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経済・政治・国際

アベノミクスと経済政策(1)

■アベノミクスの好循環

①金融緩和によってお金を借りやすく

②市場にお金が増えて消費が増える。

③物が売れて企業の収益が上がる。

④企業の利益が増えて賃金が上昇する。

(再)①賃金が増えて使えるお金が増える(デフレから脱却)

01

景気の好循環は金融政策だけで起こる訳ではない

安倍晋三総理が提唱するアベノミクスは、それを3つの経済政策『3本の矢』と言った。

○大胆の経済政策

○機動的な財政政策

○民間投資を喚起する成長戦略

この3つよって経済の好循環を生み、日本を再生する。

政策の主な柱は、

・日銀の金融緩和

・日本政府の公共事業の拡大

つまり、日銀がお金をじゃぶじゃぶ流し、政府がそのお金を使える場所を提供する。すると、企業は仕事にありつけ、従業員は給与が貰える。

お金仕事を与えるのがアベノミクスである。

安倍総理が言った3本の矢の中身は以下の通りである。

「大胆の経済政策」

2%のインフレ目標

・無制限の量的緩和

・円高の是正

「機動的な財政政策」

・大規模な公共投資

・日本銀行の買いオペレーションを通じた建設国債の買い入れ・長期保有

「民間投資を喚起する成長戦略」

・健康長寿社会から創造される成長産業

・全員参加の成長戦略

・世界に勝てる若者

・女性が輝く日本

■アベノミクスは成功するかの?

安倍総理が提唱する経済の好循環は本当に実現できるのだろうか。アメリカが行ったニューディール政策は1933年に大統領になったフランクリン・ルーズベルト大統領が行った政府が市場に積極的に介入した政策である。

Gdp19101960_19291939

〔米国の実質GDP1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (19291939)

19101960_192919391939

〔米国の失業率(1910-1960年)、赤色強調は大恐慌時代 (19291939)1939年以前は推定値〕

1933年を底辺として、米国のGDPと失業率が上昇に転じていることが判る。政府における結局的な公共事業や雇用政策の介入によって回復がなされた訳である。一方でアメリカの景気回復は1939年の第二次世界大戦の軍需支出に大きいという声もある。

私はその両方であると思う。

なぜなら、『ニューディール政策』を行い景気回復の効果は大きかったが、1937年にアメリカ政府は増税を実施し、金融引き締めを同時に行った。これでアメリカの景気は一気に萎み、再度不況の転じたのである。1939年から始まる戦争需要がアメリカのV字回復を下支えし、戦後のアメリカを作ったと言える。

その為にニューディール政策の正否のみを問うのは難しい。

積極的な財政政策の例として、日本の高橋是清が取った政策がある。

19291024日、アメリカのニューヨーク証券取引所で始まった株価の大暴落である『ブラックマンデー』は瞬く間に世界中の景気をどん底に落とした。

日本は、大正関東地震(192391)の処理のための震災手形が発行され、その手形が膨大な不良債権と化していた。当時の銀行は私的な金融業者が貸出すことが多く、銀行自身が事業を起こして金を貸し付けることが多く、事業の失敗が銀行の経営に影響する。そこに地震で事業そのものが消滅する危機に見舞われる。つまり、貸した金を回収できない事態になった。これに政府が援助せず、銀行を破たんさせるという趣旨の発言があったことから、預金引き出しが殺到し、昭和金融恐慌(19273月)が始まっていた。こうした日本経済の足腰が弱体する中で『ブラックマンデー』が襲い掛かった。

日本の主産業の1つであった生糸は多くをアメリカに輸出していた。金解禁と世界恐慌によって壊滅的な打撃を受けて、日本国内の株価も暴落し倒産が相次いだ。

1931年(昭和6年)犬養毅総理が4度目の蔵相に高橋是清を就任され、是清はデフレ脱却の為に『リフレーション政策』を行い、世界恐慌で混乱する世界に先駆けて経済の立て直しをやり遂げた。

『リフレーション政策』とは、年率12%の低いインフレ率を実現させる政策であり、インフレターゲットと無期限の長期国債買いオペレーションという黒田総裁が行っている政策のことである。

高橋是清のリフレーション政策によって、1932年から日本の経済が立ち直っているのがGDPの数値から取って判る。但し、1931年に満州事変が起こっていることから、特需が景気を下支えした件も否めない。

Gdp19111940

〔日本のGDP1911-1940年)〕

Photo

〔一般会計と臨時軍事費に占める直接軍事費の比重〕

最後に参考となるがドイツである。

アドルフ・ヒトラーがドイツ経済を立て直しに指名したのが、ヒャルマール・シャハトである。シャハトは193482日にクルト・シュミット経済相の辞任に伴い、代わって経済相に任命されている。シャハト自身は、1931年頃からナチ党と行動を共にしていることから、ドイツを蘇らせた『第一次四カ年計画』に深く関わっている。

1929年に起こった『世界恐慌』は第1次世界大戦の敗北で疲弊していたドイツ経済を破壊し、GDPの35%が失われる危機に陥った。シャハトは雇用創出手形とメフォ手形という一種の国債手形を発行し、財源を確保すると、大型の公共事業を起こすことで財政を再建した。財政における手腕から『財政の魔術師』と呼ばれている。

1929_1945

〔主要国の国内総生産GDP 1929 - 1945年 〕

19271940

〔ドイツの1927-1940年、年平均登録失業者数推移〕

ナチスで行われた『第一次四カ年計画』の内容は、

・公共事業における失業対策

・価格統制によるインフレ抑制

・農業・中小手工業の従事者への救済

・ユダヤ人・戦争利得者などの高収入者への利益を国民に再分配

・ドイツ経済の再編成

最も象徴的な事業はアウトバーンである。しかし、単に公共事業を発注したのではなく、建設費46%が労働者への賃金と払われる法律を制定していた。阪神大震災や東北大震災などの復興事業で公共事業が行われるが、労働者が潤わないのは賃金体系から逆算して、公共事業費を設定していないからである。また、事業が始まると労働者の衣食住や中小企業の設備投資に金融貸し付けを無担保で政府が保証する制度も行っている。東北復興が始まると労働者が止まる住居がない為に作業員が集まらず、工事が滞るという体たらく。中小企業における材料の生産を上げるにも金融が貸し渋り、新しい設備を作れず、生産そのものが遅れるという不手際。価格が統制されていない為に起こるダンピングで中小企業は不当に低い利益で生産を余儀なくされ、従業員を補充できない為に生産効率を上げられないという二重の遅延状況。それらをセットとして復興を考える『第一次四カ年計画』は、日本もドイツを見習わなくてはならない。

さて、16億マルクを捻出して、ドイツ経済に投入したシャハトは、ドイツを一気に再生させた。1934年から1938年に掛けて財政赤字が増大しているのが判る。しかし、1934年から1935年に掛けて、財政赤字が解消しているのが判るだろうか。

もしもヒトラーが軍事政権を目指さず、当初のように福祉国家の道を進んでいたなら、つまり、軍事費を不要に増やしていなければ、1938年頃には財政赤字が解消していた。下の図でも判るように、ヒトラーが赤字(増税収分)に示される範囲で軍事費を抑えていれば、財政のバランスシートは保たれていた訳である。

ドイツの財政支出と軍事支出と財政赤字<1934年-1938年>

                                                                                                           
 

年度

 
 

 

 
 

1934

 
 

1935

 
 

1936

 
 

1937

 
 

1938

 
 

財政支出

 
 

 

 
 

104

 
 

128

 
 

158

 
 

201

 
 

318

 
 

(非軍事支出)

 
 

103

 
 

88

 
 

100

 
 

119

 
 

134

 
 

軍事支出

 
 

 

 
 

19

 
 

40

 
 

58

 
 

82

 
 

184

 
 

軍事比率(%)

 
 

18

 
 

31

 
 

37

 
 

41

 
 

58

 
 

財政赤字

 
 

 

 
 

39.3

 
 

41.7

 
 

50.1

 
 

58.1

 
 

108.1

 
 

メフォ手形

 
 

 

 
 

19.8

 
 

27.2

 
 

46.5

 
 

24.9

 
 

-0.7

 
 

(軍事費を除く

 
 

財政赤字)

 
 

20.3

 
 

1.7

 
 

-7.9

 
 

-23.9

 
 

-75.9

 

単位: 10億マルク(RM)

結果として、1932年にいた600万人の失業者は、1938年に429千人に減っており、植民地を持っていないドイツが国内産業を活性化させるだけで景気を回復させている。オーストリアやポーランドの拡大はこの後であるから非常に参考になる。(ドイツ軍は1938年にオーストリアを併合、193991日にポーランドへ侵攻した。)

以上の『ニューディール政策』、『リフレーション政策』、『ドイツの四カ年計画』の成果を見る限り、効果的な財政を運用すれば、『アベノミクス』による景気回復は期待できる。

■アベノミクスの成果

第2次安部内閣が誕生したのが、20121216日に衆議院選挙に大勝し、294議席を確保して第1党に返り咲き、第96代内閣総理大臣に選出され、2013228 183回国会の演説でアベノミクスを提唱し、日本のデフレ脱却と経済の再生を誓った。

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2013年の秋以降から安倍内閣の2013年補正予算による公共事業と黒田日銀総裁による異次元金融緩和の効果は現われ、為替は円安傾向に進み、日経平均が1万円を超え、1万4000円に達した。

これは『リフレーション政策』が間違っていないことを証明している。

しかし、小泉純一郎が政権を起こったことが起こらなかった。2001-2006年では、竹中平蔵をブレインとして1ドル115円を維持する政策を取った。竹中平蔵は為替介入でアメリカの米国債を買った。2002年末に3781億ドルだった米国債保有が、200411月末で7149億ドルになる。つまり、二年間で3368億ドル(35兆円相当)の資金がアメリカに流れた。この資金が金融の流れ、金融の小バブルが起こったのである。これによってアメリカは好景気になり、日本もアメリカ向け輸出量が伸び、日本の経済成長を達成した。しかし、竹中平蔵は労働の規制緩和によって労働賃金の引き下げを行った為に、企業は儲かり、個人は疲弊した。それゆえに『実感なき経済成長』と呼ばれる。

2013年の『アベノミク』でも金融緩和で円安が進み、輸出産業が高収益を上げると考えられていたが輸出量は伸びてなかった。

これは民主党政権下で取られた円高政策(無策)によって国内産業が海外に移転し、国内産業の空洞化が起こり、円安効果の恩恵を受けない経済構造に転換した為である。結果として、企業成績が伸びす。給与も増えない。消費も増えないという結果になった。

円安で輸出企業の業績回復による景気の下支え効果は、期待したほどには起こらなかったのである。

01_2

小泉モデルで期待されていた輸出産業による経済の牽引は完全に失敗であった。

しかし、公共事業を増やした成果から2013年秋頃から株価の上昇に伴って、純工業生産指数や現金給与総額がわずかに上昇しているのが判る。これは公共事業(東北大震災の復興需要やオリンピックなどその他の公共事業などを含む)の増加によって国内産業のGDPが増加し、内需が潤い始めたからである。

13

14

純工業生産指数、家計消費支出の推移を詳しく見てほしい。

20129月から自民党に安倍晋三が総裁に就任した頃から純工業生産指数が期待感から上昇しているのが判る。一方、消費支出は多少の上下があっても方向性がないことが判る。一方、2013年末に消費税の8%への引き上げが決まったことで、純工業生産指数はピークを迎えている。一方、家計消費支出は駆け込み需要で5%を超えるが、その後はマイナスに転じている。

それを端的に表しているのが、現金給与総額の推移である。

11

金融緩和による円安効果は、物価高を引き起こす。同時に公共事業で労働者を引き受け、労働単価が上がれば、消費が拡大し、『アベノミクス』は成功したハズであった。

しかし、ドイツの『四カ年計画』などに見られる。労働賃金の引き上げ政策や物価安定の政策、事業を拡大する為の貸し出し政策を行っていなかったことから、物価の上昇が賃金の上昇に追い付かなくなったのである。

このことをまったく考慮していなかった安倍政権は、20144月に消費増税を実施し、消費の冷え込みに拍車を掛けた。

これは2014年の実質GDPは1400億円ほどのマイナスとなって反映されている。

名目・実質GDPとデフレーター(1980-2014

                                                                                                                                                                                                                                                                                               
 

年度

 
 

名目GDP

 
 

実質GDP

 
 

GDPデフレーター

 
 

1980

 
 

246,464.50

 
 

269,833.88

 
 

91.34

 
 

1981

 
 

264,966.29

 
 

281,104.42

 
 

94.26

 
 

1982

 
 

278,178.97

 
 

290,596.21

 
 

95.73

 
 

1983

 
 

289,314.59

 
 

299,490.60

 
 

96.60

 
 

1984

 
 

307,498.71

 
 

312,859.56

 
 

98.29

 
 

1985

 
 

330,260.58

 
 

332,674.07

 
 

99.27

 
 

1986

 
 

345,644.50

 
 

342,092.33

 
 

101.04

 
 

1987

 
 

359,458.42

 
 

356,143.52

 
 

100.93

 
 

1988

 
 

386,427.79

 
 

381,596.01

 
 

