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2017年2月

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4

01_2

〔歴史館はこちらへ〕

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■今川義元討死の事

今川義元が尾張に侵攻し、織田信長は清洲で待機していた。後背には斉藤義龍が睨みを利かせ、尾張の西には今川方に組みする服部左京助が虎視眈々と頃合いを見定めていた。尾張上四郡を前年に治めたとは言え、隙あらば離反も考えられる。そんな状況下で、清洲城では軍議もせずに雑談だけを繰り返していた。

5月18日夕方、義元の先発隊が沓掛城に到着したのを聞き付けたのか、翌19日の援軍の出し難い満潮時を狙って砦を落しに掛かると佐久間大学・織田玄蕃が信長に増援の注進したを聞こうしなかった。つまり、死んで来いという下知である。

「あぁ、見事に死んでやる」

などと叫んだかは定かではない。

報告を聞き終えると信長が軍義もすることもないと家老達を帰宅させた。

「家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。案の如く」

遂に気で触れたのかと家老の心配もこれに極まっていた。

その頃、松平元康が大高城に兵糧入れに成功する。

5月19日早朝、午前3時くらいに松平元康隊が丸根砦を攻撃する。伝令はすぐさま信長の元で走った。

同時刻、あるいは少し遅れた頃、朝比奈泰朝隊・(井伊直盛隊)が鷲津砦を攻撃する。

丸根砦  202人

鷲津砦  135人

丸根・鷲津両砦は尾根伝いに兵が行き来できるように作られていましたが、丸根砦が城のような形であるのに対して、鷲津砦は斜面を利用した砦となっており、後背に回られると防御が厳しいようです。

武功夜話では、丸根砦に400人、鷲津砦に600人とありますが、1000人の守備隊が守っていたとすれば、松平・朝比奈隊は3000人の兵で落とすのは、かなり苦労があったことでしょう。6時間程度で陥落させた松平・朝比奈隊は猛者が揃っていたのでしょうか?

丸根砦  1,008平方mですから、そこに400人もの兵がいれば、ごった替えしていたでしょう。増援を願い出ても砦には入り切らない状態だったでしょう。

否、そんなに兵士はいなかったのだと考えられます。

<<丸根・鷲津両砦>>

008

5月19日早朝午前4時、丸根・鷲津両砦より早馬で伝わると、信長は敦盛を舞い、わずか6騎で出陣する。

岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎

7時頃、上知我麻神社に到着した。馬6騎と200人ばかりの雑兵のみであり、丸根・鷲津両砦から黒い煙が上がっていました。上知我麻神社、つまり、源大夫殿の宮は熱田神宮の南の社です。丸根・鷲津両砦が見える海側に行っただけかもしれませんが、信長は本殿ではなく、源大夫殿の宮に到着します。そこで休憩をとった後に、兵が集まっている本殿に向かい、戦勝祈願をして出陣しています。

おそらく、何かあった場合は熱田で集まることが最初から決められていたのでしょう。『信長公記』には、熱田本殿に戻った事は書かれておりません。『熱田神宮文書』には、熱田神宮に参詣をかねて立ちより、そこで将兵の面前に進み出て戦勝祈願の願文を高らかに読み上げた。また、信長は、一つかみの賽銭を取り出し、「表が出ればわがほうの勝利」と叫んで社前に投げた。戦勝を祈願する頃には、千八百ほどの人数にふくれあがっていたとあります。

5月19日午前8時頃、信長一行は熱田神宮で戦勝祈願し、熱田かえ笠寺へ続く街道は満潮時間であるので海岸沿いの下の道は使えないと判断し、土手沿い道で井戸田から山崎を抜けて善照寺へと向かいました。そして、信長は水野帯刀らが守る丹下砦に入ると、佐久間信盛が守る善照寺砦へと移動しました。

5月19日午前10時頃、信長は丹下砦を経て善照寺砦に到着します。ここで信長は善照寺砦を守る佐久間信盛から丸根・鷲津砦が落城し、佐久間盛重、織田秀敏、飯尾親子の討死をはっきりと伝えられます。徳川時代に書かれた『武徳編年集成』などによると、織田方は砦を捨てて討って出てきたとも書かれております。

さて、ここから物語は、様々な展開を見せます。

『信長公記』では、佐々隼人正と千秋四郎が300人余りで義元の本隊に向かっていって討死します。これを義元は喜んだと書かれています。

『松平記』には、「善照寺の城より二手になり」と書かれており、先んじて佐々隼人正と千秋四郎が飛び出したのではなく、ここで信長と分かれたように書かれています。

『信長公記』の天理本には、佐々隼人正、千秋四郎らが今川方に突撃し、敵中に消滅した時、戦見物に来ている群集が帰えるように命じられ、散ってゆく様が残されております。民衆にとって、大戦は物見遊山の醍醐味だったのでしょうか。

蓬左文庫の江戸時代の戦場絵図(橋場日明氏は『桶狭間之図』とする)には、桶狭間の北の谷筋に描かれています。歴史学者の藤本正行氏は、鎌倉街道の「今川魁首此道筋ヲ押」の部隊がいたとすると言っています。江戸時代は奇襲が普通に語られていましたから、それを再現していたと私などは考えます。

『総見記』には、「先手ノ大軍ヲ皆本道(鎌倉街道)ヘ遣リ過シテ、<中略>義元ノ本陣エ一同ニドツト突掛り」という信長の作戦が書かれています。善照寺砦を出ようとした信長には、千秋四郎、佐々隼人正以外にも別働隊がいたのでしょうか。

高根山の有松神社にある案内板には、佐々隼人正、千秋四郎の両名が鳴海道を通って有松神社に布陣していた松井宗信の隊にぶつかり、討死したと描かれています。そして、信長の本隊は、道を戻って鎌倉街道から迂回して、古戦場へ進んだように書かれています。

『武功夜話』によれば、細作飛人など50人もの間者を沓掛城にばら撒いて、蜂須賀小六や前野将右衛門といった川並衆たちが義元の陣中に酒や肴を差し入れいている。

余談ではありますが、その献立は、

勝栗、一斗

酒、十樽

昆布、五十連

米餅、一斗分(糖米にて)

栗餅、一石分

唐芋、十櫃

天干大根 煮〆、五柩分

と具体的に書かれている。酒の樽は、1斗樽、2斗樽、4斗樽とあり、1斗とは18Lです酒枡180100人分です。4斗樽なら400人分が十樽ですから、4000人とほぼ義元本隊の全員に当たる計算になります。

「日曜歴史家」を自称する鈴木眞哉氏は、唐芋(サツマイモ)など江戸時代に入ってから広まった芋であり偽書である証拠と言っておりますが、唐芋を「とうのいも」で引くと、『御湯殿上日記』に文明十五年(1483年)8月4日に「あんせん寺殿よりたうの御いもまいる」と書かれてり、「とうのいも」は「さといも」を差し、古くから日本で栽培されていたことは藤本正行氏の説明から判ります。『武功夜話』の偽書説は多々ありますが、真実と脚色を入り混じっているのが『武功夜話』と考えています。ちなみに、『武功夜話』の名称は昭和62年に刊行されたときに付けられたものであり、それ以前は、前野小右衛門の祖先の倉に「南窓庵記」、「何々記」として眠っていたものです。そして、『武功夜話』は有松神社にある奇襲説が書かれています。ただ、義元はおけはざま山ではなく、桶狭間の谷で休憩しておりました。

『桶狭間合戦の真実』(著者:江川達也)では、どの文献を資料にしたのか判らないが、桶狭間古戦場公園と桶狭間古戦場伝説地を退路として考えると、おけはざま山から本陣は前進して漆山に陣を引いたとされる。この仮説は実に的を射ていない。4万もの大軍を率いる今川軍の本隊が最前線に出る愚を犯している。しかし、今川軍が一万から一万二千程度の兵力なら、本隊が前に出て決戦に挑まないと勝負にならない。つまり、この仮説が成立する場合は、70万石という石高に見合った兵力しか連れて来ていない場合だ。しかし、それならば、中島砦前の決戦と名付けられていただろう。

その他の説にも、『手越川北岸』がある。

手越川の南部は山が重なっており、大軍を生かすなら手越川の北岸から鎌倉街道沿いに兵を置く方が良いという説だ。これは一理ある。

鎌倉街道から善照寺を落せば、中島砦は孤立する。手越川の北岸は山も低く、扇川周辺は比較的広い。大軍を横に展開するには都合がいい。しかし、義元が討死した桶狭間から遠く、そこまで逃げる合理性がない。そこで本陣を手越川北岸に置く、そして、信長が北側から回り込んで攻めてきたことで南に逃げるという。

それならば、江川達也氏の説と合わせて、手越川北岸にも兵を展開させ、漆山付近に前衛を布陣させ、その後に後詰めとして自ら本隊が務める方が現実味もでる。もちろん、そうなると大高城で休ませている元康隊を遊ばせるのはもったいない。しかも雨が降ったからと言って雨宿りなどして油断してくれる可能性もなくなる。

包囲殲滅しようとする敵に対して、包囲されると悲観せず、兵力が分散したと見て、本隊への一点突破を試みるのは兵法の常である。しかし、慎重な義元がそんな危険な賭けに出るとは思えない。

『信長公記』では、鎌倉街道を東に進み、沓掛城の手前の大きな木が倒れていることが書かれている。ここから柴田勝家が迂回していたと思われる説もある。桶狭間に参戦したハズの勝家が活躍した記述は1つもない。太田牛一は勝家の家臣であって、当時は勝家と元に行動していた。

009 柴田勝家による迂回挟撃>

009

『三河物語』に書かれているように、織田軍は信長率いる本隊と迂回挟撃を目的とした柴田隊に分かれたとする。信長本隊は雨の中を鳴海道、長坂道とも呼ばれる長い坂を上って、高根山の有松神社付近に陣を構えている松井隊と接触する。その頃、勝家の隊は鎌倉道を東に進むと東浦道を南下し、近崎道か、大高道を戻って、義元本隊の背後を叩く予定だったのかもしれない。しかし、雨で木が倒れて中々巧く進めない。

中島砦から桶狭間mで4km程度であるのに対して、鎌倉街道から東浦道、桶狭間では6~10km(中島砦から沓掛城は6.3km、沓掛城から桶狭間まで4km)になる。どんなに急いでも2時間くらいは掛かる。しかし、豪雨に見舞われた部隊は1時間くらいのロスが考えられる。つまり、勝家が迂回挟撃を決行していても、桶狭間に到着した時点で勝敗は決しており、精々逃げてくる敵を討ったくらいであっただろう。これでは、余りにも間抜けな柴田勝家の活躍を牛一も書くことができなかったのかもしれない。

迂回挟撃の柴田勝家、お間抜け説は、『信長公記』にある鎌倉街道の一節を何故ゆえに牛一が書いたのかという回答にしかならない。

5月19日正午、鷲津・丸根砦の陥落を聞いた義元はこれに満足し、謡を三番歌わせるほどであった。謡とは、信長が『敦盛』を舞ったように、義元も能楽を誰かに舞われた。信長は善照寺より中島砦に移動します。その数は『信長公記』では二千に足らずでした。中島砦は中洲に建てられた砦で、四方を川と田んぼに囲まれています。

そこから諏訪山の諏訪神社へ向けて一本道があります。これが深田一本道と呼ばれる道でしょう。その深田一本道を敵が押し寄せてきました。

信長は「あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや」と言って、討って出ていったのです。信長は兵糧入れを行い、鷲津・丸根砦を落した元康の三河衆が攻めてきていると勘違いしていました。

<桶狭間の地形>

010

さて、信長本隊と中島砦攻略部隊の戦いが始まりました。その様子を見ることができるのは高根山山頂に布陣していた松井宗信の隊だけでしょう。標高のない生山、武路では見ることができません。桶狭間山は標高65mもあり、高根山(54m)より高いですが、中島砦で見えたとは思えません。幕山に布陣した井伊直盛の隊も前方に愛宕西47m)があり、クリアとまではいかないでしょう。

鳴海から桶狭間における地図を確認しておきましょう。

011 地形と主な街道>

011

中島砦から手越川沿いに深田一本道があります。上に地図では横に走っている道がありますが、おそらく満潮時に近い頃は海の底に沈んでいたと思われます。点線の道は満潮時でも通れた道でしょう。その反対側に手越川の南面から山の中腹を抜けて、有坂道へ繋がる道もあったようです。

深田一本道を真っ直ぐに抜けると諏訪山の麓に到着します。ここから大高道へ抜ける道があったようです。大高川に沿って『大高街道』が走り、その途中から大脇村(現在の豊明市)に延びる道を大脇道といい、大脇村では『大高道・おけば道』と呼ばれています。そこから東浦道を北に上がって行くと沓掛城へと至ります。

この東浦道から横切って熱田へと繋がっているのが、『鎌倉街道』です。鎌倉街道は笠寺を抜けて熱田へと繋がっていますが、海が満潮になると、潮が満ちて通れなくなります。それは鳴海城近くの知多街道も同じです。

鳴海から手越川に沿って昇り、途中から高根山を越えて桶狭間に続く道を『長坂道』と呼びます。有松村から桶狭間へ向かって長い坂を上る道という意味です。桶狭間へと続く道などで「桶廻間村道(おけばさまむらみち)」とも、鳴海へ続く道なので「鳴海道」とも呼ばれています。長坂道の途中、地蔵池付近から北に向かって延びるのが、『分レ道』です。この道は手越川沿いの鳴海道に繋がっています。そして、桶狭間村から東浦道を横切って近崎村へ延びる道が『近崎道』です。近崎村は知多湾に面する旧村です。

手越川沿いに『長坂道』、『分レ道』を昇り、『近崎道』へ続く道が後の『東海道』となります。

最後に、信長は海が満潮の為に潮が満ちて、通常の道が使えないので常滑街道を回って丹下砦に辿り付いています。そこから善照寺に移りますが、鳴海城からは丸見えですね。高根山からも確認できたかは微妙です。善照寺は標高21mの小高い丘に建てられた寺のようで当たりが一望できます。今は砦公園として残っています。高根山は見えますが、おけはざま山は見えません。

 

信長の話に戻しましょう。

「鷲津・丸根砦を落して疲れている兵を叩くぞ!」

と鼓舞する信長は次に兵力の差を考えて、「懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと」と言います。つまり、敵が掛かってくれば、引いて受け流し、敵が引くならば、引っ付いて押し戻せ、無理をせずに相手に合わせる用意に注意を促します。犠牲を少なくしないということです。さらに、分捕りと言って、朽ち果てた兵の首を取ることを禁じます。首を持ち帰ることは戦場の功績を表し、首の数で褒美が変わってくるのですが、首を取ることは足を止めて、稲刈りでもするように腰を下ろして首と胴体を切り離さなければいけません。首を刈っている間は戦力にならないのです。

数で劣っている信長の兵力で、兵を遊ばせておく暇はありません。ゆえに、「分捕なすべからず。打拾てになすべし。」と首を持ち帰っても評価しないぞと固く言い聞かせます。

ところがそう言っている矢先に、

前田又左衛門 

毛利十郎 

毛利河内 

木下雅楽助 

中川金右衛門 

佐久間弥太郎 

森小介安食弥太郎 

魚住隼人

の8人が首を刈って持って返ってきたのです。八人は、佐々隼人正、千秋四郎の両名と朝駆けをやったメンバーでしょう。佐々隼人正は大高城南の砦である正光寺砦を任され、千秋四郎は氷上砦を任されていました。その中間に位置する向山砦には水野信元が守っていたのですが、突然に水野信元が裏切って向山砦を放棄してしまいます。

大高城に兵糧入れを命じられた松平元康隊が背後に迫ってきます。正光寺砦―向山砦―氷上砦と繋がっているので連携が取れ、一枚岩として防御が上がるのですが、中央が抜け落ちたのでは、前後左右から取り囲まれて孤立する危険性があります。

水野信元、憎し!

