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経済から見る歴史学 日本編 01-7 神武の東征(前篇)

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 7章「神武の東征(前篇)」
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7.神武の東征(前篇)
後の初代天皇となる神武こと、神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は、塩土老翁(シオツツノオジ)(注3)によれば東に美しい国があることを聞き、都を作りたい為に東征に出たとあります。そもそも神武天皇が存在したのかと言われており、そのモデルになった人物がいるのか、神功皇后(じんぐうこうごう)の子である応神天皇(おうじんてんのう)の逸話を2つに割ったのはないかなど、様々な解釈が現代でもなされております。これから述べる説も、その1つに過ぎません。
神武の東征は、『日本書紀』によれば、神武が橿原の宮で即位した年を辛酉(かのととり)であり、素朴に天皇の即位年度を逆算すると紀元前660年となります。中華は周の時代であり、秦が建国した年に近い年号となっております。日本では弥生時代の前期であり、殷の商王朝の難民が倭国に渡来したかどうかの頃になります。
もし、この時期に神武の東征があったというなら、神武は稲作の伝来者として語り告げられたことでしょう。また、生駒山地を超えるときに抵抗があったのも不思議です。仮に強い抵抗があったとして、何故、当時のメインストーリーの日本海側に移動して協力を求めず、危険な熊野から進入したのも不思議な話です。
逆に日本書記によれば、神功皇后摂政紀 三十九年、四十年、四十三年に「倭の女王が魏に遣いを出し朝献した。」と記述があります。神功皇后と卑弥呼を同一人物と錯覚させるような記事でありますが、神功皇后は百済・新羅と戦っており、魏への朝献とは、100年以上の隔たりがあるのです。
もう1つの疑問は、東征において日本海航路を使わないことです。4世紀から7世紀初頭までに遣隋使や遣唐使で賑わっているのでメインストーリーのように思っておりますが、実際は瀬戸内海が通行路として使われるのは日本書記による463年の雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)が『吉備の乱』を鎮静化した以降になるのです。
なぜ、瀬戸内海ルートが紀元前では拙いのでしょうか?
瀬戸内海の潮流は常時時速20kmにもなる速い潮の流れがあり、更に岩が隠れているところも多いのです。しかもその流れが朝夕、月日によって変わります。朝から夕べまで人力のみで漕ぎ進めるのが困難な難所が幾つもあったのです。単純に言えば、割の合わない航路だったのです。そして、大型の帆船が生まれることで一度に大量の物資が運べるようになり、瀬戸内海ルートが見直されたのです。
つまり、普通に考えると神武天皇が瀬戸内海を進んだと仮定すれば、4世紀以降となってしまいます。ですから、瀬戸内の海上を移動したとするなら神武天皇、応神天皇、雄略天皇が同じ人物であったと仮定しないと、東征が成立しないという学者もいるのです。もちろん、私はこの説を取りません。
私は狗奴国説を取りたいと思います。
漢の武帝時代に存在した奴国は、北九州に拠点をおいた国でした。徐福が北九州の佐賀県有明海岸上陸し国を作っております。それから数~十数年後に秦の関係者が倭国に渡来したことは容易に想像できます。

彼らは最新の技術と武器を持って渡来してきます。その中に秦の王族が含まれ、奴国の王になったと言うのは突飛な話でしょうか。
奴国の王が秦の末裔であったなどという逸話は残っておりません。ただ、辰韓は辰国に亡命して秦の関係者が起こした国であり、一方馬漢にも秦の一族が多く残っております。その1つ、百済渡来系の秦氏は秦の末裔を自称しております。その秦氏が天皇家に忠義を果たそうするのは、天皇家が秦の王族と関連があるのではないかという下衆の勘繰り程度の推測が浮かんでしまいます。どうして朝鮮半島に秦の関係者が多くいるかというと秦が滅亡した頃の話をする必要がでてきます。
紀元前202年に秦が滅亡し、長城の建設に当たっていた50万の秦軍の一部が朝鮮半島に亡命したと記録されております。漢は朝鮮に逃れた秦の残党を気に掛けることもなく、秦族は衛氏朝鮮で定住することになりました。ところが紀元前108年に漢の武帝が海を渡って攻め入り、衛氏朝鮮を滅ぼし漢の4郡を設置します。馬韓伝によれば、朝鮮の宰相である歴谿卿が朝鮮の民も二千余戸が彼に従って出国し、辰国(しんこく)に移住したとあります。この朝鮮の民と秦の亡命者が多く含まれていたのは想像し易いことでしょう。
『三国志魏書』馬韓伝
 魏略曰:初,右渠未破時,朝鮮相歴谿卿以諫右渠不用,東之辰國,時民隨出居者二千餘戸,亦與朝鮮貢蕃不相往來。
