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24. 1560年(永禄3年)今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2

01_2

〔歴史館はこちらへ〕

信長公記の軌跡 目次 

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その1

今川義元討死の事 桶狭間の戦い その2 


今川義元討死の事 狭間の戦い その3 


今川義元討死の事 桶狭間の戦い その4 

■桶狭間の戦い

永禄3519日(1560612日)、尾張国桶狭間で起こった戦いは、織田家と今川家の雌雄を争った戦いとして有名である。

駿河・遠江・三河を平定した駿河国守護今川義元が、尾張へと領土拡大の為に行われ、『信長公記』では4万5千、『武功夜話』では、3万有余余、『北条五代記』では25千、『足利李世記』では1万の軍勢が尾張の国に攻め込んだと記されている。また、近代の日本帝国陸軍の研究では、参謀本部が編纂した「日本戦史」の「桶狭間役」で2万5千と記されている。

果たして、今川義元は、どんな戦略を練っていたのであろうか?

まずは、今川義元の行動を見てみよう。

5月12日 今川義元が今川館を出陣。

5月13日 掛川城で泊。

5月14日 引馬城で泊。

5月15日 吉田城で泊。

5月16日、岡崎城で泊。

『総見記』(織田軍記)は、「十五日に三州岡崎の城に陣す、是にて陣々城々の手分け手配を定めらる」とある。

5月17日、池

5月18日、祐福寺で泊。

桶狭間前日に祐福寺に陣を引いた。『信長公記』では、「今川義元は軍兵を率いて沓懸に参陣」とある。この祐福寺は、武功夜話曰く、「蜂須賀彦右衛門らは裕福寺村長に同道し、百姓になりすまして義元が必ず通る大高まで十五町の街道上で義元一行を待ち受けたところ、義元は午前十時にそこに通りかかった」と出てくるお寺の事です。『尾州桶狭間合戦之事』の写本には「社寺方、合戦の勝利を祝い酒肴を用意し(義元を)接待した」とされていますから、沓掛城に入った義元の元へ各地の寺から祝酒が献上されています。今川義元の供養寺として知られている長福寺などと一緒に祐福寺とも共に安堵状が渡されていたようです。

祐福寺は、浄土宗西山禅林寺派に属し、建久2年(1191)の創建と伝える古刹であり、室町時代の大永8年(1528)後奈良天皇より勅願寺たる旨の綸旨(りんじ)を賜り、このときに勅使左中将経広卿を迎えるために門が造られたという。勅使門とは、勅使が参向する時に勅使の通行に使われる門のことをいう。勅使門は四脚門に次ぐ格式が高い門とされ、義元も合戦の前日に泊まられたと語られています。

移動などの参考として、帝国陸軍の作戦要務令に以下のことが書かれております。

『作戦要務令』によると、旧陸軍歩兵は一時間に4kmのペース(50分歩いて10分休む)で行軍して、一日に六時間から十時間の行軍を行い24~40kmの距離を進みます。

赤軍臨時野外教令『作戦要務令』第十二章・軍隊の移動・第328、「大休止の為、軍隊は行軍命令に応じて道路を離れ、露営又は村落露営の要領を以って分散配置せらる。大休止地点の捜索は予め之を行うものとし、努めて上空に遮蔽すると共に軍隊の利便をも顧慮するを要す(水、木蔭等)。敵と衝突を予想する場合に於いては、展開を迅速ならしめ、不意の敵襲を撃退し得る如く配置を定め、警戒手段を講ずるものとす。」と定める。

作戦要務令というのは昭和13年に定められた軍令であり、具体的には陣中(戦場)勤務の要領と諸兵連合の戦闘についての基本事項を士官の利用を想定して取りまとめたものです。時代は違いますが、物資の輸送方法が違いますが、歩兵は戦国時代と変わりありません。補給などの統制を考えると戦国時代の通常行軍速度は一般に15km/日と言われています。