などと言っている暇もなく、佐々隼人正、千秋四郎の両名は砦を捨てて、善照寺へと引き上げていきました。しかし、鷲津の織田秀敏、飯尾定宗、飯尾尚清、丸根砦の佐久間盛重が壮絶な討死を成し遂げます。3人は武門の誉れ高く討死したのに、両名は戦いもせずに逃げてきた。信長様にそう報告がいけば大変だとばかりに出陣したと思われます。

ここで様々な見解があります。

佐々隼人正、千秋四郎は信長が到着してから出陣したとされる場合と、信長が善照寺に到着する前に出陣していた場合です。そして、佐々隼人正、千秋四郎は誰と戦ったのかという話です。

『信長公記』は義元が「義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。」と書かれています。正午頃には終わっていたと見られます。しかし、牛一さんはどこでそんな話を取材したのでしょうか。

佐々隼人正、千秋四郎の両名が出陣した時間は、前田又左衛門が戻ってきた時間から逆算するしかありません。

信長が善照寺に付いたのは、午前10時で鷲津・丸根砦が落城した頃です。信長が到着する前に出陣したなら、有松神社に書かれているように、松井宗信の隊と戦ったのでしょう。2時間掛けて迂回攻撃を行い、前田は1時間以上掛けて手越川を下ってきたと思われます。

一方、信長が到着してから出陣したとするなら、迂回攻撃をしようとする佐々千秋両名に先駆けの三浦義就が横槍を入れて来たと見るべきでしょう。佐々千秋両名の首を取ったことは早馬で義元に知らされますから時間の齟齬をありません。

しかし、前田又左衛門、前田利家は不幸です。

同朋衆で仕えていた茶坊主の拾阿弥(じゅうあみ)を惨殺した罪で出仕停止処分を受け浪人となり、浪人中は熱田神宮社家松岡家の庇護を受けていました。森可成の導きでこっそりと桶狭間の戦いに参陣し、千秋に従って敵の首を討ち取って来たのに、逆に叱られることになってしまいました。

「まつ、どうしよ~う?」などと嘆いていたかもしれません。

利家の妻、まつは、天文16年(1547年)に生まれ、永禄元年(1558年)数え12才で利家の妻になります。可愛らしい奥さんだったでしょう。しかし、その翌年に長女の幸姫を産んでいます。14才の新妻と2才になる幸姫に手を振られ、「お父さん、今度はちゃんと就職してよ」と送られて来ていたのです。幼い幸姫の期待を裏切った利家の落胆は酷かったでしょう。

大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」で、まつ を演じる松嶋菜々子と利家のラブロマンスですが、12才のプロポーズは山口美香ちゃんが受けるべきだよと突っ込みたい、12才の松嶋菜々子さんは無理があります。

などと、利家で遊んでいる場合ではありません。

首を持ち帰った八人を口捨てて、信長本隊は深田一本道を討って出ました。松平元康は大高城でご休憩ですから新手です。しかし、信長の部隊は押し続け、遂に諏訪山の麓まで押し切ったのです。

堪らず今川方は後退しました。そこに大粒の雨が降ってきたのです。

まさしく、天の恵みです。

天に感謝し、祖先に感謝す、武田軍なら「御旗盾無し御照覧あれ」と叫びたい所です。この瞬間でなければ、この豪雨も何の役する所ではありませんでした。諏訪山の麓に到着した瞬間に振り出した雨が『桶狭間の戦い』を起こしたのです。

(注).御旗は平安時代の源氏の棟梁である源頼義が後冷泉天皇より下賜された日の丸の旗で、現存する最古の日の丸でもあります。現在は山梨県の雲峰寺に所蔵されています。盾無は源頼義の子で武田家の祖先である新羅三郎義光が着用した鎧です。山梨県の菅田天神社に保存され、国宝に指定されています。

 

●桶狭間の真相のしっぽ、その1

先にも述べましたが、桶狭間には幾つもの説があります。

「迂回攻撃説」 、「正面攻撃説」、 「漆山移動説」、「手越川北側説」

迂回攻撃説は、江戸時代初期の小瀬甫庵作である『信長記』で語られ、長く信じられておりました。日本帝国軍もこの説を信じております。少数による勝利は奇襲しかないと考えたからです。ただ、この説を取る為には、義元が凡将でなければなりません。

正面攻撃説は、昭和40年代に角川書店から「信長公記」の読み下し本(本文を忠実に現代文に直した本)が発刊されて、見直されるキッカケとなりました。出来事を日記にとどめてきた重み・信憑性が再認識されることで、信長は正面からぶつかったと主張する者が増えて行きます。

漆山移動説は、文献らしいものはありませんが、正面攻撃説から推測された異説です。また、手越川北側説も正面攻撃説から推測された異説です。いすれにしろ、義元が凡将であることが絶対条件です。

それらの説と異なるが、『水野説』です。

『水野説』は水野信元の行動を起源とした説であり、最もこの戦の中心人物でありながら、どの文献にも上がっていない。多くの間接的な書状や事実がありながら、語られていないのが水野の関与です。

永禄3年3月、刈谷領内の来迎寺城、水野家臣の牛田城、知立城を陥落させられ、永禄3年5月の今川侵攻で刈谷城は素通りです。別に刈谷城が難航不落ではありません。帰りの駄賃とばかり、岡部元信が騙すように入城して陥落させています。5月時点では、大高城を囲む南側の砦の1つ、織田方の向山砦を水野信元が守っております。何故、居城の刈谷城を落さないで通過したのでしょうか。

理由は1つしかありません。

5月時点で、水野信元は今川方に鞍替えをしていたのです。しかし、向山砦から寝返れば、織田方の武将から袋叩きに合います。つまり、義元の本隊が大高城に近づいたときに寝返ることを裏打ちしていたのです。

こうして、松平元康は大高城への兵糧入れを南側から易々と行えたのです。義元は沓掛城から鷲津・丸根砦攻略に、松平元康・朝比奈泰朝・井伊直盛の三隊を向かわせます。最低でも3000人の兵力です。本多忠勝も兵を率いていますが、何故か朝比奈泰朝に配置されています。単純に考えるなら、最も激しい場所は三河や知多半島の兵で行い、今川古来の兵を損なわないように気を使っているように思えます。

つまり、丸根砦の先鋒が元康、後詰めに直盛が務める。一方、鷲津砦の先鋒が忠勝、後詰めに泰朝が務める。ところで本多忠勝の旧本領は尾張知多郡の横根地頭だったそうです。横根地区は桶狭間の東に当たり、刈谷領になります。しかし、刈谷の武将はみなどこかに消えていました。つまり、横根周辺の地頭は、中立などという曖昧な態度を取っていると、今川方に乱捕りされると恐怖したのではないでしょうか。今川方の本多忠勝などを頼って、お味方すると申し出ても不思議ではないのです。いずれにしろ、鷲頭・丸根砦はおそらく三河勢の力で落とされました。

では、次は中島砦です。

1つ1つ確実に落としてゆく、まさに義元らしい戦い方です。残念ながら資料の残る布陣が判っているのは、

高根山:松井宗信

幕山:井伊直盛

鷲津山北面部:朝比奈泰朝

桶狭間山:今川義元

桶狭間山南側:瀬名氏俊

以上の5名のみです。

その他に所在がはっきりしているのが、大高城の松平元康です。

信長は兵が連戦で疲れているから勝利間違いなしと鼓舞していますが、義元は疲れた元康の兵を後詰めに回して、兵を休めさせています。では、中島砦で戦ったのは、朝比奈泰朝の隊でしょうか?

義元は、駿河や遠江の直参を温存したいと考えていたに違いありません。新参者を使う利点は、今川方を裏切らないという証明の為によく働くことと、もし裏切っても兵を消耗させておくという戦略的利点があります。

第一陣で三河衆を消耗させたとなれば、第二陣は知多衆を使うに違いありません。知多衆を抱えているのは、大高城の城番であった鵜殿長照と、寝返った水野信元の部隊です。中島砦は平城ですが、周りに海と川と田に囲まれた天然の要塞です。大軍で押し寄せても足を取られて、その利を活かせません。鵜殿長照と水野信元の部隊が交互に攻め立てて、疲れた所で背後の善照寺を攻めたてることで退路が断たれるという焦りから出てきた所を叩く作戦が一番効果的です。今川方は兵力が豊富ですから、交互に攻め立て、夜になると元康と忠勝の部隊に入れ替えて、昼夜を問わずに攻めることができます。三日三晩も続ければ、織田方の兵の気力は失せてしまうでしょう。

次に、義元は道沿いに兵を構えています。長坂道に松井宗信、井伊直盛、常滑街道に朝比奈泰朝と松平元康です。これは別に不思議な訳でありません。獣道を通って移動するより、街道上を移動する方が速く、効率的です。街道を先鋒と後詰めで固めておけば、強行突破は非常に難しくなります。すると、分レ道と近崎道にも兵を配置していたでしょう。手越川の北側には、笠寺付近の武将を率いた葛山氏元の部隊と、援軍で来た三浦義就が布陣していました。三浦氏が後詰めなのは、今川家で朝比奈氏と同じく筆頭第一に上げられる名門だからです。つまり、手越川の北側が三浦義就の担当であり、南側が朝比奈泰朝の担当だったと考えられます。そして、必要に応じて松井宗信と井伊直盛の部隊が割り振られていたのでしょう。本隊の4000人は義元を守る為に義元から離れません。

しかし、三浦義就には一つ誤算がありました。伊勢湾では満潮時に250cmほど水位が上がり、干潮では30cmまで下がることがあります。午前2時頃から今川方が攻撃を始めたとすれば、信長が知って援軍を出してくる誤差を考えて、潮が満ちてくるのは午前4時頃からでしょうか。すると、午前10時くらいまでは川を渡れません。

信長が丹下砦を目指す場合、満潮が終わるのを待って笠寺を通ると予想していたのですが、信長は中根中城付近を通過し、天白区の島田当たりで天白川を渡り、川を下って丹下砦に到着しました。現代の地名で言えば、瑞穂区大喜町、井戸田町、中根町と通って天白区島田で天白川を渡り、南下して緑区野並、赤塚の戦いがあった古鳴海を経由して、午前10時頃には丹下砦に到着していました。この為に、信長の到着を防げないばかりか、葛山氏元の部隊が川向こうに取り残される事態になってしまったのです。その為に葛山隊は潮が引くのを待って鳴海城側に戻って来ることになりました。最初、三浦義就は丹下砦と善照寺を見渡せる位置に陣取っていたでしょうが、信長が善照寺に入れば、分断される危険があるだけでそこにいる意味を失くします。おそらく、手越側の北面に移動したでしょう。手越側の北には、鳴海道(長坂道)が通っています。そして、背後には松井宗信が後詰めとして陣取ることになります。こうして、中島砦を反包囲が完成しました。

012 桶狭間における部隊の配置>

012

常滑街道  :朝比奈泰朝―松平元康

大高へ抜け道:鵜殿長照―本多忠勝

有坂へ抜け道:水野信元―松井宗信

有坂道   :三浦義就―松井宗信

分レ道に松平政忠を配した理由は、桶狭間に出陣して討死している。且、長沢松平家第7代当主でそれなりの兵力を集めることができる。幕山に陣取ったと言われる井伊直盛と同じく予備兵力と言った所でしょう。鵜殿隊や水野隊が疲れた時に交替させられそうな兵力です。同時に鎌倉街道を通ってくる迂回攻撃に対する弾避けになります。

さて、この配置図はあくまで19日正午の配置に過ぎません。

最初に申した通り、文献に出てくる武将は4人しか判っていません。緒戦の後に義元が全体を前進させた可能性も捨てきれません。全体を把握するなら義元本隊を高根山に置く方が良いでしょう。逆に朝比奈、三浦を信頼しているなら、安全なおけはざま山で陣取ってくれる方が前衛としては安定します。

今川義元の初戦は、栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称して、花倉の乱(はなくらのらん)です。このとき、福島氏が擁する玄広恵探が当主として対立していました。福島氏を味方する武将の中には敵対国であった甲斐の武田氏からも支援を受けている者もいます。そこで義元は武田氏と和睦して味方に引き入れて勝利しました。

甲斐と同盟を結んだことで北条は今川から離反します。北条氏綱の父、早雲は伊勢盛時として、駿河守護代を担っていた為に遠江で早雲ゆかりの今川武将が蜂起し、遠江に出兵している間に富士川東地区を奪い取ったのが河東一乱です。当主になって一年の義元には成す術もありませんでした。しかし、義元の反撃はここから始まります。北条氏の背後の武蔵の国の大名と好を通じて北条を攻撃させ、逆に挟み討ちで氏綱を打ち破ります。天文6年に始まった戦いは、天文14年で収束します。その間、遠江など敵対する勢力を1つ1つ将棋の駒を進めるように着実に成果を上げてゆきます。天文21年(1552年)に晴信が仲介して甲駿相三国がそれぞれ婚姻関係を結び甲相駿三国同盟が成立することで後顧の憂いを失くしてから三河攻略を始めるという念の入りようでした。

今川義元が『東海一の弓取り』と称されるのは伊達ではありません。義元は戦う前に勝利するというのが義元でした。

桶狭間の前哨戦として、永禄3年1月に品野城を信長が攻めたように、『桶狭間の戦い』は信長が望んで起こした戦いです。今川義元は山口左馬助を謀反の罪で裁かせるという計略を信長が行ったと言われています。『信長公記』に成敗されたことが載っているだけで真実は判りません。しかし、笠寺の戸部城には、戸部新左衛門政直は豪傑がおり、織田方寺部城主の山口重俊が攻めるのですが、何度も退けたそうです。そこで信長は政直の筆跡を真似て、今川義元に政直が織田氏に誼を通じているような手紙を届けさせました。これを信じた義元は、政直を三州吉田(現在の愛知県豊橋市)に呼び寄せて成敗したということが弘治二年(1556年)にありました。同じようなことが二度も起こるとは思えません。全体の形勢判断などという高等な戦略を理解する武将は数少なく。どの城をどれだけ落したのか、そんな単純な話で形勢を判断するのが、当時の武将の大多数です。織田が品野を落した。鳴海城、大高城は砦で囲まれ陥落寸前である。三河の○○城も織田方になったという。そんな形成判断から山口左馬助は本気で織田に寝返りそうなので成敗されたというのが事実でしょう。

