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古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 4. 天孫降臨は2度あった

神話をもう一度よく見ると、淡路を中心に不思議な名前が浮かび上がってきます。古事記に書かれている神話は、日本のどこかではなく、ヤマトの国の神話だったのです。

出雲も山戸も須賀もすべて奈良にあったのです。

大和で作られた古事記・日本書記です。大和の神話を元に作られていて当然です。ずいぶんと遠回りをしました。

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》

目次へ

 

0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から
1.古事記・日本書紀のはじまり
2.邪馬台国の都がどこにあったのか?
3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
4. 天孫降臨は2度あった
5. 日本の神話 国産み
6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊
7. 日本の神話 大国主

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〔歴史館はこちらへ〕

3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)

. 天孫降臨は2度あった

1966年(昭和41年)に平城宮東南隅の「式部省関連地域」と呼ばれる遺構地域(奈良県奈良市佐紀町)から出土した木簡のひとつに破斯 清通(はし の きよみち)と書かれたペルシャ人の官吏がいたことが、2016年10月5日に奈良文化財研究所から発表された。

書かれていた文字は、

「大学寮解 申宿直官人事 員外大属破斯清通 天平神護元年」

 とあり、木簡には、

 

大学寮解と書かれ、これは式部省直轄下の官僚育成機関から出されたものと言う意味であり、警護の武者を「滝口」と呼び、滝口は御所に宿直するが、昇殿は許されず、宿直する者は蔵人がとりつぎ、滝口はその姓名を名のる。これを宿直申(とのいもうし)と言う。員外は定員外で任じられたこと(員外官)・特別職であり、大属は大学寮の四等事務官にあたる下級官吏で表わすので、

“天平神護元年(765年)に破斯清通は員外大属(いんがいだいさかん)の宿直申(とのいもうし)という役職に付いた。”

という意味になります。

聖徳太子の側近、秦氏の先祖は弓月君(ゆづきのきみ)であります。弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔であると書かれております。

弓月の由来は三カ月にあり、弓月国はシルクロードの通り道にあり中央アジアに栄えたキリスト教国であり、古代イスラエルの人々は離散したあとキルギスの北部のエニセイ川源流あたり(現在のカザフスタン北部)に弓月国を立てたとも言われております。

真偽のほどはともかくとして、ユダヤの星(六芒星)、男子が13歳になると成人を迎える儀式が同じであるとか、カタカナとヘブライ文字には形と読みが同じものや似ているものがあるとか、日本の三種の神器があるがようにイスラエルにもユダヤの三種の神器があるとか、古来より国際色豊かな倭国でありました。

日本書記は、中国の正史として司馬遷の著した『史記』と対抗して、倭国の正史を定めた史書であります。その史書を書き留めるのに置いて、様々な文献が調べられたことは間違いありません。

正確かどうかはともかく、エジプト神話やギリシャ神話も調べたことでしょう。

エジプト神話の太陽神ラーは、日中はハヤブサの姿をして天を舞い、夜は雄羊の姿で夜の船に乗り死の世界()を旅するとされているとして、男神のイメージが強くあります。同じく、ギリシャ神話に登場するアポロンも男神であります。

一方、ギリシャ神話のアルテミスは、月の女神であり、女性と月のサイクルには深い関係があります。

体にとって最も自然なサイクルは新月に排卵し、満月に月経を起こす、およそ28日周期で起こるそうです。満月になると出産が多くなるという言い伝えがありますが、現代において、そう言った統計は出ていません。

しかし、世界には色々な言い伝えが残っており、

・女性は一人で満月を見てはいけない。

・満月を見ると妊娠するから見てはいけない。

・満月の費に妊婦は産気づく。

・満月の夜は凶悪な殺人事件が増える。

・満月になると女性はネガディブな考え方になる。

・満月の日は生物の成長が活発になる。

と、色々残されておりますが、何の根拠なる統計も逸話も残っておりません。

しかし、実際に人間以外の対象なら、たとえば、ウミガメの産卵が満月に多いことは確認されております。

古代の女性はシャーマンとして、様々な天候を占ってきました。邪馬台国の卑弥呼も船出の刻を告げる巫女であります。

月の満ち欠けが海に大きく影響するのは、古代人でなくとも判ります。海の民は太陽神よりも月の女神にこそ信仰神を集めておりました。

しかし、日本書記では、天照大日霎尊(アマテラスオホヒルメ)と書かれており、太陽神は女神となっております。古事記には男神とも女神とも記述されていません。

一方、月読命に関しては、日本書記も古事記も性別に触れている箇所はありません。わずかに日本書記では月読命が剣を持っているので男神とされていますが、スナノオを高天原に迎えるときにアマテラスも剣を下げておりますから、余り触れるべきではないのでしょう。

前章でも少し話ましたが、

(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)

アマテラスは時代と共に変化し、男神であった時期と女神であった時期の双方が存在するのであります。

つまり、

アマテラス=ニギハヤヒ=男神

 アマテラス=ヒミコ=神功皇后=女神

 神功皇后が三韓征伐(さんかんせいばつ)あるいは新羅征伐を行った4世紀は、北九州の邪馬台国を併合した世紀でもあります。その子、応神天皇(おうじんてんのう)の御世から魏国から送られたと伝えられる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などが、大和を中心として全国各地の前方後円墳から出土するようになります。

また、日本書記には神功皇后と邪馬台国の卑弥呼が同一人物であるかのように書かれております。しかし、現実には100年以上の開きがあり、神功皇后と卑弥呼が同一人物であるハズもないのですが、神功皇后を神格化することで、王朝の権威を高めることを狙ったと思われるのであります。

s-02-28 天照大神は時代と共に、男神となり、女神となる>

S0228

その方針は、応神天皇の皇子である第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)、仁徳天皇の孫にあたる第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)へと受け継がれていきます。この雄略天皇の御世でアマテラスは女神であると落ち着いたのであります。

神功皇后の神格化にとって、不都合な存在となった月の女神であった瀬織津姫は、八十禍津日神(やそまがつひのかみ)として葬り去られ、全国にあった大山祇神社や瀬織津姫神社や籠神社の祭神を大山積神や彦火明命などに替えてゆく作業が、朝廷の勅命で明治の御世まで続いているのであります。

このように古事記・日本書記が綴る神話の時代は、都合よく改竄されている為に、解読が難解となっております。しかし、1つ1つのピースを分解し、再構成すれば、そこに真の正史がぼんやりと浮かんでくるのであります。

■淡路の伊弉諾神宮のレイライン

 伊弉諾神宮の境内に表参道から御本殿に向かう途中、二の鳥居をくぐって左側に日時計のモニュメントが立っており、その横に『ひのわかみやと陽の道しるべ』という碑石が立っております。

このモニュメントには、春・秋分、夏至、冬至の日の出・日の入のレイラインが書かれており、淡路の伊弉諾神宮から見て、春・秋分の日の出とは伊勢神宮から昇り、対馬国一宮の海神神社に日が沈むでゆきます。同じように夏至の日の出は諏訪大社から昇り、日の入は高千穂の天の岩戸に沈みます。そして、冬至の日の出は熊野那智大社から昇り、日の入は出雲大社に沈みます。

s-03-01 ひのわかみやと陽の道しるべ>

S0301

〔ひのわかみやと陽の道しるべ〕(日本のレイラインを伊弉諾神宮で考える 人生は白い犬(=尾も白い)HPより)

 偶然というにはあまりにもできた配置に驚き、誰がこのように壮大な構想を作ったのかと疑うかもしれません。しかし、これは偶然でもなく、そして、特定の誰かが画策したものでもないのであります。

古代の倭人は中華大陸東海岸から日本全土、北はオホーツク、南は沖縄・台湾まで自由に海を行き来しておりました。天候と風向き、暦と天体の動きは彼らにとって重要なファクターであり、当然、その1つである太陽の通り道であるレイラインを読み説くことも簡単なことでした。周囲を見渡す高い山は倭人にとって聖地であり、その山々を結んで方位を知ることが縄文人・弥生人にできたのであります。

古代の倭人にとって神々は火山・地震・雷・火事・疫病と同格であり、それらは益を為すものであると同時に呪いでもありました。

たとえば、戦に負けたとします。

現代であれば、地形・天候・戦力・戦略・戦術など様々な要因で勝敗が決すると考えますが、古代の人々は戦に負けるのは神々の力を得られなかったからだと考えます。つまり、自分達を率いた大王(おおきみ)が神々を粗末にしたから呪われて負けたと考えるのです。

祖神であるイサナギ・イザナミ神を祭ることは、様々な凶事から逃れる唯一絶対の手段なのでありました。新たな土地に移り住んだ大王は、最も神格が高まる夏至・冬至・春秋分の日に太陽が昇る。あるいは沈む方向に大宮を建てて祖神を祭ったのであります。

これは、古事記や日本書記が編纂される藤原京の時代まで続き、それ以降はアマテラスやスサノオ、歴代の天皇などの祭る神々が混在し、菅原道真や平将門など様々な神々が祭られるようになってゆきます。

ですから、淡路の伊弉諾神宮を中心に主要の神宮などが日本全国各地に広がったのではなく、アマテラス族やスサノオ族が淡路島から出て広がっていった結果、自然と生まれたのであります。

古事記や日本書記に書かれている国産みの神話は、島根の出雲に国譲りがなかったことから、日本全国を対象とした神話ではなかったことが判ります。よって、古代の神話の原点は、淡路島を中心としたもっと狭い地域なのです。

それがどこかと言えば、『ひのわかみやと陽の道しるべ』にひっそりと書かれております。

 

■淡路は八州の要、元熊野の諭鶴羽神社

 淡路島最高峰の山、諭鶴羽山(ゆづるはさん、標高607.9m)は、唐の天台山の霊神が九州筑紫国・英彦山の峰に降臨され、伊予の石鎚山に渡られ、淡路国・諭鶴羽山を経て熊野新宮・神蔵(神倉)の峯へ渡られたとされる。淡路島南部をほぼ東西に連なる諭鶴羽山地の西部にある淡路最高峰の山であります。古名に譲葉山とも言われ、この諭鶴羽山は大坂湾、瀬戸内海、紀伊水道を眼下に、泉、播、讃、阿、淡、紀、備などの八州が一望できます。その山頂から南側に約400mに鎮座するのが諭鶴羽神社であり、『ひのわかみやと陽の道しるべ』に伊弉諾神宮の南方の神社として記載されています。

なぜ、古事記・日本書紀で最初に淡路島が書かれているのか?

