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経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》 序章

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経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》
序章
1章.尾張編《こうして信長が生まれた》

【序章】

私が『応仁の乱』を学ぶきっかけは『信長公記の軌跡』の背景を調べる為でありました。

織田家は如何にして大名となり得たのか?

その為には、主家である斯波家、ライバルである今川家、将軍である足利家を調べずに通れなかったのであります。

今川の祖である今川範国(いまがわ のりくに)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名であり、駿河今川氏の初代当主となります。2代目当主を継いだのは、長男の貞臣ではなく、九州探題などに任免された次男の今川貞世(いまがわ さだよ)だと思われます。しかし、貞世は何の落ち度もなく、九州探題の地位を奪われ、遠江と駿河の半国守護に命じられます。実は室町三代将軍足利義満、出家して道義(どうぎ)と名乗っていた院に、あらぬことを吹き込んで貞世を失脚されたのは、博多の利権を狙っていた大内義弘なのですが、貞世は将軍に不信を覚えます。

そして、九州探題に指名されたのが渋川満頼(しぶかわ みつより)という斯波義将の血縁関係者でした。ここからすでに今川と斯波の因縁は始まります。

文献では、貞世の兄である範氏が駿河守護であり、範氏が亡くなった後に貞臣に駿河守護になるように言われたが頑なに拒絶し、貞世の子である貞臣が遠江半国守護、範氏の子である氏家が継ぎ、氏家が亡くなると弟である泰範が駿河今川第3代当主になったと残されています。

当時、長子が家督を継ぐという風習はあまりなく、今川貞世が今川2代目当主であり、お家騒動が起こらないように二つに別けたと考えられます。 

文献によっては、泰範が貞世と大内氏と繋がっていると風潮し、自らが今川家の家督を奪ったという解釈もありますが、貞世と泰範が激しく争った様子もなく、ただの世間の風聞と思われ、実際に貞世と応永の乱を起こした大内義弘は盟友関係で反乱の誘いを断っております。しかし、敵対するのは憚れるので甥の泰範が幕府軍に参戦しており、幕府も忠誠を誓う泰範に家督を継がせる方が安心できるという理由で泰範が家督を継がせただけでしょう。

 

織田の主家である斯波氏(武衛家)の6代当主となった斯波義重(しば よししげ)は、応永の乱では父と共に幕府方として参戦し、負傷しながらも大内氏討伐の武功を挙げて、尾張守護職を与えられます。斯波家に仕えていた越前織田氏も義重の命で尾張に降り、尾張織田氏が始まります。

斯波義重は室町幕府管領、越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護を歴任しており、応仁の乱以後の混乱に今川が遠江の勢力を伸ばすと、遠江を浸食された斯波氏が今川氏と対立するという構図が完成したのであります。

 

東海から見る『応仁の乱とその後』を見るなら

信長公記の軌跡 目次 

番外13501572年番外編 信長公記の軌跡背景をご覧下さい。

 

もう一度整理しようと思ったきっかけは、中公新書の呉座 勇一著『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 』が20万部も売れているというニュースからです。一体どんな書物かと手を取ると切り口が斬新でありましたが、そうじゃないだろうと思いたい部分が沢山ありました。興福寺と朝廷の関係はおもしろく描かれておりますが、それだけが全国に戦乱が波及し、戦国時代へと落ちる訳もありません。世の中というは経済で回っており、畿内も地方も経済の論理から外れることはできないのであります。経済が行き詰まっていたからこそ、畿内で起こった戦乱が地方に波及し、『応仁の乱』となったのであります。そこで経済から見た「応仁の乱」というバラバラのピースを1つにしてみようと思った訳です。

 

すべての始まりは揺れ動く幕府の混乱が地方に波及し、それが全国で広がったのが『応仁の乱』の本質であります。それは行き詰まった経済体制が崩壊し、新しい規律が生まれる過程における動乱でありました。

応仁の乱の体制がはじまったのが聖徳太子の時代であり、各豪族が大王を中心とした国家造りをする上で、豪族の持つ土地を大王に差し出すことからはじまります。

大豪族であった蘇我馬子が大王に土地を返上し、その代わりに官位を頂き、土地の管理を命じられる。こうして、大王と豪族が主従の関係を作ることで律令制がはじまります。

それに抵抗したのが、蘇我入鹿を殺した地方の豪族達であります。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足なども加わっていましたが、あくまで遂行者の一人でありました。しかし、官僚制を否定する時代は中大兄皇子を頂点まで昇らせます。

