古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
古事記・日本書紀を編纂したのは藤原氏、神話を編纂し始めたのは推古天皇の時代でした。物部氏と蘇我氏が活躍する時代の歴史書には、ニギハヤヒが天照であり、物部氏がその子孫であるなんて藤原氏に不都合なものでしかありません。また、聖徳太子の活躍を奪いとった藤原氏にとって不都合な真実でした。
古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》
0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から
1.古事記・日本書紀のはじまり
2.邪馬台国の都がどこにあったのか?
3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
4. 天孫降臨は2度あった
5. 日本の神話 国産み
6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊
7. 日本の神話 大国主
3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
古事記・日本書記の始まりは、天地開闢から神代七代ではじまる。
『古事記』では、
1.国之常立神(くにのとこたちのかみ)
2.豊雲野神(とよぐもぬのかみ)
3.宇比邇神(うひぢにのかみ)・須比智邇神(すひぢにのかみ)
4.角杙神(つぬぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)
5.意富斗能地神(おおとのじのかみ)・ 大斗乃弁神(おおとのべのかみ)
6.淤母陀琉神(おもだるのかみ) ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
7.伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)
(左側が男神、右側が女神)
『日本書紀』では、
1.国常立尊(くにのとこたちのみこと)
2.国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
3.豊斟渟尊(とよぐもぬのみこと)
4.泥土煮尊(ういじにのみこと)・沙土煮尊(すいじにのみこと)
5.大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)
6.面足尊 (おもだるのみこと) ・惶根尊 (かしこねのみこと)
7.伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)・伊弉冉尊 (いざなみのみこと)
と、世界の成り立ちを説明し、伊弉諾尊・伊弉冉尊が登場したと書き綴っております。この伊弉諾尊を起点に物語がはじまっております。
これは先代旧事本紀(旧事紀)、宮内文書、竹内文書、九鬼文書、上記(うえつふみ)、秀真伝(ほつまつたえ)や、あるいは東日流外三郡誌のように口伝を後年にまとめられたものなど、多くの古文書にもだいたい言えることです。
竹内文書など、月刊雑誌『ムー』などに紹介され、日本人は遥か彼方からやって来た宇宙人だったみたいな見出しを目にした方もいるかもしれません。それを以て「偽書だ!」と騒ぐ人も少なくありません。古典をやっている方なら、何となくピーンとくる方も多いでしょう。万葉集などの古典において、物や風景を擬人化したり、心の動きを季節や風景に喩えることに出会います。
たとえば、
安芸の宮島は美しく、神の島と呼ばれます。星で表現するならば、オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオン、それともゼウスの星だから木星でしょうか。瀬戸内海に浮かぶ大小の島々、特に西備讃瀬戸に浮かぶ大小合わせて28の島々から成る塩飽諸島(しわくしょとう)は、天空のスバル、プレアデス星団のように美しい島々が並んでおります。
これを古文書に書き綴れば、「天駆ける舟(天磐船)に乗り、ベテルギウスを通り過ぎ、美しいプレアデス星団を抜けて、我々はこの地に辿り着いた。」などと書かれている訳です。
奈良に拠点を置いたニギハヤヒが載って来た舟の名は、『天駆ける舟』と言います。本当に天を駆けるなら宇宙船と言えるのでしょうが、『天』とは天孫族の総称であり、『天(あま)』=『海(あま)』に通じ、天空という意味ではありません。乗っていた舟も普通の木の舟でした。
