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経済から見る歴史学 日本編 01-10-4 朝鮮三国情勢と倭国

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 10章 古代朝鮮三国の年表
>9章へ戻る 神武の東征(後篇)
>11章へ進む 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
>高句麗(こうくり)
>百済(くだら)
>新羅(しらぎ)
>古代朝鮮三国の年表

<<古代朝鮮三国の年表>>
紀元前206年 秦が項羽によって滅ぼされる。
紀元前230年 秦に滅ぼされた韓の難民が朝鮮半島で辰国を建国する。
紀元前202年 劉邦、皇帝に即位して、漢を建国する。
紀元前195年 前漢の劉邦配下である燕王盧綰、衛満が箕子朝鮮に亡命する。
紀元前194年 燕王盧綰、箕子朝鮮を滅ぼし、衛氏朝鮮を興す。
紀元前128年 衛氏朝鮮に服属していたワイの君長である南閭が、衛氏朝鮮の衛右渠に叛いて、28万人
を率いて漢に投降し、漢の武帝が朝鮮北部に蒼海郡を設置する。
紀元前109年-紀元前108年 前漢の第7代皇帝の武帝(ぶてい) 衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初め
とする漢四郡を置く。
紀元前57年 初代の王、赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん)が斯蘆国を建国する。
紀元前37年 朱蒙、高句麗を建国する。
紀元前18年 朱蒙の子を沸流・温祚は、瑠璃王が太子となったので、烏干・馬黎らの10人の家臣と大勢
の人々とともに南方に逃れ、馬韓の慰礼城で十済(後の百済)を建国する。(百済初代王は、沸流とも、温祚とも言われる)
  4年7月 新羅の第2代の王南解次次雄(なんかい じじゆう)、楽浪の侵入を受けて首都の金城が何
重にも包囲されるが、楽浪は撤退する。
 14年 倭人が兵船100艘余りで斯蘆国に攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。
 25年 光武帝(こうぶてい)、皇帝となり、後漢を建国する。
 36年 楽浪の兵が斯蘆国北辺に攻め入り、朶山城(京畿道安城市二竹面)が奪われる。
 37年 高句麗の大武神王が楽浪を攻め滅ぼすと、楽浪の民5千人が斯蘆国に流入した。
 40年9月 楽浪から独立していた濊(ワイ)の治める華麗県・不耐県が辰韓の北辺に攻めてきたが、
貊国が出兵してこれら二県の兵を打ち負かす。
 57年 後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与される。
 57年 新羅の第4代の王・脱解尼師今(だっかい にしきん)、即位して、百済の多婁王と蛙山城(忠
清北道報恩郡)をめぐって度々戦う。
 73年 新羅の第4代の王・脱解尼師今、倭人が木出島に進入し、角干の羽烏を派遣したが勝てず、羽
烏は戦死した。
 77年 新羅の第4代の王・脱解尼師今、伽耶と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官
)に引き上げた。
173年 新羅の第8代の王・阿達羅尼師今(あだつら にしきん)、倭の女王卑彌乎から使者を送ってき
た?(三国志』東夷伝倭人条の景初2年(238年)記事からの造作と言われる)
244年 魏国の毋丘倹が高句麗を攻撃、第11代・東川王は沃沮の地に逃れた。
248年 高句麗の第12代中川王が即位する。
258年 魏国の尉遅楷が攻めてきたが、精兵五千を送り梁貊の谷で大いに破り、首級八千をあげた。
300年 高句麗の第15代・美川王が国を再建する。
302年9月 西晋の混乱に乗じ、美川王は玄菟郡に侵入する。
311年8月 美川王、遼東郡の西安平を襲撃して奪い取る。
315年以前 帯方郡太守、高句麗の攻撃に対して婚姻関係にあった百済に救援要請をした。
313年10月 美川王、楽浪郡に侵入してこれを滅ぼし、翌々315年には帯方郡を滅ぼした。
346年  馬韓の小国であった第13代近肖古王、馬韓地域を統一して百済を建国する。
350年 前燕は後趙を攻め滅ぼす。(高句麗も属国として参加する))
352年 テイの族長苻健は東晋から独立して前秦を建国した。前秦は急激に勢力を拡大し、華北一帯は
前秦と前燕で東西を二分することになった。
360年前後、高句麗の西側にある前燕、高句麗の領土をうかがう。
360年前後、高句麗北方を後燕に奪われ南下政策をとる
360年前後、高句麗の南下によって百済・新羅は加耶方面へ押し出される。
