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経済から見る歴史学 日本編 01-10 朝鮮三国情勢と倭国

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 10章 朝鮮三国情勢と倭国
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10.朝鮮三国情勢と倭国
ヤマト王朝が倭国王である邪馬台国を滅ぼしたなどという文言が日本書記や古事記に書かれることはありません。それどころか、100年以上も後の神功皇后が卑弥呼であると書き止める有り様です。
正始8年(247年)、邪馬台国の卑弥呼は句奴国との戦いに苦戦し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されてきます。張政はそれから20年間も倭国にいたとも言われています。
句奴国のウガヤフキアエズ(イワレビコの父)は句奴国の勢力拡大を図り、イワレビコ一向に東征を命じ、イワレビコは241年に見事に達成しました。ヤマト王朝が畿内を平定し、次に邪馬台国の勢力下と思われる丹後国の平定に乗り出します。イワレビコに連れ従った従者の名や五ツ瀬の部下の名が丹波の神社の祭神とされております。そして、イワレビコを助けた天香語山命(高倉下)は越(こし、新潟地方)の開拓祖神として、多くの伝承が残っております。
いずれにしろ、ヤマト王朝が勢力を拡大したのは綏靖(すいぜい)天皇の時代と思われ、邪馬台国と句奴国の戦いに直接的に兵を送ったなどという記録はありません。しかし、句奴国の勢力が拡大することは、邪馬台国を構成する小国に動揺を誘い、句奴国が有利に戦えたでしょう。しかし、句奴国にとって都合のいいことばかり起きた訳ではありません。句奴国とその属国〔豊・安芸・吉備・大和〕と思っていたのが、大和王朝と連合国〔句奴国、豊・安芸・吉備〕に変わっていたのです。
神武天皇の子、日向の長男であったタギシミミ(多芸志美美命)は、ヤマトのカムヤイミミ(神八井耳命)、ヒコヤイ(日子八井命)、カムヌナカワミミ(神沼河耳命)の3人を殺そうと企みます。神武天皇の皇后であったヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛命)がそれを歌で知らせて、逆にタギシミミを討ったとあります。この際、カムヤイミミがタギシミミを殺すのに失敗し、成功したカムヌナカワミミに皇位を譲ったという美談なのか、笑談なのか、判らない話になっております。
要するに、お家騒動が起こって、他国との戦争どころではなくなったというのが事実でしょう。邪馬台国にとってありがたい話だったに違いありません。しかし、そんな良い話だけが舞い込んだ訳も御座いません。
280年、建業に王都を置いていた呉国が、政治腐敗と反乱で国が弱体化しているところに司馬炎の晋国(265-316)が20万人の兵を送って来て呉国を滅ぼした。
『三国志』呉書には、
「呉は西暦222年に建国され四代続いたが、孫皓の時に西晋によって滅ぼされた(280年)。その末期、呉軍が敗戦を重ね、首都建業(南京)が陥落寸前になったとき、呉の軍勢2万を乗せた大型軍船群が一夜にして消え去った。」
と書かれている。
中華の表記は大袈裟なものが多いので、二万という軍勢は眉唾としても、相当多くの大型軍船が姿を消したのは間違いないであろう。少なくとも200~1000人単位の亡命者が倭国に大挙してやって来たと思われます。
しかし、ここで問題にされるべきは人数ではなく、大型帆船の技術が日本に飛来したことが重要なのです。280年(3世紀末)に渡来した技術は間違いなく4世紀の大航海時代を生んだのです。
さて、中華を統一した晋国も八王の乱(はちおうのらん)が起こり、304年には早くも分裂を始め、五胡十六国時代に突入します。黄巾の乱から三国時代、そして中華統一されたのも束の間のことで、これより隋が再統一するまで100年間の戦乱の時代が続くのです。
この西晋の八王の乱・五胡の混乱に乗じて、遼東半島から楽浪郡を占拠(312年)したのが高句麗(こうくり)です。高句麗はさらに北の遼西、東の朝鮮半島へと勢力を拡大します。馬韓と辰韓は高句麗の脅威と立ち向かう過程で百済と新羅が急速に国力を増してゆきました。
何のこっちゃ?
読んでいて意味が判らない方も多いでしょう。
要するのに、中華で動乱が起きると大量の難民が発生します。それこそ10万人とか、20万人とかいうレベルではありません。
『晋書』地理志によれば、西晋の人口(280年)は1616万3863人だったのに対して、『十六国春秋』前秦録によれば、十六国の人口(370年)は988万7935人と記されています。その差、618万人となります。
尤も数字は余り当てにはできませんが、間違いなく大量の難民が朝鮮半島や倭国に押し寄せたのは間違いありません。日本の弥生時代後期から古墳時代への遺跡住居数の数は倍に膨れ上がっています。単純に食糧が安定した為に人口が増加したという訳でもありません。
この時代は『倭国大乱』と呼ばれ、日本中で紛争が勃発していた時期と思われます。
戦果で人が減るのではなく、増える?
つまり、大量の渡来人がやってきたという証拠なのです。
百済や新羅の王は積極的に難民を受け入れたのではないでしょうか。その難民を兵として、並み居る部族を討ち倒し、配下にして国を統一し、高句麗と戦う国家を作り上げたのです。当然、百済や新羅は倭国へも領土拡大の手を伸ばしたことでしょう。