こうして、中大兄皇子は律令制を廃止し、百済復興派と豪族が並び立つ共和制に戻したのでありますが、『白村江の戦い』に敗北すると、唐・新羅連合軍との決戦を覚悟して、中央集権の律令制を推し進める必要から大きく政治転換を図ります。

すると、地方の豪族の反発は大海人皇子を擁立する力となり、今度は壬申の乱によって大海人皇子は天武天皇となりました。しかし、地方の豪族の意に反して巨大な権力を持った天武天皇は律令国家の法体系が完成させてしまうのであります。朝廷は仏教を国教として、国分寺を地方に配置することで中央集権を強め、そして、地方の豪族をすべて臣下としてゆきます。そして、奈良時代に律令国家は完成しました。

ところが、中央集権の完成は同時に藤原氏という官僚政治のはじまりとなってしまったのであります。それは天皇と藤原氏との権力争いのはじまりを意味していました。藤原氏にとって不利益なことは天皇であっても覆せない。そんな現実を打開する為に天皇は寺院の僧侶に力を授け、天皇は官僚と寺院という2つの勢力に足を乗せて、2つを意のままに操ろうとしたのであります。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地を管理する者:公家・武家(執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

という3つの主従関係で結ばれたのであります。

調停人というのは、現代における立法(国会)と司法(最高裁判所)を兼ねた者です。そして、それを実行するのが官位を持った藤原氏などの公家たちであります。国司に任命された者は現地に赴き、土豪を管理することが要求されます。『枕草子』の著者である清少納言が、父・清原元輔の周防守赴任に際し同行したという話は聞いたことがあるでしょうか。藤原氏などの大公家になると、息子や兄弟、あるいは縁者を代理人として派遣することもありました。

現代ならば、土地の権利を認める権利書が存在し、諸事情を考慮した契約が結ばれる訳ですが、平安時代に権利などという言葉は存在せず、すべてを武力によって統治しておりました。派遣された国司に従わなければ、軍が派遣されて武力で制圧されます。

この武力は経済力に比例し、石高の大きさが軍を派遣できる兵の数になります。理屈から言えば、大領主である天皇に逆らう者はいなかったことになります。しかし、律令制が完成するに従って、実務を執り行う藤原氏に逆らう者がいなくなり、天皇といえども、藤原氏の意向を無視できなくなった訳です。

喩えるなら、「虎の威を借る狐」ということわざがありますが、キツネの言うことを聞いている内に、キツネの方が偉く思えて、誰もトラの言うことを聞かなくなったということです。そこでトラはクマを呼んで来て、権威を与えて味方を増やしたのであります。

 

しかし、律令制の完成が近づくと、すべての土地が天皇の物となります。民は搾取されるだけの存在となり、単に農作業に従事するという農作業は生産意欲の活力を削がれます。時に襲う飢饉や干ばつで作物の収穫が減ると民は罰されることを恐れて土地を手放して流民となりました。すると農民が激減し、生産石高も減り、朝廷の財政を圧迫しました。そこで新たに開拓した土地を開拓者の物とする『荘園制度』が始まります。公家・寺院はこぞって荘園を開拓しはじめてゆきます。こうして、中央集権の律令国家は完成した奈良時代から律令制が壊れ初めていったのであります。

荘園は天皇から赦された自分の土地でありますが、天皇から赦しを貰えるのは、公家か、寺院という縛りがありました。各地の豪族は公家や寺院と繋がりを深くし、公家・寺院の荘園が増えてゆきます。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

★土地の所有者:大公家、寺院(領主)

土地を管理する者:公家・武家(執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

一直線であった主従関係と別の領主が誕生した訳です。

すると、土地の持ち主の違う領主の間で争いが起こり、天皇は調停人、つまり、裁判官としての役割の比重が大きくなります。つまり、裁判を有利に進める為に天皇により近い官位を得ようと争いはじめるのであります。

