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古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》瀬織津姫② 

瀬織津姫、それは天照坐皇大御神荒御魂と称される天照大神の妻。

しかし、歴史から忙殺されている水の龍女神であり、呪いと祟りをまき散らす悪霊神である。その謎の神を掘り下げます。

瀬織津姫 目 次 

瀬織津姫(1)大三島の大山積神に消された瀬織津姫 

瀬織津姫(2)瀬織津姫の呪い、それとも天照大神の呪い?

瀬織津姫(3)瀬織津姫とめぐりめく運命の姫たち 

瀬織津姫①に戻る

01_2

〔歴史館はこちらへ〕

. 瀬織津姫の呪い、それとも天照大神の呪い?

大山祇神社が朝廷から再び注目を浴びたのは、『中右記』(日本文化総合年表)によれば、保延元年(1135年)八月十二日に朝廷は畿内の二十一社に「祈晴」のために奉幣しました。天候不順で夜ばかりでなく日中を暗夜に変えるほどの尋常ならざる豪雨・雷雨がつづいたということです。

大山祇神社の根本縁起書の一つ『三島宮御鎮座本縁』には、保延元年、天下はにわかに暗夜のごとくなり、日月の光を見ないこと三日におよび、虚空では軍陣の音が雷のごとくしたため、人民は、おおいに驚きおののいたとあります。大山積神は、「吾は、諸々の大地祇(国津神々)を率いて、これ(天変・異変)を掃ひ除こう(祓おう)」と託宣しています。この託宣から時をおかずに「快晴」となった、この大山積神の託宣・神威のため、遠近から当社へ参詣する人の数はおびただしく、それが数日つづいたとしています。

かくして伊予国の大山積神の神威が朝廷に知られるところとなり、朝廷は、藤原忠隆を勅使として派遣、報謝の「宣旨」によって、本宮および末社のすべてを新たに造営させたとしています。

崇徳天皇に譲位し、鳥羽上皇が実権を握った時代であり、竹取翁物語が成立した時期が9世紀後半から10世紀に掛けてといいますから、海の民を忘れた頃に当たります。遣唐使も寛平6年(894年)に菅原道真の建議により停止されて100年以上も過ぎておりました。唐が衰退し、五代十国時代の戦乱を超えて宋の時代になると、中華は再び繁栄の時を迎え、北九州の豪族を中心に日宋貿易が盛んになってゆきます。鳥羽上皇や平家などが宋貿易に力を入れ始めたことが、大山祇神社が再び脚光を浴びるきっかけとなったようです。

瀬織津姫の名を隠蔽する作業は、大三島に仁徳天皇時代に大山祇神が祀られたことが始まります。さらに、雄略天皇の夢に天照大御神(内宮祭神)が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せるように」と神託したとされる。この等由気大神は、『丹後国風土記』による羽衣伝説(※)と丹波郡比治里の比治真奈井(比治山の頂上に「麻奈井」と称する池)で天女8人が水浴をしていたが、うち1人が老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらく不治の病を治す醸酒を造って老夫婦(和奈佐老父(わなさおきな)、和奈佐老女(わなさおみな))の家に住んでいたが、十数年後に家を追い出されます。あちこち漂泊した末に竹野郡船木郷奈具の村に至ってそこに鎮まったとされる穀物女神であります。

※羽衣伝説:

