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古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》2.邪馬台国の都がどこにあったのか?

邪馬台国のあったのは2世紀でした。魏志倭人伝に卑弥呼が使者を送り、倭国の王となりました。2世紀は魏の曹操がローマ方面から取り寄せた知識で帆船の一大革命が起った時代でした。でも、2世紀の倭人は手漕ぎ舟が全盛期で卑弥呼は中華との貿易を独占できるシャーマンなのでした。そして、三韓を征した神功皇后は4世紀の人でした。

古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》

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0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から
1.古事記・日本書紀のはじまり
2.邪馬台国の都がどこにあったのか?
3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
4. 天孫降臨は2度あった
5. 日本の神話 国産み
6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊
7. 日本の神話 大国主

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〔歴史館はこちらへ〕

.古事記・日本書紀のはじまり へ戻る

 

.邪馬台国の都がどこにあったのか?

 

この疑問は多くの歴史学者や研究家の間で議論になり、現代もその論争は続いており、邪馬台国の都がどこにあったのは結論付けられません。

 

ただ、九州に降りた天孫族が吉野ヶ里遺跡か、あるいは熊本県菊池の当たりにあったのでないかという推測は日本語の方言である『方言区画』から読み取れます。九州方言は、豊日方言・肥筑方言・薩隅方言の3つに分かれています。

 

s-02-01 九州に残る三つの方言>

S0201

 

豊日方言(ほうにちほうげん)は、本土の方言に近く、肥筑方言で聞かれる、形容詞の語尾が「か」になるカ語尾はなく、逆接の接続助詞「ばってん」や主語を表す格助詞「の」も用いられないのが特徴です。豊日方言の地域は、気候も土地も豊かで食に苦労することもなく、対馬ルートと沖縄ルートの双方から交易品が届き、それを四国などとの交易を通じて、日本全国の様々な物資が届きます。

 

肥筑方言(ひちくほうげん)は、「よい」→「よか」となるように、形容詞の終止形語尾が「か」となるカ語尾が付きます。また、逆接の接続助詞に「ばってん・ばって」、終助詞「ばい」「たい」が特徴的です。肥筑方言の地域は、有明海の豊な地域と対馬ルートから交易を主な産業としました。その為に半島の影響を大きく受け、最も文化的なことが進んだ地域です。

 

薩隅方言(さつぐうほうげん)は、「シッモサン」(知りません)のように鼻音や濁音の前に来る事もできる。また、[ai] [ae] [e] のように母音(a, i, u, e, o)が連続する部分を連母音が、音の短音に変化し、長い(nagai)→ ナゲ(nage)、具合(guai)→ グエ(gue)のようになる。それは名前でも同じで、「さいごうさん」(saigousan)→「セゴドン」(segodon)、「さいごうさま」(saigousama)→「セゴサァ」(segosaa)と生活において使用が一般化されている固有名詞を短母音化させる人も多い。薩隅方言の地域は、土地が枯れており、農作物の実りは余りありません。ゆえに狩りや海の幸を生きる糧としたことから、逞しい肉体と豪コツな性格が生まれたのかもしれません。文化的には対馬ルートほどではありませんは、沖縄列島を渡って大陸の呉国(狗呉)などの影響を大きく受けました。

 

いずれにしろ、三者三様の特徴を持つ方言の違いがあり、豊日方言は日向族、肥筑方言は大和族、薩隅方言は隼人族の土民が使った名残であることは間違いありません。

 

邪馬台国は対馬海峡から続く火の国を支配しておりましたから、肥筑方言の地域(大和族)と重なります。

 

文化というのは不思議なもので、一度線を引かれると何百年の歳月が過ぎても中々切れてくれません。天下分け目の関ヶ原には、目の見えない東日本人と西日本人を隔てる境界があります。関東はかつお出汁で、関西はこんぶ出汁と味の味覚が変わります。その他にも関東の持ちは四角く、関西は丸餅とか、卵焼きも関東は砂糖を入れて甘く、関西は出汁を多く入れて醤油でつくる「出汁巻き卵」を好む。出汁も関東は醤油が濃く、関西は出汁をベースに薄く作ります。つまり、その地域の食材の流通などが原因で味覚も生活様式も影響するのです。それが感性の隔たりとなり、文化を隔ててしまうのです。

 

この方言の境界で最も注目すべき点は、豊の国(大分)が豊日方言に入っていることです。神武の東征によって組み入れられたことによって、それ以降も九州東部の文化圏を作ってきたことが覗かれます。

 

ところで魏志倭人伝に紹介される邪馬台国の記述(※1)を読む限り、場所の特定は不可能です。帯方郡(韓国京城府)から伊都国(いとこく)までは、距離で記述されていますので、おおよその位置が特定できます。しかし、投馬国と邪馬台国は距離ではなく、日程で書かれているのです。また、距離は12,000里と極端に長い距離が書かれています。

s-02-02 魏志倭人伝における邪馬台国への行程>

S0202

この12,000里が伊都国からと仮定すれば、

 

図の円上のすべてが候補地になってしまうのです。つまり、邪馬台国の候補地である吉野ヶ里、日向、因幡、予、奴羅のすべてが否定できないと言う訳です。もちろん、伊都国から奴羅まで水10日間で移動できませんから、近畿説を説く学者は、投馬国まで水行20日の後に、水行10日か、陸行30日と訳しております。また、同じ解釈で因幡と予も邪馬台国の候補地として残ります。

 

逆に、帯方郡から邪馬台国まで12,000里と仮定でするならば、

 

伊都国から1,000里程度の距離にあるか、または方向違いの因幡付近までが邪馬台国となります。中には、陸行を無視した極端な説で沖縄が邪馬台国であるという論説を出されるかたもいます。

 

魏志倭人伝に沿って、伊都国から陸行30日と訳しますと、吉野ヶ里遺跡か、熊本県菊池、日向などが候補地になり、どうしてそんな日数が掛かるのかが謎です。

 

そもそも、伊都国まで距離で示しているのに対して、投馬国と邪馬台国が行程で記載されている時点で、投馬国と邪馬台国の場所を作者も特定できていないと考えるべきなのです。つまり、魏志倭人伝から邪馬台国の位置は特定できないのが結論なのです。その事を理解して貰った上で、九州方言の分布に戻ります。

 

対馬海峡を渡航する上で、天候と潮の流れを読むことは非常に重要な条件でした。シャーマンである卑弥呼は安全に渡航できる日を予測する知恵があり、その知恵によって巫女としての権威を保っております。

 

ゆえに、対馬海峡の対岸である火の国(筑紫、肥前、肥後)を女王卑弥呼が支配する大和族の地であったことに疑いはありません。また、紀元前3世紀に渡航してきた秦の方士である徐福も最初に上陸したのは火の国(佐賀・熊本)であります。

s-02-03 古代九州の地図>

S0203

 

