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古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 瀬織津姫④瀬織津姫とかぐやの里

かぐや姫の里、それはどこにあったのでしょうか?

竹は今ではどこでもある木でありますが、古来は南洋の植物でわざわざ持って来て育てました。誰もが気軽に持っているかごなどの竹細工は、貴重な技術者のワザだったのです。

瀬織津姫 目次
瀬織津姫(1)大三島の大山積神に消された瀬織津姫 
瀬織津姫(2)瀬織津姫の呪い、それとも天照大神の呪い? 
瀬織津姫(3)瀬織津姫とめぐりめく運命の姫たち
瀬織津姫(4)瀬織津姫とかぐやの里

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〔歴史館はこちらへ〕

 瀬織津姫(3)瀬織津姫とめぐりめく運命の姫たちへ戻る

.瀬織津姫とかぐやの里

かぐや姫の翁は、大筒木垂根王が最も有力と考えられております。

大筒木垂根王は京都府京田辺市の普賢寺(朱智荘)・興戸・飯岡・三山木(佐賀荘)の村々を合わせた「大筒木郷」の地方の長と考えられ、垂根は「竹の根」、筒木は竹と月を連想させます。

現在の近鉄三山木駅の少し南寄りに大筒城佐賀冠者旧館地があり、戦前まで多くの人が竹細工をおこなっておりました。竹細工と言うと日本全国にあるように思われますが、竹は元々南方植物であり、めったに花が咲かない為に、畿内や東北まで竹が生育するのは人の手で運ばれたと考えるしかありません。

時期は特定できませんが、青森県青森市大字三内字丸山にある三内丸山遺跡(「縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡)から竹かごが出土しており、竹細工の発祥の地である隼人の故郷・薩摩半島から全国へ持ち込まれたと考えられます。

推古4年(596年)、聖徳太子が道後来浴の折、付近一帯に広がる竹林を見て、住民に竹材の組編みを教えたのが始まりと言い伝えられ、6世紀には一般的にあったと考えられます。

竹細工と言えば、『かごめかごめ』の歌が有名です。

「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?」

籠目は六芒星を表すとか言われますが、籠目は「神具女」(かぐめ)若しくは「神宮女」(かぐめ)という説もあります。しかし、神具の姫はかぐや姫ですから、籠の中の鳥は迦具夜比売命を差しているのかもしれません。

浦島太郎に登場する鶴は翁、亀は瀬織津姫の妹と言われ、浦島太郎は玉手箱を開けてに翁となり、瀬織津姫の妹は竜宮城の乙姫です。竜宮城というくらいですから龍神の住処であり、大三島には龍神が祀られており、四国霊場八十八ヶ寺の第55番元札所 大山祇神社の付近にあったと言われる大山祇神社には大通智勝如来を祀る神宮寺があり、寺の山号は「月光寺」と呼ばれていました。そう、古代大山祇神社の地は竜宮城であり、月の都だった訳です。

瀬織津姫の都であった竜宮城は愛媛にあり、浦島太郎の老いた姿が住吉明神と同じと言われ住吉の翁です。

天の羽衣伝説によると、

月の都から天女として瀬織津姫は天照大神(ニギハヤヒ)と共に畿内に降臨しますが、翁に羽衣を隠されて、現世に留まります。しかし、翁は自分たちの子供ではないと瀬織津姫を畿内から放り出します。穢れた瀬織津姫は月の都に帰ることもできず、丹波(タニワ)に逃れて泣き過ごしました。丹波(タニワ)の人々は、そんな瀬織津姫を神具の姫と祭り上げ、新たな月の都として丹波(タニワ)王国に生まれ変わったのです。

大筒木垂根王は丹波(タニワ)王国の一族であり、中でも天皇家に多くの姫を輩出した息長氏は、拠点を近江の米原当たりに定め、丹波(現在の但馬、丹波、丹後)、若狭、越(加賀・越前)、近江、伊勢、尾張と淀川水域に大きな影響力を持っていました。

また、舒明天皇の和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)といい、母の糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)が息長氏であったことを物語っているように系図に従うのであれば、糠手姫皇女の父は第30代敏達天皇で、母が伊勢大鹿首小熊の女が息長氏となります。

しかし、『姓氏録』未定雑姓右京にあげられる大鹿首氏については「津速魂命三世の孫、天児屋根命の後なり」とありますから、そうなると中臣連の祖神となってしまいます。

意富富等王を祖とする八氏族は息長氏・坂田氏・三国氏・酒人氏・波多氏・山道氏・筑紫の末多氏・布勢氏とあり、また、継体支持勢力として、和邇(わに)氏、物部氏、大伴氏あるいは阿部氏など、また近江、越前、尾張、秦氏などの渡来人、宇土半島の肥(火)君一族などあげられます。一般的には認知されていませんが、蘇我氏も継体支持勢力に入れても構わないでしょう。

名は体を表しますが、古代の系図は改ざんが激しく、奇々怪々の世界で摩訶不思議であります。

かぐや姫が登場する時代は、壬申の乱(西暦672年)の後と言われ、その理由がかぐや姫に求婚をした名のある五人の貴公子が、石作皇子(いしづくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、左大臣:阿倍御主人(さだいじん:あべのむらじ)、大納言:大伴御行(だいなごん:おおとものみゆき)、中納言:石上麻呂足(ちゅうなごん:いそのかみまろたり)の五人であり、彼らは皆、大海人皇子側についた者たちで、大宝律令の701年には高い位をもらっていたからです。

江戸時代の加納諸平という学者の書いた「竹取物語考」では、

石作皇子ー=丹比真人島、

車持皇子ー=藤原朝臣不比等、

左大臣:阿倍御主人ー=阿部朝臣御主人、

大納言:大伴御行ー=大伴宿禰御行、

中納言:石上麻呂足ー=石上朝臣麻呂、

以上の5人と比定して、帝を707年に二十五才で夭折した繊細で感性豊かな文武天皇とみています。

一説には、かぐや姫は「天の香具山(かぐやま)」を象徴するものだというものもあります。

天の香具山と言えば、

「春過ぎて夏来にけらし 白たえの衣干すてふ 天の香具山」 持統天皇

(はるすぎて なつきにけらし しろたえの ころもほすちょう あめのかぐやま)

