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経済から見る歴史学 日本編 01-12 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 12章 古代の通貨って、何?
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12.古代の通貨って、何?

縄文・弥生人を通じて、倭国に通貨というものは存在しません。通貨(貨幣)とは、商品交換の際の媒介物で、価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3機能を持つもののことであります。古代日本、縄文人や弥生人には統一された価値観が存在しなかったので価値の尺度は曖昧でありました。ゆえに通貨というモノは存在せず、モノの価値が通貨の変わりもやっていました。

釣り針などの接着剤として有効な天然のアスファルト、冬の寒さを防ぐ毛皮、色取りどりに着飾るめずらしい貝殻、保存に便利などんぐりなどの食糧などなどが取引の材料になります。つまり、物々交換であります。弥生時代に入ると鉄が加わり、鉄が通貨のように使われることもありました。

古代日本の縄文人は一定の定住地を持たず、狩り場を求めて漂浪していたと考えられていましたが、遺跡の数々から定住型の縄文人がいることが判り、さらに埋蔵物より当時の常識を覆したのです。

礼文島の船泊遺跡で発見された縄文人の交易品には、3,800~3,500年前の縄文時代後期の竪穴式住居の跡と墓があり、銛とその先端につける矢じりの接着に、天然のアスファルトを使っていました。天然のアスファルトが産出する地域は限られおり、このアスファルトの成分を分析したところ、どうやら秋田や新潟などの国内産とは違うのです。

また、7号墓に埋葬されていた男性が身につけていたものには、ヒスイのペンダントがありました。ヒスイは新潟県糸魚川周辺が産地であり、はるばる礼文島まで持ち込まれたことになります。さらに、イモガイ、マクラガイやタカラガイは南の暖かい海に生息する貝で、日本では九州や沖縄でしか採れません。つまり、礼文島の縄文人は海外から天然のアスファルトを輸入し、南の新潟のヒスイや九州のめずらしい貝を大陸に売っていたことが伺えるのです。

日本と大陸は海に阻まれており、沖縄列島を経由する海の道、対馬海峡を渡る朝鮮半島を経由する道、そして、北の北海を渡る道しかありません。北の北海を経由する道において、この礼文島は中継地となっていました。

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〔礼文島縄文人の交易品〕(最北に生きた縄文人HPより)

これは別に礼文島の縄文人が特別だったのではありません。同じように岡山の三内丸山遺跡では、北海道産の黒曜石・岩手県久慈産のコハク・秋田県産のアスファルト・新潟県姫川産のヒスイが発掘されています。

縄文・弥生時代、それらの物資を運んだ者を中華の者は倭人と呼んでいました。倭人の歴史は古く、最も古いものでは、中国は燕の時代(紀元前1100年頃 - 紀元前222年)であり、「燕の鉄は倭人が運ぶ」と残されております。

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〔倭国の支配地〕

古代の船は人力を漕いでおります。1日に50km程度を移動すると、夜に陸揚げして船の点検と体力の回復を図ります。ゆえに古代の倭人は50km以内に中継地となる村を確保していきました。北は北海道、東は東海、西は中国の山東、南は台湾近海まで交易圏として持っていたようです。

上の勢力圏は、沖縄列島ルート、対馬海峡ルート、北海ルートの内、最も勢力を誇った対馬海峡を勢力圏に治める支配地です。陸を治める部族とは、支配地が異なるので諍いはあっても紛争へと発展することはありませんでした。むしろ、「燕の鉄は倭人が運ぶ」と言ったように、共存共栄の関係にあったと思われるのです。

一般的に縄文人は狩人生活を生業とし、弥生人は稲作を主食としたとされていますが、縄文人の遺跡からドングリやクリ、クルミ、トチの実などを大切な食料としていましたが、ツキノワグマ、サル、キジ、ヤマドリ、木の実や果実、野草などの山の幸、魚、貝、河豚(イルカ)、クジラの海の幸の遺跡も出土しています。