この井に天女が八人降って来て、水浴をしていた。

その時、老夫婦がいた。

その名を和奈佐老父(わなさおきな)、和奈佐老女(わなさおみな)といったが、

この老人たちは、この井のところに行き、こっそり天女の一人の衣装を取って隠した。

やがて衣裳ある天人はみな天に飛び昇ったが、

 衣裳のないこの娘だけが一人留まって、身を水に隠し、一人恥ずかしがっていた。

そこで、老夫は天女に言った。

「私には子供がありません。どうか天女の娘よ、あなたは私の子におなりください」と。

天女は答えて、

「わたし一人が人間の世界に留まってしまった。

どうしてお言葉に従わずにいられましょうか。だから衣裳を返して下さい」といった。

老夫は、「天女の娘よ、どうして人をだます気になるのか」というと、

 天女は、「天人の志というものは、信実をもって基本としています。

どうしてこんなにひどく疑って、衣裳を返してくれないのですか」といった。

老夫は答えて、

 「疑心が多く信実のないのが、この地上の世界では普通のことなのです。

だから、そんな心から、返すまいとしただけです」といった。

そして、ついに衣を返して、

そのまま一緒に連れ立って自宅に帰り、一緒に住むこと十余年であった。

ここに、天女は酒を造るのがうまかった。

それを一杯飲むと、見事にどんな病気でも癒えた。

その一杯を手に入れるために、人々は沢山の財貨を車に積んで送るほどであった。

そしてこの家は豊かになり、土形(ひじかた)は富んだ。

それゆえに、土形(ひじかた)の里といった。

大昔を過ぎて、なかばごろから今時に至るまでに、比治(ひじ)の里というようになった。

その後、老夫婦たちは、天女に、

「お前は私の子ではない。

 暫くの間、仮に住んでいただけだ。早く出で行ってしまえ」といった。

すると天女は天を仰ぎて慟哭し、地に伏して哀吟し、やがて老夫たちに言った。

「わたしは自分の心から来たく思って来たのではありません。

これはお爺さんらが願ったことなのです。

どうして今更憎しみ嫌って、すぐさま出でいけなんて、

そんなむごい事が言えるものでしょうか」といった。

老夫は、ますますいきどおって早く立ち去るように求めた。

天女は涙を流して、やっと門の外に退き、郷人(さとびと)にいった、

「私は久しいこと人間世界に落ちぶれていて天に帰ることが出来ません。

また、親しい縁者もなく、住むよしも知りません。

 私は一体どうしたら良いのでしょう。」

と言って、涙を拭って吐息をついて、天を仰いで歌った、

天の原 ふりさけ見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも

(はるか大空を仰ぐと霞が立って家路がはっきりしないで行くべきすべを知らない)

ついに退き去って荒塩(あらしお)の村に至り、村人達に言った、

「老父老婦たちの心を思えば、私の心は、荒塩(荒潮)となんら異なる所がありません。

(波だち立ち騒いでいます)」と言った。それで比治の里の荒塩の村と言う。

また、丹波の里の哭木(なきき)の村に至り、槻の木にもたれて哭いた。

それ故に、哭木(なきき)の村と言う。

また、竹野(たかの)の郡(こおり)船木の里の奈具(なぐ)の村に至り、

そして村人達に言った、

「ここに来て、私の心はなぐしく(=平和に)なった。」(古語に平善をば奈具志という)

すなわちこの村に留まり住んだ。

これは、いわゆる竹野(たかの)の郡(こおり)の

奈具の社においでになる豐宇賀能賣命(とようかのめのみこと)なり。

天女が舞い降りた和那散(わさな)の老夫婦が暮らしていた場所はどこでしょうか?

『播磨国の風土記』によれば、

「志深(しじみ)と呼ぶわけは、伊射報和気命(履中天皇)が、

この(里の)井で食事をなされた時、信深(しじみ)の貝(蜆貝)が

御飯を入れた筥(はこ)のふちに、ふらふら上がって来た。

その時、勅して仰られるには、

 「この貝は、阿波の国の和那散(わなさ)に行った時に、私が食べた貝ではないか」

と言った。だから志深の里と呼ぶ。」

と書き残されております。

島根県松江市宍道町上来待和名佐の和奈佐神社があり、祭神は、「阿波枳閇委奈佐比古命」(あわきへわなさひこのみこと)と書かれており、『阿波』です。

また、『出雲国風土記』の船岡山には、

「郡役所の東北一里一百歩にある。

 阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)が曳いて来て据えた船が、

すなわちこの山である。だから船岡山という。」

と書かれており、やはり『阿波』です。

どうやら、天女は阿波の和那散に降り立ち、老夫婦に羽衣を隠されて和那散で暮らすことになり、和那散を豊かにしますが、老夫婦の本当の子供でないという理由で追い出され、丹波(現在の丹後)の比治の里、哭木の村を経て舟木の里で腰を落とし、奈具の社で奈具大明神(豊宇賀能売命)として祀られました。