辰国は四郡に帰属しなかったとありますが、辰国の実態は未だにはっきりとしません。元々馬韓の55ヶ国、辰韓12ヶ国、弁韓(弁辰)12ヶ国があり、すべて総称して辰国と呼んでいたと思われます。馬韓では秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、その東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたといわれます。これが秦韓であり、辰韓のはじめりと言われます。また、馬韓にも多くの秦族が残っておりました。この三韓の中で弁韓(弁辰)は最も半島の南端にあり、対馬を挟んで北九州と交流の深い土地でした。その風土は倭国と似ており、男女ともに入れ墨をし、礼儀よく、道を相手にすすんで譲ったとあります。また、五穀や稲の栽培に適しており、蚕を飼い、縑布を作っておりました。大鳥の羽根を用いて死者を送る風習を持っております。市場の売買では鉄が交換され、中国の金銭が使用されています。
中国の金銭を扱ったという一文を見ると東夷の王を見直さなければなりません。
『漢書』「王莽(おうもう)伝」元始五年(紀元五)の条
「5年(元始5年)東夷の王、大海を渡り国珍(こくもん)を奉ず」
王莽は中華の新王朝(前漢~後漢の間、8~23年)の皇帝であり、この王莽が東夷の王と評する人物であります。彼が王莽と通じていた証拠として、新王朝の鋳造した貨幣『貨泉』が半島および畿内を含めた列島各地から多数出土する。中に壱岐島の原の辻遺跡から、天鳳元年(紀元後14年)に鋳造された貨泉、その6点に加え、居摂(きょせつ)2年(紀元後7年)鋳造の『大泉五十』も出土しています。
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〔王莽が発行した貨幣『貨泉』〕(王莽 ウィキペディアより)
その他にも貨泉は福岡県の御床松原遺跡や新町遺跡から出土したほか、岡山市の高塚遺跡からは25個の古銭が出土、鳥取県の青谷上寺地遺跡から4枚出土しています。この東夷の王の末裔が奴国の王であれば、倭奴国王が金印を貰ったことも頷けます。しかし、この貨泉は紀元後40年には使用されなくなっています。
その他の出土品に鉄や鏡が多く残っております。しかし、その出土分布を見ると、北九州に比べて、畿内の出土数は少なく。3世紀以前は北九州が中心であったことは否定できません。
では、何故ゆえに北九州から九州全域に渡来人が多くやってくることになったのでしょうか?
その答えは紀元前2世紀の九重火山の噴火にあります。由布火山の大噴火と火砕流で森や民家はすべて埋もれ、その後しばらくブルカノ式噴火が続きました。ブルカノ式とは、ほとんど固結し溶岩にふさがれていた火口がガスの圧力で開かれ、火山岩や火山灰などが爆発的に放出されるもので、火山弾・火山灰などを高く噴出するのが特徴です。
人々は神々の怒りを恐れました。火山灰は大地の恵みをすべて奪い、九州全域を死の国へと変えたでしょう。記紀ではカグツチ伝説として、イザナミが死に至る事態になります。北九州の住民の一部は辰国に逃げ、また、日本海伝いに出雲・因幡に移住したと思われます。由布火山に連動するように九州の山々が一斉に火を噴きます。その1つが霧島連山も例外ではありませんでした。霧島周辺に住んでいた天孫の末系達は、その地を捨てて新天地を求めて東へと移動します。これが『ニニギの東行』伝説とも重なります。
そして、偶然ではありますが、徐福の一団もこの時期に不死の妙薬を求めて、日本全国を飛び交っていたのです。徐福自身は倭国に来日して、すぐに死を迎えます。しかし、徐福の子孫達は不死の妙薬を求めて、徐福伝説を広げてゆきました。
紀元前108年に漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、漢の4郡を設置したことを皮切りに朝鮮北部部の秦族が朝鮮南部、および倭国に大挙して押し寄せたのです。九州は無人といいませんが、新天地として最適でした。多くの渡来人、そして、帰国民も合わさって、北九州に新たな国が生まれてゆきます。その中に東夷の王が倭国を大乱に導いたのです。東夷の王は貨幣『貨泉』の分布から北九州から畿内まで猛威を振るったと予想されます。しかし、その猛威も新王朝が滅びると衰退し紀元40年頃に衰えたと考えられます。これに変わって台頭してきたのが奴国だったのです。奴国は紀元57年には後漢に使者を出し、倭奴国王の金印を貰いました。その奴国の天下も短く伊都国に滅ぼされます。奴国の遺児は南九州に逃れて、狗奴国を建国したとされています。しかし、動乱の時期は続きます。紀元後107年には倭国王を帥升が名乗っております。帥升が伊都国の王であるかも不明ですが、多くの男王が乱立していたのは間違いありません。
