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2017年3月

経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》 1章.尾張編《こうして信長が生まれた》

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経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》
序章
1章.尾張編《こうして信長が生まれた》

 

1章.尾張編、こうして信長はうまれた。

.応仁の乱の復習

応仁の乱は、室町幕府第8代将軍足利義政(あしかが よしまさ)は、29歳になっても子がおらず、出家して天台宗浄土寺門跡となった異母兄弟の義尋(ぎじん、後の義視)を還俗させて跡目とした。しかし、それから義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生すると、日野富子は実子・義尚の将軍職擁立を切望する。富子が義尚擁立に頼みとした山名宗全・畠山義就に近づき、足利 義視(あしかが よしみ)の後見人である元管領細川勝元が対抗するという構図の下で起こった跡目争いであります。

文正元年(1466年)7月23日、足利義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を突然、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えるという事件が勃発します。そして、8月25日には斯波義敏に越前・尾張・遠江守護職も与えました。さらに、足利義政の側近は、謀反の噂を流して足利義視の追放、誅殺を図ったのであります。

この進言に異を唱えたのが、山名宗全は一色義直や土岐成頼らと共に足利義視と斯波義廉を支持します。足利義視も後見人である細川勝元を頼りました。

こうして、足利義政は、山名宗全と細川勝元の意見を聞き入れ、謀反を進言した伊勢貞親を近江に追放、側近であった季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則も失脚して都を追われた。伊勢貞親の側近であった斯波義敏が失脚すると、取り上げられていた越前・尾張・遠江守護職も斯波義廉の元に戻ってきたのであります。

山名宗全の目的は親戚関係であった斯波義廉を助けることであり、そのまま何事もなく終わるハズでした。

しかし、その6年前から始まっていた畠山の相続争いをしていた義就(よしひろ)と政長(まさなが)の争いが加わってきたのであります。

単純に申しますと、畠山 持国(はたけやま もちくに)は、家督するハズだった政長の父、持富を差し置いて、庶子の義就を後継ぎにすることを決めた為に、持富と義就が跡目を争って内紛を起こしていました。そして、持富は間もなく没し、政長の兄である弥三郎も死去した為に政長が父・兄に代わって跡目争いを繰り広げていたという訳です。

寛正元年(1460年)9月20日に将軍である義政は分国の紀伊国で根来寺の討伐に畠山軍が大敗したことに怒り、義就は失脚させて替わって政長が家督を継がせます。その後、政長は武功を立てて、細川勝元の後任の管領に就任します。

ここでは政長の妻の従兄弟が、細川勝元ということが重要です。

寛正6年(1465年)8月に義就は細川勝元と対抗する山名宗全・斯波義廉の支持を得て挙兵します。大和で義就派の越智家栄・古市胤栄も挙兵して政長派の成身院光宣らと戦い、11月に十市遠清の仲介で両者は和睦すると、12月に義就は上洛して義政により家督を奪い返し、政長の管領をはく奪します。

政長は細川勝元を頼り、応仁元年(1467年)1月2日に上御霊神社において挙兵し、御霊合戦または上御霊神社の戦い(ごりょうがっせん/かみごりょうじんじゃのたたかい)が勃発するのであります。

細川勝元は花の御所を占拠して足利義政から畠山義就追討令を願いでますが、富子が山名宗全に漏らしていたので山名宗全は自邸周辺に同盟守護大名の兵を多数集め、内裏と室町亭を囲み足利義政に畠山政長や細川勝元らの追放を願い出るという反撃にでます。

足利義政は畠山義就追討令を聞き入れず、また細川勝元の追放は認めませんでした。しかし、諸大名が一方に加担しないことを条件に畠山義就による畠山政長への攻撃を認めました。

こうして、御霊合戦は山名宗全、斯波義廉(管領)、山名政豊(宗全の孫)、朝倉孝景らの加勢を受けた義就が勝利します。一方、細川勝元が義政の命に従って兵を出さなかった為に政長方(畠山政長、神保長誠、遊佐長直、)は一方的に敗北して逃亡しました。

御霊合戦の後、細川勝元は四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させます。それに山名宗全も対抗します。

こうして、当初の勢力は、

東軍の主力:細川勝元、斯波義敏、畠山義政、京極持清、赤松政則、武田信賢

西軍の主力:山名宗全、斯波義廉、畠山義就、一色義直、土岐成頼、大内政弘

が睨みあい、京を中心に畿内、全国へと飛び火していきました。

『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上であったと記されています。

01-02 応仁の乱>

0102

(応仁の乱)〔応仁の乱 ウィキペディアHPより〕

応仁の乱を起こした人間関係は、

足利義視=<後見人>細川勝元=<妻が従姉弟>畠山義政 ⇔(対立)畠山義就

足利義尚=<富子>山名宗全=<親戚>斯波義廉 ⇔(対立)斯波義敏

であり、足利家、細川家、山名家、畠山家、斯波家の家督争いと権力掌握争いが合い重なっていることがよく判ります。

御霊合戦の時点では細川勝元が動かず、山名宗全の思惑で進みます。しかし、勝元が四国など領地9カ国の兵を京都へ集結させると形成は逆転し、東軍の優位は揺るぎません。しかし、周防の大内政弘、伊予の河野通春ら7か国の軍勢一万と2千艘の水軍を率いて入京したことにより西軍が勢力を回復します。

ここにおいて、将軍足利義政が跡目を義尚にするという意思を示した為に、勝元も義視に出家を進められて比叡山に登ります。ところが、西軍が比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に担ぎ出すというウルトラCを行うのであります。

東軍の大将であった足利義視が、西軍の大将に変わるという寝返りが起こるのです。この事により戦果はより一層長引くことになります。

東将軍:足利義政、幕府:幕閣 日野勝光、伊勢貞親ら(東幕府)

西将軍:足利義視、幕府:幕閣 正親町三条公躬、葉室教忠ら(西幕府)

東軍と西軍の戦いは、畿内において足利義視を擁立した為か、一進一退の停滞に陥ります。足利義尚の為に戦っていたのに、足利義視が突然に大将に変わったと言われても混乱したでしょう。京の戦いは大内氏の圧倒的な戦力の前に、周りの諸武将が日和見を決めたというところでしょう。勝元の相手は、大内氏と限定されるようになってゆきます。

経済的な面を見れば、博多港を有する大内氏、堺を有する細川氏以外は、戦闘を続けるだけの財貨がなくなったのであります。

戦というのは、財貨・兵糧を消費するばかりか、長期化すると石高も減ってしまいます。況してや戦場となった田畑の収穫はほとんど見込めません。本当に大喰らいの禄でなしであります。そろそろ戦争が嫌になっていたというのが本音でしょう。

文明3年(1471年)5月21日には斯波義廉(管領)の重臣で西軍の主力となっていた朝倉孝景が義政による越前守護職補任をうけて東軍側に寝返ります。これを契機に和解のムードが高まり、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれはじめます。

文明5年(1473年)3月18日に宗全が、5月11日に勝元が相次いで死去し、12月19日(147417日)には義政が義尚に将軍職を譲って隠居します。文明8年(1476年)9月14日に義政が大内政弘に和睦を持ちかけ、12月20日に義政と和睦します。

文明9年(1477年)11月11日に義視は子の義材を伴って美濃の土岐成頼のもとに亡命し、翌文明10年(1478年)7月10日に成頼と共に正式に義政と和睦しましたが、美濃に留まり続けました。こうして、応仁の乱は終りを告げます。

その10年後の長享3年(延徳元年、1489年)3月26日に9代将軍義尚が長享・延徳の乱で遠征先の近江で死去すると、義視は義材と共に上洛し、子の義材は10代将軍に擁立されます。

まとめ、

・室町幕府第8代将軍足利義政が体面を気にして、跡取りはっきりきめなかった。

---------- 足利義視 VS 足利義尚・日野富子 ----------

<お家騒動に有力守護を巻き込んだのは、まずかったでしょう>

・有力者の細川勝元と山名宗全・畠山義就の権力争い。

---------- 細川勝元 VS 山名宗全・畠山義就 ----------

<権力の陣取り合戦、身内や味方の地位や役職を勝手に弄りました>

・畠山持国が跡取りを勝手に変更、跡目の畠山持富を庶子の畠山義就に変えました。

---------- 畠山政長 VS 畠山義就 ----------

<将軍足利義政が戦に負けたからと言って、家督を変えたのは間違いだよね>

・斯波氏宗家の武衛家の家督に将軍が関与、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に。

---------- 斯波義廉 VS 斯波義敏 ----------

<守護と言っても守護代や家臣の力が、お家騒動を起こしていたんだ>

・将軍の基盤である財力と軍事力がなくなり、守護の権力争いが活性化し、紛争が続発します。

・外交が行き詰ると、最終解決は武力で決める。しかし、大内政弘などの外界の虎を呼び込んで混乱はさらに深まります。

中国に三国志と言われる有名な話があります。世が乱れ、黄巾の乱が起こると、群雄割拠して、武将や宦官などが百鬼夜行して権力争いを激化させます。そして、その味方を増やす為に外界から董卓を呼び寄せて、漢王朝は崩壊しました。

歴史とは常に繰り返すものであり、野心の旺盛な大内政弘などを巻き込んだ為に足利幕府の権威は地に落ちて、群雄割拠する時代を迎えたのであります。

 

2.尾張で起こった覇権交代

尾張が開拓されるようになったのは紀元前2世紀前のスサノオの時代であります。伊勢湾の奥に当たる尾張は、良質な漁場として発展してゆきます。また、建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)を祀る津島神社の当たりを海部(あま)地方といい、しそ科のえごま種子から胡麻を栽培しておりました。胡麻の栽培が盛んになった時期は、平安時代に弘法大師が悪疫退散を祈願した際にお供えしたお米のお下がりで作ったのが「あかだ」と呼ばれる油菓子であり、「不老不死の薬」を意味する仏教の「阿伽陀」に由来しているそうで、それ以降、津島神社周辺で胡麻を盛んに栽培するようになりました。

現代の油菓子「あかだ」は、硬さの後に残る上等な菜種油の風味と揚げた香ばしさ作りになっておりますが、菜種油が一般化するのは江戸に入ってからですから、当初は胡麻油を使用しておりました。織田信長の祖父である信定(のぶさだ)は、津島港を通じた荏胡麻油の専売、交易による莫大な収益で財を為し、その収益が父の信秀、信長の財政を支えております。

古代の日本は大陸の中華や朝鮮などと交易を行い、日本海が交通の要所となっております。京に最も近い若狭の敦賀は、入り江が深く絶好の港町として栄えます。敦賀から琵琶湖の西岸を通って京、敦賀から琵琶湖の東岸を通って伊勢へ延びる街道は、古代の主要街道でありました。敦賀から伊勢へ延びる街道の中間になる津島は、東海の入口として古代から栄えております。

津島の当たりを海部地方と呼んだ為かは判りませんが、越前国織田庄劔神社の祠官の系譜を引く、守護大名斯波氏の被官織田氏の支流の出身の織田信定は、忌部氏を称す藤原氏を祖とすると公言しております。これを信長の時代に平氏を祖とすると改めております。

 

7世紀に律令制が引かれますと、尾張国造の領地として尾張と名称されたのが、尾張の始まりであります。尾張には、海部・中嶋・葉栗・丹羽・春部(かすがべ)・山田・愛智・知多の八郡があり、皆、スサノオか、大海人皇子に由来する逸話や宮、神社などが多くあります。そもそも熱田神宮に奉納されている『草薙の剣』は、新羅王家に由来するものらしく、新羅の僧侶が盗み出し、河内湖の放出当たりで追っ手に追い付かれそうになって、剣を放ったとことから、大阪市鶴見区放出地区の『放出(はなてん)』という地名の由来となっております。スサノオを八坂神社で『牛頭天王』として祭っておりますが、牛頭の由来の1つが、新羅に牛頭山というのは古くから知られております。いずれにしろ、尾張には新羅系の渡来人と縁浅からぬ関係であったことが伺われます。

平安時代には、尾張国解文(おわりのくにのげぶみ)というのが残されている。これは永延2年11月8日(9881219日)付で尾張国の郡司・有力農民(田堵負名)が国守である藤原元命の非法失政を訴えるために朝廷に訴えた文書であり、「検田を行って正税を加徴する、公出挙や地子などの加徴を行う、交易の際に百姓から安価で絹を買い上げて余剰を他国で高値にて売りつける」という内容であり、国司が私利追求行為をしているという弾劾文になっている。10世紀頃、国司が悪政を働くことが横行していた証拠の1つであります。

さて、鎌倉時代になると国司は形骸化し、その役割を武家の守護が行うようになり、源頼朝の御家人であった土岐氏が美濃守護となりました。南北朝時代に土岐頼康が幕府方で活躍し、尾張守護を兼任するようになります。このとき、徳川家康の母である於大の方の実家である水野氏は、土岐氏に滅ぼされて一族飛散するという酷い目に遭いますが、応仁の乱前後の争乱に乗じて、知多半島で勢力を復活し、水野氏は織田家と今川家を手玉にとって暗躍する活躍を見せます。

形骸化したと言いましたが、調べて見ると面白い名前がでてきます。室町幕府を建てた足利家の祖先である源義康(みなもと の よしやす)は、父から下野国足利荘を相続し、足利を名字としました。その熱田大宮司藤原季範の養女(実孫)を娶っております。文永2年(1265年)4月、5代目当主足利家氏(あしかがいえうじ)が、尾張守(おわりのかみ)に着任し、尾張足利氏の初代当主となっておりました。ところが4代目当主の父の泰氏が、3代執権の北条泰時の長男である北条時氏の娘を正室として迎えたために異母弟である北条家の娘から生まれた頼氏(よりうじ)が足利家の家督を継ぐことになり、頼氏が室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏の曽祖父に当たります。

4代目の泰氏の妻は執権になるはずの北条朝時の娘だったのですが、執権には異母兄の北条泰時が就くことになり、朝時は主流からはずれ、北条時政の邸宅があった「名越(なごえ)」という地名を姓にし、北条朝時の子孫は名越氏を名乗ることになります。その尾張に住んでいた末裔の集落を「なごえ」と呼び、後に「なごや」と呼ばれたそうです。