しかし、月刊『ムー』などでは、天空を超高速で駆ける天浮之船(アメノウキフネ)に乗って、遠い彼方の星々からやって来たと書く訳です。そして、UFO特集と古代天皇を結んでしまうのです。これを見て、「この古文書は偽書だ」と騒ぐ訳です。
古文書の解読は、解読する方の教養と知識と寛容さに左右され、解読者が稚拙であり、伝承者が無知であると正しく伝わりません。あの古事記も江戸時代の本居宣長による全44巻の註釈書『古事記傳』によって正史となった訳であり、研究者の絶え間ない努力が必要なのです。
■『先代旧事本紀』と『大成経』
『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』(略して『旧事紀』ともいう)は、聖徳太子撰と伝えられる十巻の史書であり、平安時代から知られておりました。
室町時代の神道家で神儒仏三教同根説を唱えた吉田兼倶は、自らの神道教学の祖を聖徳 太子に求め、『先代旧事本紀』を、記紀と共に三部の本書(神書)に数えていました。
この『旧事紀』は、聖徳太子と敵対したはずの物部氏の始祖伝承(ニギハヤヒ降臨)が重視されており、太子撰というのは信じ難く。おそらく律令国家確立の過程で没落した諸氏
族の伝承をまとめたものが太子に仮託され、広まったものであろういうのが通説であります。しかし、物部氏と聖徳太子と敵対したという前提が間違っているのあります。
難波の堀江で有名な善光寺を開いた本田善光は、「難波の堀江」から2体の金銅製阿弥陀像(善光寺如来)を拾い上げ、故郷に帰りこれが善光寺のはじまりとされています。
この善光寺は聖徳太子と交流があり、奈良の法隆寺の寺宝に「聖徳太子の御文箱」の中に信州の善光寺如来が聖徳太子に宛てた手紙が入っていると伝えられています。X線撮影でも三通の文書の存在が確かめられ、明治政府の強引な調査(明治五年)により開封され、そのうちの一通だけ写しが国立東京博物館に存在します。
『善光寺のご書簡』
御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
斑鳩厩戸勝鬘 上
『法隆寺にご書簡』
一念構揚無息留 何況七日大功徳
我待衆生心無間 汝能済度豈不護
二月廿五日勝髪調御
最後の「勝髪」とは聖徳太子のこととされています。他の二通は写しがありません。また、法隆寺の方針として、未来永劫にわたって開封しないことが決められていますので、今後も見ることはできません。
しかし、それも不思議な話であります。『日本書紀』は推古29年(621年)2月5日、夜半に聖徳太子が斑鳩宮(いかるがのみや)に薨去されたと記し、法隆寺系の釈迦像光背の銘文と天寿国繍帳では、聖徳太子の薨日を推古30年(622年)2月22日としております。
皇極天皇3年(644年)に創建された善光寺と推古29年(621年)、あるいは推古30年(622年)に薨去された聖徳太子がどうやって書簡を交換したのでしょうか。
まず、第一に、聖徳太子が仏教の擁護者であったという誤りであり、聖徳太子が言う三法とは仏教の事ではなく、儒・仏・神の3つと書き綴られております。
また、物部氏は百済と関係が深く、蘇我氏は新羅との関係が深い豪族でありました。互いに外交において対立することはありましたが、物部氏が廃物派、蘇我氏が崇仏派という対立を古事記・日本書紀が書いておりますが、金銅製阿弥陀像(善光寺如来)を初めて日本に持ってきたのは、おそらく物部氏の一族であり、物部氏が廃物派であったというのも嘘であります。
物部守屋の支配地にある渋川廃寺(八尾市渋川町5丁目 渋川天神社の境内)が出土しており、守屋が創建したと伝えられます。また、この渋川一帯が仏教に親しんでいたのは間違いありません。
さらに、丁未の乱(物部守屋VS蘇我馬子)で守屋一族が衰退したのであって物部氏が滅んだのでも、衰退した訳でもありません。ただ、蘇我馬子が権力を掌握し、守屋に変わって中枢を牛耳ったというだけであります。この丁未の乱で厩戸皇子(聖徳太子)も蘇我馬子と共に守屋の領地を攻めておりますが、互いに憎しみあっていた訳でもなく。また、崇仏派と廃物派の対立も存在しないのであります。つまり、聖徳太子を支持した何者かが、聖徳太子の名を持って、善光寺と書簡を交わしていたとしても、何の不思議もない訳であります。
むしろ、『先代旧事本紀』の成立は828年前後と考えられており、物部氏の偉業と蘇我氏の事業を、すべて藤原氏のモノとする日本書記に対する対抗心から制作されたという趣旨が最も考えられるものなのであります。
なお、奈良時代に成立した主要な文献は、
『古事記』(712年成立)、
『日本書紀』(720年成立)、
『出雲風土記』(733年、その他の『風土記』は別途)、
『懐風藻』7(751年成立)、
『藤氏家伝』(760~762年ごろ成立)、
『万葉集』(782~3年ごろに成立した?)