この時期を私は『旧倭国大乱期』(40年~180年頃)と呼ぶことにします。魏志倭人伝に添うならば、「倭国で男性の王の時代が続いた(70-80年間)が、その後に内乱があり(5-6年間)、その後で一人の女子を立てて王(卑弥呼)とした」という時期になります。
卑弥呼が擁立された180年頃から248年まで、狗奴国が敵対していたことを除けば、比較的穏やかな時期であったことが倭人伝から伺われます。逆を言うならば、狗奴国は劣勢であったと言い換えられます。

さて、天皇の崩御の年を比較してみると神武天皇が崩御されたのは、200~300年の間という推測が立ちます。辛酉の歳に磐余彦は橿原宮で践祚(即位)し、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称したとありますから、181年か、241年に絞り込むことができます。しかし、181年に大和国を建国していたのであれば、
大和国=狗奴国
となってしまします。九州の南ではなく、東説を取らねばなりません。しかし、その時期に邪馬台国と大和王朝が戦った記録はありません。そう考えれば、邪馬台国が衰退した後に神武天皇が即位した241年であると考える方が妥当でしょう。
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〔『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い〕(『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い 第二章  『日本書紀』の実年代より)

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〔中華と倭国、狗奴国と神武、その周辺の年表〕

ところで魏志倭人伝には。『王』が居たと明記されている倭の国は伊都国と邪馬台国と狗奴国で、他の国々には長官、副官等の役人名しか記されていなません。伊都国と狗奴国が特別であったことが伺われます。

さて、諸国を取りまとめる邪馬台国と邪馬台国を倭国王と認めない狗奴国が対立し、戦果を交えているのは、247年の卑弥呼の使者が狗奴国との戦いを伝え、魏の使者として張政が派遣されていることが物語っています。辛酉(かのととり)の年に橿原で即位したことを前提とし、古事記で東行に16年掛かったとすると、225年頃に神武天皇は日向から旅立ったことになります。
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〔神武の東征〕
高千穂を東に降ると、温暖な日向が広がり、宮崎平野に大淀川が流れ農作物も豊富に取れる土地でした。
日本書記には、こう示されております。父は天孫ニニギノミコトの孫、ウガヤフキアエズノミコト。母はワタツミノカミの娘、タマヨリビメ。夫婦の第4子であり、天皇生まれながらにして明達(さか)しく、意かたくまします。ニニギノミコトは日向の高千穂に降臨します。イハレビコも45年間も日向に住んでおりました。イハレビコは、日向国の吾田邑(あたむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶り、子に手研耳尊(たぎしのみこと)を得ます。鹿児島にかって阿多郡があったことから、この地のアタ出身の媛であることが伺われます。つまり、熊本・宮崎・鹿児島の三県を支配地にしていたと思われます。
イハレビコの東行は、軍事行動であると同時に稲作と鉄器、そして灌漑事業の伝搬を兼ねております。日向灘は民謡じょうさ節に「1に玄海、二に遠江、三に日向の赤江灘」」と歌われるように難所中の難所です。難所ゆえに外海から守られているとも言えるのですが、イハレビコはここから大分に向けて八月一日の夜明けに出港します。
イハレビコの一行は海岸沿いに進んで行き、佐伯市米水津で食糧と水を補給すると宇沙《莬狭》に向かいます。船は手漕ぎ船ですから最長でも1日50km程度しか進めません。しかも前人未到航路です。この航路を最初に助けたのが珍彦(うづひこ)という海人でした。イハレビコは海人に根津彦という名を与えてやります。こうして、豊予海峡を抜けたイハレビコ一行は大分県宇佐市の柁鼻の地に到着します。莬狭の住人に歓喜でイハレビコを迎えます。イハレビコは家臣のアマノタネコノミコト(アマテラスが天岩屋に隠れたときに祭祀を取り仕切った者)に宇沙都比売を娶るように命じました。(宇佐と大和王朝の関係はここから始まります)
そこから筑紫国の岡田宮に移って1年の歳月を費やします。
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〔北九州の地形〕(九州道(関門道) for 鹿児島ICとグーグルより)
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〔玄海灘と周防灘〕(北九州の段丘地形とAso − 4火砕流堆積物より)
