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経済から見る歴史学 日本編 01-9 神武の東征(後篇)

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 9章 神武の東征(後篇)
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9.神武の東征(後篇)
神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)の東征で熊野まで迂回するように塩土老翁(シオツツノオジ)が言ったのでしょうか?
149
〔紀の川河口からの航空写真〕(紀の川 万葉香の悠久の歴史と自然の川 国土交通省HPより)
そもそも大和王朝の時代において大量の物資を運ぶ場合は、船で吉野川から紀の川に下って運び出します。国土交通省HPに乗っている紀の川河口からの写真を見ると、ほぼ一直線に奈良盆地に繋がっているのがよく判ります。紀の川を遡り、金剛山から葛城山の裏を通れば、奈良に入ることができるのです。
紀の川の河口である名草地方(現:和歌山市海南市)を治めていたのは、名草戸畔(なぐさとべ)とされる女性首長だったと伝えられております。イワレビコは浜の宮海岸付近に上陸して、名草戸畔と交戦して討ち取りました。この「名草戸畔」の頭は慕っていた村人が持ち帰り、神社の裏山に埋められ宇賀部神社が祀っていると伝えられています。
宇賀部神社の宮司である小野氏はこう語ります。
「神武軍は名草軍に撃退されて仕方なく熊野に行った。しかし最終的に神武が勝利し天皇に即位した。そのため名草は降伏する形になったが、神武軍を追い払った名草は負けていない」
確かに言われると合点が往く話であります。
航空写真を見ても判るように、名草戸畔に勝ったイワレビコは川を遡っていかなかったのでしょうか。結局、イワレビコ一向は名草戸畔の首を討ったが平定するまでは至らなかった。むしろ名草戸畔を討ったことで抵抗する者が増えたのかもしれません。イワレビコは追い出されるように紀伊水道を上っていったのかもしれません。
イワレビコ一向は狭野(和歌山県新宮市)を越え、熊野の神邑を東に向かったところで、イナヒ(稲飯)とミケヌ(三毛野)が離脱します。イナヒは母親のいる海原へ行き、ミケヌは常世へ渡ったと残されております。
純粋に考えれば、遭難して命を落としたと捉えるべきなのでしょうが、イナヒ(稲日)はイナミ(印南) とも呼ばれ、ハリマ(播磨)の別名であります。一方、ミケヌは高千穂で『鬼八(きはち)』という悪神が民を苦しめていたので、これを退治して高千穂を治めたという伝承が残っております。もしかするとイワレビコを残して、二人は東征を諦めて帰ったのかもしれません。
いずれにしろ、熊野灘で難破したイワレビコ一向は熊野の荒坂津に二人の兄を失います。命からがら漂着した英虞崎(あごさき)からは、船を捨てて陸路を移動することになります。
イワレビコ一向が移動したのは、丹敷浦(ニシキウラ)であり、熊野川河口の那智勝浦当たりのです。そこで丹敷戸畔(ニシキトベ)という地元の首長を討ったのですが、イワレビコ一向達は心魂疲れ果てて倒れたそうです。この最大の危機を救ってくれたのが、高倉下(タカクラジ)でした。高倉下はタケミカヅチノカミが高天原より下した『一横刀』(十掬の釼)を持って駆け付けて、イワレビコ一向達の眠りを覚ましてくれたのです。
日本書記や古事記には都合の悪いことを極力隠そうという努力が見受けられます。出雲に侵略したという表現を使わずに『国譲り』したと柔らかく書いております。ニギハヤヒとイワレビコの時代が異なるのに、記紀ではニギハヤヒがイワレビコに降ったと書き、時代は進みますが、天皇家に忠義の厚い蘇我蝦夷と入鹿を大悪党にしております。しかも律令制の立役者であった蘇我氏の手柄を藤原氏がすべて根こそぎ奪いとっているのです。
はっきりと申しましょう。
五ツ瀬に付き従い吉備まで順調に進んだ東征ですが、日下、男水門、名草と悪戦苦闘が続き、熊野の荒坂津に至ったところでイナヒとミケヌは東征を諦めて逃げ帰ったのです。残ったのは五ツ瀬に忠誠を誓った部下とイワレビコを慕う者達だけになってしまった。戦力が半分に減ってしまったのです。なんとか丹敷戸畔(ニシキトベ)という地元の首長を討ったのですが、もう精魂尽き果てて、熊野川を遡って奈良に到ることができるのだろうかと意気消沈していたのです。もうここから進む気力もないという所に高倉下が『一横刀』(十掬の釼)を携えて援軍にやってきたのです。
高倉下は『先代旧事本紀』巻5天孫本紀で物部氏の祖神である饒速日命(ニギハヤヒ)の子で尾張連らの祖天香語山命の割註に天降の名手栗彦命のまたの名が高倉下命である。饒速日命に随伴した神々は、三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者を従えて天降った。
【防衛の人 32神】
1.天香語山命(あまのかごやま)  尾張連等の祖   日本書紀に天火明命の子とある。天孫本紀では天火明命と饒速日尊は同一神とするため、天香語山命も饒速日尊の子となっている。
2.天鈿賣命(あまのうずめ)    猿女君等の祖
3.天太玉命(あまのふとだま)   忌部首等の祖
4.天兒屋命(あまのこやね)   中臣連等の祖  
 

