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2016年9月

経済から見る歴史学 日本編 01-5 邪馬台国って、どこにあるの?

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 5章「邪馬台国って、どこにあるの?」
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5.邪馬台国って、どこにあるの?
畿内説や九州説、沖縄説など沢山の書物が出されております。しかし、日本に残る文献は少なく、もしか

すると古墳の中に記録が残っているのかもしれませんが、それを知る術はありません。どこがに抜本的な

発見がない限り、邪馬台国の論争に決着が着くことはないでしょう。しかし、中国の文献から邪馬台国の

位置を推測するのは可能であります。
中国の文献には倭人や邪馬台国に関する記述が多く残されています。
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特に三国志魏書には、邪馬台国(邪馬壱国)を中心とする国々やその風俗、女王卑弥呼の存在など、当時の倭国の様相が、二千余文字を割いて紹介されております。
・男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
・その風俗は淫らではない。
・男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
・着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
・稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
・牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
・兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。(和弓#弓の種類参照)矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
・土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
・家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
・人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
・倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
・真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、予樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投(とう、不明)・橿(きょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は、篠(じょう)

・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘何(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
・特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
・集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
・敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
・長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
・身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
・女は慎み深く嫉妬しない。
・盗みは無く、訴訟も少ない。
・法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
・宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。
〔邪馬台国〕(ウィキペディアより)
縄文人が様々な人種で構成されていることはDNAの説明でも判るように、1万6000年前から3000年前まで気候変動と共に北や南に居住地を変えながら多様な民族と交流を重ねて1つの民族となって行きます。
紀元前10世紀に中国の王朝である殷が西方の遊牧民国家の周によって滅び、殷の貴族が朝鮮半島へ移封されて半島北部の先住者と混じり合って箕子朝鮮が誕生します。殷は商王朝と呼ばれるように商人の語源である。殷が滅亡した後に商(殷)人が各地で物を売り歩いたことに由来する。朝鮮半島に移動した商(殷)人が海を交通手段として倭人を利用しない訳もなく。また、倭人に様々な物を売り歩いたと考えれば、商(殷)人が最初の弥生人であったと簡単に推測できます。
さて、その殷を滅ぼした周も10代厲王の時代に衰退し、小国が乱立する春秋時代に突入します。
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〔春秋時代の諸国〕(春秋時代 ウィキペディアより )
周から分裂した諸侯が斉、晋、秦、楚、宋、呉、魯、曹、衛、虞(グ)、蔡、陳、莒(キョ)、鄭(テイ)、越、燕、中山など百数十カ国を立ち上げて行きます。そして、制圧や併合など戦乱の末、戦国末期まで残ったのは秦・楚・斉・趙・魏・燕・韓の七国となります。国が滅びるとその一族が四散し、その一部が朝鮮や倭国へ逃避行した国もあるでしょう。
その中で最も日本に渡来したのが呉越の民でしょう。紀元前600年頃に越(えつ)が成立し、同じく紀元前585年頃に呉(ご)が成立し、度々抗争を繰り返します。呉越の民は中国長江流域で起こった文明の民であり、海洋技術を持ち、稲作伝来など縄文人と深い繋がりの民でした。
呉が勢力を伸ばすと、越は滅びる寸前まで追い込まれます。越の王子、勾践は「寝る時は薪の上に寝て復讐を忘れないようにした」という『史記』呉太伯および越王句践世家の『臥薪嘗胆』はここから生まれます。滅ぼされそうになった越の民は海を渡って日本に渡来したことでしょう。しかし、越の勾践は呉王が覇者になるために北に赴いている隙に呉を攻めて、遂には紀元前473年に呉を滅ぼしてしまいます。呉の民は難を逃れる為に海を渡って日本に渡来したことでしょう。こうして春秋時代から戦国時代に掛けて、多くの渡来人が海を渡ったことでしょう。
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次に訪れたのが徐福であります。
徐福は紀元前3世紀、司馬遷『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝の命を受けて、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があります。
さて、日本に徐福伝説は、
青森県 小泊村
秋田県 男鹿市
山梨県 富士吉田市 山中湖村 河口・吉田 河口湖村
東京都 八丈島 青ヶ島
静岡県 清水市
愛知県 名古屋市熱田 小坂井町
和歌山県 新宮市
三重県 熊野市
京都府 伊根町 (浦島太郎伝承地)
広島県 宮島町
高知県 佐川町
山口県 上関市祝島
福岡県 筑紫野市 八女市
佐賀県 佐賀市金立町 諸富町 武雄市 山内町 伊万里市 富士町 有明町
熊本県 金峯山
宮崎県 延岡市 宮崎市
鹿児島県 串木野市冠岳 坊津町 屋久島町
と全国に広がっております。中でも注目すべき所は、佐賀県の伝承地の多さと京都の浦島太郎伝承地、不老長寿の山と言われる富士(不死)を冠する山を巡っている点です。
渡来した弥生人は4世紀後半まで北九州当たりから広がって日本全国に至りますが、諏訪湖周辺の中部山地から関東に向けて停滞しておりました。それが突然進み始めます。それは高天原から遣って来たタケミカヅチの国譲りの伝承と同じ経路を辿っております。タケミカヅチはアマテラスの使者であり、オオクニヌシはスナノオの子供です。アマテラスとスサノオは同じイザナギから生まれた姉弟であり、高天原から遣って来たという点も同じです。
いずれしろ、紀元前3世紀頃に新弥生人が全国に広がり、徐福伝説もまた全国に広がっております。
紀元前206年、秦の始皇帝が中華を統一して20年で秦は滅び、前漢に追われた秦王朝の関係者が四散します。その一部が朝鮮半島へ逃れたと思われます。衛氏朝鮮(えいしちょうせん)は紀元前195年頃から紀元前108年まであった朝鮮最初の王朝と言われ、中国の燕に出自を持つ衛満(えいまん)によって建国されたと言われます。同じ頃、朝鮮半島の南部に辰国(しんこく)の名が現われます。そして、漢の武帝時代(紀元前前141年~紀元前87年)に漢から衛氏朝鮮が侵略を受けると、衛満の孫の寓居王は辰国に亡命します。その辰国も馬韓月支国の辰王に滅亡させられます。
この月支国が孝霊61年に朝鮮半島から船団で来襲したという伝承が日御崎神社に伝わっております。孝霊天皇(こうれいてんのう)〔前342-前215〕は神武天皇から数えて7代目の天皇であります。
いずれにしろ、中華で騒乱が起こると玉突きのように押し出されて日本に弥生人が渡来したと思われるのです。そして、縄文時代にはなかった国という認識を日本に伝えたのです。こうして、北九州、南九州、出雲、近畿、関東、奥州と多く100以上の国の乱立したのです。
未だ研究途上のヲシテ文字は縄文文字とされる一方で造語と言われる一面があります。縄文人が意外と文化的であったという研究が進むにつれ、縄文時代に文字が存在しなかったというのは不合理と思われます。況して、弥生時代に入り、渡来人が多く日本に定住しても8世紀以前の文献が見つからないのは不自然極まりありません。日本書記を編纂した藤原氏が古代文献を禁書として葬り去ったと考えるのが妥当でしょう。これからの研究が待たれます。
さて、そのヲシテ文献を元に造られたのが、下記の日本地図です。
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〔ヨシテ時代カミノヨの地図〕(ヲシテ文字が消されたわけ びーちぇの「ヲシテのクニ」)
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〔小笠原長武写本によるホツマ文字の標準字形〕
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〔ヲシテ構造図〕
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〔宇宙創成時の神々―四十九の神の働きと天界鎮座図〕
ヲシテ文献ではナカクニ(アワ)とコエ(ヤマト)が二大勢力だったようです。
さて、三重県松坂市嬉野地区貝蔵遺跡にて発掘された最古の墨書文字です。
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〔三重県松坂市嬉野地区貝蔵遺跡の土器〕(ふじぎな文字 びーちぇの「ヲシテのクニ」)
この土器は2世紀後半とされていますが、黒々と土器に漢字では「田」の字と思われる字が書いています。ヨシテ文字なら『ノ』に当たります。しかし、渡来人が多くいた日本なら2世紀後半ですから殷の甲骨文字、先秦時代の漢字であった可能性は否定できません。

