おんな城主直虎 ついに桶狭間
おんな城主直虎も桶狭間の週です。
いよいよ、時代が動きます。
井伊直盛の伯父が
「義元の首をとって来い」
と言いいましたが、
井伊直盛は、豪雨で進む信長を見逃して、義元に向かうように仕向けるのでしょうか?
伏線回収しないだろうな~と、思いつつ。
桶狭間を少し覗いてみましょう。
桶狭間と言えば、信長と義元の天下分け目の大合戦です。
織田信長と今川義元の国力差は、3000VS2万5000ほど差はありません。
石高でみると、駿河一国ならたったの15万石だったのです。駿河、遠江、三河の3国の石高で70万石と非常に少なく、尾張一国で57万石もあります。
実際に信長が抑えていたの半国ですから、20~30万石です。ただし、経済活動で義元は金山を持ち、信長は津島と熱田を手にしていましたから、義元100万石と信長50万石の戦いでありました。
つまり、織田の兵力は総勢1万5000ほどあります。
しかし、義元が武田・北条を気にせず、大兵力を移動できるのに対して、信長は背後に斉藤と本願寺の荷ノ上城は今川方であり、背後に兵を残さないといけません。さらに上尾張は平定して間もなく、裏切る可能性もあります。
<013 永禄2年桶狭間の戦い 城の位置>
しかも義元は福谷城を回って岩崎城から下社城、那古野城を目指す進路もあります。下社城や守山城にも兵力を残す必要がありました。
信長の有利な点は1つであります。
戦場との距離が短い。
<001 信長の進軍時間>
そうは言っても、大高城は信長の持つ領土で一番遠い場所です。
大高城と鳴海城のまわりに砦を築き攻めていますが、毎月の新月の日に食糧が入れられます。二城は黒末川という海・河沿いにあり、新月の満潮になると、信長方は舟でしか移動できません。援軍が期待できないところで三河から二城に食糧を入れ込むのです。
<005 参謀本部刊「日本の戦史 桶狭間」付図>
同時に、信長の背後である斎藤 義龍(さいとう よしたつ)に教えてやっているのです。
信長と義龍は、足利義輝の仲介で停戦しておりますが、道三が義龍に殺されてから敵対関係です。東美濃が道三について離反し、武田に降ったので、武田と織田の両面攻撃を避ける為に停戦を受け入れています。
織田に何かあれば、すぐに攻める準備をして待っていますから、信長も北と西の備えを手薄にする訳もいきません。
<006 桶狭間周辺の地形>
桶狭間周辺の地形はこんな感じであり、大高城は小城ですから本隊3000人を受け入れません。昼にはすでに落ちたと報告がありますから、今川の本隊は沓掛城から直接に鎌倉街道を西進して、鳴海城を目指すのが上策です。しかし、義元は大高城を目指し、桶狭間山で陣を貼りました。
<003 信長の進軍ルート>
これでは善光寺に到着した信長の針路は3つなります。
もし、義元が鎌倉街道から進軍したなら、信長は正面で受けるしかありません。可能ならば、前に進んで狭い街道で大軍の有利を消して戦いたいと思うはずです。それができなければ、撤退しかありません。
義元の狙いは信長を誘い出すことにありました。
ゆえに、桶狭間に陣取れば、信長は中島砦に入ると考えたのではないでしょうか。
信長は戦力で劣るので、
中央突破か、迂回挟撃か
その方法以外の勝つ道はありません。
義元は、信長を中島砦に入れた後に善光寺を強襲して、包囲することを考えていました。
もしかすると、先手を取った信長が柴田を迂回挟撃させていたのかもしれません。
<009 柴田勝家による迂回挟撃>
中島砦に入った時点の今川の配置はこんな感じであります。
<012 桶狭間における部隊の配置>
中島砦から出陣した信長は、正面の諏訪山に布陣している鵜殿長照に当たります。
今川義元の戦略は徹底しており、
外様の武将から前線に投入します。丸根・鷲頭の砦には松平元康と井伊直盛の当て、一戦終わった松平を大高城に入れ、井伊を下げます。
大高城は600人ほどの城ですから、あぶれた本多忠勝の隊は抜け道のある丸根砦付近で休憩していたでしょう。そして、戦いっていない大高城の兵である鵜殿長照を前に出します。
朝比奈や松井の軍は常に温存です。
中島砦から討って出た信長は、緒戦の勝つと雨が降り始めてきました。普通ならここで兵を休める為に中島砦に戻ると考えますが、信長が勝利の勢いと豪雨を利用して兵を前に進めました。
信長公記によれば、
前に進むと義元の隊が待ち構えていたとあります。
<015 桶狭間 偶然に起こったエアーポケット?>
漆山から長坂道を上れば、高根山があり、そこで松井の軍が待ち受けています。
松井の横には井伊の軍が配置され、その後には松平政忠の軍が待ち受け、その後に本隊の義元が桶狭間で待っています。
散り尻になって進んだら桶狭間が前にあったのかもしれません。
太子ケ根の麓の方に釜ケ谷があり、そこで信長の兵が集まるのを待ったと言われ、その先に分レ道と近崎道の間に藪林の丘があり、その藪林の中に抜け道がありました。
そこは、信長坂と言われ、信長が駆け上がっていったという伝承が残されています。
しかし、戦力差を考えれば、無茶な話です。
集まったと言っても、前線では松井・井伊の軍と戦っているので、信長に集った兵数は700人もいたのか疑わしいのです。
その700人で3000人の義元本隊、しかも桶狭間山に陣取っている部隊を払って上らないといけないのです。