それに続き、平安時代の初期に成立した主要な文献は、
『続日本紀』(797年成立)、
『古語拾遺』(807年成立)、
『新撰姓氏録』(814年成立)、
『日本霊異記』(822年以後に成立?)、
『先代旧事本紀』(828年前後?)、
『日本後紀』(840年成立)
などなど、さまざまな文献(※1)があります。その中で江戸時代に発行された『大成経』は、聖徳太子によって編纂されたと伝えられる教典として一世を風靡しました。
『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)』は、江戸の戸嶋惣兵衛の店から出版された一連の神書であり、神儒仏一体の教えを説くものでありました。序文によると、その由来は聖徳太子と蘇我馬子が編纂し、太子の没後、推古天皇が四天王寺、大三輪社(大神神社)、伊勢神宮に秘蔵させたものであると綴られております。
この大成経従えば、保食神の体から生じた五穀を集めてアマテラスに献上したのはツキヨミであり、外宮の祭神はツキヨミとなってしまう。さらに皇祖神たる日神アマテラスを祭るのは、伊勢内宮ではなく、伊雑宮となってしまうので伊勢神宮としては権威に掛かる事態となってしまったのです。
天和元年(1681年)に幕府は『大成経』を偽作と断じて禁書し、その版本を回収しました。この本を版元に持ち込んだ神道家、永野采女と僧
、潮音道海および偽作を依頼したとされる伊雑宮神官は流罪、その関係者一同の刑も定まり 、『大成経』事件は一応の終結を迎えたのであります。
それ以来、『先代旧事本紀』、『大成経』は偽書のレッテルを貼られてしまったのであります。
この『先代旧事本紀』の特徴は、天孫と皇孫を大きく分けており、天孫(ニギハヤヒ)の末裔を尾張氏と物部氏とし、そこから枝分かれした子孫を書き綴ります。一方、皇孫(ニニギ)の末裔とし、共に天照大神の子孫であるとしてあります。
それ以降、神武天皇から始まる天皇家の歴史を綴り、治世元年(593年)の夏四月十日、厩戸豊聡耳皇子(うまやとのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とされ、摂政として国政をすべて任せられ、厩戸豊聡耳皇子がお亡くなりになられることで終りとなっております。
さて、この厩戸豊聡耳皇子が聖徳太子と呼ばれ、摂政として国政を執り行ったと書かれておりますが、摂政制度が成立したのは、859年に藤原良房が実際的な官職の一つとして付いたとされます。また、正式に詔が与えられた摂政宣下は、866年に幼い清和天皇を補佐する為に「摂行天下之政(天下の政(まつりごと=政治)を摂行せしむ)」とされたのが始まりです。この事から推古天皇の時代に摂政制がなかった。ゆえに厩戸豊聡耳皇子(聖徳太子)の摂政政治はなかったという説もあるくらいです。
厩戸豊聡耳皇子が行った大業の1つに、遣隋使があります。
『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々』
この銘文は、隋の煬帝を怒らせたと魏志倭国伝に記載されております。
年表に表すとこんな感じになります。
〔遣隋使節関係資料の記述比較〕
<s-02-07 遣隋使節関係資料の記述比較>
特に注意されるべき点は、
推古16年(608年)に隋使裴世清の来訪と記載が残っており、
夏4月、妹子、隋より使人裴世清・下客12人を伴って筑紫に着く。
6月15日、裴世清ら難波津に上陸し新館に入る
妹子が、国書を百済に掠取されたと奏上(流刑に当たるところを許される)。
秋8月3日、裴世清ら入京。12日、裴世清、煬帝の国書を倭皇に伝える。
8月16日、隋使を朝廷で饗応する。
9月11日、裴世清ら帰国。妹子を大使、吉士雄成を小使、鞍作福利を通事とし、留学生・僧8人を派遣。
一方、魏志倭人伝には、文林郎裴世清を倭国に派遣。倭王、小徳阿輩台に数百人の儀仗をつけて来迎。
10日後、大礼哥多比、二百余騎で使者を都に迎え、倭王に面会する。
裴世清、倭王との面会後まもなく帰国を申し出、倭はそこで使者をつけて送り返した。
また、隋書の煬帝紀には、
