経済から見る歴史学 日本編 01-10-1 高句麗(こうくり)
経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 10章 高句麗(こうくり)
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【高句麗(こうくり)】
高句麗は5世紀末には朝鮮半島の南部を残して、ほとんどを征服した巨大な国家であります。紀元前一世紀に始祖の朱蒙(しゅもう、第1代東明王)が扶余(ふよ)王から迫害されたため南に逃れ、現在の遼寧省桓仁地方の卒本(チョルボン、そつほん)にて高句麗を建国した(紀元前37年)と伝えられます。
『漢書』によれば、高句麗の名は、漢の武帝が紀元前107年に衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡を朝鮮に置いたとき、玄菟郡(げんとぐん)に高句麗族の住地に県城をいくつか設置したと残されます。その高句麗族が県城を攻撃したため、紀元前75年に玄菟郡が桓仁西北の新賓県永陵陳に移されたとされ、紀元前107年から紀元前75年の間に高句麗族が建国している可能性が高いのです。
『三国史記』によれば、3世紀に第2代・瑠璃明王(在位前19-後18)の22年に国内城(集安))に遷都したとあります。高句麗王の伯固(ベツコ)が死去すると、2子の間で王位継承問題が起こり伊夷模(イイモ)が兄の抜奇(バルキ)をおさえて王に推戴された。そこで、伊夷模は卒本から国内城(集安)に移り、そこで新国を建てたという伝承が残されています。
後漢の後に、魏国が遼東の公孫氏を討伐し、楽浪郡や公孫氏が設置した帯方郡を接収して、遼東や北部朝鮮地方を支配下においた。244年から2年間にわたって毋丘倹(かんきゅうけん)を派遣して高句麗を攻撃させました。第11代・東川王(在位227-248)は蹂躙された王都を脱出して沃沮(よくそ)の地に逃れた。
魏志東沃沮伝はさらにこう書き続けています。
「毋丘倹は高句麗を討ち、高句麗王の宮(人名)は沃沮に逃亡した。ついに軍を進めて宮を攻撃した。沃沮の集落はみな破って、首を切ったり、虜にした者が三千人あまりいた。宮は北沃沮に逃亡した。」
「北沃沮は置溝婁(チコウロウ)ともいう。南沃沮を去ること八百余里。風俗は南北とも同じである。北沃沮は挹婁と接している。挹婁は船に乗り略奪することを喜びとしており、北沃沮はこれを畏れている。
夏の間は常に山の嶮しく深い穴の中にいて守り備えている。冬になって海が氷結し、船の航海が不可能になってから山を下り村落に住む。」
「(玄菟太守だった)王頎は別れて派遣され宮を追討した。北沃沮の東の果てへ行き着き、そこの古老に『海の東にまた人がいるだろうか。』とたずねると、古老は言った。『以前、この国の人で、船に乗って魚取りにでて、風のために数十日吹き流され、東の一島に着いたものがいる。そこには人がいて、言葉は通じなかった。その風俗では、常に七月に童女を取りあげて海に沈める。』また言う、『一国がまた海の中にある。女ばかりで男はいない。』また告げた、『海の中から浮き上がった一枚の布の服を手に入れた。その体の部分は中国人の服のようだったが、両袖の長さが三丈もあった。』『また一艘の難破船を得たこともある。波に打ち上げられて海岸のほとりあったが、一人の人がいて、うなじの中にまた顔があった。生きていたが、言葉は通じず、食べることができずに死んだ。』その地域はみな沃沮の東の大海中にある。 」
〔三国時代の朝鮮半島地図〕(三国時代の朝鮮半島地図 魏志東沃沮伝より)
三国志の時代、魏国が高句麗を破って、高句麗の宮人は沃沮、さらに北沃沮に逃亡し、そして、倭国に渡ったような記述が残されています。
高句麗は四散しますが、魏国から西晋に王位が禅譲され、280年に呉国を滅ぼすと、腐敗と家督争い、さらに反乱で国力を急激に落としてゆきます。北方の騎馬民族も南下を再開します。