古事記で16年、日本書記で6年の大遠征となっております。その内の一年間もこの岡田宮で過ごしたのは不思議に思われるかもしれませんが、地形を見れば一目瞭然であります。
北九州の福岡は平地が少なく、斜面に市街地が発展しております。海から発展し、徐々に山側に向かって伸びていったのです。しかし、東側には山々が連なっており、もし東から攻めて来られると横腹を晒しているような地形なのです。大軍で攻められた場合は一溜りもないという地形なのです。逆に大分は平地が少なく利の薄い土地に思われますが、周坊灘として見れば、宇佐から岡田まで上陸する為には絶対に欠かせない土地なのです。つまり、邪馬台国にとって東の要として周防灘を死守するのは重要な意味を持っていたのですが、瀬戸内海には脅威となる勢力もなく、玄界灘のみ気を使っていたのです。邪馬台国がそれに気づくのは、神武が大和に新しい王朝を作ったずっと後のことになるのです。
次にイハレビコは関門海峡を越えて安芸を目指しますが、周防灘の高波に遭い、竹島(山気県周南市)に停泊します。竹島は現在陸続きですが、当時は島でした。イハレビコはここに半年も滞在し、船の修理や住民の懐柔に勤しんだとおもわれます。下上見明と命名したのはイハレビコと伝わり、この地の神上神社には「朕、何国ニ行クトモ魂ハ此ノ仮宮ヲ去ラザレバ、長ク朕ヲ此ニ祀ラバ、国ノ守神トナラン」と残しております。
周防灘を抜けると大きな入り江を持つ広島湾が広がります。現在の広島平野も海の底であり、入り江の深い湾でした。そこに上陸したイハレビコの前に鬱蒼とした森が広がります。イハレビコがこの地に上がり、土地の者に『そなたは誰ぞ』と尋ねます。これが由来して『誰曽廼森(たれそのもり)』と伝承となっています。
この地の有力者であった安芸津彦はイハレビコに協力的であり、後に国造の地位を与えられています。水源が豊かなこの土地でイハレビコは7年も滞在することになるのですが、ここを拠点に四国のオオヤマツミを味方にする必要があったからです。
何故、そう断言できるのかと言えば、瀬戸内海を横断するのに四国のオオヤマツミの助力なしではできなのです。
特に難所の来島海峡(くるしまかいきょう)は、鳴門海峡・関門海峡と列び、日本三大急潮にあげられており、「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と唄われるように潮の流れが速く、こころ横断するのはそれほど困難だったのです。
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〔瀬戸内海の難所『来島海峡』〕(株式会社しまなみHPより)
来島海峡は約6時間半で潮の向きが変わり、それに応じて通行できる航路も変わるという世界的にも極めて珍しい海峡であり、その潮の流れは10.3ノットです。
例. 狭い海峡などでの最高潮流
関門海峡  9.4ノット
鳴門海峡 10.5ノット
明石海峡  6.7ノット
手漕ぎ船は潮流が2ノット(約4km/h)を越える逆流を受けると前に進まなくなりますから、これは潮の流れを呼んで進むしかありませんが、時速20kmの激しい流れと数多くの岩礁があっては、100艘近い船団が集団で移動する航行は困難だったのです。
当時は手漕ぎ船の船団が朝から夕方まで力任せに漕いで移動するのが一般的であり、潮を読んで波乗りのサーファーのような職人芸を生業とする者は少数だった訳です。よくよく考えてみれば当たり前です。100艘の船団に100人の船頭を育ててゆくのは大変な労力が入ります。しかし、瀬戸内海には難所が幾つもあり、難所ごとに船頭が必要な訳であります。とても労力に見合う利益を見いだせる訳もなく、瀬戸内海は流通の要所となり得なかったのです。
しかし、3世紀末、あるいは4世紀に入って大型の帆船が主流に変わると、100艘の手漕ぎ船が5艘程度の帆船船団に変わります。これならば、難所に5人の船頭がいれば、海を渡って行けます。こうして瀬戸内海も重要な輸送路へと変わっていったのであります。
さて、イハレビコが東に行くには、この海峡を治めるオオヤマツミの協力が必要でありました。このオオヤマツミがどんな人物かと言えば、古事記を見れば判るようにイハレビコとは深い関係の方でした。
オオヤマツミはイザナギとイザナミの13番目の子であり、スサノオが嫁にしたクシナダヒメの両親であるアシナヅチ・テナヅチの父に当たります。そのスサノオとクシナダヒメの間に生まれたヤシマジヌミノカミは、オオヤマツミの娘であるコノハナチルヒメと夫婦になり、その5代子孫にオオクニヌシが生まれます。
スサノオの一族とよしみを通じている一方で、アマテラスの子孫であるニニギノミコトの妻にオオヤマツミの娘であるイワナガヒメとコノハナサクヤヒメを差し出しているのです。ところがニニギノミコトはイワナガヒメを送り返し、オオヤマツミはそれに怒って天孫に呪いを掛けて寿命を短くしたと記されております。いずれにしろ、オオヤマツミはイハレビコにとっての高祖父に当たる方なのです。