それは淡路島が大坂湾、瀬戸内海、紀伊水道の中央に位置し、泉、播、讃、阿、淡、紀、備などの八州を治めるのに適した土地であったからです。つまり、神話の舞台はこの八州であることを物語っているのであります。

s-03-02 伊弉諾神宮を中心としたレイライン>

S0302

この淡路島の伊弉諾神宮から夏至のレイラインを伸ばすと、東は兵庫県尼崎市の生島神社(祭神:生國魂大神)に当たります。この生島神社は大阪にある生國魂神社の元宮と言われ、祭神の生島大神(いくしまのおおかみ、生嶋大神)、足島大神(たるしまのおおかみ、足嶋大神)は、古事記・日本書記に書かれていない神々であります。しかし、長野県上田市下之郷にある神社の生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)も同じ神を祭っていることより、スナノオ・オオクニヌシらに縁の深い神であることが伺われる。

さらに遡ると、摂津国嶋下郡の伊射奈岐神社(大阪府吹田市山田東二丁目三番一号)に当たります祭神は伊射奈美命であります。万国博会場になった地域に隣接する高庭山に伊勢斎宮女倭姫の御示教により、大佐々之命が五柱の神を奉祀するべき霊地を諸国にもとめ、ついにこの山田の地に奉祀せられたと社殿に残されているようです。雄略天皇二十二年は、豊受大御神を伊勢にお移しになった年であり、何故、この地に伊射奈美命を祭ったのかと非常に興味深く思われるのです。

さらにレイラインを遡ると、三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)に当たります。主祭神は大山祇神と事代主神であり、仁徳天皇が茨田堤を築くにあたって、淀川鎮守の神として百済から遷り祀られたと伝えられております。事代主神は、八尋熊鰐となって三島溝橛耳の娘・三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通ったとされますが、三島と姫を聞いて、ニギハヤヒと瀬織津姫を思い浮かべない人はいないでしょう。

また、熊鰐(ワニ)と三島で連想するのは因幡の白兎ではないでしょうか。

古事記に出てくる隠岐は、隠伎之三子島(おきのみつごのしま)と書かれております。この淤岐島(おきのしま)から稻羽(いなば)に渡ろうとして、和邇(ワニ)を並べてその背を渡ったが因幡の白兎であります。

古代の三島鴨神社は、現在の位置と鴨神社も候補地と言われております。また、三島鴨神社の絵図が淀川縁を描いているのあれば、「三島鴨神社」は淀川縁の三島江にあった事になります。

s-03-08 摂津名所図会「三島鴨神社」>

S0308

〔摂津名所図会「三島鴨神社」〕(歴史倶楽部166回・高槻より)

三島鴨神社に纏わる加茂、鴨、賀茂神社 延喜式には、人皇四十六年代孝謙天皇の御世に玉安姫命が隠岐に入り、隠岐の賀茂那備神社(島根県隠岐郡西郷町大字加茂)を祀ったとされており、三島鴨神社との縁もまったくない訳でもないようであります。

さらに古代の三島鴨神社の地は、河内湖の一部であり、大阪湾と繋がっていた小さな三ツ島でした。その対岸に佐奈部神社(さなべじんじゃ)があり、その地は茨木市稲葉町といいます。この社伝にこの地が稲・麦を打ち落とす農具・佐奈を制作する部民のことを残せれ、稲に纏わる民の地であったことが判っております。稲葉(いなば)と因幡(いなば)、単なる偶然と思われますが、非常に興味深い因縁を感じずにはいられません。

いずれにしろ、この三ツ島にあった三島鴨神社の大山祇神が大島に移されるのですから、非常に重要な島であったことは間違いなく、隠伎之三子島とはこの三ツ島でしょう。

s-03-09 河内湖と巨椋湖と奈良湖>  

S0309

生島神社・伊射奈岐神社・三島鴨神社という創建が古い神社のすべてが、イザナミ・スサノオ・ニヒハヤヒを祭っているのです。この方面がイザナミ・スナノオに関連する土地であったという形跡のみが残っております。

さて、夏至のレイラインを西に伸ばすと徳島県美馬市脇町字西大谷674)四国八十八箇所総奥の院、四国別格二十霊場二十番札所の大瀧寺があります。この大瀧寺の右脇に鳥居があって、階段を上ると西照神社があります。この西照神社の縁起は、筑紫の日向の橘の小戸の阿波峡原に降りてきた天孫は高天原に移り、祖国並に大八州国を統治し、月読尊は夜の食国を統括し、見晴のいい大嶽山から東大和紀伊の動向を看視せよと書かれております。

祖国、大八州国、夜の食国がどこにあったのかは議論の余地がありますが、少なくと東大和紀伊ではないことが伺われます。

夏至のレイラインを終えて、春秋分のレイラインも見てみましょう。

 

■伊弉諾神宮と伊勢神宮を繋ぐレイライン

 s-03-03 伊弉諾神宮から春秋分のレイライン>

S0303

春秋分のレイラインを辿り、大阪湾を渡ると和泉郡に出ます。和泉郡には住吉大社を始め、和泉五社(いずみごしゃ)など、初代神武天皇の東遷、神功皇后の三韓征伐とゆかりの深い神社が多くあります。

一宮 大鳥大社(堺市西区鳳北町)は、大鳥から想像されるように日本武尊を祭る神社であります。

二宮 泉穴師神社(泉大津市豊中町)は、祭神が天忍穗耳尊と栲幡千千姫命であり、 天忍穂耳尊は農業の神であらせ、栲幡千々姫命は紡織の神であらせます。

三宮 聖神社(和泉市王子町)御祭 神聖大神、四宮 積川神社(岸和田市積川町)御祭神 生井神、栄井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神、五宮 日根神社(泉佐野市日根町)御祭神 鸕鷀草葺不合尊、玉依姫尊と特に変わった神はありません。

総社 泉井上神社(和泉市府中町)は、御祭神 天之御中主神、高産巣日神、神産巣日神とあり、社殿には、200年(仲哀天皇9年)に神功皇后が三韓征伐へ出発する途上、当地を行啓した際に突如として泉が湧き出、凱旋後に霊泉として社を築いて祀ったというと残されております。それこそ方位違いの方違神社(ほうちがいじんじゃ)といい、神功皇后に纏わる伝承ばかりで神話とはまったく縁のない話であります。

少し変わった神社と言えば、夜疑神社(やぎじんじゃ、岸和田市中井町)であり、祭神を布留多摩命とし、古代地方豪族八木氏の氏神として創建されたというくらいです。

海岸部を諦めて、少し奥に入りますと葛城山が見えてきます。そこから奈良盆地に入って蘇我の地である飛鳥・明日香に入ります。そこから山深くなり、奈良と伊勢の境界となる三峰山(みうねやま)が見えてきます。この三峰山の北側には御杖神社(みつえじんじゃ)が建っており、久那斗神・岐神(くなどのかみ)、八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)の三神が祭られております。久那斗神は杖を表わし、八衢は境界を表わします。ここから聖域なのか、ここまでが聖域なのか、その意味は計りかねますが、ヤマトタケルの尊もこの境界を超えることができなかったのでしょう。

そして、レイラインはいよいよ伊勢神宮を目指します。

まず最初に『伊勢三山』〔堀坂山(ホッカサン)757m、白猪山(シライサン)820m、局ヶ岳(ツボネガタケ)1029m〕の1つ局ヶ岳(つぼねがたけ、三重県松坂市)が見えてきます。この三山は

伊勢市の方角から見ると、これら3つの山が同じ位の高さに並んで見ることができるそうです。ここを抜けると伊勢神宮です。

ところで、

伊弉諾神宮と伊勢神宮のレイラインの15km北側に、興味深いラインが存在します。NHKで紹介された「知られざる古代~謎の北緯3432分をゆく」であります。

伊勢久留麻神社-大鳥神社-箸墓古墳-檜原神社-大坂山(穴虫峠)〔二上山〕、

-三輪山-長谷寺-春日宮天皇妃陵-斎宮跡-神島

この北緯3432分のラインも「元伊勢」と呼ばれる檜原神社や神聖な山として崇められた二上山など実に興味深いものがあります。

万葉の時代から神聖な山として崇められていた二上山には大津皇子などが眠り、歴代の天皇も二上山を大切な山と扱っております。この二上山(ふたかみやま)と同じ名を持つ山が日向の神話に出てくる二上山(ふたがみやま)であります。

日向神話では、五ヶ瀬町と高千穂町の境に二上山(ふたがみやま) と呼ばれる信仰の山があり、標高1,060メートルの山頂は男岳と女岳の2つの峰に分かれ、高千穂町から遠望する山容は、2つの峰がそびえ立って特に秀麗である。ニニギノミコトは、大勢の神々を引き連れて、この山に天下ったと伝えられております。

同じ名を持つ山があったことが偶然なのか、それとも當麻山口神社(奈良県葛城市當麻1081)が天孫降臨のニニギノミコトを始めとする八柱を祭神としていることが必然なのか、実に興味深いことでありますが、そのことはまたいずれにしましょう。

さて、西に向けると小豆島が見えます。

今が香川に属する小豆島ですが、古代は吉備に属しておりました。小豆島の中央北部にある星ヶ城山(ほしがじょうさん)には、阿豆枳神社が祭られおりますが、それ以外に特に気が付く伝承はありません。

一番問題なのが、冬至のレイラインであります。

 

■スナノオが創った木の国

和歌山は高野山や熊野がある聖域であり、神聖な土地なので伝承に事欠きません。

『木の国の始まり』は、

はるかな昔、素盞嗚尊は我が瑞穂の国に有功な木らしい木のないのに気がついた。 有功な木とは、家屋などの材料として、また果実のなる木々のことである。 そこで鬢髭を抜いて息を吹きかけ杉の木種をつくつた。次いで胸の毛を抜いて檜の木種を、尻の毛を抜いて槙の木種を、眉の毛を抜いて楠の木種をつくった。 そして、御子の五十猛命、大屋津比賣命、抓津比賣命の三神を呼んでこういった。

 「この木種を植え育てよ。杉と楠は舟をつくるのに用い、檜は家をつくるのに、槙は棺をつくるのに用いよ。」

三神は早速その木種をこの地に植えつけた。これが「木の国の始まり」である。

五十猛命、大屋津比賣命、抓津比賣命の三神を祭る神社は、

伊太祁曽神社 (和歌山市伊太祈曽) 祭神 五十猛神

大屋都姫神社 (和歌山市宇田森59) 祭神 大屋都比売命

都麻津姫神社 (和歌山市平尾957) 祭神 都麻津姫命

上小倉神社 (和歌山市下三毛508) 祭神 手置帆負命

和歌山市の紀ノ川の下流域に集まっております。

冬至のレイライン上にあるのは、名草山(和歌山県和歌山市紀三井寺)でしょうか。

紀ノ川の下流に神武の東征に名草戸畔(ナグサトベ)との戦いが残されております。名草山は名草戸畔を慕う一族が神の山として崇めております。しかし、これは神話とは関係ないでしょう。

いずれにしろ、『木の国の始まり』の伝承を信じるならば、木の国を作ったのはスサノオとなります。  

『日本書紀』には「一書に曰く」として次のようなことが書かれています。

一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇 素戔嗚尊 乃以天蝿斫之劔 斬彼大蛇 時斬蛇尾而刃缺 即擘而視之 尾中有一神劔 素戔嗚尊曰 此不可以吾私用也 乃遺五世孫天之葺根神 上奉於天 此今所謂草薙劔矣 初五十猛神 天降之時 多將樹種而下 然不殖韓地、盡以持歸 遂始自筑紫 凡大八洲國之内、莫不播殖而成青山焉 所以 稱五十猛命 爲有功之神 即紀伊國所坐大神是也

