経済から見る歴史学 日本編 01-10-2 百済(くだら)
経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 10章 百済(くだら)
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【百済(くだら)】
韓国の教科書の『大朝鮮帝国史』におもしろい地図が載っている。
外百済・古莫那羅・奈良百済と書かれた地図には、中国の山東省から遼東の一部、朝鮮半島南西部、日本の九州から関東までが支配地していた地図が載っています。
〔大百済帝国の領土〕(23mmの銃口から飛び出す弾丸はHPより)
笑ってしまいたくなるようなトンデモ地図ですが、これ倭国のヤマト政権の交易圏と重なっているのです。漢が滅亡の危機に陥り、黄巾の乱、魏国の台頭、晋国の腐敗で国内は反乱と飢餓などの天災で衰弱すると北方の騎馬民族が南下して漢民族を襲った。海岸には倭人の村があり、内海を渡って朝鮮半島から倭国まで交易を続けていました。斉に住む人々は倭人の力を借りて、内海を渡って朝鮮に渡る者も多かったのです。
一方、秦氏に代表されるように弓月君を祖とする百済より百二十県の人を率いて豊前国に入ると、ヤマト王朝に仕えて瀬戸内海全域から近畿全般へ広がっていきました。全国に稲荷神社があるように、百済系の渡来人が全国に広がっていったのです。
百済から見れば、山東省から倭国の関東まで交易圏であり、つまり、勢力地と大言を吐いてもあながち嘘とまで言えないのです。
言ってみれば、卵が先か、鶏が先か、そんな問題なのです。
つまり、表に返せば、百済も倭国(邪馬台国連合)の一部から始まり、百済の文字をヤマト王朝の連合国と書き直せば、トンデモ地図は倭国の勢力図に早変わりするのです。もちろん、中央集権など整備されていない時代の倭国では、ヤマト連合国の大王(おおきみ)も、大王と呼ばれる調停人に過ぎないということを忘れてはいけません。
紀元前37年に朱蒙(チュモン)によって建国され高句麗の王子、温祚(おんそ)は第2代瑠璃明王が太子となったために身の安全を考えて、南の肥沃な土地である馬韓へ逃れ、そこで国を興した。馬韓の中の一小国、それが『百済』の始まりです。
『三国志』によれば、馬韓諸国のなかの伯済国が百済の前身であったと記述されております。当時は公孫氏が遼東を支配し、次いで魏国が楽浪郡を置き、南に新たに帯方郡を置いて朝鮮半島を支配していました。その魏国も晋国に禅譲すると北方民族の南下が進み、晋国は崩壊して各太守が独立して王を名乗る春秋時代へと変わります。そして、遼東の支配は前燕に移ります。高句麗も前燕の臣下となっている時代でした。
百済の王は帯方郡太守と娘を差し出して婚姻関係を結ぶことで、馬韓での発言権を大きくしておりました。313年に楽浪郡(前108-313年)が滅ぼされ、315年に帯方郡が高句麗に攻められると、百済に援軍を要請してことから判りますように帯方郡(楽浪郡)に所属していた馬韓は、楽浪郡の消滅と共に馬韓・辰韓が衰退し、高句麗の侵略を受けるようになって行きます。
ところで、『三燕文物精粋』の資料に遼寧省北票県の喇嘛洞ⅡM101号墓出土の龍文透彫鞍は大阪府誉田丸山(応神陵陪塚)2号鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一で、丸山2号鞍は北燕(407-436)の製品である可能性が高いということです。百済と倭国が親密であったということは、百済が北燕の臣下になっていた可能性を示します。同じように百済は帯方郡が滅びた時点で、前燕に冊封したと思われます。そうなると、高句麗は前燕の許可なく百済を攻めることができなくなるのです。
高句麗が滅亡した原因は、隋・唐に冊封していた新羅を勝手に攻めたことが原因であります。冊封が高句麗の侵攻を止めることにはなりませんが、抑止する効果は十分にあったようであり、高句麗の朝鮮南部への侵攻は百済のある西部を避けて東部から進入しています。
342年に前燕の慕容皝(ぼようこう)は5万の軍勢を率いて丸都を襲って、第16代・故国原王(在位331-371)は前燕の臣下となり、朝貢することで滅亡を回避しました。このとき、百済が前燕に冊封していたなら南から高句麗を攻めていたでしょう。楽浪郡・帯方郡の武将や将兵が百済の助けを借りて押し上げたのではないでしょうか。