対する信長は防御側ですから補給の心配はありません。また、信長自身も神速を旨とする速攻を重んじている武将でした。

清須~熱田は三里余、歩兵の通常行軍速度(時速4km)で約3時間、騎兵の通常行軍(時速6km)では二時間になります。

清須~丸根砦は五里十二町余、歩兵の通常行軍速度約5時間20分、飛脚の通常速度(時速9km)では2時間20分、伝騎の通常速度(時速18km)では1時間10分です。

熱田~善照寺砦は一里廿五町余(約7km)、歩兵の通常行軍(時速4km)では約1時間40分、騎兵の通常行軍(時速6km)では1時間10分です。

一千名の軍勢の行軍長径は、約1.18kmの隊列になり、この隊列が展開して戦闘隊形をとるには約廿分弱かかると頭に入れて置いて下さい。

信長は、19日の早朝に清須を出て熱田に到着します。そこで後続を1時間ほど待った後に勝利を祈願して出陣しました。昼前に善照寺に到着し、中島砦に移動、そこから桶狭間に向かって移動します。中島砦から桶狭間山まで約4kmの道のりであり、移動時間は約2時間です。武功夜話のいう迂回路で時間的に可能なのは鎌倉街道を東に移動し、それから南下するルート(約8km弱)しかありません。今川軍に見つからずに道なき道を2時間で移動するのは不可能なのです。もちろん、武功夜話では神輿に乗って遊興を楽しむ御仁ですから、周囲の警戒を怠っていたと考えれば、話の筋は困りません。

今川義元の本隊は、16日に岡崎城に着陣し、翌17日に知立城の池鯉鮒で陣を張ります。約15kmの道のりですから標準的な進軍速度となります。しかし、翌18日は沓掛城まで7kmと非常に短い距離の移動を行い。沓掛城で義元は、乱取りを兵に許可したのではないかと考えられます。『甲陽軍鑑』の桶狭間には、旗を降ろして信長が近づいたが「その日の(事前にあった別の)戦いに勝ったと思った今川軍が略奪に散る中、織田軍が味方のように入り交じり、義元の首を取った」とあります。「乱取り」は、乱妨取り(らんぼうどり)の略称であり、報酬もなく狩り出された農民などが戦利品として略奪を許す行為のことです。村を襲い、食糧や金品にゆうに覚えず、女や子供をさらい売り払うか奴隷にするのが、当時の常識だったのです。

18日、沓掛城に入った義元は、周囲の状況を確認して沓掛城を本陣として作戦を練ったのでしょう。(軍は沓掛城に入り、義元自身と一部は祐福寺で宿泊したのではないだろうか)

一般的に今川が圧倒的に有利な状況であり、信長は成す術もないというイメージが付きまとう「桶狭間の戦い」ですが、天文23年(桶狭間の6年前)まで三河の重原城は、織田方の山岡河内守が城主を務めております。また、織田方の来迎寺城、水野家臣の牛田城、知立城は永禄3年に井伊直盛率いる今川先鋒隊によって落城します。石碑には牛田政興の活躍は見事であったと書かれています。

<<002 牛田城石碑>>

002

永禄3年(1560年)55日に信長が三河の吉良方面へ出動、所々に放火。三河国の実相寺を焼くという記述が残っており、実相寺釈迦堂(じっそうじしゃかどう:西尾市上町下屋敷15)には、永禄3年(1560)織田信長の兵火によって堂宇を焼失し、その後、伽藍が復興されたとありますから間違いないでしょう。来迎寺城、牛田城より随分と南に位置する今川領内で放火したようですが、どの当たりまで放火したのか判りません。

いずれにしろ、永禄334月に井伊直盛率いる今川先鋒隊によって三河の織田方が陥落し、今川軍の知多半島で孤立する大高城と鳴尾城の平定に乗り出すことになるのです。そして、大高城と鳴尾城に近く、大軍を入城できる城が沓掛城だった訳です。

沓掛城は、東西288メートル、南北234メートル(面積67,392平方m)で、惣堀に囲まれた比較的規模の大きな城でした。北方の長久手・岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差し、交通の要衝として古くから栄え、後醍醐天皇が沓掛の住人近藤宗光を召しだし、応永年間(1394 - 1428年)には城が築かれたようです。近藤氏は織田信秀の勢力が強くなると追従し、天文20年(1551年)の信秀死後に、鳴海城主山口教継・教吉父子とともに今川に下りました。