5代目当主を廃嫡された足利氏は生涯を通じて足利の姓を名乗っていたと言われます。また。家氏は陸奥国斯波郡(紫波郡、しわぐん)を領したことより、斯波の祖と言われますが、その子孫である4代目高経・5代目義将親子の頃までは代々足利を名乗り尾張守に任官したことから足利尾張守と呼ばれていたそうです。

室町幕府第3代将軍足利義満(あしかが よしみつ)は足利最盛期の時期であり、日明貿易で得た莫大な利益は幕府の財政を支え、最も足利家の力が強くなっておりました。

その義満の元で斯波氏(武衛家)6代当主斯波義重(しばよししげ)は活躍しております。『応永の乱(おうえいのらん)』では、応永6年(1399年)に守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こし、義重は負傷しながら功績を上げ、土岐氏に代わって尾張守護に任じられます。足利尾張守を名乗っていた家柄からすれば、最高のご褒美というところでしょう。さらに応永12年(1405年)には幕府管領に任じられ、新たに遠江守護も加えられました。足利・斯波政権が始まります。義重は足利義満に可愛がられ、猶子となると共に名を義教(よしのり)と『義』の字を頂いております。

01-03 足利・斯波の系図>

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〔斯波氏家系図(清和源氏足利流)HPより少し改正〕

斯波義重の家臣を見ると、

朝倉氏5代目当主の朝倉 教景(あさくら のりかげ)は、斯波氏被官の立場にありながら、室町幕府の命により度々関東に出兵しております。嘉吉元年(1441年)に結城合戦で教景は6代将軍・足利義教から「教」の偏諱を賜り、「教景」と名乗るようになったと『朝倉始末記』に書かれており、朝倉氏は斯波氏の被官でありながら、独自の立場を持っておりました。

織田 常松(おだ じょうしょう)は尾張守護代として義重と共に下り、尾張下津城主(後の清洲城)となっております。甲斐氏が越前守護代と遠江守護代を兼任したのに対して、織田氏は尾張守護代を世襲するようになりました。守護義教(義重より改名)は在京することが多く、弟の織田出雲守入道常竹を又守護代として在地支配しております。

これが織田氏惣領家の伊勢守、又守護代の大和守と総称するようになり、織田信長の家系はその織田大和守の奉行職であります。

甲斐教光(のりみつ)は4代当主斯波 高経(しば たかつね)が越前守護となった頃にその執事として入京すると徐々に頭角を現し、娘を斯波義重(のち義教)に差し出して斯波義郷を生ませ、その立場を強固なものとしました。子の甲斐将教(ゆきのり)は義教に改名した義重から偏諱を与えられ、将教と改めると越前・尾張・遠江の守護代となり、越前・遠江の両守護代職を世襲するようになります。

01-04 足利・斯波・土岐・今川の関係>

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永享8年(1436年)に斯波義郷が洛中で落馬して死去。2歳の嫡子の義健が第9代当主家督継承すると、叔父の斯波持有、次いで分家の斯波持種と執事の甲斐常治の後見を受けるという体制に変わります。

第6代将軍足利義教は籤引き(神様)に選ばれた将軍として強権を振るいました。義教は甲斐常治や朝倉氏と繋がり、斯波氏を自らの武力とする政策を取ります。余りにも強引な手法は守護から反発を買い、特に悲観した赤松氏は将軍暗殺という『嘉吉の乱』を引き起こします。

嘉吉元年(1441年)の『嘉吉の乱』で幕府に応じて今川範忠は尾張まで出陣したが、9月10日の幕府軍の総攻撃で決着します。しかし、帰りがけの駄賃でしょうか。閏9月に斯波義健と遠江の所領をめぐって争っております。

義教が暗殺されてから、管領細川持之らに擁されて9歳で第7代将軍となった足利義勝(あしかが よしかつ)が、将軍になるのは嘉吉2年(1442年)であります。将軍不在の好機に遠江を取り戻そうとしたが、守護代甲斐常治に追い払われたというところでしょう。

また、将軍義勝の後見は細川持之であり、義教・斯波政権と対立していたことを推測すると、今川範忠の遠江奪還を細川持之から黙認されていた可能性は非常に高いと思われます。こうして、斯波氏と今川氏の対立は激化してゆきます。

さて、尾張は守護代の伊勢守と又守護代の大和守とで分割統治しておりました。第9代当主義健の急な死去に伴い、同い年の分家である大野斯波義敏(しば よしとし)が斯波10代当主に選ばれます。しかし、幼い当主を支える為に守護代の甲斐氏・織田氏、被官の朝倉氏の権力が増していました。

足利義政が室町幕府8代将軍に就任してから斯波家への干渉を強くし、守護代の甲斐氏は陪臣の身でありながら前例のない室町将軍の行幸を毎年のように得ていました。

特に義政の不知行地還付政策では、神社や仏閣という実効支配が及ばない所領(不知行地)にて、守護請で領主の年貢納入を請け負う代わりに家臣にその役割を負わせて収入を得るなどして守護領国制への指向を強めていったのを止める為に、寺社も還付された所領に幕府から代官を派遣、直接支配(直務)に乗り出しました。つまり、既存の代官を追い出して幕府から直接代官を派遣した訳です。

追い出された代官は、守護である斯波義敏に訴え、義敏は幕府に訴えますが敗訴します。こうして、代官など土豪に支持された義敏と幕府の支持された陪臣(甲斐氏、織田氏、朝倉氏)と対立し、遂に武力闘争まで発展し、『長禄合戦』で負けた義敏は、九州の大内氏まで下向します。その後、関東征伐を目論む将軍義政の思惑で紆余曲折ありながら渋川家から斯波義廉が斯波氏の家督を継ぎ、しかし、細川勝元の仲介で赦免され、政所執事伊勢貞親の意見を容れ、斯波義廉を退けて、再び義敏を斯波氏の惣領に戻されたことが、斯波義敏と斯波義廉が争う『武衛騒動(ぶえいそうどう』を引き起こし、同時期に起こっていた畠山氏のお家騒動が紛争化して、細川氏と山名氏の権力争いの『応仁の乱』(1467年)を引き起こします。

斯波義敏は細川勝元が指揮する東軍に入り、一方、斯波義廉は山名宗全が指揮する西軍に組み込まれた。斯波義廉の管領、及び越前・尾張・遠江守護職は、応仁2年(1468年)710日に褫奪されるが、西軍内では管領・三州守護に留まっている。

斯波義敏と対立関係であった主だった重臣(甲斐氏、織田氏、朝倉氏)は、義廉を支持して西軍に身を寄せている。しかし、その前年文正2年(1467年)1月21日には京都に残っていた松王丸(義敏の子、後の義寛)は祖父斯波持種及び叔父の竹王丸とともに義廉によって襲撃され、京都を脱出して尾張国に逃れていた。

おそらく、松王丸が身を寄せていたのが、又守護代である織田大和守家の敏定(としさだ)の元であったと思われる。尾張守護代である織田伊勢守家の敏広(としひろ)は、管領で尾張守護・斯波義廉と共に西軍に属して戦っている。敵である敏広の元に松王丸が身を寄せる訳もなく、又守護代の敏定が守護代の敏広と対立して戦う理由は、松王丸を擁護していた以外に考えられない。

文明4年(1472年)になると、細川勝元と山名宗全の間で和議がなるが、赤松政則の不調で不発に終わる。それに気を悪くしたのか、勝元は嫡男を廃嫡して、宗全の外孫に当たる実子の聡明丸(細川政元)を擁立した後に剃髪した。

文明5年(1473年)1月に「山名鶴房」と呼ばれる山名一族の重鎮であった伯耆・備前守護の山名 教之(やまな のりゆき)が死去すると、後を追うように2ヵ月後の3月18日に宗全も病死する。そして、5月11日に勝元も死去する。応仁の乱を引き起こした当時者がなくなったことで戦は散漫となり、その年の暮れ12月19日に将軍義政が義尚に将軍職を譲って隠居する。文明6年(1474年)、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立し、山名氏が西軍から抜ける。

文明7年(1475年)11月、甲斐敏光が東軍に寝返り、すでに朝倉孝景も寝返っていたので孤立した西軍の斯波義廉(管領・尾張守護)は守護代の織田敏広を伴って京都から尾張へ下国し、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城に入城する。

すると、文明8年(1476年)11月、又守護代の敏定は主君斯波義敏の命で、尾張中島郡にある尾張守護所の下津城を攻め、敏広と岳父である美濃国の斎藤妙椿ら岩倉方と戦い、勝利を収めた。その後、尾張を離れて京都に上洛したとされる。

一方、斯波義廉と織田敏広は山田郡の国府宮へと逃れていたが巻き返えして、大和守家の勢力を尾張から一時的に追放したとも言われるが定かではない。

土豪・国人衆は情勢に聡く、東軍が有利な状況で山田郡の国府宮に逃れた西軍の斯波義廉・織田敏広に付くとは考えられない。一方、東軍の斯波義敏・織田敏定の不安要素は浄土真宗の対立である。いずれ一向一揆が激化すると幕府と浄土真宗は対立することになる。しかし、蓮如は文明6年(1474年)から文明7年(1475年)まで吉崎御坊(福井県あわら市)に滞在し、東軍の富樫政親の要請を受けて守護家の内紛に介入しており、この時点では、浄土真宗と東軍は敵対していない。また、法華宗も同様であり、京の町で自警団を作って町の衆を守っているだけで積極的に政治に介入した形跡は見当たらない。

斯波義廉・織田敏広が盛り返して、斯波義敏・織田敏定を尾張から追放するのは無理筋である。もちろん、戦は水モノであり、追撃していた斯波義敏が逆襲を喰らって形勢が逆転することもあるだろう。しかし、最も考えられるのは、後々の政治的な発言力を得る為に東軍の斯波義敏は、一刻も早く上洛して、西軍を叩いた実績を作ることを重要視したと考えられる。ところが尾張を留守にしている間に斯波義廉・織田敏広が盛り返し、討伐の為に幕府の助けを借りることになったと考えられる。

文明10年(1478年)9月9日、敏定は室町幕府から尾張守護代に任じられ、「凶徒退治」(凶徒とは西軍に属す斯波義廉を指す)を下命されて京都から尾張に下国した。敵方であった美濃守護の土岐成頼・斎藤妙椿らの援助を受け、新たに守護所が置かれた清洲城に無事入城する。同年10月12日に敏広と戦い勝利するが、12月4日に敏広が清洲城を攻撃し、斎藤妙椿が敏広の救援に乗り出してきたため形勢は逆転する。清洲城は一時的に炎上し、今度は織田敏定が山田郡の山田庄に敗走している。

翌文明11年(1479年)1月19日に、斎藤妙椿の仲介で両軍は尾張を分割統治することで和睦し、尾張上四郡を守護代織田伊勢守敏広、尾張下四郡を守護代織田大和守敏定で統治する分轄統治が始まった。

01-05 享禄4年の尾張勢力図>

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〔享禄4年の尾張勢力図〕(享禄 元年 (1531) 信秀の台頭前夜 風雲勢力図ブログより)

尾張織田の台頭は、

『信長公記の軌跡 首巻   

http://hitokuti2.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-b294.html#_ga=1.26585589.97874448.1452047073

1538年 尾張国かみ下わかちの事

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/11538-3db1.html#_ga=1.203091673.97874448.1452047073

で書いておりますので、ご参考にして下さい。

 

3.経済から見た尾張

応仁の乱を武士階級から見ていますと、単なる権力争いでしかありません。学校の教科書もその点を重視しているのでまったく意味がありません。

山川の教科書には、「応仁の乱により、有力守護が在京して幕政に参加する幕府の体制は崩壊し、荘園制の解体も進んだ」とあり、その理由を詳しく載せておりません。これでは、『応仁の乱』で何が起こっていたのか判りません。

これでは、本当の主人公の名前も顔も出ていません。

応仁の乱で活躍した影の主人公がいます。たとえば、『応仁の乱』が始まると、戦果に巻き込まれて京は初期のうちに洛中の大部分は焼けてしまい、屋敷や民家や土倉酒屋などの多くの商家も姿を消しました。

その中でも金融を営む土倉酒屋は、元々神社や寺院の一部として行われていましたが、僧から還俗して俗名を持つようになっています。彼らがどれくらいの力を持っていたのかと言えば、幕府が徴集した税から想像することができます。

史料によると、幕府は年間6,000貫を目標にすると書かれております。実際、嘉吉元年(1441年)の文書には、三ケ月分の酒屋役として、三二七ケ所の酒屋から880貫600文を納めたとあり、年換算で3522貫400文となります。嘉吉元年は、大規模な徳政一揆があり、土倉役は少なかったと考えると年間6,000貫は眉唾な話ではないと思えます。

1貫を1石と換算するなら、6000石であり、太閤検地を行った慶長3年の総石高が1851万石とその石高から見れば微々たるものですが、

・天文4年(1535年)大内義隆が即位費として、2014貫を献上。

・天文6年(1537年)大内義隆が不明ですがと、1000貫を献上。

・天文10年(1541年)織田信秀が伊勢神宮遷宮、材木や銭700貫文を献上。

・天文12年(1543年)織田信秀が朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上。

・天文12年(1543年)今川義元が500貫を献上。

・弘治3年(1557年)三好長慶が大葬費として、600貫を奉納。

・永禄3年(1560年)毛利元就が正親町天皇の即位の際に2000貫文を寄進。

名立たる大名の献上金を軽く凌駕しており、その額が如何に大きな額であるのかが判ります。幕府の主収入は各地にある荘園からの年貢であり、その他の収入を含まれば膨大な予算を持っていた足利幕府が滅んだことが不思議でなりません。

もちろん、理由はあります。

よく教科書に書かれている。華美と贅沢な放漫財政が財政破綻を起こしたというのも1つの要因でありますが、最大の要因ではありません。

これは平清盛の平家滅んだのと同じ理由であります。

長禄3年(1459年)から寛正2年(1461年)にかけて長禄・寛正の飢饉(ちょうろく・かんしょうのききん)など、自然災害が多数起きて農作物の収穫が激減しました。

基本的に中世は温暖期であり、農作物の収穫は増え続けておりました。しかし、炭素14濃度の測定によると、シュペーラー極小期(14101540年頃)と重なります。つまり、日照時間が足りずに農作物の収穫が減ってきた訳です。そこに大飢饉が重なります。