366年 羅済同盟(らさいどうめい)、百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため
同盟を結んだ。
370年 前燕が前秦の符堅に滅ぼされ、高句麗に逃げて来た慕容評を符堅に送った。
371年 百済、高句麗の平壌城攻める。高句麗故国原王戦死。
372年 高句麗に仏教伝来
375年 高句麗南下で危機感を持った百済の近肖古王、倭国に七支刀を贈り
援軍を望む。
377年 新羅の第17代の王、奈勿尼師今(なこつ にしきん)、高句麗に随伴して前秦に朝貢する。
382年 加耶、新羅と葛城襲津彦によって滅亡。加耶人民の列島渡来へ。
382年 新羅の第17代の王、奈勿尼師今、前秦に単独で朝貢し、国号を斯盧から新羅に改める。
384年1月 慕容垂、後燕を建国。
384年 百済に仏教伝来
385年 高句麗、後燕を破り、遼東に進出。
386年 後燕の慕容垂、河北一帯に進出。
391年~2年 高句麗広開土王即位。
391年7月 後燕の慕容垂、北魏と抗争状態に入る。
392年1月 新羅第18代の王・奈勿尼師今は、実聖を高句麗に人質として差し出す。
392年 高句麗の好太王(こうたいおう)、石硯城(黄海北道開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取
し、関彌城を陥落させた。 
392年6月 前秦の苻 丕(ふ ひ)、河南省の黄河南岸の?魏(てきぎ)を滅ぼす。
392年8月 前秦の苻 丕、前燕の継承権をめぐって抗争していた同族の西燕を滅ぼし、さらに東晋と
戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築く。 
392年秋八月 広開土王、高句麗南辺をこえて百済を侵す。平壤に九寺を創建。
393年秋七月 百済が高句麗へ侵入
394年秋八月 広開土王、百済と海戦、これを大いに破り、捕虜八千余を獲得した。
394年 後燕の慕容垂、西燕を滅ぼし、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東
・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げる。
395年 後燕軍、参合陂の戦いで北魏軍に大敗。
395年 広開土王、礼成江まで反撃する百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化し
た。
396年 広開土王、漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を
献上させ、永く隷属することを誓わせた。
396年 百済と新羅がともに倭に人質などを贈って援軍を依頼し、倭はそれに応えて援助した。
397年 百済は倭国に百済の阿?王は王子腆支を人質として倭に送り通好する。
398年 慕容徳、滑台(河南省滑台)に自立して燕王を称す(南燕)。
399年 百済は倭国に七支刀を献上して友好的な関係を強化する。
399年 百済は先年の誓いを破って倭と和通した(高句麗側の因縁)。
399年 高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の王
都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると倭軍は退き任那・加羅まで後退する。高句麗軍が追撃すると倭国傘下の安羅の別働隊が新羅の首都を陥落させた為に新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に送り臣従する。
400年 後燕の慕容盛、高句麗を攻撃して、遼東を奪回する。  
400年 高句麗は5万の大軍を派遣して新羅にも攻め込んだ。新羅王都を守っていた倭軍が退却したの
で、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に(百済のために)援軍を送ってきたので、広開土王は立ち向かった。
401年7月 新羅の第18代の王・実聖尼師今(じっせい にしきん)、高句麗の人質になっていた王子
が即位して、高句麗の支配化で新羅の王となる。
402年 高句麗、後燕の宿軍城(遼寧省朝陽東北)を陥落させる。
402年 帯方界で倭軍が攻撃するが撃退される。
402年3月 新羅の第18代の王・実聖尼師今、倭国と国交を結び、先王の第3子の未斯欣を人質として
送った。
405年 新羅の第18代の王・実聖尼師今、明活城(慶州市普門里)に攻め入られ、退却しようとする倭
軍を実聖尼師今自ら騎兵を率いて独山(慶州市)の南で撃破した。
405年 百済、日本に漢字を伝える。
407年7月、慕容熙は漢人の中衛将軍である馮跋に殺害され、後燕は完全に滅亡する。高句麗、後燕に
侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た。
410年 広開土王、東扶余を屈服させることで北と東に領土を拡大し、西は遼河、北では開原から寧安
、東では琿春、南へは臨津江流域にまで至った。
412年 新羅の第18代の王・実聖尼師今、高句麗に対して先王の第2子の卜好を人質として送る。
418年 新羅の第19代の王・訥祇麻立干(とつぎ まりつかん)、高句麗と倭とへ人質として送られて
いた王弟が帰国して、高句麗の従属国の王として即位した。
427年 高句麗の長寿王、平壌城遷都
429年 百済の第20代の王毘有王(ひゆうおう)、宋へ朝貢す。
430年 百済の第20代の王毘有王、宋から百済王に冊封される。
433年 第2次羅済同盟(433年 - 553年)、百済の毘有王と新羅の訥祇麻立干が、高句麗の南進政策に脅
威を感じ、軍事的攻守同盟を結んだ。
450年7月 新羅の第19代の王・訥祇麻立干、高句麗の辺境の首長が悉直(江原道三陟市)の辺りで狩
猟をしていたところを、何瑟羅(江原道江陵市)の城主の三直が急襲して殺害し、俄かに高句麗との緊張を招いた。怒った高句麗の長寿王は新羅の北西部国境に軍を派遣してきたが、新羅では丁寧な謝罪を行って、高句麗に退却してもらった。
454年8月 新羅の第19代の王・訥祇麻立干、高句麗が新羅北部辺境に侵入する。
455年10月 高句麗、たびたび百済に侵攻した。新羅は百済の救援に向かった(倭国は支援しなかっ
た)
461年 百済第21代の蓋鹵王(がいろおう)、弟の軍君昆伎君を倭国に人質として送りよしみを通じる

472年 百済第21代の蓋鹵王、北魏に対して上書して高句麗の非道を訴え、北魏が高句麗を討伐するこ
とを願い出たが失敗する。
475年、高句麗の長寿王、自らが3万の兵を率いて親征し、王都の漢山城を陥落させ蓋鹵王(がいろお
う)を斬首した。百済首都を熊津(ユウジン・くまなり)へ遷す。
<一説には、475年で一度、百済が滅んだという説もある>
475年10月 百済第22代の文周王(ぶんしゅうおう)、新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、
既に漢城は陥落して蓋鹵王は処刑されていた。文周は直ちに王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。(倭国は支援しなかった)
475年 新羅の第20代の王・慈悲麻立干(じひ まりつかん)、百済の漢城陥落に危機感を覚え、居城
を明活城(慶州市普門里)に移した。
476年 雄略天皇20年に高句麗が百済を滅ぼしたこと、同21年(477年)3月に雄略天皇が久麻那利(こ
むなり、熊津を指す)を百済の?洲王に下賜して国の復興をさせた。『日本書記』
493年 百済の東城王は新羅と婚姻関係を結んだ。
495年 百済の東城王、高句麗に侵入された際には新羅から救援が来て高句麗兵を退ける。
498年8月 百済の東城王、耽羅(済州島)が貢賦を納めなくないので親征す。
503年 新羅、国号・王号定める
512年 百済第25代の武寧王(ぶねいおう)、漢江流域に対する高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、高句麗
に壊滅的打撃を与える。
520年 新羅、律令頒布、官の衣服を制定。
525年 百済武寧王陵築造
529年 百済第26代の聖王(せいおう)、高句麗の安臧王?の親征に勝てず、2000人の死者を出す。
527年 新羅、仏教公認
532年 新羅、金官国(南伽?)併合
538年 百済、泗?城へ遷都
541年 百済第26代の聖王、任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した。
551年 百済の聖王は、百済、新羅、伽耶の連合軍により、高句麗から漢江流域を取り戻した。
552年 百済、日本に仏教を伝える。
553年 新羅の真興王、百済から漢江流域を奪い、同盟関係は壊れた。
554年 新羅の真興王は戦いで戦死する。
554年7月 大伽耶(慶尚北道高霊郡)と倭国と共に新羅と戦ったが、緒戦で奇襲を受けて聖王が戦死
する。 
562年 新羅、大伽?(高霊伽?)を滅ぼす
577年 北周の武帝は北斉の首都鄴を攻め落として北斉を滅ぼし、華北を43年ぶりに統一した。
581年 北周の静帝より禅譲を受けて隋を建国する。
586年 高句麗、長安城に遷都
589年 隋が陳を滅ぼして中国を統一する。高句麗の平原王は直ちに防備の体制を整えたが、これをみ
隋は高句麗を咎めたために、平原王は恐れて上表して陳謝しようとしたが、使者を送る前に死去した。
589年 高句麗の嬰陽王が即位、隋より<上開府儀同三司・遼東郡公・高句麗王>に冊封されるが、靺
