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経済から見る歴史学 日本編 01-10-3 新羅(しらぎ)

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【新羅(しらぎ)】
新羅(しらぎ)という国は、秦韓(辰韓)の中から生まれた斯蘆国(さろしろこく)を発祥としている。

紀元前57年に優れた鉄器を持った赫居世(ヒョッコセ)たちが北の方から動乱を逃れてやってきたと言う。当時、赫居世は13歳であり、6村の連合(新羅六部)で統括者を決めていたらしい。その統括者の名を『居西干・次次雄(コソガン・チャチャウン)』と言う。居西干は君長、次次雄は巫(シャーマン)を意味する。
紀元前37年に赫居世は慶州平野に京城の『金城』を築き、『国号の斯盧(シロ)と名付ける。
ところで、高句麗を除く、国号を見比べると面白いことに気付くことができます。
新羅=シラギ、羅(ラ)
百済=クダラ、ラ
加羅=カラ 、羅(ラ)
緊那羅=キンナラ、羅(ラ)
那羅=ナラ
奈良=ナラ、ラ
すべての国の語尾に羅が付いているのだ。もしかすると、羅=国なのかもしれない。
すると、
新羅=シン国=秦国
百済=クダ国=馬国<馬をクダという発音でする。王子が高句麗(馬)から来た>
加羅=カ国=韓国=漢国
緊那羅=キンナ国=夜叉国=夜ノ国(男なら馬頭人身、女なら美しい天女)
那羅=ナ国=奴国
奈良=ナ国=奴国
となるのです。
朝鮮半島の金海の狗耶国(クヤコク)を須那羅(スナ国=鉄国)と呼んだそうです。スナ、あるいは須那という文字を検索しても、『鉄』関連に当たりません。栃木県大田原市にある曹洞宗の玄性寺(げんしょうじ)は、天正18年(1590年)に5歳で那須家を継ぎ、後に那須藩主となった那須資景が、曹洞宗の鉄尊を招き、玄性寺として再建したと残されています。やはり、那須と鉄に関係がありそうです。
そう考えると、スサノオの『須佐』も鉄関連の言葉なのかもしれません。スサノオはイザナギから海原を治めるように言われたのを断り、イザナミのいる根之堅洲国に行きたいと言って追放されます。根之堅洲国の候補地の1つは、辰国と言われます。
朝鮮半島の鉱山はほとんどが北部に集中しており、半島南部には鉱山がありません。鉄が生産されるようになると伐採が盛んになり、中国・朝鮮半島のほとんどが禿山になったそうです。スサノオは、イザナギの国には何もないので、木の種子を持って海を渡り、倭国で樹が育ったと記されております。
ヤマタノオロチを倒して出てきたのは鉄であり、ヤマタノオロチから出て来たと言われる宝剣はイザナミから預かった王家の剣です。この場合に王家とは秦王朝に当たります。
そもそも辰韓は秦韓であり、紀元前206年に項羽によって滅亡させられます。そのとき、万里の長城で賦役させられていた20万人の労働者の一部が朝鮮半島に流れ、東南の土地を与えられて秦韓となったのです。
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〔万里の長城〕(万里長城(燕長城)HPより)
地図を見れば、一目瞭然であります。
遼東の万里の長城を遼東長城と呼び、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東に郡を置いて、胡族の侵入を拒んでいたとあります。
この地方に賦役されていた者と秦の王族と臣下が箕子朝鮮に逃れ、紀元前195年に前漢の劉邦配下である燕王盧綰の部将であった衛満が箕子朝鮮に亡命し、翌年に王倹城を攻落し王権を簒奪して衛氏朝鮮を興したことで、秦の難民は辰国へと逃れることになるのです。
辰国は彼らを受け入れ、辰韓を彼らに与えました。辰韓のある朝鮮半島の東側は金剛山、五台山、大白山と1000m級の山々500km以上も続く大白山脈が横たわり、小白山脈との間にわずかな土地が広がるだけの山と木々しかない大地でした。新羅の首都である金城は大白山脈の根元に当たります。