訳:スサノオの行いがひどかったので、神々はスサノオを高天原から追放した。

スサノオは、その子五十猛神(イタケルノカミ)を連れて、新羅の国のソシモリに降るも、「この土地にはいたくない」と、土で船を造って、それに乗り、海を渡ってしまう。

着いた所が出雲の国の鳥上山。そこに人を呑む大蛇がいた。

スサノオは天蠅斫剣(あまのははきりのつるぎ)をもって、大蛇を斬る。その尾を斬ったときに刃が欠けたので割いて中を見てみると、尾の中に不思議な剣がひとつあった。

スサノオはこの剣を天に奉った。これが今の草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。

はじめイタケルが天降るときに、たくさんの木の種をもって降ったが、韓地では播かずに、すべて日本に持ち帰って日本の国中に播いて、国土を全部青山にしてしまった。

 この功によりイタケルは、有功(いさおし)の神とされ、紀伊国に鎮座する大神となった。

 第五の一書では、素戔嗚尊が鬚髯から杉、胸毛から檜、尻毛から槇と榧、眉毛から楠など体毛を抜いて作った各種の樹木を、二柱の妹神(大屋津姫命と枛津姫命)とともに全国に植えたとあります。

日本書記や先代旧事本紀を信じるのであれば、新羅から帰ってきたスサノオが漂着するのは日本海側になるでしょう。しかし、そもそも杉は日本固有種の1つであり、伝来した訳ではありません。檜は日本と台湾にのみ分布しますので新羅のある朝鮮半島は関係ありません。つまり、鉄を造るときに燃料とする薪は、朝鮮半島では乱伐採されて枯渇し、一方、日本には木々が豊かに実っているという意味なのです。

ならば、木の国でスナノオと五十猛神は、何を伝えたのでしょうか。

一番考えらえるのが、諸手船(もろたぶね)であります。諸手船とは、刳舟(くりぶね)のことであり、丸太をくりぬいたり、木や竹などの骨組に獣皮や樹皮をはりつけた舟であり、丸木舟(まるきぶね)ともいいます。

s-03-04 丸木舟>

S0304

(丸木舟 ウィキペディアHPより)

 写真の丸木舟は安土城考古博物館に展示されているものであり、先史時代に琵琶湖で使用されていたもののレプリカで、湖北町尾上から竹生島までの実験航海に使われたものです。底に穴が空くと、泥やアスファルトなどで固めて補修します。掘りが浅いと安定せず、深く掘ると底が抜けることがあり、本来なら遠洋に向かないと思うのですが、三郷南(埼玉県三郷市)―高谷(市川市)で発掘された丸木舟は、全長7.2メートル、幅50センチ、船底の厚みは約8センチだったそうです。中を火で焦がしながら石器で丸太をくりぬいていった跡が残っていました。

これで倭人は太平洋や日本海といった海を渡っていたようです。千葉県市川市の貝塚を主体とする「雷下遺跡」で発掘された丸木舟は、国内最古となる約7500年前の物でした。

中国には、紀元前三世紀よりも古い時代に、筏から進化したという沙船(させん)があり、丸太船から進化した福船と融合し、三国志時代には複合船になっていたと思われます。 <1-32 福船と沙船>

〔福船と沙船〕(弥生時代の日本への渡海は中国のジャンク船だった 日本の歴史と日本人のルーツより)

倭人がいつの頃から中国と関係を密にしていたのかと言いますと、

その燕の漢書地理誌、王充が著した『論衡』(ろんこう)に

「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)

 周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

また、秦・漢時代の地理書『山海経』(せんがいきょう)に

「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)

 蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。

と残されており、周の時代(紀元前1046年頃~紀元前771年)から倭人は中国と交易を行っておりました。つまり、紀元前三世紀よりも古い時代に、筏から進化したという沙船や福船の技術を習得していた事になります。そして、その技術は3世紀の古墳時代まで続いていました。

s-03-05 古墳時代の日本の帆船の線刻画>

S0305

〔古墳時代の帆船〕(古墳時代の日本の帆船の線刻画 日本の歴史と日本人のルーツHPより)

 何故、3世紀と言い切れるといいますと、3世紀に入ると魏国の曹操が西洋の帆船技術と航海術を取り入れ、大型帆船の時代へと移ってゆくからであります。

話を木の国に戻しましょう。

スサノオが木の国にやってきて伝えたのは先進的な沙船や福船などの造船技術ではないでしょうか。丸木舟はなんと言っても巨大な丸太なしで造ることはできません。巨大な丸太を川や海に運ぶだけでも大変な作業となります。それに対して沙船や福船は板を組んだ構造船となります。材料の調達が楽になり、多くの船を建造できるようになります。

古代の和歌山は、その造船技術によって『木の国』と呼ばれるようになったのではないでしょうか。

そう考えれば、スナノオは海を渡ってきた技術集団であり、アマテラスの天孫族より先に木の国(和歌山)に辿り着いたことが判ります。  

■吉備のスサノオ

 冬至のレイラインを西に向かうと吉備の国に入ります。

レイラインの最終地は出雲大社となりますが、『出雲風土記』に国譲りがなかったことが書かれているように、古事記・日本書紀に書かれている神話の出雲ではありません。それを裏付ける証拠の1つとして、ヤマタノオロチの伝承も『出雲風土記』に記載されておりません。

しかし、吉備の国には、『日本書紀』にスサノオがヤマタノオロチを韓鋤の刀で斬ったとあり、この刀は「今、吉備の神部の許にあり。出雲の簸の川上の山是なり」とあると記載されており、明治までその韓鋤の刀である十握剣を布都御魂とご神体として石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)に祭られていました。

4世紀の崇神天皇(すじんてんのう)の御世でヤマト国において病が蔓延すると、この剣の霊力を頼りにヤマトの国に献上され、国家安泰が祈願されて大和国の石上神社に奉納されたとありますから、石上布都魂神社に残されたのはレプリカか、その一部が残されていたのでしょう。

いずれにしろ、この吉備にスサノオの剣が残されていたことになります。

韓鋤の刀がどんなものかと言いますと、天羽々斬(あめのはばきり、あめのははきり)、天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)・布都斯魂剣(ふつみたまのつるぎ)・天十握剣(あめのとつかのつるぎ)・蛇之麁正(おろちのあらまさ)・蛇之韓鋤(をろちのからさひ/おろちのからさび)・天蠅斫剣(あめのははきりのつるぎ/あめのはえきりのつるぎ)などと呼ばれております。

一方、ヤマタノオロチから出て来た剣を、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ、あめのむらくものつるぎ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ・くさなぎのけん)・都牟刈の大刀(つむがりのたち)・八重垣剣(やえがきのつるぎ)と称されて、三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされております。

韓鋤の刀は、十束剣(とつかのつるぎ)と呼ばれるように、束が長いの剣であり、スキの部分が長く剣のように振るえるものでありました。

s-03-06 鎌鍬鋤>

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その先は鋼鉄が据えられており、その剣がヤマタノオロチの尾を切ったときに欠けたとありますから、草薙剣も鋼鉄製であります。

鉄の利用は鉄器時代の開幕よりもはるかに古く、紀元前3000年ごろにはすでにメソポタミアで鉄は知られていました。しかし、鉄を精錬することはできず、もっぱら隕鉄を鉄の材料としてです。

紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトは、アナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていましたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼を開発し、鉄を主力とした最初の文化を作り上げました。そのヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となった訳です。ヒッタイトは紀元前1190年頃に海の民の襲撃により滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になります。インドにおいての鉄器時代は古く、紀元前1200年ごろには開始されたと考えられております。エジプト・メソポタミアに技術が流出したように、インドから東南アジアや東アジアにも流出したと考えられます。

中国においては、殷代(17世紀頃 - 紀元前1046年)の遺跡において既に鉄器が発見されているものの余り利用されておりません。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代(紀元前400200年頃)に鍛鉄とならんで銑鉄(鋳造用の鉄)を生産し、各種の鋳鉄製品を製作しておりました。

続く漢代に入ると、鉄は国家による専売制の下で、銅よりもはるかに安い価格で、ますます大量に生産されるようになります。

・鉄の鋳造技術は、中国では戦国時代(B.C.476221年)頃に始まった。

BC 5 世紀中国南部 ()、高炉[爆風炉]、脱炭素法

BC3世紀~BC2世紀キューポラ炉の登場

AD 31 年頃 杜詩が高炉[爆風炉]の「ふいご」に水車の動力を使用

4 世紀頃 宋の高炉[爆風炉」で木炭の代わりにビツマス石炭の使用した。  

日本は弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入しており、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、たたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来した5世紀から6世紀になります。

鉄器の分布を時代で見ると、弥生時代には鉄器が九州広がっていることが判ります。

s-03-07 県別にみた鉄器の出土数>

S0307

〔県別にみた鉄器の出土数〕(川越哲志編「弥生時代鉄器総覧」2000年刊より)

逆に考えると鉄製の武器が珍しい時代は弥生時代の初期以前であり、始皇帝が不老不死を求め、に徐福に蓬莱の国へ行き仙人を連れてくるように命じたのが紀元前3世紀頃と重なります。

鉄製の武器はすべて輸入でされたものであり、鉄製の武器を持つ者はすべからく高貴な方と判ります。吉備の国から鉄が産出され、生産地となるのは5世紀から6世紀の渡来人の来襲時期を待たなければなりません。

吉備に残された韓鋤の刀がスサノオの剣であることを疑う意味はありませんが、その剣の入手方法が、スサノオに味方して譲られたものなのか、スサノオ一族を襲って奪ったものなのかは知る由もありません。

備前国赤坂郡 石上布都之魂神社の社伝には、今は素戔嗚が祭神であるが、元々は十握劔を祭神としていたと書かれ、以後、日本書記などから説明がなされている。しかし、何故、この剣がこの宮に祭られたのかが書かれていない。

吉備には多くの大蛇伝説があり、その退治をスサノオ(スサノオ一族)が行ったのかもしれない。しかし、スサノオがこの地に留まったという伝承は残されていないのであります。

 

■天孫降臨の神話

淡路を中心に神話が作られているという仮説に基づいて8州を調べ直すと、色々と見えてきるものがあります。位置関係が不自然であった神話も少しずつ整理されてゆくようであります。そこで大きな疑問の1つである伊勢の主、猿田彦について考えてみましょう。

猿田彦は古事記・日本書紀の天孫降臨に登場する瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神であります。

猿田彦大神を祀る神社の総本社で猿田彦大本宮とも呼ばれる椿大神社(つばきおおかみやしろ)や、その容姿から白鬚大明神と呼ばれ、白鬚神社(しらひげじんじゃ、滋賀県高島市鵜川)を総本山にする白鬚神社など、全国各地に猿田彦の神社を持っております。その中には、祭神が塩土老翁神である神社もあり、猿田彦と塩土老翁神が同神とされる理由の1つであります。