さらにオオヤマツミを祀っている大山祇神社は、三島明神(現大山積神)が主神として鎮座しておりますが、元々は瀬織津姫命を祀っていたと言われます。この瀬織津姫命は清めの女神とされ、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が瀬織津姫であると記述されております。大山祇神社の分社は全国に約10,318社あると言われ、大分、新潟、静岡と分散しております。
大三島の大山祇神社を最初に祀ったのが越智家の祖「小千命」です。この小千命とイハレビコを結ぶのが、『小千命御手植の楠』であります。楠は小千命が神武天皇御東征にさきがけて祖神大山積神を大三島に祀り、その前駆をされたと伝える。境内中央に聳え御神木として崇められている。樹齢2,600年と言われる堂々とした神木は、2,600年前に東行を崇められたことを物語っているのです。
もちろん、2,600年前の東行はイハレビコのことではありません。イハレビコと同じように東行をした人物こそニギハヤヒであります。その東行の果てに大和の国を治めたのです。しかし、ニギハヤヒは亡くなり、その子であるウマシマジノミコト(物部連、穂積臣、采女臣の祖)が生まれる前に亡くなります。ウマシマジノミコトでは世が治まらなかったのでしょう。
先代旧事本紀には、ニギハヤヒの遺体が天に還されて後に、天照太神は仰せになった。
「豊葦原の千秋長五百秋長の瑞穂の国は、我が御子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が王となるべき国である」
とご命令されて、天からお降しになったときに、天押穂耳尊は、天の浮橋に立たれ、下を見おろして仰せられた。
「豊葦原の千秋長五百秋の瑞穂の国は、まだひどく騒がしくて、その地は平定されていない。常識はずれな連中のいる国だ」
高原原から見て、大和の地はまだまだ治まっていないと書かれています。つまり、大和が治まらないと考えた塩土老翁(シオツツノオジ)が、イハレビコなら治めるとして、故事にならった同じ道を進むように進言したと考えると辻褄があいます。
瀬織津姫命を祀っている越智家もニギハヤヒの末裔です。その越智家が神として祀っていたオオヤマツミが瀬織津姫と同神とすれば、色々と辻褄が合わないこともあってきます。
安永五年=一七七六年頃の書写、『神道大系』神社編四十二、所収。
早瀬神社一座  瀬織津姫命〔一説木花知流姫命〕
 此御社者、同越智郡之内鎮座于津嶋。

(早瀬神社一座の祭神は瀬織津姫命とするも、一説には「木花知流姫命」ともいわれる。
早瀬神社は越智郡のなかの津嶋(津島=門島)に鎮まり)
昭和十八年に初版刊行された『宗像郡誌』(上巻)は、「辻八幡社」「神湊村大字江口字皐月にあり」、同社には「境内神社五社」があるとして、そのなかの皐月神社の項を、次のように書いています。
皐月神社 
祭神 瀬織津姫命 宗像三柱神 速秋津姫命 神功皇后
由緒 祭神瀬織津姫命、宗像三柱神、速秋津姫命ハ無格社皐月神社トシテ、大字江口サツキニ祭祀アリ。

古ヘ田島宗像宮ノ頓宮地ニシテ、五月五日大祭アリ。競馬ヲモ執行シアリシト。又祭神神功皇后ハ大字江口字原ニ、無格社原神社トシテ祭祀アリシヲ、大正十四年四月一日許可ヲ得テ合祀ス。
(宗像の皐月神社(浮殿)には、記紀における神功皇后の新羅征討譚に登場していた天照大神荒魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)の異名をもつ瀬織津姫神がいた)
アマテラスと同一視される瀬織津姫、オオヤマツミ(瀬織津姫)はイザナギとイザナミの13番目の子であり、スサノオの妻に一族からクシナダヒメを出し、天孫のニニギノミコトの妻にコノハナノサクヤビメを出し、同じく天孫のニギハヤヒの嫁にトミヤスビメを一族から送り出している。
このオオヤマツミは、最初にイザナミを殺したカグツチとして生まれ、イザナギの十拳剣で切り裂いて8つのヤマツミの神として生まれます。しかし、生まれたのが男神ではなく、女神(瀬織津姫)であると、不思議な隠語が昔語りに一致します。つまり、カグツチから生まれた姫なので、カグ家(ヤ)ノ姫となります。そうご存じ『かぐや姫』です。物語のかぐや姫は天子のことを思うも、穢れた現世から去って月に帰ってしまいます。
つまり、アマテラス、スナノオに次ぐ大きな力を持つ天孫の子孫である月読尊の姫が治める国が、オオヤマツミの国だったのかもしれません。想像の翼を広げるなら、邪馬台国の卑弥呼もオオヤマツミの姫の一人だったかもしれません。邪馬台国と狗奴国(ニニギ)と大和に姫を送っているので中立的立場を維持できたのも頷けます。
そう考えれば、古事記と日本書紀には、同じ天孫のスサノオとツクヨミの子孫の活躍が正しく書かれていないことが判ります。否、スサノオとツクヨミの子孫の活躍をアマテラスの子孫が行ったように書き換えて、他の天孫の子孫から多くのものを簒奪したことを隠すことが、古事記と日本書紀の目的だったのかもしれません。