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〔朝鮮半島の地形〕
渤海を渡って中華の文化が入ってくる西側と違い、東側は文化の流入が遅れておりました。高句麗や百済などが仏教文化に華やいでいた時期も新羅では、シャーマンの時代が続いていたのもその為なのです。当時の倭国は、中国の山東半島から遼東半島を結ぶ渤海、朝鮮半島の海岸全域、九州から北陸、近畿・東海までを交易圏としておりました。『燕の鉄は倭人が運ぶ』と言われ、朝鮮半島で取れた鉄を倭人が運んでいたと記録に残されております。山東半島から中華文化は馬韓を経由して、倭国に入り、そこから日本全国、あるいは辰韓に逆輸入されていた可能性もあるのです。
辰韓と呼ばれる時代は、辰国において馬韓が経済的に半島を支配していました。それゆえに辰韓から出雲に渡ったスサノオ族は、ヤマタノオロチを退治して出雲から丹波、越方面まで支配化に治めます。しかし、アマテラス族の国譲りによって、スナノオ族はヤマトから東海方面、丹波から越方面に移動します。その一部が加羅を回って、辰韓に戻ってきたと考えられるのです。
『三国史記』新羅本紀・脱解尼師今紀では、倭国の東北一千里のところにある多婆那国(丹波国?)で、その王が女人国の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るように言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国(加羅の国の1つ)に流れ着いたが、その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、辰韓の阿珍浦(慶尚北道慶州市)の浜辺に打ち上げられた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(紀元前19年)であったという。
老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。長じて、第2代南解次次雄5年(8年)に南解次次雄の娘を娶り、10年には大輔の位について軍事・国政を委任された。南解次次雄が死去したときに儒理尼師今に王位を譲られかけたが、「賢者は歯の数が多い」という当時の風説を元に餅を噛んで歯型の数を比べ、儒理尼師今に王位を継がせた。儒理尼師今が57年10月に死去したときには、王(儒理尼師今)の遺命に従って脱解が王位についた。これが新羅の第4代の王(57-80年)脱解尼師今(だっかい にしきん)の話であります。
西暦一世紀から二世紀の斯蘆国(後の新羅)は辰韓の一国に過ぎませんでしたが、辰韓諸国は280年から286年にかけて西晋に対して朝貢を行っており、366年に百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため同盟を結び、377年になると辰韓の代表として新羅が朝貢を行ったことが見られます。
『太平御覧』が引用する『秦書』(逸書)には、新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)が国号を斯盧から新羅に改めたことを報告し、新羅国がここに誕生しました。
高句麗の広開土王の時代は、新羅・百済にとって苦難の時代でした。後方の倭国に人質を出して同盟を結び、援軍の協力を求めるほど苦境に立たされていたのです。しかし、高句麗が強国であるある日々も長く続きません。遼東の後燕が勢力を持ち、5万の大軍で高句麗を攻めたのです。しかし、それを跳ね返した高句麗は再び新羅に侵攻し、新羅の第18代の王・実聖尼師今は先王の第2子の卜好を高句麗に人質として送ったとあります。
