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上念司 経済で読み解く明治維新の概略2

概略1:第1部 江戸時代の経済、第1章「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」 

 

概略2:第1部 江戸時代の経済、第2章「江戸幕府の慢性的な財政難」 

 

概略3:第2部 大名と百姓 

 

概略4:第3部 江戸幕府の滅亡 

 

概略5:まとめ

次に続く

後ろに戻る

【経済で読み解く明治維新】

~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~

第1部、江戸時代の経済

第2章、「江戸幕府の慢性的な財政難」

この2章を要約するならば、

・三河武士は馬鹿だった。

 

・豊臣政権を略奪したツケを後で払わされた。

 

・金銀で奪った天下であった。

この3つにまとめることができます。

三河武士と私が要約しましたが、三河でなくても貨幣経済というモノを理解していた者はいなかったでしょう。商人を始め、一部の武士にはそれを理解した者がいました。その成功者が織田信長、羽柴秀吉であり、それが太閤豊臣秀吉政権へと繋がるのです。信長・秀吉は経済を支配することで天下を統一し、統一の過程で道を整備され、貨幣も統一されました。これが経済の発展に繋がったのです。

上念氏は、

①物流の自由

②決済手段の確保

③商取引のルール整備

この3つの社会インフラが整ったことで、経済が発展したと書かれています。しかし、「経済で見る歴史学」を知らない方々にはピーンと来ないでしょう。

軽く復習をしてみましょう。

<聖徳太子から始まった貨幣経済>

日本の貨幣経済は、聖徳太子が送り出した遣唐使が持ち帰ったと思われる銅銭『開元通宝』から始まったと思われます。そして、国産の銅銭『和同開珎』が作られ、一日の労働を一文(米2kg)と定めます。銭を使うと現物をすぐに用意する必要がありません。平城京遷都などで大量に人夫が必要だった政権は現物のない米の代わりに銅銭で支払ったのです。この当時は、米・布が基準通貨でしたから、これに銅銭が加わった訳です。

しかし、760年(天平宝字4年)には万年通宝が発行され、和同開珎10枚と万年通宝1枚の価値が同じものと定めたことで混乱が生じます。ほとんど、同じ材質で価値が違うというのは当時の人間には受け入れられないことでした。

この当時の銅銭は溶かす教典を入れる銅管が作れます。銅の保管という意味でも銅銭は役にたっていました。つまり、金・銀・銅・鉄と言った鉱物は、その鉱物に価値があった訳です。ところが万年通宝には、いきなり10倍の価値があると言った訳です。経済は混乱し、万年通宝の価値は認められずに和同開珎万年通宝は同価値であるということを政権が後追いで認める事態が起きています。

それは江戸時代でも同じでありました。萩原重秀が行った貨幣改鋳では、2枚の小判を3枚に替えるものです。

「物質が落ちたのに、同じ価値とはこれ如何に」

新井白石などは、朝鮮人参との取引などで混乱をきたしたことを例に上げて、萩原重秀を糾弾します。しかし、江戸時代と平城時代では1つ条件が異なります。それは織田信長が貨幣以外での取引を禁止したからです。つまり、米や布を貨幣の代わりに使うことが出来なくなっていたのです。

現代に置き換えるなら、スーパーで買い物をします。

「お買い物は1700円になります」

「じゃあ、1700円の価値の米10kgを置いてゆくよ」

「ありがとうござます」

こんな光景が日常にあった訳です。つまり、信長以前は米や布をお金の代わりに使っても良かったのです。それを信長が貨幣に交換してから物を買うようにしました。この貨幣経済を徹底させたことが大きな意味を持ちます。

もちろん、萩原重秀が一枚の小判から10枚の小判を作っていたら、どうなっていたか判りません。

考えてみれば、当たり前ですよね!

