経済から見る歴史学 日本編 01-5 邪馬台国って、どこにあるの?
経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 5章「邪馬台国って、どこにあるの?」
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5.邪馬台国って、どこにあるの?
畿内説や九州説、沖縄説など沢山の書物が出されております。しかし、日本に残る文献は少なく、もしか
すると古墳の中に記録が残っているのかもしれませんが、それを知る術はありません。どこがに抜本的な
発見がない限り、邪馬台国の論争に決着が着くことはないでしょう。しかし、中国の文献から邪馬台国の
位置を推測するのは可能であります。
中国の文献には倭人や邪馬台国に関する記述が多く残されています。
特に三国志魏書には、邪馬台国(邪馬壱国)を中心とする国々やその風俗、女王卑弥呼の存在など、当時の倭国の様相が、二千余文字を割いて紹介されております。
・男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
・その風俗は淫らではない。
・男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
・着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
・稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
・牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
・兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。(和弓#弓の種類参照)矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
・土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
・家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
・人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
・倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
・真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、予樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投(とう、不明)・橿(きょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は、篠(じょう)
・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘何(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
・特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
・集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
・敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
・長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
・身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
・女は慎み深く嫉妬しない。
・盗みは無く、訴訟も少ない。
・法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
・宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。
〔邪馬台国〕(ウィキペディアより)
縄文人が様々な人種で構成されていることはDNAの説明でも判るように、1万6000年前から3000年前まで気候変動と共に北や南に居住地を変えながら多様な民族と交流を重ねて1つの民族となって行きます。
紀元前10世紀に中国の王朝である殷が西方の遊牧民国家の周によって滅び、殷の貴族が朝鮮半島へ移封されて半島北部の先住者と混じり合って箕子朝鮮が誕生します。殷は商王朝と呼ばれるように商人の語源である。殷が滅亡した後に商(殷)人が各地で物を売り歩いたことに由来する。朝鮮半島に移動した商(殷)人が海を交通手段として倭人を利用しない訳もなく。また、倭人に様々な物を売り歩いたと考えれば、商(殷)人が最初の弥生人であったと簡単に推測できます。
さて、その殷を滅ぼした周も10代厲王の時代に衰退し、小国が乱立する春秋時代に突入します。
〔春秋時代の諸国〕(春秋時代 ウィキペディアより )