まぁ、いずれにしろ、この答えを探しても今直ぐに決着がつくものでもありません。宮内庁が古墳などの発掘調査に協力してくれるなら、もしかするとその謎のベールが剥がれてゆくかもしれませんが、政府は明治政府以降の姿勢を崩していません。
「函館市史」資料編第2巻所収に残る資料には、明治初期まで”瀬織津姫神”が、祭神として樽前地区の樽前神社(由来不明)に祀られていましたが、
明治7年に明治政府の勅命によって
苫小牧市内中央に奉遷され社格を郷社とし
社名 樽前山神社
祭神 大山津見神(おおやまつみのかみ)
   久久能智神(くくのちのかみ)
   鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)

の三神が祀られたのです。
なぜ、こんなことをする必要があったのか、なぜ、”瀬織津姫神”を黙殺しようとするのか。
その答えは古事記にあるとしか言えません。

さて、イハレビコは7年も滞在することになったのは、オヤマツミを懐柔する為だった訳ではありません。安芸の背面には巨大な一大勢力を誇る出雲が控えています。これを無視して通る訳にはいきません。太田川、根の谷川を北上して高田郡可愛村(えのむら)に到着したという伝承が残っております。広島県北西部の『芸北神楽』には、出雲の八岐大蛇退治の須佐之男命を題材とした『鍾馗』、東征での神武天皇の活躍を描いた『神武』があり、広く愛さてれおります。イハレビコがここで何らかの功績を残されたのは、イハレビコが即位した後にコトシロヌシカミ(オオクニヌシの子)の娘を正妃に迎えていることから伺えます。おそらく、新出雲と対立する旧出雲族(オオクニヌシ派)と共闘することで背後の憂いを断ったのはないでしょうか。
さらにイハレビコは呉において海賊退治もやっております。多礽理宮(たけりのみや、多家神社)から南東に約20km離れた呉市にこのような伝承が残っております。
高鳥山(たかからすやま)に夷賊の山巣があった。里に居住するよき翁達が、我物顔に振る舞う夷賊の蔓る様に怖れ戦いていた。(中略)神武天皇は誰れ秦聞するとなく聞き召され「やよ、かの奇しき賊を平らげ得させよ」と宣ふた。
(港町に残る海賊の物語「海道東征」をゆくより)
ここで注目するのは八咫烏です。海の民は沖に流されたときに陸の位置を知る為に、高い山を目指し、さらに沖に流されたときの為にカラスを船に載せて置きます。カラスは帰巣本能が強く、何も見えない海の上でも帰るべき陸を見つけて飛んで行きます。舟人はそのカラスを追い駆けて力の限り陸を目指すのです。カラスとは神の使いと重宝されていたのです。
そのカラスの中でも神々しい八咫烏が船に先立って賊の住む高鳥山で羽を休めた。イハレビコを神の御遣いと思った夷賊は戦うこともなく逃げ去ったようです。
熊野でも出てくるこの八咫烏とは一体なんなのでしょうか?
日本サッカー協会が「八咫烏(三足烏)」をシンボルマークにしたのは、サッカーを日本に紹介した方が和歌山の「熊野」の出身であり、「熊野三山」のシンボルは「八咫烏(三足烏)」であるからだという。「八咫烏」は太陽を象徴し、その図柄が世界のあちこちに見られるが、何と言っても高句麗のシンボルである。「コム 熊」は「高麗(koma)であり、 高句麗の「神」とされ、朝鮮の「天孫降臨」の「檀君神話」では「コム 熊」は「聖なるもの」・「神」とされている。そして、高句麗の始祖王 朱蒙(しゅもう)の旗印も「八咫烏」である。
朱蒙は東明聖王(とうめいせいおう、紀元前58年-紀元前19年)と呼ばれ、諱が朱蒙である。この他にも高句麗との繋がりを表わすものとして高句麗は別名を貊(はく)ではないだろうか。狛犬は別名で高麗犬と呼ばれ、稲荷神社などでよく見かける。高麗では良き弓が産出されており、これを「貊弓」と呼んだらしい。朱蒙の二子に温祚がおり、後に二代高句麗の瑠璃明王が太子となったために身の危険を感じてか、烏干・馬黎らの10人の家臣と大勢の人々とともに南方に逃れた。温祚は漢山の地で慰礼城(いれいじょう、ウィレソン、京畿道河南市)に都を置き、国(百済)を起こしたと言われる。
『周書』(636年)には、「百済の祖先は恐らく馬韓の属国であり、夫余の別種である。仇台(きゅうだい、クデ)というものがあって、帯方郡の地に国を興した」とある。百済が国として建国したのは4世紀(346年?)であるが、建国神話では紀元前18年となっている。公孫賛に組みしていたようなので魏と敵対する狗奴国に援軍を送っても不思議ではありません。もし、彼らが温祚から援軍であったとするなら朱蒙の旗『八咫烏』を掲げていてもおかしくないのです。

さて、安芸の国から大三島を渡って吉備の国に至り、古事記では高嶋宮でまた8年を費やします。その高嶋宮は福島市から岡山市に掛けてあったとされますが、どこであったかは定かではありません。伝承が残っている候補地として、
児島湾高島の高嶋神社
笠岡諸島高島の高島神社