大業4年(608年)3月19日、百済・倭・赤土・迦羅舎国が遣使してきた。
と残されています。
推古16年(608年)の隋の使者である裴世清は倭王を面接していることが重要であります。隋書には、推古天皇が存在し、それが女帝であったなどという記載がありません。
対外的に、推古天皇は倭王ではなかったと思われます。
『日本書紀』によれば、聖徳太子は601年(推古9)2月に斑鳩の宮の造営に着手し、この宮の造営には4年半も掛けております。そして、20年間も住み慣れた上宮(かみつみや)を離れて、605年(推古13)10月に一族ともども斑鳩の宮に移られます。
この斑鳩の宮は、東西規模は約210メートルと判ってきました。前期難波宮(なにわのみや)が、南北200m、東西50mですから決して小さい規模ではありません。
また、参考として、
「大化の改新」の幕開けとなる蘇我臣入鹿の中大兄皇子等による暗殺の舞台となった皇極天皇が営んだ皇居である板蓋宮(いたぶきのみや)は、掘立柱列で囲まれた東西約156メートル、南北約197メートルの長方形の区画(内郭)と、その南半では中軸線上に位置する五間×二間の門と、七間×四間の建物、北半では高床式の大きな建物やや大井戸など多くの遺構が検出されています。
つまり、斑鳩の宮も倭王が住むに相応しい宮であったと推測されるのです。
推古16年(608年)に隋使裴世清は倭王と対面します。厩戸豊聡耳皇子は推古13年(605年)に斑鳩の宮に移っております。
当時、誰が倭王であったのか、それを疑う必要もないのです。
また、厩戸豊聡耳皇子と聖徳太子が同一人物であったのかという疑問は、またの機会にするとします。
聖徳太子によって編纂されたと言われる『先代旧事本紀』が世に出されたのが828年前後であり、聖徳太子が没した(622)年から200年余り先で平安時代初期にあたります。世は藤原氏が謳歌を極めておりました。日本の基礎を築いた物部氏、蘇我氏、聖徳太子などの多くの偉人がなした成果を藤原氏の成果と為し、多くの怨みが『先代旧事本紀』を始め多くの文献が世に輩出されたのでしょう。
さて、室町時代の神道家で神儒仏三教同根説を唱えた吉田兼倶の言う神書三部(古事記・日本書紀・先代旧事本紀)を見比べてみましょう。
■『先代旧事本紀』と『記紀』
旧事紀と記紀の大きな違いは、旧事紀では天孫族と呼ばれるニギハヤヒの子孫が詳しく残されております。(ニギハヤヒには、天火明命(アメノホアカリ)と同一とする説(旧事紀)、大国主の子とする説、スサノオの子とする説など様々あります。)
神世七代から国産みにおいて旧事紀と記紀に違いはありません。天御中主尊(あまのみなかぬしのみこと)が差し替わって入り、宇比邇神・須比智邇神などが消えていますが、そこにどれほどの忌みがあるのか皆目見当が付きません。国産みとおいては、淡路州をお産み、伊予、筑紫、壱岐、対馬州、隠岐、佐渡、大日本豊秋津州をお生みになります。
天地創造の神々を産むと、次に天下の主となる者として、大日孁貴(おおひるめむち)または天照太神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つくよみのみこと)、素戔烏尊(すさのおのみこと)を産みになります。
この三人は伊奘諾尊が黄泉の国から戻って来て、禊でもう一度お産みになっており、2度登場する不思議な構成になっております。
大日孁貴(おおひるめむち)または天照太神(あまてらすおおみかみ)=天照大御神
月読尊(つくよみのみこと)=月読命(つくよみのみこと)
素戔烏尊(すさのおのみこと)=建速素戔烏尊(たけはやすさのおのみこと)
〔微妙に字体が違うので、旧事紀の中では別人なのかもしれません〕
伊奘諾尊・伊弉冉尊の神産みは、記紀と同じく火産霊迦具突智(ほのむすひかぐつち)の誕生で伊弉冉尊がお亡くなりになり、伊奘諾尊が伊弉冉尊を求めて黄泉の国に旅立ち、逃げ帰ることになります。
次に素戔烏尊(すさのおのみこと)が高天原(たかまがはら)を訪れたことが書かれ、宗像三女神などの誕生へと続き、素戔烏尊が高天原を去るところまで書かれております。
ここから『記紀』にない天神本紀が始まり、ニギハヤヒが河内に下り、共に降った数多の神々が示されております。