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〔秦代・木牘〕(秦代・木牘(『文物』2003年第1期より 古文字とは?))
いずれにしろ、饒速日命(ニギハヤヒ)が物部の祖先であることは否定しませんが、何かの文献を鵜のみするのは危険なようです。
さて、それらを踏まえて改めて邪馬台国がどこにあったのかを推測してみましょう。
魏の時代、邪馬台国は狗奴国(くなこく)と戦っていた。魏書東夷伝に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国、狗奴国は倭国で邪馬台国の尽きるところである奴国の南に位置するとある。(注1.畿内説では大和と熊野と分けている。)
建武中元2年(57年)、倭奴国の使者が、貢ぎ物を奉げて光武帝のもとに挨拶に行き、使者は大夫と自称し、倭奴国は倭国の一番南の地であると言っている。このとき、光武帝が『漢委奴国王』の金印を下賜している。
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〔国宝「漢委奴国王」の金印〕(筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島))
日本の南の地は現在の九州に当たり、狗奴国は邪馬台国の南とありますから南九州と推測できます。つまり、残る北側、北九州が邪馬台国の位置になります。しかし、奴国と邪馬台国の間には181年の隔たりがあり、同一の国あったかどうかは不明であります。もちろん、邪馬台国が倭国の王であったかは別の問題であります。
『三国志』魏志公孫淵伝によれば、景初2年8月23日(238年)に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠されると、邪馬台国の女王・卑弥呼は帯方郡への使者を送って、魏との交流が再開されました。
このとき、邪馬台国は魏国より『親魏倭王』という称号を貰ったことが重要だったのです。邪馬台国は魏国の権威を借りて倭国の王足らんと欲しました。それに対して倭国の小国王が従ったかどうかは判りませんが、邪馬台国か、狗奴国のどちらかを通らなければ、中華と通商も交易もできないという事実がありました。
一方、狗奴国は南方航路を確保していましたから邪馬台国と対峙しております。
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〔邪馬台国と狗奴国は、魏と呉の代理戦争をしていた〕
呉が狗奴国を支援したという資料は発見されていませんが、呉国の孫権が即位した年に不老不死の薬を求めて、衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が倭国へ派遣しています。衛温と諸葛直は現地の住民も3000人も捕えて帰ってきますが、結局、亶州(日本)に到達できず、疫病で8000人の兵士を失うとう徒労に終わっています。しかし、呉が倭国に到来していたことを示す証拠として、呉の紀年銘鏡が2面日本で出土しています。(山梨県取居原古墳出土の赤烏元年銘鏡、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年銘鏡の対置式神獣鏡)
赤烏元年銘鏡の赤烏元年は238年で魏の年号では景初2年に当たり、赤烏七年は244年であります。