101.27

 
 

1989

 
 

416,245.86

 
 

402,088.29

 
 

103.52

 
 

1990

 
 

449,392.30

 
 

424,494.26

 
 

105.87

 
 

1991

 
 

476,430.98

 
 

438,605.89

 
 

108.62

 
 

1992

 
 

487,961.51

 
 

442,198.20

 
 

110.35

 
 

1993

 
 

490,934.25

 
 

442,954.64

 
 

110.83

 
 

1994

 
 

495,743.40

 
 

446,779.90

 
 

110.96

 
 

1995

 
 

501,706.90

 
 

455,457.90

 
 

110.15

 
 

1996

 
 

511,934.80

 
 

467,345.60

 
 

109.54

 
 

1997

 
 

523,198.30

 
 

474,802.70

 
 

110.19

 
 

1998

 
 

512,438.60

 
 

465,291.70

 
 

110.13

 
 

1999

 
 

504,903.20

 
 

464,364.20

 
 

108.73

 
 

2000

 
 

509,860.00

 
 

474,847.20

 
 

107.37

 
 

2001

 
 

505,543.20

 
 

476,535.10

 
 

106.09

 
 

2002

 
 

499,147.00

 
 

477,914.90

 
 

104.44

 
 

2003

 
 

498,854.80

 
 

485,968.30

 
 

102.65

 
 

2004

 
 

503,725.30

 
 

497,440.70

 
 

101.26

 
 

2005

 
 

503,903.00

 
 

503,921.00

 
 

100.00

 
 

2006

 
 

506,687.00

 
 

512,451.90

 
 

98.88

 
 

2007

 
 

512,975.20

 
 

523,685.80

 
 

97.95

 
 

2008

 
 

501,209.30

 
 

518,230.90

 
 

96.72

 
 

2009

 
 

471,138.70

 
 

489,588.40

 
 

96.23

 
 

2010

 
 

482,384.40

 
 

512,364.20

 
 

94.15

 
 

2011

 
 

471,310.80

 
 

510,044.60

 
 

92.41

 
 

2012

 
 

475,110.40

 
 

518,989.20

 
 

91.55

 
 

2013

 
 

480,128.00

 
 

527,362.00

 
 

91.04

 
 

2014

 
 

487,989.70

 
 

527,227.40

 
 

92.56

 

単位: 10億円(GDPデフレーターの増加率がプラスであればインフレーション、マイナスであればデフレーションとみなせる。)

以上のように『アベノミク』は、『ニューディール政策』の金融引き締めで失敗と同じように、消費増税を実施したことで失敗してしまったと言える。

車で例えるなら、エンジンをふかしながら、ブレーキ―を踏んでいるようなものである。しかも2014年から公共事業費は前年割れしており、実質の緊縮財政を行っている。GDPがマイナスになったのも当然である。

2014124日に内閣府が需要と潜在的な供給力の差が示す『需給ギャップ』が、79月期でマイナス2.7%であると発表している。つまり、11兆円の需要不足と言っている。内閣府は自然解消を望んでいるが、家計消費支出総額が201411月から3月連続で下がり続けている。また、20151月の家計消費支出総額の前年月対比マイナス7.46と大きく下がっており、2月も下がる見込みである。

企業収益が上がり、春闘でもベースアップの話題が景気の浮上感が漂っているが、このまま家計消費支出総額がこのまま下がり続けるのか、どこでV字回復を始めるのか、実に予断を許さない状況である。

TPPの功罪

環太平洋戦略的経済パートナーシップ協定(TPP)は関税障壁の撤廃し、自由貿易を促進する協定である。
参加のタイミングは実にすばらしいと評価したいが、参加表明する為の準備が出来ていないので最悪の決断である。

これを1つの料亭で考えるのならば、

準備中の料亭が客が来たからといって、店に客を入れた状態だ。
料理も酒も準備できていない。料理長は「女将が勝手にいれたんだ。女将がなんとかしな‼」とそっぽを向いている状態が今の日本だ。
さて、簡単なアテとお酒で客をなだめて、料理長の出し物を待たなくてはならない。そんなきめ細やかことが菅女将にできるだろうか?

料理長を怒らせて、料理はでなくなり。
客の相手もしない女将に怒って、客も逃げてゆく。
そんな未来が私に見てくる。

環太平洋戦略的経済パートナーシップ協定(TPP)の参加するかしないかは、将来の日本の財政の在り方に大きく関わってくる。
関税による農業・工業の保護を、支援による保護に変換が必要になる。
安い外国製品に対する国内生産の価格をどうするか?
1つは、異常な円レートを解消する。
1つは、国内の食品の安全基準の強化、工業製品の特殊機能の添付を義務づける。
1つは、消費税を30~50%に引き上げて、国内生産の保護に当てる。
いずれかの政策をとらなければ、国内産業の空洞化は防げなくなる。国内の空洞化はそのまま失業者の増加に繋がる。締結するならまごまごしている時間はないが、現政権のそんな緊張感はない。

否、日本の弱体化こそ、民主党政権の真の狙いとか言わないでほしい。

付則でいっておくならば、TPPに加盟する絶対的な必要性はない。円高を容認に、国内産業を特殊化、製品の海外生産主義を徹底し、日本は技術を提供する国家に特化すれば、TPPへの加盟は無意味である。実際、この円高状態で得をするのは海外組であり、日本の産業のダメージは計りしれない。日本企業がタイで生産して、日本に逆輸入するこのが当たり前になる。企業は儲かるが、国内の労働者は疲弊する。そう言ったことを考慮しているとは考えられない。

いずれにしても、TPPへの参加には一定の評価はしている。
しかし、国内の整備が追いつかないと、トンでもない事態になりかねないので要注意である。

上海万博が残すもの

上海万博、それは中国の理想であり、自信であり、夢の力である。
世界の工場などと言われていても、入ってくる商品は夢のような商品。自分達の暮らしとは格段に見上げるような外国の商品が並んでいた時代、欧州、日本は憧れの存在であった。
彼らにような暮らしたい、それが中国民の願いであり、希望だったであろう。
しかし、現実が近づいてくると奇妙な感覚に襲われる。
それが『中華思想』である。

彼は世界に先駆けた素晴らしい国だったはずである。世界の王たる国であった。
どうしてこの国はこうなってしまったのか?
天安門事件が先進国への過渡期に起こった衝動なら万博を行っている中国民の感情は未来への溢れる力とその他への劣等感・憎悪に燃え、混沌とした世界を生きている。
日本人は憧れる力を推進力し、劣っている自分達を認めることができる民族である。
一方、中国は…と一括りにしてはいけないが、“臥薪嘗胆”と現実を見る国家である。いつかこの屈辱を他国に思い知らせることを夢にして力を蓄えることができる。
怒りは猛毒であり、人ならば、重い重病になってしまう。
ならば、国家はどうだろうか?
そう精神的に病んでしまうのだ。

特に日本はアジア人であり、近親憎悪に成りやすい立場にいる。
上海万博
それは中国の過渡期
取り戻されつつある自信が進歩と躍進に使われるか?破壊と復讐に使われるか?
その選択に迫られている。

中国の動向に注意が必要だ。第2のチベットになりたくなければ‼

日韓併合、悲劇の英雄と時代に逆らった宰相

安 重根(アン・ジュングン、朝鮮語:? ??)をご存じだろうか?

伊藤博文を暗殺した韓国の英雄である。彼の行為は愛国心に基づいた義心であり、今風に言えば『ジハード』であり、彼が英雄であったことを非難するつもりもなし、彼の勇気を高く評価しているつもりである。誰も彼を責めることはできない。しかし、残念なことに祖国を救わんとした彼が日韓併合の扉を開いてしまったというのは悲劇の英雄というのは歴史の皮肉である。
多くの歴史学者もそう感じているのかもしれないが、彼の献身的な行為によって日韓併合は加速した。当時の英国の有力紙<タイムズ>は“伊藤を「朝鮮で日本の政策と統治に初めて融和的性格を刻んだ人物だった」と評価し、穏健派伊藤が暗殺されたことに「残酷な皮肉を感じる」とまで論評した。”と書かれている。当時の伊藤博文は日韓併合もしくは合邦に批判的であり、反対した一番の理由である。「まだ国際社会の同意を得られない」、「併合は時期尚早である」という見解であった。彼、安 重根(アン・ジュングン)の軽率な行為によってそれらの国際的問題が解決されることになる。英国と米国は推奨し、ロシア、イタリア、フランス、ドイツ、そして、清国も反対するものはいなかった。そして、当時の大韓帝国最大与党の『一進会』と日本国政府によって進められていったのは明らかである。
一発の銃弾は、祖国を破滅させる死刑執行のサインに署名の銃声となってしまったのある。
これを『悲劇の英雄、安 重根(アン・ジュングン)の銃弾』と呼びたい。

もちろん、その銃声が日韓併合を決めたのではない。
日韓併合もしくは、日韓合邦はすでに、桂首相・伊藤会談(1909年 4月)で合意されており、動かない事実として動き始めいた。
しかし、伊藤博文は英国学者の評価にあるように、あくまでフランスの同化主義的植民統治方式でなく、ある程度自治を認める英国型統治方式を好んだと思われる。特にスコットランド併合を参考にされ、韓国王朝、李王朝が天皇家に次ぐ、地位を約束されていたことからも判る。伊藤博文が暗殺されなかったのならその時期は少し後にずれ、さらに山県有朋らの軍部の盾となっていただろうと思われる。当時の元老の頂点は、伊藤博文と山県有朋が牛耳っており、伊藤博文の暗殺は軍部にとって漬け物石を外すような愚かな行為であった。
伊藤博文が在命なら行うのは、韓国「併合」(吸収合併)なく、韓国「合邦」(連邦)の道を歩んだと思われる。少なくとも、大韓帝国の“韓国”冠が消えることは避けられたのではないだろうか?しかも満州の門戸解放が成功した場合に限り、大韓帝国の復権も在り得た。歴史において『IF』は意味を持たないので、これくらいにしておこう。ただ、大韓帝国の最大の理解者、伊藤博文が銃弾に倒れたことは、朝鮮の不幸であった。
そういう意味で親日団体一進会の『韓日合邦(かんにちがっぽう)を要求する声明書』にあるように、「韓国人自らそうしてしまった」という見解は正しい。

現在の韓国において、安 重根(アン・ジュングン)を英雄に祀るのは理解できる。
しかし、伊藤博文の功績を無視し、朝鮮国に不利益をもたらしたような評価は、歴史認識が幼稚であることを馬蹄している。大韓帝国が地上から消えたのは歴史の流れから当然であり、その流れに逆らっていたのが伊藤博文という人物であり、恩師として惜しむ声が上がるところを罵倒しているのは苦痛に耐えない。

安 重根(アン・ジュングン)、それは悲劇の英雄、日本によって出来た朝鮮人が皇帝の帝国、大韓帝国を消滅させたのは人物である。

・1909年10月26日 伊藤博文暗殺
・1910年 8月22日 韓国併合(かんこくへいごう)

私自身の見解として、韓国併合(かんこくへいごう)は愚行であったと思う。ただし、民族解放という先見の功をなしながら、自ら閉じてしまったことを惜しんでいるだけであり、その責務が日本にあるとは思っていない。
よって先人を責めるつもりもない。なぜならば、私は未来から評価しているだけであって、当時の知識と見解において未来を見通すのは不可能というものである。
支那事変の頃に“大東亜共栄圏”という言葉が作られたが、この思想は明治維新の以前、吉田松陰塾の頃からあった。福沢諭吉も当初はこちら側の思想にもとづいて、多くの中国や韓国の留学生や亡命者を匿っていた。しかし、彼の塾生の悲惨な死によって、彼は大きく思想を転換した。福沢諭吉は“脱亜論”に見られるように厳しい態度をもって東アジアに接することを述べ始めたのだ。その思想が日清・日露を経て、自信と欺瞞となり、大きくなっていったのは疑いようもない。しかし、伊藤博文は長州藩士であり、吉田松陰の松下村塾に入門である。恩師の教えに忠実であり、何よりも鈍重な性格は、軍部から「弱腰外交」と揶揄されるほどであったが、温厚にして冷淡、鈍重して正確な政治姿勢があったればこそ、初代総理大臣になり得たと私などは評価している。
その伊藤博文も子供の頃は嘘つき呼ばわりされた悪ガキであり、高杉晋作との出会いが彼を大きく変えている。
日清・日露戦争によって、生まれた自信と虚勢は福沢諭吉が言った「脱亜論」のごとき考えが支流になってゆき、伊藤博文の考えとは大きく食い違っていった。その一番の原因は、日露戦争の正しい評価が国民になされたかったことである。陸軍においてはやも敗戦、海軍において大勝利、国力差から言って引き分けというのが正しい見解である。

日露戦争における陸軍も勝っているという意見もあるだろうが、日本は1年かけてやっと奉天に達しただけであって、ハルビン、ウラジッオストックは遥かに北である。
奉天の地図