足利 義輝(あしかが よしてる)の仲介で、織田信長と斎藤 義龍との停戦に成功した信長は地盤を固めることに成功します。しかし、それは義元も同じです。三河のほぼ全域を掌握した義元は信長の挑発に乗ります。この時点で義龍が織田領に侵攻することは間違いありません。それを理解しているから信長は20003000人程度の兵力しか桶狭間に投入できないのです。帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』を参考にすれば、尾張57万石は1万4250人の兵を投入できます。尾張の東が織田の傘下に入っていないことを割り引いても1万近い兵力を動員できるハズなのです。しかし、実際に動員した数は周辺の城・砦の兵数を含めて60007000人程度です。

一方、義元も緻密に行軍しているように思えます。今川方で桶狭間に配置された兵力は15500人程度です。尾張東の抑えてとて、岩崎城の丹羽氏勝を始めてする今川方、刈谷を始めてする尾張方の水野氏などに対して、守備兵を残しています。さらに三河の水軍も温存されています。全域を見れば、4万余りというのは嘘ではありません。

実際に尾張東部(天白区、日進市あたりが境界)にも緊張が走っています。丹羽氏勝を先頭に小競り合いで島田城近くの牧家の島田地蔵寺が兵火で焼失しています。

一番注目されるが、5月から吹く南風を利用した海からの奇襲説です。永禄2年に『永禄の飢饉』が関東一円を襲っています。駿河・甲斐もそこに隣接しているので無事である訳もありません。北条氏康は伊勢まで米を買い付けに行ったという記録が残っています。今川の拠出もタダで済む訳もありません。飢えた百姓などが都市へ溢れ出し、夜盗などが横行して治安も下がります。それを一気に解決するのが、隣国に攻めて奪い取ることです。義元はそんな流民(一万~二万人)に武具を与え、織田を攻める兵力にしたに違いありません。しかし、関ヶ原のように広い平原でなければ、そんな俄かの兵力は役に立ちません。それなら三河の舟に乗せて、織田領内の海岸まで送り付ける。後は好き放題に乱暴狼藉を務めよと放ちます。風は5月になると都合のいい南風が吹きます。船の帆を張るだけで織田の海岸まで到達できます。一万から二万の兵が織田領内で暴れれば、信長も領内に兵を戻して対応しなければなりません。仮に難民兵が織田方にすべて討ち取られても、義元は何の損害もありません。ただの廃品利用に過ぎません。

織田の兵のいなくなった笠寺に兵を進め、山崎川当たりまで取り込めば、熱田は落ちたも同様です。伊勢湾の東に位置する鳴海と大高を解放すると、尾張海西郡荷ノ上城の服部党と共に伊勢湾の航路を確保することができます。

一方、別働隊は天白川を遡り、野並、島田、植田と落せば、愛知郡東部にあたる天白川の東側がすべて今川方になります。守山城を攻めるも、那古野城を攻めるのも思いのままです。しかし、織田方も馬鹿ではありませんから、山崎川を国境と決めて停戦が成立することでしょう。

013 永禄2年桶狭間の戦い 城の位置>

013

信長は永禄2年に鳴海城、大高城の周り砦を築き、永禄3年1月に品野城を陥落させます。そのことからも今川との決戦は信長側から挑んだものです。戦場が桶狭間付近になることは当然承知していました。

戦後の褒賞で、一番槍を付けた服部一忠、一番首の手柄を取った水野清久、義元を討ち取った毛利良勝よりも、簗田政綱(やなだ まさつな)が一番手柄として九之坪城(くのつぼじょう)を与えられています。政綱の活躍は『武功夜話』で木下藤吉郎や蜂須賀小六など川並衆や間者を送り、戦勝祝いの酒・肴を義元に送り油断させたとあります。実際、藤吉郎や川並衆を従えたかは判りませんが、半年前以上から長福寺など桶狭間付近に手の者を潜ませて、義元の本隊の位置を把握していたのは間違いないでしょう。住職などは非常にしたたかですから、今川方に味方するフリをしながら、裏で織田方に協力するくらい平気でやるでしょう。

義元は前日に瀬名氏俊に命じて陣を作成しています。村の者が狩り出されて手伝った可能性も高いでしょう。大高城に行く説がありますが、小城である大高城(3,392平方m 678人)に4000人の義元本隊が到着しても溢れるばかりです。始めから桶狭間山を大高城・鳴海城攻略の本陣と決めていたと考える方が妥当です。当然、義元は本陣の位置が信長に知れることも承知していたでしょう。否、城から出てきた大将を狙う信長の性格を把握して、討って出てきた信長を叩くことで勝利を確実にしようと考えたのです。

今川の弱点は、大軍であることです。

しかも昨年の凶作で兵糧に限りがあり、米がないので奪いに来た戦なのです。もし、信長が籠城と撤退戦で持久戦を望むなら、次の手を打たなければなりません。しかし、それよりも信長を捕えて降伏させる方が確実です。

4km先に大将首がある聞かされた信長は、中島砦を討って出ます。深田一本道に勝利した信長は、次の敵に狙いを定めなくてはなりません。おそらく、大高城で不戦だった鵜殿長照が諏訪山に陣を引き、有坂道へ続く抜け道には漆山に陣を張っていた水野信元がおり、大高城へ続く常滑街道沿いには朝比奈泰朝が布陣しています。

これを抜いても、松井宗信、井伊直盛、松平政忠の中堅が待ち構え、そして、最後に本隊の4000人が守っています。

朝比奈泰朝の前衛と戦いを避けて、有坂道か、鎌倉街道を迂回しても三浦義就の隊が待機しており、足止めを食らいます。どこを抜けても前後左右から挟撃に合う。まさに袋のねずみです。千が一にも信長の勝利は見えません。

014 関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)>

014

〔関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)〕

日本の陸軍大学校のドイツ人教官クレメンス・WJ・メッケルは、関ヶ原の戦いの布陣を見て西軍の勝利を確信しました。西軍の鶴翼の陣が完成しており、左右から押し込まれることが確実だったからです。しかし、実際は裏切りや調略で東軍が勝ちました。それを聞いたメッケルは「それは政治の話だよ」と言ったそうです。これは小説等で書かれていることで出自は明らかでありませんが、陣形が完成している時点で信長に勝利はなかったのです。つまり、信長の勝利は政治的勝利以外にあり得ないのです。

そこで上がってくるのが陰謀説です。

葛山氏元が武田と通じて、信長の動向を見逃した。松平元康が義元を裏切っていた。どちらも実行する動機がありません。元康には今川から独立したいと望む気持ちはあったかもしれませんが、大高城で休憩している松平隊には何もできません。唯一可能なことは、刺客を送ることくらいです。果たして、そこまでやったのでしょうか。

そして、やはり最後でてくるのは、水野信元でしょう。

水野信元は知多半島の中部を抑え、東西の街道、南北の塩の道と通商で儲けています。今川の楽市楽座が実行されますと特権がすべて奪われることになります。斯波(織田)方と今川方と違う勢力の中間でいることが中立を保ち、領土を守る為に必要なことと考えていました。織田が強くなり過ぎれば、今川に加担し、今川が強くなり過ぎれば、織田に加担する。左右のバランスを取ることでお家を守ってきた一族です。

今川が尾張まで進出することを快く思っていません。しかし、今川の兵力の前に降伏しました。刈谷城が無事なのがその証拠です。

当然、織田を攻める先鋒を任されたに違いありません。裏切れば、すぐに対処できる位置に置くのが一番です。中島砦の攻撃の一番手は鵜殿長照が率いる大高城水野勢ではないでしょうか。そして、二番手が信元の部隊でしょう。

水野の格式から言えば、信元は本家の家柄であります。一方、大高の水野家は分家に当たります。鵜殿長照が大高城主として引き連れきた家臣は100人くらいであり、その他の兵は、大高城に常駐する大高の兵です。本家が分家の露払いでは格式に問題があります。当然、一番手は大高の水野氏に譲ったことでしょう。

当然のことですが、信元の近くには今川家臣の目付役の隊(100人くらい)が目を光らせていたでしょう。信元が不穏な動きをすれば、信長共々葬り去ることができます。

深田一本道で勝利した信長が刻の声を上げます。

その勝利を祝ってか、視界も虚ろになる大粒の雨が降ってきました。正に相撲でいう水入りです。

さて、前衛部隊はどこに陣を張るのが一番でしょうか?

今川軍は中堅の部隊がおりますから、本陣を守るように道を封鎖するのは得策ではありません。道を守るというのは、正面から敵を待ち受けなければならないと同時に有利な上手に陣を引けるとは限りません。朝比奈泰朝の常滑街道は海沿いで平地になってしまいます。正面から同数、あるいは倍の信長隊と対峙することになってしまいます。兵法の常から言えば、明らかに愚策です。

ですから、先鋒は道に面した山面に陣を引きます。2列で移動する部隊に横槍を食らわすのが常道です。それも大将が通過する時に横槍を入れるのが最も効果的です。当然、敵もそれを承知していますから、山を登って敵を排除しなければ、前に進めません。山を登りながら攻める敵を待ち受け方が断然有利です。

しかし、信長は事もあろうか、豪雨の中を2列隊率いて水野信元の前を通過してゆくのです。『総見記』の一部に「信長公御感有テ皆々旗ヲ巻キ忍ヒヤカニ山際マテ押付敵勢ノ後ロノ山ヲ押回ツテ、義元カ本陣ニ討テ掛レト下知シ給フ」と書かれています。御旗を巻いて、素知らぬ顔で味方の兵が移動でもするかの如く堂々と通過していったのです。

水野信元とお目付け役の間で口論になっていたでしょうね。

「今のは、敵ではないか」

「まさか、旗も上がっていないので味方でしょう」

「嫌々、そうとも限らん」

「では、(朝比奈)泰朝様に兵を移動したか、聞きにやらせましょう」

「早急にだ」

信長の隊は約2000人ですから、2列隊で500mほどになります。豪雨の中での移動になりますから時速4kmくらいでしょう。通過時間にして78分になります。水野信元は通過後に朝比奈(1.2km先)に早馬の使者を送ります。豪雨の中なので途中、足元に気を付けていくようにと念を押したことでしょう。

漆山から高根山まで2kmですから30分程度です。

高根山は眼下に鳴海城を含め中島砦も見ることができます。深田一本道で信長が勝利しまいたが、そこで豪雨に見舞われて中島砦に引き上げていくと思ったことでしょう。雨の中で信長が攻めてきたなら、その知らせが届くハズです。現に戦太鼓も法螺貝が響いていません。

高根山を守っていた兵は木の軒下などで雨宿りをしていたに違いありません。松井宗信も神社の好意に甘えて、雨宿りがてらにお茶など一服頂いていたかもしれません。有坂道は谷から山へとほぼ一直線に延びる街道で、道に竹柵でも立てただけの陣を築いていたのではないでしょうか。

突然に湧いて出た織田軍に松井隊が混乱に陥ります。やはり、先陣は柴田勝家か、森可也の隊でしょう。もしかすると勝家は善照寺で別働隊を命じられていたかもしれません。鎌倉街道を通り、太子ケ根を通る抜け道から近崎道を目指していたのかもしれません。すると太子ケ根付近に残る織田兵が結集したのは勝家の隊ということになります。そこから信長坂を駆け上がったのも勝家ということになります。しかし、勝家が活躍していないのは明白なので、その場合は、坂を上っている最中に義元の首が飛んだことになります。

さて、勝家も可也も信長と共に行動したとするなら、何故ゆえに活躍が示されていないのでしょうか。

その可能性の最も高いものが、旗も上げず、声も上げず、名乗りも上げず、忍び寄るように蹂躙したのではないでしょうか。まるで兵の一部が謀反でも起こしたように錯覚させた。有坂道は頂上にある有松神社の手前で右に折れて幕山の横を通過します。松井宗信、井伊直盛は何か起こっているのか判断するまでに刻を要してしまいます。

桶狭間には二つの戦場が残っています。

「桶狭間古戦場公園」と「桶狭間古戦場伝説地」です。

「桶狭間古戦場公園」は、義元の首が討ち取られた場所であり、「桶狭間古戦場伝説地」は織田と今川が戦い場所です。

015 偶然起こったエアーポケット>

015

柴田勝家が別働隊となっていた場合、『三河物語』に書かれているように、善照寺で二手に分かれたと、今川方に知れています。太子ケ根方面から迂回してくることが知れていれば、分レ道と近崎道に兵が配置されます。ところが高根山で異変が起きます。敵襲です。不意打ちだった為にそう崩れを起こし、敵が有坂道を抜けて生山方面に抜けてきました。当然、後詰の松平政忠の隊は有坂道へ急行します。同じほど、義元を守備していた富永他の武将も詰めてゆきます。その為に分レ道周辺がぽっかりと空白地帯になってしまったのではないでしょうか。

豪雨の中を不意打ちで襲った信長の先駆け隊は松井隊とぶつかり当然ながら交通渋滞を起こします。奇襲は時間が命です。前が開くのを待てない信長は右に曲がってゆく有坂道とは反対の脇道へと進みます。高根山を左に迂回した訳です。脇道は狭く通り難いのですが、そこを抜けると分レ道に出ることができます。ところが、ここを守っているハズの松平隊は有坂道へ移動していたのです。

分レ道の近くには、桜花学園大学の敷地内にこっそりと信長坂があります。釜ケ谷で後続が来るのを待った信長は一気に「信長坂」を駆け上がりました。すると、現在の東に古戦場伝説地が見え、南に古戦場公園が見える丘にでます。昔が雑木林になっていたそうですから、信長の部隊が近づいていることを気が付かないで済んだのかもしれません。

信長は別に迂回したつもりもなく、攻めやすい所に移動しただけなのですが、気が付けば、眼下に義元のいる桶狭間山が見える所に出てしまいました。その頃になって、激しかった豪雨が止んできます。

信長の先駆け隊(おおよそ1000人)は有坂道を直進していますから、信長に付き従った兵力は、700800人程度でしょう。中島砦から高根山まで30分、信長が迂回を始めるのが10分後程度、そこから1km移動しています。時間にして半刻(1時間)も掛かっていないでしょう。

高根山と幕山の戦いは、敵味方が入り混じっての乱戦です。誰が敵で誰が味方か判らない。普通は旗を背負うことや鉢巻などを身に付けて見分けを付くように工夫するのですが、とにかく偉そうな武将を討ち倒して進む夜盗の如き戦い方です。

幕山を抜けると、松平隊と富永他の隊が待ち受けています。今川方の兵も敵が来ていることを承知していますから、腰や腕に味方の印を付けているでしょう。ここからは不意打ちとはいきません。それでも突然の襲撃に移動し終えた部隊から戦い始めるという遭遇戦であり、陣形を整えて戦う組織戦とは行かないでしょう。