飛躍的に勢力を伸ばすことになったのが寺院でありました。律令制がはじまると、土地を捨てた民は罪人として扱われます。ところが僧侶になると、その罪から免除されるのであります。もちろん、法的には違法なのですが、実際にほとんど取り締まれることがなかったのであります。

理由はいくつか考えられます。

最大の理由は数が多過ぎたことでしょう。

次に荘園の開拓者に『沙弥某(しゃみぼう)』(資格を得ていない出家者)、つまり、乞食坊主の名が多く残されていることです。荘園を勝手に開拓し、どこかの寺に申し出て許可を貰うと寺院は荘園を手に入れ、沙弥某は管理する権利を手にします。

たとえ、沙弥某が土地を捨てて逃げてきた罪人としても、寺の保護を受けた者を取り締まることは、寺と揉めることになり、役人も安易に手出しできないのでありました。

奈良時代、干ばつや飢饉で量に流民が大流れ込んできた都では、沙弥某によって荘園が多く開拓され、寺院は瞬く間に大領主となり、多くの僧兵を養える一大勢力へと成長したのでありました。

そういった寺院の勢力拡大を背景に道鏡(どうきょう)を皇位に付けようという称徳天皇(しょうとくてんのう)の画策も起こるのであります。道教の神託を伝えた宇佐神宮は平安時代において神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であったとされています。

俗に、桓武天皇は肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、ほとんど未開の山城国への遷都を行ったと言われますが、

称徳天皇(天武朝)

天皇・寺院 VS 藤原氏

光仁・桓武天皇(天智朝)

寺院 VS天皇・藤原氏

このように称徳天皇の死去によって、対立構造が逆転したのであります。そもそも井上内親王皇后の呪詛による大逆や他戸親王の廃嫡など、藤原氏と山部親王(後の桓武天皇)の陰謀であったと言われております。

奈良時代から平安時代を通して、怨念というのは天変地異を起こすと考えられており、天候の不順、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデター未遂、光仁天皇が不豫(病)、山部親王自身も大病を患ったとされております。即位した桓武天皇はわずか3年で長岡京に遷都を行い、逃げるように奈良から出たのであります。

ここで重要となるのは、奈良で絶大な権力を手に入れていた寺院でありますが、地方では大した勢力になっていなかったことです。天皇から派遣されている国司と国分寺の僧侶は表裏一体、コインの裏表であり、公家の原点である地方の氏族、土豪と呼ばれる有力者を統治するには互いに必要な存在でありました。

つまり、畿内ほど統治が盤石ではなかったのであります。特に東北はまだ従っていない部族が抵抗を続け、内輪揉めをしている余裕などありません。奈良の僧侶が決起して天皇の討伐を行っても、地方の豪族がどれほど賛同するかは判らなかったのです。

こうして、金科玉条を失った奈良の僧侶たちは藤原氏の菩提寺である興福寺と和議をしたのでありました。

ところで、この興福寺は平城京の東に位置し、背後に春日大社を配した1つの城のような構造となっておりましたが、天皇が東大寺の大仏鋳造という名目で興福寺の横に建てられました。これは藤原氏にとって痛恨の打撃でした。城壁の中に敵の本陣が突如として現れたようなものであり、藤原氏が遷都を急いだ理由の1つともされています。

平安京に遷った朝廷は、僧侶の勢力を分断する為に比叡山の最澄、高野山の空海を重用しました。朝廷を中心に怨霊を鎮める御霊信仰が広まったのもこの時期であります。平安時代を通じて、比叡山は大陸との交易、祠堂銭(お布施)などで富を稼ぎ、その富を土倉(どそう)や酒屋の前身である貸金業などで富を増やしていきます。

土倉や酒屋というのは、鎌倉時代から始まった金融業のことで寺院(寺・神社)が直接的に金(米や反物も代替通貨)を貸し出し、回収する仕事を商いとしたものであります。しかし、実際の回収は神人や僧侶が赴くことから、土倉や酒屋は名前だけの寺院(寺・神社)が運営する別会社のようなものでした。

因みに酒というのは、室町時代まで僧侶の専売品であり、甕の中に米を沈めてかき回した作る濁り酒、白酒のことを言います。現在、この工法で作っているのが、西條合資会社(大阪府河内長野市長野町十二番十八号)の天野酒であり、「太閤秀吉に愛された酒、僧坊酒」として発売されています。