次に地祇本紀では、新羅の曽尸茂梨(そしもり)のところに天降られ、そこから出雲へとお移りになられていることが書かれております。そして、素戔烏尊は、
「韓国の島には金銀がある。もしわが子の治める国に、舟がなかったらよくないだろう」
とおっしゃられて、松の木、樟の木、槙の木、その他沢山の種子を蒔いたとあります。
これは、当時の朝鮮半島に金銀があり、また製鉄の為に山々がハゲヤマになっており、それに対するように倭国には木々が茂っていたことを揶揄しており、記紀には見られない国際情勢がここに浮かび上がっています。
次の天孫本紀はニギハヤヒの子孫の系図が示されており、これもまた記紀に見られない部分になります。
次の皇孫本紀は記紀と似ておりますが、注釈のような物語が付け加えられております。そして、海幸彦命(うみさちひこのみこと)、山幸彦尊(やまさちひこのみこと)の話から神武天皇の東征へと続き、天皇本紀、神皇本紀、帝皇本紀と書き綴られております。
天皇本紀・神皇本紀・帝皇本紀は、神武天皇から推古天皇までの天皇家の歴史であり、記紀と非常に類似しております。しかし、話は全体に簡略化され、系図が重要視されている点が特徴的であります。
このように、旧事紀には古事記と日本書記に記載されていない箇所が存在します。しかし、記紀のいずれかをベースに書き直したというより、物部氏の為に書き直したというべきでしょう。
それは同時に記紀における欠落箇所を補完することになっています。
記紀の神武東征において、何故に河内に同じ天孫の祖であるニギハヤヒの一族がいたのか。記紀には天孫族が神武天皇より先に畿内にいた理由を語っておりません。
4世紀の崇神天皇の御世に活躍した皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人はどこに消えてしまったのでしょうか。
5~6世紀の第16代仁徳天皇から第31代用明天皇の間に活躍した物部氏の活躍も示されておりません。
旧事紀、古事記、日本書記はすべて推古天皇の時代で終わっています。天武天皇が命じたのであれば、古事記・日本書記は何故に天武朝まで書き綴らなかったのでしょうか。
その答えが『先代旧事本紀』(旧事紀)に書き示されているのです。
旧事紀は、聖徳太子撰と伝えられる十巻の史書であり、聖徳太子、あるいは聖徳太子と蘇我馬子の命によって編纂されたと書かれております。聖徳太子の時代は推古朝です。推古朝で編纂を命じたから推古朝で終わっているという当たり前の事が書かれているのです。
ならば、天武天皇が命じた古事記・日本書記は、何故に天武朝まで書き進めなかったのでしょうか。
水戸光圀の『大日本史』は、正保2年(1645年)に『史記』「伯夷伝」を読んで伯夷・叔斉に感銘を受け、以来は反省して学問に精励し、史書編纂を志したとあります。その『大日本史』が完成したのは明治39年(1906年)に10代藩主慶篤の孫にあたる徳川圀順になってからでした。実に261年も掛かっています。
それに比べて、天武朝が始まったのが673年であり、『古事記』(712年成立)、『日本書紀』(720年成立)の完成に30年から40年というのは実に短い期間で完成しているのが判ります。
否、天武天皇は乙巳の変(645年)の入鹿殺害によって中断していた聖徳太子が編纂を命じた史書の完成を命じたと考えれば、推古朝(593-628年)から100年余り、中断していた時期を差し引いても80年近い歳月を掛けて完成したことになります。しかも天武天皇が命じたのに、推古朝で終わっているという疑問に答えてくれるのです。
もちろん、旧事紀は聖徳太子が命じた史書である『天皇記』・『国記』の原本ではなく、他方に枝分かれした史書をかき集めて再構成された『天皇記』、あるいは『国記』が旧事紀と思われるのです。
特に旧事紀は物部氏関連を多く再編纂されています。
なぜ、そうはっきりと断言できるのかと言うならば、天孫本紀の末文に、
「十七世孫・物部連公(もののべのむらじきみ)麻呂(まろ)。馬古連公の子である。この連公は、天武朝の御世に天下のたくさんの姓を八色に改め定めたとき、連公を改めて、物部朝臣(もののべのあそん)の姓を賜った。さらに、同じ御世に改めて、石上朝臣(いそのかみのあそん)の姓を賜った。」