すると、米価が上がり、銭高から銭安に移ります。天皇や幕府の荘園は地方にあり、直轄統治をしておりません。地方の反乱や紛争が起きると徴集や流通に支障をきたします。況して、応仁の乱が始まるとそれを東西の勢力に別れて奪い合う訳ですから、朝廷や幕府へ納められる年貢は激減し、頼りの税収も京を荒廃させた為に気泡に帰します。さらに悪いことに蓄えていた銭も銭安で価値が暴落し、今日食うのにも困る有様となって、多くの公家たちが縁者を頼って地方に下向するようになったのであります。

この貨幣経済というのは金ですべての物が買えるという前提で巧く機能します。しかし、天災などに脆弱なシステムであり、物流が停滞するとすぐにハイパーインフレを起こして、金を持っていても何も買えないようになるのです。

近年、日本の経済学者の中には、日本の農産物が壊滅しても世界から買えばいいという馬鹿な学者もいますが、それは世界的な不作が起こらないことで前提であり、100年の間に起こらなかったからと言って、1000年先も起こらないとは限らないのです。

歴史的に東北大震災が起こり、10mの大津波がやってくることは予想されていましたが、誰も経験したことがないという理由で無視されていました。歴史的に世界的な大不作が起こります。自分の経験からその備えを必要ないという経済学者は国を滅ぼす無責任な意見なのです。

さて、話を元に戻しましょう。

天候不順と応仁の乱は、収穫の激減と物量の停滞を引き起こし、幕府は財政的に破綻を来たします。守護は抗争に明け暮れ、守護代も守護の尻拭いに追われ、地域の紛争や水利権など権利紛争の調停する者がいなくなった訳です。

京では、洛中にあった法華宗の二十一のお寺を中心に法華一揆という組織を作り、それが発展して、天文元年(1532年)から五年にわたって洛中を支配しました。つまり、警察と裁判を兼ねる自警団が生まれた訳です。その組織は上京・下京・洛中に広がり、「町組」と呼ばれるようになります。

これが応仁の乱で生まれた影の主役で、『町衆が自ら町を守るようになった』ことであります。

室町時代全盛期は、日明貿易をバックに栄西禅師、道元禅師によって興隆した禅林の教えの『禅林文化』が花開きましたが、応仁の乱以降、京衆は法華宗と結びつきを強くし、狩野元信・永徳、長谷川等伯、本阿弥光悦など安土桃山時代に登場する著名な芸術家は、法華教徒に変わってゆきます。禅宗の寺は洛外にあったのに対し、法華宗の寺は洛中に集中していたことが大きな要因でしょう。

地方でも同じように農民や町衆が自警団を作り、自らで防衛するようになってゆきます。その一方で一向一揆が盛んになり、加賀一向一揆は守護の内紛に介入できるくらい大きな力を持つことを示しました。被支配層であった民が、支配層なしでもやっていけることに気が付いたのであります。

興福寺の僧正である尋尊(じんそん)は、対立する長懐が年貢を取り立てようとして、農民を怒らせ、長懐が年貢を取れなかったことを僧侶たちが「よかった。よかった」と無邪気に喜ぶのを見て、日記にこう書き残しております。

「百姓の力を借りるなど、興福寺の権威を傷つけ下剋上を助長するだけではないか。何がめでたいものか」

いずれ武家や僧侶と権威が崩れ、武家や僧侶が百姓と同格になることを、無邪気に喜ぶ僧侶を嗜めているのであります。武家や僧侶も要らない社会、正に『下剋上』が起ころうしていることに尋尊は苦慮します。

この『下剋上』とは、本来、南北朝の時代に悪党である楠正成などが幕府などに抵抗したことで使われるようになります。しかし、今度の『下剋上』はそんな生易しいものではありません。

01-06 支配体制の変化>

0106

奈良、平安、鎌倉、室町と続く歴史の中で無神経に無視されていますのが、農民や町人の暮らしであります。

一般的な教科書を農民と検索すると、

・中学校社会 歴史の奈良時代

この時代に農民は貧しくて、税の負担は重く生活が苦しく、多くの農民は竪穴住居に住んでいた。etc.

・中学校社会 歴史の平安時代

貴族たちや寺社は農民らに開墾をさせ、貴族の所有する土地を広げていった。

さまざまな税が課せられた農民の中には、税を逃れるためにほかの土地に移る者が現れたり。etc.

・中学校社会 歴史の鎌倉時代

農民の負担は、荘園や公領の領主への年貢だけでなく、地頭も労役などを農民に負担させていた。etc.

・中学校社会 歴史の室町時代

農民の自治が前の時代よりも強くなった。 色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決めるという 寄合(よりあい) という集まりが開かれるようになった。

農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。 年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という強訴(ごうそ)をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう逃散(ちょうさん)などで、対抗しました。etc.

室町時代になってやっと少し顔を出します。

農民は常に重い税や課役などで苦しめられていたのかもしれませんが、同時に少しずつ豊かになっていたのであります。

隣の国である中国の農民を見て下さい。

貧富の差が広がり、農民は悪政に苦しんでおりますが、むかし比べれば贅沢な食事とスクーターなどの乗り物や、携帯やテレビという文明の力を享受しております。

同じように

奈良⇒平安⇒鎌倉⇒室町

と、農民の暮らしは少しずつ豊かになっており、鎌倉時代にかなり豊かになっていたからこそ、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮が比叡山を飛び出して、新興宗教を起こす余地が生まれていたのであります。

序章でも少し紹介しましたが、土倉酒屋といった金融から金や米を借りなくても、互助会と言うべき『惣』を形成し、農民なら農民、商工業なら商工業が助け合えば、高い利子を払う必要がありません。その仲介役を浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺が行いますから、商売仇の比叡山の天台宗などから阻害・迫害を受ける訳であります。

中でも日蓮宗は権力層の武家を巻き込んで、日の本を根幹から救済しようと訴える訳でありますから、商売ができなくなる天台宗からそれはもう激しい弾圧を受けました。新興宗教にとって鎌倉時代から室町時代はそんな難産な時代でありました。

しかし、そんな浄土宗、浄土真宗、日蓮宗を余所に、日明貿易のパトロンを持つ禅宗だけは幕府の擁護を受けて、天台宗の迫害をモノともせずに発展してゆきます。この禅宗の発展こそ、平安末期から鎌倉・室町時代へと宋銭が常に日本に入り続けていたことを物語っているのであります。

教科書には載っていませんが、ある一定量の貨幣が毎年のように日本の流入し、貨幣経済が農民までゆっくりと広まり、下々の人々の生活をゆっくりと豊かにしていったことを物語っています。

では、そろそろもう一人の影主人公を紹介しましょう。

『相模風土記』には、

「応永十年八月唐船当初に着岸す。

船中永楽銭数百貫ありしを、足利義満は命じて鎌倉管領左(佐)兵督満兼に与えられる。

その頃関東に此銭流布す」と残されております。

また、『武家盛衰記』には、

「抑々永楽銭日本に渡ることは、応永十年八月二日の大風にて、同三日申の刻唐船二艘、相州三崎浦へ漂着したり。

時鎌倉足利佐(左)兵督満兼下知にて、伊藤備前守義高奉行にて検儀す。船中も実験するに、明朝永楽銭数百貫あり。

此旨将軍義満へ被下。

夫より関東に此銭を用ひらるる云々」とあります。

鎌倉時代を通じて、鎌倉幕府に入った銭は多くあります。しかし、関東では流通していなかったので、京の六波羅探題当たりで流用し、鎌倉での流通は一部だったと思われます。それが応永十年の唐船の座礁により大金が市中に流れ出し、関東で銭が流通するようになります。

こうなると、尾張の津島などの港には、西から東へと銭を運ぶだけで何倍もの利益になります。これが室町時代における尾張の発展の原点となります。さらに『応仁の乱』が始まると焦土化した京から多くの公家や商家が逃げ出します。

日明貿易で毎年入ってくる永楽銭のほとんどは京で使われていましたが、行き場を失った永楽銭がどこに向かうかと考えて下さい。

西国は銭不足と言っても下々にも行き渡っていますから緩い銭高程度であります。港に着いた数百貫以上の銭を西国で使っても利益は知れています。

しかし、日の本にはまだ流通しきれていない場所が残っておりました。

そう、東国です。

しかも京から逃げ出した公家や商家の者を大量の銭を持っておりました。東国の国々も収穫不足で物の値段が跳ね上がっていましたが、銭不足がそれを緩和し、西国に逃れるよりマシな生活ができたと思われます。

喩えるなら、

日本からフィリピンに避難した日本人が物価高に悩まされますが、日本円とフィリピンドルの為替差益から何不自由なく暮らすことができていたと言う感じでしょうか。

なんと言ってもレストランで食事をしても高級の一食が50円から300円で済みます。洋服代が100円程度で、ホテル並みの50平米のコンドミアム(住居)が月25000円くらいです。月10万円もあれば、かなり豪華な暮らしができる訳です。

東国の武将は、鴨が葱を背負って来た公家や商家を快く迎え入れてくれた訳です。同じように、日明貿易で運ばれてきた永楽銭も東へ東へと運ばれて行きます。東と西の中間点である尾張や駿河や越後は大いに賑わったという訳です。

そうです。

京に流れなくなった銭そのものが、もう一人の影の主人公なのです。

応仁の乱で行き場を失った銭が東へ、東へと流れ、日本全国に銭が行き届いたのであります。貨幣経済の土台が生まれたのが、応仁の乱の本質なのです。

この応仁の乱(1467年)~1477年)が終わっても守護達の権力争いは続き、中々復興は進みません。明応9年(1500年)に祇園祭の再興も本来祇園祭が疫病平癒の祭りが行われておりますが復興を祝ったというより、これ以上悪化しないことを願ったという感じでしょう。人口の回復が感じられるのは、永正5年(1508年)以後に酒屋役徴収の強化命令が幕府から出されている事から、明応9年の数年後から本格的な復興が始まったと考えられます。

この40年間で代官は事実上廃止され、地侍や領主にとって変わられます。守護や守護代から戦国大名へと移り変わってゆくのであります。あるいは斉藤道三や北条早雲のように被官から戦国大名へと変わる者も現われます。尾張もまた奉行という被官から戦国大名への道のりを歩み始めました。

 

5.こうして信長は生まれた

織田信長の祖父である織田信定(おだ のぶさだ)は、尾張守護斯波義敏と共に東軍に属して戦った尾張下四郡の守護代織田大和守敏定の子とも、あるいは孫とも言われます。信定は織田大和守家に仕える清洲三奉行の1つである織田弾正忠家の当主として、中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収めると津島に居館を構えました。これが塩畑城(しおばたじょう)であります。この塩畑は白旗と語音が似ておりますから、縁起が悪いという理由で信定または織田信秀が「勝ち旗」の意で「勝幡」と改名したといわれております。

津島は津島神社の門前町であり、津島神社は京の八坂神社と同じく牛頭天王といわれる建速須佐之男命が祀られており、八坂神社が主に西国に広がったように、津島神社は東国に広まり、3000余りの末社を持つ神社であり、東国の伊勢詣をする人たちの間では「津島かけねば片詣いり」といわれるほど、伊勢神宮と同格の由緒正しい神社であります。

中世時代に門前町の前身である『座』(米の座と苧之座(おのざ))が生まれ、鎌倉時代から室町時代にかけて荘園制に組み込まれます。大橋氏らは津島奴野屋に荘園役所を築き、荘園地頭として着任しております。

応仁の乱によって幕府の規律が緩み、否、幕府自身が規律を乱し、神社や寺院の荘園の管理を幕府直轄の代官で行うとします。それに反発して守護と守護代が争った訳ですから、大橋氏をはじめ荘園地頭の地位も危ないものでした。応仁の乱以降、守護代の奉行職である織田弾正家と組むことで、そのまま領主となっていったようです。

大橋氏をはじめ、津島には四家七苗字と称する豪族がおり、彼らは南朝との深い結びがあります。織田信長が『第六天魔王』を名乗ったのも、『建武新政』を行った南朝の初代天皇である後醍醐天皇が死去した後に、『第六天魔王』となって京の町に災いを及ぼしたと噂される為であり、『第六天魔王』というのは、後醍醐天皇のことであり、信長が『第六天魔王』を名乗る意味は「後醍醐天皇の生まれ変わりだ」と風評しているのです。何としても津島衆を味方にする為の苦肉の策だったのであります。

守護代織田大和守家の奉行である織田弾正家の信定は津島衆を保護する替わりに税を徴収し、織田弾正家の台所事情は飛躍的に躍進しました。

元々、津島は栄えておりましたが、応仁の乱で京が荒廃すると、ダブついた永楽銭が東国へと流れて始めます。堺を経由して、伊勢、津島、熱田から東国へ、津島と熱田は中継地として大いに潤ったという訳です。

さらに、今川家が金山の掘削を始めると、坑道の灯りを灯す為に油を大量に必要とします。津島は油の生産地でもありました。今川家が金で潤うほど、織田家も油で潤うという因果が発生していたことに、誰も気が付かなかったようです。

これは喜劇としか言いようがありません。

義元がこれに気が付いて、駿河で商工業を発展させていれば、時代はまったく違った色合いになっていたでしょう。

さて、東国からの収益が津島や熱田に溜まり、これが織田家の財源を潤します。他家の武将は年に一,二回の戦闘を行うと財貨と兵糧が尽きてしまいますが、織田家は銭が潤い、兵糧も銭で買うことができます。戦費を出してくれる織田弾正家に尾張衆が皆従ったのであります。

年に一,二回の戦闘が限界であり、三、四回も戦っていては農作業も出来ず、美濃や三河の衆は財政破綻を起こし崩壊します。

織田弾正家信秀が強かったのは、津島と熱田から上がってくる利益が齎した恩恵なのです。もちろん、津島と熱田の衆も安全に輸送できる領域が広がることを望んでおり、商家も領土が広がるほど儲かった訳です。

銭で土豪や領主から兵を出させるという信秀のやり方は信長に伝承され、信長は兵を雇うという形式に発展させます。これは兵を簡単に集められるというメリットがあるのですが、負け戦になると命を惜しんで我先にと逃げ出すことから『尾張の弱兵』と呼ばれるほど逃げっぷりがよく、メリットがあれば、デメリットもありました。