Images遼東湾の営石から奉天までと、ハルビンまでを比べれば明らか)
日本陸軍はそのことをもっと重く捉えるべきであり、再度訪れるロシアの南下を重視しなくればならない。また、大勝利に酔った日本海軍は、戦略観を失い戦術観を重視するようになる。いずれにしても、本来の国土防衛の意思を外れ、陸の長州、海の薩摩の軋轢を大きくしていった。それぞれの拡大思想と大韓帝国の裏切り行為が日韓併合のきっかけとなる。
ハーグ密使事件(1907年)のように大韓帝国が祖国の保護国状態打破の為に諸外国を頼った外交は、日清・日露で払った犠牲をないがしろにする行為であった。
もし、戦後の韓国や日本のようにアメリカを頼った外交を大韓帝国が行っていたなら、まったく違う結果になっいただろう。
《ハーグ密使事件、大韓帝国の外交が、自らの存在を危うくするという危機観はなかったのだろうか?》
ハーグ密使事件は閔妃という女が黒幕だったという「閔妃黒幕説」があるようですが、実際は大韓帝国内「抗日派」が行ったと思われます。日本も明治維新の頃に命を掛けて、祖国の存亡に挑みました。この事件も朝鮮人の蛮勇がなせる技です。
大韓帝国内の「抗日派」「親日派」の人々はどちらの陣営にしろ、「日本」という「災い」からどう国家を守るかを必死に考えた結果の行動が、日韓併合もしくは日韓合邦への過程となって逝きます。
おそらく伊藤博文も一度大韓帝国を併合もしくは合邦しなければ、30年の文化度の違いを打破できないと考えるようになったと思われます。

妙な実験の例でいえば、
猿にナイフと銃を与えて、どちらの武器を使用するか?
当然、ナイフを猿は使用します。
使い方が簡単だからです。銃の扱いは知識と技術が必要です。
当時の朝鮮人は清国の常識が一般であり、国際法という意識が乏しかったと思われます。
日本の明治維新がスムーズに行われたのは、一般庶民まで寺子屋に通うほど文化度が高く、書道、剣道、漢文に蘭学まで扱える庶民がいたという土壌に、西洋文化が解放され、水を吸うスポンジのような状態でした。しかし、清国の政治は貴族主義であり、貴族の文化度は高いのですが、庶民の文化度は自分の名前が掛けないような状態です。
別にこれは朝鮮人を非難している訳ではありません。現在でも、アメリカの何割かは自分の名前が書けないという話もあるくらいですから、国家の在り方の違い、朝鮮王国の庶民が悪いという訳ではありません。
また、日本でも西南戦争のように、武士が反乱を起こしております。どんな時代でも現実を受け入れられない人はおり、それを打破していかなければ、国家の存亡を危うくします。
伊藤博文が考えていた日韓併合もしくは日韓合邦は、そういったモノを排除する為の過程であったと思われます。
日米安保によって国権を回復したように、大韓帝国も国権を回復する可能性は十分にあった私など推測している訳であります。
しかし、その野望を駆逐したのは、安 重根の銃弾でありました。

現在、大韓民国では安 重根は祖国の英雄として祭り上げています。ならば、【日韓併合も致し方なし】と認めているかというとそうではありません。
論理的破綻を起こしています。
<<(伊藤博文の)殺人は認めるが、(日韓併合という)犯罪は認められない。>>
もし、日韓併合が民族の権利をはく奪する違法な行為として認められないなら、大韓帝国在住の外国人を殺した殺人犯として安 重根も非難されるべきです。
安 重根の銃弾が、日韓併合の障害となっていた伊藤博文を排除したという事実を認められないなら、韓国の文化度は未だに低いと言わざるいえません。

伊藤博文は、帝国主義、植民地主義を否定し続け、時代の波に逆らっていたと言わざるえません。ゆえに、歴史の神に安 重根が選ばれたのかもしれません。

安 重根(アン・ジュングン)、それは悲劇の英雄、日本によって出来た朝鮮人が皇帝の帝国、大韓帝国を消滅させたのは人物である。

韓国併合に至る年表
1885年 3月16日 福沢諭吉「脱亜論」
1894年 7月25日 - 1895年11月30日 日清戦争
1895年10月 8日 閔妃殺害事件(乙未事変)
1895年11月28日 春生門事件
1896年 1月31日 儒生李弼熙の檄文(乙未義兵
1896年 2月 5日 李範晋はロシアの指示で春川、忠清道で暴動を起こし、日本の電信線を切断。
1896年2月11日 - 1897年2月20日 露館播遷(ろかんはせん)李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政
 2月11日 高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、ロシア公使館へ非難する。(宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密かに国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。速かに露館に播遷し回避されたし」旨の書状を高宗に届ける。)
 2月11日 高宗勅令
 2月18日 仁川に4000余名の暴徒蜂起 官衙官宅を毀壊
 2月21日 各地に起こる暴動のうち 、内部参書官徐相集と申大均は騷優地方坡州、開城、驪州、利川等に乱民鎮撫に関する勅諭頒示の為に向かう。
 2月22日 内閣体制の更新  李範晋は法部大臣兼警務使となり大院君派の粛清を開始
 3月16日 大院君一派の人々、漢城府観察使金経夏、呂圭亨等従犯等数十名を逮捕、裁判へ
 3月27日 アメリカ、雲山の金鉱採掘権 、京仁線敷設権 、漢城の電灯・電話・電車の敷設権取得
 4月22日 ロシア、慶源・鍾城両処の鉱山採掘権を取得
 5月14日 日本・ロシア間で朝鮮問題に関し、第1次日露議定書調印
 5月22日 流刑10年に処せられた閔泳駿(後に閔泳徽と改名)、赦免となる
 6月9日 日本・ロシア間で朝鮮問題に関し、第2次日露議定書調印
 6月12日 ロシア月尾島西南地段(44,316m2 年銀貨361元)租借契約を取得
 6月22日 李範晋、在米国公使へ
 7月 フランス、京義線敷設権を取得
 8月20日 機械厰でのロシア技士雇傭契約(機械士官Remnevに?年銀貨200元)
 9月 ロシア豆満江上流地域・鴨緑江上流地域・鬱陵島・茂山の森林伐採権を取得
 11月21日 旧臣ら 高宗に還宮請願計画(未遂)
1897年
 1月 ロシア人 N. Birukovをロシア語教師として雇用
 2月13日 機械厰でのロシア技士雇傭契約(雇傭期間3年、俸給?月銀貨260元、路費500元、帰路費800元、退職金2,000元)
 2月20日 高宗、慶運宮に還宮
10月12日 高宗は朝鮮初となる皇帝に即位
1898年 7月   皇帝譲位計画
1898年 9月   金鴻陸毒茶事件(高宗・皇太子暗殺未遂事件)
1899年     英学の反乱
1904年 2月10日 日露戦争
1904年 2月23日 日韓議定書を締結
1904年 8月   第一次日韓協約 財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦、閔妃によって帝政ロシアに売り払われた関税権を買い戻す。
1905年 9月 5日 ポーツマス条約
1905年11月17日 第二次日韓協約(乙巳保護条約)大韓帝国の外交権を剥奪し、日本の保護国とした。
1907年     ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん) 李儁、李相?、李?鍾密使を担った三人
1909年 4月   桂首相・伊藤会談
1909年10月26日 伊藤博文暗殺
1909年12月 4日 韓日合邦(かんにちがっぽう)を要求する声明書
1910年 8月22日 韓国併合ニ関スル条約
1919年 1月21日 高宗は67歳で薨去。
1919年 3月 1日 三・一運動
             (ウィキペディアも参照)

高宗勅令(1896年2月11日)
1.閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵、禹範善、李斗?、 李軫鎬 李範来 権?鎮の首を持ってロシア公館に持参せよ
2.新内閣の公示
総理大臣に金炳始、内部大臣に朴定陽、軍部大臣兼警務使李允用、法部大臣に趙秉稷、学部大臣に李完用、宮内大臣に李載純を命じる。
在朝ロシア公使はスペール
趙羲淵[7] 兪吉濬 張博[11]李軫鎬等は日本に亡命
前総理金弘集と前農工商大臣鄭秉夏は亡命せず 警務庁前で暴徒に捕まり惨殺、遺体は焼却

桂首相・伊藤会談
1909年4月に桂太郎首相と小村寿太郎外相が伊藤博文でもたれた会談で「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」を行ったところ、「(伊藤)公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した。伊藤は2週間後に東京で行った演説でも、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせんとす」と併合を容認する発言をして聴衆を驚かせている。
それ以前は、朝鮮統監であった伊藤博文らは対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから「併合は時期尚早である」として反対していた。

★福澤諭吉
  天保5年12月12日(1835年1月10日)- 1901年(明治34年)2月3日)
  福澤が援助した李氏朝鮮の開化派

□福沢諭吉「脱亜論」(明治18年(1885年)3月16日)

明治十八年三月十六日付『時事新報』

 世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸(ぜん)し、到る処、草も木もこの風になびかざるはなし。けだし西洋の人物、古今に大に異(ことな)るに非ずといえども、その挙動の古(いにしえ)に遅鈍にして今に活発なるは、ただ交通の利器を利用して勢(いきおい)に乗ずるが故のみ。故に方今(ほうこん)東洋に国するものゝ為(ため)に謀(はか)るに、この文明東漸(とうぜん)の勢に激してこれを防ぎおわるべきの覚悟あれば則(すなわ)ち可(か)なりといえども、いやしくも世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦楽をともにするの外(ほか)あるべからざるなり。

 文明はなお麻疹(はしか)の流行の如し。目下(もっか)東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延(まんえん)する者の如し。この時に当り、この流行病の害をにくみてこれを防がんとするも、果してその手段あるべきや。我輩(わがはい)断じてその術(すべ)なきを証す。有害一偏の流行病にても、なおかつその勢(いきおい)には激すべからず。いわんや利害相伴(あいともな)うて常に利益多き文明に於(おい)てをや。ただにこれを防がざるのみならず、つとめてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむるは智者の事なるべし。

 西洋近時(きんじ)の文明が我日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民ようやくその採(と)るべきを知り、漸次に活発の気風を催(もよ)うしたれども、進歩の道に横わるに古風老大の政府なるものありて、これを如何(いかん)ともすべからず。政府を保存せんか、文明は決して入るべからず。如何となれば近時の文明は日本の旧套(きゅうとう)と両立すべからずして、旧套を脱すれば同時に政府もまた廃滅すべければなり。しからば則(すなわ)ち文明を防(ふせぎ)てその侵入を止めんか、日本国は独立すべからず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇(はんげき)は東洋孤島の独睡を許さゞればなり。

 ここに於てか我日本の士人(しじん)は国を重しとし政府を軽しとするの大義に基き、また幸(さいわい)に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中(こくちゅう)朝野(ちょうや)の別なく一切万事、西洋近時の文明を採り、独(ひと)り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜(あじあ)全洲の中に在て新(あらた)に一機軸を出し、主義とする所はただ脱亜の二字に在るのみ。

 我日本の国土は亜細亜の東辺に在りといえども、その国民の精神は既(すで)に亜細亜の固陋(ころう)を脱して西洋の文明に移りたり。然(しか)るにここに不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。この二国の人民も古来、亜細亜流の政教風俗に養わるゝこと、我日本国民に異(こと)ならずといえども、その人種の由来を殊(こと)にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものあるか、日支韓三国相対(あいたい)し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於(お)けるよりも近くして、この二国の者共は一身に就(つ)きまた一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見(ぶんけん)せざるに非(あら)ざれども、耳目(じもく)の聞見は以(もっ)て心を動かすに足らずして、その古風旧慣に恋々(れんれん)するの情は百千年の古に異ならず、この文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、その実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて残刻(ざんこく)不廉恥(ふれんち)を極め、なお傲然(ごうぜん)として自省の念なき者の如(ごと)し。

 我輩を以てこの二国を視(み)れば、今の文明東漸の風潮に際し、とてもその独立を維持するの道あるべからず。幸にしてその国中に志士の出現して、先(ま)ず国事開進の手始めとして、大にその政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先ず政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、もしも然(しか)らざるに於ては、今より数年を出(い)でずして亡国と為(な)り、その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑(うたがい)あることなし。如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭(あ)いながら、支韓両国はその伝染の天然に背(そむ)き、無理にこれを避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶て窒塞(ちっそく)するものなればなり。輔車(ほしゃ)唇歯(しんし)とは隣国相(あい)助くるの喩(たとえ)なれども、今の支那、朝鮮は我日本国のために一毫(いちごう)の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接(あいせつ)するが為(ため)に、時に或(あるい)はこれを同一視し、支韓を評するの価を以て我日本に命ずるの意味なきに非(あら)ず。

 例えば支那、朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃(たの)むべきものあらざれば、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑い、支那、朝鮮の士人が惑溺(わくでき)深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思い、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠(ぎきょう)もこれがためにおおわれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷(さんこく)なるあれば、日本人もまた共に無情なるかと推量せらるゝが如(ごと)き、これらの事例を計(かぞう)れば枚挙にいとまあらず。これを喩(たと)えばこの隣軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然(し)かも残忍無情なるときは、稀(まれ)にその町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜におおわれて埋没するものに異(こと)ならず。その影響の事実に現われて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云(い)うべし。