古事記では以下のように進み、国産みから『天孫降臨』が書かれております。

 この豊かな葦原の水穂の国(あしはらのみずほのくに)は、アメノオシホミミノミコト(天忍穂耳命)が治める国です。アメノオシホミミノミコトは、天の浮橋(うきはし)に立って、下界を見下ろすと、下界はずいぶんと騒がしいようで、アメノオシホミミノミコトが治めるべきたと言いって、天から降りることにしました。

乱暴な国津神々を治めるにはと思い、アマテラスオオミカミが八百万の神を集めて相談するとオモイカネノカミ(思金神)がアメノホヒノカミを遣(つか)わずのがよいと言ったので遣わすと三年経っても何の報告もありません。

そこでアマテラスはオモイカネノカミに相談すると、天津国玉(あまつくにだま)の神の子の(天若日子)を遣わすと良いと言うので、アメノワカヒコを下界に遣わしますが、アメノワカヒコもオオクニヌシの娘のシタテルヒメ(下照比売)を妻にして、八年になるまで何の連絡もしてよこしませんでした。

そこで鳴き女(なきめ)という名前のキジをアメノワカヒコに遣わします。キジは下界へと飛んで、アメノワカヒコの家の門にある桂(かつら)の木の枝にとまり、アマテラスオオミカミの言葉をそのままに伝えました。すると、家の中にいたアメノサグメ(天佐具売)という女が、この鳥の声を聞き、アメノワカヒコにこの鳥の無く声はたいへんきたないので、矢で射殺(いころ)してくださいと言いました。

それでアメノワカヒコは天の神から授かった弓で矢を放ち、その矢はキジを貫いて殺し、天をめがけて飛んで行き、天の安の河原にいらっしゃたアマテラスオオミカミとタカミムスビノカミのところまで届きます。

そこでタカミムスビノカミは神託を乗せて、アメノワカヒコがわれわれの命令のとおりに、これが乱暴な神に向かって放った矢であるならアメノワカヒコには当たるな。しかし、もしそうではなく、謀反(むほん)の心から放った矢であるならアメノワカヒコに当ってしまえとおっしゃて、その矢をつかんで飛んで来た穴から衝(つ)き返してやったところ、朝まだ床の中で寝ていたアメワカヒコの胸につき刺さり、死んでしまいます。

そこで次に下界に遣わしたのが、タケミカヅチ(建御雷の男の神)でした。

タケミカヅチは、出雲(いずも)の国の伊耶佐(いざさ)という小浜に降り立って、長い剣を抜き、海の波に逆さまに刺し立てました。そして、その前にあぐらをかいて座ると、オオクニヌシに向かって、

「アマテラスオオミカミ、タカギノカミのご命令で、使者として来たものだ。アマラテラスオオミカミは、こうおっしゃった。あなたが支配するこの葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)は、わたしの子の支配する国と命じたものです。あなたは、これについてどう思っているのか。」

 と言います。オオクニヌシはわたしの子のコトシロヌシノカミ(言代主神。言霊=ことだま。ことばの中に住む神霊。)が代わってお答えしますといい、コトシロヌシノカミを呼び出すと、天の神さまのお子さまに差し上げた方がよろしいでしょうと言って、乗って来た船を踏みつけて逆手で手を打っておまじないをすると隠れます。

次にオオクニヌシは、タケミナカタ(建御名方の神)が代わって答えますというと、タケミナカタノカミが千人で引かないと動かないほどの大きな岩を手の上に転がしながら持って来て大声でタケミカヅチに戦いを申し込ます。

しかし、タケミナカタがタケミカヅチの手をむんずと掴むと、その手が氷柱(つらら)のように凍ってしまい、そのうちに剣の刃になってしまいました。タケミナカタは、恐ろしくなって後ずさりしました。すると、今度はタケミカヅチがタケミナカタの手掴もうとします。タケミカヅチに比べるとタケミナカタの手は、やわらかい葦(あし)のように感じたので、つかんだまま投げ飛ばしてしまいました。タケミナカタは、逃げ出しましたが、タケミカヅチは後を追って、信濃(しなの)の国の諏訪湖(すわこ)まで追いつめ、殺そうとしたときに、タケミナカタが一命を嘆願し、この地より他にはどこにも行きません。そして、これからは父のオオクニヌシと兄のコトシロヌシの言うことに逆らいません。この葦原の中つ国は、天の神のお子さまに差し上げますと泣いて謝りました。

オオクニヌシはこれで諦めて、

「この葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)は、ご命令どおりに、すべて差し上げます。ただし、わたしの住む場所をアマテラスオオミカミのお子さまが、天の神の「あとつぎ」となってお住まいになられる御殿のように、地面の底深くに石で基礎を作り、その上に太い柱を立て、高天原にとどくほどに高く千木(ちぎ)を上げて造っていただければ、わたしは、その暗いところに隠れております。また、わたしの百八十もいる子どもの神たちは、コトシロヌシを先頭にお仕えいたしますので、天の神のお子様に逆らうものはいないでしょう。」

と申したので、タケミカヅチたちはオオクニヌシのために出雲の国の多芸志の小浜(たぎしのこはま)に、出雲大社(いずもたいしゃ)を造り、ミナトノカミ(水戸の神)の孫のクシヤタマノカミ(櫛八玉神)を料理人としました。このクシヤタマノカミは、鵜(う)に変身し、海にもぐり、海底の土を採って来て、たくさんの土器のお皿を作りました。また、わかめの茎で臼(うす)を作り、昆布の茎で杵(きね)を作って、その臼と杵で火をおこして、新築のお祝いしました。

 こうして、オオクニヌシノミコトは出雲大社の中にお隠れになりました。

 

ここからが『天孫降臨』となります。

アマテラスオオミカミとタカギノカミ(高木神)は、アマテラスオオミカミの息子のアメノオシホミミノミコトに葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)が平定されましたことを告げます。しかし、アメノオシホミミノミコトは、下界に降りずに、ニニギノミコト(邇邇芸命)を遣わすことにしました。

アマテラスオオミカミとタカギノカミは、ニニギノミコトにおっしゃいました。

「この豊かな葦原の水穂の国は、あなたが治める国です。さあ、命じられたとおりに、この天の国から地上へと降りなさい。」

こうして、ニニギノミコトが、天から降りようとしていたところ、天から地上へと行く分かれ道のところに、上は高天原(たかまがはら)を照らし、下は葦原の中つ国を照らす神さまが居座って、その先へ行かせてくれません。

そこでニニギノミコトは、アメノウズメノミコトにこう言いました。

 「あなたは、女神なので力は弱いが、敵対(てきたい)する神と顔をつき合わせたときには、必ず勝つ神です。そこで、あなたはアマテラスオオミカミとタカギノカミの使者として、分かれ道にいる神のところへ行って、『わたしの御子が、天から降りようとしている道をふさいでいるのは誰だ。』とこう聞いてください。」

アメノウズメノミコトが命じられたとおりに訊(たず)ねたところ、その神は、答えて言いました。

「わたしは、この国の神でサルタヒコといいます。天の神の御子さまが降りていらっしゃると聞き、ぜひお仕えしたいと思って、お迎えにやってきました。」

こうして、ニニギノミコトは、アメノコヤネノミコト(天児屋命)、フトダマノミコト(布刀玉命)、アメノウズメノミコト、イシコリドメノミコト(伊斯許理度売命)、タマノオヤノミコト(玉祖命)の五柱の神さまたちに支えられて、天から地上へと降りることになりました。

このとき、アマテラスオオミカミは、三種の神器(さんしゅのじんぎ)の勾玉(まがたま)、鏡、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)をニニギノミコトに授けました。また、オモイカネノカミ(思金神)、タヂカラオノカミ(手力男神)、アメノイワトワケノカミ(天岩戸別神)もニニギノミコトの元へに遣わせました。そして、アマテラスオオミカミは、ニニギノミコトにおっしゃいました。

「ニニギノミコトよ、あなたは、この鏡をわたくしの魂(たましい)だと思って、わたしを拝むように、これを大切にお祭りしなさい。またオモイカネノカミよ、そなたは、ニニギノミコトのことをよく助けてやり、そして政治を行いなさい。」

ニニギノミコトとオモイカネノカミは、今も伊勢神宮にお祭りされています。アメノイワトワケノカミは、「天の岩戸」が神となったもので、天皇の宮殿の門をお守りになっています。

ニニギノミコトは、高天原の住まいを離れ、たくさんの雲を押し分けて、たくさんの道を別け入って、天の浮橋(あめのうきはし)に立ち、下界を見下ろしました。そして、ついに筑紫(つくし)の日向(ひゅうが)の高千穂の峰(たかちほのみね)という霊山(れいざん)に降り立ちました。

そこには、アメノオシヒノミコト(天忍日命)とアマツクメノミコト(天久米命)という神が、見事な石でできた靱(ゆき。矢を入れる。)を背負い、石の刀、石の弓、石の矢を持って、ニニギノミコトにお仕えするために、出迎えました。

ニニギノミコトは、この高千穂の峰の感想をこうおっしゃいました。

 「ここは、韓国に向いていて、笠沙の岬(かささのみさき)へもまっすぐに行く道がある。朝日が直にこの山を照し、また夕日も照る美しい国だ。ここは、たいへんすばらしい地である。」

そして、地面の底深くに置いた石の上に太い柱を立て、高天原に届くかのように高い立派な宮殿をお造りになりました。

ニニギノミコトはアメノウズメにサルタヒコに仕えるようにいい、アメノウズメは猿女となります。サルタヒコが阿邪訶(アザカ)で漁をしていると、比良夫貝(ヒラブガイ)に手を食われて挟まれて海に沈んで溺れてしまいます。そこでサルタヒコを送り届けたアメノウズメが帰ってくると、鰭の広物、鰭の狭物(=尾の広い魚、尾の狭い魚…大小様々な魚)を集めて、ニニギノミコトに仕えるかと聞くと、ナマコ以外が仕えるといいました。アメノウズメは何故答えないのかと言って、ナマコの口を裂きました。それゆえに今でもナマコの口は裂けております。

というわけで、これより志摩国の初物の魚介類が宮廷に献上されるときは、猿女君に賜ります。

これが古事記の国譲りかた天孫降臨に至る話の概略であります。

 

国譲りで何の理もなしで、出雲から諏訪まで追ってゆくタテミカヅチも大概でありますが、話の流れからニニギノミコトは出雲に降ると思いや日向に降り、何故か突然に伊勢に祭られております。サルタヒコがアメノウズメを娶って帰っていった国も伊勢であります。

s-03-10 ダイナミックな国譲りと天孫降臨>

 

古事記や日本書記の話を組み立てますと、タテミカヅチが下界の騒ぎの元が出雲であり、アマテラスがいう豊かな葦原の水穂の国を治めるのに適した土地が日向ということになります。島根の“出雲”などを支配するのに、宮崎の“日向”が適している地理的要因は皆無であります。

宮崎県の日向灘は、黒潮の影響を受けて海流が早く、海産物が非常に良く取れる海でありますが、波が荒く航行困難な海域でもあります。

s-03-11 黒潮と内海の海流図>

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基本的な海流の流れは南から北に潮が流れ、日向から北九州や中国、近畿に進むのは便利ですが、戻るには手間と時間が掛かります。攻めるに易く守るに難い、攻防を兼ねた海の地形でありますが、物流や交流の拠点には向きません。

タテミカヅチが島根の出雲を抑えたのですから、タテミナカタの諏訪に睨みが利く、難波の国か、大和の国当たりまで拠点を進めるべきでしょう。

平安時代に出された『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』では、ニニギの前にニギハヤヒが大和に東征しております。

国を分割するのでしたら、中国や四国にも天孫降臨を記載するべきです。

そこで話を元に戻します。

神話は淡路島の近隣ではないのだろうか?

