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古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 5. 日本の神話 国産み

古事記・日本書記の神話が大和から始まった。淡路島からはじまったイザナギ・イザナミの神話を歴史の遺跡から検証してみましょう。

稲作が日本に入ってきたのは縄文・弥生時代から最近の研究で判ってきました。縄文人は現代人が考えるより広い流通網を持っており、考えるより昔から大陸人が日本に来訪していたのです。

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》

目次へ

 

0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から
1.古事記・日本書紀のはじまり
2.邪馬台国の都がどこにあったのか?
3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
4. 天孫降臨は2度あった
5. 日本の神話 国産み
6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊
7. 日本の神話 大国主

 

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〔歴史館はこちらへ〕

4. 天孫降臨は2度あったへ戻る

. 日本の神話 国産み

八百万の神を祭る日本神話、その神話のふるさとが畿内であると言う仮説は正しいと思います。しかし、その正しさをいくら主張しようとも、仮説が真実になることはありません。歴史というのは、1つの遺跡によって根こそぎ変わることがよくあることなのです。 

正史というは結局のところ、最も信じられている仮説、あるいは信じたいと刻の権力者が思う仮説でしかないのであります。

仏教の伝来が百済からもたらされたという史実から稲も文化も人も全部朝鮮半島を通じて日本に伝来したと思われていましたが、現在の歴史では稲は中国の南東部から直接入ってきたと変わりました。

最新のゲノム解析から日本人の祖先は、アジアに入ってきた最初の人類と同じ遺伝子を持ち、大陸や半島で変化した遺伝子とは異なることも判ってきました。いずれ教科書にもそう書き換えられることになるでしょう。

さらにAMS-炭素14年代測定法から鉄が日本に入ってきたのが紀元前10世紀頃であり、中国の殷・周時代(紀元前10世紀)に河北省で中国最古の鉄器の発見と同時期であることも判ってきました。つまり、紀元前20世紀のヒッタイトの製鉄技術が、ヒッタイトの滅亡に伴いユーラシア大陸を横断してインド・中国に伝播した時期(紀元前10・9世紀)と同じなのです。

もちろん、この発表に衝撃はありましたが驚きはありません。日本の縄文人は沖縄や南九州でしか取れない貝殻を北海道の部族が使い、北海道より北の天然アスファルトを出雲の部族が使っている非常に高度な物流システムを持つ人種であり、海を自由に行き来し、ウラジオストックから中華大陸海岸部を縦断し、ベトナムやフィリピンまで交流していたのでしょう。後期石器時代(1万5000年前)から交易システムを持つと思われる倭人が、中華に入って鉄器を手に入れられない訳がないのです。もちろん、鉄の精製技術が日本に伝来したのは紀元後1~3世紀以降を待たねばなりません。また、出雲・吉備など日本全国に鉄の精製が広がるのは6世紀になります。

いずれにしろ、仮説であります。

淡路島の周辺を神話の地と考えること事態、北九州説を説く方にとってあり得ない話でしょうし、阿蘇付近を高天原と考える方にとっても受け入れられないことでしょう。ですが、基本的には、そんな事はどうでもいい話なのです。神話の話ですから、辻褄があるのであれば、北九州説でも、阿蘇説でも、阿波説でも、なんなら半島説でも、大陸説でもいいのです。

少なくとも古事記や日本書記を編集した方々は、百済と新羅を意識した神話構成を行っております。先代旧事本紀では、イザナミの出身は朝鮮の神であり、スサノオは朝鮮を経由して倭国に木々の種を持ち込んだとされております。弁財天や大黒天が元々外国の神であるようですが、それの何が拙いのでしょうか。

一向に構いません。

稲荷神社が百済系の神を祭り、八幡神社や白髭神社などが新羅系の神を祭っていたとしても問題ありません。八幡神社、全国に約44,000社ある八幡宮の総本社の宇佐神宮の祭神は、八幡大神(応神天皇)、比売大神(宗像三女神)、神功皇后であり、すべて日本の神だと反論が返ってきそうですが、八幡様はスサノオと言われ、スサノオは祇園さんで牛頭天王とされております。神功皇后もスサノオも新羅の縁の深い方とされております。そして、そもそもお稲荷様は百済系の渡来人が祭っていた神であり、八幡様は渡来系の秦氏(ハタシ)が祭っていた神であります。

秦氏の伝承を信じるのであれば、日本の天皇は古代朝鮮辰国から来た王の一人であり、辰国の由来は、秦の始皇帝が万里長城を建設している際に秦が滅んでしまい、皇帝に連なる一族が朝鮮半島に亡命したことに発します。さらに祖先を見れば、中央アジアの弓月国に遡り、中東のエルサレムから逃れてきたユダヤの民の末裔となるのです。