火の国は有明海を中心に発展したようで、熊本南部まで肥筑方言が広がっております。また、九州にも多くの岩戸が存在しますが、天照大神がお籠りになった祠は高千穂の天の岩戸のみのようです。このことから天孫降臨の地は高千穂から阿蘇、有明を渡って有明海(久留米湾)を中心に発展したと考えることができるのです。

 

内海は波が静かであり、山々から流れてくる川の水が潤沢な栄養を運び、豊かな水産資源の宝庫となります。入り江が深いこの地が最も発展したのも頷けるというものです。しかし、豊富な恵みを与えてくれる山々は、時として最悪を運んできます。

 

紀元前2世紀は、日本列島の火山が活性化し、静岡の富士、福井の白山、そして、九州の由布および九重山が大噴火を起こします。しかもその後、数百年間も断続的にブルカノ噴火を起こしたのであります。由布山から東は溶岩が流れ出し、住まいの根底から流してしまいました。

 

九州の噴火と言えば、1792年2月10日に起こった雲仙の噴火の記録が残されています。普賢岳山頂の地獄跡火口より噴火は、3月1日より溶岩の流出が始まり2カ月近く継続し、3月22日にはの窪からも噴煙、溶岩も流出し、さらに3月25日には古焼頭からも噴煙が上がりました。普賢岳の北東部に溶岩が流れ出し、全長は2.kmとなりました。また1792年5月21日(寛政4年旧暦4月1日)に雲仙岳眉山で発生した山体崩壊とこれによる津波災害は、島原大変肥後迷惑と呼ばれ、肥前国と肥後国合わせて死者、行方不明者1万5000人という有史以来日本最大の火山災害となったと言われています。

 

おそらく、これより規模の大きい噴火が由布および九重山で断続的に起きたと考えられます。

 

イタリアのポンペイではありませんが、火山灰が大地を覆い尽くし、食糧は激減します。天孫の住民は民族大移動を余儀なくされたのであります。

 

天孫の大和族は出雲に国譲りし、ニギハヤヒの一族は豊の国の住人を連れて、秋津根国(あきつねくに、奈良・京都・大阪)に移住し、ニニギの一族は、南九州の日向と薩摩に避難しました。こうして、200年余りの間、北九州は歴史から姿を消すことになるのです。

 

しかし、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人が定期的に漢の植民地楽浪郡を介して(前)漢王朝へ朝貢していることから中継地としての村は残っていたと思われます。対馬や壱岐は決して農作物が取れる土地ではありませんが、交易によって成り立っております。同じように中継地としての村が存在していたのは間違いありません。そして、200年以上も離れて暮らした天孫たちは、まったく異なる文化を持つようになっていったのでしょう。

 

日向の彦火火出見尊(山幸彦)は、豊かな土地と四国と交易を続けていましたが、薩摩の火照命(海幸彦)は、土地がやせ細っていたので海の幸と沖縄列島ルートから大陸との交易で営んでいたと思われます。

 

ここからは想像であります。

 

火山の活動が鎮静化するのを最も早く感じたのは、南に位置するニニギ一族でありました。ニニギの子孫は北九州に戻って奴国を建国したのではないでしょうか?

 

しかし、交易が再開されると、多くの民族が戻ってきます。出雲の国に避難していた大和族が北九州に戻り、伊都国が奴国を滅ぼします。しかし、多くの民族同士の紛争は続きます。その多くの民族が相争ったことで調停者として卑弥呼が立ち、邪馬台国が建国されました。

 

しかし、それに賛同しない日向族の一部は南九州に追い戻され、こうして狗奴国として邪馬台国と争い始めたのです。彦火火出見尊(山幸彦)は、同じニニギの子孫である火照命(海幸彦)を従わせ、南九州を統一します。そして、神武天皇の父であるウガヤフキアエズ(彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊)は、子供達に東を支配化に置くように東征させたのです。

 

こうして、豊の国(大分・筑紫の東)から穴門の国(山口)、安芸の国(広島)、吉備の国(岡山)、秋津根国(奈良・京都・大阪)と制圧していったのです。急激に力を付ける狗奴国に対抗する為に邪馬台国の卑弥呼は魏に支援を求めたのではないでしょうか。

 

魏志倭人伝に乗る邪馬台国の南、つまり、日本海側にある邪馬台国と、瀬戸内海側にある狗奴国が相争っていたのです。

 

その後、神武天皇は畿内を制圧すると、丹の国(丹波・若狭)を攻め、さらに越の国まで兵を進めます。そして、折り返して出雲の国に攻め掛かります。

 

何故、神武王朝、後の大和王朝はすぐに邪馬台国を滅ぼさなかったのでしょうか?

 

一番の理由はやはり神武天皇の崩御でしょう。

 

神武天皇が亡くなると、南九州を基盤とする手研耳命(たぎしみみのみこと)と畿内を基盤とする神八井耳命・綏靖天皇兄弟とが争う。結果、神八井耳の末弟である神渟名川耳、綏靖天皇(すいぜいてんのう)が皇位に付くことになります。

 

後継者争いをキッカケに豪族達が反旗を翻し、王朝に亀裂が走った頃に大渡来時代を迎えます。3世紀後半から4世紀に掛けて、大型帆船を利用して多くの渡来人が倭国にやったのです。

 

それまでの手漕ぎ船では、大量に人員や物資を運べない上に、対馬海峡を渡る『対馬ルート』、沖縄列島の島々と渡る『沖縄列島ルート』、そして、北の果てである『北海ルート』に限られていましたが、大型帆船の登場でその前提が大きく崩れたのです。

 

s-01-01 古代舟と帆船の海洋航路の違い>

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百済から直接に筑紫、新羅・高句麗から南渤海航路を使って丹波・若狭、風を巧く使って渤海航路で直接に日本海を渡る航路もできます。季節による海流の流れと風の向きで航路が幾つも生まれたのです。

 

もちろん、この海流と風の流れを掴むのに一世紀近い時間を要し、本格的な大渡来時代は四世紀だったかもしれません。

 

大量の渡来人が来襲し、鉄の精製などの新しい技術が伝来し、馬や牛、豚(猪)などの家畜も持ち込まれます。生活は一変し、山の麓に住む旧土民と、湿地帯に住居を構えた新移住民との力関係も微妙になってゆき、日本全国で騒乱の種が植えられたのです。

 

邪馬台国は海峡の距離が最も短い対馬ルートを持つことで交易の優位を持っていました。しかし、大型帆船は対馬島を中継することなく、朝鮮半島と筑紫を結ぶことができました。また、日本海では火の国や出雲の国を利用することなく、直接に丹の国(丹後・若狭)に寄港できるようになったのです。つまり、邪馬台国の火の国(肥前)や出雲の国の価値が小さくなったのです。

 

大量の渡来人が土着する過程で多くのトラブルが発生し、国内の安定が最優先されたと考えれば、欠史八代(けっしはちだい)、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇が邪馬台国を攻める暇もなかったというのが実情なのでしょう。

 

もう少し正確に言うならば、

 

神武天皇や綏靖天皇は多くの豪族から妃を貰い、多くの皇子を残します。そして、豪族同士が手を結び、時には血で血を洗う戦いを争って、生き残った天孫の子孫、神武天皇の血脈が新たな支配者として名乗り上げたと言った方が正しいでしょう。

 

それは正統な皇位継承権を持つ者であったとは限らないのではないでしょうか?

