でも少し紹介しましたが、土倉酒屋といった金融から金や米を借りなくても、互助会と言うべき『惣』を形成し、農民なら農民、商工業なら商工業が助け合えば、高い利子を払う必要がありません。その仲介役を浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺が行いますから、商売仇の比叡山の天台宗などから阻害・迫害を受ける訳であります。

中でも日蓮宗は権力層の武家を巻き込んで、日の本を根幹から救済しようと訴える訳でありますから、商売ができなくなる天台宗からそれはもう激しい弾圧を受けました。新興宗教にとって鎌倉時代から室町時代はそんな難産な時代でありました。

しかし、そんな浄土宗、浄土真宗、日蓮宗を余所に、日明貿易のパトロンを持つ禅宗だけは幕府の擁護を受けて、天台宗の迫害をモノともせずに発展してゆきます。この禅宗の発展こそ、平安末期から鎌倉・室町時代へと宋銭が常に日本に入り続けていたことを物語っているのであります。

教科書には載っていませんが、ある一定量の貨幣が毎年のように日本の流入し、貨幣経済が農民までゆっくりと広まり、下々の人々の生活をゆっくりと豊かにしていったことを物語っています。

では、そろそろもう一人の影主人公を紹介しましょう。

『相模風土記』には、

「応永十年八月唐船当初に着岸す。

船中永楽銭数百貫ありしを、足利義満は命じて鎌倉管領左(佐)兵督満兼に与えられる。

その頃関東に此銭流布す」と残されております。

また、『武家盛衰記』には、

「抑々永楽銭日本に渡ることは、応永十年八月二日の大風にて、同三日申の刻唐船二艘、相州三崎浦へ漂着したり。

時鎌倉足利佐(左)兵督満兼下知にて、伊藤備前守義高奉行にて検儀す。船中も実験するに、明朝永楽銭数百貫あり。

此旨将軍義満へ被下。

夫より関東に此銭を用ひらるる云々」とあります。

鎌倉時代を通じて、鎌倉幕府に入った銭は多くあります。しかし、関東では流通していなかったので、京の六波羅探題当たりで流用し、鎌倉での流通は一部だったと思われます。それが応永十年の唐船の座礁により大金が市中に流れ出し、関東で銭が流通するようになります。

こうなると、尾張の津島などの港には、西から東へと銭を運ぶだけで何倍もの利益になります。これが室町時代における尾張の発展の原点となります。さらに『応仁の乱』が始まると焦土化した京から多くの公家や商家が逃げ出します。

日明貿易で毎年入ってくる永楽銭のほとんどは京で使われていましたが、行き場を失った永楽銭がどこに向かうかと考えて下さい。

西国は銭不足と言っても下々にも行き渡っていますから緩い銭高程度であります。港に着いた数百貫以上の銭を西国で使っても利益は知れています。

しかし、日の本にはまだ流通しきれていない場所が残っておりました。

そう、東国です。

しかも京から逃げ出した公家や商家の者を大量の銭を持っておりました。東国の国々も収穫不足で物の値段が跳ね上がっていましたが、銭不足がそれを緩和し、西国に逃れるよりマシな生活ができたと思われます。

喩えるなら、

日本からフィリピンに避難した日本人が物価高に悩まされますが、日本円とフィリピンドルの為替差益から何不自由なく暮らすことができていたと言う感じでしょうか。

なんと言ってもレストランで食事をしても高級の一食が50円から300円で済みます。洋服代が100円程度で、ホテル並みの50平米のコンドミアム(住居)が月25000円くらいです。月10万円もあれば、かなり豪華な暮らしができる訳です。

東国の武将は、鴨が葱を背負って来た公家や商家を快く迎え入れてくれた訳です。同じように、日明貿易で運ばれてきた永楽銭も東へ東へと運ばれて行きます。東と西の中間点である尾張や駿河や越後は大いに賑わったという訳です。

そうです。

京に流れなくなった銭そのものが、もう一人の影の主人公なのです。

応仁の乱で行き場を失った銭が東へ、東へと流れ、日本全国に銭が行き届いたのであります。貨幣経済の土台が生まれたのが、応仁の乱の本質なのです。

この応仁の乱(1467年)~1477年)が終わっても守護達の権力争いは続き、中々復興は進みません。明応9年(1500年)に祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りが行われておりますが復興を祝ったというより、これ以上悪化しないことを願ったという感じでしょう。人口の回復が感じられるのは、永正5年(1508年)以後に酒屋役徴収の強化命令が幕府から出されている事から、明応9年の数年後から本格的な復興が始まったと考えられます。

この40年間で代官は事実上廃止され、地侍や領主にとって変わられます。守護や守護代から戦国大名へと移り変わってゆくのであります。あるいは斉藤道三や北条早雲のように被官から戦国大名へと変わる者も現われます。尾張もまた奉行という被官から戦国大名への道のりを歩み始めました。

 

5.こうして信長は生まれた

織田信長の祖父である織田信定(おだ のぶさだ)は、尾張守護斯波義敏と共に東軍に属して戦った尾張下四郡の守護代織田大和守敏定の子とも、あるいは孫とも言われます。信定は織田大和守家に仕える清洲三奉行の1つである織田弾正忠家の当主として、中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収めると津島に居館を構えました。これが塩畑城(しおばたじょう)であります。この塩畑は白旗と語音が似ておりますから、縁起が悪いという理由で信定または織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれております。

津島は津島神社の門前町であり、津島神社は京の八坂神社と同じく牛頭天王といわれる建速須佐之男命が祀られており、八坂神社が主に西国に広がったように、津島神社は東国に広まり、3000余りの末社を持つ神社であり、東国の伊勢詣をする人たちの間では「津島かけねば片詣いり」といわれるほど、伊勢神宮と同格の由緒正しい神社であります。

中世時代に門前町の前身である『座』(米の座と苧之座(おのざ))が生まれ、鎌倉時代から室町時代にかけて荘園制に組み込まれます。大橋氏らは津島奴野屋に荘園役所を築き、荘園地頭として着任しております。

応仁の乱によって幕府の規律が緩み、否、幕府自身が規律を乱し、神社や寺院の荘園の管理を幕府直轄の代官で行うとします。それに反発して守護と守護代が争った訳ですから、大橋氏をはじめ荘園地頭の地位も危ないものでした。応仁の乱以降、守護代の奉行職である織田弾正家と組むことで、そのまま領主となっていったようです。

大橋氏をはじめ、津島には四家七苗字と称する豪族がおり、彼らは南朝との深い結びがあります。織田信長が『第六天魔王』を名乗ったのも、『建武新政』を行った南朝の初代天皇である後醍醐天皇が死去した後に、『第六天魔王』となって京の町に災いを及ぼしたと噂される為であり、『第六天魔王』というのは、後醍醐天皇のことであり、信長が『第六天魔王』を名乗る意味は「後醍醐天皇の生まれ変わりだ」と風評しているのです。何としても津島衆を味方にする為の苦肉の策だったのであります。

守護代織田大和守家の奉行である織田弾正家の信定は津島衆を保護する替わりに税を徴収し、織田弾正家の台所事情は飛躍的に躍進しました。

元々、津島は栄えておりましたが、応仁の乱で京が荒廃すると、ダブついた永楽銭が東国へと流れて始めます。堺を経由して、伊勢、津島、熱田から東国へ、津島と熱田は中継地として大いに潤ったという訳です。

さらに、今川家が金山の掘削を始めると、坑道の灯りを灯す為に油を大量に必要とします。津島は油の生産地でもありました。今川家が金で潤うほど、織田家も油で潤うという因果が発生していたことに、誰も気が付かなかったようです。

これは喜劇としか言いようがありません。

義元がこれに気が付いて、駿河で商工業を発展させていれば、時代はまったく違った色合いになっていたでしょう。

さて、東国からの収益が津島や熱田に溜まり、これが織田家の財源を潤します。他家の武将は年に一,二回の戦闘を行うと財貨と兵糧が尽きてしまいますが、織田家は銭が潤い、兵糧も銭で買うことができます。戦費を出してくれる織田弾正家に尾張衆が皆従ったのであります。

年に一,二回の戦闘が限界であり、三、四回も戦っていては農作業も出来ず、美濃や三河の衆は財政破綻を起こし崩壊します。

織田弾正家信秀が強かったのは、津島と熱田から上がってくる利益が齎した恩恵なのです。もちろん、津島と熱田の衆も安全に輸送できる領域が広がることを望んでおり、商家も領土が広がるほど儲かった訳です。

銭で土豪や領主から兵を出させるという信秀のやり方は信長に伝承され、信長は兵を雇うという形式に発展させます。これは兵を簡単に集められるというメリットがあるのですが、負け戦になると命を惜しんで我先にと逃げ出すことから『尾張の弱兵』と呼ばれるほど逃げっぷりがよく、メリットがあれば、デメリットもありました。

幼少の信長は那古野城の那古野神社で勉学を学び、祖父信定と共に津島の商家を遊び場所とし、青年期を守護代も上回る働きを見せる父信秀を見て育ちます。

自由奔放、新しい物に目がない。その奇怪な行動は『うつけもの』というフレーズで幾つも残されております。

食べながら歩くのは、時間を惜しむ商家の者を真似。

麻の服を着るのは、安く丈夫な麻の方が便利。

ひょうたんを腰にぶら下げるのは、熱中症対策。

草履を持ち歩くのは、誰が草履を潰したときの予備。

合理性と新しい物を試す好奇心を持ち、一方、古臭く合理性の欠ける武家の作法を疎んじました。信長が貨幣経済の意味を知っていたとは思われませんが、体験的にその意味を理解していたと思われるエピソードが信長公記に多く残されております。

たとえば、信長は餅などを持ち出して、村の祭りなどに参加しております。また、君主になってからも、出掛けていって『女踊り』を披露するなど、村人から好かれるような振る舞いが残されております。

誰が天下の沙汰を知っているようなそぶりであります。

ところで、『天下布武』が信長の代名詞でありますが、本当に信長は天下統一を目指していたのでしょうか。

信長は秀吉の妻であるおねなど、自らの妻から部下の妻まで、きめ細かい手紙のやりとりと行っております。夫を労うように説いております。また、裏切った林秀貞も20年近く家臣として側に置き、何度も裏切る松永久秀も許しております。

ところが、信長の弟である信行や信長の叔母にあたるおつやの方は、厳しく処刑しております。これは身内でも公平に扱うというアピールであり、上に立つ者は公平でなければならないと信長は考えていたようです。

では、信長が単に身内に厳しかったのかと言えば、そうでもありません。大名では珍しく、子や娘を隣国に嫁がせる外交を余りやっておらず、そのほとんどを自分の部下に与えております。その為に織田家の者が敵味方の別れて戦うことが少なかったのです。

しかし、信長は非常に残虐な武将として描かれております。

たとえば、

おんな城主直虎で登場した徳川の妻の築山御前(瀬名姫)は、今川義元の実の妹と言われておりましたが、近年の研究では瀬名の母は井伊真平の娘と判ってきました。おそらく、関口親永(今川一門である瀬名氏貞の次男である義広は関口家に養子に出された)の娘を義元が養女として迎えて、元康(後の家康)に与えたのではないでしょうか。

さて、その築山御前殿と嫡子である信康が信長の命令で処断されたと伝えられますが、信康の妻であり、信長の娘でもある徳姫がいつまで経っても嫡子を産まないので、側室に元武田家の家臣である浅原昌時の娘を迎えた。

それに怒って、徳姫の手紙から築山御前と信康を処断させたのでしょうか。

天正7年(1579年)は、上杉謙信が没した翌年であり、いよいよ織田の天下が見えてきた。その矢先に荒木村重の離反が離反し、信長はふたたび窮地に立たされる。しかし、信長包囲網の一角である武田の勢いは乏しく、そこで目を付けられたのが、築山御前殿と嫡子の信康と考えれば、すべての道筋は見えてきます。

元々、三河は本願寺を仰ぐ浄土真宗が盛んな土地柄であり、西国まで手を伸ばす織田が次に襲い掛かるのは、徳川かもしれないという危機感が生まれていました。信康の目付は石川数正といい、石川家は熱烈な門徒であります。そして、松平信康が「武田内通の謀反」を疑われての切腹し、岡崎城の信康家臣団のほとんどが没落の道をたどったことを見れば、首謀者達と神輿の両方が処断されたのは明らかです。石川数正が秀吉の下に「とらば~ゆ」する土台はあった訳です。

本願寺の願い出を聞いて徳川が寝返れば、ふたたび信長包囲網が完成し、天下の天秤は大きく揺れたことでしょう。

つまり、築山御前殿と信康の処断にはそれなりの訳があり、単に残虐という一面で捕えられないのです。

信長の代名詞、『天下布武』

天下といえば、「天下統一」を思い浮かべる方が多くいそうですが、信長の『天下』はまったく別物であります。

将軍に出したといわれる一七箇条意見書(※1)の中の一〇条に

「天下の沙汰」、「天下の御為」

がありますが、これはどうみても

「天下」=「全国」 ×

「天下」=「京都を中心とした畿内に人々」

であります。

要約すると、元亀3年(1572)9月の一七箇条意見書は、

・宮中に出仕して仕事をしなさい。

・賄賂を安易に受け取らない。

・よく働いた者には褒美を上げて下さい。

・神社の所領を勝手に取ってはダメです。

・給金が貰えないという訴えを、ちゃんと聞いてあげなさい。

・裁判は公平に速やかに行いなさい。

・備蓄米で商売をしないで下さい。

・手柄のない者を取り立てないで下さい。天下の笑い者になります。

・部下が賄賂を貯めることに熱心です。上がそうだと皆がそうなります。

・将軍が欲深では、悪御所と影口を叩かれています。改めなさい。

これが“天下(織田の世を作る)の野心”というならば、親や学校の教師から町会長に至るまで総理大臣の椅子を狙う野心家になってしまいます。

何故、こんな事が言われるようになったのかと言えば、これより先に出された五箇条の条書〔永禄13年(1570年)〕が問題にされております。

つまり、

天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事

〔訳:天下の政治は何事につけてもこの信長に任せられたのだから、(信長は)誰かに従うことなく、将軍の上意を得る必要もなく、信長自身の判断で成敗を加えるべきである。〕

この訳を見れば、“天下の野心”をふつふつと思わせる足利幕府を軽視した信長の傲慢さを思わせます。しかし、これが完全な誤訳であります。

徳川三代将軍家光が将軍宣下を受けた際に、

「余は生まれながらの将軍である。大名は今後余に臣下の礼を取るべきだ。異論がある者はすぐさま領国に返り、戦の用意を始めよ」

こう告げました。

すると、伊達正宗はこう述べたと言われます。

「もとより三代将軍家光公に何やら反感がある者がいれば、私が全て退治いたします」

伊達正宗は家光を差し置いて、不届き者を成敗する野心家なのでしょうか。これは信長も同じことを言ったに過ぎないのです。

つまり、

(天下の儀である)将軍が信長に託されたからには、誰であろうと上意に逆らう者を、この信長が成敗してやります。

と忠義心から言っているに過ぎないのです。

これを謀反の野心と訳すのは、無理筋もいいところであります。もちろん、信長の本意がどこにあったのかまでは判り兼ねますが、公式な書面で野心を露わに表す愚を、信長は絶対に行いません。

また、よく言われる天皇の交代も嘘であります。

天皇が退位して上皇になられることは、朝廷の権威を増す行為であり、天皇自身が望んでおり、天皇から信長へ早く退位したいと言う書簡を送り、信長が「今は予算が足らないので、もう少しだけお待ち下さい」という返書を送っております。無理矢理に退位を進めたというのは完全な捏造であります。

これをよく言われる信長の悪逆に一つに『比叡山の焼き討ち』があります。

信長公記では、

「すべてを焼き尽くし、目も当てられぬ有様」

などと書かれておりますが、昭和51年から始まった滋賀県教育委員会による発掘調査や昭和後期に大講堂の建替え工事や奥比叡ドライブウェイの工事に伴う発掘調査が断続的に行われていた結果、『言継卿記』や『御湯殿の上の日記』に記載されている「寺社堂塔500余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女3000人が一人一人首を斬られて、全山が火の海になり、9月15日までに放火が断続的に実施され、大量虐殺が行われた」と言われる建物の残骸や人骨が発掘されないのであります。

もちろん、すでに丁重に葬られたというならば、信長比叡山焼き討ちの僧侶、女子供の墓が、どこかにあってしかるべきなのですが、そう言った墓があったという伝承も聞きません。今後、大量に見つかる可能性もあるので、真実は保留するしかありませんが、過大に宣伝された可能性も否定できないのであります。

しかし、比叡山焼き討ちの前年、英俊という僧侶が比叡山の延暦寺を訪れた時のことを書き残しており、

「山内は人影もまばらで建物は荒廃し、人里に遊びにでも行って帰ってこないのであろうか」

とあるので、英俊の書置きが真実ならば、応仁の乱から続く紛争によって、寺は荒廃し、荘園なども多く失った比叡山は、多額の費用も捻出できずに寺の修繕も侭ならず、再建が楽な坂本町で復興し、山寺にはそもそも3000人の僧侶や女・子供はいなかったのではないかと推測されるのです。

この比叡山の焼き討ちで信長は、吉田 兼見(よしだ かねみ)に南都(奈良興福寺)、北嶺(延暦寺)を滅ぼしたら祟りがあるかを尋ねております。また、足利義昭への威嚇のために上京を焼き打ちする前に朝廷や庶民の将軍義昭の評判を尋ねられています。このことは祟りや風聞を気にする信長という一面が深く浮き上がります。

また、東大寺の『三蔵開封日記』には、信長が蘭奢待(らんじゃたい)の拝見を願ったところに、「専横なふるまいは天下のうわさになる。くれぐれも従来のやり方で開封するように伝えてほしい」という記述が残されており、信長が天下(民衆の風評)を気にしていることが伺えます。

つまり、信長にとっての『天下』とは、朝廷から町人・農民を含む“大きな大衆”を意味するのではないのでしょうか。

そう考えれば、『天下布武』も“尾張・美濃の民衆を武によって治める”という実に堅実な意味合いに変わってくるのです。

『応仁の乱』によって、

この大衆こそが『天下』となったことを信長は理屈抜きで感じていたのです。

信長は商家の者と共に育ちました。

秀吉は商家の出であります。

武家の時代が終り、大衆の時代となったことを知る武将が、天下のトップランナーに踊り出たのは、単なる偶然なのでないのです。

 

応仁の乱は尾張に何を齎したのでしょうか。

・調停人の不在は不満を持つ者にとって立つ好機です。夜盗や悪党(命令・規則に従わないもの)が徘徊し、世が乱れました。

・幕府が二つに別れ、力を持った悪党(命令・規則に従わないもの)が対立する幕府寄りに駆け込んで『大義名分』を得て、騒乱が本格化します。

・荘園の領主や地頭や荘長が自主的に武装化し、守護や守護代、あるいは被官と独自の関係を築き、天皇や神社・寺院などの直轄から外れるか、あるいは、独自のルールが改められます。

・軽重部隊であった足軽が武装して、戦闘に参加し、騎馬戦から組織戦へと戦争の形態が変わります。組織戦が数の押し合いであり、数で勝る農民が武装して一向一揆を起こすようになってゆき、下層の武力集団が自ら仕える主人を選ぶようになってゆきます。

・農民や町人の意見を反映する武将が領主化し、中央集権の『朝廷・幕府体制』から地方分権の『大名制』へとゆっくりと移り替わっていったのであります。

・尾張において、津島・熱田という一大商業地の意思を反映する織田家は、守護代の奉行という一被官から戦国大名への道を歩みはじめました。

01-07 農民の変化>

0107

このように

応仁の乱は権力者の構造が変わりました。

尾張は信定、信秀によって土台が築かれ、信長は生まれたのであります。

経済から見れば、信長が天下を目指したのは『時代の要望』から生まれた必然でしかありません。

子供が育ち、古い服では入らないようになるように。

新しい服を作り、袖を通したのです。

これは歴史の定理であり、経済の原則であります。

マケドニアのアレキサンダー、ローマのカエサル、モンゴルのジンギスカンも商人(経済)の要望で生まれ、経済の都合で滅びております。経済の原則が英雄を生み、英雄が経済の原則に合わせて世界を変える。

何千年も繰り返される経済の歴史の必然なのであります。

 

<参考資料>

1.一七箇条意見書

一、御参内の儀、光源院殿御無沙汰につきて、果たして御冥加なき次第、事旧侯。

これに依つて、当御代の儀、年々懈怠なき様にと、御入洛の刻より申し上げ侯ところ、早おぼしめし忘れられ、近年御退転、勿体なく存じ侯事。

一、諸国へ御内書を遣はされ、馬、其の外御所望の体、外聞如何がに侯の間、御遠慮を加へられ、尤もに存じ侯。

但し、仰せ遣はされ侯はで叶はざる子細は、信長に仰せ聞かせられ、添状仕るべきの旨、兼ねて申し上げなされ、其の心得の由侯つれども、今はさも御座なく、遠国へ御内書をなされ、御用仰せらるるの儀、最前の首尾に相違ひ侯。

何方にも然るべき馬など、御耳に入れ候はば、信長馳走申し、進上仕るぺきの由、申し旧し侯ひき。さ様には侯はで、密々を以て、直に仰せ遣はさるる義、然るべからずと存じ候事。

一、諸侯の衆、方々御届け申し、忠節疎略なきと輩には、似相の御恩賞を宛行はれず、今々の指たる者にもあらざるには、御扶持を加へられ侯。さ様に侯ては、忠・不忠も入らざるに罷りなり侯。諸人のおもはく、然るべからざる事。

今度、雑説につきて、御物をのけさせられ侯由、都鄙其の隠れなく侯。其れに就いて、京都以外の兊意たる由、驚き存じ侯。

御構へ普請以下、苦労の造作を仕り侯て、御安座の儀に侯ところ、御物を退けられ侯て、再び何方へ御座を移さるべく侯や。無念の子細に侯。さ侯時は、信長の辛労も徒に罷りなり侯事。

一、賀茂の儀、岩成に仰せつけられ、百姓前堅く御糺明の由、表向御沙汰侯て、御内儀は御用捨の様に申し触し侯。

惣別、か様の寺杜方御欠落、如何がにと存じ侯へども、岩成堪忍届かず、難儀せしむるの由に侯間、先づ、此の分にも仰せつけられ、御耳をも休められ、又一方の御用にも立てられ侯様にと存じ侯ところ、御内儀此のごとくに侯へば、然るべからずと存じ侯事。

