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経済から見る歴史学 日本編 01-11 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 11章 古代朝鮮三国の年表
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11.邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄

ヤマト王朝が成立したのは2世紀後半から3世紀と思われます。国名は『奈良=那羅=奴羅=奴国=ナラ』です。葉集、続日本紀、日本後紀、日本霊異記、平安遺文、聖徳太子平氏伝雑勘文では、乃楽、乃羅、平、平城、名良、奈良、奈羅、常、那良、那楽、那羅、楢、諾良、諾楽、寧、寧楽、儺羅で表記されており、奈良が奴国を意識したのでは明らかでしょう。

神武天皇がヤマト王朝を成立して間もなく、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のことを『欠史八代(けっしはちだい)』と呼び、事績の記載が極めて少ないため存在すら危ぶむ声が多く上がっています。

しかし、私は決して欠史八代が架空の人物と思いません。時代には大きな齟齬があります。古事記を遡っていけば、神武天皇は紀元前660年に即位され、8代孝元天皇が崩御されるのは紀元前158年頃になってしまいます。そして、14代仲哀天皇(178-200)の后である神功皇后が邪馬台国の卑弥呼であるという設定になってしまうのです。

しかし、神功皇后の子である応神天皇がヤマトに帰還し、その子である仁徳天皇が即位されるのですが、この仁徳天皇が倭の5王の一人である『讃』と言われています。この辻褄を合わせる為に、応神天皇は110歳まで生き、仁徳天皇は142歳まで生きていたことになるのです。欠史八代も往々にして長寿であります。

5代孝昭天皇 113

6代孝安天皇 137

7代孝霊天皇 128

8代孝元天皇 116

9代開化天皇 115

10代崇神天皇 120

11代垂仁天皇 139

12代景行天皇 143

13代成務天皇 107

この矛盾をグラフにして、改めたのが『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違いです。

136

〔『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い〕(『記紀』にみる天皇崩御年(没年)の違い 第二章  『日本書紀』の実年代より)

これは神武天皇が2世紀から3世紀の時代の人物である根拠であると同時に、時代背景の根拠となります。

同じ時期に朝鮮半島も馬韓・辰韓・弁韓から百済・新羅・加羅などへ転換になり、民族大移動が頻繁に起こっていたからです。しかも船が大型帆船への時代へと移り、時代の転換期に差し掛かっていたのです。

神武天皇がヤマト王朝を立ち上げて、邪馬台国と狗奴国連合(ナラ:ヤマト王朝連合)の戦いも佳境に入りました。本来ならここで邪馬台国が狗奴国に降って終りになるところだったのでしょうが、神武天皇が亡くなると、狗奴国とナラの間で確執が生まれます。

九州は日向・霧島地方を治める神八井耳命とナラヤマトの長子である神八井耳命との間で、どちらが長であるかという問題が起こったのです。記紀では、これを神八井耳命の反乱としています。結果として、長子である神八井耳命が討伐できず、代わって弟の神渟名川耳尊が討伐に成功したことから、神八井耳命は王位を弟に禅譲して、2代綏靖天皇が誕生したのであります。

そんな内輪揉めをしている間に、高句麗の第15代美川王が国家を再建して、遼東から朝鮮半島を奪回してゆくのです。中国も魏国が滅んで西晋に変わりますが、304年に西晋の混乱に乗じて匈奴の大首長劉淵が南下します。そうなると河北や山東の民に甚大な被害が出るのです。

秦・漢の時代には約8000万人が西暦280年には1600万人と5分の1まで激減したという記録があり、中華の民は飢えて死に、あるいは戦果に巻き込まれて亡くなってゆきます。しかし、その中でも内政の混乱や北方民族の南下による被害を避けて、新天地を求める民衆も多かったのです。中華の難民は渤海を渡って朝鮮半島に及び、さらに対馬を渡って倭国へと流れ込んできたのです。その騒乱が百済や新羅を生み、倭国も大きな変革を促したのです。