“かごめ かごめ”の六芒星や卍紋、万字紋(まんじもん)や古代文字がユダヤ文字や宗教儀式と似ていると彼らは主張しているのであります。確かにそう考えると、聖徳太子の隋に送った手紙は、『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや』の命文章も「秦の皇帝であった倭国の天子から現中華の皇帝である隋の天子に送る」という嫌味の籠った手紙になってしまいます。

それはそれでロマンなのですが、真実がどうかは霧の彼方なのです。少なくとも遺跡などから、それらを類するできる何かが発掘でもされるか、遺伝子解析から同一民族であるなどの新事実でも発見されないと議論できません。

しかし、日本の神と外ツ国の神が同じであっても構わないのです。この日本という国は、違う神も同一神として重ねる融合を繰り返すことで融和を繰り返してきたのです。寛容こそ日本の美徳であり、様々な考え方が共存共栄できる環境なのであります。

その話はまた後でする事にしましょう。

今の古事記・日本書記の解釈では、蘇我氏が朝廷で一目置かれる存在であった理由が見当たらないのであります。蘇我氏も須賀を発祥とするスサノオ直系の末裔であるとすれば、蘇我氏に期待するスサノオ縁者の期待を背負ったことが伺われます。藤原氏が必要なまでに蘇我氏を警戒した理由も頷けます。

さらに、消された忌部氏(いんべうじ)、大伴氏(おおともし)など経歴が浮き彫りにする為に阿波・讃岐の実態を明らかにする必要があるのです。その為の仮説なのあります。  

■古事記 序文 イザナミの伝承

 九州ではイザナミの伝承が非常に少なく、イザナミが九州では縁の薄いことが判っております。福岡・長崎・鹿児島の神社に鎮座し、その他の県は余り見受けられません。

古事記では、イザナミの埋葬地は「出雲の国と伯伎(ははき)の国との堺の比婆の山に・・・・・・」となっております。日本書記では、紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたといいます。一般的には『出雲国風土記』にも当地に聳え立つ霊峰伯耆大山の逸話などから鳥取の因幡が伯伎の国とされます。

ところでアマテラスやスナノオの神社は全国にあり、これを元に全国を統一したなどと言えば、諏訪のタテミナカタも全国を統一したことになりますから無理があります。また、スサノオが九州を統一したなどという説もありますが、実に大味であり、細かい歴史はどうでもいいという感じの土地柄を醸し出しているようであります。

特に九州の高千穂連山は神々しい山々に囲われ、阿蘇の雄大さは正に神々が降ってきた壮大な高天原を想像します。下界との入り口となる菊池地方に王朝が生まれ、北九州と南九州に広がってゆき、天智天皇が都を奈良に移すまで、蘇我馬子・蝦夷・入鹿などの物語はすべて九州王朝のものであるというのは余りにも大胆な仮説であり、反論の気力も失ってしまいます。しかし、すべてを無視すべきかと云えば、そうもいきません。

九州は大陸との玄関口であり、

紀元前2世紀には、秦の始皇帝の意思で徐福が九州の久留米に渡ってきております。

紀元前473年には、中国の春秋時代に存在した君国の一つ呉(ご)が、越王の勾践により滅ぼされ、国姓は姫(き)を持つ民族が日本列島に渡来した形跡を残す伝承が幾つも各地で残っており、まったく出鱈目という風に一笑できません。その呉の最後の国王「夫差」といい、その子が「忌」であります。中国の史書には「周の元王三年、越は呉を亡し、その庶(親族)、ともに海に入りて倭となる」と記されております。

その渡来したと言われる候補地の1つが、熊本県玉名市近辺の菊池川河口付近であります。菊池市の旧・七城町にある野間口の大字の名の「神来」(おとど)という地名があります。そこに建つ神来貴船神社は、菊池氏の祖である菊池則隆、あるいは藤原則隆が京都から貴船神社を勧請した折に、「神の降り来せし地とせん」という意思を社名に籠め、「神来」を冠したものとしたと言われます。

“おとど”は『大臣』と語源を同じくし、『大殿』とも書かれます。呉国からの貴人を“おとど”と呼ぶようになったのかもしれません。

さて、その呉人ですが、丹生都比売伝承の伝承には、

「稚目女(わかるひめ)は、江南の呉王国の妹王女として生を受けた。姉王女は大日女(おおひるめ)という。南九州に上陸、姉の大日女姫はこの地に伴侶を得てとどまり、後に天照大神と呼ばれる女神の原型となった。稚日女姫はミズガネの女神と讃えられ、すなわち丹生都比売神の原型となった。稚日女姫を奉載した一族は熊本の八代や嵯峨で水銀鉱脈を見つけ採掘した。」

と残されております。

この稚目女・大日女を祖とする丹生氏は、水銀鉱床を掘る掘り師集団であり、その水銀鉱床の地図を見ますと、

s-05-1 列島の水銀鉱床郡>

S051 

〔列島の水銀鉱床郡〕(丹生神社・丹生地名の分布と水銀鉱床郡より)