 

もしかすると、皇位継承者を倒した後に、姉妹か、娘を嫁にすることで権威を保ち、偽の血統で異母兄弟であったとか、歴史を捏造、でっちあげたりしたのかもしれません。

 

いずれにしろ、混迷期であり、詳しい事を知ることはできません。欠史八代の研究は、今後の考古学者の発掘に任せるしかありません。

 

第7代孝霊天皇(こうれいてんのう)の御世では、大国であった吉備も反乱したようです。この第7代孝霊天皇の第三皇子彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと、吉備津彦命)、稚武彦命(わかたけひこのみこと)兄弟の吉備国平定は、岡山県(吉備国)の温羅(うら)伝説に由来するとも言われ、桃太郎のモデルとなったのが彦五十狭芹彦命であり、この平定を元に桃太郎伝説ができたとも言われるのです。吉備における鉄の精製は渡来人が伝えたと考えられ、何と言っても吉備の鉄は王朝にとって重要でした。渡来人を如何に従わせるかというのが、大きな鍵を握っていたのでしょう。

 

第8代孝元天皇(こうげんてんのう)の御世では、山下影日売を娶って産んだ子に、武内宿禰(たけうちすくね)の名が登場し、この武内宿禰の子は、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる人物です。この当たりから混乱期を終え、再生が始まったようです。

 

第10代崇神天皇(すじんてんのう)は、「初国知らしし御真木天皇」(はつくにしらしみまきのすめらきこと)と称され、『日本書記』には、神武天皇も『始馭天下天皇』(はつくにしらすすめらみこと)と称されていることから、同一人物ではないかという説もあります。

 

崇神天皇は北陸大彦・東海道に武渟川別・丹波に丹波道主、西海に吉備津彦などに軍を派遣します。みな、阿倍氏にゆかりの深い方々であり、物部氏、大伴氏、蘇我氏などの祖は力を現しておりません。崇神天皇の御世に姿を現す物部氏は、伊香色雄命(いかがしこおのみこと)といい、 淀川と天野川の合流する地域を支配した肩野物部(かたのもののべ)の一族であり、神斑物者(かみのものあつかいひと)であります。大和三輪に大物主神を祀り、大田田根子を神主にしていたようです。

 

この伊香色謎の子孫は、伊香色謎―彦太忍信―屋主忍男武雄心―武内宿禰―葛城襲津彦―磐之姫(16代仁徳天皇の皇后)と書かれておりますが、どこまで信じて良いのかは不明であります。

 

さて、この当時の出土品から馬具などが見つかっていることから、騎馬民族が大陸より来襲した説も上がっておりますが、大陸から王朝大移動を示す形跡もなく、学会では否定的であります。おそらく、渡来人が齎した知恵や武具が戦闘に馬を組み入れるなどの大きな変革を齎したのでしょう。

 

また、崇神天皇の御世では、初めて人民の戸口を調査し、役を課していることから「初国知らしし御真木天皇」と讃えられたのでしょう。

 

ところで古事記・日本書紀には、神武天皇が丹の国や越の国、出雲の国に派兵した記録はありません。ゆえに、神武天皇と崇神天皇は別人であると主張されますが、高倉下が丹の国や越の国、出雲の国に、神武天皇の兄、五瀬命(いつせのみこと)の部下が丹の国に派兵した記録を追うと、神武天皇もかなり広範囲に派兵しておりました。領地の大きさを持って別人であるというのは無理があります。

 

何度言っておりますが、神武天皇の東征の時期は3世紀後半以前であり、崇神天皇の崩御の時期は4世紀であり、どう考えても100年近い差があります。

 

1-36『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い>

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崇神天皇の時代になると疫病が襲い、民の半数が失われると書き示しております。疫病の発生は、大陸との関係に著しく関わっています。明治7年に台湾出兵をした日本軍は、それ以来、コレラの大流行が明治12年、15年、19年、23年の4度もあり、毎年必ず数百人以上の死者があり、明治27年(1894)の日清戦争までに全国の死者数が3万~10万人を越えています。

 

疫病の原因は大抵が、大陸から持ってきた痘瘡(天然痘)・麻疹(はしか)・赤痢・コレラ・インフルエンザ・癩・結核・梅毒などがあげられ、免疫力のない土着民の多くに広がります。つまり、この時期も多くの渡来人がやって来ていたことの裏付けとなるのです。

 

こうして、渡来系の力を内に取り入れて、崇神天皇は畿内・近国を再統合しました。

 

畿内・近国とは、奈良時代にできた令制国(りょうせいこく)の分類の1つで、

 

・畿内:都に近い国

 

・近国:近い位置にある国が近国とされた(畿内の国は分類されない)。

 

・中国:畿内からの距離が近くもなく遠くもない「中ぐらいの距離にある国」を意味する。

 

・遠国:遠い位置にある国が遠国とされた。

 

畿内・近国・中国・遠国(※2)と、距離と価値と街道で国を区分しておりました。

 

s-02-04 5畿7道>

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第12代景行天皇(けいこうてんのう)の御世には、九州北部・越の国・蝦夷を残して再統一を終えていたようです。ただ、熊襲の反乱、東国の反抗と各地で抵抗は続いておりました。そこで有名な大和武尊の話が生まれています。

 

大和武尊は熊襲武尊を童女の姿で騙して討ち、さらに出雲建を騙して亡き者にし、東国遠征では計略を持って討ち滅ぼし、鹿島神宮がある蝦夷まで討伐すると、利根川を上って東山道を通って尾張の国まで帰国します。そして、伊吹山の神の怒りに触れて、杖をつかなければ歩けないほど弱ります。

 

大和武尊は次のように仰せになり、

 

「私の足は三重のように勾餅のように、腫れてねじ曲がってしまい、とても疲れた」

 

そこで力尽きました。そこから、この地を三重と呼ぶようになります。

 

景行天皇が亡くなると、第4子の成務天皇(せいむてんのう)が即位されます。しかし、子がなかったのか?