記紀では、これらの神々はともに「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」の降臨に供奉したとなっている。
5.天櫛玉命(あまのくしだま)   鴨県主等の祖   伊勢国風土記逸文には、出雲建子命の別名とあり、またの名を伊勢津彦神とある。石の城を築き、阿倍志彦神の襲来を撃退したという。また、伊勢津彦神は伊勢の国を治めていたが、神武天皇の派遣した天日別命に国譲りを迫られたため伊勢を明け渡したが、自らはその軍門に降ることを潔しとせず、「八風を起こし海水を吹き上げ、波浪に乗って」信濃の国に去ったとある。
6.天道根命(あまのみちね)   川瀬造等の祖   新撰姓氏録和泉神別に神魂命の五世孫とある。
7.天神玉命(あまのかむたま)   三嶋県主等の祖   神代本紀には、神皇産霊尊の子として「天神玉命:葛野鴨県主等祖」がある。
8.天椹野命(あまのむくの)    中跡直等の祖  
9.天糠戸命(あまのぬかと)    鏡作連等の祖
10.天明玉命(あまのあかるたま)  玉作連等の祖   記紀に瓊々杵尊の降臨に供奉した神として登場。
11.天牟良雲命(あまのむらくも)  度会神主等の祖   天孫本紀に尾張氏の祖として「天村雲命」がある。同一神であれば、天香語山命の子で饒速日尊の孫となり、異なる場合には、豊受大神宮禰宜補任次第に「天牟羅雲命」があり、瓊々杵尊の降臨に従った神ということになる。
12.天背男命(あまのせお)   山背久我直等の祖  新撰姓氏録山城国神別に神魂命の五世孫とあって、天神系であることが分かる。日本書紀にある「香々背男」が「久我背男」のことならこの神と同一で、瓊々杵尊以前に天降っていたという旧事本紀の記述は、建葉槌命や経津主命、武甕槌命に討たれたことと対応する。
13.天御陰命(あまのみかげ)   凡河内直等の祖  新撰姓氏録左京神別に天津彦根命の子とある。天津彦根命は天照大神が素戔鳴命との誓約の時に生んだ子である。天御影神は近江の国、野洲の三上山の神であり、子の息長の水依姫は日子坐命(開化天皇皇子)と婚して丹波の美知能宇斯王、水穂の真若王らを生んだと古事記にある。
14.天造日女命(あまのつくりひめ)  阿曇連等の祖  他の文献には見られない。天道日女命の誤記とすれば、天孫本紀にある饒速日尊の妃神(天香語山命の母)となる。
15.天世平命(あまのよむけ)   久我直等の祖 
16.天斗麻弥命(あまのとまね)   額田部湯坐連等の祖 新撰姓氏録摂津国神別に天津彦根命の子とある。
17.天背男命(あまのせなお)   尾張中島海部直等の祖  
18.天玉櫛彦命(あまのたまくしひこ)  間人連等の祖 新撰姓氏録左京神別に玉櫛比古が神魂命の五世孫とある。
19.天湯津彦命(あまのゆつひこ)  安芸国造等の祖   国造本紀の阿岐国造、白河国造の条に見える。白河国造条では、「天降天由都彦命」とあって、天降ったことが強調されている。
20.天神魂命(あまのかむたま 別名・三統彦命) 葛野鴨県主等の祖 神魂命は神産巣日神と同一視する説もある。
21.天三降命(あまのみくだり)   豊田宇佐国造等の祖 豊田は豊国の誤記であろう。
22.天日神命(あまのひのかみ)   対馬県主等の祖  対馬県主は、新撰姓氏録未定雑姓・摂津国神別に津島直・津島朝臣が天児屋根命から出るとあり、中臣氏系と見ることができるかもしれない。
23.乳速日命(ちはやひ)   広湍神麻続連等の祖
24.八坂彦命(やさかひこ)   伊勢神麻続連等の祖  他に名前が見えず、未詳。
25.伊佐布魂命(いさふたま 別名・天活玉命) 倭久連等の祖   姓氏録摂津国神別に、五十狭経魂命が角凝魂命の子であるとされ、天神系と分かる。
26.伊岐志邇保命(いきしにほ)   山代国造等の祖  他に名前が見えず、未詳。
27.活玉命(いくたま)    新田部直の祖   他に名前が見えず、未詳。
28.少彦根命(すくなひこね)   鳥取連等の祖   似た名の少彦名命(すくなひこなのみこ