龍ノ口山の南西の高島神社
福山市田尻町の八幡神社
福山市内海町の皇森神社

などがあります。東へ東へとゆっくり移動していたのでしょう。
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〔約6,000年~7,000年前の岡山平野は海でした〕(吉備の穴海 株式会社フジタ地質HP)
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〔高嶋宮の候補地〕(6000年前の岡山地盤 株式会社フジタ地質HP)
約6,000年~7,000年前ほどではありませんが、約2000年前も海の水は平野部をすべて海の底に沈めておりました。
瀬戸内海の潮目は東に向かうとすると、満ち潮なら向かい潮、引き潮なら追い潮となります。深く要り交わった島々の間を抜けて、潮の流れに沿って海岸沿いを進むには水先案内人の存在が欠かせません。この地を平定せずに先に進むことができなかったのでしょう。
そして、吉備の東に辿り着いたイハレビコの眼下には、淡路島まで続く大海原が広がって見えたでしょう。淡路島の向こうには生駒山地が連なります。目的地まであとわずかです。伝承を見てみると、舟の修繕、防衛、食糧確保などイハレビコは最後の準備を行います。
吉備と言えば、最初に連想するのは『桃太郎伝説』でしょう。岡山市を流れる笹ヶ瀬川には、そこで桃を拾って持ち帰ったという温泉(源泉:桃太郎温泉)が沿う洗濯岩があり、その西側に鬼ノ城があります。
鬼ノ城は渡来人の温羅(うら)が築いたとされますが、温羅の反乱に崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子である五十狭芹彦を派遣して退治したとありますが、桃太郎のモデルである吉備津彦が温羅と同一人物であるという説もあり、吉備は非常に複雑な時代背景を持ちます。
門田貝塚や津雲貝塚などからも判るように、この地は縄文の古くから栄えており、楯築(たてつき)遺跡に眠る人物は、邪馬台国の女王卑弥呼ではないかと言われるほど盛んな土地でした。
イハレビコはこの吉備をうみ沿いに西から東へとゆっくり移動し、新しい技術を伝搬することで、この土地を制圧していったのではないでしょうか。イハレビコに縁の神社が桃核出土遺跡郡の東側に多く、この当たりを拠点に吉備の奥地まで赴いているのが、神武天皇を祀った神社一覧表から判ります。
吉備団子ではありませんが、桃を含む多くの農作物の収穫が増える知恵を授け、犬・猿・雉にまつわる一族を味方に付けて、大和に住む鬼族を退治に赴いたのが、最初の『桃太郎伝説』のはじまりだったのかもしれません。
鬼退治で登場する鬼ノ城では血吸川と呼ばれる川が流れ、人身の血で川が真っ赤に染まっていたと言われますが、これは鉄を洗ったときにでる赤錆の色です。
「真金吹く吉備の山中帯にせる細川谷のおとのさやけさ」『古今和歌集』
『真金吹く』とは、鉄精錬で飛び散る火花の様を表わした吉備を表わす枕言葉です。4世紀頃より吉備は鉄の産地として有名だったのでしょう。
収穫が豊かで鉄が取れる。大和王朝にとって吉備は重要な国であり、景行天皇、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇。雄略天皇、舒明天皇が吉備の国の者を妃にしております。吉備の国は出雲に次ぐ、巨大な王朝があったと考えられます。
さて、大和へ向かう準備が整ったところで、長子イツセ(五瀬)が登場します。
イツセは「まだ東に向かうのか?」とイハレビコに問い、イハレビコは向かうと言って吉備を後にします。
ところで、古代は末子が家長を務めるという風習があったのでしょうか?
そういった話は特に聞きません。
イハレビコは四兄弟の末子であり、上から五瀬(いつせ)、稲氷(いなひ)、御毛沼(みけぬ)、狭野(さの)あるいは、別名の若御毛沼命(わかみけぬ)となります。
因みに狭野とは、イハレビコの幼名であり、宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田の狭野神社に祀られております。大字蒲牟田あたりがイハレビコの生まれ故郷となります。それから吾平津姫と婚姻して、手研耳命と岐須美美命を生んだとされます。吾平という地名は鹿児島県本土の南東、大隅半島の中ほどにあった町にそう言った名前があったようですから、その土地の娘だと推測されます。しかし、五瀬、あるいは五瀬彦にまつわる名の神社は多く残っておりません。有名なのは、和歌山県和歌山市和田にある竈山墓(かまやまのはか)がある竈山神社、釜山神社(かまやまじんじゃ)です。それに即位後に御建てになられた安仁神社(あにじんじゃ)(注4)が大きな手掛かりです。
一方、久住神社(くじゅうじんじゃ)のように大分県の神社では、神武天皇の名が一緒にありません。
ここから推測されるのは、『神武の東征』の五瀬の東征だったのではないでしょうか?
