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歴史

経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》 序章

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〔歴史館はこちらへ〕

【序章】

私が『応仁の乱』を学ぶきっかけは『信長公記の軌跡』の背景を調べる為でありました。

織田家は如何にして大名となり得たのか?

その為には、主家である斯波家、ライバルである今川家、将軍である足利家を調べずに通れなかったのであります。

今川の祖である今川範国(いまがわ のりくに)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名であり、駿河今川氏の初代当主となります。2代目当主を継いだのは、長男の貞臣ではなく、九州探題などに任免された次男の今川貞世(いまがわ さだよ)だと思われます。しかし、貞世は何の落ち度もなく、九州探題の地位を奪われ、遠江と駿河の半国守護に命じられます。実は室町三代将軍足利義満、出家して道義(どうぎ)と名乗っていた院に、あらぬことを吹き込んで貞世を失脚されたのは、博多の利権を狙っていた大内義弘なのですが、貞世は将軍に不信を覚えます。

そして、九州探題に指名されたのが渋川満頼(しぶかわ みつより)という斯波義将の血縁関係者でした。ここからすでに今川と斯波の因縁は始まります。

文献では、貞世の兄である範氏が駿河守護であり、範氏が亡くなった後に貞臣に駿河守護になるように言われたが頑なに拒絶し、貞世の子である貞臣が遠江半国守護、範氏の子である氏家が継ぎ、氏家が亡くなると弟である泰範が駿河今川第3代当主になったと残されています。

当時、長子が家督を継ぐという風習はあまりなく、今川貞世が今川2代目当主であり、お家騒動が起こらないように二つに別けたと考えられます。 

文献によっては、泰範が貞世と大内氏と繋がっていると風潮し、自らが今川家の家督を奪ったという解釈もありますが、貞世と泰範が激しく争った様子もなく、ただの世間の風聞と思われ、実際に貞世と応永の乱を起こした大内義弘は盟友関係で反乱の誘いを断っております。しかし、敵対するのは憚れるので甥の泰範が幕府軍に参戦しており、幕府も忠誠を誓う泰範に家督を継がせる方が安心できるという理由で泰範が家督を継がせただけでしょう。

 

織田の主家である斯波氏(武衛家)の6代当主となった斯波義重(しば よししげ)は、応永の乱では父と共に幕府方として参戦し、負傷しながらも大内氏討伐の武功を挙げて、尾張守護職を与えられます。斯波家に仕えていた越前織田氏も義重の命で尾張に降り、尾張織田氏が始まります。

斯波義重は室町幕府管領、越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護を歴任しており、応仁の乱以後の混乱に今川が遠江の勢力を伸ばすと、遠江を浸食された斯波氏が今川氏と対立するという構図が完成したのであります。

 

東海から見る『応仁の乱とその後』を見るなら

信長公記の軌跡 目次 

番外13501572年番外編 信長公記の軌跡背景をご覧下さい。

 

もう一度整理しようと思ったきっかけは、中公新書の呉座 勇一著『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 』が20万部も売れているというニュースからです。一体どんな書物かと手を取ると切り口が斬新でありましたが、そうじゃないだろうと思いたい部分が沢山ありました。興福寺と朝廷の関係はおもしろく描かれておりますが、それだけが全国に戦乱が波及し、戦国時代へと落ちる訳もありません。世の中というは経済で回っており、畿内も地方も経済の論理から外れることはできないのであります。経済が行き詰まっていたからこそ、畿内で起こった戦乱が地方に波及し、『応仁の乱』となったのであります。そこで経済から見た「応仁の乱」というバラバラのピースを1つにしてみようと思った訳です。

 

すべての始まりは揺れ動く幕府の混乱が地方に波及し、それが全国で広がったのが『応仁の乱』の本質であります。それは行き詰まった経済体制が崩壊し、新しい規律が生まれる過程における動乱でありました。

応仁の乱の体制がはじまったのが聖徳太子の時代であり、各豪族が大王を中心とした国家造りをする上で、豪族の持つ土地を大王に差し出すことからはじまります。

大豪族であった蘇我馬子が大王に土地を返上し、その代わりに官位を頂き、土地の管理を命じられる。こうして、大王と豪族が主従の関係を作ることで律令制がはじまります。

それに抵抗したのが、蘇我入鹿を殺した地方の豪族達であります。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足なども加わっていましたが、あくまで遂行者の一人でありました。しかし、官僚制を否定する時代は中大兄皇子を頂点まで昇らせます。

こうして、中大兄皇子は律令制を廃止し、百済復興派と豪族が並び立つ共和制に戻したのでありますが、『白村江の戦い』に敗北すると、唐・新羅連合軍との決戦を覚悟して、中央集権の律令制を推し進める必要から大きく政治転換を図ります。

すると、地方の豪族の反発は大海人皇子を擁立する力となり、今度は壬申の乱によって大海人皇子は天武天皇となりました。しかし、地方の豪族の意に反して巨大な権力を持った天武天皇は律令国家の法体系が完成させてしまうのであります。朝廷は仏教を国教として、国分寺を地方に配置することで中央集権を強め、そして、地方の豪族をすべて臣下としてゆきます。そして、奈良時代に律令国家は完成しました。

ところが、中央集権の完成は同時に藤原氏という官僚政治のはじまりとなってしまったのであります。それは天皇と藤原氏との権力争いのはじまりを意味していました。藤原氏にとって不利益なことは天皇であっても覆せない。そんな現実を打開する為に天皇は寺院の僧侶に力を授け、天皇は官僚と寺院という2つの勢力に足を乗せて、2つを意のままに操ろうとしたのであります。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地を管理する者:公家・武家(執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

という3つの主従関係で結ばれたのであります。

調停人というのは、現代における立法(国会)と司法(最高裁判所)を兼ねた者です。そして、それを実行するのが官位を持った藤原氏などの公家たちであります。国司に任命された者は現地に赴き、土豪を管理することが要求されます。『枕草子』の著者である清少納言が、父・清原元輔の周防守赴任に際し同行したという話は聞いたことがあるでしょうか。藤原氏などの大公家になると、息子や兄弟、あるいは縁者を代理人として派遣することもありました。

現代ならば、土地の権利を認める権利書が存在し、諸事情を考慮した契約が結ばれる訳ですが、平安時代に権利などという言葉は存在せず、すべてを武力によって統治しておりました。派遣された国司に従わなければ、軍が派遣されて武力で制圧されます。

この武力は経済力に比例し、石高の大きさが軍を派遣できる兵の数になります。理屈から言えば、大領主である天皇に逆らう者はいなかったことになります。しかし、律令制が完成するに従って、実務を執り行う藤原氏に逆らう者がいなくなり、天皇といえども、藤原氏の意向を無視できなくなった訳です。

喩えるなら、「虎の威を借る狐」ということわざがありますが、キツネの言うことを聞いている内に、キツネの方が偉く思えて、誰もトラの言うことを聞かなくなったということです。そこでトラはクマを呼んで来て、権威を与えて味方を増やしたのであります。

 

しかし、律令制の完成が近づくと、すべての土地が天皇の物となります。民は搾取されるだけの存在となり、単に農作業に従事するという農作業は生産意欲の活力を削がれます。時に襲う飢饉や干ばつで作物の収穫が減ると民は罰されることを恐れて土地を手放して流民となりました。すると農民が激減し、生産石高も減り、朝廷の財政を圧迫しました。そこで新たに開拓した土地を開拓者の物とする『荘園制度』が始まります。公家・寺院はこぞって荘園を開拓しはじめてゆきます。こうして、中央集権の律令国家は完成した奈良時代から律令制が壊れ初めていったのであります。

荘園は天皇から赦された自分の土地でありますが、天皇から赦しを貰えるのは、公家か、寺院という縛りがありました。各地の豪族は公家や寺院と繋がりを深くし、公家・寺院の荘園が増えてゆきます。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

★土地の所有者:大公家、寺院(領主)

土地を管理する者:公家・武家(執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

一直線であった主従関係と別の領主が誕生した訳です。

すると、土地の持ち主の違う領主の間で争いが起こり、天皇は調停人、つまり、裁判官としての役割の比重が大きくなります。つまり、裁判を有利に進める為に天皇により近い官位を得ようと争いはじめるのであります。

飛躍的に勢力を伸ばすことになったのが寺院でありました。律令制がはじまると、土地を捨てた民は罪人として扱われます。ところが僧侶になると、その罪から免除されるのであります。もちろん、法的には違法なのですが、実際にほとんど取り締まれることがなかったのであります。

理由はいくつか考えられます。

最大の理由は数が多過ぎたことでしょう。

次に荘園の開拓者に『沙弥某(しゃみぼう)』(資格を得ていない出家者)、つまり、乞食坊主の名が多く残されていることです。荘園を勝手に開拓し、どこかの寺に申し出て許可を貰うと寺院は荘園を手に入れ、沙弥某は管理する権利を手にします。

たとえ、沙弥某が土地を捨てて逃げてきた罪人としても、寺の保護を受けた者を取り締まることは、寺と揉めることになり、役人も安易に手出しできないのでありました。

奈良時代、干ばつや飢饉で量に流民が大流れ込んできた都では、沙弥某によって荘園が多く開拓され、寺院は瞬く間に大領主となり、多くの僧兵を養える一大勢力へと成長したのでありました。

そういった寺院の勢力拡大を背景に道鏡(どうきょう)を皇位に付けようという称徳天皇(しょうとくてんのう)の画策も起こるのであります。道教の神託を伝えた宇佐神宮は平安時代において神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であったとされています。

俗に、桓武天皇は肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、ほとんど未開の山城国への遷都を行ったと言われますが、

称徳天皇(天武朝)

天皇・寺院 VS 藤原氏

光仁・桓武天皇(天智朝)

寺院 VS天皇・藤原氏

このように称徳天皇の死去によって、対立構造が逆転したのであります。そもそも井上内親王皇后の呪詛による大逆や他戸親王の廃嫡など、藤原氏と山部親王(後の桓武天皇)の陰謀であったと言われております。

奈良時代から平安時代を通して、怨念というのは天変地異を起こすと考えられており、天候の不順、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデター未遂、光仁天皇が不豫(病)、山部親王自身も大病を患ったとされております。即位した桓武天皇はわずか3年で長岡京に遷都を行い、逃げるように奈良から出たのであります。

ここで重要となるのは、奈良で絶大な権力を手に入れていた寺院でありますが、地方では大した勢力になっていなかったことです。天皇から派遣されている国司と国分寺の僧侶は表裏一体、コインの裏表であり、公家の原点である地方の氏族、土豪と呼ばれる有力者を統治するには互いに必要な存在でありました。

つまり、畿内ほど統治が盤石ではなかったのであります。特に東北はまだ従っていない部族が抵抗を続け、内輪揉めをしている余裕などありません。奈良の僧侶が決起して天皇の討伐を行っても、地方の豪族がどれほど賛同するかは判らなかったのです。

こうして、金科玉条を失った奈良の僧侶たちは藤原氏の菩提寺である興福寺と和議をしたのでありました。

ところで、この興福寺は平城京の東に位置し、背後に春日大社を配した1つの城のような構造となっておりましたが、天皇が東大寺の大仏鋳造という名目で興福寺の横に建てられました。これは藤原氏にとって痛恨の打撃でした。城壁の中に敵の本陣が突如として現れたようなものであり、藤原氏が遷都を急いだ理由の1つともされています。

平安京に遷った朝廷は、僧侶の勢力を分断する為に比叡山の最澄、高野山の空海を重用しました。朝廷を中心に怨霊を鎮める御霊信仰が広まったのもこの時期であります。平安時代を通じて、比叡山は大陸との交易、祠堂銭(お布施)などで富を稼ぎ、その富を土倉(どそう)や酒屋の前身である貸金業などで富を増やしていきます。

土倉や酒屋というのは、鎌倉時代から始まった金融業のことで寺院(寺・神社)が直接的に金(米や反物も代替通貨)を貸し出し、回収する仕事を商いとしたものであります。しかし、実際の回収は神人や僧侶が赴くことから、土倉や酒屋は名前だけの寺院(寺・神社)が運営する別会社のようなものでした。

因みに酒というのは、室町時代まで僧侶の専売品であり、甕の中に米を沈めてかき回した作る濁り酒、白酒のことを言います。現在、この工法で作っているのが、西條合資会社(大阪府河内長野市長野町十二番十八号)の天野酒であり、「太閤秀吉に愛された酒、僧坊酒」として発売されています。

また、土倉の金利は月8%と言われ、年換算で貸し付けの2倍になります。しかし、米は1粒が100粒くらいになって実りますから、倍返しでも採算がのった訳であり、作付米を貸してくれる寺院(寺・神社)はありがたがられていた訳であります。

そして、平安時代も末期になってくると、貨幣の申し子である『平清盛』が登場します。平安時代は総じて平安な世の中でありましたが、宮廷での権力争いは壮絶を極めました。これらの治安維持を生業とした警備に特化した役職である検非違使(けびいし)が置かれるようになり、これが武家へと変化してゆきます。荘園の拡大と比例するように下級の公家、つまり、武士が増加してゆきます。

その貴種となったのが源氏と平氏でありました。共に朝廷を祖とする家柄であり、経済的な基盤が薄い下級の公家として、武士を束ねる棟梁とされていきます。しかし、権力争いが地方、および、都での武力衝突が激化すると、武士の勢力が瞬く間に大きくなってゆきます。

それでも財政基盤の薄い武士たちは、天皇、上皇、公家衆に雇われる身であることはかわりません。ところが清盛の父、平忠盛(たいらのただもり)が鳥羽院政の御世で、肥前国神埼荘の預所となった当たりから激変します。宋人・周新の船が来航すると院宣と称して、荘園内での大宰府の臨検を排除しようとしたのであります。

そもそも遣唐使の廃止は894年に菅原道真が直言したことがきっかけと言われますが、廃止の令が出された訳ではなく、自然消滅したようです。唐は859年の裘甫の乱をはじめ、各地で反乱などが頻発するようになり、安全とは言い難い状態に突入します。

これにともなって大宰府に設置された公的な日唐交易、鴻臚館(こうろかん)交易は延喜3年(903年)に廃止されます。

ここから鴻臚館貿易は官営から私営に移行されます。その最大のパトロンが比叡山でありました。

960年に趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた宋(北宋)は、979年に中国統一し、五代の争乱を終わらせます。宋は文政国家を目指し、商工業を奨励し、貨幣経済を行き渡らせます。宋が鋳造した宋銭は東アジアの共通通貨として広がってゆきます。

11世紀に入ると宋の経済は益々盛んになり、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館は衰退します。

この宋貿易の巨大な富に目を付けたのが鳥羽上皇であり、平忠盛を使って取締り、巨万の富を手にいれたのであります。平忠盛も越前守に任じられ、日宋貿易から生まれる巨万の富の一部を得ることに成功し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになりました。

その基盤を継いだ清盛は、保元の乱、平治の乱を制して、大宰大弐となります。すると清盛は日本で最初の人工港を博多に築き、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握しました。日宋貿易を独占することに成功した清盛は、貨幣の発行権を一手に持つことになったのです。

現代風に言えば、総理から独立した財務大臣と銀行券を発行できる日銀総裁を兼務したようなものです。日本の富みの半分を清盛が牛耳ったと言っても過言ではなかったのであります。これによって、支配体制も新しいステージに変わります。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地の所有者:大公家、寺院(領主)

★土地を管理する者:公家・武家(領主、執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

武士も荘園を持つ領主となり、しかも平氏においては貨幣の発行権を持つ大財閥になった訳です。

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こうなると、領地を所有していても武力を有しない天皇や公家の立場は一気に弱体化します。しかし、平氏の基盤も盤石ではありませんでした。日本の通貨を日宋貿易に頼る為に、常に宋銭が足りないというデフレ基調が続きます。

デフレとは、通貨の価値が上がり、物の価値が下がります。十分な通貨が流通する西国では、通貨を介して物の売買がなされるので大きな支障は起こりません。強いて言うなら富める者がより富み、貧しき者はさらに貧しくなる。しかし、当時の生活様式から農民はほとんどが自給自足でありましたから、通貨の流通によって支障をきたす者はわずかでした。

しかし、様々な物を必要とする公家や武家、土豪の者は違います。特に東国には宋銭が圧倒的に不足していました。米や反物を代替通貨としていた東国の武士たちは、宋銭の価値が上がるほど、米や反物の価値が下がり、必要な物が買えないという状況に陥っていたのであります。

たとえば、紅や塩を買おうとしても、米や反物の価値が下がり、去年の半分しか買えなくなったとすれば、どう思いますか?

東国の人々は何も悪いことをしている訳ではないのですが、必要な物資を買うだけでドンドンと貧しくなってゆくのであります。

近年、30年以上も続いたデフレは、中間層という小銭持ちに直撃し、収拾も下がり続け、100円均一を買いあさる下流層へ転落しています。これは中間層が働くなくなったのではなく、貨幣の価値が上がり、給与が下がり、相対的に高い物は買えなくなった結果であります。デフレというのは、生綿で首を絞めるように、じわじわと生活に襲い掛かるのであります。

こうした生活が苦境に立たされてゆく東国武士の怒りが、平氏打倒という力となった訳であり、治承5年(1181年)に起きた『養和の大飢饉』により米の値段が高騰し、宋銭の価値が急激に下落したのであります。鴨長明の『方丈記』には、「さまざまの財物を食糧と交換しようとするが、誰も目にとめようとしない。たまたま交換する者がいても、金銭の価値を軽くみて、穀物の価値を重んじる」と書かれているように、平氏の持っている財貨は、石ころに成り下がってしまったのであります。

そんな弱り目の時期に清盛が亡くなり、源氏が立ち上がったのであります。持前の財貨で兵を集めようにも集まらない。平氏は成す術もなく敗れ、貨幣の申し子であった平清盛がその貨幣によって高転びしたのであります。

平家物語に出てくる「平家にあらずば、人にあらず」などという傍若無人な専横政治で人々を苦しめたということあらず、祇園精舎のフレーズも的外れなのであります。

もし、平清盛が需要を満たす十分な宋銭を供給できていたなら、源氏を担いで東国武士が立ち上がることもなかったでしょう。尤も偏西風を利用した年に1周しかできない日宋交易の船舶を簡単に増やすことはできないので宋銭を基軸通貨とする限り、デフレから脱却するのは不可能あり、大抵、デフレを放置した国家は国力を失い、民衆の離反から国を滅ぼしております。

この日宋交易で比叡山の延暦寺は、鳥羽上皇・平氏に掠め取られることになるのですが、その間隙を縫って、登場したのが禅僧の明菴栄西(みんなんえいさい)であります。栄西は建久2年(1191)に虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受けると、同年、帰国し、福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前、肥後を中心に布教に努めます。しかし、建久5年(1194)に天台宗からの排斥を受け、朝廷から禅宗停止が宣下されました。京に赴き、禅宗の正しさを解いて布教を許可されますが、単に新興宗教という理由で天台宗が目の仇にするでしょうか。

栄西は建久6年(1195)博多に聖福寺を建立し、鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜っております。つまり、鳥羽天皇から布教して良しという『許状』を貰ったようなものです。開業したばかりの一介の貧乏寺にそんな財力があったのでしょうか。

否、財貨を投資するパトロンがいたのです。

栄西のパトロンは、博多に拠点を置く宋や朝鮮の商人達でした。つまり、臨済宗の嗣法の印可を受けた高名な僧である栄西に先行投資し、日宋交易の便宜を図って貰うのが目的でした。強力なライバルの登場に天台宗が躍起になって排斥しようとするのも頷けます。

正治2年(1200)に栄西は北条政子建立の寿福寺の住職に招聘されたことから、日宋交易の窓口として選ばれたことが判ります。

日宋交易で生まれる巨万の富を供給する臨済宗は鎌倉幕府にとって重要なファクターとなり、鎌倉5山と呼ばれる建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の臨済宗の禅寺は北条氏の加護により勢力を伸ばすことに成功したのであります。

つまり、

鎌倉幕府は臨済宗と繋がることで日宋交易の巨万の富みを得ることに成功し、

臨済宗は鎌倉幕府の保護を得ることで勢力を伸ばし、

宋・朝鮮の商人は鎌倉幕府の許可を得て商売ができ、臨済宗の口利きで売り手が見つかる。

正に『WIN―WIN』(ウィン、ウィン)の関係が生まれたのであります。同じ新興宗教である法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗が時の幕府から厳しい沙汰が下されたのに対して、栄西の臨済宗は比叡山の天台宗からの弾圧はあっても、幕府から保護を受けていた点で大きく違うのであります。

また、室町幕府の3代将軍の足利義満が相国寺を創建した後に五山を京都五山としたことでも判るように臨済宗は、鎌倉幕府と同様に日明交易によって幕府に莫大な富を齎し、幕府からの保護を受けることに成功しているのであります。

さて、『応仁の乱』の主役は、天皇や大名のような刻の権力者のように思えますが、その兆しはまったくそんな所とは関係ない鎌倉初期から芽生えだします。

平清盛が生み出した貨幣経済は、様々な職業の分業を可能としました。

米・麦・粟・大豆を作る農民、

漆・カキ・炭・薪・織物などを作る商工業

土台・屋敷・納屋・水車などを作る左官、右官と呼ばれる大工

鉄など精製する鍛冶等々

もちろん、貨幣経済が進む以前から分業されていましたが、共同体の中での分業であり、その職業を生業として単独で生きてゆくことはできなかったのです。しかし、貨幣経済が進んでくると、鍛冶屋ならその農機具を宋銭に変えて貰うと、必要な物は市に言えば、すべて手に入るようになります。作業で必要な工具や生活の米や貴重な塩なども手に入れることが簡単になるのです。また、銭は場所を取らず、保管もできます。米や反物のように質によって価格が変わることもありません。鍛冶屋だけが沢山集まって、米を作らない鍛冶屋しかいない村なども生まれてくるのであります。

さて、幕府から厳しい沙汰を受けた法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗は、元々は皆、比叡山で学ぶ天台宗の僧でありました。その比叡山の天台宗は、土倉や酒屋を通じて祠堂銭を貸し出して、利鞘を稼ぐことを生業としておりました。

天候のよい年は、収穫から利子分を返しても十分に残りました。しかし、天候不順になると収穫が落ちて、年貢を払い、利子分を返すと何も残りません。そして、飢饉や干ばつが襲うと、利子分を返すことが出来ずに抵当となっている土地を奪われてしまいます。その奪った土地が比叡山の天台宗の新たな荘園となり、6万石程度まで膨らみます。それは国司(守護)と同等の力を持つようになったのであります。

そこで少し知恵のある僧侶でいれば、農民同士がお互いの不足分を補えば、利子を払わずに自分たちの利益になると教えはじめたのであります。

それが法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗でありました。浄土宗、浄土真宗の寺は、利子も取らずに金や米を無償で貸し与えてくれます。

あるとき払いの催促なし

そんな虫のいい話があるのでしょうか?