さて、神武天皇の東征は、東の国々を味方に付けるというリクルートみたいなものでした。紀元前2世紀の天孫の国譲りは、北九州大分県の九重・由布火山の大噴火による集団疎開であり、民族大移動でしたが、神武天皇は味方を増やす旅でありました。

もちろん、神武天皇の下には『八咫烏』の旗を持つ一族が付き従っていた訳ですから、朝鮮半島、あるいは中国の北部となんらかの関係がありました。この『八咫烏』をシンボルにしていたのが、高句麗の初代王である東明聖王(とうめいせいおう)、諱は朱蒙(しゅもう)と言います。

紀元前108年に漢の侵略により古朝鮮国が滅亡し、国を失った流民たちを率いて漢に抵抗するのが民族の英雄ヘモス(解慕漱)でありました。彼は河伯(ハベク)族の娘ユファ(柳花)と結ばれ、ユファはヘモスの親友で扶余(プヨ)の太子クムワ(金蛙)に保護されて男児を出産し、チュモン(朱蒙)を産んだとされています。朱蒙の名の由来は扶余の言葉で弓の達人と言う意味です。

扶余で頭角を現した朱蒙は、彼を危険視する者から逃れる為に友と共に扶余を捨てて東南へ逃れます。昇骨城(現遼寧省桓仁県五女山城)を築き都とし、八咫烏をシンボルとして戦場を駆け回り、高句麗を建国したと言われます。

朱蒙を助けた扶余は部族連合のようなものであり、扶余(ふよ)、濊(わい)、貊(はく)、狛(こま)族などがいました。その中心部族である扶余(=ツングース語で鹿)は鹿を神聖視し、狛は三本足のカラスを神聖視していたようです。朱蒙と共に歩んだのは、狛族の者だったのかもしれません。

もう1つ、八咫烏をシンボルとしているのが、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を始祖とする天神系氏族の賀茂氏です。賀茂氏の出身地は中国大陸の北西から東北にあった『一目国』です。「一目」の由来は、坩堝で鉄などを作る時、閃光から目を守るために片目をつぶる習慣があったからなのですが、古代中国の地理書『山海経』の海外北経によると、一目人は人間の姿をしているが、目は顔の真ん中にひとつだけついていると言われ、姓は威(い)、古代中国の帝・少昊の子孫であると言われています。キビを食べている習慣があり、人々はこの国を怖がって、鬼国(きこく)とも呼んでいたと言われます。

この賀茂氏の祖を筑紫では「八丁様」といい、山城の国では「加茂の神」と言います。『賀茂神社の葵祭』の由来は、もともと筑紫の背振神社で行われていたのを、天智天皇がご覧になって京都でも真似をして始めたことにあります。

神武天皇に従った八咫烏がどんな経路で辿り着いたのかは判りませんが、高句麗と百済は兄弟国のようなものであり、「隋書」百済伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人」(百済の先祖は高麗国より出る。そこの人は新羅、高麗、倭などが混在しており、また中国人もいる)とあるように多人種混住国家であり、百済を経由して倭国にやって来たと考えるべきでしょう。

神武天皇は臣下に土地を別け与えておりましたから、渡来系の臣下は新天地に一族を呼び寄せます。西晋が崩壊し、混乱する河北や山東から溢れ出た難民や朝鮮半島の戦果を逃れてきた民が大型帆船に乗って倭国に上陸したのです。

2~3世紀に70~80万人の倭国が4世紀には150万人へと飛躍的な人口増加を起こします。これは高地に集落を作っていた遺跡郡が沼地などの稲作に適した低地に移動した為に起こった現象ですが、誰も住まない沼地に少なくとも10万人以上が来襲しました。最終的に飛鳥時代には100万人の渡来人が押し寄せて住みついたと唱える研究家もいます。

その一人、渡来系移民が100万人規模であると言っているのは、自然人類学者で東京大学名誉教授の埴原和郎氏であります。

弥生時代初め(紀元前300年)から飛鳥時代末期(紀元700年)までの1000年間の渡来人を試算すると、この間の人口急増は農耕社会に大転換したとしても通常の農耕社会の人口増加率ではとても説明できないと説明されています。