直訳:春がすぎて夏がきたようだ 白妙の衣が干されているという 天の香久山よ

これは香倶山の曽我氏ゆかりの神社の神官や巫女たちの着ている白装束が、洗濯されて干されている情景でありますが、香具山は神の山ですから、衣を干すという行為が禁忌に触れます。

つまり、天武朝の春が来たと思っていたら、私(天智朝)の夏がやってきて、神の山をいただけたようだという政権交代を歌っているのではないでしょうか。

いずれにしろ、持統天皇がかぐや姫ではないので割愛します。

観音寺(かんのんじ)は、京都府京田辺市普賢寺下大門にある真言宗智山派の寺院であり、山号を息長山といいます。本尊は十一面観音が祀られ、別名を普賢寺、大御堂などといいます。

伝承によれば、白鳳年間(7世紀後半)、法相宗の僧・義淵により創建された観心山親山寺が始まりと伝えられ、天平16年(744年)、東大寺初代別当の良弁が中興したと言われ、延暦13年(794年)の火災以後、たびたび火災に遭い藤原氏の援助によりその都度復興されたが、藤原氏の衰退とともに寺運も衰えたそうです。

同じ敷地内に地祇神社があり、創建由緒など不詳で鳥井脇に掲げる案内(京田辺市教育委員会)には、

「正徳元年(1711)の山州名跡志には、大御堂(現在の観音寺)の鎮守として、権現大明神と地主権現の二柱がみえる。 明治初めころは、地主神社と呼ばれていた」

とあります。延喜式神名帳に『山城国綴喜郡 地祇神社』とある式内社とあり、社名は“クニツカミノヤシロ”、“チギ神社”と呼ばれています。

江戸時代の古書には、

・山州名跡志(1711・江戸中期):鎮守社 堂の西山の麓に在り 社艮(北東)に向く 祭る所 権現大明神、同 右社の北に在り 社同上 祭る所 地主権現

・山城名跡巡行志(1754・江戸中期):地祇神社 同村に在り大御堂西山麓 今権現大明神と云。地主権現の社 同村に在り 式内の社也

江戸後期以降の資料には

・神名帳考証(1813江戸後期)・山城国式社考?・大日本史神祇志(1873・明治初):祭神については記載なし

・神社覈録(1870・明治初):祭神詳ならず(大己貴命は信がたい)

・特選神名牒(1876・明治前期):祭神不詳

・山城綴喜郡誌(1908・明治末):御霊天皇と称して継体天皇を祀り、山王権現と称して神功皇后を祠れり。

などはっきりしないのですが、山城綴喜郡誌には興味深いものがあります。

式内社調査報告は「現在の祭神、活気長足比売(オキナガタラシヒメ=神功皇后)・大国主命・大山祇命とは、上記諸説を集積したものであろう」と記載されているそうです。

お寺の南西方約3kmの山中(京田辺市山王)に鎮座する朱智神社(主祭神:迦爾米雷王,カニメイカヅチ)が当地一帯の総鎮守社であり、当地一帯が息長氏あるいは神功皇后と関係深いことからとも思われることから活気長足比売(オキナガタラシヒメ)を神功皇后としたと思われます。

 

かぐや姫の里と言われる京田辺ですが、当時、都のあった飛鳥京か藤原京から大和国の京田辺などのかぐやの里へ通うのは不可能であり、讃岐と名付けられた神社がある大和国広瀬郡散吉郷(現在の広陵町)がかぐやの里であると昭和二十九年に大阪市立大学講師塚原鉄雄氏が発表しました。

飛鳥京と藤原京の位置に示し、大筒木郷と笠縫邑を落とすと、大筒木郷は藤原京から40km近い道のりを行き来することになり、これは大変です。

聖徳太子は斑鳩と飛鳥京を馬で通勤していたと云われ、奈良湖の湖畔を回って田原本町(笠縫神社)を通って約20km程度の飛鳥京を目指したと思われます。そう考えると40km程度の道のりも通えないとは言えません。

<瀬織04-02 藤原京と京田辺の位置関係>

0402

<瀬織04-03 藤原京と飛鳥京>

0403

〔古代史百科事典 道路より〕

 

江戸時代までこの広陵町は、大和国広瀬郡散吉郷と『和名抄』(930年)に記載されており、讃岐と散吉は同音・同意で同じと考えられます。

『竹取物語』の冒頭に「今は昔、竹取の翁というものありけり。名をばさぬきの造となむいひける」とあり、竹取翁の名前は「讃岐造(さぬきのみやつこ)」と書かれています。翁は讃岐村の長であることがわかります。

讃岐は18代履中天皇の妃の兄にあたる阿波忌部族の一派であった天富命(あめのとみのみこと)の孫である鷲住王(わしずみおう)が、阿波国の脚咋別(あしくいわけ)(海部郡海陽町宍喰)の始祖となったのち、善通寺市大麻町付近に出向き、「大麻神社」を再興し、飯野山(讃岐富士)の近くに居を構えて讃岐国造になったとされています。

それ以前の善通寺市大麻町の式内社「大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」という記述も見られ、古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の1つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈され、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったとあり、讃岐が竹細工に深い因縁があることが伺われます。

岩波・新潮・講談社の「竹取物語研究書」には、奈良県北葛城郡広陵町の小字(こあざ)は「笠神」であり、讃岐神社(広陵町)と笠神との間には「笠」なる村が存在し、古語拾遺の「崇神天皇」条に登場する笠縫邑(かさぬいのむら)とあったと思われます。讃岐忌部氏と深い関係が伺われ、大嘗祭などに使用する笠を献上していたのかしれません。

ところで物語では、三室戸斎部秋田(みむろとのいんべのあきた)という人を呼んで『かぐや姫』と名付けさせています。斎部は「忌(いむ)」が「ケガレを忌む」すなわち「斎戒」を意味する古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族である忌部氏(いんべうじ)、のち斎部氏(いんべうじ)のことで、文中に堂々と登場しているのですから、斎部氏との関係を今更に疑う必要もありません。