国民一人当たり10万円を配ったとしてもそれは税金を返しただけであり、単なる減税です。しかし、一人当たりに1億円を配ったとします。国民全員に宝くじが当たったのと同じです。1億円もあれば、車くらい買っても減りませんから誰も車を買うでしょう。すると車の数が足りません。ディラーは車の値段を上がります。あっというまに一台が300万から500万、800万円になるでしょう。スーパーのキャベツも取り合いになり、1個十万円に値上がりするかもしれません。一枚の一万円札の価値があっと言う間に目減りしてゆくのです。これがハイパーインフレという奴です。

紙幣を大量に刷れば、紙幣の価値が暴落してハイパーインフレが発生します。タイの国でリュック一杯の紙幣と同じ重さの米が交換される『アジア通貨危機』を覚えている方はいるでしょうか。

つまり、萩原重秀が2枚の小判を3枚にする貨幣改鋳は、物価のインフレ率と通貨不足を解消する過程で許容範囲だったから容認されたのです。

聖武天皇の死後2年、760年に孝謙上皇が「万年通宝」の発行に踏切り、さらに5年後の10倍の「神功通宝」が発行されます。

「和同開珎」100=「万年通宝」10=「神功通宝」1

このようにして、貨幣の価値を根幹から潰された日本では、以後150年間も黄金(コガネ)の国にお金がない(貨幣を使わない)国となってしまったのです。

<平清盛の貨幣経済復活とデフレ経済>

平安末期になると武士が力を付けてきます。

平氏は宋貿易を盛んにし、宋銭を大量に輸入するようになります。宋銭は精巧な銅銭であり、日本の技術では同じものを造ることができません。つまり、偽物を作ることができない信用力に高い銭の出現です。

宋銭を大量に出回ると再び貨幣経済が活性しました。ところが宋銭は宋舟を出さないと手に入りません。宋銭の流通が広がり、西国で使われるようになると、貨幣不足が発生します。宋銭の価値が上がるデフレ(通貨不足)経済が発生します。宋舟を出しているのが平家ですから、宋舟が帰ってくる度に平氏には巨万の富が流れ込みました。しかし、東国では慢性的な宋銭不足が起こり、物資が手に入らない事態になったのです。西国が富み、東国が貧する経済格差が起こったのです。これに怒った東国武士が源氏を担ぎ出して平家を倒し鎌倉幕府を打ち立てます。

<鎌倉幕府の文化開花と振り出しに戻った貨幣経済>

鎌倉幕府は土地の分轄することで主従の関係を築きました。主な収入は調停料(紛争などを治める役)としての年貢です。宋貿易も続きますが、平家ほど積極的でなかったので銭不足から渡来銭を真似た銭(島銭、鋳写鐚銭)の鋳造が行われます。撰銭(えりぜに)と呼ばれ、これら粗悪な銭貨は「鐚銭」(びたせん)又は「悪銭」(あくせん)とされて、一時は鐚銭四枚で一文とする取り決まりがなされたとあります。銭の取引もなされる中で米や布の方が安定通貨として使われるように戻りました。

ところで平氏が持ち帰った宋貿易には様々な文化もあり、民衆の中に大衆文化が生まれ始めます。また、これが発火点となり、鎌倉仏教(浄土宗、日蓮宗など)の華が開いていきました。この緩やかな大衆文化が組合や互助会といった性質の惣(そう)になるのは室町時代を待つことになりますが、大衆に大きな変化が現われてきます。商人の前進となる様々な職種の登場や地侍といった新興勢力が成長する時代でありました。

鎌倉幕府は年貢を税収とする脆弱な財政でありまして、元寇のような外敵が襲ってきたことにより財政破綻をきたします。つまり、どんなに幕府の役に立っても褒美を貰えない。そんな不満を募らせた地侍が悪党という集団を組んで幕府に抵抗を始めます。

<鎌倉幕府の討伐と後嵯峨天皇の宋贔屓>

元寇の為に度重なる出費に鎌倉幕府は財政破綻を起こします。給金を貰えない武士が反乱を起こしました。反乱軍討伐の武士を組織して反乱を治めると反乱軍討伐の武士に払う給金が足りないので、またその武士が反乱に加担をする。ねずみ講のようなエンドレスの財政危機に襲われたのです。

そうした中に楠木正成など悪党と朝廷の後嵯峨天皇が繋がって鎌倉幕府運動へと発展します。この運動が成功し、後嵯峨天皇を中心とした建武の新政が始まります。この旗頭であった後嵯峨天皇は宋国への憧れが強い方でして、強力な中央集権国家を作ろうとしたのです。

建武の中興

・院政、幕府、摂政、関白のすべてを無くして、天皇にすべての権限を集中させる。

・すべての土地は天皇の綸旨(天皇の命令)で定める。

・記録所(記録荘園券契所)や雑訴決断所(引付衆のような機関)で管理を一元化する。

・東北地方に陸奥将軍府、関東地方に鎌倉将軍府を作り、皇子を派遣する。

武家のしきたりを無視して、中央集権体制の人事に代えてゆきます。何と言ってもすべての土地を一旦天皇へ返上するといった天武天皇以来の大号令はを掛けたので、地方の豪族は大慌てです。持っている土地をすべて奪われては堪らないと失脚しかけた足利尊氏の元に結集して後嵯峨天皇に対抗したのです。

