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2016年10月

歴史館にようこそ!

この歴史館では、過去の偉人な歴史的な話題をまとめています。

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<この歴史館マークが目印です>

経済から見る歴史学 日本編

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2016/10/post-8f38.html

経済の視点から歴史を再検証しております。

縄文・弥生編から古墳時代・・・・現代へと、経済活動の視点から見ると歴史の必然と真実が浮き彫りになり、新しい歴史に出会えるかもしれません。

上念司 経済で読み解く明治維新の概略

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-2ed0.html

ご存じ上念司さんの『経済で読み解く明治維新』の概略本であります。上念さんが書き損ねた裏舞台も少し追加して、概略と解説を加えています。

信長公記の軌跡 目次

http://hitokuti2.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-b294.html#_ga=1.32162422.97874448.1452047073

信長の一生を書き綴った『信長公記』を詳しく解説しております。歴史の書かれている怖い信長は嘘だらけ、本当の信長を見つける旅です。

桶狭間までが遠いのです。

過去ブロク

通州事件とプロパガンダ 

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-031a.html

石原莞爾の中国論

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-37cd.html

さくらさく この花の起源

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0dce.html

《東田伝》東郭先生とオオカミ

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-decf.html

和を以て貴しとなす

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-8391.html

歴史の中に常に答えはある。

歴史は人類の成長記録のようなものであり、人は人であるのは歴史があるからである。動物と人との違いは、過去を振り返って反省できることに限る。

しかし、大半の人類は歴史に興味を持たない。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルはこう言った。

We learn from history that we do not learn from history.

(歴史を学ぶと、我々が歴史から学んでいないことが分かる)

歴史には人類の苦難が残されている。

文明は進化と退化を繰り返して、同じ螺旋の中をぐるぐるとめぐっている。歴史の紐を解けば、すべての答えが返ってくる。

Photo

歴史の中には、多くの成功談と失敗談が残っている。

それを検証すれば、おのずと答えは返ってくる。しかし、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルが言う通りであり、大半の人は歴史を学ぼうとしない。

初代ドイツ帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクは言う。

Nur ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.

 Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.

(愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。)

なんと、この世に愚者の多いことか。

経済から見る歴史学 日本編

経済から見る歴史学 日本編

経済から世界を見ると、世界の動きが色々と見えてきます。

聖徳太子の登場も、平清盛の躍進も、織田信長の登場も、すべて歴史の必然であります。

お金の動きは時代の動き!

歴史の教科書に載っている記憶の符号ではなく、歴史の流れを探して下さい。

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<この歴史館へGO! 歴史のブログ>

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-12 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 12章 古代の通貨って、何?
>11章へ戻る 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄

12.古代の通貨って、何?

縄文・弥生人を通じて、倭国に通貨というものは存在しません。通貨(貨幣)とは、商品交換の際の媒介物で、価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3機能を持つもののことであります。古代日本、縄文人や弥生人には統一された価値観が存在しなかったので価値の尺度は曖昧でありました。ゆえに通貨というモノは存在せず、モノの価値が通貨の変わりもやっていました。

釣り針などの接着剤として有効な天然のアスファルト、冬の寒さを防ぐ毛皮、色取りどりに着飾るめずらしい貝殻、保存に便利などんぐりなどの食糧などなどが取引の材料になります。つまり、物々交換であります。弥生時代に入ると鉄が加わり、鉄が通貨のように使われることもありました。

古代日本の縄文人は一定の定住地を持たず、狩り場を求めて漂浪していたと考えられていましたが、遺跡の数々から定住型の縄文人がいることが判り、さらに埋蔵物より当時の常識を覆したのです。

礼文島の船泊遺跡で発見された縄文人の交易品には、3,800~3,500年前の縄文時代後期の竪穴式住居の跡と墓があり、銛とその先端につける矢じりの接着に、天然のアスファルトを使っていました。天然のアスファルトが産出する地域は限られおり、このアスファルトの成分を分析したところ、どうやら秋田や新潟などの国内産とは違うのです。

また、7号墓に埋葬されていた男性が身につけていたものには、ヒスイのペンダントがありました。ヒスイは新潟県糸魚川周辺が産地であり、はるばる礼文島まで持ち込まれたことになります。さらに、イモガイ、マクラガイやタカラガイは南の暖かい海に生息する貝で、日本では九州や沖縄でしか採れません。つまり、礼文島の縄文人は海外から天然のアスファルトを輸入し、南の新潟のヒスイや九州のめずらしい貝を大陸に売っていたことが伺えるのです。

日本と大陸は海に阻まれており、沖縄列島を経由する海の道、対馬海峡を渡る朝鮮半島を経由する道、そして、北の北海を渡る道しかありません。北の北海を経由する道において、この礼文島は中継地となっていました。

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〔礼文島縄文人の交易品〕(最北に生きた縄文人HPより)

これは別に礼文島の縄文人が特別だったのではありません。同じように岡山の三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石・岩手県久慈産のコハク・秋田県産のアスファルト・新潟県姫川産のヒスイが発掘されています。

縄文・弥生時代、それらの物資を運んだ者を中華の者は倭人と呼んでいました。倭人の歴史は古く、最も古いものでは、中国は燕の時代(紀元前1100年頃 - 紀元前222年)であり、「燕の鉄は倭人が運ぶ」と残されております。

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〔倭国の支配地〕

古代の船は人力を漕いでおります。1日に50km程度を移動すると、夜に陸揚げして船の点検と体力の回復を図ります。ゆえに古代の倭人は50km以内に中継地となる村を確保していきました。北は北海道、東は東海、西は中国の山東、南は台湾近海まで交易圏として持っていたようです。

上の勢力圏は、沖縄列島ルート、対馬海峡ルート、北海ルートの内、最も勢力を誇った対馬海峡を勢力圏に治める支配地です。陸を治める部族とは、支配地が異なるので諍いはあっても紛争へと発展することはありませんでした。むしろ、「燕の鉄は倭人が運ぶ」と言ったように、共存共栄の関係にあったと思われるのです。

一般的に縄文人は狩人生活を生業とし、弥生人は稲作を主食としたとされていますが、縄文人の遺跡からドングリやクリ、クルミ、トチの実などを大切な食料としていましたが、ツキノワグマ、サル、キジ、ヤマドリ、木の実や果実、野草などの山の幸、魚、貝、河豚(イルカ)、クジラの海の幸の遺跡も出土しています。

真脇遺跡のイルカ漁では、285頭ものイルカ骨(前期末~中期初頭)が出土しております。真脇遺跡は縄文時代の前期(約6000年前)から晩期(約2300年前)までの実に約4000年間、繁栄を続けた地であることが判明したことにより、食糧を求めて移動性の高い生活をしていたと思われていた縄文人のイメージは払拭され、長期定住型の縄文人もいたことが証明されたのです。

縄文人が285頭ものイルカを捕獲するには、江戸時代に行われていた七尾湾内へ追い込む『追い込み漁』を行う必要があり、富山湾には春から秋に掛けてイルカが押し寄せてきます。江戸時代に描かれた真脇のイルカ漁には、多くの集落から船を出し合ってイルカを追いこんでいく姿が描かれております。

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〔能登国採魚図絵 真脇のイルカ漁〕(イルカ漁のムラ 真脇遺跡HPより)

縄文人達も同じように、多くの部族が集まって漁をしたと考えるべきでしょう。つまり、縄文人は1つのピラミッド型の支配体制なく、横に広がる巨大な共存共栄のコミュニティーを形成したいたことが伺うことができるのです。

そして、弥生人と共に稲作がやって来たと言われていますが、最古のものとしては、美甘村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)に土器の胎土中から検出されたイネの植物珪酸体(プラント・オパール)が出土しています。この他にも縄文時代後期中葉(約4000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡などもがあり、中国で発掘された時期の内、かなり早い時期から日本に伝来していたことが伺われます。

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〔稲作の起源〕(佐藤洋一郎著『DNAが語る稲作文明』より)

倭人の流通能力が如何に高かったのかということが伺いしれるのです。そして、秦に敗れた韓が、漢に敗れた秦が、魏に敗れた呉などなどが、日本に渡来して文化を伝えているのです。シルクロード(絹の道)で有名な大陸を挟んで東西の交易が為され、秦、漢、あるいは大唐帝国の主要な貿易品であった絹は門外不出の秘密であり、紀元前3000年に始まった製法がヨーロッパに伝わるのは6世紀になってからです。それほど貴重な製法を倭国は持っていました。景初2年(238年)に朝貢して親魏倭王の封号を得えた女王卑弥呼の後継者である壹與は、魏国に奴隷30人、白珠五千孔、大句珠二枚、異文雜錦二十匹を朝貢しているのです。

異文雜錦とは、「魏志倭人伝」「晋書倭人伝」等に“桑を栽培し蚕を飼い、布を織る”とあり、間違いなく絹織物でありました。倭国は真珠やヒスイや貝などの貴重な品を産出する国であると同時に、絹や麻を織ることができる技術大国でもあったのです。

縄文人の暮らしは常に移動する為に質素な生活などではなく、定住地を定め、栗や米などを栽培し、狩りや漁でイノシシやイルカの肉などを食し、四季折々の非常に豊かな食生活をしており、貝や勾玉、ヒスイなどのあふれる装飾を身に付け、村々がコミュニティーを形成して、全国に通じる流通網を持っていました。

縄文人は四方を海に囲まれていた為に外敵の心配がなく、自給自足の生活を確立しながら、余剰を交易によって、貴重な品を交換するという生活を送っていたのです。ゆえに通貨という概念は生まれませんでした。ドングリ、稗、粟、鉄、反物、天然アスファルト、めずらしい貝殻など、物産そのものが通貨の代わりであり、物々交換が基本だったのです。

秦の始皇帝が斉国の方士である徐福(じょふく)に命じて、不老長寿の薬を求めて蓬莱山を目指します。、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記しているように倭国に蓬莱山があるとされ、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったと残されているのです。

この徐福伝説が日本の至る所にあり、青森県の小泊の徐福の里から尾崎神社、秋田の赤神神社、山梨の河口湖浅間神社、愛知の熱田神宮、三重の徐福宮、和歌山の熊野本宮大社、京都の与謝郡伊根町、福岡の八女市童男山古墳、宮崎の徐福岩、鹿児島の冠嶽園など訪問地、佐賀の徐福伝説の地等々があるのは、流通経路がしっかりとしていたからです。もちろん、徐福一代でなしたのではなく、徐福の子孫が受け継いで不老長寿の薬を全国に求めた結果だったのでしょう。

紀元前3世紀から大陸からの渡来人が多くなり、日本の中にあった弥生文化も大きく大陸の影響を受けるようになってゆきます。

三国志魏書の東夷伝弁辰条には、「国、鉄を出す。韓、濊(ワイ)、倭皆従って取る。諸の市買には皆鉄を用いる。中国の銭を用いるが如し」と記されています。前漢時代の王莽(おうもう)がつくった銅貨が対馬・北九州・岡山・大阪の遺跡などから多数出土しているのは申し上げたとおりでありますが、結局、一時代のみで終り、弥生時代後半から古墳時代の日本では、物々交換が主流であり、その中でも鉄が銭のような意味合いで使われていただけであります。

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国家、あるいは、支配者というべきものが存在しないとき、貨幣はその物の価値で取引きされます。ブラックマンデーやリーマンショックのような通貨危機などが起こると金などの値段が吊り上げってゆくのは、貨幣の支配力が低下した場合を恐れて現物を購入するという人心心理であります。ドルや円がただの紙クズになるのを本能的に恐れているのです。

同時にアメリカの軍事力が飛びぬけて強力であるが為に、その軍事的な支配力がドルの価値を支えているとも言えるのです。

貨幣・通貨というものは、物と交換できるという信用取引の1つであり、手形や口約束も個人で行う信用取引の延長線上にあり、2つは違うようでまったく同じ事であります。この貨幣は複数の取り扱い者が同時に同じ価値を共有するところに利便性があり、物々交換で起こる輸送ロスを省いてくれるのです。

しかし、国家(共同体)と流通網を信用力で結ばれているだけの関係は、信用を失えば、たちまちに崩壊する危険を孕んでいます。

現在、世界中にドル・ユーロ・円などの通貨が様々の通貨と交換されていますが、この流通が如何に微妙な信用という土台の上に存在しているのかということを再認識しなければならないのです。

もし、異常気象などで大干ばつが発生した場合、流通網が崩壊し、各国は自国民の食糧やエネルギーの確保に躍起になるでしょう。輸出そのものが規制されれば、大金を出しても食糧は変えず、流通網は簡単に崩壊します。

そうです。

通貨は一瞬で崩壊するのです。

衣・食・住、そして、現代ではエネルギーを確保する手段を常に持たない国家は、いつ崩壊するか判らないのです。

そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、歴史的に見て、突然に氷河期が襲ってくるのは珍しいことではありません。隕石の落下、大規模火山の噴火、(磁場不調による)宇宙線の急上昇による雲の大量発生は万年周期で起こっています。明日に起こっても不思議ではありません。そんな薄氷の上に我々は存在しているのです。

そういった意味で、流通網を持ちながら貨幣経済に頼らず、衣食住を自給自足に近い形で保っていたことが、縄文人や弥生人の時代を長く保っていた秘訣なのかもしれません。

現代に置き換えるなら、衣食住、そして、エネルギーを一国として持ってさえいれば、他国との干渉を受けずに自国の利益を守ることができるのです。

外国である中華や半島と流通を広く持っていた倭人は、知恵と情報を得ることによって、大陸と同じように栄えていました。

現代の国家においても、衣食住を整え、エネルギーをある程度は自前で用意できるようにすることが、古代の縄文・弥生文化から読み取れるのです。

ひとまず、第一幕<縄文・弥生時代>を終わらせて頂きます。

次は、<古墳時代>です。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-11 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 11章 古代朝鮮三国の年表
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11.邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄

ヤマト王朝が成立したのは2世紀後半から3世紀と思われます。国名は『奈良=那羅=奴羅=奴国=ナラ』です。葉集、続日本紀、日本後紀、日本霊異記、平安遺文、聖徳太子平氏伝雑勘文では、乃楽、乃羅、平、平城、名良、奈良、奈羅、常、那良、那楽、那羅、楢、諾良、諾楽、寧、寧楽、儺羅で表記されており、奈良が奴国を意識したのでは明らかでしょう。

神武天皇がヤマト王朝を成立して間もなく、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことを『欠史八代(けっしはちだい)』と呼び、事績の記載が極めて少ないため存在すら危ぶむ声が多く上がっています。

しかし、私は決して欠史八代が架空の人物と思いません。時代には大きな齟齬があります。古事記を遡っていけば、神武天皇は紀元前660年に即位され、8代孝元天皇が崩御されるのは紀元前158年頃になってしまいます。そして、14代仲哀天皇(178-200)の后である神功皇后が邪馬台国の卑弥呼であるという設定になってしまうのです。

しかし、神功皇后の子である応神天皇がヤマトに帰還し、その子である仁徳天皇が即位されるのですが、この仁徳天皇が倭の5王の一人である『讃』と言われています。この辻褄を合わせる為に、応神天皇は110歳まで生き、仁徳天皇は142歳まで生きていたことになるのです。欠史八代も往々にして長寿であります。

5代孝昭天皇 113

6代孝安天皇 137

7代孝霊天皇 128

8代孝元天皇 116

9代開化天皇 115

10代崇神天皇 120

11代垂仁天皇 139

12代景行天皇 143

13代成務天皇 107

この矛盾をグラフにして、改めたのが『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違いです。

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〔『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い〕(『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い 第二章  『日本書紀』の実年代より)

これは神武天皇が2世紀から3世紀の時代の人物である根拠であると同時に、時代背景の根拠となります。

同じ時期に朝鮮半島も馬韓・辰韓・弁韓から百済・新羅・加羅などへ転換になり、民族大移動が頻繁に起こっていたからです。しかも船が大型帆船への時代へと移り、時代の転換期に差し掛かっていたのです。

神武天皇がヤマト王朝を立ち上げて、邪馬台国と狗奴国連合(ナラ:ヤマト王朝連合)の戦いも佳境に入りました。本来ならここで邪馬台国が狗奴国に降って終りになるところだったのでしょうが、神武天皇が亡くなると、狗奴国とナラの間で確執が生まれます。

九州は日向・霧島地方を治める神八井耳命とナラヤマトの長子である神八井耳命との間で、どちらが長であるかという問題が起こったのです。記紀では、これを神八井耳命の反乱としています。結果として、長子である神八井耳命が討伐できず、代わって弟の神渟名川耳尊が討伐に成功したことから、神八井耳命は王位を弟に禅譲して、2代綏靖天皇が誕生したのであります。

そんな内輪揉めをしている間に、高句麗の第15代美川王が国家を再建して、遼東から朝鮮半島を奪回してゆくのです。中国も魏国が滅んで西晋に変わりますが、304年に西晋の混乱に乗じて匈奴の大首長劉淵が南下します。そうなると河北や山東の民に甚大な被害が出るのです。

秦・漢の時代には約8000万人が西暦280年には1600万人と5分の1まで激減したという記録があり、中華の民は飢えて死に、あるいは戦果に巻き込まれて亡くなってゆきます。しかし、その中でも内政の混乱や北方民族の南下による被害を避けて、新天地を求める民衆も多かったのです。中華の難民は渤海を渡って朝鮮半島に及び、さらに対馬を渡って倭国へと流れ込んできたのです。その騒乱が百済や新羅を生み、倭国も大きな変革を促したのです。

さて、神武天皇の東征は、東の国々を味方に付けるというリクルートみたいなものでした。紀元前2世紀の天孫の国譲りは、北九州大分県の九重・由布火山の大噴火による集団疎開であり、民族大移動でしたが、神武天皇は味方を増やす旅でありました。

もちろん、神武天皇の下には『八咫烏』の旗を持つ一族が付き従っていた訳ですから、朝鮮半島、あるいは中国の北部となんらかの関係がありました。この『八咫烏』をシンボルにしていたのが、高句麗の初代王である東明聖王(とうめいせいおう)、諱は朱蒙(しゅもう)と言います。

紀元前108年に漢の侵略により古朝鮮国が滅亡し、国を失った流民たちを率いて漢に抵抗するのが民族の英雄ヘモス(解慕漱)でありました。彼は河伯(ハベク)族の娘ユファ(柳花)と結ばれ、ユファはヘモスの親友で扶余(プヨ)の太子クムワ(金蛙)に保護されて男児を出産し、チュモン(朱蒙)を産んだとされています。朱蒙の名の由来は扶余の言葉で弓の達人と言う意味です。

扶余で頭角を現した朱蒙は、彼を危険視する者から逃れる為に友と共に扶余を捨てて東南へ逃れます。昇骨城(現遼寧省桓仁県五女山城)を築き都とし、八咫烏をシンボルとして戦場を駆け回り、高句麗を建国したと言われます。

朱蒙を助けた扶余は部族連合のようなものであり、扶余(ふよ)、濊(わい)、貊(はく)、狛(こま)族などがいました。その中心部族である扶余(=ツングース語で鹿)は鹿を神聖視し、狛は三本足のカラスを神聖視していたようです。朱蒙と共に歩んだのは、狛族の者だったのかもしれません。

もう1つ、八咫烏をシンボルとしているのが、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を始祖とする天神系氏族の賀茂氏です。賀茂氏の出身地は中国大陸の北西から東北にあった『一目国』です。「一目」の由来は、坩堝で鉄などを作る時、閃光から目を守るために片目をつぶる習慣があったからなのですが、古代中国の地理書『山海経』の海外北経によると、一目人は人間の姿をしているが、目は顔の真ん中にひとつだけついていると言われ、姓は威(い)、古代中国の帝・少昊の子孫であると言われています。キビを食べている習慣があり、人々はこの国を怖がって、鬼国(きこく)とも呼んでいたと言われます。

この賀茂氏の祖を筑紫では「八丁様」といい、山城の国では「加茂の神」と言います。『賀茂神社の葵祭』の由来は、もともと筑紫の背振神社で行われていたのを、天智天皇がご覧になって京都でも真似をして始めたことにあります。

神武天皇に従った八咫烏がどんな経路で辿り着いたのかは判りませんが、高句麗と百済は兄弟国のようなものであり、「隋書」百済伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人」(百済の先祖は高麗国より出る。そこの人は新羅、高麗、倭などが混在しており、また中国人もいる)とあるように多人種混住国家であり、百済を経由して倭国にやって来たと考えるべきでしょう。

神武天皇は臣下に土地を別け与えておりましたから、渡来系の臣下は新天地に一族を呼び寄せます。西晋が崩壊し、混乱する河北や山東から溢れ出た難民や朝鮮半島の戦果を逃れてきた民が大型帆船に乗って倭国に上陸したのです。

2~3世紀に70~80万人の倭国が4世紀には150万人へと飛躍的な人口増加を起こします。これは高地に集落を作っていた遺跡郡が沼地などの稲作に適した低地に移動した為に起こった現象ですが、誰も住まない沼地に少なくとも10万人以上が来襲しました。最終的に飛鳥時代には100万人の渡来人が押し寄せて住みついたと唱える研究家もいます。

その一人、渡来系移民が100万人規模であると言っているのは、自然人類学者で東京大学名誉教授の埴原和郎氏であります。

弥生時代初め(紀元前300年)から飛鳥時代末期(紀元700年)までの1000年間の渡来人を試算すると、この間の人口急増は農耕社会に大転換したとしても通常の農耕社会の人口増加率ではとても説明できないと説明されています。

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〔紀元700年の人口に占める縄文直系と渡来系の人口比〕(第3部 弥生文化と渡来人の登場 日本人の源流を探してHPより)

つまり、その不足分の人口が渡来系の人口であると提唱されているのです。

このデーターを元に「日本人の源流を探してHP」は、紀元150年の数値を算出し、埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の範囲内(0.1%~0.3%)では渡来人数を割り出しております。

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〔弥生時代後期から飛鳥時代末人口の増加率及び渡来人数〕(第3部 弥生文化と渡来人の登場 日本人の源流を探してHPより)

この表の人口増加率が0.1から0.3%であれば、300万人から100万人が渡来人であったという数値が導き出されます。

いずれにしろ、3世紀から4世紀に掛けて、大量の渡来人が倭国に来襲したことだけは否定できないのです。

平安時代の初期、815年に編纂された「新撰姓氏録」から1,182氏族のうち、中国・朝鮮からの渡来系というのは約3割で、そのうち中国系は4割であります。

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〔古代氏族の祖先伝承〕〕(第3部 弥生文化と渡来人の登場 日本人の源流を探してHPより)

その中に、秦の始皇帝の子孫と称する氏族や呉王の祖・夫差の子孫を称する氏族がいることが、彼らの祖先がどこから来たかを言い表しているのであります。

渡来系を含む弥生人は徐福伝説にあるように初期渡来系は北九州に定住し、そこから全国に広がっていきました。次に民族大移動で北九州から近畿当たりまで勢力が一気に伸ばし、最後に大型帆船が大陸・半島から大量の渡来人を運び、彼らの生活圏は東日本地区へと広がってゆきます。これは以前に何度も言っていたことです。

この説明を「日本人の源流を探してHP」は「第2部 縄文稲作の究明」でされていますが、結果として同じようなイメージ図が完成しております。

1-64 二重構造人形成過程のイメージ図>

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〔二重構造人形成過程のイメージ図〕(第2部 縄文稲作の究明 日本人の源流を探してHPより)

いずれにしろ、ドングリなどの木の実を主食とする先住民は山の麓などの高地を好み、稲作を中心とする渡来系の移民は土木技術が進んでいるので沼地などの低地に住んだことで、大きな抵抗もなく移住が可能であったというのが大きな要因であります。