作中の三室は平安時代の歌人・在原業平や能因法師の歌など、多くの和歌に詠まれていることでも知られる奈良県斑鳩町の『三室山』が有力であります。古来から神の鎮座する山とされており、別名を神南備山とも、三諸山とも呼ばれています。聖徳太子が斑鳩宮を造営するにあたり、飛鳥の産土神をこの地に勧請されており、『かぐや姫』の命名に当たって呼ばれたのも不思議な話ではありません。

 

さて、この広陵町の西には天武天皇も崇拝した龍田大社があります。

アニメ・漫画『ちはやぶる』で読まれた

ちはやぶる 神世も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは(在原業平 17番)

で有名な龍田大社です。

龍田大社は祭神を天御柱命(志那都比古神)と国御柱命(志那都比売神)の2柱を祀り、別名を龍田神・龍田風神とも言います。社伝によると、崇神天皇の御代に凶作が続いたとき、夢でこの風神のお告げをうけて創建され、毎年行われる風鎮祭は、天武天皇(675年)に始まると伝えられる由緒を持っています。

摂社には、神武天皇の即位前にまで遡るこの土地の氏神「龍田比古命」(たつたひこのみこと)と「龍田比売命」(たつたひめのみこと)が祀られています。古くから五穀豊穣・航海安全に霊験ありとして崇敬を集めており、瀬織津姫の龍女神と同じ信仰、同じ龍神姫が祀られております。

龍田大社の俯瞰図を見ると、

<瀬織04-01 龍田大社俯瞰図>

0401

龍田大社に入ると「拝殿」であり、正面に見えるのが「祝詞殿」で、奥に「本殿」です。祝詞殿の両脇には5つの摂社末社が祀られ、末社3社は、上座から天照大御神と住吉大神、枚岡大神と春日大神、高望王のお妃が並びます。奥側の摂社2社には、上座から龍田比売命と龍田比古命が祀られていることがよく判ります。

中臣大祓詞

 (のこ)れる罪は不在(あらし)と、祓(はら)ひ賜(たま)ひ、清(きよ)め賜ふ事を、

 高山の末(すゑ)、短山(ひきやま)の末より、佐久那太理(さくなだり)に落瀧(おちたぎ)つ速川(はやかは)の瀬に坐す瀬織津比咩といふ神、大海原に持出(もちいたし)なん。

 如此(かく) 持出なは、荒塩の塩の八百道(やほち)の八塩道(やしほち)の、塩の八百会(やほあひ)に坐す速開都比咩(ハヤアキツヒメ)といふ神、持(もち)可可呑(かかのみ)てむ。如此(かく)可可呑(かかのみ)ては、気吹戸(いぶきど)に坐す気吹戸主(いぶきどぬし) といふ神、気吹(いぶき)(はなち)てむ。如此(かく)気吹放ては、根国(ねのくに)底国(そこのくに)に坐す速佐須良比咩(はやさすらひめ)といふ神、持(もち)佐須良比(さすらひ)(うしなひ)てむ。

祓戸四神

四神:瀬織津姫は川の神(水神)、速開都姫は海神、気吹戸主は風神、速佐須良姫は地底(霊界)の神と位置づけられている。

【龍田大社の白龍神社】

風神を祀る龍田大社境内に清らかな水の聖域があり、龍田大社末社の白龍神社があります。龍田大明神の使いとして崇められる白龍大神を祀ります。

【兼六園/金沢神社の龍神祝詞】

高天原に坐し坐して天と地に御働きを現し給う龍王は

大宇宙根元の御祖の御使いにして一切を産み一切を育て

萬物を御支配あらせ給う王神なれば

一二三四五六七八九十の

十種の御寶を己がすがたと変じ給いて

自在自由に天界地界人界を治め給う

龍王神なるを尊み敬いて

眞の六根一筋に御仕え申すことの由を受け引き給いて

愚かなる心の数々を戒め給い

一切衆生の罪穢れの衣を脱ぎさらしめ給

 萬物の病災をも立所に祓い清めて

萬世界も 御親のもとに治めせしめ給へと

祈願奉ることの由をきこしめして

六根の内に念じ申す大願を成就なさしめ給へと

恐み恐み白す

(龍神を憂い、龍神を祀る。切ない祈りが祝詞にあります。)

龍田大社の風鎮祭と同じ頃に始められたのが、廣瀬大社の廣瀬大忌祭であり、『日本書紀』天武天皇4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとあります。これが4月・7月に行われる廣瀬大社の廣瀬大忌祭の起源とされてあります。

廣瀬大社(奈良県北葛城郡河合町川合99)は文字通り、ここは大和川の支流である高田川、葛城川、曽我川、飛鳥川、寺川、初瀬川、布留川、佐保川などの河川が合流して大和川となる所であります。祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)を主祭神とし、相殿に櫛玉命(くしたまのみこと/饒速日命)、穂雷命(ほのいかづちのみこと)を祀られていまするが、本当の祭神は「長髄彦(ながすねひこ)である」とする説も残されています。

その裏付けとなるのが、広瀬神社(廣瀬大社)の斎主に大山中・曽根連韓犬(そねのむらじからいぬ)が任じられたということです。

曽根連(そねのむらじ)は、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)より出た六世孫の子孫とされる広瀬大社の古い神家であり、曽根氏(そねうじ)や中曽根氏(なかそねうじ)の発祥地名の元とされる古代の豪族であります。

曽根氏が祀る神社が大阪府泉大津市曽根町にある曾禰神社であり、祭神は饒速日命、伊香我色雄命、素盞嗚尊、表筒男命、中筒男命、 底筒男命、息長帶姫命とあります。

龍田大社・廣瀬大社共に息長氏と縁が深そうなことが判ります。

龍田大社の「風神祭」、廣瀬大社の「水神祭」、これに往馬大社の「火神祭」を加えて、古来より朝廷の崇敬を受けてきました。

 

【往馬大社】

往馬坐伊古麻都比古神社(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)

往馬大社(いこまたいしゃ)とも称し、生駒神社(いこまじんじゃ)と通称される。

住所:奈良県生駒市壱分町1527-1

主祭神:伊古麻都比古神

     伊古麻都比賣神

     氣長足比賣命

     足仲津比古命

     譽田別命

     葛城高額姫命

     息長宿禰王

摂社:祓戸社(瀬織津比賣神(せおりつ ひめ))

摂社:生駒戎神社(事代主神(ことしろぬし))