また、土倉の金利は月8%と言われ、年換算で貸し付けの2倍になります。しかし、米は1粒が100粒くらいになって実りますから、倍返しでも採算がのった訳であり、作付米を貸してくれる寺院(寺・神社)はありがたがられていた訳であります。

そして、平安時代も末期になってくると、貨幣の申し子である『平清盛』が登場します。平安時代は総じて平安な世の中でありましたが、宮廷での権力争いは壮絶を極めました。これらの治安維持を生業とした警備に特化した役職である検非違使(けびいし)が置かれるようになり、これが武家へと変化してゆきます。荘園の拡大と比例するように下級の公家、つまり、武士が増加してゆきます。

その貴種となったのが源氏と平氏でありました。共に朝廷を祖とする家柄であり、経済的な基盤が薄い下級の公家として、武士を束ねる棟梁とされていきます。しかし、権力争いが地方、および、都での武力衝突が激化すると、武士の勢力が瞬く間に大きくなってゆきます。

それでも財政基盤の薄い武士たちは、天皇、上皇、公家衆に雇われる身であることはかわりません。ところが清盛の父、平忠盛(たいらのただもり)が鳥羽院政の御世で、肥前国神埼荘の預所となった当たりから激変します。宋人・周新の船が来航すると院宣と称して、荘園内での大宰府の臨検を排除しようとしたのであります。

そもそも遣唐使の廃止は894年に菅原道真が直言したことがきっかけと言われますが、廃止の令が出された訳ではなく、自然消滅したようです。唐は859年の裘甫の乱をはじめ、各地で反乱などが頻発するようになり、安全とは言い難い状態に突入します。

これにともなって大宰府に設置された公的な日唐交易、鴻臚館(こうろかん)交易は延喜3年(903年)に廃止されます。

ここから鴻臚館貿易は官営から私営に移行されます。その最大のパトロンが比叡山でありました。

960年に趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた宋(北宋)は、979年に中国統一し、五代の争乱を終わらせます。宋は文政国家を目指し、商工業を奨励し、貨幣経済を行き渡らせます。宋が鋳造した宋銭は東アジアの共通通貨として広がってゆきます。

11世紀に入ると宋の経済は益々盛んになり、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館は衰退します。

この宋貿易の巨大な富に目を付けたのが鳥羽上皇であり、平忠盛を使って取締り、巨万の富を手にいれたのであります。平忠盛も越前守に任じられ、日宋貿易から生まれる巨万の富の一部を得ることに成功し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになりました。

その基盤を継いだ清盛は、保元の乱、平治の乱を制して、大宰大弐となります。すると清盛は日本で最初の人工港を博多に築き、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握しました。日宋貿易を独占することに成功した清盛は、貨幣の発行権を一手に持つことになったのです。

現代風に言えば、総理から独立した財務大臣と銀行券を発行できる日銀総裁を兼務したようなものです。日本の富みの半分を清盛が牛耳ったと言っても過言ではなかったのであります。これによって、支配体制も新しいステージに変わります。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地の所有者:大公家、寺院(領主)

★土地を管理する者:公家・武家(領主、執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

武士も荘園を持つ領主となり、しかも平氏においては貨幣の発行権を持つ大財閥になった訳です。

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こうなると、領地を所有していても武力を有しない天皇や公家の立場は一気に弱体化します。しかし、平氏の基盤も盤石ではありませんでした。日本の通貨を日宋貿易に頼る為に、常に宋銭が足りないというデフレ基調が続きます。

デフレとは、通貨の価値が上がり、物の価値が下がります。十分な通貨が流通する西国では、通貨を介して物の売買がなされるので大きな支障は起こりません。強いて言うなら富める者がより富み、貧しき者はさらに貧しくなる。しかし、当時の生活様式から農民はほとんどが自給自足でありましたから、通貨の流通によって支障をきたす者はわずかでした。

しかし、様々な物を必要とする公家や武家、土豪の者は違います。特に東国には宋銭が圧倒的に不足していました。米や反物を代替通貨としていた東国の武士たちは、宋銭の価値が上がるほど、米や反物の価値が下がり、必要な物が買えないという状況に陥っていたのであります。

たとえば、紅や塩を買おうとしても、米や反物の価値が下がり、去年の半分しか買えなくなったとすれば、どう思いますか?