 

この成務天皇が崩御されますと、大和武尊の第2子である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) が第14代として即位されるのです。仲哀天皇は九州の筑紫に巡行し、熊襲征伐を相談すると、気長足姫尊(神功皇后)がこう言いました。

 

「不毛の地、熊襲を討つより、宝物に溢れた新羅国を帰服させてはどうか」

 

しかし、仲哀天皇は神託を信じず、熊襲を攻め、戦勝を得られないまま還幸し、橿日宮で崩御します。

 

気長足姫尊(神功皇后)はシャーマンのように振る舞い、そのお告げを聞かなかった仲哀天皇は天罰を受けて崩御し、神功皇后は三韓征伐を終えて帰国すると、仲哀天皇の皇子が反乱し、それを騙し討ちで成敗して河内王朝が始まるのです。

 

『日本書紀』では、巻九に神功皇后摂政「66年 是年 晋武帝泰初二年晉起居注云 武帝泰初(泰始)二年十月 倭女王遣重貢獻」と記されており、江戸時代まで神功皇后と卑弥呼は同一人物と思われていたようです。しかし、時期は合わないので倭の女王である台与ではないかと修正されました。

 

いずれにしろ、邪馬台国と神武王朝を同一と思わせる記述となっております。

 

応神天皇の崩御は古事記では、甲午394年(日本書記では、庚午310年)となっております。在位が41年として363年以前の『三韓征伐』を行ってと仮定できます。〔古事記の仲哀天皇が死去した壬戌の年(362年)〕

 

346年に百済が建国し、高句麗・百済・新羅の三国時代を迎えた直後ということになります。366年には百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため同盟を結びます。また、382年に加耶が新羅と葛城襲津彦によって滅亡させられています。

 

葛城 襲津彦(かずらき の そつひこ)は、武内宿禰の子で、履中天皇(第16代)・反正天皇(第17代)・允恭天皇(第18代)の外祖父でもあります。

 

いじれにしろ、神功皇后が朝鮮半島を攻めてきたという半島の記録は見当たりませんが、神功皇后の側近が武内宿禰ですから時代的に重なることは否定できないようです。

 

仲哀天皇の行幸を日本書記によれば、

 

元年春正月、日本武尊の第二子の仲哀天皇が即位。

 

2年春正月、気長足姫尊を皇后とされた。

 

2月6日、敦賀に移り、行宮(かりみや)を笥飯宮(けひのみや)という。

 

3月15日、南海道を行幸する。二~三人の卿と、官人数百人とで紀伊国(きいのくに)においでになり、徳勒津宮(ところつのみや)に居られた。そこで熊襲を討とうとして、徳勒津(ところつ)をたって、船で穴門(あなと、山口県)においでになった。

 

夏6月10日、天皇は豊浦津(とゆらのつ、山口県豊浦)に泊まられた。皇后は敦賀から出発して、渟田門(ぬたのみなと、福井県)に至り、秋7月5日に豊浦津に着く。

 

9月、穴門に宮、穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)を建てて住まわれる。

 

8年春正月4日に筑紫に行かれる。岡県主(おかのあがたぬし)の先祖の熊鰐(わに)は周芳(すわ)の沙麼(さば、山口県佐波)の浦までお迎えした。熊鰐を水先案内人として山鹿岬(やまかのさき、福岡県北九州市遠見ノ鼻・岩屋崎)からめぐて岡浦(おかのうら)に入ります。水門(みなと、岡水門=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しましたが、そこで舟が進まなくなります。結局、潮が満ちてから岡浦に泊まります。

 

21日、灘県(なだあがた、福岡県博多地方)に到着して、橿日宮(かしひみや)に滞在されます。

 

秋9月5日、群臣に熊襲を討とうと会議させます。皇后に神託を垂れると、

 

「天皇はどうして熊襲の従わないことを憂うれえられるのか、そこは荒れて痩やせた地である。戦いをして討つのに足りない。この国よりも勝まさって宝のある国、譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩まばゆい金・銀・彩色などが沢山ある。これを栲衾新羅国(たくぶすましらぎのくに)という(栲衾は白い布で新羅の枕詞)。もしよく自分を祀ったら、刀に血ぬらないで、その国はきっと服従するであろう。また熊襲も従うであろう。その祭りをするには、天皇の御船と穴門直践立あなとのあたいほむだちが献上した水田――名づけて大田という。これらのものをお供えしなさい。」と述べた。

 

しかし、天皇は神託を信じずに熊襲を攻めた。

 

9年春2月5日、天皇は急に病気になられてお亡くなりになります。

 

s-02-05 仲哀天皇の7年間の行幸>

S0205

日本書記には、

 

仲哀天皇は2年夏6月10日から8年まで穴門(山口)の穴門豊浦宮で住まわれ、8年春正月4日頃から9年春2月5日頃まで筑紫(福岡)の橿日宮に滞在されたと示されています。また、熊襲を討伐とありますが、熊本や鹿児島へ侵攻した記述はありません。

 

仲哀天皇が殯葬されたという地は、小郡市大保1032の仲哀天皇殯斂地 大保伝承地とされ、大宰府より15kmほど南に下った所です。また、遺骸は忌宮神社(下関市長府宮の内町)にあるこの地の土肥山(仲哀天皇殯斂地)に殯葬されました。また、神功皇后が神託をなされたのは香椎宮(福岡県福岡市東区香椎)であり、そこに廟を置いたとされます。他にも香椎宮古宮神社跡、仲哀天皇陵長野伝承地(糸島市川付787)、仲哀天皇殯斂地長府伝承地(下関市長府侍町1丁目10-1)、仲哀天皇殯斂地華山伝承地(下関市菊川町上岡枝)と福岡から下関の範囲で点在しています。

 

つまり、熊襲は筑紫の国の周辺に存在していたのであります。

 

仲哀天皇が穴門豊浦宮に6年近くも在中していたのか?

 

山鹿岬で舟が止まったのか?