一、信長に対し等閑なき輩、女房衆以下までも、おぼしめしあたらるゝ由に候。迷惑せしめ侯。我等に疎略なき者と聞こしめされ侯はぱ、一入御目にかけられ侯

様に御座侯てこそ忝なく存ずべく侯を、がひざまに御意得なされ候。如何がの子細に侯やの事。

一、恙なく奉公いたし、何の科も御座侯はねども、御扶助を加へられず、京都の堪忍屈かざる者ども、信長にたより、歎き申し侯。

定めて、私に言上侯はぱ、何とぞ御憐みもこれあるべきかと存じ侯ての事に候間、且は不便に存知、且は公儀の御為めと存じ候て、御扶持の儀申し上げ侯へども、一人も御許容なく候。

余り文緊なる御諚どもに侯間、其の身に対しても、面目なく存じ候。勧世与左衛門・古田可兵衛・上野紀伊守が類の事。

一、若州安賀庄御代官の事、栗屋孫八郎訴訟申し上げ侯間、去りがたく存じ、種々執り申し参らせ候も、御意得断たず過ぎ来なり侯事。

一、小泉女家に預げ置きし雑物、に質物に置き侯腰刀・脇指などまで、召し置かるゝ由に侯。

小泉何とぞ謀叛をも仕り、造意曲事の子細も侯はば、根を断ち、葉を枯しても、勿論に侯。

是れは、計らざる喧嘩にて果て侯間、一旦、法度を守らるれば尤もに侯。是れ程まで仰せつけられ侯儀は、御欲徳の儀によりたると、世間に存ずべく侯事。

一、元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯。禁中にも御催しの由に侯ところ、聊かの雑用仰せ付けられず、今に廻々に侯。是れは、天下の御為めに侯ところ、御油断然るべからずと存じ侯事。

一、烏丸事、勘気を蒙らるるの由に侯。息の儀は、御慣りも余儀なく侯ところ、誰やらん、内儀の御使を申し侯て、金子を召しおかれ、出頭させられ侯由侯。

歎かわしく侯。人により、罪に依つて、過怠として仰せ付けられ侯趣もこれあるべく侯。是れは、賞性の仁に侯。当時、公家には、此の仁の様のところ、此のごとき次第、外聞咲止に存じ侯ひつる事。

一、他国より御礼申し上げ金銀を進上、歴然に侯ところ、御隠密侯てをかせられ、御用にも立てられず侯段、何の御為めに侯やの事。

一、明智地子銭を納め置き、買物のかはりに渡し遣はし侯を、山門領の由仰せ懸げられ、預ケ置き侯者の御押への事。

一、去る夏、御城米出だされ、金銀に御売買の由に侯。公方様御商買の儀、古今に承り及ぱず侯。

今の時分に侯間、御倉に兵粮これある体こそ、外聞尤もに存じ侯。此のごときの次第、驚き存じ侯事

一、御宿直に召し寄せられ侯若衆に、御扶持を加一られたく思食され侯はぱ、当座貼、何なりとも御座あるべき事に侯ところ、或は御代官職仰せ付けられ、或は非分の公事を申しつかせられ侯事、天下の褒貶、沙汰の限りに侯事

一、諸侯の衆、武具・兵粮以下の嗜みはなく、金銀を専らに蓄ふるの由に侯。牟人の支度と存じ侯。

是れも、上様、金銀を取り置かれ雑説の砌は、御構へを出だされ侯に付いて、下々までも、さては、京都を捨てさせらるべき趣と、見及び申し侯ての儀たるべく、上一人を守り侯段、珍らしからず侯事

一、諸事について御欲がましき儀、理非も外聞にも立ち入らざる由、其の聞こえ侯。

然る間、不思儀の土民百姓に至るまでも、悪しき御所と申しなす由に侯。

普光院殿を、さ様に申したると、伝へ承り侯。其れは、各別の儀に侯。何故、かくのごとき御影事を申し侯や。爰を以て、御分別参るべき歟の事。以上。

 

以下、その要約文。

.宮中への参内を怠らないように申し上げたのに近年怠っているのは遺憾である。

.諸国へ御内書を出し馬などを献上するのは外聞がよくないので考え直すように。必要ならば私(信長)が添え状を書き取り計らうと約束したのに、約束を違え内密で行うのはよくない。

.幕府へよく奉公し怠りなく忠節を尽くす者に相応の恩賞を与えず、新参者でそれほどの身分でない者をを厚遇するのはよくない。

.将軍と信長の不和が噂される中、将軍家の重宝類をよそへ移されている状況が京内外に知れ渡り信長の苦労も無駄になり残念である。

.賀茂神社の所領の一部を没収し岩成友通(信長と敵対する三好三人衆)に与え、内密で優遇処置をとったのは良くない。

.信長に友好的なものには、女房衆以下にまで不当な扱いをするとはどういうことか。

.何事もなく奉公し何の落ち度もない者達(観世・古田・上野)が扶持の加給がないため信長に泣きついてきたので将軍に取り次いだにもかかわらず、なにも聞き入れられず私は彼らに対し面目がない。

 .若狭の安賀庄の行跡について粟屋が訴訟を申し立てている件について私ももっともだと思い進言しているのにいまだ決裁されていない。

.偶発的な喧嘩で死んだ小泉が遊女屋に預けていた刀や脇差など身の回りのものを没収したのは良くない。将軍の欲得と世間に思われる。

.元亀の年号は不吉なので改元した方が良いと世間一般の意見に基づき申しあげ、宮中にまで催促されているのに改元のわずかな費用も献上せず引き伸ばしているのは良くない。

.烏丸光康の懲戒の件は、息子・光宜へのお怒りは仕方がないが、光康は赦免するよう申し上げたのに、密かに光康から金銭を受け取り許す、このようなやり方は良くない。

.諸国から献上されている金銀があるのは明白なのに宮中の御用にも当てず内密で蓄えているのは何のためか。

.明智光秀が京の町で徴収した地子銭を預けていたのに、その土地は延暦寺領として、地子銭を差し押さえたのは不当である。

.昨年夏、幕府に蓄えていた米を金銀に代えたそうですが、将軍が商売をするなど聞いたことがない。蔵に米を蓄えている状態が世間の聞こえもいいのに、驚いている。

.寝所にお召し寄せになった若衆を良し悪しに関わらず厚遇するのは世間から悪しざまに批判されても仕方がない。

.幕府に使える武将達が金銀を蓄える事に専念している。将軍がそのような行動をするから部下がさては京都を出奔するのかと推察しているためと思う。上に立つものは自らの行動を慎むべきではないか。

.将軍が何事につけても欲深なので、世間では農民までが将軍を悪御所と呼んでいる。なぜこのように陰口を言われるか、今こそ良くお考えになったほうが良い。

 

※2).五箇条の条書〔永禄13年(1570年)〕

一、諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事

一、御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事

一、公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事

一、天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事

一、天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

 

〔斯波氏に関わる年表〕

正平17年(1362年)斯波義将が越前・越中守護職に付く。

貞治5年・正平21年(1366年)貞治の政変:斯波義将が幕府執事解任、越前守護斯波氏失脚する。

貞治6年(1367年)斯波高経が病死、斯波義将が将軍足利義詮に対面し赦免される。

貞治6年(1367年)12.7 足利義詮が病死する。

貞治7年、応安元年(1368年)室町幕府第3代将軍足利義満が将軍に就任する。

応安元年(1368年)2.24 越中守護桃井直常が京から逃下、斯波義将が越中守護に任ぜられる。

応安3年(1372年)斯波義将は桃井勢追討し、越中を掌握する。

応安4年(1373年)斯波義将:越中で南朝方(桃井直常)と戦い、越中より放逐する。

永和3年(1378年)斯波義将:越中の国人取扱いで幕府管令細川頼之と対立する。

康暦元年(1379年)康暦の政変:親斯波派で反細川派と管令細川頼之と対立、頼之失脚し四国へ下る。

康暦元年(1379年)斯波義将:幕府管令職に就任する。

康暦2年(1380年)斯波義将:畠山基国と越中を交換し越前守護に戻る。

明徳2年(1391年)斯波義将:管領職を辞し、越前に下向する。細川頼元(細川頼之の弟)管領職に補任される。

明徳2年(1391年)12.19 明徳の乱

明徳3年(1392年)管領細川頼元が没する。

明徳4年(1393年)斯波義将:管領職に復権する。

応永元年(1394年)室町幕府第4代将軍足利義持が将軍に就任する。

応永2年(1395年)今川貞世:九州探題を罷免、遠江と駿河の半国守護

応永5年(1398年)斯波義将:隠居、家督を子の義重に譲る。管領は畠山基国が補任。

応永6年(1399年)大内義弘が応永の乱を起こす。(今川貞世は関与を疑われる)

応永6年(1399年)斯波義重:分国の信濃守護職を小笠原長秀に奪われる。

応永6年(1399年)今川泰範:今川貞世から家督を奪い取る。

応永6年(1399年)斯波義重:尾張守護を与えられる。

応永9年(1402年)尾張守護代が甲斐氏から織田氏に替わり織田一族が尾張入部する。

応永12年(1405年)斯波義重:管領に就任する。今川氏の変わり遠江守護を与えられ、義教と改名する。

応永15年(1408年)2.2 斯波義将の弟で若狭守護・加賀守護も勤めた斯波義種が没する。

応永15年(1408年)前将軍の足利義満が死去する。

応永16年(1408年)6.5 斯波義将:子の義重に変わり、3度管領に就任する。

応永16年(1409年)8.1 斯波義将:孫の義淳に管領職を譲り、義重が管領代行する。

<斯波政権の全盛期>

応永17年(1410年)斯波義将が死去する。義淳に管領職を解任される。

応永18年(1411年)足利義満:明と国交を断絶する。

応永21年(1414年)6.9 加賀守護斯波満種:将軍の怒りに触れ高野山に閉居、斯波氏加賀国を失う。

応永25年(1418年)8.18 斯波義重:病死する。

応永27年(1420年)甲斐将教が没し、将久(常治)家督継承する。

応永30年(1423年)3.18 室町幕府第5代将軍足利義量が就任するが、実権は大御所となった義持が持っていた。

応永32年(1425年)2.27 将軍義量が急死する。

応永34年(1427年)7.7 斯波満種が死去し、大野家は嫡男の斯波持種が継ぐ。

応永35年(1428年)1.18 大御所足利義持が病死し、籤引きで選ばれた義圓は還俗して義宣となり、翌年に義教と名を改めて室町幕府第6代将軍が就任する。

応永35年・正長元年(1428年)7.6 称光天皇崩御され、彦仁王は即位して後花園天皇となる。

永享1年(1429年) 8.24 武衛斯波義淳:将軍足利義教より管領に任じられる。

永享2年(1431年)明にて安南黎氏独立、明の対外策消極化

永享4年(1432年) 10.1 武衛斯波義淳:管領の辞任を認められる。

永享5年(1433年)義淳が死去し、将軍義教の意向により弟の相国寺瑞鳳(義郷)が還俗して 斯波家督、越前・尾張・遠江守護職を継ぐ。

永享8年(1436年)斯波義郷が洛中で落馬して死去。2歳の嫡子の義健が第9代当主家督継承する。叔父の斯波持有、次いで分家の斯波持種と執事の甲斐常治の後見を受ける。

<斯波家受難期のはじまり、幕府と斯波被官の関係が強化される>

永享9年(1437年)将軍義教:3歳の斯波義健に大和越智維通の討伐を命ずる。越前の兵が数多く負傷し、翌年、幕府軍(斯波、細川、山名)の連合で越智軍を滅ぼす。

永享10年(1438年)永享の乱:鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立し、足利持氏の討伐に甲斐将久、朝倉孝景が出陣する。

嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱:守護赤松満祐が6代将軍足利義教を暗殺し、幕府方討伐軍が赤松氏を討伐する。

嘉吉元年(1441年)斯波義健:駿河守護今川範忠と遠江の所領をめぐって争う。

嘉吉3年(1444年)大野斯波持種:加賀に入ろうとするが止められる。

文安3年(1447年)大野斯波持種:守護職を巡って対立している富樫泰高に肩入れし、加賀に出兵し失敗する。

文安4年(1448年)斯波氏庶家の斯波持種と越前守護代の甲斐将久の対立先鋭化する。持種に同情する家臣による常治の暗殺未遂事件が起き、8代将軍足利義成(後の義政)が仲裁に乗り出している。

文安6年(1449年)4.29 足利義政が室町幕府8代将軍に就任する。

<足利義政、不知行地還付政策で幕府再建>

宝徳3年(1451年)前尾張守護代織田郷広が将軍義成の乳母今参局を通して復職を図ったがこれを拒否され、後に郷広は自殺する。

宝徳3年(1452年)11月 武衛斯波千代徳丸が元服し義健を名乗る。同じく斯波(大野)義敏も元服する。

享徳元年(1452年)6.22 第9代当主斯波義健:持種の子・斯波義敏を養子とする。

享徳元年(1452年)9.1 第9代当主斯波義健:嗣子がないまま18歳で死去した。義敏が室町幕府及び重臣に推されて武衛家の家督と越前・尾張・遠江守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官するが、次第に一門筆頭(斯波持種)と家臣筆頭(甲斐常治)が対立する。なお、室町将軍の行幸を毎年のように得ていた守護代甲斐氏は「管領と同格」の扱いを受けている。

享徳3年(1454年)8代将軍足利義政が畠山氏のお家騒動に介入し、山名宗全と細川勝元が畠山持国の甥畠山政久を庇護して持国と子の畠山義就を京都から追い落としたが、義政はこの問題で義就を支持し、政久が没落する。

享徳4年(1455年)享徳の乱:第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に対して、関東管領上杉房顕・駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定らを出陣させ、幕府軍は鎌倉を落とした。しかし、成氏は古河に逃れて古河公方を名乗り、膠着状態になる。

康正2年(1456年)8代将軍足利義政は将軍専制を目論み、不知行地還付政策で寺社本所領の回復と守護と国人の繋がりの制限を図っていた。この政策によって所領と代官職を追われた越前国人が義敏を頼り、幕府に常治を訴えたが敗訴にする。

長禄元年(1457年)第9代当主斯波義敏と家臣団(甲斐常治、朝倉孝景、織田敏広)が対立し、義敏は東山東光寺に出奔し、甲斐常治らと戦って敗れ、東山東光寺に篭居する。

長禄2年(1458年)2月 不知行地還付政策で義政は相国寺と鹿苑寺に実効支配が及ばない所領(不知行地)の還付を認める御教書を発布する。

長禄2年(1458年)2.29 8代将軍足利義政の仲介により、斯波義敏は甲斐常治と和睦し、斯波邸(武衛陣)に戻る。

長禄2年(1458年)6.19 8代将軍足利義政は斯波義敏と守護代甲斐将久(常治)に鎌倉公方足利成氏追討を命ずるが、ともに抗争中で動かなかった。

長禄2年(1458年)8代将軍足利義政:異母兄の政知を鎌倉公方として下向させたが、政知は鎌倉へ入れず堀越に留まり、堀越公方となる。

長禄2年(1458年)7月 長禄合戦:武衛斯波義敏と守護代甲斐将久(常治)とが再び越前国内で争い始める。

長禄3年(1459年)2.21 阿波賀城戸口合戦:一乗谷朝倉氏拠点へ守護義敏派が攻撃する。

長禄3年(1459年)5.13 越前情勢を危惧した武衛斯波義敏が関東征伐の兵10,000万を転じて敦賀城の守護代甲斐方を攻めるも敗北する。これに怒った将軍義政が義敏の家督剥奪をはく奪した。

長禄3年(1459年)6月 8代将軍足利義政は義敏から子(松王丸3才)に斯波家、越前・尾張・遠江守護の家督を与える。義敏は大内氏を頼って下向する。

長禄3年(1459年)8.12 越前守護代甲斐将久(常治)が没し、子の敏光が家督を継承する。斯波家内では朝倉孝景の権威が高まった。

寛正2年(1461年)9.2 幕府、斯波家督に松王丸を排し、斯波与党で遠縁にあたる義廉(渋川氏)を任命し、甲斐氏・朝倉氏に補佐を命ずる。

寛正2年(1461年)10.17 朝倉孝景に河口荘・細呂宜郷・吉崎等越前、越中の領地が付与され、守護代甲斐氏を凌ぎはじめる。

寛正6年(1465年)斯波義敏の赦免され、義敏と松王丸親子が参賀し将軍義政に拝謁、義敏正式に復権する。

文正元年(1466年)7.24 将軍足利義政が政所執事伊勢貞親の意見を容れ、斯波義廉を退け、再び義敏を斯波氏の惣領に戻した。斯波義廉は妻の父である山名宗全を頼って復権を模索する。

応仁元年(1467年)応仁の乱: 畠山義就軍と畠山政長軍の衝突から始まった将軍家の家督争いも加わった細川氏と山名氏の勢力争いに発展した大乱である。

大永3年(1523年)寧波の乱:細川家(堺の商人)、大内家(博多・門司の商人)の2つの遣明使節が寧波付近で交戦し、大内氏が明の正使を殺害し、明の軍隊と交戦して引き上げる。

天文3年(1534年)5.12 織田信長が誕生する。

天文22年(1553年)明にて王直、倭寇を率いて沿海地方を侵す

永禄3年(1560年)5.19 桶狭間の戦い

永禄11年(1568年) 織田信長:足利義昭を奉戴し上洛する。

 

経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》 序章

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経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》
序章
1章.尾張編《こうして信長が生まれた》

【序章】

私が『応仁の乱』を学ぶきっかけは『信長公記の軌跡』の背景を調べる為でありました。

織田家は如何にして大名となり得たのか?

その為には、主家である斯波家、ライバルである今川家、将軍である足利家を調べずに通れなかったのであります。

今川の祖である今川範国(いまがわ のりくに)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名であり、駿河今川氏の初代当主となります。2代目当主を継いだのは、長男の貞臣ではなく、九州探題などに任免された次男の今川貞世(いまがわ さだよ)だと思われます。しかし、貞世は何の落ち度もなく、九州探題の地位を奪われ、遠江と駿河の半国守護に命じられます。実は室町三代将軍足利義満、出家して道義(どうぎ)と名乗っていた院に、あらぬことを吹き込んで貞世を失脚されたのは、博多の利権を狙っていた大内義弘なのですが、貞世は将軍に不信を覚えます。

そして、九州探題に指名されたのが渋川満頼(しぶかわ みつより)という斯波義将の血縁関係者でした。ここからすでに今川と斯波の因縁は始まります。

文献では、貞世の兄である範氏が駿河守護であり、範氏が亡くなった後に貞臣に駿河守護になるように言われたが頑なに拒絶し、貞世の子である貞臣が遠江半国守護、範氏の子である氏家が継ぎ、氏家が亡くなると弟である泰範が駿河今川第3代当主になったと残されています。

当時、長子が家督を継ぐという風習はあまりなく、今川貞世が今川2代目当主であり、お家騒動が起こらないように二つに別けたと考えられます。 

文献によっては、泰範が貞世と大内氏と繋がっていると風潮し、自らが今川家の家督を奪ったという解釈もありますが、貞世と泰範が激しく争った様子もなく、ただの世間の風聞と思われ、実際に貞世と応永の乱を起こした大内義弘は盟友関係で反乱の誘いを断っております。しかし、敵対するのは憚れるので甥の泰範が幕府軍に参戦しており、幕府も忠誠を誓う泰範に家督を継がせる方が安心できるという理由で泰範が家督を継がせただけでしょう。

 

織田の主家である斯波氏(武衛家)の6代当主となった斯波義重(しば よししげ)は、応永の乱では父と共に幕府方として参戦し、負傷しながらも大内氏討伐の武功を挙げて、尾張守護職を与えられます。斯波家に仕えていた越前織田氏も義重の命で尾張に降り、尾張織田氏が始まります。

斯波義重は室町幕府管領、越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護を歴任しており、応仁の乱以後の混乱に今川が遠江の勢力を伸ばすと、遠江を浸食された斯波氏が今川氏と対立するという構図が完成したのであります。

 

東海から見る『応仁の乱とその後』を見るなら

信長公記の軌跡 目次 

番外13501572年番外編 信長公記の軌跡背景をご覧下さい。

 

もう一度整理しようと思ったきっかけは、中公新書の呉座 勇一著『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 』が20万部も売れているというニュースからです。一体どんな書物かと手を取ると切り口が斬新でありましたが、そうじゃないだろうと思いたい部分が沢山ありました。興福寺と朝廷の関係はおもしろく描かれておりますが、それだけが全国に戦乱が波及し、戦国時代へと落ちる訳もありません。世の中というは経済で回っており、畿内も地方も経済の論理から外れることはできないのであります。経済が行き詰まっていたからこそ、畿内で起こった戦乱が地方に波及し、『応仁の乱』となったのであります。そこで経済から見た「応仁の乱」というバラバラのピースを1つにしてみようと思った訳です。

 

すべての始まりは揺れ動く幕府の混乱が地方に波及し、それが全国で広がったのが『応仁の乱』の本質であります。それは行き詰まった経済体制が崩壊し、新しい規律が生まれる過程における動乱でありました。

応仁の乱の体制がはじまったのが聖徳太子の時代であり、各豪族が大王を中心とした国家造りをする上で、豪族の持つ土地を大王に差し出すことからはじまります。

大豪族であった蘇我馬子が大王に土地を返上し、その代わりに官位を頂き、土地の管理を命じられる。こうして、大王と豪族が主従の関係を作ることで律令制がはじまります。

それに抵抗したのが、蘇我入鹿を殺した地方の豪族達であります。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足なども加わっていましたが、あくまで遂行者の一人でありました。しかし、官僚制を否定する時代は中大兄皇子を頂点まで昇らせます。

こうして、中大兄皇子は律令制を廃止し、百済復興派と豪族が並び立つ共和制に戻したのでありますが、『白村江の戦い』に敗北すると、唐・新羅連合軍との決戦を覚悟して、中央集権の律令制を推し進める必要から大きく政治転換を図ります。

すると、地方の豪族の反発は大海人皇子を擁立する力となり、今度は壬申の乱によって大海人皇子は天武天皇となりました。しかし、地方の豪族の意に反して巨大な権力を持った天武天皇は律令国家の法体系が完成させてしまうのであります。朝廷は仏教を国教として、国分寺を地方に配置することで中央集権を強め、そして、地方の豪族をすべて臣下としてゆきます。そして、奈良時代に律令国家は完成しました。

