古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 1.古事記・日本書紀のはじまり
古事記・日本書記が編集されたのは8世紀です。日本書紀の在位を逆算すると、神武天皇が即位したのは2600年ほど前になります。縄文人と弥生人が暮らしていた時期になり、東征なんて考えられません。神武天皇の東征はいつごろなのでしょうか?
神話はその先にあります。
古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》
0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から
1.古事記・日本書紀のはじまり
2.邪馬台国の都がどこにあったのか?
3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
4. 天孫降臨は2度あった
5. 日本の神話 国産み
6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊
7. 日本の神話 大国主)
1.古事記・日本書紀のはじまり
古事記は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものであったが、朱鳥元年(686)に天武天皇が崩御し、その修史事業が中断してしまった。そのことを惜しんだ元明天皇は、和銅4年(711年)9月に太安萬侶に命じて編纂させ、和銅5年(712年)に元明天皇に献上されたと成立の経緯を記されている。
一方、日本書記は、成立の経緯を記されておらず、『続日本紀』の記述により成立の経緯が記されている。『続日本紀』によれば、天武天皇は天武十年(681年)三月に川嶋皇子らに命じて、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂させ、養老四年(720年)五月に舎人親王らが『日本紀』を奏上した。
さて、古事記は、明治政府以降、日本の皇国史観として位置付けられているが、南北朝時代まで、その存在を知られていない。元々、天皇の勅命で行った事業であったが、奈良時代の正史『続日本紀』に示されていなかった。南北朝時代の1371年から72年にかけて真福寺(宝生院の前身)の第二世信瑜(しんゆ)の命で、秘蔵されていた『古事記』を僧・賢瑜(けんゆ)に書写させた真福寺本古事記三帖が発見されるまで、『古事記』は一般に知られることはなかったのだ。
その為に、古事記は偽書という説が古くからある。
しかし、江戸時代の国学者・本居宣長(もとおりのぶなが)が約35年を費やして『古事記』註釈の集大成である全44巻の『古事記伝』を著したことで、『日本書紀』と比して冷遇されていた古事記の地位を復興した。特に日本書記の儒教的な「からごころ」がなく、日本古来の「やまとごころ」を重視していることを高く評価している。
明治政府は明治5年太政官布告第342号によって、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔」より神武天皇の即位をもって「紀元」と定め、「紀元節」と称することを定めた。それは西暦紀元前660年に相当します。
さて、この日本書記において、古代の天皇の寿命が異常に長いことから、年次や存在そのものを疑う歴史学者も少なくない。実際、紀元前660年の日本に王朝が存在したとは考えられない。だがしかし、それを持って、日本書記を否定するのは愚かなことであります。
<1-36『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い>
〔『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い〕(第二章 『日本書紀』の実年代HPより)
古事記は、天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶が書き記し、編纂したものであったが、朱鳥元年(686)に天武天皇が崩御し、その修史事業が中断してしまった。そのことを惜しんだ元明天皇は、和銅4年(711年)9月に太安萬侶に命じて編纂させ、和銅5年(712年)に元明天皇に献上されたと成立の経緯を記されている。
第30代敏達天皇、そして用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の時代になると、時代との誤差も小さくなり、崩御の時期の信憑性も増してきます。そこを基準に崩御した時期を列挙すると神武天皇が崩御した時期が推測されます。そこから即位の辛酉年が、181年、241年、301年の3つにしぼり出されます。
この頃、日本は激動の時代であり、邪馬台国の女王卑弥呼が魏国に援軍を求めております。また、この魏国が西洋の船舶製造技と航海術を取り入れた大型帆船が登場し、3世紀後半以降には、渤海・黄海・日本海に多数の航路が生まれました。
<s-01-01 古代舟と帆船の海洋航路の違い>
〔古代舟と帆船の海洋航路の違い〕(風に支えられた渤海船 キッズ日本海学HPより半分使用)
新しい航路は、大量の渡来人を倭国に呼び込み、馬などの家畜も日本に上陸します。
現代のヨーロッパで大量の難民が流入することで多くの問題が発生し、国内が混乱するように、3世紀のゲルマン民族の南下でローマ帝国が滅びたように、日本も多いに混乱したでしょう。
もし、301年に即位したと仮定しますと、丁度、百済からの大量渡来人の時期と重なります。神武の東征は45歳の年に日向を出向し、畝傍山の東南の橿原の地を都と定めて52歳で即位します。
日本書記では、北九州に一ヶ月、安芸に三ヶ月、吉備に三年滞在し、
古事記では、北九州に一年、安芸に七年、吉備に八年滞在し、
日本書記と古事記の差異は、また別の問題としまして、筑紫にやってくる渡来人の為に東へ東へと進出したことになります。しかし、そう考えると、何故ゆえに熊野へ迂回したのでしょうか?