奈具神社の近くに丹後一宮で元伊勢である 籠神社(このじんじゃ)〔京都丹後日本三景天橋立〕があり、

籠神社

主祭神:彦火明命 (ひこほあかりのみこと) 又の名を天火明命、天照御魂神、天照国照彦火明命、饒速日命

相殿神:豊受大神(とようけのおおかみ) - 「御饌津神」ともいうとする。

天照大神(あまてらすおおかみ)

海神(わたつみのかみ) - 社家海部氏の氏神。

天水分神(あめのみくまりのかみ)

彦火明命を祀っております。しかし、天和年間(1681-1684年)の籠神社縁起秘伝には「当社籠大明神ハ即豊受大神也」とし「与謝宮ハ則是籠大明神也」とする記載があります。

つまり、

籠神社の祭神:豊受大神 彦火明命

に変更されたことが伺えるのです。籠神社も奈具神社と同じく、豊受大神を祀っていたと伺えます。

籠神社のように元伊勢と呼ばれる神社は、第10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命が大宮地(天照大神を祭る地)を求めて丹波、大和、紀伊、吉備などの各地を巡り、さらに第11代垂仁天皇の第4皇女倭姫命が引き継いで大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされます。その折に巡って祭った社が元伊勢と呼ばれ、畿内周辺に多く点在しているのであります。

元伊勢の1つ、三重県度会郡大紀町滝原にある瀧原宮(たきはらのみや)は、宮域には瀧原宮(たきはらのみや)と瀧原竝宮(たきはらならびのみや)の2つの別宮のほか、瀧原宮所管社の3社(若宮神社、長由介神社、川島神社)があり、山を背後に南面し、前方には川が東から西へ流れる地勢から内宮の雛型になったとする説があります。

瀧原宮

内宮(天照大御神)=瀧原宮=天照皇大御神の和魂(にぎみたま)、

荒祭宮(天照大御神荒魂)=瀧原竝宮=天照皇大御神の荒魂(あらみたま)

瀧原宮には男神の天照大神と女神の瀬織津姫が祭られていました。しかし、今では瀬織津姫の名は、彦火明命、豊受大神、木花咲耶姫、市杵島姫、菊理姫などに変えられて見る影もありません。

古事記では、スサノオが阿波の国に入るとオオゲツヒメが食を並べたと書かれております。このオオゲツヒメはスサノオに殺され多くの五穀を生みますが、オオゲツヒメは保食神であります。また、丹後のトヨウケビメと伊勢の豊受大神宮(伊勢神宮外宮)も保食神であります。

しかし、オオゲツヒメが食を並べるのはスサノオ、

トヨウケビメが食を並べるのはニギハヤヒ、

豊受大神が食を並べるのは天照大神であります。

<瀬織01-01 阿波の大宜都比売=丹波の等由気大神=豊受大神>

0101

(日本書記では大宜都比売を殺したのは月読命となっており、素戔男尊に殺されたとは書かれておりません。)

さて、阿波の和那散に降り立った天女とは誰のことだったのでしょうか?

元伊勢を巡った倭姫命の文献で鎌倉時代に外宮禰宜の渡会氏によって記された伊勢神道(度会神道)の根本経典、神道五部書(しんとうごうぶしょ)の中の一書で、伊勢神宮の起源や、崇神天皇が倭姫に命じ天照大神を祀る地を探させた内容が記されています。

「荒祭宮一座〔皇太神宮荒魂、伊弉那伎大神の生める神、名は八十枉津日神なり〕一名、瀬織津比め神、是也、御形は鏡に座す。」

伊勢神宮内宮の荒祭宮に祭られているのは、天照皇大御神の荒魂でイザナギの禊によって生まれた八十枉津日神(=大禍津日神)で、またの名を瀬織津姫であると記されています。

そして、倭姫命が巡った元伊勢には男神の天照大神と女神の瀬織津姫が祭られていたのであります。

では、瀬織津姫とはどんな神なのでしょうか?

