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経済から見る歴史学 日本編 01-2 倭人は海を渡る。

経済から見る歴史学 日本編 古代の通貨って、何? 2章「倭人は海を渡る。」
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2.倭人は海を渡る。
中国の黄河・長江・遼河文明と呼ばれる文明が生まれたのは、紀元前7000年から紀元前5000年頃と思われます。そして、国家と呼ばれることが生まれたのが現在の河南省付近である夏〔か〕(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)であります。この夏を滅ぼして生まれたのが殷〔いん〕であり、商王朝と呼ばれていました。商売の語源となる王朝です。
この商は石器時代から青銅時代へと飛躍させた王朝であります。甲骨文字を操り、南方の海から入手した希少な子安貝の貝殻を貨幣とした貝貨を使っておりました。まさに文明の始まりを作った王朝と言えるのです。そして、殷の時代が終わると、周〔しゅう〕の時代へと変わります。
周と言えば、何と言っても『太公望 封神演義』の話が有名です。
殷(商)の紂王の治世で妲己(だっき)と呼ばれる九尾狐の妖魔に心を奪われ、紂王は暴君へと変貌する。崑崙山の仙道を学んでいた太公望は、周国の丞相となって殷(商)の妖怪を倒してゆき、周王朝を作り上げます。この周が衰退すると、秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓が乱立する春秋時代へと移ってゆきます。
その中の燕〔えん〕(紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は、現在の河北省北部から東を支配しております。

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〔紀元前260年の戦国七雄〕(燕 (春秋)ウィキペディア)
その燕の漢書地理誌、王充が著した『論衡』(ろんこう)に
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず
「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず
「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
また、秦・漢時代の地理書『山海経』(せんがいきょう)に
「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」(山海經 第十二 海内北經)
蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。 倭は燕に属す。
と、倭が燕に属していたという記述が見られます。
また、漢書地理誌は、燕の項目として倭人について記す前に、
「東夷は天性柔順で、三方(南北西)の外(の民族)と異なる。故に孔子は(中国で)道が行われない事を悼み、海に浮(船)を設けて九夷に居さんと欲した。理由があることだ。」
と記しております。
それにしても随分遠くまで倭人が行っているなと思われる方も多いかもしれません。しかし、考え方はまったく逆なのです。当時の感覚では、海というのは風や雨などのちょっとした変化ですぐに難破して命を落とす危険な場所であり、陸で住む人間には理解できないのです。つまり、手つかずの海岸すべてが倭人の住む生活圏だったのです。
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〔倭国の支配地〕
図に倭国と書いていますは統一された国家ではなく、部族同士の共同体に近い関係であります。なぜ、共同体であったのかというのは乗っていた古代船に秘密があります。倭船は木を組んで作られております。おそらく最初は木をくり貫いたような小型船だったのでしょうが、時間と共に木を組んで作る中型船へと進化します。
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<古代船>
古代船『なみはや』は、材質:米松 全長:12m 幅:1.92m 高さ:3m 重量:約5tであり、宮崎県西都市・西都原古墳群第169号墳(5世紀後半)から出土した船型埴輪をモデルに再現された船ですが、1989年(平成元年)7月8日に大阪港天保山を旅客船「コーラルホワイト」を母船とし、警戒船「のじぎく」と船団を組んで出航し、大阪市大の漕艇部員8名が漕ぎ手を務めて、瀬戸内海の本州側から関門海峡をくぐり、福岡、呼子、壱岐、対馬、そして朝鮮海峡を渡って、8月11日に韓国の釜山港に無事入港しました。
この航海で50cmの波でもバランスを崩す非常に不安定な船体であり、重しを積むことで喫水を下げてバランスを取りました。また、帆を張るというのは現実的ではありません。さらに8人の漕ぎ手が一生懸命に漕いでも中々進みません。夜間に他の船に牽引してもらって釜山に到着したのです。
古代人たちは気象条件や波の流れなどを把握して、1日20kmから50kmを移動しながら夜は陸揚げしていたと考えられます。バランスの悪い船体ですから波風が強い日など転覆の恐れてあり、座礁も考慮すれば、陸上げしないと危険です。この船底は平らになっているには陸揚げし易くなっている為なのです。
つまり、一部族は海岸沿いに20kmから50kmの範囲で村を形成し、数珠繋ぎのように広がっていたことが伺われます。その1つ1つが国を形成していたのではないでしょうか。『漢書地理志』によると、紀元前2世紀から紀元前後ごろにかけて、倭人が定期的に漢の楽浪郡を介して(前)漢王朝へ朝貢しており、100余りの国が存在していたと書かれています。
当時の大陸人は小高い丘に住居を構えていましたから、海岸部で住居を構える倭人との諍いは余りなかったと考えられます。
夏(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)、殷(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)、周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)と続く古代中国の世界に倭人と呼ばれる縄文人達は、海を自由に行き来する者達だったのです。

第1幕 <縄文・弥生時代>古代の通貨って、何?
1章 日本人がどこから来たのか?
2章 倭人は海を渡る。
3章 稲作の伝来?
4章 古代先進国の倭国
5章 邪馬台国って、どこにあるの?
6章 大型の帆船
7章 神武の東征(前篇)
8章 神武の東征(中篇)
9章 神武の東征(後篇)
10章 朝鮮三国情勢と倭国
10章―1 高句麗(こうくり)
10章―2 百済(くだら)
10章―3 新羅(しらぎ)
10章―4 古代朝鮮三国の年表
11章 邪馬台国の滅亡とヤマト王朝の繁栄
12章 古代の通貨って、何?

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