信長は丘を掛け下り、義元のいるおけはざま山へ攻める指示を出します。武路(たけじ)は緩やかな丘です。おけはざま山に陣取っている義元から丸見えだったでしょう。手痛い裏切りと天の悪戯が重なって、あり得ない光景が眼下に迫っていました。それでも義元の勝利への確信は揺るぎなかったでしょう。

義元の本隊4000人の内、護衛となる2000人が近崎道、有坂道に移動した為に、直参の2000人しか残っていません。しかし、信長は700800人程度しかいません。しかも半刻(1時間)もすれば、三浦隊、朝比奈隊も駆け付けてきます。(暴雨の為に、戦太鼓や法螺貝による伝達が駄目でも、早馬で知らせることができる。全軍が戻ってくるには、もう少し時間が掛かりますが、先発隊のみなら1時間くらい)

山に布陣し、兵力は倍以上、時間は半刻も持てばよい。義元の心情を牛一もこう書き続けています。

「鳴海にて四万五千の大軍を動かし、それも御用に立たず。千が一の信長、僅か二千に及ぶ人数に叩き立てられ、逃れ死に相果てられ、浅ましき天の巡り合わせ、因果歴然、善悪二つの道理、天道恐ろしく候なり。」

これは、曹洞宗の道元禅師が説いた一節「因果歴然」から取られた言葉です。過去・現在・未来の三世を知ったつもりなっていたが、善悪など人間の尺度で図れるものでなかった。天の理は揺るぎなく、それを知らないで生きてゆくことはできないと言っておられます。

牛一はこう思ったに違いありません。

信長公が勝ったのは、天に「生きよ」と言われたに過ぎない。因果を知り、善悪二つの道理を義元公が知り得ていたなら、結果は異なったものとなったであろう。天に逆らうなどできようもない。

戦の様を『信長公記』にはこう書かれています。

「余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。」

丘を駆け下りた信長の隊は、そのままおけはざま山へと駆け上がってゆく。必死に生きようとする信長達に対して、今川の将兵は気持ちで負けていた。

「何故、ここに敵がいるのか」

「何故、柵は突破されるのか」

「神懸っている。あ奴は鬼神かぁ」

天魔波旬(てんまはじゆん)のわが心をたぶらかさんとて言ふやらん。

そんな感じで天を恐れぬ信長が、第六天魔王が地の底から這いあがってくる感じを兵士はヒシヒシを感じたに違いありません。信長は自ら馬を降りで先頭を切り、信長の子飼いの長槍部隊が遠間から敵を討つ。気づけば、何とないカラクリですが、槍の長さなどすぐには気が付きません。

長槍は短い槍に対して非常に有利ですが扱いが難しい。百姓が農作業を片手間に長槍の稽古はできません。信長直近の300人ほどは足軽として信長が鍛えてきた部隊でした。次々と味方が倒され、生きた心地にしない兵達の体が固まって、信長の隊はさらに勢いを増して駆け上がってきます。勝ちを慢心した部隊は死ぬ覚悟もできていません。死を恐れる兵達が一丸となって上がってきます。遂に兵達が持ち場を離れて逃げ出してしまう有様でした。

兵が逃げ出しては義元の采配も役に立ちません。塗輿も捨て、義元が逃げ出せばそう崩れでした。

「すは、かゝれ」

逃げ出す義元を追って織田の兵が進み、今川方の援軍は逃げる味方に阻まれて、近づくことすらできなくなります。

「今川義元が首、討ち取ったり」

刻の声が上がると勝敗は決しました。後は蜘蛛が散るが如く、兵が逃げてゆき、恩賞目当てに分捕りが始まります。進むもあたわず、逃げるも敵わず。多くの武将が散っていきました。

これが『桶狭間の真相』ですと言えればいいのですが、そこまで都合よく事態が進むとは神ならぬ私は信じることができません。

なぜなら、義元を囲う直参は、各駿河の名家から集められた武将です。「寄親・寄子の制」で主従の関係を強くし、その寄子が率いる兵は村で一番の力持ちや戦の巧妙者が集められています。言うなれば、義元を囲う2000人の兵は精鋭揃いなのです。信長の精鋭は組織的に強い兵です。義元の精鋭は個々が強い兵達です。怖くなって逃げ出すなど期待するのも烏滸がましいと思えます。

もちろん、今川の兵がすべて強い訳ではありません。前衛にいる兵達は、農民からかき集められた。あるいは、流民が身代わりになって出陣してきた仮初の兵ですので、怖ければ逃げ出すでしょう。しかし、義元を守る兵がそんな弱兵である訳がありません。

唯一の欠点は、朝比奈泰朝、三浦義就、松井宗信という自分で判断して行動に移せる名将の不在くらいでしょう。全員を前衛に配置してしまったのが、義元の唯一の失敗だったと思うしかありません。

「この場は拙者に任せて、殿はお引き下さい」

そう言える武将の不在が、義元を危険な交戦地帯に残らないといけない事態にさせたことです。信長の猛攻に各々が前掛かりになり、義元警備が疎かになっていったことでしょう。

かのガイウス・ユリウス・カエサルは、「人は現実のすべてが見えるわけではなく、多くの人は見たいと思う現実しか見ない。」という名言を残しています。そんな人の心を知り尽くしたカエサルが「ブルータス、お前もか。」と身近な人間の裏切りに気づきませんでした。義元の知らざる行為が誰かを傷つけて、恨みを買っていたことに気付かない。その絶好の機会が訪れたとき、人は奇行に走ります。

もしかすると、身近な誰かにぐさりと刺されていたのかもしれません。本陣が動揺すれば、信長の猛攻を防げるハズもありません。あるいは、皆が前に集中して、背後に回った少数の兵に気付かなかったのかもしれません。

いずれにしろ、義元が本陣に居る限り、何かの異変が起こらないと信長の勝利はあり得ません。そして、それを知る者は皆討死していなくなっています。

●桶狭間の真相のしっぽ、その2

今川義元は『東海一の弓取り』と称されるに相応しい名将であった。

戦国大名の治世を産み出し、文化を復興・奨励し、産業や流通を重んじ、戦において負けることなし、見事に駿河・遠江・三河を平定した。そんな武将が義元なのです。義元は街道を整備しており、義元を真似た信長は、本街道は幅三間二尺(約6メートル)、脇道は二間二尺(約4メートル)、在所道は一間(約18メートル)としました。

本街道が6メートルになると10列隊も可能です。一万の兵がわすが500mに並ぶことができる。高速移動なら5列隊に組み直す必要がありますが、それでも大軍が速やかに移動できます。まるでローマの高速街道を思わせる事業です。これを利用した戦が中国の大返しなど秀吉しかいないというのは寂しい話です。

いずれにしろ、戦国大名の先駆けとなった名将が塗輿で物見遊山で上洛を考える愚将である訳が御座いません。

深田一本道の戦いが始まり、緒戦を信長が制したという報告が義元に下に届けられます。そして、雷鳴が鳴り、大粒の雹(ひょう)を含んだ雨が降ってきます。しかし、義元は不機嫌な顔をします。四半刻も待っていませんが、義元の顔が曇ってゆきます。軍師と思われる庵原之政(大原雪斎の大甥)が聞きます。

「信長も存外不甲斐ない」

何の事が判らず、もう一度問い質すと、義元の首を取る為にねずみが袋に噛り付かないことを不満に思っていたのです。信長の果敢さを評価していた義元は、緒戦の勝ちに乗じて、中島砦の包囲網を破ってくると予測していたのですが、次に襲い掛かったという報告が来ないことから、この雨で兵を中島砦に引き返したと予想したのです。

「この雨を利用しないとは、臆したか」

「しかし、袋を破っても前後から挟撃されることを考えれば、無謀と判断するのは懸命かと」

「それでは普通の武将だ。あやつも同じだというのでは面白くない。敢えて、火中の栗を拾い、自らの武を誇り、悠々と引き揚げてこそ、意味があるというものだ」

之政は何故ゆえに義元が信長を気に掛けるのか判らない。

信長が織田の当主になったのは天文21年である。天文23年の村木ノ取手攻めから才覚を現し、延べ8年間も競い合った相手の顔を遂に拝めるかと思うと胸が高鳴っていた。しかし、出て来ると思った信長が中島砦に引き上げたと思い、義元は不機嫌になっていた。

その頃、信長は豪雨の中を駆けて有坂道に入り、高根山頂を目指していた。それに気づかない義元は次の指示を出した。

よく天才は天才を知ると言われますが、信長は義元のことをよく学び、後の信長政権の礎としています。一方、義元も信長のことを心得ていたのではないかと思わずにいられません。今川氏の滅亡後に岡部正綱を迎えるのに、信玄は、「万の兵士を得るのは容易だが、ひとりの将を得るのは難しい」と言われて武田氏の家臣として向かい入れたと言われます。義元も信長という武将に会いたいという願望が強くあったかもしれません。

信長が危ない橋を渡らないと感じた義元は、陣形の変更を指図しました。中島砦にいる織田の兵士を孤立させることで兵の士気を下げるという作戦です。信長との知恵比べを思わず、楽しんでしまったのかもしれません。

松平政忠に手越川北部の有坂道を下って中島砦の北側に移動するように命じます。同時に葛山氏元が川を渡り切っていたなら中島砦の鳴海方面に展開するようにも早馬を出します。意気揚々と士気が上がり、雨の中で休息を取っているでしょう。しかし、雨が上がった時に背後に敵兵が現われたことに冷や汗を流すことでしょう。

退路が断たれる。

そう焦るだけで兵の士気は下がります。無意味な休息を取った信長への戒めです。但し、松平政忠には細かい指示が言い渡されます。

三浦隊より前に進む時は信長の隊と遭遇戦があると思い、努々油断することのないように。

織田兵が討って出て来たなら堂々と立ち向かうように。

織田兵が善照寺へ逃げる素振りを見せたなら、深追いせずに兵を減らすことに心掛けよ。

織田の兵が鎌倉街道に抜けたなら追い駆けて追撃せよ。

義元は政忠に火急速やかに行動に移すことに念を押します。手越川の南側から抜けないと考えた信長が川の北側へ回ることを予想しての一手であり、同時に兵を休ませる為に中島砦に戻ったとするなら、中島砦を囲んで兵の士気を下げる作戦でもあります。信長の手越川の南側を攻め上がって来ないことに対する対処法であり、同時に陣の変更を命令しました。

井伊直盛には、迂回して鎌倉街道より善照寺前面へ移動を命じ、正面を守る富永共々には、井伊隊の後方を進み、本陣の前衛を守らせます。その後を義元本隊が移動し、鎌倉街道沿いに本陣を移します。瀬名氏俊には後を守らせ、右翼を守る長谷川共々には、近崎道の警備および殿を命じます。豪雨を利用した本陣の大移動です。

雨が晴れて、義元の本陣が鎌倉街道に移動していたなら度肝を抜かれるでしょう。中島砦を死守するか、善照寺に移るか、選択を迫られます。

中島砦に残れば、善照寺・丹下砦を先に落とされる可能性も出てきます。そうなれば、孤立するのは中島砦になります。善照寺に移れば、中島砦が手薄になり、討って出れば、大軍に三方から押込められます。

信長の本隊が善照寺にあれば、本陣が近すぎて危険な位置になりますが、信長が中島砦に籠っているなら絶好の位置に変わります。本陣の移動が完了すれば、松井宗信を鳴海道に沿って前進させて包囲に厚みを持たせることになります。信長が中島砦に籠ったことで、半包囲から全包囲へ完成すれば四面楚歌です。

<豪雨の中の配置替え>

016

全軍移動の命令を出すと同時に、朝比奈泰朝に再度中島砦へ攻め掛かるようにとの指示を出しました。義元がすべての命令を出し終えるのに、雨が降り始めて四半刻(30分)も掛かっていませんでした。

松平政忠は急いで前に繰り出してゆきます。井伊直盛も松平隊を追って移動を開始し、川を渡ると迂回路へ急ぎます。

その頃、松井宗信を襲う夜盗のような集団が押し寄せてきました。油断していた松井隊は混乱を極めます。家臣に状況を確認させるもすぐに判りません。まさか織田の兵が湧いて出たと考えられない。誰かが謀反を起こしたのか。その数は如何ほどなのか。雨音がすべての音を遮断して状況が把握できません。

義元の伝令も松井隊が混乱していて何が起こっているのか判別も尽きません。兵と兵が重なりあって殺し合っている。誰もが、確認せねば、確認せねばと焦るばかり、気が付けば、松井宗信にも襲い掛かる者が現われた。

「ぬかったわ。尾張殿がこれほど卑劣な手段を用いるとは」

などと武門の習わしをすべて無碍にする戦い方に怒りを覚え、義元公にお知らせねばと焦りを感じたでしょう。近隣衆に声を掛け、義元への伝言を託すると、部隊の立て直しを試みたことでしょう。

雨が降っている内に移動を完了しようと、拙速を重きに置いたことが裏目に出たとかしいいようがありません。信長の先駆けが松井の隊をぶつかって、後続の信長本隊は本陣を目指して有坂道を外れ、高根山を左に迂回する道を進みます。先頭が脇道から本道に出ると長蛇の列を為す敵がいました。偶発的に起きた遭遇戦が始まり、何が起こっているのか。戦っている信長にも判りません。とにかく後ろ閊えるので前へ前へと進みました。気が付くと生山の山頂付近まで上がっていました。

丁度その頃、雨が止み、雲の切れ間から日が差すと、眼下に塗輿が見えるではないでしょうか。塗輿は特別な者しか乗れない証、つまり、義元がそこにいるのです。

「すは、かゝれ」

掛け声共々、山を下って義元を目指します。前に進んでいた武将達も異変に気が付き、兵を戻そうとしますが、押し合いへし合いの大混雑で戻るに戻れません。人をかき分けて進む信長の兵、右往左往するばかりで義元が引こうとするのを妨げる味方の兵、一進一退を繰り返し、遂に義元の首が飛びました。

策士、策に溺れる。

水野信元のささやかな裏切りと、天の采配が信長を偶然の勝利へと導いた瞬間でした。

 

さて、『桶狭間の真実』とは、一体どこにあるのでしょうか?