 

と)との関係は不明。
29.事湯彦命(ことゆつひこ)   畝尾連等の祖  姓氏録和泉国神別に畝尾連は天児屋根命から出るとある。
30.(八意思兼神の子)表春命(うははる) 信乃阿智祝部等の祖
31.天下春命(あまのしたはる)   武蔵秩父国造等の祖   八意思兼神は記紀によって天神であることが分かり、国造本紀には知知夫国造条に名前が見える。その子の、表春命、下春命は高橋氏文に「知々夫国造上祖、天上腹、天下腹人」とある人名と関係するものと思われ、天降ったことが分かる。
32.月神命(つきたま)    壱岐県主等の祖  姓氏録右京神別に壱岐直は天児屋根命か

 

ら出るとある。
【五部人(いつとものひと】
1.天津麻良(あまつまら)   物部造等の祖  姓氏禄の和泉国神別大庭造条に神魂命八世孫とあり、天神系。
2.天勇蘇(あまのゆそ)    笠縫部等の祖 (摂津説)東生郡笠縫、(大和説)城下郡笠縫、(大和説)十市郡飯富郷十笠縫村
3.天津赤占(あまつあかうら) 爲奈部等の祖 (摂津)河辺郡為奈郷、(伊勢)員弁郡
4.富々侶(ほほろ)      十市部首等の祖。和名抄に鞍手郡十市郷と見え、この地か?(大和説)十市郡
5.天津赤星(あまつあかほし) 筑紫弦田(つるた)物部等の祖。筑前の国鞍手郡鶴田の地か?(現福岡県鞍手郡宮田町)宮田町磯光に、天照神社があり、この神社は饒速日尊が祭神である。(大和説)平群郡鶴田
【伴領(とものみやつこ)】
1.二田造  筑前の国鞍手郡二田郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)
2.大庭造  新撰姓氏禄に神魂命八世孫・天津麻良命の後裔とある。
3.舎人造
4.勇蘇造
5.坂戸造