間違いなく、魏と邪馬台国が交流した時期に呉国も倭の小国と交流していたのです。呉の孫権は遼東の公孫氏に使いを再三遣わし、魏を牽制しております。しかし、公孫氏が滅びると倭国との交流も乏しくなったとようです。
では、邪馬台国と対立していた狗奴国とは何なのでしょうか。
半島の言葉で狗とは「大きい」という意味で、「狗奴国」とは「大奴国」という説明を見つけました。しかし、私は『狗』は小さい犬という意味で「小奴国」ではないかと考えます。邪馬台国から見た蔑みの言葉のように思えます。いずれにしろ、奴国が伊都国(注2)に滅ぼされ、その敗残勢力が筑後川を越え九州山地を横切って九州南部に拠点を移したのではないでしょうか。
そう考えれば、神武天皇の東征に正統性が生まれてきます。南九州の熊襲族も旧王家の奴国に協力するのも頷けます。
では、邪馬台国とはどんな国だったのでしょうか。
3世紀に帆船が登場するまで、手漕ぎ船が使われておりました。1日に50km程度が限界であり、夜は陸に上がって休養と船の手入れが必要になります。福岡―対馬―釜山を結ぶ対馬海峡ルートか、沖縄諸島を結ぶ太平洋ルートの2つしか、大陸との扉はありません。
つまり、大陸への玄関口を持つ邪馬台国と天候を司るシャーマンの卑弥呼は、神に等しい存在だったのです。国力では邪馬台国を凌ぐ国もあったでしょうが、大陸とのルートを確保する為にも、邪馬台国と同盟関係を維持する必要があったと考えられます。
邪馬台国が勝手に『親魏倭王』の称号を得ることを苦々しく思う国もあったかもしれませんが、大軍を持って邪馬台国ごと滅ぼそうという大国もなく、もう1つの玄関口を持つ狗奴国以外は対立していなかったのです。
つまり、邪馬台国も大国ではなく、始祖の国として、大陸の玄関口として、倭国にとって重要な国の1つでしかなかったのです。そして、3世紀に帆船が登場すると、北九州も出雲も地理的な優位性を失って、時代の中に埋もれてゆくことになります。

(注1).もしも邪馬台国が畿内であったなら、邪馬台国と狗奴国の争乱は倭国を二分する大乱であったことになります。
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〔畿内に邪馬台国があったなら〕
紀元3世紀までは帆船がなく、すべて手漕ぎ船でした。手漕ぎ船は最低でも50kmごとに同盟国を持たないと運営できません。つまり、畿内に邪馬台国があった場合、日本海ルートはすべて邪馬台国の支配権でなければなりません。そうなると熊野だけでは小国過ぎます。伊勢湾全体を支配地にした狗奴国が存在しないとなりません。これだけの大国が文献には、邪馬台国の南以外は一切触れられておりません。これは矛盾であります。

(注2)伊都国:『魏志倭人伝』には、 「東南陸行五百里 至伊都國。官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。

有千余戸 丗有王 皆統属女王國。郡使往来常所駐」〔(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)という。1000余戸の家がある。世々(丗)に王があるも、みな女王國に統べて属する。帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、ここに常にとどまる場所である。」〕とある。糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力であり、共に卑弥呼の支配下にあった諸国の1つと思われる。しかし、「奴国説」と「伊都国説」などの様々な説があり、2つを同一視する考え方もある。
『イト』は3世紀の歴史書である魏志の倭人伝の中に『伊都国』として登場している。奈良時代の古事記、日本書紀には『伊都』と書かれ、以後『怡土』、『絲』、『糸』へと移り変わって来た。
〔記録された伊都国の変遷〕
表 記  出典  成立年代    編 者
・伊都国 魏志の倭人伝 3世紀 陳寿
・伊斗村 古事記 712年 太安万侶
・伊都県主 日本書紀 720年 舎人親王
・怡土城 続日本書紀 797年 菅野真道
・怡土郡 倭名抄 797年 源順ら
・絲州太守 海東諸国記 1471年 申叔舟
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〔伊都(いと)国〕(魏志の倭人伝の伊都(いと)国より)
共に卑弥呼の支配化にあった奴国と伊都国が戦い、奴国が滅ぼされて、逃げのびた奴王の孤児が南九州で狗奴国を作って抵抗を続けたのです。
しかし、邪馬台国が畿内にあったという説は根強くありますが、それもそのハズです。邪馬台国=ヤマト国と読めますから、邪馬台国は畿内にあったと言うのも事実なのです。
正確に言いますと、女王卑弥呼が治めた邪馬台国は3世紀まで北九州を中心に栄え、4~5世紀に畿内にあったナラ(奴国・那羅、あるいは狗奴国)の王朝が邪馬台国を攻め滅ぼして従わせ、自らをナラからヤマト(邪馬台国)と改めたのです。
こうして、畿内の大和王朝(新邪馬台王朝)が誕生したのでありました。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-4 古代先進国の倭国