城の規模でいうなら、山口教継・教吉父子の鳴海城(8,432平方m)より、沓掛城(面積67,392平方m)の城主が離反したことの方が重要ではないでしょうか。

沓掛城は鳴尾城まで6.7km、大高城まで7.9kmの位置にあります。織田軍が大高城の方へ移動すれば、鎌倉街道を通って背後から善照寺や丹下砦を強襲できます。その地の利を捨てて南下し、わずか4km先の桶狭間山で陣を引くのは常軌を逸しています。

大高城に入城するつもりだったという説もありますが、大高城(3,392平方m)の小城であり、5000人の兵士を入城させる余裕はありません。つまり、松平元康軍、朝比奈泰能軍の後詰として出陣した以外にあり得ないのです。

鷲津砦・丸根砦を陥落させた今川軍は、

そのまま、中島砦を攻めるつもりだったのか?

それとも、反転して沓掛城に帰城するつもりだったのか?

義元公の考えは、永久に知ることはできません。

001 信長の進軍時間≫

001

さて、旧参謀本部の『桶狭間役』では、突如として尾張に今川義元が侵攻したのではなく、幾度となく小競り合いを繰り返えしていたと示されています。

『信長公記』では、「御国の内へ義元引請けられ候の間、大事と御胸中に籠り候と聞へ申候なり。」から「天文廿一年壬子五月十七日、 一、今川義元沓懸へ参陣。」となって、義元の侵攻の理由を語っていない。

一方、『信長記 (甫庵長記)』では、「爰に今川義元は天下へ切り上り、国家の邪路を正さんとて、数万騎を率し、駿河国を打立ちしより、遠江三河をも程なく従え、恣に猛威を振ひしかば」と世直しの為に上洛する旨が述べられている。

同じように、『織田軍記 (總見記)』も「永禄三年の夏の比、今川治部大輔源義元、駿河三河遠江の大軍を引具し、天下一統の為に東海道を上洛するに、先づ尾州を攻平げ、攻上らんと企てらる」と上洛の意思を書き示している。

物語としては、大軍で上洛しようとしていたとする方が盛り上がる。しかし、『桶狭間役』で書かれているように、『桶狭間の戦い』は尾張と三河の境界線で起きている小競り合いに過ぎない。桶狭間から5年前の天文24年では、三河守護となった吉良氏と斯波氏が同盟を結び、義元は西三河の支配権も怪しくなっていた。

織田と今川の力関係はシーソーのように揺れ動いており、武田信玄の侵攻の前に上杉謙信が立ちはだかったように、今川義元の進撃に織田信長が抵抗し続けていた。

果たして、斉藤道三の押し込めが義元の策略であったかどうかは判らないが、美濃の斎藤義龍が道三を殺め、織田と対立するようになってから、信長は義龍と義元の両面から攻撃を受けるようになり、非常に苦しい台所事情を賄っていた。尤も織田の台所事情とは金銭ではなく、純粋な兵力の不足であった。

尾張は57万石と豊かな土地を持っていた。

さらに、津島や熱田から上がる税は20万石相当の費用を捻出できた。ゆえに尾張の5分の2程度しか治めていない織田弾正家が40万石相当の兵力(約1万人)を揃えることができた。しかし、尾張上四郡、斉藤義龍、今川義元と三者を敵に回していたので、非常に苦労していた訳である。

永禄元年に「浮野の戦い」(尾張上四郡を制圧)を勝利した信長は、尾張の支配権を確立した。このまま尾張の支配権を確実にすれば、益々好敵手となってしまう。支配権が薄い間に攻め込むのは定石と言えた。

義元の侵攻の目的は、鳴海城・大高城を囲む砦を排除し尾張知多郡の支配権を奪い取ること、さらに今川氏豊の領地であった那古野城周辺(熱田を含む)を奪回したいという気持ちもあったかもしれません。

山陽(らい さんよう)が示した桶狭間は、

将士銜レ枚レ枚馬結レ舌(しょうしはばいをふくみ うまはしたをむすぶ)

桶狭如レ桶雷擘裂(おけはざまおけのごとく らいへきれっす)

驕竜喪レ元敗鱗飛(きょうりゅうもとをうしない はいりんとぶ)

撲レ面腥風雨耶血(めんをうつ せいふうあめかちか)

一戦始開撥乱機(いっせんはじめてひらくはつらんのき)

万古海道戦氛滅(ばんこかいどうせんふんめっし)