 されば、今日の謀(はかりごと)を為すに、我国は隣国の開明を待て、共に亜細亜を興(おこ)すの猶予(ゆうよ)あるべからず、むしろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、まさに西洋人がこれに接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免(まぬ)かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。

□isa訳 脱亜論(midunoな日々から)

現在、西洋人の地球規模での行動の迅速さには目を見張るものがあるが、ただこれは科学技術革命の結果である蒸気機関を利用しているにすぎず、人間精神において何か急激な進歩が起こったわけではない。したがって、西洋列強の東洋侵略に対してこれを防ごうと思えば、まずは精神的な覚悟を固めるだけで充分である。西洋人も同じ人間なのだ。とはいえ西洋に起こった科学技術革命という現実を忘れてはならない。国家の独立のためには、科学技術革命の波に進んで身を投じ、その利益だけでなく不利益までも受け入れる他はない。これは近代文明社会で生き残るための必須条件である。

 近代文明とはインフルエンザのようなものである。インフルエンザを水際で防げるだろうか。私は防げないと断言する。百害あって一利も無いインフルエンザでも、一度生じてしまえば防げないのである。それが、利益と不利益を相伴うものの、常に利益の方が多い近代文明を、どのようにして水際で防げるというのだろう。近代文明の流入を防ごうとするのではなく、むしろその流行感染を促しつつ国民に免疫を与えるのは知識人の義務でさえある。

 西洋の科学技術革命について日本人が知ったのはペリーの黒船以来であって、これによって、国民も、次第に、近代文明を受け入れるべきだという認識を持つようになった。ところが、その進歩の前に横たわっていたのが徳川幕府である。徳川幕府がある限り、近代文明を受け入れることは出来なかった。近代文明か、それとも幕府を中心とした旧体制の維持か。この二者択一が迫られた。もしここで旧体制を選んでいたら、日本の独立は危うかっただろう。なぜなら、科学技術を利用しつつ互いに激しく競いながら世界に飛び出した西洋人たちは、東洋の島国が旧体制のなかにひとり眠っていることを許すほどの余裕を持ち合わせてはいなかったからである。

 ここに、日本の有志たちは、徳川幕府よりも国家の独立を重んじることを大義として、皇室の権威に依拠することで旧体制を倒し、新政府をうちたてた。かくして日本は、国家・国民規模で、西洋に生じた科学技術と近代文明を受け入れることを決めたのだった。これは全てのアジア諸国に先駆けており、つまり近代文明の受容とは、日本にとって脱アジアという意味でもあったのである。

 日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を受け入れた。ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。そのひとつはシナであり、もうひとつは朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、もともと人種的に異なっているのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。情報がこれほど速く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。

 私の見るところ、このままではシナ・朝鮮が独立を維持することは不可能である。もしこの二国に改革の志士が現れて明治維新のような政治改革を達成しつつ上からの近代化を推し進めることが出来れば話は別だが、そうでなければ亡国と国土の分割・分断が待っていることに一点の疑いもない。なぜならインフルエンザのような近代文明の波に洗われながら、それを避けようと一室に閉じこもって空気の流れを絶っていれば、結局は窒息してしまう他はないからである。

『春秋左氏伝』の「輔車唇歯」とは隣国同志が助け合うことを言うが、現在のシナ・朝鮮は日本にとって何の助けにもならないばかりか、この三国が地理的に近い故に欧米人から同一視されかねない危険性をも持っている。すなわちシナ・朝鮮が独裁体制であれば日本もそうかと疑われ、向こうが儒教の国であればこちらも陰陽五行の国かと疑われ、国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国であればそれを咎める日本も同じ穴の狢かと邪推され、朝鮮で政治犯への弾圧が行われていれば日本もまたそのような国かと疑われ、等々、例を挙げていけばきりがない。これを例えれば、一つの村の村人全員が無法で残忍でトチ狂っておれば、たとえ一人がまともでそれを咎めていたとしても、村の外からはどっちもどっちに見えると言うことだ。実際、アジア外交を評する場面ではこのような見方も散見され、日本にとって一大不幸だと言わざるを得ない。

 もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。(明治18年3月16日)

★「韓日合邦を要求する声明書」

 日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、日露戦争でロシアに食われかけ 
 ていた韓国を救ってくれた。それでも韓国はこれをありがたく思うどころ
 か、あの国にくっつき、この国にくっつきし、結局は外交権を奪われるこ
 とになったが、これは我々が自ら招いたことである。丁未条約を締結する
 ことになったのも、やはりハーグ事件をおこした我々に責任がある。 
 伊藤博文公が韓国国民を見守ってくれ、太子を導いて我々韓国のためにご
 苦労されたことは忘れられない。にもかかわらずハルピンの事件がおきて
 しまった以上、こんごいかなる危険が到来するのかわからない。これもまた
 韓国人自らそうしてしまったのである。(中略)
 それゆえ劣等国民として保護されるよりは、いっそ日本と合邦し大帝国をつく
 って世界の1等国民として日本人とまったくおなじ待遇をうけながら暮らして
 みよう。

         1909年 12月4日  一進会(百万の親日朝鮮人会員)

□韓日合邦(かんにちがっぽう)を要求する声明書
1909年12月4日、大韓帝国で日本の影響下にあった親日団体一進会(公称会員数百万人・実数数万人程度)が皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った朝鮮と日本の対等合併を要望する声明書である。
この声明書の中で、「これまでの朝鮮の歴史の悲劇は自分達が招いたことであり、我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」と、大韓帝国政府と大日本帝国政府が新たに一つの政治機関を設立し、大韓帝国と大日本帝国が対等合邦して一つの大帝国を作るように求めた。
南北朝鮮では当時一進会が民衆のみならず知識人からも強い批判を受けていたこと、それまで一進会が同じく親日派の李完用首相と共に日本の朝鮮侵出を援護してきたことなどから、この声明書に対して「国権防衛運動、義兵闘争、愛国啓蒙運動などに反するもの」であると非常に批判的であった。
ただ日本を含めた諸外国の研究者は、一進会が大日本帝国の侵略の意図を見抜けず韓国を亡国へと導く役割を果たしたことは事実であるが、対等合併論自体は日本の朝鮮併合論(朝鮮が日本に従属し、主権を放棄する形で植民地となる。)とは明らかに異なり、寧ろ併合後の日本が一進会すらも用済みとして切捨て、植民地統治を開始したことを踏まえて、「一進会もまた犠牲者であり、必ずしも責められるべき点ばかりではなかった」とする同情的意見も強い。実際一進会会員の多くは日本による韓国併合をしるや、「日本に騙された。」と感じ後悔したという記録もある。
ただし日本では侵略と植民地統治の当事国であるという意識から、チンイルパ(親日派)全体に対してやや同情的であるという背景を指摘する声もある。また招いた結果が国権を喪失し植民地支配に陥ったという重大事態であるので「騙されたとしても、騙された事に対する責任がある。」とする厳しい意見も南北朝鮮を中心に存在している。

★【日韓歴史】 安重根が伊藤博文を撃たなかったら~ハルビン義挙
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/news4plus/1282396491/
「タン、タン、タン」三発の銃声が響いた。中国、ハルビン駅でロシア政府の実力者、財務省ココフ
ツォフと共に儀仗隊を査閲する伊藤博文に向かって銃弾が放たれた。取材記者を名乗って日本
警察をまいた安重根(アン・ジュングン)が撃ったものだ。伊藤は応急処置を受けて誰が撃ったの
かと訊ねた。韓国人というと伊藤はつぶやいた。「バカな奴!」なぜ最後の一声が「バカな奴」だっ
たのか?恐らく対韓国政策で穏健派を代表する自分が韓国人の手で死ななければならない現実
に対する反発心からであったろう。

安重根の伊藤狙撃は自ら失敗を招いた?
私たちは韓日合併の元凶と認識しているが、事実、彼は山県有朋のような日本の軍部強硬派と
異なり朝鮮に対して懐柔的な路線を歩いた。また、当時日本一の政治的実力者であり、米国やヨー
ロッパなど西側世界ではビスマルクや清国の李鴻章と比較される程存在感が大きい国際政治家
として認められていた。(中略=伊藤博文の説明)彼が日本で21年間(1963~84)も千円札の肖像
人物だったのは偶然ではない。

伊藤の死が及ぼした波紋は大きかった。韓国民衆は喜び中国など帝国主義国家の侵略を受けて
いた弱小民族は安重根の義挙を特筆大書して日本の膨張政策が阻止されると期待した。しかし
英国など帝国主義国家は衝撃の中に伊藤と日本に同情的な反応を見せた。一例として、親日的
論調を展開した英国の有力紙<タイムズ>は伊藤を「朝鮮で日本の政策と統治に初めて融和的性
格を刻んだ人物だった」と評価し、穏健派伊藤が暗殺されたことに「残酷な皮肉を感じる」とまで論
評した。何より韓日合併方針を定めて機会をうかがっていた日本の強硬派は合併を積極的に推
進することができた。こういう雰囲気に便乗して日本政府は強制合併の速度を速めることができた。
親日団体の一進会は最初から遠慮なく合併請願運動を行っていた。実際に伊藤が死んで七カ月
後の1910年、日本は英国に韓日合併方針を通知して8月29日、強制的に合併条約を締結した。

このように見れば穏健派伊藤の死が韓日合併を操り上げた契機になったように見える。この点で、
日本の一部論者らは安重根の伊藤射殺を「自ら失敗を招く手法」と評価する。伊藤は韓日合併方
針が日本政府内で決定される前まで、韓国を保護国として統治する方が経済的費用が少ないと
認識していた。伊藤がフランスの同化主義的植民統治方式でなく、ある程度自治を認める英国型
統治方式を好んだという英国学者の評価もある。また、韓国人で内閣と議会を構成して行政と司
法を日本政府が監督する自治植民地と類似の構想をしたという分析もある。確かに伊藤の韓国
政策は強制合併をして武断植民統治をした日本強硬派とは違った。
(中略>>2-5のあたり)
独立派朝鮮青年の役割モデル
具体的には青年たちが安重根を役割モデルとした。朝鮮侵略の敵、伊藤博文を処断したように
「半島の首脳者である朝鮮総督を暗殺」しようとする動きが相次いだ。1926年、斎藤実総督を殺
害するために常に刃物を持ち歩き、日本人2人を斎藤と誤認して刺殺したソン・ハクソン、1935年
総督爆殺を図ったチョ・アンドクなど多数の青年は安重根を役割モデルとした。韓国人だけでなく
日本人たちも安重根の堂々とした身の処し方と東洋平和論に感銘受けた。1930年日本の代表的
政論紙<中央公論>には戯曲<安重根展>が発表されたこともある。

安重根の伊藤博文射殺闘争がなかったとすれば韓国人の植民支配内面化はより一層広がったこ
とで、自治論者や親日派はより一層早く蠢動しただろう。安重根の闘争は伊藤博文の不在による
武断統治の加速化を呼び、韓国人の独立意識を強化したのだ。安重根の闘争が持った大きな歴
史的意味はそこにある。
(チェ・ヨンボム歴史作家 :ソース:ハンギョレ新聞(韓国語) 安重根が伊藤博文を撃たなかったとしたら )

ハーグ密使事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E5%AF%86%E4%BD%BF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1907年(明治40年)に大韓帝国がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権回復を訴えようとするも国際社会の列強から会議への参加を拒絶され、目的を達成することができなかった事件。
日本は、1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約)によって大韓帝国の外交権を接収した。皇帝高宗は密使外交を展開することで日本からの支配を打破しようと試みていた。李容泰(朝鮮語)、沈相薫、金嘉鎮(朝鮮語)ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人ベッセルやアメリカ人ホーマー・B・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均(朝鮮語)、李範晋(朝鮮語)らと連絡を取り合い、1907年6月、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第二次日韓協約の無効)を訴えようとした。密使として派遣されたのは李相?(朝鮮語)(元議政府参賛)、李儁(朝鮮語)(前平理院(朝鮮語)検事)と李?鍾(朝鮮語)(前駐露公使館二等書記官、前駐露公使李範晋の次男)の三人である。

ハーグに到着した彼らは、デ・ヨング (De Jong) ホテル[1]に投宿し、公然と活動を始めた。しかし会議に出席していた列強は大韓帝国の外交権が日本にあること、大韓帝国の利益は条約によって日本政府が代表していることなどを理由に三人の密使の会議出席を拒絶した。出席を拒まれた密使らはやむなく抗議行動として現地でビラ撒きや講演会を行った。

日本は万国平和会議の首席代表として派遣されていた都築馨六特命全権大使がこの事件に対応した。また大阪毎日新聞より派遣されていた高石真五郎は連日、特派員電として現地の情勢を伝えた。この時、高石は日本人としてただ一人、密使と面会している。

密使の一人である李儁は7月14日にハーグにて客死した。当時の大韓帝国の新聞は李儁の死を自決と伝えたが[2]、頬にできた腫瘍の手術が原因で死亡したとする病死説もある。