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 4章「古代先進国の倭国」
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4.古代先進国の倭国
1万6000年前から3000年前の縄文文化、紀元前10世紀から3世紀中期まで続く弥生文化、3世紀中期から7世紀までの古墳文化、日本の古代は主に3つに分かれます。しかし、残念ながら詳しい文献は多く残っておりません。検証しようにも検証できないというのが実情であります。ただ、縄文文化が狩りなど営む原始的な暮らしではなかったことが最近の遺跡発掘から判ってきました。
遺跡から出てくる食糧の数々から多様な食材が伺われます。米・栗・粟・胡桃・団栗(どんぐり)類・根菜類など採取し、鹿・猪・キツネ・アナグマなどの中小型獣を食糧にしていますが、それ以外にもイルカなどを集団で狩っていたと思われるからです。
真脇遺跡から発掘されたカマイルカ・マイルカなどイルカ類の出土固体数は、前期末~中期初頭の層で285頭に達しています。これは一人で漁をする量を越えています。春から秋に掛けてイルカの群れがやってくると、回りの村々が集まってイルカを囲い込んで入り江に追い込む漁が行われます。少なくとも6000年前にはイルカ漁が始まっていたと思われます。
長野県に残る『御柱祭』には3000人の氏子が集団になって木を引いていますが、これと同じように縄文人は集団で何かを行うことができる集団であったことが判ります。
縄文時代、朝鮮半島と九州の対馬海峡は手濃きの小型船で横断しておりました。福岡を出た船団は壱岐の北岸に向けて50kmを漕ぎ進み、壱岐の西を回り込んで海流に乗って対馬の厳原を目指します。対馬を横断すると、釜山まで海流に乗って漕ぎ進めます。
帰路は釜山から巨済島の西端に移動し、同じく海流に乗って対馬を目指します。対馬に到着すると厳原に移動し、厳原から壱岐の原の辻を目指します。そこから福岡まで海流に乗って漕ぎ進めば到着です。
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〔対馬と半島の距離〕(倭国の入口、対馬への旅路、日本と湯屋だのハーモニー)
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〔対馬海峡の距離〕
当時の福岡(菜の津)は小さな村でしたから、そこから東の糸島や唐津に移動することになります。
邪馬台国の時代では、100隻近い船が船団を組んで対馬海峡を渡りました。イルカ漁もそうですが、季節・天候・海流の流れなどを把握しなければ、手漕ぎの船はあっという間に遭難してしまいます。夏・殷・周・秦・漢の時代は、そんな危険な海に興味などありません。また、中国大陸の王朝に海を越えて逃げる倭人を追い駆ける技量もありません。陸路は朝鮮半島まで支配しましたが、海上は倭国の独壇場だった訳です。
さて、『魏志』(倭人伝)は倭国の物産について「真珠・青玉を産出する」と書かれております。そして、景初二年(238年)に公孫氏が敗れ、「倭・韓」を統属していた帯方郡が魏の領有になったことで、邪馬台国の卑弥呼はさっそく使者を洛陽に送ります。
「景初二年六月、倭の女王は大夫難升米らを遣わし郡に詣り、天子に詣って朝献せんことを求める。太守の劉夏は吏を遣わし、将いて送って京都に詣らせる。」
卑弥呼の使者は「男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈」を献上したと書かれております。ここで重要ポイントです。
班布二匹二丈???
男生口四人・女生口六人は奴隷ですから然程めずらしいものではありませんが、『班布二匹二丈』という文言をツイツイ見過ごされることが多くあります。
そもそも『班布二匹二丈』とは、どんなものでしょうか?
当時の長さの尺度は、「漢書 食貨志」に「布帛は横二尺二寸を巾として、長さ四丈を匹とあります。
一匹 = 二反 = 四丈 = 約 9m20cm
一反 = 二丈 = 約 4m60cm
一丈 = 十尺 = 約 2m30cm
一尺 = 十寸 = 約 23cm
二匹二丈 = (四丈)×2 + 二丈 = 十丈 = 約 23m、二尺二寸 = 約 50cm
つまり、 「二匹二丈」 の布というのは、全部つなげると『巾:約 50cm 、 長さ:約 23m』の布ということになります。
布を織るというのは、「牽牛織女」の物語にもあるように古来女性の仕事であり、神々に献上する貴重なものでした。
卑弥呼の遣使に対して、魏の朝廷から下賜されたものは、
絳地交龍錦五匹・絳地粟十張・絳五十匹・紺青五十匹
卑弥呼個人に対しての下賜品のなかに
紺地句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹
第二回目の朝見のときに送られたものは、
倭錦・絳青・緜衣・帛布
壱与が帰国する張政等を送るためにつかわした使いが魏の都まで行って献上したのが、
異文雑錦二十匹
と、『三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人』には書かれております。織物がどれほど貴重なものかお判りでしょう。幅50cm、長さ23mの織物を作るのにどれほどの労力がいるのか想像も付きません。
『新唐書』(日本伝)に、
「その東の海嶼の中に、また邪古・波邪・多尼の三小王がいる。北は新羅を距て、西北は百済、西南は越州に直る。糸絮と怪珍ありという。」
とあり、ここに「糸絮」と特記しているのは、「倭錦」や「異文雑錦」など珍しい倭国産の絹織物が、弥生後期から続々と中国に流入し珍重された事実を示唆してくれています。