【天物部(あまのもののべ)25部】
1.二田物部 筑前の国鞍手郡二田郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)。筑後の竹野郡二田郷とする説も。
2.当麻物部 肥後益城郡当麻郷。(大和説)葛下郡当麻郷。
3.芹田物部 鞍手郡生見郷芹田村。(大和説)城上、城下、平群各郡芹田。
4.鳥見物部 北九州の鳥美(登美)とすれば、豊前の国企救郡足立村富野とする説が有力。(現北九州市小倉北区富野)馬見物部とすれば、馬見神社(福岡県嘉穂郡嘉穂町、馬見古墳群)(奈良説:奈良県大和高田市)
5.横田物部 嘉麻郡横田村。(大和説)添上郡横田村。
6.嶋戸物部 「島門は遠賀川西岸にある。埴生郷の北で垣前郷に属する村であろう。」(吉田東伍:大日本地名辞書)高倉神社「大倉主命、菟夫羅媛命」(福岡県遠賀郡岡垣町)、岡湊神社「大倉主命、菟夫羅媛命」(福岡県遠賀郡芦屋町)
7.浮田物部 (大和説)添上郡浮田村。
8.巷宣物部
9.疋田物部 鞍手郡疋田。(大和説)城上郡曳田。
10.須尺(酒人)物部 酒人説は、須尺は、酒人の草書を見誤ったものとする。
11.田尻物部 筑前上座郡田尻村。(大和説)葛下郡田尻村。
12.赤間物部 筑前宗像郡赤間。
13.久米物部
14.狭竹物部 鞍手郡粥田郷小竹村。
15.大豆物部 筑前穂波郡大豆村。
16.肩野物部 (河内)交野
17.羽束物部 
18.尋津物部
19.布都留物部
20.住跡物部
21.讃岐三野物部
22.相槻物部
23.筑紫聞物部 「聞」は、豊前の国の企救郡を指すと思われる。(現在の北九州市小倉区・門司区のあたり)
24.播麻物部
25.筑紫贄田物部 筑前の国鞍手郡新分(にいきた)郷と思われる。(現福岡県鞍手郡鞍手町)
二田物部と坂戸物部は「姓氏録未定雑姓」に、饒速日命が天降った時の従者「二田天物部」「坂戸天物部」の後裔とある。日本書紀に拠れば、神武東征で、天皇は紀州を廻って大和に入る時、金色の鵄(トビ)が飛び来たりて天皇の弓にとまり、その鵄の光が流電の如く輝いて、長髓彦の軍兵は戦えなくなった。これが、鵄山、鵄邑(鳥見村・富雄)の起源であるとされているが、鳥見という地名がもともとからあったものではないようにも見える。だとすれば鳥美(登美)という地名も、饒速日の尊達が北九州から持ってきた地名のように思われる。