ところが、中央集権の完成は同時に藤原氏という官僚政治のはじまりとなってしまったのであります。それは天皇と藤原氏との権力争いのはじまりを意味していました。藤原氏にとって不利益なことは天皇であっても覆せない。そんな現実を打開する為に天皇は寺院の僧侶に力を授け、天皇は官僚と寺院という2つの勢力に足を乗せて、2つを意のままに操ろうとしたのであります。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地を管理する者:公家・武家(執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

という3つの主従関係で結ばれたのであります。

調停人というのは、現代における立法(国会)と司法(最高裁判所)を兼ねた者です。そして、それを実行するのが官位を持った藤原氏などの公家たちであります。国司に任命された者は現地に赴き、土豪を管理することが要求されます。『枕草子』の著者である清少納言が、父・清原元輔の周防守赴任に際し同行したという話は聞いたことがあるでしょうか。藤原氏などの大公家になると、息子や兄弟、あるいは縁者を代理人として派遣することもありました。

現代ならば、土地の権利を認める権利書が存在し、諸事情を考慮した契約が結ばれる訳ですが、平安時代に権利などという言葉は存在せず、すべてを武力によって統治しておりました。派遣された国司に従わなければ、軍が派遣されて武力で制圧されます。

この武力は経済力に比例し、石高の大きさが軍を派遣できる兵の数になります。理屈から言えば、大領主である天皇に逆らう者はいなかったことになります。しかし、律令制が完成するに従って、実務を執り行う藤原氏に逆らう者がいなくなり、天皇といえども、藤原氏の意向を無視できなくなった訳です。

喩えるなら、「虎の威を借る狐」ということわざがありますが、キツネの言うことを聞いている内に、キツネの方が偉く思えて、誰もトラの言うことを聞かなくなったということです。そこでトラはクマを呼んで来て、権威を与えて味方を増やしたのであります。

 

しかし、律令制の完成が近づくと、すべての土地が天皇の物となります。民は搾取されるだけの存在となり、単に農作業に従事するという農作業は生産意欲の活力を削がれます。時に襲う飢饉や干ばつで作物の収穫が減ると民は罰されることを恐れて土地を手放して流民となりました。すると農民が激減し、生産石高も減り、朝廷の財政を圧迫しました。そこで新たに開拓した土地を開拓者の物とする『荘園制度』が始まります。公家・寺院はこぞって荘園を開拓しはじめてゆきます。こうして、中央集権の律令国家は完成した奈良時代から律令制が壊れ初めていったのであります。

荘園は天皇から赦された自分の土地でありますが、天皇から赦しを貰えるのは、公家か、寺院という縛りがありました。各地の豪族は公家や寺院と繋がりを深くし、公家・寺院の荘園が増えてゆきます。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

★土地の所有者:大公家、寺院(領主)

土地を管理する者:公家・武家(執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

一直線であった主従関係と別の領主が誕生した訳です。

すると、土地の持ち主の違う領主の間で争いが起こり、天皇は調停人、つまり、裁判官としての役割の比重が大きくなります。つまり、裁判を有利に進める為に天皇により近い官位を得ようと争いはじめるのであります。

飛躍的に勢力を伸ばすことになったのが寺院でありました。律令制がはじまると、土地を捨てた民は罪人として扱われます。ところが僧侶になると、その罪から免除されるのであります。もちろん、法的には違法なのですが、実際にほとんど取り締まれることがなかったのであります。

理由はいくつか考えられます。

最大の理由は数が多過ぎたことでしょう。

次に荘園の開拓者に『沙弥某(しゃみぼう)』(資格を得ていない出家者)、つまり、乞食坊主の名が多く残されていることです。荘園を勝手に開拓し、どこかの寺に申し出て許可を貰うと寺院は荘園を手に入れ、沙弥某は管理する権利を手にします。

たとえ、沙弥某が土地を捨てて逃げてきた罪人としても、寺の保護を受けた者を取り締まることは、寺と揉めることになり、役人も安易に手出しできないのでありました。

奈良時代、干ばつや飢饉で量に流民が大流れ込んできた都では、沙弥某によって荘園が多く開拓され、寺院は瞬く間に大領主となり、多くの僧兵を養える一大勢力へと成長したのでありました。

そういった寺院の勢力拡大を背景に道鏡(どうきょう)を皇位に付けようという称徳天皇(しょうとくてんのう)の画策も起こるのであります。道教の神託を伝えた宇佐神宮は平安時代において神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であったとされています。

俗に、桓武天皇は肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、ほとんど未開の山城国への遷都を行ったと言われますが、

称徳天皇(天武朝)

天皇・寺院 VS 藤原氏

光仁・桓武天皇(天智朝)

寺院 VS天皇・藤原氏

このように称徳天皇の死去によって、対立構造が逆転したのであります。そもそも井上内親王皇后の呪詛による大逆や他戸親王の廃嫡など、藤原氏と山部親王(後の桓武天皇)の陰謀であったと言われております。

奈良時代から平安時代を通して、怨念というのは天変地異を起こすと考えられており、天候の不順、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデター未遂、光仁天皇が不豫(病)、山部親王自身も大病を患ったとされております。即位した桓武天皇はわずか3年で長岡京に遷都を行い、逃げるように奈良から出たのであります。

ここで重要となるのは、奈良で絶大な権力を手に入れていた寺院でありますが、地方では大した勢力になっていなかったことです。天皇から派遣されている国司と国分寺の僧侶は表裏一体、コインの裏表であり、公家の原点である地方の氏族、土豪と呼ばれる有力者を統治するには互いに必要な存在でありました。

つまり、畿内ほど統治が盤石ではなかったのであります。特に東北はまだ従っていない部族が抵抗を続け、内輪揉めをしている余裕などありません。奈良の僧侶が決起して天皇の討伐を行っても、地方の豪族がどれほど賛同するかは判らなかったのです。

こうして、金科玉条を失った奈良の僧侶たちは藤原氏の菩提寺である興福寺と和議をしたのでありました。

ところで、この興福寺は平城京の東に位置し、背後に春日大社を配した1つの城のような構造となっておりましたが、天皇が東大寺の大仏鋳造という名目で興福寺の横に建てられました。これは藤原氏にとって痛恨の打撃でした。城壁の中に敵の本陣が突如として現れたようなものであり、藤原氏が遷都を急いだ理由の1つともされています。

平安京に遷った朝廷は、僧侶の勢力を分断する為に比叡山の最澄、高野山の空海を重用しました。朝廷を中心に怨霊を鎮める御霊信仰が広まったのもこの時期であります。平安時代を通じて、比叡山は大陸との交易、祠堂銭(お布施)などで富を稼ぎ、その富を土倉(どそう)や酒屋の前身である貸金業などで富を増やしていきます。

土倉や酒屋というのは、鎌倉時代から始まった金融業のことで寺院(寺・神社)が直接的に金(米や反物も代替通貨)を貸し出し、回収する仕事を商いとしたものであります。しかし、実際の回収は神人や僧侶が赴くことから、土倉や酒屋は名前だけの寺院(寺・神社)が運営する別会社のようなものでした。

因みに酒というのは、室町時代まで僧侶の専売品であり、甕の中に米を沈めてかき回した作る濁り酒、白酒のことを言います。現在、この工法で作っているのが、西條合資会社(大阪府河内長野市長野町十二番十八号)の天野酒であり、「太閤秀吉に愛された酒、僧坊酒」として発売されています。

また、土倉の金利は月8%と言われ、年換算で貸し付けの2倍になります。しかし、米は1粒が100粒くらいになって実りますから、倍返しでも採算がのった訳であり、作付米を貸してくれる寺院(寺・神社)はありがたがられていた訳であります。

そして、平安時代も末期になってくると、貨幣の申し子である『平清盛』が登場します。平安時代は総じて平安な世の中でありましたが、宮廷での権力争いは壮絶を極めました。これらの治安維持を生業とした警備に特化した役職である検非違使(けびいし)が置かれるようになり、これが武家へと変化してゆきます。荘園の拡大と比例するように下級の公家、つまり、武士が増加してゆきます。

その貴種となったのが源氏と平氏でありました。共に朝廷を祖とする家柄であり、経済的な基盤が薄い下級の公家として、武士を束ねる棟梁とされていきます。しかし、権力争いが地方、および、都での武力衝突が激化すると、武士の勢力が瞬く間に大きくなってゆきます。

それでも財政基盤の薄い武士たちは、天皇、上皇、公家衆に雇われる身であることはかわりません。ところが清盛の父、平忠盛(たいらのただもり)が鳥羽院政の御世で、肥前国神埼荘の預所となった当たりから激変します。宋人・周新の船が来航すると院宣と称して、荘園内での大宰府の臨検を排除しようとしたのであります。

そもそも遣唐使の廃止は894年に菅原道真が直言したことがきっかけと言われますが、廃止の令が出された訳ではなく、自然消滅したようです。唐は859年の裘甫の乱をはじめ、各地で反乱などが頻発するようになり、安全とは言い難い状態に突入します。

これにともなって大宰府に設置された公的な日唐交易、鴻臚館(こうろかん)交易は延喜3年(903年)に廃止されます。

ここから鴻臚館貿易は官営から私営に移行されます。その最大のパトロンが比叡山でありました。

960年に趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた宋(北宋)は、979年に中国統一し、五代の争乱を終わらせます。宋は文政国家を目指し、商工業を奨励し、貨幣経済を行き渡らせます。宋が鋳造した宋銭は東アジアの共通通貨として広がってゆきます。

11世紀に入ると宋の経済は益々盛んになり、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館は衰退します。

この宋貿易の巨大な富に目を付けたのが鳥羽上皇であり、平忠盛を使って取締り、巨万の富を手にいれたのであります。平忠盛も越前守に任じられ、日宋貿易から生まれる巨万の富の一部を得ることに成功し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになりました。

その基盤を継いだ清盛は、保元の乱、平治の乱を制して、大宰大弐となります。すると清盛は日本で最初の人工港を博多に築き、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握しました。日宋貿易を独占することに成功した清盛は、貨幣の発行権を一手に持つことになったのです。

現代風に言えば、総理から独立した財務大臣と銀行券を発行できる日銀総裁を兼務したようなものです。日本の富みの半分を清盛が牛耳ったと言っても過言ではなかったのであります。これによって、支配体制も新しいステージに変わります。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地の所有者:大公家、寺院(領主)

★土地を管理する者:公家・武家(領主、執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

武士も荘園を持つ領主となり、しかも平氏においては貨幣の発行権を持つ大財閥になった訳です。

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こうなると、領地を所有していても武力を有しない天皇や公家の立場は一気に弱体化します。しかし、平氏の基盤も盤石ではありませんでした。日本の通貨を日宋貿易に頼る為に、常に宋銭が足りないというデフレ基調が続きます。

デフレとは、通貨の価値が上がり、物の価値が下がります。十分な通貨が流通する西国では、通貨を介して物の売買がなされるので大きな支障は起こりません。強いて言うなら富める者がより富み、貧しき者はさらに貧しくなる。しかし、当時の生活様式から農民はほとんどが自給自足でありましたから、通貨の流通によって支障をきたす者はわずかでした。

しかし、様々な物を必要とする公家や武家、土豪の者は違います。特に東国には宋銭が圧倒的に不足していました。米や反物を代替通貨としていた東国の武士たちは、宋銭の価値が上がるほど、米や反物の価値が下がり、必要な物が買えないという状況に陥っていたのであります。

たとえば、紅や塩を買おうとしても、米や反物の価値が下がり、去年の半分しか買えなくなったとすれば、どう思いますか?

東国の人々は何も悪いことをしている訳ではないのですが、必要な物資を買うだけでドンドンと貧しくなってゆくのであります。

近年、30年以上も続いたデフレは、中間層という小銭持ちに直撃し、収拾も下がり続け、100円均一を買いあさる下流層へ転落しています。これは中間層が働くなくなったのではなく、貨幣の価値が上がり、給与が下がり、相対的に高い物は買えなくなった結果であります。デフレというのは、生綿で首を絞めるように、じわじわと生活に襲い掛かるのであります。

こうした生活が苦境に立たされてゆく東国武士の怒りが、平氏打倒という力となった訳であり、治承5年(1181年)に起きた『養和の大飢饉』により米の値段が高騰し、宋銭の価値が急激に下落したのであります。鴨長明の『方丈記』には、「さまざまの財物を食糧と交換しようとするが、誰も目にとめようとしない。たまたま交換する者がいても、金銭の価値を軽くみて、穀物の価値を重んじる」と書かれているように、平氏の持っている財貨は、石ころに成り下がってしまったのであります。

そんな弱り目の時期に清盛が亡くなり、源氏が立ち上がったのであります。持前の財貨で兵を集めようにも集まらない。平氏は成す術もなく敗れ、貨幣の申し子であった平清盛がその貨幣によって高転びしたのであります。

平家物語に出てくる「平家にあらずば、人にあらず」などという傍若無人な専横政治で人々を苦しめたということあらず、祇園精舎のフレーズも的外れなのであります。

もし、平清盛が需要を満たす十分な宋銭を供給できていたなら、源氏を担いで東国武士が立ち上がることもなかったでしょう。尤も偏西風を利用した年に1周しかできない日宋交易の船舶を簡単に増やすことはできないので宋銭を基軸通貨とする限り、デフレから脱却するのは不可能あり、大抵、デフレを放置した国家は国力を失い、民衆の離反から国を滅ぼしております。

この日宋交易で比叡山の延暦寺は、鳥羽上皇・平氏に掠め取られることになるのですが、その間隙を縫って、登場したのが禅僧の明菴栄西(みんなんえいさい)であります。栄西は建久2年(1191)に虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受けると、同年、帰国し、福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前、肥後を中心に布教に努めます。しかし、建久5年(1194)に天台宗からの排斥を受け、朝廷から禅宗停止が宣下されました。京に赴き、禅宗の正しさを解いて布教を許可されますが、単に新興宗教という理由で天台宗が目の仇にするでしょうか。

栄西は建久6年(1195)博多に聖福寺を建立し、鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜っております。つまり、鳥羽天皇から布教して良しという『許状』を貰ったようなものです。開業したばかりの一介の貧乏寺にそんな財力があったのでしょうか。

否、財貨を投資するパトロンがいたのです。

栄西のパトロンは、博多に拠点を置く宋や朝鮮の商人達でした。つまり、臨済宗の嗣法の印可を受けた高名な僧である栄西に先行投資し、日宋交易の便宜を図って貰うのが目的でした。強力なライバルの登場に天台宗が躍起になって排斥しようとするのも頷けます。

正治2年(1200)に栄西は北条政子建立の寿福寺の住職に招聘されたことから、日宋交易の窓口として選ばれたことが判ります。

日宋交易で生まれる巨万の富を供給する臨済宗は鎌倉幕府にとって重要なファクターとなり、鎌倉5山と呼ばれる建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の臨済宗の禅寺は北条氏の加護により勢力を伸ばすことに成功したのであります。

つまり、

鎌倉幕府は臨済宗と繋がることで日宋交易の巨万の富みを得ることに成功し、

臨済宗は鎌倉幕府の保護を得ることで勢力を伸ばし、

宋・朝鮮の商人は鎌倉幕府の許可を得て商売ができ、臨済宗の口利きで売り手が見つかる。

正に『WIN―WIN』(ウィン、ウィン)の関係が生まれたのであります。同じ新興宗教である法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗が時の幕府から厳しい沙汰が下されたのに対して、栄西の臨済宗は比叡山の天台宗からの弾圧はあっても、幕府から保護を受けていた点で大きく違うのであります。

また、室町幕府の3代将軍の足利義満が相国寺を創建した後に五山を京都五山としたことでも判るように臨済宗は、鎌倉幕府と同様に日明交易によって幕府に莫大な富を齎し、幕府からの保護を受けることに成功しているのであります。

さて、『応仁の乱』の主役は、天皇や大名のような刻の権力者のように思えますが、その兆しはまったくそんな所とは関係ない鎌倉初期から芽生えだします。

平清盛が生み出した貨幣経済は、様々な職業の分業を可能としました。

米・麦・粟・大豆を作る農民、

漆・カキ・炭・薪・織物などを作る商工業

土台・屋敷・納屋・水車などを作る左官、右官と呼ばれる大工

鉄など精製する鍛冶等々

もちろん、貨幣経済が進む以前から分業されていましたが、共同体の中での分業であり、その職業を生業として単独で生きてゆくことはできなかったのです。しかし、貨幣経済が進んでくると、鍛冶屋ならその農機具を宋銭に変えて貰うと、必要な物は市に言えば、すべて手に入るようになります。作業で必要な工具や生活の米や貴重な塩なども手に入れることが簡単になるのです。また、銭は場所を取らず、保管もできます。米や反物のように質によって価格が変わることもありません。鍛冶屋だけが沢山集まって、米を作らない鍛冶屋しかいない村なども生まれてくるのであります。

さて、幕府から厳しい沙汰を受けた法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗は、元々は皆、比叡山で学ぶ天台宗の僧でありました。その比叡山の天台宗は、土倉や酒屋を通じて祠堂銭を貸し出して、利鞘を稼ぐことを生業としておりました。

天候のよい年は、収穫から利子分を返しても十分に残りました。しかし、天候不順になると収穫が落ちて、年貢を払い、利子分を返すと何も残りません。そして、飢饉や干ばつが襲うと、利子分を返すことが出来ずに抵当となっている土地を奪われてしまいます。その奪った土地が比叡山の天台宗の新たな荘園となり、6万石程度まで膨らみます。それは国司(守護)と同等の力を持つようになったのであります。

そこで少し知恵のある僧侶でいれば、農民同士がお互いの不足分を補えば、利子を払わずに自分たちの利益になると教えはじめたのであります。

それが法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗でありました。浄土宗、浄土真宗の寺は、利子も取らずに金や米を無償で貸し与えてくれます。

あるとき払いの催促なし

そんな虫のいい話があるのでしょうか?

ホントにあったのであります。もちろん、それは布教活動の一環であり、農民の投資をして、お布施として回収するというビジネスモデルなのです。

天台宗のビジネスモデルは、天候が順調なら普通に儲け、洪水や飢饉で民が困ると、抵当の土地を回収して儲けます。

これに対して、

浄土宗、浄土真宗のビジネスモデルは、天候が良ければ、多くのお布施を要求して沢山回収し、天候が不順のときは回収しない。むしろ、吐き出して民衆を助けます。

どちらが民衆受けするのかは一目瞭然でした。

つまり、放置すれば、顧客がどんどんと浄土宗、浄土真宗に流れていってしまいます。天台宗の僧侶が、浄土宗、浄土真宗を目の仇にして弾劾するのにも理由はあるのです。

しかし、よく考えてみて下さい。

法然や親鸞がどんな巧いビジネス話を民にしても、民が一粒の米もお布施として奉納できないほど貧しければ、法然や親鸞も食べてゆけません。

平安~鎌倉~室町と民の生活はゆっくりと豊かになっていたのです。

歴史の教科書を見ると、農民の暮らしは少し楽にならず、戦乱と天候不順の洪水や干ばつで苦しめられ、飢えて死ぬ直前の悲惨な農民像しか浮かび上がりません。

しかし、平安~鎌倉~室町と農民の暮らしは楽になっており、農民の中には僧侶のパトロンになれるくらいの上農民が生まれてきていたのであります。鎌倉時代に始まった分業化は『惣』と呼ばれる自治的・地縁的結合による共同組織に発展してゆきます。

中世風に言えば、『ギルド』と呼ばれる組合が生まれてきていたのであります。この『惣』は、横の繋がりを持ち、領地内、あるいは、地域全体を結びます。この『惣』と新興宗教が結びつくと、時代が進むにつれ爆発的な力が発生させてゆきました。

それゆえに法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗を天台宗が天敵として弾圧するのも頷けるのであります。

因みに日蓮宗も浄土宗・浄土真宗とビジネスモデルは同じでありますが、1番大きな違いはパトロンを武家に求めたところであります。法然や親鸞が国体というものを意識しなかったのに対して、日蓮はこの国をどうするかと憂いておりました。

日蓮は天台宗、真言宗が独自繁栄のみに固執する宗教であり、この国の行く末を考えていないと考え、日蓮宗を国教とすることで、この国を救おうという野心的な宗教家でありました。日蓮が没した後は、それぞれのパトロンとなる武家を擁護し、宗派内で対立が絶えないというジレンマを抱えることになってしまったのです。

武家の権力争いが宗派内の対立になるのは、喜劇としか言いようがありません。

 

様々な権力争い、宗教間対立と、大陸からの侵略など、国難は何度も襲ってきましたが、それでも奈良時代・平安時代・鎌倉時代と温暖期が続き、米の生産量が自然拡大するという恵まれた時期でありました。

ところが、室町時代の1400年前後からミニ小氷期に入り、天候不順が続くようになると、それまでに溜まった理不尽が一気に吐き出してきます。

貨幣経済によって産み落とされた『惣』という金づるを誰が支配するのかというジレンマも限界に達したのでありました。

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地の所有者:大公家、寺院(領主)

土地を管理する者:公家・武家(領主、執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

どこにも所属していない↓

★惣という名の共同組合:大衆(領主ではないが銭を持っている者)

どこにも属さない金を生み出す集団、その処遇を巡って、権力争いの火種が全国に広がっており、その発火点を将軍家が自ら付けてしまった。

惣のやっかいな所は銭を持っていることであり、水の利権を争うのとは意味が違う。惣を手に入れた者は経済的に豊かになる。

典型的な例が、

織田信長であり、津島と熱田を手に入れたことで50万石並の権力を手に入れます。

信長の先駆者としては、堺を持っていた細川、博多を持っていた大内などが、石高以上に権力を持ち、応仁の乱の主役を張ります。

しかし、応仁の乱を単なる権力争いとしか見ていなかった彼らは、カオス的に権力が分散し、社会秩序を維持できなくなった奈良時代から続く律令制度の限界と気づくことなく、最後までその本質に手を付けることはありませんでした。

結局、信長の登場を待つしかなかったのであります。

 

応仁の乱とは、地面の中でくすぶっていた欲望が芽をはやすて可視化されたという意味で時代の転換期を表わします。しかし、これを理解しようと思っても中々手間が掛かります。戦いを始めた細川勝元と山名宗全も、争いのキッカケを作った畠山氏と斯波氏も、神輿に担ぐ将軍も互いに思惑は違うのであります。

そもそも西軍の指揮官の山名宗全が義政と富子の子である義尚、東軍の指揮官の細川勝元が義政の弟の義視を擁立しよとしてはじまった戦いですが、東軍の義視の子の足利義稙(義材)が義政の養子に入るとなって西軍に寝返って終決します。大将が寝返るって、何の為に戦ったのか判りません。

しかし、西軍の山名宗全が9代将軍候補に擁立した義尚が勝ったハズが山名家自体は衰退し、東軍の足利幕府に3つあった管領家のうち斯波・畠山両家は衰退し、細川氏が管領職を独占しました。

西軍である足利義尚の勝ち?