幼少の信長は那古野城の那古野神社で勉学を学び、祖父信定と共に津島の商家を遊び場所とし、青年期を守護代も上回る働きを見せる父信秀を見て育ちます。

自由奔放、新しい物に目がない。その奇怪な行動は『うつけもの』というフレーズで幾つも残されております。

食べながら歩くのは、時間を惜しむ商家の者を真似。

麻の服を着るのは、安く丈夫な麻の方が便利。

ひょうたんを腰にぶら下げるのは、熱中症対策。

草履を持ち歩くのは、誰が草履を潰したときの予備。

合理性と新しい物を試す好奇心を持ち、一方、古臭く合理性の欠ける武家の作法を疎んじました。信長が貨幣経済の意味を知っていたとは思われませんが、体験的にその意味を理解していたと思われるエピソードが信長公記に多く残されております。

たとえば、信長は餅などを持ち出して、村の祭りなどに参加しております。また、君主になってからも、出掛けていって『女踊り』を披露するなど、村人から好かれるような振る舞いが残されております。

誰が天下の沙汰を知っているようなそぶりであります。

ところで、『天下布武』が信長の代名詞でありますが、本当に信長は天下統一を目指していたのでしょうか。

信長は秀吉の妻であるおねなど、自らの妻から部下の妻まで、きめ細かい手紙のやりとりと行っております。夫を労うように説いております。また、裏切った林秀貞も20年近く家臣として側に置き、何度も裏切る松永久秀も許しております。

ところが、信長の弟である信行や信長の叔母にあたるおつやの方は、厳しく処刑しております。これは身内でも公平に扱うというアピールであり、上に立つ者は公平でなければならないと信長は考えていたようです。

では、信長が単に身内に厳しかったのかと言えば、そうでもありません。大名では珍しく、子や娘を隣国に嫁がせる外交を余りやっておらず、そのほとんどを自分の部下に与えております。その為に織田家の者が敵味方の別れて戦うことが少なかったのです。

しかし、信長は非常に残虐な武将として描かれております。

たとえば、

おんな城主直虎で登場した徳川の妻の築山御前(瀬名姫)は、今川義元の実の妹と言われておりましたが、近年の研究では瀬名の母は井伊真平の娘と判ってきました。おそらく、関口親永(今川一門である瀬名氏貞の次男である義広は関口家に養子に出された)の娘を義元が養女として迎えて、元康(後の家康)に与えたのではないでしょうか。

さて、その築山御前殿と嫡子である信康が信長の命令で処断されたと伝えられますが、信康の妻であり、信長の娘でもある徳姫がいつまで経っても嫡子を産まないので、側室に元武田家の家臣である浅原昌時の娘を迎えた。

それに怒って、徳姫の手紙から築山御前と信康を処断させたのでしょうか。

天正7年(1579年)は、上杉謙信が没した翌年であり、いよいよ織田の天下が見えてきた。その矢先に荒木村重の離反が離反し、信長はふたたび窮地に立たされる。しかし、信長包囲網の一角である武田の勢いは乏しく、そこで目を付けられたのが、築山御前殿と嫡子の信康と考えれば、すべての道筋は見えてきます。

元々、三河は本願寺を仰ぐ浄土真宗が盛んな土地柄であり、西国まで手を伸ばす織田が次に襲い掛かるのは、徳川かもしれないという危機感が生まれていました。信康の目付は石川数正といい、石川家は熱烈な門徒であります。そして、松平信康が「武田内通の謀反」を疑われての切腹し、岡崎城の信康家臣団のほとんどが没落の道をたどったことを見れば、首謀者達と神輿の両方が処断されたのは明らかです。石川数正が秀吉の下に「とらば~ゆ」する土台はあった訳です。

本願寺の願い出を聞いて徳川が寝返れば、ふたたび信長包囲網が完成し、天下の天秤は大きく揺れたことでしょう。

つまり、築山御前殿と信康の処断にはそれなりの訳があり、単に残虐という一面で捕えられないのです。

信長の代名詞、『天下布武』

天下といえば、「天下統一」を思い浮かべる方が多くいそうですが、信長の『天下』はまったく別物であります。

将軍に出したといわれる一七箇条意見書(※1)の中の一〇条に

「天下の沙汰」、「天下の御為」

がありますが、これはどうみても

「天下」=「全国」 ×

「天下」=「京都を中心とした畿内に人々」

であります。

要約すると、元亀3年(1572)9月の一七箇条意見書は、

・宮中に出仕して仕事をしなさい。

・賄賂を安易に受け取らない。

・よく働いた者には褒美を上げて下さい。

・神社の所領を勝手に取ってはダメです。

・給金が貰えないという訴えを、ちゃんと聞いてあげなさい。

・裁判は公平に速やかに行いなさい。

・備蓄米で商売をしないで下さい。

・手柄のない者を取り立てないで下さい。天下の笑い者になります。

・部下が賄賂を貯めることに熱心です。上がそうだと皆がそうなります。

・将軍が欲深では、悪御所と影口を叩かれています。改めなさい。

これが“天下(織田の世を作る)の野心”というならば、親や学校の教師から町会長に至るまで総理大臣の椅子を狙う野心家になってしまいます。

何故、こんな事が言われるようになったのかと言えば、これより先に出された五箇条の条書〔永禄13年(1570年)〕が問題にされております。

つまり、

天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事

〔訳:天下の政治は何事につけてもこの信長に任せられたのだから、(信長は)誰かに従うことなく、将軍の上意を得る必要もなく、信長自身の判断で成敗を加えるべきである。〕

この訳を見れば、“天下の野心”をふつふつと思わせる足利幕府を軽視した信長の傲慢さを思わせます。しかし、これが完全な誤訳であります。

徳川三代将軍家光が将軍宣下を受けた際に、

「余は生まれながらの将軍である。大名は今後余に臣下の礼を取るべきだ。異論がある者はすぐさま領国に返り、戦の用意を始めよ」

こう告げました。

すると、伊達正宗はこう述べたと言われます。

「もとより三代将軍家光公に何やら反感がある者がいれば、私が全て退治いたします」

伊達正宗は家光を差し置いて、不届き者を成敗する野心家なのでしょうか。これは信長も同じことを言ったに過ぎないのです。

つまり、

(天下の儀である)将軍が信長に託されたからには、誰であろうと上意に逆らう者を、この信長が成敗してやります。

と忠義心から言っているに過ぎないのです。

これを謀反の野心と訳すのは、無理筋もいいところであります。もちろん、信長の本意がどこにあったのかまでは判り兼ねますが、公式な書面で野心を露わに表す愚を、信長は絶対に行いません。

また、よく言われる天皇の交代も嘘であります。

天皇が退位して上皇になられることは、朝廷の権威を増す行為であり、天皇自身が望んでおり、天皇から信長へ早く退位したいと言う書簡を送り、信長が「今は予算が足らないので、もう少しだけお待ち下さい」という返書を送っております。無理矢理に退位を進めたというのは完全な捏造であります。

これをよく言われる信長の悪逆に一つに『比叡山の焼き討ち』があります。

信長公記では、

「すべてを焼き尽くし、目も当てられぬ有様」

などと書かれておりますが、昭和51年から始まった滋賀県教育委員会による発掘調査や昭和後期に大講堂の建替え工事や奥比叡ドライブウェイの工事に伴う発掘調査が断続的に行われていた結果、『言継卿記』や『御湯殿の上の日記』に記載されている「寺社堂塔500余棟が一宇も残らず灰になり、僧侶男女3000人が一人一人首を斬られて、全山が火の海になり、9月15日までに放火が断続的に実施され、大量虐殺が行われた」と言われる建物の残骸や人骨が発掘されないのであります。

もちろん、すでに丁重に葬られたというならば、信長比叡山焼き討ちの僧侶、女子供の墓が、どこかにあってしかるべきなのですが、そう言った墓があったという伝承も聞きません。今後、大量に見つかる可能性もあるので、真実は保留するしかありませんが、過大に宣伝された可能性も否定できないのであります。

しかし、比叡山焼き討ちの前年、英俊という僧侶が比叡山の延暦寺を訪れた時のことを書き残しており、

「山内は人影もまばらで建物は荒廃し、人里に遊びにでも行って帰ってこないのであろうか」

とあるので、英俊の書置きが真実ならば、応仁の乱から続く紛争によって、寺は荒廃し、荘園なども多く失った比叡山は、多額の費用も捻出できずに寺の修繕も侭ならず、再建が楽な坂本町で復興し、山寺にはそもそも3000人の僧侶や女・子供はいなかったのではないかと推測されるのです。

この比叡山の焼き討ちで信長は、吉田 兼見(よしだ かねみ)に南都(奈良興福寺)、北嶺(延暦寺)を滅ぼしたら祟りがあるかを尋ねております。また、足利義昭への威嚇のために上京を焼き打ちする前に朝廷や庶民の将軍義昭の評判を尋ねられています。このことは祟りや風聞を気にする信長という一面が深く浮き上がります。

また、東大寺の『三蔵開封日記』には、信長が蘭奢待(らんじゃたい)の拝見を願ったところに、「専横なふるまいは天下のうわさになる。くれぐれも従来のやり方で開封するように伝えてほしい」という記述が残されており、信長が天下(民衆の風評)を気にしていることが伺えます。

つまり、信長にとっての『天下』とは、朝廷から町人・農民を含む“大きな大衆”を意味するのではないのでしょうか。

そう考えれば、『天下布武』も“尾張・美濃の民衆を武によって治める”という実に堅実な意味合いに変わってくるのです。

『応仁の乱』によって、

この大衆こそが『天下』となったことを信長は理屈抜きで感じていたのです。

信長は商家の者と共に育ちました。

秀吉は商家の出であります。

武家の時代が終り、大衆の時代となったことを知る武将が、天下のトップランナーに踊り出たのは、単なる偶然なのでないのです。

 

応仁の乱は尾張に何を齎したのでしょうか。

・調停人の不在は不満を持つ者にとって立つ好機です。夜盗や悪党(命令・規則に従わないもの)が徘徊し、世が乱れました。

・幕府が二つに別れ、力を持った悪党(命令・規則に従わないもの)が対立する幕府寄りに駆け込んで『大義名分』を得て、騒乱が本格化します。

・荘園の領主や地頭や荘長が自主的に武装化し、守護や守護代、あるいは被官と独自の関係を築き、天皇や神社・寺院などの直轄から外れるか、あるいは、独自のルールが改められます。

・軽重部隊であった足軽が武装して、戦闘に参加し、騎馬戦から組織戦へと戦争の形態が変わります。組織戦が数の押し合いであり、数で勝る農民が武装して一向一揆を起こすようになってゆき、下層の武力集団が自ら仕える主人を選ぶようになってゆきます。

・農民や町人の意見を反映する武将が領主化し、中央集権の『朝廷・幕府体制』から地方分権の『大名制』へとゆっくりと移り替わっていったのであります。

・尾張において、津島・熱田という一大商業地の意思を反映する織田家は、守護代の奉行という一被官から戦国大名への道を歩みはじめました。

01-07 農民の変化>

0107

このように

応仁の乱は権力者の構造が変わりました。

尾張は信定、信秀によって土台が築かれ、信長は生まれたのであります。

経済から見れば、信長が天下を目指したのは『時代の要望』から生まれた必然でしかありません。

子供が育ち、古い服では入らないようになるように。

新しい服を作り、袖を通したのです。

これは歴史の定理であり、経済の原則であります。

マケドニアのアレキサンダー、ローマのカエサル、モンゴルのジンギスカンも商人(経済)の要望で生まれ、経済の都合で滅びております。経済の原則が英雄を生み、英雄が経済の原則に合わせて世界を変える。

何千年も繰り返される経済の歴史の必然なのであります。

 

<参考資料>

1.一七箇条意見書

一、御参内の儀、光源院殿御無沙汰につきて、果たして御冥加なき次第、事旧侯。

これに依つて、当御代の儀、年々懈怠なき様にと、御入洛の刻より申し上げ侯ところ、早おぼしめし忘れられ、近年御退転、勿体なく存じ侯事。

一、諸国へ御内書を遣はされ、馬、其の外御所望の体、外聞如何がに侯の間、御遠慮を加へられ、尤もに存じ侯。

但し、仰せ遣はされ侯はで叶はざる子細は、信長に仰せ聞かせられ、添状仕るべきの旨、兼ねて申し上げなされ、其の心得の由侯つれども、今はさも御座なく、遠国へ御内書をなされ、御用仰せらるるの儀、最前の首尾に相違ひ侯。

何方にも然るべき馬など、御耳に入れ候はば、信長馳走申し、進上仕るぺきの由、申し旧し侯ひき。さ様には侯はで、密々を以て、直に仰せ遣はさるる義、然るべからずと存じ候事。

一、諸侯の衆、方々御届け申し、忠節疎略なきと輩には、似相の御恩賞を宛行はれず、今々の指たる者にもあらざるには、御扶持を加へられ侯。さ様に侯ては、忠・不忠も入らざるに罷りなり侯。諸人のおもはく、然るべからざる事。

今度、雑説につきて、御物をのけさせられ侯由、都鄙其の隠れなく侯。其れに就いて、京都以外の兊意たる由、驚き存じ侯。

御構へ普請以下、苦労の造作を仕り侯て、御安座の儀に侯ところ、御物を退けられ侯て、再び何方へ御座を移さるべく侯や。無念の子細に侯。さ侯時は、信長の辛労も徒に罷りなり侯事。

一、賀茂の儀、岩成に仰せつけられ、百姓前堅く御糺明の由、表向御沙汰侯て、御内儀は御用捨の様に申し触し侯。

惣別、か様の寺杜方御欠落、如何がにと存じ侯へども、岩成堪忍届かず、難儀せしむるの由に侯間、先づ、此の分にも仰せつけられ、御耳をも休められ、又一方の御用にも立てられ侯様にと存じ侯ところ、御内儀此のごとくに侯へば、然るべからずと存じ侯事。