【船長・梶取等】
1.天津羽原(あまつはばら)  船長跡部首等の祖  跡部首は他に見えないが、河内の国の渋川郡跡部郷や、伊勢の国の安濃郡などには跡部の地名があり、それらのいずれかを率いた伴造ではないか。また、跡部は阿刀部と等しく、阿刀物部と同じとも考えらる。新撰姓氏禄摂津国神別、山城国神別の阿刀連は饒速日命の後裔とあるので、阿刀部も物部系と見ることが出来よう。
2.天津麻良(あまつまら)  梶取阿刀造等の祖  梶取は現代風にいえば操舵手、航海長のようなもの。阿刀造は後に連姓になり、天武朝には宿禰姓となっている。新撰姓氏禄左京神別に「石上同祖」とあり、物部氏族であることがわかる。
3.天津真浦(あまつまうら)  船子倭鍛師等の祖  古事記の天の岩戸の段に「鍛人・天津麻良」と、日本書紀の綏靖即位前紀に「倭鍛部・天津真浦」が見える。それぞれ祭祀用の金属器の製作と関係していりようである。武器の他に、船の金属部品や工具の製作、修理に携わったもかもしれない。
4.天津麻占(あまつまうら)  笠縫等の祖
5.天都赤麻良(あまつあかまら)曾曾笠縫等の祖  
6.天津赤星(あまつあかほし)  爲奈部等の祖  応神三十一年八月紀に、爲奈部が新羅系の船大工集団だったとある。新撰姓氏録未定雑姓に為奈部首は伊香我色乎命の六世孫・金連の後裔とあり、物部氏の配下に属していたようだ。
この『先代旧事本紀』を見れば、饒速日命はそうそうたるメンバーを引き連れてやってきたことが伺えます。彼らの多くは神社などの縁を辿ると近畿一円と主に香川や和歌山に土地を与えられたように思えます。
一方、邇邇芸命が天孫降臨したときに、随行した神々は主に以下のメンバーです。
天兒屋命(あめのこやねのみこと)、
布刀玉命(ふとだまのみこと)、
天宇受賣命(あめのうずめのみこと)、
伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)、
玉祖命(たまのやのみこと)、

 

常世思金神(とこよのおもひかねのみこと)、
手力男神(たぢからをのみこと)、
天石門別神(あめのとはとわけのみこと)
登由宇氣神(とゆうけのみこと)、
櫛石窓神(くしいはまどのみこと)<亦の名は豐石窓神(とよいはまどのみこと)>
手力男(の)神は佐那那縣(さなながた)に坐す。故、その天兒屋(の)命は、中臣連等の祖。布刀玉(の)命は忌部首等の祖。
天(の)宇受賣命は、猿女君等の祖。
伊斯許理度賣(の)命は、作鏡連等之祖。
玉(の)祖(の)命は、玉祖連等の祖。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は、鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖。
玉(の)祖(たまのおや)の命は玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖。
同神が邇邇芸命と饒速日命に同行しているのを、どう解釈するかは別の話として(神々の名称は総称に過ぎない)、ここで重要なことは、天香語山命(高倉下命)が味方としてやってきたことです。そして、もう一つは『一横刀』(十掬の釼)を持っていたという事実なのです。