大阪の上本町台地の側の生野区には猪飼という地名の土地があります。難波の宮の南部、河内湖の畔の低地に文字通り猪を飼う異文化の渡来人に与えられた土地でした。ここからは肉を焼く臭いが漂う異界の世界だったとそうです。このように人の住まない低地を渡来人に分け与えることで、王族は貴重の臣下を手に入れ、兵糧と兵力を同時に確保することに成功したのです。

 

さて、話を3世紀後半から4世紀に戻します。神武天皇が亡くなって『欠史八代』になると、魏の曹操が大型帆船を実用化し、4世紀には普及したと考えられます。河川用の大型帆船が海上に適したものになるには200年以上の歳月を必要としましたが、ともあれ大型帆船の登場によって、海上の交通に劇的な変化を幾つも起こしたのであります。

その1つが、交易中継地の衰退であります。縄文人から発した海洋文化は、1日50km以内に中継地を持ち、夜は船を陸揚げして点検するのが通常でありました。つまり、50km以内に同盟国を持つことが重要であり、対馬海峡を結ぶ釜山~対馬~末盧を確保することが、大陸へと続く道なのです。大陸と日本を結ぶ海の道は1つではありませんが、沖縄列島を渡る道も、ウラジオストックを大きく迂回する北海の道も、対馬海峡を渡るルートに比べて困難な道でした。必然的に、対馬海峡を掌握している部族が大きな力を持つことになっていたのです。

しかし、大型帆船は約200km近くを無寄港で移動できます。朝鮮半島の北部から北九州の筑紫、朝鮮半島の東部から丹波地方への交易が可能になったのです。つまり、邪馬台国を経由することなく、大陸と結ばれてしまったのです。

また、邪馬台国から日本海を北上してゆくルートとして栄えた出雲の必要もなくなってしまったのです。邪馬台国と狗奴国が戦争していた理由は、大陸との交易を確保する為にです。また、大陸の覇者に朝貢し、倭国王として冊封されることで権威を高めることでした。それゆえに海峡ルート(釜山~対馬~末盧)を確保することに意味があったのです。

しかし、大型帆船の登場で対馬ルート以外の航路が生まれてしまったのです。朝鮮半島の東部から直接に丹波に渡れるようになり、または、筑紫から瀬戸内海を通るルートで畿内に行けるようになってしまったのです。

小型の人力帆船では積載できなかった馬などの家畜も載せることができるようになります。また、100人単位の渡来人が軽々とやってくるようにもなりました。それそこ村ごとの移住者が登場してしまったのです。

移住そのものに問題がなくとも、大量の移民が押し寄せれば、国内に問題が起こるのも当然です。2013年のヨーロッパの人口は7.425億人です。対する難民の数は100万人を超えた程度です。1%に満たない難民が流入しただけで社会が混乱するのですから、70~80万人の倭国に10万人以上の渡来人が来襲すれば、社会が混乱するのも仕方ないのです。欠史八代時代は、まさに渡来人来襲の混乱期だったのです。

混乱期が終わると、渡来人の影響で多く国に王が乱立する群雄割拠の時代を迎えます。渡来人は土木工事や製鉄などの技術を持ち、輸入する以外に方法がなかった鉄の生産が国内でできるようになります。また、力で他者を征服するという思想が輸入されて、各国が力を蓄えて豪族として王を名乗るようになったのです。おそらく、邪馬台国なども多くの渡来人を受け入れて、国力の強化を図っていたことでしょう。

 

第10崇神天皇から第15代応神天皇の時代は、群雄割拠した豪族が覇を競うようになります。崇神天皇は大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させたと残されており、大彦命・武渟川別吉備津彦・丹波道主命を四道将軍と呼んでいます。

もし、ここでヤマト王朝が敗れていれば、今の歴史はなかったのかもしれません。

景行天皇の御世では、ヤマトタケルなどの活躍が残され、熊襲から東国まで遠征をしていることが鮮やかに描かれております。そして、仲哀天皇の時代に邪馬台国の平定に軍を起こします。仲哀天皇の后である神功皇后を『記紀』が卑弥呼と同一視する文体は、その隠された後ろめたさを隠す為にとしか言いようがありません。

倭国の王になった女王卑弥呼の邪馬台国を滅ぼしたなど、そんな不名誉なことを歴史に残す訳にはいかなかったのでしょう。神功皇后と卑弥呼を同一視することで、ヤマト王朝への併合を成し遂げたのでしょう。

このとき、奴羅(奴国)は、邪馬台国(やまたいこく / やまとこく)の名を引き継ぎ、国名を大和国(やまとこく)と改めたのではないでしょうか。

7世紀後半の大宝律令の編纂がほぼ完了した頃、701年前後に倭・倭国から日本へ改名したとあります。朝鮮半島の史書『三国史記』「新羅本紀」文武王十年(670年)12月条には、「倭国(ヤマト)、号を日本(ジッポン、ニッポン)に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とあるように、倭国=ヤマトコクであり、奴羅(奴国)から倭国(大和国)への改名は、自らが倭国の正統な王家であるという名乗りだったのです。こうして、旧倭国の支配者であった邪馬台国はひっそりと舞台を去ってゆくのでした。

さて、倭国は朝鮮半島まで勢力を回復し、宋などの中華の覇者から倭王と称されたのが、第16代仁徳天皇から第21代雄略天皇の時代を『倭の五王』の時代と呼ばれています。

413年、東晋に安帝に貢物を献上したのが倭国の王『讃』が、仁徳天皇であるのか、仁徳天皇の子である履中天皇であるのかは議論の余地がある話でありますが、重要なことは、この時点でヤマト王朝が倭国の宗主と認定され、その血統であることに大きな意味を持つようになるのです。そして、この時代から多くの豪族がヤマト王朝と結ばれることで権力を拡大するという構図が生み出されてゆくのでした。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-10-4 朝鮮三国情勢と倭国

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 10章 古代朝鮮三国の年表
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>高句麗(こうくり)
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>古代朝鮮三国の年表

<<古代朝鮮三国の年表>>
紀元前206年 秦が項羽によって滅ぼされる。
紀元前230年 秦に滅ぼされた韓の難民が朝鮮半島で辰国を建国する。
紀元前202年 劉邦、皇帝に即位して、漢を建国する。
紀元前195年 前漢の劉邦配下である燕王盧綰、衛満が箕子朝鮮に亡命する。
紀元前194年 燕王盧綰、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を興す。
紀元前128年 衛氏朝鮮に服属していたワイの君長である南閭が、衛氏朝鮮の衛右渠に叛いて、28万人
を率いて漢に投降し、漢の武帝が朝鮮北部に蒼海郡を設置する。
紀元前109年-紀元前108年 前漢の第7代皇帝の武帝(ぶてい) 衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初め
とする漢四郡を置く。
紀元前57年 初代の王、赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん)が斯蘆国を建国する。
紀元前37年 朱蒙、高句麗を建国する。
紀元前18年 朱蒙の子を沸流・温祚は、瑠璃王が太子となったので、烏干・馬黎らの10人の家臣と大勢
の人々とともに南方に逃れ、馬韓の慰礼城で十済(後の百済)を建国する。(百済初代王は、沸流とも、温祚とも言われる)
  4年7月 新羅の第2代の王南解次次雄(なんかい じじゆう)、楽浪の侵入を受けて首都の金城が何
重にも包囲されるが、楽浪は撤退する。
 14年 倭人が兵船100艘余りで斯蘆国に攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。
 25年 光武帝(こうぶてい)、皇帝となり、後漢を建国する。
 36年 楽浪の兵が斯蘆国北辺に攻め入り、朶山城(京畿道安城市二竹面)が奪われる。
 37年 高句麗の大武神王が楽浪を攻め滅ぼすと、楽浪の民5千人が斯蘆国に流入した。
 40年9月 楽浪から独立していた濊(ワイ)の治める華麗県・不耐県が辰韓の北辺に攻めてきたが、
貊国が出兵してこれら二県の兵を打ち負かす。
 57年 後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与される。
 57年 新羅の第4代の王・脱解尼師今(だっかい にしきん)、即位して、百済の多婁王と蛙山城(忠
清北道報恩郡)をめぐって度々戦う。
 73年 新羅の第4代の王・脱解尼師今、倭人が木出島に進入し、角干の羽烏を派遣したが勝てず、羽
烏は戦死した。
 77年 新羅の第4代の王・脱解尼師今、伽耶と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官
)に引き上げた。
173年 新羅の第8代の王・阿達羅尼師今(あだつら にしきん)、倭の女王卑彌乎から使者を送ってき
た?(三国志』東夷伝倭人条の景初2年(238年)記事からの造作と言われる)
244年 魏国の毋丘倹が高句麗を攻撃、第11代・東川王は沃沮の地に逃れた。
248年 高句麗の第12代中川王が即位する。
258年 魏国の尉遅楷が攻めてきたが、精兵五千を送り梁貊の谷で大いに破り、首級八千をあげた。
300年 高句麗の第15代・美川王が国を再建する。
302年9月 西晋の混乱に乗じ、美川王は玄菟郡に侵入する。
311年8月 美川王、遼東郡の西安平を襲撃して奪い取る。
315年以前 帯方郡太守、高句麗の攻撃に対して婚姻関係にあった百済に救援要請をした。
313年10月 美川王、楽浪郡に侵入してこれを滅ぼし、翌々315年には帯方郡を滅ぼした。
346年  馬韓の小国であった第13代近肖古王、馬韓地域を統一して百済を建国する。
350年 前燕は後趙を攻め滅ぼす。(高句麗も属国として参加する))
352年 テイの族長苻健は東晋から独立して前秦を建国した。前秦は急激に勢力を拡大し、華北一帯は
前秦と前燕で東西を二分することになった。
360年前後、高句麗の西側にある前燕、高句麗の領土をうかがう。
360年前後、高句麗北方を後燕に奪われ南下政策をとる
360年前後、高句麗の南下によって百済・新羅は加耶方面へ押し出される。
366年 羅済同盟(らさいどうめい)、百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため
同盟を結んだ。
370年 前燕が前秦の符堅に滅ぼされ、高句麗に逃げて来た慕容評を符堅に送った。
371年 百済、高句麗の平壌城攻める。高句麗故国原王戦死。
372年 高句麗に仏教伝来
375年 高句麗南下で危機感を持った百済の近肖古王、倭国に七支刀を贈り
援軍を望む。
377年 新羅の第17代の王、奈勿尼師今(なこつ にしきん)、高句麗に随伴して前秦に朝貢する。
382年 加耶、新羅と葛城襲津彦によって滅亡。加耶人民の列島渡来へ。
382年 新羅の第17代の王、奈勿尼師今、前秦に単独で朝貢し、国号を斯盧から新羅に改める。
384年1月 慕容垂、後燕を建国。
384年 百済に仏教伝来
385年 高句麗、後燕を破り、遼東に進出。
386年 後燕の慕容垂、河北一帯に進出。
391年~2年 高句麗広開土王即位。
391年7月 後燕の慕容垂、北魏と抗争状態に入る。
392年1月 新羅第18代の王・奈勿尼師今は、実聖を高句麗に人質として差し出す。
392年 高句麗の好太王(こうたいおう)、石硯城(黄海北道開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取
し、関彌城を陥落させた。 
392年6月 前秦の苻 丕(ふ ひ)、河南省の黄河南岸の?魏(てきぎ)を滅ぼす。
392年8月 前秦の苻 丕、前燕の継承権をめぐって抗争していた同族の西燕を滅ぼし、さらに東晋と
戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築く。 
392年秋八月 広開土王、高句麗南辺をこえて百済を侵す。平壤に九寺を創建。
393年秋七月 百済が高句麗へ侵入
394年秋八月 広開土王、百済と海戦、これを大いに破り、捕虜八千余を獲得した。
394年 後燕の慕容垂、西燕を滅ぼし、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東
・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げる。
395年 後燕軍、参合陂の戦いで北魏軍に大敗。
395年 広開土王、礼成江まで反撃する百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化し
た。
396年 広開土王、漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を
献上させ、永く隷属することを誓わせた。
396年 百済と新羅がともに倭に人質などを贈って援軍を依頼し、倭はそれに応えて援助した。
397年 百済は倭国に百済の阿?王は王子腆支を人質として倭に送り通好する。
398年 慕容徳、滑台(河南省滑台)に自立して燕王を称す(南燕)。
399年 百済は倭国に七支刀を献上して友好的な関係を強化する。
399年 百済は先年の誓いを破って倭と和通した(高句麗側の因縁)。
399年 高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の王
都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き任那・加羅まで後退する。高句麗軍が追撃すると倭国傘下の安羅の別働隊が新羅の首都を陥落させた為に新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に送り臣従する。
400年 後燕の慕容盛、高句麗を攻撃して、遼東を奪回する。  
400年 高句麗は5万の大軍を派遣して新羅にも攻め込んだ。新羅王都を守っていた倭軍が退却したの
で、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に(百済のために)援軍を送ってきたので、広開土王は立ち向かった。
401年7月 新羅の第18代の王・実聖尼師今(じっせい にしきん)、高句麗の人質になっていた王子
が即位して、高句麗の支配化で新羅の王となる。
402年 高句麗、後燕の宿軍城(遼寧省朝陽東北)を陥落させる。
402年 帯方界で倭軍が攻撃するが撃退される。
402年3月 新羅の第18代の王・実聖尼師今、倭国と国交を結び、先王の第3子の未斯欣を人質として
送った。
405年 新羅の第18代の王・実聖尼師今、明活城(慶州市普門里)に攻め入られ、退却しようとする倭
軍を実聖尼師今自ら騎兵を率いて独山(慶州市)の南で撃破した。
405年 百済、日本に漢字を伝える。
407年7月、慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋に殺害され、後燕は完全に滅亡する。高句麗、後燕に
侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た。
410年 広開土王、東扶余を屈服させることで北と東に領土を拡大し、西は遼河、北では開原から寧安
、東では琿春、南へは臨津江流域にまで至った。
412年 新羅の第18代の王・実聖尼師今、高句麗に対して先王の第2子の卜好を人質として送る。
418年 新羅の第19代の王・訥祇麻立干(とつぎ まりつかん)、高句麗と倭とへ人質として送られて
いた王弟が帰国して、高句麗の従属国の王として即位した。
427年 高句麗の長寿王、平壌城遷都
429年 百済の第20代の王毘有王(ひゆうおう)、宋へ朝貢す。
430年 百済の第20代の王毘有王、宋から百済王に冊封される。
433年 第2次羅済同盟(433年 - 553年)、百済の毘有王と新羅の訥祇麻立干が、高句麗の南進政策に脅
威を感じ、軍事的攻守同盟を結んだ。
450年7月 新羅の第19代の王・訥祇麻立干、高句麗の辺境の首長が悉直(江原道三陟市)の辺りで狩
猟をしていたところを、何瑟羅(江原道江陵市)の城主の三直が急襲して殺害し、俄かに高句麗との緊張を招いた。怒った高句麗の長寿王は新羅の北西部国境に軍を派遣してきたが、新羅では丁寧な謝罪を行って、高句麗に退却してもらった。
454年8月 新羅の第19代の王・訥祇麻立干、高句麗が新羅北部辺境に侵入する。
455年10月 高句麗、たびたび百済に侵攻した。新羅は百済の救援に向かった(倭国は支援しなかっ
た)
461年 百済第21代の蓋鹵王(がいろおう)、弟の軍君昆伎君を倭国に人質として送りよしみを通じる

472年 百済第21代の蓋鹵王、北魏に対して上書して高句麗の非道を訴え、北魏が高句麗を討伐するこ
とを願い出たが失敗する。
475年、高句麗の長寿王、自らが3万の兵を率いて親征し、王都の漢山城を陥落させ蓋鹵王(がいろお
う)を斬首した。百済首都を熊津(ユウジン・くまなり)へ遷す。
<一説には、475年で一度、百済が滅んだという説もある>
475年10月 百済第22代の文周王(ぶんしゅうおう)、新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、
既に漢城は陥落して蓋鹵王は処刑されていた。文周は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。(倭国は支援しなかった)
475年 新羅の第20代の王・慈悲麻立干(じひ まりつかん)、百済の漢城陥落に危機感を覚え、居城
を明活城(慶州市普門里)に移した。
476年 雄略天皇20年に高句麗が百済を滅ぼしたこと、同21年(477年)3月に雄略天皇が久麻那利(こ
むなり、熊津を指す)を百済の?洲王に下賜して国の復興をさせた。『日本書記』
493年 百済の東城王は新羅と婚姻関係を結んだ。
495年 百済の東城王、高句麗に侵入された際には新羅から救援が来て高句麗兵を退ける。
498年8月 百済の東城王、耽羅(済州島)が貢賦を納めなくないので親征す。
503年 新羅、国号・王号定める
512年 百済第25代の武寧王(ぶねいおう)、漢江流域に対する高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、高句麗
に壊滅的打撃を与える。
520年 新羅、律令頒布、官の衣服を制定。
525年 百済武寧王陵築造
529年 百済第26代の聖王(せいおう)、高句麗の安臧王?の親征に勝てず、2000人の死者を出す。
527年 新羅、仏教公認
532年 新羅、金官国(南伽?)併合
538年 百済、泗?城へ遷都
541年 百済第26代の聖王、任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した。
551年 百済の聖王は、百済、新羅、伽耶の連合軍により、高句麗から漢江流域を取り戻した。
552年 百済、日本に仏教を伝える。
553年 新羅の真興王、百済から漢江流域を奪い、同盟関係は壊れた。
554年 新羅の真興王は戦いで戦死する。
554年7月 大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死
する。 
562年 新羅、大伽?(高霊伽?)を滅ぼす
577年 北周の武帝は北斉の首都鄴を攻め落として北斉を滅ぼし、華北を43年ぶりに統一した。
581年 北周の静帝より禅譲を受けて隋を建国する。
586年 高句麗、長安城に遷都
589年 隋が陳を滅ぼして中国を統一する。高句麗の平原王は直ちに防備の体制を整えたが、これをみ
隋は高句麗を咎めたために、平原王は恐れて上表して陳謝しようとしたが、使者を送る前に死去した。
589年 高句麗の嬰陽王が即位、隋より<上開府儀同三司・遼東郡公・高句麗王>に冊封されるが、靺
鞨の人々を率いて遼西に進入した。そのために隋の文帝の怒りを買い隋の高句麗遠征(隋の高句麗遠征)(第一次遠征)を引き起こすことになった。(和睦終決)
607年 高句麗の嬰陽王、東突厥の啓民可汗の幕営に使者を派遣していたところを隋の煬帝に見られ、
二次遠征(612年)の遠因となった。
607年、608年 百済第30代の武王(ぶおう)、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文
を提出する。
611年 百済第30代の武王、隋の高句麗討伐の先導を買って出ることを申し出た。
612年 煬帝、高句麗攻撃(薩水の戦い)隋の第二次高句麗遠征(隋軍を撃退)(百済は、この遠征に
従軍しなかった))
613年 隋の第三次高句麗遠征(隋軍を撃退)
614年 隋の第三次高句麗遠征(隋軍を撃退)
617年 李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝
を太上皇帝(前皇帝)に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。
618年 李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国する。
621年、百済第30代の武王、唐に朝貢を果す。
622年 高句麗の栄留王、唐に朝貢を行い、隋の高句麗遠征の時の捕虜を互いに交換した。
624年 百済第30代の武王、唐より百済王に冊封される。
624年 新羅の第26代の真平王(しんぺいおう)、唐より柱国・楽浪郡公・新羅王に冊封される。
624年 高句麗の第27代栄留王(えいりゅうおう)、唐より上柱国・遼東郡公・高句麗国王に冊封され
る。
624年 麗済同盟(れいさいどうめい)、高句麗と百済が新羅を攻撃するために結んだ軍事同盟で、百
済が滅亡した660年まで続いた。
642年7月 百済第31代の義慈王(ぎじおう)、単独で新羅に親征し、?猴など40城余りを下した。8月
には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃した。この攻撃は大勝に終わり、降伏してきた城主を妻子ともども斬首し、男女1千人を捕虜とし百済の西部に移住させた。 
642年10月 高句麗の将軍、淵蓋蘇文(えん がいそぶん)は180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵
王を第28代王に擁立して自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就任して政権を掌握する。
643年 百済第31代の義慈王(ぎじおう)、高句麗と同盟(麗済同盟)して新羅の党項城(京畿道華城
市)を奪おうとしたが、新羅が唐に救援を求めたため、新羅攻撃は中止することとなった。
644年 新羅との和解を高句麗に勧告するが、唐の太宗の要求を拒否する。これに激怒した太宗が弑君
虐民の罪を問い、高句麗に開戦宣布する。
645年 第一次高句麗遠征、安市城の戦い 高句麗が唐に勝利する。
647年 第二次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
648年 第三次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
649年 唐の太宗が崩じると、高宗が三代皇帝の座に付く。高句麗との戦いは断続的に継続しながら消
耗戦で戦略を変更する。また高句麗と敵対する新羅を冊封した。(唐・新羅の同盟)
655年 第四次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
658年 第五次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
654年 新羅、金春秋即位(武烈王、太宗)
655年 高句麗の将軍淵蓋蘇文が死ぬと、淵男生が後を継いだ。しかし、弟の淵男建・淵男産との間に
内紛が生じ、淵男生は唐に投降した。唐軍は淵男生を先頭にして、李勣などが高句麗に侵攻した。金春秋、将軍・金?信とともに巧みな外交(花郎大活躍)
660年 新羅、唐と連合し百済滅ぼす。
663年 白村江に百済・倭連合艦隊を大破し百済再興は消滅。百済王族大挙して倭の近江(蒲生郡など

)などへ移住する。(扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)の願いで倭国が百済救援に赴き、唐・新羅連合に敗

北する)
668年 新羅・唐連合、高句麗を滅ぼす。
676年 新羅、三国統一

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-10-3 新羅(しらぎ)

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【新羅(しらぎ)】
新羅(しらぎ)という国は、秦韓(辰韓)の中から生まれた斯蘆国(さろしろこく)を発祥としている。