東国の人々は何も悪いことをしている訳ではないのですが、必要な物資を買うだけでドンドンと貧しくなってゆくのであります。

近年、30年以上も続いたデフレは、中間層という小銭持ちに直撃し、収拾も下がり続け、100円均一を買いあさる下流層へ転落しています。これは中間層が働くなくなったのではなく、貨幣の価値が上がり、給与が下がり、相対的に高い物は買えなくなった結果であります。デフレというのは、生綿で首を絞めるように、じわじわと生活に襲い掛かるのであります。

こうした生活が苦境に立たされてゆく東国武士の怒りが、平氏打倒という力となった訳であり、治承5年(1181年)に起きた『養和の大飢饉』により米の値段が高騰し、宋銭の価値が急激に下落したのであります。鴨長明の『方丈記』には、「さまざまの財物を食糧と交換しようとするが、誰も目にとめようとしない。たまたま交換する者がいても、金銭の価値を軽くみて、穀物の価値を重んじる」と書かれているように、平氏の持っている財貨は、石ころに成り下がってしまったのであります。

そんな弱り目の時期に清盛が亡くなり、源氏が立ち上がったのであります。持前の財貨で兵を集めようにも集まらない。平氏は成す術もなく敗れ、貨幣の申し子であった平清盛がその貨幣によって高転びしたのであります。

平家物語に出てくる「平家にあらずば、人にあらず」などという傍若無人な専横政治で人々を苦しめたということあらず、祇園精舎のフレーズも的外れなのであります。

もし、平清盛が需要を満たす十分な宋銭を供給できていたなら、源氏を担いで東国武士が立ち上がることもなかったでしょう。尤も偏西風を利用した年に1周しかできない日宋交易の船舶を簡単に増やすことはできないので宋銭を基軸通貨とする限り、デフレから脱却するのは不可能あり、大抵、デフレを放置した国家は国力を失い、民衆の離反から国を滅ぼしております。

この日宋交易で比叡山の延暦寺は、鳥羽上皇・平氏に掠め取られることになるのですが、その間隙を縫って、登場したのが禅僧の明菴栄西(みんなんえいさい)であります。栄西は建久2年(1191)に虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受けると、同年、帰国し、福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前、肥後を中心に布教に努めます。しかし、建久5年(1194)に天台宗からの排斥を受け、朝廷から禅宗停止が宣下されました。京に赴き、禅宗の正しさを解いて布教を許可されますが、単に新興宗教という理由で天台宗が目の仇にするでしょうか。

栄西は建久6年(1195)博多に聖福寺を建立し、鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜っております。つまり、鳥羽天皇から布教して良しという『許状』を貰ったようなものです。開業したばかりの一介の貧乏寺にそんな財力があったのでしょうか。

否、財貨を投資するパトロンがいたのです。

栄西のパトロンは、博多に拠点を置く宋や朝鮮の商人達でした。つまり、臨済宗の嗣法の印可を受けた高名な僧である栄西に先行投資し、日宋交易の便宜を図って貰うのが目的でした。強力なライバルの登場に天台宗が躍起になって排斥しようとするのも頷けます。

正治2年(1200)に栄西は北条政子建立の寿福寺の住職に招聘されたことから、日宋交易の窓口として選ばれたことが判ります。

日宋交易で生まれる巨万の富を供給する臨済宗は鎌倉幕府にとって重要なファクターとなり、鎌倉5山と呼ばれる建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の臨済宗の禅寺は北条氏の加護により勢力を伸ばすことに成功したのであります。

つまり、

鎌倉幕府は臨済宗と繋がることで日宋交易の巨万の富みを得ることに成功し、

臨済宗は鎌倉幕府の保護を得ることで勢力を伸ばし、

宋・朝鮮の商人は鎌倉幕府の許可を得て商売ができ、臨済宗の口利きで売り手が見つかる。

正に『WIN―WIN』(ウィン、ウィン)の関係が生まれたのであります。同じ新興宗教である法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗が時の幕府から厳しい沙汰が下されたのに対して、栄西の臨済宗は比叡山の天台宗からの弾圧はあっても、幕府から保護を受けていた点で大きく違うのであります。