周から分裂した諸侯が斉、晋、秦、楚、宋、呉、魯、曹、衛、虞(グ)、蔡、陳、莒(キョ)、鄭(テイ)、越、燕、中山など百数十カ国を立ち上げて行きます。そして、制圧や併合など戦乱の末、戦国末期まで残ったのは秦・楚・斉・趙・魏・燕・韓の七国となります。国が滅びるとその一族が四散し、その一部が朝鮮や倭国へ逃避行した国もあるでしょう。
その中で最も日本に渡来したのが呉越の民でしょう。紀元前600年頃に越(えつ)が成立し、同じく紀元前585年頃に呉(ご)が成立し、度々抗争を繰り返します。呉越の民は中国長江流域で起こった文明の民であり、海洋技術を持ち、稲作伝来など縄文人と深い繋がりの民でした。
呉が勢力を伸ばすと、越は滅びる寸前まで追い込まれます。越の王子、勾践は「寝る時は薪の上に寝て復讐を忘れないようにした」という『史記』呉太伯および越王句践世家の『臥薪嘗胆』はここから生まれます。滅ぼされそうになった越の民は海を渡って日本に渡来したことでしょう。しかし、越の勾践は呉王が覇者になるために北に赴いている隙に呉を攻めて、遂には紀元前473年に呉を滅ぼしてしまいます。呉の民は難を逃れる為に海を渡って日本に渡来したことでしょう。こうして春秋時代から戦国時代に掛けて、多くの渡来人が海を渡ったことでしょう。
次に訪れたのが徐福であります。
徐福は紀元前3世紀、司馬遷『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝の命を受けて、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述があります。
さて、日本に徐福伝説は、
青森県 小泊村
秋田県 男鹿市
山梨県 富士吉田市 山中湖村 河口・吉田 河口湖村
東京都 八丈島 青ヶ島
静岡県 清水市
愛知県 名古屋市熱田 小坂井町
和歌山県 新宮市
三重県 熊野市
京都府 伊根町 (浦島太郎伝承地)
広島県 宮島町
高知県 佐川町
山口県 上関市祝島
福岡県 筑紫野市 八女市
佐賀県 佐賀市金立町 諸富町 武雄市 山内町 伊万里市 富士町 有明町
熊本県 金峯山
宮崎県 延岡市 宮崎市
鹿児島県 串木野市冠岳 坊津町 屋久島町
と全国に広がっております。中でも注目すべき所は、佐賀県の伝承地の多さと京都の浦島太郎伝承地、不老長寿の山と言われる富士(不死)を冠する山を巡っている点です。
渡来した弥生人は4世紀後半まで北九州当たりから広がって日本全国に至りますが、諏訪湖周辺の中部山地から関東に向けて停滞しておりました。それが突然進み始めます。それは高天原から遣って来たタケミカヅチの国譲りの伝承と同じ経路を辿っております。タケミカヅチはアマテラスの使者であり、オオクニヌシはスナノオの子供です。アマテラスとスサノオは同じイザナギから生まれた姉弟であり、高天原から遣って来たという点も同じです。
いずれしろ、紀元前3世紀頃に新弥生人が全国に広がり、徐福伝説もまた全国に広がっております。
紀元前206年、秦の始皇帝が中華を統一して20年で秦は滅び、前漢に追われた秦王朝の関係者が四散します。その一部が朝鮮半島へ逃れたと思われます。衛氏朝鮮(えいしちょうせん)は紀元前195年頃から紀元前108年まであった朝鮮最初の王朝と言われ、中国の燕に出自を持つ衛満(えいまん)によって建国されたと言われます。同じ頃、朝鮮半島の南部に辰国(しんこく)の名が現われます。そして、漢の武帝時代(紀元前前141年~紀元前87年)に漢から衛氏朝鮮が侵略を受けると、衛満の孫の寓居王は辰国に亡命します。その辰国も馬韓月支国の辰王に滅亡させられます。
この月支国が孝霊61年に朝鮮半島から船団で来襲したという伝承が日御崎神社に伝わっております。孝霊天皇(こうれいてんのう)〔前342-前215〕は神武天皇から数えて7代目の天皇であります。
いずれにしろ、中華で騒乱が起こると玉突きのように押し出されて日本に弥生人が渡来したと思われるのです。そして、縄文時代にはなかった国という認識を日本に伝えたのです。こうして、北九州、南九州、出雲、近畿、関東、奥州と多く100以上の国の乱立したのです。
未だ研究途上のヲシテ文字は縄文文字とされる一方で造語と言われる一面があります。縄文人が意外と文化的であったという研究が進むにつれ、縄文時代に文字が存在しなかったというのは不合理と思われます。況して、弥生時代に入り、渡来人が多く日本に定住しても8世紀以前の文献が見つからないのは不自然極まりありません。日本書記を編纂した藤原氏が古代文献を禁書として葬り去ったと考えるのが妥当でしょう。これからの研究が待たれます。
さて、そのヲシテ文献を元に造られたのが、下記の日本地図です。
〔ヨシテ時代カミノヨの地図〕(ヲシテ文字が消されたわけ びーちぇの「ヲシテのクニ」)
〔小笠原長武写本によるホツマ文字の標準字形〕
〔ヲシテ構造図〕
〔宇宙創成時の神々―四十九の神の働きと天界鎮座図〕
ヲシテ文献ではナカクニ(アワ)とコエ(ヤマト)が二大勢力だったようです。
さて、三重県松坂市嬉野地区貝蔵遺跡にて発掘された最古の墨書文字です。
〔三重県松坂市嬉野地区貝蔵遺跡の土器〕(ふじぎな文字 びーちぇの「ヲシテのクニ」)
この土器は2世紀後半とされていますが、黒々と土器に漢字では「田」の字と思われる字が書いています。ヨシテ文字なら『ノ』に当たります。しかし、渡来人が多くいた日本なら2世紀後半ですから殷の甲骨文字、先秦時代の漢字であった可能性は否定できません。
〔秦代・木牘〕(秦代・木牘(『文物』2003年第1期より 古文字とは?))