天智天皇が奉祀した『大祓祝詞』では、

◆ 瀬織津姫、山中から流れ出る速川の瀬に坐し、人々の罪穢れを海原まで流してくださる神様です。

◆ 速開津姫(はやあきつひめ)河と海とが合わさる所に坐し、罪穢れを呑み込んでしまう! 

◆ 気吹戸主(いぶきどぬし)海原まで流された罪穢れを、根の国の底の国まで吹き払って下さる神様。

◆ 速佐須良姫(はやさすらひめ)根の国の底の国に坐し、気吹戸主神が根の国の底の国まで吹き払った罪穢れを流失させる神様。

と、水を司り人々の穢れを洗い流してくれる神様とされています。

大山祇神社など四国の神社仏閣では、龍女神として水の神・河の神として祀られております。

瀬織津姫と縁の深い大山積神は、摂津三島から誘致されて大山祇神社は創祠されたと伝えられ、古代の摂津は『津』と呼ばれています。

神楽歌の『韓神』に

「三島木綿(ゆう)肩に取り掛け 我韓神は 韓招ぎせむや 韓招ぎ 韓招ぎ

 せむや」

 とあり、現在の大阪府高槻市はかつての旧三島郡と呼ばれ、式内社の神服(かむはとり

)神社がありました。これは服部連(はとりのむらじ)が創建したといわれ、服部(はとりべ)は衣を織る職業集団ですから、この服部氏が三島木綿に携わっていたと考えられています。同じ高槻市には阿久刀(あくと)神社があり、物部氏と同系である阿刀連(あとのむらじ)が祭祀氏族であったと言われます。『古事記』に乗る3代安寧天皇の皇后と記される師木県主羽延の娘アクトヒメ(阿久斗比売)を祀っているとも言われます。日本書記ではアクトヒメの名はなく、『日本書紀』第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である川津媛とあります。

摂津の旧三島郡と瀬戸の大三島は同系であり、大山祇神社の祭祀である越智氏もニギハヤヒの一族で物部氏や服部氏と同系で瀬戸の大三島も衣を織る職業集団がいたと考えられます。

つまり、

瀬戸で衣を織る海(津)の姫となり、『瀬織津姫』と名称され、そこで生まれた姫はみんな瀬織津姫だったと考えるのが妥当なのです。

同じように、

素戔とは荒ぶるという意味であり、素戔男の子、孫も素戔男と呼ばれていたのではないでしょうか。これは天照も同じで、天照の子、孫も天照だったのでしょう。

そう考えれば、

ニギハヤヒの父はアメノオシホミミであり、アマテラスとスサノオの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男に当たり、スサノオの縁深い神であります。そして、ニギハヤヒとニニギはアマテラスの孫に当たり、共に天照の名を継ぎます。

ニギハヤヒは長髄彦の妹である三炊屋媛を妻に迎え入れます。長髄彦は長髄という地名に由来し、記紀には長髄彦の出自について記述されていませんが、『史略名称訓義』の鈴木真年翁は、「醜類ニ非ス」として、「大和国城上郡登美ノ人、長髄モ同所ノ邑名、飛鳥事代主神ノ子」と記されております。丹後宮津藩主本荘氏の系譜『本荘家譜』には、物部の祖・饒速日命の子の麻斯麻尼足尼命(ウマシマチのこと)の右註に「母飛鳥大神之女登美夜毘売」と記され、長髄彦は事代主神(飛鳥大神)の子で、磯城の三輪氏一族の族長だったことが判り、磯城の三輪氏の拠点である城上郡大神郷は奈良県桜井市の三輪山の麓であります。

つまり、長髄彦の妹も事代主神(飛鳥大神)の子であり、ニギハヤヒはスサノオの直系を妻に向かい入れることで『スサノオ』の名を手に入れた。あるいは傘下に治めた訳であります。