・経過
4月21日(22日とも)、李儁が京城を出発。高宗が密使に与えたとされる委任状の日付は、1907年(光武11年)4月20日付。
5月8日、ハルバートが京城を出発。神戸、敦賀、ロシアを経由して欧州へ向かう[3]。
5月21日、李相?と李儁が、車錫甫の息子と共にウラジオストクを出発。
李相?は前年4月に韓国を去り、北間島の私塾で子弟教育に従事していた。
6月4日、サンクトペテルブルクで李?鍾が合流。
6月15日、第2回万国平和会議がハーグにて開会。
6月19日、ベルリンにて、密使が各国首席代表に宛てた主張文(「抗告詞」と呼ばれる)を印刷。
6月25日、李儁、李相?と李?鍾がハーグに到着。
6月28日、密使が「抗告詞」と付属文書を(日本を除く)会議参加各国委員に送る。同日付の非公式会議報『Courrier de la Conference』紙に「抗告詞」が掲載される。
6月29日、密使は会議議長を務めるロシア帝国主席代表ネリドフ伯 (Aleksandr I.Nelidov) を訪問するが、面会を拒絶される。
6月30日、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの各国代表を訪ねるが、支援を拒否される。
7月1日、(会議開催国の)オランダ外務大臣に面会を求めるが、拒絶される。
この時点で密使の存在は、彼らが接触した列強側から日本側に通報されていたといわれている。
7月4日、この日に高石が打電した記事において、密使は未だ信任状を示していないとある[4]。
7月5日、この日に高石が打電した記事において、8日の演説(後述)を予告しつつ「平和会議に参加するの計画破れて、目下将来における運動方法を講じ居れる有様にて…」とある[5]。
7月8日、李?鍾が米国人ジャーナリストのウィリアム・ステッド (William T.Stead) の紹介で、「国際主義の会」(Foundation for Internationalism) 集会にて演説を行う。
7月9日、大阪毎日新聞が1面で「対韓処置断行の機-海牙における韓人の怪運動」と題して日本政府と伊藤博文に厳格な対応を求める論説を掲載。
7月12日、李?鍾がサンクトペテルブルクに向けて出立。
7月13日、この日に高石が打電した記事において、李儁が悪性の腫物が顔面に出て、重患に陥ったとある[6]。
7月14日、夕刻、投宿先のホテルにて、李儁が死亡。
7月16日、李儁の仮埋葬が行われ、同行の李相?とホテルの主人が参列。
7月18日、李?鍾がサンクトペテルブルクからハーグに戻る。
7月19日、李相?と李?鍾がロンドンに向けハーグを出立。後、ニューヨークへ向かう。同日、ハルバートがニューヨークに到着。
9月6日、李儁の本葬が行われる。李儁の弟や大韓帝国の元外交官、友人、ハーグYMCA会長などが参列したという。
10月18日、第2回万国平和会議が閉会。
・親書の内容
事件に先立つ1907年1月16日、『大韓毎日申報』は前年ロンドン・トリビューン紙に掲載された高宗の親書を転載する形で改めて報じた。その内容は次のようなものであった。
1.1905年11月17日に日本使臣と朴斉純が締結した条約を認めていないし、国璽も押していない。
2.この条約を日本が勝手に頒布することに反対した。
3.独立皇帝権をいっさい他国に譲与してない。
4.外交権に関連した必要の無い条約は強制であり、内政に関連したものも全く承認していない。
5.韓国統監の駐在を許しておらず、皇室権を外国人が行使することを寸毫たりとも許諾していない。
6.世界各国が韓国外交権を共同で保護することを望む。
・事件の影響
韓国統監であった伊藤博文が事件を厳しく追及すると、高宗は子の純宗へ譲位した。同年7月24日に韓国統監の権限強化をうたった第三次日韓協約が締結された。この協約によって、韓国は外交権に加えて内政権も日本に接収されることとなった。

見えざる野望と日本を勝たせた男

ジェイコブ・シフをご存じだろうか?

「わが政府は、シフがしたことをけっして許しも忘れもしない。海外で我々に敵対するもっとも危険な人物だ。」

この言葉を言ったのは日露戦争の6年後、1911年のロシア大蔵大臣ココフツォフの言葉である。ロシア最大の敵であり、日本にとっての恩人である。

日露戦争における日本の勝利をもたらしたのは何でああろうか?
軍人、ジャーナリストなら士気、装備、総兵力、作戦、新兵器などを上げるだろう。士気と装備が同等であれば、兵力が3倍を超える方が勝利する。そう考えれば、かのナポレオンを退けたロシア陸軍、日本の10倍の兵力を持つロシアの勝利は疑い余地もない。
しかし、現実の日露戦争は、ロシアにとっての侵略戦、日本の防衛戦であって、かのナポレオンの進軍を阻んだ寒気をくぐるのは日本ではなくロシア軍であった。シベリア横断鉄道のモスクワからウラジオストックまでのユーラシア大陸 約9,288Kmを走破しなければならないのである。緒戦に勝利できれば、次々と送り込まれるロシア兵を各個撃破できる可能性が秘められていた。
そのことを冷静に判断し、日本に投資しようと言いだしたのは、ジェイコブ・シフ本人であった。

当時の金融中心はロンドンであり、2月24日に横浜から旅立った日銀副総裁の高橋是清はニューヨーク赴いたが4、5日で諦めて、ロンドンに向かった。ロンドンの銀行家達は日本国債の引き取りをためらった。「豪胆が子供が力の強い巨人に飛びかかったのだ。」と言って日本国民の勇気を嘆称し、非常に愉快に感じてくれているようであったが、日露開戦後の公債は、ロシアがわずかに下がっているのに比べて、日本は暴落を続けていたから新たな公債の発行を断り続けられた。高橋是清は1000万ポンド(1億円)を打診し続け、その粘り強さに様々な条件を付けることで、500万ポンド(5000万円)を承知させた。4月23、24日に仮契約が結ばれ、ニューヨークの投資銀行スパイヤーズのロンドン支店長アーサー・ヒルが祝いの晩餐会を開いてくれた。その時であったのが、ジェイコブ・シフであった。シフはニューヨークの投資銀行クーン・ローブ商会の主席代表であり、高橋是清が求める残りの500万ポンドを融資しようと言ってくれた。
この500万ポンドの価値がどれほどだったのかと言えば、二人が起債した外債総額が8200万ポンド(8億円)、戦費の総額が17億2121万円。それでいて開戦1年半後には戦闘継続不可能になっていた。11月10日に第2回外債を応募された。逆算すると9月から10月に掛けて日本軍の物資が不足し始めたと考えられる。12月には底を付くと私は私観ながら想像する。それに伴って外貨の不足分を補う話がロンドンとアメリカで10月頃に行われ、11月に公募されたと考えられる。なぜならば、この後、第3回3月24日、第4回7月8日と公募を繰り返し行っている。2月から3月に行われた奉天会戦においては、人員・物資とに不足している為に追撃戦が行えないほどの状態であった。
シフの協力がなければ、日本は9月から11月当たりでロシアに停戦協議を持ち掛けないといけない状態になっていたと思われる。
少なくとも要塞である旅順攻略は存在せず、半島での封じ込めという戦略になったと考えられる。日本海軍は太平洋艦隊、ウラジオストック艦隊、バルチック艦隊を同時に各個撃破するという荒技を強いられることになったであろう。(旅順が攻略されなければ、太平洋艦隊が旅順より出てくるのはバルチック艦隊が北上した時だけである。日本海軍はどちらかを先(おそらくバルチック)に叩き、合流しようとする艦隊を反転して壊滅させるという芸当を披露することになったであろう。)
最悪の場合、奉天会戦は存在せず、石炭が不足していたので日本海戦はできませんでしたなどと笑い話のような敗戦となっていたかもしれない。

日露戦争の経過
1904年2月6日、ロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。
1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。
1904年2月10日、日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。
《1904年4月23・24日 ロンドンの公債の仮契約》
1904年4月30日 - 5月1日、鴨緑江会戦(おうりょくこうかいせん)は日本陸軍第一軍が鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、これを阻止せんと待機していたロシア陸軍との間で起こった一連の戦いであり、近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った。
《1904年5月 第1回戦時外債の公募》
1904年5月25日 - 5月26日、南山の戦い(なんざんのたたかい)は、遼東半島の南山及びその近郊の金州城で行われた、ロシア陸軍と日本陸海軍の戦い。大日本帝国は敵に倍する兵士を擁していたにもかかわらず1/6弱の兵員を失ってしまった。
1904年6月6日、乃木希典大将率いる第三軍が大連に上陸したが、陸軍の旅順攻略参戦を拒む海軍の意向を受け、満洲軍総司令部の指示により旅順に向けて漸進を余儀なくさせられる
1904年7月24日 - 7月25日、大石橋の戦い(たいせききょうのたたかい)は、日露戦争中の戦いの一つで、営口と南満州鉄道本線をつなぐ大石橋に展開中のロシア陸軍のシベリア第一軍団及びシベリア第四軍団を日本陸軍第二軍が攻撃し、勝利した。
1904年8月10日 黄海海戦(こうかいかいせん)は旅順港に艦隊を置いておくことが危険になってきたと判断したロシア海軍が艦隊を旅順港からウラジオストクへ回航することを決定した。旅順の西南23カイリ付近でおこった海戦である。日本軍の圧勝であったが、ロシアの艦艇は多大な損害をたしながらも沈没艦を出さずになんとか旅順に帰還した。
1904年8月14日 旅順艦隊を援護する為に出動した。しかし、旅順に引き返した無線が受信されずにいた。上村中将率いる装甲巡洋艦4隻からなる第二艦隊第二戦隊は蔚山沖で南方を航行するウラジオストク艦隊を発見。装甲巡洋艦1艦を沈没、その他巡洋艦2艦を大破した。
1904年8月19日 - 1905年1月1日、旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん)は太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞戦である。203高地で有名な日露戦争の要所である。日本軍は戦死5052名、負傷11884名。露軍は戦死5308名、負傷者は12000名近くに達した。これによってロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)は全滅した。
1904年8月24日 - 9月4日、遼陽会戦(りょうようかいせん)は遼陽(遼陽は中国東北部)に集結し、東から第一、第四、第二軍を展開。第一軍が太子江を渡河して東を迂回し、ロシア軍を側撃する作戦を計画だった。死傷者は日本側が2万3500、ロシア側が2万あまりで、両軍あわせて4万人以上も出す激戦であった。9月4日、ロシア指揮官クロパトキンは退路の遮断を恐れ、全線に奉天への撤退を開始。日本側は兵力消耗や連戦の疲労もあり追撃しなかった。
1904年9月19日 第二次旅順総攻撃
1904年10月9日 沙河会戦(さかかいせん)は、ロシア軍の反攻撃が始まり、それを日本陸軍が迎撃するという戦い。
《1904年11月10日 第2回戦時外債の公募》
1904年11月26日 第三次旅順総攻撃
1904年12月5日 旅順総攻撃にて203高地の占領
1904年12月31日 第四次旅順総攻撃
1905年1月2日 旅順陥落
1905年1月25日 - 1月29日 黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)
1905年2月21日 - 3月10日、奉天会戦(ほうてんかいせん)は、日露戦争陸軍における最後の会戦である。参加兵力は大日本帝国陸軍25万人、ロシア帝国軍37万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。日本側は死者15,892人、負傷者59,612人。露軍は死者8,705人、負傷者51,438人、捕虜28,209人を出す大激戦であった。3月9日、ロシア軍の総帥クロパトキンは、突如、奉天が包囲されることを避けるため鉄嶺・哈爾浜方面への転進を指令した。実際、ロシアは余剰戦力を残しており、逆に日本軍は補給戦が限界に達していた。しかし、日本軍の激戦に脅威を感じたロシア軍の士気の低下を感じた総帥クロパトキンはロシア軍の撤退を命じたと考えている。ロシア軍にすれば、本国よりの100万の増援を待って反撃に転ずればいいことであった。必死に死守する意味を感じなかったのかもしれない。いずれにしろ、開戦後の日本軍の能力が格段に落ちていることを見れば、ここが限界であった。
《1905年3月24日 第3回戦時外債の公募》
1905年5月27日-5月28日、日本海海戦(対馬海戦(つしまかいせん)は、日本海軍が北上するバルチック艦隊を壊滅させた圧勝の海戦。
《1905年7月5日  第4回戦時外債の公募》
1905年7月7日 - 7月31日 樺太作戦で樺太を占領
1905年8月9日 ポーツマツで日露講和会議がはじまる。
1905年9月1日  日露両国、休戦議定書に調印
1905年(明治38年)9月5日15時47分 日露講和条約の調印