それとも東軍の細川氏の勝ちでしょうか?

援軍に来た武将も途中で寝返り、寝返ってきた武将が嫌いだからと言って、逆に寝返る武将もいます。

大義も名分もあったものではありません。

つまり、『応仁の乱』は、様々の欲が露わになった事例なのです。

ゆえに、応仁の乱の本質を知る為には、様々の方面からスポットライトを当てて、それぞれの『応仁の乱』を知らなければ、応仁の乱を知ったとは言えないのであります。

 

では、経済という1つの定義で『応仁の乱』を様々な視点から見て行こうと思います。

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1章.尾張編《こうして信長が生まれた》

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

 

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4

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〔歴史館はこちらへ〕

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■今川義元討死の事

今川義元が尾張に侵攻し、織田信長は清洲で待機していた。後背には斉藤義龍が睨みを利かせ、尾張の西には今川方に組みする服部左京助が虎視眈々と頃合いを見定めていた。尾張上四郡を前年に治めたとは言え、隙あらば離反も考えられる。そんな状況下で、清洲城では軍議もせずに雑談だけを繰り返していた。

5月18日夕方、義元の先発隊が沓掛城に到着したのを聞き付けたのか、翌19日の援軍の出し難い満潮時を狙って砦を落しに掛かると佐久間大学・織田玄蕃が信長に増援の注進したを聞こうしなかった。つまり、死んで来いという下知である。

「あぁ、見事に死んでやる」

などと叫んだかは定かではない。

報告を聞き終えると信長が軍義もすることもないと家老達を帰宅させた。

「家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。案の如く」

遂に気で触れたのかと家老の心配もこれに極まっていた。

その頃、松平元康が大高城に兵糧入れに成功する。

5月19日早朝、午前3時くらいに松平元康隊が丸根砦を攻撃する。伝令はすぐさま信長の元で走った。

同時刻、あるいは少し遅れた頃、朝比奈泰朝隊・(井伊直盛隊)が鷲津砦を攻撃する。

丸根砦  202人

鷲津砦  135人

丸根・鷲津両砦は尾根伝いに兵が行き来できるように作られていましたが、丸根砦が城のような形であるのに対して、鷲津砦は斜面を利用した砦となっており、後背に回られると防御が厳しいようです。

武功夜話では、丸根砦に400人、鷲津砦に600人とありますが、1000人の守備隊が守っていたとすれば、松平・朝比奈隊は3000人の兵で落とすのは、かなり苦労があったことでしょう。6時間程度で陥落させた松平・朝比奈隊は猛者が揃っていたのでしょうか?

丸根砦  1,008平方mですから、そこに400人もの兵がいれば、ごった替えしていたでしょう。増援を願い出ても砦には入り切らない状態だったでしょう。

否、そんなに兵士はいなかったのだと考えられます。

<<丸根・鷲津両砦>>

008

5月19日早朝午前4時、丸根・鷲津両砦より早馬で伝わると、信長は敦盛を舞い、わずか6騎で出陣する。

岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎

7時頃、上知我麻神社に到着した。馬6騎と200人ばかりの雑兵のみであり、丸根・鷲津両砦から黒い煙が上がっていました。上知我麻神社、つまり、源大夫殿の宮は熱田神宮の南の社です。丸根・鷲津両砦が見える海側に行っただけかもしれませんが、信長は本殿ではなく、源大夫殿の宮に到着します。そこで休憩をとった後に、兵が集まっている本殿に向かい、戦勝祈願をして出陣しています。

おそらく、何かあった場合は熱田で集まることが最初から決められていたのでしょう。『信長公記』には、熱田本殿に戻った事は書かれておりません。『熱田神宮文書』には、熱田神宮に参詣をかねて立ちより、そこで将兵の面前に進み出て戦勝祈願の願文を高らかに読み上げた。また、信長は、一つかみの賽銭を取り出し、「表が出ればわがほうの勝利」と叫んで社前に投げた。戦勝を祈願する頃には、千八百ほどの人数にふくれあがっていたとあります。

5月19日午前8時頃、信長一行は熱田神宮で戦勝祈願し、熱田かえ笠寺へ続く街道は満潮時間であるので海岸沿いの下の道は使えないと判断し、土手沿い道で井戸田から山崎を抜けて善照寺へと向かいました。そして、信長は水野帯刀らが守る丹下砦に入ると、佐久間信盛が守る善照寺砦へと移動しました。

5月19日午前10時頃、信長は丹下砦を経て善照寺砦に到着します。ここで信長は善照寺砦を守る佐久間信盛から丸根・鷲津砦が落城し、佐久間盛重、織田秀敏、飯尾親子の討死をはっきりと伝えられます。徳川時代に書かれた『武徳編年集成』などによると、織田方は砦を捨てて討って出てきたとも書かれております。

さて、ここから物語は、様々な展開を見せます。

『信長公記』では、佐々隼人正と千秋四郎が300人余りで義元の本隊に向かっていって討死します。これを義元は喜んだと書かれています。

『松平記』には、「善照寺の城より二手になり」と書かれており、先んじて佐々隼人正と千秋四郎が飛び出したのではなく、ここで信長と分かれたように書かれています。

『信長公記』の天理本には、佐々隼人正、千秋四郎らが今川方に突撃し、敵中に消滅した時、戦見物に来ている群集が帰えるように命じられ、散ってゆく様が残されております。民衆にとって、大戦は物見遊山の醍醐味だったのでしょうか。

蓬左文庫の江戸時代の戦場絵図(橋場日明氏は『桶狭間之図』とする)には、桶狭間の北の谷筋に描かれています。歴史学者の藤本正行氏は、鎌倉街道の「今川魁首此道筋ヲ押」の部隊がいたとすると言っています。江戸時代は奇襲が普通に語られていましたから、それを再現していたと私などは考えます。

『総見記』には、「先手ノ大軍ヲ皆本道(鎌倉街道)ヘ遣リ過シテ、<中略>義元ノ本陣エ一同ニドツト突掛り」という信長の作戦が書かれています。善照寺砦を出ようとした信長には、千秋四郎、佐々隼人正以外にも別働隊がいたのでしょうか。

高根山の有松神社にある案内板には、佐々隼人正、千秋四郎の両名が鳴海道を通って有松神社に布陣していた松井宗信の隊にぶつかり、討死したと描かれています。そして、信長の本隊は、道を戻って鎌倉街道から迂回して、古戦場へ進んだように書かれています。

『武功夜話』によれば、細作飛人など50人もの間者を沓掛城にばら撒いて、蜂須賀小六や前野将右衛門といった川並衆たちが義元の陣中に酒や肴を差し入れいている。

余談ではありますが、その献立は、

勝栗、一斗

酒、十樽

昆布、五十連

米餅、一斗分(糖米にて)

栗餅、一石分

唐芋、十櫃

天干大根 煮〆、五柩分

と具体的に書かれている。酒の樽は、1斗樽、2斗樽、4斗樽とあり、1斗とは18Lです酒枡180100人分です。4斗樽なら400人分が十樽ですから、4000人とほぼ義元本隊の全員に当たる計算になります。

「日曜歴史家」を自称する鈴木眞哉氏は、唐芋(サツマイモ)など江戸時代に入ってから広まった芋であり偽書である証拠と言っておりますが、唐芋を「とうのいも」で引くと、『御湯殿上日記』に文明十五年(1483年)8月4日に「あんせん寺殿よりたうの御いもまいる」と書かれてり、「とうのいも」は「さといも」を差し、古くから日本で栽培されていたことは藤本正行氏の説明から判ります。『武功夜話』の偽書説は多々ありますが、真実と脚色を入り混じっているのが『武功夜話』と考えています。ちなみに、『武功夜話』の名称は昭和62年に刊行されたときに付けられたものであり、それ以前は、前野小右衛門の祖先の倉に「南窓庵記」、「何々記」として眠っていたものです。そして、『武功夜話』は有松神社にある奇襲説が書かれています。ただ、義元はおけはざま山ではなく、桶狭間の谷で休憩しておりました。

『桶狭間合戦の真実』(著者:江川達也)では、どの文献を資料にしたのか判らないが、桶狭間古戦場公園と桶狭間古戦場伝説地を退路として考えると、おけはざま山から本陣は前進して漆山に陣を引いたとされる。この仮説は実に的を射ていない。4万もの大軍を率いる今川軍の本隊が最前線に出る愚を犯している。しかし、今川軍が一万から一万二千程度の兵力なら、本隊が前に出て決戦に挑まないと勝負にならない。つまり、この仮説が成立する場合は、70万石という石高に見合った兵力しか連れて来ていない場合だ。しかし、それならば、中島砦前の決戦と名付けられていただろう。

その他の説にも、『手越川北岸』がある。

手越川の南部は山が重なっており、大軍を生かすなら手越川の北岸から鎌倉街道沿いに兵を置く方が良いという説だ。これは一理ある。

鎌倉街道から善照寺を落せば、中島砦は孤立する。手越川の北岸は山も低く、扇川周辺は比較的広い。大軍を横に展開するには都合がいい。しかし、義元が討死した桶狭間から遠く、そこまで逃げる合理性がない。そこで本陣を手越川北岸に置く、そして、信長が北側から回り込んで攻めてきたことで南に逃げるという。

それならば、江川達也氏の説と合わせて、手越川北岸にも兵を展開させ、漆山付近に前衛を布陣させ、その後に後詰めとして自ら本隊が務める方が現実味もでる。もちろん、そうなると大高城で休ませている元康隊を遊ばせるのはもったいない。しかも雨が降ったからと言って雨宿りなどして油断してくれる可能性もなくなる。

包囲殲滅しようとする敵に対して、包囲されると悲観せず、兵力が分散したと見て、本隊への一点突破を試みるのは兵法の常である。しかし、慎重な義元がそんな危険な賭けに出るとは思えない。

『信長公記』では、鎌倉街道を東に進み、沓掛城の手前の大きな木が倒れていることが書かれている。ここから柴田勝家が迂回していたと思われる説もある。桶狭間に参戦したハズの勝家が活躍した記述は1つもない。太田牛一は勝家の家臣であって、当時は勝家と元に行動していた。

009 柴田勝家による迂回挟撃>

009

『三河物語』に書かれているように、織田軍は信長率いる本隊と迂回挟撃を目的とした柴田隊に分かれたとする。信長本隊は雨の中を鳴海道、長坂道とも呼ばれる長い坂を上って、高根山の有松神社付近に陣を構えている松井隊と接触する。その頃、勝家の隊は鎌倉道を東に進むと東浦道を南下し、近崎道か、大高道を戻って、義元本隊の背後を叩く予定だったのかもしれない。しかし、雨で木が倒れて中々巧く進めない。

中島砦から桶狭間mで4km程度であるのに対して、鎌倉街道から東浦道、桶狭間では6~10km(中島砦から沓掛城は6.3km、沓掛城から桶狭間まで4km)になる。どんなに急いでも2時間くらいは掛かる。しかし、豪雨に見舞われた部隊は1時間くらいのロスが考えられる。つまり、勝家が迂回挟撃を決行していても、桶狭間に到着した時点で勝敗は決しており、精々逃げてくる敵を討ったくらいであっただろう。これでは、余りにも間抜けな柴田勝家の活躍を牛一も書くことができなかったのかもしれない。

迂回挟撃の柴田勝家、お間抜け説は、『信長公記』にある鎌倉街道の一節を何故ゆえに牛一が書いたのかという回答にしかならない。

5月19日正午、鷲津・丸根砦の陥落を聞いた義元はこれに満足し、謡を三番歌わせるほどであった。謡とは、信長が『敦盛』を舞ったように、義元も能楽を誰かに舞われた。信長は善照寺より中島砦に移動します。その数は『信長公記』では二千に足らずでした。中島砦は中洲に建てられた砦で、四方を川と田んぼに囲まれています。

そこから諏訪山の諏訪神社へ向けて一本道があります。これが深田一本道と呼ばれる道でしょう。その深田一本道を敵が押し寄せてきました。

信長は「あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや」と言って、討って出ていったのです。信長は兵糧入れを行い、鷲津・丸根砦を落した元康の三河衆が攻めてきていると勘違いしていました。

<桶狭間の地形>

010

さて、信長本隊と中島砦攻略部隊の戦いが始まりました。その様子を見ることができるのは高根山山頂に布陣していた松井宗信の隊だけでしょう。標高のない生山、武路では見ることができません。桶狭間山は標高65mもあり、高根山(54m)より高いですが、中島砦で見えたとは思えません。幕山に布陣した井伊直盛の隊も前方に愛宕西47m)があり、クリアとまではいかないでしょう。

鳴海から桶狭間における地図を確認しておきましょう。

011 地形と主な街道>

011

中島砦から手越川沿いに深田一本道があります。上に地図では横に走っている道がありますが、おそらく満潮時に近い頃は海の底に沈んでいたと思われます。点線の道は満潮時でも通れた道でしょう。その反対側に手越川の南面から山の中腹を抜けて、有坂道へ繋がる道もあったようです。

深田一本道を真っ直ぐに抜けると諏訪山の麓に到着します。ここから大高道へ抜ける道があったようです。大高川に沿って『大高街道』が走り、その途中から大脇村(現在の豊明市)に延びる道を大脇道といい、大脇村では『大高道・おけば道』と呼ばれています。そこから東浦道を北に上がって行くと沓掛城へと至ります。

この東浦道から横切って熱田へと繋がっているのが、『鎌倉街道』です。鎌倉街道は笠寺を抜けて熱田へと繋がっていますが、海が満潮になると、潮が満ちて通れなくなります。それは鳴海城近くの知多街道も同じです。

鳴海から手越川に沿って昇り、途中から高根山を越えて桶狭間に続く道を『長坂道』と呼びます。有松村から桶狭間へ向かって長い坂を上る道という意味です。桶狭間へと続く道などで「桶廻間村道(おけばさまむらみち)」とも、鳴海へ続く道なので「鳴海道」とも呼ばれています。長坂道の途中、地蔵池付近から北に向かって延びるのが、『分レ道』です。この道は手越川沿いの鳴海道に繋がっています。そして、桶狭間村から東浦道を横切って近崎村へ延びる道が『近崎道』です。近崎村は知多湾に面する旧村です。

手越川沿いに『長坂道』、『分レ道』を昇り、『近崎道』へ続く道が後の『東海道』となります。

最後に、信長は海が満潮の為に潮が満ちて、通常の道が使えないので常滑街道を回って丹下砦に辿り付いています。そこから善照寺に移りますが、鳴海城からは丸見えですね。高根山からも確認できたかは微妙です。善照寺は標高21mの小高い丘に建てられた寺のようで当たりが一望できます。今は砦公園として残っています。高根山は見えますが、おけはざま山は見えません。

 

信長の話に戻しましょう。

「鷲津・丸根砦を落して疲れている兵を叩くぞ!」

と鼓舞する信長は次に兵力の差を考えて、「懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと」と言います。つまり、敵が掛かってくれば、引いて受け流し、敵が引くならば、引っ付いて押し戻せ、無理をせずに相手に合わせる用意に注意を促します。犠牲を少なくしないということです。さらに、分捕りと言って、朽ち果てた兵の首を取ることを禁じます。首を持ち帰ることは戦場の功績を表し、首の数で褒美が変わってくるのですが、首を取ることは足を止めて、稲刈りでもするように腰を下ろして首と胴体を切り離さなければいけません。首を刈っている間は戦力にならないのです。

数で劣っている信長の兵力で、兵を遊ばせておく暇はありません。ゆえに、「分捕なすべからず。打拾てになすべし。」と首を持ち帰っても評価しないぞと固く言い聞かせます。

ところがそう言っている矢先に、

前田又左衛門 

毛利十郎 

毛利河内 

木下雅楽助 

中川金右衛門 

佐久間弥太郎 

森小介安食弥太郎 

魚住隼人

の8人が首を刈って持って返ってきたのです。八人は、佐々隼人正、千秋四郎の両名と朝駆けをやったメンバーでしょう。佐々隼人正は大高城南の砦である正光寺砦を任され、千秋四郎は氷上砦を任されていました。その中間に位置する向山砦には水野信元が守っていたのですが、突然に水野信元が裏切って向山砦を放棄してしまいます。

大高城に兵糧入れを命じられた松平元康隊が背後に迫ってきます。正光寺砦―向山砦―氷上砦と繋がっているので連携が取れ、一枚岩として防御が上がるのですが、中央が抜け落ちたのでは、前後左右から取り囲まれて孤立する危険性があります。

水野信元、憎し!

などと言っている暇もなく、佐々隼人正、千秋四郎の両名は砦を捨てて、善照寺へと引き上げていきました。しかし、鷲津の織田秀敏、飯尾定宗、飯尾尚清、丸根砦の佐久間盛重が壮絶な討死を成し遂げます。3人は武門の誉れ高く討死したのに、両名は戦いもせずに逃げてきた。信長様にそう報告がいけば大変だとばかりに出陣したと思われます。

ここで様々な見解があります。

佐々隼人正、千秋四郎は信長が到着してから出陣したとされる場合と、信長が善照寺に到着する前に出陣していた場合です。そして、佐々隼人正、千秋四郎は誰と戦ったのかという話です。

『信長公記』は義元が「義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。」と書かれています。正午頃には終わっていたと見られます。しかし、牛一さんはどこでそんな話を取材したのでしょうか。

佐々隼人正、千秋四郎の両名が出陣した時間は、前田又左衛門が戻ってきた時間から逆算するしかありません。

信長が善照寺に付いたのは、午前10時で鷲津・丸根砦が落城した頃です。信長が到着する前に出陣したなら、有松神社に書かれているように、松井宗信の隊と戦ったのでしょう。2時間掛けて迂回攻撃を行い、前田は1時間以上掛けて手越川を下ってきたと思われます。

一方、信長が到着してから出陣したとするなら、迂回攻撃をしようとする佐々千秋両名に先駆けの三浦義就が横槍を入れて来たと見るべきでしょう。佐々千秋両名の首を取ったことは早馬で義元に知らされますから時間の齟齬をありません。

しかし、前田又左衛門、前田利家は不幸です。

同朋衆で仕えていた茶坊主の拾阿弥(じゅうあみ)を惨殺した罪で出仕停止処分を受け浪人となり、浪人中は熱田神宮社家松岡家の庇護を受けていました。森可成の導きでこっそりと桶狭間の戦いに参陣し、千秋に従って敵の首を討ち取って来たのに、逆に叱られることになってしまいました。

「まつ、どうしよ~う?」などと嘆いていたかもしれません。

利家の妻、まつは、天文16年(1547年)に生まれ、永禄元年(1558年)数え12才で利家の妻になります。可愛らしい奥さんだったでしょう。しかし、その翌年に長女の幸姫を産んでいます。14才の新妻と2才になる幸姫に手を振られ、「お父さん、今度はちゃんと就職してよ」と送られて来ていたのです。幼い幸姫の期待を裏切った利家の落胆は酷かったでしょう。

大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」で、まつ を演じる松嶋菜々子と利家のラブロマンスですが、12才のプロポーズは山口美香ちゃんが受けるべきだよと突っ込みたい、12才の松嶋菜々子さんは無理があります。

などと、利家で遊んでいる場合ではありません。

首を持ち帰った八人を口捨てて、信長本隊は深田一本道を討って出ました。松平元康は大高城でご休憩ですから新手です。しかし、信長の部隊は押し続け、遂に諏訪山の麓まで押し切ったのです。

堪らず今川方は後退しました。そこに大粒の雨が降ってきたのです。

まさしく、天の恵みです。

天に感謝し、祖先に感謝す、武田軍なら「御旗盾無し御照覧あれ」と叫びたい所です。この瞬間でなければ、この豪雨も何の役する所ではありませんでした。諏訪山の麓に到着した瞬間に振り出した雨が『桶狭間の戦い』を起こしたのです。

(注).御旗は平安時代の源氏の棟梁である源頼義が後冷泉天皇より下賜された日の丸の旗で、現存する最古の日の丸でもあります。現在は山梨県の雲峰寺に所蔵されています。盾無は源頼義の子で武田家の祖先である新羅三郎義光が着用した鎧です。山梨県の菅田天神社に保存され、国宝に指定されています。

 

●桶狭間の真相のしっぽ、その1

先にも述べましたが、桶狭間には幾つもの説があります。

「迂回攻撃説」 、「正面攻撃説」、 「漆山移動説」、「手越川北側説」

迂回攻撃説は、江戸時代初期の小瀬甫庵作である『信長記』で語られ、長く信じられておりました。日本帝国軍もこの説を信じております。少数による勝利は奇襲しかないと考えたからです。ただ、この説を取る為には、義元が凡将でなければなりません。

正面攻撃説は、昭和40年代に角川書店から「信長公記」の読み下し本(本文を忠実に現代文に直した本)が発刊されて、見直されるキッカケとなりました。出来事を日記にとどめてきた重み・信憑性が再認識されることで、信長は正面からぶつかったと主張する者が増えて行きます。

漆山移動説は、文献らしいものはありませんが、正面攻撃説から推測された異説です。また、手越川北側説も正面攻撃説から推測された異説です。いすれにしろ、義元が凡将であることが絶対条件です。

それらの説と異なるが、『水野説』です。

『水野説』は水野信元の行動を起源とした説であり、最もこの戦の中心人物でありながら、どの文献にも上がっていない。多くの間接的な書状や事実がありながら、語られていないのが水野の関与です。

永禄3年3月、刈谷領内の来迎寺城、水野家臣の牛田城、知立城を陥落させられ、永禄3年5月の今川侵攻で刈谷城は素通りです。別に刈谷城が難航不落ではありません。帰りの駄賃とばかり、岡部元信が騙すように入城して陥落させています。5月時点では、大高城を囲む南側の砦の1つ、織田方の向山砦を水野信元が守っております。何故、居城の刈谷城を落さないで通過したのでしょうか。

理由は1つしかありません。

5月時点で、水野信元は今川方に鞍替えをしていたのです。しかし、向山砦から寝返れば、織田方の武将から袋叩きに合います。つまり、義元の本隊が大高城に近づいたときに寝返ることを裏打ちしていたのです。

こうして、松平元康は大高城への兵糧入れを南側から易々と行えたのです。義元は沓掛城から鷲津・丸根砦攻略に、松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛の三隊を向かわせます。最低でも3000人の兵力です。本多忠勝も兵を率いていますが、何故か朝比奈泰朝に配置されています。単純に考えるなら、最も激しい場所は三河や知多半島の兵で行い、今川古来の兵を損なわないように気を使っているように思えます。

つまり、丸根砦の先鋒が元康、後詰めに直盛が務める。一方、鷲津砦の先鋒が忠勝、後詰めに泰朝が務める。ところで本多忠勝の旧本領は尾張知多郡の横根地頭だったそうです。横根地区は桶狭間の東に当たり、刈谷領になります。しかし、刈谷の武将はみなどこかに消えていました。つまり、横根周辺の地頭は、中立などという曖昧な態度を取っていると、今川方に乱捕りされると恐怖したのではないでしょうか。今川方の本多忠勝などを頼って、お味方すると申し出ても不思議ではないのです。いずれにしろ、鷲頭・丸根砦はおそらく三河勢の力で落とされました。

では、次は中島砦です。

1つ1つ確実に落としてゆく、まさに義元らしい戦い方です。残念ながら資料の残る布陣が判っているのは、

高根山:松井宗信

幕山:井伊直盛

鷲津山北面部:朝比奈泰朝

桶狭間山:今川義元

桶狭間山南側:瀬名氏俊

以上の5名のみです。

その他に所在がはっきりしているのが、大高城の松平元康です。

信長は兵が連戦で疲れているから勝利間違いなしと鼓舞していますが、義元は疲れた元康の兵を後詰めに回して、兵を休めさせています。では、中島砦で戦ったのは、朝比奈泰朝の隊でしょうか?