一、信長に対し等閑なき輩、女房衆以下までも、おぼしめしあたらるゝ由に候。迷惑せしめ侯。我等に疎略なき者と聞こしめされ侯はぱ、一入御目にかけられ侯

様に御座侯てこそ忝なく存ずべく侯を、がひざまに御意得なされ候。如何がの子細に侯やの事。

一、恙なく奉公いたし、何の科も御座侯はねども、御扶助を加へられず、京都の堪忍屈かざる者ども、信長にたより、歎き申し侯。

定めて、私に言上侯はぱ、何とぞ御憐みもこれあるべきかと存じ侯ての事に候間、且は不便に存知、且は公儀の御為めと存じ候て、御扶持の儀申し上げ侯へども、一人も御許容なく候。

余り文緊なる御諚どもに侯間、其の身に対しても、面目なく存じ候。勧世与左衛門・古田可兵衛・上野紀伊守が類の事。

一、若州安賀庄御代官の事、栗屋孫八郎訴訟申し上げ侯間、去りがたく存じ、種々執り申し参らせ候も、御意得断たず過ぎ来なり侯事。

一、小泉女家に預げ置きし雑物、に質物に置き侯腰刀・脇指などまで、召し置かるゝ由に侯。

小泉何とぞ謀叛をも仕り、造意曲事の子細も侯はば、根を断ち、葉を枯しても、勿論に侯。

是れは、計らざる喧嘩にて果て侯間、一旦、法度を守らるれば尤もに侯。是れ程まで仰せつけられ侯儀は、御欲徳の儀によりたると、世間に存ずべく侯事。

一、元亀の年号、不吉に侯間、改元然るべしの由、天下の沙汰につきて、申し上げ侯。禁中にも御催しの由に侯ところ、聊かの雑用仰せ付けられず、今に廻々に侯。是れは、天下の御為めに侯ところ、御油断然るべからずと存じ侯事。

一、烏丸事、勘気を蒙らるるの由に侯。息の儀は、御慣りも余儀なく侯ところ、誰やらん、内儀の御使を申し侯て、金子を召しおかれ、出頭させられ侯由侯。

歎かわしく侯。人により、罪に依つて、過怠として仰せ付けられ侯趣もこれあるべく侯。是れは、賞性の仁に侯。当時、公家には、此の仁の様のところ、此のごとき次第、外聞咲止に存じ侯ひつる事。

一、他国より御礼申し上げ金銀を進上、歴然に侯ところ、御隠密侯てをかせられ、御用にも立てられず侯段、何の御為めに侯やの事。

一、明智地子銭を納め置き、買物のかはりに渡し遣はし侯を、山門領の由仰せ懸げられ、預ケ置き侯者の御押への事。

一、去る夏、御城米出だされ、金銀に御売買の由に侯。公方様御商買の儀、古今に承り及ぱず侯。

今の時分に侯間、御倉に兵粮これある体こそ、外聞尤もに存じ侯。此のごときの次第、驚き存じ侯事

一、御宿直に召し寄せられ侯若衆に、御扶持を加一られたく思食され侯はぱ、当座貼、何なりとも御座あるべき事に侯ところ、或は御代官職仰せ付けられ、或は非分の公事を申しつかせられ侯事、天下の褒貶、沙汰の限りに侯事

一、諸侯の衆、武具・兵粮以下の嗜みはなく、金銀を専らに蓄ふるの由に侯。牟人の支度と存じ侯。

是れも、上様、金銀を取り置かれ雑説の砌は、御構へを出だされ侯に付いて、下々までも、さては、京都を捨てさせらるべき趣と、見及び申し侯ての儀たるべく、上一人を守り侯段、珍らしからず侯事

一、諸事について御欲がましき儀、理非も外聞にも立ち入らざる由、其の聞こえ侯。

然る間、不思儀の土民百姓に至るまでも、悪しき御所と申しなす由に侯。

普光院殿を、さ様に申したると、伝へ承り侯。其れは、各別の儀に侯。何故、かくのごとき御影事を申し侯や。爰を以て、御分別参るべき歟の事。以上。

 

以下、その要約文。

.宮中への参内を怠らないように申し上げたのに近年怠っているのは遺憾である。

.諸国へ御内書を出し馬などを献上するのは外聞がよくないので考え直すように。必要ならば私(信長)が添え状を書き取り計らうと約束したのに、約束を違え内密で行うのはよくない。

.幕府へよく奉公し怠りなく忠節を尽くす者に相応の恩賞を与えず、新参者でそれほどの身分でない者をを厚遇するのはよくない。

.将軍と信長の不和が噂される中、将軍家の重宝類をよそへ移されている状況が京内外に知れ渡り信長の苦労も無駄になり残念である。

.賀茂神社の所領の一部を没収し岩成友通(信長と敵対する三好三人衆)に与え、内密で優遇処置をとったのは良くない。

.信長に友好的なものには、女房衆以下にまで不当な扱いをするとはどういうことか。

.何事もなく奉公し何の落ち度もない者達(観世・古田・上野)が扶持の加給がないため信長に泣きついてきたので将軍に取り次いだにもかかわらず、なにも聞き入れられず私は彼らに対し面目がない。

 .若狭の安賀庄の行跡について粟屋が訴訟を申し立てている件について私ももっともだと思い進言しているのにいまだ決裁されていない。

.偶発的な喧嘩で死んだ小泉が遊女屋に預けていた刀や脇差など身の回りのものを没収したのは良くない。将軍の欲得と世間に思われる。

.元亀の年号は不吉なので改元した方が良いと世間一般の意見に基づき申しあげ、宮中にまで催促されているのに改元のわずかな費用も献上せず引き伸ばしているのは良くない。

.烏丸光康の懲戒の件は、息子・光宜へのお怒りは仕方がないが、光康は赦免するよう申し上げたのに、密かに光康から金銭を受け取り許す、このようなやり方は良くない。

.諸国から献上されている金銀があるのは明白なのに宮中の御用にも当てず内密で蓄えているのは何のためか。

.明智光秀が京の町で徴収した地子銭を預けていたのに、その土地は延暦寺領として、地子銭を差し押さえたのは不当である。

.昨年夏、幕府に蓄えていた米を金銀に代えたそうですが、将軍が商売をするなど聞いたことがない。蔵に米を蓄えている状態が世間の聞こえもいいのに、驚いている。

.寝所にお召し寄せになった若衆を良し悪しに関わらず厚遇するのは世間から悪しざまに批判されても仕方がない。

.幕府に使える武将達が金銀を蓄える事に専念している。将軍がそのような行動をするから部下がさては京都を出奔するのかと推察しているためと思う。上に立つものは自らの行動を慎むべきではないか。

.将軍が何事につけても欲深なので、世間では農民までが将軍を悪御所と呼んでいる。なぜこのように陰口を言われるか、今こそ良くお考えになったほうが良い。

 

※2).五箇条の条書〔永禄13年(1570年)〕

一、諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事

一、御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事

一、公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事

一、天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事

一、天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

 

〔斯波氏に関わる年表〕

正平17年(1362年)斯波義将が越前・越中守護職に付く。

貞治5年・正平21年(1366年)貞治の政変:斯波義将が幕府執事解任、越前守護斯波氏失脚する。

貞治6年(1367年)斯波高経が病死、斯波義将が将軍足利義詮に対面し赦免される。

貞治6年(1367年)12.7 足利義詮が病死する。

貞治7年、応安元年(1368年)室町幕府第3代将軍足利義満が将軍に就任する。

応安元年(1368年)2.24 越中守護桃井直常が京から逃下、斯波義将が越中守護に任ぜられる。

応安3年(1372年)斯波義将は桃井勢追討し、越中を掌握する。

応安4年(1373年)斯波義将:越中で南朝方(桃井直常)と戦い、越中より放逐する。

永和3年(1378年)斯波義将:越中の国人取扱いで幕府管令細川頼之と対立する。

康暦元年(1379年)康暦の政変:親斯波派で反細川派と管令細川頼之と対立、頼之失脚し四国へ下る。

康暦元年(1379年)斯波義将:幕府管令職に就任する。

康暦2年(1380年)斯波義将:畠山基国と越中を交換し越前守護に戻る。

明徳2年(1391年)斯波義将:管領職を辞し、越前に下向する。細川頼元(細川頼之の弟)管領職に補任される。

明徳2年(1391年)12.19 明徳の乱

明徳3年(1392年)管領細川頼元が没する。

明徳4年(1393年)斯波義将:管領職に復権する。

応永元年(1394年)室町幕府第4代将軍足利義持が将軍に就任する。

応永2年(1395年)今川貞世:九州探題を罷免、遠江と駿河の半国守護

応永5年(1398年)斯波義将:隠居、家督を子の義重に譲る。管領は畠山基国が補任。

応永6年(1399年)大内義弘が応永の乱を起こす。(今川貞世は関与を疑われる)

応永6年(1399年)斯波義重:分国の信濃守護職を小笠原長秀に奪われる。

応永6年(1399年)今川泰範:今川貞世から家督を奪い取る。

応永6年(1399年)斯波義重:尾張守護を与えられる。

応永9年(1402年)尾張守護代が甲斐氏から織田氏に替わり織田一族が尾張入部する。

応永12年(1405年)斯波義重:管領に就任する。今川氏の変わり遠江守護を与えられ、義教と改名する。

応永15年(1408年)2.2 斯波義将の弟で若狭守護・加賀守護も勤めた斯波義種が没する。

応永15年(1408年)前将軍の足利義満が死去する。

応永16年(1408年)6.5 斯波義将:子の義重に変わり、3度管領に就任する。

応永16年(1409年)8.1 斯波義将:孫の義淳に管領職を譲り、義重が管領代行する。

<斯波政権の全盛期>

応永17年(1410年)斯波義将が死去する。義淳に管領職を解任される。

応永18年(1411年)足利義満:明と国交を断絶する。

応永21年(1414年)6.9 加賀守護斯波満種:将軍の怒りに触れ高野山に閉居、斯波氏加賀国を失う。

応永25年(1418年)8.18 斯波義重:病死する。

応永27年(1420年)甲斐将教が没し、将久(常治)家督継承する。

応永30年(1423年)3.18 室町幕府第5代将軍足利義量が就任するが、実権は大御所となった義持が持っていた。

応永32年(1425年)2.27 将軍義量が急死する。

応永34年(1427年)7.7 斯波満種が死去し、大野家は嫡男の斯波持種が継ぐ。

応永35年(1428年)1.18 大御所足利義持が病死し、籤引きで選ばれた義圓は還俗して義宣となり、翌年に義教と名を改めて室町幕府第6代将軍が就任する。

応永35年・正長元年(1428年)7.6 称光天皇崩御され、彦仁王は即位して後花園天皇となる。

永享1年(1429年) 8.24 武衛斯波義淳:将軍足利義教より管領に任じられる。

永享2年(1431年)明にて安南黎氏独立、明の対外策消極化

永享4年(1432年) 10.1 武衛斯波義淳:管領の辞任を認められる。

永享5年(1433年)義淳が死去し、将軍義教の意向により弟の相国寺瑞鳳(義郷)が還俗して 斯波家督、越前・尾張・遠江守護職を継ぐ。

永享8年(1436年)斯波義郷が洛中で落馬して死去。2歳の嫡子の義健が第9代当主家督継承する。叔父の斯波持有、次いで分家の斯波持種と執事の甲斐常治の後見を受ける。

<斯波家受難期のはじまり、幕府と斯波被官の関係が強化される>

永享9年(1437年)将軍義教:3歳の斯波義健に大和越智維通の討伐を命ずる。越前の兵が数多く負傷し、翌年、幕府軍(斯波、細川、山名)の連合で越智軍を滅ぼす。

永享10年(1438年)永享の乱:鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立し、足利持氏の討伐に甲斐将久、朝倉孝景が出陣する。

嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱:守護赤松満祐が6代将軍足利義教を暗殺し、幕府方討伐軍が赤松氏を討伐する。

嘉吉元年(1441年)斯波義健:駿河守護今川範忠と遠江の所領をめぐって争う。

嘉吉3年(1444年)大野斯波持種:加賀に入ろうとするが止められる。

文安3年(1447年)大野斯波持種:守護職を巡って対立している富樫泰高に肩入れし、加賀に出兵し失敗する。

文安4年(1448年)斯波氏庶家の斯波持種と越前守護代の甲斐将久の対立先鋭化する。持種に同情する家臣による常治の暗殺未遂事件が起き、8代将軍足利義成(後の義政)が仲裁に乗り出している。

文安6年(1449年)4.29 足利義政が室町幕府8代将軍に就任する。

<足利義政、不知行地還付政策で幕府再建>

宝徳3年(1451年)前尾張守護代織田郷広が将軍義成の乳母今参局を通して復職を図ったがこれを拒否され、後に郷広は自殺する。

宝徳3年(1452年)11月 武衛斯波千代徳丸が元服し義健を名乗る。同じく斯波(大野)義敏も元服する。

享徳元年(1452年)6.22 第9代当主斯波義健:持種の子・斯波義敏を養子とする。

享徳元年(1452年)9.1 第9代当主斯波義健:嗣子がないまま18歳で死去した。義敏が室町幕府及び重臣に推されて武衛家の家督と越前・尾張・遠江守護を継承し、従五位下左兵衛佐に任官するが、次第に一門筆頭(斯波持種)と家臣筆頭(甲斐常治)が対立する。なお、室町将軍の行幸を毎年のように得ていた守護代甲斐氏は「管領と同格」の扱いを受けている。

享徳3年(1454年)8代将軍足利義政が畠山氏のお家騒動に介入し、山名宗全と細川勝元が畠山持国の甥畠山政久を庇護して持国と子の畠山義就を京都から追い落としたが、義政はこの問題で義就を支持し、政久が没落する。

享徳4年(1455年)享徳の乱:第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に対して、関東管領上杉房顕・駿河守護今川範忠・越後守護上杉房定らを出陣させ、幕府軍は鎌倉を落とした。しかし、成氏は古河に逃れて古河公方を名乗り、膠着状態になる。

康正2年(1456年)8代将軍足利義政は将軍専制を目論み、不知行地還付政策で寺社本所領の回復と守護と国人の繋がりの制限を図っていた。この政策によって所領と代官職を追われた越前国人が義敏を頼り、幕府に常治を訴えたが敗訴にする。

長禄元年(1457年)第9代当主斯波義敏と家臣団(甲斐常治、朝倉孝景、織田敏広)が対立し、義敏は東山東光寺に出奔し、甲斐常治らと戦って敗れ、東山東光寺に篭居する。