実聖尼師今が亡くなると、高句麗と倭とへ人質として送られていた王弟が帰国して、新羅の第19代の王・訥祇麻立干は高句麗の従属国の王として即位します。しかし、433年には高句麗を裏切って、百済の毘有王と第2次羅済同盟(433年 - 553年)を結んで高句麗と対立するのでした。
新羅の第20代の王・慈悲麻立干(458-479)、第21代炤知麻立干(479-500)の時代、つまり、高句麗の長寿王は本格的に朝鮮半島の統一を目指したようで、475年に百済の王都の漢山城を陥落させました。一節には、この時点で百済は一度滅んだという方もいます。新羅に援軍を頼んだ文周は、途上で漢山城の落城を聞き、熊津(忠清南道公州市)に遷都すると、百済第22代の文周王を名乗ったのです。さらに長寿王は百済・新羅に侵攻し、一進一退の攻防を続けたのです。しかも倭国からも攻められていた記録も残っています。
おそらく、高句麗の南下に伴って、百済・新羅も南下を余儀なくなされ、侵略された任那・加羅・秦韓・慕韓などの要請で倭国が兵を送ったと思われます。5世紀に入ると倭国もヤマト王朝が倭国の実権を握り、倭国の混乱も治まってきました。倭の五王(413-502)が、東晋・宋・南斉・梁に朝貢していることからも判りますように、朝鮮半島南部への影響力を取り戻していました。
507年に即位した継体天皇以降の年表は記紀に明確に記されているので、時系列で事象を追うことができます。一方、仲哀天皇、神功皇后の九州征伐から朝鮮平定時期を特定するのは難しいのが実情です。
第14代仲哀天皇は、仲哀8年熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いたが、神懸りした神功皇后から神のお告げを受け、西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇はそれを無視した為に神の祟りで崩御し、変わって神功皇后が筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという三韓征伐(さんかんせいばつ)を成し遂げたのです。
朝鮮側の資料で言えば、344年に通婚を要求したが、新羅は「娘は嫁に行った」として断ったことで、345年に国交を断絶し、346年に風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃したというのが、『三韓征伐』の時期ではないのだろうかと思いたいが、定かなことは判りません。他にも362年、365年、397年が候補に上がります。
ただ、16代仁徳天皇が倭の五王の『讃』とすれば、応神天皇(353-394)の没が394年なので、『三韓征伐』が346年ではないかと思われます。また、応神天皇が朝鮮半島に固執する理由も伺えます。
第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)では、歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている人物ですが、允恭3年8月に新羅から医者を招聘し、天皇の病気を治療する。允恭42年1月に允恭天皇が崩御されると、新羅王はこれを悲しみ弔使を送ったと残されており、新羅との親密さが伺えます。
そして、新羅の第24代真興王(しんこうおう、534-576)が登場します。真興王はそれまでの新羅を方針を大きく変え、積極的な対外戦争と領土拡張を目指します。553年に百済が高句麗から取り戻したばかりの漢山城(京畿道広州市)を含む一帯を強奪し、漢江流域に新州を設置した。これによって第2次羅済同盟(433-553)が終焉を迎えます。554年には百済の聖王が伽耶と連合して管山城(忠清北道沃川郡)に攻め入ったのを迎え討ち、逆に聖王を戦死させ、百済と伽耶の連合軍2万9千600を殲滅しました。さらに562年には異斯夫と斯多含とを派遣して伽耶を滅ぼし、洛東江下流域を制圧しました。