このように薄氷の勝利をもぎとった日本であるが、真の勝因はここではない。

ジェイコブ・シフはロシアに対して、ロシア国内の同胞(ユダヤ人)の虐待について改善を求める打診を幾度となく行っている。開戦後、ロシア政府はアメリカでの起債を狙って、内相プレーヴェがシフと会談をした。そのとき、シフはユダヤ人虐待の持論は展開せず、ユダヤ人のビザにある制限条項の廃止という緩い条件を付けたが、内相プレーヴェはその数週間後の1904年7月28日に暗殺された。ロシア政府がアメリカで戦時外債を得る為の最大の障害はジェイコブ・シフだったのである。
ジェイコブ・シフはクーン・ローブ商会の代表である。クーン・ローブ商会はアメリカ最大の実業家ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニアが作ったロックフェラー財団と親しい間柄である。当時のロックフェラーのスタンダード・オイル社は石油市場の90%を支配するに至っており、潤沢な資金があったと思われる。それが日露戦争において日本の外債購入の資金になったことは疑いそうもない。
一方で、ジェイコブ・シフは全米ユダヤ人協会会長も務めていた。日露開戦前の1904年2月上旬にシフ邸で開かれたユダヤ人指導者の会合で「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。日本の公債引受の問題が提起されているのだが、わたしは引き受けることでロシアの同胞にどんな影響が及ぶか、諸君の見解を聞きたい。」と語っている。この場合の同胞とは、おそらく2つの意味をなしている。1つは、ユダヤ人の虐待が強化されないかという問題定義、もう1つはロスチャイルド家がロシアのバクー油田に投資しており、その損害と傷害になりうるかという問題だと考えられる。ロシアが勝つことによって、1つ目の問題が解決することはないので問題外である。2つ目においても、日本がロシアを占領するほどの国力を有していないことは明らかであり削除できる。つまり、ロスチャイルド家への説得を除いて問題なしと考えられ、すべての同胞の賛同を得た。この推測はシフが2月に同胞の賛同を得てながら4月まで高橋是清に接触しなかったこと、シフの相談役がアーネスト・カッセル卿であったことがそのことを表している。
アーネスト・カッセル卿とロスチャイルド家との関係は深い。つまり、この4月の時点でロシアの同盟国であるフランス政府と何らかの取り決めが成立していたと考えられる。
フランス・ドイツの自国の情報とアーネスト・カッセル卿筋から齎される情報を加味しても日本がロシアに勝利するとフランス政府やドイツ政府が信じたかと言えば、そんなことはなかったと思われる。実際に、フランスやドイツはロシアの戦時外債を購入している。しかし、日本がロシアと拮抗する可能性を示唆したと考えられる。
もし、日本とロシアの力が拮抗しているのであれば、ロシアの出費も膨大なものとなり、フランスなどはロシアの工業化に借款した投資の回収が困難になる可能性が出てくる。
そうなれば、ロシアと日本の早期講和がフランスにとって最も利益になることを誰かは説いたと考えられる。
その結果の1つとして、同年(1904年4月8日)英仏協商(えいふつきょうしょう)に象徴されるように、日露戦争がイギリスとフランスを巻き込んだ世界大戦になることを回避したと思われる。
フランスは日露戦争の日和見を決め込んで、ロシアに対して外債の購入を渋ったのは確実であろう。
実際、ロシアと日本の賠償なしの講和条件を出したのもフランスからであった。
高橋是清はその申し出に胡散臭いものを感じながらも深く詮索はしなかった。日本にとっても戦争継続は不可能であり、さらにフランスで低金利の外債への書き換えができるという申し出はありがたいものであった。ロシアと日本の全面戦争を回避し、イギリスとアメリカに恩を売るフランスの戦略は、ドイツを包囲する為のものであったが、それはまた別の話である。

いずれにしても、フランスやドイツの日本の実力を知らせた人物は、西洋ではただ一人しか思い当たらない。
どちらの陣営にも属さず、冷静に分析し、その筋の人脈を納得させることの人物である。
日本がロシアに勝つと信じて、日本の外債を引き受けたいと申し出た人物である。

ロシアはクリミア戦争後に近代化を始めたばかりであり、フランスに多額の借款を持っていた。極東司令官アレクセイ・クロパトキンが望んだ100万の援軍を送り出すには、多額の外資をかき集める必要があり、それを阻んだのがジェイコブ・シフの才覚であった。

日露戦争の勝因は、秋山兄弟の才覚や下瀬火薬(しもせかやく)の発明や多くの将兵の才覚と士気と司令官の才能と文官の機転など多くの要因が絡まった勝利であった。しかし、その最大の功労者はやはり“ロシア100万兵を阻止した”ジェイコブ・シフであろう。
しかし、皮肉なことにジェイコブ・シフは日本の為にやったのではない。ユダヤの民と自らの利益への投資であった。

ジェイコブ・シフ、彼は近代日本人を誰よりも高く評価した西洋人である。

40円になる危険性だったある。

円高の原因は、米国やEU諸国が新興国に自国の製品を輸出する為に政策から自国通貨安にやっきになっているからである。

たとえば、ホンダのプリウス
世界初の量産ハイブリッド専用車である。その価格は189?327万円と言われる。
同じように米国フィスカーオートモーティブ社も、『Karma』(カルマ)を販売している。その価格は、価格も8万7900ドル(約825万円)と公表されている。
ホンダのプリウスの方が性能がよく、安定性があり、価格も安いとなれば、プリウスが熟れる。

しかし、1ドル80円が40円になれば、825万円が412万円に評価損が起こって安くなる。1ドル20円ならさらに半分である。
実際、そんな極端なものではないが欧米の販売価格が下がる下がることが判って貰えると思う。
中国はドル元レートを固定化しているので影響はあまりないが、インドやアフリカや南米では、レート差がそのまま価格に反映される。
インドなど格安カーを販売しているカカなどは、安くなった海外車と価格競争を強いられることになる。
今、欧米は輸出産業の回復に躍起になっている自国通貨安によって輸出を強化しているのだ。

さて、日本は実際のところ蚊帳の外なのではあるのだが、為替というものは日本も連動しているので欧米の通過安政策は円高を進めることになる。この円高の劣悪なところは為替誘導や為替変動差から差益をえようとして円高になっていないことだ。欧米の国家戦略であって、この流れが変わらない限り欧米の自国通貨安は止まらないのである。
日本政府・日銀が為替介入したところでほとんど変化がないか、すぐに円高方向に戻ることは予想される。
できる政策は日本も欧米に連動して、自国通貨安の方に持ってゆくのが正しい政策であろう。

欧米対新興国の戦いが続く限り、無策の政策を続ける日本は円高が進行する。80円⇒60円⇒50円⇒40円と上がってゆくしかないのだ。
政府は無策であっても企業はそうはいかない。
外需産業は拠点を海外にすべて移してゆくしかないだろう。おそらく、80円⇒60円のどこかで日本を見限るだろうと推測する。
一方、国内では海外の商品の価格安が進行する。80円⇒60円から失業者が増加する当たりから益々価格安商品が売れるようになってゆくと考えられる。100円均一商品の品揃えが充実してゆく半面、国内産業の廃業が相次ぐだろう。失業者は10%を超えて20%を凄い勢いで増えてゆくことになる。
円高が40円になった頃から輸入を制限する以外に取るべき政策が無くなってゆく。
本来、国の強さを示す通貨が自国の首をくくるとは何と言う皮肉であろうか?
日本が無策であれば、一流国から一気に三流国への転落である。
輸入制限などの強硬的政策を取られれば、日本の円高は反転して円安になるだろう。しかし、国内産業は全滅、海外輸出組は海外に拠点を移しているので、円安は資源高・物価高の相乗効果を引き出して、日本の資金を吸い上げていくことになるだろう。
これが最悪のシナリオの1つである。
ゆえに、日本政府も早急に対策を練らねばならない。

取るべき政策は2つしかない。
・為替を維持して、外需を養護する。
・内需を拡大して、為替の変動影響を小さくする。
いずれの政策を取るとしても、やることを円高の抑止である。

円高の抑止は、
・為替介入
・日銀の国債購入
・新国債の発行
・新紙幣の発行

などが上げることができる。

○為替介入
この政策は基本的に欧米の政策と相反するのでかなりの抵抗が予想される。その額は以前の30兆円クラスでも影響があるかどうか疑わしい。いずれにしろ、115円当時に買った米国債は85円なった時点で35兆円の評価損をしているので、もっと早い時点で為替介入を行っていた方が効果あったと思われる。私のあくまで私観であるが、今更の為替介入は反感を買われるだけで効果はほとんどないと思われる。90円を切った時点で、政府は90円以下は容認できないと表明して、ジャブのような為替介入することで日本の意思を表明するべきであっただろう。85円を切ってきたこの時点になると、30兆円規模では影響が小さく、100兆円規模が必要になるのではないだろうか? それを国際社会が許すかというと疑問を感じてしまう。
結論をいえば、今更の為替介入は深い感を買うだけで意味がないと思われるが、日銀が84円で為替の介入を示唆した。あとはどれだけの金額を上積みするのかが注目になる。少ないと市場が感じれば再び円高に、大きい額であれば他国の不快感を表明されることになる。それを跳ねのけるだけの胆力が日銀総裁と総理大臣にあるかが試されることになる。
いずれにしても、為替介入は時間稼ぎにしかならない。欧米が政策転換するとは思えないので日本政府も次の政策は必要になる。

○日銀の国債購入
新国債の発行や新紙幣発行も方法論が違うだけで同じ意味である。他国と同じように自国通貨の価値を下げることに意味がある。ダブついた通貨が再び日銀に返ってこない為に、内需に刺激を与えることが重要である。
自民党時代なら高速道路などの建設に資金を使うところだろうが、私としては太陽光発電や地熱発電、天然ガス等のエネルギー関係の充実にその資金を使ってもらいたい。

☆円高抑止と内需拡大の相関関係はあまりないが、同じ自国通貨安を促進するなら内需循環社会への転換を図るべきである。

なぜ、外需依存社会から内需循環社会への転換がいいかといえば、内部で完結している社会は為替の影響を最小に抑えることができるからである。
アメリカが強大な軍事力を背景に世界経済の均一化ができている時代であれば、安価な外国資源を購入することが国益となり得た。
そういう意味で戦後の日本政府の政策は間違っていない。
しかし、中国の台頭と米国の衰退は、資源戦争の様相を醸し出している。外需依存社会である限り、この戦争に巻き込まれない方法は皆無である。資源国は自らの資源を戦略のカードとして使用してくるのは間違いない。最近、レアアースの輸出規制をした中国を見ても判るように、資源の高騰はたびたび襲ってくると考えた方がよいだろう。輸入が悪いと言っているのではなく、相場の変動のたびに日本の産業が停滞することないように国策を行うことが重要である。

米国におけるイラク政策の失敗当たりから日本は本来の政策を転換するべきであったと私は感じている。
日本政府が外需依存構造から脱却して、内需主導社会構造で転化していれば、その過渡期といえど円高の影響も限定的に考える可能性があったかもしれない。しかし、現在のところ政府はそのような転換を行っていない。そうなると円高はそのまま日本経済を直撃することになる。今後の日本をどうするかを考え直すべきであろう。

さて、考え直すとしてもその材料を見なおしておこう。

社会構造を転換するにはどんなに急いでも10年は掛る。
〔戦後(1945年)から高度成長期(1955年以降)まで10年で復帰を果たしている。満州国も水豊ダムが稼動した時期より推測して10年もあれば経済構造を作ることができた。ソビエト崩壊(1991年12月25日)からプーチンが大統領(2000年)となり再生を果たしたのも約10年くらい、そう考えると国家構造を変えるのは10年くらいで変えられると推測する。〕

10年後の日本の姿として、
・外需依存社会を継続するか?
・内需循環社会に移行するか?

この選択がまず考えられる。

○外需依存社会を継続する場合

第一に考える必要があるのは、シーレーンの維持である。
・アメリカの国力が回復する。
・中国がアメリカを凌駕し、かつ、自由貿易の維持に努める意思がある。
・日本が独力でシーレーンの防衛を受け持つ。
大体の3つが推測される。上の2つはどちらも希望的観測であり、3は防衛費の増額がいくらかかるか想像もつかない。

第二に考える必要があるのは、資源輸入国の分散である。
第一がすべて希望観測的である以上、中東の資源に頼りきるのは危険である。かと言ってロシアから天然ガスを大量に輸入するのも危険であり、ブラジルなどを含む多くの国々と輸入を分散するのがよいだろう。

第三に考える必要があるのは、資源の高騰である。
新興国が急激に経済発展を遂げている現在において、資源の枯渇は社会問題といずれなるのは当然のことである。
近年の石油高騰のおりに、サウジアラビアが増産で対応できなかったのは、すでに枯渇がはじまっている証拠である。別に原油が枯渇するという訳ではない。しかし、海底油田などの生産移転は行われ、1バレル10~30ドルの時代は終わり、60~80ドルの時代に移行いたと考えるべきであろう。事故が起こればすぐに100ドルを超える時代に突入したのである。その他のレアメタルやレアアースの購入先の開発と新素材の開発は急務になってくる。ともかく、開発資金を潤沢に供給していく必要がある。

第4に考える必要があるは、新興国の技術力の躍進である。新技術の開発までは一気に追いつかないとしても、既存の技術力はすぐに追いついてくる。また、すでに追いついた分野があることを十分に認識する必要がある。今後も世界をリードしてゆく技術力を維持してゆくことが如何に困難なことかと思うと、基礎技術への投資や既存の研究開発費の少なさが心配である。

その他にも考える点はいくつかあるが、やはり最も重要になってくるのはシーレーンである。米中が覇権を争う限り、シーレーンの維持は難しい。国際紛争にいつ巻き込まれるか判らない状態である。少なくとも自衛隊が護衛できるくらいの軍備と法整備の覚悟がなければ、とても今後も外需依存は困難である。