こちらの信長が通った『信長坂』は生山にあることになってしまいます。信長古戦場伝説地よりも少し西になってします。伝承の信憑性や客観的事実から推測できることは知れています。ただ、辻褄を合わせる為に、義元が凡将だったとか。戦の最中に酒に酔っていたとか、嘘偽りが多く徘徊するのが問題です。

人間性や地形、そのときの状況を細かく観察すれば、そこから導き出される答えは集約されます。それでも検証できない伝承があり、辻褄があわないピースが存在します。おそらく、それは偽りのピースなのでしょう。

しかし、それを判断する基準を私達は持ち合わせていません。完成できないジクソウパズルのようなものです。それゆえに想像力が掻き立てられ、多くの可能性を楽しむ事こそ、歴史の醍醐味ではないでしょうか。

ただ、小説と歴史は異なります。しかし、NHKの大河ドラマを見て、歴史と勘違いする方々が多くいることは不幸なことです。ドラマ『水戸黄門』さまが日本全国、津々浦々まで諸国を漫遊して、天下安寧に後見したと信じている方がどれくらいいるのでしょう。愛してやまないのなら真実の歴史も追い求めてくれることを大切にして貰いたいものです。

それはそれでもいいのですが、「それが真実の歴史だ」と恥ずかしげもなく言う方々が多くならないことを祈るだけです。

PS.最近、『信長協奏曲』という楽しいドラマを見せて頂きました。これがアニメ『信奈の野望』と同じくらいトンでもない奇想天外なお話だと感じてくれていると嬉しいのですが、たとえば、森可也がひ弱なよれよれ武将だったと信じてほしくないですね。奇想天外がいけないのではなく、奇想天外として楽しんで貰いたいものです。

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

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信長公記の軌跡 目次 

 

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その3

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信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■決戦、桶狭間

桶狭間の戦いで有名な説は、『迂回奇襲説』、『正面攻撃説』、『乱取り騙し討ち説』と様々です。『迂回奇襲説』は旧参謀本部の『桶狭間役』で解説される日本の伝統的な戦法として取り組まれています。神速を持って移動し、相手の虚を付いて強襲するのは効果的と考えた訳です。しかし、残念なことに最近の資料から今川義元が油断していないと難しいと判ってきました。鷲津砦・丸根砦の両砦が陥落し、意気消沈した織田軍は一戦して後退すると油断している状態です。

あるいは、『乱取り騙し討ち説』である。『乱取り騙し討ち説』は、黒田日出男東京大学名誉教授が唱える説であり、『甲陽軍鑑』が書き示す「駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、身方(味方)のやうに入まじり」云々という記述に注目し、勝ったと思った義元が兵に乱捕りを許可し、信長が旗を仕舞って、敵に混じって近づいて首を取ったというものです。

いずれにしろ、今川義元が勝利に酔って油断した結果でなければなりません。しかし、「東海一の弓取り」と称される義元公が、大高城が解放されただけで浮かれていたとは信じられません。鳴海城はまだ包囲されたままです。

もし、油断したのであれば、中島砦・善照寺・丹下砦を放棄して織田軍が撤退を開始したとでも報告がなければなりません。

さて、『迂回奇襲説』に戻りますが、旧参謀本部の『桶狭間役』の地図から長福寺付近のおけはざま山に義元の本陣を置いてみました。逃亡して田楽坪を通ったとするなら、生山の方がよかったかもしれません。鎌倉街道を迂回して山道を通って近づくことになります。Aルート以上に迂回すれば、2時間以内に到着することは難しいのでないでしょうか。鎌倉街道から追分新田道へ渡る道はなく、獣道や小道がある程度です。しかし、30m級の山なので横断できなくはありませんが、500人程度の兵なら問題ないでしょうが、3,000人規模の部隊が迂回強襲するのは難しく考えてしまいます。しかし、戦力差から旧参謀本部は迂回奇襲作戦を取りました。

<<003 信長の進軍ルート>>

003

最近、見直された『信長公記』には、『正面攻撃説』が書かれております。中島砦から出て田んぼ脇道を通り、山沿いに鳴海道があり、その坂道を駆け上がったのでないかという説です。

「右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。」

と、大粒の雨が降り出してきました。そこは諏訪山か(Bルート)、漆山の麓(Cルート)と思われます。ここから道は、大きく2つに分かれます。

『信長公記』では、いつ雨が降ってきたのか詳しく書かれていません。普通に読めば、おけはざま山の近くまで寄ってから雨が降り出したように思えますが、前衛を薙ぎ払わらなければ、とても近づくことができません。

Bルートを選択すれば、しんえい中島砦攻略の朝比奈泰朝隊が信長の前に立ち塞がります。Cルートを選択すれば、高根山の有松神社に布陣した松井宗信隊か、その隣の幕山の井伊直盛隊にぶつかります。

桶狭間の戦没名簿を見ると、松井宗信、井伊直盛共に討死しております。そこから考えられるのは、やはりBルートとなります。中島砦を出陣した信長本隊は、早々に豪雨の来襲を受け、雨に身を隠して義元本陣を目指しました。移動に際して、『甲陽軍鑑』の旗を隠して進んではないかと考えられます。『信長公記』は、几帳面な太田牛一がどのようにして義元本隊に近づいていったのかが書かれておりません。否、雨に隠れて旗を降ろして近づいていったなど、武門の恥で書けなかったのです。

松井宗信と井伊直盛の兵は雨宿りをして散らばっている所を、柴田勝家率いる先駆け隊が騙し討ちするような形で襲い掛かったとすれば、一方的に蹂躙したのかもしれません。名乗りを上げてから戦いを始めるのが、武士の習わしとすれば、夜盗の如き振る舞いに思えたのではないでしょうか。(太田牛一は柴田の家臣)

<<004 明治24年国土地理院旧版地図>><<参謀本部刊「日本の戦史 桶狭間」付図>>

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(注). 信長の進軍ルートの参考は、明治24年国土地理院旧版地図、参謀本部刊「日本の戦史 桶狭間」付図、高根山の有松神社「桶狭間古戦場」を参考に再考しております。

沓掛城を出陣した義元公は、鎌倉古道を通って大高城を目指したと言われております。しかし、義元公は、中島砦が主戦場になると想定して、はじめから『おけはざま山』を目指しました。先発隊の瀬名氏俊にわずか4km先に陣幕を作らせたのもその為です。

尤も旧陸軍歩兵でも50分歩いて10分休むとありますから、単なる休憩地だった可能性は否定できません。二村山を越えて来た兵にはちょうど良い休憩だったのかもしれません。しかし、そこで佐々隼人正、千秋四郎の二首と五十騎計り討ち取ったという報告を聞くことになります。

義元公が陣を引いたのは、『おけはざま山』と言われていますが、諸々の史料には、

「桶狭間山の北の松原」(桶狭間合戦記・尾張志)

「桶間の松陰」(武家事記)

「路次の側の松原」(甲陽軍鑑)

「桶狭之山の北」(成功記)

「桶狭間の山下の芝原」(総見記)

と示されております。実際は『おけはざま山』の北であった思われる節があります。地図で言えば、『武侍』「三河物語」では19日に義元公が池鯉鮒から段々に押し出て棒山の丸根砦等を巡察されたともあります。池鯉鮒は沓掛城の東であり、わざわざ戻る意味があるのかと考えてしまいますが、多くを悩んでも仕方ありません。

信長が中島砦を出陣するに煎じて、千秋四郎(千秋季忠)と佐々隼人正(佐々政次)が討ち出ております。

その出陣に際して、佐々政次が信長に言ったと『道家祖看記』(続群書類従 第二十輯上 収)に残されています。

ソレカシ命ヲステ候ハヽ。 今日ノ御合戦ニ御カチ候事必定ナリ。 

今日天下ワケメノカツセンコレ也。 

天下ヲヲサメタマヒ候時。 

弟内蔵佐我等セカレヲ。 御ミステサセタマハテトテ。 

我々ハ東ムキニ。 今川ハタ本ヘミタレ入ヘシ。 

殿ハワキヤリニ御ムカヒ。 テツホウユミモウチステ。 

タヽムタヒニ。 ウチテカヽラセタマヒ候ヘトテ。

(私が命を捨てて掛かれば、今日の合戦には必ず勝つことが出来ましょう。今日の戦は天下分け目の合戦です。天下を治め下さい。弟(成政)と私の息子(清蔵)を宜しくお願い致します。我々は東へ向かい、今川義元の本陣へ乱入します。殿(信長)は脇槍に向かわれ、鉄砲も弓も捨ててただただ一途に義元に打ちかかられるがよろしいでしょう。)

取って付けたような銘文なので、後の編集ではないかと思われますが、佐々の息子たちが恩に報われている所を見れば、この討死を信長は評価していたのは間違いありません。

義元公は、この見印を討ち取ったことを聞いて、

「義元が戈先には天魔鬼神も忍べからず。  心地はよし。」

と喜んだと言われています。

千秋四郎と佐々隼人正がどこで戦ったのか不明です。

阿部四郎兵衛定次が書き記した「松平記」(三河文献集成・中性編 ()国書刊行会)には、

「永禄三年五月十九日昼時分大雨しきりに降。今朝の御合戦御勝にて目出度と鳴海桶はざまにて、昼弁当参候処に、其辺の寺社方より酒肴進上仕り、御馬廻の面々御盃被下候時分、信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善勝寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、鉄炮を打掛しかば、味方思ひもよらざる事なれば、悉敗軍しさはぐ処へ、山の上よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の鑓にて義元を突申候処、義元刀をぬき青貝柄の沙也鑓を切折り、小平太がひざの口をわり付給ふ。毛利信助と云もの義元の首をとりしが、左の指を口へさし入、義元にくひきられしと聞えし。」

と書かれていることから、善照寺砦から二手に別れ、一手(千秋四郎と佐々隼人正)が御先衆、もう一手(信長)が本陣を襲ったと書かれている。

つまり、高根山の掲示板に示されている逸話が正しいとするであれば、300余りの小隊で善照寺より東にAルートを通ったと思われます。「松平記」では、同時に攻撃したように思われますが、密偵が持ち帰った情報が、「善照寺で二手に分かれた」、「千秋四郎と佐々隼人正が松井宗信と対峙た」、「本陣が信長に襲われた」というものであれば、二手の分かれた部隊の戦闘時間は察していなくても不思議はありません。

「信長公記」では、千秋四郎と佐々隼人正達50騎余りが討ち取られましたが、その戦いで前田又左衛門達が首を持ち帰ったことで、信長は逆に勝機を感じ取ったのではないでしょうか。

右側から襲い掛かったので、左側から襲い掛かれば、手薄になっているハズなどと単純に考えたと思われます。これは浅井・朝倉と対した時に、雨に紛れて大嶽砦を落した方法と似ております。信長は単純に行動することが侭あります。

信長戦いの好機と見て、兵に号令を掛けました。

「懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし」

戦力に差のある織田軍は、奇襲に当たる先駆け(千秋四郎と佐々隼人正達)が討たれて意気消沈していると普通は思います。それゆえに虚を付き信長は兵を進めました。

一方、元康(後の家康)は大高城で休息を取っています。兵糧入れに丸根砦の攻略と昼夜を問わない働きでした。大高城の規模からいうと全軍が城に入ったかは疑問です。

『信長公記』では、「今度家康は朱武者にて先懸(駆)けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり」

『三河物語』では、「即押寄て責給ひければ、程無タマラズして、佐間は切て出けるが、雲もツキずや、討ち漏らされて落ちて行く。家の子郎縫供をば悉打取る。其寄大高之城に兵ラウ米多く誉。」とどちらも被害を訴えています。

丸根砦と鷲津砦は尾根で繋がっており、兵を貸し借りできる構造だったそうです。そう考えれば、松平元康隊が先に丸根砦を攻撃すると鷲津砦は手薄になります。頃合いを見て、朝比奈泰朝隊が鷲津砦を攻撃すれば被害は小さかったでしょう。しかもここには本多忠勝の三河衆も加わっていました。

義元は前と後を入れ替えて兵を休めるようにしたように思われます。被害の大きい松平元康隊は後詰に回されて大高城で休息し、本多隊も後詰に回したことでしょう。

朝比奈泰朝隊は棒山か、前進して諏訪山に陣を引き、当然のように漆山にも誰がしかに陣を張らせたと思われます。

平瀬川を挟んで、三浦備後守は中島砦と善照寺を一望できる場所、平子ケ丘に三浦隊が陣取ったと思われます。三浦隊は笠寺守備の兵(陥落後)を引き連れて500~3000人を率いていました。当然、鳴海城の封鎖解除を目的とする今川軍は、中島砦を朝比奈泰朝隊、善照寺を三浦隊、丹下砦を鳴海城の岡部隊、星崎城を葛山隊が担当し、後詰として松平元康隊と本隊が控えているという作戦を練っていました。そうでなければ、本隊をおけはざま山に移動した意味がありません。義元公は織田方の退路を断たれないように中島砦を囲んでいます。

中島砦は平城ですが、大高城へと結ぶ重要拠点です。しかも2000人以上の常駐させることができる大きな砦です。

つまり、鳴海城―中島砦―沓掛城の防衛ラインを確保することが、当初の最大目標だったことが伺われます。史書の多くに、義元公が大高城に向かったとされますが、700人弱しか収容できない小城に5000人の兵力を連れてゆく意味がありません。義元公は沓掛城を午前10時頃に出発していることを考えると、丸根・鷲津両砦が陥落寸前であることを確認して出立したと思われます。つまり、義元公の本命は中島砦だったのです。

(注). 2列で並んで行軍すると1000人の兵士は500mもの長さの隊列になります。5000人なら2.5kmの長蛇になります。歩行速度が4km/hとして、部隊ごとに移動すると4km先の桶狭間に到着するのに2時間弱を必要とします。

<<006桶狭間周辺の地形>>

006

<<007高根山の有松神社「桶狭間古戦場」>>

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大将ケ根(たいしょうがね)には、『迂回強襲説』でおけはざま山に休憩する義元本陣を狙って、信長がこの地に集ったという逸話が残っております。資料には、何も残っていないので参考程度に覚えて下さい。

今川本陣の諸将は、それぞれの山に布陣しておりました。

おけはざま山:今川義元 本隊〔標高65m〕

高根山:松井宗信隊(前衛)〔標高35m〕

幕山:井伊直盛隊(前衛)〔標高50m〕

大池奥:瀬名氏俊隊(左翼)

生山:???隊〔標高26m〕

武侍山:???隊〔標高?m〕

巻木山〔標高38m〕 

太子ケ根山〔標高54m〕

善照寺砦〔標高21m〕

若草山〔標高35m?〕(過去の山名は見つからず、若草山は大高緑地内の山)

前衛の二将の後ろにある中堅の生山(はえやま)、右翼の武侍山(やけじやま)に武将を配置していたでしょう。もしかすると大将ケ根にも布陣させていたかもしれません。当然ですが、おけはざま山から西方の幕山・高根山の稜線に遮られて、中島砦や善照寺を見通すことはできません。

(注).幕山は現在切戸山町にある山となり、地図上の幕山は桶狭間3丁目の巻山に当たる。

<その4に進む>

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2

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信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 


今川義元討死の事 狭間の戦い その3 


今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■桶狭間の戦い

永禄3519日(1560612日)、尾張国桶狭間で起こった戦いは、織田家と今川家の雌雄を争った戦いとして有名である。

駿河・遠江・三河を平定した駿河国守護今川義元が、尾張へと領土拡大の為に行われ、『信長公記』では4万5千、『武功夜話』では、3万有余余、『北条五代記』では25千、『足利李世記』では1万の軍勢が尾張の国に攻め込んだと記されている。また、近代の日本帝国陸軍の研究では、参謀本部が編纂した「日本戦史」の「桶狭間役」で2万5千と記されている。

果たして、今川義元は、どんな戦略を練っていたのであろうか?