また、室町幕府の3代将軍の足利義満が相国寺を創建した後に五山を京都五山としたことでも判るように臨済宗は、鎌倉幕府と同様に日明交易によって幕府に莫大な富を齎し、幕府からの保護を受けることに成功しているのであります。

さて、『応仁の乱』の主役は、天皇や大名のような刻の権力者のように思えますが、その兆しはまったくそんな所とは関係ない鎌倉初期から芽生えだします。

平清盛が生み出した貨幣経済は、様々な職業の分業を可能としました。

米・麦・粟・大豆を作る農民、

漆・カキ・炭・薪・織物などを作る商工業

土台・屋敷・納屋・水車などを作る左官、右官と呼ばれる大工

鉄など精製する鍛冶等々

もちろん、貨幣経済が進む以前から分業されていましたが、共同体の中での分業であり、その職業を生業として単独で生きてゆくことはできなかったのです。しかし、貨幣経済が進んでくると、鍛冶屋ならその農機具を宋銭に変えて貰うと、必要な物は市に言えば、すべて手に入るようになります。作業で必要な工具や生活の米や貴重な塩なども手に入れることが簡単になるのです。また、銭は場所を取らず、保管もできます。米や反物のように質によって価格が変わることもありません。鍛冶屋だけが沢山集まって、米を作らない鍛冶屋しかいない村なども生まれてくるのであります。

さて、幕府から厳しい沙汰を受けた法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗は、元々は皆、比叡山で学ぶ天台宗の僧でありました。その比叡山の天台宗は、土倉や酒屋を通じて祠堂銭を貸し出して、利鞘を稼ぐことを生業としておりました。

天候のよい年は、収穫から利子分を返しても十分に残りました。しかし、天候不順になると収穫が落ちて、年貢を払い、利子分を返すと何も残りません。そして、飢饉や干ばつが襲うと、利子分を返すことが出来ずに抵当となっている土地を奪われてしまいます。その奪った土地が比叡山の天台宗の新たな荘園となり、6万石程度まで膨らみます。それは国司(守護)と同等の力を持つようになったのであります。

そこで少し知恵のある僧侶でいれば、農民同士がお互いの不足分を補えば、利子を払わずに自分たちの利益になると教えはじめたのであります。

それが法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗でありました。浄土宗、浄土真宗の寺は、利子も取らずに金や米を無償で貸し与えてくれます。

あるとき払いの催促なし

そんな虫のいい話があるのでしょうか?

ホントにあったのであります。もちろん、それは布教活動の一環であり、農民の投資をして、お布施として回収するというビジネスモデルなのです。

天台宗のビジネスモデルは、天候が順調なら普通に儲け、洪水や飢饉で民が困ると、抵当の土地を回収して儲けます。

これに対して、

浄土宗、浄土真宗のビジネスモデルは、天候が良ければ、多くのお布施を要求して沢山回収し、天候が不順のときは回収しない。むしろ、吐き出して民衆を助けます。

どちらが民衆受けするのかは一目瞭然でした。

つまり、放置すれば、顧客がどんどんと浄土宗、浄土真宗に流れていってしまいます。天台宗の僧侶が、浄土宗、浄土真宗を目の仇にして弾劾するのにも理由はあるのです。

しかし、よく考えてみて下さい。

法然や親鸞がどんな巧いビジネス話を民にしても、民が一粒の米もお布施として奉納できないほど貧しければ、法然や親鸞も食べてゆけません。

平安~鎌倉~室町と民の生活はゆっくりと豊かになっていたのです。

歴史の教科書を見ると、農民の暮らしは少し楽にならず、戦乱と天候不順の洪水や干ばつで苦しめられ、飢えて死ぬ直前の悲惨な農民像しか浮かび上がりません。

しかし、平安~鎌倉~室町と農民の暮らしは楽になっており、農民の中には僧侶のパトロンになれるくらいの上農民が生まれてきていたのであります。鎌倉時代に始まった分業化は『惣』と呼ばれる自治的・地縁的結合による共同組織に発展してゆきます。