○内需循環社会に移行
一言でいえるものではない。宣言すればできるのなら先人の苦労はなかっただろう。少なくとも20年前であれば、資源のない日本を内需主導の経済に変えるなんてことは夢物語であった。
しかし、この20年間の世界の情勢が大きく変化し、さらに技術の進歩はそれを可能な域まで引き上げたことは脅威に値する。
もっと大きな冒険は避け、現在の円高対策を打ち出しながら20~30年の長いスパンで社会構造の改革を行う方を推奨しますが、内需の拡大(エネルギー自給率のアップ)は国策にする必要があります。

さて、内需主導の経済構造に変換できる根拠はこうです。
・石油価格の高騰でその他のエネルギー価格と均衡してきた。
・技術の革新が目覚ましく不可能だったエネルギーが手に入れることができる。
・すでに購入した資材の価格の高騰でリサイクルの価格と対等してきた。
・アメリカの衰退でシーレーン防衛が将来困難になる可能性が高く、内需生産できるものは内需生産ができる体制を整えておく方がリスク回避になる。
・日本社会のガラパゴス化を非難する方もいるが、内需主導ならば世界標準に合わせる必要がなく、国内製品の高性能化や特化を推進して、10年・20年先の社会実験的な国家を目指すことができる。
(世界標準と言えば聞こえがいいですが、これは安価で高性能な商品を意味します。日本が得意とする高価で超高性能な商品は世界的に需要が低く、生産するメリットが少なくなっています。日本の技術の劣化が心配しております。ならば逆も真であり、日本自身が特化した国家になれば、超高性能しか売れない国家が誕生すれば、需要が生まれ技術の維持も図れるという訳です。日本に輸入したい業者は常に技術革新を迫られ。日本の企業は常に追いかけられる者として前を行かなければなりません。)

○原油・資源の高騰
エネルギー価格の高騰がすべての発想の根幹であります。
10~30ドルくらいを推移している時点では、このような発想は不可能です。60~80ドルくらいになった現在では、採算ラインに乗って来ています。
太陽光発電の実用性
これは疑いようもありません。すでに多くの家庭の屋根に設置され、発電中であります。これからは価格の問題と生産電気量の問題になってきますが、いずれは解決するレベルだと思われます。これの最も大きなメリットは夏の一番暑い時に最高電力を生産してくれることです。いわゆるピーク電力を抑えることができることは総電力計画にとって大きな要因であり、根本的に原子力や火力発電はピーク消費電力も元に発電所の数を計画しております。ピークが下がるということは発電所数を削減できることになるのです。
・風力???
こちらは勉強不足でどれくらいの発電が実用化できるか把握できていません。ただし、特殊地形の箇所については十分な発電所となっております。海上の風力発電の計画もありますが、海上における風力のデーターが公開されていないのでなんともコメントしづらいところです。ただ、海風・山風のように一定期間吹く風があるように、『六甲おろし』などと揶揄される特殊地形では一定量の風力を得られる可能性は十分あると考えられます。
・地熱発電
20年前の実情から見れば、壊滅的な技術力不足で実用は不可能と考えていた分野です。この20年でもっとも技術力が上がったのは地熱ではないかと思っております。その原因は高層ビルです。高層ビルを支えるには地下の岩盤と言われる所まで掘り下げて杭を打つ必要があります。巨大な構造物ほど杭は大口径になってゆきます。さらにトンネル工事などで岩盤を打ち破る技術も向上しました。この2つが1つ技術になると大口径のボーリングマシーンが完成します。日本中どこでも温泉が安価で掘れるようになったのはこの恩恵であります。これによって天然の貯留層を当てにしない掘削が可能となり、マグマ発電の可能性が現実になってきました。あと50年先と書かれるものがありますが、資金と資材と人材をつぎ込めば、10年で現実化、15年で実用化(もっと短縮できるかも)は可能だと推測します。(何よりも現在は予算が少なすぎることが問題です。)実現すれば、日本の総電力の3倍が賄えると書かれていたりしますが、それは眉唾として、現在の3分の1、原子力発電と同じくらいは十分賄えると思っております。
・天然ガス
こちらは最近有名なメタンハイドレートです。採掘困難な太平洋沖の開発資金を日本海側に移すだけでも実用化は十分と言われております。太平洋側は未だに採掘実験にも成功していないらしく、実用ベースになるのはいつかまったく未定でありますが、日本海側の方は理論的に採掘可能であります。予算は太平洋側が年間約50億円に対して、日本海側は数千万~数百万円単位であり、日本政府が本気でメタンハイドレートの採掘をやりたくないのではないかと考えられます。日本海側に予算が付けば、日本海側の埋蔵量は推定7.4兆立方メートル、天然ガス約100年分にあたる世界最大規模の埋蔵量があると言われ、実現すれば天然ガスの輸入国から輸出国への大躍進を遂げることになりそうです。
・バイオエタノール
海藻等からバイオエタノールを生産する研究である。農林水産省所轄の財団法人【東京水産振興会】の試算では日本の領海と排他的経済水域(EEZ)をあわせた海域約447万平方キロメートルのうち1~2%を用いるだけで年間1.5億トンの海藻を養殖でき、この海藻から400万~500万キロリットルのバイオエタノールが生産できるという。これは現在の日本国内のガソリン使用量の約1割にあたると発表されている。その他にも湖の厄介もの水草をバイオエタノールにする。ウォーターレタスを除去費と考えれば、採算ラインが合わないものでも事実上の黒字化になる可能性もある。また、このバイオエタノールからペットボトルや化学繊維などを作る研究も進められているので、将来的にはガソリンにとって代わる存在になるかもしれない。
・リサイクル都市鉱山
レアメタル、レアアースの価格高騰によって、リサイクル費用が捻出できるようになりつつある。日本の都市鉱山の埋蔵量は約6800トンと言われ、現有埋蔵量の約16パーセントにあたる。実際、ここ数年の金の取引を見ても、日本は輸入国ではなく、輸出国に転換している。その他のレアメタルやレアアースもいずれ同様になりそうである。そう考えれば、リサイクル事業に力を注げば、国内再生産も可能になる。

大体、以上のようなことを10~20年で実現すれば、輸入額が削減され、必要外貨も収縮されます。
このような事業に10年くらい国力を注げば、円高とか、円安とかに戦々恐々としない国家になるかもしれません。
私の理想は内需依存でもなく、外需依存でもない。内需における自給率を確保しておいて、なおかつ、外需で外貨を稼ぐのが理想である。ブロック経済は否定的ですが、世界経済を見れば十分あり得ることで、保険をかける為にも内需、自給率の向上はやってもらいたいと思っています。

結局のところ、外需が正しいとか、内需が正しいとかの議論は実際のところ無用だと思っております。
こんな議論をしなければならないのは、既存の制度を維持したい為に新技術や世界情勢を無視して、政治を行っているツケのようなものです。
新しい技術や制度を常に取り入れていけば、おのずと国家の形が変わって逝きます。
昔の形を維持しようとするところに無理があるのです。

太陽光パネルが採算ラインに乗ったなら、ピーク電力を抑える為に国が率先して推進するのは普通の行為です。それだけで原発の一基開発するより、太陽光パネルに奨励金を付加するほうがどれだけ安価で行えるかと考えれば、答えはおのずと決まっております。
当たり前のことを当たり前にできない。そういった既存の勢力と戦わなければならない為に、内需主導とかいう言葉を言わなければならないのです。

実際は内需主導でも何でもありません。雇用を安定させ(エネルギーと食糧の)自給率を上げておこうと言うことなのです。

為替も同じであり、円が上がり過ぎれば下がるように政策を取り、下がり過ぎれば上がるようにする。
デフレになれば、インフレに誘導する。バブルになれば、歳出を制限して崩壊後に備える。
当たり前のことを当たりまえにできるれば、それほど悩むことではないのです。

円高と経済政策

ドル安、ユーロ安が進んでいる。中国などの新興国の安い商品に対抗して通貨安を容認していうからだ。結果として、日本の円が一人だけ高い値を付けている。これを容認するかしないかは国策であって、それに文句を付けるつもりはない。ただ、現在の政府は無干渉、よく言えば自由貿易主義を貫いている。この無干渉は確実に間違っている。日本の産業空洞化を促進して、国益を害するものでしかない。そのことを理解していないことが、現政権の無能を語っている。

○円高の場合
通貨高なら内需の拡大政策を充実させ、日本のガラパゴス化を極端にまで進める政策が必要である。
例としてあげるなら、“30年未来の世界の現実化”とかがいいだろう。
日本全体をハイテク化して、世界水準と限りなくハイレベルな社会の構築、その為の資金提供と情報の保護化、情報や技術の流出についてはかなり厳しい法律を化し、厳格に順守する必要がある。
つまり、円高なら内需を拡大させる事が重要であるといいたい。
上記のように極端なことでなくても、
・ヒートアイランド対策で屋上のエコ化を義務化し、その資金を政府保証で貸し出す。
・埋設物の共有化を図り、共同溝事業の予算を増額する。共同溝化すれば、埋設事業の簡素化が実現し、将来の事業費の縮減になるが、少なくとも事業は20~50年は継続されるので当面の景気対策になる。
・自立国債の発行を行う。(元東大総長の小宮山 宏が提唱する案である。)太陽光発電の電気代で換金する個人向け国債の発行である。さらに私はこれを拡大して、地下熱空調やエコカー等にも拡張すると面白い。
・環境立国の宣言。環境増加減税の導入によって(一定以上の環境配慮度に対して減税。一定以上の環境負荷のあるものに増税。)特殊技術の促進を促す。同時に、環境育進補助を推進して新技術に奨励金を贈る。つまり、新技術開発の為の無償貸し付けを行い。その技術がスバらしいものなら多額の奨励金が返ってくる。その原資は環境税だが最初の貸付保障に国が関与することで景気振興を促す。
・介護ロボットの実用化促進。(将来足りない労働力をすべてロボットに補ってもらう政策。)
内需が高まれば、円が高いことが大きくいい方向に作用する。
つまり、円高メリットが大きくを最大に利用して、多くの資材や資源を輸入することができるのだ。強い円、強い日本という2本立ての政策である。そして、技術力を売り物にして生き残るというのが戦略である。

○円安の場合
これは従来の政府の政策の延長であり、輸出企業によって国益を確保するものである。つまり、世界標準とも言える相対的な円の価値が高すぎないことが非常に重要である。84円はとんでもない世界であり、100円でも高すぎる。105~110円程度がバランス地帯である。120円が維持できれば、貿易黒字の確保は難しくないだろうと思われる。しかし、アメリカやユーロ諸国も通貨安を推し進めているのでそこまで回復させるのは困難だろう。
では、どうすれば円安に持っていくるのだろうか?
その為には、日銀と政府の協調介入が非常に重要である。
日銀の取れる策は、
・為替介入
・金融緩和
・国債買入 
の3点である。
為替介入は政府の強い意志を表すこのだが現在の世界情勢を考えれば、反発は免れない。あまり、お勧めでない。
金融緩和はすでにコンマの世界であって実質的な意思表明にもならない。
国債買付は単独で行っても余ったお金がその他の国債を購入に回されるだけであり、これも効果はない。つまり、日銀単独での効果は皆無である。
政府も同様であり、
・国債発行
・紙幣発行
の2点でしかないがどちらも単独では効果はありえない。
つまり、国内需要を喚起する政策を打ち上げて、その資金に国債または紙幣発行を当てる。雇用対策であり、景気対策になる。そして、国債等の発行よって通貨の価値が下がり、円高の抑止を掛けることができる。
現政権は国債の発行を堅くない拒絶している。(紙幣の発行にはもっと強い抵抗があるだろう。)

少し難しいが操作ではあるが、、
長期の固定金利国債を発行して日銀に買い取らせる。3%のインフレ率で10年後の実質価値は半減するので借金も半減する。ついでに800兆円の国債もすべて長期固定国債に書き換えれば、10年後には借金が半分になる訳である。
実質的な借金を減らす気がないなら、800兆円、10年で割ると年間80兆円(10年間)の追加国債予算が査定できる。国債の大量発行は通貨安の効果になる。
さらに、この80兆円を原資に景気対策を打ち出せば、効果はかなりあると思われるのだが果たして政府にそんな勇気があるかどうか疑わしい。
景気雇用対策になり、円高に抑止が掛るので一石二鳥であるのだが・・・・???

さて、民主党の経済政策の目玉は何といっても事業仕分けである。
これはデフレを増長させる原因でなっている。しかもデフレはインフレのように通貨価値の減少がない。価値が安定した通貨が国際的に買われて円高になっている。
さて、さて、民主党は何をやりたいのだろうか?

家計に置き換えて考えてみよう。

☆これは蓮ちゃんのお話です☆
節約好きの蓮ちゃんは家計のやりくり上手でいらないものは買わないように心掛け、家計を少なく抑えた。
蓮ちゃんは得意になって『こんなに節約できました』とテレビで言うと、テレビを見ていた主婦もマネをして節約するようになりました。
節約好きの日本の主婦は偉いね!!!

本当に・・・???

蓮ちゃん旦那さんはスーパーに勤めていました。しかし、お利口になった主婦が無駄なものを買わなくなったので売り上げ激減。時給も減らされて収入は大幅ダウン!!!
家計費で削減して浮いたお金と旦那さんの収入が減った額を合せると、

なんと!!! 赤字です。節約分より減った給料の方が多いなんて!!!