150
『先代旧事本紀』によれば、大己貴神の娘から生まれた天香山命が高倉下であり、『海部氏系図』によれば、素盞嗚尊の娘から生まれたのが熊野高倉(高倉下)となっている。いずれにしろ、ウマシマジと異母兄弟であることが重要です。
高倉下がイワレビコを助力することで、
ニニギ VS ニギハヤヒ
だった戦いの構図が、
ウマシマジ VS 高倉下(イワレビコ)
と大きく変化したのです。
ニニギとニギハヤヒは同族ですが、もう100年以上も前に分かれた一族です。今更、新たの王と言われても素直に受け入れられるものではありません。三十二人の防衛、五部人、五部造、天物部等二十五部人、船長という多数の随伴者達は、ニニギに対しては敵対者として共闘したのです。しかし、同じニギハヤヒの子同士の戦いに変わったことで心情が大きく変化しました。つまり、「西方から来た侵略者との戦い」から「お家騒動」に変わったのです。
そして、もう一つ重要なことは、高倉下が『一横刀』(十掬の釼)を持っていたことなのです。一横刀はタケミカヅチが所有していた布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)とも呼ばれる霊剣でした。そんな御大葬なモノを所有できる神は猿田彦しか考えられないのです。
猿田彦は非常に不思議な国津神であり、ニニギが天孫降臨の道案内をした神です。ニニギが日向に到着した後にアメノウズメを妻として故郷に帰ったとあります。猿田彦は伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座したとあるので、猿田彦の拠点は伊勢の国です。
猿田彦の面立ちは、鼻長が七咫、背長が七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であったと書かれております。どこかで聞いたと思えば『天狗様』のモデルの神様です。
滋賀高島市の『白鬚神社』は全国の白鬚神社の総本社であり、祭神は猿田彦神を祀っております。猿田彦は白鬚明神とも呼ばれ、白髪の老人で長寿の神様と崇められております。
そして、志波彦神社・鹽竈神社(しわひこじんじゃ・しおがまじんじゃ)では、塩竈大明神として猿田彦神が祀られているのです。この志波彦神社の別宮の主祭神は『塩土老翁神』となっており、左宮は『武甕槌神(タケミカヅチ)』、右宮は『経津主神(フツヌシノカミ)』が祀られているのです。
経津主神は刀剣の威力を神格化した神と呼ばれ、布都御魂の剣を神格化した神とも呼ばれています。利根川を挟んで経津主神を祀る香取神宮と、武甕槌神を祀る鹿島神宮が東国からの結界として祀られております。
見事に繋がりました。
この他にも『住吉大社神代記』 にも
「亦、西国見丘あり、東国見丘あり、皆大神(※住吉三神)、天皇に誨え賜いて、塩筒老人に登りて国見せしめ賜いし岳なり」
と書かれ、住吉三神が塩土の老爺に国見をさせたとあります。
また、堺市にある開口(あぐち)神社の祭神が塩土老爺の神他二座であり、社伝では、神功皇后の三韓征伐の帰途、この地に塩土老翁神を祀るべしとの勅願により創建されたと伝えています。
記紀において、山幸彦が兄(海幸彦)に借りた釣り針をなくして、海辺で困っているとやって来て、海神の宮へと送り出したのも塩土老翁です。
考えてみれば、ニニギが降臨した後に、猿田彦と塩土老翁が役割を交代したかのように進むべき道を進める役目を担っているのです。
他にも同一神ではないかと言われるのが、アメノトリフネである。
アメノトリフネ・天鳥船・鳥之石楠船神(トリノイハクスフネノカミ)・鳥磐?樟橡船(鳥之石楠船神、トリノイワクスフネ)・天鳩船(アマノハトフネ)・熊野諸手船(クマノノモロタノフネ)
乗り物のような名前であるが、『古事記』では、
『次に生める神の名は、鳥之石楠船(トリノイハクスブネ)神、亦の名は天鳥船(アメノトリフネ)と言ふ。次に大ゲツヒメノ神を生みき。次に火之ヤギハヤヲノ神を生みき。亦の名は火之カガビコノ神と言ひ、亦の名は火之迦具土神(ヒノカグツチ)と言ふ。この子を生みしによりて、美蕃登(ミホト)灼かえて病み臥せり。』
カグツチが生まれる前に出て来た神である。カグツチからフツヌシ、タケミカヅチが生まれているので兄に当たる存在である。
ところで、『日本書記』で登場するニギハヤヒは、
『饒速日命、天磐船(あめのいわふね)に乗りて、太虚(おほぞら)を翔(めぐり)行きて、是の郷を睨りて降りたまふ』
と書かれているが、この“天磐船に乗りて”ではなく、“導かれて”ならば、