そして、イハレビコが吉備を手にいれたのだから、もう十分ではないかというと、五瀬は塩土老翁に聞いた。より素晴らしい国を求めて、吉備を後にしたのではないでしょうか。
●岡山県で神武天皇を祀った神社
貴布禰神社 久米郡倭文東村
雄神川神社 上道郡西大寺町
岩山神社 上房郡巨瀬村
福田神社 真庭郡八束村
稲岡神社 邑久郡太伯町
乙子神社 邑久郡太伯町
松江伊津神社 邑久郡太伯町
高島神社 上道郡高島村
竹島神社 児島郡甲浦村
上加茂神社 都窪郡加茂村
鴨神社 浅口郡鴨方町
岩山神社 小田郡山田村
若宮神社 小田郡中川村
皇子神社 小田郡陶山村
岩倉山神社 小田郡稲倉村
神島神社 小田郡神島外村
加茂神社 吉備郡山田村
川合神社 上房郡下竹荘村
加茂神社 真庭郡八束村
橿原神社 真庭郡川東村
若王神社 勝田郡大崎村
若宮 小田郡川面村大字宇内字今田
若宮 小田郡川面村大字宇内字金原
若宮 小田郡川面村大字宇内字室屋
御子神社 小田郡大井村大字東大戸字井佐古
御子神社 小田郡大井村大字東大戸字宗岡
御子神社 小田郡大井村大字東大戸字迫
御子神社 小田郡大井村大字東大戸字下河内
高島神社 小田郡神島外村
島神社 小田郡神島外村
杉根神社 小田郡神島外村
加茂神社 川上郡落合村
●神武天皇に縁の神社
麻御山神社(おみやま) 岡山市東区邑久郷2948 御祭神天日鷲命
松江伊津岐神社(まつえいつき) 岡山市東区邑久郷1500 御祭神五瀬命若御毛沼命(神武天皇)
安仁神社 岡山市東区西大寺一宮895 主祭神五瀬命配神稲氷命・御毛沼命
綱掛石神社(つなかけいし) 岡山市東区東片岡1695 御祭神田心姫命狭依姫命瑞津姫命
伊登美宮(いとみ) 岡山市東区東片岡1190 御祭神幾多神
亀石神社岡山市東区水門町御祭神珍彦命
乙子神社岡山市東区乙子237 若御毛沼
神前(かむさき)神社岡山市東区水門町715 御祭神猿田彦命
●彦五瀬命に縁の神社
竈山神社 和歌山県和歌山市和田438 祭神:彦五瀬命、神武天皇
茅渟神社 大阪府泉南市樽井5丁目11-9
男神社(おのじんじゃ) 泉南市男里3丁目16番1号 祭神:彦五瀬命、神武天皇
男踊詞カ神社 和泉市仏並町 祭神:彦五瀬命・神田本磐余彦尊・他二柱
男乃宇刀神社(おのうとじんじゃ) 大阪府和泉市仏並町1740 祭神:彦五瀬命、神武天皇
安仁神社(あにじんじゃ) 岡山市東区西大寺 祭神:彦五瀬命、稲氷命、御毛沼命
(「兄神社」又は「久方宮(ひさかたのみや)」と称した)
久住神社 竹田市久住町 祭神:健男霜凝彦神(たけおしもごりひこ),彦五瀬命(ひこいつせ),姫神
健男霜凝日子神社 大分県竹田市神原1772 御祭神:健男霜凝日子大神 豊玉姫命 彦五瀬命 他九柱
健男霜凝日子神社下宮  大分県竹田市神原1822 御祭神:健男霜凝日子神、豊玉姫命、彦五瀬命、大太夫夫婦、花乃本姫
高千穂神社 境内 四皇子社  宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井1037御祭神:高千穂皇神、十社大明神は神武天皇の皇兄、三毛入野命とその妻子神9柱
鵜戸神宮 境内 皇子神社  宮崎県日南市大字宮浦3232 御祭神:神日本磐余彦尊他6柱の神道相神社  京都府南丹市美山町宮脇ヒノ谷43-1 御祭神:神武天皇 五瀬命 木梨軽皇子
糸岡神社  富山県小矢部市五社3080 御祭神:鵜草葺不合尊、少彦名命、彦五瀬尊、御毛入野尊、彦稲氷尊、神日本磐余彦天皇

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〔2~3世紀における遺跡の分布図〕(鬼ノ城へ あじさい通信・ブログ版より〔大幅に改変〕)
(注3)塩土老翁(シオツツノオジ)とは、何もでしょうか。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記され、別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)とされます。塩は潮であり、航海の神とも言われます。海幸(うみさち)・山幸神話では、海神(わたつみ)の宮への道筋をおしえたと言われます。老翁とありますから年老いた老人の様相が伺え、輝き鼻の長い容姿から導く神であるサルタヒコを連想されます。サルタヒコは天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神であり、「鼻長七咫、背長七尺」という記述から、天狗の原形とされています。三重県鈴鹿市の椿大神社、三重県伊勢市宇治浦田の猿田彦神社などがサルタヒコを祀る神社として有名です。
(注4):『古事記』『日本書紀』の神話や明治期に古記録を再編纂した『安仁神社誌』によると、 末弟の若御毛沼命(わかみけぬのみこと、後の神武天皇)と共に、日向国(現在の宮崎県)から大和国(奈良県)へと東進する途中に神社近在へ数年間滞在される。 この時に地域住民に稲作や機織りなどの殖産事業を大いに奨励された。後年、難波津(大阪湾)での対抗勢力との戦いでの傷が致命傷となり、 体制を立て直すためにたどり着いた木国(きのくに、和歌山県)でついに薨去(落命)された。
神武天皇即位後、皇兄の産業奨励を顕彰して「兄を祭る神社」、安仁神社が創建された。
五瀬命は鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)と玉依毘売命(たまよりびめのみこと)との間に生まれた四人の男子のうちの第一子である。第二子の稲飯命は母の国である海神の国へ行き、第三子の御毛沼命は外国へ渡ったと伝えられている。第四子が若御毛沼命といって、のちの人皇第一代神武天皇となった神である。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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