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« 古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》瀬織津姫②  | トップページ | 古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 瀬織津姫 目次 アマテラスの妻であった龍女神  »

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》瀬織津姫③

瀬織津姫、それは天照坐皇大御神荒御魂と称される天照大神の妻。

しかし、歴史から忙殺されている水の龍女神であり、呪いと祟りをまき散らす悪霊神である。その謎の神を掘り下げます。

瀬織津姫 目次

瀬織津姫(1)大三島の大山積神に消された瀬織津姫

瀬織津姫(2)瀬織津姫の呪い、それとも天照大神の呪い?

瀬織津姫(3)瀬織津姫とめぐりめく運命の姫たち

瀬織津姫②に戻る

01_2

〔歴史館はこちらへ〕

.瀬織津姫とめぐりめく運命の姫たち

垂仁天皇(すいにんてんのう)は崇神天皇の第3皇子であり、皇后の日葉酢媛命(丹波道主王の女)との娘である倭姫命に元伊勢を巡らせて、伊勢神宮を創建しました。初代斎宮が倭姫命であります。

軌跡を巡ると、10代崇神天皇の父である9代開化天皇の妃に丹波竹野媛が見られます。丹波竹野媛は丹波の大県主由碁理(ゆごり)の娘で、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)を生んだとされています。比古由牟須美命には大筒木垂根王(オオツツキタリネ王)、讃岐垂根王(サヌキタリネ王)という二人の子供を生み、大筒木垂根王は崇神天皇から見れば甥っ子に当たります。大筒木垂根王の娘に迦具夜比売命(カグヤヒメ)が生まれ、垂仁天皇の妃になり、袁耶弁王(オザベ)をもうけているのであります。

<瀬織01-02 8代孝元~15代応神天皇の系図>

0102

大筒木垂根王の娘に迦具夜比売命は『かぐや姫』のモデルとされる姫ですが、物語のかぐや姫と違い垂仁天皇の妃となっております。

系図を見れば、迦具夜比売命の母は竹野媛となっており、「竹野」を「タラ」と発音すれば、「大羅」「多羅」「大林」「哆唎」「莿萩野(タラノ)」であります。

丹波国の「竹野」は、渡来してきた伽耶諸国の「多羅」国の人達が、自分たちが定住したと言われます。

逆に第四代新羅王(在位57年 - 80年)の脱解尼師今(だっかい にしきん)は、脱解王と呼ばれ、倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだという伝説の王であります。当時の半島情勢は現在より複雑であり、倭人は海を渡る民族でした。

倭人と言えば日本をイメージしますが、実際の倭人の領域は中国山東省から朝鮮半島を越えて北九州・日本海も含んでおりました。

1-12 倭国の支配地>

112

ですから、

× 倭人=日本人 

ではなく、

〇 倭人=日本人=朝鮮人(高句麗・百済・新羅)=中国沿岸部の中国人

と広い意味で捉えないと間違いが起るのです。

もちろん、倭国が1つの共同体であった時代は2世紀までです。三国志の1つ、魏の曹操が遠くローマの海運技術を取り入れ、大型帆船と指南魚(中国版の羅針盤)が導入され、1日50km近海に寄港地を持たないと航海できない近海航法から大海に帆を張って200~300kmを移動する遠海航法に移行するのであります。

2世紀、卑弥呼の時代にははじまっており、3世紀の勢力図を大きく塗り替えるものになります。

旧航行

・主に手こき舟であり、海岸近海を移動する。

・50kmごとに同盟する村が存在する。

・村同士が共同体をなし、共同の敵に対峙する。

・陸の部族は海の部族にちょっかいを出さない。(海に逃げれば追って来ないゆえ)

新航法

・船が大型化し、帆船を主原動力とする遠海航法に変わる。

・海の民の共同体が崩壊し、近海の海を守護する部族に変わる。

具体的に言えば、

その海域を守護する海の民は、そこを通行する船に通行の安全を祈願する寄付を募ります。

たとえば、

「瀬戸の海で安全に通行したいなら、大山祇神社に寄進しなさい。さすれば、海の安全は守られます。」

そして、寄進すると旗が船に掲げられ、旗のない船は神罰として海賊が襲って金品を強奪すると言う訳です。守護者と海賊が表裏一体になった存在となっていったのです。神社仏閣のあり方も時代と共に変わり、大山祇神社も信仰の対象も厳島神社や金刀比羅宮へと時代と共に移ってゆきます。