ホントにあったのであります。もちろん、それは布教活動の一環であり、農民の投資をして、お布施として回収するというビジネスモデルなのです。

天台宗のビジネスモデルは、天候が順調なら普通に儲け、洪水や飢饉で民が困ると、抵当の土地を回収して儲けます。

これに対して、

浄土宗、浄土真宗のビジネスモデルは、天候が良ければ、多くのお布施を要求して沢山回収し、天候が不順のときは回収しない。むしろ、吐き出して民衆を助けます。

どちらが民衆受けするのかは一目瞭然でした。

つまり、放置すれば、顧客がどんどんと浄土宗、浄土真宗に流れていってしまいます。天台宗の僧侶が、浄土宗、浄土真宗を目の仇にして弾劾するのにも理由はあるのです。

しかし、よく考えてみて下さい。

法然や親鸞がどんな巧いビジネス話を民にしても、民が一粒の米もお布施として奉納できないほど貧しければ、法然や親鸞も食べてゆけません。

平安~鎌倉~室町と民の生活はゆっくりと豊かになっていたのです。

歴史の教科書を見ると、農民の暮らしは少し楽にならず、戦乱と天候不順の洪水や干ばつで苦しめられ、飢えて死ぬ直前の悲惨な農民像しか浮かび上がりません。

しかし、平安~鎌倉~室町と農民の暮らしは楽になっており、農民の中には僧侶のパトロンになれるくらいの上農民が生まれてきていたのであります。鎌倉時代に始まった分業化は『惣』と呼ばれる自治的・地縁的結合による共同組織に発展してゆきます。

中世風に言えば、『ギルド』と呼ばれる組合が生まれてきていたのであります。この『惣』は、横の繋がりを持ち、領地内、あるいは、地域全体を結びます。この『惣』と新興宗教が結びつくと、時代が進むにつれ爆発的な力が発生させてゆきました。

それゆえに法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗を天台宗が天敵として弾圧するのも頷けるのであります。

因みに日蓮宗も浄土宗・浄土真宗とビジネスモデルは同じでありますが、1番大きな違いはパトロンを武家に求めたところであります。法然や親鸞が国体というものを意識しなかったのに対して、日蓮はこの国をどうするかと憂いておりました。

日蓮は天台宗、真言宗が独自繁栄のみに固執する宗教であり、この国の行く末を考えていないと考え、日蓮宗を国教とすることで、この国を救おうという野心的な宗教家でありました。日蓮が没した後は、それぞれのパトロンとなる武家を擁護し、宗派内で対立が絶えないというジレンマを抱えることになってしまったのです。

武家の権力争いが宗派内の対立になるのは、喜劇としか言いようがありません。

 

様々な権力争い、宗教間対立と、大陸からの侵略など、国難は何度も襲ってきましたが、それでも奈良時代・平安時代・鎌倉時代と温暖期が続き、米の生産量が自然拡大するという恵まれた時期でありました。

ところが、室町時代の1400年前後からミニ小氷期に入り、天候不順が続くようになると、それまでに溜まった理不尽が一気に吐き出してきます。

貨幣経済によって産み落とされた『惣』という金づるを誰が支配するのかというジレンマも限界に達したのでありました。

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地の所有者:大公家、寺院(領主)

土地を管理する者:公家・武家(領主、執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

どこにも所属していない↓

★惣という名の共同組合:大衆(領主ではないが銭を持っている者)

どこにも属さない金を生み出す集団、その処遇を巡って、権力争いの火種が全国に広がっており、その発火点を将軍家が自ら付けてしまった。

惣のやっかいな所は銭を持っていることであり、水の利権を争うのとは意味が違う。惣を手に入れた者は経済的に豊かになる。

典型的な例が、

織田信長であり、津島と熱田を手に入れたことで50万石並の権力を手に入れます。

信長の先駆者としては、堺を持っていた細川、博多を持っていた大内などが、石高以上に権力を持ち、応仁の乱の主役を張ります。

しかし、応仁の乱を単なる権力争いとしか見ていなかった彼らは、カオス的に権力が分散し、社会秩序を維持できなくなった奈良時代から続く律令制度の限界と気づくことなく、最後までその本質に手を付けることはありませんでした。

結局、信長の登場を待つしかなかったのであります。

 

応仁の乱とは、地面の中でくすぶっていた欲望が芽をはやすて可視化されたという意味で時代の転換期を表わします。しかし、これを理解しようと思っても中々手間が掛かります。戦いを始めた細川勝元と山名宗全も、争いのキッカケを作った畠山氏と斯波氏も、神輿に担ぐ将軍も互いに思惑は違うのであります。

そもそも西軍の指揮官の山名宗全が義政と富子の子である義尚、東軍の指揮官の細川勝元が義政の弟の義視を擁立しよとしてはじまった戦いですが、東軍の義視の子の足利義稙(義材)が義政の養子に入るとなって西軍に寝返って終決します。大将が寝返るって、何の為に戦ったのか判りません。

しかし、西軍の山名宗全が9代将軍候補に擁立した義尚が勝ったハズが山名家自体は衰退し、東軍の足利幕府に3つあった管領家のうち斯波・畠山両家は衰退し、細川氏が管領職を独占しました。

西軍である足利義尚の勝ち?

それとも東軍の細川氏の勝ちでしょうか?

援軍に来た武将も途中で寝返り、寝返ってきた武将が嫌いだからと言って、逆に寝返る武将もいます。

大義も名分もあったものではありません。

つまり、『応仁の乱』は、様々の欲が露わになった事例なのです。

ゆえに、応仁の乱の本質を知る為には、様々の方面からスポットライトを当てて、それぞれの『応仁の乱』を知らなければ、応仁の乱を知ったとは言えないのであります。

 

では、経済という1つの定義で『応仁の乱』を様々な視点から見て行こうと思います。

1.尾張から見た応仁の乱

2.今川から見た応仁の乱

3.足利から見た応仁の乱

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

 

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4

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信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■今川義元討死の事

今川義元が尾張に侵攻し、織田信長は清洲で待機していた。後背には斉藤義龍が睨みを利かせ、尾張の西には今川方に組みする服部左京助が虎視眈々と頃合いを見定めていた。尾張上四郡を前年に治めたとは言え、隙あらば離反も考えられる。そんな状況下で、清洲城では軍議もせずに雑談だけを繰り返していた。

5月18日夕方、義元の先発隊が沓掛城に到着したのを聞き付けたのか、翌19日の援軍の出し難い満潮時を狙って砦を落しに掛かると佐久間大学・織田玄蕃が信長に増援の注進したを聞こうしなかった。つまり、死んで来いという下知である。

「あぁ、見事に死んでやる」

などと叫んだかは定かではない。

報告を聞き終えると信長が軍義もすることもないと家老達を帰宅させた。

「家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。案の如く」

遂に気で触れたのかと家老の心配もこれに極まっていた。

その頃、松平元康が大高城に兵糧入れに成功する。

5月19日早朝、午前3時くらいに松平元康隊が丸根砦を攻撃する。伝令はすぐさま信長の元で走った。

同時刻、あるいは少し遅れた頃、朝比奈泰朝隊・(井伊直盛隊)が鷲津砦を攻撃する。

丸根砦  202人

鷲津砦  135人

丸根・鷲津両砦は尾根伝いに兵が行き来できるように作られていましたが、丸根砦が城のような形であるのに対して、鷲津砦は斜面を利用した砦となっており、後背に回られると防御が厳しいようです。

武功夜話では、丸根砦に400人、鷲津砦に600人とありますが、1000人の守備隊が守っていたとすれば、松平・朝比奈隊は3000人の兵で落とすのは、かなり苦労があったことでしょう。6時間程度で陥落させた松平・朝比奈隊は猛者が揃っていたのでしょうか?

丸根砦  1,008平方mですから、そこに400人もの兵がいれば、ごった替えしていたでしょう。増援を願い出ても砦には入り切らない状態だったでしょう。

否、そんなに兵士はいなかったのだと考えられます。

<<丸根・鷲津両砦>>

008

5月19日早朝午前4時、丸根・鷲津両砦より早馬で伝わると、信長は敦盛を舞い、わずか6騎で出陣する。

岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎

7時頃、上知我麻神社に到着した。馬6騎と200人ばかりの雑兵のみであり、丸根・鷲津両砦から黒い煙が上がっていました。上知我麻神社、つまり、源大夫殿の宮は熱田神宮の南の社です。丸根・鷲津両砦が見える海側に行っただけかもしれませんが、信長は本殿ではなく、源大夫殿の宮に到着します。そこで休憩をとった後に、兵が集まっている本殿に向かい、戦勝祈願をして出陣しています。

おそらく、何かあった場合は熱田で集まることが最初から決められていたのでしょう。『信長公記』には、熱田本殿に戻った事は書かれておりません。『熱田神宮文書』には、熱田神宮に参詣をかねて立ちより、そこで将兵の面前に進み出て戦勝祈願の願文を高らかに読み上げた。また、信長は、一つかみの賽銭を取り出し、「表が出ればわがほうの勝利」と叫んで社前に投げた。戦勝を祈願する頃には、千八百ほどの人数にふくれあがっていたとあります。

5月19日午前8時頃、信長一行は熱田神宮で戦勝祈願し、熱田かえ笠寺へ続く街道は満潮時間であるので海岸沿いの下の道は使えないと判断し、土手沿い道で井戸田から山崎を抜けて善照寺へと向かいました。そして、信長は水野帯刀らが守る丹下砦に入ると、佐久間信盛が守る善照寺砦へと移動しました。

5月19日午前10時頃、信長は丹下砦を経て善照寺砦に到着します。ここで信長は善照寺砦を守る佐久間信盛から丸根・鷲津砦が落城し、佐久間盛重、織田秀敏、飯尾親子の討死をはっきりと伝えられます。徳川時代に書かれた『武徳編年集成』などによると、織田方は砦を捨てて討って出てきたとも書かれております。

さて、ここから物語は、様々な展開を見せます。

『信長公記』では、佐々隼人正と千秋四郎が300人余りで義元の本隊に向かっていって討死します。これを義元は喜んだと書かれています。

『松平記』には、「善照寺の城より二手になり」と書かれており、先んじて佐々隼人正と千秋四郎が飛び出したのではなく、ここで信長と分かれたように書かれています。

『信長公記』の天理本には、佐々隼人正、千秋四郎らが今川方に突撃し、敵中に消滅した時、戦見物に来ている群集が帰えるように命じられ、散ってゆく様が残されております。民衆にとって、大戦は物見遊山の醍醐味だったのでしょうか。

蓬左文庫の江戸時代の戦場絵図(橋場日明氏は『桶狭間之図』とする)には、桶狭間の北の谷筋に描かれています。歴史学者の藤本正行氏は、鎌倉街道の「今川魁首此道筋ヲ押」の部隊がいたとすると言っています。江戸時代は奇襲が普通に語られていましたから、それを再現していたと私などは考えます。

『総見記』には、「先手ノ大軍ヲ皆本道(鎌倉街道)ヘ遣リ過シテ、<中略>義元ノ本陣エ一同ニドツト突掛り」という信長の作戦が書かれています。善照寺砦を出ようとした信長には、千秋四郎、佐々隼人正以外にも別働隊がいたのでしょうか。

高根山の有松神社にある案内板には、佐々隼人正、千秋四郎の両名が鳴海道を通って有松神社に布陣していた松井宗信の隊にぶつかり、討死したと描かれています。そして、信長の本隊は、道を戻って鎌倉街道から迂回して、古戦場へ進んだように書かれています。

『武功夜話』によれば、細作飛人など50人もの間者を沓掛城にばら撒いて、蜂須賀小六や前野将右衛門といった川並衆たちが義元の陣中に酒や肴を差し入れいている。

余談ではありますが、その献立は、

勝栗、一斗

酒、十樽

昆布、五十連

米餅、一斗分(糖米にて)

栗餅、一石分

唐芋、十櫃

天干大根 煮〆、五柩分

と具体的に書かれている。酒の樽は、1斗樽、2斗樽、4斗樽とあり、1斗とは18Lです酒枡180100人分です。4斗樽なら400人分が十樽ですから、4000人とほぼ義元本隊の全員に当たる計算になります。

「日曜歴史家」を自称する鈴木眞哉氏は、唐芋(サツマイモ)など江戸時代に入ってから広まった芋であり偽書である証拠と言っておりますが、唐芋を「とうのいも」で引くと、『御湯殿上日記』に文明十五年(1483年)8月4日に「あんせん寺殿よりたうの御いもまいる」と書かれてり、「とうのいも」は「さといも」を差し、古くから日本で栽培されていたことは藤本正行氏の説明から判ります。『武功夜話』の偽書説は多々ありますが、真実と脚色を入り混じっているのが『武功夜話』と考えています。ちなみに、『武功夜話』の名称は昭和62年に刊行されたときに付けられたものであり、それ以前は、前野小右衛門の祖先の倉に「南窓庵記」、「何々記」として眠っていたものです。そして、『武功夜話』は有松神社にある奇襲説が書かれています。ただ、義元はおけはざま山ではなく、桶狭間の谷で休憩しておりました。

『桶狭間合戦の真実』(著者:江川達也)では、どの文献を資料にしたのか判らないが、桶狭間古戦場公園と桶狭間古戦場伝説地を退路として考えると、おけはざま山から本陣は前進して漆山に陣を引いたとされる。この仮説は実に的を射ていない。4万もの大軍を率いる今川軍の本隊が最前線に出る愚を犯している。しかし、今川軍が一万から一万二千程度の兵力なら、本隊が前に出て決戦に挑まないと勝負にならない。つまり、この仮説が成立する場合は、70万石という石高に見合った兵力しか連れて来ていない場合だ。しかし、それならば、中島砦前の決戦と名付けられていただろう。

その他の説にも、『手越川北岸』がある。

手越川の南部は山が重なっており、大軍を生かすなら手越川の北岸から鎌倉街道沿いに兵を置く方が良いという説だ。これは一理ある。

鎌倉街道から善照寺を落せば、中島砦は孤立する。手越川の北岸は山も低く、扇川周辺は比較的広い。大軍を横に展開するには都合がいい。しかし、義元が討死した桶狭間から遠く、そこまで逃げる合理性がない。そこで本陣を手越川北岸に置く、そして、信長が北側から回り込んで攻めてきたことで南に逃げるという。

それならば、江川達也氏の説と合わせて、手越川北岸にも兵を展開させ、漆山付近に前衛を布陣させ、その後に後詰めとして自ら本隊が務める方が現実味もでる。もちろん、そうなると大高城で休ませている元康隊を遊ばせるのはもったいない。しかも雨が降ったからと言って雨宿りなどして油断してくれる可能性もなくなる。

包囲殲滅しようとする敵に対して、包囲されると悲観せず、兵力が分散したと見て、本隊への一点突破を試みるのは兵法の常である。しかし、慎重な義元がそんな危険な賭けに出るとは思えない。

『信長公記』では、鎌倉街道を東に進み、沓掛城の手前の大きな木が倒れていることが書かれている。ここから柴田勝家が迂回していたと思われる説もある。桶狭間に参戦したハズの勝家が活躍した記述は1つもない。太田牛一は勝家の家臣であって、当時は勝家と元に行動していた。

009 柴田勝家による迂回挟撃>

009

『三河物語』に書かれているように、織田軍は信長率いる本隊と迂回挟撃を目的とした柴田隊に分かれたとする。信長本隊は雨の中を鳴海道、長坂道とも呼ばれる長い坂を上って、高根山の有松神社付近に陣を構えている松井隊と接触する。その頃、勝家の隊は鎌倉道を東に進むと東浦道を南下し、近崎道か、大高道を戻って、義元本隊の背後を叩く予定だったのかもしれない。しかし、雨で木が倒れて中々巧く進めない。

中島砦から桶狭間mで4km程度であるのに対して、鎌倉街道から東浦道、桶狭間では6~10km(中島砦から沓掛城は6.3km、沓掛城から桶狭間まで4km)になる。どんなに急いでも2時間くらいは掛かる。しかし、豪雨に見舞われた部隊は1時間くらいのロスが考えられる。つまり、勝家が迂回挟撃を決行していても、桶狭間に到着した時点で勝敗は決しており、精々逃げてくる敵を討ったくらいであっただろう。これでは、余りにも間抜けな柴田勝家の活躍を牛一も書くことができなかったのかもしれない。

迂回挟撃の柴田勝家、お間抜け説は、『信長公記』にある鎌倉街道の一節を何故ゆえに牛一が書いたのかという回答にしかならない。

5月19日正午、鷲津・丸根砦の陥落を聞いた義元はこれに満足し、謡を三番歌わせるほどであった。謡とは、信長が『敦盛』を舞ったように、義元も能楽を誰かに舞われた。信長は善照寺より中島砦に移動します。その数は『信長公記』では二千に足らずでした。中島砦は中洲に建てられた砦で、四方を川と田んぼに囲まれています。

そこから諏訪山の諏訪神社へ向けて一本道があります。これが深田一本道と呼ばれる道でしょう。その深田一本道を敵が押し寄せてきました。

信長は「あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや」と言って、討って出ていったのです。信長は兵糧入れを行い、鷲津・丸根砦を落した元康の三河衆が攻めてきていると勘違いしていました。

<桶狭間の地形>

010

さて、信長本隊と中島砦攻略部隊の戦いが始まりました。その様子を見ることができるのは高根山山頂に布陣していた松井宗信の隊だけでしょう。標高のない生山、武路では見ることができません。桶狭間山は標高65mもあり、高根山(54m)より高いですが、中島砦で見えたとは思えません。幕山に布陣した井伊直盛の隊も前方に愛宕西47m)があり、クリアとまではいかないでしょう。

鳴海から桶狭間における地図を確認しておきましょう。

011 地形と主な街道>

011

中島砦から手越川沿いに深田一本道があります。上に地図では横に走っている道がありますが、おそらく満潮時に近い頃は海の底に沈んでいたと思われます。点線の道は満潮時でも通れた道でしょう。その反対側に手越川の南面から山の中腹を抜けて、有坂道へ繋がる道もあったようです。

深田一本道を真っ直ぐに抜けると諏訪山の麓に到着します。ここから大高道へ抜ける道があったようです。大高川に沿って『大高街道』が走り、その途中から大脇村(現在の豊明市)に延びる道を大脇道といい、大脇村では『大高道・おけば道』と呼ばれています。そこから東浦道を北に上がって行くと沓掛城へと至ります。

この東浦道から横切って熱田へと繋がっているのが、『鎌倉街道』です。鎌倉街道は笠寺を抜けて熱田へと繋がっていますが、海が満潮になると、潮が満ちて通れなくなります。それは鳴海城近くの知多街道も同じです。

鳴海から手越川に沿って昇り、途中から高根山を越えて桶狭間に続く道を『長坂道』と呼びます。有松村から桶狭間へ向かって長い坂を上る道という意味です。桶狭間へと続く道などで「桶廻間村道(おけばさまむらみち)」とも、鳴海へ続く道なので「鳴海道」とも呼ばれています。長坂道の途中、地蔵池付近から北に向かって延びるのが、『分レ道』です。この道は手越川沿いの鳴海道に繋がっています。そして、桶狭間村から東浦道を横切って近崎村へ延びる道が『近崎道』です。近崎村は知多湾に面する旧村です。

手越川沿いに『長坂道』、『分レ道』を昇り、『近崎道』へ続く道が後の『東海道』となります。

最後に、信長は海が満潮の為に潮が満ちて、通常の道が使えないので常滑街道を回って丹下砦に辿り付いています。そこから善照寺に移りますが、鳴海城からは丸見えですね。高根山からも確認できたかは微妙です。善照寺は標高21mの小高い丘に建てられた寺のようで当たりが一望できます。今は砦公園として残っています。高根山は見えますが、おけはざま山は見えません。

 

信長の話に戻しましょう。

「鷲津・丸根砦を落して疲れている兵を叩くぞ!」

と鼓舞する信長は次に兵力の差を考えて、「懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと」と言います。つまり、敵が掛かってくれば、引いて受け流し、敵が引くならば、引っ付いて押し戻せ、無理をせずに相手に合わせる用意に注意を促します。犠牲を少なくしないということです。さらに、分捕りと言って、朽ち果てた兵の首を取ることを禁じます。首を持ち帰ることは戦場の功績を表し、首の数で褒美が変わってくるのですが、首を取ることは足を止めて、稲刈りでもするように腰を下ろして首と胴体を切り離さなければいけません。首を刈っている間は戦力にならないのです。

数で劣っている信長の兵力で、兵を遊ばせておく暇はありません。ゆえに、「分捕なすべからず。打拾てになすべし。」と首を持ち帰っても評価しないぞと固く言い聞かせます。

ところがそう言っている矢先に、

前田又左衛門 

毛利十郎 

毛利河内 

木下雅楽助 

中川金右衛門 

佐久間弥太郎 

森小介安食弥太郎 

魚住隼人

の8人が首を刈って持って返ってきたのです。八人は、佐々隼人正、千秋四郎の両名と朝駆けをやったメンバーでしょう。佐々隼人正は大高城南の砦である正光寺砦を任され、千秋四郎は氷上砦を任されていました。その中間に位置する向山砦には水野信元が守っていたのですが、突然に水野信元が裏切って向山砦を放棄してしまいます。

大高城に兵糧入れを命じられた松平元康隊が背後に迫ってきます。正光寺砦―向山砦―氷上砦と繋がっているので連携が取れ、一枚岩として防御が上がるのですが、中央が抜け落ちたのでは、前後左右から取り囲まれて孤立する危険性があります。

水野信元、憎し!