564年には北斉に朝貢して、翌565年2月には<使持節・東夷校尉・楽浪郡公・新羅王>に冊封され、同年9月には陳からも使者を受け、566年から571年にかけてはほぼ毎年のように朝貢を行って、国際的な地位を確保したのです。
594年に新羅の第26代の真平王(しんぺいおう)は隋から<上開府・楽浪郡公・新羅王>に冊封され、隋などと国交を強める一方で、百済への攻勢を強めています。しかし、高句麗と百済への両面作戦を強いられる新羅は次第に劣勢に立たされてゆきます。真平王は隋に高句麗討伐を求める上表文を僧の円光に書かせて上表しますが、隋の遠征に何度も高句麗は絶えてしまうのです。
高句麗への出費が嵩み、国内の反乱と内部の腐敗を起こした隋は、618年に李淵が恭帝から禅譲を受けて即位(高祖)して唐に変わる。622年に高句麗と捕虜の交換を行い、新羅、百済、高句麗は朝貢して、624年に新羅・百済・高句麗が共に新羅王・百済王・高句麗王に冊封されます。
同年、高句麗と百済による麗済同盟(れいさいどうめい)が結ばれると、新羅の劣勢は明らかになり、真平王は唐に働き掛けて劣勢を覆そうとしましたが、唐は高句麗との和解を告げるだけでした。
629年に高句麗と娘臂城(忠清北道清州市)で戦い、副将金庾信の活躍で同城を陥落させる勝利を得ると、637年までは三国間に大きな戦いはなく過ごされることとなったのは幸いだったのでしょう。
高句麗は、唐の太宗が629年に大規模な東突厥討伐を行い、小可汗の突利可汗(テリス・カガン)らを投降させるなどを行ってことで、唐への警戒感を強め、注意が西に向かいます。
百済は627年に新羅の西部2城を奪い勢いに乗っていました。新羅の真平王が唐に使者を送って太宗に仲裁を求めた為に、武王は甥の鬼室福信を唐に送って勅を受け、表面的には勅に従う素振りを見せるしかなく、大軍を動かすことが出来ずに新羅との小競り合い続けるしかなかったのです。
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〔新羅の飛躍期〕(高句麗と三韓の成立“Trisection” 前108年~611年HPより)
642年7月、新羅の第27代の善徳女王(ぜんとくじょおう)は百済に西部40余城を陥落させられ、同年8月には高句麗と百済とが連合して党項城(京畿道華城郡南陽面)を奪取され、新羅の唐への朝貢の経路が絶たれてしまう。
643年9月、善徳女王は唐に使者を送って高句麗・百済を討つ救援軍を求めたが、唐からは援軍を派遣するには女王を廃して唐の王室から新王を立てることを迫られた。こうした唐の姿勢に対して新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、女王自らが任命した上大等の毗曇らが647年正月に女王の廃位を求めて内乱を起こし、上大等に代表される中央貴族に対抗して金庾信ら地方勢力の有力者が女王を支援して乱の収拾に当たったが、同月8日に女王は陣中に没し、善徳と諡され、狼山(慶州市)に葬られる。
女王を廃そうとする親唐派の花朗徒(ファランド)の内乱を鎮めたのは、新羅の第28代の真徳女王(しんとくじょおう)であった。真徳女王は内乱の鎮圧後には反唐政策をすすめるのではなく、あくまでも新羅の王統を維持しながらも唐の援助を求める政策を取る。
王族の金春秋(後の武列王)を息子の金文王らとともに648年に唐に派遣し、百済討伐の援軍を願い出てようやく太宗から一応の了承を得ることができた(唐・新羅の同盟)。金春秋の帰国とともに、649年より唐の衣冠礼服の制度をとりいれ、650年には独自の年号を廃止して唐の年号(永徽)を用いるようにするなど、唐との関係を磐石のものとする。