摂社:南末社(伊奘諾社(伊邪那岐命・伊邪那美命)、住吉社(底筒男命・中筒男命・表筒男命)、猿田彦社(猿田彦神)、稲荷社(宇迦之御魂神))

摂社:水神社(水分神)

摂社:北末社(豊受比賣社(豊受比賣神)、仁徳天皇社(大雀神)、神明社(天照大神)、春日社(天児屋根命)、大山袛社(大山袛神))

英霊殿

観音堂

伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神は古代より火を司る神として信仰されている。大嘗祭で用いられる浄火を起こす道具である火燧木は代々当社が献上することとなっており、今上天皇の大嘗祭においても当社の火燧木(ひきりぎ)が使用されています。

往馬大社も息長氏と縁が深く、摂社に祓戸社の瀬織津姫を祀っていました。

大祓い(おおはらい)と言えば、『中臣大祓詞』が有名ですが、中大兄皇子(後の38代天智天皇、626年~671年)と中臣鎌足(614年~669年)が645年から646年にかけて大化の改新を進め、お祓いは禁止されました。

そして、朝廷が飛鳥より近江大津宮に移った天智天皇八年(669年)、天皇の勅願により中臣朝臣金連【かねのむらじ】がこの地に社殿を造り、『祓戸の大神三神』を祭ったのが『中臣大祓詞』の始まりです。

40代天武天皇(631年?~686年)の時に国家神道が確立され、伊勢神宮の天照大神を頂点として日本の隅々にまで神社を系統付けました。また母の37代斉明天皇(594年~661年)が道教に関心を示し、その他の禁止されていたお祓いが祓除(はらえ)として国家行事にまで昇華していきました。

42代文武天皇(683年~797年)の701年に大宝律令が完成しまします。6月と12月の晦日に朱雀門前の広場に皇子・大臣・官僚などが集まり、中臣氏が取り仕切る中臣神道として大祓えが始まり、6月の大祓えを夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓えを年越の祓(としこしのはらえ)といいました。この呼び方は明治政府によって一時禁止されましたが、宮中では今でも行事が残っています。

かぐや姫の里を調べてみると、

大筒木垂根王が拠点とした京田辺「大筒木郷」、

讃岐造に縁深い大和国広瀬郡散吉郷「笠縫邑」、

と、どちらも里も息長氏と縁が深く、龍田大社、廣瀬大社、往馬大社の3社も瀬織津姫と無関係とはいえません。ただ、淀川水系に近い大筒木郷は息長氏の勢力下であり、大和水系は忌部氏の勢力下であったという点です。

息長氏が近江を中心し、丹波・伊勢・淀川水系を支配地にしているのに対して、忌部氏は出雲忌部・紀伊忌部・阿波忌部・讃岐忌部と分派しており、笠縫邑は讃岐忌部と縁が深いことが伺われます。しかし、忌部氏は天太玉命を祖とする神別(天神)の古代氏族と言われるように、様々な式典に重要な役割を持つ一族であり、イザナギと共にした海の民の子孫と思われます。

ニギハヤヒが瀬織津姫を連れて畿内に入り、『はごろも伝説』に残されるように畿内から追い払われ、但馬・丹波・丹後をあわせた古代丹波(タニハ)に逃れ、再び祀られた経緯から、古代丹波の息長氏と忌部氏の結び付きも生まれていたと推測されます。

 

かぐや姫の原型は瀬織津姫(ニギハヤヒの妻)であり、大王(天皇)に同情しつつも追い出されて、古代丹波(タニハ)の月の都に帰ったというのが伝承で、浦島太郎、はごろも伝説、かぐや姫に登場する翁は、同一人物のように思われます。

その伝承が物語になったのは、藤原不比等が蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)を追い落とし、蘇我、物部、息長、忌部など旧来の一族を排除し、時の名声を占有したからに違いありません。特に藤原道長の時代には、「欠けることもない望月(満月)」と豪語していたと言うのは有名な話であります。

平安時代初期、中臣氏の勢力の伸長下し、祭祀(さいし)執行の職権を縮小されつつありました。そこで旧来の祭祀氏族斎部氏である忌部広成は平城天皇に『上書古語拾遺初旬』というを提出したのであります。

『上書古語拾遺初旬』(※1)には、

「けだし上古之世まだ書き残す文字有らざりしならん。口々に次々と相い伝えたるものならん」

と太安万侶の古事記を説明しております。

安万侶の古事記表文に、

「諸家の持ちたる処の帝記及び本辞はみな、まちまちで正実とは違ってきているので、旧辞を検討して誤っている処は削除して正しき記録をせんとす」

と初めに書き、

「阿礼に勅語して帝皇の日つぎや先代の旧辞を誦み習わせしめるは、名は文命より高く、徳は天乙にまされりと謂うべし、ここに旧辞の誤りあるのをその侭にしては、惜しくも先代のことごとくが間違って伝わらんことを惧れ、あんじてよって先紀の錯誤している点をも統一訂正し、和銅四年(711九月十八日をもって撰録して献上いたすものなり」

と書きしめしております。

(旧辞とは古い書体を意味し、本辞とは当時の使用文字である。)

この古語拾遺には古事記の誤りを改めております。

たとえば、中臣連の祖は天児屋命(あめのこやねのみこと)とあり、系図を辿ると津速産霊神に遡ります。しかし、古語拾遺では中臣朝臣祖と読めます。

どういうことなのでしょうか?