こうして、多くの属国を増やした百済の第13代近肖古王は、346年頃に漢城(ソウル)を首都と定め、馬韓地域を統一します。
<4世紀、百済が最大勢力を誇った頃>
〔4世紀、百済が最大勢力を誇った頃〕(旅行前に知っておきたい 百済 百済の歴史HPより)
前燕の臣下となった高句麗は、奪われた国土を取り戻すべく戦いを挑みます。楽浪郡・帯方郡を奪い返した将兵が前燕に対して、好意的であったとは限りません。また、百済が大きい過ぎるのも問題があり、小さな口実を重ねて少しずつ侵攻していったのでしょう。
また、北方からの異民族の進入は、高句麗にとって土地を奪い返す好機になりました。特に前秦(351-394)が建国し、370年11月に前秦が前燕を滅ぼすと、高句麗は領土奪還の好機を得ることになるのです。
前燕が前秦との戦いを激化する360年代になると、高句麗の朝鮮半島南下が激化したのでしょう。391年に高句麗の第19代の好太王が即位すると、周辺への侵攻が一気に加速します。366年に百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため同盟を結びます。さらに397年に百済は倭国に百済阿莘王は王子腆支を人質として倭に送り通好し、399年に百済は倭国に七支刀を献上して友好的な関係を強化しております。また、東晋(317-420)に冊封して高句麗に対抗しようと考えたようです。
しかし、百済の阿莘王は敗戦を続け、399年には高句麗討伐の為の徴発が厳しく、百済から新羅に逃れる者も多く出たと残されています。
『好太王碑文』による、399年から倭の新羅侵攻が起こり、倭は新羅国境に満ちて城池を潰破して、さらに翌400年になると倭が新羅の首都を占領する状況にあったが、この399年に百済は高句麗との誓いを違えて倭と通じている。後に403年には新羅への侵攻も試みていると記載されていますが、実際の所はどうだったのでしょうか。
『三国史記』によれば、百済の阿莘王は、402年5月にも倭国に使者を派遣しており、403年2月には倭国からの使者を迎え、特に手厚くねぎらったとされています。
また、『古事記』に記されている「百済から献上された和邇吉師(王仁)」は阿莘王の時代に相当します。
阿莘王の子、腆支王(てんしおう)は397年に人質として倭国に赴いた王子である。405年9月に阿莘王が亡くなると、次弟の訓解(くんかい)が政治をみて腆支王の帰国を待ったが、末弟の碟礼(せつれい)が訓解を殺して自ら王となった。腆支王は哭泣するとともに帰国することを倭国に請願し、倭国の兵士に伴われて帰国した。国人は碟礼を殺して腆支王を迎え入れ、腆支王は百済の第18代の王(405-420)として即位した。
429年、百済の第20代の王毗有王(ひゆうおう)は宋へ朝貢し、翌430年には腆支王(余映)に与えられていた爵号を継承することが許され、<使持節・都督・百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王>に冊封された。また、433年以来新羅へ使者を送って和親を要請し、贈り物の交換を通じて両国の修好が成立する(羅済同盟)。
553年まで宋・新羅・倭国と同盟を結んで高句麗と対してが、新羅の真興王が百済の漢江流域を奪って同盟関係は壊れ、以後、隋と倭国の同盟を持って対抗する。しかし、百済第30代の武王(ぶおう)の時代になると、隋に朝貢するとともに、高句麗にも相対する二元外交に変わった。
百済第31代の義慈王(ぎじおう)の時代になると、百済も国力を回復し、単独で新羅に攻め、弱体化する新羅は唐と同盟を結んで、660年に百済を滅ぼす。
663年に百済の王子である豊璋(ほうしょう)の願いで百済を救援に赴いたが、手痛い敗北を喫して、百済の滅亡が決定的となった。
第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?
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