義元は、駿河や遠江の直参を温存したいと考えていたに違いありません。新参者を使う利点は、今川方を裏切らないという証明の為によく働くことと、もし裏切っても兵を消耗させておくという戦略的利点があります。

第一陣で三河衆を消耗させたとなれば、第二陣は知多衆を使うに違いありません。知多衆を抱えているのは、大高城の城番であった鵜殿長照と、寝返った水野信元の部隊です。中島砦は平城ですが、周りに海と川と田に囲まれた天然の要塞です。大軍で押し寄せても足を取られて、その利を活かせません。鵜殿長照と水野信元の部隊が交互に攻め立てて、疲れた所で背後の善照寺を攻めたてることで退路が断たれるという焦りから出てきた所を叩く作戦が一番効果的です。今川方は兵力が豊富ですから、交互に攻め立て、夜になると元康と忠勝の部隊に入れ替えて、昼夜を問わずに攻めることができます。三日三晩も続ければ、織田方の兵の気力は失せてしまうでしょう。

次に、義元は道沿いに兵を構えています。長坂道に松井宗信、井伊直盛、常滑街道に朝比奈泰朝と松平元康です。これは別に不思議な訳でありません。獣道を通って移動するより、街道上を移動する方が速く、効率的です。街道を先鋒と後詰めで固めておけば、強行突破は非常に難しくなります。すると、分レ道と近崎道にも兵を配置していたでしょう。手越川の北側には、笠寺付近の武将を率いた葛山氏元の部隊と、援軍で来た三浦義就が布陣していました。三浦氏が後詰めなのは、今川家で朝比奈氏と同じく筆頭第一に上げられる名門だからです。つまり、手越川の北側が三浦義就の担当であり、南側が朝比奈泰朝の担当だったと考えられます。そして、必要に応じて松井宗信と井伊直盛の部隊が割り振られていたのでしょう。本隊の4000人は義元を守る為に義元から離れません。

しかし、三浦義就には一つ誤算がありました。伊勢湾では満潮時に250cmほど水位が上がり、干潮では30cmまで下がることがあります。午前2時頃から今川方が攻撃を始めたとすれば、信長が知って援軍を出してくる誤差を考えて、潮が満ちてくるのは午前4時頃からでしょうか。すると、午前10時くらいまでは川を渡れません。

信長が丹下砦を目指す場合、満潮が終わるのを待って笠寺を通ると予想していたのですが、信長は中根中城付近を通過し、天白区の島田当たりで天白川を渡り、川を下って丹下砦に到着しました。現代の地名で言えば、瑞穂区大喜町、井戸田町、中根町と通って天白区島田で天白川を渡り、南下して緑区野並、赤塚の戦いがあった古鳴海を経由して、午前10時頃には丹下砦に到着していました。この為に、信長の到着を防げないばかりか、葛山氏元の部隊が川向こうに取り残される事態になってしまったのです。その為に葛山隊は潮が引くのを待って鳴海城側に戻って来ることになりました。最初、三浦義就は丹下砦と善照寺を見渡せる位置に陣取っていたでしょうが、信長が善照寺に入れば、分断される危険があるだけでそこにいる意味を失くします。おそらく、手越側の北面に移動したでしょう。手越側の北には、鳴海道(長坂道)が通っています。そして、背後には松井宗信が後詰めとして陣取ることになります。こうして、中島砦を反包囲が完成しました。

012 桶狭間における部隊の配置>

012

常滑街道  :朝比奈泰朝―松平元康

大高へ抜け道:鵜殿長照―本多忠勝

有坂へ抜け道:水野信元―松井宗信

有坂道   :三浦義就―松井宗信

分レ道に松平政忠を配した理由は、桶狭間に出陣して討死している。且、長沢松平家第7代当主でそれなりの兵力を集めることができる。幕山に陣取ったと言われる井伊直盛と同じく予備兵力と言った所でしょう。鵜殿隊や水野隊が疲れた時に交替させられそうな兵力です。同時に鎌倉街道を通ってくる迂回攻撃に対する弾避けになります。

さて、この配置図はあくまで19日正午の配置に過ぎません。

最初に申した通り、文献に出てくる武将は4人しか判っていません。緒戦の後に義元が全体を前進させた可能性も捨てきれません。全体を把握するなら義元本隊を高根山に置く方が良いでしょう。逆に朝比奈、三浦を信頼しているなら、安全なおけはざま山で陣取ってくれる方が前衛としては安定します。

今川義元の初戦は、栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称して、花倉の乱(はなくらのらん)です。このとき、福島氏が擁する玄広恵探が当主として対立していました。福島氏を味方する武将の中には敵対国であった甲斐の武田氏からも支援を受けている者もいます。そこで義元は武田氏と和睦して味方に引き入れて勝利しました。

甲斐と同盟を結んだことで北条は今川から離反します。北条氏綱の父、早雲は伊勢盛時として、駿河守護代を担っていた為に遠江で早雲ゆかりの今川武将が蜂起し、遠江に出兵している間に富士川東地区を奪い取ったのが河東一乱です。当主になって一年の義元には成す術もありませんでした。しかし、義元の反撃はここから始まります。北条氏の背後の武蔵の国の大名と好を通じて北条を攻撃させ、逆に挟み討ちで氏綱を打ち破ります。天文6年に始まった戦いは、天文14年で収束します。その間、遠江など敵対する勢力を1つ1つ将棋の駒を進めるように着実に成果を上げてゆきます。天文21年(1552年)に晴信が仲介して甲駿相三国がそれぞれ婚姻関係を結び甲相駿三国同盟が成立することで後顧の憂いを失くしてから三河攻略を始めるという念の入りようでした。

今川義元が『東海一の弓取り』と称されるのは伊達ではありません。義元は戦う前に勝利するというのが義元でした。

桶狭間の前哨戦として、永禄3年1月に品野城を信長が攻めたように、『桶狭間の戦い』は信長が望んで起こした戦いです。今川義元は山口左馬助を謀反の罪で裁かせるという計略を信長が行ったと言われています。『信長公記』に成敗されたことが載っているだけで真実は判りません。しかし、笠寺の戸部城には、戸部新左衛門政直は豪傑がおり、織田方寺部城主の山口重俊が攻めるのですが、何度も退けたそうです。そこで信長は政直の筆跡を真似て、今川義元に政直が織田氏に誼を通じているような手紙を届けさせました。これを信じた義元は、政直を三州吉田(現在の愛知県豊橋市)に呼び寄せて成敗したということが弘治二年(1556年)にありました。同じようなことが二度も起こるとは思えません。全体の形勢判断などという高等な戦略を理解する武将は数少なく。どの城をどれだけ落したのか、そんな単純な話で形勢を判断するのが、当時の武将の大多数です。織田が品野を落した。鳴海城、大高城は砦で囲まれ陥落寸前である。三河の○○城も織田方になったという。そんな形成判断から山口左馬助は本気で織田に寝返りそうなので成敗されたというのが事実でしょう。

足利 義輝(あしかが よしてる)の仲介で、織田信長と斎藤 義龍との停戦に成功した信長は地盤を固めることに成功します。しかし、それは義元も同じです。三河のほぼ全域を掌握した義元は信長の挑発に乗ります。この時点で義龍が織田領に侵攻することは間違いありません。それを理解しているから信長は20003000人程度の兵力しか桶狭間に投入できないのです。帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』を参考にすれば、尾張57万石は1万4250人の兵を投入できます。尾張の東が織田の傘下に入っていないことを割り引いても1万近い兵力を動員できるハズなのです。しかし、実際に動員した数は周辺の城・砦の兵数を含めて60007000人程度です。

一方、義元も緻密に行軍しているように思えます。今川方で桶狭間に配置された兵力は15500人程度です。尾張東の抑えてとて、岩崎城の丹羽氏勝を始めてする今川方、刈谷を始めてする尾張方の水野氏などに対して、守備兵を残しています。さらに三河の水軍も温存されています。全域を見れば、4万余りというのは嘘ではありません。

実際に尾張東部(天白区、日進市あたりが境界)にも緊張が走っています。丹羽氏勝を先頭に小競り合いで島田城近くの牧家の島田地蔵寺が兵火で焼失しています。

一番注目されるが、5月から吹く南風を利用した海からの奇襲説です。永禄2年に『永禄の飢饉』が関東一円を襲っています。駿河・甲斐もそこに隣接しているので無事である訳もありません。北条氏康は伊勢まで米を買い付けに行ったという記録が残っています。今川の拠出もタダで済む訳もありません。飢えた百姓などが都市へ溢れ出し、夜盗などが横行して治安も下がります。それを一気に解決するのが、隣国に攻めて奪い取ることです。義元はそんな流民(一万~二万人)に武具を与え、織田を攻める兵力にしたに違いありません。しかし、関ヶ原のように広い平原でなければ、そんな俄かの兵力は役に立ちません。それなら三河の舟に乗せて、織田領内の海岸まで送り付ける。後は好き放題に乱暴狼藉を務めよと放ちます。風は5月になると都合のいい南風が吹きます。船の帆を張るだけで織田の海岸まで到達できます。一万から二万の兵が織田領内で暴れれば、信長も領内に兵を戻して対応しなければなりません。仮に難民兵が織田方にすべて討ち取られても、義元は何の損害もありません。ただの廃品利用に過ぎません。

織田の兵のいなくなった笠寺に兵を進め、山崎川当たりまで取り込めば、熱田は落ちたも同様です。伊勢湾の東に位置する鳴海と大高を解放すると、尾張海西郡荷ノ上城の服部党と共に伊勢湾の航路を確保することができます。

一方、別働隊は天白川を遡り、野並、島田、植田と落せば、愛知郡東部にあたる天白川の東側がすべて今川方になります。守山城を攻めるも、那古野城を攻めるのも思いのままです。しかし、織田方も馬鹿ではありませんから、山崎川を国境と決めて停戦が成立することでしょう。

013 永禄2年桶狭間の戦い 城の位置>

013

信長は永禄2年に鳴海城、大高城の周り砦を築き、永禄3年1月に品野城を陥落させます。そのことからも今川との決戦は信長側から挑んだものです。戦場が桶狭間付近になることは当然承知していました。

戦後の褒賞で、一番槍を付けた服部一忠、一番首の手柄を取った水野清久、義元を討ち取った毛利良勝よりも、簗田政綱(やなだ まさつな)が一番手柄として九之坪城(くのつぼじょう)を与えられています。政綱の活躍は『武功夜話』で木下藤吉郎や蜂須賀小六など川並衆や間者を送り、戦勝祝いの酒・肴を義元に送り油断させたとあります。実際、藤吉郎や川並衆を従えたかは判りませんが、半年前以上から長福寺など桶狭間付近に手の者を潜ませて、義元の本隊の位置を把握していたのは間違いないでしょう。住職などは非常にしたたかですから、今川方に味方するフリをしながら、裏で織田方に協力するくらい平気でやるでしょう。

義元は前日に瀬名氏俊に命じて陣を作成しています。村の者が狩り出されて手伝った可能性も高いでしょう。大高城に行く説がありますが、小城である大高城(3,392平方m 678人)に4000人の義元本隊が到着しても溢れるばかりです。始めから桶狭間山を大高城・鳴海城攻略の本陣と決めていたと考える方が妥当です。当然、義元は本陣の位置が信長に知れることも承知していたでしょう。否、城から出てきた大将を狙う信長の性格を把握して、討って出てきた信長を叩くことで勝利を確実にしようと考えたのです。

今川の弱点は、大軍であることです。

しかも昨年の凶作で兵糧に限りがあり、米がないので奪いに来た戦なのです。もし、信長が籠城と撤退戦で持久戦を望むなら、次の手を打たなければなりません。しかし、それよりも信長を捕えて降伏させる方が確実です。

4km先に大将首がある聞かされた信長は、中島砦を討って出ます。深田一本道に勝利した信長は、次の敵に狙いを定めなくてはなりません。おそらく、大高城で不戦だった鵜殿長照が諏訪山に陣を引き、有坂道へ続く抜け道には漆山に陣を張っていた水野信元がおり、大高城へ続く常滑街道沿いには朝比奈泰朝が布陣しています。

これを抜いても、松井宗信、井伊直盛、松平政忠の中堅が待ち構え、そして、最後に本隊の4000人が守っています。

朝比奈泰朝の前衛と戦いを避けて、有坂道か、鎌倉街道を迂回しても三浦義就の隊が待機しており、足止めを食らいます。どこを抜けても前後左右から挟撃に合う。まさに袋のねずみです。千が一にも信長の勝利は見えません。

014 関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)>

014

〔関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)〕

日本の陸軍大学校のドイツ人教官クレメンス・WJ・メッケルは、関ヶ原の戦いの布陣を見て西軍の勝利を確信しました。西軍の鶴翼の陣が完成しており、左右から押し込まれることが確実だったからです。しかし、実際は裏切りや調略で東軍が勝ちました。それを聞いたメッケルは「それは政治の話だよ」と言ったそうです。これは小説等で書かれていることで出自は明らかでありませんが、陣形が完成している時点で信長に勝利はなかったのです。つまり、信長の勝利は政治的勝利以外にあり得ないのです。

そこで上がってくるのが陰謀説です。

葛山氏元が武田と通じて、信長の動向を見逃した。松平元康が義元を裏切っていた。どちらも実行する動機がありません。元康には今川から独立したいと望む気持ちはあったかもしれませんが、大高城で休憩している松平隊には何もできません。唯一可能なことは、刺客を送ることくらいです。果たして、そこまでやったのでしょうか。

そして、やはり最後でてくるのは、水野信元でしょう。

水野信元は知多半島の中部を抑え、東西の街道、南北の塩の道と通商で儲けています。今川の楽市楽座が実行されますと特権がすべて奪われることになります。斯波(織田)方と今川方と違う勢力の中間でいることが中立を保ち、領土を守る為に必要なことと考えていました。織田が強くなり過ぎれば、今川に加担し、今川が強くなり過ぎれば、織田に加担する。左右のバランスを取ることでお家を守ってきた一族です。

今川が尾張まで進出することを快く思っていません。しかし、今川の兵力の前に降伏しました。刈谷城が無事なのがその証拠です。

当然、織田を攻める先鋒を任されたに違いありません。裏切れば、すぐに対処できる位置に置くのが一番です。中島砦の攻撃の一番手は鵜殿長照が率いる大高城水野勢ではないでしょうか。そして、二番手が信元の部隊でしょう。

水野の格式から言えば、信元は本家の家柄であります。一方、大高の水野家は分家に当たります。鵜殿長照が大高城主として引き連れきた家臣は100人くらいであり、その他の兵は、大高城に常駐する大高の兵です。本家が分家の露払いでは格式に問題があります。当然、一番手は大高の水野氏に譲ったことでしょう。

当然のことですが、信元の近くには今川家臣の目付役の隊(100人くらい)が目を光らせていたでしょう。信元が不穏な動きをすれば、信長共々葬り去ることができます。

深田一本道で勝利した信長が刻の声を上げます。

その勝利を祝ってか、視界も虚ろになる大粒の雨が降ってきました。正に相撲でいう水入りです。

さて、前衛部隊はどこに陣を張るのが一番でしょうか?

今川軍は中堅の部隊がおりますから、本陣を守るように道を封鎖するのは得策ではありません。道を守るというのは、正面から敵を待ち受けなければならないと同時に有利な上手に陣を引けるとは限りません。朝比奈泰朝の常滑街道は海沿いで平地になってしまいます。正面から同数、あるいは倍の信長隊と対峙することになってしまいます。兵法の常から言えば、明らかに愚策です。

ですから、先鋒は道に面した山面に陣を引きます。2列で移動する部隊に横槍を食らわすのが常道です。それも大将が通過する時に横槍を入れるのが最も効果的です。当然、敵もそれを承知していますから、山を登って敵を排除しなければ、前に進めません。山を登りながら攻める敵を待ち受け方が断然有利です。

しかし、信長は事もあろうか、豪雨の中を2列隊率いて水野信元の前を通過してゆくのです。『総見記』の一部に「信長公御感有テ皆々旗ヲ巻キ忍ヒヤカニ山際マテ押付敵勢ノ後ロノ山ヲ押回ツテ、義元カ本陣ニ討テ掛レト下知シ給フ」と書かれています。御旗を巻いて、素知らぬ顔で味方の兵が移動でもするかの如く堂々と通過していったのです。

水野信元とお目付け役の間で口論になっていたでしょうね。

「今のは、敵ではないか」

「まさか、旗も上がっていないので味方でしょう」

「嫌々、そうとも限らん」

「では、(朝比奈)泰朝様に兵を移動したか、聞きにやらせましょう」

「早急にだ」

信長の隊は約2000人ですから、2列隊で500mほどになります。豪雨の中での移動になりますから時速4kmくらいでしょう。通過時間にして78分になります。水野信元は通過後に朝比奈(1.2km先)に早馬の使者を送ります。豪雨の中なので途中、足元に気を付けていくようにと念を押したことでしょう。

漆山から高根山まで2kmですから30分程度です。

高根山は眼下に鳴海城を含め中島砦も見ることができます。深田一本道で信長が勝利しまいたが、そこで豪雨に見舞われて中島砦に引き上げていくと思ったことでしょう。雨の中で信長が攻めてきたなら、その知らせが届くハズです。現に戦太鼓も法螺貝が響いていません。

高根山を守っていた兵は木の軒下などで雨宿りをしていたに違いありません。松井宗信も神社の好意に甘えて、雨宿りがてらにお茶など一服頂いていたかもしれません。有坂道は谷から山へとほぼ一直線に延びる街道で、道に竹柵でも立てただけの陣を築いていたのではないでしょうか。

突然に湧いて出た織田軍に松井隊が混乱に陥ります。やはり、先陣は柴田勝家か、森可也の隊でしょう。もしかすると勝家は善照寺で別働隊を命じられていたかもしれません。鎌倉街道を通り、太子ケ根を通る抜け道から近崎道を目指していたのかもしれません。すると太子ケ根付近に残る織田兵が結集したのは勝家の隊ということになります。そこから信長坂を駆け上がったのも勝家ということになります。しかし、勝家が活躍していないのは明白なので、その場合は、坂を上っている最中に義元の首が飛んだことになります。

さて、勝家も可也も信長と共に行動したとするなら、何故ゆえに活躍が示されていないのでしょうか。

その可能性の最も高いものが、旗も上げず、声も上げず、名乗りも上げず、忍び寄るように蹂躙したのではないでしょうか。まるで兵の一部が謀反でも起こしたように錯覚させた。有坂道は頂上にある有松神社の手前で右に折れて幕山の横を通過します。松井宗信、井伊直盛は何か起こっているのか判断するまでに刻を要してしまいます。

桶狭間には二つの戦場が残っています。

「桶狭間古戦場公園」と「桶狭間古戦場伝説地」です。

「桶狭間古戦場公園」は、義元の首が討ち取られた場所であり、「桶狭間古戦場伝説地」は織田と今川が戦い場所です。

015 偶然起こったエアーポケット>

015

柴田勝家が別働隊となっていた場合、『三河物語』に書かれているように、善照寺で二手に分かれたと、今川方に知れています。太子ケ根方面から迂回してくることが知れていれば、分レ道と近崎道に兵が配置されます。ところが高根山で異変が起きます。敵襲です。不意打ちだった為にそう崩れを起こし、敵が有坂道を抜けて生山方面に抜けてきました。当然、後詰の松平政忠の隊は有坂道へ急行します。同じほど、義元を守備していた富永他の武将も詰めてゆきます。その為に分レ道周辺がぽっかりと空白地帯になってしまったのではないでしょうか。

豪雨の中を不意打ちで襲った信長の先駆け隊は松井隊とぶつかり当然ながら交通渋滞を起こします。奇襲は時間が命です。前が開くのを待てない信長は右に曲がってゆく有坂道とは反対の脇道へと進みます。高根山を左に迂回した訳です。脇道は狭く通り難いのですが、そこを抜けると分レ道に出ることができます。ところが、ここを守っているハズの松平隊は有坂道へ移動していたのです。

分レ道の近くには、桜花学園大学の敷地内にこっそりと信長坂があります。釜ケ谷で後続が来るのを待った信長は一気に「信長坂」を駆け上がりました。すると、現在の東に古戦場伝説地が見え、南に古戦場公園が見える丘にでます。昔が雑木林になっていたそうですから、信長の部隊が近づいていることを気が付かないで済んだのかもしれません。

信長は別に迂回したつもりもなく、攻めやすい所に移動しただけなのですが、気が付けば、眼下に義元のいる桶狭間山が見える所に出てしまいました。その頃になって、激しかった豪雨が止んできます。