などと言っている暇もなく、佐々隼人正、千秋四郎の両名は砦を捨てて、善照寺へと引き上げていきました。しかし、鷲津の織田秀敏、飯尾定宗、飯尾尚清、丸根砦の佐久間盛重が壮絶な討死を成し遂げます。3人は武門の誉れ高く討死したのに、両名は戦いもせずに逃げてきた。信長様にそう報告がいけば大変だとばかりに出陣したと思われます。

ここで様々な見解があります。

佐々隼人正、千秋四郎は信長が到着してから出陣したとされる場合と、信長が善照寺に到着する前に出陣していた場合です。そして、佐々隼人正、千秋四郎は誰と戦ったのかという話です。

『信長公記』は義元が「義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。」と書かれています。正午頃には終わっていたと見られます。しかし、牛一さんはどこでそんな話を取材したのでしょうか。

佐々隼人正、千秋四郎の両名が出陣した時間は、前田又左衛門が戻ってきた時間から逆算するしかありません。

信長が善照寺に付いたのは、午前10時で鷲津・丸根砦が落城した頃です。信長が到着する前に出陣したなら、有松神社に書かれているように、松井宗信の隊と戦ったのでしょう。2時間掛けて迂回攻撃を行い、前田は1時間以上掛けて手越川を下ってきたと思われます。

一方、信長が到着してから出陣したとするなら、迂回攻撃をしようとする佐々千秋両名に先駆けの三浦義就が横槍を入れて来たと見るべきでしょう。佐々千秋両名の首を取ったことは早馬で義元に知らされますから時間の齟齬をありません。

しかし、前田又左衛門、前田利家は不幸です。

同朋衆で仕えていた茶坊主の拾阿弥(じゅうあみ)を惨殺した罪で出仕停止処分を受け浪人となり、浪人中は熱田神宮社家松岡家の庇護を受けていました。森可成の導きでこっそりと桶狭間の戦いに参陣し、千秋に従って敵の首を討ち取って来たのに、逆に叱られることになってしまいました。

「まつ、どうしよ~う?」などと嘆いていたかもしれません。

利家の妻、まつは、天文16年(1547年)に生まれ、永禄元年(1558年)数え12才で利家の妻になります。可愛らしい奥さんだったでしょう。しかし、その翌年に長女の幸姫を産んでいます。14才の新妻と2才になる幸姫に手を振られ、「お父さん、今度はちゃんと就職してよ」と送られて来ていたのです。幼い幸姫の期待を裏切った利家の落胆は酷かったでしょう。

大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」で、まつ を演じる松嶋菜々子と利家のラブロマンスですが、12才のプロポーズは山口美香ちゃんが受けるべきだよと突っ込みたい、12才の松嶋菜々子さんは無理があります。

などと、利家で遊んでいる場合ではありません。

首を持ち帰った八人を口捨てて、信長本隊は深田一本道を討って出ました。松平元康は大高城でご休憩ですから新手です。しかし、信長の部隊は押し続け、遂に諏訪山の麓まで押し切ったのです。

堪らず今川方は後退しました。そこに大粒の雨が降ってきたのです。

まさしく、天の恵みです。

天に感謝し、祖先に感謝す、武田軍なら「御旗盾無し御照覧あれ」と叫びたい所です。この瞬間でなければ、この豪雨も何の役する所ではありませんでした。諏訪山の麓に到着した瞬間に振り出した雨が『桶狭間の戦い』を起こしたのです。

(注).御旗は平安時代の源氏の棟梁である源頼義が後冷泉天皇より下賜された日の丸の旗で、現存する最古の日の丸でもあります。現在は山梨県の雲峰寺に所蔵されています。盾無は源頼義の子で武田家の祖先である新羅三郎義光が着用した鎧です。山梨県の菅田天神社に保存され、国宝に指定されています。

 

●桶狭間の真相のしっぽ、その1

先にも述べましたが、桶狭間には幾つもの説があります。

「迂回攻撃説」 、「正面攻撃説」、 「漆山移動説」、「手越川北側説」

迂回攻撃説は、江戸時代初期の小瀬甫庵作である『信長記』で語られ、長く信じられておりました。日本帝国軍もこの説を信じております。少数による勝利は奇襲しかないと考えたからです。ただ、この説を取る為には、義元が凡将でなければなりません。

正面攻撃説は、昭和40年代に角川書店から「信長公記」の読み下し本(本文を忠実に現代文に直した本)が発刊されて、見直されるキッカケとなりました。出来事を日記にとどめてきた重み・信憑性が再認識されることで、信長は正面からぶつかったと主張する者が増えて行きます。

漆山移動説は、文献らしいものはありませんが、正面攻撃説から推測された異説です。また、手越川北側説も正面攻撃説から推測された異説です。いすれにしろ、義元が凡将であることが絶対条件です。

それらの説と異なるが、『水野説』です。

『水野説』は水野信元の行動を起源とした説であり、最もこの戦の中心人物でありながら、どの文献にも上がっていない。多くの間接的な書状や事実がありながら、語られていないのが水野の関与です。

永禄3年3月、刈谷領内の来迎寺城、水野家臣の牛田城、知立城を陥落させられ、永禄3年5月の今川侵攻で刈谷城は素通りです。別に刈谷城が難航不落ではありません。帰りの駄賃とばかり、岡部元信が騙すように入城して陥落させています。5月時点では、大高城を囲む南側の砦の1つ、織田方の向山砦を水野信元が守っております。何故、居城の刈谷城を落さないで通過したのでしょうか。

理由は1つしかありません。

5月時点で、水野信元は今川方に鞍替えをしていたのです。しかし、向山砦から寝返れば、織田方の武将から袋叩きに合います。つまり、義元の本隊が大高城に近づいたときに寝返ることを裏打ちしていたのです。

こうして、松平元康は大高城への兵糧入れを南側から易々と行えたのです。義元は沓掛城から鷲津・丸根砦攻略に、松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛の三隊を向かわせます。最低でも3000人の兵力です。本多忠勝も兵を率いていますが、何故か朝比奈泰朝に配置されています。単純に考えるなら、最も激しい場所は三河や知多半島の兵で行い、今川古来の兵を損なわないように気を使っているように思えます。

つまり、丸根砦の先鋒が元康、後詰めに直盛が務める。一方、鷲津砦の先鋒が忠勝、後詰めに泰朝が務める。ところで本多忠勝の旧本領は尾張知多郡の横根地頭だったそうです。横根地区は桶狭間の東に当たり、刈谷領になります。しかし、刈谷の武将はみなどこかに消えていました。つまり、横根周辺の地頭は、中立などという曖昧な態度を取っていると、今川方に乱捕りされると恐怖したのではないでしょうか。今川方の本多忠勝などを頼って、お味方すると申し出ても不思議ではないのです。いずれにしろ、鷲頭・丸根砦はおそらく三河勢の力で落とされました。

では、次は中島砦です。

1つ1つ確実に落としてゆく、まさに義元らしい戦い方です。残念ながら資料の残る布陣が判っているのは、

高根山:松井宗信

幕山:井伊直盛

鷲津山北面部:朝比奈泰朝

桶狭間山:今川義元

桶狭間山南側:瀬名氏俊

以上の5名のみです。

その他に所在がはっきりしているのが、大高城の松平元康です。

信長は兵が連戦で疲れているから勝利間違いなしと鼓舞していますが、義元は疲れた元康の兵を後詰めに回して、兵を休めさせています。では、中島砦で戦ったのは、朝比奈泰朝の隊でしょうか?

義元は、駿河や遠江の直参を温存したいと考えていたに違いありません。新参者を使う利点は、今川方を裏切らないという証明の為によく働くことと、もし裏切っても兵を消耗させておくという戦略的利点があります。

第一陣で三河衆を消耗させたとなれば、第二陣は知多衆を使うに違いありません。知多衆を抱えているのは、大高城の城番であった鵜殿長照と、寝返った水野信元の部隊です。中島砦は平城ですが、周りに海と川と田に囲まれた天然の要塞です。大軍で押し寄せても足を取られて、その利を活かせません。鵜殿長照と水野信元の部隊が交互に攻め立てて、疲れた所で背後の善照寺を攻めたてることで退路が断たれるという焦りから出てきた所を叩く作戦が一番効果的です。今川方は兵力が豊富ですから、交互に攻め立て、夜になると元康と忠勝の部隊に入れ替えて、昼夜を問わずに攻めることができます。三日三晩も続ければ、織田方の兵の気力は失せてしまうでしょう。

次に、義元は道沿いに兵を構えています。長坂道に松井宗信、井伊直盛、常滑街道に朝比奈泰朝と松平元康です。これは別に不思議な訳でありません。獣道を通って移動するより、街道上を移動する方が速く、効率的です。街道を先鋒と後詰めで固めておけば、強行突破は非常に難しくなります。すると、分レ道と近崎道にも兵を配置していたでしょう。手越川の北側には、笠寺付近の武将を率いた葛山氏元の部隊と、援軍で来た三浦義就が布陣していました。三浦氏が後詰めなのは、今川家で朝比奈氏と同じく筆頭第一に上げられる名門だからです。つまり、手越川の北側が三浦義就の担当であり、南側が朝比奈泰朝の担当だったと考えられます。そして、必要に応じて松井宗信と井伊直盛の部隊が割り振られていたのでしょう。本隊の4000人は義元を守る為に義元から離れません。

しかし、三浦義就には一つ誤算がありました。伊勢湾では満潮時に250cmほど水位が上がり、干潮では30cmまで下がることがあります。午前2時頃から今川方が攻撃を始めたとすれば、信長が知って援軍を出してくる誤差を考えて、潮が満ちてくるのは午前4時頃からでしょうか。すると、午前10時くらいまでは川を渡れません。

信長が丹下砦を目指す場合、満潮が終わるのを待って笠寺を通ると予想していたのですが、信長は中根中城付近を通過し、天白区の島田当たりで天白川を渡り、川を下って丹下砦に到着しました。現代の地名で言えば、瑞穂区大喜町、井戸田町、中根町と通って天白区島田で天白川を渡り、南下して緑区野並、赤塚の戦いがあった古鳴海を経由して、午前10時頃には丹下砦に到着していました。この為に、信長の到着を防げないばかりか、葛山氏元の部隊が川向こうに取り残される事態になってしまったのです。その為に葛山隊は潮が引くのを待って鳴海城側に戻って来ることになりました。最初、三浦義就は丹下砦と善照寺を見渡せる位置に陣取っていたでしょうが、信長が善照寺に入れば、分断される危険があるだけでそこにいる意味を失くします。おそらく、手越側の北面に移動したでしょう。手越側の北には、鳴海道(長坂道)が通っています。そして、背後には松井宗信が後詰めとして陣取ることになります。こうして、中島砦を反包囲が完成しました。

012 桶狭間における部隊の配置>

012

常滑街道  :朝比奈泰朝―松平元康

大高へ抜け道:鵜殿長照―本多忠勝

有坂へ抜け道:水野信元―松井宗信

有坂道   :三浦義就―松井宗信

分レ道に松平政忠を配した理由は、桶狭間に出陣して討死している。且、長沢松平家第7代当主でそれなりの兵力を集めることができる。幕山に陣取ったと言われる井伊直盛と同じく予備兵力と言った所でしょう。鵜殿隊や水野隊が疲れた時に交替させられそうな兵力です。同時に鎌倉街道を通ってくる迂回攻撃に対する弾避けになります。

さて、この配置図はあくまで19日正午の配置に過ぎません。

最初に申した通り、文献に出てくる武将は4人しか判っていません。緒戦の後に義元が全体を前進させた可能性も捨てきれません。全体を把握するなら義元本隊を高根山に置く方が良いでしょう。逆に朝比奈、三浦を信頼しているなら、安全なおけはざま山で陣取ってくれる方が前衛としては安定します。

今川義元の初戦は、栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称して、花倉の乱(はなくらのらん)です。このとき、福島氏が擁する玄広恵探が当主として対立していました。福島氏を味方する武将の中には敵対国であった甲斐の武田氏からも支援を受けている者もいます。そこで義元は武田氏と和睦して味方に引き入れて勝利しました。

甲斐と同盟を結んだことで北条は今川から離反します。北条氏綱の父、早雲は伊勢盛時として、駿河守護代を担っていた為に遠江で早雲ゆかりの今川武将が蜂起し、遠江に出兵している間に富士川東地区を奪い取ったのが河東一乱です。当主になって一年の義元には成す術もありませんでした。しかし、義元の反撃はここから始まります。北条氏の背後の武蔵の国の大名と好を通じて北条を攻撃させ、逆に挟み討ちで氏綱を打ち破ります。天文6年に始まった戦いは、天文14年で収束します。その間、遠江など敵対する勢力を1つ1つ将棋の駒を進めるように着実に成果を上げてゆきます。天文21年(1552年)に晴信が仲介して甲駿相三国がそれぞれ婚姻関係を結び甲相駿三国同盟が成立することで後顧の憂いを失くしてから三河攻略を始めるという念の入りようでした。

今川義元が『東海一の弓取り』と称されるのは伊達ではありません。義元は戦う前に勝利するというのが義元でした。

桶狭間の前哨戦として、永禄3年1月に品野城を信長が攻めたように、『桶狭間の戦い』は信長が望んで起こした戦いです。今川義元は山口左馬助を謀反の罪で裁かせるという計略を信長が行ったと言われています。『信長公記』に成敗されたことが載っているだけで真実は判りません。しかし、笠寺の戸部城には、戸部新左衛門政直は豪傑がおり、織田方寺部城主の山口重俊が攻めるのですが、何度も退けたそうです。そこで信長は政直の筆跡を真似て、今川義元に政直が織田氏に誼を通じているような手紙を届けさせました。これを信じた義元は、政直を三州吉田(現在の愛知県豊橋市)に呼び寄せて成敗したということが弘治二年(1556年)にありました。同じようなことが二度も起こるとは思えません。全体の形勢判断などという高等な戦略を理解する武将は数少なく。どの城をどれだけ落したのか、そんな単純な話で形勢を判断するのが、当時の武将の大多数です。織田が品野を落した。鳴海城、大高城は砦で囲まれ陥落寸前である。三河の○○城も織田方になったという。そんな形成判断から山口左馬助は本気で織田に寝返りそうなので成敗されたというのが事実でしょう。

足利 義輝(あしかが よしてる)の仲介で、織田信長と斎藤 義龍との停戦に成功した信長は地盤を固めることに成功します。しかし、それは義元も同じです。三河のほぼ全域を掌握した義元は信長の挑発に乗ります。この時点で義龍が織田領に侵攻することは間違いありません。それを理解しているから信長は20003000人程度の兵力しか桶狭間に投入できないのです。帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』を参考にすれば、尾張57万石は1万4250人の兵を投入できます。尾張の東が織田の傘下に入っていないことを割り引いても1万近い兵力を動員できるハズなのです。しかし、実際に動員した数は周辺の城・砦の兵数を含めて60007000人程度です。

一方、義元も緻密に行軍しているように思えます。今川方で桶狭間に配置された兵力は15500人程度です。尾張東の抑えてとて、岩崎城の丹羽氏勝を始めてする今川方、刈谷を始めてする尾張方の水野氏などに対して、守備兵を残しています。さらに三河の水軍も温存されています。全域を見れば、4万余りというのは嘘ではありません。

実際に尾張東部(天白区、日進市あたりが境界)にも緊張が走っています。丹羽氏勝を先頭に小競り合いで島田城近くの牧家の島田地蔵寺が兵火で焼失しています。

一番注目されるが、5月から吹く南風を利用した海からの奇襲説です。永禄2年に『永禄の飢饉』が関東一円を襲っています。駿河・甲斐もそこに隣接しているので無事である訳もありません。北条氏康は伊勢まで米を買い付けに行ったという記録が残っています。今川の拠出もタダで済む訳もありません。飢えた百姓などが都市へ溢れ出し、夜盗などが横行して治安も下がります。それを一気に解決するのが、隣国に攻めて奪い取ることです。義元はそんな流民(一万~二万人)に武具を与え、織田を攻める兵力にしたに違いありません。しかし、関ヶ原のように広い平原でなければ、そんな俄かの兵力は役に立ちません。それなら三河の舟に乗せて、織田領内の海岸まで送り付ける。後は好き放題に乱暴狼藉を務めよと放ちます。風は5月になると都合のいい南風が吹きます。船の帆を張るだけで織田の海岸まで到達できます。一万から二万の兵が織田領内で暴れれば、信長も領内に兵を戻して対応しなければなりません。仮に難民兵が織田方にすべて討ち取られても、義元は何の損害もありません。ただの廃品利用に過ぎません。

織田の兵のいなくなった笠寺に兵を進め、山崎川当たりまで取り込めば、熱田は落ちたも同様です。伊勢湾の東に位置する鳴海と大高を解放すると、尾張海西郡荷ノ上城の服部党と共に伊勢湾の航路を確保することができます。

一方、別働隊は天白川を遡り、野並、島田、植田と落せば、愛知郡東部にあたる天白川の東側がすべて今川方になります。守山城を攻めるも、那古野城を攻めるのも思いのままです。しかし、織田方も馬鹿ではありませんから、山崎川を国境と決めて停戦が成立することでしょう。

013 永禄2年桶狭間の戦い 城の位置>

013

信長は永禄2年に鳴海城、大高城の周り砦を築き、永禄3年1月に品野城を陥落させます。そのことからも今川との決戦は信長側から挑んだものです。戦場が桶狭間付近になることは当然承知していました。

戦後の褒賞で、一番槍を付けた服部一忠、一番首の手柄を取った水野清久、義元を討ち取った毛利良勝よりも、簗田政綱(やなだ まさつな)が一番手柄として九之坪城(くのつぼじょう)を与えられています。政綱の活躍は『武功夜話』で木下藤吉郎や蜂須賀小六など川並衆や間者を送り、戦勝祝いの酒・肴を義元に送り油断させたとあります。実際、藤吉郎や川並衆を従えたかは判りませんが、半年前以上から長福寺など桶狭間付近に手の者を潜ませて、義元の本隊の位置を把握していたのは間違いないでしょう。住職などは非常にしたたかですから、今川方に味方するフリをしながら、裏で織田方に協力するくらい平気でやるでしょう。

義元は前日に瀬名氏俊に命じて陣を作成しています。村の者が狩り出されて手伝った可能性も高いでしょう。大高城に行く説がありますが、小城である大高城(3,392平方m 678人)に4000人の義元本隊が到着しても溢れるばかりです。始めから桶狭間山を大高城・鳴海城攻略の本陣と決めていたと考える方が妥当です。当然、義元は本陣の位置が信長に知れることも承知していたでしょう。否、城から出てきた大将を狙う信長の性格を把握して、討って出てきた信長を叩くことで勝利を確実にしようと考えたのです。

今川の弱点は、大軍であることです。

しかも昨年の凶作で兵糧に限りがあり、米がないので奪いに来た戦なのです。もし、信長が籠城と撤退戦で持久戦を望むなら、次の手を打たなければなりません。しかし、それよりも信長を捕えて降伏させる方が確実です。

4km先に大将首がある聞かされた信長は、中島砦を討って出ます。深田一本道に勝利した信長は、次の敵に狙いを定めなくてはなりません。おそらく、大高城で不戦だった鵜殿長照が諏訪山に陣を引き、有坂道へ続く抜け道には漆山に陣を張っていた水野信元がおり、大高城へ続く常滑街道沿いには朝比奈泰朝が布陣しています。

これを抜いても、松井宗信、井伊直盛、松平政忠の中堅が待ち構え、そして、最後に本隊の4000人が守っています。

朝比奈泰朝の前衛と戦いを避けて、有坂道か、鎌倉街道を迂回しても三浦義就の隊が待機しており、足止めを食らいます。どこを抜けても前後左右から挟撃に合う。まさに袋のねずみです。千が一にも信長の勝利は見えません。

014 関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)>

014

〔関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)〕

日本の陸軍大学校のドイツ人教官クレメンス・WJ・メッケルは、関ヶ原の戦いの布陣を見て西軍の勝利を確信しました。西軍の鶴翼の陣が完成しており、左右から押し込まれることが確実だったからです。しかし、実際は裏切りや調略で東軍が勝ちました。それを聞いたメッケルは「それは政治の話だよ」と言ったそうです。これは小説等で書かれていることで出自は明らかでありませんが、陣形が完成している時点で信長に勝利はなかったのです。つまり、信長の勝利は政治的勝利以外にあり得ないのです。

そこで上がってくるのが陰謀説です。

葛山氏元が武田と通じて、信長の動向を見逃した。松平元康が義元を裏切っていた。どちらも実行する動機がありません。元康には今川から独立したいと望む気持ちはあったかもしれませんが、大高城で休憩している松平隊には何もできません。唯一可能なことは、刺客を送ることくらいです。果たして、そこまでやったのでしょうか。

そして、やはり最後でてくるのは、水野信元でしょう。

水野信元は知多半島の中部を抑え、東西の街道、南北の塩の道と通商で儲けています。今川の楽市楽座が実行されますと特権がすべて奪われることになります。斯波(織田)方と今川方と違う勢力の中間でいることが中立を保ち、領土を守る為に必要なことと考えていました。織田が強くなり過ぎれば、今川に加担し、今川が強くなり過ぎれば、織田に加担する。左右のバランスを取ることでお家を守ってきた一族です。

今川が尾張まで進出することを快く思っていません。しかし、今川の兵力の前に降伏しました。刈谷城が無事なのがその証拠です。

当然、織田を攻める先鋒を任されたに違いありません。裏切れば、すぐに対処できる位置に置くのが一番です。中島砦の攻撃の一番手は鵜殿長照が率いる大高城水野勢ではないでしょうか。そして、二番手が信元の部隊でしょう。

水野の格式から言えば、信元は本家の家柄であります。一方、大高の水野家は分家に当たります。鵜殿長照が大高城主として引き連れきた家臣は100人くらいであり、その他の兵は、大高城に常駐する大高の兵です。本家が分家の露払いでは格式に問題があります。当然、一番手は大高の水野氏に譲ったことでしょう。

当然のことですが、信元の近くには今川家臣の目付役の隊(100人くらい)が目を光らせていたでしょう。信元が不穏な動きをすれば、信長共々葬り去ることができます。

深田一本道で勝利した信長が刻の声を上げます。

その勝利を祝ってか、視界も虚ろになる大粒の雨が降ってきました。正に相撲でいう水入りです。

さて、前衛部隊はどこに陣を張るのが一番でしょうか?

今川軍は中堅の部隊がおりますから、本陣を守るように道を封鎖するのは得策ではありません。道を守るというのは、正面から敵を待ち受けなければならないと同時に有利な上手に陣を引けるとは限りません。朝比奈泰朝の常滑街道は海沿いで平地になってしまいます。正面から同数、あるいは倍の信長隊と対峙することになってしまいます。兵法の常から言えば、明らかに愚策です。

ですから、先鋒は道に面した山面に陣を引きます。2列で移動する部隊に横槍を食らわすのが常道です。それも大将が通過する時に横槍を入れるのが最も効果的です。当然、敵もそれを承知していますから、山を登って敵を排除しなければ、前に進めません。山を登りながら攻める敵を待ち受け方が断然有利です。

しかし、信長は事もあろうか、豪雨の中を2列隊率いて水野信元の前を通過してゆくのです。『総見記』の一部に「信長公御感有テ皆々旗ヲ巻キ忍ヒヤカニ山際マテ押付敵勢ノ後ロノ山ヲ押回ツテ、義元カ本陣ニ討テ掛レト下知シ給フ」と書かれています。御旗を巻いて、素知らぬ顔で味方の兵が移動でもするかの如く堂々と通過していったのです。

水野信元とお目付け役の間で口論になっていたでしょうね。

「今のは、敵ではないか」

「まさか、旗も上がっていないので味方でしょう」

「嫌々、そうとも限らん」

「では、(朝比奈)泰朝様に兵を移動したか、聞きにやらせましょう」

「早急にだ」

信長の隊は約2000人ですから、2列隊で500mほどになります。豪雨の中での移動になりますから時速4kmくらいでしょう。通過時間にして78分になります。水野信元は通過後に朝比奈(1.2km先)に早馬の使者を送ります。豪雨の中なので途中、足元に気を付けていくようにと念を押したことでしょう。

漆山から高根山まで2kmですから30分程度です。

高根山は眼下に鳴海城を含め中島砦も見ることができます。深田一本道で信長が勝利しまいたが、そこで豪雨に見舞われて中島砦に引き上げていくと思ったことでしょう。雨の中で信長が攻めてきたなら、その知らせが届くハズです。現に戦太鼓も法螺貝が響いていません。

高根山を守っていた兵は木の軒下などで雨宿りをしていたに違いありません。松井宗信も神社の好意に甘えて、雨宿りがてらにお茶など一服頂いていたかもしれません。有坂道は谷から山へとほぼ一直線に延びる街道で、道に竹柵でも立てただけの陣を築いていたのではないでしょうか。

突然に湧いて出た織田軍に松井隊が混乱に陥ります。やはり、先陣は柴田勝家か、森可也の隊でしょう。もしかすると勝家は善照寺で別働隊を命じられていたかもしれません。鎌倉街道を通り、太子ケ根を通る抜け道から近崎道を目指していたのかもしれません。すると太子ケ根付近に残る織田兵が結集したのは勝家の隊ということになります。そこから信長坂を駆け上がったのも勝家ということになります。しかし、勝家が活躍していないのは明白なので、その場合は、坂を上っている最中に義元の首が飛んだことになります。

さて、勝家も可也も信長と共に行動したとするなら、何故ゆえに活躍が示されていないのでしょうか。

その可能性の最も高いものが、旗も上げず、声も上げず、名乗りも上げず、忍び寄るように蹂躙したのではないでしょうか。まるで兵の一部が謀反でも起こしたように錯覚させた。有坂道は頂上にある有松神社の手前で右に折れて幕山の横を通過します。松井宗信、井伊直盛は何か起こっているのか判断するまでに刻を要してしまいます。

桶狭間には二つの戦場が残っています。

「桶狭間古戦場公園」と「桶狭間古戦場伝説地」です。

「桶狭間古戦場公園」は、義元の首が討ち取られた場所であり、「桶狭間古戦場伝説地」は織田と今川が戦い場所です。

015 偶然起こったエアーポケット>

015

柴田勝家が別働隊となっていた場合、『三河物語』に書かれているように、善照寺で二手に分かれたと、今川方に知れています。太子ケ根方面から迂回してくることが知れていれば、分レ道と近崎道に兵が配置されます。ところが高根山で異変が起きます。敵襲です。不意打ちだった為にそう崩れを起こし、敵が有坂道を抜けて生山方面に抜けてきました。当然、後詰の松平政忠の隊は有坂道へ急行します。同じほど、義元を守備していた富永他の武将も詰めてゆきます。その為に分レ道周辺がぽっかりと空白地帯になってしまったのではないでしょうか。

豪雨の中を不意打ちで襲った信長の先駆け隊は松井隊とぶつかり当然ながら交通渋滞を起こします。奇襲は時間が命です。前が開くのを待てない信長は右に曲がってゆく有坂道とは反対の脇道へと進みます。高根山を左に迂回した訳です。脇道は狭く通り難いのですが、そこを抜けると分レ道に出ることができます。ところが、ここを守っているハズの松平隊は有坂道へ移動していたのです。