長禄2年(1458年)2月 不知行地還付政策で義政は相国寺と鹿苑寺に実効支配が及ばない所領(不知行地)の還付を認める御教書を発布する。

長禄2年(1458年)2.29 8代将軍足利義政の仲介により、斯波義敏は甲斐常治と和睦し、斯波邸(武衛陣)に戻る。

長禄2年(1458年)6.19 8代将軍足利義政は斯波義敏と守護代甲斐将久(常治)に鎌倉公方足利成氏追討を命ずるが、ともに抗争中で動かなかった。

長禄2年(1458年)8代将軍足利義政:異母兄の政知を鎌倉公方として下向させたが、政知は鎌倉へ入れず堀越に留まり、堀越公方となる。

長禄2年(1458年)7月 長禄合戦:武衛斯波義敏と守護代甲斐将久(常治)とが再び越前国内で争い始める。

長禄3年(1459年)2.21 阿波賀城戸口合戦:一乗谷朝倉氏拠点へ守護義敏派が攻撃する。

長禄3年(1459年)5.13 越前情勢を危惧した武衛斯波義敏が関東征伐の兵10,000万を転じて敦賀城の守護代甲斐方を攻めるも敗北する。これに怒った将軍義政が義敏の家督剥奪をはく奪した。

長禄3年(1459年)6月 8代将軍足利義政は義敏から子(松王丸3才)に斯波家、越前・尾張・遠江守護の家督を与える。義敏は大内氏を頼って下向する。

長禄3年(1459年)8.12 越前守護代甲斐将久(常治)が没し、子の敏光が家督を継承する。斯波家内では朝倉孝景の権威が高まった。

寛正2年(1461年)9.2 幕府、斯波家督に松王丸を排し、斯波与党で遠縁にあたる義廉(渋川氏)を任命し、甲斐氏・朝倉氏に補佐を命ずる。

寛正2年(1461年)10.17 朝倉孝景に河口荘・細呂宜郷・吉崎等越前、越中の領地が付与され、守護代甲斐氏を凌ぎはじめる。

寛正6年(1465年)斯波義敏の赦免され、義敏と松王丸親子が参賀し将軍義政に拝謁、義敏正式に復権する。

文正元年(1466年)7.24 将軍足利義政が政所執事伊勢貞親の意見を容れ、斯波義廉を退け、再び義敏を斯波氏の惣領に戻した。斯波義廉は妻の父である山名宗全を頼って復権を模索する。

応仁元年(1467年)応仁の乱: 畠山義就軍と畠山政長軍の衝突から始まった将軍家の家督争いも加わった細川氏と山名氏の勢力争いに発展した大乱である。

大永3年(1523年)寧波の乱:細川家(堺の商人)、大内家(博多・門司の商人)の2つの遣明使節が寧波付近で交戦し、大内氏が明の正使を殺害し、明の軍隊と交戦して引き上げる。

天文3年(1534年)5.12 織田信長が誕生する。

天文22年(1553年)明にて王直、倭寇を率いて沿海地方を侵す

永禄3年(1560年)5.19 桶狭間の戦い

永禄11年(1568年) 織田信長:足利義昭を奉戴し上洛する。

 

経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》 序章

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経済から見る応仁の乱《番外編 信長公記の軌跡背景》
序章
1章.尾張編《こうして信長が生まれた》

【序章】

私が『応仁の乱』を学ぶきっかけは『信長公記の軌跡』の背景を調べる為でありました。

織田家は如何にして大名となり得たのか?

その為には、主家である斯波家、ライバルである今川家、将軍である足利家を調べずに通れなかったのであります。

今川の祖である今川範国(いまがわ のりくに)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名であり、駿河今川氏の初代当主となります。2代目当主を継いだのは、長男の貞臣ではなく、九州探題などに任免された次男の今川貞世(いまがわ さだよ)だと思われます。しかし、貞世は何の落ち度もなく、九州探題の地位を奪われ、遠江と駿河の半国守護に命じられます。実は室町三代将軍足利義満、出家して道義(どうぎ)と名乗っていた院に、あらぬことを吹き込んで貞世を失脚されたのは、博多の利権を狙っていた大内義弘なのですが、貞世は将軍に不信を覚えます。

そして、九州探題に指名されたのが渋川満頼(しぶかわ みつより)という斯波義将の血縁関係者でした。ここからすでに今川と斯波の因縁は始まります。

文献では、貞世の兄である範氏が駿河守護であり、範氏が亡くなった後に貞臣に駿河守護になるように言われたが頑なに拒絶し、貞世の子である貞臣が遠江半国守護、範氏の子である氏家が継ぎ、氏家が亡くなると弟である泰範が駿河今川第3代当主になったと残されています。

当時、長子が家督を継ぐという風習はあまりなく、今川貞世が今川2代目当主であり、お家騒動が起こらないように二つに別けたと考えられます。 

文献によっては、泰範が貞世と大内氏と繋がっていると風潮し、自らが今川家の家督を奪ったという解釈もありますが、貞世と泰範が激しく争った様子もなく、ただの世間の風聞と思われ、実際に貞世と応永の乱を起こした大内義弘は盟友関係で反乱の誘いを断っております。しかし、敵対するのは憚れるので甥の泰範が幕府軍に参戦しており、幕府も忠誠を誓う泰範に家督を継がせる方が安心できるという理由で泰範が家督を継がせただけでしょう。

 

織田の主家である斯波氏(武衛家)の6代当主となった斯波義重(しば よししげ)は、応永の乱では父と共に幕府方として参戦し、負傷しながらも大内氏討伐の武功を挙げて、尾張守護職を与えられます。斯波家に仕えていた越前織田氏も義重の命で尾張に降り、尾張織田氏が始まります。

斯波義重は室町幕府管領、越前・尾張・遠江・加賀・信濃守護を歴任しており、応仁の乱以後の混乱に今川が遠江の勢力を伸ばすと、遠江を浸食された斯波氏が今川氏と対立するという構図が完成したのであります。

 

東海から見る『応仁の乱とその後』を見るなら

信長公記の軌跡 目次 

番外13501572年番外編 信長公記の軌跡背景をご覧下さい。

 

もう一度整理しようと思ったきっかけは、中公新書の呉座 勇一著『応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 』が20万部も売れているというニュースからです。一体どんな書物かと手を取ると切り口が斬新でありましたが、そうじゃないだろうと思いたい部分が沢山ありました。興福寺と朝廷の関係はおもしろく描かれておりますが、それだけが全国に戦乱が波及し、戦国時代へと落ちる訳もありません。世の中というは経済で回っており、畿内も地方も経済の論理から外れることはできないのであります。経済が行き詰まっていたからこそ、畿内で起こった戦乱が地方に波及し、『応仁の乱』となったのであります。そこで経済から見た「応仁の乱」というバラバラのピースを1つにしてみようと思った訳です。

 

すべての始まりは揺れ動く幕府の混乱が地方に波及し、それが全国で広がったのが『応仁の乱』の本質であります。それは行き詰まった経済体制が崩壊し、新しい規律が生まれる過程における動乱でありました。

応仁の乱の体制がはじまったのが聖徳太子の時代であり、各豪族が大王を中心とした国家造りをする上で、豪族の持つ土地を大王に差し出すことからはじまります。

大豪族であった蘇我馬子が大王に土地を返上し、その代わりに官位を頂き、土地の管理を命じられる。こうして、大王と豪族が主従の関係を作ることで律令制がはじまります。

それに抵抗したのが、蘇我入鹿を殺した地方の豪族達であります。中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足なども加わっていましたが、あくまで遂行者の一人でありました。しかし、官僚制を否定する時代は中大兄皇子を頂点まで昇らせます。

こうして、中大兄皇子は律令制を廃止し、百済復興派と豪族が並び立つ共和制に戻したのでありますが、『白村江の戦い』に敗北すると、唐・新羅連合軍との決戦を覚悟して、中央集権の律令制を推し進める必要から大きく政治転換を図ります。

すると、地方の豪族の反発は大海人皇子を擁立する力となり、今度は壬申の乱によって大海人皇子は天武天皇となりました。しかし、地方の豪族の意に反して巨大な権力を持った天武天皇は律令国家の法体系が完成させてしまうのであります。朝廷は仏教を国教として、国分寺を地方に配置することで中央集権を強め、そして、地方の豪族をすべて臣下としてゆきます。そして、奈良時代に律令国家は完成しました。

ところが、中央集権の完成は同時に藤原氏という官僚政治のはじまりとなってしまったのであります。それは天皇と藤原氏との権力争いのはじまりを意味していました。藤原氏にとって不利益なことは天皇であっても覆せない。そんな現実を打開する為に天皇は寺院の僧侶に力を授け、天皇は官僚と寺院という2つの勢力に足を乗せて、2つを意のままに操ろうとしたのであります。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地を管理する者:公家・武家(執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

という3つの主従関係で結ばれたのであります。

調停人というのは、現代における立法(国会)と司法(最高裁判所)を兼ねた者です。そして、それを実行するのが官位を持った藤原氏などの公家たちであります。国司に任命された者は現地に赴き、土豪を管理することが要求されます。『枕草子』の著者である清少納言が、父・清原元輔の周防守赴任に際し同行したという話は聞いたことがあるでしょうか。藤原氏などの大公家になると、息子や兄弟、あるいは縁者を代理人として派遣することもありました。

現代ならば、土地の権利を認める権利書が存在し、諸事情を考慮した契約が結ばれる訳ですが、平安時代に権利などという言葉は存在せず、すべてを武力によって統治しておりました。派遣された国司に従わなければ、軍が派遣されて武力で制圧されます。

この武力は経済力に比例し、石高の大きさが軍を派遣できる兵の数になります。理屈から言えば、大領主である天皇に逆らう者はいなかったことになります。しかし、律令制が完成するに従って、実務を執り行う藤原氏に逆らう者がいなくなり、天皇といえども、藤原氏の意向を無視できなくなった訳です。

喩えるなら、「虎の威を借る狐」ということわざがありますが、キツネの言うことを聞いている内に、キツネの方が偉く思えて、誰もトラの言うことを聞かなくなったということです。そこでトラはクマを呼んで来て、権威を与えて味方を増やしたのであります。

 

しかし、律令制の完成が近づくと、すべての土地が天皇の物となります。民は搾取されるだけの存在となり、単に農作業に従事するという農作業は生産意欲の活力を削がれます。時に襲う飢饉や干ばつで作物の収穫が減ると民は罰されることを恐れて土地を手放して流民となりました。すると農民が激減し、生産石高も減り、朝廷の財政を圧迫しました。そこで新たに開拓した土地を開拓者の物とする『荘園制度』が始まります。公家・寺院はこぞって荘園を開拓しはじめてゆきます。こうして、中央集権の律令国家は完成した奈良時代から律令制が壊れ初めていったのであります。

荘園は天皇から赦された自分の土地でありますが、天皇から赦しを貰えるのは、公家か、寺院という縛りがありました。各地の豪族は公家や寺院と繋がりを深くし、公家・寺院の荘園が増えてゆきます。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

★土地の所有者:大公家、寺院(領主)

土地を管理する者:公家・武家(執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

一直線であった主従関係と別の領主が誕生した訳です。

すると、土地の持ち主の違う領主の間で争いが起こり、天皇は調停人、つまり、裁判官としての役割の比重が大きくなります。つまり、裁判を有利に進める為に天皇により近い官位を得ようと争いはじめるのであります。

飛躍的に勢力を伸ばすことになったのが寺院でありました。律令制がはじまると、土地を捨てた民は罪人として扱われます。ところが僧侶になると、その罪から免除されるのであります。もちろん、法的には違法なのですが、実際にほとんど取り締まれることがなかったのであります。

理由はいくつか考えられます。

最大の理由は数が多過ぎたことでしょう。

次に荘園の開拓者に『沙弥某(しゃみぼう)』(資格を得ていない出家者)、つまり、乞食坊主の名が多く残されていることです。荘園を勝手に開拓し、どこかの寺に申し出て許可を貰うと寺院は荘園を手に入れ、沙弥某は管理する権利を手にします。

たとえ、沙弥某が土地を捨てて逃げてきた罪人としても、寺の保護を受けた者を取り締まることは、寺と揉めることになり、役人も安易に手出しできないのでありました。

奈良時代、干ばつや飢饉で量に流民が大流れ込んできた都では、沙弥某によって荘園が多く開拓され、寺院は瞬く間に大領主となり、多くの僧兵を養える一大勢力へと成長したのでありました。

そういった寺院の勢力拡大を背景に道鏡(どうきょう)を皇位に付けようという称徳天皇(しょうとくてんのう)の画策も起こるのであります。道教の神託を伝えた宇佐神宮は平安時代において神宮寺の弥勒寺とともに九州最大の荘園領主であったとされています。

俗に、桓武天皇は肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、ほとんど未開の山城国への遷都を行ったと言われますが、

称徳天皇(天武朝)

天皇・寺院 VS 藤原氏

光仁・桓武天皇(天智朝)

寺院 VS天皇・藤原氏

このように称徳天皇の死去によって、対立構造が逆転したのであります。そもそも井上内親王皇后の呪詛による大逆や他戸親王の廃嫡など、藤原氏と山部親王(後の桓武天皇)の陰謀であったと言われております。

奈良時代から平安時代を通して、怨念というのは天変地異を起こすと考えられており、天候の不順、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデター未遂、光仁天皇が不豫(病)、山部親王自身も大病を患ったとされております。即位した桓武天皇はわずか3年で長岡京に遷都を行い、逃げるように奈良から出たのであります。

ここで重要となるのは、奈良で絶大な権力を手に入れていた寺院でありますが、地方では大した勢力になっていなかったことです。天皇から派遣されている国司と国分寺の僧侶は表裏一体、コインの裏表であり、公家の原点である地方の氏族、土豪と呼ばれる有力者を統治するには互いに必要な存在でありました。

つまり、畿内ほど統治が盤石ではなかったのであります。特に東北はまだ従っていない部族が抵抗を続け、内輪揉めをしている余裕などありません。奈良の僧侶が決起して天皇の討伐を行っても、地方の豪族がどれほど賛同するかは判らなかったのです。