よって、私はこういう偶然があったのではないかと予想します。
<012 桶狭間における部隊の配置>
信長は中島砦から出て、一戦して勝利します。
信長が直進すれば、今川のどこかの隊に当たり、義元の下にその報告が入ってきますが、どこからも来ません。
豪雨の中では敵味方の班別が出来ない為に、信長は諏訪山の諏訪神社当たりを確保して、一旦、中島砦に戻ったと思ったのでしょう。
義元が最も恐れるのは、砦を放棄して撤退してしまうことです。せっかく、信長を釣り出したのにここで逃がしてしまうのはおしい。
後方の予備兵力は、信長が前線を突破してきた場合の兵力であり、信長が善戦している相場は義元の周りから離れません。しかし、信長の戦いが膠着すれば、予備兵力は信長の後方に投入されて善照寺を落されます。
すると中島砦は孤立無縁で取り残されます。
そうさせない為にも信長は進軍すべきであり、手を緩めることはあり得ないと義元は考えます。つまり、信長はこの豪雨を利用して撤退しようとしている。
義元はそう考えたのかもしれません。
そこで豪雨の中で予備兵力を善照寺に進める指示を出しました。
<016 豪雨の中の配置替え>
もし信長が引き上げようとしているなら信長と当たります。そして、単に中島砦で休息しているだけなら、雨が上がった時に退路を断たれていることに気付くのです。
信長公記を見れば、信長は迂回の兵を割いたとはありません。
鎌倉街道は手薄です。
松平政忠の兵を先行させ、松井の軍を後背に残して万全を取り、松平政忠の後ろ、善照寺の東側に義元本隊を移す。
信長が義元を攻めるには、三浦、松平、井伊を突破しなければならない。
退路を断たれた中島砦の兵の士気は落ちます。
信長は死ぬ気で義元に突撃するか、
決死の脱出を図るしか手は無くなります。
将棋でいう『詰み』です。
しかし、ここで2つの予期せぬ事態が起こります。
★信長が幡印を捨てて、ゲリラ戦に変えたことです。
『甲陽軍鑑』には、「駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、身方(味方)のやうに入まじり」云々という記述に注目し、勝ったと思った義元が兵に乱捕りを許可し、信長が旗を仕舞って、敵に混じって近づいて首を取ったというものです。
・名乗りを上げない。
・どこの軍に所属するか明らかにしない。
・今川軍の振りをして前線を通り抜けて、突然、本隊に襲い掛かる。
邪道に徹した戦い方です。
勝っても自慢できず、負ければ、子子孫孫まで罵られる戦い方です。
まさか、そこでするとは義元も考えなかったのでしょう。
★豪雨が敵味方の区別できないようにした。
今川に寝返った水野氏は最前線に送られていたハズです。しかし、その水野氏を朝比奈氏が後日の帰り掛けの駄賃とばかりに襲っています。配置を見れば、松井氏の前衛、漆山に誰も武将を配していません。
そこが水野氏の配置場所だったのではないでしょうか。
水野氏は前方に通る部隊を確認しなかった。あるいは、信長と知っていた見逃したのではないでしょうか。
義元の性格から水野氏は勝っても負けても領土安泰はありません。
ワザと負けて、信長に道を譲るという裏工作はあったのかもしれません。ところが豪雨で前が見えない。味方か、敵か判らない部隊が通っている。
確認を手間取っている間に兵が通り過ぎる。
織田と気づいたので追い駆ける。
水野氏は今川を裏切っていないし、織田は義元の本隊に迎える。
策略家らしい水野氏の策ではないでしょうか。
織田を確信した後に、義元に報告が行きます。
しかし、そのときはすでに部隊の配置替えを命令した後であって、立ちはだかる松井・井伊の軍を無視して進もうとする信長の軍、移動途中で交通渋滞を起こしている義元の本隊、偶然の一致で、神輿に乗って移動中の義元を山から駆け下りて首を取るというシーンに繋がります。
つまり、豪雨によって起きた。
信長の鬼手と情報の錯綜という2つの偶然を信長が手に入れたという仮説です。
義元は完璧主義な人でしたから、
この将棋詰みだ!
と確信した所、信長は盤の外を回って王手を掛けてきた感じがします。
信長は、義経に次ぐ、常識を打ち破る武将であった。
その1点が義元を上回っていたのでしょう。
この話は『信長協奏曲』が放送されている頃に書きましたが、アップしていなかったのでアップしておきました。
詳しいことは下で見て検証して下さい。
主な内容は、その3、その4に書かれています。
24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/24-15603-2b9c.html
24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/24-15603-3d9d.html
24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その3
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/24-15603-d324.html
24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/24-15603-b014.html
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