吉備に戻り、大兵力を整えて再び紀の川から奈良盆地へ侵入しなかったのでしょうか。
<1-49 紀の川河口からの航空写真>
〔紀の川河口からの航空写真〕(紀の川 万葉香の悠久の歴史と自然の川 国土交通省HPより)
奈良時代に奈良の物資が紀の川を通じて運び出されます。何も難所である熊野灘を越えて熊野から進入するのは謎です。
この紀の川に付いては、
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/01-7-7dc4.html
をお読み下さい。
そう考えると、神武の東征で神武天皇は大量の兵士も持っていなかったことが伺われます。つまり、民族大移動の大侵略ではなく、その土地を統治する為に征伐戦だったことが判ります。そうなると4世紀に入ろうとする301年に神武天皇の即位は考えられません。
次に181年の即位を考えます。
邪馬台国が神武王朝であるとするなら、神武天皇は60年後に大混乱に陥り、女王卑弥呼に王位を譲ることになります。神功皇后(じんぐうこうごう)を卑弥呼、あるいは台与(臺與)は記紀において尊い方として祀り上げられているのです。つまり、欠史八代(けっしはちだい)の当たりに卑弥呼を登場させない理由が見当たらないのです。この事より邪馬台国と神武王朝は別の国であったと判ります。
では、神武王朝の国名は何であったかと言えば、『ナラ』でありました。
漢字で書くと、『奴羅』あるいは『奴国』であります。
奴国は、邪馬台国以前に倭国の王を認められた国の名前であり、伊都国に一度滅ぼされた後に、邪馬台国に所属する奴国と邪馬台国に敵対する狗奴国など多くの国に分裂します。
また、一説には、「倭奴国」は、「倭」=イ、「奴」=トと呼び、伊都国自身も奴国を名乗っていたと言われています。
さて、邪馬台国の南にある狗奴国を治めていたのは、狗古智卑狗(くこちひこ)という官の王でした。クコチはククチ=久々知=鞠智=菊池と変化して、菊池彦ではないかと言われています。しかも『魏書東夷伝』に登場する狗奴国の官は、王卑弥弓呼より先に記されていることから、かなりの実権を握っていたと想像されています。
「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王」 -- 『魏書』東夷伝
では、狗奴国がどこにあったかを検証しますと、
神武天皇の東征で日向から大和までを平定しました。そして、熊野で家臣となった高倉下(たかくらじ)は、丹の国(丹波・若狭)から越の国(越後)、さらに出雲の国まで平定したようです。
もしも、神武天皇が181年に即位したと仮定すると、
邪馬台国は九州の一部しか領土がなく、九州南部から越後までを支配する神武王朝と戦っていたことになります。もちろん、60年間で勢力図が変わったと仮定することもできますが、『魏書東夷伝』には、邪馬台国が狗奴国に奪われた領土を取り返したという記述がないことが、そうでない事を物語っています。
つまり、神武天皇の即位は、241年で邪馬台国と神武王朝は別の国であることが推察されるのです。卑弥呼が魏国に援軍を要請した248年は、即位から7年足らずであり、畿内を平定している過程であり、神武天皇の力は未知数でした。ならば、神武天皇の父であるウガヤフキアエズが存命であったと考えれば、狗奴国の中心は奈良ではなく、南九州地方ということになります。こうなると日本海側を支配する邪馬台国と瀬戸内海側を治めた狗奴国の戦いの構図が見事に浮かび上がってきます。
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