日本列島の中央構造体に沿って伸びております。しかし、この地図は、非常に国産みの地図と似ております。

s-02-16 古事記に書かれる日本>

S0216

〔古事記の国産み〕

偶然の一致か、イザナギとイザナミの国産みと水銀鉱床の列島線が一致しているのです。そうです。イザナミ神を祭る九州の地域は福岡・長崎・鹿児島、四国は土佐、畿内は熊野に多く見られます。

大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分っております。朝鮮を介さずに、中国南部の呉当たりから日本に持ち込まれたのであります。「呉越同舟」の呉越戦争の時代で滅亡した呉も水田跡が残っており、紀元前450年頃に組織的な大規模な水田跡が九州で見つかっております。

『山海経』の「海内北経」には倭人が中国東北部にあった燕国に属していたという記述があり、これは紀元前6世紀から紀元前4世紀頃のことと考えられております。

春秋時代の呉国の滅亡から海に逃げ出して、当てもない大海原の先に倭国に漂着し、大量の渡来人として倭国に定着したなどとは考えられません。

当てもなく、海に逃げ出すのは自殺行為です。

紀元前6世紀頃、春秋時代の呉国が建国した頃から倭国との交易がはじまり、水銀鉱床を求めて多くの呉人が渡来し、倭国で呉人によるコミュニティがすでに構築されており、紀元前473年の呉滅亡に伴って、呉の王族を先頭に大量の渡来人がやって来て、大きな変革を齎したと考える方が論理的ではないでしょうか。

 

■創世

それはむかしむかしの話です。まだ、この島が混沌とし、国もなく、王もなく、ただあるがままに過ごしていた時代の話です。

遠く、遠く、果てしなく遠い大陸にいくつかの国が生まれ、その中の1つの国の名を殷と言ったそうです。その国も周によって滅ぼされ、殷の商王朝と名乗る人々が島々に渡来して、彼らは大変に珍しいものを持ってきたそうです。海を漂流する民、商の人々は島々の珍しいものを気に入って、お互いに人々はもっと珍しいものはないのかと手を広げて取引をするようになったことが商人という語源に始まりだそうです。

 その殷を滅ぼした周は300年ほど平穏が長く続きましたが、いろいろな不満が募り、遂に分裂してします。多くの国が分裂し、様々な国々が乱立した時代を春秋時代と呼び、その東の1つに周王朝の祖、古公亶父の長子の太伯(泰伯)が、次弟の虞仲(呉仲・仲雍)と千余家の人々と共に建てた国を呉と呼んだそうです。

 

それは2600年前の頃、紀元節(きげんせつ)の辛酉年春正月、庚辰朔だったかもしれませんし、そうでなかったかもしれません。

 大陸の東のその国を治める王は姓を『姫』と言うそうです。王の一族、『姫』の名を持つ者が王の命で不老不死の薬を求めて島々に送られました。島々の人々は取引に応じてくれるのですが、神聖な山々に入ることは認めてくれません。一団は黒潮に乗って北へ、北へと進んでゆきます。そして、不老不死の薬が眠っていそうな竜王の山を見つけて上陸します。しかし、やはり、その土地の人々とぶつかって追い払われました。

 その一団のリーダーであった天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、次に神産巣日神(カミムスビノカミ)は大変に困りました。

 葦原中国の人々は、まだ若く、まだ固まらない、水に浮く油のように判らろうとしてくれない。様々な物資を交換し、種子を与え、話もできるのですが理解して貰えません。

 そこで高御産巣日神は一計を案じて、その土地の伊邪那岐(イザナギ)に、まだ幼い妹(イモ)である伊邪那美(イザナミ)に話し掛けさせました。すると、伊邪那岐は心開いてくれたのか、牟古(ムコ、六甲山の麓)を与えてくれました。しかし、牟古には不老不死の薬となる水銀鉱床はありません。

 そこで高御産巣日神はさらに一計を案じて、伊邪那岐の興味を引く物を見せながら、伊邪那岐から伊邪那美に声を掛けてくるのを待ちました。大変りっぱな戈を持つ伊邪那美に伊邪那岐が興味津々で声を掛けます。

「そのりっぱな戈はなんでしょうか」

 「私をあなたの妻にして下さい。さすれば、この天の沼矛(アメノヌボコ)を授けましょう」

伊邪那岐は大いに喜んで伊邪那美を妻に迎えます。そうして天津神たちは伊邪那岐と伊邪那美にこう言います。

 「この漂ってる国を固めて完成させなさい」

 伊邪那岐は海(明石海峡)を渡って、オノコロ島(淡路島)の大王(おおきみ)に力くらべを挑みます。鋼鉄の刃を持つ天の沼矛の前にオノコロ島の大王では敵いません。

 「参りました。このオノコロ島の大王はあなた様です」

こうして、伊邪那岐は宮殿を建てて、名を改めて淡道之穂之狭別島(アワジノホノサワケシマ)の大王となります。次に伊予之二名島(イヨノフタナシマ)の大王たちに力くらべを挑み、新たな大王となると、伊予の国は愛比売(エヒメ)、讃岐の国は飯依比古(イヒヨリヒコ)、阿波の国は大宜都比売(オオゲツヒメ)、土佐の国は建依別(タケヨリワケ)と子供達に大王として治めさせます。