信長の先駆け隊(おおよそ1000人)は有坂道を直進していますから、信長に付き従った兵力は、700800人程度でしょう。中島砦から高根山まで30分、信長が迂回を始めるのが10分後程度、そこから1km移動しています。時間にして半刻(1時間)も掛かっていないでしょう。

高根山と幕山の戦いは、敵味方が入り混じっての乱戦です。誰が敵で誰が味方か判らない。普通は旗を背負うことや鉢巻などを身に付けて見分けを付くように工夫するのですが、とにかく偉そうな武将を討ち倒して進む夜盗の如き戦い方です。

幕山を抜けると、松平隊と富永他の隊が待ち受けています。今川方の兵も敵が来ていることを承知していますから、腰や腕に味方の印を付けているでしょう。ここからは不意打ちとはいきません。それでも突然の襲撃に移動し終えた部隊から戦い始めるという遭遇戦であり、陣形を整えて戦う組織戦とは行かないでしょう。

信長は丘を掛け下り、義元のいるおけはざま山へ攻める指示を出します。武路(たけじ)は緩やかな丘です。おけはざま山に陣取っている義元から丸見えだったでしょう。手痛い裏切りと天の悪戯が重なって、あり得ない光景が眼下に迫っていました。それでも義元の勝利への確信は揺るぎなかったでしょう。

義元の本隊4000人の内、護衛となる2000人が近崎道、有坂道に移動した為に、直参の2000人しか残っていません。しかし、信長は700800人程度しかいません。しかも半刻(1時間)もすれば、三浦隊、朝比奈隊も駆け付けてきます。(暴雨の為に、戦太鼓や法螺貝による伝達が駄目でも、早馬で知らせることができる。全軍が戻ってくるには、もう少し時間が掛かりますが、先発隊のみなら1時間くらい)

山に布陣し、兵力は倍以上、時間は半刻も持てばよい。義元の心情を牛一もこう書き続けています。

「鳴海にて四万五千の大軍を動かし、それも御用に立たず。千が一の信長、僅か二千に及ぶ人数に叩き立てられ、逃れ死に相果てられ、浅ましき天の巡り合わせ、因果歴然、善悪二つの道理、天道恐ろしく候なり。」

これは、曹洞宗の道元禅師が説いた一節「因果歴然」から取られた言葉です。過去・現在・未来の三世を知ったつもりなっていたが、善悪など人間の尺度で図れるものでなかった。天の理は揺るぎなく、それを知らないで生きてゆくことはできないと言っておられます。

牛一はこう思ったに違いありません。

信長公が勝ったのは、天に「生きよ」と言われたに過ぎない。因果を知り、善悪二つの道理を義元公が知り得ていたなら、結果は異なったものとなったであろう。天に逆らうなどできようもない。

戦の様を『信長公記』にはこう書かれています。

「余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」

丘を駆け下りた信長の隊は、そのままおけはざま山へと駆け上がってゆく。必死に生きようとする信長達に対して、今川の将兵は気持ちで負けていた。

「何故、ここに敵がいるのか」

「何故、柵は突破されるのか」

「神懸っている。あ奴は鬼神かぁ」

天魔波旬(てんまはじゆん)のわが心をたぶらかさんとて言ふやらん。

そんな感じで天を恐れぬ信長が、第六天魔王が地の底から這いあがってくる感じを兵士はヒシヒシを感じたに違いありません。信長は自ら馬を降りで先頭を切り、信長の子飼いの長槍部隊が遠間から敵を討つ。気づけば、何とないカラクリですが、槍の長さなどすぐには気が付きません。

長槍は短い槍に対して非常に有利ですが扱いが難しい。百姓が農作業を片手間に長槍の稽古はできません。信長直近の300人ほどは足軽として信長が鍛えてきた部隊でした。次々と味方が倒され、生きた心地にしない兵達の体が固まって、信長の隊はさらに勢いを増して駆け上がってきます。勝ちを慢心した部隊は死ぬ覚悟もできていません。死を恐れる兵達が一丸となって上がってきます。遂に兵達が持ち場を離れて逃げ出してしまう有様でした。

兵が逃げ出しては義元の采配も役に立ちません。塗輿も捨て、義元が逃げ出せばそう崩れでした。

「すは、かゝれ」

逃げ出す義元を追って織田の兵が進み、今川方の援軍は逃げる味方に阻まれて、近づくことすらできなくなります。

「今川義元が首、討ち取ったり」

刻の声が上がると勝敗は決しました。後は蜘蛛が散るが如く、兵が逃げてゆき、恩賞目当てに分捕りが始まります。進むもあたわず、逃げるも敵わず。多くの武将が散っていきました。

これが『桶狭間の真相』ですと言えればいいのですが、そこまで都合よく事態が進むとは神ならぬ私は信じることができません。

なぜなら、義元を囲う直参は、各駿河の名家から集められた武将です。「寄親・寄子の制」で主従の関係を強くし、その寄子が率いる兵は村で一番の力持ちや戦の巧妙者が集められています。言うなれば、義元を囲う2000人の兵は精鋭揃いなのです。信長の精鋭は組織的に強い兵です。義元の精鋭は個々が強い兵達です。怖くなって逃げ出すなど期待するのも烏滸がましいと思えます。

もちろん、今川の兵がすべて強い訳ではありません。前衛にいる兵達は、農民からかき集められた。あるいは、流民が身代わりになって出陣してきた仮初の兵ですので、怖ければ逃げ出すでしょう。しかし、義元を守る兵がそんな弱兵である訳がありません。

唯一の欠点は、朝比奈泰朝、三浦義就、松井宗信という自分で判断して行動に移せる名将の不在くらいでしょう。全員を前衛に配置してしまったのが、義元の唯一の失敗だったと思うしかありません。

「この場は拙者に任せて、殿はお引き下さい」

そう言える武将の不在が、義元を危険な交戦地帯に残らないといけない事態にさせたことです。信長の猛攻に各々が前掛かりになり、義元警備が疎かになっていったことでしょう。

かのガイウス・ユリウス・カエサルは、「人は現実のすべてが見えるわけではなく、多くの人は見たいと思う現実しか見ない。」という名言を残しています。そんな人の心を知り尽くしたカエサルが「ブルータス、お前もか。」と身近な人間の裏切りに気づきませんでした。義元の知らざる行為が誰かを傷つけて、恨みを買っていたことに気付かない。その絶好の機会が訪れたとき、人は奇行に走ります。

もしかすると、身近な誰かにぐさりと刺されていたのかもしれません。本陣が動揺すれば、信長の猛攻を防げるハズもありません。あるいは、皆が前に集中して、背後に回った少数の兵に気付かなかったのかもしれません。

いずれにしろ、義元が本陣に居る限り、何かの異変が起こらないと信長の勝利はあり得ません。そして、それを知る者は皆討死していなくなっています。

●桶狭間の真相のしっぽ、その2

今川義元は『東海一の弓取り』と称されるに相応しい名将であった。

戦国大名の治世を産み出し、文化を復興・奨励し、産業や流通を重んじ、戦において負けることなし、見事に駿河・遠江・三河を平定した。そんな武将が義元なのです。義元は街道を整備しており、義元を真似た信長は、本街道は幅三間二尺(約6メートル)、脇道は二間二尺(約4メートル)、在所道は一間(約18メートル)としました。

本街道が6メートルになると10列隊も可能です。一万の兵がわすが500mに並ぶことができる。高速移動なら5列隊に組み直す必要がありますが、それでも大軍が速やかに移動できます。まるでローマの高速街道を思わせる事業です。これを利用した戦が中国の大返しなど秀吉しかいないというのは寂しい話です。

いずれにしろ、戦国大名の先駆けとなった名将が塗輿で物見遊山で上洛を考える愚将である訳が御座いません。

深田一本道の戦いが始まり、緒戦を信長が制したという報告が義元に下に届けられます。そして、雷鳴が鳴り、大粒の雹(ひょう)を含んだ雨が降ってきます。しかし、義元は不機嫌な顔をします。四半刻も待っていませんが、義元の顔が曇ってゆきます。軍師と思われる庵原之政(大原雪斎の大甥)が聞きます。

「信長も存外不甲斐ない」

何の事が判らず、もう一度問い質すと、義元の首を取る為にねずみが袋に噛り付かないことを不満に思っていたのです。信長の果敢さを評価していた義元は、緒戦の勝ちに乗じて、中島砦の包囲網を破ってくると予測していたのですが、次に襲い掛かったという報告が来ないことから、この雨で兵を中島砦に引き返したと予想したのです。

「この雨を利用しないとは、臆したか」

「しかし、袋を破っても前後から挟撃されることを考えれば、無謀と判断するのは懸命かと」

「それでは普通の武将だ。あやつも同じだというのでは面白くない。敢えて、火中の栗を拾い、自らの武を誇り、悠々と引き揚げてこそ、意味があるというものだ」

之政は何故ゆえに義元が信長を気に掛けるのか判らない。

信長が織田の当主になったのは天文21年である。天文23年の村木ノ取手攻めから才覚を現し、延べ8年間も競い合った相手の顔を遂に拝めるかと思うと胸が高鳴っていた。しかし、出て来ると思った信長が中島砦に引き上げたと思い、義元は不機嫌になっていた。

その頃、信長は豪雨の中を駆けて有坂道に入り、高根山頂を目指していた。それに気づかない義元は次の指示を出した。

よく天才は天才を知ると言われますが、信長は義元のことをよく学び、後の信長政権の礎としています。一方、義元も信長のことを心得ていたのではないかと思わずにいられません。今川氏の滅亡後に岡部正綱を迎えるのに、信玄は、「万の兵士を得るのは容易だが、ひとりの将を得るのは難しい」と言われて武田氏の家臣として向かい入れたと言われます。義元も信長という武将に会いたいという願望が強くあったかもしれません。

信長が危ない橋を渡らないと感じた義元は、陣形の変更を指図しました。中島砦にいる織田の兵士を孤立させることで兵の士気を下げるという作戦です。信長との知恵比べを思わず、楽しんでしまったのかもしれません。

松平政忠に手越川北部の有坂道を下って中島砦の北側に移動するように命じます。同時に葛山氏元が川を渡り切っていたなら中島砦の鳴海方面に展開するようにも早馬を出します。意気揚々と士気が上がり、雨の中で休息を取っているでしょう。しかし、雨が上がった時に背後に敵兵が現われたことに冷や汗を流すことでしょう。

退路が断たれる。

そう焦るだけで兵の士気は下がります。無意味な休息を取った信長への戒めです。但し、松平政忠には細かい指示が言い渡されます。

三浦隊より前に進む時は信長の隊と遭遇戦があると思い、努々油断することのないように。

織田兵が討って出て来たなら堂々と立ち向かうように。

織田兵が善照寺へ逃げる素振りを見せたなら、深追いせずに兵を減らすことに心掛けよ。

織田の兵が鎌倉街道に抜けたなら追い駆けて追撃せよ。

義元は政忠に火急速やかに行動に移すことに念を押します。手越川の南側から抜けないと考えた信長が川の北側へ回ることを予想しての一手であり、同時に兵を休ませる為に中島砦に戻ったとするなら、中島砦を囲んで兵の士気を下げる作戦でもあります。信長の手越川の南側を攻め上がって来ないことに対する対処法であり、同時に陣の変更を命令しました。

井伊直盛には、迂回して鎌倉街道より善照寺前面へ移動を命じ、正面を守る富永共々には、井伊隊の後方を進み、本陣の前衛を守らせます。その後を義元本隊が移動し、鎌倉街道沿いに本陣を移します。瀬名氏俊には後を守らせ、右翼を守る長谷川共々には、近崎道の警備および殿を命じます。豪雨を利用した本陣の大移動です。

雨が晴れて、義元の本陣が鎌倉街道に移動していたなら度肝を抜かれるでしょう。中島砦を死守するか、善照寺に移るか、選択を迫られます。

中島砦に残れば、善照寺・丹下砦を先に落とされる可能性も出てきます。そうなれば、孤立するのは中島砦になります。善照寺に移れば、中島砦が手薄になり、討って出れば、大軍に三方から押込められます。

信長の本隊が善照寺にあれば、本陣が近すぎて危険な位置になりますが、信長が中島砦に籠っているなら絶好の位置に変わります。本陣の移動が完了すれば、松井宗信を鳴海道に沿って前進させて包囲に厚みを持たせることになります。信長が中島砦に籠ったことで、半包囲から全包囲へ完成すれば四面楚歌です。

<豪雨の中の配置替え>

016

全軍移動の命令を出すと同時に、朝比奈泰朝に再度中島砦へ攻め掛かるようにとの指示を出しました。義元がすべての命令を出し終えるのに、雨が降り始めて四半刻(30分)も掛かっていませんでした。

松平政忠は急いで前に繰り出してゆきます。井伊直盛も松平隊を追って移動を開始し、川を渡ると迂回路へ急ぎます。

その頃、松井宗信を襲う夜盗のような集団が押し寄せてきました。油断していた松井隊は混乱を極めます。家臣に状況を確認させるもすぐに判りません。まさか織田の兵が湧いて出たと考えられない。誰かが謀反を起こしたのか。その数は如何ほどなのか。雨音がすべての音を遮断して状況が把握できません。

義元の伝令も松井隊が混乱していて何が起こっているのか判別も尽きません。兵と兵が重なりあって殺し合っている。誰もが、確認せねば、確認せねばと焦るばかり、気が付けば、松井宗信にも襲い掛かる者が現われた。

「ぬかったわ。尾張殿がこれほど卑劣な手段を用いるとは」

などと武門の習わしをすべて無碍にする戦い方に怒りを覚え、義元公にお知らせねばと焦りを感じたでしょう。近隣衆に声を掛け、義元への伝言を託すると、部隊の立て直しを試みたことでしょう。

雨が降っている内に移動を完了しようと、拙速を重きに置いたことが裏目に出たとかしいいようがありません。信長の先駆けが松井の隊をぶつかって、後続の信長本隊は本陣を目指して有坂道を外れ、高根山を左に迂回する道を進みます。先頭が脇道から本道に出ると長蛇の列を為す敵がいました。偶発的に起きた遭遇戦が始まり、何が起こっているのか。戦っている信長にも判りません。とにかく後ろ閊えるので前へ前へと進みました。気が付くと生山の山頂付近まで上がっていました。

丁度その頃、雨が止み、雲の切れ間から日が差すと、眼下に塗輿が見えるではないでしょうか。塗輿は特別な者しか乗れない証、つまり、義元がそこにいるのです。

「すは、かゝれ」

掛け声共々、山を下って義元を目指します。前に進んでいた武将達も異変に気が付き、兵を戻そうとしますが、押し合いへし合いの大混雑で戻るに戻れません。人をかき分けて進む信長の兵、右往左往するばかりで義元が引こうとするのを妨げる味方の兵、一進一退を繰り返し、遂に義元の首が飛びました。

策士、策に溺れる。

水野信元のささやかな裏切りと、天の采配が信長を偶然の勝利へと導いた瞬間でした。

 

さて、『桶狭間の真実』とは、一体どこにあるのでしょうか?

こちらの信長が通った『信長坂』は生山にあることになってしまいます。信長古戦場伝説地よりも少し西になってします。伝承の信憑性や客観的事実から推測できることは知れています。ただ、辻褄を合わせる為に、義元が凡将だったとか。戦の最中に酒に酔っていたとか、嘘偽りが多く徘徊するのが問題です。

人間性や地形、そのときの状況を細かく観察すれば、そこから導き出される答えは集約されます。それでも検証できない伝承があり、辻褄があわないピースが存在します。おそらく、それは偽りのピースなのでしょう。

しかし、それを判断する基準を私達は持ち合わせていません。完成できないジクソウパズルのようなものです。それゆえに想像力が掻き立てられ、多くの可能性を楽しむ事こそ、歴史の醍醐味ではないでしょうか。

ただ、小説と歴史は異なります。しかし、NHKの大河ドラマを見て、歴史と勘違いする方々が多くいることは不幸なことです。ドラマ『水戸黄門』さまが日本全国、津々浦々まで諸国を漫遊して、天下安寧に後見したと信じている方がどれくらいいるのでしょう。愛してやまないのなら真実の歴史も追い求めてくれることを大切にして貰いたいものです。

それはそれでもいいのですが、「それが真実の歴史だ」と恥ずかしげもなく言う方々が多くならないことを祈るだけです。

PS.最近、『信長協奏曲』という楽しいドラマを見せて頂きました。これがアニメ『信奈の野望』と同じくらいトンでもない奇想天外なお話だと感じてくれていると嬉しいのですが、たとえば、森可也がひ弱なよれよれ武将だったと信じてほしくないですね。奇想天外がいけないのではなく、奇想天外として楽しんで貰いたいものです。

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

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信長公記の軌跡 目次 

 

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その3

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今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■決戦、桶狭間

桶狭間の戦いで有名な説は、『迂回奇襲説』、『正面攻撃説』、『乱取り騙し討ち説』と様々です。『迂回奇襲説』は旧参謀本部の『桶狭間役』で解説される日本の伝統的な戦法として取り組まれています。神速を持って移動し、相手の虚を付いて強襲するのは効果的と考えた訳です。しかし、残念なことに最近の資料から今川義元が油断していないと難しいと判ってきました。鷲津砦・丸根砦の両砦が陥落し、意気消沈した織田軍は一戦して後退すると油断している状態です。

あるいは、『乱取り騙し討ち説』である。『乱取り騙し討ち説』は、黒田日出男東京大学名誉教授が唱える説であり、『甲陽軍鑑』が書き示す「駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、身方(味方)のやうに入まじり」云々という記述に注目し、勝ったと思った義元が兵に乱捕りを許可し、信長が旗を仕舞って、敵に混じって近づいて首を取ったというものです。

いずれにしろ、今川義元が勝利に酔って油断した結果でなければなりません。しかし、「東海一の弓取り」と称される義元公が、大高城が解放されただけで浮かれていたとは信じられません。鳴海城はまだ包囲されたままです。

もし、油断したのであれば、中島砦・善照寺・丹下砦を放棄して織田軍が撤退を開始したとでも報告がなければなりません。

さて、『迂回奇襲説』に戻りますが、旧参謀本部の『桶狭間役』の地図から長福寺付近のおけはざま山に義元の本陣を置いてみました。逃亡して田楽坪を通ったとするなら、生山の方がよかったかもしれません。鎌倉街道を迂回して山道を通って近づくことになります。Aルート以上に迂回すれば、2時間以内に到着することは難しいのでないでしょうか。鎌倉街道から追分新田道へ渡る道はなく、獣道や小道がある程度です。しかし、30m級の山なので横断できなくはありませんが、500人程度の兵なら問題ないでしょうが、3,000人規模の部隊が迂回強襲するのは難しく考えてしまいます。しかし、戦力差から旧参謀本部は迂回奇襲作戦を取りました。

<<003 信長の進軍ルート>>

003

最近、見直された『信長公記』には、『正面攻撃説』が書かれております。中島砦から出て田んぼ脇道を通り、山沿いに鳴海道があり、その坂道を駆け上がったのでないかという説です。

「右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。」

と、大粒の雨が降り出してきました。そこは諏訪山か(Bルート)、漆山の麓(Cルート)と思われます。ここから道は、大きく2つに分かれます。

『信長公記』では、いつ雨が降ってきたのか詳しく書かれていません。普通に読めば、おけはざま山の近くまで寄ってから雨が降り出したように思えますが、前衛を薙ぎ払わらなければ、とても近づくことができません。

Bルートを選択すれば、しんえい中島砦攻略の朝比奈泰朝隊が信長の前に立ち塞がります。Cルートを選択すれば、高根山の有松神社に布陣した松井宗信隊か、その隣の幕山の井伊直盛隊にぶつかります。

桶狭間の戦没名簿を見ると、松井宗信、井伊直盛共に討死しております。そこから考えられるのは、やはりBルートとなります。中島砦を出陣した信長本隊は、早々に豪雨の来襲を受け、雨に身を隠して義元本陣を目指しました。移動に際して、『甲陽軍鑑』の旗を隠して進んではないかと考えられます。『信長公記』は、几帳面な太田牛一がどのようにして義元本隊に近づいていったのかが書かれておりません。否、雨に隠れて旗を降ろして近づいていったなど、武門の恥で書けなかったのです。

松井宗信と井伊直盛の兵は雨宿りをして散らばっている所を、柴田勝家率いる先駆け隊が騙し討ちするような形で襲い掛かったとすれば、一方的に蹂躙したのかもしれません。名乗りを上げてから戦いを始めるのが、武士の習わしとすれば、夜盗の如き振る舞いに思えたのではないでしょうか。(太田牛一は柴田の家臣)

<<004 明治24年国土地理院旧版地図>><<参謀本部刊「日本の戦史 桶狭間」付図>>

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(注). 信長の進軍ルートの参考は、明治24年国土地理院旧版地図、参謀本部刊「日本の戦史 桶狭間」付図、高根山の有松神社「桶狭間古戦場」を参考に再考しております。

沓掛城を出陣した義元公は、鎌倉古道を通って大高城を目指したと言われております。しかし、義元公は、中島砦が主戦場になると想定して、はじめから『おけはざま山』を目指しました。先発隊の瀬名氏俊にわずか4km先に陣幕を作らせたのもその為です。

尤も旧陸軍歩兵でも50分歩いて10分休むとありますから、単なる休憩地だった可能性は否定できません。二村山を越えて来た兵にはちょうど良い休憩だったのかもしれません。しかし、そこで佐々隼人正、千秋四郎の二首と五十騎計り討ち取ったという報告を聞くことになります。

義元公が陣を引いたのは、『おけはざま山』と言われていますが、諸々の史料には、

「桶狭間山の北の松原」(桶狭間合戦記・尾張志)

「桶間の松陰」(武家事記)

「路次の側の松原」(甲陽軍鑑)

「桶狭之山の北」(成功記)

「桶狭間の山下の芝原」(総見記)

と示されております。実際は『おけはざま山』の北であった思われる節があります。地図で言えば、『武侍』「三河物語」では19日に義元公が池鯉鮒から段々に押し出て棒山の丸根砦等を巡察されたともあります。池鯉鮒は沓掛城の東であり、わざわざ戻る意味があるのかと考えてしまいますが、多くを悩んでも仕方ありません。