それゆえに、3世紀は瀬戸、浪速、玄海、日向、伊勢、丹後など様々な海の民が固有の部族として跋扈する時代へと移っていったのです。

瀬織津姫は信仰の対象として、非常に重要な地位を持っていましたが、大陸との連絡を司る航路が対馬海峡、沖縄列島、北海ルートに限られ、最も盛んな対馬海峡を司るシャーマン(卑弥呼など)が大きな政治的な意味を持つ時代が終わったのでありました。

3世紀になると様々な地域が独自に外交と交易を開始し始めます。丹波(丹後)も新羅と独自の外交や交易を行いました。そして、それは高句麗、百済、新羅の三国の関係と日本の諸勢力との関係を複雑にすることになります。

【四方山話】邪馬台国はどこにあるの?

邪馬台国は九州説、畿内説とありますが、他にも日向説、四国の阿波説、出雲・丹波説、近江説、三重の伊勢説など沢山あります。

ここまで瀬織津姫の話を読まれた方は、

月読命=龍神=瀬織津姫=豊受大神=天照大神の荒御魂=禍津日神

ということを、何となく理解できたと思います。

月読みとは、

月の満ち欠けから天候 などを読む占いを司る神のことであります。

シャーマンの巫女が天運や天候、海流の流れを読むのですから、信仰する神は当然のことながら月読命であり、邪馬台国の卑弥呼は、正にシャーマンでした。

つまり、

月読命=瀬織津姫=卑弥呼

でした。

瀬織津姫は月読命を祀る第一の巫女であり、総元締めです。月読みのシャーマンを各地に送り、同盟を数珠繋がりで結んでいた訳です。

さて、卑弥呼の邪馬台国が存在したのは2~3世紀です。

魏志倭人伝によれば、

始めに奴国(なこく)が建武中元二年(57年)後漢の光武帝より金印を貰い、倭国の王と認められます。その後、定かではありませんが、その後70~80年後に倭国は入り乱れて争い、一女子を共に立てて王と為します。その女子を名は卑弥呼といい、鬼道を扱うものでした。卑弥呼は景初2年(238年)に帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送ったとあります。金印を貰った奴国や邪馬台国と対立していた狗奴国が、ニギハヤヒ(天照)が開いた王朝とは100年以上の開きがあり、畿内のニギハヤヒ朝が奴国や狗奴国と同じとは考えられません。

しかし、300年以上前、紀元前2世紀頃に畿内を統一したニギハヤヒ朝は、跡目争いで分裂したと思われますと、瀬織姫の一派が畿内から追い出され、丹波(丹後)に新たな王朝が生まれ、各地のニギハヤヒ(天照)の子孫が『われこそ、後継者なり』と名乗りを上げてもおかしくありません。

<瀬織01-03 瀬織津姫の経路と邪馬台国>

0103

ニギハヤヒは畿内から伊勢湾を渡って尾張まで行幸しました。畿内、あるいは尾張のどこかの新たな発掘や発見で『我が国も邪馬台国であった証拠が見つかった』などと報道される日がくるかもしれません。ニギハヤヒの子孫は、こぞって自分こそ正統な後継者であると主張したことでありましょう。

吉野遺跡や纒向遺跡で新たな発見があっても、邪馬台国の九州説、畿内説を決定することなどできないのです。なぜならすべての王が『我こそは・・・』と名乗っていたに違いないからです。

そして、ニギハヤヒの弟とされるニニギの子孫である神武天皇が長髄彦より王家の秘宝を受け取って、正統な王朝であると宣言したのが日本の歴史なのです。

邪馬台国は九州であり、畿内でもあったのです。

畿内の名残りとして奈良県の『奈良』は、日本書紀には『那羅、乃楽、儺羅』、古事記には『那良』、万葉集には『名良』の表記で使われており、『羅』は『国』と同義ですから、奈良は邪馬台国より先に倭国に王になった『奴国』と読めるのです。そして、『邪馬台国』は『大和』と語感が似ています。