唯見血痕紅紋纈(ただみるけっこんくれないにぶんけつするを)

と詠いました。

■桶狭間の置ける兵の配置

●織田軍

総大将:織田信長

小姓衆:岩室重休 長谷川橋介 佐藤藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎

馬廻衆:織田越前守 中川重政(織田駿河守) 津田盛月(織田左馬允) 河尻秀隆 佐々成政 (平井長康) (毛利十朗) 毛利新左衛門尉 伊東武兵衛 (水野忠光) 松岡九郎次郎 生駒勝介 蜂屋頼隆 中島主水正 猪子内匠助 金森長近 塙九郎左衛門直政 (飯尾茂助尚清) 浅井新八郎政貞 野々村三十郎 蜂屋兵庫頭 平出久左衛門 服部一忠等々

譜代衆:〔千秋家、毛利家、佐々家、内藤家、平手家、飯尾家〕

柴田勝家 林秀貞 (佐々政次) (佐久間盛重) (飯尾 定宗) (千秋四郎)

旗本衆:簗田政綱 森可成 池田恒興

熱田衆:千秋四郎

丸根砦:佐久間盛重

鷲津砦:織田秀敏 飯尾定宗 飯尾尚清

善照寺砦:佐久間信盛 佐久間信辰

丹下砦:水野忠光(水野帯刀)

中島砦:梶川高秀 梶川一秀

氷上砦:(千秋四郎)

向山砦:水野信元?

正光寺砦:佐々隼人正

星崎城:佐々隼人正

市場城:山口安盛

寺部城:山口盛重

〔知多半島〕緒川城:水野忠政?(誰が城主だったのか不明)

〔三河地区〕重原城:山岡河内守(天文23年(1554)に今川氏により落城)

牛田城:牛田政興(井伊直盛率いる先鋒隊によって落城)

来迎寺城:城主不明(牛田城の隣接する城、落城)

<出陣しなかった武将>

■旗本衆

丹羽長秀:出陣しているが名前は上がっていない。つまり、シンガリ、あるいは東方面の睨みを利かす役目を受けていた可能性が高い。現在の名古屋市天白区島田5丁目あたりに島田城がある。その島田城の牧家の菩提寺に島田地蔵寺があるが、永禄三年(1560)兵火にかかり、焼失したとある。守山城と鳴海城の中間にあり、東の岩崎城の丹羽氏勝を牽制するには、この当たりに牽制する兵がいないと背後から襲われる心配がある。

織田信清:出陣せず〔犬山城主、一門衆〕

生駒家長:〔小折城主、息子が参加〕

(注).岩崎の丹羽氏勝は『東照軍鑑』によると永禄二年(1559)四月二十六日「「丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえて信長自身が平針(天白区)に出陣し、柴田勝家・荒川新八郎らに国境福谷砦を攻めさせたが砦を構えて酒井忠次を配していた松平方に敗れた。」とある。「岩崎面を押さえて」と書かれているように、永禄2年の時点で岩崎の丹羽氏勝は今川方に組みしていたと考えられる。

島田城(名古屋市天白区島田5丁目):城主 牧長義、丹下砦の守備に付く。

植田城(名古屋市天白区植田1丁目):城主 横地秀重・秀政

<遅参組>(武功夜話)

佐々平左衛門、丹羽源助、今井小四郎、桜井甚右衛門、柏井衆、小坂孫九郎(雄吉)、村瀬九左衛門、前野新蔵(直高)、足立彦兵衛、平井久右衛門、吉田四郎兵衛、前野喜兵衛等々二百余人

<その他の武将>

前田利家 毛利十郎 毛利河内 木下雅楽助(織田薩摩守) 中川金右衛門 佐久間弥太郎  森小介 安食弥太郎 魚住隼人(敵首を討ち取った者)

毛利良勝(今川義元を討ち取った者)

服部一忠(今川義元に一番槍をつけた者)

水野信元(刈谷城主、向山砦を任されていたハズなのだが、いつの間にか消えている)

水野忠政(信元の父、天文12年の死没)

水野忠光(丹下砦の砦主、刈谷の水野一族?)