分レ道の近くには、桜花学園大学の敷地内にこっそりと信長坂があります。釜ケ谷で後続が来るのを待った信長は一気に「信長坂」を駆け上がりました。すると、現在の東に古戦場伝説地が見え、南に古戦場公園が見える丘にでます。昔が雑木林になっていたそうですから、信長の部隊が近づいていることを気が付かないで済んだのかもしれません。

信長は別に迂回したつもりもなく、攻めやすい所に移動しただけなのですが、気が付けば、眼下に義元のいる桶狭間山が見える所に出てしまいました。その頃になって、激しかった豪雨が止んできます。

信長の先駆け隊(おおよそ1000人)は有坂道を直進していますから、信長に付き従った兵力は、700800人程度でしょう。中島砦から高根山まで30分、信長が迂回を始めるのが10分後程度、そこから1km移動しています。時間にして半刻(1時間)も掛かっていないでしょう。

高根山と幕山の戦いは、敵味方が入り混じっての乱戦です。誰が敵で誰が味方か判らない。普通は旗を背負うことや鉢巻などを身に付けて見分けを付くように工夫するのですが、とにかく偉そうな武将を討ち倒して進む夜盗の如き戦い方です。

幕山を抜けると、松平隊と富永他の隊が待ち受けています。今川方の兵も敵が来ていることを承知していますから、腰や腕に味方の印を付けているでしょう。ここからは不意打ちとはいきません。それでも突然の襲撃に移動し終えた部隊から戦い始めるという遭遇戦であり、陣形を整えて戦う組織戦とは行かないでしょう。

信長は丘を掛け下り、義元のいるおけはざま山へ攻める指示を出します。武路(たけじ)は緩やかな丘です。おけはざま山に陣取っている義元から丸見えだったでしょう。手痛い裏切りと天の悪戯が重なって、あり得ない光景が眼下に迫っていました。それでも義元の勝利への確信は揺るぎなかったでしょう。

義元の本隊4000人の内、護衛となる2000人が近崎道、有坂道に移動した為に、直参の2000人しか残っていません。しかし、信長は700800人程度しかいません。しかも半刻(1時間)もすれば、三浦隊、朝比奈隊も駆け付けてきます。(暴雨の為に、戦太鼓や法螺貝による伝達が駄目でも、早馬で知らせることができる。全軍が戻ってくるには、もう少し時間が掛かりますが、先発隊のみなら1時間くらい)

山に布陣し、兵力は倍以上、時間は半刻も持てばよい。義元の心情を牛一もこう書き続けています。

「鳴海にて四万五千の大軍を動かし、それも御用に立たず。千が一の信長、僅か二千に及ぶ人数に叩き立てられ、逃れ死に相果てられ、浅ましき天の巡り合わせ、因果歴然、善悪二つの道理、天道恐ろしく候なり。」

これは、曹洞宗の道元禅師が説いた一節「因果歴然」から取られた言葉です。過去・現在・未来の三世を知ったつもりなっていたが、善悪など人間の尺度で図れるものでなかった。天の理は揺るぎなく、それを知らないで生きてゆくことはできないと言っておられます。

牛一はこう思ったに違いありません。

信長公が勝ったのは、天に「生きよ」と言われたに過ぎない。因果を知り、善悪二つの道理を義元公が知り得ていたなら、結果は異なったものとなったであろう。天に逆らうなどできようもない。

戦の様を『信長公記』にはこう書かれています。

「余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」

丘を駆け下りた信長の隊は、そのままおけはざま山へと駆け上がってゆく。必死に生きようとする信長達に対して、今川の将兵は気持ちで負けていた。

「何故、ここに敵がいるのか」

「何故、柵は突破されるのか」

「神懸っている。あ奴は鬼神かぁ」

天魔波旬(てんまはじゆん)のわが心をたぶらかさんとて言ふやらん。

そんな感じで天を恐れぬ信長が、第六天魔王が地の底から這いあがってくる感じを兵士はヒシヒシを感じたに違いありません。信長は自ら馬を降りで先頭を切り、信長の子飼いの長槍部隊が遠間から敵を討つ。気づけば、何とないカラクリですが、槍の長さなどすぐには気が付きません。

長槍は短い槍に対して非常に有利ですが扱いが難しい。百姓が農作業を片手間に長槍の稽古はできません。信長直近の300人ほどは足軽として信長が鍛えてきた部隊でした。次々と味方が倒され、生きた心地にしない兵達の体が固まって、信長の隊はさらに勢いを増して駆け上がってきます。勝ちを慢心した部隊は死ぬ覚悟もできていません。死を恐れる兵達が一丸となって上がってきます。遂に兵達が持ち場を離れて逃げ出してしまう有様でした。

兵が逃げ出しては義元の采配も役に立ちません。塗輿も捨て、義元が逃げ出せばそう崩れでした。

「すは、かゝれ」

逃げ出す義元を追って織田の兵が進み、今川方の援軍は逃げる味方に阻まれて、近づくことすらできなくなります。

「今川義元が首、討ち取ったり」

刻の声が上がると勝敗は決しました。後は蜘蛛が散るが如く、兵が逃げてゆき、恩賞目当てに分捕りが始まります。進むもあたわず、逃げるも敵わず。多くの武将が散っていきました。

これが『桶狭間の真相』ですと言えればいいのですが、そこまで都合よく事態が進むとは神ならぬ私は信じることができません。

なぜなら、義元を囲う直参は、各駿河の名家から集められた武将です。「寄親・寄子の制」で主従の関係を強くし、その寄子が率いる兵は村で一番の力持ちや戦の巧妙者が集められています。言うなれば、義元を囲う2000人の兵は精鋭揃いなのです。信長の精鋭は組織的に強い兵です。義元の精鋭は個々が強い兵達です。怖くなって逃げ出すなど期待するのも烏滸がましいと思えます。

もちろん、今川の兵がすべて強い訳ではありません。前衛にいる兵達は、農民からかき集められた。あるいは、流民が身代わりになって出陣してきた仮初の兵ですので、怖ければ逃げ出すでしょう。しかし、義元を守る兵がそんな弱兵である訳がありません。

唯一の欠点は、朝比奈泰朝、三浦義就、松井宗信という自分で判断して行動に移せる名将の不在くらいでしょう。全員を前衛に配置してしまったのが、義元の唯一の失敗だったと思うしかありません。

「この場は拙者に任せて、殿はお引き下さい」

そう言える武将の不在が、義元を危険な交戦地帯に残らないといけない事態にさせたことです。信長の猛攻に各々が前掛かりになり、義元警備が疎かになっていったことでしょう。

かのガイウス・ユリウス・カエサルは、「人は現実のすべてが見えるわけではなく、多くの人は見たいと思う現実しか見ない。」という名言を残しています。そんな人の心を知り尽くしたカエサルが「ブルータス、お前もか。」と身近な人間の裏切りに気づきませんでした。義元の知らざる行為が誰かを傷つけて、恨みを買っていたことに気付かない。その絶好の機会が訪れたとき、人は奇行に走ります。

もしかすると、身近な誰かにぐさりと刺されていたのかもしれません。本陣が動揺すれば、信長の猛攻を防げるハズもありません。あるいは、皆が前に集中して、背後に回った少数の兵に気付かなかったのかもしれません。

いずれにしろ、義元が本陣に居る限り、何かの異変が起こらないと信長の勝利はあり得ません。そして、それを知る者は皆討死していなくなっています。

●桶狭間の真相のしっぽ、その2

今川義元は『東海一の弓取り』と称されるに相応しい名将であった。

戦国大名の治世を産み出し、文化を復興・奨励し、産業や流通を重んじ、戦において負けることなし、見事に駿河・遠江・三河を平定した。そんな武将が義元なのです。義元は街道を整備しており、義元を真似た信長は、本街道は幅三間二尺(約6メートル)、脇道は二間二尺(約4メートル)、在所道は一間(約18メートル)としました。

本街道が6メートルになると10列隊も可能です。一万の兵がわすが500mに並ぶことができる。高速移動なら5列隊に組み直す必要がありますが、それでも大軍が速やかに移動できます。まるでローマの高速街道を思わせる事業です。これを利用した戦が中国の大返しなど秀吉しかいないというのは寂しい話です。

いずれにしろ、戦国大名の先駆けとなった名将が塗輿で物見遊山で上洛を考える愚将である訳が御座いません。

深田一本道の戦いが始まり、緒戦を信長が制したという報告が義元に下に届けられます。そして、雷鳴が鳴り、大粒の雹(ひょう)を含んだ雨が降ってきます。しかし、義元は不機嫌な顔をします。四半刻も待っていませんが、義元の顔が曇ってゆきます。軍師と思われる庵原之政(大原雪斎の大甥)が聞きます。

「信長も存外不甲斐ない」

何の事が判らず、もう一度問い質すと、義元の首を取る為にねずみが袋に噛り付かないことを不満に思っていたのです。信長の果敢さを評価していた義元は、緒戦の勝ちに乗じて、中島砦の包囲網を破ってくると予測していたのですが、次に襲い掛かったという報告が来ないことから、この雨で兵を中島砦に引き返したと予想したのです。

「この雨を利用しないとは、臆したか」

「しかし、袋を破っても前後から挟撃されることを考えれば、無謀と判断するのは懸命かと」

「それでは普通の武将だ。あやつも同じだというのでは面白くない。敢えて、火中の栗を拾い、自らの武を誇り、悠々と引き揚げてこそ、意味があるというものだ」

之政は何故ゆえに義元が信長を気に掛けるのか判らない。

信長が織田の当主になったのは天文21年である。天文23年の村木ノ取手攻めから才覚を現し、延べ8年間も競い合った相手の顔を遂に拝めるかと思うと胸が高鳴っていた。しかし、出て来ると思った信長が中島砦に引き上げたと思い、義元は不機嫌になっていた。

その頃、信長は豪雨の中を駆けて有坂道に入り、高根山頂を目指していた。それに気づかない義元は次の指示を出した。

よく天才は天才を知ると言われますが、信長は義元のことをよく学び、後の信長政権の礎としています。一方、義元も信長のことを心得ていたのではないかと思わずにいられません。今川氏の滅亡後に岡部正綱を迎えるのに、信玄は、「万の兵士を得るのは容易だが、ひとりの将を得るのは難しい」と言われて武田氏の家臣として向かい入れたと言われます。義元も信長という武将に会いたいという願望が強くあったかもしれません。

信長が危ない橋を渡らないと感じた義元は、陣形の変更を指図しました。中島砦にいる織田の兵士を孤立させることで兵の士気を下げるという作戦です。信長との知恵比べを思わず、楽しんでしまったのかもしれません。

松平政忠に手越川北部の有坂道を下って中島砦の北側に移動するように命じます。同時に葛山氏元が川を渡り切っていたなら中島砦の鳴海方面に展開するようにも早馬を出します。意気揚々と士気が上がり、雨の中で休息を取っているでしょう。しかし、雨が上がった時に背後に敵兵が現われたことに冷や汗を流すことでしょう。

退路が断たれる。

そう焦るだけで兵の士気は下がります。無意味な休息を取った信長への戒めです。但し、松平政忠には細かい指示が言い渡されます。

三浦隊より前に進む時は信長の隊と遭遇戦があると思い、努々油断することのないように。

織田兵が討って出て来たなら堂々と立ち向かうように。

織田兵が善照寺へ逃げる素振りを見せたなら、深追いせずに兵を減らすことに心掛けよ。

織田の兵が鎌倉街道に抜けたなら追い駆けて追撃せよ。

義元は政忠に火急速やかに行動に移すことに念を押します。手越川の南側から抜けないと考えた信長が川の北側へ回ることを予想しての一手であり、同時に兵を休ませる為に中島砦に戻ったとするなら、中島砦を囲んで兵の士気を下げる作戦でもあります。信長の手越川の南側を攻め上がって来ないことに対する対処法であり、同時に陣の変更を命令しました。

井伊直盛には、迂回して鎌倉街道より善照寺前面へ移動を命じ、正面を守る富永共々には、井伊隊の後方を進み、本陣の前衛を守らせます。その後を義元本隊が移動し、鎌倉街道沿いに本陣を移します。瀬名氏俊には後を守らせ、右翼を守る長谷川共々には、近崎道の警備および殿を命じます。豪雨を利用した本陣の大移動です。

雨が晴れて、義元の本陣が鎌倉街道に移動していたなら度肝を抜かれるでしょう。中島砦を死守するか、善照寺に移るか、選択を迫られます。

中島砦に残れば、善照寺・丹下砦を先に落とされる可能性も出てきます。そうなれば、孤立するのは中島砦になります。善照寺に移れば、中島砦が手薄になり、討って出れば、大軍に三方から押込められます。

信長の本隊が善照寺にあれば、本陣が近すぎて危険な位置になりますが、信長が中島砦に籠っているなら絶好の位置に変わります。本陣の移動が完了すれば、松井宗信を鳴海道に沿って前進させて包囲に厚みを持たせることになります。信長が中島砦に籠ったことで、半包囲から全包囲へ完成すれば四面楚歌です。

<豪雨の中の配置替え>

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全軍移動の命令を出すと同時に、朝比奈泰朝に再度中島砦へ攻め掛かるようにとの指示を出しました。義元がすべての命令を出し終えるのに、雨が降り始めて四半刻(30分)も掛かっていませんでした。

松平政忠は急いで前に繰り出してゆきます。井伊直盛も松平隊を追って移動を開始し、川を渡ると迂回路へ急ぎます。

その頃、松井宗信を襲う夜盗のような集団が押し寄せてきました。油断していた松井隊は混乱を極めます。家臣に状況を確認させるもすぐに判りません。まさか織田の兵が湧いて出たと考えられない。誰かが謀反を起こしたのか。その数は如何ほどなのか。雨音がすべての音を遮断して状況が把握できません。

義元の伝令も松井隊が混乱していて何が起こっているのか判別も尽きません。兵と兵が重なりあって殺し合っている。誰もが、確認せねば、確認せねばと焦るばかり、気が付けば、松井宗信にも襲い掛かる者が現われた。

「ぬかったわ。尾張殿がこれほど卑劣な手段を用いるとは」

などと武門の習わしをすべて無碍にする戦い方に怒りを覚え、義元公にお知らせねばと焦りを感じたでしょう。近隣衆に声を掛け、義元への伝言を託すると、部隊の立て直しを試みたことでしょう。

雨が降っている内に移動を完了しようと、拙速を重きに置いたことが裏目に出たとかしいいようがありません。信長の先駆けが松井の隊をぶつかって、後続の信長本隊は本陣を目指して有坂道を外れ、高根山を左に迂回する道を進みます。先頭が脇道から本道に出ると長蛇の列を為す敵がいました。偶発的に起きた遭遇戦が始まり、何が起こっているのか。戦っている信長にも判りません。とにかく後ろ閊えるので前へ前へと進みました。気が付くと生山の山頂付近まで上がっていました。

丁度その頃、雨が止み、雲の切れ間から日が差すと、眼下に塗輿が見えるではないでしょうか。塗輿は特別な者しか乗れない証、つまり、義元がそこにいるのです。

「すは、かゝれ」

掛け声共々、山を下って義元を目指します。前に進んでいた武将達も異変に気が付き、兵を戻そうとしますが、押し合いへし合いの大混雑で戻るに戻れません。人をかき分けて進む信長の兵、右往左往するばかりで義元が引こうとするのを妨げる味方の兵、一進一退を繰り返し、遂に義元の首が飛びました。

策士、策に溺れる。

水野信元のささやかな裏切りと、天の采配が信長を偶然の勝利へと導いた瞬間でした。

 

さて、『桶狭間の真実』とは、一体どこにあるのでしょうか?

こちらの信長が通った『信長坂』は生山にあることになってしまいます。信長古戦場伝説地よりも少し西になってします。伝承の信憑性や客観的事実から推測できることは知れています。ただ、辻褄を合わせる為に、義元が凡将だったとか。戦の最中に酒に酔っていたとか、嘘偽りが多く徘徊するのが問題です。

人間性や地形、そのときの状況を細かく観察すれば、そこから導き出される答えは集約されます。それでも検証できない伝承があり、辻褄があわないピースが存在します。おそらく、それは偽りのピースなのでしょう。

しかし、それを判断する基準を私達は持ち合わせていません。完成できないジクソウパズルのようなものです。それゆえに想像力が掻き立てられ、多くの可能性を楽しむ事こそ、歴史の醍醐味ではないでしょうか。

ただ、小説と歴史は異なります。しかし、NHKの大河ドラマを見て、歴史と勘違いする方々が多くいることは不幸なことです。ドラマ『水戸黄門』さまが日本全国、津々浦々まで諸国を漫遊して、天下安寧に後見したと信じている方がどれくらいいるのでしょう。愛してやまないのなら真実の歴史も追い求めてくれることを大切にして貰いたいものです。

それはそれでもいいのですが、「それが真実の歴史だ」と恥ずかしげもなく言う方々が多くならないことを祈るだけです。

PS.最近、『信長協奏曲』という楽しいドラマを見せて頂きました。これがアニメ『信奈の野望』と同じくらいトンでもない奇想天外なお話だと感じてくれていると嬉しいのですが、たとえば、森可也がひ弱なよれよれ武将だったと信じてほしくないですね。奇想天外がいけないのではなく、奇想天外として楽しんで貰いたいものです。

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

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信長公記の軌跡 目次 

 

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その3

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信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■決戦、桶狭間

桶狭間の戦いで有名な説は、『迂回奇襲説』、『正面攻撃説』、『乱取り騙し討ち説』と様々です。『迂回奇襲説』は旧参謀本部の『桶狭間役』で解説される日本の伝統的な戦法として取り組まれています。神速を持って移動し、相手の虚を付いて強襲するのは効果的と考えた訳です。しかし、残念なことに最近の資料から今川義元が油断していないと難しいと判ってきました。鷲津砦・丸根砦の両砦が陥落し、意気消沈した織田軍は一戦して後退すると油断している状態です。

あるいは、『乱取り騙し討ち説』である。『乱取り騙し討ち説』は、黒田日出男東京大学名誉教授が唱える説であり、『甲陽軍鑑』が書き示す「駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、身方(味方)のやうに入まじり」云々という記述に注目し、勝ったと思った義元が兵に乱捕りを許可し、信長が旗を仕舞って、敵に混じって近づいて首を取ったというものです。

いずれにしろ、今川義元が勝利に酔って油断した結果でなければなりません。しかし、「東海一の弓取り」と称される義元公が、大高城が解放されただけで浮かれていたとは信じられません。鳴海城はまだ包囲されたままです。

もし、油断したのであれば、中島砦・善照寺・丹下砦を放棄して織田軍が撤退を開始したとでも報告がなければなりません。

さて、『迂回奇襲説』に戻りますが、旧参謀本部の『桶狭間役』の地図から長福寺付近のおけはざま山に義元の本陣を置いてみました。逃亡して田楽坪を通ったとするなら、生山の方がよかったかもしれません。鎌倉街道を迂回して山道を通って近づくことになります。Aルート以上に迂回すれば、2時間以内に到着することは難しいのでないでしょうか。鎌倉街道から追分新田道へ渡る道はなく、獣道や小道がある程度です。しかし、30m級の山なので横断できなくはありませんが、500人程度の兵なら問題ないでしょうが、3,000人規模の部隊が迂回強襲するのは難しく考えてしまいます。しかし、戦力差から旧参謀本部は迂回奇襲作戦を取りました。

<<003 信長の進軍ルート>>

003

最近、見直された『信長公記』には、『正面攻撃説』が書かれております。中島砦から出て田んぼ脇道を通り、山沿いに鳴海道があり、その坂道を駆け上がったのでないかという説です。

「右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。」

と、大粒の雨が降り出してきました。そこは諏訪山か(Bルート)、漆山の麓(Cルート)と思われます。ここから道は、大きく2つに分かれます。

『信長公記』では、いつ雨が降ってきたのか詳しく書かれていません。普通に読めば、おけはざま山の近くまで寄ってから雨が降り出したように思えますが、前衛を薙ぎ払わらなければ、とても近づくことができません。

Bルートを選択すれば、しんえい中島砦攻略の朝比奈泰朝隊が信長の前に立ち塞がります。Cルートを選択すれば、高根山の有松神社に布陣した松井宗信隊か、その隣の幕山の井伊直盛隊にぶつかります。

桶狭間の戦没名簿を見ると、松井宗信、井伊直盛共に討死しております。そこから考えられるのは、やはりBルートとなります。中島砦を出陣した信長本隊は、早々に豪雨の来襲を受け、雨に身を隠して義元本陣を目指しました。移動に際して、『甲陽軍鑑』の旗を隠して進んではないかと考えられます。『信長公記』は、几帳面な太田牛一がどのようにして義元本隊に近づいていったのかが書かれておりません。否、雨に隠れて旗を降ろして近づいていったなど、武門の恥で書けなかったのです。

松井宗信と井伊直盛の兵は雨宿りをして散らばっている所を、柴田勝家率いる先駆け隊が騙し討ちするような形で襲い掛かったとすれば、一方的に蹂躙したのかもしれません。名乗りを上げてから戦いを始めるのが、武士の習わしとすれば、夜盗の如き振る舞いに思えたのではないでしょうか。(太田牛一は柴田の家臣)

<<004 明治24年国土地理院旧版地図>><<参謀本部刊「日本の戦史 桶狭間」付図>>

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(注). 信長の進軍ルートの参考は、明治24年国土地理院旧版地図、参謀本部刊「日本の戦史 桶狭間」付図、高根山の有松神社「桶狭間古戦場」を参考に再考しております。

沓掛城を出陣した義元公は、鎌倉古道を通って大高城を目指したと言われております。しかし、義元公は、中島砦が主戦場になると想定して、はじめから『おけはざま山』を目指しました。先発隊の瀬名氏俊にわずか4km先に陣幕を作らせたのもその為です。

尤も旧陸軍歩兵でも50分歩いて10分休むとありますから、単なる休憩地だった可能性は否定できません。二村山を越えて来た兵にはちょうど良い休憩だったのかもしれません。しかし、そこで佐々隼人正、千秋四郎の二首と五十騎計り討ち取ったという報告を聞くことになります。

義元公が陣を引いたのは、『おけはざま山』と言われていますが、諸々の史料には、

「桶狭間山の北の松原」(桶狭間合戦記・尾張志)

「桶間の松陰」(武家事記)

「路次の側の松原」(甲陽軍鑑)

「桶狭之山の北」(成功記)

「桶狭間の山下の芝原」(総見記)

と示されております。実際は『おけはざま山』の北であった思われる節があります。地図で言えば、『武侍』「三河物語」では19日に義元公が池鯉鮒から段々に押し出て棒山の丸根砦等を巡察されたともあります。池鯉鮒は沓掛城の東であり、わざわざ戻る意味があるのかと考えてしまいますが、多くを悩んでも仕方ありません。

信長が中島砦を出陣するに煎じて、千秋四郎(千秋季忠)と佐々隼人正(佐々政次)が討ち出ております。

その出陣に際して、佐々政次が信長に言ったと『道家祖看記』(続群書類従 第二十輯上 収)に残されています。

ソレカシ命ヲステ候ハヽ。 今日ノ御合戦ニ御カチ候事必定ナリ。 

今日天下ワケメノカツセンコレ也。 

天下ヲヲサメタマヒ候時。 

弟内蔵佐我等セカレヲ。 御ミステサセタマハテトテ。 

我々ハ東ムキニ。 今川ハタ本ヘミタレ入ヘシ。 

殿ハワキヤリニ御ムカヒ。 テツホウユミモウチステ。 

タヽムタヒニ。 ウチテカヽラセタマヒ候ヘトテ。

(私が命を捨てて掛かれば、今日の合戦には必ず勝つことが出来ましょう。今日の戦は天下分け目の合戦です。天下を治め下さい。弟(成政)と私の息子(清蔵)を宜しくお願い致します。我々は東へ向かい、今川義元の本陣へ乱入します。殿(信長)は脇槍に向かわれ、鉄砲も弓も捨ててただただ一途に義元に打ちかかられるがよろしいでしょう。)