紀元前57年に優れた鉄器を持った赫居世(ヒョッコセ)たちが北の方から動乱を逃れてやってきたと言う。当時、赫居世は13歳であり、6村の連合(新羅六部)で統括者を決めていたらしい。その統括者の名を『居西干・次次雄(コソガン・チャチャウン)』と言う。居西干は君長、次次雄は巫(シャーマン)を意味する。
紀元前37年に赫居世は慶州平野に京城の『金城』を築き、『国号の斯盧(シロ)と名付ける。
ところで、高句麗を除く、国号を見比べると面白いことに気付くことができます。
新羅=シラギ、羅(ラ)
百済=クダラ、ラ
加羅=カラ 、羅(ラ)
緊那羅=キンナラ、羅(ラ)
那羅=ナラ
奈良=ナラ、ラ
すべての国の語尾に羅が付いているのだ。もしかすると、羅=国なのかもしれない。
すると、
新羅=シン国=秦国
百済=クダ国=馬国<馬をクダという発音でする。王子が高句麗(馬)から来た>
加羅=カ国=韓国=漢国
緊那羅=キンナ国=夜叉国=夜ノ国(男なら馬頭人身、女なら美しい天女)
那羅=ナ国=奴国
奈良=ナ国=奴国
となるのです。
朝鮮半島の金海の狗耶国(クヤコク)を須那羅(スナ国=鉄国)と呼んだそうです。スナ、あるいは須那という文字を検索しても、『鉄』関連に当たりません。栃木県大田原市にある曹洞宗の玄性寺(げんしょうじ)は、天正18年(1590年)に5歳で那須家を継ぎ、後に那須藩主となった那須資景が、曹洞宗の鉄尊を招き、玄性寺として再建したと残されています。やはり、那須と鉄に関係がありそうです。
そう考えると、スサノオの『須佐』も鉄関連の言葉なのかもしれません。スサノオはイザナギから海原を治めるように言われたのを断り、イザナミのいる根之堅洲国に行きたいと言って追放されます。根之堅洲国の候補地の1つは、辰国と言われます。
朝鮮半島の鉱山はほとんどが北部に集中しており、半島南部には鉱山がありません。鉄が生産されるようになると伐採が盛んになり、中国・朝鮮半島のほとんどが禿山になったそうです。スサノオは、イザナギの国には何もないので、木の種子を持って海を渡り、倭国で樹が育ったと記されております。
ヤマタノオロチを倒して出てきたのは鉄であり、ヤマタノオロチから出て来たと言われる宝剣はイザナミから預かった王家の剣です。この場合に王家とは秦王朝に当たります。
そもそも辰韓は秦韓であり、紀元前206年に項羽によって滅亡させられます。そのとき、万里の長城で賦役させられていた20万人の労働者の一部が朝鮮半島に流れ、東南の土地を与えられて秦韓となったのです。
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〔万里の長城〕(万里長城(燕長城)HPより)
地図を見れば、一目瞭然であります。
遼東の万里の長城を遼東長城と呼び、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東に郡を置いて、胡族の侵入を拒んでいたとあります。
この地方に賦役されていた者と秦の王族と臣下が箕子朝鮮に逃れ、紀元前195年に前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命し、翌年に王倹城を攻落し王権を簒奪して衛氏朝鮮を興したことで、秦の難民は辰国へと逃れることになるのです。
辰国は彼らを受け入れ、辰韓を彼らに与えました。辰韓のある朝鮮半島の東側は金剛山、五台山、大白山と1000m級の山々500km以上も続く大白山脈が横たわり、小白山脈との間にわずかな土地が広がるだけの山と木々しかない大地でした。新羅の首都である金城は大白山脈の根元に当たります。
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〔朝鮮半島の地形〕
渤海を渡って中華の文化が入ってくる西側と違い、東側は文化の流入が遅れておりました。高句麗や百済などが仏教文化に華やいでいた時期も新羅では、シャーマンの時代が続いていたのもその為なのです。当時の倭国は、中国の山東半島から遼東半島を結ぶ渤海、朝鮮半島の海岸全域、九州から北陸、近畿・東海までを交易圏としておりました。『燕の鉄は倭人が運ぶ』と言われ、朝鮮半島で取れた鉄を倭人が運んでいたと記録に残されております。山東半島から中華文化は馬韓を経由して、倭国に入り、そこから日本全国、あるいは辰韓に逆輸入されていた可能性もあるのです。
辰韓と呼ばれる時代は、辰国において馬韓が経済的に半島を支配していました。それゆえに辰韓から出雲に渡ったスサノオ族は、ヤマタノオロチを退治して出雲から丹波、越方面まで支配化に治めます。しかし、アマテラス族の国譲りによって、スナノオ族はヤマトから東海方面、丹波から越方面に移動します。その一部が加羅を回って、辰韓に戻ってきたと考えられるのです。
『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀では、倭国の東北一千里のところにある多婆那国(丹波国?)で、その王が女人国の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国(加羅の国の1つ)に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。
老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解次次雄5年(8年)に南解次次雄の娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。これが新羅の第4代の王(57-80年)脱解尼師今(だっかい にしきん)の話であります。
西暦一世紀から二世紀の斯蘆国(後の新羅)は辰韓の一国に過ぎませんでしたが、辰韓諸国は280年から286年にかけて西晋に対して朝貢を行っており、366年に百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため同盟を結び、377年になると辰韓の代表として新羅が朝貢を行ったことが見られます。
『太平御覧』が引用する『秦書』(逸書)には、新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)が国号を斯盧から新羅に改めたことを報告し、新羅国がここに誕生しました。
高句麗の広開土王の時代は、新羅・百済にとって苦難の時代でした。後方の倭国に人質を出して同盟を結び、援軍の協力を求めるほど苦境に立たされていたのです。しかし、高句麗が強国であるある日々も長く続きません。遼東の後燕が勢力を持ち、5万の大軍で高句麗を攻めたのです。しかし、それを跳ね返した高句麗は再び新羅に侵攻し、新羅の第18代の王・実聖尼師今は先王の第2子の卜好を高句麗に人質として送ったとあります。
実聖尼師今が亡くなると、高句麗と倭とへ人質として送られていた王弟が帰国して、新羅の第19代の王・訥祇麻立干は高句麗の従属国の王として即位します。しかし、433年には高句麗を裏切って、百済の毘有王と第2次羅済同盟(433年 - 553年)を結んで高句麗と対立するのでした。
新羅の第20代の王・慈悲麻立干(458-479)、第21代炤知麻立干(479-500)の時代、つまり、高句麗の長寿王は本格的に朝鮮半島の統一を目指したようで、475年に百済の王都の漢山城を陥落させました。一節には、この時点で百済は一度滅んだという方もいます。新羅に援軍を頼んだ文周は、途上で漢山城の落城を聞き、熊津(忠清南道公州市)に遷都すると、百済第22代の文周王を名乗ったのです。さらに長寿王は百済・新羅に侵攻し、一進一退の攻防を続けたのです。しかも倭国からも攻められていた記録も残っています。
おそらく、高句麗の南下に伴って、百済・新羅も南下を余儀なくなされ、侵略された任那・加羅・秦韓・慕韓などの要請で倭国が兵を送ったと思われます。5世紀に入ると倭国もヤマト王朝が倭国の実権を握り、倭国の混乱も治まってきました。倭の五王(413-502)が、東晋・宋・南斉・梁に朝貢していることからも判りますように、朝鮮半島南部への影響力を取り戻していました。
507年に即位した継体天皇以降の年表は記紀に明確に記されているので、時系列で事象を追うことができます。一方、仲哀天皇、神功皇后の九州征伐から朝鮮平定時期を特定するのは難しいのが実情です。
第14代仲哀天皇は、仲哀8年熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いたが、神懸りした神功皇后から神のお告げを受け、西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇はそれを無視した為に神の祟りで崩御し、変わって神功皇后が筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという三韓征伐(さんかんせいばつ)を成し遂げたのです。
朝鮮側の資料で言えば、344年に通婚を要求したが、新羅は「娘は嫁に行った」として断ったことで、345年に国交を断絶し、346年に風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃したというのが、『三韓征伐』の時期ではないのだろうかと思いたいが、定かなことは判りません。他にも362年、365年、397年が候補に上がります。
ただ、16代仁徳天皇が倭の五王の『讃』とすれば、応神天皇(353-394)の没が394年なので、『三韓征伐』が346年ではないかと思われます。また、応神天皇が朝鮮半島に固執する理由も伺えます。
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)では、歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている人物ですが、允恭3年8月に新羅から医者を招聘し、天皇の病気を治療する。允恭42年1月に允恭天皇が崩御されると、新羅王はこれを悲しみ弔使を送ったと残されており、新羅との親密さが伺えます。
そして、新羅の第24代真興王(しんこうおう、534-576)が登場します。真興王はそれまでの新羅を方針を大きく変え、積極的な対外戦争と領土拡張を目指します。553年に百済が高句麗から取り戻したばかりの漢山城(京畿道広州市)を含む一帯を強奪し、漢江流域に新州を設置した。これによって第2次羅済同盟(433-553)が終焉を迎えます。554年には百済の聖王が伽耶と連合して管山城(忠清北道沃川郡)に攻め入ったのを迎え討ち、逆に聖王を戦死させ、百済と伽耶の連合軍2万9千600を殲滅しました。さらに562年には異斯夫と斯多含とを派遣して伽耶を滅ぼし、洛東江下流域を制圧しました。
564年には北斉に朝貢して、翌565年2月には<使持節・東夷校尉・楽浪郡公・新羅王>に冊封され、同年9月には陳からも使者を受け、566年から571年にかけてはほぼ毎年のように朝貢を行って、国際的な地位を確保したのです。
594年に新羅の第26代の真平王(しんぺいおう)は隋から<上開府・楽浪郡公・新羅王>に冊封され、隋などと国交を強める一方で、百済への攻勢を強めています。しかし、高句麗と百済への両面作戦を強いられる新羅は次第に劣勢に立たされてゆきます。真平王は隋に高句麗討伐を求める上表文を僧の円光に書かせて上表しますが、隋の遠征に何度も高句麗は絶えてしまうのです。
高句麗への出費が嵩み、国内の反乱と内部の腐敗を起こした隋は、618年に李淵が恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)して唐に変わる。622年に高句麗と捕虜の交換を行い、新羅、百済、高句麗は朝貢して、624年に新羅・百済・高句麗が共に新羅王・百済王・高句麗王に冊封されます。
同年、高句麗と百済による麗済同盟(れいさいどうめい)が結ばれると、新羅の劣勢は明らかになり、真平王は唐に働き掛けて劣勢を覆そうとしましたが、唐は高句麗との和解を告げるだけでした。
629年に高句麗と娘臂城(忠清北道清州市)で戦い、副将金庾信の活躍で同城を陥落させる勝利を得ると、637年までは三国間に大きな戦いはなく過ごされることとなったのは幸いだったのでしょう。
高句麗は、唐の太宗が629年に大規模な東突厥討伐を行い、小可汗の突利可汗(テリス・カガン)らを投降させるなどを行ってことで、唐への警戒感を強め、注意が西に向かいます。
百済は627年に新羅の西部2城を奪い勢いに乗っていました。新羅の真平王が唐に使者を送って太宗に仲裁を求めた為に、武王は甥の鬼室福信を唐に送って勅を受け、表面的には勅に従う素振りを見せるしかなく、大軍を動かすことが出来ずに新羅との小競り合い続けるしかなかったのです。
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〔新羅の飛躍期〕(高句麗と三韓の成立“Trisection” 前108年~611年HPより)
642年7月、新羅の第27代の善徳女王(ぜんとくじょおう)は百済に西部40余城を陥落させられ、同年8月には高句麗と百済とが連合して党項城(京畿道華城郡南陽面)を奪取され、新羅の唐への朝貢の経路が絶たれてしまう。
643年9月、善徳女王は唐に使者を送って高句麗・百済を討つ救援軍を求めたが、唐からは援軍を派遣するには女王を廃して唐の王室から新王を立てることを迫られた。こうした唐の姿勢に対して新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、女王自らが任命した上大等の毗曇らが647年正月に女王の廃位を求めて内乱を起こし、上大等に代表される中央貴族に対抗して金庾信ら地方勢力の有力者が女王を支援して乱の収拾に当たったが、同月8日に女王は陣中に没し、善徳と諡され、狼山(慶州市)に葬られる。
女王を廃そうとする親唐派の花朗徒(ファランド)の内乱を鎮めたのは、新羅の第28代の真徳女王(しんとくじょおう)であった。真徳女王は内乱の鎮圧後には反唐政策をすすめるのではなく、あくまでも新羅の王統を維持しながらも唐の援助を求める政策を取る。
王族の金春秋(後の武列王)を息子の金文王らとともに648年に唐に派遣し、百済討伐の援軍を願い出てようやく太宗から一応の了承を得ることができた(唐・新羅の同盟)。金春秋の帰国とともに、649年より唐の衣冠礼服の制度をとりいれ、650年には独自の年号を廃止して唐の年号(永徽)を用いるようにするなど、唐との関係を磐石のものとする。
唐の心変わりは、644年に新羅との和解を高句麗に勧告するが、高句麗がこれを無視いあたことに唐の太宗が激怒し、645年に第一次高句麗遠征『安市城の戦い』、647年に第二次高句麗遠征、648年に第三次高句麗遠征といずれも高句麗が勝利したことが、唐の態度を軟化させた。
百済にも新羅との和睦を進めていたが一向に改善されず、651年に唐の高宗から新羅との和睦を進める璽書(天子の印の押してある親勅)を送られたが、それでも争いを止めない百済に怒りを覚えていたのではないだろうか。
654年に真徳女王の死去し、新羅の第29代の武烈王(ぶれつおう、654-661)が即位すると、唐は武烈王に即位と同時に開府儀同三司・新羅王に封じ、あわせて楽浪郡王を増封した。
655年1月に高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が攻め入って北部辺境の33城が奪われると、唐は営州都督程名振、右衛中太将蘇定方らを遣わして高句麗を攻撃した。
660年3月、唐は百済討伐の出兵を行う。この討伐軍は左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大摠管とし、副大摠管は唐に宿衛していた武烈王の息子の金仁問とした。新羅王に対しても嵎夷道行軍摠管とする勅命が出され、唐と新羅との連合軍としての百済討伐したのである
同年7月18日、百済の義慈王は投降し、百済は滅びた。翌661年に新羅・唐の連合は高句麗に進軍し、鴨緑江で淵蓋蘇文の長男の淵男生を破り、平壌城を包囲し、蛇水の戦いにも勝利したが、補給が続かないので撤退した。この戦いの最中に武烈王は陣中で亡くなり、唐の高宗は武烈王の死を悼んで洛陽の城門で葬儀を行なったと言われる。
663年5月、百済の旧将の鬼室福信らが王族の扶余豊璋を迎えて百済復興の大規模な反乱を起こし、百済・倭国の連合と唐・新羅の連合との間に『白村江の戦い』が行なわれた。この戦いで倭国の水軍は壊滅し、百済の再興の望みを断ち切られる。
665年に高句麗の淵蓋蘇文が死ぬと内乱が起こり、弟の淵男建・淵男産に実権を奪われた長男の淵男生は唐に投降し、唐は淵男生を先頭に李勣などが高句麗に侵攻した。668年には、唐軍と共に新羅も首都の平壌城を攻めて、高句麗は滅亡する。
しかし、唐は平壌に安東都護府を設置し、百済に熊津都督府を設置していたので朝鮮半島統一には、ほど遠い状態であった。
新羅の文武王は高句麗の宝蔵王の庶子である安勝が残存勢力とともに新羅に亡命してきたのを利用し、金馬渚(全羅北道益山市)に住まわせて670年8月に高句麗王として封じると、新羅の送使が随行する形でこの高句麗をして倭国へ朝貢させた。
新羅の文武王は百済地域の唐軍も攻撃し82個城を奪い、671年には泗沘城を陥落させ、所夫里州を設置して百済地域を占領し、671年10月に百済に向かっていた薛仁貴が率いる唐の水軍を黄海で新羅の水軍が勝利した。
これに怒った唐の高宗は674年1月に文武王の冊封を取り消し、代わりに文武王の弟の金仁問を新羅王に冊封すると、672年7月に唐軍と靺鞨軍が平壌を占領し、8月には韓始城と馬邑城も占領した。これに対して高句麗復興軍と新羅軍は672年12月に白氷山で戦ったが唐軍に敗れ、673年にも瓠瀘河でも唐軍に敗れた。
高句麗復興の機運が弱まる中の674年9月に宝蔵王の庶子である安勝を報徳王として再封し、旧高句麗に対する新羅の宗主権を誇示したが、文武王は675年2月に謝罪使を派遣し、元の状態に戻った。
一見治まったように見えた朝鮮半島であったが、百済・高句麗の遺民を焚き付けて反乱の機運が再燃した。
675年9月に新羅軍は泉城で唐の薛仁貴の軍を破り、買肖城でも李謹行の軍を破った。さらに、676年11月に新羅の水軍が錦江河口の伎伐浦海戰で薛仁貴の水軍を破ると、唐は熊津都督府と安東都護府を遼東に移して朝鮮半島から撤退した。こうして、新羅の文武王は朝鮮半島の三国統一を成し遂げたのである。
しかし、百済、高句麗などが争っていると唐に対抗できないと察した文武王は、百済・高句麗

〔新羅と倭国はじめ関係諸国の史書における記録〕

 

新羅初代王赫居世居西干の時代(在位:紀元前57 - 4年)

 

紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公がいた。

 

2代王南解次次雄の時代(在位:4 - 24年)

 

14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。

 

4代新羅王の脱解王の時代(在位57-80年)

 

脱解王は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ、この多婆那国は竜神信仰を持っていたことや交易関係などから、日本列島の丹波国に比定される事が多い、脱解王の出身氏族である昔氏は倭国と交易していた倭人の氏族とされる。

 

73年、倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきたので、角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏(うう)を派遣したが敗れ、羽烏は戦死した。

 

77年には伽耶と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官)に引き上げた。

 

5代新羅王の婆娑尼師今の時代(在位80-112年)

 

 倭国に服属した新羅王(波沙寐錦、はさむきむ)のことを指すともいわれる。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷之寐錦」としていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいう。法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑に法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとする説もある。なお、法興王の前代の智証麻立干(500-514年)の時代に国号を新羅、君主号を王に定た。

 

6代新羅王の祇摩尼師今の時代(在位:112 - 134年)

 

 1212月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した。

 

翌年1233月に倭国と講和した。

 

8代新羅王の阿達羅尼師今の時代(在位:154 - 184年)

 

158年、倭人が来訪する。

 

1735月、倭の女王卑彌乎が新羅に使者を送る。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条からの造作で、かつ干支を一運遡らせたとする説もある。

 

9代新羅王の伐休尼師今の時代(在位:184 - 196年)。

 

1936月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した。

 

10代王奈解尼師今 の時代(在位:196 - 230年)

 

208年夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。

 

11代王助賁尼師今の時代(在位:230 - 247年)

 

2324月に倭人が首都金城に攻め入った。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。

 

2335月、倭人が東部国境に侵入。同7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。

 

12代王沾解尼師今の時代(在位:247 - 261年)

 

249年夏4月、倭人が于老を殺害。 応神天皇14(283)、弓月君が百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の民が帰化を求めていますが、新羅人が阻むため、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、加羅国の弓月の民を召したが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった。

 

14代の王儒礼尼師今の時代(在位:284 - 298年)

 

285(応神天皇16)、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた。

 

2874月、倭人が一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った。

 

292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した。

 

294年、倭兵が長峯城を攻略した。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。

 

297年、伊西国に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した。なお、この伊西国と日本のイツツヒコ王国との間に関係があったともされる。

 

15代の王基臨尼師今の時代(在位:298 - 310年)

 

3001月、倭国と使者を交わし[15]た。

 

307年、国号を新羅に戻した。

 

16代の王訖解尼師今(在位:310 - 356年)

 

312年、倭国王が王子の通婚を要求。王子ではないが、阿飡(6等官)の急利の娘を嫁として送った。

 

323年、新羅が朝貢に参じる。

 

329年、新羅が朝貢を怠る。9月、砥田宿禰と賢遺臣を派遣して詰問すると、新羅は貢納を果たした。

 

344年、倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は「娘は嫁に行った」として断った。

 

345年、倭国は怒り、国書を送って国交断絶。

 

346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする。この時の倭群をイツツヒコ王国として、この遠征失敗により弱体化した同王国を打倒したことが「三韓征伐」とする主張もあるが、上記のように、新羅側の記録に倭軍侵攻の記録が残っている。

 

新羅17代王奈勿尼師今の時代(在位:356 - 402年)

 

356年、奈勿尼師今が即位。新羅の実質上の建国年とも。

 

362年(または364年)、神功皇后元年、対馬より半島に至り、新羅王都に到る。新羅王は抵抗することなく降伏し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと誓約した。

 

3644月、倭軍が侵入。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする。

 

3655月、新羅が朝貢を怠ったため征伐。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四方の村民を捕虜として連れ帰る。

 

391年倭が海を渡って百済(百残)・加羅・新羅を破り、倭国の臣民となした。秋7月、高句麗王好太王が4万兵で百済北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗、百済の關彌城を落とす。百済王が11月、狗原の行宮にて死去した。

 

392年正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は高句麗を恐れ、王族の伊飡(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として差し出した。

 

3935月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた。

 

397年、百済の阿莘王は王子腆支を人質として倭に差し出し服属した。

 

399年、百済は高句麗との誓いを破って倭と和通したため、高句麗王は百済を討つため平譲に侵攻した。同じ頃、新羅は倭軍が国境を越えて城を攻略し民を奴客となし、首都を囲んでいるため、高句麗に救援を求めた。新羅の長が自ら使者として高句麗王に拝謁し「多くの倭人が新羅に侵入して城を落とし首都を囲んでいる」と窮状を訴え、高句麗の臣下になる事を願い出たので、大王は救援することにした。

 

400年、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の首都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると、倭軍は退き任那・加羅まで後退を始め高句麗軍は後を追った。ところが、倭傘下の安羅軍などが逆を突いて、新羅の首都を占領した。新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に差し出し服属した。

 

404年、帯方界で倭軍の攻撃を受けるが高句麗は撃退した。

 

〔新羅と倭国はじめ関係諸国の史書における記録〕(ウィキペディア 三韓征伐より)

両国の遺民を取り込んで新羅の身分制度を再編することに努めたのである。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-10-2 百済(くだら)

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【百済(くだら)】
韓国の教科書の『大朝鮮帝国史』におもしろい地図が載っている。
外百済・古莫那羅・奈良百済と書かれた地図には、中国の山東省から遼東の一部、朝鮮半島南西部、日本の九州から関東までが支配地していた地図が載っています。
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〔大百済帝国の領土〕(23mmの銃口から飛び出す弾丸はHPより)
笑ってしまいたくなるようなトンデモ地図ですが、これ倭国のヤマト政権の交易圏と重なっているのです。漢が滅亡の危機に陥り、黄巾の乱、魏国の台頭、晋国の腐敗で国内は反乱と飢餓などの天災で衰弱すると北方の騎馬民族が南下して漢民族を襲った。海岸には倭人の村があり、内海を渡って朝鮮半島から倭国まで交易を続けていました。斉に住む人々は倭人の力を借りて、内海を渡って朝鮮に渡る者も多かったのです。
一方、秦氏に代表されるように弓月君を祖とする百済より百二十県の人を率いて豊前国に入ると、ヤマト王朝に仕えて瀬戸内海全域から近畿全般へ広がっていきました。全国に稲荷神社があるように、百済系の渡来人が全国に広がっていったのです。
百済から見れば、山東省から倭国の関東まで交易圏であり、つまり、勢力地と大言を吐いてもあながち嘘とまで言えないのです。
言ってみれば、卵が先か、鶏が先か、そんな問題なのです。
つまり、表に返せば、百済も倭国(邪馬台国連合)の一部から始まり、百済の文字をヤマト王朝の連合国と書き直せば、トンデモ地図は倭国の勢力図に早変わりするのです。もちろん、中央集権など整備されていない時代の倭国では、ヤマト連合国の大王(おおきみ)も、大王と呼ばれる調停人に過ぎないということを忘れてはいけません。