教科書では建武の新政を「人事を混乱させた」だけの政策と余り評価していませんが、決してそんなことはありません。ただ、問題なのは軍事を武士が担っていたと問題を軽んじていたことです。楠正成や新田義貞などの軍勢を排除した足利尊氏らは緩やかな統治機構の室町幕府を成立したのです。

室町幕府は様々な豪族の寄り合い所帯であり、その連合の棟梁でしかない足利家は直轄領も少なく、小さな力の幕府でした。しかも吉野に隠居した後嵯峨上皇が南朝を設立します。

その土地の権利は、北朝(朝廷・幕府)と南朝(後嵯峨上皇)の双方から発信されるという混乱した有様でした。日本全国で紛争が勃発し、緩やかな未曾有の混乱期に突入します。室町末期には守護同士の争いから応仁の乱を引き押して、戦国時代への門を開くことになります。

紛争だらけの室町時代ですが、実に華やかに文化が開花します。朝廷の力が衰弱すると共に地方の豪族が力を貯め、守護となって跋扈した時代です。大衆も様々な組合の惣(そう)が生まれます。そして、それを後押ししたのが貨幣経済の導入でした。

<日明貿易で開花した日本の貨幣経済>

室町幕府の財政的に非常に脆弱な基盤しかありませんでした。そこで奥州から上納される金を明国に持っていって、宋銭に替える政策を取ります。元を滅ぼした明国は宋銭の使用を禁止した為に、宋銭が大量に余っておりまた。宋銭は非常に精巧な銅銭であり、粗悪な紛い物を作ることができません。つまり、貨幣としての信頼性が高かったのです。

室町時代の物価は、100文で米1斗(14キロ)、1日の労賃も100文余であり、100文あれば、家族が1日生活できたと言われています。

100文の重さは375gです。米俵1俵(60kg=1俵=4斗)が400文(1.5kg)になります。銭1貫(1000枚=3.75kg)を持って歩くのは、米俵2.5俵を持ち歩くのと同じです。これは便利だと思ませんか?

油を買いに行くにしても、鉄を買いに行くとしても、荷車で米俵を引いていくより、銭を使う方が非常に便利です。

・大量の宋銭(共通通貨の出現)

・惣(そう)など大衆組合の成長

この2つが結び付いて、室町文化が花開いたのです。職業の分業化が進み、様々な業種が増えてゆきます。その中間地点となる町も大きく発展してゆきます。室町後期では惣と惣が結び付いて、一揆を起こして守護を追放するほど力を貯めることになってゆきます。

さて、織田信長の貨幣経済が完成するには、もう1つの偶然が必要になります。足利義満が京都の北山に金閣寺を建てた年から(北山文化 1397年)6年後、応永10年(1403年)8月、唐船が相州三崎に漂着しました。その船の中に数千貫文の永楽銭があり、これを接収した鎌倉の管領足利満兼が、「若干の永楽銭を徒らに費やすべからずとて、法を定めて之を用ゆ」として、永楽銭の流通が始まりました。貨幣経済に乗り遅れていた関東・東海地方に一気に貨幣経済の波が押し寄せました。一度、貨幣経済が始まると経済活動が広がってゆき、関東・東海地方の貨幣不足を補う為に次々と送られてゆくようになります。その中継地点であった尾張の国(津島)は、大いに賑わいました。

信長の父、信秀が朝廷の内裏築地の修理費に大枚四千貫文の寄付、伊勢神宮遷宮に材木や銭七百貫文を献上しています。他と比較すると以下のようになります。

【朝廷に献上した主な例】(100疋=1貫)

永正 7年 朝倉貞景 ⇒ 5万疋(即位反鋳)

天文 4年 大内義隆 ⇒ 21.4万疋(即位費)

天文 6年 大内義隆 ⇒ 10万疋(?)

天文12年 織田信秀 ⇒ 40万疋(内裏修理費)<四千貫文

天文12年 今川義元 ⇒ 5万疋(内裏修理費)

天文15年 有馬晴純 ⇒ 3万疋(?)

天文16年 大内義隆 ⇒ 3.2万疋(?)