300年に第15代・美川王(在位300-331)が即位して、官位制などを整備して、一元的な身分編成を推し進めて国家体制を固めると、ついに313年に楽浪、ついで帯方の二郡を滅ぼして、半島南部へ進出する足場を固めました。
しかし、五胡十六国時代の混乱の中から台頭してきた慕容氏(ぼようし)の前燕が319年に遼東を確保すると、高句麗と前燕の間に新たな抗争が始まったのです。
342年、前燕の慕容皝(ぼようこう)は5万の軍勢を率いて丸都を襲い、第16代・故国原王(在位331-371)は前燕の臣下となり、朝貢することで滅亡を回避しました。
この作られた高句麗の最初期の壁画古墳である安岳3号墳は、日本の前方後円墳や前方後方墳などに大きな影響を与えているとも言われています。
また、美川王の時代からはじまった南進により、南部から勃興してきた百済(ペクチェ、くだら)とも戦火を交えることになります。
369年、高句麗の第16代の王(在位331年 - 371年)故国原王(ここくげんおう)は百済を攻撃しましたが敗退し、2年後に平壌地方に逆襲してきた百済軍の流れ矢に当たって戦死します。 故国原王のあとに即位した小獣林王(在位371-384)、兄の後を継いだ故国壌王(在位384-391?) は国政の立て直しを迫られ、律令の制定などを推し進めることで難局を乗り切ることになります。
370年、前秦の符堅は前燕を滅ぼし、燕王の一族の慕容評が高句麗に逃げました。小獣林王は、慕容評を捕らえると符堅の許に護送すると、372年6月に符堅は返礼として、高句麗に使臣を遣わし、僧の順道(じゅんどう)と仏像・経文を送ってきたのです。さらに、2年後の374年には、僧の阿道が高句麗にやってきます。小獣林王は省門寺と伊弗蘭寺を創建し、順道と阿道をそれぞれの寺に住まわせました。
こうして高句麗への仏教伝来が始まったのです。
ところで苻堅には保護されていた前燕の初代皇帝慕容皝の5男である慕容垂がいました。しかし、苻堅の庶長子苻丕の非礼に腹を立てて兵を起こして、384年1月に後燕を建国します。
苻堅が没し、庶長子苻丕(ふひ)が継ぐと、苻丕と争いながら勢力を拡大し、河北一帯を支配しました。
392年6月には翟魏を、394年8月には前燕の継承権をめぐって抗争していた同族の西燕を滅ぼし、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げます。
その頃、隣の高句麗は391年に第19代の王、好太王(こうたいおう、在位391-412)が即位します。広開土王または広開土大王とも呼ばれ、その名の通りに高句麗の領土が遼東から朝鮮半島の南部まで伸ばします。
〔広開土王の領土〕(ドラマと史実の 広開土大王の時代 徒然 あさやんの史記と四季より改変)
400年の朝鮮南部への出兵は、倭国にも大きな影響を与えています。高句麗に大敗した百済は王子を人質に出して、倭国からの救援を求めます。高句麗5万の大軍が新羅を陥落させた勢いで伽耶まで兵を進め、從拔城を攻めると城の兵民は高句麗に降伏した。しかし、倭軍は背後から新口城、塩城を攻撃して陥落させた。
いずれにしても、高句麗・百済・新羅・伽耶・安羅・倭の軍が入り乱れての戦いを繰り返し、高句麗は朝鮮半島の実質的支配権を手に入れてゆきます。
その後、中華の争乱を鎮め、新興してきた隋・唐と交戦となり、侵攻される数は11回、その大国相手に一歩も引かない戦いを繰り広げた高句麗ですが、最後は家督争いから内乱を生じ、その間隙を付かれて、668年に滅亡します。
〔隋と唐の侵攻ルート〕(高句麗の発展と滅亡HPより)
第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?
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