さて、邪馬台国の献上品に『魏志』(倭人伝)によれば、女王台与は大夫の掖邪狗ら二十人を中国に遣わし、「異文雑錦」とともに、「白珠五千孔青大句珠二枚」を献上していると書かれております。
白珠は海の宝石である真珠でしょう。孔は緒を通す穴が穿たれてあったとすれば、5000個の真珠のネックレスというところでしょうか。
青大句珠は山から採れる「勾玉(マガタマ)」のことではないだろうか。青く大きな勾玉となれば、翡翠を思い浮かべます。日本の翡翠は縄文時代前期末ことから出現し、弥生・古墳時代は多くの装身具として勾玉が作られています。
中国では玉は古代「禺氏(ぐうし)の玉」と呼ばれ珍重されました。この玉を中国にもたらしたのが「月氏」と言われます。殷周時代には儀仗的玉器、服飾としての佩玉が作られました。この玉は光を当てると不思議な色に光り、死者を不死の世界へ導くものとして重宝されまた。それゆえに権威の象徴とされ、秦の始皇帝や漢の王が好んだのが玉です。『韓非子』(和氏篇十三)や『史記』に記される『和氏の璧』の話は有名であり、15城もの価値がある璧だと「連城の璧」と称されるようになっております。また、仏教伝説として、あらゆる願望を意のままにかなえる「如意宝珠」として中国に伝わったことが影響しているのかもしれません。この翡翠を献上品としていたのです。
因みにこの翡翠の硬玉はモース硬度で6.5 - 7、軟玉は6 - 6.5であり、鉄より堅い物質であり、この翡翠に穴を開けて加工するには、高い技術力と長い時間が必要でした。
いずれにしろ、倭人は集団で行動できる統率力がある国であり、反物や真珠、翡翠を献上できるほどの技術集団が倭国にいたことが判ります。倭国は決して蛮族が支配する国ではなく、技術力を持った先進国に1つであったことが、『班布二匹二丈』や『白珠五千孔青大句珠二枚』から読みとれるのです。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-3 稲作の伝来?