取って付けたような銘文なので、後の編集ではないかと思われますが、佐々の息子たちが恩に報われている所を見れば、この討死を信長は評価していたのは間違いありません。

義元公は、この見印を討ち取ったことを聞いて、

「義元が戈先には天魔鬼神も忍べからず。  心地はよし。」

と喜んだと言われています。

千秋四郎と佐々隼人正がどこで戦ったのか不明です。

阿部四郎兵衛定次が書き記した「松平記」(三河文献集成・中性編 ()国書刊行会)には、

「永禄三年五月十九日昼時分大雨しきりに降。今朝の御合戦御勝にて目出度と鳴海桶はざまにて、昼弁当参候処に、其辺の寺社方より酒肴進上仕り、御馬廻の面々御盃被下候時分、信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善勝寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、鉄炮を打掛しかば、味方思ひもよらざる事なれば、悉敗軍しさはぐ処へ、山の上よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の鑓にて義元を突申候処、義元刀をぬき青貝柄の沙也鑓を切折り、小平太がひざの口をわり付給ふ。毛利信助と云もの義元の首をとりしが、左の指を口へさし入、義元にくひきられしと聞えし。」

と書かれていることから、善照寺砦から二手に別れ、一手(千秋四郎と佐々隼人正)が御先衆、もう一手(信長)が本陣を襲ったと書かれている。

つまり、高根山の掲示板に示されている逸話が正しいとするであれば、300余りの小隊で善照寺より東にAルートを通ったと思われます。「松平記」では、同時に攻撃したように思われますが、密偵が持ち帰った情報が、「善照寺で二手に分かれた」、「千秋四郎と佐々隼人正が松井宗信と対峙た」、「本陣が信長に襲われた」というものであれば、二手の分かれた部隊の戦闘時間は察していなくても不思議はありません。

「信長公記」では、千秋四郎と佐々隼人正達50騎余りが討ち取られましたが、その戦いで前田又左衛門達が首を持ち帰ったことで、信長は逆に勝機を感じ取ったのではないでしょうか。

右側から襲い掛かったので、左側から襲い掛かれば、手薄になっているハズなどと単純に考えたと思われます。これは浅井・朝倉と対した時に、雨に紛れて大嶽砦を落した方法と似ております。信長は単純に行動することが侭あります。

信長戦いの好機と見て、兵に号令を掛けました。

「懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし」

戦力に差のある織田軍は、奇襲に当たる先駆け(千秋四郎と佐々隼人正達)が討たれて意気消沈していると普通は思います。それゆえに虚を付き信長は兵を進めました。

一方、元康(後の家康)は大高城で休息を取っています。兵糧入れに丸根砦の攻略と昼夜を問わない働きでした。大高城の規模からいうと全軍が城に入ったかは疑問です。

『信長公記』では、「今度家康は朱武者にて先懸(駆)けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり」

『三河物語』では、「即押寄て責給ひければ、程無タマラズして、佐間は切て出けるが、雲もツキずや、討ち漏らされて落ちて行く。家の子郎縫供をば悉打取る。其寄大高之城に兵ラウ米多く誉。」とどちらも被害を訴えています。

丸根砦と鷲津砦は尾根で繋がっており、兵を貸し借りできる構造だったそうです。そう考えれば、松平元康隊が先に丸根砦を攻撃すると鷲津砦は手薄になります。頃合いを見て、朝比奈泰朝隊が鷲津砦を攻撃すれば被害は小さかったでしょう。しかもここには本多忠勝の三河衆も加わっていました。

義元は前と後を入れ替えて兵を休めるようにしたように思われます。被害の大きい松平元康隊は後詰に回されて大高城で休息し、本多隊も後詰に回したことでしょう。

朝比奈泰朝隊は棒山か、前進して諏訪山に陣を引き、当然のように漆山にも誰がしかに陣を張らせたと思われます。

平瀬川を挟んで、三浦備後守は中島砦と善照寺を一望できる場所、平子ケ丘に三浦隊が陣取ったと思われます。三浦隊は笠寺守備の兵(陥落後)を引き連れて500~3000人を率いていました。当然、鳴海城の封鎖解除を目的とする今川軍は、中島砦を朝比奈泰朝隊、善照寺を三浦隊、丹下砦を鳴海城の岡部隊、星崎城を葛山隊が担当し、後詰として松平元康隊と本隊が控えているという作戦を練っていました。そうでなければ、本隊をおけはざま山に移動した意味がありません。義元公は織田方の退路を断たれないように中島砦を囲んでいます。

中島砦は平城ですが、大高城へと結ぶ重要拠点です。しかも2000人以上の常駐させることができる大きな砦です。

つまり、鳴海城―中島砦―沓掛城の防衛ラインを確保することが、当初の最大目標だったことが伺われます。史書の多くに、義元公が大高城に向かったとされますが、700人弱しか収容できない小城に5000人の兵力を連れてゆく意味がありません。義元公は沓掛城を午前10時頃に出発していることを考えると、丸根・鷲津両砦が陥落寸前であることを確認して出立したと思われます。つまり、義元公の本命は中島砦だったのです。

(注). 2列で並んで行軍すると1000人の兵士は500mもの長さの隊列になります。5000人なら2.5kmの長蛇になります。歩行速度が4km/hとして、部隊ごとに移動すると4km先の桶狭間に到着するのに2時間弱を必要とします。

<<006桶狭間周辺の地形>>

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<<007高根山の有松神社「桶狭間古戦場」>>

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大将ケ根(たいしょうがね)には、『迂回強襲説』でおけはざま山に休憩する義元本陣を狙って、信長がこの地に集ったという逸話が残っております。資料には、何も残っていないので参考程度に覚えて下さい。

今川本陣の諸将は、それぞれの山に布陣しておりました。

おけはざま山:今川義元 本隊〔標高65m〕

高根山:松井宗信隊(前衛)〔標高35m〕

幕山:井伊直盛隊(前衛)〔標高50m〕

大池奥:瀬名氏俊隊(左翼)

生山:???隊〔標高26m〕

武侍山:???隊〔標高?m〕

巻木山〔標高38m〕 

太子ケ根山〔標高54m〕

善照寺砦〔標高21m〕

若草山〔標高35m?〕(過去の山名は見つからず、若草山は大高緑地内の山)

前衛の二将の後ろにある中堅の生山(はえやま)、右翼の武侍山(やけじやま)に武将を配置していたでしょう。もしかすると大将ケ根にも布陣させていたかもしれません。当然ですが、おけはざま山から西方の幕山・高根山の稜線に遮られて、中島砦や善照寺を見通すことはできません。

(注).幕山は現在切戸山町にある山となり、地図上の幕山は桶狭間3丁目の巻山に当たる。

<その4に進む>

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2

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信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 


今川義元討死の事 狭間の戦い その3 


今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■桶狭間の戦い

永禄3519日(1560612日)、尾張国桶狭間で起こった戦いは、織田家と今川家の雌雄を争った戦いとして有名である。

駿河・遠江・三河を平定した駿河国守護今川義元が、尾張へと領土拡大の為に行われ、『信長公記』では4万5千、『武功夜話』では、3万有余余、『北条五代記』では25千、『足利李世記』では1万の軍勢が尾張の国に攻め込んだと記されている。また、近代の日本帝国陸軍の研究では、参謀本部が編纂した「日本戦史」の「桶狭間役」で2万5千と記されている。

果たして、今川義元は、どんな戦略を練っていたのであろうか?

まずは、今川義元の行動を見てみよう。

5月12日 今川義元が今川館を出陣。

5月13日 掛川城で泊。

5月14日 引馬城で泊。

5月15日 吉田城で泊。

5月16日、岡崎城で泊。

『総見記』(織田軍記)は、「十五日に三州岡崎の城に陣す、是にて陣々城々の手分け手配を定めらる」とある。

5月17日、池

5月18日、祐福寺で泊。

桶狭間前日に祐福寺に陣を引いた。『信長公記』では、「今川義元は軍兵を率いて沓懸に参陣」とある。この祐福寺は、武功夜話曰く、「蜂須賀彦右衛門らは裕福寺村長に同道し、百姓になりすまして義元が必ず通る大高まで十五町の街道上で義元一行を待ち受けたところ、義元は午前十時にそこに通りかかった」と出てくるお寺の事です。『尾州桶狭間合戦之事』の写本には「社寺方、合戦の勝利を祝い酒肴を用意し(義元を)接待した」とされていますから、沓掛城に入った義元の元へ各地の寺から祝酒が献上されています。今川義元の供養寺として知られている長福寺などと一緒に祐福寺とも共に安堵状が渡されていたようです。

祐福寺は、浄土宗西山禅林寺派に属し、建久2年(1191)の創建と伝える古刹であり、室町時代の大永8年(1528)後奈良天皇より勅願寺たる旨の綸旨(りんじ)を賜り、このときに勅使左中将経広卿を迎えるために門が造られたという。勅使門とは、勅使が参向する時に勅使の通行に使われる門のことをいう。勅使門は四脚門に次ぐ格式が高い門とされ、義元も合戦の前日に泊まられたと語られています。

移動などの参考として、帝国陸軍の作戦要務令に以下のことが書かれております。

『作戦要務令』によると、旧陸軍歩兵は一時間に4kmのペース(50分歩いて10分休む)で行軍して、一日に六時間から十時間の行軍を行い24~40kmの距離を進みます。

赤軍臨時野外教令『作戦要務令』第十二章・軍隊の移動・第328、「大休止の為、軍隊は行軍命令に応じて道路を離れ、露営又は村落露営の要領を以って分散配置せらる。大休止地点の捜索は予め之を行うものとし、努めて上空に遮蔽すると共に軍隊の利便をも顧慮するを要す(水、木蔭等)。敵と衝突を予想する場合に於いては、展開を迅速ならしめ、不意の敵襲を撃退し得る如く配置を定め、警戒手段を講ずるものとす。」と定める。

作戦要務令というのは昭和13年に定められた軍令であり、具体的には陣中(戦場)勤務の要領と諸兵連合の戦闘についての基本事項を士官の利用を想定して取りまとめたものです。時代は違いますが、物資の輸送方法が違いますが、歩兵は戦国時代と変わりありません。補給などの統制を考えると戦国時代の通常行軍速度は一般に15km/日と言われています。

対する信長は防御側ですから補給の心配はありません。また、信長自身も神速を旨とする速攻を重んじている武将でした。

清須~熱田は三里余、歩兵の通常行軍速度(時速4km)で約3時間、騎兵の通常行軍(時速6km)では二時間になります。

清須~丸根砦は五里十二町余、歩兵の通常行軍速度約5時間20分、飛脚の通常速度(時速9km)では2時間20分、伝騎の通常速度(時速18km)では1時間10分です。

熱田~善照寺砦は一里廿五町余(約7km)、歩兵の通常行軍(時速4km)では約1時間40分、騎兵の通常行軍(時速6km)では1時間10分です。

一千名の軍勢の行軍長径は、約1.18kmの隊列になり、この隊列が展開して戦闘隊形をとるには約廿分弱かかると頭に入れて置いて下さい。

信長は、19日の早朝に清須を出て熱田に到着します。そこで後続を1時間ほど待った後に勝利を祈願して出陣しました。昼前に善照寺に到着し、中島砦に移動、そこから桶狭間に向かって移動します。中島砦から桶狭間山まで約4kmの道のりであり、移動時間は約2時間です。武功夜話のいう迂回路で時間的に可能なのは鎌倉街道を東に移動し、それから南下するルート(約8km弱)しかありません。今川軍に見つからずに道なき道を2時間で移動するのは不可能なのです。もちろん、武功夜話では神輿に乗って遊興を楽しむ御仁ですから、周囲の警戒を怠っていたと考えれば、話の筋は困りません。

今川義元の本隊は、16日に岡崎城に着陣し、翌17日に知立城の池鯉鮒で陣を張ります。約15kmの道のりですから標準的な進軍速度となります。しかし、翌18日は沓掛城まで7kmと非常に短い距離の移動を行い。沓掛城で義元は、乱取りを兵に許可したのではないかと考えられます。『甲陽軍鑑』の桶狭間には、旗を降ろして信長が近づいたが「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあります。「乱取り」は、乱妨取り(らんぼうどり)の略称であり、報酬もなく狩り出された農民などが戦利品として略奪を許す行為のことです。村を襲い、食糧や金品にゆうに覚えず、女や子供をさらい売り払うか奴隷にするのが、当時の常識だったのです。

18日、沓掛城に入った義元は、周囲の状況を確認して沓掛城を本陣として作戦を練ったのでしょう。(軍は沓掛城に入り、義元自身と一部は祐福寺で宿泊したのではないだろうか)

一般的に今川が圧倒的に有利な状況であり、信長は成す術もないというイメージが付きまとう「桶狭間の戦い」ですが、天文23年(桶狭間の6年前)まで三河の重原城は、織田方の山岡河内守が城主を務めております。また、織田方の来迎寺城、水野家臣の牛田城、知立城は永禄3年に井伊直盛率いる今川先鋒隊によって落城します。石碑には牛田政興の活躍は見事であったと書かれています。

<<002 牛田城石碑>>

002

永禄3年(1560年)55日に信長が三河の吉良方面へ出動、所々に放火。三河国の実相寺を焼くという記述が残っており、実相寺釈迦堂(じっそうじしゃかどう:西尾市上町下屋敷15)には、永禄3年(1560)織田信長の兵火によって堂宇を焼失し、その後、伽藍が復興されたとありますから間違いないでしょう。来迎寺城、牛田城より随分と南に位置する今川領内で放火したようですが、どの当たりまで放火したのか判りません。

いずれにしろ、永禄334月に井伊直盛率いる今川先鋒隊によって三河の織田方が陥落し、今川軍の知多半島で孤立する大高城と鳴尾城の平定に乗り出すことになるのです。そして、大高城と鳴尾城に近く、大軍を入城できる城が沓掛城だった訳です。

沓掛城は、東西288メートル、南北234メートル(面積67,392平方m)で、惣堀に囲まれた比較的規模の大きな城でした。北方の長久手・岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差し、交通の要衝として古くから栄え、後醍醐天皇が沓掛の住人近藤宗光を召しだし、応永年間(1394 - 1428年)には城が築かれたようです。近藤氏は織田信秀の勢力が強くなると追従し、天文20年(1551年)の信秀死後に、鳴海城主山口教継・教吉父子とともに今川に下りました。

城の規模でいうなら、山口教継・教吉父子の鳴海城(8,432平方m)より、沓掛城(面積67,392平方m)の城主が離反したことの方が重要ではないでしょうか。

沓掛城は鳴尾城まで6.7km、大高城まで7.9kmの位置にあります。織田軍が大高城の方へ移動すれば、鎌倉街道を通って背後から善照寺や丹下砦を強襲できます。その地の利を捨てて南下し、わずか4km先の桶狭間山で陣を引くのは常軌を逸しています。

大高城に入城するつもりだったという説もありますが、大高城(3,392平方m)の小城であり、5000人の兵士を入城させる余裕はありません。つまり、松平元康軍、朝比奈泰能軍の後詰として出陣した以外にあり得ないのです。

鷲津砦・丸根砦を陥落させた今川軍は、

そのまま、中島砦を攻めるつもりだったのか?

それとも、反転して沓掛城に帰城するつもりだったのか?

義元公の考えは、永久に知ることはできません。

001 信長の進軍時間≫

001

さて、旧参謀本部の『桶狭間役』では、突如として尾張に今川義元が侵攻したのではなく、幾度となく小競り合いを繰り返えしていたと示されています。

『信長公記』では、「御国の内へ義元引請けられ候の間、大事と御胸中に籠り候と聞へ申候なり。」から「天文廿一年壬子五月十七日、 一、今川義元沓懸へ参陣。」となって、義元の侵攻の理由を語っていない。

一方、『信長記 (甫庵長記)』では、「爰に今川義元は天下へ切り上り、国家の邪路を正さんとて、数万騎を率し、駿河国を打立ちしより、遠江三河をも程なく従え、恣に猛威を振ひしかば」と世直しの為に上洛する旨が述べられている。

同じように、『織田軍記 (總見記)』も「永禄三年の夏の比、今川治部大輔源義元、駿河三河遠江の大軍を引具し、天下一統の為に東海道を上洛するに、先づ尾州を攻平げ、攻上らんと企てらる」と上洛の意思を書き示している。

物語としては、大軍で上洛しようとしていたとする方が盛り上がる。しかし、『桶狭間役』で書かれているように、『桶狭間の戦い』は尾張と三河の境界線で起きている小競り合いに過ぎない。桶狭間から5年前の天文24年では、三河守護となった吉良氏と斯波氏が同盟を結び、義元は西三河の支配権も怪しくなっていた。

織田と今川の力関係はシーソーのように揺れ動いており、武田信玄の侵攻の前に上杉謙信が立ちはだかったように、今川義元の進撃に織田信長が抵抗し続けていた。

果たして、斉藤道三の押し込めが義元の策略であったかどうかは判らないが、美濃の斎藤義龍が道三を殺め、織田と対立するようになってから、信長は義龍と義元の両面から攻撃を受けるようになり、非常に苦しい台所事情を賄っていた。尤も織田の台所事情とは金銭ではなく、純粋な兵力の不足であった。

尾張は57万石と豊かな土地を持っていた。

さらに、津島や熱田から上がる税は20万石相当の費用を捻出できた。ゆえに尾張の5分の2程度しか治めていない織田弾正家が40万石相当の兵力(約1万人)を揃えることができた。しかし、尾張上四郡、斉藤義龍、今川義元と三者を敵に回していたので、非常に苦労していた訳である。

永禄元年に「浮野の戦い」(尾張上四郡を制圧)を勝利した信長は、尾張の支配権を確立した。このまま尾張の支配権を確実にすれば、益々好敵手となってしまう。支配権が薄い間に攻め込むのは定石と言えた。

義元の侵攻の目的は、鳴海城・大高城を囲む砦を排除し尾張知多郡の支配権を奪い取ること、さらに今川氏豊の領地であった那古野城周辺(熱田を含む)を奪回したいという気持ちもあったかもしれません。

山陽(らい さんよう)が示した桶狭間は、

将士銜レ枚レ枚馬結レ舌(しょうしはばいをふくみ うまはしたをむすぶ)

桶狭如レ桶雷擘裂(おけはざまおけのごとく らいへきれっす)

驕竜喪レ元敗鱗飛(きょうりゅうもとをうしない はいりんとぶ)

撲レ面腥風雨耶血(めんをうつ せいふうあめかちか)

一戦始開撥乱機(いっせんはじめてひらくはつらんのき)

万古海道戦氛滅(ばんこかいどうせんふんめっし)

唯見血痕紅紋纈(ただみるけっこんくれないにぶんけつするを)

と詠いました。

■桶狭間の置ける兵の配置

●織田軍

総大将:織田信長

小姓衆:岩室重休 長谷川橋介 佐藤藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎

馬廻衆:織田越前守 中川重政(織田駿河守) 津田盛月(織田左馬允) 河尻秀隆 佐々成政 (平井長康) (毛利十朗) 毛利新左衛門尉 伊東武兵衛 (水野忠光) 松岡九郎次郎 生駒勝介 蜂屋頼隆 中島主水正 猪子内匠助 金森長近 塙九郎左衛門直政 (飯尾茂助尚清) 浅井新八郎政貞 野々村三十郎 蜂屋兵庫頭 平出久左衛門 服部一忠等々

譜代衆:〔千秋家、毛利家、佐々家、内藤家、平手家、飯尾家〕

柴田勝家 林秀貞 (佐々政次) (佐久間盛重) (飯尾 定宗) (千秋四郎)

旗本衆:簗田政綱 森可成 池田恒興

熱田衆:千秋四郎

丸根砦:佐久間盛重

鷲津砦:織田秀敏 飯尾定宗 飯尾尚清

善照寺砦:佐久間信盛 佐久間信辰

丹下砦:水野忠光(水野帯刀)

中島砦:梶川高秀 梶川一秀

氷上砦:(千秋四郎)

向山砦:水野信元?

正光寺砦:佐々隼人正

星崎城:佐々隼人正

市場城:山口安盛

寺部城:山口盛重

〔知多半島〕緒川城:水野忠政?(誰が城主だったのか不明)

〔三河地区〕重原城:山岡河内守(天文23年(1554)に今川氏により落城)

牛田城:牛田政興(井伊直盛率いる先鋒隊によって落城)

来迎寺城:城主不明(牛田城の隣接する城、落城)

<出陣しなかった武将>

■旗本衆

丹羽長秀:出陣しているが名前は上がっていない。つまり、シンガリ、あるいは東方面の睨みを利かす役目を受けていた可能性が高い。現在の名古屋市天白区島田5丁目あたりに島田城がある。その島田城の牧家の菩提寺に島田地蔵寺があるが、永禄三年(1560)兵火にかかり、焼失したとある。守山城と鳴海城の中間にあり、東の岩崎城の丹羽氏勝を牽制するには、この当たりに牽制する兵がいないと背後から襲われる心配がある。

織田信清:出陣せず〔犬山城主、一門衆〕

生駒家長:〔小折城主、息子が参加〕

(注).岩崎の丹羽氏勝は『東照軍鑑』によると永禄二年(1559)四月二十六日「「丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえて信長自身が平針(天白区)に出陣し、柴田勝家・荒川新八郎らに国境福谷砦を攻めさせたが砦を構えて酒井忠次を配していた松平方に敗れた。」とある。「岩崎面を押さえて」と書かれているように、永禄2年の時点で岩崎の丹羽氏勝は今川方に組みしていたと考えられる。

島田城(名古屋市天白区島田5丁目):城主 牧長義、丹下砦の守備に付く。

植田城(名古屋市天白区植田1丁目):城主 横地秀重・秀政

<遅参組>(武功夜話)

佐々平左衛門、丹羽源助、今井小四郎、桜井甚右衛門、柏井衆、小坂孫九郎(雄吉)、村瀬九左衛門、前野新蔵(直高)、足立彦兵衛、平井久右衛門、吉田四郎兵衛、前野喜兵衛等々二百余人

<その他の武将>

前田利家 毛利十郎 毛利河内 木下雅楽助(織田薩摩守) 中川金右衛門 佐久間弥太郎  森小介 安食弥太郎 魚住隼人(敵首を討ち取った者)

毛利良勝(今川義元を討ち取った者)

服部一忠(今川義元に一番槍をつけた者)

水野信元(刈谷城主、向山砦を任されていたハズなのだが、いつの間にか消えている)

水野忠政(信元の父、天文12年の死没)

水野忠光(丹下砦の砦主、刈谷の水野一族?)