まずは、今川義元の行動を見てみよう。

5月12日 今川義元が今川館を出陣。

5月13日 掛川城で泊。

5月14日 引馬城で泊。

5月15日 吉田城で泊。

5月16日、岡崎城で泊。

『総見記』(織田軍記)は、「十五日に三州岡崎の城に陣す、是にて陣々城々の手分け手配を定めらる」とある。

5月17日、池

5月18日、祐福寺で泊。

桶狭間前日に祐福寺に陣を引いた。『信長公記』では、「今川義元は軍兵を率いて沓懸に参陣」とある。この祐福寺は、武功夜話曰く、「蜂須賀彦右衛門らは裕福寺村長に同道し、百姓になりすまして義元が必ず通る大高まで十五町の街道上で義元一行を待ち受けたところ、義元は午前十時にそこに通りかかった」と出てくるお寺の事です。『尾州桶狭間合戦之事』の写本には「社寺方、合戦の勝利を祝い酒肴を用意し(義元を)接待した」とされていますから、沓掛城に入った義元の元へ各地の寺から祝酒が献上されています。今川義元の供養寺として知られている長福寺などと一緒に祐福寺とも共に安堵状が渡されていたようです。

祐福寺は、浄土宗西山禅林寺派に属し、建久2年(1191)の創建と伝える古刹であり、室町時代の大永8年(1528)後奈良天皇より勅願寺たる旨の綸旨(りんじ)を賜り、このときに勅使左中将経広卿を迎えるために門が造られたという。勅使門とは、勅使が参向する時に勅使の通行に使われる門のことをいう。勅使門は四脚門に次ぐ格式が高い門とされ、義元も合戦の前日に泊まられたと語られています。

移動などの参考として、帝国陸軍の作戦要務令に以下のことが書かれております。

『作戦要務令』によると、旧陸軍歩兵は一時間に4kmのペース(50分歩いて10分休む)で行軍して、一日に六時間から十時間の行軍を行い24~40kmの距離を進みます。

赤軍臨時野外教令『作戦要務令』第十二章・軍隊の移動・第328、「大休止の為、軍隊は行軍命令に応じて道路を離れ、露営又は村落露営の要領を以って分散配置せらる。大休止地点の捜索は予め之を行うものとし、努めて上空に遮蔽すると共に軍隊の利便をも顧慮するを要す(水、木蔭等)。敵と衝突を予想する場合に於いては、展開を迅速ならしめ、不意の敵襲を撃退し得る如く配置を定め、警戒手段を講ずるものとす。」と定める。

作戦要務令というのは昭和13年に定められた軍令であり、具体的には陣中(戦場)勤務の要領と諸兵連合の戦闘についての基本事項を士官の利用を想定して取りまとめたものです。時代は違いますが、物資の輸送方法が違いますが、歩兵は戦国時代と変わりありません。補給などの統制を考えると戦国時代の通常行軍速度は一般に15km/日と言われています。

対する信長は防御側ですから補給の心配はありません。また、信長自身も神速を旨とする速攻を重んじている武将でした。

清須~熱田は三里余、歩兵の通常行軍速度(時速4km)で約3時間、騎兵の通常行軍(時速6km)では二時間になります。

清須~丸根砦は五里十二町余、歩兵の通常行軍速度約5時間20分、飛脚の通常速度(時速9km)では2時間20分、伝騎の通常速度(時速18km)では1時間10分です。

熱田~善照寺砦は一里廿五町余(約7km)、歩兵の通常行軍(時速4km)では約1時間40分、騎兵の通常行軍(時速6km)では1時間10分です。

一千名の軍勢の行軍長径は、約1.18kmの隊列になり、この隊列が展開して戦闘隊形をとるには約廿分弱かかると頭に入れて置いて下さい。

信長は、19日の早朝に清須を出て熱田に到着します。そこで後続を1時間ほど待った後に勝利を祈願して出陣しました。昼前に善照寺に到着し、中島砦に移動、そこから桶狭間に向かって移動します。中島砦から桶狭間山まで約4kmの道のりであり、移動時間は約2時間です。武功夜話のいう迂回路で時間的に可能なのは鎌倉街道を東に移動し、それから南下するルート(約8km弱)しかありません。今川軍に見つからずに道なき道を2時間で移動するのは不可能なのです。もちろん、武功夜話では神輿に乗って遊興を楽しむ御仁ですから、周囲の警戒を怠っていたと考えれば、話の筋は困りません。

今川義元の本隊は、16日に岡崎城に着陣し、翌17日に知立城の池鯉鮒で陣を張ります。約15kmの道のりですから標準的な進軍速度となります。しかし、翌18日は沓掛城まで7kmと非常に短い距離の移動を行い。沓掛城で義元は、乱取りを兵に許可したのではないかと考えられます。『甲陽軍鑑』の桶狭間には、旗を降ろして信長が近づいたが「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあります。「乱取り」は、乱妨取り(らんぼうどり)の略称であり、報酬もなく狩り出された農民などが戦利品として略奪を許す行為のことです。村を襲い、食糧や金品にゆうに覚えず、女や子供をさらい売り払うか奴隷にするのが、当時の常識だったのです。

18日、沓掛城に入った義元は、周囲の状況を確認して沓掛城を本陣として作戦を練ったのでしょう。(軍は沓掛城に入り、義元自身と一部は祐福寺で宿泊したのではないだろうか)

一般的に今川が圧倒的に有利な状況であり、信長は成す術もないというイメージが付きまとう「桶狭間の戦い」ですが、天文23年(桶狭間の6年前)まで三河の重原城は、織田方の山岡河内守が城主を務めております。また、織田方の来迎寺城、水野家臣の牛田城、知立城は永禄3年に井伊直盛率いる今川先鋒隊によって落城します。石碑には牛田政興の活躍は見事であったと書かれています。

<<002 牛田城石碑>>

002

永禄3年(1560年)55日に信長が三河の吉良方面へ出動、所々に放火。三河国の実相寺を焼くという記述が残っており、実相寺釈迦堂(じっそうじしゃかどう:西尾市上町下屋敷15)には、永禄3年(1560)織田信長の兵火によって堂宇を焼失し、その後、伽藍が復興されたとありますから間違いないでしょう。来迎寺城、牛田城より随分と南に位置する今川領内で放火したようですが、どの当たりまで放火したのか判りません。

いずれにしろ、永禄334月に井伊直盛率いる今川先鋒隊によって三河の織田方が陥落し、今川軍の知多半島で孤立する大高城と鳴尾城の平定に乗り出すことになるのです。そして、大高城と鳴尾城に近く、大軍を入城できる城が沓掛城だった訳です。

沓掛城は、東西288メートル、南北234メートル(面積67,392平方m)で、惣堀に囲まれた比較的規模の大きな城でした。北方の長久手・岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差し、交通の要衝として古くから栄え、後醍醐天皇が沓掛の住人近藤宗光を召しだし、応永年間(1394 - 1428年)には城が築かれたようです。近藤氏は織田信秀の勢力が強くなると追従し、天文20年(1551年)の信秀死後に、鳴海城主山口教継・教吉父子とともに今川に下りました。

城の規模でいうなら、山口教継・教吉父子の鳴海城(8,432平方m)より、沓掛城(面積67,392平方m)の城主が離反したことの方が重要ではないでしょうか。

沓掛城は鳴尾城まで6.7km、大高城まで7.9kmの位置にあります。織田軍が大高城の方へ移動すれば、鎌倉街道を通って背後から善照寺や丹下砦を強襲できます。その地の利を捨てて南下し、わずか4km先の桶狭間山で陣を引くのは常軌を逸しています。

大高城に入城するつもりだったという説もありますが、大高城(3,392平方m)の小城であり、5000人の兵士を入城させる余裕はありません。つまり、松平元康軍、朝比奈泰能軍の後詰として出陣した以外にあり得ないのです。

鷲津砦・丸根砦を陥落させた今川軍は、

そのまま、中島砦を攻めるつもりだったのか?

それとも、反転して沓掛城に帰城するつもりだったのか?

義元公の考えは、永久に知ることはできません。

001 信長の進軍時間≫

001

さて、旧参謀本部の『桶狭間役』では、突如として尾張に今川義元が侵攻したのではなく、幾度となく小競り合いを繰り返えしていたと示されています。

『信長公記』では、「御国の内へ義元引請けられ候の間、大事と御胸中に籠り候と聞へ申候なり。」から「天文廿一年壬子五月十七日、 一、今川義元沓懸へ参陣。」となって、義元の侵攻の理由を語っていない。

一方、『信長記 (甫庵長記)』では、「爰に今川義元は天下へ切り上り、国家の邪路を正さんとて、数万騎を率し、駿河国を打立ちしより、遠江三河をも程なく従え、恣に猛威を振ひしかば」と世直しの為に上洛する旨が述べられている。

同じように、『織田軍記 (總見記)』も「永禄三年の夏の比、今川治部大輔源義元、駿河三河遠江の大軍を引具し、天下一統の為に東海道を上洛するに、先づ尾州を攻平げ、攻上らんと企てらる」と上洛の意思を書き示している。

物語としては、大軍で上洛しようとしていたとする方が盛り上がる。しかし、『桶狭間役』で書かれているように、『桶狭間の戦い』は尾張と三河の境界線で起きている小競り合いに過ぎない。桶狭間から5年前の天文24年では、三河守護となった吉良氏と斯波氏が同盟を結び、義元は西三河の支配権も怪しくなっていた。

織田と今川の力関係はシーソーのように揺れ動いており、武田信玄の侵攻の前に上杉謙信が立ちはだかったように、今川義元の進撃に織田信長が抵抗し続けていた。

果たして、斉藤道三の押し込めが義元の策略であったかどうかは判らないが、美濃の斎藤義龍が道三を殺め、織田と対立するようになってから、信長は義龍と義元の両面から攻撃を受けるようになり、非常に苦しい台所事情を賄っていた。尤も織田の台所事情とは金銭ではなく、純粋な兵力の不足であった。

尾張は57万石と豊かな土地を持っていた。

さらに、津島や熱田から上がる税は20万石相当の費用を捻出できた。ゆえに尾張の5分の2程度しか治めていない織田弾正家が40万石相当の兵力(約1万人)を揃えることができた。しかし、尾張上四郡、斉藤義龍、今川義元と三者を敵に回していたので、非常に苦労していた訳である。

永禄元年に「浮野の戦い」(尾張上四郡を制圧)を勝利した信長は、尾張の支配権を確立した。このまま尾張の支配権を確実にすれば、益々好敵手となってしまう。支配権が薄い間に攻め込むのは定石と言えた。

義元の侵攻の目的は、鳴海城・大高城を囲む砦を排除し尾張知多郡の支配権を奪い取ること、さらに今川氏豊の領地であった那古野城周辺(熱田を含む)を奪回したいという気持ちもあったかもしれません。

山陽(らい さんよう)が示した桶狭間は、

将士銜レ枚レ枚馬結レ舌(しょうしはばいをふくみ うまはしたをむすぶ)

桶狭如レ桶雷擘裂(おけはざまおけのごとく らいへきれっす)

驕竜喪レ元敗鱗飛(きょうりゅうもとをうしない はいりんとぶ)

撲レ面腥風雨耶血(めんをうつ せいふうあめかちか)

一戦始開撥乱機(いっせんはじめてひらくはつらんのき)

万古海道戦氛滅(ばんこかいどうせんふんめっし)

唯見血痕紅紋纈(ただみるけっこんくれないにぶんけつするを)

と詠いました。

■桶狭間の置ける兵の配置

●織田軍

総大将:織田信長

小姓衆:岩室重休 長谷川橋介 佐藤藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎

馬廻衆:織田越前守 中川重政(織田駿河守) 津田盛月(織田左馬允) 河尻秀隆 佐々成政 (平井長康) (毛利十朗) 毛利新左衛門尉 伊東武兵衛 (水野忠光) 松岡九郎次郎 生駒勝介 蜂屋頼隆 中島主水正 猪子内匠助 金森長近 塙九郎左衛門直政 (飯尾茂助尚清) 浅井新八郎政貞 野々村三十郎 蜂屋兵庫頭 平出久左衛門 服部一忠等々

譜代衆:〔千秋家、毛利家、佐々家、内藤家、平手家、飯尾家〕

柴田勝家 林秀貞 (佐々政次) (佐久間盛重) (飯尾 定宗) (千秋四郎)

旗本衆:簗田政綱 森可成 池田恒興

熱田衆:千秋四郎

丸根砦:佐久間盛重

鷲津砦:織田秀敏 飯尾定宗 飯尾尚清

善照寺砦:佐久間信盛 佐久間信辰

丹下砦:水野忠光(水野帯刀)

中島砦:梶川高秀 梶川一秀

氷上砦:(千秋四郎)

向山砦:水野信元?

正光寺砦:佐々隼人正

星崎城:佐々隼人正

市場城:山口安盛

寺部城:山口盛重

〔知多半島〕緒川城:水野忠政?(誰が城主だったのか不明)

〔三河地区〕重原城:山岡河内守(天文23年(1554)に今川氏により落城)

牛田城:牛田政興(井伊直盛率いる先鋒隊によって落城)

来迎寺城:城主不明(牛田城の隣接する城、落城)

<出陣しなかった武将>

■旗本衆

丹羽長秀:出陣しているが名前は上がっていない。つまり、シンガリ、あるいは東方面の睨みを利かす役目を受けていた可能性が高い。現在の名古屋市天白区島田5丁目あたりに島田城がある。その島田城の牧家の菩提寺に島田地蔵寺があるが、永禄三年(1560)兵火にかかり、焼失したとある。守山城と鳴海城の中間にあり、東の岩崎城の丹羽氏勝を牽制するには、この当たりに牽制する兵がいないと背後から襲われる心配がある。

織田信清:出陣せず〔犬山城主、一門衆〕

生駒家長:〔小折城主、息子が参加〕

(注).岩崎の丹羽氏勝は『東照軍鑑』によると永禄二年(1559)四月二十六日「「丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえて信長自身が平針(天白区)に出陣し、柴田勝家・荒川新八郎らに国境福谷砦を攻めさせたが砦を構えて酒井忠次を配していた松平方に敗れた。」とある。「岩崎面を押さえて」と書かれているように、永禄2年の時点で岩崎の丹羽氏勝は今川方に組みしていたと考えられる。

島田城(名古屋市天白区島田5丁目):城主 牧長義、丹下砦の守備に付く。

植田城(名古屋市天白区植田1丁目):城主 横地秀重・秀政

<遅参組>(武功夜話)

佐々平左衛門、丹羽源助、今井小四郎、桜井甚右衛門、柏井衆、小坂孫九郎(雄吉)、村瀬九左衛門、前野新蔵(直高)、足立彦兵衛、平井久右衛門、吉田四郎兵衛、前野喜兵衛等々二百余人

<その他の武将>

前田利家 毛利十郎 毛利河内 木下雅楽助(織田薩摩守) 中川金右衛門 佐久間弥太郎  森小介 安食弥太郎 魚住隼人(敵首を討ち取った者)

毛利良勝(今川義元を討ち取った者)

服部一忠(今川義元に一番槍をつけた者)

水野信元(刈谷城主、向山砦を任されていたハズなのだが、いつの間にか消えている)

水野忠政(信元の父、天文12年の死没)

水野忠光(丹下砦の砦主、刈谷の水野一族?)