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 3章「稲作の伝来?」
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3.稲作の伝来?
近年、弥生人が稲作を伝来したという定説が間違っていたことが判ってきました。縄文人は狩人の生活を中心にしながら、イノシシ、シカ、タヌキ、ニホンザル、イヌ、クジラ、イルカ、キジ、マガモ、モズ、ツグミという肉食から魚類、堅果類(クリ・クルミ・トチなど)、エゴマやヒョウタン、ゴボウ、マメといった一年草の栽培種まで食べていました。そして、米も食していたのです。
中国の稲作は7000年から8000年前に中国南方にて起こり、全国へと広がっています。この中国南方は日本と交流、あるいは縄文人の祖先の1つであります。そして、何より4000年前には倭人の交流圏に稲作が伝来していました。
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〔稲作の起源〕(佐藤洋一郎著『DNAが語る稲作文明』より)
中国の長江の中・下流域を起源とするイネで、1973年には、長江下流の南、余姚(よよう)県河姆渡(かぼと)遺跡から約7,000年前のイネの籾が出土しており、陸稲と呼ばれている温帯ジャポニカが見つかっております。我が国でも、岡山県の灘崎町にある彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から陸稲の植物珪酸体(プラントオパール)が大量に見つかっています。つまり、縄文人は稲作を知っていたのです。
そして、弥生人によって齎されたのは、灌漑式の水田で栽培される水稲系の温帯ジャポニカと言う訳です。ただ、青森県・高樋Ⅲ遺跡から出土した炭化米のDNA鑑定によれば、熱帯ジャポニカに特徴的な「7C6A」という配列を示しており、他にも下の郷遺跡(滋賀県守山市)・唐古鍵遺跡(奈良県田原本町)・池上曽根遺跡(大阪府泉大津市)・菜畑遺跡(佐賀県唐津市)・妻木晩田遺跡(鳥取県淀江町)・登呂遺跡(静岡県静岡市)等々と、弥生人は日本各地で熱帯ジャポニカを水田で栽培していたと思われるのです。
さて、水田の稲作文化を持って渡来した弥生人と先住民の縄文人が争った記録はありませんが、その片鱗を思わせるのが古事記・日本書紀における伝承でしょう。出雲にやって来たスサノオノミコトは、アシナヅチ・テナヅチ夫婦神の娘であるクシナダヒメを助ける為にヤマタノオロチ退治を行います。これは先住民と渡来人が友好関係を持ちながら定住したという隠語のように思えます。しかし、そういった渡来系の文化を拒絶した縄文人もいました。
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〔紀元前10~4世紀頃の稲作文化と縄文人〕(NHK特集古代史ミステリー「“御柱”~最後の“縄文王国”の謎~)
渡来人は様々な技術を持ち、彼らと友好を結ぶことで収穫が向上し、生活が楽になるという利点が渡来人を受け入れた大きな要因でしょう。しかし、渡来人の来訪はそんな喜ばしいことばかりではなかったことが記紀に記させれています。
高天原を追放されたスサノオは、母イザナミの故郷である朝鮮北東部に赴いた後に出雲に渡ります。そこでアシナヅチとテナヅチの娘クシナダヒメの為に八岐大蛇と戦い、これを倒して、この地を治めます。
さらにスサノオの子供は
ニギハヤヒノミコト(スサノヲの子):奈良県「大神(おおみわ)神社」
オオヤツヒコノミコト(スサノヲの子):新潟県「弥彦(やひこ)神社」
ウマシマヂノミコト(スサノヲの孫):島根県「物部(もののべ)神社」
と各地に勢力を伸ばします。(ここには色々な異説もあります)
時が流れ、スサノオの子供であるオオクニヌシが出雲を治める時代になると、高天原から派遣されたタケミカヅチ(建御雷神=鹿島神宮の祭神で中臣氏の祖神)がオオクニヌシに国譲りを要求します。オオクニヌシはタケミナカタと勝負をして勝ったなら国を譲ると約束し、タケミカヅチはタケミナカタを負かし、国譲りを完了します。
一方、負けたタケミナカタは諏訪に逃げのびます。諏訪に来たタケミナカタは諏訪の神『モレヤ』と戦い、モレヤ(洩矢神)を従えて、この地を治め、タケミナカタは諏訪の神になります
なぜ諏訪だったのでしょうか?
諏訪大社上社の摂社に足長神社がありあます。また、諏訪市下桑原に鎮座する手長神社もあり、祭神に出雲系の足摩乳命(あしなづちのみこと)を祀っており、クシナダヒメの両親を祀っている神社であります。
高天原に命じられて諏訪を襲ったのかもしれませんし、高天原に対抗する為に勢力拡大したのかもしれません。いずれにしろ、高天原の天孫達が来襲することによって、日本は戦乱の渦に巻き込まれたのです。
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〔縄文人から弥生人、そして、伝説の国譲り〕(NHK特集古代史ミステリー「“御柱”~最後の“縄文王国”の謎~)など
1万6000年前から3000年前、つまり、紀元前10世紀までは縄文人は比較的穏やかに暮らしておりました。ところが紀元前10世紀になり、青銅や鉄といった便利な道具と一緒に入ってきた弥生人は、縄文人と同化して溶け込みます。しかし、日本列島に稲作を伝来したのではなく、戦乱の火種を伝来したのが弥生文化なのです。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-2 倭人は海を渡る。

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 2章「倭人は海を渡る。」
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2.倭人は海を渡る。
中国の黄河・長江・遼河文明と呼ばれる文明が生まれたのは、紀元前7000年から紀元前5000年頃と思われます。そして、国家と呼ばれることが生まれたのが現在の河南省付近である夏〔か〕(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)であります。この夏を滅ぼして生まれたのが殷〔いん〕であり、商王朝と呼ばれていました。商売の語源となる王朝です。
この商は石器時代から青銅時代へと飛躍させた王朝であります。甲骨文字を操り、南方の海から入手した希少な子安貝の貝殻を貨幣とした貝貨を使っておりました。まさに文明の始まりを作った王朝と言えるのです。そして、殷の時代が終わると、周〔しゅう〕の時代へと変わります。
周と言えば、何と言っても『太公望 封神演義』の話が有名です。
殷(商)の紂王の治世で妲己(だっき)と呼ばれる九尾狐の妖魔に心を奪われ、紂王は暴君へと変貌する。崑崙山の仙道を学んでいた太公望は、周国の丞相となって殷(商)の妖怪を倒してゆき、周王朝を作り上げます。この周が衰退すると、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓が乱立する春秋時代へと移ってゆきます。
その中の燕〔えん〕(紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は、現在の河北省北部から東を支配しております。