原文は、

故爾詔天津日子番能邇邇藝命而、離天之石位、押分天之八重多那雲而、伊都能知和岐知和岐弖、於天浮橋、宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣。

 訳:故爾に天津日子番能邇邇芸命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。

とあり、「竺紫、日向の高千穗」と書かれております。

竺紫と日向はイザナギが禊を行った場所でも使われおり、「筑紫日向小戸橘之檍原」と残されております。

淡路島には(しづき)という地名があり、字を逆にすると筑志(つくし)となる。しかし、これは余りに強引過ぎる。強引過ぎます。

そこで九州の筑紫の語源を確認すると、筑紫潟から来ており、有明海のことでした。昔の有明海が内陸まで深く入り組んでおり、臼を叩く杵か、中国は秦で広く使われた楽器『筑』のように深く奥広くなっておりました。

s-03-12 筑>

S0312

『新修大阪市史2』の史料に、国司の任を終えて土佐から都に帰る紀貫之の一行は、承平五年(935)二月五日住吉の沖を通過し、翌日大阪湾から淀川をさかのぼった。

『土佐日記』には、「六日、みをつくしのもとよりいでて、なにはにつきて、かはじりにいる」とあります。

一行は大阪湾から、つまり『つくしのもとより』と書かれているのです。

そうです。

大阪湾岸こそ、古代の『筑紫』なのです。古代の難波津から住吉に掛けての大阪湾の海族が半島の交易の為に九州に移住し、久留米当たりで筑紫潟(有明海)を見て、『筑紫』と名付けたのが九州筑紫の謂れではないでしょうか。

さて、大阪湾岸から日に向かって進むと、河内湖へ入ります。その入り口は『小戸』と呼ばれていたのでしょう。明石海峡が『大戸』であり、神々が通った『戸』だから神戸なのです。

次に橘と言えば、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来します。橘で有名なのが橘寺(たちばなでら)であります。田道間守が持ち帰ったとありますが、もっと古くからあったのかもしれません。

橘寺は奈良県高市郡明日香村にあります。その地こそ、『橿原』なのです。

最後の檍原(アハキハラ)』は阿波岐原(アワギハラ)と呼ばれていますが、本当にそうでしょうか。

この『檍』の字は、中国読みの『橿』と同じ読みを持つ漢字なのです。

【漢字】    【中国での意味】    【日本特有の意味】 

  樫        無し           かし

  橿        もちのき         かし

  檍        もちのき        (あはき)

           かし

  檮        切り株

『檍』を『橿』に変えて、書き直せば『橿原』になります。

橿原神宮は神武天皇が即位した地として有名であり、何故、この地で即位したのかと問われれば、イザナギが禊によって、アマテラス・ツクヨミ・スサノオを生んだ土地でありませんか。

否、神武天皇が即位するならここしかありません。

天孫降臨では「竺紫、日向の高千穗」と書かれております。

高千穂とは、宮崎県日向の高千穂であり、高い山々が連なると勘違いしておりました。神話の時代は地名ではなく、漢字の意味通りに読まなくてはいけないのです。

つまり、高千穂は“高く”・“沢山”・“実った稲穂”という意味であり、黄金色の稲穂がばぁっと広がる景色が眺める場所であります。

 

そんな心が穏やかになる景色を私は一か所しか知りません。

おそらく、古代の葛城山に登って奈良盆地を見下ろすと、天の香久山が島のように奈良湖と稲穂の海に浮かんで広がる景色は見えるようではありませんか。

奈良県の明日香は空が高く見えて、清々しく気持ちのいい土地です。

そう、橿原神宮のあるこの土地は清々しい土地なのです。

大阪湾から東に向かうと葛城山があり、葛城山を越えると高千穂の明日香村が待っているのです。

 

■天孫降臨は二度あった。

 奈良大和路を探究すれば、誰が一度は首を傾げるのが、三輪山であります。

三輪山のご神体は、大物主神であります。

大物主神=オオクニヌシ(大国主神)

島根の出雲の神を何故、大和で祭っておりのかと言いますと、崇神天皇の御世に疫病が大流行し多くの民が亡くなりました。この時天皇は大変悲しんで神牀(かむとこ)をします。 神牀とは、夢の中で神様と繋がりお告げを受けることであります。

すると、三輪山の神である大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が現れ、

「この有様は私の心である。意富多多泥古(おおたたねこ)に私の御魂を祭らせなさい。そうすれば疫病も治まり、国も安らかに治まるだろう。」

と言われました。

天皇は意富多多泥古を探し、河内の美努村(みののむら)(大阪府八尾市上之島町付近)に意富多多泥古という人物が見つかったのです。

「私は大物主大神が陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘の活玉依毘売(いくたまよりひめ)を娶って生んだ櫛御方命(くしみかたのみこと)さらにその子の飯肩巣見命(いいかたすみのみこと)、さらにその子の建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子にあたるのが私、意富多多泥古でございます。」

それを聞いた天皇はたいそう喜んで、意富多多泥古を神主として御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おおみわのおおかみ)を祭らせましたとあります。

ところで奈良県桜井市に出雲という町があります。

奈良の都が造営されるときに、各地の民が集められて小さな村を作り、奈良には沢山の地名を持つ町があります。おそらく、出雲もそうであろうと言われてきました。

しかし、出雲から来た民が近く山にお国の神様を誘致することを、時の朝廷が許すでしょうか。

桜井市は三輪山と外鎌山挟まれ、東に逝けば鳥見山、貝ケ平山、伊那佐山があり、北は龍王山、南は音羽三山の熊ケ岳があり、正に『ヤマト(山戸)』と呼ばれるに相応しい場所です。そんな場所に出雲からヤマトに移されて民の頼みを朝廷が聞き届けるでしょうか。

そもそも、第10代の崇神天皇が大物主大神を三輪山へ誘致したのではありません。大物主大神ははじめから三輪山に鎮座していたのです。

古事記の大国主の章に

「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」

と書かれておりますから、三輪山に大国主を祭ったのは自分自身のようです。

大阪湾岸に『筑紫』であり、大阪の高槻市に『隠岐の三島』、その対岸に『因幡』、大国主は住んでいる土地が出雲ですから、三輪山の周辺が古代の『出雲』でもおかしくありません。

この奈良には大和の大蛇三社(やまとのだいじゃさんしゃ)というヤマタノオロチとも思える伝承もあります。『ちはやぶる』で有名になった竜田川となど、奈良湖は度々水害に襲われております。スナノオは先進的な灌漑事業を伝えて、治水を行ったのではないでしょうか。

また、島根の出雲には須賀という地名があり、須賀とはスサノオとクシナダヒメが住む為に選んだ“清々しい”土地であります。

誰が言ったのかは忘れましたが、

 

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠ごみに 八重垣作る その八重垣を」

 

訳:出雲の幾重にもめぐらした垣根。妻をこもらせるために八重の垣を作る、その美しい八重垣を

 この詩に読まれる“八雲立つ” ような幾重にも重なりあった雲は、出雲の空と奈良の空しかお目に掛かれない。

確かに、出雲も奈良も周囲に見た目が高い山がありません。雲が高く重なり合い、どこまでも広々と感じられ、心地良い風が身も心も軽くしてくれます。

その清々しい土地を“アスカ”と呼びます。

漢字で飛鳥、あるいは明日香と表記されていますが、熊野の熊野速玉大社の横を流れる熊野川の護岸に阿須賀神社(あすかじんじゃ)が創建されております。祭神はもちろんスサノオ神であります。

阿須賀と書いて、“アスカ”と呼びます。

そうです。アスカとは、阿・須賀(ア・スガ)なのです。奈良湖の湖畔に『須賀』があったのです。

この飛鳥時代にこの地を治めていたのが蘇我氏であります。

蘇我氏の謂れは、「我、蘇る」という意味であり、朝鮮に渡った蘇我氏が日本に戻ってきたという風に言われ、あるいは、原始キリスト教の復活を意味するキリスト教か、ユダヤ教の末裔とも言われております。

しかし、もっと単純な意味であったことが、このことで判ります。

須賀に住んでいた蘇我氏の祖、須賀氏としましょう。

須賀氏は須賀に住んでいましたからスサノオとクシナダヒメの末裔です。国譲りでタケミカヅキが現われて、オオクニヌシと共に須賀を去ることになります。

オオクニヌシは各地を転々として、最後に根の国(島根)である出雲に到着して、奈良のような八雲立つ出雲を自らの国に定めます。そして、須賀氏も出雲の須賀地方に根付いた訳です。時は数百年過ぎ、須賀氏は朝廷に仕えるようになり、葛城氏と婚姻を結んで権力を少しずつ蓄えて、遂に奈良のアスカ(飛鳥・明日香・阿須賀)の地に戻ってきたのです。 そして、須賀氏は蘇我と名乗ったのであります。

蘇我氏はスナノオの血を引く、由緒ある一族ですから、朝廷の中でも一目置かれる存在になったのは言うまでもありません。

さて、国譲りが島根の出雲ではなく、奈良の出雲であったことは判りました。天孫降臨で大阪湾の『筑紫』から日に向かって葛城山を越えて阿須賀に降り立った天孫族こそ、ニニギの末裔、あるいは、天津彦根命(天若日子)の末裔である葛城氏なのです。

何故、そうはっきりと言い切れるのかと言えば、紀記に雄略天皇の事績として、葛城山で天皇一行とそっくりな一言主神一行と出会い、対峙したという話が残されているからです。

『古事記』では天皇が大御刀・弓矢・百干の衣服を神に献じて拝礼したとして一言主神の方が優位に記述されており、一方、『日本書紀』では天皇が物を献じることはなく一言主神と天皇が対等に近い立場で記述されております。

いずれにしろ、天孫族である証を一言主神が持っていたのは間違いないのであります。『先代旧事本紀』では一言主神を素戔烏尊の子とされ、平安時代の『日本霊異記』や『今昔物語集では、一言主神は役行者(役優婆塞/役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、さらに役行者の怒りにふれ呪縛されたと記されております。

紀元前2世紀頃に新高天原とでも呼ぶべき、九州筑紫の天孫族であるニギハヤヒがヤマトに東征し、同時期に阿蘇周辺の天孫族が九州日向に天孫降臨し、紀元後2~3世紀に神武天皇の東征が行われます。