真脇遺跡のイルカ漁では、285頭ものイルカ骨(前期末~中期初頭)が出土しております。真脇遺跡は縄文時代の前期(約6000年前)から晩期(約2300年前)までの実に約4000年間、繁栄を続けた地であることが判明したことにより、食糧を求めて移動性の高い生活をしていたと思われていた縄文人のイメージは払拭され、長期定住型の縄文人もいたことが証明されたのです。

縄文人が285頭ものイルカを捕獲するには、江戸時代に行われていた七尾湾内へ追い込む『追い込み漁』を行う必要があり、富山湾には春から秋に掛けてイルカが押し寄せてきます。江戸時代に描かれた真脇のイルカ漁には、多くの集落から船を出し合ってイルカを追いこんでいく姿が描かれております。

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〔能登国採魚図絵 真脇のイルカ漁〕(イルカ漁のムラ 真脇遺跡HPより)

縄文人達も同じように、多くの部族が集まって漁をしたと考えるべきでしょう。つまり、縄文人は1つのピラミッド型の支配体制なく、横に広がる巨大な共存共栄のコミュニティーを形成したいたことが伺うことができるのです。

そして、弥生人と共に稲作がやって来たと言われていますが、最古のものとしては、美甘村姫笹原遺跡の縄文時代中期中葉(約5000年前)に土器の胎土中から検出されたイネの植物珪酸体(プラント・オパール)が出土しています。この他にも縄文時代後期中葉(約4000年前)の岡山市津島岡大遺跡例と南溝手遺跡などもがあり、中国で発掘された時期の内、かなり早い時期から日本に伝来していたことが伺われます。

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〔稲作の起源〕(佐藤洋一郎著『DNAが語る稲作文明』より)

倭人の流通能力が如何に高かったのかということが伺いしれるのです。そして、秦に敗れた韓が、漢に敗れた秦が、魏に敗れた呉などなどが、日本に渡来して文化を伝えているのです。シルクロード(絹の道)で有名な大陸を挟んで東西の交易が為され、秦、漢、あるいは大唐帝国の主要な貿易品であった絹は門外不出の秘密であり、紀元前3000年に始まった製法がヨーロッパに伝わるのは6世紀になってからです。それほど貴重な製法を倭国は持っていました。景初2年(238年)に朝貢して親魏倭王の封号を得えた女王卑弥呼の後継者である壹與は、魏国に奴隷30人、白珠五千孔、大句珠二枚、異文雜錦二十匹を朝貢しているのです。

異文雜錦とは、「魏志倭人伝」「晋書倭人伝」等に“桑を栽培し蚕を飼い、布を織る”とあり、間違いなく絹織物でありました。倭国は真珠やヒスイや貝などの貴重な品を産出する国であると同時に、絹や麻を織ることができる技術大国でもあったのです。

縄文人の暮らしは常に移動する為に質素な生活などではなく、定住地を定め、栗や米などを栽培し、狩りや漁でイノシシやイルカの肉などを食し、四季折々の非常に豊かな食生活をしており、貝や勾玉、ヒスイなどのあふれる装飾を身に付け、村々がコミュニティーを形成して、全国に通じる流通網を持っていました。

縄文人は四方を海に囲まれていた為に外敵の心配がなく、自給自足の生活を確立しながら、余剰を交易によって、貴重な品を交換するという生活を送っていたのです。ゆえに通貨という概念は生まれませんでした。ドングリ、稗、粟、鉄、反物、天然アスファルト、めずらしい貝殻など、物産そのものが通貨の代わりであり、物々交換が基本だったのです。

秦の始皇帝が斉国の方士である徐福(じょふく)に命じて、不老長寿の薬を求めて蓬莱山を目指します。、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記しているように倭国に蓬莱山があるとされ、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったと残されているのです。