こうして、金科玉条を失った奈良の僧侶たちは藤原氏の菩提寺である興福寺と和議をしたのでありました。

ところで、この興福寺は平城京の東に位置し、背後に春日大社を配した1つの城のような構造となっておりましたが、天皇が東大寺の大仏鋳造という名目で興福寺の横に建てられました。これは藤原氏にとって痛恨の打撃でした。城壁の中に敵の本陣が突如として現れたようなものであり、藤原氏が遷都を急いだ理由の1つともされています。

平安京に遷った朝廷は、僧侶の勢力を分断する為に比叡山の最澄、高野山の空海を重用しました。朝廷を中心に怨霊を鎮める御霊信仰が広まったのもこの時期であります。平安時代を通じて、比叡山は大陸との交易、祠堂銭(お布施)などで富を稼ぎ、その富を土倉(どそう)や酒屋の前身である貸金業などで富を増やしていきます。

土倉や酒屋というのは、鎌倉時代から始まった金融業のことで寺院(寺・神社)が直接的に金(米や反物も代替通貨)を貸し出し、回収する仕事を商いとしたものであります。しかし、実際の回収は神人や僧侶が赴くことから、土倉や酒屋は名前だけの寺院(寺・神社)が運営する別会社のようなものでした。

因みに酒というのは、室町時代まで僧侶の専売品であり、甕の中に米を沈めてかき回した作る濁り酒、白酒のことを言います。現在、この工法で作っているのが、西條合資会社(大阪府河内長野市長野町十二番十八号)の天野酒であり、「太閤秀吉に愛された酒、僧坊酒」として発売されています。

また、土倉の金利は月8%と言われ、年換算で貸し付けの2倍になります。しかし、米は1粒が100粒くらいになって実りますから、倍返しでも採算がのった訳であり、作付米を貸してくれる寺院(寺・神社)はありがたがられていた訳であります。

そして、平安時代も末期になってくると、貨幣の申し子である『平清盛』が登場します。平安時代は総じて平安な世の中でありましたが、宮廷での権力争いは壮絶を極めました。これらの治安維持を生業とした警備に特化した役職である検非違使(けびいし)が置かれるようになり、これが武家へと変化してゆきます。荘園の拡大と比例するように下級の公家、つまり、武士が増加してゆきます。

その貴種となったのが源氏と平氏でありました。共に朝廷を祖とする家柄であり、経済的な基盤が薄い下級の公家として、武士を束ねる棟梁とされていきます。しかし、権力争いが地方、および、都での武力衝突が激化すると、武士の勢力が瞬く間に大きくなってゆきます。

それでも財政基盤の薄い武士たちは、天皇、上皇、公家衆に雇われる身であることはかわりません。ところが清盛の父、平忠盛(たいらのただもり)が鳥羽院政の御世で、肥前国神埼荘の預所となった当たりから激変します。宋人・周新の船が来航すると院宣と称して、荘園内での大宰府の臨検を排除しようとしたのであります。

そもそも遣唐使の廃止は894年に菅原道真が直言したことがきっかけと言われますが、廃止の令が出された訳ではなく、自然消滅したようです。唐は859年の裘甫の乱をはじめ、各地で反乱などが頻発するようになり、安全とは言い難い状態に突入します。

これにともなって大宰府に設置された公的な日唐交易、鴻臚館(こうろかん)交易は延喜3年(903年)に廃止されます。

ここから鴻臚館貿易は官営から私営に移行されます。その最大のパトロンが比叡山でありました。

960年に趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた宋(北宋)は、979年に中国統一し、五代の争乱を終わらせます。宋は文政国家を目指し、商工業を奨励し、貨幣経済を行き渡らせます。宋が鋳造した宋銭は東アジアの共通通貨として広がってゆきます。

11世紀に入ると宋の経済は益々盛んになり、聖福寺・承天寺・筥崎宮・住吉神社ら有力寺社や有力貴族による私貿易が盛んになり、大宋国商客宿坊と名を変えた鴻臚館は衰退します。

この宋貿易の巨大な富に目を付けたのが鳥羽上皇であり、平忠盛を使って取締り、巨万の富を手にいれたのであります。平忠盛も越前守に任じられ、日宋貿易から生まれる巨万の富の一部を得ることに成功し、後院領である肥前国神崎荘を知行して独自に交易を行い、舶来品を院に進呈して近臣として認められるようになりました。

その基盤を継いだ清盛は、保元の乱、平治の乱を制して、大宰大弐となります。すると清盛は日本で最初の人工港を博多に築き、寺社勢力を排除して瀬戸内海航路を掌握しました。日宋貿易を独占することに成功した清盛は、貨幣の発行権を一手に持つことになったのです。

現代風に言えば、総理から独立した財務大臣と銀行券を発行できる日銀総裁を兼務したようなものです。日本の富みの半分を清盛が牛耳ったと言っても過言ではなかったのであります。これによって、支配体制も新しいステージに変わります。

つまり、

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地の所有者:大公家、寺院(領主)

★土地を管理する者:公家・武家(領主、執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

武士も荘園を持つ領主となり、しかも平氏においては貨幣の発行権を持つ大財閥になった訳です。

0101

こうなると、領地を所有していても武力を有しない天皇や公家の立場は一気に弱体化します。しかし、平氏の基盤も盤石ではありませんでした。日本の通貨を日宋貿易に頼る為に、常に宋銭が足りないというデフレ基調が続きます。

デフレとは、通貨の価値が上がり、物の価値が下がります。十分な通貨が流通する西国では、通貨を介して物の売買がなされるので大きな支障は起こりません。強いて言うなら富める者がより富み、貧しき者はさらに貧しくなる。しかし、当時の生活様式から農民はほとんどが自給自足でありましたから、通貨の流通によって支障をきたす者はわずかでした。

しかし、様々な物を必要とする公家や武家、土豪の者は違います。特に東国には宋銭が圧倒的に不足していました。米や反物を代替通貨としていた東国の武士たちは、宋銭の価値が上がるほど、米や反物の価値が下がり、必要な物が買えないという状況に陥っていたのであります。

たとえば、紅や塩を買おうとしても、米や反物の価値が下がり、去年の半分しか買えなくなったとすれば、どう思いますか?

東国の人々は何も悪いことをしている訳ではないのですが、必要な物資を買うだけでドンドンと貧しくなってゆくのであります。

近年、30年以上も続いたデフレは、中間層という小銭持ちに直撃し、収拾も下がり続け、100円均一を買いあさる下流層へ転落しています。これは中間層が働くなくなったのではなく、貨幣の価値が上がり、給与が下がり、相対的に高い物は買えなくなった結果であります。デフレというのは、生綿で首を絞めるように、じわじわと生活に襲い掛かるのであります。

こうした生活が苦境に立たされてゆく東国武士の怒りが、平氏打倒という力となった訳であり、治承5年(1181年)に起きた『養和の大飢饉』により米の値段が高騰し、宋銭の価値が急激に下落したのであります。鴨長明の『方丈記』には、「さまざまの財物を食糧と交換しようとするが、誰も目にとめようとしない。たまたま交換する者がいても、金銭の価値を軽くみて、穀物の価値を重んじる」と書かれているように、平氏の持っている財貨は、石ころに成り下がってしまったのであります。

そんな弱り目の時期に清盛が亡くなり、源氏が立ち上がったのであります。持前の財貨で兵を集めようにも集まらない。平氏は成す術もなく敗れ、貨幣の申し子であった平清盛がその貨幣によって高転びしたのであります。

平家物語に出てくる「平家にあらずば、人にあらず」などという傍若無人な専横政治で人々を苦しめたということあらず、祇園精舎のフレーズも的外れなのであります。

もし、平清盛が需要を満たす十分な宋銭を供給できていたなら、源氏を担いで東国武士が立ち上がることもなかったでしょう。尤も偏西風を利用した年に1周しかできない日宋交易の船舶を簡単に増やすことはできないので宋銭を基軸通貨とする限り、デフレから脱却するのは不可能あり、大抵、デフレを放置した国家は国力を失い、民衆の離反から国を滅ぼしております。

この日宋交易で比叡山の延暦寺は、鳥羽上皇・平氏に掠め取られることになるのですが、その間隙を縫って、登場したのが禅僧の明菴栄西(みんなんえいさい)であります。栄西は建久2年(1191)に虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受けると、同年、帰国し、福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前、肥後を中心に布教に努めます。しかし、建久5年(1194)に天台宗からの排斥を受け、朝廷から禅宗停止が宣下されました。京に赴き、禅宗の正しさを解いて布教を許可されますが、単に新興宗教という理由で天台宗が目の仇にするでしょうか。

栄西は建久6年(1195)博多に聖福寺を建立し、鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜っております。つまり、鳥羽天皇から布教して良しという『許状』を貰ったようなものです。開業したばかりの一介の貧乏寺にそんな財力があったのでしょうか。

否、財貨を投資するパトロンがいたのです。

栄西のパトロンは、博多に拠点を置く宋や朝鮮の商人達でした。つまり、臨済宗の嗣法の印可を受けた高名な僧である栄西に先行投資し、日宋交易の便宜を図って貰うのが目的でした。強力なライバルの登場に天台宗が躍起になって排斥しようとするのも頷けます。

正治2年(1200)に栄西は北条政子建立の寿福寺の住職に招聘されたことから、日宋交易の窓口として選ばれたことが判ります。

日宋交易で生まれる巨万の富を供給する臨済宗は鎌倉幕府にとって重要なファクターとなり、鎌倉5山と呼ばれる建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺の臨済宗の禅寺は北条氏の加護により勢力を伸ばすことに成功したのであります。

つまり、

鎌倉幕府は臨済宗と繋がることで日宋交易の巨万の富みを得ることに成功し、

臨済宗は鎌倉幕府の保護を得ることで勢力を伸ばし、

宋・朝鮮の商人は鎌倉幕府の許可を得て商売ができ、臨済宗の口利きで売り手が見つかる。

正に『WIN―WIN』(ウィン、ウィン)の関係が生まれたのであります。同じ新興宗教である法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗が時の幕府から厳しい沙汰が下されたのに対して、栄西の臨済宗は比叡山の天台宗からの弾圧はあっても、幕府から保護を受けていた点で大きく違うのであります。

また、室町幕府の3代将軍の足利義満が相国寺を創建した後に五山を京都五山としたことでも判るように臨済宗は、鎌倉幕府と同様に日明交易によって幕府に莫大な富を齎し、幕府からの保護を受けることに成功しているのであります。

さて、『応仁の乱』の主役は、天皇や大名のような刻の権力者のように思えますが、その兆しはまったくそんな所とは関係ない鎌倉初期から芽生えだします。

平清盛が生み出した貨幣経済は、様々な職業の分業を可能としました。

米・麦・粟・大豆を作る農民、

漆・カキ・炭・薪・織物などを作る商工業

土台・屋敷・納屋・水車などを作る左官、右官と呼ばれる大工

鉄など精製する鍛冶等々

もちろん、貨幣経済が進む以前から分業されていましたが、共同体の中での分業であり、その職業を生業として単独で生きてゆくことはできなかったのです。しかし、貨幣経済が進んでくると、鍛冶屋ならその農機具を宋銭に変えて貰うと、必要な物は市に言えば、すべて手に入るようになります。作業で必要な工具や生活の米や貴重な塩なども手に入れることが簡単になるのです。また、銭は場所を取らず、保管もできます。米や反物のように質によって価格が変わることもありません。鍛冶屋だけが沢山集まって、米を作らない鍛冶屋しかいない村なども生まれてくるのであります。

さて、幕府から厳しい沙汰を受けた法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗は、元々は皆、比叡山で学ぶ天台宗の僧でありました。その比叡山の天台宗は、土倉や酒屋を通じて祠堂銭を貸し出して、利鞘を稼ぐことを生業としておりました。

天候のよい年は、収穫から利子分を返しても十分に残りました。しかし、天候不順になると収穫が落ちて、年貢を払い、利子分を返すと何も残りません。そして、飢饉や干ばつが襲うと、利子分を返すことが出来ずに抵当となっている土地を奪われてしまいます。その奪った土地が比叡山の天台宗の新たな荘園となり、6万石程度まで膨らみます。それは国司(守護)と同等の力を持つようになったのであります。

そこで少し知恵のある僧侶でいれば、農民同士がお互いの不足分を補えば、利子を払わずに自分たちの利益になると教えはじめたのであります。

それが法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗でありました。浄土宗、浄土真宗の寺は、利子も取らずに金や米を無償で貸し与えてくれます。

あるとき払いの催促なし

そんな虫のいい話があるのでしょうか?