質素に暮らしているのに、前より生活が苦しくなっているなんて・・・どうして???

どうして???

・これは現実に起こっている日本経済の話です。
日本が投資を減らせば減らすほど、日本経済は失速しています。
財政健全化と緊縮財政を続ければ続けるほど、税収は落ちて足りない分を国債という借金を増やしているのです。

理由は簡単です。投資すべきところを間違っているからです。
事業仕分けという作業は悪い作業ではありません。しかし、仕分けるだけで新たな投資を怠れば、むしろ土地は枯れて使い物にならなくなってしまいます。まさにそれが今の民主党なのです。
自民党では、贅肉を落とすことができないので将来に不安があります。
民主党では、無理なダイエットで生命の危険をさらしています。

病気で例えるなら、
今にも死にそうな患者の前で、薬も与えずに普段の食生活について説教を説いているようなものです。

事業仕分けと国家戦略室は2つで1つの機関であり、どちらかが機能しないのならやらない方がマシなのです。
たとえば、最近の話題では“はやぶさ”で有名な独立行政法人宇宙航空研究開発機構は行政刷新会議の第2弾事業仕分けの対象となっている。第1弾よりは穏やかになっているが、基本は削減の方向にあります。とても更なるチャレンジをやるぞという雰囲気ではありません。
この事業仕分けもは以前の仕分けの手法と同じで、以前として法的な根拠はない。しかし、参考意見でもないという曖昧さに思わずため息ができしまいます。
その対極である国家戦略室は未だに機能していない。民主党はこの国をどうしたいと思っているのでしょうか?

経済政策なしに円高対策はありません。それもと円高容認なのでしょうか?
いずれにしても経済は生き物のようなものです。常にこれといった回答がある訳でなく、それでいて無関心ではいけない。
私達は経済戦争という戦争を行っている最中なのです。
危機感を持って、立ち会ってもらいたいと切に願っています。

日本の財政破綻!?

日本の財政破綻という言葉が参議院選の前に飛び交っていた。ギリシャみたいにしない為に、“消費税の増税はやもうない。”という世論を背景に菅総理は消費税のアップを公約に打ち出した。IMFも15~20%のアップがないと日本の財政は破綻を来たすと警告する???
しかし、残念なことに国民はその判断に“NO”を付き付けた。

さて、この流れを見て頂ければ判るように、日本政府およびIMFの警告を無視した日本の信用は暴落するはずである。

現実は日本の信用力が増して、【円高】が起こっている。

おかしいと思わないか?

日本の紙幣の価値が落ちて、円安ではなく、円高である。

その通り、今、あなたが考えたことは正しい。
市場の関係者は少なくとも、日本が財政破綻しないと考えているのだ。
増税の必要性を感じていないということである。

日本政府、日銀、IMFの3者こそ、『大いなる判断ミス』を犯しているのだ。
日本の経済が回復しないのが完全な政策ミスであって、日本の経済力は以前として、高い水準を保っている。
永遠にこれが続くなどとは思わないが、現時点の経済力はギリシャとは異なることを認識しなければならない。
円高、円安とは経済のバロメーターであり、
その都度、もっとも最良な経済政策を打たなければならない。

しかし、残念ながら日本の官僚や日銀のスタッフは現実を受け入れず、“こうなるはずだ”という自己の論理展開から抜けることができず、我々が正しく、現実がおかしいと意地を張って、デフレ下でありながら、インフレ対策と財政再建にやっきになっている。これで日本経済が田に直ることがあれば、東洋の奇跡と称してあげよう。

“日本の財政破綻”という大嘘をいつまで国民は信じているのだろうか?
黒字倒産はありえるのだが・・・・・・

菅総理の就任会見を聞いて

菅総理は就任会見でいろいろと語られました。
「不幸を少なくしていく最小不幸社会を目指す。貧困や戦争を無くすことが政治の仕事である。」や「この20年間、税金を上げられないから借金を増やしてしまった。財政が弱いことが悪い。財政再建こそ日本復活につながっている。」などなどです。
菅総理は以前、小泉・竹中路線がデフレを拡大したと痛烈に批判しており、その点においては私も同意見であります。

経済が不況でパイを縮小しているときに、財政を縮小させて経済にデフレスパイラルを拡張させた。
さて、その小泉・竹中路線を批判した菅直人氏は、総理大臣になって「増税による景気対策」などという訳の判らないことを言っております。
「増税による財政再建」または、「増税による財政健全化」というのは判りますが、増税によって景気を回復させるというのは判りかねます。
以前書いたことがありますが、税金を5%上げると見かけの約3%GDPが上昇して景気拡大に見えますが、家計における消費は減少して、デフレを拍車を掛けることになります。
一方、増税が消費税ではなく(格差式の消費税かも)所得税でありば、富める者から不足する者への移行が行われ、たしかに消費拡大への可能性はあります。しかし、大抵の富める者は何らかの利害や利権に関係した方々が多く、それを実行するには財政を健全化するより遥かに困難を伴い、私はまず不可能だと考えています。
さて、菅直人氏は何を考えているのでしょうか?

結論を申しますと、
財務省に騙されているか、国民を謀ろうとしているのであります。もちろん、菅直人自身も騙されているのですが、自分を自分で騙している人間ほどやっかいな者はいません。
いずれにしろ、そのどちらかです。
では、何故、そのようなことを言っているかと言えば、
「ギリシャ問題」を目の当たりにしてビビっているというのが真実でしょう。

経済を理解している経営者なら、国の絶対負債よりバランスシートを重視します。しかし、最近のお抱え学者さんは、緊縮財政派が多く。それがデフレを増長させているのですが、それでも財政健全化と緊縮財政を止めません。結果的に、デフレスパイラルは永遠に継続中であります。

【景気対策】は短期であり、【増税】は恒久財源であります。
これを区別しているなら、おのずとこれを並列して語るのは愚の骨頂であります。
菅直人が経済に弱いことを露呈しているような気がします。

ただし、【増税】=【悪】ではありません。
財政の健全化の為に増税による社会構造の変化を促すことは絶対に必要です。
しかし、先に増税を行うと、デフレスパイラルがさらに加速されて、多くの国民の命を奪うことになるでしょう。
小泉・竹中路線で言えば必要な犠牲であり、産業優先非福祉国家への過程であります。
しかし、“最小不幸国家=福祉国家???”を目指すのであれば、弱者の切り捨てはありえません。
増税を先行させることは、弱者の切り捨て以外の他にありません。
増税は必要であり行うべきですが、その順序を間違わないことが重要です。

また、そこで1つ気になっているのが、【地球温暖化対策】です。
私自身は人間と温暖化の関連性など関係ないと考えていますが、『国際公約としての地球温暖化25%』は有効です。
となれば、菅総理もそのことを関係した対策を述べる必要があったのですが、それがなかったことが心配です。

【景気対策】として、
地熱発電や太陽光の育成を上げて、国内エネルギーの自給率を上昇させるくらいは言ってほしいものです。

さて、菅総理は何を考えて、「増税による景気対策」と言っているのでしょうか?
願わくば、
財政投資によって育成産業を活性化させ、雇用を創出。拡大する経済発展分に対して、発生するCO2に課税を掛け、その税収で林業や農業のCO2削減補助金を捻出。同時に雇用の拡大。GDPの拡大分を消費税のUPで回収し、介護医療の福祉に注入。そこで発生する雇用の拡大によって安定成長へ導くなんって構想でことを祈りたいものです。
先に、税収の体系を変えてから、雇用の拡大を図るような愚の骨頂をなされないのを強く願っております。

やっぱり最低「子ども手当法案」

自民党 田村憲久は平成22年3月5日衆議院厚生労働委の質問で田村憲久が「子ども手当法案」の疑問を正した。

結論から言えば、

子供手当の欠陥法案である。
直ちに、修正を加えなければ、後顧の憂いになるのは必定である。
しかし、そこにはっきりと断言できない大臣がいる。
政府は何かを隠しているのかと疑いたくなるほどの対応に鈍さに懸念を持たずにはいられない。

もう一度言おう。
子供手当は直ちに修正法案を提出するべきである。

日本在住の外国人労働者に子供がいれば、
一人当たり1か月2万6000円、年間31万2000円が支給される。
祖国に2人なら、62万4000円
3人なら、93万6000円
10人なら、312万円
100人なら、3120万円である。

えっ、10人もいるの?
とんでもない。10人くらいは普通である。イスラムでは、一夫多妻が許されるので20人や30人の子供を持つものをいる。
さらに、養子もOKである。
神父が親のない子供の父となっており、100人の子供がいる者もいる。もちろん、これらは善意であり、悪意ある者達ではない。
善意ある者がいるということは、悪意ある者も行えると考えておくべきだ。

日本の常識は世界の非常識と思っておこう。

外国人で
子供が10人もいる親なら、無給でも日本に働きたいと考えるだろう。
いなければ、10人、または100人を養子に迎えて日本に出稼ぎに来るだろう。
日本で3120万円では家一軒が買える程度だが、東アジア、南米、アフリカなら宮殿が建ってしまう。

以前、子供手当について書くと、りっき~さんより「あなたは子供を育てたことがない。子育ての大変さが判っていない。」と批判を受けた。
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-10c5.html#comments

この法案の欠点は、日本に在住する者の子供すべてに子供手当を支給することである。
親が子供を育てる大変さとはまったく関係ないのである。

もう一度言っておくが、善意・悪意に関係なく、金儲けの対象にされる事が問題である。

外国の子供を100人養子にする。(書類のみ)

実の父母に預ける。(子供の生活が何ら変わることはない。)

国から外国人の養子でも「子供支援金」がもらえる。

生活に必要な金額を送金する。

残る残金を自分の生活に当てる。

100人の養子を迎えると、3120万円の支援金が貰え、1000万円を送金し、2120万円が手元に残る。
(コメントで使用した数字は訂正しました。)

こんなバカなと思う人もいるだろうが、大臣が答弁で確定した。
欠陥とは言わなかったが、厳重に審査すると言っているのはできると言っているに等しい。
しかも厳重に審査するのは地方であって、国ではない。

つまり、養子を100人持つことを1000人持つことをできるということが判明した訳だ。さらに、手当を支給するのも大臣が確約した。
さらに、来年以降も継続する可能性があると言っている。

『なぜ』そんなことになったのかと言うと質問に質問者自信が答えている。

児童手当の法律に子供手当法案が乗っかったからである。
児童手当では、外国人労働者が少なかったことと、児童手当法の認知が少ないこと、対象児童が少なかったことが幸いであった。
しかし、子供手当の認知度の高さと対象者の多さが地方自治の許容能力を超えてしまっていることが問題なのだ。

つまり、地方自治では外国人の子供かどうかを確認する能力がないのである。さらに大勢が駆け込んできて、騒ぎ出すようなことを避ける為に、書類が揃っている外国人に手当をするしかないというのが現状である。
現地語の証明書が本物かどうかなど、地方自治で確認できないのは当然である。
しかし、大臣は地方自治に厳重に通達すると言っている。やはり、地方にやらせるつもりである。

地方自治にそんな能力はない。

さらに言えば、大量の援助がもらえると感がる開発支援国が正式な書類を発行すれば、日本政府はそのすべてに子供手当を支給しなければならない。
一度支給されれば、多くの開発援助国が支給停止に疑問視することは明らかである。
中国やアメリカから支給を継続するように言われた場合、日本はどう対応するつもりなのだろうか?

5兆円もの子供支援も大政策である。
外国に流出する金額の推測は3500億円、しかも、拡大し続ける可能性があり、

1兆、2兆、5兆を超えるかもしれない。
日露戦争以降、朝鮮からの密航が多く、政府は遂に対応できなくなり、居住を認めた経緯がある。
それが再び起こると私は推測する。それも全世界の開発支援国からである。、
現在、平成20円ベースで220万人が外国人が日本に在留する。
おそらく、これが現実となれば、1000万人を軽く超えてくると想像される。

外国人の大入国ラッシュが発生する。
シンジケートやマフィアも乗り出すだろう。
子供手当で日本が崩壊の危機に直面する可能性もあるのだ。

《外国に流出する金額の推測は3500億円》
この根拠はコメント欄にも載せているが、以下の計算に基づく。

日本で働く外国人は、平成20年ベースで2217426人
約222万人です。
すべてが出稼ぎとはいいませんが、3分に1が出稼ぎと推定し、2人の子供が祖国にいると推測するとその額、約3500億円です。

これ以上になる可能性はあっても、以下にならないと推測される。

ただし、6月の施行、または、来年の正式な子供手当の法案に修正案を加えれば、未然に防ぐことができる。
一旦、始まると中国、アメリカ、EU、国連の人権委員会など様々な抵抗を考えられ、日本の損失は免れないと推測する。

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(参考)

2010-03-05 衆議院厚生労働委 田村憲久(自民党・改革クラブ)
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php
ラスト8分頃

田村憲久「鳩山総理に質問できなかった『子ども手当法案』の問題点」
http://www.youtube.com/watch?v=KDly7b_UR4A

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