天磐船=鳥之石楠船神=天鳥船

ということになります。
すると、タケミカヅチ、ニギハヤヒ、ニニギのすべてに同一神の案内人が付いていたことになるのです。
ところで、この猿田彦と塩土老翁の趣きに似ている人物がもう一人いるのです。
それが『武内宿儺』なのです。
武内宿儺は老翁(おきな)の姿で仲哀天皇に従い、助言や導き手として活躍した。仲哀天皇が亡くなられたあとも神功皇后のそば近くで仕え、乳飲み子の応神天皇に寄り添って、九州からヤマトまで導いたのです。結局、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代に渡る忠臣とされているのです。
問題は武内宿儺が紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖とされている処なのです。特に日本書記を編纂した藤原氏にとって葛城氏・蘇我氏が邪魔な存在だったのです。
〔天鳥船〕=〔猿田彦〕=〔塩土老翁〕=〔武内宿儺〕
神代の時代から天孫を導く一族であったという事実は、蘇我氏を滅ぼした藤原氏にとって都合が悪かったのです。
ですから、猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか)の海で漁をしていたときに比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれてあっけない最後を迎えます。このとき、海に沈んてゆく「底どく御魂」、吐いた息の泡が昇る「つぶたつ御魂」、泡が水面で弾ける「あわさく御魂」の三柱の神を生んだそうです。
因みに、猿田彦神の御母は伎佐貝比売(きさがいひめ)と称していますから、これは猿田彦神の御母である伎佐貝比売の神量(かむはかり)であり、国譲りでオオクニヌシが幽冥界に旅だったように、猿田彦も海界に旅だったのでしょう。
こうなると、志波彦神社・鹽竈神社の順列が鮮明になりました。
祭神:塩竈大明神(猿田彦)
別宮:塩土老翁神
左宮:武甕槌神(タケミカヅチ)
右宮:経津主神(フツヌシノカミ)