水野清久(水野清重の息子:織田軍で一番首の手柄を取った)

水野元氏(桶狭間後、大高城城主になる)

水野信近(桶狭間後、岡部元信によって三河刈屋城で討死)

牛田政興(緒川水野の家臣)

牧長義(島田城主、丹下砦の守備を任された真木与十郎、真木宗十郎と同一人物とされる)

山口盛重(寺部城主、大内義弘の次男・大内持盛を祖。持盛の子が尾張に移り住んだ)

山口安盛(市場城主、寺部城の山口盛重の兄)

山口盛隆(市場城主である山口安盛の孫で丹下砦を守る)

細作飛人(情報工作要員を五十人も沓掛城周辺にばらまいていた:武功夜話)

蜂須賀小六(川並衆)

前野将右衛門(川並衆)

<織田軍の兵数>

織田信長本隊:織田信長、2,000

・信長直属 300

・馬廻衆  700

河尻秀隆   100人〔馬廻衆〕

佐々成政   100人〔馬廻衆〕 等々

・譜代衆 600

柴田勝家       300人〔下社城主〕

林秀貞        300人〔沖村城主、沖村の土豪〕

 ・旗本衆 400

森可成    200

簗田政綱    50人〔旗本衆〕

金森長近    50人〔旗本衆〕 等々

先駆隊:佐々隼人正(政次)・千秋四郎、300〔井関城主、熱田宮司〕

善照寺砦:佐久間右衛門他1人、300

中島砦:梶川平左衛門、500

丹下砦:水野帯刀他6人、1,000

丸根砦:佐久間盛重、200

鷲津砦:織田玄蕃、飯尾近江守父子、300

星崎城:???、 300

また、鳴尾城を囲むように、寺部城・市場城・桜中村城・山崎城・島田城・植田城があり、200500人の守りを残していたと思われ、1,2002000人が後方に控えていた。

よって、この地区の織田勢は60007000人くらいであったと思われる。

(注1).市場城:山口左近太夫安盛は織田方で、丹下砦(名古屋市・緑区)を守っていました。寺部の近隣にある今川方の戸部城、笠寺城は廃城。

<武功夜話>

織田信長、2000

善照寺砦:佐久間右衛門他1人 1,700人(中島を含む)

丸根砦:佐久間盛重、 400

鷲津砦:織田玄蕃、飯尾近江守父子、 600

<帝国陸軍参謀本部編纂による>

本隊:織田信長 4,000人程度

鷲津砦:織田信平  兵数不明、400余か

丸根砦:佐久間信盛 兵数不明、400~700余か

丹下砦:水野忠光  兵数不明

善照寺砦:佐久間信辰 兵数不明

中島砦:梶川一秀  兵数不明

●今川軍

今川家当主(駿府城留守居):今川氏真

総大将:今川義元(前今川家当主)

駿河衆:<義元公をお守りする本隊中の側近衆> 2000

朝比奈親徳△○、朝比奈秀詮○、300人 (駿河東部の旗頭)

庵原之政○、庵原忠縁○、庵原忠春×、庵原忠良×、300人 (駿河庵原城主)

蒲原氏徳×、300人 (駿河東部、蒲原城主)

久野元宗×、300人 (駿河東部、久野城主)

久野氏忠×、300人 (駿河東部、江尻城主)

関口親永○、300人 (駿河東部、持船城主)

義元公の馬廻衆 200人くらい?

吉田 氏好○、1人 (軍奉行)

一宮宗是×、 ??? (持舟城主の父?)←<持舟城って、関口親永>

江尻親良×、 1人 (義元の旗本)

斎藤利澄×? 1人 (義元の旗本?)

<義元公の周辺を守る側近衆> 12002000

長谷川元長×、300人 (駿河西部、小川城主)

由比正信×、300人 (駿河西部、徳一色城主)

富永氏繁×、300人 (遠江東部、相良城主)

飯尾乗連×、300人 (遠江中部、曳馬城主)

岡部長定○、100人 (???)

藤枝氏秋×、100人 (前備侍大将)

(他にも名が残っていない者がいると思われる。者を入れて2000人かも)

<本隊先発隊> 1000

遠江衆:瀬名氏俊○、300人(駿河、瀬名館)

三河衆:本多忠高?、700人(忠高は存命していないので本多家の誰か)

<先鋒隊> 2000

遠江衆:井伊直盛×、1000人 (遠江国人、井伊谷城主)

三河衆:松平元康○、1000人 (安祥松平家六代当主)

石川家成、酒井忠次(元康の家臣)

<中堅隊> 4000

遠江衆:松井宗信×、1000人 (遠江国人、二俣城主)

朝比奈泰朝○、1000人 (遠江、掛川城主)

三河衆: 松平政忠×、1000人 (長沢松平家第7代当主)

本多忠勝、○、1000人 (尾張知多、横根地頭)

本多忠真○、(忠勝の目付役)

<鳴海城> 500

城主:岡部元信○、100人(鳴海城の城番)

尾張知多衆:山口教継?△、 500人?

<大高城> 500

城主:鵜殿長照○、500人 (大高城の城番、三河東部、上ノ郷城主)

<沓掛城> 1500

城主:浅井政敏○、1500人 (沓掛城の城番)

(近藤景春△、500人?(沓掛城支城の高圃城城主、元沓掛城主))

<鳴海城周辺> 1000

三浦義就×、3001000人?(元星崎城〔笠寺砦〕の守将、駿河東部の支配地を持つ)

<清洲方面展開> 1000

駿河衆:葛山氏元○、1000人 (駿河東郡、葛山城城主)

葛山信貞○

義元本隊   2000

本隊側近衆  2000

本隊先発隊  1000

先鋒隊    2000

中堅隊    4000

知多既存兵力4500

・鳴海城   500

・大高城   500

・沓掛城  1500

・鳴海周辺 1000

・清洲展開 1000

今川軍延べ 15500

各国人や豪族を束ねている武将は、約1000人と考え、城主は最低でも1万石以上と推測し、平均すれば300人程度を引き連れて参戦できます。名前が上がっている主な武将や城主にこれを当てると以上の兵力となります。

その他に岡崎城、数千人、知立数千人、横根城500人、今岡城500人、重原城1,000人、池鯉鮒上500人、安城500人等々である。特に水野氏が裏切る可能性が高いので知立付近の兵を待機させるのは必定である。また、三河や遠江の豪族が反旗を翻す可能性を考慮すれば、駿河の氏真に余力を残しており、掛川城や岡崎城に待機させて置くのも普通である。それらの数に加えると二万を超える。

<桶狭間 死者>

死者は、今川軍2500人、織田軍830 ほどで、要した時間は2時間という

(注1).『治世元記』、『朝野舊聞ほう藁』には、桶狭間に向かう先発隊は、大将を井伊直盛,松平元康に五月十日に駿府を出発とある。実際、松平元康の兵は三河にあり、駿河出発する時は、関口氏あるいは瀬名氏から借りた兵100人程度であったと思われる。

(注2).駿河三浦治郎左衛門範高、今川仮名目録のそのなかに「一、三浦次郎左衛門尉、朝比奈又太郎、出仕の座敷さだまるうえは、自余の面々は、あながちに事を定むるに及ばず。見合てよきように、相計らはるべきなり」とあり、三浦氏は朝比奈氏とともに、今川家の筆頭第一に挙げられている。三浦範高の子に三浦氏員、氏員の子に正勝(長男)、貞勝(次男)、氏満(三男)がいる。長男正勝は後に家康に仕え、その子を正次・直信としている。次子貞勝は上野介を称し、氏員ともされ、氏員は横山城主で「今川分限帳」に一万六千石とある。のち武田氏に属した。三子の氏俊は次郎左衛門を称し、剃髪して三休と号した。武田信玄に仕え、その後小田原の北条氏直につかえ、北条氏没落後は浪人となった。その後、家康の旗本となり、寛永七年(1630)八十七歳で没した。氏俊のあとは三男儀持が継いだ。範高の子、正勝(長男)、貞勝(次男)、氏満(三男)が桶狭間に出たかは定かではない。亜流の三浦正俊は今川氏真の後見役として駿府に残っている。

三浦義就は左馬助称し、三の山赤塚合戦のおり、「笠寺へ砦、要塞を構え葛山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎、五人在城なり。」と笠寺の守衛を任された一人である。尾張大府市深谷氏の文献では、三浦治郎左衛門貞時とされている。

義就は尾張攻略の先遣隊の大将であり、5000人の兵を率いて、善照寺と中島砦の目と鼻の先に布陣しました。貞時の資料は非常に少なく、討死したとされますが、家臣が身代わりとなり、本人はむかし助けた領民に匿まわれて髪を剃り、三浦から深谷と姓を変えて土着したそうです。

(注3).水野十郎左衛門信近1000人?の兵力の記録にない。水野信近は基本的に織田と同盟を結び、裏で今川と繋がっていると考えられる。義元や道三から送られた書状が多く残されており、好を通じでいたことは明白である。しかし、永禄2年3月に水野家臣の牛田城、知立城を落されていることから、3月時点まで織田との同盟は決裂していなかったことが伺われる。大高城の水野氏も同族であり、大高城が今川に寝返ったとして、信近の協力を得られることは非常にやり易くなる。大高城を取り囲む正光寺砦、向山砦、氷上砦の内、向山砦は信近が守っていたと思われる。松平元康は信近の裏切りによって易々と大高城に兵糧入れを完了し、丸根砦の攻略にあった。その後の消息は不明であるが、義元の性格からして中島砦の攻撃を命じただろう。しかし、信近は中島砦から雨の中を川沿いに上ってゆく信長を見逃したのではないだろうか。(豪雨の為に気が付かなかったとか惚けて)

(注4).尾張別働隊として服部左京助が武者舟二十艘(二之江の一向宗徒が黒末河口へ漕ぎ寄せたとある)

(注5).知多半島の今川方に長尾岩田氏(半島南部)の寺本花井氏である。知多市八幡町堀之内にある寺本城は、花井播磨守と嫡男勘八郎の城である。別名堀之内城・青鱗城とも呼ばれる。信長が村木攻めの帰りに攻めたが落すことができなかった。(寺本城の北1.2㌔にある花井惣五郎の篭もる薮城は、村木攻めの帰りの信長に敗れる)

(注6)戦闘に参加しない西三河衆もいた。今村彦兵衛勝長、渥美太郎兵衛友勝は大高へ輜重のみである。

(注7).桶狭間で名前が出て来ない東三河衆のは田原の戸田氏、豊川の牧野氏、奥三河の菅沼氏?である。彼らの動向は非常に気になるが、今のところ資料が見当たらない。

(注8).清洲方面遊撃隊の葛山氏元は駿東郡の国衆ですから5000人をかき集めるのは、さすがに無理がありそうです。笠寺観音で布陣し、信長を見過ごしたとも言われています。笠寺周辺を奪われた後に鳴海城などを拠点として奪回戦をやっていたのかもしれません。兵糧を考えると賄える兵数は5002000人当たりが限界でしょう。

(注9).戦における輜重は、近距離の三河などは不要であり、一方、遠江や駿河の部隊には必要になります。義元と周辺守備兵の総数は約2万人とすると、輜重部隊(武具・糧食・燃料など運ぶ部隊)は、兵士に対して1~0.5の割合で必要となります。守備兵まで含めると総勢四万人余と言われている総兵力もあながち嘘とも言えないかもしれません。

(注10. 本多忠勝は松平元康の家臣であり、本来、お側を離れないと考えたいのですが、本多氏の本領は尾張横根郡と粟飯原郡の元地頭であります。この横根郡は116299合の小さな村でありますが、水野氏の勢力地であり、沓掛城の南、桶狭間の東に位置します。そんな危険な場所を放置する訳もなく、義元公なら味方に引き入れ、兵を拠出させていると思われます。元地頭の本多氏は、彼らを引き連れるのに丁度いい人材ではなかったのではないかと考える訳です。

(注11.丸根城は富田左京亮の居城とされるだけで詳細は残っておりません。

<武功夜話>

義元本隊(義元、三浦義就) 五千

丸根砦攻略隊(松平元康) 一千

鷲津砦攻略隊(朝比奈康朝) 二千

鳴海城守備隊(岡部元信) 三千

大高城守備隊(鵜殿長照) 二千

沓掛城守備隊(浅井政敏) 千五百

清洲先遣隊 (葛山信貞) 四千五百

これで合計一万九千である。

(注).兵数の後ろに<?>マークはあるのは未確認の推定数

<帝国陸軍参謀本部編纂による>

本隊:今川義元  兵約5,000

丸根攻撃兵:松平元康  兵約2,500

鷲津攻撃兵:朝比奈泰能 兵約2,500

鳴海城守兵:岡部元信  兵数不明、700~800か

大高城守兵:鵜殿長照  兵数不明

沓掛城守兵:浅井政敏  兵数不明、1,500余か

援兵:三浦備後守正俊 兵約3,000

清洲方面前進兵:葛山信貞  兵約5,000

〔今川方の主力武将の領地〕

松井宗信:遠江(二俣城)

朝比奈泰朝:遠江(掛川城)

井伊直盛:遠江(井伊谷城)

飯尾乗連:遠江(曳馬城)

瀬名氏俊:遠江

松平元康:三河(岡崎城)

鵜殿長照:尾張(大高城、本領は三河上ノ郷)

近藤春景:尾張(沓掛城)

岡部元信:尾張(鳴海城)

●織田VS今川の兵力

様々の兵数が歴史的記録から残っており、また参照されてきました。しかし、未だに確定に至っておりません。桶狭間の動員された兵力はいったいどれくらいだったのでしょうか?

・『信長公記』織田二千不足、今川四万五千

・小瀬甫庵の『信長記』織田三千、今川数万騎

・『甲陽軍鑑』二万余、

・『武功夜話』三万有余、

・『道家祖看記』織田二千あまり、今川六万余

・『享禄以来年代記』織田七百余、今川二万余

・『徳川実紀』『武徳編年集成』『総見記』四万余、

・『改正三河後風土記』四万五千、

・『絵本太閤記』五万余

・『三河物語』三千

・『定光寺年代記』今川一万人被打(討死数)

・『足利季世記』今川一万余

・『家忠日記増補追加』織田三千余、今川四万余

・帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』二万五千

・『国高見る兵力』

駿河遠江三河約70万石 一万七千五百

駿河 15万石  3750人

遠江 26万石  6500人

三河 29万石  7250人

尾張 57万石  一万四千二百五十

(注). 旧参謀本部の『桶狭間役』では、1万石あたり250人:『明智光秀家中軍法』軍役は百石につき六人、戦闘要員〔騎馬5人、槍10人、鉄砲5人+α、合計2030人〕一万石につき200300人(つまり、250人)、豊臣軍の小田原攻め時の動員数は、100石あたり5人の軍役、『日本戦史 関原役』(1911)関ヶ原の兵数として300/万石、江戸幕府が平時に定めた軍役『徳川禁令考』1万石当たり300

●城の規模

広さを一人当たり、半畳分(5平方m程度)とし、単純に計算すると、大高城は3392平方m/5平方mとなり、678人が収容できます。同様に計算すると以下のようになります。

・清洲城 18,069平方m 3600人

城主:織田信長

(末森城 32,000平方m6400人、東西約200メートル、南北約160メートルの平山城、廃城)

・大高城  3,392平方m 678人

城主:記述無し

・鳴海城  8,432平方m 1686人

城主(一人):岡部五郎兵衛

・沓掛城 67,392平方m 13498人

城主:記述無し

・笠寺砦  4,860平方m 972人

城主(五人):岡部五郎兵衛、かつら山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助

・善照寺砦 2,160平方m 432人

城主(二人):佐久間右衛門、佐久間左京介

・丹下砦  6,552平方m 1310人

城主(六人):水野帯刀、山口ゑびの丞、柘植玄蕃頭、真木与十郎、真木宗十郎、伴十左衛門尉

・中島砦 13,195平方m 2639人 

城主(一人):梶川平左衛門

・丸根砦  1,008平方m 202人

城主(一人):佐久間大学

・鷲津砦  675平方m 135人

城主(三人):織田玄蕃、飯尾近江守父子

・星崎城  3,536平方m 707人

城主:記述無し

●周辺の山等々の標高

桶狭間山標高65m 

高根山 標高54m

幕山 標高51m

愛宕西 標高47m

生山 標高40m丘陵地

武路山 標高30m

大形山 標高44.4m

漆山 標高20m程度

諏訪山 標高21m程度

桶狭間地区 標高30m

太子 標高39m

太子ケ根 標高51m

文根山(若草山) 標高40m 〔大高緑地公園〕

善照寺砦 標高25.4

中島砦 標高5

鳴海城 標高20m

釜ケ谷 標高5.4m

<その3>

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

01

〔歴史館はこちらへ〕

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 


今川義元討死の事 狭間の戦い その3 


今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

24.今川義元討死の事 桶狭間の戦い

今川義元討死の事

天文廿一年壬子五月十七日

一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの問、帰宅侯へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし侯。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし侯て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ侯へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。

天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。

今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。

信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深困の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き侯て、声々に申され侯へども、ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。中島より叉、御人数出だされ侯。今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども、爰にての御諚は、各よく貼承り侯へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。

懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、

前田又左衛門 毛利十郎 毛利河内 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介安食弥太郎 魚住隼人

右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。

沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。

天文廿一年壬子五月十九日

旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第貼に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き貼、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。

一、山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守、累年御日に懸けられ、鳴海在城不慮に御遷化侯へば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節なし、居城鳴海へ引き入れ、智多郡御手に属し、其の上、愛智郡へ推し入り、笠寺と云ふ所に要害を構へ、岡部五郎兵衛・かつら山・浅井小四郎・飯尾豊前・三浦左馬助在城。鳴海には子息九郎二郎を入れ置き、笠寺の並び中村の郷取出に構へ、山口左馬助居陣なり。此の如く重々忠節申すのところに、駿河へ左馬助、九郎二郎両人召し寄せられ、御褒美は聊もこれなく、無下貼と生害させられ侯。世は澆季に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず、今川義元、山口左馬助が在所へきなり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、それも御用にたたず、千が一の信長纔二千に及ぶ人数に扣き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅猿敷仕合せ、因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく侯ひしなり。山田新右衛門と云ふ者、本国駿河の者なり。義元別して御日に懸けられ侯。討死の由承り侯て、馬を乗り帰し、討死。寔命は義に依つて軽しと云ふ事、此の節なり二股の城主松井五八郎・松井一門一党弐百人、枕を並べて討死なり。爰にて歴々其の数、討死侯なり。

爰に河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして、武者舟干艘計り、海上は蛛の子をちらすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ侯へども、別の働きなく、乗り帰し、もどりざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町ロヘ火を懸け侯はんと仕り侯を、町人どもよせ付けて、焜と懸け

出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り侯ひき。

上総介信長は御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、御急ぎなさるゝ程に、日の内に清洲へ御出であつて、翌日頸御実検侯ひしなり。頸数三千余あり。然るところ、義元のさゝれたる鞭、ゆかけ持ちたる同朋下方九郎左衛門と申す者生捕に仕り、進上侯。近比名誉仕りし由にて、御褒美、御機嫌斜ならず。義元前後の始末申し上げ、頸ども一々誰々と見知り申し、名字を書き付けさせられ、彼の同朋には、のし付の大刀わきざし下され、其の上、十人の僧衆を御仕立にて、義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ侯なり。清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り侯海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為めにとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き侯らひし。今度分捕に、義元不断さゝれたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、何ケ度もきらせられ、信長不断さゝせられ侯なり。御手柄申

す計りもなき次第なり。

さて、鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠り侯。降参申し侯間、一命助け遣はされ、大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・原、鴫原の城、五ケ所同事退散なり。

〔現代訳〕

二十四、今川義元討死の事

 

永禄三年(1560)壬子五月十七日

 一、今川義元沓掛へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、助勢なき様に、十九日朝潮の満干を考え、沓掛砦を落とすべきの旨必定と相聞こえ候の由、十八日夕日に及んで佐久間大学、織田玄蕃方より御注進申し上げ候所、その夜の御話、戦の手立てはゆめゆめこれなく、色々世間の御雑談までにて、既に夜が更けるに及び「帰宅候え」と御暇下さる。家老の衆申すさまは「運の末には知恵の鏡も曇るとはこの事なり」と、各々嘲弄候て帰られ候。案の定夜明け方に、佐久間大学、織田玄蕃方より『早くも鷲津山、丸根山へ人数懸り来たり候』由、追々御注進これあり。この時、信長敦盛の舞を遊ばし候。「人間五十年、下天の内を暮らぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と候て、「法螺貝吹け、具足よこせよ」と仰せられ、御具足召され、立ちながら御飯を参り、御兜を召し候て御出陣なさる。その時の御供には御小姓衆、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、これら主従六騎、熱田まで三里(9km)一気に駆けさせられ、辰刻(午前8)に源大夫御前神社の前より東を御覧じ候えば、鷲津、丸根落去と思しくて、煙上り候。この時馬上六騎、雑兵二百ばかりなり。浜てより御出で候えば、程近く候えども潮満ち入り、御馬の通い難く、熱田より上道を、もみこんで駆けさせられ、先丹下の御砦へ御出で候て、それより善照寺佐久間居陣の砦へ御出でありて、御人数立てられ、勢揃いさせられ、容態御覧じ、

 御敵今川義元は四万五千引率し、桶狭間山に人馬の息を休めこれあり。

 

永禄三年(1560)壬子五月十九日牛刻(正午)

 戌亥(北西)に向って人数を備え、鷲津、丸根攻め落とし、満足これにすぐるべからず、の由候て、謡を三番歌わせられたる由候。今度家康は朱武者にて先駆けをさせられ、大高へ兵糧入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、御辛労なされたるによって、人馬の息を休め、大高に居陣なり。

 信長善照寺へ御出でを見申した、佐々隼人正、千秋四郎の二頭、人数三百ばかりにて義元へ向って足軽にて出陣候えば、どっと懸り来て、槍下にて千秋四郎、佐々隼人正はじめとして五十騎ばかり討死候。これを見て、義元が鋒先には天魔鬼神も堪るべからず。心地は良しと喜んで、ゆるゆるとして謡を歌わせ陣を据えられ候。

 信長様子を御覧じて「中嶋へ御移り候はん」と候を「脇は深田にて、一騎討ちの道なり。無防備の容態敵方よりさだかに相見え候。御妥当ではなきの由」家老の衆御馬の手綱に取り付き候て、声々に申され候えども、振り切って中嶋へ御移り候。この時二千に足らざる御人数の由申し候。中嶋より又御人数出され候。今度は無理にすがり付き、止め申され候えども、ここにての御言葉は「各々よくよくたまわり候え。あの武者、宵に兵糧使いて夜通し来たり、大高へ兵糧入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して疲れたる武者なり。こちらは新手なり。其上小軍ニシテ大敵ヲ怖レル、事ハバカレ、運ハ天ニアリ、この語は知らざるかな。懸らば引け、退かば引っ付くべし。是非にねり倒し、追い崩すべき事案の内なり。首の分捕りをなすべからず、打ち捨てたるべし。戦に勝てればこの場へ乗ったる者は家の面目、末代の高名たるべし。ただ励むべし」と御話の所に、

  前田又左衛門

  毛利河内

  毛利十郎

  木下雅楽助

  中川金右衛門

  佐久間弥太郎

  森小介

  安食弥太郎

  魚住隼人

 上の衆てんでに首を取り持ち参られ候。先の事一々仰せ聞かさせられ、桶狭間山際まで人数寄せられ候の所、にわかに急雨が降り出し石氷を投げ打つ様に、敵のつらに打ち突くる。味方は後の方に降りかかる。沓掛の峠の松の元に、二、三抱えの楠の木、雨により東へ下り倒れる。余りの事に「熱田大明神の軍神か」と申し候なり。空晴れるを御覧になり、信長槍をおっ立て大声を上げて「さあ懸れ懸れ」と仰せられ、黒煙立てて懸るを見て、水をまくるが如く後ろへはっと崩れたり。弓、槍、鉄砲、のぼり、旗さし物、算を乱すに異ならず。

 今川義元の輿も捨て崩れ逃れけり。

  

  永禄三年(1560)壬子五月十九日

 「旗本はこれなり。これへ懸れ」と御下知あり。未刻(午後二時)東へ向って懸る。初めは三百騎ばかりまん丸になって、義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度返し合わせ合わせ、次第次第に無人になりて、後には五十騎ばかりなりたるなり。