高御産巣日神たちは念願叶って不老不死の薬が取れる山を掘ることでできるようになりましたが、大陸へと続く道中に筑紫(九州)が横たわります。そこで伊邪那岐に筑紫を治めて貰おうと思うのですが、長く淡道之穂之狭別島を留守にするのは不安なので、日に向かって東の隠伎之三子島(隠岐の島の三つの島、大阪府高槻市)を治めることにしました。隠伎之三子島には、子の天之忍許呂別(アメノオシコロワケ)を大王に据えると、筑紫(九州)に遠征を行います。

伊邪那岐は筑紫の大王たちに次々と力くらべを挑み、筑紫の国に白日別(シラヒワケ)、豊の国に豊日別(トヨヒワケ)、肥の国に建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)、熊曾の国に建日別(タケヒワケ)を大王に据えます。

筑紫を治めるとさらに周辺の伊伎島(イキノシマ=壱岐島)に天比登都柱(アメヒトツバシラ)、次に津島(ツシマ=対馬)に天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)、そして、佐渡(?)を治めさせます。

最後に黒潮に乗って(太平洋を北上して、熊本、土佐、紀伊水道を渡って)大倭豊秋津島(オオヤマトトヨアキヅシマ、紀伊半島)を治め、天御虚空豊秋津根別(アマツミソラトヨアキツネワケ)を大王に据えて帰途につきました。伊邪那岐が治める国を大八島国と呼びます。

大八島を生んで帰る途中で吉備児島(キビコジマ)に建日方別(タケヒカタワケ)、小豆島に大野手比売(オオノデヒメ)、大島に大多麻流別(オオタマルワケ)、女島に天一根(アメヒトツネ)、知訶島に天之忍男(アメノオシオ)、両児島に天両屋(アメフタヤ)を平定し、子供たちを大王として据えました。

淡道之穂之狭別島に戻った伊邪那岐と伊邪那美は、次々と新しい神を生みます。産んだ神の名前は大事忍男神(オオコトオシオノカミ)、石土毘古神(イワツチビコノカミ)、石巣比売神(イワスヒメノカミ)、大戸日別神(オオトヒワケノカミ)、天之吹男神(アメノフキオノカミ)、大屋毘古神(オオヤビコノカミ)、風木津別之忍男神(カザモツワケノオシオノカミ)、海の神の大綿津見神(オオワタツミノカミ)、水戸神(ミナトノカミ=港の神)である速秋津日子神(ハヤアキツヒコノカミ)、妹の速秋津比売神(ハヤアキツヒメノカミ)等々です。

最後に、火之夜芸速男神(ヒノヤギハヤオノカミ)を生みました。 別名を火之炫毘古神(ヒノカガビコノカミ)、火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)といいます。

この火の神を生んだことで、伊邪那美は『ほと』(御陰、陰所、女陰)を火傷して死の苦しみに襲われます。その苦しみから脱糞し、糞から生まれたのが 波邇夜須毘古神(ハニヤスヒコノカミ)と波邇夜須毘売神(ハニヤスヒメノカミ)、 失禁し、尿から生まれたのが

弥都波能売神(ミズハノメノカミ)と和久産巣日神(ワクムスビノカミ)、 和久産巣日神の子供は富宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)です。そして、伊邪那美は黄泉への国へと旅立ったのです。

伊邪那岐と伊邪那美が生んだ子は、14島、35柱神でありました。伊邪那美の遺体は出雲国と伯耆国の境にある比婆山(ヒバノヤマ)に葬られました。

妻を失った伊邪那岐はこれに怒り、十拳剣(トツカノツルギ)を抜いて、迦具土神(カグツチノカミ)の首を切りました。これでまた様々な神が生まれます。 

 

さて、伊邪那美が死を迎えたのは、紀元前473年のことでした。死んでしまった伊邪那美は『姫』の国の姫でありました。イザナミの国である呉は100年余り続きましたが、越王の勾践により滅ぼされます。生き残った亡霊たちは、海を渡ってかの地に渡来します。亡霊たちは火の国(肥の国、熊本)の菊池に漂着したと伝えられます。その亡霊たちの中に美しい二人の姫がおりました。姉姫の名を丹生都比売命(ニウツヒメノミコト)と言います。妹姫の名を稚日女姫(ワカヒルメノミコト)といいます。