また、日向のニニギ王朝が『狗奴国』と推測されます。

地政学的に見て、

魏国が援軍を送るのは、狗奴国と呉国と繋がりがあるからです。遼東の地で自立し燕王と称した公孫淵(こうそんえん)は海路を通じて呉の孫権と手を結んでいました。邪馬台国が狗奴国に滅亡させられると、魏国は朝鮮半島の背後から襲われる可能性があった。ゆえに、邪馬台国の卑弥呼を厚遇する意味が生まれます。

呉国と日本を結ぶルートは沖縄列島であり、終着点は薩摩の坊津(ぼうのつ)であり、薩摩と日向を押さえていたのがニニギ王朝でした。

仮にニニギ王朝が邪馬台国であった場合、神武天皇が魏や西晋に使者を送ったという記録が残っていないのは不可思議なことです。逆に長髄王朝が邪馬台国であったとするなら、邪馬台国は王都を神武王朝に占領されたことになり、仮宮を丹波(現在の丹後)、あるいは出雲に置いていたと仮定できるのです。

逆に大陸から見た邪馬台国は伊都国を窓口として帯方郡と国交を結んでいましたから、北九州地方は邪馬台国に属していたことだけは間違いありません。

つまり、

紀元後3世紀までは北九州に邪馬台国(一部か、全体かは別とする)があり、4世紀に神功皇后によって北九州が平定されると畿内が邪馬台国を名乗った事だけははっきりしているのです。

《閑話休題》

■かぐや姫の背景

かぐや姫のモデルとされる迦具夜比売命(カグヤヒメ)は垂仁天皇の妃になり、袁耶弁王(オザベ)を生みます。この袁耶弁王は古事記には登場しますが、日本書記には載せられておりません。古事記では、父に日子坐王、妻に大闇見戸売(オオクラミトメ)とあり、

葛野之別(かずののわけ)、近淡海(ちかつおうみ:滋賀県)の蚊野之別(かののわけ)の祖と書かれています。日子坐王は日本書記では彦坐王と書かれ、第12代景行天皇の曾祖父にあたり、正統な系統に書かれております。

日本書記では迦具夜比売命と迦具夜比売命の子である袁耶弁王を消されているのです。もちろん、そのように扱われている人物は多くいますから、取り分けて特筆するものではないのですが、父は大筒木垂根王とある。

「ツツキ」という名前から「京都府綴喜郡」のあたりとか、京田辺市の「大筒木郷」の首長とも言われており、継体天皇の筒城宮もある。

筒木=竹

ツツキの国=月の国

と連想すると、迦具夜比売命は垂仁天皇の妃となったが、「汚き地」から月の国に帰ったというエピソードがあったのかもしれない。

さて、筒木から日子坐王の子孫で山代之大筒木真着王も連想される。日子坐王は迦具夜比売命とは別系列であるが9代開化天皇の皇子であります。

日子坐王(彦坐王)-山代之大筒木真着王-迦邇米雷王-息長宿禰王-神功皇后

日子坐王の子に四道将軍の1人で丹波に派遣されたという丹波道主王がおり、やはり丹波国が大きく関与しています。

何と言っても丹波道主王は籠神社海部家祖先とされており、この籠神社(元伊勢)から垂仁天皇と丹波(旧丹後)の血を引く倭姫命が皇室の祭祀する天照大神と当社海部家の祭祀する豊受大神を伊勢にお鎮めになったということになるのです。

ちなみに、

海部家は弥生時代においては若狭湾の航海権を統率する海人族の首長であったと伝えられております。

しかし、

『勘注系図』丹波國造海部直等氏本記によると、

「大日本根子彦太瓊【孝霊】天皇御宇、

於丹波國丹波郷、爲宰以奉仕、然后移坐于山背國久世郡水主村、

故亦云山背直等祖也、后更復移坐于大和國

つまり、第7代孝霊天皇の時代に海部氏の先祖は近江野洲から丹波に移動し、海部氏は御上神社に第9代開化天皇の時代辺りまで、神に仕える斎宮(巫女)を御上神社に送り出していたと書かれております。