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〔紀元前260年の戦国七雄〕(燕 (春秋)ウィキペディア)
その燕の漢書地理誌、王充が著した『論衡』(ろんこう)に
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
また、秦・漢時代の地理書『山海経』(せんがいきょう)に
「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
と、倭が燕に属していたという記述が見られます。
また、漢書地理誌は、燕の項目として倭人について記す前に、
「東夷は天性柔順で、三方(南北西)の外(の民族)と異なる。故に孔子は(中国で)道が行われない事を悼み、海に浮(船)を設けて九夷に居さんと欲した。理由があることだ。」
と記しております。
それにしても随分遠くまで倭人が行っているなと思われる方も多いかもしれません。しかし、考え方はまったく逆なのです。当時の感覚では、海というのは風や雨などのちょっとした変化ですぐに難破して命を落とす危険な場所であり、陸で住む人間には理解できないのです。つまり、手つかずの海岸すべてが倭人の住む生活圏だったのです。
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〔倭国の支配地〕
図に倭国と書いていますは統一された国家ではなく、部族同士の共同体に近い関係であります。なぜ、共同体であったのかというのは乗っていた古代船に秘密があります。倭船は木を組んで作られております。おそらく最初は木をくり貫いたような小型船だったのでしょうが、時間と共に木を組んで作る中型船へと進化します。
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<古代船>
古代船『なみはや』は、材質:米松 全長:12m 幅:1.92m 高さ:3m 重量:約5tであり、宮崎県西都市・西都原古墳群第169号墳(5世紀後半)から出土した船型埴輪をモデルに再現された船ですが、1989年(平成元年)7月8日に大阪港天保山を旅客船「コーラルホワイト」を母船とし、警戒船「のじぎく」と船団を組んで出航し、大阪市大の漕艇部員8名が漕ぎ手を務めて、瀬戸内海の本州側から関門海峡をくぐり、福岡、呼子、壱岐、対馬、そして朝鮮海峡を渡って、8月11日に韓国の釜山港に無事入港しました。
この航海で50cmの波でもバランスを崩す非常に不安定な船体であり、重しを積むことで喫水を下げてバランスを取りました。また、帆を張るというのは現実的ではありません。さらに8人の漕ぎ手が一生懸命に漕いでも中々進みません。夜間に他の船に牽引してもらって釜山に到着したのです。
古代人たちは気象条件や波の流れなどを把握して、1日20kmから50kmを移動しながら夜は陸揚げしていたと考えられます。バランスの悪い船体ですから波風が強い日など転覆の恐れてあり、座礁も考慮すれば、陸上げしないと危険です。この船底は平らになっているには陸揚げし易くなっている為なのです。
つまり、一部族は海岸沿いに20kmから50kmの範囲で村を形成し、数珠繋ぎのように広がっていたことが伺われます。その1つ1つが国を形成していたのではないでしょうか。『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人が定期的に漢の楽浪郡を介して(前)漢王朝へ朝貢しており、100余りの国が存在していたと書かれています。
当時の大陸人は小高い丘に住居を構えていましたから、海岸部で住居を構える倭人との諍いは余りなかったと考えられます。
夏(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)、殷(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)、周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)と続く古代中国の世界に倭人と呼ばれる縄文人達は、海を自由に行き来する者達だったのです。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

経済から見る歴史学 日本編 01-1 日本人がどこから来たのか?

経済から見る歴史学 日本編 01 古代の通貨って、何?

古代縄文人の通貨は翡翠やめずらしい貝殻、天然アスファルト、どんぐりなどの保存食などなどと多彩な特産品でありました。北は北海道から南は沖縄まで流通網が整備されており、沖縄や九州でしか取れないめずらしい貝殻が北海道の遺跡から出没し、逆に北海道より北の大陸から輸入された天然のアスファルトが山口の遺跡から出土しています。
弥生時代には統一した通貨を広めようとした者もいましたが、西日本の一部しか広まらず、縄文人・弥生人は日本全国に広がる流通網を完備しながら統一された国家も通貨も作ろうとしなかったのです。通貨というモノが国家の裏付けとして存在しうるものであることが、縄文・弥生時代から伺えるのです。1章から11章まで古代日本の情勢を説明し、12章で古代通貨の意味を語りたいと思います。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

1.日本人がどこから来たのか?
DNA鑑定からある程度のことが判ってきた。今から百万年ほど前に、「原人」がアフリカから出てユーラシア大陸に広がり、中央アジアで別れて日本に入ってきた。
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〔新人(ホモ・サピエンス)の世界進出〕(国立科学博物館「日本人はるかな旅展」から)  
DNA鑑定では縄文時代のDNAとアイヌ民族のDNAが類似していることから、アイヌは日本の先住民であるという国会決議までできている。
さらに最近はミトコンドリアのDNAから母系の祖母が誰かという調査ができるようになった。このミトコンドリアのDNAは変異が起こり易く、同じ変異を持っているのが同族であり、その変異のあるなしで、どこで分岐したかが判るというものだ。
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〔ミトコンドリアの変異〕(Mitochondrial Genome Variation and Evolutionary History of Australian and New Guinean Aboriginesより) 
これを図に直すと、こんな感じに分かれている。
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〔アジアへの変異図〕 (ミトコンドリDNAのハプログループでたどる日本人のルーツより)
こうして別れたミトコンドリのDNAを見れば、日本人のルーツも判り易いと誰もが思った。しかし、遺跡から出てきたDNAから見られた分布は思いもよらないものでありました。
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〔縄文人の持つハプログループ〕 (日本人になった祖先たち 篠田謙一NHKブックス2007年より)
4割を占めるDタイプは、東アジアに分布するD4、D5、D6であり、中国東北地方から朝鮮半島に広がっています。3万5000年以上前に誕生して氷河期から温暖化するに付けて南回りでインドから東アジアを北上し、約1万年前に日本に入ってきたと思われます。現代の日本人では、D系より後から日本にやって来たO系の方が多く分布しております。
一方、朝鮮半島ではD系はほとんど見られません。この事からD系の縄文人がO系の弥生人と混じっていった経緯が伺われます。因みにアイヌ系はD系の分布が大きくなっています。
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〔ハプログループの分布〕
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〔東アジアのハプログループの分布〕
現代のDNA分布と縄文人のDNAが異なっているのがよく判りますね。
次に多いBタイプは、特定部位のDNA配列に9つの欠損があり、約4万年前に中国南部で誕生し、中国南部から東南アジアに分布しています。また、南米の山岳地域や南太平洋、ハワイなどに多くみられます。南太平洋には約6000年ほど前に東南アジアから海洋に進出したと思われます。Bの分布地区には刺青文化が多く、縄文人も小柄で刺青をしていました。アイヌ人も刺青文化を持っています。逆に弥生人に刺青文化がないことは判っています。
Mタイプは氷河期に黄海から東シナ海にかけて存在していた陸地、スンダランドで4万年以上前に誕生し、日本、中国南部、フィリピンやインドネシアに多く存在します。その他にもAタイプは中央アジアから北アジアの少数派です。Gタイプは北方に限られています。Fタイプは4万年以上前に東南アジアに誕生しましたが、環太平洋に展開していません。Nタイプは中国南部や台湾の先住民に見られ、北から日本に入ってきたようです。
これらの事で判るのは縄文時代であっても、様々な人種が日本に来訪し、定住、あるいは通過していったという事実です。そして、Oタイプの弥生人が日本に入ってくることになります。