水野清久(水野清重の息子:織田軍で一番首の手柄を取った)

水野元氏(桶狭間後、大高城城主になる)

水野信近(桶狭間後、岡部元信によって三河刈屋城で討死)

牛田政興(緒川水野の家臣)

牧長義(島田城主、丹下砦の守備を任された真木与十郎、真木宗十郎と同一人物とされる)

山口盛重(寺部城主、大内義弘の次男・大内持盛を祖。持盛の子が尾張に移り住んだ)

山口安盛(市場城主、寺部城の山口盛重の兄)

山口盛隆(市場城主である山口安盛の孫で丹下砦を守る)

細作飛人(情報工作要員を五十人も沓掛城周辺にばらまいていた:武功夜話)

蜂須賀小六(川並衆)

前野将右衛門(川並衆)

<織田軍の兵数>

織田信長本隊:織田信長、2,000

・信長直属 300

・馬廻衆  700

河尻秀隆   100人〔馬廻衆〕

佐々成政   100人〔馬廻衆〕 等々

・譜代衆 600

柴田勝家       300人〔下社城主〕

林秀貞        300人〔沖村城主、沖村の土豪〕

 ・旗本衆 400

森可成    200

簗田政綱    50人〔旗本衆〕

金森長近    50人〔旗本衆〕 等々

先駆隊:佐々隼人正(政次)・千秋四郎、300〔井関城主、熱田宮司〕

善照寺砦:佐久間右衛門他1人、300

中島砦:梶川平左衛門、500

丹下砦:水野帯刀他6人、1,000

丸根砦:佐久間盛重、200

鷲津砦:織田玄蕃、飯尾近江守父子、300

星崎城:???、 300

また、鳴尾城を囲むように、寺部城・市場城・桜中村城・山崎城・島田城・植田城があり、200500人の守りを残していたと思われ、1,2002000人が後方に控えていた。

よって、この地区の織田勢は60007000人くらいであったと思われる。

(注1).市場城:山口左近太夫安盛は織田方で、丹下砦(名古屋市・緑区)を守っていました。寺部の近隣にある今川方の戸部城、笠寺城は廃城。

<武功夜話>

織田信長、2000

善照寺砦:佐久間右衛門他1人 1,700人(中島を含む)

丸根砦:佐久間盛重、 400

鷲津砦:織田玄蕃、飯尾近江守父子、 600

<帝国陸軍参謀本部編纂による>

本隊:織田信長 4,000人程度

鷲津砦:織田信平  兵数不明、400余か

丸根砦:佐久間信盛 兵数不明、400~700余か

丹下砦:水野忠光  兵数不明

善照寺砦:佐久間信辰 兵数不明

中島砦:梶川一秀  兵数不明

●今川軍

今川家当主(駿府城留守居):今川氏真

総大将:今川義元(前今川家当主)

駿河衆:<義元公をお守りする本隊中の側近衆> 2000

朝比奈親徳△○、朝比奈秀詮○、300人 (駿河東部の旗頭)

庵原之政○、庵原忠縁○、庵原忠春×、庵原忠良×、300人 (駿河庵原城主)

蒲原氏徳×、300人 (駿河東部、蒲原城主)

久野元宗×、300人 (駿河東部、久野城主)

久野氏忠×、300人 (駿河東部、江尻城主)

関口親永○、300人 (駿河東部、持船城主)

義元公の馬廻衆 200人くらい?

吉田 氏好○、1人 (軍奉行)

一宮宗是×、 ??? (持舟城主の父?)←<持舟城って、関口親永>

江尻親良×、 1人 (義元の旗本)

斎藤利澄×? 1人 (義元の旗本?)

<義元公の周辺を守る側近衆> 12002000

長谷川元長×、300人 (駿河西部、小川城主)

由比正信×、300人 (駿河西部、徳一色城主)

富永氏繁×、300人 (遠江東部、相良城主)

飯尾乗連×、300人 (遠江中部、曳馬城主)

岡部長定○、100人 (???)