と、天武朝までの後日談が書き加えられているからです。
推古朝の編纂者が天武朝の時代を知る訳もありません。しかし、天智朝の御世であっても、天武朝の御世であっても物部氏に連なる者が重宝されていたことが判ります。
旧事紀は武門の棟梁たる物部氏の氏神として祀られている石上神宮に象徴されるように、物部石上氏を始め、多くの物部氏に纏わる者達が、平安の御世で藤原氏によって古事記や日本書記から欠落させられた物部氏の記述を復活させる為に世に出されたのでしょう。
ウィキパディアの記紀編纂の要因に、
乙巳の変で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺すると、憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。この時、朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上し、『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、『国記』は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとある。しかし、『天皇記』、『国記』は現存していない。
また、『日本書紀』の編纂に利用されたという文献(※2)も現存しない。
天武天皇は稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂させ、その後に焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に『日本書紀』が編纂されたとある。
天智天皇が編纂を命じなかったのは国難でその暇も惜しんだ為とされているが、本当の理由はやる気がなかったからだ。一方、天武天皇が本当に蘇我系の天皇であったとするなら、国書の編纂は、過去の偉人を尊んだ復興事業である。しかし、持統天皇は天智天皇の娘であり、天智天皇の悪行を残すことはあり得ないだろう。
古事記・日本書記の編纂には、そんな深い因縁が複雑に入り混じっている。
<s-02-08古事記・日本書記・先代旧事本紀の完成年代>
3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)へ
※1).さまざまな文献
飛鳥時代
『天皇記』、『国記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』(聖徳太子・蘇我馬子)
『帝紀』
『旧辞』
『上宮記』
奈良時代
『粟鹿大神元記』
『古事記(太安万侶・稗田阿礼)
六国史 『日本書紀』(舎人親王・藤原不比等)
『続日本紀』(藤原継縄・菅野真道・淡海三船)
『日本後紀』(藤原緒嗣)
『続日本後紀』(藤原良房)
『日本文徳天皇実録』(藤原基経)
『日本三代実録』(藤原時平)
『伊吉博徳書』(伊吉連博徳)
『高橋氏文』
『藤氏家伝』
『因幡国伊福部臣古志』
『日本帝記』
『類聚国史』(菅原道真)
『古語拾遺』(斎部広成)
『日本霊異記』
『旧事紀(異本含む)』 『先代旧事本紀』
『白河本『旧事紀』』
『延宝本『旧事紀』』
『鷦鷯伝本『旧事紀』』
『上宮聖徳法王帝説』
『異本太子伝』
『上宮皇太子菩薩伝』(思託)
『住吉大社神代記』
『穂積三立解』
平安時代以降
『皇太神宮儀式帳』
『止由気宮儀式帳』
『大神宮諸事雑記』
『上宮聖徳太子捕闕記』
『弘仁格式』
『国造本紀』
『日本紀略』
『扶桑略記』
『釈日本紀』
『新撰姓氏録』
『尊卑分脈』
『大宰管内志』
『本朝皇胤紹運録』
『御堂関白記』
『類聚三代格』
『百練抄』
『日本書紀私記』(多人長・矢田部公望ら)
『小右記』
『日本逸史』
『出雲国造神賀詞』
『天書』
『中右記』
『新国史』
『政事要略』(藤原実資・惟宗充亮)
『源平盛衰記』
『大鏡』(不明)
『今鏡』(不明)
『栄花物語』(赤染衛門?)