 

万葉の詩などには、書かれている文字に隠語が仕組まれており、物事の全体を俯瞰できるようになっております。そう考えれば、山鹿岬で舟が止まったのは、そこが境界であり、岡浦、水門と進軍を続け、橿日宮に達した時には、6年の歳月を要していたと書かれているのです。

 

そこで改めて、仲哀天皇は熊襲討伐を臣下に問うた訳です。

 

仲哀天皇はそのまま進軍することを望みましたが、神功皇后は先に新羅・百済・高句麗と国交を結ぶことを望みます。

 

神功皇后の『三韓征伐』と古事記・日本書記には書き示されておりますが、三韓が倭国に征伐された記述は残っておりません。

 

この頃の朝鮮半島は、高句麗が342年に前燕の慕容(ぼようこう)に攻められ、第16代・故国原王(在位331-371)は前燕の臣下となって滅亡を回避しました。百済は第13代近肖古王となり、346年頃に漢城(ソウル)を首都と定め、馬韓地域を統一します。新羅は元々辰韓の一国に過ぎませんでしたが、286年にかけて西晋に対して朝貢を行ってことから辰韓を支配化に置いたと思われます。366年には、百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が高句麗に対抗するため同盟を結びます。

 

朝鮮側の史料を元に考えると344年に通婚を要求したが、新羅は「娘は嫁に行った」として断ったことで、345年に国交を断絶し、346年に風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃したという記述が該当します。しかし、古事記の仲哀天皇が死去した壬戌の年(362年)より前の話となりますから参考として覚えておく程度の話でしょう。

 

また、397年に百済は倭国に百済の阿?王は王子腆支を人質として倭に送り通好し、399年に百済は倭国に七支刀を献上して友好的な関係を強化しておりますが、30年以上も後の時代であります。

 

このことから三韓が征伐された事が屈辱的であった為に記述されていないとするなら、人質を送ったという記述を消されているでしょう。

 

神功皇后の名を『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后と書かれ、父は開化天皇玄孫・息長宿禰王(おきながのすくねのみこ)で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)とあります。この開化天皇玄孫・息長宿禰王は、山代之大筒木真若王と姪の丹波之阿治佐波毘売(たにはのあじさはびめ)の間に迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)を産み、その迦邇米雷王も丹波の遠津臣の娘、高材比売(たかきひめ)を娶って息長帯比売の父、息長宿禰王を産んでおります。

 

丹波というからは丹波道主命系の姫であり、丹波道主は阿部氏主導の四道将軍とするべく加えられた中級貴族の祖であります。

 

丹波と言えば、天之日矛(あめのひぼこ・天日槍命・海檜槍)・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の話が残されております。

 

新羅の阿具(あぐ)沼の辺で昼寝していた女の陰部に日光が射し、女は赤玉を産んだ。新羅の王子、天之日矛は、その玉をある男から貰い受け、持ち帰って床に置くと、玉はたちまち美女に変じた。日矛は美女を妻にし、美女は珍味を作って日矛に仕えたが、ある日機嫌を損ねて美女を罵ると、美女は「祖国へ帰ります」と言って、小舟に乗って日本へ帰ってしまった。後悔した日矛は、美女の後を追って日本にやって来る。美女は一旦、大分の姫島まで逃げたが、執拗に追ってくる日矛から逃れ、最後は難波に落ち着いた。この女神が、阿加流比咩(あかるひめ)で、比売碁曾神祠(大分県姫島)、比売許曽神社(大阪市東成区東小橋南之町)、赤留比売命神社(大阪市東住吉区平野三十歩町)、姫島神社(大阪市西淀川区姫島町)などに祀られている。難波の沖まで姫を追って来た日矛だったが、海上の守護神に塞ぎられ、終に上陸することが出来ず、やむなく播磨、淡路、近江、若狭を転々として但馬に入り、多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘、前津見(まえつみ・紀では出島の太耳の娘、麻多烏)と結婚して、当時、入江湖で泥海だった但馬の地を、円山川の河口の豊岡市瀬戸にあった岩山を切り拓いて水を日本海に流し、但馬平野を作り出し肥沃な耕地にして、但馬開発の祖神の出石八前大神(いずしのやくさのおおかみ)として、出石神社に祀られた。

 

但馬は、律令制以前に但馬・丹後も含み丹波国造の領域とされていますから、共に丹波であります。

 

s-02-06 応神天皇記の系図>

S0206

〔応神天皇記の系図〕(アメノヒボコ ウィキペディアHPより)

 

この系図から神功皇后は天之日矛の子孫であり、同族の五十迹手の国である北九州の「伊都国」で応神天皇を産んでおります。

 

また、近江水系を支配した息長氏の祖は、15代応神天皇の5世孫にあたる息長真手王だといわれますが、「古事記」には、その祖父で応神天皇の孫、意富々杼王(おほほどのみこ)が、息長(滋賀県坂田郡米原町)の坂君、酒人君(さかひとのきみ・大阪市天王寺区玉造)、三国君(みくにのきみ・福井県三国町)らの祖となったと伝えております。

 

この息長氏を祀る神社は、

 

・朱智神社(京都府京田辺市天王高ヶ峰)

 

 祭神&祖神 迦邇米雷王

 

 配神    建速須佐之男命、天照國照彦火明命

 

 社家    息長(朱智・三国)

 

息長氏      滋賀県坂田郡天野川(息長川)流域、三重県桑名郡多度町

 

         京都府京田辺市付近、大阪市天王寺区玉造、福井県三国町

 

息長丹生真人氏  滋賀県伊香郡余呉町丹生、滋賀県坂田郡米原町丹生

 

天之御影命(あめのみかげのみこと):開化天皇の子、日子坐王(四世孫が神功皇后)の妃である息長水依比売の父。天目一箇神と同神とも、兄弟とも言われます。

 

いずれにしろ、神功皇后は系図的・一族的にも、新羅と縁浅からぬ関係であり、新羅・高句麗との交易で富みを得た一族であったと考えられます。つまり、国際情勢に詳しかったということです。

 

北九州を支配していた『(仮)熊襲』は朝鮮半島と繋がりが深く、一方、神武王朝から続く仲哀王朝は、新羅・高句麗・百済と国交すら結んでいない状況でした。大陸から見れば、『(仮)熊襲』が倭国であり、仲哀王朝は倭国に逆らう蛮族に過ぎなかったのです。

 

つまり、神功皇后は仲哀王朝こそ倭国の王であり、それを認めさせれば、『(仮)熊襲』と組みする加羅諸国が寝返ると確信していたに違いありません。

 

実際、新羅と一戦を交えた後に、新羅・百済・高句麗と国交を結ぶと、加羅諸国は神功皇后に伏したと読み取れるのです。

 

そして、帰国した皇后に『(仮)熊襲』も服従したのでしょう。

 

何故、『(仮)熊襲』を熊襲と古事記・日本書紀に書き記されていたのでしょう。

 

そもそも鹿児島の『霧島市敷根』の集落に『桂の木で有名な桂姫城の勝浦姫』の伝説があり、「薩隅日地理纂考」という藩・県による官撰の「薩摩・大隅・日向諸県郡の地誌」に、

 