藤枝氏秋×、100人 (前備侍大将)

(他にも名が残っていない者がいると思われる。者を入れて2000人かも)

<本隊先発隊> 1000

遠江衆:瀬名氏俊○、300人(駿河、瀬名館)

三河衆:本多忠高?、700人(忠高は存命していないので本多家の誰か)

<先鋒隊> 2000

遠江衆:井伊直盛×、1000人 (遠江国人、井伊谷城主)

三河衆:松平元康○、1000人 (安祥松平家六代当主)

石川家成、酒井忠次(元康の家臣)

<中堅隊> 4000

遠江衆:松井宗信×、1000人 (遠江国人、二俣城主)

朝比奈泰朝○、1000人 (遠江、掛川城主)

三河衆: 松平政忠×、1000人 (長沢松平家第7代当主)

本多忠勝、○、1000人 (尾張知多、横根地頭)

本多忠真○、(忠勝の目付役)

<鳴海城> 500

城主:岡部元信○、100人(鳴海城の城番)

尾張知多衆:山口教継?△、 500人?

<大高城> 500

城主:鵜殿長照○、500人 (大高城の城番、三河東部、上ノ郷城主)

<沓掛城> 1500

城主:浅井政敏○、1500人 (沓掛城の城番)

(近藤景春△、500人?(沓掛城支城の高圃城城主、元沓掛城主))

<鳴海城周辺> 1000

三浦義就×、3001000人?(元星崎城〔笠寺砦〕の守将、駿河東部の支配地を持つ)

<清洲方面展開> 1000

駿河衆:葛山氏元○、1000人 (駿河東郡、葛山城城主)

葛山信貞○

義元本隊   2000

本隊側近衆  2000

本隊先発隊  1000

先鋒隊    2000

中堅隊    4000

知多既存兵力4500

・鳴海城   500

・大高城   500

・沓掛城  1500

・鳴海周辺 1000

・清洲展開 1000

今川軍延べ 15500

各国人や豪族を束ねている武将は、約1000人と考え、城主は最低でも1万石以上と推測し、平均すれば300人程度を引き連れて参戦できます。名前が上がっている主な武将や城主にこれを当てると以上の兵力となります。

その他に岡崎城、数千人、知立数千人、横根城500人、今岡城500人、重原城1,000人、池鯉鮒上500人、安城500人等々である。特に水野氏が裏切る可能性が高いので知立付近の兵を待機させるのは必定である。また、三河や遠江の豪族が反旗を翻す可能性を考慮すれば、駿河の氏真に余力を残しており、掛川城や岡崎城に待機させて置くのも普通である。それらの数に加えると二万を超える。

<桶狭間 死者>

死者は、今川軍2500人、織田軍830 ほどで、要した時間は2時間という

(注1).『治世元記』、『朝野舊聞ほう藁』には、桶狭間に向かう先発隊は、大将を井伊直盛,松平元康に五月十日に駿府を出発とある。実際、松平元康の兵は三河にあり、駿河出発する時は、関口氏あるいは瀬名氏から借りた兵100人程度であったと思われる。

(注2).駿河三浦治郎左衛門範高、今川仮名目録のそのなかに「一、三浦次郎左衛門尉、朝比奈又太郎、出仕の座敷さだまるうえは、自余の面々は、あながちに事を定むるに及ばず。見合てよきように、相計らはるべきなり」とあり、三浦氏は朝比奈氏とともに、今川家の筆頭第一に挙げられている。三浦範高の子に三浦氏員、氏員の子に正勝(長男)、貞勝(次男)、氏満(三男)がいる。長男正勝は後に家康に仕え、その子を正次・直信としている。次子貞勝は上野介を称し、氏員ともされ、氏員は横山城主で「今川分限帳」に一万六千石とある。のち武田氏に属した。三子の氏俊は次郎左衛門を称し、剃髪して三休と号した。武田信玄に仕え、その後小田原の北条氏直につかえ、北条氏没落後は浪人となった。その後、家康の旗本となり、寛永七年(1630)八十七歳で没した。氏俊のあとは三男儀持が継いだ。範高の子、正勝(長男)、貞勝(次男)、氏満(三男)が桶狭間に出たかは定かではない。亜流の三浦正俊は今川氏真の後見役として駿府に残っている。

三浦義就は左馬助称し、三の山赤塚合戦のおり、「笠寺へ砦、要塞を構え葛山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎、五人在城なり。」と笠寺の守衛を任された一人である。尾張大府市深谷氏の文献では、三浦治郎左衛門貞時とされている。

