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経済から見る歴史学 日本編 01-6 大型の帆船

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 6章「邪馬台国って、どこにあるの?」
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6.大型の帆船
三国志演義で曹操と袁紹との間で行われた『官渡の戦い』は、雄大に黄河を渡河した袁紹軍が白馬の戦いを前哨戦として、黄河流域を縦横無尽に移動して戦われております。曹操軍1万弱、袁紹軍は約10万を引き連れた大軍でありました。それに対して、曹操が数の劣勢を覆す為に採用したのは、大型船の採用でありました。
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〔官渡戦況図〕(官渡の戦い ウィキペディア)
中国の長江流域・北部沿岸では、紀元前三世紀よりも古い時代に、筏から進化したという沙船(させん)があったが、丸太船から進化した福船と融合し、三国志時代には複合船になっていたと思われます。船底は竜骨(キール)のついたV字型で、横方向の強度を保つための梁(はり・ビーム)を持った船は、人や物資の大量輸送ができるようになっていきました。
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〔福船と沙船〕(弥生時代の日本への渡海は中国のジャンク船だった 日本の歴史と日本人のルーツより)
映画やドラマなどでは、袁紹が黄河を渡河する場面を大型の帆船で移動することが多いのですが、当時は最新の技術であり、福船か、沙船のいずれかで渡河していたと思われます。
一方、曹操は運河・水路を整備し、兵や食糧を一度に運べる櫓を持った大型帆船を導入したのです。そう、中国で大型帆船が登場するのは曹操が初めてだったのです。
しかし、そう考えると徐福が使ったと言われる船はどんな船であったか疑問が湧きます。蓬莱に幼男・幼女各五百名を二隻の船に載せたとあり、船の長さは150m、幅20m、総排水量七千トンの木造船であったと言われますが、技術力が500年ほど先を行っております。帆船で海を渡れるようになったのは漢の武帝時代であり、秦の時代ではありません。
中華は陸の国ですから、海上で戦うという発想が元々ありません。船は渡河できればよいのです。商家が大枚を叩いて大型の帆船を作るというのはあり得ません。
魏の曹操が大型の帆船で一度に大量の兵と物資を運ぼうと考えたことは、当時の常識を覆すものだったのです。
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〔徐福渡来の挿し絵〕(21世紀に蘇った徐福 連Ver.9より)
江戸末期の『西国三十三ヶ所名所図会』にある『新宮湊』のページに登場する徐福渡来の挿し絵。徐福とその一行が熊野に到着し、船から宝物などを降ろす風景が描かれている船は正に大型帆船であります。その絵には伝承と逸話が混じっています。そもそも三国志で関羽の青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)も張飛の蛇矛(じゃぼう)も宋代以降の武器であり、三国志演義に登場したのは明の時代であります。実際、三国志の関羽や張飛が持っていた訳ではありません。
さて、『官渡の戦い』に話を戻しますが、曹操は官渡まで攻められて悪戦苦闘の戦いを強いられます。そこで荀攸の進言に従って、史渙と徐晃に袁紹軍の輸送隊を攻撃させます。同じことを袁紹も行いますが、防備を固めた曹操軍の前に失敗します。一方、袁紹軍は補給路が長い上に、水路を利用する曹操軍の動きを止められないという不利もありました。
袁紹にすれば、防衛ラインを無視して、黄河や運河、水路を使って、袁紹軍の奥地まで縦横無尽に闊歩する曹操軍は忌々しい敵であったに違いありません。
そして、曹操は烏巣に袁紹軍の食糧が蓄えられているという情報を知ると、大船団を組んで移動し、烏巣急襲して袁紹軍を討ち果たしたのであります。中華において大型の帆船が初めて戦争で利用された瞬間でした。この後、大型の帆船が海を渡れるようになるのに半世紀を要します。
景初2年(238年)、卑弥呼の使者が洛陽に赴いて、その大型帆船を目撃しております。280年、晋が20万の大軍で押し寄せて呉を滅ぼした時に、呉の多くの遺臣が海を渡って、大型の帆船の知識と共に倭国に漂着したのは疑いようもありません。
そもそも中華が船に関心を持ったのは、漢の武帝の時代(在位紀元前141年-紀元前87年)であります。西方の匈奴を討伐したことでインドや西欧へ続くシルクロードを得て、仏教を始め多くの知識と文献が伝わってきます。
つまり、古代ギリシアで用いられた初期のギリシア船やフェニキアの「交易船」、三段櫂船(さんだんかいせん)のギリシアのガレー船の知識が流入したと考えられます。地中海を舞台として発展したギリシアやローマの技術が中国の船に大きな影響を与えたのです。『オデュッセイア』(第5巻228-261)の記述と、いくつかの壷絵びは初期のギリシア船が描かれております。
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〔初期のギリシア船〕(古代ギリシアの船舶 古代ギリシア案内より)
特にガレー船の三段櫂船の知識は衝撃的だったのではばいでしょうか。
当初、1000km以上も離れた寒風吹き荒れる朝鮮半島から道なき荒野で物資を運ぶなど考えもしなかったでしょう。しかし、帆船の技術を手に入れた武帝は山東半島の煙台から遼東半島の先端である大連までの100km余り、廟島諸島を繋いで渡ることに成功し、紀元前109年に陸と海から衛氏朝鮮を攻めて滅ぼしてしまいます。このとき、武帝の下に倭の奴国から来た使者が訪れ、倭国100余国が楽浪郡の支配地に組み込まれたのであります。
そして、大型の帆船の登場で陸も見えない海上で数日間停泊することもなく、ピンポイントで目的に到着する技術である『指南魚』が導入されます。
『指南魚』とは、磁性を持った鉄針を木製の小さな魚に埋めた道具であり、水を張った器の上で常に南を差すものです。つまり、羅針盤です。この羅針盤の登場で世界は一遍します。
卑弥呼たちシャーマンが海流と天候などを占いで海の安全を保障する時代が終わり、大量の人、物資、馬や牛などが日本にやってくることになるのです。3世紀末になって大型の帆船が日本に導入され、4世紀の民族大移動時代が始まりました。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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