古事記・日本書記では、国譲りから天孫降臨までの間に欠史が存在し、先代旧事本紀では、ニギハヤヒの話が補完されております。しかし、ニギハヤヒより100年近く以前にタテミカヅキが落とした奈良の出雲に降った天孫降臨の話が欠落しているのであります。

いずれにしろ、奈良の筑紫日向小戸橘檍原(橿原)と九州日向の筑紫日向小戸橘檍原(阿波岐原)の二か所に天孫降臨は成されたのであります。

そして、都合の悪い葛城氏の祖神は天孫降臨の神があることは隠されて、神話の中に埋もれてゆくのであります。

 

 

 

【参考資料】

『古事記』天孫降臨

  「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。」

〔倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年、(P129)より〕

 

『日本書紀』天孫降臨

  「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」

〔坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店、1993年(P140)より〕

(すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されています)

 

『日向國風土記』逸文

  「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。

 時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」

 〔秋本吉郎校注「日本古典文学大系2風土記」岩波書店、1958年〕

 

『大和国の風土記』

『大和国の風土記』に云わく、天津神命、石津神命、三都嫁(みとのまぐわい)、遊(うらぶれ)、面語(おもがたり)してとあり。〔毘沙門堂本古今集註 風土記 日本古典文学大系2

天津神命はアマテラスなどの高天原に住む神々であります。

石津神命は石津太神社に祭られている天穂日命が石津連の祖神と言われておりますから、天照大神の右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主である天照大神の第二子とされ、葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった神でしょうか。

三都嫁とは、「この嶋を国中の柱として、男神は左から女神は右からまわって「ミトノマグワイ」をして日本の国々山川草木、神々を生んだとしている。」と書かれているので言葉の意味のままであり、遊は物思い、面語は面と向き合って語るであります。

天津神命が男神なら、天穂日命も男神なのでまぐわうとはおかしな表現であります。石津が国津と同じ意味ならば、高天原から来た男神と国津神の女神が愛し合ったと読めます。

大和国の風土記に云わく、

むかし明日香の地に老狼ありて多くの人を食らう。土民畏れて大口の神という。その住める所を名付けて、大口の真神原という云々風土記に見えたり。〔枕詞燭明抄(中)〕

とあります。

また、舎人娘子『万葉集』巻八1636にも、

大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに

という歌が残されており、「大口真神原」は飛鳥寺付近だと言われています。

 

三輪山

 

かつて強制的に移住させられた人々がいて、旧国名を地域名とした。

三輪山は“みもろやま”ともいい、神奈備(かむなび)でもある。

縄文時代・弥生時代から自然崇拝の対象であったらしく、三輪山そのものを御神体とした

大神神社は大和国の一の宮。大神神社は大物主を祀る。

出雲という地名は、三輪山南東のこの辺りだけではなく、他の近隣エリアにも残されています。

狭井神社で知られる狭井川の北方に、出雲屋敷という地名が伝承されています。さらに、三輪山北西には、かつて出雲荘と呼ばれる荘園がありました。

出雲荘は、現在の桜井市大西・江包(えっつみ)の地に当たります。

出雲・・・この不思議な国

 日本中が神無月のとき、神在月と言う国・・・・・  

大和の大蛇三社(やまとのだいじゃさんしゃ)

 大和国、現在の奈良県に所在する三つの神社を、大蛇(巳)、あるいは竜に見立て、その頭、胴、尾になぞらえたもの。蛇も竜もいずれにしても水神。三社とも水との関わりが深い神社とされる。

 大神神社はもともとが蛇の社という側面がある。石園座多久虫玉神社(竜王宮)は海神色が強い。長尾神社は、竜と蛇の伝承だらけ。社号の尾は、そのまま蛇と竜の尾の意と考えられる。

 大神神社と長尾神社だけでも、蛇あるいは竜の頭と尾ともされる。巨大な蛇が頭を三輪山(大神神社)にしてとぐろを巻き、その尾が長尾神社まで届いた、という伝承による。

 

元熊野・諭鶴羽神社

 

淡路島最高峰の山、諭鶴羽山(標高607.9m

「熊野権現御垂迹縁起」によると、唐の天台山の霊神が九州筑紫国・英彦山の峰に降臨され、伊予の石鎚山に渡られ、淡路国・諭鶴羽山を経て熊野新宮・神蔵(神倉)の峯へ渡られたとされる。山頂の南側約400mに鎮座する諭鶴羽神社は創建が開化天皇の治世と伝えられる古社である。祭神は伊弉冉尊・速玉男命・事解男命。三角点のある山頂は諭鶴羽神社の御旅所で、毎年4月第2土曜日に行われる春の例大祭には神輿が上がります。

諭鶴羽山(ゆづるはさん)は、大坂湾、瀬戸内海、紀伊水道を眼下に、泉、播、讃、阿、淡、紀、備などの八州が一望できる。  

阿豆枳神社

祭神:大野手比売(おほぬてひめ)」(香川県小豆郡小豆島町神懸通)小豆島の産土神は、イザナギ・イザナミの国産みによって生まれた大野手比売である。

星ヶ城山(ほしがじょうさん)は、小豆島町(旧・内海町)の中央東部にある標高817m(東峰)の山である。  

三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)

主祭神:大山祇神、事代主神

津の国御島(現在の高槻市)の日本で最初の三島神社(山祇神社)である。

社伝では、伊予の大山祇神社、伊豆の三嶋大社とともに「三三島」と呼ばれたという。また、日本で最初の三島神社(山祇神社)とされる。

大山祇神 (おおやまづみのかみ)

『伊予国風土記』逸文によれば、伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神(大山祇命に同じ)は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座していたという。

大山祇神 (おおやまづみのかみ)

『伊予国風土記』逸文によれば、伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神(大山祇命に同じ)は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座していたという。

事代主神 (ことしろぬしのかみ)

事代主神は鴨氏の氏神とされ、当地に鴨氏の進出が背景にあるとされる。『日本書紀』神代巻には、事代主神が八尋熊鰐となって三島溝橛耳の娘・三島溝樴姫(玉櫛媛)のもとに通い、生まれた媛蹈鞴五十鈴媛命が神武天皇の后になったと記す。三島溝橛耳一族の氏神として、当社近くには溝咋神社が祀られている。

創建は不詳。当社は元々淀川の川中島(御島)に祀られていたといい、社伝では仁徳天皇が茨田堤を築くにあたって、淀川鎮守の神として百済から遷り祀られたという。大山祇神社が大三島瀬戸に鎮座したのが推古天皇2年(594年)とされている。

 

生島神社

祭神:生國魂大神(兵庫県尼崎市栗山町2丁目24-33)

主祭神:生島大神(いくしまのおおかみ、生嶋大神)、足島大神(たるしまのおおかみ、足嶋大神)

創始は仁徳天皇の時代、313年から399年頃。大阪にある生國魂神社の元宮と言われる。祭神とする生島神・足島神の2神は、『古事記』・『日本書紀』等の神話に記されない神々である。

難波の生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)の『延喜式』神名帳では生島巫が神祇官西院で生島神・足島神の2座を祀ると記されており、平安京の宮中で「生島巫(いくしまのみかんなぎ)」という専門の巫女により奉斎される重要な神々であった。

長野県上田市下之郷にある神社の生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)も同じ神を祭っていることより、スナノオ・オオクニヌシらに縁の深い神であることが伺われる。  

 

摂津国嶋下郡 伊射奈岐神社

 

祭神:伊射奈美命(大阪府吹田市山田東二丁目三番一号)

延喜式神名帳の島下郡の条に「伊射奈岐神社」が二座あり、その一座とされる。なお、もう一座は佐井寺に位置しイザナギを祀る同名の神社だといわれる。

御由緒

当社は、延喜式内社で、延喜式神明張に、摂津国島下郡、伊射奈岐神社二座云々とあり一座がこの神社であって、千里丘陵の中間で万国博会場になった地域に隣接する高庭山に鎮座している。爾来、皇大神御霊と共に内裏に奉斎されていた豊受大御神の御霊が崇神天皇の御宇、皇居を離れさせられ、後に丹波国与謝郡(現在福知山市)の比冶真名井に遷し奉られたが人皇第二十二代雄略天皇即位二十二年、皇大神の御神誨により現在の伊勢市山田、高倉山麓の山田ヶ原に遷座し奉られたとき、伊勢斎宮女倭姫の御示教により、大佐々之命が、五柱の神を奉祀するべき霊地を諸国にもとめ、ついにこの山田の地に奉祀せられたと云う。又、山田という地名がこの様な処から山田原と称し、伊勢山田から名を移したのであると伝えられている。俗に姫神社とも称し、貞観元年正月従五位上を授けられ(三代実録、貞観元年正月の条に「二十七日甲申京畿七道諸神進階及新叙惣二六七社云々、奉授摂津国従五位、伊射奈岐神従五位上」)同十五年社宮と改称されたと云う。

 

犬を観る神社(宇多賀 賢見神社)

主祭神: 素戔嗚尊・応仁天皇(徳島県三好市山城町寺野112)「犬神信仰」 徳島県に掛かる淡路のレイライン上にある。

 

長福寺 

本尊:薬師如来(徳島県三好市山城町大月)四国八十八箇所第六十六番札所雲辺寺奥の院

 

大瀧寺 

本尊:南無西照大権現(おおたきじ)(徳島県美馬市脇町字西大谷674)四国八十八箇所総奥の院、四国別格二十霊場二十番札所。

大瀧寺の右脇に鳥居があって「西照神社」への階段が有ります。

西照神社の縁起は、

『大滝山阿讃国境に位し標高九四六米七尾七谷の源をなす嶺峰にして古代「大嶽山」と稱せられる。

 由緒、古伝の存す所を案ずるに上代神世の昔、伊耶那岐尊、高御産巣日神の詔を以ちて、筑紫の日向の橘の小戸の阿波峡原に降り禊祓まして心身清浄なる身を以て山川草木各々の主管者を任命し終りに天照大神を高天原へ。

 祖国並に大八州国を統治し次に月読尊は夜の食国(筑柴の国即ち九州全域尚湯の出る国即ち四国の嶋)を統括し

東大和紀伊の動向を看視せよと委任し給ふ。

そこで月読尊は航海の神、田寸津姫命即ち宗像三神の部族を率いて伊豫から阿波の国に移り大嶽山の頂、展望のきく所に櫓を設け瀬戸内海難波及び大和の動向を監視せしめ、天津神の詔を体し九州四国を統括し、蒼生人の九厄十悪を祓ひ退け、夜毎に白露をふらし、五穀草木を潤し海上安全を守護されしと降って、平安朝の初期桓武天皇の御代僧空海二十四才の頃三教指針(神道儒教仏教)の一佛教を選び厳修体得せんと大嶽山に登り、北面の崖の中腹に山籠すること三年。教理に初光を見出し、続いて土佐の国室戸に至って三年余を経て都に赴く。