神産靈神(カミムスビ)は『古事記』では神産巣日神、『日本書紀』では神皇産霊尊、『出雲国風土記』では神魂命と書かれております。天地開闢の時、天之御中主神(あめのみなかぬし)・高皇産霊神(たかみむすび)の次に高天原に出現し、造化の三神の一とされています。

まとめると、

津速産霊神(『記・紀』には登場しない) ・・・ 天児屋命 ・・・ 中臣氏

天御中主神(古事記で最初に出てくる神)・・・ 思金神

高皇産霊神(高天原の根本神)      ・・・ 布刀玉命 ・・・ 忌部氏

神皇産霊神(出雲系の根本神)・・・少彦名神・ 天忍日命 ・・・ 大伴氏

宇摩志阿斯訶備比古遅神(生命の根源を司る神)・萬幡豊秋津師比売命

天之常立神(高天原を恒久に守る神)・・・・・『神代七代』

と、こんな感じです。

しかし、古語拾遺では津速産霊神(ツハヤムスビ)が天御中主神を始源神となっており、高皇産霊神を長男、津速産霊神を次男、神皇産霊神を三男として天中に存在したとされているのです。中臣氏から別れた藤原氏であるのに、本家の中臣氏・忌部氏・大伴氏すべてが没落しているのであります。

『延喜式 卷八 神祇八 祝詞』(2)で、

「祭祀の詞は忌部氏、諸(もろもろ)の祭には中臣氏が祝詞せよ。」

と読まれているように、中臣氏・忌部氏共に宮中で無くてならない存在であるのに、不遇を憂いていたことが『上書古語拾遺初旬』から読みとれるのであります。

『かぐや姫』が出典された背景には、忌部氏をはじめとする排斥された多くの部族の怨みつらみがあり、作者は作中を通して「人の怨みつらみもあるまじ」となりたかったのでしょう。

 

【参考資料】

(※1)古語拾遺 一卷 加序  從五位下齋部宿禰廣成 撰

 蓋聞 上古之世 未有文字 貴賤老少 口口相傳 前言往行 存而不忘 書契以來 不好談古 浮華競興 還嗤舊老 遂使人歴世而彌新 事逐代而變改 顧問故實 靡識根源 國史家牒 雖載其由 一二委曲 猶有所遺 愚臣不言 恐絶無傳 幸蒙召問 欲攄蓄憤 故録舊説 敢以上聞 云爾

 

  一聞 夫 開闢之初 伊奘諾伊奘冉二神 共爲夫婦 生大八州國 及山川草木 次 生日神月神 最後 生素戔鳴神 而素戔鳴神 常以哭泣爲行 故 令人民夭折 青山變枯 因斯 父母二神 勅曰 汝甚無道 宜早退去於根國矣

 

  又 天地割判之初 天中所生之神 名曰 天御中主神 次 高皇産靈神 【古語 多賀美武須比 是 皇親神留伎命】 次 神産靈神 【是 皇親神留彌命 此神子天兒屋命 中臣朝臣祖】 其高皇産靈神所生之女 名曰 栲幡千千姫命 【天祖天津彦尊之母也】 其男 名曰 天忍日命 【大伴宿禰祖也】 又男 名曰 天太王命 【齋部宿禰祖也】 太玉命所率神 名曰 天日鷲命 【阿波國忌部等祖也】 手置帆負命 【讚岐國忌部祖也】 産狹知命 【紀伊國忌部祖也】 櫛明玉命 【出雲國玉作祖也】 天目一箇命 【筑紫伊勢兩國忌部祖也】

 

  於是 素戔鳴神 欲奉辭日神 【天照大神】 昇天之時 櫛明玉命 奉迎 獻以瑞八坂瓊之曲玉 素戔鳴神 受之 轉奉日神 仍 共約誓 即感其玉  生 天祖吾勝尊 是以 天照大神 育吾勝尊 特甚鍾愛 常懷腋下 稱曰腋子 【今俗 號稚子 謂和可古 是 其轉語也】

 

  其後 素戔鳴神 奉爲日神 行甚無状 種種凌侮 所謂 毀畔 【古語 阿波那知】 埋溝 【古語 美曾宇美】 放樋 【古語 斐波那知】 重播 【古語 志伎麻伎】 刺串 【古語 久志佐志】 生剥 逆剥 屎戸 【如此天罪者 素戔鳴神 當日神耕種之節 竊往其田 刺串相爭 重播種子 毀畔 埋溝 放樋 當新嘗之日 以屎塗戸 當織室之時 逆剥生駒 以投室内 此天罪者 今中臣祓詞也 蠶織之源 起於神代也】

 

  于時 天照大神赫怒 入于天石窟 閉磐戸而幽居焉 爾乃六合常闇 晝夜不分 群神愁迷 手足罔措 凡厥庶事 燎燭而弁 高皇産靈神 會八十萬神於天八湍河原 議奉謝之方

 

  爰 思兼神 深思遠慮 議曰 宜令太玉神 率諸部神造和幣 仍 令石凝姥神 【天糠戸命之子 作鏡遠祖也】 取天香山銅 以鑄日像之鏡 令長白羽神 【伊勢國麻續祖 今俗 衣服謂之白羽 此縁也】 種麻 以爲青和幣 【古語 爾伎弖】 令天日鷲神與津咋見神穀木種殖之 以作白和幣 【是木綿也 已上二物 一夜蕃茂也】 令天羽槌雄神 【倭文遠祖也】 織文布 令天棚機姫神織神衣 所謂和衣 【古語 爾伎多倍】 令櫛明玉神作八坂瓊五百筒御統玉 令手置帆負彦狹知二神以天御量 【大小斤雜器等之名】 伐大峽小峽之材 而造瑞殿 【古語 美豆能美阿良可】 兼作御笠及矛盾 令天目一筒神作雜刀斧及鐵鐸 【古語 佐那伎】 其物既備 掘天香山之五百筒真賢木 【古語 佐禰居自能禰居自】 而上枝懸玉 中枝懸鏡 下枝懸青和幣白和幣 令太玉命捧持稱讚 亦 令天兒屋命相副祈 又 令天鈿女命 【古語 天乃於須女 其神強悍猛固 故以爲名 今俗 強女謂之於須志 此縁也】 以真辟葛爲 以蘿葛爲手繦 【蘿葛者 比可氣】 以竹葉飫憩木葉爲手草 【今 多久佐】 手持着鐸之矛 而於石窟戸前覆誓槽 【古語 宇氣布禰 約誓之意】 舉庭燎 巧作俳優 相與歌舞

 

  於是 從思兼神議 令石凝姥神鑄日像之鏡 初度所鑄 少不合意 【是 紀伊國日前神也】 次度所鑄 其状美麗 【是 伊勢大神也】 儲備既畢 具如所謀 爾乃 太玉命 以廣厚稱詞啓曰 吾之所捧寶鏡明麗 恰如汝命 乞 開戸而御覽焉 仍 太玉命天兒屋命 共致其祈焉 于時 天照大神 中心獨謂 比吾幽居 天下悉闇 群神何由如此之歌樂 聊開戸而窺之 爰 令天手力雄神引啓其扉 遷座新殿 則 天兒屋命太玉命 以日御綱 【今 斯利久迷繩 是 日影之像也】 迴懸其殿 令大宮賣神侍於御前 【是 太玉命 久志備所生神 如今世内侍善言美詞 和君臣間 令宸襟悅懌也】 令豐磐間戸命櫛磐間戸命二神守衛殿門 【是 並太玉命之子也】