筑紫の国(久留米)を治める大王である大日孁貴神(オオヒルメノムチノカミ)は、それを聞いて確かめにいきました。そして、姫の美しさに見惚れて妻に娶ったのであります。丹生都比売命は大日孁貴神の女となり、大日女姫(オオヒルメ)と名を改めました。

伊邪那岐の元に伊邪那美は黄泉が返ったと聞き付けて、伊邪那岐はすぐに筑紫に赴きます。伊邪那岐は大日女姫を人目見て好きになってしまいます。そして、求婚を申し込ました。大日女姫はすでに大日孁貴神の妻なので一晩待ってほしいといいました。

その夜、伊邪那岐は待ち切れずに迎えにゆくと、大日女姫と高御産巣日神が話しているのを聞きました。二人は、どちらを夫に迎えるのが黄泉の国を造るのに良いかと話していたのです。この国を乗っ取ろうとする陰謀でありました。

伊邪那岐は剣を取って二人に襲い掛かります。

二人は兵を呼んで伊邪那岐を食い止め、伊邪那岐も兵を集めて大きな戦いとなりました。そこに筑紫を治める大日孁貴神が駆け付けます。

「この者たちは、この国を乗っ取ろとする不埒者である。共に討たん」

「伊邪那岐さまは私を妻にと申されて、断られると剣を差し向けたのです」

大日孁貴神は父国である伊邪那岐と妻の言葉のどちらを信じればいいか迷いましたが、伊邪那岐が大日女姫を妻にしたいという噂を聞いていたので、妻の言葉を信じることにしました。

伊邪那岐の兵は皆強く勇猛でしたが、大日女姫から貰い受けた武器を身につけた大日孁貴神の兵も強靱と化します。しばらく、伊邪那岐が優位でしたが、多勢に無勢で徐々に劣勢になってゆき、遂に伊邪那岐は兵を引いたのです。

伊邪那岐が負けたという噂は、光より早くこの島々に伝わります。伊邪那岐に味方しようという者がいなくなり、伊邪那岐は追って来る黄泉の軍勢から必死に逃げたのです。

九死に一生を得た伊邪那岐ですが疲れて歩けません。そこで(吉備の国で)木になっていた桃を食すと、わずかばかりの力がみなぎってきて、伊邪那岐は国に戻ることを決めました。

淡路の近くまで来た伊邪那岐ですが、海を渡ろうとせず、そのまま日に向かって歩き続けます。このまま国に帰って、どう皆に云えばいいのか判らなかったからです。

小戸を抜けて、山を越えると橘が生える美しい湖畔が広がります。伊邪那岐は檍原(アハキハラ)の湖に入って水をすくうとで 禊祓 ( みそぎはら ) い 給 ( たま ) います。

すると、心の靄が晴れて、身を心も穏やかになります。

そうして、伊邪那岐は淡道之穂之狭別島の宮殿に戻り、皆にこう言いました。

「吾は、大日孁貴神と力くらべとして負けた。よって、筑紫の国を大日孁貴神に譲ろうと思う。この日出る『日の国』を末の素戔嗚に、日没する『夜の国』を愛比売の月夜見命(瀬織津姫)に、黄泉と通ずる『海の国』を大日孁貴神に譲るとする」

そう申して伊邪那岐は大王を素戔嗚に譲られました。

これを筑紫の国の高御産巣日神が聞くと、

「(大陸から向かって)日出る国を総べる大日孁貴神こそ、天照大御神(アマテラスオオミカミ)である。対をなす夜の国を治めるのは月読神である。(淡路の周辺の)海の国を治めるのが素戔嗚ではないか」

と間違いを正された。

 

【国産みの解釈】

稲がいつ伝来は、弥生時代の初めの紀元前4~5世紀と推定されていたが、弥生時代の土器に付着している「ふきこぼれ」の放射性炭素を加速器質量分析法(AMS法)によって測定したところ、考えられていたよりも500年も時代をさかのぼるという結果が出ました。同時期の古墳から鉄器が見つかっており、鉄も紀元前10世紀頃と今はされております。

紀元前10世紀は周の時代であり、呉は周の諸侯の1つとして長江下流を治めておりました。呉と倭人が交流をしていたのは、前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年~97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書に、

「第八  儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。

第十三  超奇篇 暢草は倭人より献じられる。

第十八  異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。

第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。」

と残されており、霊草などを貢ぎに来る倭人がいたことを書き遺しております。

さらに、呉が滅亡後に倭国に渡来した形跡として、唐の時代の張楚金という歴史家が残した『翰苑』(カンエン)という歴史書に、

「…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太白の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。」

と書き遺しております。

どこまで信憑性があるかは別として、春秋時代の呉国の民の様々な伝承も残されていることより、倭国においてそれなりの地位を占めていた事だけ疑いようもありません。

紀元前10世紀の倭国に国という意識はなく、各地方に散らばって各部族が住んでおりました。しかし、交流は密に行われ、物々交換の交易が盛んでありました。その地域ごとに長(おさ)と呼ばれる大王(おおきみ)がおり、大王は外敵から仲間を守る戦士であると同時に、火山が噴火した場合や病が流行したときなど、神々の怒りを鎮める祈祷師としての役割を持っておりました。