信長が中島砦を出陣するに煎じて、千秋四郎(千秋季忠)と佐々隼人正(佐々政次)が討ち出ております。

その出陣に際して、佐々政次が信長に言ったと『道家祖看記』(続群書類従 第二十輯上 収)に残されています。

ソレカシ命ヲステ候ハヽ。 今日ノ御合戦ニ御カチ候事必定ナリ。 

今日天下ワケメノカツセンコレ也。 

天下ヲヲサメタマヒ候時。 

弟内蔵佐我等セカレヲ。 御ミステサセタマハテトテ。 

我々ハ東ムキニ。 今川ハタ本ヘミタレ入ヘシ。 

殿ハワキヤリニ御ムカヒ。 テツホウユミモウチステ。 

タヽムタヒニ。 ウチテカヽラセタマヒ候ヘトテ。

(私が命を捨てて掛かれば、今日の合戦には必ず勝つことが出来ましょう。今日の戦は天下分け目の合戦です。天下を治め下さい。弟(成政)と私の息子(清蔵)を宜しくお願い致します。我々は東へ向かい、今川義元の本陣へ乱入します。殿(信長)は脇槍に向かわれ、鉄砲も弓も捨ててただただ一途に義元に打ちかかられるがよろしいでしょう。)

取って付けたような銘文なので、後の編集ではないかと思われますが、佐々の息子たちが恩に報われている所を見れば、この討死を信長は評価していたのは間違いありません。

義元公は、この見印を討ち取ったことを聞いて、

「義元が戈先には天魔鬼神も忍べからず。  心地はよし。」

と喜んだと言われています。

千秋四郎と佐々隼人正がどこで戦ったのか不明です。

阿部四郎兵衛定次が書き記した「松平記」(三河文献集成・中性編 ()国書刊行会)には、

「永禄三年五月十九日昼時分大雨しきりに降。今朝の御合戦御勝にて目出度と鳴海桶はざまにて、昼弁当参候処に、其辺の寺社方より酒肴進上仕り、御馬廻の面々御盃被下候時分、信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善勝寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、鉄炮を打掛しかば、味方思ひもよらざる事なれば、悉敗軍しさはぐ処へ、山の上よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の鑓にて義元を突申候処、義元刀をぬき青貝柄の沙也鑓を切折り、小平太がひざの口をわり付給ふ。毛利信助と云もの義元の首をとりしが、左の指を口へさし入、義元にくひきられしと聞えし。」

と書かれていることから、善照寺砦から二手に別れ、一手(千秋四郎と佐々隼人正)が御先衆、もう一手(信長)が本陣を襲ったと書かれている。

つまり、高根山の掲示板に示されている逸話が正しいとするであれば、300余りの小隊で善照寺より東にAルートを通ったと思われます。「松平記」では、同時に攻撃したように思われますが、密偵が持ち帰った情報が、「善照寺で二手に分かれた」、「千秋四郎と佐々隼人正が松井宗信と対峙た」、「本陣が信長に襲われた」というものであれば、二手の分かれた部隊の戦闘時間は察していなくても不思議はありません。

「信長公記」では、千秋四郎と佐々隼人正達50騎余りが討ち取られましたが、その戦いで前田又左衛門達が首を持ち帰ったことで、信長は逆に勝機を感じ取ったのではないでしょうか。

右側から襲い掛かったので、左側から襲い掛かれば、手薄になっているハズなどと単純に考えたと思われます。これは浅井・朝倉と対した時に、雨に紛れて大嶽砦を落した方法と似ております。信長は単純に行動することが侭あります。

信長戦いの好機と見て、兵に号令を掛けました。

「懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし」

戦力に差のある織田軍は、奇襲に当たる先駆け(千秋四郎と佐々隼人正達)が討たれて意気消沈していると普通は思います。それゆえに虚を付き信長は兵を進めました。

一方、元康(後の家康)は大高城で休息を取っています。兵糧入れに丸根砦の攻略と昼夜を問わない働きでした。大高城の規模からいうと全軍が城に入ったかは疑問です。

『信長公記』では、「今度家康は朱武者にて先懸(駆)けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり」

『三河物語』では、「即押寄て責給ひければ、程無タマラズして、佐間は切て出けるが、雲もツキずや、討ち漏らされて落ちて行く。家の子郎縫供をば悉打取る。其寄大高之城に兵ラウ米多く誉。」とどちらも被害を訴えています。

丸根砦と鷲津砦は尾根で繋がっており、兵を貸し借りできる構造だったそうです。そう考えれば、松平元康隊が先に丸根砦を攻撃すると鷲津砦は手薄になります。頃合いを見て、朝比奈泰朝隊が鷲津砦を攻撃すれば被害は小さかったでしょう。しかもここには本多忠勝の三河衆も加わっていました。

義元は前と後を入れ替えて兵を休めるようにしたように思われます。被害の大きい松平元康隊は後詰に回されて大高城で休息し、本多隊も後詰に回したことでしょう。

朝比奈泰朝隊は棒山か、前進して諏訪山に陣を引き、当然のように漆山にも誰がしかに陣を張らせたと思われます。

平瀬川を挟んで、三浦備後守は中島砦と善照寺を一望できる場所、平子ケ丘に三浦隊が陣取ったと思われます。三浦隊は笠寺守備の兵(陥落後)を引き連れて500~3000人を率いていました。当然、鳴海城の封鎖解除を目的とする今川軍は、中島砦を朝比奈泰朝隊、善照寺を三浦隊、丹下砦を鳴海城の岡部隊、星崎城を葛山隊が担当し、後詰として松平元康隊と本隊が控えているという作戦を練っていました。そうでなければ、本隊をおけはざま山に移動した意味がありません。義元公は織田方の退路を断たれないように中島砦を囲んでいます。

中島砦は平城ですが、大高城へと結ぶ重要拠点です。しかも2000人以上の常駐させることができる大きな砦です。

つまり、鳴海城―中島砦―沓掛城の防衛ラインを確保することが、当初の最大目標だったことが伺われます。史書の多くに、義元公が大高城に向かったとされますが、700人弱しか収容できない小城に5000人の兵力を連れてゆく意味がありません。義元公は沓掛城を午前10時頃に出発していることを考えると、丸根・鷲津両砦が陥落寸前であることを確認して出立したと思われます。つまり、義元公の本命は中島砦だったのです。

(注). 2列で並んで行軍すると1000人の兵士は500mもの長さの隊列になります。5000人なら2.5kmの長蛇になります。歩行速度が4km/hとして、部隊ごとに移動すると4km先の桶狭間に到着するのに2時間弱を必要とします。

<<006桶狭間周辺の地形>>

006

<<007高根山の有松神社「桶狭間古戦場」>>

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大将ケ根(たいしょうがね)には、『迂回強襲説』でおけはざま山に休憩する義元本陣を狙って、信長がこの地に集ったという逸話が残っております。資料には、何も残っていないので参考程度に覚えて下さい。

今川本陣の諸将は、それぞれの山に布陣しておりました。

おけはざま山:今川義元 本隊〔標高65m〕

高根山:松井宗信隊(前衛)〔標高35m〕

幕山:井伊直盛隊(前衛)〔標高50m〕

大池奥:瀬名氏俊隊(左翼)

生山:???隊〔標高26m〕

武侍山:???隊〔標高?m〕

巻木山〔標高38m〕 

太子ケ根山〔標高54m〕

善照寺砦〔標高21m〕

若草山〔標高35m?〕(過去の山名は見つからず、若草山は大高緑地内の山)

前衛の二将の後ろにある中堅の生山(はえやま)、右翼の武侍山(やけじやま)に武将を配置していたでしょう。もしかすると大将ケ根にも布陣させていたかもしれません。当然ですが、おけはざま山から西方の幕山・高根山の稜線に遮られて、中島砦や善照寺を見通すことはできません。

(注).幕山は現在切戸山町にある山となり、地図上の幕山は桶狭間3丁目の巻山に当たる。

<その4に進む>

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2

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信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 


今川義元討死の事 狭間の戦い その3 


今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■桶狭間の戦い

永禄3519日(1560612日)、尾張国桶狭間で起こった戦いは、織田家と今川家の雌雄を争った戦いとして有名である。

駿河・遠江・三河を平定した駿河国守護今川義元が、尾張へと領土拡大の為に行われ、『信長公記』では4万5千、『武功夜話』では、3万有余余、『北条五代記』では25千、『足利李世記』では1万の軍勢が尾張の国に攻め込んだと記されている。また、近代の日本帝国陸軍の研究では、参謀本部が編纂した「日本戦史」の「桶狭間役」で2万5千と記されている。

果たして、今川義元は、どんな戦略を練っていたのであろうか?

まずは、今川義元の行動を見てみよう。

5月12日 今川義元が今川館を出陣。

5月13日 掛川城で泊。

5月14日 引馬城で泊。

5月15日 吉田城で泊。

5月16日、岡崎城で泊。

『総見記』(織田軍記)は、「十五日に三州岡崎の城に陣す、是にて陣々城々の手分け手配を定めらる」とある。

5月17日、池

5月18日、祐福寺で泊。

桶狭間前日に祐福寺に陣を引いた。『信長公記』では、「今川義元は軍兵を率いて沓懸に参陣」とある。この祐福寺は、武功夜話曰く、「蜂須賀彦右衛門らは裕福寺村長に同道し、百姓になりすまして義元が必ず通る大高まで十五町の街道上で義元一行を待ち受けたところ、義元は午前十時にそこに通りかかった」と出てくるお寺の事です。『尾州桶狭間合戦之事』の写本には「社寺方、合戦の勝利を祝い酒肴を用意し(義元を)接待した」とされていますから、沓掛城に入った義元の元へ各地の寺から祝酒が献上されています。今川義元の供養寺として知られている長福寺などと一緒に祐福寺とも共に安堵状が渡されていたようです。

祐福寺は、浄土宗西山禅林寺派に属し、建久2年(1191)の創建と伝える古刹であり、室町時代の大永8年(1528)後奈良天皇より勅願寺たる旨の綸旨(りんじ)を賜り、このときに勅使左中将経広卿を迎えるために門が造られたという。勅使門とは、勅使が参向する時に勅使の通行に使われる門のことをいう。勅使門は四脚門に次ぐ格式が高い門とされ、義元も合戦の前日に泊まられたと語られています。

移動などの参考として、帝国陸軍の作戦要務令に以下のことが書かれております。

『作戦要務令』によると、旧陸軍歩兵は一時間に4kmのペース(50分歩いて10分休む)で行軍して、一日に六時間から十時間の行軍を行い24~40kmの距離を進みます。

赤軍臨時野外教令『作戦要務令』第十二章・軍隊の移動・第328、「大休止の為、軍隊は行軍命令に応じて道路を離れ、露営又は村落露営の要領を以って分散配置せらる。大休止地点の捜索は予め之を行うものとし、努めて上空に遮蔽すると共に軍隊の利便をも顧慮するを要す(水、木蔭等)。敵と衝突を予想する場合に於いては、展開を迅速ならしめ、不意の敵襲を撃退し得る如く配置を定め、警戒手段を講ずるものとす。」と定める。

作戦要務令というのは昭和13年に定められた軍令であり、具体的には陣中(戦場)勤務の要領と諸兵連合の戦闘についての基本事項を士官の利用を想定して取りまとめたものです。時代は違いますが、物資の輸送方法が違いますが、歩兵は戦国時代と変わりありません。補給などの統制を考えると戦国時代の通常行軍速度は一般に15km/日と言われています。

対する信長は防御側ですから補給の心配はありません。また、信長自身も神速を旨とする速攻を重んじている武将でした。

清須~熱田は三里余、歩兵の通常行軍速度(時速4km)で約3時間、騎兵の通常行軍(時速6km)では二時間になります。

清須~丸根砦は五里十二町余、歩兵の通常行軍速度約5時間20分、飛脚の通常速度(時速9km)では2時間20分、伝騎の通常速度(時速18km)では1時間10分です。

熱田~善照寺砦は一里廿五町余(約7km)、歩兵の通常行軍(時速4km)では約1時間40分、騎兵の通常行軍(時速6km)では1時間10分です。

一千名の軍勢の行軍長径は、約1.18kmの隊列になり、この隊列が展開して戦闘隊形をとるには約廿分弱かかると頭に入れて置いて下さい。

信長は、19日の早朝に清須を出て熱田に到着します。そこで後続を1時間ほど待った後に勝利を祈願して出陣しました。昼前に善照寺に到着し、中島砦に移動、そこから桶狭間に向かって移動します。中島砦から桶狭間山まで約4kmの道のりであり、移動時間は約2時間です。武功夜話のいう迂回路で時間的に可能なのは鎌倉街道を東に移動し、それから南下するルート(約8km弱)しかありません。今川軍に見つからずに道なき道を2時間で移動するのは不可能なのです。もちろん、武功夜話では神輿に乗って遊興を楽しむ御仁ですから、周囲の警戒を怠っていたと考えれば、話の筋は困りません。

今川義元の本隊は、16日に岡崎城に着陣し、翌17日に知立城の池鯉鮒で陣を張ります。約15kmの道のりですから標準的な進軍速度となります。しかし、翌18日は沓掛城まで7kmと非常に短い距離の移動を行い。沓掛城で義元は、乱取りを兵に許可したのではないかと考えられます。『甲陽軍鑑』の桶狭間には、旗を降ろして信長が近づいたが「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあります。「乱取り」は、乱妨取り(らんぼうどり)の略称であり、報酬もなく狩り出された農民などが戦利品として略奪を許す行為のことです。村を襲い、食糧や金品にゆうに覚えず、女や子供をさらい売り払うか奴隷にするのが、当時の常識だったのです。

18日、沓掛城に入った義元は、周囲の状況を確認して沓掛城を本陣として作戦を練ったのでしょう。(軍は沓掛城に入り、義元自身と一部は祐福寺で宿泊したのではないだろうか)

一般的に今川が圧倒的に有利な状況であり、信長は成す術もないというイメージが付きまとう「桶狭間の戦い」ですが、天文23年(桶狭間の6年前)まで三河の重原城は、織田方の山岡河内守が城主を務めております。また、織田方の来迎寺城、水野家臣の牛田城、知立城は永禄3年に井伊直盛率いる今川先鋒隊によって落城します。石碑には牛田政興の活躍は見事であったと書かれています。

<<002 牛田城石碑>>

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永禄3年(1560年)55日に信長が三河の吉良方面へ出動、所々に放火。三河国の実相寺を焼くという記述が残っており、実相寺釈迦堂(じっそうじしゃかどう:西尾市上町下屋敷15)には、永禄3年(1560)織田信長の兵火によって堂宇を焼失し、その後、伽藍が復興されたとありますから間違いないでしょう。来迎寺城、牛田城より随分と南に位置する今川領内で放火したようですが、どの当たりまで放火したのか判りません。

いずれにしろ、永禄334月に井伊直盛率いる今川先鋒隊によって三河の織田方が陥落し、今川軍の知多半島で孤立する大高城と鳴尾城の平定に乗り出すことになるのです。そして、大高城と鳴尾城に近く、大軍を入城できる城が沓掛城だった訳です。

沓掛城は、東西288メートル、南北234メートル(面積67,392平方m)で、惣堀に囲まれた比較的規模の大きな城でした。北方の長久手・岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差し、交通の要衝として古くから栄え、後醍醐天皇が沓掛の住人近藤宗光を召しだし、応永年間(1394 - 1428年)には城が築かれたようです。近藤氏は織田信秀の勢力が強くなると追従し、天文20年(1551年)の信秀死後に、鳴海城主山口教継・教吉父子とともに今川に下りました。

城の規模でいうなら、山口教継・教吉父子の鳴海城(8,432平方m)より、沓掛城(面積67,392平方m)の城主が離反したことの方が重要ではないでしょうか。

沓掛城は鳴尾城まで6.7km、大高城まで7.9kmの位置にあります。織田軍が大高城の方へ移動すれば、鎌倉街道を通って背後から善照寺や丹下砦を強襲できます。その地の利を捨てて南下し、わずか4km先の桶狭間山で陣を引くのは常軌を逸しています。

大高城に入城するつもりだったという説もありますが、大高城(3,392平方m)の小城であり、5000人の兵士を入城させる余裕はありません。つまり、松平元康軍、朝比奈泰能軍の後詰として出陣した以外にあり得ないのです。

鷲津砦・丸根砦を陥落させた今川軍は、

そのまま、中島砦を攻めるつもりだったのか?

それとも、反転して沓掛城に帰城するつもりだったのか?

義元公の考えは、永久に知ることはできません。

001 信長の進軍時間≫

001

さて、旧参謀本部の『桶狭間役』では、突如として尾張に今川義元が侵攻したのではなく、幾度となく小競り合いを繰り返えしていたと示されています。

『信長公記』では、「御国の内へ義元引請けられ候の間、大事と御胸中に籠り候と聞へ申候なり。」から「天文廿一年壬子五月十七日、 一、今川義元沓懸へ参陣。」となって、義元の侵攻の理由を語っていない。

一方、『信長記 (甫庵長記)』では、「爰に今川義元は天下へ切り上り、国家の邪路を正さんとて、数万騎を率し、駿河国を打立ちしより、遠江三河をも程なく従え、恣に猛威を振ひしかば」と世直しの為に上洛する旨が述べられている。

同じように、『織田軍記 (總見記)』も「永禄三年の夏の比、今川治部大輔源義元、駿河三河遠江の大軍を引具し、天下一統の為に東海道を上洛するに、先づ尾州を攻平げ、攻上らんと企てらる」と上洛の意思を書き示している。

物語としては、大軍で上洛しようとしていたとする方が盛り上がる。しかし、『桶狭間役』で書かれているように、『桶狭間の戦い』は尾張と三河の境界線で起きている小競り合いに過ぎない。桶狭間から5年前の天文24年では、三河守護となった吉良氏と斯波氏が同盟を結び、義元は西三河の支配権も怪しくなっていた。

織田と今川の力関係はシーソーのように揺れ動いており、武田信玄の侵攻の前に上杉謙信が立ちはだかったように、今川義元の進撃に織田信長が抵抗し続けていた。

果たして、斉藤道三の押し込めが義元の策略であったかどうかは判らないが、美濃の斎藤義龍が道三を殺め、織田と対立するようになってから、信長は義龍と義元の両面から攻撃を受けるようになり、非常に苦しい台所事情を賄っていた。尤も織田の台所事情とは金銭ではなく、純粋な兵力の不足であった。

尾張は57万石と豊かな土地を持っていた。

さらに、津島や熱田から上がる税は20万石相当の費用を捻出できた。ゆえに尾張の5分の2程度しか治めていない織田弾正家が40万石相当の兵力(約1万人)を揃えることができた。しかし、尾張上四郡、斉藤義龍、今川義元と三者を敵に回していたので、非常に苦労していた訳である。

永禄元年に「浮野の戦い」(尾張上四郡を制圧)を勝利した信長は、尾張の支配権を確立した。このまま尾張の支配権を確実にすれば、益々好敵手となってしまう。支配権が薄い間に攻め込むのは定石と言えた。

義元の侵攻の目的は、鳴海城・大高城を囲む砦を排除し尾張知多郡の支配権を奪い取ること、さらに今川氏豊の領地であった那古野城周辺(熱田を含む)を奪回したいという気持ちもあったかもしれません。

山陽(らい さんよう)が示した桶狭間は、

将士銜レ枚レ枚馬結レ舌(しょうしはばいをふくみ うまはしたをむすぶ)

桶狭如レ桶雷擘裂(おけはざまおけのごとく らいへきれっす)

驕竜喪レ元敗鱗飛(きょうりゅうもとをうしない はいりんとぶ)

撲レ面腥風雨耶血(めんをうつ せいふうあめかちか)

一戦始開撥乱機(いっせんはじめてひらくはつらんのき)

万古海道戦氛滅(ばんこかいどうせんふんめっし)

唯見血痕紅紋纈(ただみるけっこんくれないにぶんけつするを)

と詠いました。

■桶狭間の置ける兵の配置

●織田軍

総大将:織田信長

小姓衆:岩室重休 長谷川橋介 佐藤藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎

馬廻衆:織田越前守 中川重政(織田駿河守) 津田盛月(織田左馬允) 河尻秀隆 佐々成政 (平井長康) (毛利十朗) 毛利新左衛門尉 伊東武兵衛 (水野忠光) 松岡九郎次郎 生駒勝介 蜂屋頼隆 中島主水正 猪子内匠助 金森長近 塙九郎左衛門直政 (飯尾茂助尚清) 浅井新八郎政貞 野々村三十郎 蜂屋兵庫頭 平出久左衛門 服部一忠等々

譜代衆:〔千秋家、毛利家、佐々家、内藤家、平手家、飯尾家〕

柴田勝家 林秀貞 (佐々政次) (佐久間盛重) (飯尾 定宗) (千秋四郎)

旗本衆:簗田政綱 森可成 池田恒興

熱田衆:千秋四郎

丸根砦:佐久間盛重

鷲津砦:織田秀敏 飯尾定宗 飯尾尚清

善照寺砦:佐久間信盛 佐久間信辰

丹下砦:水野忠光(水野帯刀)

中島砦:梶川高秀 梶川一秀

氷上砦:(千秋四郎)

向山砦:水野信元?

正光寺砦:佐々隼人正

星崎城:佐々隼人正

市場城:山口安盛

寺部城:山口盛重

〔知多半島〕緒川城:水野忠政?(誰が城主だったのか不明)

〔三河地区〕重原城:山岡河内守(天文23年(1554)に今川氏により落城)

牛田城:牛田政興(井伊直盛率いる先鋒隊によって落城)

来迎寺城:城主不明(牛田城の隣接する城、落城)

<出陣しなかった武将>

■旗本衆

丹羽長秀:出陣しているが名前は上がっていない。つまり、シンガリ、あるいは東方面の睨みを利かす役目を受けていた可能性が高い。現在の名古屋市天白区島田5丁目あたりに島田城がある。その島田城の牧家の菩提寺に島田地蔵寺があるが、永禄三年(1560)兵火にかかり、焼失したとある。守山城と鳴海城の中間にあり、東の岩崎城の丹羽氏勝を牽制するには、この当たりに牽制する兵がいないと背後から襲われる心配がある。

織田信清:出陣せず〔犬山城主、一門衆〕

生駒家長:〔小折城主、息子が参加〕

(注).岩崎の丹羽氏勝は『東照軍鑑』によると永禄二年(1559)四月二十六日「「丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえて信長自身が平針(天白区)に出陣し、柴田勝家・荒川新八郎らに国境福谷砦を攻めさせたが砦を構えて酒井忠次を配していた松平方に敗れた。」とある。「岩崎面を押さえて」と書かれているように、永禄2年の時点で岩崎の丹羽氏勝は今川方に組みしていたと考えられる。

島田城(名古屋市天白区島田5丁目):城主 牧長義、丹下砦の守備に付く。

植田城(名古屋市天白区植田1丁目):城主 横地秀重・秀政

<遅参組>(武功夜話)

佐々平左衛門、丹羽源助、今井小四郎、桜井甚右衛門、柏井衆、小坂孫九郎(雄吉)、村瀬九左衛門、前野新蔵(直高)、足立彦兵衛、平井久右衛門、吉田四郎兵衛、前野喜兵衛等々二百余人

<その他の武将>

前田利家 毛利十郎 毛利河内 木下雅楽助(織田薩摩守) 中川金右衛門 佐久間弥太郎  森小介 安食弥太郎 魚住隼人(敵首を討ち取った者)

毛利良勝(今川義元を討ち取った者)

服部一忠(今川義元に一番槍をつけた者)

水野信元(刈谷城主、向山砦を任されていたハズなのだが、いつの間にか消えている)

水野忠政(信元の父、天文12年の死没)

水野忠光(丹下砦の砦主、刈谷の水野一族?)