161

〔紀元700年の人口に占める縄文直系と渡来系の人口比〕(第3部 弥生文化と渡来人の登場 日本人の源流を探してHPより)

つまり、その不足分の人口が渡来系の人口であると提唱されているのです。

このデーターを元に「日本人の源流を探してHP」は、紀元150年の数値を算出し、埴原の言う“通常の農耕社会の人口増加率”の範囲内(0.1%~0.3%)では渡来人数を割り出しております。

162

〔弥生時代後期から飛鳥時代末人口の増加率及び渡来人数〕(第3部 弥生文化と渡来人の登場 日本人の源流を探してHPより)

この表の人口増加率が0.1から0.3%であれば、300万人から100万人が渡来人であったという数値が導き出されます。

いずれにしろ、3世紀から4世紀に掛けて、大量の渡来人が倭国に来襲したことだけは否定できないのです。

平安時代の初期、815年に編纂された「新撰姓氏録」から1,182氏族のうち、中国・朝鮮からの渡来系というのは約3割で、そのうち中国系は4割であります。

163_mini

〔古代氏族の祖先伝承〕〕(第3部 弥生文化と渡来人の登場 日本人の源流を探してHPより)

その中に、秦の始皇帝の子孫と称する氏族や呉王の祖・夫差の子孫を称する氏族がいることが、彼らの祖先がどこから来たかを言い表しているのであります。

渡来系を含む弥生人は徐福伝説にあるように初期渡来系は北九州に定住し、そこから全国に広がっていきました。次に民族大移動で北九州から近畿当たりまで勢力が一気に伸ばし、最後に大型帆船が大陸・半島から大量の渡来人を運び、彼らの生活圏は東日本地区へと広がってゆきます。これは以前に何度も言っていたことです。

この説明を「日本人の源流を探してHP」は「第2部 縄文稲作の究明」でされていますが、結果として同じようなイメージ図が完成しております。

1-64 二重構造人形成過程のイメージ図>

164

〔二重構造人形成過程のイメージ図〕(第2部 縄文稲作の究明 日本人の源流を探してHPより)

いずれにしろ、ドングリなどの木の実を主食とする先住民は山の麓などの高地を好み、稲作を中心とする渡来系の移民は土木技術が進んでいるので沼地などの低地に住んだことで、大きな抵抗もなく移住が可能であったというのが大きな要因であります。

大阪の上本町台地の側の生野区には猪飼という地名の土地があります。難波の宮の南部、河内湖の畔の低地に文字通り猪を飼う異文化の渡来人に与えられた土地でした。ここからは肉を焼く臭いが漂う異界の世界だったとそうです。このように人の住まない低地を渡来人に分け与えることで、王族は貴重の臣下を手に入れ、兵糧と兵力を同時に確保することに成功したのです。

 

さて、話を3世紀後半から4世紀に戻します。神武天皇が亡くなって『欠史八代』になると、魏の曹操が大型帆船を実用化し、4世紀には普及したと考えられます。河川用の大型帆船が海上に適したものになるには200年以上の歳月を必要としましたが、ともあれ大型帆船の登場によって、海上の交通に劇的な変化を幾つも起こしたのであります。

その1つが、交易中継地の衰退であります。縄文人から発した海洋文化は、1日50km以内に中継地を持ち、夜は船を陸揚げして点検するのが通常でありました。つまり、50km以内に同盟国を持つことが重要であり、対馬海峡を結ぶ釜山~対馬~末盧を確保することが、大陸へと続く道なのです。大陸と日本を結ぶ海の道は1つではありませんが、沖縄列島を渡る道も、ウラジオストックを大きく迂回する北海の道も、対馬海峡を渡るルートに比べて困難な道でした。必然的に、対馬海峡を掌握している部族が大きな力を持つことになっていたのです。

しかし、大型帆船は約200km近くを無寄港で移動できます。朝鮮半島の北部から北九州の筑紫、朝鮮半島の東部から丹波地方への交易が可能になったのです。つまり、邪馬台国を経由することなく、大陸と結ばれてしまったのです。