『古老ノ傳説ニ曰ク 敷根ノ産ニテ 神功皇后ニ仕ヘ奉リ 三韓征伐ニ従ヒ 武功アリシヲ 皇后重ク賞シ給ヒ 勝浦姫ノ名ヲ賜フ 武家是ヲ愛慕ス 依テ 其名ヲ後代ニ傳ヘムカ為ニ 植置リ トイフ ‥中略‥ 桂姫ノ根元ハ天鈿女命ノ古事ヨリ出タリ』(同書 446頁)、桂姫の元祖は、名を岩田姫と謂ひ、神功皇后の侍女でありました。「皇后三韓征伐の御時に、胄の代わりに召されたと云ふ、綿帽子を家に傳へて、御目見えの度毎に之を持参し、現に大阪陣の時など、神君之を頂戴して、自ら御被り成された」と書かれています。

 

元祖、鹿児島の熊襲に住んでいる隼人族は、三韓征伐に従って従軍しているお味方だったのです。

 

『神功皇后伝説』では、一人が神主、一人が琴を弾く、一人が審神者(さにわ)とされ、神功皇后が神主、琴奏者が武内宿禰、中臣烏賊津が審神者となっております。

 

皇后は味方を招集されたみたいで、伊勢(いせ)の国の度会(わたらい)の県の、五十鈴(いすず)の宮においでになる、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)を呼ばれ、

 

次に、天事代虚事代玉櫛籤入彦厳之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ)を呼ばれ、

 

次に、日向国の橘(たちばな)の表筒男(うわつつのお)・中筒男(なかつつのお)・底筒男(そこつつのお)〔住吉三神(※3)〕を呼ばれ、

 

次に、吉備臣の祖、鴨別(かもわけ)を遣わして熊襲の国を討たれますが、神功皇后の侍女である桂姫であり、熊襲隼人族は三韓征伐で兵を出したお味方であったようです。鴨別を遣わして、参陣するように促し、熊襲隼人族は快く出陣したと読み解くできなのでしょうか。

 

こうして、神功皇后は全国から兵を集います。

 

そして、後顧の憂いを断つ為にでしょうか。筑紫の国の荷持田村(のとりたのふれ)に羽白熊鷲(はしろくまわし)(※4)を討たれてから三韓征伐に赴かれることになっております。

 

三韓征伐を終えた神功皇后は、中臣烏賊津に長崎の地を与えて監視させます。そして、生まれた皇子(応神天皇)を皇太子に据えると、異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑みますが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したと書き示されています。

 

ところで、『(仮)熊襲』を境に、畿内の古墳より邪馬台国の象徴の1つである『三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)』が出土されるようになります。三角縁神獣鏡は、邪馬台国の卑弥呼が魏国より倭王の印として賜ったと言われる鏡ですが、北九州であまり出土せず、もっぱら畿内や王朝に付き従った豪族の墓から出土します。

 

この事から、邪馬台国は畿内にあったという説が有力視されるのですが、肝心に大陸から三角縁神獣鏡は出土されず、2015年(平成27年)に中国の骨董市で三角縁神獣鏡が発見されたという報告がなされているだけです。

 

三角縁神獣鏡が大陸から伝わってきたかの議論はともかくとして、畿内で出土する三角縁神獣鏡のほとんどが国内産であると思われるのです。

 

さて、最初に邪馬台国と神武王朝は別であると言いました。

 

3世紀まで邪馬台国、あるいは、邪馬台国を名乗る北九州の勢力が存在し、神功皇后に併合されたことで仲哀王朝は、倭国の王である大和王朝(邪馬台王朝)を名乗り、国号を『奴羅(なら)』から『大和(ヤマト)』に改めたのではないでしょうか。

 

つまり、

 

3世紀以前の北九州にあった卑弥呼の邪馬台国、

 

4世紀以後に倭国併合した神功皇后の邪馬台国(ヤマト)の2つが存在するのです。

 

邪馬台国がどこにあったのか?

 

それは、九州説でも、畿内説でもなく、時代と共に移り変わったのです。

 

しかし、何故、古事記・日本書記は、邪馬台国の存在を隠したのでしょうか?

 

古事記・日本書記は共に7世紀の天武天皇の御世に編纂を命じられました。日出づる天子を名乗った聖徳太子は、600年(推古8年)の遣隋使で国号を『日本』と改めて、50年以上も過ぎ、今更に邪馬台国の国号を隠す意味もなかったでしょう。

 

これには、古事記・日本書紀の成り立ちによって判るのです。

 

次は『古事記・日本書紀の成り立ち(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)』から考えてみましょう。

3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある))へ

《第15代天皇から第17代天皇の在位》

 

応神天皇:在位41年

 

仁徳天皇:在位87年

 

履中天皇:在位6年(倭の五王、讃)413年『晋書』安帝紀、『太平御覧』〕

 

※1).『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)

 

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm)より抜粋

 

 倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

 

 倭人は帯方郡の東南の大海中に在り、山島に拠って邑落国家を為している。昔は百余国、漢代には朝見する者がおり、今は使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国。

 

 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。

 

 帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、四方は四百余里ほど。土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する①。

 

 筆者注記① 当時の市は、物々交換を行なう交易の場とされる。従って、糴の訳は「穀物と物々交換する」と意訳するのが妥当だと思われる。

 

 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

 

 また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。

 

 又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。

 

 また別の海を渡り、千余里で末盧国に至る。四千余戸あり、山海に沿って暮らしている。草木が盛に茂っており、前を行く人の姿が見えない。上手に魚や鰒(アワビ)を捕り、水深の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。

 

 東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐。

 

 東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸あり、代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに逗留する。

 

 東南至奴國百里、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離、有二萬餘戸。

 

 東南の奴国に至るには百里、官は兕馬觚、副は卑奴母離といい、二万余戸ある。

 

 東行至不彌國百里、官曰多模、副曰卑奴母離、有千餘家。

 

 東に行き、不彌国に至るには百里、官は多模、副は卑奴母離といい、千余家ある。

 

 南至投馬國、水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。

 

 南に投馬国に至るには水行二十日、官は彌彌、副は彌彌那利といい、五万余戸ほどか。

 

 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。

 

 南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万余戸ほどか。

 

 自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有為吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里。

 

 自女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが、その余の国は遠くて険しく、詳細を得ることが出来なかった。次に斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、これが女王の領域内の全部である。

 

 その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、不属女王に従属していない。郡より女王国に至るには一万二千余里である。

 

 男子無大小皆黥面文身②。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽、東治之東。

 

 男性は長幼の別無く、顔と身体に刺青を施している。古より、そこの遣使が中国を詣でると皆が大夫を自称した。夏后(夏王朝)の少康(第六代皇帝)の子(庶子の無余)が会稽に封じられ、蛟龍(伝説上の怪物)の被害を避けるため、短髪にして身体に刺青をした。

 