唐の心変わりは、644年に新羅との和解を高句麗に勧告するが、高句麗がこれを無視いあたことに唐の太宗が激怒し、645年に第一次高句麗遠征『安市城の戦い』、647年に第二次高句麗遠征、648年に第三次高句麗遠征といずれも高句麗が勝利したことが、唐の態度を軟化させた。
百済にも新羅との和睦を進めていたが一向に改善されず、651年に唐の高宗から新羅との和睦を進める璽書(天子の印の押してある親勅)を送られたが、それでも争いを止めない百済に怒りを覚えていたのではないだろうか。
654年に真徳女王の死去し、新羅の第29代の武烈王(ぶれつおう、654-661)が即位すると、唐は武烈王に即位と同時に開府儀同三司・新羅王に封じ、あわせて楽浪郡王を増封した。
655年1月に高句麗・靺鞨・百済の連合軍(麗済同盟)が攻め入って北部辺境の33城が奪われると、唐は営州都督程名振、右衛中太将蘇定方らを遣わして高句麗を攻撃した。
660年3月、唐は百済討伐の出兵を行う。この討伐軍は左武衛大将軍蘇定方を神丘道行軍大摠管とし、副大摠管は唐に宿衛していた武烈王の息子の金仁問とした。新羅王に対しても嵎夷道行軍摠管とする勅命が出され、唐と新羅との連合軍としての百済討伐したのである
同年7月18日、百済の義慈王は投降し、百済は滅びた。翌661年に新羅・唐の連合は高句麗に進軍し、鴨緑江で淵蓋蘇文の長男の淵男生を破り、平壌城を包囲し、蛇水の戦いにも勝利したが、補給が続かないので撤退した。この戦いの最中に武烈王は陣中で亡くなり、唐の高宗は武烈王の死を悼んで洛陽の城門で葬儀を行なったと言われる。
663年5月、百済の旧将の鬼室福信らが王族の扶余豊璋を迎えて百済復興の大規模な反乱を起こし、百済・倭国の連合と唐・新羅の連合との間に『白村江の戦い』が行なわれた。この戦いで倭国の水軍は壊滅し、百済の再興の望みを断ち切られる。
665年に高句麗の淵蓋蘇文が死ぬと内乱が起こり、弟の淵男建・淵男産に実権を奪われた長男の淵男生は唐に投降し、唐は淵男生を先頭に李勣などが高句麗に侵攻した。668年には、唐軍と共に新羅も首都の平壌城を攻めて、高句麗は滅亡する。
しかし、唐は平壌に安東都護府を設置し、百済に熊津都督府を設置していたので朝鮮半島統一には、ほど遠い状態であった。
新羅の文武王は高句麗の宝蔵王の庶子である安勝が残存勢力とともに新羅に亡命してきたのを利用し、金馬渚(全羅北道益山市)に住まわせて670年8月に高句麗王として封じると、新羅の送使が随行する形でこの高句麗をして倭国へ朝貢させた。
新羅の文武王は百済地域の唐軍も攻撃し82個城を奪い、671年には泗沘城を陥落させ、所夫里州を設置して百済地域を占領し、671年10月に百済に向かっていた薛仁貴が率いる唐の水軍を黄海で新羅の水軍が勝利した。
これに怒った唐の高宗は674年1月に文武王の冊封を取り消し、代わりに文武王の弟の金仁問を新羅王に冊封すると、672年7月に唐軍と靺鞨軍が平壌を占領し、8月には韓始城と馬邑城も占領した。これに対して高句麗復興軍と新羅軍は672年12月に白氷山で戦ったが唐軍に敗れ、673年にも瓠瀘河でも唐軍に敗れた。
高句麗復興の機運が弱まる中の674年9月に宝蔵王の庶子である安勝を報徳王として再封し、旧高句麗に対する新羅の宗主権を誇示したが、文武王は675年2月に謝罪使を派遣し、元の状態に戻った。
一見治まったように見えた朝鮮半島であったが、百済・高句麗の遺民を焚き付けて反乱の機運が再燃した。
675年9月に新羅軍は泉城で唐の薛仁貴の軍を破り、買肖城でも李謹行の軍を破った。さらに、676年11月に新羅の水軍が錦江河口の伎伐浦海戰で薛仁貴の水軍を破ると、唐は熊津都督府と安東都護府を遼東に移して朝鮮半島から撤退した。こうして、新羅の文武王は朝鮮半島の三国統一を成し遂げたのである。
しかし、百済、高句麗などが争っていると唐に対抗できないと察した文武王は、百済・高句麗