紀元前37年に朱蒙(チュモン)によって建国され高句麗の王子、温祚(おんそ)は第2代瑠璃明王が太子となったために身の安全を考えて、南の肥沃な土地である馬韓へ逃れ、そこで国を興した。馬韓の中の一小国、それが『百済』の始まりです。
『三国志』によれば、馬韓諸国のなかの伯済国が百済の前身であったと記述されております。当時は公孫氏が遼東を支配し、次いで魏国が楽浪郡を置き、南に新たに帯方郡を置いて朝鮮半島を支配していました。その魏国も晋国に禅譲すると北方民族の南下が進み、晋国は崩壊して各太守が独立して王を名乗る春秋時代へと変わります。そして、遼東の支配は前燕に移ります。高句麗も前燕の臣下となっている時代でした。
百済の王は帯方郡太守と娘を差し出して婚姻関係を結ぶことで、馬韓での発言権を大きくしておりました。313年に楽浪郡(前108-313年)が滅ぼされ、315年に帯方郡が高句麗に攻められると、百済に援軍を要請してことから判りますように帯方郡(楽浪郡)に所属していた馬韓は、楽浪郡の消滅と共に馬韓・辰韓が衰退し、高句麗の侵略を受けるようになって行きます。
ところで、『三燕文物精粋』の資料に遼寧省北票県の喇嘛洞ⅡM101号墓出土の龍文透彫鞍は大阪府誉田丸山(応神陵陪塚)2号鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一で、丸山2号鞍は北燕(407-436)の製品である可能性が高いということです。百済と倭国が親密であったということは、百済が北燕の臣下になっていた可能性を示します。同じように百済は帯方郡が滅びた時点で、前燕に冊封したと思われます。そうなると、高句麗は前燕の許可なく百済を攻めることができなくなるのです。
高句麗が滅亡した原因は、隋・唐に冊封していた新羅を勝手に攻めたことが原因であります。冊封が高句麗の侵攻を止めることにはなりませんが、抑止する効果は十分にあったようであり、高句麗の朝鮮南部への侵攻は百済のある西部を避けて東部から進入しています。
342年に前燕の慕容皝(ぼようこう)は5万の軍勢を率いて丸都を襲って、第16代・故国原王(在位331-371)は前燕の臣下となり、朝貢することで滅亡を回避しました。このとき、百済が前燕に冊封していたなら南から高句麗を攻めていたでしょう。楽浪郡・帯方郡の武将や将兵が百済の助けを借りて押し上げたのではないでしょうか。
こうして、多くの属国を増やした百済の第13代近肖古王は、346年頃に漢城(ソウル)を首都と定め、馬韓地域を統一します。
<4世紀、百済が最大勢力を誇った頃>
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〔4世紀、百済が最大勢力を誇った頃〕(旅行前に知っておきたい 百済 百済の歴史HPより)
前燕の臣下となった高句麗は、奪われた国土を取り戻すべく戦いを挑みます。楽浪郡・帯方郡を奪い返した将兵が前燕に対して、好意的であったとは限りません。また、百済が大きい過ぎるのも問題があり、小さな口実を重ねて少しずつ侵攻していったのでしょう。
また、北方からの異民族の進入は、高句麗にとって土地を奪い返す好機になりました。特に前秦(351-394)が建国し、370年11月に前秦が前燕を滅ぼすと、高句麗は領土奪還の好機を得ることになるのです。
前燕が前秦との戦いを激化する360年代になると、高句麗の朝鮮半島南下が激化したのでしょう。391年に高句麗の第19代の好太王が即位すると、周辺への侵攻が一気に加速します。366年に百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため同盟を結びます。さらに397年に百済は倭国に百済阿莘王は王子腆支を人質として倭に送り通好し、399年に百済は倭国に七支刀を献上して友好的な関係を強化しております。また、東晋(317-420)に冊封して高句麗に対抗しようと考えたようです。
しかし、百済の阿莘王は敗戦を続け、399年には高句麗討伐の為の徴発が厳しく、百済から新羅に逃れる者も多く出たと残されています。
『好太王碑文』による、399年から倭の新羅侵攻が起こり、倭は新羅国境に満ちて城池を潰破して、さらに翌400年になると倭が新羅の首都を占領する状況にあったが、この399年に百済は高句麗との誓いを違えて倭と通じている。後に403年には新羅への侵攻も試みていると記載されていますが、実際の所はどうだったのでしょうか。
『三国史記』によれば、百済の阿莘王は、402年5月にも倭国に使者を派遣しており、403年2月には倭国からの使者を迎え、特に手厚くねぎらったとされています。
また、『古事記』に記されている「百済から献上された和邇吉師(王仁)」は阿莘王の時代に相当します。
阿莘王の子、腆支王(てんしおう)は397年に人質として倭国に赴いた王子である。405年9月に阿莘王が亡くなると、次弟の訓解(くんかい)が政治をみて腆支王の帰国を待ったが、末弟の碟礼(せつれい)が訓解を殺して自ら王となった。腆支王は哭泣するとともに帰国することを倭国に請願し、倭国の兵士に伴われて帰国した。国人は碟礼を殺して腆支王を迎え入れ、腆支王は百済の第18代の王(405-420)として即位した。
429年、百済の第20代の王毗有王(ひゆうおう)は宋へ朝貢し、翌430年には腆支王(余映)に与えられていた爵号を継承することが許され、<使持節・都督・百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王>に冊封された。また、433年以来新羅へ使者を送って和親を要請し、贈り物の交換を通じて両国の修好が成立する(羅済同盟)。
553年まで宋・新羅・倭国と同盟を結んで高句麗と対してが、新羅の真興王が百済の漢江流域を奪って同盟関係は壊れ、以後、隋と倭国の同盟を持って対抗する。しかし、百済第30代の武王(ぶおう)の時代になると、隋に朝貢するとともに、高句麗にも相対する二元外交に変わった。
百済第31代の義慈王(ぎじおう)の時代になると、百済も国力を回復し、単独で新羅に攻め、弱体化する新羅は唐と同盟を結んで、660年に百済を滅ぼす。
663年に百済の王子である豊璋(ほうしょう)の願いで百済を救援に赴いたが、手痛い敗北を喫して、百済の滅亡が決定的となった。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-10-1 高句麗(こうくり)

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【高句麗(こうくり)】
高句麗は5世紀末には朝鮮半島の南部を残して、ほとんどを征服した巨大な国家であります。紀元前一世紀に始祖の朱蒙(しゅもう、第1代東明王)が扶余(ふよ)王から迫害されたため南に逃れ、現在の遼寧省桓仁地方の卒本(チョルボン、そつほん)にて高句麗を建国した(紀元前37年)と伝えられます。
『漢書』によれば、高句麗の名は、漢の武帝が紀元前107年に衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡を朝鮮に置いたとき、玄菟郡(げんとぐん)に高句麗族の住地に県城をいくつか設置したと残されます。その高句麗族が県城を攻撃したため、紀元前75年に玄菟郡が桓仁西北の新賓県永陵陳に移されたとされ、紀元前107年から紀元前75年の間に高句麗族が建国している可能性が高いのです。
『三国史記』によれば、3世紀に第2代・瑠璃明王(在位前19-後18)の22年に国内城(集安))に遷都したとあります。高句麗王の伯固(ベツコ)が死去すると、2子の間で王位継承問題が起こり伊夷模(イイモ)が兄の抜奇(バルキ)をおさえて王に推戴された。そこで、伊夷模は卒本から国内城(集安)に移り、そこで新国を建てたという伝承が残されています。
後漢の後に、魏国が遼東の公孫氏を討伐し、楽浪郡や公孫氏が設置した帯方郡を接収して、遼東や北部朝鮮地方を支配下においた。244年から2年間にわたって毋丘倹(かんきゅうけん)を派遣して高句麗を攻撃させました。第11代・東川王(在位227-248)は蹂躙された王都を脱出して沃沮(よくそ)の地に逃れた。
魏志東沃沮伝はさらにこう書き続けています。
「毋丘倹は高句麗を討ち、高句麗王の宮(人名)は沃沮に逃亡した。ついに軍を進めて宮を攻撃した。沃沮の集落はみな破って、首を切ったり、虜にした者が三千人あまりいた。宮は北沃沮に逃亡した。」
「北沃沮は置溝婁(チコウロウ)ともいう。南沃沮を去ること八百余里。風俗は南北とも同じである。北沃沮は挹婁と接している。挹婁は船に乗り略奪することを喜びとしており、北沃沮はこれを畏れている。

夏の間は常に山の嶮しく深い穴の中にいて守り備えている。冬になって海が氷結し、船の航海が不可能になってから山を下り村落に住む。」
「(玄菟太守だった)王頎は別れて派遣され宮を追討した。北沃沮の東の果てへ行き着き、そこの古老に『海の東にまた人がいるだろうか。』とたずねると、古老は言った。『以前、この国の人で、船に乗って魚取りにでて、風のために数十日吹き流され、東の一島に着いたものがいる。そこには人がいて、言葉は通じなかった。その風俗では、常に七月に童女を取りあげて海に沈める。』また言う、『一国がまた海の中にある。女ばかりで男はいない。』また告げた、『海の中から浮き上がった一枚の布の服を手に入れた。その体の部分は中国人の服のようだったが、両袖の長さが三丈もあった。』『また一艘の難破船を得たこともある。波に打ち上げられて海岸のほとりあったが、一人の人がいて、うなじの中にまた顔があった。生きていたが、言葉は通じず、食べることができずに死んだ。』その地域はみな沃沮の東の大海中にある。 」
153
〔三国時代の朝鮮半島地図〕(三国時代の朝鮮半島地図 魏志東沃沮伝より)
三国志の時代、魏国が高句麗を破って、高句麗の宮人は沃沮、さらに北沃沮に逃亡し、そして、倭国に渡ったような記述が残されています。
高句麗は四散しますが、魏国から西晋に王位が禅譲され、280年に呉国を滅ぼすと、腐敗と家督争い、さらに反乱で国力を急激に落としてゆきます。北方の騎馬民族も南下を再開します。
300年に第15代・美川王(在位300-331)が即位して、官位制などを整備して、一元的な身分編成を推し進めて国家体制を固めると、ついに313年に楽浪、ついで帯方の二郡を滅ぼして、半島南部へ進出する足場を固めました。
しかし、五胡十六国時代の混乱の中から台頭してきた慕容氏(ぼようし)の前燕が319年に遼東を確保すると、高句麗と前燕の間に新たな抗争が始まったのです。
342年、前燕の慕容皝(ぼようこう)は5万の軍勢を率いて丸都を襲い、第16代・故国原王(在位331-371)は前燕の臣下となり、朝貢することで滅亡を回避しました。
この作られた高句麗の最初期の壁画古墳である安岳3号墳は、日本の前方後円墳や前方後方墳などに大きな影響を与えているとも言われています。
また、美川王の時代からはじまった南進により、南部から勃興してきた百済(ペクチェ、くだら)とも戦火を交えることになります。
369年、高句麗の第16代の王(在位331年 - 371年)故国原王(ここくげんおう)は百済を攻撃しましたが敗退し、2年後に平壌地方に逆襲してきた百済軍の流れ矢に当たって戦死します。 故国原王のあとに即位した小獣林王(在位371-384)、兄の後を継いだ故国壌王(在位384-391?) は国政の立て直しを迫られ、律令の制定などを推し進めることで難局を乗り切ることになります。
370年、前秦の符堅は前燕を滅ぼし、燕王の一族の慕容評が高句麗に逃げました。小獣林王は、慕容評を捕らえると符堅の許に護送すると、372年6月に符堅は返礼として、高句麗に使臣を遣わし、僧の順道(じゅんどう)と仏像・経文を送ってきたのです。さらに、2年後の374年には、僧の阿道が高句麗にやってきます。小獣林王は省門寺と伊弗蘭寺を創建し、順道と阿道をそれぞれの寺に住まわせました。

こうして高句麗への仏教伝来が始まったのです。
ところで苻堅には保護されていた前燕の初代皇帝慕容皝の5男である慕容垂がいました。しかし、苻堅の庶長子苻丕の非礼に腹を立てて兵を起こして、384年1月に後燕を建国します。
苻堅が没し、庶長子苻丕(ふひ)が継ぐと、苻丕と争いながら勢力を拡大し、河北一帯を支配しました。

392年6月には翟魏を、394年8月には前燕の継承権をめぐって抗争していた同族の西燕を滅ぼし、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げます。
その頃、隣の高句麗は391年に第19代の王、好太王(こうたいおう、在位391-412)が即位します。広開土王または広開土大王とも呼ばれ、その名の通りに高句麗の領土が遼東から朝鮮半島の南部まで伸ばします。
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〔広開土王の領土〕(ドラマと史実の 広開土大王の時代 徒然 あさやんの史記と四季より改変)
400年の朝鮮南部への出兵は、倭国にも大きな影響を与えています。高句麗に大敗した百済は王子を人質に出して、倭国からの救援を求めます。高句麗5万の大軍が新羅を陥落させた勢いで伽耶まで兵を進め、從拔城を攻めると城の兵民は高句麗に降伏した。しかし、倭軍は背後から新口城、塩城を攻撃して陥落させた。
いずれにしても、高句麗・百済・新羅・伽耶・安羅・倭の軍が入り乱れての戦いを繰り返し、高句麗は朝鮮半島の実質的支配権を手に入れてゆきます。
その後、中華の争乱を鎮め、新興してきた隋・唐と交戦となり、侵攻される数は11回、その大国相手に一歩も引かない戦いを繰り広げた高句麗ですが、最後は家督争いから内乱を生じ、その間隙を付かれて、668年に滅亡します。
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〔隋と唐の侵攻ルート〕(高句麗の発展と滅亡HPより)

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10章 朝鮮三国情勢と倭国
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10.朝鮮三国情勢と倭国
ヤマト王朝が倭国王である邪馬台国を滅ぼしたなどという文言が日本書記や古事記に書かれることはありません。それどころか、100年以上も後の神功皇后が卑弥呼であると書き止める有り様です。
正始8年(247年)、邪馬台国の卑弥呼は句奴国との戦いに苦戦し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されてきます。張政はそれから20年間も倭国にいたとも言われています。
句奴国のウガヤフキアエズ(イワレビコの父)は句奴国の勢力拡大を図り、イワレビコ一向に東征を命じ、イワレビコは241年に見事に達成しました。ヤマト王朝が畿内を平定し、次に邪馬台国の勢力下と思われる丹後国の平定に乗り出します。イワレビコに連れ従った従者の名や五ツ瀬の部下の名が丹波の神社の祭神とされております。そして、イワレビコを助けた天香語山命(高倉下)は越(こし、新潟地方)の開拓祖神として、多くの伝承が残っております。
いずれにしろ、ヤマト王朝が勢力を拡大したのは綏靖(すいぜい)天皇の時代と思われ、邪馬台国と句奴国の戦いに直接的に兵を送ったなどという記録はありません。しかし、句奴国の勢力が拡大することは、邪馬台国を構成する小国に動揺を誘い、句奴国が有利に戦えたでしょう。しかし、句奴国にとって都合のいいことばかり起きた訳ではありません。句奴国とその属国〔豊・安芸・吉備・大和〕と思っていたのが、大和王朝と連合国〔句奴国、豊・安芸・吉備〕に変わっていたのです。
神武天皇の子、日向の長男であったタギシミミ(多芸志美美命)は、ヤマトのカムヤイミミ(神八井耳命)、ヒコヤイ(日子八井命)、カムヌナカワミミ(神沼河耳命)の3人を殺そうと企みます。神武天皇の皇后であったヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)がそれを歌で知らせて、逆にタギシミミを討ったとあります。この際、カムヤイミミがタギシミミを殺すのに失敗し、成功したカムヌナカワミミに皇位を譲ったという美談なのか、笑談なのか、判らない話になっております。
要するに、お家騒動が起こって、他国との戦争どころではなくなったというのが事実でしょう。邪馬台国にとってありがたい話だったに違いありません。しかし、そんな良い話だけが舞い込んだ訳も御座いません。
280年、建業に王都を置いていた呉国が、政治腐敗と反乱で国が弱体化しているところに司馬炎の晋国(265-316)が20万人の兵を送って来て呉国を滅ぼした。
『三国志』呉書には、
「呉は西暦222年に建国され四代続いたが、孫皓の時に西晋によって滅ぼされた(280年)。その末期、呉軍が敗戦を重ね、首都建業(南京)が陥落寸前になったとき、呉の軍勢2万を乗せた大型軍船群が一夜にして消え去った。」
と書かれている。
中華の表記は大袈裟なものが多いので、二万という軍勢は眉唾としても、相当多くの大型軍船が姿を消したのは間違いないであろう。少なくとも200~1000人単位の亡命者が倭国に大挙してやって来たと思われます。
しかし、ここで問題にされるべきは人数ではなく、大型帆船の技術が日本に飛来したことが重要なのです。280年(3世紀末)に渡来した技術は間違いなく4世紀の大航海時代を生んだのです。
さて、中華を統一した晋国も八王の乱(はちおうのらん)が起こり、304年には早くも分裂を始め、五胡十六国時代に突入します。黄巾の乱から三国時代、そして中華統一されたのも束の間のことで、これより隋が再統一するまで100年間の戦乱の時代が続くのです。
この西晋の八王の乱・五胡の混乱に乗じて、遼東半島から楽浪郡を占拠(312年)したのが高句麗(こうくり)です。高句麗はさらに北の遼西、東の朝鮮半島へと勢力を拡大します。馬韓と辰韓は高句麗の脅威と立ち向かう過程で百済と新羅が急速に国力を増してゆきました。
何のこっちゃ?
読んでいて意味が判らない方も多いでしょう。
要するのに、中華で動乱が起きると大量の難民が発生します。それこそ10万人とか、20万人とかいうレベルではありません。
『晋書』地理志によれば、西晋の人口(280年)は1616万3863人だったのに対して、『十六国春秋』前秦録によれば、十六国の人口(370年)は988万7935人と記されています。その差、618万人となります。
尤も数字は余り当てにはできませんが、間違いなく大量の難民が朝鮮半島や倭国に押し寄せたのは間違いありません。日本の弥生時代後期から古墳時代への遺跡住居数の数は倍に膨れ上がっています。単純に食糧が安定した為に人口が増加したという訳でもありません。
この時代は『倭国大乱』と呼ばれ、日本中で紛争が勃発していた時期と思われます。
戦果で人が減るのではなく、増える?
つまり、大量の渡来人がやってきたという証拠なのです。
百済や新羅の王は積極的に難民を受け入れたのではないでしょうか。その難民を兵として、並み居る部族を討ち倒し、配下にして国を統一し、高句麗と戦う国家を作り上げたのです。当然、百済や新羅は倭国へも領土拡大の手を伸ばしたことでしょう。

さて、少し人口の話をしてみましょう。
中国の全国的な戸籍登録人口の最古の記録は、前漢の平帝の元始2年(2年)の数字です。人口59,594,978人、戸数12,233,062戸
約6000万人というのは、この時代にしては大きな数字です。しかし、実際は課税対象外の少数民族や奴婢が含まれていませんから、約8000万人はいたと推測されます。
西晋(265~316年)の『帝王世紀』という書物には、夏王朝(紀元前17世紀~紀元前1046年)の人口として13,553,923人という数字が残されていますが、4000年も前の人口が1億3000万人なら秦や漢に至るまでどれだけの残弱な行為が行われたのかという疑問が湧きます。
甲骨文字の中に好という王妃が一万三千人の軍隊を率いて西の異民族と戦ったという記録が残っていますから、相応の人口があったことは想像できますが、1億3000万人なら100万の軍が最低でも編成できます。
編成した規模から夏や周の人口は、おおよそ300万人から1000万人程度ではないかと推測されます。
春秋時代(紀元前770-前403年)の『周礼』によれば、一般に、戦車1両につき、馬4頭、甲士10人、歩兵20人が随うと規定されており、春秋時代後期の各国の戦車保有数の合計は25,000両であり、単純計算すると各国の兵力合計87万5千人となります。
古代中国の徴兵率は5人に1人だったそうなので、これも単純に十二諸侯と考えて、
87万5千×5×12=5250万人
でしょうか?
実際、十二諸侯が25,000両を揃えることができる訳もありませんし、5250万人は大き過ぎる数字でしょう。加藤徹の説によれば、春秋時代は500万人と言われています。
戦国時代(紀元前403-前221年)、『戦国策』によれば、蘇秦で「臨淄には七万户,户三男子,側臨淄之卒可得二十一万」とあり、七万戸がそれぞれ3人の男を出し、21万の兵を得たとして、七国の兵約700万を出すには250万戸が必要となります。『孟子』の記述で当時は一戸の平均が8人だったという記録がありますから、250万戸×8で2000万人という数字がでてきます。
これに宋、衛、中山、東西周、泗上小侯および蜀、閩、粤等の小国を加えたら約3000万人であろう、というのが梁啓超の説です。
秦・漢の時代は、元始2年の記録を元にすれば、約8000万人というのは比較的に信用できる数字です。しかし、前漢末、六千万人近かった戸籍登録人口は、光武帝の治世末期の中元2年(西暦57年)の戸籍登録人口は、わずか21,007,820人にすぎなかった。六千万から二千万へと激減しています。人口の低下というより、統治能力の低下がこの数字に表れています。
魏・呉・蜀の三国戸籍登録人口は、魏が4,432,881人(263年)、蜀が940,000人(263年)、呉が2,300,000人(280年)と、三国合計でも1000万人に届きません。
三国を統一した西晋(265-316年)の戸籍登録人口は16,163,863人(280年)でした。
つまり、西暦2年で8000万人いた人口が西暦280年には1600万人と5分の1まで激減した。

そりゃ、北方の遊牧民族が大挙して中華に押し寄せてくる訳です。逆に、100万人から1000万人の難民が周辺諸国に流れていった訳です。

一方、倭国と朝鮮の人口はどうでしょうか。
魏志倭人伝では、倭人は(朝鮮の)帯方(郡)(魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城付近)の東南の大海のなかにある。山(の多い)島によって国邑(国や村)をなしている。もとは百余国であった。
一支国、三千(戸)
末盧国、四千余戸
伊都国、千余戸
奴国、二万余戸
不弥国、千余戸
投馬国、五万余戸
邪馬台国、七万戸
計十四万九千戸余(一戸5人とすると、72万5000人余)
魏国の人口が443万人に対して、十分な人口を持つ大国だったのです。
公孫氏の領土、魏の支配下にはいった時点(237年)で、
遼東郡、玄菟郡、楽浪郡合わせ六万戸、三十万人。
帯方郡四千戸、二万人
馬韓 五十国 十万余戸、(50万人?)
辰韓、弁辰 二十四カ国 五万戸、(25万人)
と記録が残されています。 

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4世紀から5世紀に掛けて、倭国の人口が異常に伸びているのは、農業の飛躍的な進化と難民の流入ではないかと推測されます。大陸・半島の政治状況が倭国に大きく影響し、特に難民問題は国家存亡の危機を起こします。
同じ3世紀、ユーラシア大陸の西側ではゲルマン民族の南下で大帝国のローマが滅亡し、高度な文明が消えて、石器時代のような生活に逆戻りします。中華では、そういった文明の逆進性は起こりませんが、促進と停滞を交互に繰り返す歴史を歩みます。そして、その停滞期(人口減少期)には、周辺国への流出が起こり、周辺国が騒乱期を迎えるという歴史を繰り返すのです。
しかし、半島の詳しい記録が残されていないのは、朝鮮半島の歴史が自虐的、あるいは自己否定的な側面が強く、歴史を正面から見ようとしない為であり、少ない資料は非常に推測を難しくします。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-9 神武の東征(後篇)