こうして、ニギハヤヒはアマテラスであり、スサノオとも言える存在になりました。

そのニギハヤヒの妻は瀬織津姫でありました。

・アマテラス=ニギハヤヒ=スサノオ

・アマテラスの妻である瀬織津姫(オオゲツヒメ)=津の天女=トヨウケビメ=トヨウケオオカミ

元伊勢を巡った第11代垂仁天皇の皇女倭姫の時代は、男神の天照大神と女神の瀬織津姫を祀っていたのです。

さて、時代背景を眺めてみましょう。

古事記では、ニニギの兄である天火明命(ニギハヤヒ)は完全に無視されている。

日本書記の第9段第6及び第8の一書では、アメノオシホミミの子で、

① 火天火明命(天照国照彦火明命)

② ニニギ 

として、ニニギの兄として登場しているが、

日本書紀第9段第1の一書,第4の一書では、ニニギの子で、

① 火酢芹命(ホノスソリ)              =海幸彦

② 火明命(ホノアカリ)               =無視

③ 彦火火出見尊(ヒコホホデミ)または火折尊(ホオリ)=山幸彦

として登場するが、その後は無視される。

第9段第3の一書、第9段第5の一書、第9段第7の一書でもほぼ同じ扱いである。

しかし、それを補完するように『先代旧事本紀』では、アメノオシホミミの子として天孫降臨する様子が書き残されている。

一方、『播磨国風土記』ではオホナムチの子とされています。

ニギハヤヒが天孫降臨したのは、紀元前2世紀から紀元前1世紀が最も有力でありますが、ここでは説明は省かせて頂きます。

詳しくは、

経済から見る歴史学 日本編

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-8f38.html

あるいは、後で発表する『古事記・日本書記の謎』を参考にして下さい。

紀元前2世紀以前、高天原は九州の久留米を中心に広がっておりました。しかし、今から2200年前(紀元前2~3世紀)に由布山が噴火し、それに続いて九重連山がブルカノ式噴火の活動期に入ります。

s-06-2 筑紫平野の情景>

S062

久留米平野は九重連山と筑紫山地に囲まれたお盆の中のようなものです。

大量の火山灰は田畑を埋め尽くし、雨が降れば、濁流となって川が氾濫を起こします。江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火である宝永大噴火(ほうえいだいふんか)は、富士山周辺で火山灰が推定40cmも積もったと言われます。

2200年前の由布山の噴火がどれほどの被害があったのかは記録に残されていません。しかし、中央断層帯を走る地域ですから、活動期に入ると度々の地震や小規模噴火が連発したのは想像し易いでしょう。民は神々の怒りを恐れ、神々の怒りを静めるのがアマテラスの役目なのですが、一向に鎮まる気配はありません。そこでアマテラスであったニギハヤヒは集団疎開を決めたのです。

これが所謂、天孫降臨なのです。

当時の日本の人口は、推定で20万人から60万人と推定されます。

朝鮮半島では、紀元前1世紀の楽浪郡木簡が発見され、「楽浪郡初元四年県別戸口多少」と書かれていました。前漢の年号で初元4年は紀元前45年であり、木簡は戸籍の統計と見られ、楽浪郡の人口は28万人と書かれております。約200年後の魏志倭人伝の邪馬台国の人口は七万戸(1戸5人として35万人)であります。

記紀に沿えば、タテミカヅチによる国譲りが完成しておりましたから、瀬戸内海を統べる瀬織津姫の協力があれば、難なく畿内への天孫降臨を終える事ができたでしょう。

ニギハヤヒは倭姫命達が歩んだ丹波、大和、紀伊、吉備、大和、伊賀、近江、美濃、尾張の諸国を巡行して畿内を平定しました。第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇はニギハヤヒの威光を得る為に元伊勢を巡り、伊勢神宮を創建したのであります。

畿内に入ったニギハヤヒは天道日女命を妃として、天上で天香語山命(あまのかごやまのみこと)をお生みになり、この天香語山命は愛知の尾張氏の遠祖となっていることから、巡行先を子に治めさせたのであります。

いずれにしろ、

神武天皇に「東に良い土地がある」と唆したのが塩土老翁であり、塩土老翁の容姿は住吉明神に似ていたと言われます。

様々な伝承から、

塩土老翁神=住吉三神=綿津見三神

と言われ、塩土老翁が海に深く関わる人物であることは疑いようもありません。

統べられている土地を薦める訳もなく、『先代旧事本紀』ではニギハヤヒはすでに亡くなっています。記紀では、ニギハヤヒが長髄彦を殺して、神武天皇に降伏し忠誠を誓っていますが、後の活躍は一切書かれておりません。