中世風に言えば、『ギルド』と呼ばれる組合が生まれてきていたのであります。この『惣』は、横の繋がりを持ち、領地内、あるいは、地域全体を結びます。この『惣』と新興宗教が結びつくと、時代が進むにつれ爆発的な力が発生させてゆきました。

それゆえに法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗を天台宗が天敵として弾圧するのも頷けるのであります。

因みに日蓮宗も浄土宗・浄土真宗とビジネスモデルは同じでありますが、1番大きな違いはパトロンを武家に求めたところであります。法然や親鸞が国体というものを意識しなかったのに対して、日蓮はこの国をどうするかと憂いておりました。

日蓮は天台宗、真言宗が独自繁栄のみに固執する宗教であり、この国の行く末を考えていないと考え、日蓮宗を国教とすることで、この国を救おうという野心的な宗教家でありました。日蓮が没した後は、それぞれのパトロンとなる武家を擁護し、宗派内で対立が絶えないというジレンマを抱えることになってしまったのです。

武家の権力争いが宗派内の対立になるのは、喜劇としか言いようがありません。

 

様々な権力争い、宗教間対立と、大陸からの侵略など、国難は何度も襲ってきましたが、それでも奈良時代・平安時代・鎌倉時代と温暖期が続き、米の生産量が自然拡大するという恵まれた時期でありました。

ところが、室町時代の1400年前後からミニ小氷期に入り、天候不順が続くようになると、それまでに溜まった理不尽が一気に吐き出してきます。

貨幣経済によって産み落とされた『惣』という金づるを誰が支配するのかというジレンマも限界に達したのでありました。

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地の所有者:大公家、寺院(領主)

土地を管理する者:公家・武家(領主、執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

どこにも所属していない↓

★惣という名の共同組合:大衆(領主ではないが銭を持っている者)

どこにも属さない金を生み出す集団、その処遇を巡って、権力争いの火種が全国に広がっており、その発火点を将軍家が自ら付けてしまった。

惣のやっかいな所は銭を持っていることであり、水の利権を争うのとは意味が違う。惣を手に入れた者は経済的に豊かになる。

典型的な例が、

織田信長であり、津島と熱田を手に入れたことで50万石並の権力を手に入れます。

信長の先駆者としては、堺を持っていた細川、博多を持っていた大内などが、石高以上に権力を持ち、応仁の乱の主役を張ります。

しかし、応仁の乱を単なる権力争いとしか見ていなかった彼らは、カオス的に権力が分散し、社会秩序を維持できなくなった奈良時代から続く律令制度の限界と気づくことなく、最後までその本質に手を付けることはありませんでした。

結局、信長の登場を待つしかなかったのであります。

 

応仁の乱とは、地面の中でくすぶっていた欲望が芽をはやすて可視化されたという意味で時代の転換期を表わします。しかし、これを理解しようと思っても中々手間が掛かります。戦いを始めた細川勝元と山名宗全も、争いのキッカケを作った畠山氏と斯波氏も、神輿に担ぐ将軍も互いに思惑は違うのであります。

そもそも西軍の指揮官の山名宗全が義政と富子の子である義尚、東軍の指揮官の細川勝元が義政の弟の義視を擁立しよとしてはじまった戦いですが、東軍の義視の子の足利義稙(義材)が義政の養子に入るとなって西軍に寝返って終決します。大将が寝返るって、何の為に戦ったのか判りません。

しかし、西軍の山名宗全が9代将軍候補に擁立した義尚が勝ったハズが山名家自体は衰退し、東軍の足利幕府に3つあった管領家のうち斯波・畠山両家は衰退し、細川氏が管領職を独占しました。

西軍である足利義尚の勝ち?

それとも東軍の細川氏の勝ちでしょうか?

援軍に来た武将も途中で寝返り、寝返ってきた武将が嫌いだからと言って、逆に寝返る武将もいます。

大義も名分もあったものではありません。

つまり、『応仁の乱』は、様々の欲が露わになった事例なのです。

ゆえに、応仁の乱の本質を知る為には、様々の方面からスポットライトを当てて、それぞれの『応仁の乱』を知らなければ、応仁の乱を知ったとは言えないのであります。

 

では、経済という1つの定義で『応仁の乱』を様々な視点から見て行こうと思います。

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1章.尾張編《こうして信長が生まれた》

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

 

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