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 9章 神武の東征(後篇)
>8章へ戻る 神武の東征(中篇)
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9.神武の東征(後篇)
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)の東征で熊野まで迂回するように塩土老翁(シオツツノオジ)が言ったのでしょうか?
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〔紀の川河口からの航空写真〕(紀の川 万葉香の悠久の歴史と自然の川 国土交通省HPより)
そもそも大和王朝の時代において大量の物資を運ぶ場合は、船で吉野川から紀の川に下って運び出します。国土交通省HPに乗っている紀の川河口からの写真を見ると、ほぼ一直線に奈良盆地に繋がっているのがよく判ります。紀の川を遡り、金剛山から葛城山の裏を通れば、奈良に入ることができるのです。
紀の川の河口である名草地方(現:和歌山市海南市)を治めていたのは、名草戸畔(なぐさとべ)とされる女性首長だったと伝えられております。イワレビコは浜の宮海岸付近に上陸して、名草戸畔と交戦して討ち取りました。この「名草戸畔」の頭は慕っていた村人が持ち帰り、神社の裏山に埋められ宇賀部神社が祀っていると伝えられています。
宇賀部神社の宮司である小野氏はこう語ります。
「神武軍は名草軍に撃退されて仕方なく熊野に行った。しかし最終的に神武が勝利し天皇に即位した。そのため名草は降伏する形になったが、神武軍を追い払った名草は負けていない」
確かに言われると合点が往く話であります。
航空写真を見ても判るように、名草戸畔に勝ったイワレビコは川を遡っていかなかったのでしょうか。結局、イワレビコ一向は名草戸畔の首を討ったが平定するまでは至らなかった。むしろ名草戸畔を討ったことで抵抗する者が増えたのかもしれません。イワレビコは追い出されるように紀伊水道を上っていったのかもしれません。
イワレビコ一向は狭野(和歌山県新宮市)を越え、熊野の神邑を東に向かったところで、イナヒ(稲飯)とミケヌ(三毛野)が離脱します。イナヒは母親のいる海原へ行き、ミケヌは常世へ渡ったと残されております。
純粋に考えれば、遭難して命を落としたと捉えるべきなのでしょうが、イナヒ(稲日)はイナミ(印南) とも呼ばれ、ハリマ(播磨)の別名であります。一方、ミケヌは高千穂で『鬼八(きはち)』という悪神が民を苦しめていたので、これを退治して高千穂を治めたという伝承が残っております。もしかするとイワレビコを残して、二人は東征を諦めて帰ったのかもしれません。
いずれにしろ、熊野灘で難破したイワレビコ一向は熊野の荒坂津に二人の兄を失います。命からがら漂着した英虞崎(あごさき)からは、船を捨てて陸路を移動することになります。
イワレビコ一向が移動したのは、丹敷浦(ニシキウラ)であり、熊野川河口の那智勝浦当たりのです。そこで丹敷戸畔(ニシキトベ)という地元の首長を討ったのですが、イワレビコ一向達は心魂疲れ果てて倒れたそうです。この最大の危機を救ってくれたのが、高倉下(タカクラジ)でした。高倉下はタケミカヅチノカミが高天原より下した『一横刀』(十掬の釼)を持って駆け付けて、イワレビコ一向達の眠りを覚ましてくれたのです。
日本書記や古事記には都合の悪いことを極力隠そうという努力が見受けられます。出雲に侵略したという表現を使わずに『国譲り』したと柔らかく書いております。ニギハヤヒとイワレビコの時代が異なるのに、記紀ではニギハヤヒがイワレビコに降ったと書き、時代は進みますが、天皇家に忠義の厚い蘇我蝦夷と入鹿を大悪党にしております。しかも律令制の立役者であった蘇我氏の手柄を藤原氏がすべて根こそぎ奪いとっているのです。
はっきりと申しましょう。
五ツ瀬に付き従い吉備まで順調に進んだ東征ですが、日下、男水門、名草と悪戦苦闘が続き、熊野の荒坂津に至ったところでイナヒとミケヌは東征を諦めて逃げ帰ったのです。残ったのは五ツ瀬に忠誠を誓った部下とイワレビコを慕う者達だけになってしまった。戦力が半分に減ってしまったのです。なんとか丹敷戸畔(ニシキトベ)という地元の首長を討ったのですが、もう精魂尽き果てて、熊野川を遡って奈良に到ることができるのだろうかと意気消沈していたのです。もうここから進む気力もないという所に高倉下が『一横刀』(十掬の釼)を携えて援軍にやってきたのです。
高倉下は『先代旧事本紀』巻5天孫本紀で物部氏の祖神である饒速日命(ニギハヤヒ)の子で尾張連らの祖天香語山命の割註に天降の名手栗彦命のまたの名が高倉下命である。饒速日命に随伴した神々は、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降った。
【防衛の人 32神】
1.天香語山命(あまのかごやま)  尾張連等の祖   日本書紀に天火明命の子とある。天孫本紀では天火明命と饒速日尊は同一神とするため、天香語山命も饒速日尊の子となっている。
2.天鈿賣命(あまのうずめ)    猿女君等の祖
3.天太玉命(あまのふとだま)   忌部首等の祖
4.天兒屋命(あまのこやね)   中臣連等の祖  
 

記紀では、これらの神々はともに「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」の降臨に供奉したとなっている。
5.天櫛玉命(あまのくしだま)   鴨県主等の祖   伊勢国風土記逸文には、出雲建子命の別名とあり、またの名を伊勢津彦神とある。石の城を築き、阿倍志彦神の襲来を撃退したという。また、伊勢津彦神は伊勢の国を治めていたが、神武天皇の派遣した天日別命に国譲りを迫られたため伊勢を明け渡したが、自らはその軍門に降ることを潔しとせず、「八風を起こし海水を吹き上げ、波浪に乗って」信濃の国に去ったとある。
6.天道根命(あまのみちね)   川瀬造等の祖   新撰姓氏録和泉神別に神魂命の五世孫とある。
7.天神玉命(あまのかむたま)   三嶋県主等の祖   神代本紀には、神皇産霊尊の子として「天神玉命:葛野鴨県主等祖」がある。
8.天椹野命(あまのむくの)    中跡直等の祖  
9.天糠戸命(あまのぬかと)    鏡作連等の祖
10.天明玉命(あまのあかるたま)  玉作連等の祖   記紀に瓊々杵尊の降臨に供奉した神として登場。
11.天牟良雲命(あまのむらくも)  度会神主等の祖   天孫本紀に尾張氏の祖として「天村雲命」がある。同一神であれば、天香語山命の子で饒速日尊の孫となり、異なる場合には、豊受大神宮禰宜補任次第に「天牟羅雲命」があり、瓊々杵尊の降臨に従った神ということになる。
12.天背男命(あまのせお)   山背久我直等の祖  新撰姓氏録山城国神別に神魂命の五世孫とあって、天神系であることが分かる。日本書紀にある「香々背男」が「久我背男」のことならこの神と同一で、瓊々杵尊以前に天降っていたという旧事本紀の記述は、建葉槌命や経津主命、武甕槌命に討たれたことと対応する。
13.天御陰命(あまのみかげ)   凡河内直等の祖  新撰姓氏録左京神別に天津彦根命の子とある。天津彦根命は天照大神が素戔鳴命との誓約の時に生んだ子である。天御影神は近江の国、野洲の三上山の神であり、子の息長の水依姫は日子坐命(開化天皇皇子)と婚して丹波の美知能宇斯王、水穂の真若王らを生んだと古事記にある。
14.天造日女命(あまのつくりひめ)  阿曇連等の祖  他の文献には見られない。天道日女命の誤記とすれば、天孫本紀にある饒速日尊の妃神(天香語山命の母)となる。
15.天世平命(あまのよむけ)   久我直等の祖 
16.天斗麻弥命(あまのとまね)   額田部湯坐連等の祖 新撰姓氏録摂津国神別に天津彦根命の子とある。
17.天背男命(あまのせなお)   尾張中島海部直等の祖  
18.天玉櫛彦命(あまのたまくしひこ)  間人連等の祖 新撰姓氏録左京神別に玉櫛比古が神魂命の五世孫とある。
19.天湯津彦命(あまのゆつひこ)  安芸国造等の祖   国造本紀の阿岐国造、白河国造の条に見える。白河国造条では、「天降天由都彦命」とあって、天降ったことが強調されている。
20.天神魂命(あまのかむたま 別名・三統彦命) 葛野鴨県主等の祖 神魂命は神産巣日神と同一視する説もある。
21.天三降命(あまのみくだり)   豊田宇佐国造等の祖 豊田は豊国の誤記であろう。
22.天日神命(あまのひのかみ)   対馬県主等の祖  対馬県主は、新撰姓氏録未定雑姓・摂津国神別に津島直・津島朝臣が天児屋根命から出るとあり、中臣氏系と見ることができるかもしれない。
23.乳速日命(ちはやひ)   広湍神麻続連等の祖
24.八坂彦命(やさかひこ)   伊勢神麻続連等の祖  他に名前が見えず、未詳。
25.伊佐布魂命(いさふたま 別名・天活玉命) 倭久連等の祖   姓氏録摂津国神別に、五十狭経魂命が角凝魂命の子であるとされ、天神系と分かる。
26.伊岐志邇保命(いきしにほ)   山代国造等の祖  他に名前が見えず、未詳。
27.活玉命(いくたま)    新田部直の祖   他に名前が見えず、未詳。
28.少彦根命(すくなひこね)   鳥取連等の祖   似た名の少彦名命(すくなひこなのみこ

 

と)との関係は不明。
29.事湯彦命(ことゆつひこ)   畝尾連等の祖  姓氏録和泉国神別に畝尾連は天児屋根命から出るとある。
30.(八意思兼神の子)表春命(うははる) 信乃阿智祝部等の祖
31.天下春命(あまのしたはる)   武蔵秩父国造等の祖   八意思兼神は記紀によって天神であることが分かり、国造本紀には知知夫国造条に名前が見える。その子の、表春命、下春命は高橋氏文に「知々夫国造上祖、天上腹、天下腹人」とある人名と関係するものと思われ、天降ったことが分かる。
32.月神命(つきたま)    壱岐県主等の祖  姓氏録右京神別に壱岐直は天児屋根命か

 

ら出るとある。
【五部人(いつとものひと】
1.天津麻良(あまつまら)   物部造等の祖  姓氏禄の和泉国神別大庭造条に神魂命八世孫とあり、天神系。
2.天勇蘇(あまのゆそ)    笠縫部等の祖 (摂津説)東生郡笠縫、(大和説)城下郡笠縫、(大和説)十市郡飯富郷十笠縫村
3.天津赤占(あまつあかうら) 爲奈部等の祖 (摂津)河辺郡為奈郷、(伊勢)員弁郡
4.富々侶(ほほろ)      十市部首等の祖。和名抄に鞍手郡十市郷と見え、この地か?(大和説)十市郡
5.天津赤星(あまつあかほし) 筑紫弦田(つるた)物部等の祖。筑前の国鞍手郡鶴田の地か?(現福岡県鞍手郡宮田町)宮田町磯光に、天照神社があり、この神社は饒速日尊が祭神である。(大和説)平群郡鶴田
【伴領(とものみやつこ)】
1.二田造  筑前の国鞍手郡二田郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)
2.大庭造  新撰姓氏禄に神魂命八世孫・天津麻良命の後裔とある。
3.舎人造
4.勇蘇造
5.坂戸造

【天物部(あまのもののべ)25部】
1.二田物部 筑前の国鞍手郡二田郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)。筑後の竹野郡二田郷とする説も。
2.当麻物部 肥後益城郡当麻郷。(大和説)葛下郡当麻郷。
3.芹田物部 鞍手郡生見郷芹田村。(大和説)城上、城下、平群各郡芹田。
4.鳥見物部 北九州の鳥美(登美)とすれば、豊前の国企救郡足立村富野とする説が有力。(現北九州市小倉北区富野)馬見物部とすれば、馬見神社(福岡県嘉穂郡嘉穂町、馬見古墳群)(奈良説:奈良県大和高田市)
5.横田物部 嘉麻郡横田村。(大和説)添上郡横田村。
6.嶋戸物部 「島門は遠賀川西岸にある。埴生郷の北で垣前郷に属する村であろう。」(吉田東伍:大日本地名辞書)高倉神社「大倉主命、菟夫羅媛命」(福岡県遠賀郡岡垣町)、岡湊神社「大倉主命、菟夫羅媛命」(福岡県遠賀郡芦屋町)
7.浮田物部 (大和説)添上郡浮田村。
8.巷宣物部
9.疋田物部 鞍手郡疋田。(大和説)城上郡曳田。
10.須尺(酒人)物部 酒人説は、須尺は、酒人の草書を見誤ったものとする。
11.田尻物部 筑前上座郡田尻村。(大和説)葛下郡田尻村。
12.赤間物部 筑前宗像郡赤間。
13.久米物部
14.狭竹物部 鞍手郡粥田郷小竹村。
15.大豆物部 筑前穂波郡大豆村。
16.肩野物部 (河内)交野
17.羽束物部 
18.尋津物部
19.布都留物部
20.住跡物部
21.讃岐三野物部
22.相槻物部
23.筑紫聞物部 「聞」は、豊前の国の企救郡を指すと思われる。(現在の北九州市小倉区・門司区のあたり)
24.播麻物部
25.筑紫贄田物部 筑前の国鞍手郡新分(にいきた)郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)
二田物部と坂戸物部は「姓氏録未定雑姓」に、饒速日命が天降った時の従者「二田天物部」「坂戸天物部」の後裔とある。日本書紀に拠れば、神武東征で、天皇は紀州を廻って大和に入る時、金色の鵄(トビ)が飛び来たりて天皇の弓にとまり、その鵄の光が流電の如く輝いて、長髓彦の軍兵は戦えなくなった。これが、鵄山、鵄邑(鳥見村・富雄)の起源であるとされているが、鳥見という地名がもともとからあったものではないようにも見える。だとすれば鳥美(登美)という地名も、饒速日の尊達が北九州から持ってきた地名のように思われる。

【船長・梶取等】
1.天津羽原(あまつはばら)  船長跡部首等の祖  跡部首は他に見えないが、河内の国の渋川郡跡部郷や、伊勢の国の安濃郡などには跡部の地名があり、それらのいずれかを率いた伴造ではないか。また、跡部は阿刀部と等しく、阿刀物部と同じとも考えらる。新撰姓氏禄摂津国神別、山城国神別の阿刀連は饒速日命の後裔とあるので、阿刀部も物部系と見ることが出来よう。
2.天津麻良(あまつまら)  梶取阿刀造等の祖  梶取は現代風にいえば操舵手、航海長のようなもの。阿刀造は後に連姓になり、天武朝には宿禰姓となっている。新撰姓氏禄左京神別に「石上同祖」とあり、物部氏族であることがわかる。
3.天津真浦(あまつまうら)  船子倭鍛師等の祖  古事記の天の岩戸の段に「鍛人・天津麻良」と、日本書紀の綏靖即位前紀に「倭鍛部・天津真浦」が見える。それぞれ祭祀用の金属器の製作と関係していりようである。武器の他に、船の金属部品や工具の製作、修理に携わったもかもしれない。
4.天津麻占(あまつまうら)  笠縫等の祖
5.天都赤麻良(あまつあかまら)曾曾笠縫等の祖  
6.天津赤星(あまつあかほし)  爲奈部等の祖  応神三十一年八月紀に、爲奈部が新羅系の船大工集団だったとある。新撰姓氏録未定雑姓に為奈部首は伊香我色乎命の六世孫・金連の後裔とあり、物部氏の配下に属していたようだ。
この『先代旧事本紀』を見れば、饒速日命はそうそうたるメンバーを引き連れてやってきたことが伺えます。彼らの多くは神社などの縁を辿ると近畿一円と主に香川や和歌山に土地を与えられたように思えます。
一方、邇邇芸命が天孫降臨したときに、随行した神々は主に以下のメンバーです。
天兒屋命(あめのこやねのみこと)、
布刀玉命(ふとだまのみこと)、
天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、
伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)、
玉祖命(たまのやのみこと)、

 

常世思金神(とこよのおもひかねのみこと)、
手力男神(たぢからをのみこと)、
天石門別神(あめのとはとわけのみこと)
登由宇氣神(とゆうけのみこと)、
櫛石窓神(くしいはまどのみこと)<亦の名は豐石窓神(とよいはまどのみこと)>
手力男(の)神は佐那那縣(さなながた)に坐す。故、その天兒屋(の)命は、中臣連等の祖。布刀玉(の)命は忌部首等の祖。
天(の)宇受賣命は、猿女君等の祖。
伊斯許理度賣(の)命は、作鏡連等之祖。
玉(の)祖(の)命は、玉祖連等の祖。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は、鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖。
玉(の)祖(たまのおや)の命は玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖。
同神が邇邇芸命と饒速日命に同行しているのを、どう解釈するかは別の話として(神々の名称は総称に過ぎない)、ここで重要なことは、天香語山命(高倉下命)が味方としてやってきたことです。そして、もう一つは『一横刀』(十掬の釼)を持っていたという事実なのです。

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『先代旧事本紀』によれば、大己貴神の娘から生まれた天香山命が高倉下であり、『海部氏系図』によれば、素盞嗚尊の娘から生まれたのが熊野高倉(高倉下)となっている。いずれにしろ、ウマシマジと異母兄弟であることが重要です。
高倉下がイワレビコを助力することで、
ニニギ VS ニギハヤヒ
だった戦いの構図が、
ウマシマジ VS 高倉下(イワレビコ)
と大きく変化したのです。
ニニギとニギハヤヒは同族ですが、もう100年以上も前に分かれた一族です。今更、新たの王と言われても素直に受け入れられるものではありません。三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者達は、ニニギに対しては敵対者として共闘したのです。しかし、同じニギハヤヒの子同士の戦いに変わったことで心情が大きく変化しました。つまり、「西方から来た侵略者との戦い」から「お家騒動」に変わったのです。
そして、もう一つ重要なことは、高倉下が『一横刀』(十掬の釼)を持っていたことなのです。一横刀はタケミカヅチが所有していた布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とも呼ばれる霊剣でした。そんな御大葬なモノを所有できる神は猿田彦しか考えられないのです。
猿田彦は非常に不思議な国津神であり、ニニギが天孫降臨の道案内をした神です。ニニギが日向に到着した後にアメノウズメを妻として故郷に帰ったとあります。猿田彦は伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとあるので、猿田彦の拠点は伊勢の国です。
猿田彦の面立ちは、鼻長が七咫、背長が七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であったと書かれております。どこかで聞いたと思えば『天狗様』のモデルの神様です。
滋賀高島市の『白鬚神社』は全国の白鬚神社の総本社であり、祭神は猿田彦神を祀っております。猿田彦は白鬚明神とも呼ばれ、白髪の老人で長寿の神様と崇められております。
そして、志波彦神社・鹽竈神社(しわひこじんじゃ・しおがまじんじゃ)では、塩竈大明神として猿田彦神が祀られているのです。この志波彦神社の別宮の主祭神は『塩土老翁神』となっており、左宮は『武甕槌神(タケミカヅチ)』、右宮は『経津主神(フツヌシノカミ)』が祀られているのです。
経津主神は刀剣の威力を神格化した神と呼ばれ、布都御魂の剣を神格化した神とも呼ばれています。利根川を挟んで経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮が東国からの結界として祀られております。
見事に繋がりました。
この他にも『住吉大社神代記』 にも
「亦、西国見丘あり、東国見丘あり、皆大神(※住吉三神)、天皇に誨え賜いて、塩筒老人に登りて国見せしめ賜いし岳なり」
と書かれ、住吉三神が塩土の老爺に国見をさせたとあります。
また、堺市にある開口(あぐち)神社の祭神が塩土老爺の神他二座であり、社伝では、神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝えています。
記紀において、山幸彦が兄(海幸彦)に借りた釣り針をなくして、海辺で困っているとやって来て、海神の宮へと送り出したのも塩土老翁です。
考えてみれば、ニニギが降臨した後に、猿田彦と塩土老翁が役割を交代したかのように進むべき道を進める役目を担っているのです。
他にも同一神ではないかと言われるのが、アメノトリフネである。
アメノトリフネ・天鳥船・鳥之石楠船神(トリノイハクスフネノカミ)・鳥磐?樟橡船(鳥之石楠船神、トリノイワクスフネ)・天鳩船(アマノハトフネ)・熊野諸手船(クマノノモロタノフネ)
乗り物のような名前であるが、『古事記』では、
『次に生める神の名は、鳥之石楠船(トリノイハクスブネ)神、亦の名は天鳥船(アメノトリフネ)と言ふ。次に大ゲツヒメノ神を生みき。次に火之ヤギハヤヲノ神を生みき。亦の名は火之カガビコノ神と言ひ、亦の名は火之迦具土神(ヒノカグツチ)と言ふ。この子を生みしによりて、美蕃登(ミホト)灼かえて病み臥せり。』
カグツチが生まれる前に出て来た神である。カグツチからフツヌシ、タケミカヅチが生まれているので兄に当たる存在である。
ところで、『日本書記』で登場するニギハヤヒは、
『饒速日命、天磐船(あめのいわふね)に乗りて、太虚(おほぞら)を翔(めぐり)行きて、是の郷を睨りて降りたまふ』
と書かれているが、この“天磐船に乗りて”ではなく、“導かれて”ならば、

天磐船=鳥之石楠船神=天鳥船

ということになります。
すると、タケミカヅチ、ニギハヤヒ、ニニギのすべてに同一神の案内人が付いていたことになるのです。
ところで、この猿田彦と塩土老翁の趣きに似ている人物がもう一人いるのです。
それが『武内宿儺』なのです。
武内宿儺は老翁(おきな)の姿で仲哀天皇に従い、助言や導き手として活躍した。仲哀天皇が亡くなられたあとも神功皇后のそば近くで仕え、乳飲み子の応神天皇に寄り添って、九州からヤマトまで導いたのです。結局、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代に渡る忠臣とされているのです。
問題は武内宿儺が紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖とされている処なのです。特に日本書記を編纂した藤原氏にとって葛城氏・蘇我氏が邪魔な存在だったのです。
〔天鳥船〕=〔猿田彦〕=〔塩土老翁〕=〔武内宿儺〕
神代の時代から天孫を導く一族であったという事実は、蘇我氏を滅ぼした藤原氏にとって都合が悪かったのです。
ですから、猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか)の海で漁をしていたときに比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれてあっけない最後を迎えます。このとき、海に沈んてゆく「底どく御魂」、吐いた息の泡が昇る「つぶたつ御魂」、泡が水面で弾ける「あわさく御魂」の三柱の神を生んだそうです。
因みに、猿田彦神の御母は伎佐貝比売(きさがいひめ)と称していますから、これは猿田彦神の御母である伎佐貝比売の神量(かむはかり)であり、国譲りでオオクニヌシが幽冥界に旅だったように、猿田彦も海界に旅だったのでしょう。
こうなると、志波彦神社・鹽竈神社の順列が鮮明になりました。
祭神:塩竈大明神(猿田彦)
別宮:塩土老翁神
左宮:武甕槌神(タケミカヅチ)
右宮:経津主神(フツヌシノカミ)