『水鏡』(中山忠親?)
『日本紀』(中厳円月)
『将門記』
『本朝世紀』
『愚管抄』(慈円)
『吾妻鏡』(不明)
『鎌倉年代記』
『北条九代記』
『保暦間記』
『古事記裏書』(北畠親房・卜部兼文)
『増鏡』(二条良基?洞院公賢?)
『日本書紀纂疏』
『神皇正統記』(北畠親房)
『太平記』(不明)
『難太平記』(今川貞世)
『梅松論』(不明)
『明徳記』
『応仁記』
『鉄炮記』
『公卿補任』
江戸時代以降
『天正記』(大村由己)
『中古日本治乱記』(山中長俊)
『群書類従』
『日本国記』
『続群書類従』
『読史余論』(新井白石)
『異称日本伝』(松下見林)
『古史通』(新井白石)
『徳川実紀』(成島司直)
『続史愚抄』(柳原紀光)
『日本外史』(頼山陽)
『大日本史』(徳川光圀ほか)
『本朝通鑑』(林羅山、林鵞峯)
『大日本野史』(飯田忠彦)
『前々太平記』(平住専安(建春山人・橘墩))
『閥閲録』(永田政純(萩藩))
『国史略』(巌垣松苗)
琉球
『歴代宝案』
『おもろさうし』
『中山世鑑』
蔡鐸本『中山世譜』
蔡温本『中山世譜』
『中山世譜』
『球陽』 琉球王国編年史 『遺老説伝』
『琉球国由来記』
西洋人による日本記述
『日本王国記』(ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロン)
『日本見聞録』(ロドリゴ・デ・ビベロ)
『日本大王国志』(フランソワ・カロン)
『日本誌』(エンゲルベルト・ケンペル)
『日本』(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト)
『日本史』(ルイス・フロイス)
近代以降
『史籍集覧』(近藤瓶城)
『徳川十五代史』(内藤耻叟)
『明治天皇紀』
『大正天皇実録』
『二千五百年史』(竹越与三郎)
『近世日本国民史』(徳富蘇峰)
『日本開化小史』(田口卯吉)
『日本二千六百年史』(大川周明)
※2). 『日本書紀』の編纂に利用されたという文献
『日本旧記』(雄略天皇21年〈477年〉3月)
『高麗沙門道顯日本世記』(斉明天皇6年〈660年〉5月、斉明天皇7年〈661年〉4月、11月、天智天皇9年〈669年〉10月)
『伊吉連博徳書』(斉明天皇5年〈659年〉7月、斉明天皇7年〈661年〉5月)
『難波吉士男人書』(斉明天皇5年〈659年〉7月)
『百済記』(神功皇后摂政47年〈247年〉4月、神功皇后摂政62年〈250年〉2月、応神天皇8年〈277年〉3月、応神天皇25年〈294年〉、雄略天皇20年〈476年〉)
『百済新撰』(雄略天皇2年〈458年〉7月、雄略天皇5年〈461年〉7月、武烈天皇4年〈502年〉)
『百済本記』(継体天皇3年〈509年〉2月、継体天皇7年〈513年〉6月、継体天皇9年〈515年〉2月、継体天皇25年〈531年〉12月、欽明天皇5年〈544年〉3月)
『譜第』(顕宗天皇即位前紀)
『晋起居注』(神功皇后摂政66年〈267年〉)
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