 

  當此之時 上天初晴 衆倶相見 面皆明白 伸手歌舞 相與稱曰 阿波禮 【言天晴也】 阿那於茂志呂 【古語 事之甚切 皆稱阿那 言衆面明白也】 阿那多能志 【言伸手而舞 今指樂事謂之多能志 此意也】 阿那佐夜憩 【竹葉之聲也】 飫憩 【木名也 振其葉之調也】 爾乃 二神倶請曰 勿復還幸 仍 歸罪過於素戔鳴神 而科之以千座置戸 令拔首髮及手足爪以贖之 仍 解除其罪 逐降焉

 

  素戔鳴神 自天而降到於出雲國簸之川上 以天十握釼 【其名 天羽羽斬 今 在石上神宮 古語 大虵謂之羽羽 言斬虵也】 斬八岐大虵 其尾中得一靈釼 其名 天叢雲 【大虵之上 常有雲氣 故以爲名 倭武尊東征之年 到相模國 遇野火難 即 以此釼薙草得免 更名 草薙釼也】 乃 獻上於天神也 然後 素戔鳴神 娶國神女 生 大己貴神 【古語 於保那武智神】 遂就於根國矣

 

  大己貴神 【一名大物主神 一名大國主神 一名大國魂神者 大和國城上郡大三輪神是也】 與少彦名神 【高皇産靈尊之子 遁常世國也】 共戮力一心 經營天下 爲蒼生畜産 定療病之方 又 爲攘鳥獸昆虫之灾 定禁厭之法 百姓至今 咸蒙恩賴 皆有效驗也

 

  天祖吾勝尊 納高皇産靈神之女 栲幡千千姫命 生 天津彦尊 號曰皇孫命 【天照大神高皇産靈神二神之孫也 故曰皇孫也】 既而 天照大神高皇産靈尊 祟養皇孫 欲降爲豐葦原中國主 仍 遣經津主神 【是 磐筒女神之子 今 下總國香取神是也】 武甕槌神 【是甕速日神之子 今 常陸國鹿嶋神是也】 駈除平定 於是 大己貴神及其子事代主神 並皆奉避 仍 以平國矛 授二神曰 吾以此矛 卒有治功 天孫 若用此矛治國者 必當平安 今我將隱去矣 辭訖遂隱 於是 二神 誅伏諸不順鬼神等 果以復命

 

  于時 天祖天照大神高皇産靈尊 乃相語曰 夫 葦原瑞穗國者 吾子孫可王之地 皇孫就而治焉 寶祚之隆 當與天壤无窮矣 即 以八咫鏡及薙草劍二種神寶 授賜皇孫 永爲天璽 【所謂神璽釼鏡是也】 矛玉自從 即 勅曰 吾兒視此寶鏡 當猶視吾 可與同床共殿 以爲齋鏡 仍 以天兒屋命太玉命天鈿女命 使配侍焉 因 又勅曰 吾則起樹天津神籬 【神籬者 古語 比茂侶伎】 及天津磐境 當爲吾孫奉齋矣 汝天兒屋命太玉命二神 宜持天津神籬 降於葦原中國 亦爲吾孫奉齋焉 惟 爾二神 共侍殿内 能爲防護 宜以吾高天原所御齋庭之穗 【是 稻種也】 亦當御於吾兒矣 宜太玉命率諸部神供奉其職 如天上儀 仍 令諸神亦與陪從 復勅大物主神 宜領八十萬神 永爲皇孫奉護焉 仍 使大伴遠祖天忍日命 帥來目部遠祖天槵津大來目 帶仗前驅

 

  既而且降之間 先驅還白 有一神 居天八達之衢 其鼻長七咫 背長七尺 口尻明曜 眼如八咫鏡 即 遣從神 往問其名 八十萬神 皆不能相見 於是 天鈿女命 奉勅而往 乃 露其胸乳 抑下裳帶於臍下 而向立咲噱 是時 衢神問曰 汝 何故爲然耶 天鈿女命 反問曰 天孫所幸之路 居之者誰也 衢神對曰 聞天孫應降 故 奉迎相持 吾名是猨田彦大神 時 天鈿女命 復問曰 汝應先行 將吾應先行耶 對曰 吾先啓行 天鈿女 復問曰 汝應到何處 將天孫應到何處耶 對曰 天孫當到筑紫日向高千穗槵触之峰 吾應到伊勢之狹長田五十鈴川上 因曰 發顯吾者汝也 可送吾而致之矣 天鈿女命還報 天孫降臨 果皆如期 天鈿女命 隨乞侍送焉 【天鈿女命者 是猿女君遠祖 以所顯神名爲氏姓 今彼氏男女 皆號爲猨女君 此縁也】 是以 群神捧勅 陪從天孫 歴世相承 各供其職

 

  天祖彦火尊 娉海神之女豐玉姫命 生 彦瀲尊 誕育之日 海濱立室 干時 掃守連遠祖天忍人命 供奉陪侍 作箒掃蟹 仍 掌鋪設 遂以爲職 號曰蟹守 【今俗謂之借守者 彼詞之轉也】

 

  逮于神武天皇東征之年 大伴氏遠祖日臣命 督將元戎 剪除兇渠 佐命之勳 無有比肩 物部氏遠祖饒速日命 殺虜帥衆 歸順官軍 忠誠之効 殊蒙褒寵 大和氏遠祖椎根津彦者 迎引皇舟 表績香山之巓 賀茂縣主遠祖八咫烏者 奉導宸駕 顯瑞菟田之徑 妖氣既晴 無復風塵 建都橿原 經營帝宅

 