さて、少し人口の話をしてみましょう。
中国の全国的な戸籍登録人口の最古の記録は、前漢の平帝の元始2年(2年)の数字です。人口59,594,978人、戸数12,233,062戸
約6000万人というのは、この時代にしては大きな数字です。しかし、実際は課税対象外の少数民族や奴婢が含まれていませんから、約8000万人はいたと推測されます。
西晋(265~316年)の『帝王世紀』という書物には、夏王朝(紀元前17世紀~紀元前1046年)の人口として13,553,923人という数字が残されていますが、4000年も前の人口が1億3000万人なら秦や漢に至るまでどれだけの残弱な行為が行われたのかという疑問が湧きます。
甲骨文字の中に好という王妃が一万三千人の軍隊を率いて西の異民族と戦ったという記録が残っていますから、相応の人口があったことは想像できますが、1億3000万人なら100万の軍が最低でも編成できます。
編成した規模から夏や周の人口は、おおよそ300万人から1000万人程度ではないかと推測されます。
春秋時代(紀元前770-前403年)の『周礼』によれば、一般に、戦車1両につき、馬4頭、甲士10人、歩兵20人が随うと規定されており、春秋時代後期の各国の戦車保有数の合計は25,000両であり、単純計算すると各国の兵力合計87万5千人となります。
古代中国の徴兵率は5人に1人だったそうなので、これも単純に十二諸侯と考えて、
87万5千×5×12=5250万人
でしょうか?
実際、十二諸侯が25,000両を揃えることができる訳もありませんし、5250万人は大き過ぎる数字でしょう。加藤徹の説によれば、春秋時代は500万人と言われています。
戦国時代(紀元前403-前221年)、『戦国策』によれば、蘇秦で「臨淄には七万户,户三男子,側臨淄之卒可得二十一万」とあり、七万戸がそれぞれ3人の男を出し、21万の兵を得たとして、七国の兵約700万を出すには250万戸が必要となります。『孟子』の記述で当時は一戸の平均が8人だったという記録がありますから、250万戸×8で2000万人という数字がでてきます。
これに宋、衛、中山、東西周、泗上小侯および蜀、閩、粤等の小国を加えたら約3000万人であろう、というのが梁啓超の説です。
秦・漢の時代は、元始2年の記録を元にすれば、約8000万人というのは比較的に信用できる数字です。しかし、前漢末、六千万人近かった戸籍登録人口は、光武帝の治世末期の中元2年(西暦57年)の戸籍登録人口は、わずか21,007,820人にすぎなかった。六千万から二千万へと激減しています。人口の低下というより、統治能力の低下がこの数字に表れています。
魏・呉・蜀の三国戸籍登録人口は、魏が4,432,881人(263年)、蜀が940,000人(263年)、呉が2,300,000人(280年)と、三国合計でも1000万人に届きません。
三国を統一した西晋(265-316年)の戸籍登録人口は16,163,863人(280年)でした。
つまり、西暦2年で8000万人いた人口が西暦280年には1600万人と5分の1まで激減した。

そりゃ、北方の遊牧民族が大挙して中華に押し寄せてくる訳です。逆に、100万人から1000万人の難民が周辺諸国に流れていった訳です。

一方、倭国と朝鮮の人口はどうでしょうか。
魏志倭人伝では、倭人は(朝鮮の)帯方(郡)(魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城付近)の東南の大海のなかにある。山(の多い)島によって国邑(国や村)をなしている。もとは百余国であった。
一支国、三千(戸)
末盧国、四千余戸
伊都国、千余戸
奴国、二万余戸
不弥国、千余戸
投馬国、五万余戸
邪馬台国、七万戸
計十四万九千戸余(一戸5人とすると、72万5000人余)
魏国の人口が443万人に対して、十分な人口を持つ大国だったのです。
公孫氏の領土、魏の支配下にはいった時点(237年)で、
遼東郡、玄菟郡、楽浪郡合わせ六万戸、三十万人。
帯方郡四千戸、二万人
馬韓 五十国 十万余戸、(50万人?)
辰韓、弁辰 二十四カ国 五万戸、(25万人)
と記録が残されています。 

Photo_2
     
4世紀から5世紀に掛けて、倭国の人口が異常に伸びているのは、農業の飛躍的な進化と難民の流入ではないかと推測されます。大陸・半島の政治状況が倭国に大きく影響し、特に難民問題は国家存亡の危機を起こします。
同じ3世紀、ユーラシア大陸の西側ではゲルマン民族の南下で大帝国のローマが滅亡し、高度な文明が消えて、石器時代のような生活に逆戻りします。中華では、そういった文明の逆進性は起こりませんが、促進と停滞を交互に繰り返す歴史を歩みます。そして、その停滞期(人口減少期)には、周辺国への流出が起こり、周辺国が騒乱期を迎えるという歴史を繰り返すのです。
しかし、半島の詳しい記録が残されていないのは、朝鮮半島の歴史が自虐的、あるいは自己否定的な側面が強く、歴史を正面から見ようとしない為であり、少ない資料は非常に推測を難しくします。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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