義就は尾張攻略の先遣隊の大将であり、5000人の兵を率いて、善照寺と中島砦の目と鼻の先に布陣しました。貞時の資料は非常に少なく、討死したとされますが、家臣が身代わりとなり、本人はむかし助けた領民に匿まわれて髪を剃り、三浦から深谷と姓を変えて土着したそうです。

(注3).水野十郎左衛門信近1000人?の兵力の記録にない。水野信近は基本的に織田と同盟を結び、裏で今川と繋がっていると考えられる。義元や道三から送られた書状が多く残されており、好を通じでいたことは明白である。しかし、永禄2年3月に水野家臣の牛田城、知立城を落されていることから、3月時点まで織田との同盟は決裂していなかったことが伺われる。大高城の水野氏も同族であり、大高城が今川に寝返ったとして、信近の協力を得られることは非常にやり易くなる。大高城を取り囲む正光寺砦、向山砦、氷上砦の内、向山砦は信近が守っていたと思われる。松平元康は信近の裏切りによって易々と大高城に兵糧入れを完了し、丸根砦の攻略にあった。その後の消息は不明であるが、義元の性格からして中島砦の攻撃を命じただろう。しかし、信近は中島砦から雨の中を川沿いに上ってゆく信長を見逃したのではないだろうか。(豪雨の為に気が付かなかったとか惚けて)

(注4).尾張別働隊として服部左京助が武者舟二十艘(二之江の一向宗徒が黒末河口へ漕ぎ寄せたとある)

(注5).知多半島の今川方に長尾岩田氏(半島南部)の寺本花井氏である。知多市八幡町堀之内にある寺本城は、花井播磨守と嫡男勘八郎の城である。別名堀之内城・青鱗城とも呼ばれる。信長が村木攻めの帰りに攻めたが落すことができなかった。(寺本城の北1.2㌔にある花井惣五郎の篭もる薮城は、村木攻めの帰りの信長に敗れる)

(注6)戦闘に参加しない西三河衆もいた。今村彦兵衛勝長、渥美太郎兵衛友勝は大高へ輜重のみである。

(注7).桶狭間で名前が出て来ない東三河衆のは田原の戸田氏、豊川の牧野氏、奥三河の菅沼氏?である。彼らの動向は非常に気になるが、今のところ資料が見当たらない。

(注8).清洲方面遊撃隊の葛山氏元は駿東郡の国衆ですから5000人をかき集めるのは、さすがに無理がありそうです。笠寺観音で布陣し、信長を見過ごしたとも言われています。笠寺周辺を奪われた後に鳴海城などを拠点として奪回戦をやっていたのかもしれません。兵糧を考えると賄える兵数は5002000人当たりが限界でしょう。

(注9).戦における輜重は、近距離の三河などは不要であり、一方、遠江や駿河の部隊には必要になります。義元と周辺守備兵の総数は約2万人とすると、輜重部隊(武具・糧食・燃料など運ぶ部隊)は、兵士に対して1~0.5の割合で必要となります。守備兵まで含めると総勢四万人余と言われている総兵力もあながち嘘とも言えないかもしれません。

(注10. 本多忠勝は松平元康の家臣であり、本来、お側を離れないと考えたいのですが、本多氏の本領は尾張横根郡と粟飯原郡の元地頭であります。この横根郡は116299合の小さな村でありますが、水野氏の勢力地であり、沓掛城の南、桶狭間の東に位置します。そんな危険な場所を放置する訳もなく、義元公なら味方に引き入れ、兵を拠出させていると思われます。元地頭の本多氏は、彼らを引き連れるのに丁度いい人材ではなかったのではないかと考える訳です。

(注11.丸根城は富田左京亮の居城とされるだけで詳細は残っておりません。

<武功夜話>

義元本隊(義元、三浦義就) 五千

丸根砦攻略隊(松平元康) 一千

鷲津砦攻略隊(朝比奈康朝) 二千

鳴海城守備隊(岡部元信) 三千

大高城守備隊(鵜殿長照) 二千

沓掛城守備隊(浅井政敏) 千五百

清洲先遣隊 (葛山信貞) 四千五百

これで合計一万九千である。

(注).兵数の後ろに<?>マークはあるのは未確認の推定数

<帝国陸軍参謀本部編纂による>

本隊:今川義元  兵約5,000

丸根攻撃兵:松平元康  兵約2,500

鷲津攻撃兵:朝比奈泰能 兵約2,500

鳴海城守兵:岡部元信  兵数不明、700~800か

大高城守兵:鵜殿長照  兵数不明

沓掛城守兵:浅井政敏  兵数不明、1,500余か

援兵:三浦備後守正俊 兵約3,000

清洲方面前進兵:葛山信貞  兵約5,000

〔今川方の主力武将の領地〕

松井宗信:遠江(二俣城)