弥生時代の海部家と近江野洲から渡った海部家が1つに習合されて海部家と至ったようです。ゆえに古代近江国坂田郡(現滋賀県米原市)を根拠地とした息長氏の娘である神功皇后と丹波との関係が深いことが伺われます。

息長氏の拠点である米原のすぐ隣が長浜であり、迦具夜比売命の子である袁耶弁王を祀る神社は佐波加刀神社(滋賀県長浜市木之本町川合1277)しかない。佐波加刀神社には日子坐王、大俣王、小俣王、志夫美宿禰王、沙本毘古王、袁邪本王、佐波遅比売王、室毘古王らが祀られ、いずれも開化天皇の皇子で日子坐王の子である大俣王以下七柱であります。

袁耶弁王から猿田彦との繋がりを探してみましたが、近隣の多賀大社の摂社の山田神社で猿田彦大神を祀っている程度しか関連は見受けられません。

猿田彦は天孫降臨の先導者した国津神であり、天宇受賣命(アメノウズメ)を妻として伊勢に鎮座した神であります。

ところで猿田彦は「さだひこ」とも読み、伏見稲荷大社に祀られる佐田彦大神と同神と考えられております。

そして、すべての原点である籠神社には、真名井稲荷神社、春日大明神社、猿田彦神社が一緒に祀られているのです。

籠神社

//神:彦火明命(ひこほあかりのみこと)※籠神社海部(あまべ)家始祖

相 殿:豊受大神(とようけのおおかみ)※彦火明命の奉斎神

    天照大神(あまてらすおおかみ)

    海神(わたつみのかみ)※豊玉毘売(とよたまびめ)

    天水分神(あめのみくまりのかみ)※真名井神社水戸神の御子神

天照大神和魂社(あまてらすおおかみにぎみたましゃ)※摂社

祭神:天照大神の和魂(にぎみたま)

真名井稲荷神社(まないいなりじんじゃ)※摂社

祭神:宇迦之御魂(うかのみたま)・保食神(うけもちのかみ)・豊宇気毘売(とようけひめ)

春日大明神社(かすがだいみょうじんのやしろ)※末社

祭神:武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)

   天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめかみ)

猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)※末社

祭神:猿田彦神

不思議な関連を感じずにはいられません。

そして、古事記における継体天皇の名を袁本杼命(をほどのみこと)と記されているのも偶然ではないようです。

継体天皇は応神天皇の五代後の子孫に当たり、応神天皇とヤマトタケルの子孫である息長真若中比売の間に若野毛二俣王をもうけます。

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

この歌は漫画「ちはやふる」をきっかけにして有名になった競技かるたをはじめる前に歌われます。応神天皇の崩御後、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)と大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)が互いに皇位を譲り合った(奪い合った)ため、3年間も空位となり、難波高津宮において大鷦鷯尊が即位して仁徳天皇となった際にその治世の繁栄を願って詠まれた歌とされています。

若野毛二俣王は殺されるのを恐れて逃れたのではないでしょうか?

若野毛二俣王は母の妹である百師木伊呂弁(ももしきのいろべ)を妻にしていることからも息長氏との関係を強くしているのが見てとれます。そして娘の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)を第19代允恭天皇の皇后として差し出し、忍坂大中姫は木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)、第20代安康天皇・第21代雄略天皇を産んでおられます。

若野毛二俣王と百師木伊呂弁の間に生まれた忍坂大中姫の兄弟に意富々杼(おほほど)がおり、乎非王、彦主人王、継体天皇と繋がってゆくのであります。

意富々杼-乎非王-彦主人王-継体天皇

<瀬織01-04 応神~欽明天皇>

0104

この意富々杼(おほほど)は、継体天皇の別名である『日本書紀』では男大迹王(をほどのおおきみ)、『古事記』では袁本杼命(をほどのみこと)、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(をほどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(をほどのおおきみ)とまったく同音であり、『ヲホド』の名を持つ王に意味があります。

