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24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その3

01_2

〔歴史館はこちらへ〕

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 
今川義元討死の事 狭間の戦い その3 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■決戦、桶狭間

桶狭間の戦いで有名な説は、『迂回奇襲説』、『正面攻撃説』、『乱取り騙し討ち説』と様々です。『迂回奇襲説』は旧参謀本部の『桶狭間役』で解説される日本の伝統的な戦法として取り組まれています。神速を持って移動し、相手の虚を付いて強襲するのは効果的と考えた訳です。しかし、残念なことに最近の資料から今川義元が油断していないと難しいと判ってきました。鷲津砦・丸根砦の両砦が陥落し、意気消沈した織田軍は一戦して後退すると油断している状態です。

あるいは、『乱取り騙し討ち説』である。『乱取り騙し討ち説』は、黒田日出男東京大学名誉教授が唱える説であり、『甲陽軍鑑』が書き示す「駿河勢の諸方へ乱取にちりたる間に、身方(味方)のやうに入まじり」云々という記述に注目し、勝ったと思った義元が兵に乱捕りを許可し、信長が旗を仕舞って、敵に混じって近づいて首を取ったというものです。

いずれにしろ、今川義元が勝利に酔って油断した結果でなければなりません。しかし、「東海一の弓取り」と称される義元公が、大高城が解放されただけで浮かれていたとは信じられません。鳴海城はまだ包囲されたままです。

もし、油断したのであれば、中島砦・善照寺・丹下砦を放棄して織田軍が撤退を開始したとでも報告がなければなりません。

さて、『迂回奇襲説』に戻りますが、旧参謀本部の『桶狭間役』の地図から長福寺付近のおけはざま山に義元の本陣を置いてみました。逃亡して田楽坪を通ったとするなら、生山の方がよかったかもしれません。鎌倉街道を迂回して山道を通って近づくことになります。Aルート以上に迂回すれば、2時間以内に到着することは難しいのでないでしょうか。鎌倉街道から追分新田道へ渡る道はなく、獣道や小道がある程度です。しかし、30m級の山なので横断できなくはありませんが、500人程度の兵なら問題ないでしょうが、3,000人規模の部隊が迂回強襲するのは難しく考えてしまいます。しかし、戦力差から旧参謀本部は迂回奇襲作戦を取りました。

<<003 信長の進軍ルート>>

003

最近、見直された『信長公記』には、『正面攻撃説』が書かれております。中島砦から出て田んぼ脇道を通り、山沿いに鳴海道があり、その坂道を駆け上がったのでないかという説です。

「右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。」

と、大粒の雨が降り出してきました。そこは諏訪山か(Bルート)、漆山の麓(Cルート)と思われます。ここから道は、大きく2つに分かれます。

『信長公記』では、いつ雨が降ってきたのか詳しく書かれていません。普通に読めば、おけはざま山の近くまで寄ってから雨が降り出したように思えますが、前衛を薙ぎ払わらなければ、とても近づくことができません。

Bルートを選択すれば、しんえい中島砦攻略の朝比奈泰朝隊が信長の前に立ち塞がります。Cルートを選択すれば、高根山の有松神社に布陣した松井宗信隊か、その隣の幕山の井伊直盛隊にぶつかります。

桶狭間の戦没名簿を見ると、松井宗信、井伊直盛共に討死しております。そこから考えられるのは、やはりBルートとなります。中島砦を出陣した信長本隊は、早々に豪雨の来襲を受け、雨に身を隠して義元本陣を目指しました。移動に際して、『甲陽軍鑑』の旗を隠して進んではないかと考えられます。『信長公記』は、几帳面な太田牛一がどのようにして義元本隊に近づいていったのかが書かれておりません。否、雨に隠れて旗を降ろして近づいていったなど、武門の恥で書けなかったのです。

松井宗信と井伊直盛の兵は雨宿りをして散らばっている所を、柴田勝家率いる先駆け隊が騙し討ちするような形で襲い掛かったとすれば、一方的に蹂躙したのかもしれません。名乗りを上げてから戦いを始めるのが、武士の習わしとすれば、夜盗の如き振る舞いに思えたのではないでしょうか。(太田牛一は柴田の家臣)

<<004 明治24年国土地理院旧版地図>><<参謀本部刊「日本の戦史 桶狭間」付図>>

004_24

(注). 信長の進軍ルートの参考は、明治24年国土地理院旧版地図、参謀本部刊「日本の戦史 桶狭間」付図、高根山の有松神社「桶狭間古戦場」を参考に再考しております。