 今の倭の海人は水に潜って上手に魚や蛤を採取する。身体の刺青は大魚や水鳥を厭うからである。後にやや装飾となった。諸国の文身は各自に異なり、左や右、大や小、身分の尊卑で差がある。その道程からすれば、会稽の東冶の東にあたる。

 

 筆者注記② 黥は、犯罪者を明示するため、顔面に入れ墨をする古代中国の刑罰のこと。文身の文は、虎や豹などの模様の付いた毛皮を「文皮」というように文様の意味。従って、文身とは文様の付いた身体、すなわち刺青を彫った身体を表わしている。往時の中国では、文身を海洋民族の習性だと考えていたようだ。

 

 其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。其衣横幅、但結束相連、略無縫。婦人被髮屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。

 

 その風俗は淫乱ではない、男性は皆が露紒(ろしょう=頭に何も被らない)で、木綿を頭に巻いている(鉢巻き)。そこの衣は横幅があり、互いを結束して連ね(ラマ僧の巻衣)、簡単な縫製もない。婦人は髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のように作り、その中央に穴を開け、これに頭を突き出す(貫頭衣)。

 

 種禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃、所有無與儋耳、朱崖同。

 

 水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない。矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い、竹の箭(矢柄)あるいは鉄、あるいは骨の鏃、有無するところが儋耳(ダンジ)や朱崖(シュガイ。ともに海南島の地名)に同じである。

 

 倭地暖、冬夏食生菜、皆徒跣。有屋室、父母兄弟臥息異處、以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆、手食。其死、有棺無槨、封土作家。始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飲酒。已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐。

 

 倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。屋室があるが、父母兄弟は寝室を別とする。朱丹を身体に塗り、中国の白粉を用いるが如きである。飲食には御膳を用い、手で食べる。死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴び(禊だと思うが、原文の入浴に従った)をする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。

 

 其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢、不食肉、不近婦人、如喪人、名之為持衰。若行者吉善、共顧其生口財物;若有疾病、遭暴害、便欲殺之、謂其持衰不謹。

 

 そこの行き来では、海を渡って中国を訪れるが、常に一人を頭髪を櫛で梳(けず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを持衰(じさい)と呼んでいる。もし航行が吉祥に恵まれれば、共に訪れる(者)が生口(奴隷)や財物を与え、もし疾病が生じたり、暴風の災害などに遭ったりすれば、これを殺す、その持衰の不謹慎が(災いを招いた)というのだ。

 

 出真珠、青玉。其山有丹、其木有、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏號、楓香、其竹篠簳、桃支。有薑、橘、椒、蘘荷、不知以為滋味。有獮猴、黑雉。

 

 真珠や青玉を産出する。そこの山には丹(丹砂=水銀)があり、樹木には楠木、栃、樟、櫪、橿、桑、楓。竹には篠、簳、桃支。生姜、橘、椒、茗荷があるが、滋味なることを知らない。猿や黒い雉がいる。

 

 其俗舉事行來、有所云為、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火坼占兆。其會同坐起、父子男女無別、人性嗜酒①。見大人所敬、但搏手以當跪拜。

 

 注記① 其俗不知正歳四節、但計春耕秋收為年紀。

 

 そこの風習では、事を起して行動に移るときには、為す言動があり、すなわち骨を焼いて卜占で吉凶を占う。先ず卜占を唱えるが、その語句は令亀の法の如く、火坼(熱で生じた亀裂)を観て兆(きざし)を占う。

 

 そこでは会同での起居振舞(たちいふるまい)に、父子男女の差別がない。人々の性癖は酒を嗜む①。大人(高貴な者)への表敬を観ると、拍手を以て跪拜(膝を着いての拝礼)にあてている。

 

 注記① 『魏略』によれば、そこの風習では、一年に四季があること(歴)を知らない。ただし、春に耕し、秋に収穫をすることを計って年紀としている。

 

 其人壽考、或百年、或八九十年。其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。婦人不淫、不妒忌。不盜竊、少諍訟。其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國、國有市、交易有無、使大倭監之。

 

 そこの人々は長寿で、あるいは百年、あるいは八、九十年を生きる。そこの風俗では、国の高貴な者は皆、四、五人の婦人、下戸(庶民)はあるいは二、三人の婦人を持つ。婦人は淫乱ではなく、嫉妬をしない。

 

 窃盗をせず、訴訟は少ない。そこでは法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は各々に差別や序列があり、互いに臣服に足りている。租賦を収めている。邸閣(立派な高楼)の国があり、国には市があり、双方の有無とする物を交易し、大倭にこれを監督させている。

 

 自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

 

 女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。常に伊都国で治め、国の中では刺史の如くある。王が使者を京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国に派遣したり、郡使が倭国に及ぶときは、皆、港に臨んで点検照合し、文書、賜物を女王に詣でて伝送するが、間違いはあり得ない。

 

 下戸與大人相逢道路、逡巡入草。傳辭説事、或蹲或跪、兩手據地、為之恭敬。對應聲曰噫、比如然諾。

 

 賎民が高貴な人物と道で出会えば、後ずさりして草群に入る。言葉で伝達すべき説明事は蹲(うずくま)るか、跪(ひざまづ)いて、両手を地に着けて敬意を表す。応答する声は噫(いい)と言い、これで承諾を示す。

 

 其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。

 

 その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(五斗米道の教え)に従い、(呪術で)よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。王位に就いて以来、会えるものは少なく。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観、城柵は厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいる。

 

 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

 

 女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や黑歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。

 

 景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。

 

 景初二年(238年)六月(通説では景初三年の誤記とする)、倭の女王が大夫の難升米らを派遣して帯方郡に詣で、天子(魏の皇帝)に詣でて朝献することを求めた。

 

 太守の劉夏は官吏を遣わし、送使を率いて京都に詣でる。

 

 其年十二月、詔書報倭女王曰:制詔親魏倭王卑彌呼。帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。

 

 その年の十二月、詔書を以て倭の女王に報いて曰く「親魏倭王卑彌呼に制詔す。帯方太守の劉夏は使者を派遣し、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利を送り、汝が献ずる男の奴隷四人、女の奴隷六人、班布二匹二丈を奉じて届けた。汝の存する場所は余りにも遠いが、遣使を以て貢献してきた、これは汝の忠孝であり、我は甚だ汝を哀れに思う。

 

 今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米、牛利渉遠、道路勤勞。今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。

 

 今、汝を親魏倭王と為し、仮の金印紫綬を包装して帯方太守に付託し、汝に仮授せしむ。その種族の人々を鎮撫(鎮めなだめる)し、努めて孝順させよ。汝の使者の難升米、牛利は遠来し、道中の労に勤める。今、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮授し、引見して慰労を賜い、遣わして還す。

 

 今以絳地交龍錦五匹①、絳地縐粟罽十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹、答汝所獻貢直。

 