水野清久(水野清重の息子:織田軍で一番首の手柄を取った)

水野元氏(桶狭間後、大高城城主になる)

水野信近(桶狭間後、岡部元信によって三河刈屋城で討死)

牛田政興(緒川水野の家臣)

牧長義(島田城主、丹下砦の守備を任された真木与十郎、真木宗十郎と同一人物とされる)

山口盛重(寺部城主、大内義弘の次男・大内持盛を祖。持盛の子が尾張に移り住んだ)

山口安盛(市場城主、寺部城の山口盛重の兄)

山口盛隆(市場城主である山口安盛の孫で丹下砦を守る)

細作飛人(情報工作要員を五十人も沓掛城周辺にばらまいていた:武功夜話)

蜂須賀小六(川並衆)

前野将右衛門(川並衆)

<織田軍の兵数>

織田信長本隊:織田信長、2,000

・信長直属 300

・馬廻衆  700

河尻秀隆   100人〔馬廻衆〕

佐々成政   100人〔馬廻衆〕 等々

・譜代衆 600

柴田勝家       300人〔下社城主〕

林秀貞        300人〔沖村城主、沖村の土豪〕

 ・旗本衆 400

森可成    200

簗田政綱    50人〔旗本衆〕

金森長近    50人〔旗本衆〕 等々

先駆隊:佐々隼人正(政次)・千秋四郎、300〔井関城主、熱田宮司〕

善照寺砦:佐久間右衛門他1人、300

中島砦:梶川平左衛門、500

丹下砦:水野帯刀他6人、1,000

丸根砦:佐久間盛重、200

鷲津砦:織田玄蕃、飯尾近江守父子、300

星崎城:???、 300

また、鳴尾城を囲むように、寺部城・市場城・桜中村城・山崎城・島田城・植田城があり、200500人の守りを残していたと思われ、1,2002000人が後方に控えていた。

よって、この地区の織田勢は60007000人くらいであったと思われる。

(注1).市場城:山口左近太夫安盛は織田方で、丹下砦(名古屋市・緑区)を守っていました。寺部の近隣にある今川方の戸部城、笠寺城は廃城。

<武功夜話>

織田信長、2000

善照寺砦:佐久間右衛門他1人 1,700人(中島を含む)

丸根砦:佐久間盛重、 400

鷲津砦:織田玄蕃、飯尾近江守父子、 600

<帝国陸軍参謀本部編纂による>

本隊:織田信長 4,000人程度

鷲津砦:織田信平  兵数不明、400余か

丸根砦:佐久間信盛 兵数不明、400~700余か

丹下砦:水野忠光  兵数不明

善照寺砦:佐久間信辰 兵数不明

中島砦:梶川一秀  兵数不明

●今川軍

今川家当主(駿府城留守居):今川氏真

総大将:今川義元(前今川家当主)

駿河衆:<義元公をお守りする本隊中の側近衆> 2000

朝比奈親徳△○、朝比奈秀詮○、300人 (駿河東部の旗頭)

庵原之政○、庵原忠縁○、庵原忠春×、庵原忠良×、300人 (駿河庵原城主)

蒲原氏徳×、300人 (駿河東部、蒲原城主)

久野元宗×、300人 (駿河東部、久野城主)

久野氏忠×、300人 (駿河東部、江尻城主)

関口親永○、300人 (駿河東部、持船城主)

義元公の馬廻衆 200人くらい?

吉田 氏好○、1人 (軍奉行)

一宮宗是×、 ??? (持舟城主の父?)←<持舟城って、関口親永>

江尻親良×、 1人 (義元の旗本)

斎藤利澄×? 1人 (義元の旗本?)

<義元公の周辺を守る側近衆> 12002000

長谷川元長×、300人 (駿河西部、小川城主)

由比正信×、300人 (駿河西部、徳一色城主)

富永氏繁×、300人 (遠江東部、相良城主)

飯尾乗連×、300人 (遠江中部、曳馬城主)

岡部長定○、100人 (???)

藤枝氏秋×、100人 (前備侍大将)

(他にも名が残っていない者がいると思われる。者を入れて2000人かも)

<本隊先発隊> 1000

遠江衆:瀬名氏俊○、300人(駿河、瀬名館)

三河衆:本多忠高?、700人(忠高は存命していないので本多家の誰か)

<先鋒隊> 2000

遠江衆:井伊直盛×、1000人 (遠江国人、井伊谷城主)

三河衆:松平元康○、1000人 (安祥松平家六代当主)

石川家成、酒井忠次(元康の家臣)

<中堅隊> 4000

遠江衆:松井宗信×、1000人 (遠江国人、二俣城主)

朝比奈泰朝○、1000人 (遠江、掛川城主)

三河衆: 松平政忠×、1000人 (長沢松平家第7代当主)

本多忠勝、○、1000人 (尾張知多、横根地頭)

本多忠真○、(忠勝の目付役)

<鳴海城> 500

城主:岡部元信○、100人(鳴海城の城番)

尾張知多衆:山口教継?△、 500人?

<大高城> 500

城主:鵜殿長照○、500人 (大高城の城番、三河東部、上ノ郷城主)

<沓掛城> 1500

城主:浅井政敏○、1500人 (沓掛城の城番)

(近藤景春△、500人?(沓掛城支城の高圃城城主、元沓掛城主))

<鳴海城周辺> 1000

三浦義就×、3001000人?(元星崎城〔笠寺砦〕の守将、駿河東部の支配地を持つ)

<清洲方面展開> 1000

駿河衆:葛山氏元○、1000人 (駿河東郡、葛山城城主)

葛山信貞○

義元本隊   2000

本隊側近衆  2000

本隊先発隊  1000

先鋒隊    2000

中堅隊    4000

知多既存兵力4500

・鳴海城   500

・大高城   500

・沓掛城  1500

・鳴海周辺 1000

・清洲展開 1000

今川軍延べ 15500

各国人や豪族を束ねている武将は、約1000人と考え、城主は最低でも1万石以上と推測し、平均すれば300人程度を引き連れて参戦できます。名前が上がっている主な武将や城主にこれを当てると以上の兵力となります。

その他に岡崎城、数千人、知立数千人、横根城500人、今岡城500人、重原城1,000人、池鯉鮒上500人、安城500人等々である。特に水野氏が裏切る可能性が高いので知立付近の兵を待機させるのは必定である。また、三河や遠江の豪族が反旗を翻す可能性を考慮すれば、駿河の氏真に余力を残しており、掛川城や岡崎城に待機させて置くのも普通である。それらの数に加えると二万を超える。

<桶狭間 死者>

死者は、今川軍2500人、織田軍830 ほどで、要した時間は2時間という

(注1).『治世元記』、『朝野舊聞ほう藁』には、桶狭間に向かう先発隊は、大将を井伊直盛,松平元康に五月十日に駿府を出発とある。実際、松平元康の兵は三河にあり、駿河出発する時は、関口氏あるいは瀬名氏から借りた兵100人程度であったと思われる。

(注2).駿河三浦治郎左衛門範高、今川仮名目録のそのなかに「一、三浦次郎左衛門尉、朝比奈又太郎、出仕の座敷さだまるうえは、自余の面々は、あながちに事を定むるに及ばず。見合てよきように、相計らはるべきなり」とあり、三浦氏は朝比奈氏とともに、今川家の筆頭第一に挙げられている。三浦範高の子に三浦氏員、氏員の子に正勝(長男)、貞勝(次男)、氏満(三男)がいる。長男正勝は後に家康に仕え、その子を正次・直信としている。次子貞勝は上野介を称し、氏員ともされ、氏員は横山城主で「今川分限帳」に一万六千石とある。のち武田氏に属した。三子の氏俊は次郎左衛門を称し、剃髪して三休と号した。武田信玄に仕え、その後小田原の北条氏直につかえ、北条氏没落後は浪人となった。その後、家康の旗本となり、寛永七年(1630)八十七歳で没した。氏俊のあとは三男儀持が継いだ。範高の子、正勝(長男)、貞勝(次男)、氏満(三男)が桶狭間に出たかは定かではない。亜流の三浦正俊は今川氏真の後見役として駿府に残っている。

三浦義就は左馬助称し、三の山赤塚合戦のおり、「笠寺へ砦、要塞を構え葛山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎、五人在城なり。」と笠寺の守衛を任された一人である。尾張大府市深谷氏の文献では、三浦治郎左衛門貞時とされている。

義就は尾張攻略の先遣隊の大将であり、5000人の兵を率いて、善照寺と中島砦の目と鼻の先に布陣しました。貞時の資料は非常に少なく、討死したとされますが、家臣が身代わりとなり、本人はむかし助けた領民に匿まわれて髪を剃り、三浦から深谷と姓を変えて土着したそうです。

(注3).水野十郎左衛門信近1000人?の兵力の記録にない。水野信近は基本的に織田と同盟を結び、裏で今川と繋がっていると考えられる。義元や道三から送られた書状が多く残されており、好を通じでいたことは明白である。しかし、永禄2年3月に水野家臣の牛田城、知立城を落されていることから、3月時点まで織田との同盟は決裂していなかったことが伺われる。大高城の水野氏も同族であり、大高城が今川に寝返ったとして、信近の協力を得られることは非常にやり易くなる。大高城を取り囲む正光寺砦、向山砦、氷上砦の内、向山砦は信近が守っていたと思われる。松平元康は信近の裏切りによって易々と大高城に兵糧入れを完了し、丸根砦の攻略にあった。その後の消息は不明であるが、義元の性格からして中島砦の攻撃を命じただろう。しかし、信近は中島砦から雨の中を川沿いに上ってゆく信長を見逃したのではないだろうか。(豪雨の為に気が付かなかったとか惚けて)

(注4).尾張別働隊として服部左京助が武者舟二十艘(二之江の一向宗徒が黒末河口へ漕ぎ寄せたとある)

(注5).知多半島の今川方に長尾岩田氏(半島南部)の寺本花井氏である。知多市八幡町堀之内にある寺本城は、花井播磨守と嫡男勘八郎の城である。別名堀之内城・青鱗城とも呼ばれる。信長が村木攻めの帰りに攻めたが落すことができなかった。(寺本城の北1.2㌔にある花井惣五郎の篭もる薮城は、村木攻めの帰りの信長に敗れる)

(注6)戦闘に参加しない西三河衆もいた。今村彦兵衛勝長、渥美太郎兵衛友勝は大高へ輜重のみである。

(注7).桶狭間で名前が出て来ない東三河衆のは田原の戸田氏、豊川の牧野氏、奥三河の菅沼氏?である。彼らの動向は非常に気になるが、今のところ資料が見当たらない。

(注8).清洲方面遊撃隊の葛山氏元は駿東郡の国衆ですから5000人をかき集めるのは、さすがに無理がありそうです。笠寺観音で布陣し、信長を見過ごしたとも言われています。笠寺周辺を奪われた後に鳴海城などを拠点として奪回戦をやっていたのかもしれません。兵糧を考えると賄える兵数は5002000人当たりが限界でしょう。

(注9).戦における輜重は、近距離の三河などは不要であり、一方、遠江や駿河の部隊には必要になります。義元と周辺守備兵の総数は約2万人とすると、輜重部隊(武具・糧食・燃料など運ぶ部隊)は、兵士に対して1~0.5の割合で必要となります。守備兵まで含めると総勢四万人余と言われている総兵力もあながち嘘とも言えないかもしれません。

(注10. 本多忠勝は松平元康の家臣であり、本来、お側を離れないと考えたいのですが、本多氏の本領は尾張横根郡と粟飯原郡の元地頭であります。この横根郡は116299合の小さな村でありますが、水野氏の勢力地であり、沓掛城の南、桶狭間の東に位置します。そんな危険な場所を放置する訳もなく、義元公なら味方に引き入れ、兵を拠出させていると思われます。元地頭の本多氏は、彼らを引き連れるのに丁度いい人材ではなかったのではないかと考える訳です。

(注11.丸根城は富田左京亮の居城とされるだけで詳細は残っておりません。

<武功夜話>

義元本隊(義元、三浦義就) 五千

丸根砦攻略隊(松平元康) 一千

鷲津砦攻略隊(朝比奈康朝) 二千

鳴海城守備隊(岡部元信) 三千

大高城守備隊(鵜殿長照) 二千

沓掛城守備隊(浅井政敏) 千五百

清洲先遣隊 (葛山信貞) 四千五百

これで合計一万九千である。

(注).兵数の後ろに<?>マークはあるのは未確認の推定数

<帝国陸軍参謀本部編纂による>

本隊:今川義元  兵約5,000

丸根攻撃兵:松平元康  兵約2,500

鷲津攻撃兵:朝比奈泰能 兵約2,500

鳴海城守兵:岡部元信  兵数不明、700~800か

大高城守兵:鵜殿長照  兵数不明

沓掛城守兵:浅井政敏  兵数不明、1,500余か

援兵:三浦備後守正俊 兵約3,000

清洲方面前進兵:葛山信貞  兵約5,000

〔今川方の主力武将の領地〕

松井宗信:遠江(二俣城)

朝比奈泰朝:遠江(掛川城)

井伊直盛:遠江(井伊谷城)

飯尾乗連:遠江(曳馬城)

瀬名氏俊:遠江

松平元康:三河(岡崎城)

鵜殿長照:尾張(大高城、本領は三河上ノ郷)

近藤春景:尾張(沓掛城)

岡部元信:尾張(鳴海城)

●織田VS今川の兵力

様々の兵数が歴史的記録から残っており、また参照されてきました。しかし、未だに確定に至っておりません。桶狭間の動員された兵力はいったいどれくらいだったのでしょうか?

