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経済から見る歴史学 日本編 01-4 古代先進国の倭国

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 4章「古代先進国の倭国」
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4.古代先進国の倭国
1万6000年前から3000年前の縄文文化、紀元前10世紀から3世紀中期まで続く弥生文化、3世紀中期から7世紀までの古墳文化、日本の古代は主に3つに分かれます。しかし、残念ながら詳しい文献は多く残っておりません。検証しようにも検証できないというのが実情であります。ただ、縄文文化が狩りなど営む原始的な暮らしではなかったことが最近の遺跡発掘から判ってきました。
遺跡から出てくる食糧の数々から多様な食材が伺われます。米・栗・粟・胡桃・団栗(どんぐり)類・根菜類など採取し、鹿・猪・キツネ・アナグマなどの中小型獣を食糧にしていますが、それ以外にもイルカなどを集団で狩っていたと思われるからです。
真脇遺跡から発掘されたカマイルカ・マイルカなどイルカ類の出土固体数は、前期末~中期初頭の層で285頭に達しています。これは一人で漁をする量を越えています。春から秋に掛けてイルカの群れがやってくると、回りの村々が集まってイルカを囲い込んで入り江に追い込む漁が行われます。少なくとも6000年前にはイルカ漁が始まっていたと思われます。
長野県に残る『御柱祭』には3000人の氏子が集団になって木を引いていますが、これと同じように縄文人は集団で何かを行うことができる集団であったことが判ります。
縄文時代、朝鮮半島と九州の対馬海峡は手濃きの小型船で横断しておりました。福岡を出た船団は壱岐の北岸に向けて50kmを漕ぎ進み、壱岐の西を回り込んで海流に乗って対馬の厳原を目指します。対馬を横断すると、釜山まで海流に乗って漕ぎ進めます。
帰路は釜山から巨済島の西端に移動し、同じく海流に乗って対馬を目指します。対馬に到着すると厳原に移動し、厳原から壱岐の原の辻を目指します。そこから福岡まで海流に乗って漕ぎ進めば到着です。
117_5
〔対馬と半島の距離〕(倭国の入口、対馬への旅路、日本と湯屋だのハーモニー)
117_4
〔対馬海峡の距離〕
当時の福岡(菜の津)は小さな村でしたから、そこから東の糸島や唐津に移動することになります。
邪馬台国の時代では、100隻近い船が船団を組んで対馬海峡を渡りました。イルカ漁もそうですが、季節・天候・海流の流れなどを把握しなければ、手漕ぎの船はあっという間に遭難してしまいます。夏・殷・周・秦・漢の時代は、そんな危険な海に興味などありません。また、中国大陸の王朝に海を越えて逃げる倭人を追い駆ける技量もありません。陸路は朝鮮半島まで支配しましたが、海上は倭国の独壇場だった訳です。
さて、『魏志』(倭人伝)は倭国の物産について「真珠・青玉を産出する」と書かれております。そして、景初二年(238年)に公孫氏が敗れ、「倭・韓」を統属していた帯方郡が魏の領有になったことで、邪馬台国の卑弥呼はさっそく使者を洛陽に送ります。
「景初二年六月、倭の女王は大夫難升米らを遣わし郡に詣り、天子に詣って朝献せんことを求める。太守の劉夏は吏を遣わし、将いて送って京都に詣らせる。」
卑弥呼の使者は「男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈」を献上したと書かれております。ここで重要ポイントです。
班布二匹二丈???
男生口四人・女生口六人は奴隷ですから然程めずらしいものではありませんが、『班布二匹二丈』という文言をツイツイ見過ごされることが多くあります。
そもそも『班布二匹二丈』とは、どんなものでしょうか?
当時の長さの尺度は、「漢書 食貨志」に「布帛は横二尺二寸を巾として、長さ四丈を匹とあります。
一匹 = 二反 = 四丈 = 約 9m20cm
一反 = 二丈 = 約 4m60cm
一丈 = 十尺 = 約 2m30cm
一尺 = 十寸 = 約 23cm
二匹二丈 = (四丈)×2 + 二丈 = 十丈 = 約 23m、二尺二寸 = 約 50cm
つまり、 「二匹二丈」 の布というのは、全部つなげると『巾:約 50cm 、 長さ:約 23m』の布ということになります。
布を織るというのは、「牽牛織女」の物語にもあるように古来女性の仕事であり、神々に献上する貴重なものでした。
卑弥呼の遣使に対して、魏の朝廷から下賜されたものは、
絳地交龍錦五匹・絳地粟十張・絳五十匹・紺青五十匹
卑弥呼個人に対しての下賜品のなかに
紺地句文錦三匹・細班華五張・白絹五十匹
第二回目の朝見のときに送られたものは、
倭錦・絳青・緜衣・帛布
壱与が帰国する張政等を送るためにつかわした使いが魏の都まで行って献上したのが、
異文雑錦二十匹
と、『三國志 魏書 卷三十 東夷伝 倭人』には書かれております。織物がどれほど貴重なものかお判りでしょう。幅50cm、長さ23mの織物を作るのにどれほどの労力がいるのか想像も付きません。
『新唐書』(日本伝)に、
「その東の海嶼の中に、また邪古・波邪・多尼の三小王がいる。北は新羅を距て、西北は百済、西南は越州に直る。糸絮と怪珍ありという。」
とあり、ここに「糸絮」と特記しているのは、「倭錦」や「異文雑錦」など珍しい倭国産の絹織物が、弥生後期から続々と中国に流入し珍重された事実を示唆してくれています。

さて、邪馬台国の献上品に『魏志』(倭人伝)によれば、女王台与は大夫の掖邪狗ら二十人を中国に遣わし、「異文雑錦」とともに、「白珠五千孔青大句珠二枚」を献上していると書かれております。
白珠は海の宝石である真珠でしょう。孔は緒を通す穴が穿たれてあったとすれば、5000個の真珠のネックレスというところでしょうか。
青大句珠は山から採れる「勾玉(マガタマ)」のことではないだろうか。青く大きな勾玉となれば、翡翠を思い浮かべます。日本の翡翠は縄文時代前期末ことから出現し、弥生・古墳時代は多くの装身具として勾玉が作られています。
中国では玉は古代「禺氏(ぐうし)の玉」と呼ばれ珍重されました。この玉を中国にもたらしたのが「月氏」と言われます。殷周時代には儀仗的玉器、服飾としての佩玉が作られました。この玉は光を当てると不思議な色に光り、死者を不死の世界へ導くものとして重宝されまた。それゆえに権威の象徴とされ、秦の始皇帝や漢の王が好んだのが玉です。『韓非子』(和氏篇十三)や『史記』に記される『和氏の璧』の話は有名であり、15城もの価値がある璧だと「連城の璧」と称されるようになっております。また、仏教伝説として、あらゆる願望を意のままにかなえる「如意宝珠」として中国に伝わったことが影響しているのかもしれません。この翡翠を献上品としていたのです。
因みにこの翡翠の硬玉はモース硬度で6.5 - 7、軟玉は6 - 6.5であり、鉄より堅い物質であり、この翡翠に穴を開けて加工するには、高い技術力と長い時間が必要でした。
いずれにしろ、倭人は集団で行動できる統率力がある国であり、反物や真珠、翡翠を献上できるほどの技術集団が倭国にいたことが判ります。倭国は決して蛮族が支配する国ではなく、技術力を持った先進国に1つであったことが、『班布二匹二丈』や『白珠五千孔青大句珠二枚』から読みとれるのです。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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