ヲホドとは意富氏のことであり、大和朝廷の歴代の天皇を支えた氏族であります。古事記では、神武天皇の子カムヤヰミミの子孫となっており、垂仁天皇の四道将軍として北陸道を制圧した孝元天皇の子オホビコ(意富比垝)がそれに当たります。また、埼玉県行田市の稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣にオワケノオミ(乎獲居臣)の上祖がオホビコとあります。古事記を編集した太安万侶も意富氏族でした。

継体天皇の父である彦主人王は、『日本書紀』に近江国高嶋郡三尾を治めていたと書かれています。しかし、母方の振媛が越前の国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)の生まれであり、幼い継体天皇を連れ帰り、若き継体天皇は高向を治めていたと思われます。

竹田川の上流には継体天皇を祀る横山神社や継体天皇の宮跡が在ったという「女形谷」・「天皇堂」などのゆかりの地が残されているのです。

そして、『ヲホド』と天皇家の関係が深い王や姫はこのようになります。

袁祁都比売命    日子坐王妃  和邇氏の女

(おきつひめ)

袁耶本王       日子坐王の子 母、沙本大闇見戸売

(おざほのみこ)          (春日建国勝戸売の女)  

袁耶弁王       垂仁皇子   母、和邇氏系

(おざべのみこ)

袁那弁郎女      応神妃     和邇氏の女

(おなべのいらつめ)

袁杼媛         雄略妃     和邇氏の女

(おとひめ)

袁祁命         顕宗天皇、袁祁王之岩巣別命

(おきのみこと)

袁本杼命       継体天皇

(おほどのみこと)

息長氏は天皇との関係を常に深く持ち、遠縁である袁本杼命が誘致され、継体天皇になったのも決して偶然ではなかったのであります。

不思議なことに、越前の地を治めていた三尾氏について、継体天皇の時代以後『日本書紀』や『古事記』に記述がなく、150年後の天武13年(西暦684年)に天武天皇が定めた「八色の姓(やくさのかばね)」の最上位の位「真人」(継体天皇の近親者およびそれ以降の天皇・皇子の子孫が対象になったらしい)にも三尾氏の名前は登場しません。

継体天皇から推古天皇へと移る時代は、百済・新羅・高句麗を巡る外交が深刻化している時期であり、物部守屋・蘇我馬子・厩戸皇子(聖徳太子)らが大きく外交方針を変える時期になります。

継体天皇の基本外交方針は奪われた朝鮮半島南部の任那を復興することにあります。派兵に傘下した物部氏の一族の一部は百済王から官位を貰って臣下となっていました。また、日本に渡来した百済人の多くは『タニワ』(丹波)などが聖地奪還というべきレコンキスタを望んだのも頷けます。

26代継体天皇-29代欽明天皇-33代推古天皇

聖徳太子が隋に遣唐使を送るという外交方針に固まるまで、百済派と新羅派を支持する部族によって大いに混乱することになったのです。

<瀬織01-05 推古天皇の家系図>

0105by

〔推古天皇の家系図〕歴史人物家系図by家系図作成本舗より

推古天皇は欽明天皇の娘であり、蘇我稲目の娘である蘇我 堅塩媛 (そが の きたしひめ)を母とします。稲目の父は高麗と書かれており、渡来人のようなイメージがありますが、実は馬背という名があり、高句麗の姫である高麗毘賣(こまひめ)を妻に迎えた為に『高麗』とも呼ばれたと言われます。

蘇我氏の系図を見ると、

武内宿禰―蘇我石川宿禰―満智―韓子―高麗―稲目―馬子―蝦夷―入鹿

あり、有名な蘇我入鹿の父である蝦夷は馬子と物部守屋の妹である太媛の子供であり、東国の蝦夷とは血縁はありません。おそらく、東国が蘇我氏の後ろ盾となっていたので息子の名前を蝦夷と名付けたのでしょう。