  仍 令天富命 【太王命之孫也】 率手置帆負彦狹知二神之孫 以齋斧 齋鉏始採山材 構立正殿 所謂 底都磐根仁宮柱布都之利立 高天乃原爾搏風高之利 皇孫命乃美豆乃御殿乎造奉仕也 故 其裔 今在紀伊國名草郡御木 麁香二郷 【古語 正殿謂之麁香】 採材齋部所居 謂之御木 造殿齋部所居 謂之麁香 是其証也

 

  又 令天富命率齋部諸氏 作種種神寶 鏡玉矛盾木綿麻等 櫛明玉命之孫 造御祈玉 【古語 美保伎玉 言祈也】 其裔 今在出雲國 毎年與調物共頁進其玉 天日鷲命之孫 造木綿及麻并織布 【古語 阿良多倍】 仍 令天富命率日鷲命之孫 求肥饒地遣阿波國殖穀麻種 共裔 今在彼國 當大嘗之年 貢木綿麻布及種種物 所以 郡名爲麻殖之縁也 天富命 更求沃壤 分阿波齋部 率往東上 播殖麻穀 好麻所生 故 謂之總國 穀木所生 故 謂之結城郡 【古語 麻謂之總 今爲上總下總二國 是也】 阿波忌部所居 便名安房郡 【今安房國 是也】 天富命 即於其地立太玉命社 今謂之安房社 故 其神戸有齋部氏 又 手置帆負命之孫 造矛竿 其裔 今分在讚岐國 毎年調庸之外 貢八百竿 是其事等証也

 

  爰 仰從皇天二組之詔 建樹神籬 所謂 高皇産靈神産靈魂留産靈生産靈足産靈大宮賣神事代主神御膳神 【已上 今御巫所奉齋也】 櫛磐間戸神豐磐間戸神 【已上 今御門巫所奉齋也】 生嶋 【是 大八洲之靈 今生嶋巫所奉齋也】 坐摩 【是 大宮地之靈 今坐摩巫所奉齋也】

 

  日臣命 帥來目部 衛護宮門 掌其開闔 饒速日命 帥内物部 造備矛盾 其物既備 天富命 率諸齋部 捧持天璽鏡釼 奉安正殿 并懸瓊玉 陳其幣物 殿祭祝詞 【其祝詞文在於別卷】 次 祭宮門 【其祝詞 亦在於別卷】 然後 物部乃立矛盾 大伴來目建仗 開門令朝四方之國 以觀天位之貴

 

  當此之時 帝之與神 其際未遠 同殿共床 以此爲常 故 神物官物 亦未分別 宮内立藏 號日齋藏 令齋部氏永任其職

 

  又 令天富命率供作諸氏造作大幣訖 令天種子命 【天兒屋命之孫】 解除天罪國罪事  所謂天罪者 上既設訖 國罪者 國中人民所犯之罪 其事具在中臣祓詞 爾乃 立靈畤於鳥見山中 天富命 陳幣 祝詞 禋祀皇天 徧秩群望 以答神祇之恩焉 是以 中臣齋部二氏 倶掌祠祀之職 猨女君氏 供神樂之事 自餘諸氏 各有其職也

 

  至于磯城瑞垣朝 漸畏神威 同殿不安 故 更令齋部率石凝姥神裔天目一筒神裔二氏 更鑄鏡造釼 以爲護御璽 是 今踐祚之日 所獻神璽鏡釼也 仍 就於倭笠縫邑 殊立磯城神籬 奉遷天照大神及草薙釼 令皇女豐秋鍬入姫命奉齋焉 其遷祭之夕 宮人皆參 終夜宴樂 歌曰

 

   美夜比登能 於保與須我良爾 伊佐登保志 由伎能與呂志茂 於保與須我良爾 【今俗哥曰 美夜比止乃 於保與曾許志侶茂 比佐止保志 由伎乃與侶志茂 於保與曾許侶茂 詞之轉也】

 

  又 祭八十萬群神 仍 定天社國社及神地神戸 始令貢男弭之調 女手末之調 今神祇之祭 用熊皮鹿皮角布等 此縁也

 

  洎于卷向玉城朝 令皇女倭姫命 奉齋天照大神 仍隨神教 立其祠於伊勢五十鈴川上 因 興齋宮 令倭姫命居焉 始在天上 預結幽契 衢神先降 深有以矣

 

  此御世 始以弓矢刀 祭神祇 更定神地神戸 又 新羅王子 海檜槍來歸 今在但馬國出石郡 爲大社也

 

  至於纏向日代朝 令日本武命征討東夷 仍 枉道詣伊勢神宮 辭見倭姫命 以草薙釼授日本武命而教曰 慎莫怠也 日本武命 既平東虜 還至尾張國 納宮簀媛 淹留踰月 解釼置宅 徒行登胆吹山 中毒而薨 其草薙釼 今在尾張國熱田社 未叙禮典也

 

  至於磐余稚櫻朝 住吉大神顯矣 征伏新羅 三韓始朝 百濟國王 懇致其誠 終無欺貳也

 

  至於輕嶋豐明朝 百濟王貢博士王仁 是河内文首始祖也 秦公祖弓月 率百廿縣民而歸化矣 漢直祖阿知使主 率十七縣民而來朝焉 秦漢百濟内附之民 各以萬計 足可褒賞 皆有其祠 未預幣例也

 

  至於後磐余稚櫻朝 三韓貢獻 奕世無絶 齋藏之傍 更建内藏 分收官物 仍 令阿知使主與百濟博士王仁 計其出納 始更定藏部

 

  至於長谷朝倉朝 秦氏分散 寄隷他族 秦酒公進仕蒙寵 詔聚秦氏 賜於酒公 仍 率領百八十種勝部 蠶織貢調 充積庭中 因賜姓宇豆麻佐 【言 隨積埋益也 所貢絹綿 軟於肌膚 故 訓秦字謂之波陀 仍 以秦氏所貢絹 纏祭神釼首 今俗猶然 所謂秦機織之縁也】 自此而後 諸國貢調 年年盈溢 更立大藏 令蘇我麻智宿禰 檢校三藏 【齋藏 内藏 大藏】 秦氏出納其物 東西文氏勘録其簿 是以 漢氏賜姓 爲内藏大藏 今 秦漢二氏爲内藏大藏主鎰藏部之縁也

 

  至於小治田朝 太玉之胤 不絶如帶 天恩 興廢繼絶纔供其職

 