なぜ、世界中でこんなダイナミック民族移動が行われていたのでしょうか?
それは何万年という時間の中に答えがあります。
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〔南極のコアから見た気象変動〕(地球と気象・地震を考える 縄文に学ぶ自然の摂理より)
この15万年の間でも地球の南極の気候は6度も変化しております。これは地球が駒のように重心が回っている為に起こるのです。
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〔地球の地軸のずれが気候変動を起こす〕
地球は公転面に対して23.4度傾いていますが、約2万6千年を掛けて回転しています。ですから、夜空に見える北極星はこぐま座α星のポラリスですが、紀元前3000年頃のエジプト王朝ではりゅう座のα星(ツバン)を北極星でした。そして、紀元前12000年頃には七夕の織り姫星であること座のα星(ベガ)が、紀元前 17000年ころには、はくちょう座のα星(デネブ)が天の北極の近くなります。地軸が公転面に深くなると緯度の高い所でも夏は日照時間が長くなり、植物などの生育はよくなります。アイスランドより緯度の高いグリーンランドは、西暦1000年頃に発見されて移住しております。西暦1000年頃は中世の温暖期に当たり、グリーンランドには緑の草原が広がっていたのです。つまり、地軸の傾きの大きい時期ほど、高い緯度で温暖化が活発になるのです。
さらに地球は太陽の回りを公転しています。しかも楕円形で移動しているのです。この公転周期が約10万年と言われます。
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〔地球の公転軌道〕(NHK 地球の公転と氷期の関係)
延びている時期が氷期でありますが、10万年周期と聞いて地球は1年で太陽を一周しているのに不思議な感じがしますね。地球が1年で回る公転もわずかに扁平な楕円軌道を描いております。近点では自転が速くなり1日が長くなり、遠点では自転が遅くなり1日が短くなってしまいます。そして、毎年ほんの少しずつ5万年掛けて太陽に近づき、5万年掛けて遠ざかって行くのです。私達の地球は10万周で1回転するスピログラフのような楕円の中にいるのです。
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さらに、太陽活動の周期や太陽が銀河系を公転する宇宙の宇宙線の変化、月の軌道、彗星、地震における自転の変化、火山活動、隕石等々と地球の環境を変える要素が沢山あり、地球は氷河期と温暖期を何度も繰り返しているのです。
氷河期になると緯度の高い地域は木の実などの食糧が乏しくなり、もしかすると海も凍ります。その厳しい環境に適応して住み続ける部族もいますが、ほとんどが死に絶えるか、食糧が豊富な南方に移動をします。そして、温暖期になると食糧が豊富になり、人口増加から各地に民族移動が起こります。当然、人が住まない北方にもです。
こうして、氷河期と温暖期に人類は何度も民族移動を繰り返しているのです。それ故に縄文人のDNAを調べても様々な地域のDNAが含まれているのです。
旧先住民が住む日本に中国東北地方から朝鮮半島の東南から海を渡ってDタイプの民族が渡来して縄文人が生まれます。そして、2400年前頃にO1b2タイプの弥生人が稲作文化を持って日本に渡来して日本人の原型が完成します。
ハプログループもOタイプは、東南アジアで1万7500年から1万7000年頃の生まれ、8100年前に北上を開始します。ここからO1、O2、O3の3つのタイプに分かれます。台湾など南琉球にO2が多くみられ、漢民族の華北にO3が多くみられることより、日本に渡来した弥生人は台湾・沖縄・九州と海伝いに渡来したグループと華北・遼東・朝鮮半島を経由して渡来したグループに分かれることが判ります。
いずれにしろ、北方から渡来したと思われるCタイプとNタイプ、先に南から先住したとDタイプ、最後に渡来したOタイプと様々な祖先が日本列島で混在し、現在の日本人を作っているのです。

<2章 倭人は海を渡る。>続く

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何? 
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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