水野清久(水野清重の息子:織田軍で一番首の手柄を取った)

水野元氏(桶狭間後、大高城城主になる)

水野信近(桶狭間後、岡部元信によって三河刈屋城で討死)

牛田政興(緒川水野の家臣)

牧長義(島田城主、丹下砦の守備を任された真木与十郎、真木宗十郎と同一人物とされる)

山口盛重(寺部城主、大内義弘の次男・大内持盛を祖。持盛の子が尾張に移り住んだ)

山口安盛(市場城主、寺部城の山口盛重の兄)

山口盛隆(市場城主である山口安盛の孫で丹下砦を守る)

細作飛人(情報工作要員を五十人も沓掛城周辺にばらまいていた:武功夜話)

蜂須賀小六(川並衆)

前野将右衛門(川並衆)

<織田軍の兵数>

織田信長本隊:織田信長、2,000

・信長直属 300

・馬廻衆  700

河尻秀隆   100人〔馬廻衆〕

佐々成政   100人〔馬廻衆〕 等々

・譜代衆 600

柴田勝家       300人〔下社城主〕

林秀貞        300人〔沖村城主、沖村の土豪〕

 ・旗本衆 400

森可成    200

簗田政綱    50人〔旗本衆〕

金森長近    50人〔旗本衆〕 等々

先駆隊:佐々隼人正(政次)・千秋四郎、300〔井関城主、熱田宮司〕

善照寺砦:佐久間右衛門他1人、300

中島砦:梶川平左衛門、500

丹下砦:水野帯刀他6人、1,000

丸根砦:佐久間盛重、200

鷲津砦:織田玄蕃、飯尾近江守父子、300

星崎城:???、 300

また、鳴尾城を囲むように、寺部城・市場城・桜中村城・山崎城・島田城・植田城があり、200500人の守りを残していたと思われ、1,2002000人が後方に控えていた。

よって、この地区の織田勢は60007000人くらいであったと思われる。

(注1).市場城:山口左近太夫安盛は織田方で、丹下砦(名古屋市・緑区)を守っていました。寺部の近隣にある今川方の戸部城、笠寺城は廃城。

<武功夜話>

織田信長、2000

善照寺砦:佐久間右衛門他1人 1,700人(中島を含む)

丸根砦:佐久間盛重、 400

鷲津砦:織田玄蕃、飯尾近江守父子、 600

<帝国陸軍参謀本部編纂による>

本隊:織田信長 4,000人程度

鷲津砦:織田信平  兵数不明、400余か

丸根砦:佐久間信盛 兵数不明、400~700余か

丹下砦:水野忠光  兵数不明

善照寺砦:佐久間信辰 兵数不明

中島砦:梶川一秀  兵数不明

●今川軍

今川家当主(駿府城留守居):今川氏真

総大将:今川義元(前今川家当主)

駿河衆:<義元公をお守りする本隊中の側近衆> 2000

朝比奈親徳△○、朝比奈秀詮○、300人 (駿河東部の旗頭)

庵原之政○、庵原忠縁○、庵原忠春×、庵原忠良×、300人 (駿河庵原城主)

蒲原氏徳×、300人 (駿河東部、蒲原城主)

久野元宗×、300人 (駿河東部、久野城主)

久野氏忠×、300人 (駿河東部、江尻城主)

関口親永○、300人 (駿河東部、持船城主)

義元公の馬廻衆 200人くらい?

吉田 氏好○、1人 (軍奉行)

一宮宗是×、 ??? (持舟城主の父?)←<持舟城って、関口親永>

江尻親良×、 1人 (義元の旗本)

斎藤利澄×? 1人 (義元の旗本?)

<義元公の周辺を守る側近衆> 12002000

長谷川元長×、300人 (駿河西部、小川城主)

由比正信×、300人 (駿河西部、徳一色城主)

富永氏繁×、300人 (遠江東部、相良城主)

飯尾乗連×、300人 (遠江中部、曳馬城主)

岡部長定○、100人 (???)

藤枝氏秋×、100人 (前備侍大将)

(他にも名が残っていない者がいると思われる。者を入れて2000人かも)

<本隊先発隊> 1000

遠江衆:瀬名氏俊○、300人(駿河、瀬名館)

三河衆:本多忠高?、700人(忠高は存命していないので本多家の誰か)

<先鋒隊> 2000

遠江衆:井伊直盛×、1000人 (遠江国人、井伊谷城主)

三河衆:松平元康○、1000人 (安祥松平家六代当主)

石川家成、酒井忠次(元康の家臣)

<中堅隊> 4000

遠江衆:松井宗信×、1000人 (遠江国人、二俣城主)

朝比奈泰朝○、1000人 (遠江、掛川城主)

三河衆: 松平政忠×、1000人 (長沢松平家第7代当主)

本多忠勝、○、1000人 (尾張知多、横根地頭)

本多忠真○、(忠勝の目付役)

<鳴海城> 500

城主:岡部元信○、100人(鳴海城の城番)

尾張知多衆:山口教継?△、 500人?

<大高城> 500

城主:鵜殿長照○、500人 (大高城の城番、三河東部、上ノ郷城主)

<沓掛城> 1500

城主:浅井政敏○、1500人 (沓掛城の城番)

(近藤景春△、500人?(沓掛城支城の高圃城城主、元沓掛城主))

<鳴海城周辺> 1000

三浦義就×、3001000人?(元星崎城〔笠寺砦〕の守将、駿河東部の支配地を持つ)

<清洲方面展開> 1000

駿河衆:葛山氏元○、1000人 (駿河東郡、葛山城城主)

葛山信貞○

義元本隊   2000

本隊側近衆  2000

本隊先発隊  1000

先鋒隊    2000

中堅隊    4000

知多既存兵力4500

・鳴海城   500

・大高城   500

・沓掛城  1500

・鳴海周辺 1000

・清洲展開 1000

今川軍延べ 15500

各国人や豪族を束ねている武将は、約1000人と考え、城主は最低でも1万石以上と推測し、平均すれば300人程度を引き連れて参戦できます。名前が上がっている主な武将や城主にこれを当てると以上の兵力となります。

その他に岡崎城、数千人、知立数千人、横根城500人、今岡城500人、重原城1,000人、池鯉鮒上500人、安城500人等々である。特に水野氏が裏切る可能性が高いので知立付近の兵を待機させるのは必定である。また、三河や遠江の豪族が反旗を翻す可能性を考慮すれば、駿河の氏真に余力を残しており、掛川城や岡崎城に待機させて置くのも普通である。それらの数に加えると二万を超える。

<桶狭間 死者>

死者は、今川軍2500人、織田軍830 ほどで、要した時間は2時間という

(注1).『治世元記』、『朝野舊聞ほう藁』には、桶狭間に向かう先発隊は、大将を井伊直盛,松平元康に五月十日に駿府を出発とある。実際、松平元康の兵は三河にあり、駿河出発する時は、関口氏あるいは瀬名氏から借りた兵100人程度であったと思われる。

(注2).駿河三浦治郎左衛門範高、今川仮名目録のそのなかに「一、三浦次郎左衛門尉、朝比奈又太郎、出仕の座敷さだまるうえは、自余の面々は、あながちに事を定むるに及ばず。見合てよきように、相計らはるべきなり」とあり、三浦氏は朝比奈氏とともに、今川家の筆頭第一に挙げられている。三浦範高の子に三浦氏員、氏員の子に正勝(長男)、貞勝(次男)、氏満(三男)がいる。長男正勝は後に家康に仕え、その子を正次・直信としている。次子貞勝は上野介を称し、氏員ともされ、氏員は横山城主で「今川分限帳」に一万六千石とある。のち武田氏に属した。三子の氏俊は次郎左衛門を称し、剃髪して三休と号した。武田信玄に仕え、その後小田原の北条氏直につかえ、北条氏没落後は浪人となった。その後、家康の旗本となり、寛永七年(1630)八十七歳で没した。氏俊のあとは三男儀持が継いだ。範高の子、正勝(長男)、貞勝(次男)、氏満(三男)が桶狭間に出たかは定かではない。亜流の三浦正俊は今川氏真の後見役として駿府に残っている。

三浦義就は左馬助称し、三の山赤塚合戦のおり、「笠寺へ砦、要塞を構え葛山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎、五人在城なり。」と笠寺の守衛を任された一人である。尾張大府市深谷氏の文献では、三浦治郎左衛門貞時とされている。

義就は尾張攻略の先遣隊の大将であり、5000人の兵を率いて、善照寺と中島砦の目と鼻の先に布陣しました。貞時の資料は非常に少なく、討死したとされますが、家臣が身代わりとなり、本人はむかし助けた領民に匿まわれて髪を剃り、三浦から深谷と姓を変えて土着したそうです。

(注3).水野十郎左衛門信近1000人?の兵力の記録にない。水野信近は基本的に織田と同盟を結び、裏で今川と繋がっていると考えられる。義元や道三から送られた書状が多く残されており、好を通じでいたことは明白である。しかし、永禄2年3月に水野家臣の牛田城、知立城を落されていることから、3月時点まで織田との同盟は決裂していなかったことが伺われる。大高城の水野氏も同族であり、大高城が今川に寝返ったとして、信近の協力を得られることは非常にやり易くなる。大高城を取り囲む正光寺砦、向山砦、氷上砦の内、向山砦は信近が守っていたと思われる。松平元康は信近の裏切りによって易々と大高城に兵糧入れを完了し、丸根砦の攻略にあった。その後の消息は不明であるが、義元の性格からして中島砦の攻撃を命じただろう。しかし、信近は中島砦から雨の中を川沿いに上ってゆく信長を見逃したのではないだろうか。(豪雨の為に気が付かなかったとか惚けて)

(注4).尾張別働隊として服部左京助が武者舟二十艘(二之江の一向宗徒が黒末河口へ漕ぎ寄せたとある)

(注5).知多半島の今川方に長尾岩田氏(半島南部)の寺本花井氏である。知多市八幡町堀之内にある寺本城は、花井播磨守と嫡男勘八郎の城である。別名堀之内城・青鱗城とも呼ばれる。信長が村木攻めの帰りに攻めたが落すことができなかった。(寺本城の北1.2㌔にある花井惣五郎の篭もる薮城は、村木攻めの帰りの信長に敗れる)

(注6)戦闘に参加しない西三河衆もいた。今村彦兵衛勝長、渥美太郎兵衛友勝は大高へ輜重のみである。

(注7).桶狭間で名前が出て来ない東三河衆のは田原の戸田氏、豊川の牧野氏、奥三河の菅沼氏?である。彼らの動向は非常に気になるが、今のところ資料が見当たらない。

(注8).清洲方面遊撃隊の葛山氏元は駿東郡の国衆ですから5000人をかき集めるのは、さすがに無理がありそうです。笠寺観音で布陣し、信長を見過ごしたとも言われています。笠寺周辺を奪われた後に鳴海城などを拠点として奪回戦をやっていたのかもしれません。兵糧を考えると賄える兵数は5002000人当たりが限界でしょう。

(注9).戦における輜重は、近距離の三河などは不要であり、一方、遠江や駿河の部隊には必要になります。義元と周辺守備兵の総数は約2万人とすると、輜重部隊(武具・糧食・燃料など運ぶ部隊)は、兵士に対して1~0.5の割合で必要となります。守備兵まで含めると総勢四万人余と言われている総兵力もあながち嘘とも言えないかもしれません。

(注10. 本多忠勝は松平元康の家臣であり、本来、お側を離れないと考えたいのですが、本多氏の本領は尾張横根郡と粟飯原郡の元地頭であります。この横根郡は116299合の小さな村でありますが、水野氏の勢力地であり、沓掛城の南、桶狭間の東に位置します。そんな危険な場所を放置する訳もなく、義元公なら味方に引き入れ、兵を拠出させていると思われます。元地頭の本多氏は、彼らを引き連れるのに丁度いい人材ではなかったのではないかと考える訳です。

(注11.丸根城は富田左京亮の居城とされるだけで詳細は残っておりません。

<武功夜話>

義元本隊(義元、三浦義就) 五千

丸根砦攻略隊(松平元康) 一千

鷲津砦攻略隊(朝比奈康朝) 二千

鳴海城守備隊(岡部元信) 三千

大高城守備隊(鵜殿長照) 二千

沓掛城守備隊(浅井政敏) 千五百

清洲先遣隊 (葛山信貞) 四千五百

これで合計一万九千である。

(注).兵数の後ろに<?>マークはあるのは未確認の推定数

<帝国陸軍参謀本部編纂による>

本隊:今川義元  兵約5,000

丸根攻撃兵:松平元康  兵約2,500

鷲津攻撃兵:朝比奈泰能 兵約2,500

鳴海城守兵:岡部元信  兵数不明、700~800か

大高城守兵:鵜殿長照  兵数不明

沓掛城守兵:浅井政敏  兵数不明、1,500余か

援兵:三浦備後守正俊 兵約3,000

清洲方面前進兵:葛山信貞  兵約5,000

〔今川方の主力武将の領地〕

松井宗信:遠江(二俣城)

朝比奈泰朝:遠江(掛川城)

井伊直盛:遠江(井伊谷城)

飯尾乗連:遠江(曳馬城)

瀬名氏俊:遠江

松平元康:三河(岡崎城)

鵜殿長照:尾張(大高城、本領は三河上ノ郷)

近藤春景:尾張(沓掛城)

岡部元信:尾張(鳴海城)

●織田VS今川の兵力

様々の兵数が歴史的記録から残っており、また参照されてきました。しかし、未だに確定に至っておりません。桶狭間の動員された兵力はいったいどれくらいだったのでしょうか?

・『信長公記』織田二千不足、今川四万五千

・小瀬甫庵の『信長記』織田三千、今川数万騎

・『甲陽軍鑑』二万余、

・『武功夜話』三万有余、

・『道家祖看記』織田二千あまり、今川六万余

・『享禄以来年代記』織田七百余、今川二万余

・『徳川実紀』『武徳編年集成』『総見記』四万余、

・『改正三河後風土記』四万五千、

・『絵本太閤記』五万余

・『三河物語』三千

・『定光寺年代記』今川一万人被打(討死数)

・『足利季世記』今川一万余

・『家忠日記増補追加』織田三千余、今川四万余

・帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』二万五千

・『国高見る兵力』

駿河遠江三河約70万石 一万七千五百

駿河 15万石  3750人

遠江 26万石  6500人

三河 29万石  7250人

尾張 57万石  一万四千二百五十

(注). 旧参謀本部の『桶狭間役』では、1万石あたり250人:『明智光秀家中軍法』軍役は百石につき六人、戦闘要員〔騎馬5人、槍10人、鉄砲5人+α、合計2030人〕一万石につき200300人(つまり、250人)、豊臣軍の小田原攻め時の動員数は、100石あたり5人の軍役、『日本戦史 関原役』(1911)関ヶ原の兵数として300/万石、江戸幕府が平時に定めた軍役『徳川禁令考』1万石当たり300

●城の規模

広さを一人当たり、半畳分(5平方m程度)とし、単純に計算すると、大高城は3392平方m/5平方mとなり、678人が収容できます。同様に計算すると以下のようになります。

・清洲城 18,069平方m 3600人

城主:織田信長

(末森城 32,000平方m6400人、東西約200メートル、南北約160メートルの平山城、廃城)

・大高城  3,392平方m 678人

城主:記述無し

・鳴海城  8,432平方m 1686人

城主(一人):岡部五郎兵衛

・沓掛城 67,392平方m 13498人

城主:記述無し

・笠寺砦  4,860平方m 972人

城主(五人):岡部五郎兵衛、かつら山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助

・善照寺砦 2,160平方m 432人

城主(二人):佐久間右衛門、佐久間左京介

・丹下砦  6,552平方m 1310人

城主(六人):水野帯刀、山口ゑびの丞、柘植玄蕃頭、真木与十郎、真木宗十郎、伴十左衛門尉

・中島砦 13,195平方m 2639人 

城主(一人):梶川平左衛門

・丸根砦  1,008平方m 202人

城主(一人):佐久間大学

・鷲津砦  675平方m 135人

城主(三人):織田玄蕃、飯尾近江守父子

・星崎城  3,536平方m 707人

城主:記述無し

●周辺の山等々の標高

桶狭間山標高65m 

高根山 標高54m

幕山 標高51m

愛宕西 標高47m

生山 標高40m丘陵地

武路山 標高30m

大形山 標高44.4m

漆山 標高20m程度

諏訪山 標高21m程度

桶狭間地区 標高30m

太子 標高39m

太子ケ根 標高51m

文根山(若草山) 標高40m 〔大高緑地公園〕

善照寺砦 標高25.4

中島砦 標高5

鳴海城 標高20m

釜ケ谷 標高5.4m

<その3>

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

01

〔歴史館はこちらへ〕

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 


今川義元討死の事 狭間の戦い その3 


今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

24.今川義元討死の事 桶狭間の戦い

今川義元討死の事

天文廿一年壬子五月十七日

一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの問、帰宅侯へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし侯。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし侯て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ侯へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。

天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。

今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。

信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深困の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き侯て、声々に申され侯へども、ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。中島より叉、御人数出だされ侯。今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども、爰にての御諚は、各よく貼承り侯へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。

懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、

前田又左衛門 毛利十郎 毛利河内 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介安食弥太郎 魚住隼人

右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。

沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。

天文廿一年壬子五月十九日

旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第貼に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き貼、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。

一、山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守、累年御日に懸けられ、鳴海在城不慮に御遷化侯へば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節なし、居城鳴海へ引き入れ、智多郡御手に属し、其の上、愛智郡へ推し入り、笠寺と云ふ所に要害を構へ、岡部五郎兵衛・かつら山・浅井小四郎・飯尾豊前・三浦左馬助在城。鳴海には子息九郎二郎を入れ置き、笠寺の並び中村の郷取出に構へ、山口左馬助居陣なり。此の如く重々忠節申すのところに、駿河へ左馬助、九郎二郎両人召し寄せられ、御褒美は聊もこれなく、無下貼と生害させられ侯。世は澆季に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず、今川義元、山口左馬助が在所へきなり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、それも御用にたたず、千が一の信長纔二千に及ぶ人数に扣き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅猿敷仕合せ、因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく侯ひしなり。山田新右衛門と云ふ者、本国駿河の者なり。義元別して御日に懸けられ侯。討死の由承り侯て、馬を乗り帰し、討死。寔命は義に依つて軽しと云ふ事、此の節なり二股の城主松井五八郎・松井一門一党弐百人、枕を並べて討死なり。爰にて歴々其の数、討死侯なり。

爰に河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして、武者舟干艘計り、海上は蛛の子をちらすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ侯へども、別の働きなく、乗り帰し、もどりざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町ロヘ火を懸け侯はんと仕り侯を、町人どもよせ付けて、焜と懸け

出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り侯ひき。

上総介信長は御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、御急ぎなさるゝ程に、日の内に清洲へ御出であつて、翌日頸御実検侯ひしなり。頸数三千余あり。然るところ、義元のさゝれたる鞭、ゆかけ持ちたる同朋下方九郎左衛門と申す者生捕に仕り、進上侯。近比名誉仕りし由にて、御褒美、御機嫌斜ならず。義元前後の始末申し上げ、頸ども一々誰々と見知り申し、名字を書き付けさせられ、彼の同朋には、のし付の大刀わきざし下され、其の上、十人の僧衆を御仕立にて、義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ侯なり。清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り侯海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為めにとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き侯らひし。今度分捕に、義元不断さゝれたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、何ケ度もきらせられ、信長不断さゝせられ侯なり。御手柄申

す計りもなき次第なり。

さて、鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠り侯。降参申し侯間、一命助け遣はされ、大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・原、鴫原の城、五ケ所同事退散なり。

〔現代訳〕

二十四、今川義元討死の事

 

永禄三年(1560)壬子五月十七日

 一、今川義元沓掛へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、助勢なき様に、十九日朝潮の満干を考え、沓掛砦を落とすべきの旨必定と相聞こえ候の由、十八日夕日に及んで佐久間大学、織田玄蕃方より御注進申し上げ候所、その夜の御話、戦の手立てはゆめゆめこれなく、色々世間の御雑談までにて、既に夜が更けるに及び「帰宅候え」と御暇下さる。家老の衆申すさまは「運の末には知恵の鏡も曇るとはこの事なり」と、各々嘲弄候て帰られ候。案の定夜明け方に、佐久間大学、織田玄蕃方より『早くも鷲津山、丸根山へ人数懸り来たり候』由、追々御注進これあり。この時、信長敦盛の舞を遊ばし候。「人間五十年、下天の内を暮らぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と候て、「法螺貝吹け、具足よこせよ」と仰せられ、御具足召され、立ちながら御飯を参り、御兜を召し候て御出陣なさる。その時の御供には御小姓衆、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、これら主従六騎、熱田まで三里(9km)一気に駆けさせられ、辰刻(午前8)に源大夫御前神社の前より東を御覧じ候えば、鷲津、丸根落去と思しくて、煙上り候。この時馬上六騎、雑兵二百ばかりなり。浜てより御出で候えば、程近く候えども潮満ち入り、御馬の通い難く、熱田より上道を、もみこんで駆けさせられ、先丹下の御砦へ御出で候て、それより善照寺佐久間居陣の砦へ御出でありて、御人数立てられ、勢揃いさせられ、容態御覧じ、