  至于難波長柄豐前朝 白鳳四年 以小花下 諱 齋部首作賀斯 拜祠官頭 令掌叙王族宮内禮儀婚姻卜筮 夏冬二季御卜之式 始起此時 作斯之胤 不繼其職 陵遅衰微以至今

 

  至于淨御原朝 改天下萬姓 而分爲八等 唯序當年之勞 不本天降之績 其二曰朝臣 以賜中臣氏 命以大刀 其三曰宿禰 以賜齋部氏 命以小刀 其四曰忌寸 以爲秦漢二氏及百濟文氏等之姓 【蓋 與齋部共預齋藏事 因以爲姓也 今 東西文氏 獻祓太刀 蓋亦此之縁】

 

  至大寶年中 初有記文 神祇之簿 猶無明案 望秩之禮 未制其式

 

  至天平年中 勘造神帳 中臣專權 任意取捨 有由者 小祀皆列 无縁者 大社猶廢 敷奏施行 當時獨歩 諸社封税 總入一門

 

  起自天降 洎乎東征 扈從群神 名顯國史 或承皇天之嚴命 爲寶基之鎮衛 或遇昌運之洪啓 助神器之大造 然則 至於録功酬庸 須應預祀典 或未入班幣之例 猶懷介推之恨

 

  況復 草薙神釼者 尤是天璽 自日本武尊愷旋之年 留在尾張國熱田社 外賊偸逃 不能出境 神物靈驗 以此可觀 然則 奉幣之日 可同致敬 而 久代闕如 不修其祀 所遺一也

 

  夫 尊祖敬宗 禮教所先 故 聖皇登極 受終父祖 類于上帝 禋于六宗 望于山川 徧于群神 然則 天照大神者 惟祖惟宗 尊無與二 因 自餘諸神者 乃子乃臣 孰能敢抗 而 今神祇官班幣之日 諸神之後 叙伊勢神宮 所遺二也

 

  天照大神 本 與帝同殿 故 供奉之儀 君神一體 始自天上 中臣齋部二氏 相副奉日神 猨女之祖 亦解神怒 然則 三氏之職 不可相離 而 今伊勢宮司 獨任中臣氏 不預二氏 所遺三也

 

  凡 奉造神殿帝殿者 皆須依神代之職 齋部官 率御木麁香二郷齋部 伐以齋斧 堀以齋鉏 然後 工夫下手 造畢之後 齋部殿祭及門祭訖 乃所御座 而 造伊勢宮及大嘗由紀主基宮 皆不預齋部 所遺四也

 

  又 殿祭門祭者 元 太玉命供奉之儀 齋部氏之所職也 雖然 中臣齋部共任神祇官 相副供奉 故 宮内省奏詞偁 將供奉御殿祭 而中臣齋部候御門 至于寶龜年中 初宮内少輔從五位下中臣朝臣常 恣改奏詞云 中臣 率齋部候御門者 彼省 因循永爲後例 于今未改 所遺五也

 

  又 肇自神代 中臣齋部 供奉神事 無有差降 中間以來 權移一氏 齋宮寮主神司 中臣齋部者 元同七位官 而延暦初 朝原内親王 奉齋之日 殊降齋部 爲八位官 于今未復 所遺六也

 

  凡 奉幣諸神者 中臣齋部 共預其事 而 今大宰主神司 獨任中臣 不預齋部 所遺七也

 

  諸國大社 亦任中臣 不預齋部 所遺八也

 

  凡 鎮魂之儀者 天鈿女命之遺跡 然則 御巫之職 應任舊氏 而 今所選不論他氏 所遺九也

 

  凡 造大幣者 亦須依神代之職 齋部之官 率供作諸氏 准例造備 然則 神祇官神部 可有中臣齋部猨女鏡作玉作盾作神服倭文麻續等氏 而 今唯有中臣齋部等二三氏 自餘諸氏 不預考選 神裔亡散 其葉將絶 所遺十也

 

  又 勝寶九歳 左辨官口宣 自今以後 伊勢太神宮幣帛使 專用中臣 勿差他姓者 其事雖不行 猶所載官例 未見刊除 所遺十一也

 

  一 昔在神代 大地主神 營田之日 以牛完食田人 于時 御歳神之子 至於其田 唾饗而還 以状告父 御歳神發怒 以蝗放其田 苗葉忽枯損似篠竹 於是 大地主神 令片巫 【志止止鳥】 肱巫 【今俗竈輪及米占也】 占求其由 御歳神爲祟 宜獻白豬白馬白鶏 以解其怒 依教奉謝 御歳神答曰 實吾意也 宜以麻柄作桛桛之 乃以其葉掃之 以天押草押之 以鳥扇扇之 若如此不出去者 宜以牛完置溝口 作男莖形以加之 【是 所以厭其心也】 以薏子蜀椒呉桃葉及鹽 班置其畔 【古語 薏玉都須玉也】 仍 從其教 苗葉復茂 年穀豐稔 是 今神祇官 以白豬白馬白鶏 祭御歳神之縁也

 

  前件神代之事 説似盤古 疑氷之意 取信寔難 雖然 我國家神物靈蹤 今皆見存 觸事有効 不可謂虚 但 中古尚朴 禮樂未明 制事垂法 遺漏多矣 方今 聖運初啓 照尭暉於八洲 寶暦惟新 蕩舜波於四海 易鄙俗於往代 改粃政於當年 隨時垂制 流萬葉之英風 興廢繼絶 補千載之闕典 若當此造式之年 不制彼望秩之禮 竊恐 後之見今 猶今之見古矣 愚臣廣成 朽邁之齡 既逾八十 犬馬之戀 旦暮彌切 忽然遷化 含恨地下 街巷之談 猶有可取 庸夫之思 不易徒棄 幸遇求訪之休運 深歡口實之不墜 庶斯文之高達 被天鑑之曲照焉

 

      大同二年二月十三日

 

古語拾遺一卷

 

(※2)延喜式 卷八 神祇八 祝詞 より

祝詞

 凡祭祀詞者 御殿御門等祭 齋部氏祝詞 以外諸祭 中臣氏祝詞

 凡四時諸祭不云祝詞者 神部皆依常例宣之 其臨時祭祝詞 所司隨事修撰 前祭進官經處分 然後行之

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