同じ理由で、高麗が朝鮮半島と強い結び付きがあったことを物語っていますが、渡来人と同一視するのは早計なのです。一説には、武内宿禰の一子石川麿が蘇我姓を名乗り、二代目満智に世継ぎがない為に、百済から人質となって渡日した百済第26代聖王(聖明王)の第3王子である琳聖太子(りんしょうたいし)の孫を養子に入れたのが蘇我韓子とも言われております。しかし、蘇我馬子の代において、百済びいきという通説は完全に否定されますから、韓子の養子説も一概に信じていいのかは考慮の余地を残します。

念の為に言っておきますと、

仏教推進派の蘇我と神道堅持の物部氏の対立構造は、藤原氏が記紀で画策したねつ造であります。そもそも仏教を率先して推進したのが物部氏の一族であり、蘇我稲目は仏教に懐疑的でありました。

『難波(なにわ)の堀江』で物部尾輿が「向原の寺(家)」を焼き払い、堀江に投げ込んだ仏像は本多善光に拾われ長野県の善光寺に祀られております。善光寺には守屋柱があり、物部守屋を祀っております。

そもそも倭国と百済の外交を行っていたのは物部氏であり、百済の聖明王から預かってきたのも物部氏と考えられ、蘇我稲目は仏教にそれほど関心がなかったのであります。

<瀬織01-06 蘇我氏>

0106

付け加えますと、高麗の姫を母とする稲目が百済びいきとは考え難く、

「仏教 VS 神道」=「蘇我氏 VS 物部氏」

は完全なねつ造であり、

「仏教 VS 神道」「蘇我氏 VS 物部氏」

という仏教と神道の対立ではなかったというのが真実なのです。

さらに、物部守屋は物部氏の主家でもなかった為に、守屋を討った『丁未の乱』で河内の物部氏をまとめたのは蘇我蝦夷でありました。蝦夷は物部守屋の妹である太媛を母に持つ物部方の人間であり、同じ物部一族内に親百済派と非百済派の戦いでありました。

なぜ、そんなことになったと言えば、

すべて経緯は日羅(にちら)の帰国にある。日羅の父は阿利斯登といい、九州出身の武人で宣化天皇の代に大伴金村に仕えて朝鮮半島に渡海した。日羅は百済威徳王に仕え、二位達率(だっそつ)と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚となっていったが、583年に敏達天皇の要請により帰国した。その折に伝えられた内容が深刻なものであり、百済威徳王が新羅から任那奪還を諦め、北九州を侵略しようという内容であったのです。

北九州に在住する物部氏を始め、百済王の侵攻を良しとしない物部氏と、物部守屋をはじめとする百済王と共同して任那奪還を継続しようと考える物部氏が分裂した訳であります。

親百済派物部氏〔任那奪還〕VS非百済派物部氏〔北九州死守〕

日羅は裏切り者として、監視者の百済人の手に暗殺されます。

これによって、新羅と独自の外交を持つ蘇我馬子と百済派の物部守屋と中臣氏との対立関係も険悪となってゆきます。

敏達天皇が暗殺事件の2年後に亡くなり、さらに聖徳太子の父である用明天皇もわずか2年で亡くなります。政局が昏倒している場面で、蘇我の血を濃く持つ推古天皇が女帝として祀られたのです。

蘇我氏は稲目から突然活躍しているように思われますが、高麗は高麗の姫を貰うほど権威がありました。高麗が活躍した時期は25代武烈天皇の時代以前であり、21代雄略天皇の崩御以降は、国内の権力争いでほとんど不明な状態です。

その時代に継体天皇へと連なる息長氏は、近江・越前地方を基盤に日本海沿岸・琵琶湖・淀川・伊勢湾の水運を掌握しておりました。そして、朝鮮半島と独自の外交を続けていたと言われます。

蘇我高麗が高麗の姫を貰うとすれば、継体天皇へと連なる一族に仕えていたのか、有力な一族の1つであったと考えられるのです。

また、なぜ蘇我氏と越の国が繋がるのかと言えば、蘇我氏はヒスイを重宝し、ヒスイによって財貨を蓄えており、ヒスイの特産地こそ越の国だからです。

つまり、蘇我氏と息長氏は深い関係を持っており、蘇我氏の系図が正しいのであれば、武内宿禰は8代孝元天皇の皇子である彦太忍信命を祖父とする王族であったと思われるのです。(注:百済王の説を除く場合)