沓掛城を出陣した義元公は、鎌倉古道を通って大高城を目指したと言われております。しかし、義元公は、中島砦が主戦場になると想定して、はじめから『おけはざま山』を目指しました。先発隊の瀬名氏俊にわずか4km先に陣幕を作らせたのもその為です。

尤も旧陸軍歩兵でも50分歩いて10分休むとありますから、単なる休憩地だった可能性は否定できません。二村山を越えて来た兵にはちょうど良い休憩だったのかもしれません。しかし、そこで佐々隼人正、千秋四郎の二首と五十騎計り討ち取ったという報告を聞くことになります。

義元公が陣を引いたのは、『おけはざま山』と言われていますが、諸々の史料には、

「桶狭間山の北の松原」(桶狭間合戦記・尾張志)

「桶間の松陰」(武家事記)

「路次の側の松原」(甲陽軍鑑)

「桶狭之山の北」(成功記)

「桶狭間の山下の芝原」(総見記)

と示されております。実際は『おけはざま山』の北であった思われる節があります。地図で言えば、『武侍』「三河物語」では19日に義元公が池鯉鮒から段々に押し出て棒山の丸根砦等を巡察されたともあります。池鯉鮒は沓掛城の東であり、わざわざ戻る意味があるのかと考えてしまいますが、多くを悩んでも仕方ありません。

信長が中島砦を出陣するに煎じて、千秋四郎(千秋季忠)と佐々隼人正(佐々政次)が討ち出ております。

その出陣に際して、佐々政次が信長に言ったと『道家祖看記』(続群書類従 第二十輯上 収)に残されています。

ソレカシ命ヲステ候ハヽ。 今日ノ御合戦ニ御カチ候事必定ナリ。 

今日天下ワケメノカツセンコレ也。 

天下ヲヲサメタマヒ候時。 

弟内蔵佐我等セカレヲ。 御ミステサセタマハテトテ。 

我々ハ東ムキニ。 今川ハタ本ヘミタレ入ヘシ。 

殿ハワキヤリニ御ムカヒ。 テツホウユミモウチステ。 

タヽムタヒニ。 ウチテカヽラセタマヒ候ヘトテ。

(私が命を捨てて掛かれば、今日の合戦には必ず勝つことが出来ましょう。今日の戦は天下分け目の合戦です。天下を治め下さい。弟(成政)と私の息子(清蔵)を宜しくお願い致します。我々は東へ向かい、今川義元の本陣へ乱入します。殿(信長)は脇槍に向かわれ、鉄砲も弓も捨ててただただ一途に義元に打ちかかられるがよろしいでしょう。)

取って付けたような銘文なので、後の編集ではないかと思われますが、佐々の息子たちが恩に報われている所を見れば、この討死を信長は評価していたのは間違いありません。

義元公は、この見印を討ち取ったことを聞いて、

「義元が戈先には天魔鬼神も忍べからず。  心地はよし。」

と喜んだと言われています。

千秋四郎と佐々隼人正がどこで戦ったのか不明です。

阿部四郎兵衛定次が書き記した「松平記」(三河文献集成・中性編 ()国書刊行会)には、

「永禄三年五月十九日昼時分大雨しきりに降。今朝の御合戦御勝にて目出度と鳴海桶はざまにて、昼弁当参候処に、其辺の寺社方より酒肴進上仕り、御馬廻の面々御盃被下候時分、信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善勝寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、鉄炮を打掛しかば、味方思ひもよらざる事なれば、悉敗軍しさはぐ処へ、山の上よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の鑓にて義元を突申候処、義元刀をぬき青貝柄の沙也鑓を切折り、小平太がひざの口をわり付給ふ。毛利信助と云もの義元の首をとりしが、左の指を口へさし入、義元にくひきられしと聞えし。」

と書かれていることから、善照寺砦から二手に別れ、一手(千秋四郎と佐々隼人正)が御先衆、もう一手(信長)が本陣を襲ったと書かれている。

つまり、高根山の掲示板に示されている逸話が正しいとするであれば、300余りの小隊で善照寺より東にAルートを通ったと思われます。「松平記」では、同時に攻撃したように思われますが、密偵が持ち帰った情報が、「善照寺で二手に分かれた」、「千秋四郎と佐々隼人正が松井宗信と対峙た」、「本陣が信長に襲われた」というものであれば、二手の分かれた部隊の戦闘時間は察していなくても不思議はありません。

「信長公記」では、千秋四郎と佐々隼人正達50騎余りが討ち取られましたが、その戦いで前田又左衛門達が首を持ち帰ったことで、信長は逆に勝機を感じ取ったのではないでしょうか。