ホントにあったのであります。もちろん、それは布教活動の一環であり、農民の投資をして、お布施として回収するというビジネスモデルなのです。

天台宗のビジネスモデルは、天候が順調なら普通に儲け、洪水や飢饉で民が困ると、抵当の土地を回収して儲けます。

これに対して、

浄土宗、浄土真宗のビジネスモデルは、天候が良ければ、多くのお布施を要求して沢山回収し、天候が不順のときは回収しない。むしろ、吐き出して民衆を助けます。

どちらが民衆受けするのかは一目瞭然でした。

つまり、放置すれば、顧客がどんどんと浄土宗、浄土真宗に流れていってしまいます。天台宗の僧侶が、浄土宗、浄土真宗を目の仇にして弾劾するのにも理由はあるのです。

しかし、よく考えてみて下さい。

法然や親鸞がどんな巧いビジネス話を民にしても、民が一粒の米もお布施として奉納できないほど貧しければ、法然や親鸞も食べてゆけません。

平安~鎌倉~室町と民の生活はゆっくりと豊かになっていたのです。

歴史の教科書を見ると、農民の暮らしは少し楽にならず、戦乱と天候不順の洪水や干ばつで苦しめられ、飢えて死ぬ直前の悲惨な農民像しか浮かび上がりません。

しかし、平安~鎌倉~室町と農民の暮らしは楽になっており、農民の中には僧侶のパトロンになれるくらいの上農民が生まれてきていたのであります。鎌倉時代に始まった分業化は『惣』と呼ばれる自治的・地縁的結合による共同組織に発展してゆきます。

中世風に言えば、『ギルド』と呼ばれる組合が生まれてきていたのであります。この『惣』は、横の繋がりを持ち、領地内、あるいは、地域全体を結びます。この『惣』と新興宗教が結びつくと、時代が進むにつれ爆発的な力が発生させてゆきました。

それゆえに法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、日蓮の日蓮宗を天台宗が天敵として弾圧するのも頷けるのであります。

因みに日蓮宗も浄土宗・浄土真宗とビジネスモデルは同じでありますが、1番大きな違いはパトロンを武家に求めたところであります。法然や親鸞が国体というものを意識しなかったのに対して、日蓮はこの国をどうするかと憂いておりました。

日蓮は天台宗、真言宗が独自繁栄のみに固執する宗教であり、この国の行く末を考えていないと考え、日蓮宗を国教とすることで、この国を救おうという野心的な宗教家でありました。日蓮が没した後は、それぞれのパトロンとなる武家を擁護し、宗派内で対立が絶えないというジレンマを抱えることになってしまったのです。

武家の権力争いが宗派内の対立になるのは、喜劇としか言いようがありません。

 

様々な権力争い、宗教間対立と、大陸からの侵略など、国難は何度も襲ってきましたが、それでも奈良時代・平安時代・鎌倉時代と温暖期が続き、米の生産量が自然拡大するという恵まれた時期でありました。

ところが、室町時代の1400年前後からミニ小氷期に入り、天候不順が続くようになると、それまでに溜まった理不尽が一気に吐き出してきます。

貨幣経済によって産み落とされた『惣』という金づるを誰が支配するのかというジレンマも限界に達したのでありました。

すべての頂点:天皇(大領主、調停人)

土地の所有者:大公家、寺院(領主)

土地を管理する者:公家・武家(領主、執行人)

土地を耕す者を従える者:土豪(土地を耕す民の長)

どこにも所属していない↓

★惣という名の共同組合:大衆(領主ではないが銭を持っている者)

どこにも属さない金を生み出す集団、その処遇を巡って、権力争いの火種が全国に広がっており、その発火点を将軍家が自ら付けてしまった。

惣のやっかいな所は銭を持っていることであり、水の利権を争うのとは意味が違う。惣を手に入れた者は経済的に豊かになる。

典型的な例が、

織田信長であり、津島と熱田を手に入れたことで50万石並の権力を手に入れます。

信長の先駆者としては、堺を持っていた細川、博多を持っていた大内などが、石高以上に権力を持ち、応仁の乱の主役を張ります。

しかし、応仁の乱を単なる権力争いとしか見ていなかった彼らは、カオス的に権力が分散し、社会秩序を維持できなくなった奈良時代から続く律令制度の限界と気づくことなく、最後までその本質に手を付けることはありませんでした。

結局、信長の登場を待つしかなかったのであります。

 

応仁の乱とは、地面の中でくすぶっていた欲望が芽をはやすて可視化されたという意味で時代の転換期を表わします。しかし、これを理解しようと思っても中々手間が掛かります。戦いを始めた細川勝元と山名宗全も、争いのキッカケを作った畠山氏と斯波氏も、神輿に担ぐ将軍も互いに思惑は違うのであります。

そもそも西軍の指揮官の山名宗全が義政と富子の子である義尚、東軍の指揮官の細川勝元が義政の弟の義視を擁立しよとしてはじまった戦いですが、東軍の義視の子の足利義稙(義材)が義政の養子に入るとなって西軍に寝返って終決します。大将が寝返るって、何の為に戦ったのか判りません。

しかし、西軍の山名宗全が9代将軍候補に擁立した義尚が勝ったハズが山名家自体は衰退し、東軍の足利幕府に3つあった管領家のうち斯波・畠山両家は衰退し、細川氏が管領職を独占しました。

西軍である足利義尚の勝ち?

それとも東軍の細川氏の勝ちでしょうか?

援軍に来た武将も途中で寝返り、寝返ってきた武将が嫌いだからと言って、逆に寝返る武将もいます。

大義も名分もあったものではありません。

つまり、『応仁の乱』は、様々の欲が露わになった事例なのです。

ゆえに、応仁の乱の本質を知る為には、様々の方面からスポットライトを当てて、それぞれの『応仁の乱』を知らなければ、応仁の乱を知ったとは言えないのであります。

 

では、経済という1つの定義で『応仁の乱』を様々な視点から見て行こうと思います。

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1章.尾張編《こうして信長が生まれた》

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

 

おんな城主直虎 ついに桶狭間

おんな城主直虎も桶狭間の週です。

いよいよ、時代が動きます。

井伊直盛の伯父が

「義元の首をとって来い」

と言いいましたが、

井伊直盛は、豪雨で進む信長を見逃して、義元に向かうように仕向けるのでしょうか?

伏線回収しないだろうな~と、思いつつ。

桶狭間を少し覗いてみましょう。

桶狭間と言えば、信長と義元の天下分け目の大合戦です。

織田信長と今川義元の国力差は、3000VS2万5000ほど差はありません。

石高でみると、駿河一国ならたったの15万石だったのです。駿河、遠江、三河の3国の石高で70万石と非常に少なく、尾張一国で57万石もあります。

実際に信長が抑えていたの半国ですから、20~30万石です。ただし、経済活動で義元は金山を持ち、信長は津島と熱田を手にしていましたから、義元100万石と信長50万石の戦いでありました。

つまり、織田の兵力は総勢1万5000ほどあります。

しかし、義元が武田・北条を気にせず、大兵力を移動できるのに対して、信長は背後に斉藤と本願寺の荷ノ上城は今川方であり、背後に兵を残さないといけません。さらに上尾張は平定して間もなく、裏切る可能性もあります。

013 永禄2年桶狭間の戦い 城の位置>

013

しかも義元は福谷城を回って岩崎城から下社城、那古野城を目指す進路もあります。下社城や守山城にも兵力を残す必要がありました。

信長の有利な点は1つであります。

戦場との距離が短い。

001 信長の進軍時間>

001

そうは言っても、大高城は信長の持つ領土で一番遠い場所です。

大高城と鳴海城のまわりに砦を築き攻めていますが、毎月の新月の日に食糧が入れられます。二城は黒末川という海・河沿いにあり、新月の満潮になると、信長方は舟でしか移動できません。援軍が期待できないところで三河から二城に食糧を入れ込むのです。

005 参謀本部刊「日本の戦史 桶狭間」付図>

005

同時に、信長の背後である斎藤 義龍(さいとう よしたつ)に教えてやっているのです。

信長と義龍は、足利義輝の仲介で停戦しておりますが、道三が義龍に殺されてから敵対関係です。東美濃が道三について離反し、武田に降ったので、武田と織田の両面攻撃を避ける為に停戦を受け入れています。

織田に何かあれば、すぐに攻める準備をして待っていますから、信長も北と西の備えを手薄にする訳もいきません。

006 桶狭間周辺の地形>

006

桶狭間周辺の地形はこんな感じであり、大高城は小城ですから本隊3000人を受け入れません。昼にはすでに落ちたと報告がありますから、今川の本隊は沓掛城から直接に鎌倉街道を西進して、鳴海城を目指すのが上策です。しかし、義元は大高城を目指し、桶狭間山で陣を貼りました。

003 信長の進軍ルート>

003

これでは善光寺に到着した信長の針路は3つなります。

もし、義元が鎌倉街道から進軍したなら、信長は正面で受けるしかありません。可能ならば、前に進んで狭い街道で大軍の有利を消して戦いたいと思うはずです。それができなければ、撤退しかありません。

義元の狙いは信長を誘い出すことにありました。

ゆえに、桶狭間に陣取れば、信長は中島砦に入ると考えたのではないでしょうか。

信長は戦力で劣るので、

中央突破か、迂回挟撃か

その方法以外の勝つ道はありません。

義元は、信長を中島砦に入れた後に善光寺を強襲して、包囲することを考えていました。

もしかすると、先手を取った信長が柴田を迂回挟撃させていたのかもしれません。

009 柴田勝家による迂回挟撃>

009

中島砦に入った時点の今川の配置はこんな感じであります。

012 桶狭間における部隊の配置>

012

中島砦から出陣した信長は、正面の諏訪山に布陣している鵜殿長照に当たります。

今川義元の戦略は徹底しており、

外様の武将から前線に投入します。丸根・鷲頭の砦には松平元康と井伊直盛の当て、一戦終わった松平を大高城に入れ、井伊を下げます。

大高城は600人ほどの城ですから、あぶれた本多忠勝の隊は抜け道のある丸根砦付近で休憩していたでしょう。そして、戦いっていない大高城の兵である鵜殿長照を前に出します。

朝比奈や松井の軍は常に温存です。

中島砦から討って出た信長は、緒戦の勝つと雨が降り始めてきました。普通ならここで兵を休める為に中島砦に戻ると考えますが、信長が勝利の勢いと豪雨を利用して兵を前に進めました。

信長公記によれば、

前に進むと義元の隊が待ち構えていたとあります。

015 桶狭間 偶然に起こったエアーポケット?>

015

漆山から長坂道を上れば、高根山があり、そこで松井の軍が待ち受けています。

松井の横には井伊の軍が配置され、その後には松平政忠の軍が待ち受け、その後に本隊の義元が桶狭間で待っています。

散り尻になって進んだら桶狭間が前にあったのかもしれません。

太子ケ根の麓の方に釜ケ谷があり、そこで信長の兵が集まるのを待ったと言われ、その先に分レ道と近崎道の間に藪林の丘があり、その藪林の中に抜け道がありました。

そこは、信長坂と言われ、信長が駆け上がっていったという伝承が残されています。

しかし、戦力差を考えれば、無茶な話です。

集まったと言っても、前線では松井・井伊の軍と戦っているので、信長に集った兵数は700人もいたのか疑わしいのです。

その700人で3000人の義元本隊、しかも桶狭間山に陣取っている部隊を払って上らないといけないのです。

よって、私はこういう偶然があったのではないかと予想します。

012 桶狭間における部隊の配置>

012_2

信長は中島砦から出て、一戦して勝利します。

信長が直進すれば、今川のどこかの隊に当たり、義元の下にその報告が入ってきますが、どこからも来ません。

豪雨の中では敵味方の班別が出来ない為に、信長は諏訪山の諏訪神社当たりを確保して、一旦、中島砦に戻ったと思ったのでしょう。

義元が最も恐れるのは、砦を放棄して撤退してしまうことです。せっかく、信長を釣り出したのにここで逃がしてしまうのはおしい。

後方の予備兵力は、信長が前線を突破してきた場合の兵力であり、信長が善戦している相場は義元の周りから離れません。しかし、信長の戦いが膠着すれば、予備兵力は信長の後方に投入されて善照寺を落されます。

すると中島砦は孤立無縁で取り残されます。

そうさせない為にも信長は進軍すべきであり、手を緩めることはあり得ないと義元は考えます。つまり、信長はこの豪雨を利用して撤退しようとしている。

義元はそう考えたのかもしれません。

そこで豪雨の中で予備兵力を善照寺に進める指示を出しました。

016 豪雨の中の配置替え>

016

もし信長が引き上げようとしているなら信長と当たります。そして、単に中島砦で休息しているだけなら、雨が上がった時に退路を断たれていることに気付くのです。

信長公記を見れば、信長は迂回の兵を割いたとはありません。

鎌倉街道は手薄です。

松平政忠の兵を先行させ、松井の軍を後背に残して万全を取り、松平政忠の後ろ、善照寺の東側に義元本隊を移す。

信長が義元を攻めるには、三浦、松平、井伊を突破しなければならない。

退路を断たれた中島砦の兵の士気は落ちます。

信長は死ぬ気で義元に突撃するか、

決死の脱出を図るしか手は無くなります。

将棋でいう『詰み』です。

しかし、ここで2つの予期せぬ事態が起こります。

★信長が幡印を捨てて、ゲリラ戦に変えたことです。

『甲陽軍鑑』には、「駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、身方(味方)のやうに入まじり」云々という記述に注目し、勝ったと思った義元が兵に乱捕りを許可し、信長が旗を仕舞って、敵に混じって近づいて首を取ったというものです。

・名乗りを上げない。

・どこの軍に所属するか明らかにしない。

・今川軍の振りをして前線を通り抜けて、突然、本隊に襲い掛かる。

邪道に徹した戦い方です。

勝っても自慢できず、負ければ、子子孫孫まで罵られる戦い方です。

まさか、そこでするとは義元も考えなかったのでしょう。

★豪雨が敵味方の区別できないようにした

今川に寝返った水野氏は最前線に送られていたハズです。しかし、その水野氏を朝比奈氏が後日の帰り掛けの駄賃とばかりに襲っています。配置を見れば、松井氏の前衛、漆山に誰も武将を配していません。

そこが水野氏の配置場所だったのではないでしょうか。

水野氏は前方に通る部隊を確認しなかった。あるいは、信長と知っていた見逃したのではないでしょうか。

義元の性格から水野氏は勝っても負けても領土安泰はありません。

ワザと負けて、信長に道を譲るという裏工作はあったのかもしれません。ところが豪雨で前が見えない。味方か、敵か判らない部隊が通っている。

確認を手間取っている間に兵が通り過ぎる。

織田と気づいたので追い駆ける。

水野氏は今川を裏切っていないし、織田は義元の本隊に迎える。

策略家らしい水野氏の策ではないでしょうか。

織田を確信した後に、義元に報告が行きます。

しかし、そのときはすでに部隊の配置替えを命令した後であって、立ちはだかる松井・井伊の軍を無視して進もうとする信長の軍、移動途中で交通渋滞を起こしている義元の本隊、偶然の一致で、神輿に乗って移動中の義元を山から駆け下りて首を取るというシーンに繋がります。

つまり、豪雨によって起きた。

信長の鬼手と情報の錯綜という2つの偶然を信長が手に入れたという仮説です。

義元は完璧主義な人でしたから、

この将棋詰みだ!

と確信した所、信長は盤の外を回って王手を掛けてきた感じがします。

信長は、義経に次ぐ、常識を打ち破る武将であった。

その1点が義元を上回っていたのでしょう。

この話は『信長協奏曲』が放送されている頃に書きましたが、アップしていなかったのでアップしておきました。

詳しいことは下で見て検証して下さい。

主な内容は、その3、その4に書かれています。

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1 

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/24-15603-2b9c.html 

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/24-15603-3d9d.html 

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その3 

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/24-15603-d324.html 

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/24-15603-b014.html 

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〔歴史館はこちらへ〕

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