 信長も馬から降り立って、若武者共と先を争い、突き伏せ、突き倒し、熱心な若者共、乱れ懸ってしのぎを削り、鍔を割り、火花を散らし焔を降らす。然りと言えども、敵味方の武者、入り混じらず。ここにて御馬廻、御小姓衆歴々手負い、死人数を知らず。服部小平太、義元に懸り合い、膝の口を切られ倒れ伏す。毛利新介、義元を切り倒し首を取る。これひとえに先年清州の城において、武衛様をことごとく攻め殺し候の時、御舎弟を一人生け捕り、助け申され候、その冥加たちまち来て、義元の首を取り与えられたと人々風聞候なり。運の尽きたる印に候。桶狭間と言う所は、狭間入り組み、深田足入れ、高見反り茂り、要所と言う事限りなし。深田へ逃れ入る者は所を去れず這いずり回るを、若者ども追付き追付き二つ・三つづつてんでに首を取り持ち、御前へ参り候。「首はいづれも清州にて御実検」と仰せ出され、義元の首を御覧じ、御満足斜めならず。もと御出で候道を御帰陣候なり。

 一、山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守累年御目を懸けられ鳴海在城。不慮に御他界候えば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節として居城鳴海へ駿河衆引き入れ、知多郡を御手に属す。その上愛知郡へ押し入り、笠寺と言う所に要害を構え、岡部五郎兵衛、葛山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助在城。鳴海には子息九郎二郎入れ置き、笠寺の並び中村の郷に砦構え、山口左馬助居陣なり。かくの如く重ね重ね忠節申す所に、駿河へ左馬助、九郎二郎両人を召し寄せ、御褒美はいささかもこれなく、情けなく無下無下と生害させられ候。

 

世は澆季に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず、今川義元、山口左馬助が在所へ来たり、鳴海にて四万五千の大軍を動かし、それも御用に立たず。千が一の信長、僅か二千に及ぶ人数に叩き立てられ、逃れ死に相果てられ、浅ましき天の巡り合わせ、因果歴然、善悪二つの道理、天道恐ろしく候なり。

 山口新右衛門と言う者、本国駿河の者なり。義元格別に御目を懸けられ候。討死の由承り候て、馬を乗り返し討死。寔命は義に依つて軽しと云ふ、この事なり。

 二俣の城主松井五八郎、松井一門、一党二百人枕を並べて討死なり。ここにて歴々その数討死候なり。

 ここに海西荷之上の坊主、鯏浦の服部左京助、義元へ助勢として、武者舟千艘ばかり、海上は蜘蛛の子を散らすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候えども、別に働きなく乗り帰る、戻りざまに熱田の港へ舟を寄せ、遠浅の所より降り立って、町口へ火を懸け候はんと仕り候を、町人共寄り付きてどっど懸り、数十人討ち取られ候、手柄無く川内へ引き取り候。

 上総介信長は、御馬の先に今川義元の首を持たせられ、御急ぎなさるる程に、日の内に清州へ御出でありて、翌日首実検候なり。首数三千余りあり。然る処、義元の差されたる鞭、鞢(※ゆがけ 弓を射る時につかう革手袋)持ちたる同朋を下方九郎左衛門と申す者、生捕に仕り進上候。甚だ名誉仕り候由候て、御褒美、御機嫌斜めならず。

 義元前後の始末申し上げ、首共一々誰々と見知り申す名字を書き付けさせられ、かの同朋のには、のし付きの太刀、脇差下され、その上十人の僧衆を御仕立て候て、義元の首を同朋に相添え、駿河へ送り遣わされ候なり。清州より二十町(2km)南須賀口、熱田へ参り候街道に、義元塚というのを築かせられ、弔いの為として千部経を読ませ、大卒塔婆を立て置き候らいし。此度討ち捕りに、義元普段差されたる秘蔵の名誉の「宗三左文字」の名刀召し上げられ、何度も切らせられ、信長普段差させられ候なり。御手柄申すばかりなき次第なり。

 さて鳴海の城に岡部五郎兵衛立て籠もり候。降参申し候に、一命助け遣わされる。大高城、沓掛城、池鯉鮒の城、鴨原の城、五ヶ所同時に退散なり。

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歴史館にようこそ!

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経済から見る歴史学 日本編

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経済の視点から歴史を再検証しております。

縄文・弥生編から古墳時代・・・・現代へと、経済活動の視点から見ると歴史の必然と真実が浮き彫りになり、新しい歴史に出会えるかもしれません。

上念司 経済で読み解く明治維新の概略

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ご存じ上念司さんの『経済で読み解く明治維新』の概略本であります。上念さんが書き損ねた裏舞台も少し追加して、概略と解説を加えています。

信長公記の軌跡 目次

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信長の一生を書き綴った『信長公記』を詳しく解説しております。歴史の書かれている怖い信長は嘘だらけ、本当の信長を見つける旅です。

桶狭間までが遠いのです。

過去ブロク

通州事件とプロパガンダ 

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石原莞爾の中国論

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さくらさく この花の起源

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《東田伝》東郭先生とオオカミ

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和を以て貴しとなす

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経済から見る歴史学 日本編

経済から見る歴史学 日本編

経済から世界を見ると、世界の動きが色々と見えてきます。

聖徳太子の登場も、平清盛の躍進も、織田信長の登場も、すべて歴史の必然であります。

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第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-12 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 12章 古代の通貨って、何?
>11章へ戻る 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄

12.古代の通貨って、何?

縄文・弥生人を通じて、倭国に通貨というものは存在しません。通貨(貨幣)とは、商品交換の際の媒介物で、価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3機能を持つもののことであります。古代日本、縄文人や弥生人には統一された価値観が存在しなかったので価値の尺度は曖昧でありました。ゆえに通貨というモノは存在せず、モノの価値が通貨の変わりもやっていました。

釣り針などの接着剤として有効な天然のアスファルト、冬の寒さを防ぐ毛皮、色取りどりに着飾るめずらしい貝殻、保存に便利などんぐりなどの食糧などなどが取引の材料になります。つまり、物々交換であります。弥生時代に入ると鉄が加わり、鉄が通貨のように使われることもありました。

古代日本の縄文人は一定の定住地を持たず、狩り場を求めて漂浪していたと考えられていましたが、遺跡の数々から定住型の縄文人がいることが判り、さらに埋蔵物より当時の常識を覆したのです。

礼文島の船泊遺跡で発見された縄文人の交易品には、3,800~3,500年前の縄文時代後期の竪穴式住居の跡と墓があり、銛とその先端につける矢じりの接着に、天然のアスファルトを使っていました。天然のアスファルトが産出する地域は限られおり、このアスファルトの成分を分析したところ、どうやら秋田や新潟などの国内産とは違うのです。

また、7号墓に埋葬されていた男性が身につけていたものには、ヒスイのペンダントがありました。ヒスイは新潟県糸魚川周辺が産地であり、はるばる礼文島まで持ち込まれたことになります。さらに、イモガイ、マクラガイやタカラガイは南の暖かい海に生息する貝で、日本では九州や沖縄でしか採れません。つまり、礼文島の縄文人は海外から天然のアスファルトを輸入し、南の新潟のヒスイや九州のめずらしい貝を大陸に売っていたことが伺えるのです。

日本と大陸は海に阻まれており、沖縄列島を経由する海の道、対馬海峡を渡る朝鮮半島を経由する道、そして、北の北海を渡る道しかありません。北の北海を経由する道において、この礼文島は中継地となっていました。

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〔礼文島縄文人の交易品〕(最北に生きた縄文人HPより)

これは別に礼文島の縄文人が特別だったのではありません。同じように岡山の三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石・岩手県久慈産のコハク・秋田県産のアスファルト・新潟県姫川産のヒスイが発掘されています。

縄文・弥生時代、それらの物資を運んだ者を中華の者は倭人と呼んでいました。倭人の歴史は古く、最も古いものでは、中国は燕の時代(紀元前1100年頃 - 紀元前222年)であり、「燕の鉄は倭人が運ぶ」と残されております。

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〔倭国の支配地〕

古代の船は人力を漕いでおります。1日に50km程度を移動すると、夜に陸揚げして船の点検と体力の回復を図ります。ゆえに古代の倭人は50km以内に中継地となる村を確保していきました。北は北海道、東は東海、西は中国の山東、南は台湾近海まで交易圏として持っていたようです。

上の勢力圏は、沖縄列島ルート、対馬海峡ルート、北海ルートの内、最も勢力を誇った対馬海峡を勢力圏に治める支配地です。陸を治める部族とは、支配地が異なるので諍いはあっても紛争へと発展することはありませんでした。むしろ、「燕の鉄は倭人が運ぶ」と言ったように、共存共栄の関係にあったと思われるのです。

一般的に縄文人は狩人生活を生業とし、弥生人は稲作を主食としたとされていますが、縄文人の遺跡からドングリやクリ、クルミ、トチの実などを大切な食料としていましたが、ツキノワグマ、サル、キジ、ヤマドリ、木の実や果実、野草などの山の幸、魚、貝、河豚(イルカ)、クジラの海の幸の遺跡も出土しています。

真脇遺跡のイルカ漁では、285頭ものイルカ骨(前期末~中期初頭)が出土しております。真脇遺跡は縄文時代の前期(約6000年前)から晩期(約2300年前)までの実に約4000年間、繁栄を続けた地であることが判明したことにより、食糧を求めて移動性の高い生活をしていたと思われていた縄文人のイメージは払拭され、長期定住型の縄文人もいたことが証明されたのです。

縄文人が285頭ものイルカを捕獲するには、江戸時代に行われていた七尾湾内へ追い込む『追い込み漁』を行う必要があり、富山湾には春から秋に掛けてイルカが押し寄せてきます。江戸時代に描かれた真脇のイルカ漁には、多くの集落から船を出し合ってイルカを追いこんでいく姿が描かれております。

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〔能登国採魚図絵 真脇のイルカ漁〕(イルカ漁のムラ 真脇遺跡HPより)

縄文人達も同じように、多くの部族が集まって漁をしたと考えるべきでしょう。つまり、縄文人は1つのピラミッド型の支配体制なく、横に広がる巨大な共存共栄のコミュニティーを形成したいたことが伺うことができるのです。

そして、弥生人と共に稲作がやって来たと言われていますが、最古のものとしては、美甘村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)に土器の胎土中から検出されたイネの植物珪酸体(プラント・オパール)が出土しています。この他にも縄文時代後期中葉(約4000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡などもがあり、中国で発掘された時期の内、かなり早い時期から日本に伝来していたことが伺われます。

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〔稲作の起源〕(佐藤洋一郎著『DNAが語る稲作文明』より)

倭人の流通能力が如何に高かったのかということが伺いしれるのです。そして、秦に敗れた韓が、漢に敗れた秦が、魏に敗れた呉などなどが、日本に渡来して文化を伝えているのです。シルクロード(絹の道)で有名な大陸を挟んで東西の交易が為され、秦、漢、あるいは大唐帝国の主要な貿易品であった絹は門外不出の秘密であり、紀元前3000年に始まった製法がヨーロッパに伝わるのは6世紀になってからです。それほど貴重な製法を倭国は持っていました。景初2年(238年)に朝貢して親魏倭王の封号を得えた女王卑弥呼の後継者である壹與は、魏国に奴隷30人、白珠五千孔、大句珠二枚、異文雜錦二十匹を朝貢しているのです。

異文雜錦とは、「魏志倭人伝」「晋書倭人伝」等に“桑を栽培し蚕を飼い、布を織る”とあり、間違いなく絹織物でありました。倭国は真珠やヒスイや貝などの貴重な品を産出する国であると同時に、絹や麻を織ることができる技術大国でもあったのです。

縄文人の暮らしは常に移動する為に質素な生活などではなく、定住地を定め、栗や米などを栽培し、狩りや漁でイノシシやイルカの肉などを食し、四季折々の非常に豊かな食生活をしており、貝や勾玉、ヒスイなどのあふれる装飾を身に付け、村々がコミュニティーを形成して、全国に通じる流通網を持っていました。

縄文人は四方を海に囲まれていた為に外敵の心配がなく、自給自足の生活を確立しながら、余剰を交易によって、貴重な品を交換するという生活を送っていたのです。ゆえに通貨という概念は生まれませんでした。ドングリ、稗、粟、鉄、反物、天然アスファルト、めずらしい貝殻など、物産そのものが通貨の代わりであり、物々交換が基本だったのです。

秦の始皇帝が斉国の方士である徐福(じょふく)に命じて、不老長寿の薬を求めて蓬莱山を目指します。、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記しているように倭国に蓬莱山があるとされ、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったと残されているのです。

この徐福伝説が日本の至る所にあり、青森県の小泊の徐福の里から尾崎神社、秋田の赤神神社、山梨の河口湖浅間神社、愛知の熱田神宮、三重の徐福宮、和歌山の熊野本宮大社、京都の与謝郡伊根町、福岡の八女市童男山古墳、宮崎の徐福岩、鹿児島の冠嶽園など訪問地、佐賀の徐福伝説の地等々があるのは、流通経路がしっかりとしていたからです。もちろん、徐福一代でなしたのではなく、徐福の子孫が受け継いで不老長寿の薬を全国に求めた結果だったのでしょう。

紀元前3世紀から大陸からの渡来人が多くなり、日本の中にあった弥生文化も大きく大陸の影響を受けるようになってゆきます。

三国志魏書の東夷伝弁辰条には、「国、鉄を出す。韓、濊(ワイ)、倭皆従って取る。諸の市買には皆鉄を用いる。中国の銭を用いるが如し」と記されています。前漢時代の王莽(おうもう)がつくった銅貨が対馬・北九州・岡山・大阪の遺跡などから多数出土しているのは申し上げたとおりでありますが、結局、一時代のみで終り、弥生時代後半から古墳時代の日本では、物々交換が主流であり、その中でも鉄が銭のような意味合いで使われていただけであります。

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国家、あるいは、支配者というべきものが存在しないとき、貨幣はその物の価値で取引きされます。ブラックマンデーやリーマンショックのような通貨危機などが起こると金などの値段が吊り上げってゆくのは、貨幣の支配力が低下した場合を恐れて現物を購入するという人心心理であります。ドルや円がただの紙クズになるのを本能的に恐れているのです。

同時にアメリカの軍事力が飛びぬけて強力であるが為に、その軍事的な支配力がドルの価値を支えているとも言えるのです。

貨幣・通貨というものは、物と交換できるという信用取引の1つであり、手形や口約束も個人で行う信用取引の延長線上にあり、2つは違うようでまったく同じ事であります。この貨幣は複数の取り扱い者が同時に同じ価値を共有するところに利便性があり、物々交換で起こる輸送ロスを省いてくれるのです。

しかし、国家(共同体)と流通網を信用力で結ばれているだけの関係は、信用を失えば、たちまちに崩壊する危険を孕んでいます。

現在、世界中にドル・ユーロ・円などの通貨が様々の通貨と交換されていますが、この流通が如何に微妙な信用という土台の上に存在しているのかということを再認識しなければならないのです。

もし、異常気象などで大干ばつが発生した場合、流通網が崩壊し、各国は自国民の食糧やエネルギーの確保に躍起になるでしょう。輸出そのものが規制されれば、大金を出しても食糧は変えず、流通網は簡単に崩壊します。

そうです。

通貨は一瞬で崩壊するのです。

衣・食・住、そして、現代ではエネルギーを確保する手段を常に持たない国家は、いつ崩壊するか判らないのです。

そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、歴史的に見て、突然に氷河期が襲ってくるのは珍しいことではありません。隕石の落下、大規模火山の噴火、(磁場不調による)宇宙線の急上昇による雲の大量発生は万年周期で起こっています。明日に起こっても不思議ではありません。そんな薄氷の上に我々は存在しているのです。

そういった意味で、流通網を持ちながら貨幣経済に頼らず、衣食住を自給自足に近い形で保っていたことが、縄文人や弥生人の時代を長く保っていた秘訣なのかもしれません。

現代に置き換えるなら、衣食住、そして、エネルギーを一国として持ってさえいれば、他国との干渉を受けずに自国の利益を守ることができるのです。

外国である中華や半島と流通を広く持っていた倭人は、知恵と情報を得ることによって、大陸と同じように栄えていました。

現代の国家においても、衣食住を整え、エネルギーをある程度は自前で用意できるようにすることが、古代の縄文・弥生文化から読み取れるのです。

ひとまず、第一幕<縄文・弥生時代>を終わらせて頂きます。

次は、<古墳時代>です。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-11 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 11章 古代朝鮮三国の年表
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11.邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄

ヤマト王朝が成立したのは2世紀後半から3世紀と思われます。国名は『奈良=那羅=奴羅=奴国=ナラ』です。葉集、続日本紀、日本後紀、日本霊異記、平安遺文、聖徳太子平氏伝雑勘文では、乃楽、乃羅、平、平城、名良、奈良、奈羅、常、那良、那楽、那羅、楢、諾良、諾楽、寧、寧楽、儺羅で表記されており、奈良が奴国を意識したのでは明らかでしょう。

神武天皇がヤマト王朝を成立して間もなく、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことを『欠史八代(けっしはちだい)』と呼び、事績の記載が極めて少ないため存在すら危ぶむ声が多く上がっています。

しかし、私は決して欠史八代が架空の人物と思いません。時代には大きな齟齬があります。古事記を遡っていけば、神武天皇は紀元前660年に即位され、8代孝元天皇が崩御されるのは紀元前158年頃になってしまいます。そして、14代仲哀天皇(178-200)の后である神功皇后が邪馬台国の卑弥呼であるという設定になってしまうのです。

しかし、神功皇后の子である応神天皇がヤマトに帰還し、その子である仁徳天皇が即位されるのですが、この仁徳天皇が倭の5王の一人である『讃』と言われています。この辻褄を合わせる為に、応神天皇は110歳まで生き、仁徳天皇は142歳まで生きていたことになるのです。欠史八代も往々にして長寿であります。

5代孝昭天皇 113

6代孝安天皇 137

7代孝霊天皇 128

8代孝元天皇 116

9代開化天皇 115

10代崇神天皇 120

11代垂仁天皇 139

12代景行天皇 143

13代成務天皇 107

この矛盾をグラフにして、改めたのが『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違いです。

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〔『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い〕(『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い 第二章  『日本書紀』の実年代より)

これは神武天皇が2世紀から3世紀の時代の人物である根拠であると同時に、時代背景の根拠となります。

同じ時期に朝鮮半島も馬韓・辰韓・弁韓から百済・新羅・加羅などへ転換になり、民族大移動が頻繁に起こっていたからです。しかも船が大型帆船への時代へと移り、時代の転換期に差し掛かっていたのです。

神武天皇がヤマト王朝を立ち上げて、邪馬台国と狗奴国連合(ナラ:ヤマト王朝連合)の戦いも佳境に入りました。本来ならここで邪馬台国が狗奴国に降って終りになるところだったのでしょうが、神武天皇が亡くなると、狗奴国とナラの間で確執が生まれます。

九州は日向・霧島地方を治める神八井耳命とナラヤマトの長子である神八井耳命との間で、どちらが長であるかという問題が起こったのです。記紀では、これを神八井耳命の反乱としています。結果として、長子である神八井耳命が討伐できず、代わって弟の神渟名川耳尊が討伐に成功したことから、神八井耳命は王位を弟に禅譲して、2代綏靖天皇が誕生したのであります。

そんな内輪揉めをしている間に、高句麗の第15代美川王が国家を再建して、遼東から朝鮮半島を奪回してゆくのです。中国も魏国が滅んで西晋に変わりますが、304年に西晋の混乱に乗じて匈奴の大首長劉淵が南下します。そうなると河北や山東の民に甚大な被害が出るのです。

秦・漢の時代には約8000万人が西暦280年には1600万人と5分の1まで激減したという記録があり、中華の民は飢えて死に、あるいは戦果に巻き込まれて亡くなってゆきます。しかし、その中でも内政の混乱や北方民族の南下による被害を避けて、新天地を求める民衆も多かったのです。中華の難民は渤海を渡って朝鮮半島に及び、さらに対馬を渡って倭国へと流れ込んできたのです。その騒乱が百済や新羅を生み、倭国も大きな変革を促したのです。

さて、神武天皇の東征は、東の国々を味方に付けるというリクルートみたいなものでした。紀元前2世紀の天孫の国譲りは、北九州大分県の九重・由布火山の大噴火による集団疎開であり、民族大移動でしたが、神武天皇は味方を増やす旅でありました。

もちろん、神武天皇の下には『八咫烏』の旗を持つ一族が付き従っていた訳ですから、朝鮮半島、あるいは中国の北部となんらかの関係がありました。この『八咫烏』をシンボルにしていたのが、高句麗の初代王である東明聖王(とうめいせいおう)、諱は朱蒙(しゅもう)と言います。

紀元前108年に漢の侵略により古朝鮮国が滅亡し、国を失った流民たちを率いて漢に抵抗するのが民族の英雄ヘモス(解慕漱)でありました。彼は河伯(ハベク)族の娘ユファ(柳花)と結ばれ、ユファはヘモスの親友で扶余(プヨ)の太子クムワ(金蛙)に保護されて男児を出産し、チュモン(朱蒙)を産んだとされています。朱蒙の名の由来は扶余の言葉で弓の達人と言う意味です。

扶余で頭角を現した朱蒙は、彼を危険視する者から逃れる為に友と共に扶余を捨てて東南へ逃れます。昇骨城(現遼寧省桓仁県五女山城)を築き都とし、八咫烏をシンボルとして戦場を駆け回り、高句麗を建国したと言われます。

朱蒙を助けた扶余は部族連合のようなものであり、扶余(ふよ)、濊(わい)、貊(はく)、狛(こま)族などがいました。その中心部族である扶余(=ツングース語で鹿)は鹿を神聖視し、狛は三本足のカラスを神聖視していたようです。朱蒙と共に歩んだのは、狛族の者だったのかもしれません。

もう1つ、八咫烏をシンボルとしているのが、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を始祖とする天神系氏族の賀茂氏です。賀茂氏の出身地は中国大陸の北西から東北にあった『一目国』です。「一目」の由来は、坩堝で鉄などを作る時、閃光から目を守るために片目をつぶる習慣があったからなのですが、古代中国の地理書『山海経』の海外北経によると、一目人は人間の姿をしているが、目は顔の真ん中にひとつだけついていると言われ、姓は威(い)、古代中国の帝・少昊の子孫であると言われています。キビを食べている習慣があり、人々はこの国を怖がって、鬼国(きこく)とも呼んでいたと言われます。

この賀茂氏の祖を筑紫では「八丁様」といい、山城の国では「加茂の神」と言います。『賀茂神社の葵祭』の由来は、もともと筑紫の背振神社で行われていたのを、天智天皇がご覧になって京都でも真似をして始めたことにあります。

神武天皇に従った八咫烏がどんな経路で辿り着いたのかは判りませんが、高句麗と百済は兄弟国のようなものであり、「隋書」百済伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人」(百済の先祖は高麗国より出る。そこの人は新羅、高麗、倭などが混在しており、また中国人もいる)とあるように多人種混住国家であり、百済を経由して倭国にやって来たと考えるべきでしょう。

神武天皇は臣下に土地を別け与えておりましたから、渡来系の臣下は新天地に一族を呼び寄せます。西晋が崩壊し、混乱する河北や山東から溢れ出た難民や朝鮮半島の戦果を逃れてきた民が大型帆船に乗って倭国に上陸したのです。

2~3世紀に70~80万人の倭国が4世紀には150万人へと飛躍的な人口増加を起こします。これは高地に集落を作っていた遺跡郡が沼地などの稲作に適した低地に移動した為に起こった現象ですが、誰も住まない沼地に少なくとも10万人以上が来襲しました。最終的に飛鳥時代には100万人の渡来人が押し寄せて住みついたと唱える研究家もいます。

その一人、渡来系移民が100万人規模であると言っているのは、自然人類学者で東京大学名誉教授の埴原和郎氏であります。

弥生時代初め(紀元前300年)から飛鳥時代末期(紀元700年)までの1000年間の渡来人を試算すると、この間の人口急増は農耕社会に大転換したとしても通常の農耕社会の人口増加率ではとても説明できないと説明されています。

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〔紀元700年の人口に占める縄文直系と渡来系の人口比〕(第3部 弥生文化と渡来人の登場 日本人の源流を探してHPより)