そもそも、ニギハヤヒが天孫降臨したのは、ニニギと同じく、紀元前2世紀になります。一方、神武天皇が東征したのは紀元後2世紀です。この200年余りは、記紀に残される完全な空白地帯となっています。

まるで浦島太郎が竜宮城へ行っている間に数百年が過ぎたような印象を受けます。

そして、天女伝説がそれを補っているように思えます。

神武天皇が畿内を平定した折り、ニギハヤヒの妻であるミカシキヤヒメ(三炊屋媛)は、長髄彦の妹であり、櫛玉比売命の名を持つスサノオを縁とする女神であります。他にも瀬織津姫を思わせる話は残っておりません。

つまり、

畿内に瀬織津姫はいませんでした。

では、どこに行ったのでしょうか?

そう、天女伝説では、天女は和那散(わなさ)の生まれではなく、月の都(月光寺)や龍が住まう竜宮城とも言える大三島の姫でした。和那散の老夫婦は自分達の子供ではないと追い出され、丹波(現在の丹後)に流れ着つきます。

ニギハヤヒの妻である瀬織津姫はニギハヤヒが亡くなると政争で敗れ、瀬戸に戻る術もなかったのでしょう。摂津の三島から富田街道を北に上ると丹波に抜けることができます。

丹波(丹後)には海の民である海部がおり、龍女神である瀬織津姫を保護したと考えれば、すべての謎は解決します。

丹後国一宮の籠神社(このじんじゃ)も主祭神は彦火明命 (ひこほあかりのみこと、饒速日命) を祀っていますが、江戸時代は豊受大神を祀っていたと残されています。

<瀬織01-02 8代孝元~15代応神天皇の系図>

0102

崇神天皇の母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)と言われ、兄に伊香色雄命(いかがしこおのみこと) がおります。伊香色雄命は肩野物部の祖で、天野川の南方の伊香賀(枚方市伊加賀)に住み、その地域を支配しました。

「河内国河上哮ヶ峯」(磐船が降りた地)に肩野物部の神社があり、大阪府交野市私市(きさいち)に鎮座の磐船神社の祭神は饒速日命、ご神体は饒速日の乗ってきた磐船であります。

系図は、

素戔嗚―饒速日―宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄

とされ、伊香色雄は素戔嗚の8代目で、9代開化天皇と10代崇神天皇に仕えたとあります。

崇神天皇がアマテラスである饒速日命の威光によって、畿内を平定したことが伺われます。ヤマトタケル伝説は、

10代崇神天皇-11代垂仁天皇-12代景行天皇-日本武尊-(13代成務天皇)

と四代に渡って倭国を統一していった過程であったと言って間違いありません。

日本武尊の子である14代仲哀天皇の熊襲討伐で倭国の統一がなされるという一歩手前まで迫っていたのであります。しかし、仲哀天皇は熊襲討伐の途上で倒れます。

そこで変わって妻である神功皇后が三韓征伐と熊襲討伐をやり遂げるのであります。

しかし、

問題はその仲哀天皇の子供である後の15代応神天皇にありました。神功皇后は鎮懐石(ちんかいせき)を使って、産み月を15ヶ月まで延ばしたとあります。古事記・日本書紀にもわざわざ鎮懐石を腰衣に巻いて出産を遅らせたと書き残しているのであります。

これは神秘的な力が働いているという隠語なのでしょうか?