塩土老翁は武甕槌神を導いた兄神的な存在であり、塩土老翁の傍らに経津主神(布都御魂剣)が連れ添っていてもおかしくない存在なのです。

さて、神々の話はこの程度にしましょう。
国津神として天孫を導いた猿田彦の一族は、天孫族より先に倭国にやってきた渡来人と考えるべきなのです。彼らは自らの国を作らずに流通を支配して原住民や渡来人に利益を享受していました。商王朝の“商”から商人という言葉が生まれています。海という交通を自由に行き来し、物資を交換することを生業とした一族、倭国を1つの交易圏として繁栄していたのです。ですから、そして、後から来る渡来人によって、ゆっくりとその本質が変化していったのではないでしょうか。
紀元前2世紀に北九州の大分県の九重・由布火山の大噴火で民族大移動を行う必要があり、猿田彦の一族は率先して協力しました。同じようにスサノオの導き手として、佐太御子大神(サルタヒコ)がいたのです。出雲の一の宮が熊野大社(祭神:スサノオ)に対して、二の宮は佐太神社(祭神:サルタヒコ)でした。国譲りでスサノオの一族は丹波から越前・越中・越後、近江を通って美濃・尾張・三河と移動し、あるいはタケミナカタが討伐した諏訪・武蔵野へと移住したのです。
猿田彦の一族は天孫を導き、スサノウの一族も導く、アフターケアー満載の一族だったということがよく判ります。
商人の本道は物量の安定にあり、国が安定しているほど流通にとって都合がよいのです。縄文時代から弥生時代前期は部族同士の戦いはありましたが、支配するとかいう関係ではなく、誰が最も統率力があるのかを競っていたので物流が途切れる心配はありませんでした。それより自然環境が厳しい日本では、寒波や台風といった天に争うことが一番の関心事だったのです。
ところが弥生時代後期になると、渡来人が持ち込んだ国という概念が支配を複雑に変えてゆきます。いつもの部族が王を立てて、部族同士の戦いが激化したのです。こうなると物流を扱う猿田彦の一族にとって不都合な事態です。日本列島は縦に細長いので、少し大きな部族同士が戦うと通行ができなくなってしまいます。
さらに農業技術の向上で定住化が進み、弥生時代になって人口が爆発的に増加したこともその要因の1つです。
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〔縄文・弥生時代の日本の地域別遺跡数と推定人口〕(縄文・弥生時代の人口分布 [日本人とは] ぼくあずさは地球人より)
民族大移動はおおむね成功しました。タテミナカタが土地の神であるモレアを倒し、自らの祭祀と仕えるようにしたように、現住する統率者を倒し、その一族を支配化において融合することで日本は再編成が進んだのです。
さて、ニギハヤヒが平定されたヤマトではニギハヤヒが亡くなると、部族間の争いが起こったと残されております。おそらく、各部族の力がどんぐりの背比べのように拮抗して、それを平定できる者がいなかったのでしょう。しかし、ヤマトは日本の中央に位置します。物量を扱う部族にとって動乱が続くことは困った状態なのです。
そこで白羽の矢が立ったのが天孫ニニギ族のイワレビコ一向だったのです。塩土老翁は長髄彦らを説得しようとしたのでしょうが、イワレビコ一向を受け入れようとしません。塩土老翁の先祖である猿田彦は、ヤマトでは導き手であって権威がなかったのでしょう。イワレビコ一向はヤマトから名草まで悪戦苦闘の連続です。
それでも熊野に行けば、味方する者もいるだろう。最悪でも伊勢の国は味方です。もし、イワレビコ一向が難破せずに船を維持していたなら、イワレビコ一向は大海人皇子と同じルートでヤマト入りすることになっていたのかもしれません。
熊野灘で船を失ったことが塩土老翁にとって誤算だったのかもしれません。兄の離脱もあり、戦力が減ったイワレビコが最大のピンチが訪れます。
塩土老翁はニギハヤヒの子であり、熊野の片隅を治めている高倉下を説得します。高倉下がどういう態度で塩土老翁と接したのかを知る術がありません。しかし、霊剣あらたかな経津主神(布都御魂剣)を与えられたことで心は定まりました。
塩土老翁は高倉下を味方に引き入れると、経津主神(布都御魂剣)の効果を最大に発揮させます。夢でタケミカヅチが現われて、自らの倉に経津主神(布都御魂剣)を置いていった。イワレビコは神の御子であると宣伝します。
経津主神(布都御魂剣)を所有するのは、伊勢の斎王(サルタヒコ)しかありません。熊野と伊勢は山を一つ越えただけの位置関係にあります。距離感というものは、心情に大きく左右するものなのでしょう。
熊野の国津神を味方に付けたイワレビコは熊野川を遡り、吉野河の河尻の国津神である贄持之子(にへもつのこ)、井氷鹿(ゐひか)、石押分之子(いはおしわくのこ)の三神が宇陀までの道案内を願い出てきます。
宇陀に入ったイワレビコは兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)の抵抗を受けますが、兄宇迦斯を討伐し、帰順した弟宇迦斯を先頭に国見丘にいる八十梟帥(やそたける)を謀略によって打ち滅ぼします。どの地も兄と弟に分かれ、兄は討ち滅ぼされ、弟は帰順します。
つまり、進むどの地でもイワレビコを敵とする者と味方として帰順した者が現われて、敵対する者を討ち滅ぼして進んだという隠語なのでしょう。
三輪山の麓、奈良盆地に南部には唐古・鍵遺跡をはじめとする多くの集落跡が残されています。ここを越えれば、長髄彦の本拠地は目の前です。
奈良盆地は東西16km、南北30km、矢田丘陵、馬見丘などはあるものの総面積300平方キロメートルの比較的平坦な盆地です。初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川などが枝分かれした大小150余の小河川が張り巡っております。縄文遺跡は標高45m以上で発掘され、弥生時代の集落は標高40mくらいに固まっております。
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〔古代大和南北縦貫道〕(日本の古代 第9巻 都城の生態 岸 俊男編 中央公論社 奈良大和博物館HPより改変)
縄文時代は藤原宮も奈良湖の底であり、神武天皇が奈良に入った頃は、青か。水色の湖畔が残っていたでしょう。その奈良湖周辺に黄金の稲穂はたなびく姿を想像しながら、橿原から奈良湖を回って長髄彦の本拠に兵を進めると、三炊屋媛と可美真手命(ウマシマジ)が現われて天津瑞を献上して降ってきました。
こうして、荒ぶる神々を説得したイワレビコは、辛酉の歳の正月に畝傍の白檮原宮(かしはらのみや:橿原宮)で天皇へと即位されたのです。
西暦241年、イワレビコが即位し、神武天皇のヤマト王朝が胎動し、この瞬間から日本の中心がヤマトに移ったのであります。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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