朝比奈泰朝:遠江(掛川城)

井伊直盛:遠江(井伊谷城)

飯尾乗連:遠江(曳馬城)

瀬名氏俊:遠江

松平元康:三河(岡崎城)

鵜殿長照:尾張(大高城、本領は三河上ノ郷)

近藤春景:尾張(沓掛城)

岡部元信:尾張(鳴海城)

●織田VS今川の兵力

様々の兵数が歴史的記録から残っており、また参照されてきました。しかし、未だに確定に至っておりません。桶狭間の動員された兵力はいったいどれくらいだったのでしょうか?

・『信長公記』織田二千不足、今川四万五千

・小瀬甫庵の『信長記』織田三千、今川数万騎

・『甲陽軍鑑』二万余、

・『武功夜話』三万有余、

・『道家祖看記』織田二千あまり、今川六万余

・『享禄以来年代記』織田七百余、今川二万余

・『徳川実紀』『武徳編年集成』『総見記』四万余、

・『改正三河後風土記』四万五千、

・『絵本太閤記』五万余

・『三河物語』三千

・『定光寺年代記』今川一万人被打(討死数)

・『足利季世記』今川一万余

・『家忠日記増補追加』織田三千余、今川四万余

・帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』二万五千

・『国高見る兵力』

駿河遠江三河約70万石 一万七千五百

駿河 15万石  3750人

遠江 26万石  6500人

三河 29万石  7250人

尾張 57万石  一万四千二百五十

(注). 旧参謀本部の『桶狭間役』では、1万石あたり250人:『明智光秀家中軍法』軍役は百石につき六人、戦闘要員〔騎馬5人、槍10人、鉄砲5人+α、合計2030人〕一万石につき200300人(つまり、250人)、豊臣軍の小田原攻め時の動員数は、100石あたり5人の軍役、『日本戦史 関原役』(1911)関ヶ原の兵数として300/万石、江戸幕府が平時に定めた軍役『徳川禁令考』1万石当たり300

●城の規模

広さを一人当たり、半畳分(5平方m程度)とし、単純に計算すると、大高城は3392平方m/5平方mとなり、678人が収容できます。同様に計算すると以下のようになります。

・清洲城 18,069平方m 3600人

城主:織田信長

(末森城 32,000平方m6400人、東西約200メートル、南北約160メートルの平山城、廃城)

・大高城  3,392平方m 678人

城主:記述無し

・鳴海城  8,432平方m 1686人

城主(一人):岡部五郎兵衛

・沓掛城 67,392平方m 13498人

城主:記述無し

・笠寺砦  4,860平方m 972人

城主(五人):岡部五郎兵衛、かつら山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助

・善照寺砦 2,160平方m 432人

城主(二人):佐久間右衛門、佐久間左京介

・丹下砦  6,552平方m 1310人

城主(六人):水野帯刀、山口ゑびの丞、柘植玄蕃頭、真木与十郎、真木宗十郎、伴十左衛門尉

・中島砦 13,195平方m 2639人 

城主(一人):梶川平左衛門

・丸根砦  1,008平方m 202人

城主(一人):佐久間大学

・鷲津砦  675平方m 135人

城主(三人):織田玄蕃、飯尾近江守父子

・星崎城  3,536平方m 707人

城主:記述無し

●周辺の山等々の標高

桶狭間山標高65m 

高根山 標高54m

幕山 標高51m

愛宕西 標高47m

生山 標高40m丘陵地

武路山 標高30m

大形山 標高44.4m

漆山 標高20m程度

諏訪山 標高21m程度

桶狭間地区 標高30m

太子 標高39m

太子ケ根 標高51m

文根山(若草山) 標高40m 〔大高緑地公園〕

善照寺砦 標高25.4

中島砦 標高5

鳴海城 標高20m

釜ケ谷 標高5.4m

<その3>

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