大王は決して支配者としての王ではなく、生きる為の互助的な共同体のリーダーでしかありませんが、大王の命令で数十、数百の部族が動き、数百、数千の民が言うことを聞くというカリスマ的な存在でした。

数十隻の船がイルカの群れを湾内に追い詰めるイルカ漁は、真脇遺跡(石川県鳳珠郡能登町字真脇にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡)から発見された大量のイルカの化石によって数十の部族が集まって真脇の縄文人のイルカ漁が行われていたことを証明しております。

大王という存在は戦士でもありますから強さも求められます。戈や剣や盾や鎧は戦士の証であり、大王となれる資格のようなものでした。

紀元前10世紀くらいに大陸と交易を行っていた倭人は、霊薬や貝殻やヒスイなどを貢ぎ、鉄や青銅や天然アスファルトなどの道具を得ていたと思われます。その貢物の中に水銀も含まれていました。しかし、水銀などを掘削する技術は倭国にはありません。その山師の技術を持った丹生氏の祖先が、水銀を求めて倭国に渡来したことでしょう。

周が衰退し、呉の諸侯が王に昇格し、呉が国力を蓄えると、組織的な一団を送ったと思われるのです。しかし、それは越の国、斉の国、燕の国も同じでありますが、伝承にほとんど残っておりませんが、越の遺跡郡に倭国の青銅によく似た剣などの遺跡、漢書に紀元前300年ころ斉の一族が土井ヶ浜に渡来して、「東鯷人」と呼ばれたと残されておりますなどの歴史書の中に少し覗かせております。しかし、残念ながら日本の伝承には出てきません。おそらく、呉の祖先を名乗る丹族と秦の祖先を名乗る秦族(百済系・新羅系を含む)に習合されてしまったのでしょう。

特に呉が越に滅ぼされたことにより、王族の渡来と大量の難民発生が伝承として残された原因かもしれません。さて、水銀鉱床を求める一団、強力な武器を持つ伊邪那美と出会うことで、伊邪那岐は大王になれたのではないでしょう。さらに大陸の土木技術や様々な種子と薬草の知識は、収穫の安定と病の治療に役立ちます。

本来、大王が一柱神として担うものですが、伊邪那岐が戦士、伊邪那美が巫女という分業によって二柱神となりました。

元々、殷の時代は、女性の地位が高く、『姓』という感じが、『女』と『生』で作られるように、女性の系図が使われておりました。系図が男性で書き示すようになったのは周の時代以降であります。巫女の『巫』は、「かんなぎ」と呼ばれ、神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指します。男は『覡(げき)』と呼ばれ、巫女を見守る者です。古代において遺跡の土偶(どぐう)を見ても女性の地位が高かったと思われます。また、生まれた子供を育てるのは母方の一族で行います。少なくとも日本では平安の時代までその風習が続いております。

古事記・日本書紀が編纂された飛鳥時代において、伊邪那岐が先に声を掛けるのか、伊邪那美が先に声を掛けるのか、どちらが先などという疑問は中国の影響を受けた「男尊女卑」、「男不言内、女不言外」を意識したのかもしれませんので、後に書き加えられた可能性も強く、解釈が間違っている可能性も否定できないのです。

伊邪那岐は戦いを挑み、淡路の1人、四国で4人、三島で1人、九州で9人、紀伊半島で一人と最低でも16人の大王と戦ったのでしょう。古事記には14島、35柱神と書かれているので、49人と戦ったのかもしれませんが、数は問題でありません。伊邪那岐は10年くらい、あるいは世代を超えて100年近く掛けて14島を治めます。その版図が水銀鉱床の分布図と同じなのは偶然とは思えません。

いずれにしろ、丹生族は水銀を掘り、伊邪那岐の海族はそれを運ぶという相関関係を築いていったと思われます。

s-05-2 稲作伝播の版図>

S052 

〔稲作伝播の版図〕(Akazawa 1978,佐々木1986による)

突帯文土器の分布を見れば、縄文晩期(BC1000BC200)に西日本まで広がっていることが判ります。また、水田の伝来である弥生時代前期(BC400BC200)の遺跡郡も西日本に広がり、弥生時代中期(BC2000)になって関東・東北へと広がっています。

これを前提とすると、鉄が伝来した紀元前1000年から紀元前473年以前に伊邪那岐・伊邪那美の国が淡路島に誕生したと思われます。伊邪那岐が遠征して各地を治めるのに要した時間を考慮しますと、紀元節の2600年前というのはあながち嘘ではないのです。

紀元前473年以降になると、呉の国が滅亡して劇的な変化を齎します。すなわち、アマテラスの登場であります。天照と言うのは後に送られた諡号(しごう)でありますから、本来の名前が判りません。