いずれにしろ、饒速日命(ニギハヤヒ)が物部の祖先であることは否定しませんが、何かの文献を鵜のみするのは危険なようです。
さて、それらを踏まえて改めて邪馬台国がどこにあったのかを推測してみましょう。
魏の時代、邪馬台国は狗奴国(くなこく)と戦っていた。魏書東夷伝に記載されている邪馬台国と対立していた倭人の国、狗奴国は倭国で邪馬台国の尽きるところである奴国の南に位置するとある。(注1.畿内説では大和と熊野と分けている。)
建武中元2年(57年)、倭奴国の使者が、貢ぎ物を奉げて光武帝のもとに挨拶に行き、使者は大夫と自称し、倭奴国は倭国の一番南の地であると言っている。このとき、光武帝が『漢委奴国王』の金印を下賜している。
〔国宝「漢委奴国王」の金印〕(筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島))
日本の南の地は現在の九州に当たり、狗奴国は邪馬台国の南とありますから南九州と推測できます。つまり、残る北側、北九州が邪馬台国の位置になります。しかし、奴国と邪馬台国の間には181年の隔たりがあり、同一の国あったかどうかは不明であります。もちろん、邪馬台国が倭国の王であったかは別の問題であります。
『三国志』魏志公孫淵伝によれば、景初2年8月23日(238年)に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠されると、邪馬台国の女王・卑弥呼は帯方郡への使者を送って、魏との交流が再開されました。
このとき、邪馬台国は魏国より『親魏倭王』という称号を貰ったことが重要だったのです。邪馬台国は魏国の権威を借りて倭国の王足らんと欲しました。それに対して倭国の小国王が従ったかどうかは判りませんが、邪馬台国か、狗奴国のどちらかを通らなければ、中華と通商も交易もできないという事実がありました。
一方、狗奴国は南方航路を確保していましたから邪馬台国と対峙しております。
〔邪馬台国と狗奴国は、魏と呉の代理戦争をしていた〕
呉が狗奴国を支援したという資料は発見されていませんが、呉国の孫権が即位した年に不老不死の薬を求めて、衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)が倭国へ派遣しています。衛温と諸葛直は現地の住民も3000人も捕えて帰ってきますが、結局、亶州(日本)に到達できず、疫病で8000人の兵士を失うとう徒労に終わっています。しかし、呉が倭国に到来していたことを示す証拠として、呉の紀年銘鏡が2面日本で出土しています。(山梨県取居原古墳出土の赤烏元年銘鏡、兵庫県安倉古墳出土の赤烏七年銘鏡の対置式神獣鏡)
赤烏元年銘鏡の赤烏元年は238年で魏の年号では景初2年に当たり、赤烏七年は244年であります。
間違いなく、魏と邪馬台国が交流した時期に呉国も倭の小国と交流していたのです。呉の孫権は遼東の公孫氏に使いを再三遣わし、魏を牽制しております。しかし、公孫氏が滅びると倭国との交流も乏しくなったとようです。
では、邪馬台国と対立していた狗奴国とは何なのでしょうか。
半島の言葉で狗とは「大きい」という意味で、「狗奴国」とは「大奴国」という説明を見つけました。しかし、私は『狗』は小さい犬という意味で「小奴国」ではないかと考えます。邪馬台国から見た蔑みの言葉のように思えます。いずれにしろ、奴国が伊都国(注2)に滅ぼされ、その敗残勢力が筑後川を越え九州山地を横切って九州南部に拠点を移したのではないでしょうか。
そう考えれば、神武天皇の東征に正統性が生まれてきます。南九州の熊襲族も旧王家の奴国に協力するのも頷けます。
では、邪馬台国とはどんな国だったのでしょうか。
3世紀に帆船が登場するまで、手漕ぎ船が使われておりました。1日に50km程度が限界であり、夜は陸に上がって休養と船の手入れが必要になります。福岡―対馬―釜山を結ぶ対馬海峡ルートか、沖縄諸島を結ぶ太平洋ルートの2つしか、大陸との扉はありません。