塩土老翁は武甕槌神を導いた兄神的な存在であり、塩土老翁の傍らに経津主神(布都御魂剣)が連れ添っていてもおかしくない存在なのです。

さて、神々の話はこの程度にしましょう。
国津神として天孫を導いた猿田彦の一族は、天孫族より先に倭国にやってきた渡来人と考えるべきなのです。彼らは自らの国を作らずに流通を支配して原住民や渡来人に利益を享受していました。商王朝の“商”から商人という言葉が生まれています。海という交通を自由に行き来し、物資を交換することを生業とした一族、倭国を1つの交易圏として繁栄していたのです。ですから、そして、後から来る渡来人によって、ゆっくりとその本質が変化していったのではないでしょうか。
紀元前2世紀に北九州の大分県の九重・由布火山の大噴火で民族大移動を行う必要があり、猿田彦の一族は率先して協力しました。同じようにスサノオの導き手として、佐太御子大神(サルタヒコ)がいたのです。出雲の一の宮が熊野大社(祭神:スサノオ)に対して、二の宮は佐太神社(祭神:サルタヒコ)でした。国譲りでスサノオの一族は丹波から越前・越中・越後、近江を通って美濃・尾張・三河と移動し、あるいはタケミナカタが討伐した諏訪・武蔵野へと移住したのです。
猿田彦の一族は天孫を導き、スサノウの一族も導く、アフターケアー満載の一族だったということがよく判ります。
商人の本道は物量の安定にあり、国が安定しているほど流通にとって都合がよいのです。縄文時代から弥生時代前期は部族同士の戦いはありましたが、支配するとかいう関係ではなく、誰が最も統率力があるのかを競っていたので物流が途切れる心配はありませんでした。それより自然環境が厳しい日本では、寒波や台風といった天に争うことが一番の関心事だったのです。
ところが弥生時代後期になると、渡来人が持ち込んだ国という概念が支配を複雑に変えてゆきます。いつもの部族が王を立てて、部族同士の戦いが激化したのです。こうなると物流を扱う猿田彦の一族にとって不都合な事態です。日本列島は縦に細長いので、少し大きな部族同士が戦うと通行ができなくなってしまいます。
さらに農業技術の向上で定住化が進み、弥生時代になって人口が爆発的に増加したこともその要因の1つです。
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〔縄文・弥生時代の日本の地域別遺跡数と推定人口〕(縄文・弥生時代の人口分布 [日本人とは] ぼくあずさは地球人より)
民族大移動はおおむね成功しました。タテミナカタが土地の神であるモレアを倒し、自らの祭祀と仕えるようにしたように、現住する統率者を倒し、その一族を支配化において融合することで日本は再編成が進んだのです。
さて、ニギハヤヒが平定されたヤマトではニギハヤヒが亡くなると、部族間の争いが起こったと残されております。おそらく、各部族の力がどんぐりの背比べのように拮抗して、それを平定できる者がいなかったのでしょう。しかし、ヤマトは日本の中央に位置します。物量を扱う部族にとって動乱が続くことは困った状態なのです。
そこで白羽の矢が立ったのが天孫ニニギ族のイワレビコ一向だったのです。塩土老翁は長髄彦らを説得しようとしたのでしょうが、イワレビコ一向を受け入れようとしません。塩土老翁の先祖である猿田彦は、ヤマトでは導き手であって権威がなかったのでしょう。イワレビコ一向はヤマトから名草まで悪戦苦闘の連続です。
それでも熊野に行けば、味方する者もいるだろう。最悪でも伊勢の国は味方です。もし、イワレビコ一向が難破せずに船を維持していたなら、イワレビコ一向は大海人皇子と同じルートでヤマト入りすることになっていたのかもしれません。
熊野灘で船を失ったことが塩土老翁にとって誤算だったのかもしれません。兄の離脱もあり、戦力が減ったイワレビコが最大のピンチが訪れます。
塩土老翁はニギハヤヒの子であり、熊野の片隅を治めている高倉下を説得します。高倉下がどういう態度で塩土老翁と接したのかを知る術がありません。しかし、霊剣あらたかな経津主神(布都御魂剣)を与えられたことで心は定まりました。
塩土老翁は高倉下を味方に引き入れると、経津主神(布都御魂剣)の効果を最大に発揮させます。夢でタケミカヅチが現われて、自らの倉に経津主神(布都御魂剣)を置いていった。イワレビコは神の御子であると宣伝します。
経津主神(布都御魂剣)を所有するのは、伊勢の斎王(サルタヒコ)しかありません。熊野と伊勢は山を一つ越えただけの位置関係にあります。距離感というものは、心情に大きく左右するものなのでしょう。
熊野の国津神を味方に付けたイワレビコは熊野川を遡り、吉野河の河尻の国津神である贄持之子(にへもつのこ)、井氷鹿(ゐひか)、石押分之子(いはおしわくのこ)の三神が宇陀までの道案内を願い出てきます。
宇陀に入ったイワレビコは兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)の抵抗を受けますが、兄宇迦斯を討伐し、帰順した弟宇迦斯を先頭に国見丘にいる八十梟帥(やそたける)を謀略によって打ち滅ぼします。どの地も兄と弟に分かれ、兄は討ち滅ぼされ、弟は帰順します。
つまり、進むどの地でもイワレビコを敵とする者と味方として帰順した者が現われて、敵対する者を討ち滅ぼして進んだという隠語なのでしょう。
三輪山の麓、奈良盆地に南部には唐古・鍵遺跡をはじめとする多くの集落跡が残されています。ここを越えれば、長髄彦の本拠地は目の前です。
奈良盆地は東西16km、南北30km、矢田丘陵、馬見丘などはあるものの総面積300平方キロメートルの比較的平坦な盆地です。初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川などが枝分かれした大小150余の小河川が張り巡っております。縄文遺跡は標高45m以上で発掘され、弥生時代の集落は標高40mくらいに固まっております。
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〔古代大和南北縦貫道〕(日本の古代 第9巻 都城の生態 岸 俊男編 中央公論社 奈良大和博物館HPより改変)
縄文時代は藤原宮も奈良湖の底であり、神武天皇が奈良に入った頃は、青か。水色の湖畔が残っていたでしょう。その奈良湖周辺に黄金の稲穂はたなびく姿を想像しながら、橿原から奈良湖を回って長髄彦の本拠に兵を進めると、三炊屋媛と可美真手命(ウマシマジ)が現われて天津瑞を献上して降ってきました。
こうして、荒ぶる神々を説得したイワレビコは、辛酉の歳の正月に畝傍の白檮原宮(かしはらのみや:橿原宮)で天皇へと即位されたのです。
西暦241年、イワレビコが即位し、神武天皇のヤマト王朝が胎動し、この瞬間から日本の中心がヤマトに移ったのであります。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-8 神武の東征(中篇)

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 8章 神武の東征(中篇)
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8.神武の東征(中篇)
神々の時代、八百万の神が降臨します。
神々の中でも天照とか、月読とか、素戔嗚とか、大国主には多くの名前が存在します。ですから、天照大神というのは、名前ではなく総称と考えた方がいいのです。
身近な喩えでいうなら、苗字です。
日本 太郎、日本 次郎、日本 三郎、3人とも『日本』という苗字が同じです。同じ様に
同じように、アマテラス、アマテラスの子、アマテラスの孫もみんな天照大神なのです。素戔嗚の子供に大国主という子供がおり、大国主は素戔嗚であると同時に大国主でもあります。大国主の子供も素戔嗚であると同時に大国主でもあるのです。
言い方を変えますと、
天孫の子は、天孫(天照族)=天照であり、
素戔嗚の子は、素戔嗚族=素戔嗚
大国主の子は、素戔嗚族=大国主族=大国主

これから登場するニギハヤヒは大物主を名乗り、素戔嗚族がいた大和に入って、その土地を治めます。当然、嫁を貰ったでしょうから素戔嗚族に組みします。“素戔嗚さまのような王”として、
大物主=素戔嗚=大国主
と、同一神にされてゆきます。
神武天皇の系図を見れば、天孫(天照)の子孫であり、オオヤマツミ(月読)の血を引き継ぎ、大物主(素戔嗚)の娘を妃とした三世界の王として君臨することになります。
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イザナギとイザナミの二神が大八島を作り、『日本』が生まれます。数多の神々を作った後にカグツチという火の神をイザナミが生んで、その火傷が元で死んでしまいます。カグツチというのは日本の火山の象徴であり、カグツチの体を十拳剣で切り裂いて八つの『ヤマツミ』の神になったというのは、噴火で国が焼かれて、八ツに分かれて一族が散り散りに逃げたという象徴であります。
その後にイザナギがアマテラス、ツクヨミ、スサノオを生んで、天界、夜界、海界を治めるように言いつけます。つまり、おおよそこの三つの世界に分かれていたことを意味します。これを神々の時代の三世界といいます。
スサノオは海の国を治めず、母(イザナミ)の国に行く途中で高天原に寄ります。そこで神武天皇子孫であるアメノオシホミミ達が生まれます。スサノオは高天原を追放された後にイザナミの国に立ち寄ってから出雲の国に赴いて王となります。さらに東に進み、根の国である『コシ』(福井から新潟当たり)に行き着きます。
出雲もオオクニヌシ(スサノオの昆孫:6代目)が治める時代になると、天孫から国譲りを言われます。

最初に命じられたのはアメノオシホミミですが、下界が物騒だと言って引き返します。次に命じられたのがアメノホヒです。アメノホヒはそのまま出雲に定住して、出雲国造らの祖となり、出雲神社の祭祀を受け継いだ千家家として受け継がれます。
国譲りに失敗した天照はアメワカヒコに命じて出雲に向かわせますが巧く行かず、3度目にタケミカズチが出雲に降って国譲りを成功させました。
タケミカズチが国譲りに成功すると、アマテラスが再びアメノオシホミミに降るように命じましたが、代わりに息子のニニギとニギハヤヒに天孫降臨を命じました。
記紀の中では、ニギハヤヒの降臨は書かれておりません。
この『ニギハヤヒの東行』と思われる『小千命御手植の楠』の樹齢が2600年前と推測されますから、大分県の九重・由布火山の大噴火と時期を同じくします。重・由布火山の大噴火で起こった火砕流は大分の村々を全滅させ、北九州は火山灰などで農作物は全滅です。
そうです。
天孫の国譲りは北九州全域を巻き込んだ大天災による民族大移動だったのです。タケミカズチ達は出雲から因幡へ移動し、遅れて瀬戸内海を渡って大和に入ったのがニギハヤヒです。そして、北九州から南九州に移動したのがニニギあります。このニギハヤヒは大和を統一した後、子のウマシマジが生まれる前に亡くなったと言われます。その後、大和は多くの部族がやって来て騒乱期になったようです。
天孫の民族大移動で煽りを喰らったスサノオの一族は東へ移動し、近江から美濃や伊勢に進み、最終的に尾張・三河当たりで落ち着きます。一部(タケミナカタ)などは諏訪に侵入して王となりました。そして、武蔵野へと進出してゆきます。
出雲族の名残りでしょうか? 

島根県の鹿島町や玉湯町などでは新井・荒木などの[アラ]グループ、足立・安達などの[アダ]グループ、有田・有馬などの[アリ]グループに分かれ、この3グループで全世帯の70~90%になります。この苗字と連動する地名が埼玉県秩父地方から東京北部を通り東京湾へ注ぐ荒川流域(支流域も含めて)に多いのです。
例.川口市新井宿・荒川町・新井町、川越市新宿(あらじゅく)、行田市荒木、深谷市新井、本庄市 新井、花園町荒川、栗橋町新井、大利根町新井新田、川里村新井
もちろん、静岡など関東では、オオヤマツカミ(瀬織津姫神)を信仰する部族が多くいましたから大いに揉めたことでしょう。
同じように近江・伊勢・尾張から追い出された部族が大和に進入した可能性も否定できません。ニギハヤヒは大和を統一した後に早く亡くなったので息子のウマシマジの後見人のナガスネヒコが治めていたようですが巧く定まりません。
一方、南九州に下ったニニギは霧島神宮当たりを拠点に日向に王国を築きました。火山の影響も多少残っている地域ですが、日向三代と言われるように根気よく開拓したようです。
さて、大分県の九重・由布火山の大噴火も10年もすれば鎮静化します。50年もすれば、住めるようになり、100年もあれば、再生できます。
南九州に下ったニニギの一族はいち早く北九州に戻ることができたでしょう。それがおそらく奴国だったのではないでしょうか。奴国が復興するに随って、多くの部族が戻ってきます。対馬海峡を挟んで逃げた部族も多くの新技術を持ち帰ってでしょう。そして、伊都国や邪馬台国も帰郷したでしょう。
さて、出雲や因幡に仮宮を移してした天孫はどうしていたのでしょうか。
日本の童謡には、『うさぎ』と『かめ』が多く登場します。
神武天皇の東征では、『かめ』がよく登場しますが、メインストーリーの日本海側で有名な話は『因幡の白兎』でしょう。
【因幡の白兎】
むかし、大国主命には、八十神と呼ばれる兄弟たちがいました。兄弟たちは美しいことで知られる、因幡の国の八上姫を妻にめとろうと、出雲の国をあとにしました。命は兄弟たちの大きな荷を背負わされ、とぼとぼと後に続いていきました。
はじめに、泣いている赤むけうさぎを見つけたのは八十神たちでした。兄弟たちは、からかい半分、こう言いました。
「やい、うさぎ。よいことを教えてやろう。まず海の水でからだを洗い、それから風の吹きさらす山のいただきにねころんでおれ。そうすれば、すぐにもとどおりのすがたになるであろう。」
さっそく言われた通りにしたうさぎは、よくなるどころか、塩が乾いて傷がしみ、いっそうひどく赤むけてしまいました。
うさぎが、あまりの痛みにしくしく泣いていると、そ こにおくれて来た大国主が通りかかりました。
「おや、うさぎ。どうしたのだ」
大国主がおだやかな声でたずねると、赤むけうさぎは答えていわく
「わたくしは、おきの島にすんでいたもの。いつか島を抜けだしたいと想いこがれて、あるとき、海の鮫たちをだまして、陸にあがる方法を思いついたのでございます。わたくしは浜から鮫たちに言いました。
『おうい。わたしたちうさぎの数と、おまえたち鮫の数のどちらが多いかくらべてみないか。まずはおまえたちがこの浜から気多のみさきにかけて、一列に並んでみるがよい。わたしがおまえたちの背中をとびながら数を数えてやろう。では、いくぞ』
ところが、さいごの一尾というところで、わたくしは、うれしさのあまりつい口をすべらせてしまったのでございます。
『やいやい、だまされたな。わたしは海をわたりたかっただけなのだよ』
はらを立てた鮫は、あっという間にわたくしをがぶり。そのうえ八十神さまたちのおっしゃることを信じたばかりに、痛みはひどくなる一方でございます」
こころやさしい大国主の命は、うさぎに教えました。
「いますぐ河口に行って、真水で塩を洗い落とし、蒲の花粉をしきちらした上に寝ころびなさい。そうすれば、すぐにもとどおりのすがたになるであろう」
命のことばにしたがうと、うさぎは見る間に元気になりました。
たいそうよろこんだうさぎは、命に予言を授けました。
「あなたはいまでこそ、おおきな袋をかついでみすぼらしいなりですが、八上姫さまを嫁にされるのは八十神たちではありません。大国主命、あなたさまなのです」

このうさぎ、じつは”因幡の白兎”と呼ばれる、 八上姫の使いのものだった、ということです。
さて、二人が結ばれた後、嫉妬した八十神たちは何度も大国主命を殺し、その度に母神に助けら復活した大国主命は、最後には八十神(やそがみ)を退治して国づくりを始めます。
このオオクニヌシの時代から栄えていた因幡の国には、アマテラスオオミカミが行幸されたと残っております。その折に行宮に相応しい地として八頭町と鳥取市河原町の境にある伊勢ヶ平(いせがなる)にまで案内したのが『白兎』でした。
八頭町の青龍寺の城光寺縁起と土師百井(はじももい)の慈住寺記録には、天照大神が国見の際、伊勢ヶ平付近にある御冠石(みこいわ)に冠を置かれたという伝承が残っているとされ、この八頭町に3つの白兎神社が存在し、八頭町米岡にある神社は元は伊勢ヶ平にあった社を遷座したものと伝えられるが、天照大神の具体的な伝承に基づく全国的に見ても極めて珍しい神社であります。このように鳥取にはアマテラスを祀る神社が110社もあるのです。
因みに、この鳥取の神社の御祭神で区分すると、
1位 素盞鳴命 362社
2位 大山祇命 212社
3位 倉稲魂命 147社
4位 大国主命 139社
5位 誉田別命 136社
6位 天照大御神110社

と、決してスサノオやオオヤマツミほどが多い訳ではありませんが、アマテラスの支配地であったことは伺うことができます。
もし、神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)の東征が天孫の意思で行われていたなら、同じ天孫の一族である因幡に救援を求めたり、あるいは交流した記録が残っていた不思議はありません。しかし、イワレビコが日本海側に立ち寄った形跡はありません。
逆に、同じ天孫同士である邪馬台国と句奴国が戦争をして対立している関係ならば、イワレビコが邪馬台国の勢力下に無闇に侵入するのは可笑しな行為です。
今後の発掘で因幡からイワレビコが立ち寄った形跡が出てくるようならば、根幹から考え直す必要をあるでしょう。しかし、今の所、イワレビコが日本海側に立ち寄った形跡はないのです。否、敵対国に救援や助力を求めることなどできなかったのです。

イワレビコは吉備を出向すると家島に立ち寄ります。家島(いえしま、あるいは、えじま)は湾が広く、水深もあって船を係留しやすい天然の良港でした。明石海峡を前に船団を整えるのに最適でした。
「家島は 名にこそありけれ 海原を 吾が恋い来つる 妹もあらねくに」
家島神社の敷地内に妻を思う遣新羅使の歌碑に書かれているものです。この家島は万葉の時代から多くの歌に使われています。
家島を出たイワレビコは速吸門(明石海峡)を渡る時に釣り人に出会います。河内潟は満ち潮なら時計回り、引き潮なら反時計回りに潮流が発生して、上町台地に突き出た所が細くなります。
「方(まさ)に難波の崎に到るときに、奔潮(はやなみ)有りて太だ急きに会う」
と、波の荒さに驚いたように書かれております。この釣り人(国ツ神)のおかげて無事にイワレビコは河内潟に入ることができました。その功に報いて篙根津日子(サオネツヒコ)の名を与えています。
河内潟と言いましたが、縄文時代では海面が高く大阪湾と河内湖と一緒になって河内湾となっておりました。それより大昔は京の巨椋湖や奈良の奈良湖も海の一部でした。その水位も下がって河内潟、河内湖と変化して現代の大阪平野となっております。
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〔河内湾から河内湖へ〕(古代の大阪平野~河内湾から河内湖へ皇紀の謎 古代史漫談より )
イワレビコは東征を行った頃は河内潟から河内湖に移る頃でした。上は淀川から流れるくる堆積物で埋まり、遠浅というか沼地に近い状態です。同じように南も大和川によって沼地が広がっていました。必然的に東の日下に上陸することになったのです。
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〔神武天皇孔舎衛坂の戦い〕(神武天皇孔舎衛坂顕彰碑 日下の聖蹟を元に改変)
日下から生駒山地に沿って南下し、大和川を遡って奈良に入ろうとしますが、その道が険しくて、日下に戻って生駒越えを試みたと日本書記には書かれております。
「皇師(みいくさ)兵(つわもの)を勤(ととの)へて、歩(かち)より竜田に趣(おもぶ)く。而(し

かう)して其の路、狭(さ)く険しくして、人並み行くことを得ず。すなはち還りてさらに東胆駒山(いこまのやま)を越えて、中洲(うちつくに)に入らむと欲(おもほ)す」(日本書紀 神武紀)
大和川の難所と言えば、亀の瀬であり、距離にして数キロですが大和川を下ってきた船が荷を下ろして、徒歩か馬で竜田越えをしたと言われます。
ちはやぶる 神代もきかず 龍田川
   からくれなゐに 水くくるとは

この句で有名な龍田大社を通る龍田越えはかなりキツいルートですが、人馬が通れないほどの道ではありません。しかし、日本書記には人が通れないような道であったと書かれています。

不思議な話です。
普通に考えるなら、何者かに襲われて進めなくなったか、船を止めた停泊させていた日下が何者かに襲われたので引き返したのいずれかでしょう。天孫御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えていた土着の長髄彦(ナガスネヒコ)の拠点は、日下より北東の白庭台ですから、わざわざ南下してイワレビコを襲うのも面倒でしょう。
そう考えると、何者かに日下が襲われて、イワレビコ一向が引き返したと思われます。
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神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑:孔舎衛坂(くさえさか)、神武天皇戊午年四月皇軍ヲ率ヰ膽駒山ヲ踰エテ中洲ニ入ラントシ給ヒ孔舎衛坂ニ長髄彦ノ軍ト御會戦遊バサレタリ聖蹟ハ此ノ坂路ノ邉ナリト傳ヘラル。
五瀬命負傷碑:「厄山」「彦五瀬尊御負傷の地と言い傳へらる」と刻まれたこの碑は、神武天皇の兄である「五瀬命」が矢傷を負われた地との伝承により建てられた。
龍の口霊泉:五瀬命が流れ矢による肘の傷を洗った場所とされる。
神武天皇聖蹟盾津顕彰碑:神武天皇戌午年三月皇軍ヲ率イテ青雲白肩津二至リ給ヒ翌四月孔舎衛坂二戦ハセラレ其ノ津二還リテ盾ヲ植テテ雄誥遊バサレシ二因リ地名ヲ盾津ト改メタリ聖蹟ハ此ノ地附近ナリト推セラル。

枚岡神社神津嶽本宮:枚岡神社創祀の地、ここ神津嶽に一大磐境を築き、天児屋根命・比売御神を祀って国の平定が祈られた。大阪平野を始め、瀬戸内海、淡路島をも一望できるところでもあり、枚岡大神の広大無辺なる御稜威御神徳を感じることができます。
金鵄発祥之處碑:十有二月癸巳朔丙申皇師遂撃長髄彦連戦不能取勝時忽然天陰而雨氷乃有金色霊鵄飛来止于皇弓之弭、其鵄光曄〓状如流電、由是長髄彦軍卒、皆迷眩不復力戦。長髄是邑之本号焉。因亦以為人名及皇軍之得鵄瑞也、時人仍号鵄邑、今云鳥見是訛也。

長髄彦の本拠地:天鈴55年、紀元前663年(即位前3年)12月4日、磐余彦尊(イワレビコ)の軍はついに長髄彦(ながすねひこ)を討つ。
鳥見白庭山碑:饒速日尊禀天神祖詔乗天磐船而天降坐於河内國河上峰則遷坐於大倭國鳥見白庭山
饒速日命墳墓:日(ひ)の窪山(くぼやま)(桧の窪山)といわれる伝承の地日下に戻って来たイワレビコ一向は孔舎衛坂(くさえさか)を上って、長髄彦の兵と対峙します。

生駒山地は東の奈良盆地に対して緩やかな傾斜が続き、西の河内潟に対して壁のように急勾配です。しかも鬱蒼な林が壁のように立って人馬を阻みます。狭い道を通って山を登ると上から矢の雨を降らすのに最適な立地なのです。そういった賢固な地形を利用して飯森山城や信貴山城が作られているのです。本当に大阪側から落とすのは苦心すると思います。
生駒山を越える日下直越道(くさかただごえみち)、地元の人は『じきこえ』と呼ぶそうですが、私は聞いたことが御座いません。この道に続く要所々々に兵を配置して矢を討てば、無理なく敵の兵を減らすことができたのです。
一方、イワレビコ一向の矢は敵に届きません。『矢切の但馬』では御座いませんが、「上がる矢をばつい潜り、下がる矢をば跳り越え、向こうて来るをば長刀で切つて落とす、敵も御方も見物す」といった具合に五ツ瀬が突撃していった訳であります。
しかし、敵の矢は無情に五ツ瀬の肱脛(ひじ)の中当たりを貫き、イワレビコ一向は五ツ瀬を抱えて“龍の口霊泉”まで引いて、そこで矢を抜いて治療したのです。
イワレビコ一向はおそらく鉄の鏃を使って敵を討ち倒して来たと思われます。石の矢や骨の矢は殺傷能力に乏しく、殺傷能力の高い鉄の矢を持ったイワレビコ一向が常に優位な戦いができたと思われます。もちろん、長髄彦の兵は貴重の鉄を大量に持っていたとは考えられません。しかし、畿内では石鏃に二上山から取れるサヌカイトと呼ばれる鉱石を使っていたと思われます。
サヌカイトは讃岐岩(さぬきがん)と呼ばれ、叩くと金属のように澄んだ高い音を出すカンカン石として有名です。非常に重く、尖った先は鉄に近い殺傷能力を持っていました。
イワレビコ一向は五ツ瀬を抱えて、潟沿いの盾津まで下がると刻の声を上げて、まだ戦う意思があることを鼓舞しました。長髄彦は地形の有利を捨ててまでその誘いに乗らず、傍観したようです。イワレビコ一向は現在の八尾市にある竹渕(たちこ)神社付近に移動して兵を休めたようです。そこで五ツ瀬はこう言ったと古事記は書き示します。
「吾は日の神の御子と為て、日に向かひて戦ふこと良くあらず。故賤しき奴が痛出を負ひぬ」
五ツ瀬は太陽に向かって攻めたのがいけなかった。迂回して太陽を背にして戦うべきだったと言い、塩土老翁(シオツツノオジ)は南下して熊野を迂回して進む道を指示しました。こうして、河内潟を後にしたイワレビコ一向でありましたが、五ツ瀬は泉南市の男(おの)神社当たりで力尽きます。
「南の方より廻り幸でます時に、血沼(ちぬ)の海に到り、其の御手を洗ひたまふ。故血沼の海と謂う」
五ツ瀬の御遺体がどこに葬られたのかは定かではない。男水門の近くの男神社の他に、和歌山市小野朝にある水門吹上(みなとふきあげ)神社に碑が立っている。古事記では、竈山(かまやま)神社の近くにあると書かれている。いずれにしろ、この当たりまで長髄彦の勢力地だったと思われ、地上に上がって中々戦えないと苦戦ぶりが書き示されている。かの地を何とか平定したイワレビコ一向は紀伊水道を渡り、熊野を通って吉野方面から奈良に入り、イワレビコは橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称する。
即位の3年前、イワレビコ一向は五ツ瀬の遺言通りに奈良湖を反時計回りに回って、東から長髄彦の本拠地を攻めた。長髄彦は最後まで抵抗するつもりだったが、妹の三炊屋媛がウマシマジ(可美真手命)と共にイワレビコが先に降ってしまったので大きな戦いもなく平定された。しかし、長髄彦はイワレビコに恭順するつもりもなく、討たれて殺されました。
日本書記では、イワレビコはニギハヤヒが同じ天から降りてきたことを知り、ニギハヤヒが忠誠を示した