つまり、その不足分の人口が渡来系の人口であると提唱されているのです。

このデーターを元に「日本人の源流を探してHP」は、紀元150年の数値を算出し、埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の範囲内(0.1%~0.3%)では渡来人数を割り出しております。

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〔弥生時代後期から飛鳥時代末人口の増加率及び渡来人数〕(第3部 弥生文化と渡来人の登場 日本人の源流を探してHPより)

この表の人口増加率が0.1から0.3%であれば、300万人から100万人が渡来人であったという数値が導き出されます。

いずれにしろ、3世紀から4世紀に掛けて、大量の渡来人が倭国に来襲したことだけは否定できないのです。

平安時代の初期、815年に編纂された「新撰姓氏録」から1,182氏族のうち、中国・朝鮮からの渡来系というのは約3割で、そのうち中国系は4割であります。

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〔古代氏族の祖先伝承〕〕(第3部 弥生文化と渡来人の登場 日本人の源流を探してHPより)

その中に、秦の始皇帝の子孫と称する氏族や呉王の祖・夫差の子孫を称する氏族がいることが、彼らの祖先がどこから来たかを言い表しているのであります。

渡来系を含む弥生人は徐福伝説にあるように初期渡来系は北九州に定住し、そこから全国に広がっていきました。次に民族大移動で北九州から近畿当たりまで勢力が一気に伸ばし、最後に大型帆船が大陸・半島から大量の渡来人を運び、彼らの生活圏は東日本地区へと広がってゆきます。これは以前に何度も言っていたことです。

この説明を「日本人の源流を探してHP」は「第2部 縄文稲作の究明」でされていますが、結果として同じようなイメージ図が完成しております。

1-64 二重構造人形成過程のイメージ図>

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〔二重構造人形成過程のイメージ図〕(第2部 縄文稲作の究明 日本人の源流を探してHPより)

いずれにしろ、ドングリなどの木の実を主食とする先住民は山の麓などの高地を好み、稲作を中心とする渡来系の移民は土木技術が進んでいるので沼地などの低地に住んだことで、大きな抵抗もなく移住が可能であったというのが大きな要因であります。

大阪の上本町台地の側の生野区には猪飼という地名の土地があります。難波の宮の南部、河内湖の畔の低地に文字通り猪を飼う異文化の渡来人に与えられた土地でした。ここからは肉を焼く臭いが漂う異界の世界だったとそうです。このように人の住まない低地を渡来人に分け与えることで、王族は貴重の臣下を手に入れ、兵糧と兵力を同時に確保することに成功したのです。

 

さて、話を3世紀後半から4世紀に戻します。神武天皇が亡くなって『欠史八代』になると、魏の曹操が大型帆船を実用化し、4世紀には普及したと考えられます。河川用の大型帆船が海上に適したものになるには200年以上の歳月を必要としましたが、ともあれ大型帆船の登場によって、海上の交通に劇的な変化を幾つも起こしたのであります。

その1つが、交易中継地の衰退であります。縄文人から発した海洋文化は、1日50km以内に中継地を持ち、夜は船を陸揚げして点検するのが通常でありました。つまり、50km以内に同盟国を持つことが重要であり、対馬海峡を結ぶ釜山~対馬~末盧を確保することが、大陸へと続く道なのです。大陸と日本を結ぶ海の道は1つではありませんが、沖縄列島を渡る道も、ウラジオストックを大きく迂回する北海の道も、対馬海峡を渡るルートに比べて困難な道でした。必然的に、対馬海峡を掌握している部族が大きな力を持つことになっていたのです。

しかし、大型帆船は約200km近くを無寄港で移動できます。朝鮮半島の北部から北九州の筑紫、朝鮮半島の東部から丹波地方への交易が可能になったのです。つまり、邪馬台国を経由することなく、大陸と結ばれてしまったのです。

また、邪馬台国から日本海を北上してゆくルートとして栄えた出雲の必要もなくなってしまったのです。邪馬台国と狗奴国が戦争していた理由は、大陸との交易を確保する為にです。また、大陸の覇者に朝貢し、倭国王として冊封されることで権威を高めることでした。それゆえに海峡ルート(釜山~対馬~末盧)を確保することに意味があったのです。

しかし、大型帆船の登場で対馬ルート以外の航路が生まれてしまったのです。朝鮮半島の東部から直接に丹波に渡れるようになり、または、筑紫から瀬戸内海を通るルートで畿内に行けるようになってしまったのです。

小型の人力帆船では積載できなかった馬などの家畜も載せることができるようになります。また、100人単位の渡来人が軽々とやってくるようにもなりました。それそこ村ごとの移住者が登場してしまったのです。

移住そのものに問題がなくとも、大量の移民が押し寄せれば、国内に問題が起こるのも当然です。2013年のヨーロッパの人口は7.425億人です。対する難民の数は100万人を超えた程度です。1%に満たない難民が流入しただけで社会が混乱するのですから、70~80万人の倭国に10万人以上の渡来人が来襲すれば、社会が混乱するのも仕方ないのです。欠史八代時代は、まさに渡来人来襲の混乱期だったのです。

混乱期が終わると、渡来人の影響で多く国に王が乱立する群雄割拠の時代を迎えます。渡来人は土木工事や製鉄などの技術を持ち、輸入する以外に方法がなかった鉄の生産が国内でできるようになります。また、力で他者を征服するという思想が輸入されて、各国が力を蓄えて豪族として王を名乗るようになったのです。おそらく、邪馬台国なども多くの渡来人を受け入れて、国力の強化を図っていたことでしょう。

 

第10崇神天皇から第15代応神天皇の時代は、群雄割拠した豪族が覇を競うようになります。崇神天皇は大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させたと残されており、大彦命・武渟川別吉備津彦・丹波道主命を四道将軍と呼んでいます。

もし、ここでヤマト王朝が敗れていれば、今の歴史はなかったのかもしれません。

景行天皇の御世では、ヤマトタケルなどの活躍が残され、熊襲から東国まで遠征をしていることが鮮やかに描かれております。そして、仲哀天皇の時代に邪馬台国の平定に軍を起こします。仲哀天皇の后である神功皇后を『記紀』が卑弥呼と同一視する文体は、その隠された後ろめたさを隠す為にとしか言いようがありません。

倭国の王になった女王卑弥呼の邪馬台国を滅ぼしたなど、そんな不名誉なことを歴史に残す訳にはいかなかったのでしょう。神功皇后と卑弥呼を同一視することで、ヤマト王朝への併合を成し遂げたのでしょう。

このとき、奴羅(奴国)は、邪馬台国(やまたいこく / やまとこく)の名を引き継ぎ、国名を大和国(やまとこく)と改めたのではないでしょうか。

7世紀後半の大宝律令の編纂がほぼ完了した頃、701年前後に倭・倭国から日本へ改名したとあります。朝鮮半島の史書『三国史記』「新羅本紀」文武王十年(670年)12月条には、「倭国(ヤマト)、号を日本(ジッポン、ニッポン)に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とあるように、倭国=ヤマトコクであり、奴羅(奴国)から倭国(大和国)への改名は、自らが倭国の正統な王家であるという名乗りだったのです。こうして、旧倭国の支配者であった邪馬台国はひっそりと舞台を去ってゆくのでした。

さて、倭国は朝鮮半島まで勢力を回復し、宋などの中華の覇者から倭王と称されたのが、第16代仁徳天皇から第21代雄略天皇の時代を『倭の五王』の時代と呼ばれています。

413年、東晋に安帝に貢物を献上したのが倭国の王『讃』が、仁徳天皇であるのか、仁徳天皇の子である履中天皇であるのかは議論の余地がある話でありますが、重要なことは、この時点でヤマト王朝が倭国の宗主と認定され、その血統であることに大きな意味を持つようになるのです。そして、この時代から多くの豪族がヤマト王朝と結ばれることで権力を拡大するという構図が生み出されてゆくのでした。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-10-4 朝鮮三国情勢と倭国

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 10章 古代朝鮮三国の年表
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>高句麗(こうくり)
>百済(くだら)
>新羅(しらぎ)
>古代朝鮮三国の年表

<<古代朝鮮三国の年表>>
紀元前206年 秦が項羽によって滅ぼされる。
紀元前230年 秦に滅ぼされた韓の難民が朝鮮半島で辰国を建国する。
紀元前202年 劉邦、皇帝に即位して、漢を建国する。
紀元前195年 前漢の劉邦配下である燕王盧綰、衛満が箕子朝鮮に亡命する。
紀元前194年 燕王盧綰、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を興す。
紀元前128年 衛氏朝鮮に服属していたワイの君長である南閭が、衛氏朝鮮の衛右渠に叛いて、28万人
を率いて漢に投降し、漢の武帝が朝鮮北部に蒼海郡を設置する。
紀元前109年-紀元前108年 前漢の第7代皇帝の武帝(ぶてい) 衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初め
とする漢四郡を置く。
紀元前57年 初代の王、赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん)が斯蘆国を建国する。
紀元前37年 朱蒙、高句麗を建国する。
紀元前18年 朱蒙の子を沸流・温祚は、瑠璃王が太子となったので、烏干・馬黎らの10人の家臣と大勢
の人々とともに南方に逃れ、馬韓の慰礼城で十済(後の百済)を建国する。(百済初代王は、沸流とも、温祚とも言われる)
  4年7月 新羅の第2代の王南解次次雄(なんかい じじゆう)、楽浪の侵入を受けて首都の金城が何
重にも包囲されるが、楽浪は撤退する。
 14年 倭人が兵船100艘余りで斯蘆国に攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。
 25年 光武帝(こうぶてい)、皇帝となり、後漢を建国する。
 36年 楽浪の兵が斯蘆国北辺に攻め入り、朶山城(京畿道安城市二竹面)が奪われる。
 37年 高句麗の大武神王が楽浪を攻め滅ぼすと、楽浪の民5千人が斯蘆国に流入した。
 40年9月 楽浪から独立していた濊(ワイ)の治める華麗県・不耐県が辰韓の北辺に攻めてきたが、
貊国が出兵してこれら二県の兵を打ち負かす。
 57年 後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与される。
 57年 新羅の第4代の王・脱解尼師今(だっかい にしきん)、即位して、百済の多婁王と蛙山城(忠
清北道報恩郡)をめぐって度々戦う。
 73年 新羅の第4代の王・脱解尼師今、倭人が木出島に進入し、角干の羽烏を派遣したが勝てず、羽
烏は戦死した。
 77年 新羅の第4代の王・脱解尼師今、伽耶と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官
)に引き上げた。
173年 新羅の第8代の王・阿達羅尼師今(あだつら にしきん)、倭の女王卑彌乎から使者を送ってき
た?(三国志』東夷伝倭人条の景初2年(238年)記事からの造作と言われる)
244年 魏国の毋丘倹が高句麗を攻撃、第11代・東川王は沃沮の地に逃れた。
248年 高句麗の第12代中川王が即位する。
258年 魏国の尉遅楷が攻めてきたが、精兵五千を送り梁貊の谷で大いに破り、首級八千をあげた。
300年 高句麗の第15代・美川王が国を再建する。
302年9月 西晋の混乱に乗じ、美川王は玄菟郡に侵入する。
311年8月 美川王、遼東郡の西安平を襲撃して奪い取る。
315年以前 帯方郡太守、高句麗の攻撃に対して婚姻関係にあった百済に救援要請をした。
313年10月 美川王、楽浪郡に侵入してこれを滅ぼし、翌々315年には帯方郡を滅ぼした。
346年  馬韓の小国であった第13代近肖古王、馬韓地域を統一して百済を建国する。
350年 前燕は後趙を攻め滅ぼす。(高句麗も属国として参加する))
352年 テイの族長苻健は東晋から独立して前秦を建国した。前秦は急激に勢力を拡大し、華北一帯は
前秦と前燕で東西を二分することになった。
360年前後、高句麗の西側にある前燕、高句麗の領土をうかがう。
360年前後、高句麗北方を後燕に奪われ南下政策をとる
360年前後、高句麗の南下によって百済・新羅は加耶方面へ押し出される。
366年 羅済同盟(らさいどうめい)、百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため
同盟を結んだ。
370年 前燕が前秦の符堅に滅ぼされ、高句麗に逃げて来た慕容評を符堅に送った。
371年 百済、高句麗の平壌城攻める。高句麗故国原王戦死。
372年 高句麗に仏教伝来
375年 高句麗南下で危機感を持った百済の近肖古王、倭国に七支刀を贈り
援軍を望む。
377年 新羅の第17代の王、奈勿尼師今(なこつ にしきん)、高句麗に随伴して前秦に朝貢する。
382年 加耶、新羅と葛城襲津彦によって滅亡。加耶人民の列島渡来へ。
382年 新羅の第17代の王、奈勿尼師今、前秦に単独で朝貢し、国号を斯盧から新羅に改める。
384年1月 慕容垂、後燕を建国。
384年 百済に仏教伝来
385年 高句麗、後燕を破り、遼東に進出。
386年 後燕の慕容垂、河北一帯に進出。
391年~2年 高句麗広開土王即位。
391年7月 後燕の慕容垂、北魏と抗争状態に入る。
392年1月 新羅第18代の王・奈勿尼師今は、実聖を高句麗に人質として差し出す。
392年 高句麗の好太王(こうたいおう)、石硯城(黄海北道開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取
し、関彌城を陥落させた。 
392年6月 前秦の苻 丕(ふ ひ)、河南省の黄河南岸の?魏(てきぎ)を滅ぼす。
392年8月 前秦の苻 丕、前燕の継承権をめぐって抗争していた同族の西燕を滅ぼし、さらに東晋と
戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築く。 
392年秋八月 広開土王、高句麗南辺をこえて百済を侵す。平壤に九寺を創建。
393年秋七月 百済が高句麗へ侵入
394年秋八月 広開土王、百済と海戦、これを大いに破り、捕虜八千余を獲得した。
394年 後燕の慕容垂、西燕を滅ぼし、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東
・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げる。
395年 後燕軍、参合陂の戦いで北魏軍に大敗。
395年 広開土王、礼成江まで反撃する百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化し
た。
396年 広開土王、漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を
献上させ、永く隷属することを誓わせた。
396年 百済と新羅がともに倭に人質などを贈って援軍を依頼し、倭はそれに応えて援助した。
397年 百済は倭国に百済の阿?王は王子腆支を人質として倭に送り通好する。
398年 慕容徳、滑台(河南省滑台)に自立して燕王を称す(南燕)。
399年 百済は倭国に七支刀を献上して友好的な関係を強化する。
399年 百済は先年の誓いを破って倭と和通した(高句麗側の因縁)。
399年 高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の王
都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き任那・加羅まで後退する。高句麗軍が追撃すると倭国傘下の安羅の別働隊が新羅の首都を陥落させた為に新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に送り臣従する。
400年 後燕の慕容盛、高句麗を攻撃して、遼東を奪回する。  
400年 高句麗は5万の大軍を派遣して新羅にも攻め込んだ。新羅王都を守っていた倭軍が退却したの
で、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に(百済のために)援軍を送ってきたので、広開土王は立ち向かった。
401年7月 新羅の第18代の王・実聖尼師今(じっせい にしきん)、高句麗の人質になっていた王子
が即位して、高句麗の支配化で新羅の王となる。
402年 高句麗、後燕の宿軍城(遼寧省朝陽東北)を陥落させる。
402年 帯方界で倭軍が攻撃するが撃退される。
402年3月 新羅の第18代の王・実聖尼師今、倭国と国交を結び、先王の第3子の未斯欣を人質として
送った。
405年 新羅の第18代の王・実聖尼師今、明活城(慶州市普門里)に攻め入られ、退却しようとする倭
軍を実聖尼師今自ら騎兵を率いて独山(慶州市)の南で撃破した。
405年 百済、日本に漢字を伝える。
407年7月、慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋に殺害され、後燕は完全に滅亡する。高句麗、後燕に
侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た。
410年 広開土王、東扶余を屈服させることで北と東に領土を拡大し、西は遼河、北では開原から寧安
、東では琿春、南へは臨津江流域にまで至った。
412年 新羅の第18代の王・実聖尼師今、高句麗に対して先王の第2子の卜好を人質として送る。
418年 新羅の第19代の王・訥祇麻立干(とつぎ まりつかん)、高句麗と倭とへ人質として送られて
いた王弟が帰国して、高句麗の従属国の王として即位した。
427年 高句麗の長寿王、平壌城遷都
429年 百済の第20代の王毘有王(ひゆうおう)、宋へ朝貢す。
430年 百済の第20代の王毘有王、宋から百済王に冊封される。
433年 第2次羅済同盟(433年 - 553年)、百済の毘有王と新羅の訥祇麻立干が、高句麗の南進政策に脅
威を感じ、軍事的攻守同盟を結んだ。
450年7月 新羅の第19代の王・訥祇麻立干、高句麗の辺境の首長が悉直(江原道三陟市)の辺りで狩
猟をしていたところを、何瑟羅(江原道江陵市)の城主の三直が急襲して殺害し、俄かに高句麗との緊張を招いた。怒った高句麗の長寿王は新羅の北西部国境に軍を派遣してきたが、新羅では丁寧な謝罪を行って、高句麗に退却してもらった。
454年8月 新羅の第19代の王・訥祇麻立干、高句麗が新羅北部辺境に侵入する。
455年10月 高句麗、たびたび百済に侵攻した。新羅は百済の救援に向かった(倭国は支援しなかっ
た)
461年 百済第21代の蓋鹵王(がいろおう)、弟の軍君昆伎君を倭国に人質として送りよしみを通じる

472年 百済第21代の蓋鹵王、北魏に対して上書して高句麗の非道を訴え、北魏が高句麗を討伐するこ
とを願い出たが失敗する。
475年、高句麗の長寿王、自らが3万の兵を率いて親征し、王都の漢山城を陥落させ蓋鹵王(がいろお
う)を斬首した。百済首都を熊津(ユウジン・くまなり)へ遷す。
<一説には、475年で一度、百済が滅んだという説もある>
475年10月 百済第22代の文周王(ぶんしゅうおう)、新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、
既に漢城は陥落して蓋鹵王は処刑されていた。文周は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。(倭国は支援しなかった)
475年 新羅の第20代の王・慈悲麻立干(じひ まりつかん)、百済の漢城陥落に危機感を覚え、居城
を明活城(慶州市普門里)に移した。
476年 雄略天皇20年に高句麗が百済を滅ぼしたこと、同21年(477年)3月に雄略天皇が久麻那利(こ
むなり、熊津を指す)を百済の?洲王に下賜して国の復興をさせた。『日本書記』
493年 百済の東城王は新羅と婚姻関係を結んだ。
495年 百済の東城王、高句麗に侵入された際には新羅から救援が来て高句麗兵を退ける。
498年8月 百済の東城王、耽羅(済州島)が貢賦を納めなくないので親征す。
503年 新羅、国号・王号定める
512年 百済第25代の武寧王(ぶねいおう)、漢江流域に対する高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、高句麗
に壊滅的打撃を与える。
520年 新羅、律令頒布、官の衣服を制定。
525年 百済武寧王陵築造
529年 百済第26代の聖王(せいおう)、高句麗の安臧王?の親征に勝てず、2000人の死者を出す。
527年 新羅、仏教公認
532年 新羅、金官国(南伽?)併合
538年 百済、泗?城へ遷都
541年 百済第26代の聖王、任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した。
551年 百済の聖王は、百済、新羅、伽耶の連合軍により、高句麗から漢江流域を取り戻した。
552年 百済、日本に仏教を伝える。
553年 新羅の真興王、百済から漢江流域を奪い、同盟関係は壊れた。
554年 新羅の真興王は戦いで戦死する。
554年7月 大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死
する。 
562年 新羅、大伽?(高霊伽?)を滅ぼす
577年 北周の武帝は北斉の首都鄴を攻め落として北斉を滅ぼし、華北を43年ぶりに統一した。
581年 北周の静帝より禅譲を受けて隋を建国する。
586年 高句麗、長安城に遷都
589年 隋が陳を滅ぼして中国を統一する。高句麗の平原王は直ちに防備の体制を整えたが、これをみ
隋は高句麗を咎めたために、平原王は恐れて上表して陳謝しようとしたが、使者を送る前に死去した。
589年 高句麗の嬰陽王が即位、隋より<上開府儀同三司・遼東郡公・高句麗王>に冊封されるが、靺
鞨の人々を率いて遼西に進入した。そのために隋の文帝の怒りを買い隋の高句麗遠征(隋の高句麗遠征)(第一次遠征)を引き起こすことになった。(和睦終決)
607年 高句麗の嬰陽王、東突厥の啓民可汗の幕営に使者を派遣していたところを隋の煬帝に見られ、
二次遠征(612年)の遠因となった。
607年、608年 百済第30代の武王(ぶおう)、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文
を提出する。
611年 百済第30代の武王、隋の高句麗討伐の先導を買って出ることを申し出た。
612年 煬帝、高句麗攻撃(薩水の戦い)隋の第二次高句麗遠征(隋軍を撃退)(百済は、この遠征に
従軍しなかった))
613年 隋の第三次高句麗遠征(隋軍を撃退)
614年 隋の第三次高句麗遠征(隋軍を撃退)
617年 李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝
を太上皇帝(前皇帝)に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。
618年 李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国する。
621年、百済第30代の武王、唐に朝貢を果す。
622年 高句麗の栄留王、唐に朝貢を行い、隋の高句麗遠征の時の捕虜を互いに交換した。
624年 百済第30代の武王、唐より百済王に冊封される。
624年 新羅の第26代の真平王(しんぺいおう)、唐より柱国・楽浪郡公・新羅王に冊封される。
624年 高句麗の第27代栄留王(えいりゅうおう)、唐より上柱国・遼東郡公・高句麗国王に冊封され
る。
624年 麗済同盟(れいさいどうめい)、高句麗と百済が新羅を攻撃するために結んだ軍事同盟で、百
済が滅亡した660年まで続いた。
642年7月 百済第31代の義慈王(ぎじおう)、単独で新羅に親征し、?猴など40城余りを下した。8月
には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃した。この攻撃は大勝に終わり、降伏してきた城主を妻子ともども斬首し、男女1千人を捕虜とし百済の西部に移住させた。 
642年10月 高句麗の将軍、淵蓋蘇文(えん がいそぶん)は180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵
王を第28代王に擁立して自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就任して政権を掌握する。
643年 百済第31代の義慈王(ぎじおう)、高句麗と同盟(麗済同盟)して新羅の党項城(京畿道華城
市)を奪おうとしたが、新羅が唐に救援を求めたため、新羅攻撃は中止することとなった。
644年 新羅との和解を高句麗に勧告するが、唐の太宗の要求を拒否する。これに激怒した太宗が弑君
虐民の罪を問い、高句麗に開戦宣布する。
645年 第一次高句麗遠征、安市城の戦い 高句麗が唐に勝利する。
647年 第二次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
648年 第三次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
649年 唐の太宗が崩じると、高宗が三代皇帝の座に付く。高句麗との戦いは断続的に継続しながら消
耗戦で戦略を変更する。また高句麗と敵対する新羅を冊封した。(唐・新羅の同盟)
655年 第四次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
658年 第五次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
654年 新羅、金春秋即位(武烈王、太宗)
655年 高句麗の将軍淵蓋蘇文が死ぬと、淵男生が後を継いだ。しかし、弟の淵男建・淵男産との間に
内紛が生じ、淵男生は唐に投降した。唐軍は淵男生を先頭にして、李勣などが高句麗に侵攻した。金春秋、将軍・金?信とともに巧みな外交(花郎大活躍)
660年 新羅、唐と連合し百済滅ぼす。
663年 白村江に百済・倭連合艦隊を大破し百済再興は消滅。百済王族大挙して倭の近江(蒲生郡など

)などへ移住する。(扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)の願いで倭国が百済救援に赴き、唐・新羅連合に敗

北する)
668年 新羅・唐連合、高句麗を滅ぼす。
676年 新羅、三国統一

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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