普通に考えれば、

応神天皇は仲哀天皇の子供ではなく、他の神の子供と思われても仕方ありません。

応神天皇、その子である16代仁徳天皇は、仲哀天皇の正統性を超える威光として、

神功皇后=卑弥呼=天照大神

であるとしたのであります。

すると、天照大神に妻である瀬織津姫がいることが不都合となったのであります。

こうして、

瀬織津姫の名が次々と消されてゆきます。

さて、16代仁徳天皇、17代履中天皇の御代になりますと、朝鮮半島における高句麗・百済・新羅の争いが激化します。それに応じて、倭国の兵が朝鮮半島へ渡って出兵することが多くなってゆきます。

そして、何度も繰り返される悲劇なのですが、大陸に出兵すると、必ずコレラやマラリアや赤痢などの感染症の病原菌を持ち帰ってくるのです。

日清戦争後、コレラが国内に侵入し、内務省内に臨時検疫局が設置されるなど大騒ぎになっています。

古代において、原因不明の死を呼ぶ病気の大流行は『呪い』とされました。

そうです。

女神の天照大神に消された男神の天照大神、天照大神の妻である瀬織津姫の『呪い』が襲い掛かったと人々は恐れおののいたのであります。

21代雄略天皇は丹後に捨てられた豊受大神を伊勢に誘致し、伊勢神宮外宮の豊受大神宮を建立し、本宮に豊受大神、男神である天照大神を外宮の多賀宮(たかのみや)に豊受大御神荒魂として祀ることで怒りを鎮めて貰うように願ったのであります。

ところがその祈りも空しく、25代武烈天皇の御代で仁徳朝に終わり迎えました。仁徳天皇は大山祇神社を創建し、大三島の瀬織津姫を大山祇神にすげ替えた仁徳朝は終わり、遠く応神天皇の皇子の末孫を迎えたのであります。

26代継体天皇は稚野毛二派皇子を高祖父とされる人物であり、稚野毛二派皇子は応神天皇と河派仲彦(かわまたなかつひこ)の娘の間に生まれた皇子で母方の河派仲彦の父が息長田別王とされます。この息長田別王はヤマトタケルの子とされています。

また、息長氏は開化天皇と和邇氏のオケツヒメとの間に生まれた「日子坐(ヒコイマス)王」の系統ともされ、日子坐王の子が山代の大筒木真若の王(その母はオケツヒメの妹のヲケツヒメ)、さらにその子がカニメ雷王で、またその子が「息長宿禰の王」となります。そしてこの「息長宿禰の王」は神功皇后の父親でもあります。神功皇后の父方の息長氏は和邇系であり、和邇系は海の民の部族でした。

さて、「日子坐王」には他に天の御影神の娘の息長水依ヒメとの間に丹波のヒコタタスミチノウシの王という子がいます。この王は垂仁天皇の妃であったヒバスヒメの父親です。ヒバスヒメはイニシキイリヒコ(紀の五十瓊敷命)、第十二代景行天皇、オオナカツヒコ、ヤマトヒメ、ワカキニイリヒコを儲けています。

大阪市平野区喜連町(旧東成郡喜連村付近)の伝承には、この辺りは元々大々杼(オオド)国大々杼郷と称しました。『楯原神社』の祭神建御雷男の子孫 大々杼命にちなんで付けられたと言われ、神武天皇時功あって「大々杼」の姓を賜り、国造に任じられたとあります。

仲哀天皇時「大々杼黒城」に嗣子がなかったので、神功皇后は弟の息長田別王を黒城の娘黒媛に婿養子として出した。その時息長の名を与えた。その子供が杭俣長日子であり、この姉娘が息長真若中比売で応神天皇の妃となり若沼毛二俣王を産んだとあります。

楯原神社(大阪市平野区喜連6丁目1-38)の由来書には、

河内国伎人郷と言われたちいきである。崇神天皇御代の創建とされる式内社である。赤留比売を祭神とする理由は、平野郷の赤留比売神社(現在は杭全神社の摂社)より勧請した龍王社を合祀し、境内の別宮に祀り奥の宮と称していたのを、現在は合殿しているが故である。

万葉集に当地で歌った歌がある。

  〔天平勝宝〕八歳(やとせといふとし)丙申(ひのえさる)、二月の朔(つきたち)乙酉(きのととり)二十四日(はつかまりよかのひ)戊申(つちのえさる)、天皇(すめらみこと孝謙)、太上天皇(おほきすめらみこと聖武)、〔太〕皇太后(おほみおや光明)、河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)して、信信(よよ)を経て、壬子(みづのえね)に難波の宮に伝幸(うつりいでま)し、三月(おやじつき)の七日(はつかまりなぬかのひ)、河内の国の仗人(くれの)(さと)の馬史國人(うまのふひとくにひと)が家にて、宴したまへるときの歌三首