この徐福伝説が日本の至る所にあり、青森県の小泊の徐福の里から尾崎神社、秋田の赤神神社、山梨の河口湖浅間神社、愛知の熱田神宮、三重の徐福宮、和歌山の熊野本宮大社、京都の与謝郡伊根町、福岡の八女市童男山古墳、宮崎の徐福岩、鹿児島の冠嶽園など訪問地、佐賀の徐福伝説の地等々があるのは、流通経路がしっかりとしていたからです。もちろん、徐福一代でなしたのではなく、徐福の子孫が受け継いで不老長寿の薬を全国に求めた結果だったのでしょう。

紀元前3世紀から大陸からの渡来人が多くなり、日本の中にあった弥生文化も大きく大陸の影響を受けるようになってゆきます。

三国志魏書の東夷伝弁辰条には、「国、鉄を出す。韓、濊(ワイ)、倭皆従って取る。諸の市買には皆鉄を用いる。中国の銭を用いるが如し」と記されています。前漢時代の王莽(おうもう)がつくった銅貨が対馬・北九州・岡山・大阪の遺跡などから多数出土しているのは申し上げたとおりでありますが、結局、一時代のみで終り、弥生時代後半から古墳時代の日本では、物々交換が主流であり、その中でも鉄が銭のような意味合いで使われていただけであります。

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国家、あるいは、支配者というべきものが存在しないとき、貨幣はその物の価値で取引きされます。ブラックマンデーやリーマンショックのような通貨危機などが起こると金などの値段が吊り上げってゆくのは、貨幣の支配力が低下した場合を恐れて現物を購入するという人心心理であります。ドルや円がただの紙クズになるのを本能的に恐れているのです。

同時にアメリカの軍事力が飛びぬけて強力であるが為に、その軍事的な支配力がドルの価値を支えているとも言えるのです。

貨幣・通貨というものは、物と交換できるという信用取引の1つであり、手形や口約束も個人で行う信用取引の延長線上にあり、2つは違うようでまったく同じ事であります。この貨幣は複数の取り扱い者が同時に同じ価値を共有するところに利便性があり、物々交換で起こる輸送ロスを省いてくれるのです。

しかし、国家(共同体)と流通網を信用力で結ばれているだけの関係は、信用を失えば、たちまちに崩壊する危険を孕んでいます。

現在、世界中にドル・ユーロ・円などの通貨が様々の通貨と交換されていますが、この流通が如何に微妙な信用という土台の上に存在しているのかということを再認識しなければならないのです。

もし、異常気象などで大干ばつが発生した場合、流通網が崩壊し、各国は自国民の食糧やエネルギーの確保に躍起になるでしょう。輸出そのものが規制されれば、大金を出しても食糧は変えず、流通網は簡単に崩壊します。

そうです。

通貨は一瞬で崩壊するのです。

衣・食・住、そして、現代ではエネルギーを確保する手段を常に持たない国家は、いつ崩壊するか判らないのです。

そんな馬鹿なと思うかもしれませんが、歴史的に見て、突然に氷河期が襲ってくるのは珍しいことではありません。隕石の落下、大規模火山の噴火、(磁場不調による)宇宙線の急上昇による雲の大量発生は万年周期で起こっています。明日に起こっても不思議ではありません。そんな薄氷の上に我々は存在しているのです。

そういった意味で、流通網を持ちながら貨幣経済に頼らず、衣食住を自給自足に近い形で保っていたことが、縄文人や弥生人の時代を長く保っていた秘訣なのかもしれません。

現代に置き換えるなら、衣食住、そして、エネルギーを一国として持ってさえいれば、他国との干渉を受けずに自国の利益を守ることができるのです。

外国である中華や半島と流通を広く持っていた倭人は、知恵と情報を得ることによって、大陸と同じように栄えていました。

現代の国家においても、衣食住を整え、エネルギーをある程度は自前で用意できるようにすることが、古代の縄文・弥生文化から読み取れるのです。

ひとまず、第一幕<縄文・弥生時代>を終わらせて頂きます。

次は、<古墳時代>です。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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