天文18年 大友義鑑 ⇒ 3万疋(?)

天文19年 大内義隆 ⇒ 3.4万疋(三節会費)

弘治3年 三好長慶  ⇒ 6万疋(大葬費)

永禄2年 本願寺   ⇒ 3万疋(?)

100万石に近い大内義隆でさえ、二千貫文余です。織田信秀の財力が如何に凄かったことが判ります。流通が生み出す利鞘が如何に大きいかを目の当たりにして育った信長が天下の副将軍を蹴ってでも大津・堺を最初に手に入れたようとしたのは訳がありました。それを引き継いだ豊臣秀吉も九州平定で博多を最初に調略しています。

<信長が作った貨幣経済と第六天魔王>

信長は兵の移動と物流の為に本街道三間二尺(約6.5m)、脇道二間二尺(約4.5m)、在所道一間(約2m)と道を改修します。さらに銅銭の不足から来るデフレを解消する為に、金・銀を貨幣に導入する金1=7.5=1500文とする三貨制度を開始します。この三貨制度が完成するのは徳川時代になります。

いずれにしろ、貨幣経済が急速に膨らむ中で貨幣不足から起こるデフレを解消し、貨幣の流通量を増やしたことは驚愕に値します。貨幣経済などという言葉は知らなくても直感で必要なものを感じ取っていたとしか思えません。信長と秀吉はこの財力を持って天下を統一しようとしたのです。

① 物流の自由(交通手段の確保)

② 決済手段の確保(通貨価値の統一)

③ 商取引のルール整備(調停人の存在)

この3つの経済インフラが整備されたことが経済発展に繋がったと上念氏は言っております。私もまったく同じ意見であります。

遣唐使から始まった貨幣経済の流入に信長・秀吉によって完成したと言っていいでしょう。しかし、貨幣経済を理解する武士は皆無であり、秀吉政権でも石田三成や小西行長など少数の武将しか理解していなかったのが実情です。

さて、信長は若かりし頃、津島衆の力を借りで尾張を統一します。この津島衆は後嵯峨天皇が起こした南朝を支持した一族でした。後嵯峨天皇が亡くなると『第六天魔王』となって京の町に猛威を振るったと伝えられます。信長が『第六天魔王』を名乗ったのは、「我は後嵯峨天皇の生まれ変わりなり」と言っているに過ぎないのです。しかし、言魂とは恐ろしいものであります。

呪いでしょうか?

堺や大津といった商家衆を取り込むと、比叡山や本願寺といった神仏衆を敵に回し、さらに幕府を討幕することになります。後嵯峨天皇を隠居させた尊氏の子孫を信長が追放するのです。そして、最後に第106代正親町天皇の第五皇子の誠仁親王の第五王子である邦慶親王(五宮)を信長の猶子にしました。

平清盛のように天皇に織田の妻を送ることで緩やかに朝廷を簒奪し、後嵯峨天皇が夢見た中央集権体制の『建武の中興』が完成したのかもしれません。そして、それを阻止しようとしたのでしょうか。源氏の尊、明智光秀が謀反を起こし、249年前と同じく中興は阻止されたのであります。

<政権を奪った徳川幕府とそれを支えた金銀財宝>

明智光秀を倒した羽柴秀吉は、柴田勝家などを蹴落として織田政権を簒奪しました。このとき毛利輝元や徳川家康らを取りいれる為に中央集権から連合国家へと変化します。しかし、それでも豊臣を中心とする政治体制であることには変わりありません。枡を統一して石高に応じた負担を求め、刀狩などで武器を武士以外が持つことを禁じる。また、国替えで土民と大名の関係を断ち切るなどの政策を断行します。ところが、秀吉が亡くなると五奉行の石田三成と五大老の徳川家康が対立します。

石田三成:大名の権限を抑止する政策、堺衆などを厳しくして流通を独占する政策

徳川家康:大名の権限を保護する政策、流通を自由にして経済を活性化する政策

家康は味方を増やす為に大名たちや商人に媚びを売り、豊臣の財源を枯渇させることを狙った政策を打ち出します。

未曾有の大震災の慶長伏見地震や朝鮮出兵で多額に費用を必要とされた大名の家計は火の車状態でありました。そんな中に悠々自適な生活をしていたのが徳川家康であります。家康は武田を攻め滅ぼした時に金山衆を所有したことが大きな意味を持ちます。