また、邪馬台国から日本海を北上してゆくルートとして栄えた出雲の必要もなくなってしまったのです。邪馬台国と狗奴国が戦争していた理由は、大陸との交易を確保する為にです。また、大陸の覇者に朝貢し、倭国王として冊封されることで権威を高めることでした。それゆえに海峡ルート(釜山~対馬~末盧)を確保することに意味があったのです。

しかし、大型帆船の登場で対馬ルート以外の航路が生まれてしまったのです。朝鮮半島の東部から直接に丹波に渡れるようになり、または、筑紫から瀬戸内海を通るルートで畿内に行けるようになってしまったのです。

小型の人力帆船では積載できなかった馬などの家畜も載せることができるようになります。また、100人単位の渡来人が軽々とやってくるようにもなりました。それそこ村ごとの移住者が登場してしまったのです。

移住そのものに問題がなくとも、大量の移民が押し寄せれば、国内に問題が起こるのも当然です。2013年のヨーロッパの人口は7.425億人です。対する難民の数は100万人を超えた程度です。1%に満たない難民が流入しただけで社会が混乱するのですから、70~80万人の倭国に10万人以上の渡来人が来襲すれば、社会が混乱するのも仕方ないのです。欠史八代時代は、まさに渡来人来襲の混乱期だったのです。

混乱期が終わると、渡来人の影響で多く国に王が乱立する群雄割拠の時代を迎えます。渡来人は土木工事や製鉄などの技術を持ち、輸入する以外に方法がなかった鉄の生産が国内でできるようになります。また、力で他者を征服するという思想が輸入されて、各国が力を蓄えて豪族として王を名乗るようになったのです。おそらく、邪馬台国なども多くの渡来人を受け入れて、国力の強化を図っていたことでしょう。

 

第10崇神天皇から第15代応神天皇の時代は、群雄割拠した豪族が覇を競うようになります。崇神天皇は大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させたと残されており、大彦命・武渟川別吉備津彦・丹波道主命を四道将軍と呼んでいます。

もし、ここでヤマト王朝が敗れていれば、今の歴史はなかったのかもしれません。

景行天皇の御世では、ヤマトタケルなどの活躍が残され、熊襲から東国まで遠征をしていることが鮮やかに描かれております。そして、仲哀天皇の時代に邪馬台国の平定に軍を起こします。仲哀天皇の后である神功皇后を『記紀』が卑弥呼と同一視する文体は、その隠された後ろめたさを隠す為にとしか言いようがありません。

倭国の王になった女王卑弥呼の邪馬台国を滅ぼしたなど、そんな不名誉なことを歴史に残す訳にはいかなかったのでしょう。神功皇后と卑弥呼を同一視することで、ヤマト王朝への併合を成し遂げたのでしょう。

このとき、奴羅(奴国)は、邪馬台国(やまたいこく / やまとこく)の名を引き継ぎ、国名を大和国(やまとこく)と改めたのではないでしょうか。

7世紀後半の大宝律令の編纂がほぼ完了した頃、701年前後に倭・倭国から日本へ改名したとあります。朝鮮半島の史書『三国史記』「新羅本紀」文武王十年(670年)12月条には、「倭国(ヤマト)、号を日本(ジッポン、ニッポン)に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とあるように、倭国=ヤマトコクであり、奴羅(奴国)から倭国(大和国)への改名は、自らが倭国の正統な王家であるという名乗りだったのです。こうして、旧倭国の支配者であった邪馬台国はひっそりと舞台を去ってゆくのでした。

さて、倭国は朝鮮半島まで勢力を回復し、宋などの中華の覇者から倭王と称されたのが、第16代仁徳天皇から第21代雄略天皇の時代を『倭の五王』の時代と呼ばれています。

413年、東晋に安帝に貢物を献上したのが倭国の王『讃』が、仁徳天皇であるのか、仁徳天皇の子である履中天皇であるのかは議論の余地がある話でありますが、重要なことは、この時点でヤマト王朝が倭国の宗主と認定され、その血統であることに大きな意味を持つようになるのです。そして、この時代から多くの豪族がヤマト王朝と結ばれることで権力を拡大するという構図が生み出されてゆくのでした。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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