鞨の人々を率いて遼西に進入した。そのために隋の文帝の怒りを買い隋の高句麗遠征(隋の高句麗遠征)(第一次遠征)を引き起こすことになった。(和睦終決)
607年 高句麗の嬰陽王、東突厥の啓民可汗の幕営に使者を派遣していたところを隋の煬帝に見られ、
二次遠征(612年)の遠因となった。
607年、608年 百済第30代の武王(ぶおう)、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文
を提出する。
611年 百済第30代の武王、隋の高句麗討伐の先導を買って出ることを申し出た。
612年 煬帝、高句麗攻撃(薩水の戦い)隋の第二次高句麗遠征(隋軍を撃退)(百済は、この遠征に
従軍しなかった))
613年 隋の第三次高句麗遠征(隋軍を撃退)
614年 隋の第三次高句麗遠征(隋軍を撃退)
617年 李淵は617年(義寧元年)に挙兵、煬帝の留守中の都、大興城(長安)を陥落させると、煬帝
を太上皇帝(前皇帝)に祭り上げて、その孫恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握した。
618年 李淵は恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)、唐を建国する。
621年、百済第30代の武王、唐に朝貢を果す。
622年 高句麗の栄留王、唐に朝貢を行い、隋の高句麗遠征の時の捕虜を互いに交換した。
624年 百済第30代の武王、唐より百済王に冊封される。
624年 新羅の第26代の真平王(しんぺいおう)、唐より柱国・楽浪郡公・新羅王に冊封される。
624年 高句麗の第27代栄留王(えいりゅうおう)、唐より上柱国・遼東郡公・高句麗国王に冊封され
る。
624年 麗済同盟(れいさいどうめい)、高句麗と百済が新羅を攻撃するために結んだ軍事同盟で、百
済が滅亡した660年まで続いた。
642年7月 百済第31代の義慈王(ぎじおう)、単独で新羅に親征し、?猴など40城余りを下した。8月
には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃した。この攻撃は大勝に終わり、降伏してきた城主を妻子ともども斬首し、男女1千人を捕虜とし百済の西部に移住させた。 
642年10月 高句麗の将軍、淵蓋蘇文(えん がいそぶん)は180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵
王を第28代王に擁立して自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就任して政権を掌握する。
643年 百済第31代の義慈王(ぎじおう)、高句麗と同盟(麗済同盟)して新羅の党項城(京畿道華城
市)を奪おうとしたが、新羅が唐に救援を求めたため、新羅攻撃は中止することとなった。
644年 新羅との和解を高句麗に勧告するが、唐の太宗の要求を拒否する。これに激怒した太宗が弑君
虐民の罪を問い、高句麗に開戦宣布する。
645年 第一次高句麗遠征、安市城の戦い 高句麗が唐に勝利する。
647年 第二次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
648年 第三次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
649年 唐の太宗が崩じると、高宗が三代皇帝の座に付く。高句麗との戦いは断続的に継続しながら消
耗戦で戦略を変更する。また高句麗と敵対する新羅を冊封した。(唐・新羅の同盟)
655年 第四次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
658年 第五次高句麗遠征、高句麗が唐に勝利する。
654年 新羅、金春秋即位(武烈王、太宗)
655年 高句麗の将軍淵蓋蘇文が死ぬと、淵男生が後を継いだ。しかし、弟の淵男建・淵男産との間に
内紛が生じ、淵男生は唐に投降した。唐軍は淵男生を先頭にして、李勣などが高句麗に侵攻した。金春秋、将軍・金?信とともに巧みな外交(花郎大活躍)
660年 新羅、唐と連合し百済滅ぼす。
663年 白村江に百済・倭連合艦隊を大破し百済再興は消滅。百済王族大挙して倭の近江(蒲生郡など

)などへ移住する。(扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)の願いで倭国が百済救援に赴き、唐・新羅連合に敗

北する)
668年 新羅・唐連合、高句麗を滅ぼす。
676年 新羅、三国統一

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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