また、蘇我氏から改名した石川は蘇我石川宿禰から取られているのですが、当時の石川は現在の賀茂川の事であり、万葉集で石川郎女など多く出ております。賀茂氏は速須佐之男命の11世の孫の大鴨積命を祖としておりますが、八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命を始祖とする天神系氏族ともいわれ、秦氏と同族ともされます。

いずれにしろ、淀川水系であることには変わりなく、蘇我氏は海の民の一族と深い関係の姫である推古天皇を輩出し、推古天皇は女帝として苦難の日々を送ることになります。そして、蘇我遠智娘の娘である持統天皇(じとうてんのう)、蘇我姪娘の娘である元明天皇(げんめいてんのう)もまた苦難の日々を送ることになるのです。

それほど天皇家と繋がりの深い海の民の一族が『壬申の乱』以後、物部氏・蘇我氏・息長氏・海部などの名も消え、藤原氏の天下となってゆくのであります。

かぐや姫の子孫である姫達が、それをこころよく思うはずもありません。

物部氏の一族の弓削氏の出自で弓削櫛麻呂の子とする弓削道鏡(ゆげのどうきょう)に孝謙上皇(後の称徳天皇)が皇位を譲り、道鏡を法王に据えようとしたのも頷けるというものです。

孝謙上皇は、天平宝字八年(764年)の恵美押勝の乱を制した兵数百を淳仁天皇のもとに派遣し、次のような強烈な宣命を読み挙げさせています。

「聖武天皇が私に皇位を譲られたとき、次のように述べられた。王を奴(奴婢)となしても、奴を王といっても、私の好きにすればよい……」

恵美押勝は藤原の不比等の四人の男子、武智麻呂、房前、宇合、麻呂まろが天然痘で全滅したのち、ひとりで藤原氏の復興を成し遂げます。恵美押勝は淳仁天皇に「父」と呼ばせ、淳仁天皇の父は恵美押勝であり、恵美押勝は皇帝と同等の地位にあると屁理屈を捏ね、鋳造や私印の権利を奪い、天皇に変わって専横を好きに振る舞います。

恵美押勝の都合で道祖王を廃太子に追い込み、大炊王(淳仁天皇)を立太子にすえるという茶番を命じ、孝謙天皇はそれに従っていたとするなら、「反藤原」への思いは強くなっていったとした推測できません。

「藤原が権力を握るための道具が天皇ならば、天皇などない方がよい」

そんな風に考えていたのでしょう。

恵美押勝の乱を契機に淳仁天皇を廃嫡すると、豊前国(大分県)の宇佐神宮より道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託があったと伝えさせ、弓削道鏡を法王に据えそうと画策します。それはニギハヤヒがヤマトを治めていた時代に戻すことが、藤原氏を打倒する一番の近道と考えたのかもしれません。

この試みは和気清麻呂の機転で阻止され、後に称徳天皇(孝謙上皇)は行幸の途中で倒れ、そのまま病床に付いたまま崩御されて永遠にその機会は失われます。

孝謙天皇(後の称徳天皇)は蘇我氏や海の民とは少し縁の遠い姫でありますが、古来のヤマトを作ってきた一族から見れば、藤原氏の専横はそれほど酷いものだったのです。

かぐや姫の原典がいつどこで誰が書いたのは定かではありません。

しかし、源氏物語の『幻』で故紫の上(旧暦八月十五日に火葬)の手紙を焼くエピソードは、『竹取物語』で八月十五日に月へ帰ったかぐや姫から贈られた不死の薬を帝が焼く話から着想したと思われ、平安中期には存在していたことが伺われます。

尤も、かぐや姫で登場する5人の貴公子が『壬申の乱』で活躍した実在の人物をモデルにされているのは疑いようもありませんので、その皮肉のタイムリー性を考えれば、原典や伝承は平城京時代にもう存在していたのでしょう。

瀬織津姫が都を去ったように、

息長氏・蘇我氏に纏わる推古天皇のような姫たちが姿を消したように、

かぐや姫も醜いこの世から月の国に帰っていったのです。

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