伊邪那岐が九州を制圧していたと仮定すると、伊邪那岐は九州の前大王の娘を妻に貰い受けて、その子が次の大王になっているハズです。大王は神、あるいは神の代理人であり、神から生まれる子も、また神と考えるからです。もちろん、実力主義でありますから、子の中でも最も優れた者となります。

アマテラスは伊邪那岐の子であり、大王の一人だと考えられます。呉から逃げてきた呉王の姫は外つ国(とつくに)の神の娘でありますから、アマテラスが妻に迎えるのに不足はありません。天照の妻は、天照女(アマテラスメ)となり、大日女(おおひるめ)と称されることになります。これは天の岩戸の前で踊ったアメノウズメが、猿田彦の妻となり、猿女(サルメ)と呼ばれるのと同じであります。

大陸の呉国は、日没する国の先ですから黄泉の国と解釈できます。

呉の姫の一団は、王族が持つ門外不出の技術を数多く齎しました。たとえば、織物の技術です。大日女の妹である稚目女(わかるひめ)が古事記では、天の服織女(はたおりめ)とされています。蚕から作る絹は、シルクロード(絹の道)と呼ばれたようにローマ帝国と秦・漢帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易の道の名であります。中華の帝国は絹の製造方法を秘伝として海外に漏れることないように隠しておりました。

その貴重な技術が呉王族の渡来か、秦の王族の渡来の際に日本に来たと推測されます。呉服の語源となっている呉国の渡来人が有力候補であるのは間違いありません。

その他にも鉄製の武器なども多く持っていた呉の姫を妻に貰うというのは、技術的にも、軍事的にも大きな力を持つことになります。

伊邪那岐が妻を迎えていったのは、そういった意味であります。

アマテラスも簡単に申し出を受け入れる訳もいきません。実際、伊邪那岐とアマテラスの戦争であったというのが古事記・日本書記に書かれる黄泉の国の戦いの顛末でしょう。それではアマテラスが黄泉の国の王になってしまいます。

もしも、伊邪那岐の跡を継いだ素戔嗚が倭国の王として、アマテラスを討伐していたなら古事記・日本書記の内容はまったく違うもので、アマテラスに送られる諡号(しごう)は、黄泉とか、死霊とでもなっていたかもしれないのです。

いずれにしろ、戦に負けた伊邪那岐は、アマテラスの追っ手を払って逃げてゆきます。そして、吉備に入ると桃源郷と詠われる『桃』は邪気を払うとされますので、伊邪那岐がこれより先に黄泉の軍が来ないように植えたのが吉備の桃のはじまりかもしれません。

伊邪那岐は淡路島に還ることなく、日に向かって逃げてゆきます。

おそらく、伊邪那岐は本当にアマテラスを恐ろしく思い、淡路まで襲ってくると思い、さらに東に逃げるつもりだったのでないでしょうか。

大和葛城山は2時間くらいで登ることができ、比較的登り易い山であります。景観は遠く小豆島まで見渡すことができ、振り返ると大和盆地が一望できる絶景の観光スポットであります。生駒山でも小豆島まで見渡すことができるのですが、感覚的に登るのなら葛城山のような気がします。

そして、いつまで待っても淡路を襲うアマテラスの舟はやって来ず、肩の力も落ちた伊邪那岐が山を下りて、奈良湖の湖畔で禊をしてから淡路に帰参したというのが『檍』と『橿』が同じ意味を持つ漢字という推測から導いた情景であります。

こうして、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三国時代がはじまったのであります。

 

さて、伊邪那岐が追って来ると思っていたアマテラスですが、伊邪那岐ばかりに構ってられないというのが実情でありました。

紀元前5世紀(春秋時代)と言えば、鉄器が増える時期に当たります。その主な輸入元は燕の国であり、遺跡の出土時期は朝鮮半島南部より日本の方が早く出現しております。

「燕の鉄は倭人が運ぶ」

と記録に残されているように、燕の国とは浅からぬ関係でした。また、燕の隣国である斉の国とも交易があり、一番問題となる呉の敵国である越と倭国の交易がありました。大陸の玄関口である九州では、燕、斉、越と交流のある部族が住んでおり、筑紫の国が呉国になることに快く思わない勢力もあったのです。筑紫の国のアマテラスはそれらとも交渉、あるいは戦う必要がありました。

また、四国の伊予の国は愛比売と呼ばれ、元々瀬織津姫が治めていたと伝わります。この姫にも『織』の字が使われていることから織姫と縁があるようです。古事記では、稚日女命(わかひるめ)を天服織女(あまのふくおりおんな)され、

「天照大御神、忌服屋に坐して、神御衣織らしめたまひし時、其の服屋の頂を穿ち、天の斑馬を逆剥ぎに剥ぎて堕し入るる時に、天の服織女見驚きて、梭に陰上を衝きて死にき。」