右側から襲い掛かったので、左側から襲い掛かれば、手薄になっているハズなどと単純に考えたと思われます。これは浅井・朝倉と対した時に、雨に紛れて大嶽砦を落した方法と似ております。信長は単純に行動することが侭あります。

信長戦いの好機と見て、兵に号令を掛けました。

「懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし」

戦力に差のある織田軍は、奇襲に当たる先駆け(千秋四郎と佐々隼人正達)が討たれて意気消沈していると普通は思います。それゆえに虚を付き信長は兵を進めました。

一方、元康(後の家康)は大高城で休息を取っています。兵糧入れに丸根砦の攻略と昼夜を問わない働きでした。大高城の規模からいうと全軍が城に入ったかは疑問です。

『信長公記』では、「今度家康は朱武者にて先懸(駆)けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり」

『三河物語』では、「即押寄て責給ひければ、程無タマラズして、佐間は切て出けるが、雲もツキずや、討ち漏らされて落ちて行く。家の子郎縫供をば悉打取る。其寄大高之城に兵ラウ米多く誉。」とどちらも被害を訴えています。

丸根砦と鷲津砦は尾根で繋がっており、兵を貸し借りできる構造だったそうです。そう考えれば、松平元康隊が先に丸根砦を攻撃すると鷲津砦は手薄になります。頃合いを見て、朝比奈泰朝隊が鷲津砦を攻撃すれば被害は小さかったでしょう。しかもここには本多忠勝の三河衆も加わっていました。

義元は前と後を入れ替えて兵を休めるようにしたように思われます。被害の大きい松平元康隊は後詰に回されて大高城で休息し、本多隊も後詰に回したことでしょう。

朝比奈泰朝隊は棒山か、前進して諏訪山に陣を引き、当然のように漆山にも誰がしかに陣を張らせたと思われます。

平瀬川を挟んで、三浦備後守は中島砦と善照寺を一望できる場所、平子ケ丘に三浦隊が陣取ったと思われます。三浦隊は笠寺守備の兵(陥落後)を引き連れて500~3000人を率いていました。当然、鳴海城の封鎖解除を目的とする今川軍は、中島砦を朝比奈泰朝隊、善照寺を三浦隊、丹下砦を鳴海城の岡部隊、星崎城を葛山隊が担当し、後詰として松平元康隊と本隊が控えているという作戦を練っていました。そうでなければ、本隊をおけはざま山に移動した意味がありません。義元公は織田方の退路を断たれないように中島砦を囲んでいます。

中島砦は平城ですが、大高城へと結ぶ重要拠点です。しかも2000人以上の常駐させることができる大きな砦です。

つまり、鳴海城―中島砦―沓掛城の防衛ラインを確保することが、当初の最大目標だったことが伺われます。史書の多くに、義元公が大高城に向かったとされますが、700人弱しか収容できない小城に5000人の兵力を連れてゆく意味がありません。義元公は沓掛城を午前10時頃に出発していることを考えると、丸根・鷲津両砦が陥落寸前であることを確認して出立したと思われます。つまり、義元公の本命は中島砦だったのです。

(注). 2列で並んで行軍すると1000人の兵士は500mもの長さの隊列になります。5000人なら2.5kmの長蛇になります。歩行速度が4km/hとして、部隊ごとに移動すると4km先の桶狭間に到着するのに2時間弱を必要とします。

<<006桶狭間周辺の地形>>

006

<<007高根山の有松神社「桶狭間古戦場」>>

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大将ケ根(たいしょうがね)には、『迂回強襲説』でおけはざま山に休憩する義元本陣を狙って、信長がこの地に集ったという逸話が残っております。資料には、何も残っていないので参考程度に覚えて下さい。

今川本陣の諸将は、それぞれの山に布陣しておりました。

おけはざま山:今川義元 本隊〔標高65m〕

高根山:松井宗信隊(前衛)〔標高35m〕

幕山:井伊直盛隊(前衛)〔標高50m〕

大池奥:瀬名氏俊隊(左翼)

生山:???隊〔標高26m〕

武侍山:???隊〔標高?m〕

巻木山〔標高38m〕 

太子ケ根山〔標高54m〕

善照寺砦〔標高21m〕

若草山〔標高35m?〕(過去の山名は見つからず、若草山は大高緑地内の山)

前衛の二将の後ろにある中堅の生山(はえやま)、右翼の武侍山(やけじやま)に武将を配置していたでしょう。もしかすると大将ケ根にも布陣させていたかもしれません。当然ですが、おけはざま山から西方の幕山・高根山の稜線に遮られて、中島砦や善照寺を見通すことはできません。

(注).幕山は現在切戸山町にある山となり、地図上の幕山は桶狭間3丁目の巻山に当たる。

<その4に進む>

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