〔新羅と倭国はじめ関係諸国の史書における記録〕

 

新羅初代王赫居世居西干の時代(在位:紀元前57 - 4年)

 

紀元前50年、倭人が侵攻してくるが、赫居世王の説得に応じて倭軍は撤退する。また重臣に、もとは倭人の瓠公がいた。

 

2代王南解次次雄の時代(在位:4 - 24年)

 

14年には倭人が兵船100艘余りで攻め寄せ、海岸の民家を略奪した。これに対して六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪軍に攻められた。しかし、流星が楽浪軍の陣に落ちたため、彼らは恐れて引き上げたという。さらに六部の兵を送って追撃させたが、賊軍が多いので追撃は中止となった。

 

4代新羅王の脱解王の時代(在位57-80年)

 

脱解王は倭国から東北一千里の多婆那国の王の子といわれ、この多婆那国は竜神信仰を持っていたことや交易関係などから、日本列島の丹波国に比定される事が多い、脱解王の出身氏族である昔氏は倭国と交易していた倭人の氏族とされる。

 

73年、倭人が木出島(慶尚南道蔚山広域市の目島)に進入してきたので、角干(1等官の伊伐飡の別名)の羽烏(うう)を派遣したが敗れ、羽烏は戦死した。

 

77年には伽耶と戦って大勝した阿飡(6等官)の吉門を波珍飡(4等官)に引き上げた。

 

5代新羅王の婆娑尼師今の時代(在位80-112年)

 

 倭国に服属した新羅王(波沙寐錦、はさむきむ)のことを指すともいわれる。また、414年に建てられた広開土王碑の第三面二行に「新羅寐錦」とあり、中原高句麗碑では、高句麗を「大王」、新羅王を「東夷之寐錦」としていることから、「寐錦」は、新羅の固有の君主号ともいう。法興王11年(524年)の建立とされる蔚珍鳳坪碑に法興王は「寐錦王」として現れている。また、同時に連なっている高官に「葛文王」の表記が見られることから、6世紀初頭当時の新羅が絶対的な「王」による一元的な王権の支配下にあったわけではなく、寐錦王と葛文王という二つの権力の並存であったとする説もある。なお、法興王の前代の智証麻立干(500-514年)の時代に国号を新羅、君主号を王に定た。

 

6代新羅王の祇摩尼師今の時代(在位:112 - 134年)

 

 1212月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いた。同年4月に倭人が東部海岸に侵入した。

 

翌年1233月に倭国と講和した。

 

8代新羅王の阿達羅尼師今の時代(在位:154 - 184年)

 

158年、倭人が来訪する。

 

1735月、倭の女王卑彌乎が新羅に使者を送る。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条からの造作で、かつ干支を一運遡らせたとする説もある。

 

9代新羅王の伐休尼師今の時代(在位:184 - 196年)。

 

1936月には倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1千余人が新羅に流入した。

 

10代王奈解尼師今 の時代(在位:196 - 230年)

 

208年夏4月、倭人が国境を侵す。奈解王は将軍利音に反撃させた。

 

11代王助賁尼師今の時代(在位:230 - 247年)

 

2324月に倭人が首都金城に攻め入った。王も出陣して倭人を壊滅させ、騎馬隊を派遣して首級1千をあげた。

 

2335月、倭人が東部国境に侵入。同7月、将軍の昔于老が沙道で倭軍を撃退、倭人の兵船を焼き払う。

 

12代王沾解尼師今の時代(在位:247 - 261年)

 

249年夏4月、倭人が于老を殺害。 応神天皇14(283)、弓月君が百済から来て、天皇に奏上した。「私の国の百二十県の民が帰化を求めていますが、新羅人が阻むため、みな加羅国に留まっています。」天皇は葛城襲津彦を遣わして、加羅国の弓月の民を召したが、三年を経ても襲津彦は帰らなかった。

 

14代の王儒礼尼師今の時代(在位:284 - 298年)

 

285(応神天皇16)、天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わした。天皇は精兵を授けて、「襲津彦が帰らないのは、きっと新羅が邪魔をしているからだ。お前達は速やかに赴いて新羅を撃ちその道を開け。」と命じた。木菟宿禰らは精兵を進めて新羅の国境に臨んだ。新羅王は恐れて、その罪に服した。二人は弓月の民を率いて襲津彦と共に倭国に帰ってきた。

 

2874月、倭人が一礼部に来たり、集落に放火し、1千人を捕虜にして立ち去った。

 

292年、倭兵が沙道城(慶尚北道浦項市)を陥落させようとしたので一吉飡の大谷に命じて救援させたが、倭軍が攻略した。

 

294年、倭兵が長峯城を攻略した。また、沙道城を改築して沙伐州(慶尚北道尚州市)の有力な80余家を移住させ、倭に備えたという。

 