と、あっけなく死を貰う不幸な女性であります。

丹生都比売伝承では、この大日女と稚日女命の二人の姉妹が呉王の太伯の血を受け継ぐ姉妹であるとされているのであります。

福岡県久留米市の高良大社の「干珠満珠型三韓征伐」譚を載せているの『高良記』には、「異国征伐之時三百七十五人ノ神立」と題した系図があり、「稚日女命」から「天日神命」まで四十四代の名前が並んでいるのであります。この稚日女命は、丹生都比売神社の御由緒で天照大御神の御妹神さまで神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されましたとされています。

因みに「干珠満珠型三韓征伐」譚というのは、神功皇后に二人の妹、宝満と河上(與止姫)がいて皇后を助け、その際に海神からもらった干珠と満珠により海を干上がらせたり、潮を満ちさせたりして敵兵を溺れさせるといった説話であり、海幸彦・山幸彦の元ネタとしか思えません。

この逸話と似ているのが、與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町大字川上1 )は、別称として「河上神社」、通称として「淀姫さん」であります。

與止日女神社の由緒には、御祭神に與止日女命(神功皇后の御妹)、また豊玉姫命(竜宮城の乙姫様)とも伝えられております。豊玉姫と言えば、玉依姫の姉神であり、干珠満珠とも例えられる姉妹神で、豊玉姫は潮満珠(しおみつたま)でした。

では、竜宮城の乙姫は瀬織津姫(亀)の妹でしたから、姉の大日女(おおひるめ)が瀬織津姫となってしまうのです。これはニジハヤヒ(天照)と瀬織津姫(月読)の関係と同じであります。語呂合わせで言えば、『月読』は『憑く黄泉』とも呼べます。

愛媛の大山祇神は、伊邪那岐神・伊邪那美神が神産みをした子で、百済から渡って来られたという説もありますが、百済ではなく呉国なのではないでしょうか。愛比売の妻に、妹の稚日女命を嫁がせ、呉国の民を住まわせた。そこには竜宮城と呼ばれる異国の建物が立ち並んだというのが物語の本末であります。

当然、四国の有力者である愛比売を取り込めば、筑紫のアマテラスは淡路の伊邪那岐への牽制と大きな後ろ盾を手にすることになります。

筑紫のアマテラスは、愛比売のツクヨミの娘である瀬織津姫を妻に迎えるというのが1つの慣例となっていたと思われます。

古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)

で説明しましたが、もう一度簡単に説明します。

筑紫の大王であったニギハヤヒ(天照)はヤマトへ東征し、ヤマトの主になります。慣例に従って瀬織津姫を妻に迎えていましたが、第15代応神天皇(おうじんてんのう)の御世で不都合が生じます。応神天皇の母は、三韓征伐を成し遂げた神功皇后(じんぐうこうごう)でありましたが、応神天皇の権威を高める為には、神功皇后が天照大神であり、倭王の卑弥呼であったとする方が神々しくなります。

そこで応神天皇は、

天照大神=神功皇后=倭王卑弥呼

としてしまったのであります。

アマテラスが男神であれば、月の女神である瀬織津姫である大日女が存在してもおかしくありませんが、神功皇后がアマテラス(女神)となると、大日女も神功皇后であり、瀬織津姫が存在することが矛盾になるのです。そこでトヨウケビメを丹波から召喚して、アマテラスの世話役としてしまったのです。

それゆえに、古事記では天服織女として死を賜り、日本書記では月読を保食神を剣で切り殺します不埒者として、「もう会わない」と別れてしまいます。

さらに、愛媛に大山祇神社が勧請されて瀬織津姫の神社は封印され、全国で瀬織津姫の痕跡を消す為に他の神々と祭神を変えさせました。

こうして、瀬織津姫の抹殺を第15代応神天皇の御世から明治天皇の御世まで永遠と続けているのです。

因みに、與止日女神社から分社したのが、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)を祭る與杼(よど)神社(京都市伏見区淀本町167)であります。神社には、淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であり、僧の千観内供が応和年間(961年~963)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まると書き示されてあります。名を変え、姿もない『與杼様』でありますが、瀬織津姫を慕う民の心は、蜃気楼の彼方にぼんやりとその姿を映すように淀川の語源ともなって今も多くの人々に愛されているのであります。

 

いずれにしろ、偶然か、意図的かは別にして平成29年、西暦2017年は紀元節の2677年であり、国産みの神話は紀元前夜の物語であります。

イザナギがイザナミと交わって力を手に入れ、倭国の王として君臨しました。しかし、紀元前473年以降になると、呉の国が滅亡すると呉の王族が海を渡り、南九州に上陸し、その土地の王と契って天照一族が生まれ、イザナギの時代は去り、アマテル、ツクヨミ、スサノオの三貴公子の時代へと移っていきます。

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