・『信長公記』織田二千不足、今川四万五千

・小瀬甫庵の『信長記』織田三千、今川数万騎

・『甲陽軍鑑』二万余、

・『武功夜話』三万有余、

・『道家祖看記』織田二千あまり、今川六万余

・『享禄以来年代記』織田七百余、今川二万余

・『徳川実紀』『武徳編年集成』『総見記』四万余、

・『改正三河後風土記』四万五千、

・『絵本太閤記』五万余

・『三河物語』三千

・『定光寺年代記』今川一万人被打(討死数)

・『足利季世記』今川一万余

・『家忠日記増補追加』織田三千余、今川四万余

・帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』二万五千

・『国高見る兵力』

駿河遠江三河約70万石 一万七千五百

駿河 15万石  3750人

遠江 26万石  6500人

三河 29万石  7250人

尾張 57万石  一万四千二百五十

(注). 旧参謀本部の『桶狭間役』では、1万石あたり250人:『明智光秀家中軍法』軍役は百石につき六人、戦闘要員〔騎馬5人、槍10人、鉄砲5人+α、合計2030人〕一万石につき200300人(つまり、250人)、豊臣軍の小田原攻め時の動員数は、100石あたり5人の軍役、『日本戦史 関原役』(1911)関ヶ原の兵数として300/万石、江戸幕府が平時に定めた軍役『徳川禁令考』1万石当たり300

●城の規模

広さを一人当たり、半畳分(5平方m程度)とし、単純に計算すると、大高城は3392平方m/5平方mとなり、678人が収容できます。同様に計算すると以下のようになります。

・清洲城 18,069平方m 3600人

城主:織田信長

(末森城 32,000平方m6400人、東西約200メートル、南北約160メートルの平山城、廃城)

・大高城  3,392平方m 678人

城主:記述無し

・鳴海城  8,432平方m 1686人

城主(一人):岡部五郎兵衛

・沓掛城 67,392平方m 13498人

城主:記述無し

・笠寺砦  4,860平方m 972人

城主(五人):岡部五郎兵衛、かつら山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助

・善照寺砦 2,160平方m 432人

城主(二人):佐久間右衛門、佐久間左京介

・丹下砦  6,552平方m 1310人

城主(六人):水野帯刀、山口ゑびの丞、柘植玄蕃頭、真木与十郎、真木宗十郎、伴十左衛門尉

・中島砦 13,195平方m 2639人 

城主(一人):梶川平左衛門

・丸根砦  1,008平方m 202人

城主(一人):佐久間大学

・鷲津砦  675平方m 135人

城主(三人):織田玄蕃、飯尾近江守父子

・星崎城  3,536平方m 707人

城主:記述無し

●周辺の山等々の標高

桶狭間山標高65m 

高根山 標高54m

幕山 標高51m

愛宕西 標高47m

生山 標高40m丘陵地

武路山 標高30m

大形山 標高44.4m

漆山 標高20m程度

諏訪山 標高21m程度

桶狭間地区 標高30m

太子 標高39m

太子ケ根 標高51m

文根山(若草山) 標高40m 〔大高緑地公園〕

善照寺砦 標高25.4

中島砦 標高5

鳴海城 標高20m

釜ケ谷 標高5.4m

<その3>

24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

01

〔歴史館はこちらへ〕

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 


今川義元討死の事 狭間の戦い その3 


今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

24.今川義元討死の事 桶狭間の戦い

今川義元討死の事

天文廿一年壬子五月十七日

一、今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ侯ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ侯ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色六世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの問、帰宅侯へと、御暇下さる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲弄して、罷り帰られ侯。案の如く、夜明がたに、佐久間大学・織田玄蕃かたよりはや鷲津山・丸根山へ人数取りかけ侯由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし侯。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし侯て、御出陣なさる。其の時の御伴には御小姓衆岩室長門守 長谷川橋介 佐脇藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ侯へぱ、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り侯。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。

天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津・丸根攻め落し、満足これに過ぐべからざるの由にて、謡を三番うたはせられたる由に侯。

今度家康は朱武者にて先懸をさせられて、大高へ兵粮兵粮入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。信長、善照寺へ御出でを見し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。

信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深困の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き侯て、声々に申され侯へども、ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。中島より叉、御人数出だされ侯。今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども、爰にての御諚は、各よく貼承り侯へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。

懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、

前田又左衛門 毛利十郎 毛利河内 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介安食弥太郎 魚住隼人

右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。

沓掛の到下の松の本に・二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍がと申し侯なり。空晴るゝを御覧じ、信長鎗をおつ取つて、大音声を上げて、すは、かゝれ貼と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。

天文廿一年壬子五月十九日

旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ貼、次第貼に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓歴々衆手負ひ死人員知れず、服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。是れ偏に、先年清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し侯の時、御舎弟を一人生捕り助け申され侯、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞なり。運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き貼、二つ三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り侯。頸は何れも清洲にて御実検と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣侯なり。

一、山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守、累年御日に懸けられ、鳴海在城不慮に御遷化侯へば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節なし、居城鳴海へ引き入れ、智多郡御手に属し、其の上、愛智郡へ推し入り、笠寺と云ふ所に要害を構へ、岡部五郎兵衛・かつら山・浅井小四郎・飯尾豊前・三浦左馬助在城。鳴海には子息九郎二郎を入れ置き、笠寺の並び中村の郷取出に構へ、山口左馬助居陣なり。此の如く重々忠節申すのところに、駿河へ左馬助、九郎二郎両人召し寄せられ、御褒美は聊もこれなく、無下貼と生害させられ侯。世は澆季に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず、今川義元、山口左馬助が在所へきなり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、それも御用にたたず、千が一の信長纔二千に及ぶ人数に扣き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅猿敷仕合せ、因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく侯ひしなり。山田新右衛門と云ふ者、本国駿河の者なり。義元別して御日に懸けられ侯。討死の由承り侯て、馬を乗り帰し、討死。寔命は義に依つて軽しと云ふ事、此の節なり二股の城主松井五八郎・松井一門一党弐百人、枕を並べて討死なり。爰にて歴々其の数、討死侯なり。

爰に河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして、武者舟干艘計り、海上は蛛の子をちらすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ侯へども、別の働きなく、乗り帰し、もどりざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町ロヘ火を懸け侯はんと仕り侯を、町人どもよせ付けて、焜と懸け

出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り侯ひき。

上総介信長は御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、御急ぎなさるゝ程に、日の内に清洲へ御出であつて、翌日頸御実検侯ひしなり。頸数三千余あり。然るところ、義元のさゝれたる鞭、ゆかけ持ちたる同朋下方九郎左衛門と申す者生捕に仕り、進上侯。近比名誉仕りし由にて、御褒美、御機嫌斜ならず。義元前後の始末申し上げ、頸ども一々誰々と見知り申し、名字を書き付けさせられ、彼の同朋には、のし付の大刀わきざし下され、其の上、十人の僧衆を御仕立にて、義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ侯なり。清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り侯海道に、義元塚とて築かせられ、弔の為めにとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き侯らひし。今度分捕に、義元不断さゝれたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、何ケ度もきらせられ、信長不断さゝせられ侯なり。御手柄申

す計りもなき次第なり。

さて、鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠り侯。降参申し侯間、一命助け遣はされ、大高城・沓懸城・池鯉鮒の城・原、鴫原の城、五ケ所同事退散なり。

〔現代訳〕

二十四、今川義元討死の事

 

永禄三年(1560)壬子五月十七日

 一、今川義元沓掛へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵糧入れ、助勢なき様に、十九日朝潮の満干を考え、沓掛砦を落とすべきの旨必定と相聞こえ候の由、十八日夕日に及んで佐久間大学、織田玄蕃方より御注進申し上げ候所、その夜の御話、戦の手立てはゆめゆめこれなく、色々世間の御雑談までにて、既に夜が更けるに及び「帰宅候え」と御暇下さる。家老の衆申すさまは「運の末には知恵の鏡も曇るとはこの事なり」と、各々嘲弄候て帰られ候。案の定夜明け方に、佐久間大学、織田玄蕃方より『早くも鷲津山、丸根山へ人数懸り来たり候』由、追々御注進これあり。この時、信長敦盛の舞を遊ばし候。「人間五十年、下天の内を暮らぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」と候て、「法螺貝吹け、具足よこせよ」と仰せられ、御具足召され、立ちながら御飯を参り、御兜を召し候て御出陣なさる。その時の御供には御小姓衆、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、これら主従六騎、熱田まで三里(9km)一気に駆けさせられ、辰刻(午前8)に源大夫御前神社の前より東を御覧じ候えば、鷲津、丸根落去と思しくて、煙上り候。この時馬上六騎、雑兵二百ばかりなり。浜てより御出で候えば、程近く候えども潮満ち入り、御馬の通い難く、熱田より上道を、もみこんで駆けさせられ、先丹下の御砦へ御出で候て、それより善照寺佐久間居陣の砦へ御出でありて、御人数立てられ、勢揃いさせられ、容態御覧じ、

 御敵今川義元は四万五千引率し、桶狭間山に人馬の息を休めこれあり。

 

永禄三年(1560)壬子五月十九日牛刻(正午)

 戌亥(北西)に向って人数を備え、鷲津、丸根攻め落とし、満足これにすぐるべからず、の由候て、謡を三番歌わせられたる由候。今度家康は朱武者にて先駆けをさせられ、大高へ兵糧入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、御辛労なされたるによって、人馬の息を休め、大高に居陣なり。

 信長善照寺へ御出でを見申した、佐々隼人正、千秋四郎の二頭、人数三百ばかりにて義元へ向って足軽にて出陣候えば、どっと懸り来て、槍下にて千秋四郎、佐々隼人正はじめとして五十騎ばかり討死候。これを見て、義元が鋒先には天魔鬼神も堪るべからず。心地は良しと喜んで、ゆるゆるとして謡を歌わせ陣を据えられ候。

 信長様子を御覧じて「中嶋へ御移り候はん」と候を「脇は深田にて、一騎討ちの道なり。無防備の容態敵方よりさだかに相見え候。御妥当ではなきの由」家老の衆御馬の手綱に取り付き候て、声々に申され候えども、振り切って中嶋へ御移り候。この時二千に足らざる御人数の由申し候。中嶋より又御人数出され候。今度は無理にすがり付き、止め申され候えども、ここにての御言葉は「各々よくよくたまわり候え。あの武者、宵に兵糧使いて夜通し来たり、大高へ兵糧入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して疲れたる武者なり。こちらは新手なり。其上小軍ニシテ大敵ヲ怖レル、事ハバカレ、運ハ天ニアリ、この語は知らざるかな。懸らば引け、退かば引っ付くべし。是非にねり倒し、追い崩すべき事案の内なり。首の分捕りをなすべからず、打ち捨てたるべし。戦に勝てればこの場へ乗ったる者は家の面目、末代の高名たるべし。ただ励むべし」と御話の所に、

  前田又左衛門

  毛利河内

  毛利十郎

  木下雅楽助

  中川金右衛門

  佐久間弥太郎

  森小介

  安食弥太郎

  魚住隼人

 上の衆てんでに首を取り持ち参られ候。先の事一々仰せ聞かさせられ、桶狭間山際まで人数寄せられ候の所、にわかに急雨が降り出し石氷を投げ打つ様に、敵のつらに打ち突くる。味方は後の方に降りかかる。沓掛の峠の松の元に、二、三抱えの楠の木、雨により東へ下り倒れる。余りの事に「熱田大明神の軍神か」と申し候なり。空晴れるを御覧になり、信長槍をおっ立て大声を上げて「さあ懸れ懸れ」と仰せられ、黒煙立てて懸るを見て、水をまくるが如く後ろへはっと崩れたり。弓、槍、鉄砲、のぼり、旗さし物、算を乱すに異ならず。

 今川義元の輿も捨て崩れ逃れけり。

  

  永禄三年(1560)壬子五月十九日

 「旗本はこれなり。これへ懸れ」と御下知あり。未刻(午後二時)東へ向って懸る。初めは三百騎ばかりまん丸になって、義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度返し合わせ合わせ、次第次第に無人になりて、後には五十騎ばかりなりたるなり。

 信長も馬から降り立って、若武者共と先を争い、突き伏せ、突き倒し、熱心な若者共、乱れ懸ってしのぎを削り、鍔を割り、火花を散らし焔を降らす。然りと言えども、敵味方の武者、入り混じらず。ここにて御馬廻、御小姓衆歴々手負い、死人数を知らず。服部小平太、義元に懸り合い、膝の口を切られ倒れ伏す。毛利新介、義元を切り倒し首を取る。これひとえに先年清州の城において、武衛様をことごとく攻め殺し候の時、御舎弟を一人生け捕り、助け申され候、その冥加たちまち来て、義元の首を取り与えられたと人々風聞候なり。運の尽きたる印に候。桶狭間と言う所は、狭間入り組み、深田足入れ、高見反り茂り、要所と言う事限りなし。深田へ逃れ入る者は所を去れず這いずり回るを、若者ども追付き追付き二つ・三つづつてんでに首を取り持ち、御前へ参り候。「首はいづれも清州にて御実検」と仰せ出され、義元の首を御覧じ、御満足斜めならず。もと御出で候道を御帰陣候なり。

 一、山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父織田備後守累年御目を懸けられ鳴海在城。不慮に御他界候えば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節として居城鳴海へ駿河衆引き入れ、知多郡を御手に属す。その上愛知郡へ押し入り、笠寺と言う所に要害を構え、岡部五郎兵衛、葛山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助在城。鳴海には子息九郎二郎入れ置き、笠寺の並び中村の郷に砦構え、山口左馬助居陣なり。かくの如く重ね重ね忠節申す所に、駿河へ左馬助、九郎二郎両人を召し寄せ、御褒美はいささかもこれなく、情けなく無下無下と生害させられ候。

 

世は澆季に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず、今川義元、山口左馬助が在所へ来たり、鳴海にて四万五千の大軍を動かし、それも御用に立たず。千が一の信長、僅か二千に及ぶ人数に叩き立てられ、逃れ死に相果てられ、浅ましき天の巡り合わせ、因果歴然、善悪二つの道理、天道恐ろしく候なり。

 山口新右衛門と言う者、本国駿河の者なり。義元格別に御目を懸けられ候。討死の由承り候て、馬を乗り返し討死。寔命は義に依つて軽しと云ふ、この事なり。

 二俣の城主松井五八郎、松井一門、一党二百人枕を並べて討死なり。ここにて歴々その数討死候なり。

 ここに海西荷之上の坊主、鯏浦の服部左京助、義元へ助勢として、武者舟千艘ばかり、海上は蜘蛛の子を散らすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候えども、別に働きなく乗り帰る、戻りざまに熱田の港へ舟を寄せ、遠浅の所より降り立って、町口へ火を懸け候はんと仕り候を、町人共寄り付きてどっど懸り、数十人討ち取られ候、手柄無く川内へ引き取り候。

 上総介信長は、御馬の先に今川義元の首を持たせられ、御急ぎなさるる程に、日の内に清州へ御出でありて、翌日首実検候なり。首数三千余りあり。然る処、義元の差されたる鞭、鞢(※ゆがけ 弓を射る時につかう革手袋)持ちたる同朋を下方九郎左衛門と申す者、生捕に仕り進上候。甚だ名誉仕り候由候て、御褒美、御機嫌斜めならず。

 義元前後の始末申し上げ、首共一々誰々と見知り申す名字を書き付けさせられ、かの同朋のには、のし付きの太刀、脇差下され、その上十人の僧衆を御仕立て候て、義元の首を同朋に相添え、駿河へ送り遣わされ候なり。清州より二十町(2km)南須賀口、熱田へ参り候街道に、義元塚というのを築かせられ、弔いの為として千部経を読ませ、大卒塔婆を立て置き候らいし。此度討ち捕りに、義元普段差されたる秘蔵の名誉の「宗三左文字」の名刀召し上げられ、何度も切らせられ、信長普段差させられ候なり。御手柄申すばかりなき次第なり。

 さて鳴海の城に岡部五郎兵衛立て籠もり候。降参申し候に、一命助け遣わされる。大高城、沓掛城、池鯉鮒の城、鴨原の城、五ヶ所同時に退散なり。

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