297年、伊西国に攻められ首都金城(慶州市)を包囲されるが、竹葉軍の助力で防衛に成功した。なお、この伊西国と日本のイツツヒコ王国との間に関係があったともされる。

 

15代の王基臨尼師今の時代(在位:298 - 310年)

 

3001月、倭国と使者を交わし[15]た。

 

307年、国号を新羅に戻した。

 

16代の王訖解尼師今(在位:310 - 356年)

 

312年、倭国王が王子の通婚を要求。王子ではないが、阿飡(6等官)の急利の娘を嫁として送った。

 

323年、新羅が朝貢に参じる。

 

329年、新羅が朝貢を怠る。9月、砥田宿禰と賢遺臣を派遣して詰問すると、新羅は貢納を果たした。

 

344年、倭国は再び通婚を要求。しかし、新羅側は「娘は嫁に行った」として断った。

 

345年、倭国は怒り、国書を送って国交断絶。

 

346年、倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐飡の康正の進言によって倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却する倭軍を追撃して敗走させたとする。この時の倭群をイツツヒコ王国として、この遠征失敗により弱体化した同王国を打倒したことが「三韓征伐」とする主張もあるが、上記のように、新羅側の記録に倭軍侵攻の記録が残っている。

 

新羅17代王奈勿尼師今の時代(在位:356 - 402年)

 

356年、奈勿尼師今が即位。新羅の実質上の建国年とも。

 

362年(または364年)、神功皇后元年、対馬より半島に至り、新羅王都に到る。新羅王は抵抗することなく降伏し、「馬飼部」となることを宣言し、毎年の男女を貢ぐと誓約した。

 

3644月、倭軍が侵入。数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山(標高746m)の麓に並べ、1千人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、倭軍に不意討ちをかけて撃退したとする。

 

3655月、新羅が朝貢を怠ったため征伐。率いる兵が少ないため砦へ篭って防戦に努めていたが、新羅軍の虚を突いて壊滅させ、四方の村民を捕虜として連れ帰る。

 

391年倭が海を渡って百済(百残)・加羅・新羅を破り、倭国の臣民となした。秋7月、高句麗王好太王が4万兵で百済北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とした。冬10月、高句麗、百済の關彌城を落とす。百済王が11月、狗原の行宮にて死去した。

 

392年正月に高句麗は新羅に使者を送ってきた。新羅は高句麗を恐れ、王族の伊飡(2等官)大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を人質として差し出した。

 

3935月に倭軍が侵入し首都金城(慶州市)を包囲されたが、倭軍の退却中に騎兵200を送って退路を塞ぎ、歩兵1千を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、倭軍を大敗させた。

 

397年、百済の阿莘王は王子腆支を人質として倭に差し出し服属した。

 

399年、百済は高句麗との誓いを破って倭と和通したため、高句麗王は百済を討つため平譲に侵攻した。同じ頃、新羅は倭軍が国境を越えて城を攻略し民を奴客となし、首都を囲んでいるため、高句麗に救援を求めた。新羅の長が自ら使者として高句麗王に拝謁し「多くの倭人が新羅に侵入して城を落とし首都を囲んでいる」と窮状を訴え、高句麗の臣下になる事を願い出たので、大王は救援することにした。

 

400年、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。このとき新羅の首都は倭軍の侵攻を受けていたが、高句麗軍が迫ると、倭軍は退き任那・加羅まで後退を始め高句麗軍は後を追った。ところが、倭傘下の安羅軍などが逆を突いて、新羅の首都を占領した。新羅は奈勿尼師今の王子未斯欣を人質として倭に差し出し服属した。

 

404年、帯方界で倭軍の攻撃を受けるが高句麗は撃退した。

 

〔新羅と倭国はじめ関係諸国の史書における記録〕(ウィキペディア 三韓征伐より)

両国の遺民を取り込んで新羅の身分制度を再編することに努めたのである。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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