つまり、「月読尊(天照大神の弟神、更に弟が素戔嗚です。このイザナギが産んだアマテラス、ツクヨミ、スサノオが、三貴神と呼ばれています)を大和方面の監視役として田寸津姫命を大滝山山上に遣わして瀬戸内海の監視に当たらした事が神社の起源」という事でした。名前は西照ですが、西照大権現のいわれは無く、むしろ「記・紀の説話は阿波に実在した」と言う説を真っ向から補強する面白い縁起です。

「西照大権現」の御姿は今回拝見出来ませんでしたが、「東照大権現」以前に弘法大師によって「西照大権現」が造られ祀られていた事が判りました。

 

水主神社御

 

祭神 倭迹々日百襲姫命(日本書紀) 夜麻登々母々曽毘売命(古事記)

(香川県東かがわ市大内町水主1418

「倭迹々日百襲姫命は七才の年に大和の国黒田の盧戸より出て八才の時東讃引田の安戸の浦に着く。御殿、水主に定め造営せられた」

弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返 され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命は、この争乱を 避けて、この地に来られたと伝えられています。

  姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々 のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを 助けたといわれています。

 

夜疑神社(やぎじんじゃ)

主祭神:布留多摩命

大阪府岸和田市中井町2-7-1

ご由緒、八木の地は肥沃で水利も良く、古くから拓けた所であった。「陽疑」「揚貴」「八木」などと表記されたこともあるが、いずれも「やぎ」と読む。当社の創建は定かでないが、延長5年(927)成立の『延喜式』に「夜疑神社」と記されており、また主祭神の布留多摩命については、弘仁5年(814)成立の『新撰姓氏録』に「八木造。和多罪豊玉彦の児、布留多摩命の後すえなり。」とある。

布留多摩命は、饒速日命(にぎはやひのみこと)が、高天原より天降られる時、天津神から「天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみづのたから)」を授けられました神宝であります。

古代地方豪族八木氏の氏神として創建されたと考えられる。

 

方違神社(ほうちがいじんじゃ)

主祭神 天神地祇、素盞嗚尊、住吉大神、神功皇后

大阪府堺市堺区北三国ヶ丘町2-2-1

創建 人皇10代崇神天皇81229日(西暦前90年)

天神地祇とは、天津神・国津神(あまつかみ・くにつかみ)を合わせている。

ご由緒

神功皇后は夫である仲哀天皇の死後、朝鮮半島に出兵し新羅・高句麗・百濟を平定した。皇后は新羅から凱旋の途中、皇子(後の応神天皇)とは腹違いの2人の王子の叛乱に遭うが、住吉大神の御神教により、5月晦日、御自ら沢山の平瓦を作って天神地祇を祀り、菰の葉に埴土を包み粽として奉り、方災除けを祈願して皇軍を勝利に導いた。後にこの地に神霊を留め、方違社と尊び奉る。

 当神社奉斎地は--「三国山こずえに住まふむささびの鳥まつがごとわれ待ち痩せむ」--と、『万葉集』にも歌われているごとく、摂津住吉郡、河内丹治比郡、和泉大鳥郡の三国の境界なるが故に、三国山”“三国の衢(ちまた)また三国丘とも称され、奈良時代には僧行基が此辻に伏屋を設け旅人の休憩に供したので、人馬往来の要衝であった。

また、平安時代には、熊野詣の通過地点であったため、熊野詣での人々は必ず当社へも参詣し、旅の安全を祈ったという。 

 

御杖神社(みつえじんじゃ)

 

御祭神:久那斗神 八衢比古神 八衢比女神

奈良県宇陀郡御杖村神末1020

三峰山の北にあるこの神社は、第11代垂仁天皇の勅命により天照大神の御杖代となった倭姫命が、天照大神をお祀りする候補地として杖を残したとされる伝承の地。その杖をお祀りすることから御杖村の村名の由来となっている。

・久那斗神・岐神(くなどのかみ):伊弉諾尊いざなきのみことが黄泉よみの国から逃れて禊みそぎをした時、投げ捨てた杖から生じたという神。

・八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ):岐の神(くなと、くなど -のかみ)とも呼ばれ、「くなど」は「来な処」すなわち「きてはならない所」の意味を持つ。道の分岐点、峠、あるいは村境などで、外からの外敵や悪霊の侵入をふせぐ神であり、道祖神の原型とされる。『古事記』では、黄泉から帰還したイザナギが禊をする際、脱ぎ捨てた褌から道俣神(ちまたのかみ)が化生したとしており、『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って投げた杖から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が化生したとしている。

・三峰山(みうねやま)

三重県松阪市・津市

奈良県御杖村

御杖村から旧伊勢参宮街道の宿場町である神末を経て神末川沿いに遡り、三峰山登山口(560m)から不動滝(720m)、避難小屋(1,090m)、三畝峠を経て山頂に至る。また登山口から休憩小屋(740m)を経て避難小屋で合流するルートもある。

 

當麻山口神社

祭神 大山祇命、天津彦火瓊瓊杵命、木花佐久夜比賣命

奈良県葛城市當麻1081

天孫降臨のニニギノミコトを始めとする八柱を祭神とする歴史ある神社で、境内摂社の當麻都津比古神社は、第33代用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる麻呂子皇子と當麻津姫を祀っております。

 

名草戸畔(なぐさとべ)

日本書紀には

623日、軍、名草邑(むら)に至る。則ち名草戸畔という者を誅す」

と書かれています。

「戸畔(とべ)」とは、女性首長を指す古い言葉で、「名草戸畔」とは「名草村の女性首長」という意味です。

名草戸畔(ナグサトベ)は縄文時代、名草地方(現在の和歌山市・海南市)を治めていたとされる女王とされ、

「宇賀部神社(うかべじんじゃ)」宮司家出身・故小野田寛郎氏の家に内々に語り継がれてきた「口伝」によると、「名草戸畔は負けていない」「神武軍は名草軍に撃退されて仕方なく熊野に行った。しかし最終的に神武が勝利し天皇に即位した。

そのため名草は降伏する形になったが、神武軍を追い払った名草は負けていない」「名草戸畔は殺されたのではなく戦死した」

土地の伝承には、ナグサトベの遺体を、名草の住民により頭、胴体、足の三つに分断し、頭は宇賀部神社(うかべじんじゃ)、胴は杉尾神社(おはらさん)、足は千種神社(あしがみさん)に埋葬されたと言われています。

名草山をとりかこむ湿地帯「阿備の七原(安原、広原、吉原、松原、内原、柏原、境原)」に人々が住み始めたそうです。

名草山は人々にとって山の恵みを授かる場所、神の山「神奈備」として信仰されていたとされています。

 

阿須賀神社(あすかじんじゃ)

主祭神:事解男命、熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神

和歌山県新宮市

熊野曼荼羅三十三ヶ所霊場 第23番。

熊野川河口近くにある蓬莱山と呼ばれる小丘陵の南麓に鎮座する。古くは飛鳥社とも称された。蓬莱山は南北100メートル、東西50メートル、標高48メートルの椀を伏せたような山容で、神奈備の典型とも言うべき姿をしている。

「熊野権現垂迹縁起」によれば、熊野の地において熊野権現はまず神倉神社に降臨し、それから61年後に阿須賀神社北側にある石淵(いわぶち)谷に勧請されて、その時に初めて結早玉家津美御子と称したと伝えられており、熊野権現の具体的な神名がはじめて現れた場所と見なされている。

 

出雲荘(いずものしょう)

大和国城上郡(現在の奈良県桜井市)にあった荘園。

興福寺の雑役免荘として延久2年(1070年)の坪付帳に登場するのが初出で、213反半(不輸田畠4町・公田畠173反半)から成り立っていた。

荘田は散在形式であったが、規模の拡張とともにしだいにまとまりを見せるようになり、文治2年(1186年)の坪付帳では322180歩に広がって4か所に固まっている。

更に一色田であった間田(名田以外の田畠、原則的には荘園領主の直轄地となる)112280歩を編入し、総面積が435反にまで広がったことが知られている。

 

龍田神社(たつたじんじゃ)

主祭神:天御柱命、國御柱命、竜田比古神、竜田比女神

奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6

 風神である天御柱命(龍田比古神)と国御柱命(龍田比売神)の二座のこと。あるいは、同じく風神である級長津彦神、級長津比売神(級長戸辺神)のことであるともいう。崇神天皇の御代、龍田の風神が現われ、以来、大雨洪水による不作が続いた。 どのような神の災いかを占った天皇の夢に現れた神は、アメノミハシラ・クニノミハシラと名乗り、 災いを除くため、龍田の宮を造って祀る事を要求したという。

百人一首17首目『ちはやふる』

千早(ちはや)ぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがは)

からくれなゐに 水くくるとは

漫画『ちはやぶる』のカナちゃんの説明では、

「千早(ちはや)ぶる」とは、神が安定した駒のように揺るぎなく回っているようなものであると言っております。

つまり、この凄い神がかった様子は、太古の神々の時代から竜田山のほとりを流れる川に鮮やかな紅色の川の水を括り染めにしてしまっているのでしょう。

 

石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)

主祭神:素盞嗚尊

岡山県赤磐市石上字風呂谷1448

明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていた。明治3年(1870年)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれている。

 

佐奈部神社(さなべじんじゃ)

祭神 春日大神、応神天皇

茨木市稲葉町16-26

由緒;摂津国島下郡水尾郷の水尾・堂・小路・内瀬・真砂の5ケ村の氏神。 中世の水害や兵乱で由緒を知る手掛かりを失う。

初代茨木市長・高島好隆は佐奈部とは稲・麦を打ち落とす農具・佐奈を制作する部民のことで、佐奈部神社のサナは鐸、近隣の佐和良義神社の迦具土神、葦分神社のアシは砂鉄、溝咋神社のタタラと、金山彦をまつる主原神社(茨木神社に合祀)、勝尾寺川水系上流にある北山の銅山、福井新屋神社のカナクソ、粟生の銀山、勝尾寺、箕面の修験道場などを組み合わせて一つの古代鍛冶集団を想定している。

もと堂の弥勒堂傍の素盞鳴尊神社と水尾の個人が祀っていた猿田彦社を合祀。

 

大神神社(おおみわじんじゃ)

主祭神

大物主大神

奈良県桜井市三輪1422

当社の創祀そうしに関わる伝承が『古事記』や『日本書紀』の神話に記されています。『古事記』によれば、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が出雲の大国主神(おおくにぬしのかみ)の前に現れ、国造りを成就させる為に「吾をば倭の青垣、東の山の上にいつきまつれ」と三輪山に祀まつられることを望んだとあります。

また、『日本書記』でも同様の伝承が語られ、二神の問答で大物主大神は大国主神の「幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)」であると名乗られたとあります。そして『古事記』同様に三輪山に鎮まることを望まれました。この伝承では大物主大神は大国主神の別の御魂みたまとして顕現けんげんされ、三輪山に鎮しずまられたということです。

この様に記紀ききの神話に創祀そうしの伝承が明瞭に記されていることは貴重なことで、当社が神代に始まった古社中の古社と認識されており、ご祭神さいじんの神格が如何に高かったかを物語っていると言えます。