 ① 臣松之以為地應為綈、漢文帝著皂衣謂之弋綈是也。此字不體、非魏朝之失、則傳寫者誤也。

 

 今、絳地の交龍錦(龍が交わる絵柄の錦織)を五匹①、絳地の縐(ちりめん)粟罽(縮みの毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺と青五十匹、これらを汝の貢献の値として贈答する。

 

 注記① 臣松之は、地は綈に対応するとし、漢の文帝は黒い衣を着るが、これを弋綈と言うのである。この字は字典に則らず、魏朝の過失にあらず、書写の者の誤記である 。

 

 筆者注記 絳は深紅の意味で、絳地は深紅を基調(深紅地)となるが、本文注記に記載があるように、現代漢語でも、地「di=ディ」と綈「ti=ティ」と同一の音調であり、上古音韻では同音だった可能性もある。従って、地は綈(つむぎ=紬)の誤記とされる。

 

 又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人、使知國家哀汝、故鄭重賜汝好物也。」

 

 また、特に汝には紺地の句文(区切り文様)錦三匹、細班華(細かい花模様を斑にした)毛織物五張、白絹五十匹、金八両、五尺の刀を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装して難升米、牛利に付託するので、帰還したら目録を受けとるがよい。(それらの)すべてを汝は国中の人々に顕示し、魏国が汝に情を寄せていることを知らしめよ、それ故に鄭重に汝によき品々を下賜したのである」。

 

 正治元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。

 

 正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎(もたら)された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。

 

 其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。

 

 その四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木弣(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗らは一同に率善中郎将の印綬を拝受した。

 

 其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。

 

 その六年(245年)、詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に付託して仮授せしめた。

 

 其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米為檄告之。

 

 その八年(247年)、(帯方郡)太守の王頎が(洛陽の)官府に到着した。

 

 倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は元より不和。倭は載斯、烏越らを派遣して、(帯方)郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。(帯方郡は)長城守備隊の曹掾史である張政らを派遣し、詔書、黄幢をもたらし、難升米に拝仮させ、檄文を為して、(戦いを止めるように)これを告諭した。

 

 卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與、年十三為王、國中遂定。政等以檄告壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還、因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

 

 卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄文を以て壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けたによって、臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。

 

※2).畿内・近国・中国・遠国<平安時代の延喜式>

 

■畿内

 

大国:大和国、河内国 、山城国、摂津国

 

上国:なし

 

中国:なし

 

下国:和泉国

 

■近国

 

<東海道>

 

大国:伊勢国

 

上国:尾張国、三河国

 

中国:

 

下国:伊賀国、志摩国

 

<北陸道>

 

大国:

 

上国:

 

中国:

 

下国:

 

<東山道>

 

大国:近江国

 

上国:美濃国

 

中国:

 

下国:

 

<山陰道>

 

大国:

 

上国:但馬国、因幡国、丹波国

 

中国:

 

下国:丹後国

 

<山陽道>

 

大国:播磨国

 

上国:備前国、美作国

 

中国:

 

下国:

 

<南海道>

 

大国:

 

上国:紀伊国

 

中国:

 

下国:淡路国

 

■中国

 

<東海道>

 

大国:

 

上国:遠江国、駿河国

 

中国:能登国

 

下国:伊豆国

 

<北陸道>

 

大国:越前国

 

上国:加賀国、越中国

 

中国:

 

下国:

 

<東山道>

 

大国:越前国

 

上国:甲斐国、信濃国

 

中国:

 

下国:飛騨国

 

<山陰道>

 

大国:

 

上国:

 

中国:伯耆国、出雲国

 

下国:

 

<山陽道>

 

大国:

 

上国:備中国、備後国

 

中国:

 

下国:

 

<南海道>

 

大国:

 

上国:

 

中国:

 

下国:

 

<西海道>

 

大国:

 

上国:阿波国 、讃岐国

 

中国:

 

下国:

 

■遠国

 

<東海道>

 

大国:武蔵国、上総国、下総国、常陸国

 

上国:相模国

 

中国:

 

下国:

 

<北陸道>

 

大国:

 

上国:越後国

 

中国:佐渡国

 

下国:

 

<東山道>

 

大国:上野国、陸奥国

 

上国:下野国、出羽国

 

中国:安房国

 

下国:

 

<山陰道>

 

大国:

 

上国:

 

中国:石見国

 

下国:隠岐国

 

<山陽道>

 

大国:

 

上国:安芸国、周防国

 

中国:長門国

 

下国:

 

<南海道>

 

大国:

 

上国:伊予国

 

中国:土佐国

 

下国:

 

<西海道>

 

大国:肥後国

 

上国:筑前国、筑後国、豊前国、豊後国、肥前国

 

中国:日向国、大隅国、薩摩国

 

下国:壱岐国、対馬国

 

 

※3).住吉神社(すみよしじんじゃ)は、主に底筒男命(ソコツツオノミコト)•中筒男命(ナカツツオノミコト)•上筒男命(ウワツツオノミコト)の住吉三神を祀る神社であり、

 

三大住吉神社と呼ばれるのが、

 

住吉大社 - 大阪府大阪市住吉区住吉

 

住吉神社 (下関市) - 山口県下関市一の宮住吉

 

住吉神社 (福岡市) - 福岡県福岡市博多区住吉

 

であります。

 

鹿児島の住吉神社(鹿児島県曽於市住吉山)には、標高267mの住吉山(姥が嶽)の中腹に鎮座し、樹齢800年の巨木に囲まれて鎮守の森の中にひっそりとたたずんでおります。当町檍原は、古事記、日本書紀に見えるように、伊邪那岐命が禊祓をされ、住吉三神を初め諸神を生じ給うた神代の要地であり、当神社はこの住吉大神の荒魂を祀るといわれ、海内諸住吉社の根本であるとされています。天和三年神祇道管領卜部朝臣兼連が、島津光久公の請いにより、当社の縁起を著しました。此の縁起は社司高橋魂正が蔵していたが、延享年中の火災により焼失したといわれ、同時に兼連が著した「日州檍原記」が「三国名所図会」に掲載されております。

 

※4).【夜須の地名伝説】

 

朝倉地方には、羽白熊鷲という強力な首長がいて、 朝廷の命にも従おうとしなかった。そこで筑紫の国に入られた神功皇后はまず、これを討たんと決意され、 策を立てて夜須町安野原におぴきよせられた。

 

 羽白熊鷲は強健で、身体には翼があり、よく飛ぴ高く翔けることができたから、神功皇后も、なかなかこれを討つことができなかった。そして神功皇后はこの強者を倒したのち、 その安堵感から周囲の者に「熊鷲を取り得て、我が心即ち安し」ともらされた。

 

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