つまり、大陸への玄関口を持つ邪馬台国と天候を司るシャーマンの卑弥呼は、神に等しい存在だったのです。国力では邪馬台国を凌ぐ国もあったでしょうが、大陸とのルートを確保する為にも、邪馬台国と同盟関係を維持する必要があったと考えられます。
邪馬台国が勝手に『親魏倭王』の称号を得ることを苦々しく思う国もあったかもしれませんが、大軍を持って邪馬台国ごと滅ぼそうという大国もなく、もう1つの玄関口を持つ狗奴国以外は対立していなかったのです。
つまり、邪馬台国も大国ではなく、始祖の国として、大陸の玄関口として、倭国にとって重要な国の1つでしかなかったのです。そして、3世紀に帆船が登場すると、北九州も出雲も地理的な優位性を失って、時代の中に埋もれてゆくことになります。
(注1).もしも邪馬台国が畿内であったなら、邪馬台国と狗奴国の争乱は倭国を二分する大乱であったことになります。
〔畿内に邪馬台国があったなら〕
紀元3世紀までは帆船がなく、すべて手漕ぎ船でした。手漕ぎ船は最低でも50kmごとに同盟国を持たないと運営できません。つまり、畿内に邪馬台国があった場合、日本海ルートはすべて邪馬台国の支配権でなければなりません。そうなると熊野だけでは小国過ぎます。伊勢湾全体を支配地にした狗奴国が存在しないとなりません。これだけの大国が文献には、邪馬台国の南以外は一切触れられておりません。これは矛盾であります。
(注2)伊都国:『魏志倭人伝』には、 「東南陸行五百里 至伊都國。官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。
有千余戸 丗有王 皆統属女王國。郡使往来常所駐」〔(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)という。1000余戸の家がある。世々(丗)に王があるも、みな女王國に統べて属する。帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、ここに常にとどまる場所である。」〕とある。糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力であり、共に卑弥呼の支配下にあった諸国の1つと思われる。しかし、「奴国説」と「伊都国説」などの様々な説があり、2つを同一視する考え方もある。
『イト』は3世紀の歴史書である魏志の倭人伝の中に『伊都国』として登場している。奈良時代の古事記、日本書紀には『伊都』と書かれ、以後『怡土』、『絲』、『糸』へと移り変わって来た。
〔記録された伊都国の変遷〕
表 記 出典 成立年代 編 者
・伊都国 魏志の倭人伝 3世紀 陳寿
・伊斗村 古事記 712年 太安万侶
・伊都県主 日本書紀 720年 舎人親王
・怡土城 続日本書紀 797年 菅野真道
・怡土郡 倭名抄 797年 源順ら
・絲州太守 海東諸国記 1471年 申叔舟
〔伊都(いと)国〕(魏志の倭人伝の伊都(いと)国より)
共に卑弥呼の支配化にあった奴国と伊都国が戦い、奴国が滅ぼされて、逃げのびた奴王の孤児が南九州で狗奴国を作って抵抗を続けたのです。
しかし、邪馬台国が畿内にあったという説は根強くありますが、それもそのハズです。邪馬台国=ヤマト国と読めますから、邪馬台国は畿内にあったと言うのも事実なのです。
正確に言いますと、女王卑弥呼が治めた邪馬台国は3世紀まで北九州を中心に栄え、4~5世紀に畿内にあったナラ(奴国・那羅、あるいは狗奴国)の王朝が邪馬台国を攻め滅ぼして従わせ、自らをナラからヤマト(邪馬台国)と改めたのです。
こうして、畿内の大和王朝(新邪馬台王朝)が誕生したのでありました。
第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?
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