そして、ご祭神さいじんがお山に鎮しずまるために、当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初げんしょの神祀りの様を今に伝えており、その祭祀さいしの姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。

「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神すじん天皇の時代には国造り神、国家の守護神として篤あつく祀まつられました。平安時代に至っても大神祭(おおみわのまつり)、鎮花祭(はなしずめのまつり)、三枝祭(さいくさのまつり)が朝廷のお祭りとして絶えることなく斎行され、神階は貞観じょうがん 元年(859)に最高位の正一位しょういちい となりました。延喜式えんぎしきの社格は官幣大社かんぺいたいしゃ で、のちに大和国一之宮やまとのくにいちのみやとなり、二十二社の一社にも列なるなど最高の待遇に預かりました。

中世には神宮寺じんぐうじであった大御輪寺だいごりんじ や平等寺を中心に三輪流神道が広まり、 広く全国に普及し人々に強い影響を及ぼしました。近世に入ると幕府により社領が安堵あんど されて三輪山は格別の保護を受け、明治時代にはその由緒によって官幣大社かんぺいたいしゃとなりました。現在も国造りの神様、生活全般の守護神として全国からの参拝があり、信仰厚い人々に支えられて社頭は賑わっています。

 

石園座多久虫玉神社(いわぞのにいますたくむしたまじんじゃ)

主祭神:建玉依比古命、建玉依比賣命、豊玉比古命、豊玉比賣命

奈良県大和高田市片塩町15-33

通称 竜王宮として地元住民からは篤い信仰を集めている。

また、大神神社を龍の頭、当神社を龍の胴、葛城市の長尾神社を龍の尾とする伝承がある。

 

長尾神社(ながおじんじゃ)

 

主祭神:天照大神、豊受大神、水光姫命(豊御富)、白雲別命

奈良県葛城市長尾471

水光姫命は『日本書紀』で神武天皇東征に際し吉野川上(奈良県川上村井光)に巡幸の際、井戸の中から現れた国神(くにつかみ)として記される井氷鹿で、水神・井戸の神である。古事記や日本書紀によると、光って尾が生じていたと記されている。新撰姓氏録では「吉野氏の祖先で、天白雲別命の娘・豊御富登であり、水光姫の名は神武天皇が授けられたもの」としている。社伝では、水光姫命は応神天皇の治世に三角岩(葛城市竹内)に降臨し、子孫の加彌比加尼(かむひかね)に命じて長尾に祀らせたもので、姿は白蛇であって、今、神社の東北に藤をもって覆われている御陰井の藤の花がそれであるという。

 

石津太神社

御祭神:蛭子命(ひるこのみこと)、八重事代主命(やえことしろぬしのみこと)

大阪府堺市西区浜寺石津町中四丁飯田12-7

創建: 孝昭天皇七年(BC469

最古の戎神社

神代の昔。

伊弉諾命【いざなぎのみこと】と伊弉册命【いざなみのみこと】の間に生まれた蛭子命【ひるこのみこと】は、三歳になっても立つことができなかったため、天磐樟船【あめのいわくすぶね】に乗せて海に流された。

船は波のまにまに風のまにまに漂い、ある海岸に流れ着いた。蛭子命が携えて来た五色の神石を置いたことから、その地を石津と称し、船の漂着した所を石津の磐山というようになった。

それから遥かに時を経て、五代孝昭天皇の御代、蛭子命を祀る社殿を建てたのが石津太神社の始まりだという。我が国最古の戎社と称している。

 

賀茂那備神社(かもなびじんじゃ)

 御祭神:別雷神

配祀:素盞鳴尊 玉安姫命

島根県隠岐郡隠岐の島町加茂342

隠岐島島後、加茂にある。西郷港から南西に6Km。深い入り江の最深部に位置する。

式内社・賀茂那備神社に比定された古社で、

京都上賀茂の分霊を祀った神社。

 孝謙天皇の御代、天平年中、玉安姫命が当港より隠岐に入り、

当地に祀ったとされている。

 往古は、賀茂を本郷とし、西田、岸浜、箕浦、蛸木を枝郷として

それぞれの氏神である、切明社、厳島社、花生社、姫宮社を摂社としていたが

いまは、それぞれが独立しているようだ。

 配祀の素盞鳴尊は、宇津宮という地にあった祠を合祀したもの。

『賀茂大明神傳記』に、「家傳云、隠州賀 茂大明神之鎮座者、人皇四十六年代孝謙天皇之御宇天平年 中、玉安姫入到於隠岐國。時十二月三十日、繋於船今之賀 茂浦也。守彼神明來而造営於今之社地也。有鎮座而姫亦給 仕之久矣。終卒於賀茂之客館。無子孫而後里人信敬而祭 之。暦數代而後野津對馬守入渡而此浦領賀茂之邑、而即爲 神職矣。聊因有納貢之違失、而改家徒之筭。其徒其御遺 恨、故不俟其爭而渡丹後國、又不再歸矣。其子過三四年來 而續社職之家。於是家名全矣。今亦野津氏爲神職矣」云々とある。  

【倭名類聚抄 阿波國】

阿波国 名方(のちに名東,名西),板野,阿波,麻殖(おえ),美馬(みま)(のち三好が分出),勝浦,那賀(のち海部が分出)7郡がおかれる。

板野〈伊太野〉郡  松島〈萬都之萬〉 津屋〈都乃也〉 高野〈多加乃〉 小島〈乎之萬〉 井隈〈井乃久萬〉             田上〈多乃加美〉 山下〈也萬乃之多〉 余戸〈アマベ〉 新屋〈ニヒノヤ〉

阿波郡        高井〈多加爲〉 秋月〈安木都木〉 香美〈加々美〉 拜師〈波也之〉 

美馬〈美萬〉郡   蓁原〈波都波良〉 三次〈美須木〉 大島〈於保之萬〉 大村〈於保無良〉 

三好〈美與之〉郡  三繩〈美奈波〉 三津〈美都〉 三野〈美乃〉 

麻殖〈乎惠〉郡   呉島〈久禮之萬〉 忌部〈伊無倍〉 川島〈加波之萬〉 射立〈伊多知〉 

名方西郡      埴土〈波爾〉 高足〈多加之〉 土師〈波之〉 櫻間〈佐久良萬〉 

名方東郡      名方〈奈加多〉 新井〈爾比井〉 賀茂〈加毛〉 井上〈井乃倍〉 八萬〈波知萬〉 殖栗〈惠久利〉 

勝浦〈桂〉郡    篠原〈之乃波良〉 託羅〈多加良〉 新居〈爾比乃井〉 餘戸〈アマ〉 

那賀郡       山代〈也萬之呂〉 大野〈於保乃〉 島根〈之萬禰〉 坂野〈佐加乃〉 幡羅〈波良〉 和泉〈伊豆美〉 和射〈ワサ〉 海部〈加伊布〉  

楽器『筑』

秦で広く行われていたことから秦箏とも呼ばれ,中国大陸西部に興った秦と箏との関係は密接である。

『史記』刺客列伝には、筑の名手高漸離(燕の人)が、筑に鉛を入れて秦の始皇帝になぐりかかったが当たらず、誅殺されたという伝説がある。高漸離が鉛を入れて始皇帝をなぐろうとした筑は、棒状の古制の筑であろう。筑が、燕・斉・趙・楚などで用いられていたことは、『戦国策』『史記』に描かれている。『史記』高祖*本紀には、漢の高祖*(楚の人)は筑を善くし、『西京雑記』(前漢・劉[音欠])にも、高祖*が愛した戚夫人もまた筑を善くしたという。古制の筑は、戦国時代から前漢代にかけて、支配者のみならず民衆にも愛好された楽器であった。

 

九州の筑紫

『隋書』倭国伝の「竹斯」とある。

古事記には「筑紫」「竺紫」、 日本書紀には「筑紫」「竹斯」「竹紫」、万葉集には「豆久紫」と表記されました。「筑紫」という2文字が見られるのは大化2(646)年頃からとされます。

(江戸期の文献の説によると) 「筑紫」とは「西海道」すべてを言うのではなく、「筑前」のみを言うのである。そして、筑前が古来、異国から「大宰府」へ向かう重要な路であったため、それが石畳にて造られていた。それを称して「築石」といい、これがなまって「筑紫」となったのである。石畳の道は筑前の海岸に現存しているという。

筑紫野市原田の式内名神大社筑紫神社の縁起には「往古筑紫の名は当社の神号より起こる」とあり、もともと政治的・軍事的に重要であった福岡平野と筑紫平野の間の三郡山地と背振山地に挟まれた太宰府市、筑紫野市あたりの狭隘部を指す地名であったと考えられます。

「筑紫」の語源は、国の形が「木兎(つく)」に似ているとする説、人命尽神の「尽(つく)」に由来する説、「築石(つくいし)」からとする説、果ての国の「尽(つく)し」とする説など、諸説あります。

「筑前」「筑後」は、「筑紫の国」の北半分が「筑前」、南半分が「筑後」です。「筑豊」は福岡県の中でも、古く「豊の国(現在の大分県)」の領地に属していた地域、接していた地域なので「筑+豊」です。

797年に成立したとされる『続日本紀』の大宝2年(702年)の項に「筑紫七国」(筑後、筑前、肥後、肥前、豊後、豊前、日向)の表現があります。

筑後國風土記に云はく、「筑後國はもと筑前國と合せて、一つの國たりき。... 因りて、筑紫國と曰ひき。後に、両の國に分ちて、前後と為す。」

●土佐日記

六日。澪標(みをつくし)のもとより出(い)でて、難波(なには)に着きて、川尻(かはじり)に入(い)る。みな人々、媼(をむな)、翁(おきな)、額(ひたひ)に手を当てて喜ぶこと、二つなし。

かの船酔(ふなゑ)ひの淡路(あはじ)の島の大御(おほいご)、みやこ近くなりぬといふを喜びて、船底(ふなぞこ)より頭(かしら)をもたげて、かくぞいへる。

いつしかといぶせかりつる難波潟(なにはがた)葦(あし)漕(こ)ぎ退(そ)けて御船(みふね)来(き)にけり

いと思ひのほかなる人のいへれば、人々あやしがる。これが中に、心地悩む船君(ふなぎみ)、いたくめでて、「船酔ひし給(たう)べりし御顔(みかを)には、似ずもあるかな」と、いひける。

 

●澪標 (源氏物語)

「澪標」(みおつくし)は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第14帖。巻名は作中で光源氏と明石の御方が交わした和歌「みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」および「数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」に因む。

●みおつくし(澪標)

「みおつくし(澪標)」というのは、その昔、難波江の浅瀬に立てられていた水路の標識のことです。

 「みお」は、漢字で「澪」または「水脈」と書き、水路という意味です。

 「くし」は漢字で「串」、即ち「杭」の意味です。

難波江につくしを置いた地ゆえに筑紫と呼ばれていたのかもしれません。

(難波江、大阪市の上町台地の西側まで来ていた海域の古称。)  

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