4457 住吉の浜松が根の下延()へて我が見る小野の草な刈りそね

     右の一首は、兵部少輔大伴宿禰家持。

4458 にほ鳥の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ言(こと)尽きめやも

     右の一首は、主人(あろじ)散位寮(とねのつかさ)の散位(とね)馬史國人。

4459 葦刈ると堀江榜ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに

という訳で、

26代継体天皇は瀬織津姫と深い間柄であり、男神の天照大神、女神の瀬織津姫に戻るかと思われたのですが、継体天皇の威光は絶対的なものではなりませんでした。百済・新羅を巻き込んだ外交では物部氏が頭角を現し、続いて蘇我氏が脚光を浴びます。

さらに33代推古天皇、 35代皇極天皇 41代持統天皇と女帝を多く輩出したこともあり、女神天照大神を継承することになったのであます。

しかし、百済系の中臣鎌足、後の藤原氏が跋扈すると、再び瀬織津姫を仰ぐ海の民は冷遇されていったのであります。

その呪いは人々を襲い、藤原氏を襲います。

その恐ろしい呪いを和らげようと、天智天皇は天智九年(670年)3月に「中臣金連宣祝詞」に瀬織津姫は水の神で世の穢れを落としてくれると読み上げます。

天智天皇九年三月壬午〔九日〕条

瀬織津比売命(セオリツヒメノミコト )川の神滝の神

遠秋津姫尊(ハヤアキツヒメノミコト)海の神

気吹戸主尊(イブキドヌシノミコト)風(息吹)の神 

速佐須良姫尊(ハヤサスラヒメノミコト)地底(霊界)の神

しかし、呪いは一向に解ける気配もありません。藤原京・平城京・長岡京・平安京と安らかな日々はありませんでした。

古い民話の中に呪いが潜んでいるのです。

その伝承に1つが七夕伝説であります。

七夕伝説の織姫をまた瀬織津姫であり、仕事をしなくなるので引き裂かれました。

古代の七夕伝説では、

七夕の日が晴れると、織姫が鵲に乗って海を渡ります。

そして、鵲が大地に舞い降りて来て、多くの禍を蒔いてゆくと伝えられております。

棚機津女(たなばたつめ)=棚織姫=瀬織津姫

であり、

瀬織津姫=禍津日神

ですから、

厄を持ってくるのも頷けます。

鵲(カカサギ)はカラス科の鳥であり、八咫烏と同じく神の化身であります。

鵲が大地に禍をもたらすには訳があります。

貴き天照大神の妻である瀬織津姫は、名を変えられ、この世から消されようとしているのです。

伊勢神宮 内宮荒祭宮 天照皇大神荒魂=瀬織津姫

宇佐神宮 比売大神=瀬織津姫

出雲大社 大国主大神=素戔嗚尊=出雲井神=瀬織津姫

那智大社 大己貴命(おおなむちのみこと)=飛瀧権現=瀬織津姫

春日大社 比売神=枚岡神=出雲井神=瀬織津姫

宗像大社 湍津姫神(たぎつひめ)=滝津姫=瀬織津姫

住吉大社 神功皇后=姫神=瀬織津姫

厳島神社 湍津姫神(たぎつひめ)=滝津姫=瀬織津姫

愛宕神社 火産霊神=瀬織津姫

浅間神社 木花咲耶姫(このはなさくやひめ)=瀬織津姫

また、瀬織津姫の名を冠する石川県金沢市別所の瀬織津姫神社の主祭神は禍津日神(まがつひのかみ)であります。

富山県の氷見市と高岡市の二箇所に速川神社あり、明治維新までは二社とも瀬織津姫が祭られていましたが瀬織津姫が祭神から消されていました。

男神の天照大神と女神の瀬織津姫が再び正しく祀られる日まで呪いは続くのでしょう。

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