(長髄彦を殺して帰順した)ので、これを褒めて臣下に加えて寵愛したとあります。
一方、古事記では、イワレビコを追ってニギハヤヒも降臨し、天の神宝を献上してお仕えたとなっておりまう。
さらに、『先代旧辞本紀』天孫本紀では、ニギハヤヒは降臨した後、長髄彦の娘の御炊屋姫を娶り懐妊させた。だが、生まれる前に饒速日尊はお亡くなりになっていた。中州(ナカツクニ)の豪雄の長髄彦は、饒速日尊の御子の宇摩志麻治 (ウマシマチ) 命を推戴して、君として仕えていたと書かれています。
いずれにしろ、ニギハヤヒの子であるウマシマジ(物部の祖)はイワレビコの臣下となって仕えました。

この時、長髄彦を慕っていた物部の祖達は、大和地方の土蜘蛛や蝦夷とともに東国に奔ったようです。長野県に守屋山があったり、善光寺に守屋柱があるのもその為なのです。
ニギハヤヒはそもそも天孫の子でありますが、オオモノヌシとして国津神の一人として三輪山に葬られます。イワレビコの臣下となった物部氏(内物部)と、大和朝廷に逆らう物部氏(外物部)は、倭国統一において戦うことになるのです。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-7 神武の東征(前篇)

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 7章「神武の東征(前篇)」
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7.神武の東征(前篇)
後の初代天皇となる神武こと、神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は、塩土老翁(シオツツノオジ)(注3)によれば東に美しい国があることを聞き、都を作りたい為に東征に出たとあります。そもそも神武天皇が存在したのかと言われており、そのモデルになった人物がいるのか、神功皇后(じんぐうこうごう)の子である応神天皇(おうじんてんのう)の逸話を2つに割ったのはないかなど、様々な解釈が現代でもなされております。これから述べる説も、その1つに過ぎません。
神武の東征は、『日本書紀』によれば、神武が橿原の宮で即位した年を辛酉(かのととり)であり、素朴に天皇の即位年度を逆算すると紀元前660年となります。中華は周の時代であり、秦が建国した年に近い年号となっております。日本では弥生時代の前期であり、殷の商王朝の難民が倭国に渡来したかどうかの頃になります。
もし、この時期に神武の東征があったというなら、神武は稲作の伝来者として語り告げられたことでしょう。また、生駒山地を超えるときに抵抗があったのも不思議です。仮に強い抵抗があったとして、何故、当時のメインストーリーの日本海側に移動して協力を求めず、危険な熊野から進入したのも不思議な話です。
逆に日本書記によれば、神功皇后摂政紀 三十九年、四十年、四十三年に「倭の女王が魏に遣いを出し朝献した。」と記述があります。神功皇后と卑弥呼を同一人物と錯覚させるような記事でありますが、神功皇后は百済・新羅と戦っており、魏への朝献とは、100年以上の隔たりがあるのです。
もう1つの疑問は、東征において日本海航路を使わないことです。4世紀から7世紀初頭までに遣隋使や遣唐使で賑わっているのでメインストーリーのように思っておりますが、実際は瀬戸内海が通行路として使われるのは日本書記による463年の雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)が『吉備の乱』を鎮静化した以降になるのです。
なぜ、瀬戸内海ルートが紀元前では拙いのでしょうか?
瀬戸内海の潮流は常時時速20kmにもなる速い潮の流れがあり、更に岩が隠れているところも多いのです。しかもその流れが朝夕、月日によって変わります。朝から夕べまで人力のみで漕ぎ進めるのが困難な難所が幾つもあったのです。単純に言えば、割の合わない航路だったのです。そして、大型の帆船が生まれることで一度に大量の物資が運べるようになり、瀬戸内海ルートが見直されたのです。
つまり、普通に考えると神武天皇が瀬戸内海を進んだと仮定すれば、4世紀以降となってしまいます。ですから、瀬戸内の海上を移動したとするなら神武天皇、応神天皇、雄略天皇が同じ人物であったと仮定しないと、東征が成立しないという学者もいるのです。もちろん、私はこの説を取りません。
私は狗奴国説を取りたいと思います。
漢の武帝時代に存在した奴国は、北九州に拠点をおいた国でした。徐福が北九州の佐賀県有明海岸上陸し国を作っております。それから数~十数年後に秦の関係者が倭国に渡来したことは容易に想像できます。

彼らは最新の技術と武器を持って渡来してきます。その中に秦の王族が含まれ、奴国の王になったと言うのは突飛な話でしょうか。
奴国の王が秦の末裔であったなどという逸話は残っておりません。ただ、辰韓は辰国に亡命して秦の関係者が起こした国であり、一方馬漢にも秦の一族が多く残っております。その1つ、百済渡来系の秦氏は秦の末裔を自称しております。その秦氏が天皇家に忠義を果たそうするのは、天皇家が秦の王族と関連があるのではないかという下衆の勘繰り程度の推測が浮かんでしまいます。どうして朝鮮半島に秦の関係者が多くいるかというと秦が滅亡した頃の話をする必要がでてきます。
紀元前202年に秦が滅亡し、長城の建設に当たっていた50万の秦軍の一部が朝鮮半島に亡命したと記録されております。漢は朝鮮に逃れた秦の残党を気に掛けることもなく、秦族は衛氏朝鮮で定住することになりました。ところが紀元前108年に漢の武帝が海を渡って攻め入り、衛氏朝鮮を滅ぼし漢の4郡を設置します。馬韓伝によれば、朝鮮の宰相である歴谿卿が朝鮮の民も二千余戸が彼に従って出国し、辰国(しんこく)に移住したとあります。この朝鮮の民と秦の亡命者が多く含まれていたのは想像し易いことでしょう。
『三国志魏書』馬韓伝
 魏略曰:初,右渠未破時,朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戸,亦與朝鮮貢蕃不相往來。
辰国は四郡に帰属しなかったとありますが、辰国の実態は未だにはっきりとしません。元々馬韓の55ヶ国、辰韓12ヶ国、弁韓(弁辰)12ヶ国があり、すべて総称して辰国と呼んでいたと思われます。馬韓では秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、その東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたといわれます。これが秦韓であり、辰韓のはじめりと言われます。また、馬韓にも多くの秦族が残っておりました。この三韓の中で弁韓(弁辰)は最も半島の南端にあり、対馬を挟んで北九州と交流の深い土地でした。その風土は倭国と似ており、男女ともに入れ墨をし、礼儀よく、道を相手にすすんで譲ったとあります。また、五穀や稲の栽培に適しており、蚕を飼い、縑布を作っておりました。大鳥の羽根を用いて死者を送る風習を持っております。市場の売買では鉄が交換され、中国の金銭が使用されています。
中国の金銭を扱ったという一文を見ると東夷の王を見直さなければなりません。
『漢書』「王莽(おうもう)伝」元始五年(紀元五)の条
「5年(元始5年)東夷の王、大海を渡り国珍(こくもん)を奉ず」
王莽は中華の新王朝(前漢~後漢の間、8~23年)の皇帝であり、この王莽が東夷の王と評する人物であります。彼が王莽と通じていた証拠として、新王朝の鋳造した貨幣『貨泉』が半島および畿内を含めた列島各地から多数出土する。中に壱岐島の原の辻遺跡から、天鳳元年(紀元後14年)に鋳造された貨泉、その6点に加え、居摂(きょせつ)2年(紀元後7年)鋳造の『大泉五十』も出土しています。
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〔王莽が発行した貨幣『貨泉』〕(王莽 ウィキペディアより)
その他にも貨泉は福岡県の御床松原遺跡や新町遺跡から出土したほか、岡山市の高塚遺跡からは25個の古銭が出土、鳥取県の青谷上寺地遺跡から4枚出土しています。この東夷の王の末裔が奴国の王であれば、倭奴国王が金印を貰ったことも頷けます。しかし、この貨泉は紀元後40年には使用されなくなっています。
その他の出土品に鉄や鏡が多く残っております。しかし、その出土分布を見ると、北九州に比べて、畿内の出土数は少なく。3世紀以前は北九州が中心であったことは否定できません。
では、何故ゆえに北九州から九州全域に渡来人が多くやってくることになったのでしょうか?
その答えは紀元前2世紀の九重火山の噴火にあります。由布火山の大噴火と火砕流で森や民家はすべて埋もれ、その後しばらくブルカノ式噴火が続きました。ブルカノ式とは、ほとんど固結し溶岩にふさがれていた火口がガスの圧力で開かれ、火山岩や火山灰などが爆発的に放出されるもので、火山弾・火山灰などを高く噴出するのが特徴です。
人々は神々の怒りを恐れました。火山灰は大地の恵みをすべて奪い、九州全域を死の国へと変えたでしょう。記紀ではカグツチ伝説として、イザナミが死に至る事態になります。北九州の住民の一部は辰国に逃げ、また、日本海伝いに出雲・因幡に移住したと思われます。由布火山に連動するように九州の山々が一斉に火を噴きます。その1つが霧島連山も例外ではありませんでした。霧島周辺に住んでいた天孫の末系達は、その地を捨てて新天地を求めて東へと移動します。これが『ニニギの東行』伝説とも重なります。
そして、偶然ではありますが、徐福の一団もこの時期に不死の妙薬を求めて、日本全国を飛び交っていたのです。徐福自身は倭国に来日して、すぐに死を迎えます。しかし、徐福の子孫達は不死の妙薬を求めて、徐福伝説を広げてゆきました。
紀元前108年に漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、漢の4郡を設置したことを皮切りに朝鮮北部部の秦族が朝鮮南部、および倭国に大挙して押し寄せたのです。九州は無人といいませんが、新天地として最適でした。多くの渡来人、そして、帰国民も合わさって、北九州に新たな国が生まれてゆきます。その中に東夷の王が倭国を大乱に導いたのです。東夷の王は貨幣『貨泉』の分布から北九州から畿内まで猛威を振るったと予想されます。しかし、その猛威も新王朝が滅びると衰退し紀元40年頃に衰えたと考えられます。これに変わって台頭してきたのが奴国だったのです。奴国は紀元57年には後漢に使者を出し、倭奴国王の金印を貰いました。その奴国の天下も短く伊都国に滅ぼされます。奴国の遺児は南九州に逃れて、狗奴国を建国したとされています。しかし、動乱の時期は続きます。紀元後107年には倭国王を帥升が名乗っております。帥升が伊都国の王であるかも不明ですが、多くの男王が乱立していたのは間違いありません。
この時期を私は『旧倭国大乱期』(40年~180年頃)と呼ぶことにします。魏志倭人伝に添うならば、「倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王(卑弥呼)とした」という時期になります。
卑弥呼が擁立された180年頃から248年まで、狗奴国が敵対していたことを除けば、比較的穏やかな時期であったことが倭人伝から伺われます。逆を言うならば、狗奴国は劣勢であったと言い換えられます。

さて、天皇の崩御の年を比較してみると神武天皇が崩御されたのは、200~300年の間という推測が立ちます。辛酉の歳に磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称したとありますから、181年か、241年に絞り込むことができます。しかし、181年に大和国を建国していたのであれば、
大和国=狗奴国
となってしまします。九州の南ではなく、東説を取らねばなりません。しかし、その時期に邪馬台国と大和王朝が戦った記録はありません。そう考えれば、邪馬台国が衰退した後に神武天皇が即位した241年であると考える方が妥当でしょう。
136
〔『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い〕(『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い 第二章  『日本書紀』の実年代より)

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〔中華と倭国、狗奴国と神武、その周辺の年表〕

ところで魏志倭人伝には。『王』が居たと明記されている倭の国は伊都国と邪馬台国と狗奴国で、他の国々には長官、副官等の役人名しか記されていなません。伊都国と狗奴国が特別であったことが伺われます。

さて、諸国を取りまとめる邪馬台国と邪馬台国を倭国王と認めない狗奴国が対立し、戦果を交えているのは、247年の卑弥呼の使者が狗奴国との戦いを伝え、魏の使者として張政が派遣されていることが物語っています。辛酉(かのととり)の年に橿原で即位したことを前提とし、古事記で東行に16年掛かったとすると、225年頃に神武天皇は日向から旅立ったことになります。
138
〔神武の東征〕
高千穂を東に降ると、温暖な日向が広がり、宮崎平野に大淀川が流れ農作物も豊富に取れる土地でした。
日本書記には、こう示されております。父は天孫ニニギノミコトの孫、ウガヤフキアエズノミコト。母はワタツミノカミの娘、タマヨリビメ。夫婦の第4子であり、天皇生まれながらにして明達(さか)しく、意かたくまします。ニニギノミコトは日向の高千穂に降臨します。イハレビコも45年間も日向に住んでおりました。イハレビコは、日向国の吾田邑(あたむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶り、子に手研耳尊(たぎしのみこと)を得ます。鹿児島にかって阿多郡があったことから、この地のアタ出身の媛であることが伺われます。つまり、熊本・宮崎・鹿児島の三県を支配地にしていたと思われます。
イハレビコの東行は、軍事行動であると同時に稲作と鉄器、そして灌漑事業の伝搬を兼ねております。日向灘は民謡じょうさ節に「1に玄海、二に遠江、三に日向の赤江灘」」と歌われるように難所中の難所です。難所ゆえに外海から守られているとも言えるのですが、イハレビコはここから大分に向けて八月一日の夜明けに出港します。
イハレビコの一行は海岸沿いに進んで行き、佐伯市米水津で食糧と水を補給すると宇沙《莬狭》に向かいます。船は手漕ぎ船ですから最長でも1日50km程度しか進めません。しかも前人未到航路です。この航路を最初に助けたのが珍彦(うづひこ)という海人でした。イハレビコは海人に根津彦という名を与えてやります。こうして、豊予海峡を抜けたイハレビコ一行は大分県宇佐市の柁鼻の地に到着します。莬狭の住人に歓喜でイハレビコを迎えます。イハレビコは家臣のアマノタネコノミコト(アマテラスが天岩屋に隠れたときに祭祀を取り仕切った者)に宇沙都比売を娶るように命じました。(宇佐と大和王朝の関係はここから始まります)
そこから筑紫国の岡田宮に移って1年の歳月を費やします。
139
〔北九州の地形〕(九州道(関門道) for 鹿児島ICとグーグルより)
140
〔玄海灘と周防灘〕(北九州の段丘地形とAso − 4火砕流堆積物より)
古事記で16年、日本書記で6年の大遠征となっております。その内の一年間もこの岡田宮で過ごしたのは不思議に思われるかもしれませんが、地形を見れば一目瞭然であります。
北九州の福岡は平地が少なく、斜面に市街地が発展しております。海から発展し、徐々に山側に向かって伸びていったのです。しかし、東側には山々が連なっており、もし東から攻めて来られると横腹を晒しているような地形なのです。大軍で攻められた場合は一溜りもないという地形なのです。逆に大分は平地が少なく利の薄い土地に思われますが、周坊灘として見れば、宇佐から岡田まで上陸する為には絶対に欠かせない土地なのです。つまり、邪馬台国にとって東の要として周防灘を死守するのは重要な意味を持っていたのですが、瀬戸内海には脅威となる勢力もなく、玄界灘のみ気を使っていたのです。邪馬台国がそれに気づくのは、神武が大和に新しい王朝を作ったずっと後のことになるのです。
次にイハレビコは関門海峡を越えて安芸を目指しますが、周防灘の高波に遭い、竹島(山気県周南市)に停泊します。竹島は現在陸続きですが、当時は島でした。イハレビコはここに半年も滞在し、船の修理や住民の懐柔に勤しんだとおもわれます。下上見明と命名したのはイハレビコと伝わり、この地の神上神社には「朕、何国ニ行クトモ魂ハ此ノ仮宮ヲ去ラザレバ、長ク朕ヲ此ニ祀ラバ、国ノ守神トナラン」と残しております。
周防灘を抜けると大きな入り江を持つ広島湾が広がります。現在の広島平野も海の底であり、入り江の深い湾でした。そこに上陸したイハレビコの前に鬱蒼とした森が広がります。イハレビコがこの地に上がり、土地の者に『そなたは誰ぞ』と尋ねます。これが由来して『誰曽廼森(たれそのもり)』と伝承となっています。
この地の有力者であった安芸津彦はイハレビコに協力的であり、後に国造の地位を与えられています。水源が豊かなこの土地でイハレビコは7年も滞在することになるのですが、ここを拠点に四国のオオヤマツミを味方にする必要があったからです。
何故、そう断言できるのかと言えば、瀬戸内海を横断するのに四国のオオヤマツミの助力なしではできなのです。
特に難所の来島海峡(くるしまかいきょう)は、鳴門海峡・関門海峡と列び、日本三大急潮にあげられており、「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と唄われるように潮の流れが速く、こころ横断するのはそれほど困難だったのです。
141
〔瀬戸内海の難所『来島海峡』〕(株式会社しまなみHPより)
来島海峡は約6時間半で潮の向きが変わり、それに応じて通行できる航路も変わるという世界的にも極めて珍しい海峡であり、その潮の流れは10.3ノットです。
例. 狭い海峡などでの最高潮流
関門海峡  9.4ノット
鳴門海峡 10.5ノット
明石海峡  6.7ノット
手漕ぎ船は潮流が2ノット(約4km/h)を越える逆流を受けると前に進まなくなりますから、これは潮の流れを呼んで進むしかありませんが、時速20kmの激しい流れと数多くの岩礁があっては、100艘近い船団が集団で移動する航行は困難だったのです。
当時は手漕ぎ船の船団が朝から夕方まで力任せに漕いで移動するのが一般的であり、潮を読んで波乗りのサーファーのような職人芸を生業とする者は少数だった訳です。よくよく考えてみれば当たり前です。100艘の船団に100人の船頭を育ててゆくのは大変な労力が入ります。しかし、瀬戸内海には難所が幾つもあり、難所ごとに船頭が必要な訳であります。とても労力に見合う利益を見いだせる訳もなく、瀬戸内海は流通の要所となり得なかったのです。
しかし、3世紀末、あるいは4世紀に入って大型の帆船が主流に変わると、100艘の手漕ぎ船が5艘程度の帆船船団に変わります。これならば、難所に5人の船頭がいれば、海を渡って行けます。こうして瀬戸内海も重要な輸送路へと変わっていったのであります。
さて、イハレビコが東に行くには、この海峡を治めるオオヤマツミの協力が必要でありました。このオオヤマツミがどんな人物かと言えば、古事記を見れば判るようにイハレビコとは深い関係の方でした。
オオヤマツミはイザナギとイザナミの13番目の子であり、スサノオが嫁にしたクシナダヒメの両親であるアシナヅチ・テナヅチの父に当たります。そのスサノオとクシナダヒメの間に生まれたヤシマジヌミノカミは、オオヤマツミの娘であるコノハナチルヒメと夫婦になり、その5代子孫にオオクニヌシが生まれます。
スサノオの一族とよしみを通じている一方で、アマテラスの子孫であるニニギノミコトの妻にオオヤマツミの娘であるイワナガヒメとコノハナサクヤヒメを差し出しているのです。ところがニニギノミコトはイワナガヒメを送り返し、オオヤマツミはそれに怒って天孫に呪いを掛けて寿命を短くしたと記されております。いずれにしろ、オオヤマツミはイハレビコにとっての高祖父に当たる方なのです。
さらにオオヤマツミを祀っている大山祇神社は、三島明神(現大山積神)が主神として鎮座しておりますが、元々は瀬織津姫命を祀っていたと言われます。この瀬織津姫命は清めの女神とされ、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が瀬織津姫であると記述されております。大山祇神社の分社は全国に約10,318社あると言われ、大分、新潟、静岡と分散しております。
大三島の大山祇神社を最初に祀ったのが越智家の祖「小千命」です。この小千命とイハレビコを結ぶのが、『小千命御手植の楠』であります。楠は小千命が神武天皇御東征にさきがけて祖神大山積神を大三島に祀り、その前駆をされたと伝える。境内中央に聳え御神木として崇められている。樹齢2,600年と言われる堂々とした神木は、2,600年前に東行を崇められたことを物語っているのです。
もちろん、2,600年前の東行はイハレビコのことではありません。イハレビコと同じように東行をした人物こそニギハヤヒであります。その東行の果てに大和の国を治めたのです。しかし、ニギハヤヒは亡くなり、その子であるウマシマジノミコト(物部連、穂積臣、采女臣の祖)が生まれる前に亡くなります。ウマシマジノミコトでは世が治まらなかったのでしょう。
先代旧事本紀には、ニギハヤヒの遺体が天に還されて後に、天照太神は仰せになった。
「豊葦原の千秋長五百秋長の瑞穂の国は、我が御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が王となるべき国である」
とご命令されて、天からお降しになったときに、天押穂耳尊は、天の浮橋に立たれ、下を見おろして仰せられた。
「豊葦原の千秋長五百秋の瑞穂の国は、まだひどく騒がしくて、その地は平定されていない。常識はずれな連中のいる国だ」
高原原から見て、大和の地はまだまだ治まっていないと書かれています。つまり、大和が治まらないと考えた塩土老翁(シオツツノオジ)が、イハレビコなら治めるとして、故事にならった同じ道を進むように進言したと考えると辻褄があいます。
瀬織津姫命を祀っている越智家もニギハヤヒの末裔です。その越智家が神として祀っていたオオヤマツミが瀬織津姫と同神とすれば、色々と辻褄が合わないこともあってきます。
安永五年=一七七六年頃の書写、『神道大系』神社編四十二、所収。
早瀬神社一座  瀬織津姫命〔一説木花知流姫命〕
 此御社者、同越智郡之内鎮座于津嶋。

(早瀬神社一座の祭神は瀬織津姫命とするも、一説には「木花知流姫命」ともいわれる。
早瀬神社は越智郡のなかの津嶋(津島=門島)に鎮まり)
昭和十八年に初版刊行された『宗像郡誌』(上巻)は、「辻八幡社」「神湊村大字江口字皐月にあり」、同社には「境内神社五社」があるとして、そのなかの皐月神社の項を、次のように書いています。
皐月神社 
祭神 瀬織津姫命 宗像三柱神 速秋津姫命 神功皇后
由緒 祭神瀬織津姫命、宗像三柱神、速秋津姫命ハ無格社皐月神社トシテ、大字江口サツキニ祭祀アリ。

古ヘ田島宗像宮ノ頓宮地ニシテ、五月五日大祭アリ。競馬ヲモ執行シアリシト。又祭神神功皇后ハ大字江口字原ニ、無格社原神社トシテ祭祀アリシヲ、大正十四年四月一日許可ヲ得テ合祀ス。
(宗像の皐月神社(浮殿)には、記紀における神功皇后の新羅征討譚に登場していた天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の異名をもつ瀬織津姫神がいた)
アマテラスと同一視される瀬織津姫、オオヤマツミ(瀬織津姫)はイザナギとイザナミの13番目の子であり、スサノオの妻に一族からクシナダヒメを出し、天孫のニニギノミコトの妻にコノハナノサクヤビメを出し、同じく天孫のニギハヤヒの嫁にトミヤスビメを一族から送り出している。
このオオヤマツミは、最初にイザナミを殺したカグツチとして生まれ、イザナギの十拳剣で切り裂いて8つのヤマツミの神として生まれます。しかし、生まれたのが男神ではなく、女神(瀬織津姫)であると、不思議な隠語が昔語りに一致します。つまり、カグツチから生まれた姫なので、カグ家(ヤ)ノ姫となります。そうご存じ『かぐや姫』です。物語のかぐや姫は天子のことを思うも、穢れた現世から去って月に帰ってしまいます。
つまり、アマテラス、スナノオに次ぐ大きな力を持つ天孫の子孫である月読尊の姫が治める国が、オオヤマツミの国だったのかもしれません。想像の翼を広げるなら、邪馬台国の卑弥呼もオオヤマツミの姫の一人だったかもしれません。邪馬台国と狗奴国(ニニギ)と大和に姫を送っているので中立的立場を維持できたのも頷けます。
そう考えれば、古事記と日本書紀には、同じ天孫のスサノオとツクヨミの子孫の活躍が正しく書かれていないことが判ります。否、スサノオとツクヨミの子孫の活躍をアマテラスの子孫が行ったように書き換えて、他の天孫の子孫から多くのものを簒奪したことを隠すことが、古事記と日本書紀の目的だったのかもしれません。
まぁ、いずれにしろ、この答えを探しても今直ぐに決着がつくものでもありません。宮内庁が古墳などの発掘調査に協力してくれるなら、もしかするとその謎のベールが剥がれてゆくかもしれませんが、政府は明治政府以降の姿勢を崩していません。
「函館市史」資料編第2巻所収に残る資料には、明治初期まで”瀬織津姫神”が、祭神として樽前地区の樽前神社(由来不明)に祀られていましたが、
明治7年に明治政府の勅命によって
苫小牧市内中央に奉遷され社格を郷社とし
社名 樽前山神社
祭神 大山津見神(おおやまつみのかみ)
   久久能智神(くくのちのかみ)
   鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)

の三神が祀られたのです。
なぜ、こんなことをする必要があったのか、なぜ、”瀬織津姫神”を黙殺しようとするのか。
その答えは古事記にあるとしか言えません。

さて、イハレビコは7年も滞在することになったのは、オヤマツミを懐柔する為だった訳ではありません。安芸の背面には巨大な一大勢力を誇る出雲が控えています。これを無視して通る訳にはいきません。太田川、根の谷川を北上して高田郡可愛村(えのむら)に到着したという伝承が残っております。広島県北西部の『芸北神楽』には、出雲の八岐大蛇退治の須佐之男命を題材とした『鍾馗』、東征での神武天皇の活躍を描いた『神武』があり、広く愛さてれおります。イハレビコがここで何らかの功績を残されたのは、イハレビコが即位した後にコトシロヌシカミ(オオクニヌシの子)の娘を正妃に迎えていることから伺えます。おそらく、新出雲と対立する旧出雲族(オオクニヌシ派)と共闘することで背後の憂いを断ったのはないでしょうか。
さらにイハレビコは呉において海賊退治もやっております。多礽理宮(たけりのみや、多家神社)から南東に約20km離れた呉市にこのような伝承が残っております。
高鳥山(たかからすやま)に夷賊の山巣があった。里に居住するよき翁達が、我物顔に振る舞う夷賊の蔓る様に怖れ戦いていた。(中略)神武天皇は誰れ秦聞するとなく聞き召され「やよ、かの奇しき賊を平らげ得させよ」と宣ふた。
(港町に残る海賊の物語「海道東征」をゆくより)
ここで注目するのは八咫烏です。海の民は沖に流されたときに陸の位置を知る為に、高い山を目指し、さらに沖に流されたときの為にカラスを船に載せて置きます。カラスは帰巣本能が強く、何も見えない海の上でも帰るべき陸を見つけて飛んで行きます。舟人はそのカラスを追い駆けて力の限り陸を目指すのです。カラスとは神の使いと重宝されていたのです。
そのカラスの中でも神々しい八咫烏が船に先立って賊の住む高鳥山で羽を休めた。イハレビコを神の御遣いと思った夷賊は戦うこともなく逃げ去ったようです。
熊野でも出てくるこの八咫烏とは一体なんなのでしょうか?
日本サッカー協会が「八咫烏(三足烏)」をシンボルマークにしたのは、サッカーを日本に紹介した方が和歌山の「熊野」の出身であり、「熊野三山」のシンボルは「八咫烏(三足烏)」であるからだという。「八咫烏」は太陽を象徴し、その図柄が世界のあちこちに見られるが、何と言っても高句麗のシンボルである。「コム 熊」は「高麗(koma)であり、 高句麗の「神」とされ、朝鮮の「天孫降臨」の「檀君神話」では「コム 熊」は「聖なるもの」・「神」とされている。そして、高句麗の始祖王 朱蒙(しゅもう)の旗印も「八咫烏」である。
朱蒙は東明聖王(とうめいせいおう、紀元前58年-紀元前19年)と呼ばれ、諱が朱蒙である。この他にも高句麗との繋がりを表わすものとして高句麗は別名を貊(はく)ではないだろうか。狛犬は別名で高麗犬と呼ばれ、稲荷神社などでよく見かける。高麗では良き弓が産出されており、これを「貊弓」と呼んだらしい。朱蒙の二子に温祚がおり、後に二代高句麗の瑠璃明王が太子となったために身の危険を感じてか、烏干・馬黎らの10人の家臣と大勢の人々とともに南方に逃れた。温祚は漢山の地で慰礼城(いれいじょう、ウィレソン、京畿道河南市)に都を置き、国(百済)を起こしたと言われる。
『周書』(636年)には、「百済の祖先は恐らく馬韓の属国であり、夫余の別種である。仇台(きゅうだい、クデ)というものがあって、帯方郡の地に国を興した」とある。百済が国として建国したのは4世紀(346年?)であるが、建国神話では紀元前18年となっている。公孫賛に組みしていたようなので魏と敵対する狗奴国に援軍を送っても不思議ではありません。もし、彼らが温祚から援軍であったとするなら朱蒙の旗『八咫烏』を掲げていてもおかしくないのです。

さて、安芸の国から大三島を渡って吉備の国に至り、古事記では高嶋宮でまた8年を費やします。その高嶋宮は福島市から岡山市に掛けてあったとされますが、どこであったかは定かではありません。伝承が残っている候補地として、
児島湾高島の高嶋神社
笠岡諸島高島の高島神社
龍ノ口山の南西の高島神社
福山市田尻町の八幡神社
福山市内海町の皇森神社

などがあります。東へ東へとゆっくり移動していたのでしょう。
14260007000_2
〔約6,000年~7,000年前の岡山平野は海でした〕(吉備の穴海 株式会社フジタ地質HP)
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〔高嶋宮の候補地〕(6000年前の岡山地盤 株式会社フジタ地質HP)
約6,000年~7,000年前ほどではありませんが、約2000年前も海の水は平野部をすべて海の底に沈めておりました。
瀬戸内海の潮目は東に向かうとすると、満ち潮なら向かい潮、引き潮なら追い潮となります。深く要り交わった島々の間を抜けて、潮の流れに沿って海岸沿いを進むには水先案内人の存在が欠かせません。この地を平定せずに先に進むことができなかったのでしょう。
そして、吉備の東に辿り着いたイハレビコの眼下には、淡路島まで続く大海原が広がって見えたでしょう。淡路島の向こうには生駒山地が連なります。目的地まであとわずかです。伝承を見てみると、舟の修繕、防衛、食糧確保などイハレビコは最後の準備を行います。
吉備と言えば、最初に連想するのは『桃太郎伝説』でしょう。岡山市を流れる笹ヶ瀬川には、そこで桃を拾って持ち帰ったという温泉(源泉:桃太郎温泉)が沿う洗濯岩があり、その西側に鬼ノ城があります。
鬼ノ城は渡来人の温羅(うら)が築いたとされますが、温羅の反乱に崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子である五十狭芹彦を派遣して退治したとありますが、桃太郎のモデルである吉備津彦が温羅と同一人物であるという説もあり、吉備は非常に複雑な時代背景を持ちます。
門田貝塚や津雲貝塚などからも判るように、この地は縄文の古くから栄えており、楯築(たてつき)遺跡に眠る人物は、邪馬台国の女王卑弥呼ではないかと言われるほど盛んな土地でした。
イハレビコはこの吉備をうみ沿いに西から東へとゆっくり移動し、新しい技術を伝搬することで、この土地を制圧していったのではないでしょうか。イハレビコに縁の神社が桃核出土遺跡郡の東側に多く、この当たりを拠点に吉備の奥地まで赴いているのが、神武天皇を祀った神社一覧表から判ります。
吉備団子ではありませんが、桃を含む多くの農作物の収穫が増える知恵を授け、犬・猿・雉にまつわる一族を味方に付けて、大和に住む鬼族を退治に赴いたのが、最初の『桃太郎伝説』のはじまりだったのかもしれません。
鬼退治で登場する鬼ノ城では血吸川と呼ばれる川が流れ、人身の血で川が真っ赤に染まっていたと言われますが、これは鉄を洗ったときにでる赤錆の色です。
「真金吹く吉備の山中帯にせる細川谷のおとのさやけさ」『古今和歌集』
『真金吹く』とは、鉄精錬で飛び散る火花の様を表わした吉備を表わす枕言葉です。4世紀頃より吉備は鉄の産地として有名だったのでしょう。
収穫が豊かで鉄が取れる。大和王朝にとって吉備は重要な国であり、景行天皇、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇。雄略天皇、舒明天皇が吉備の国の者を妃にしております。吉備の国は出雲に次ぐ、巨大な王朝があったと考えられます。
さて、大和へ向かう準備が整ったところで、長子イツセ(五瀬)が登場します。
イツセは「まだ東に向かうのか?」とイハレビコに問い、イハレビコは向かうと言って吉備を後にします。
ところで、古代は末子が家長を務めるという風習があったのでしょうか?
そういった話は特に聞きません。
イハレビコは四兄弟の末子であり、上から五瀬(いつせ)、稲氷(いなひ)、御毛沼(みけぬ)、狭野(さの)あるいは、別名の若御毛沼命(わかみけぬ)となります。
因みに狭野とは、イハレビコの幼名であり、宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田の狭野神社に祀られております。大字蒲牟田あたりがイハレビコの生まれ故郷となります。それから吾平津姫と婚姻して、手研耳命と岐須美美命を生んだとされます。吾平という地名は鹿児島県本土の南東、大隅半島の中ほどにあった町にそう言った名前があったようですから、その土地の娘だと推測されます。しかし、五瀬、あるいは五瀬彦にまつわる名の神社は多く残っておりません。有名なのは、和歌山県和歌山市和田にある竈山墓(かまやまのはか)がある竈山神社、釜山神社(かまやまじんじゃ)です。それに即位後に御建てになられた安仁神社(あにじんじゃ)(注4)が大きな手掛かりです。
一方、久住神社(くじゅうじんじゃ)のように大分県の神社では、神武天皇の名が一緒にありません。
ここから推測されるのは、『神武の東征』の五瀬の東征だったのではないでしょうか?
そして、イハレビコが吉備を手にいれたのだから、もう十分ではないかというと、五瀬は塩土老翁に聞いた。より素晴らしい国を求めて、吉備を後にしたのではないでしょうか。
●岡山県で神武天皇を祀った神社
貴布禰神社 久米郡倭文東村
雄神川神社 上道郡西大寺町
岩山神社 上房郡巨瀬村
福田神社 真庭郡八束村
稲岡神社 邑久郡太伯町
乙子神社 邑久郡太伯町
松江伊津神社 邑久郡太伯町
高島神社 上道郡高島村
竹島神社 児島郡甲浦村
上加茂神社 都窪郡加茂村
鴨神社 浅口郡鴨方町
岩山神社 小田郡山田村
若宮神社 小田郡中川村
皇子神社 小田郡陶山村
岩倉山神社 小田郡稲倉村
神島神社 小田郡神島外村
加茂神社 吉備郡山田村
川合神社 上房郡下竹荘村
加茂神社 真庭郡八束村
橿原神社 真庭郡川東村
若王神社 勝田郡大崎村
若宮 小田郡川面村大字宇内字今田
若宮 小田郡川面村大字宇内字金原
若宮 小田郡川面村大字宇内字室屋
御子神社 小田郡大井村大字東大戸字井佐古
御子神社 小田郡大井村大字東大戸字宗岡
御子神社 小田郡大井村大字東大戸字迫
御子神社 小田郡大井村大字東大戸字下河内
高島神社 小田郡神島外村
島神社 小田郡神島外村
杉根神社 小田郡神島外村
加茂神社 川上郡落合村
●神武天皇に縁の神社
麻御山神社(おみやま) 岡山市東区邑久郷2948 御祭神天日鷲命
松江伊津岐神社(まつえいつき) 岡山市東区邑久郷1500 御祭神五瀬命若御毛沼命(神武天皇)
安仁神社 岡山市東区西大寺一宮895 主祭神五瀬命配神稲氷命・御毛沼命
綱掛石神社(つなかけいし) 岡山市東区東片岡1695 御祭神田心姫命狭依姫命瑞津姫命
伊登美宮(いとみ) 岡山市東区東片岡1190 御祭神幾多神
亀石神社岡山市東区水門町御祭神珍彦命
乙子神社岡山市東区乙子237 若御毛沼
神前(かむさき)神社岡山市東区水門町715 御祭神猿田彦命
●彦五瀬命に縁の神社
竈山神社 和歌山県和歌山市和田438 祭神:彦五瀬命、神武天皇
茅渟神社 大阪府泉南市樽井5丁目11-9
男神社(おのじんじゃ) 泉南市男里3丁目16番1号 祭神:彦五瀬命、神武天皇
男踊詞カ神社 和泉市仏並町 祭神:彦五瀬命・神田本磐余彦尊・他二柱
男乃宇刀神社(おのうとじんじゃ) 大阪府和泉市仏並町1740 祭神:彦五瀬命、神武天皇
安仁神社(あにじんじゃ) 岡山市東区西大寺 祭神:彦五瀬命、稲氷命、御毛沼命
(「兄神社」又は「久方宮(ひさかたのみや)」と称した)
久住神社 竹田市久住町 祭神:健男霜凝彦神(たけおしもごりひこ),彦五瀬命(ひこいつせ),姫神
健男霜凝日子神社 大分県竹田市神原1772 御祭神:健男霜凝日子大神 豊玉姫命 彦五瀬命 他九柱
健男霜凝日子神社下宮  大分県竹田市神原1822 御祭神:健男霜凝日子神、豊玉姫命、彦五瀬命、大太夫夫婦、花乃本姫
高千穂神社 境内 四皇子社  宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井1037御祭神:高千穂皇神、十社大明神は神武天皇の皇兄、三毛入野命とその妻子神9柱
鵜戸神宮 境内 皇子神社  宮崎県日南市大字宮浦3232 御祭神:神日本磐余彦尊他6柱の神道相神社  京都府南丹市美山町宮脇ヒノ谷43-1 御祭神:神武天皇 五瀬命 木梨軽皇子
糸岡神社  富山県小矢部市五社3080 御祭神:鵜草葺不合尊、少彦名命、彦五瀬尊、御毛入野尊、彦稲氷尊、神日本磐余彦天皇

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〔2~3世紀における遺跡の分布図〕(鬼ノ城へ あじさい通信・ブログ版より〔大幅に改変〕)
(注3)塩土老翁(シオツツノオジ)とは、何もでしょうか。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記され、別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)とされます。塩は潮であり、航海の神とも言われます。海幸(うみさち)・山幸神話では、海神(わたつみ)の宮への道筋をおしえたと言われます。老翁とありますから年老いた老人の様相が伺え、輝き鼻の長い容姿から導く神であるサルタヒコを連想されます。サルタヒコは天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神であり、「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされています。三重県鈴鹿市の椿大神社、三重県伊勢市宇治浦田の猿田彦神社などがサルタヒコを祀る神社として有名です。
(注4):『古事記』『日本書紀』の神話や明治期に古記録を再編纂した『安仁神社誌』によると、 末弟の若御毛沼命(わかみけぬのみこと、後の神武天皇)と共に、日向国(現在の宮崎県)から大和国(奈良県)へと東進する途中に神社近在へ数年間滞在される。 この時に地域住民に稲作や機織りなどの殖産事業を大いに奨励された。後年、難波津(大阪湾)での対抗勢力との戦いでの傷が致命傷となり、 体制を立て直すためにたどり着いた木国(きのくに、和歌山県)でついに薨去(落命)された。
神武天皇即位後、皇兄の産業奨励を顕彰して「兄を祭る神社」、安仁神社が創建された。
五瀬命は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依毘売命(たまよりびめのみこと)との間に生まれた四人の男子のうちの第一子である。第二子の稲飯命は母の国である海神の国へ行き、第三子の御毛沼命は外国へ渡ったと伝えられている。第四子が若御毛沼命といって、のちの人皇第一代神武天皇となった神である。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-6 大型の帆船

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 6章「邪馬台国って、どこにあるの?」
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6.大型の帆船
三国志演義で曹操と袁紹との間で行われた『官渡の戦い』は、雄大に黄河を渡河した袁紹軍が白馬の戦いを前哨戦として、黄河流域を縦横無尽に移動して戦われております。曹操軍1万弱、袁紹軍は約10万を引き連れた大軍でありました。それに対して、曹操が数の劣勢を覆す為に採用したのは、大型船の採用でありました。
131
〔官渡戦況図〕(官渡の戦い ウィキペディア)
中国の長江流域・北部沿岸では、紀元前三世紀よりも古い時代に、筏から進化したという沙船(させん)があったが、丸太船から進化した福船と融合し、三国志時代には複合船になっていたと思われます。船底は竜骨(キール)のついたV字型で、横方向の強度を保つための梁(はり・ビーム)を持った船は、人や物資の大量輸送ができるようになっていきました。
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〔福船と沙船〕(弥生時代の日本への渡海は中国のジャンク船だった 日本の歴史と日本人のルーツより)
映画やドラマなどでは、袁紹が黄河を渡河する場面を大型の帆船で移動することが多いのですが、当時は最新の技術であり、福船か、沙船のいずれかで渡河していたと思われます。
一方、曹操は運河・水路を整備し、兵や食糧を一度に運べる櫓を持った大型帆船を導入したのです。そう、中国で大型帆船が登場するのは曹操が初めてだったのです。
しかし、そう考えると徐福が使ったと言われる船はどんな船であったか疑問が湧きます。蓬莱に幼男・幼女各五百名を二隻の船に載せたとあり、船の長さは150m、幅20m、総排水量七千トンの木造船であったと言われますが、技術力が500年ほど先を行っております。帆船で海を渡れるようになったのは漢の武帝時代であり、秦の時代ではありません。
中華は陸の国ですから、海上で戦うという発想が元々ありません。船は渡河できればよいのです。商家が大枚を叩いて大型の帆船を作るというのはあり得ません。
魏の曹操が大型の帆船で一度に大量の兵と物資を運ぼうと考えたことは、当時の常識を覆すものだったのです。
133
〔徐福渡来の挿し絵〕(21世紀に蘇った徐福 連Ver.9より)
江戸末期の『西国三十三ヶ所名所図会』にある『新宮湊』のページに登場する徐福渡来の挿し絵。徐福とその一行が熊野に到着し、船から宝物などを降ろす風景が描かれている船は正に大型帆船であります。その絵には伝承と逸話が混じっています。そもそも三国志で関羽の青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)も張飛の蛇矛(じゃぼう)も宋代以降の武器であり、三国志演義に登場したのは明の時代であります。実際、三国志の関羽や張飛が持っていた訳ではありません。
さて、『官渡の戦い』に話を戻しますが、曹操は官渡まで攻められて悪戦苦闘の戦いを強いられます。そこで荀攸の進言に従って、史渙と徐晃に袁紹軍の輸送隊を攻撃させます。同じことを袁紹も行いますが、防備を固めた曹操軍の前に失敗します。一方、袁紹軍は補給路が長い上に、水路を利用する曹操軍の動きを止められないという不利もありました。
袁紹にすれば、防衛ラインを無視して、黄河や運河、水路を使って、袁紹軍の奥地まで縦横無尽に闊歩する曹操軍は忌々しい敵であったに違いありません。
そして、曹操は烏巣に袁紹軍の食糧が蓄えられているという情報を知ると、大船団を組んで移動し、烏巣急襲して袁紹軍を討ち果たしたのであります。中華において大型の帆船が初めて戦争で利用された瞬間でした。この後、大型の帆船が海を渡れるようになるのに半世紀を要します。
景初2年(238年)、卑弥呼の使者が洛陽に赴いて、その大型帆船を目撃しております。280年、晋が20万の大軍で押し寄せて呉を滅ぼした時に、呉の多くの遺臣が海を渡って、大型の帆船の知識と共に倭国に漂着したのは疑いようもありません。
そもそも中華が船に関心を持ったのは、漢の武帝の時代(在位紀元前141年-紀元前87年)であります。西方の匈奴を討伐したことでインドや西欧へ続くシルクロードを得て、仏教を始め多くの知識と文献が伝わってきます。
つまり、古代ギリシアで用いられた初期のギリシア船やフェニキアの「交易船」、三段櫂船(さんだんかいせん)のギリシアのガレー船の知識が流入したと考えられます。地中海を舞台として発展したギリシアやローマの技術が中国の船に大きな影響を与えたのです。『オデュッセイア』(第5巻228-261)の記述と、いくつかの壷絵びは初期のギリシア船が描かれております。
134
〔初期のギリシア船〕(古代ギリシアの船舶 古代ギリシア案内より)
特にガレー船の三段櫂船の知識は衝撃的だったのではばいでしょうか。
当初、1000km以上も離れた寒風吹き荒れる朝鮮半島から道なき荒野で物資を運ぶなど考えもしなかったでしょう。しかし、帆船の技術を手に入れた武帝は山東半島の煙台から遼東半島の先端である大連までの100km余り、廟島諸島を繋いで渡ることに成功し、紀元前109年に陸と海から衛氏朝鮮を攻めて滅ぼしてしまいます。このとき、武帝の下に倭の奴国から来た使者が訪れ、倭国100余国が楽浪郡の支配地に組み込まれたのであります。
そして、大型の帆船の登場で陸も見えない海上で数日間停泊することもなく、ピンポイントで目的に到着する技術である『指南魚』が導入されます。
『指南魚』とは、磁性を持った鉄針を木製の小さな魚に埋めた道具であり、水を張った器の上で常に南を差すものです。つまり、羅針盤です。この羅針盤の登場で世界は一遍します。
卑弥呼たちシャーマンが海流と天候などを占いで海の安全を保障する時代が終わり、大量の人、物資、馬や牛などが日本にやってくることになるのです。3世紀末になって大型の帆船が日本に導入され、4世紀の民族大移動時代が始まりました。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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