秀吉は1587年に通貨単位を統一と共に金銀山の所有を独占しました。秀吉が直轄した金山の数は21ヶ所、銀山は十ヶ所であり、年間黄金3397枚(1165gとして56.05kg)、銀79415枚だったと示されています。その他の銅鉱や諸役などの献上金は金1002枚、銀13950枚に上ったそうです。豊臣政権が徳川より少ない直轄地200万石で全国を統治するには、流通の独占と金銀鉱山の独占によって成り立っていたのです。

天正18年(1590年)に北条を討ち滅ぼした秀吉は家康に関東への移封を命じます。この時、伊豆に持っていた北条の金山は豊臣の水軍に蹂躙されて廃墟と化しました。この伊豆も徳川の領土となります。

文献には残っていませんが、この年よりこっそりと金山の再建が行われ、関ヶ原の戦いに勝利した翌年には、堂々と彦坂小刑部元成が伊豆の金山奉行を拝命します。しかし、彦坂小刑部元成は余り良い成果を残せなかったようで、慶長11年(1606年)全国金山奉行の大久保石見守長安が伊豆金山奉行を拝命して本格的に伊豆金山の採掘がはじまります。その金の採掘量は年間1tに上りました。黄金3397枚(56.05kg)と比べても桁違いの採掘量であることが判ります。

徳川家康は関ヶ原に勝って幕府を開くことができました。しかし、400万石の大名に過ぎません。もし、長安がいなかったなら豊潤な財源を持たない徳川家は豊臣家を滅亡に追い遣り、267年の長期政権を維持できたでしょうか。おそらく、室町幕府のような脆弱な幕府となっていたでしょう。しかし、金山という潤沢な財源を持った徳川はそれと同等の軍事力を持ったに等しいのです。山師である長安を家康が拾ったことが、家康の天下取りを現実のものとしたのです。

<三河武士は馬鹿でござる>

関ヶ原の戦いで勝利した家康は、豊臣家と豊臣恩顧の大名の力を削ぐことに心血を注ぎます。大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした後も二代将軍秀忠は大名の財力を削ります。また、外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)、さらには弟の松平忠輝(越後高田75万石)、家康側近だった本多正純(宇都宮15万5000石)など、幕府の脅威になりそうな大名、外様23家、親藩・譜代16家を改易して取り潰します。さらに3代将軍家光は外様29家、譜代・親藩20家の合計400万石も取り潰し、幕府の基礎を盤石にしました。

しかし、これだけの権力を思うままにした徳川幕府の財政を見れば、家康の死後に秀忠が受け取った財産は約600万両であり、家光が受け取った財産が366万両です。しかし、家綱が家光から受け取った財産も600万両と言われます。資料によって様々であり、一概に結論を申せませんが、はっきり言えることは1613年に大久保長安の死去以前に全国の鉱山の採掘量が減って、家康は長安の役職を罷免していたという事実です。

推定埋蔵量から逆算して江戸時代の採掘量は金が400kgとされますので、1613年頃には最盛期の半分である500kg程度に落ちていたのではないでしょうか。

いずれにしろ、三代家光の時代では徳川家の財政は赤字となります。しかし、家光は父の秀忠に反発し、大権現様(家康)を尊敬していました。そして、大権現様を敬い、その政策と踏襲することに心血を注ぎます。そして、この50年間の徳川の政策の基礎は267年間も変わることがなかったのです。

現在の財務官僚(元大蔵官僚)は、先輩の決めた政策が間違っていても、それが間違っていると指定することはタブーとなっています。これを打ち破るには非常に大きなエネルギーが必要であり、1つの壁を打ち破るだけで一政権が命脈を断たれていては政策もできません。この日本人の悲しい性がこの江戸時代にできたのではないでしょうか。

家康が商人の規制を緩和したのは豊臣の命脈を断つ為であり、流通の独占こそ豊臣政権の財源だったからです。最も判り易い例が秀吉の『津軽や秋田への米の買い付け』です。

武家諸法度(ぶけしょはっと)

・道路・駅馬・舟梁等断絶無ク、往還ノ停滞ヲ致サシムベカラザル事。

・私ノ関所・新法ノ津留メ制禁ノ事。

・五百石以上ノ船、停止ノ事。

武家諸法度に何気なく書かれている流通の自由は、豊臣の財源を断つ為のものでした。秀吉は徳川ほど多くの金銀鉱山を持っていた訳ではありません。しかし、その財力は徳川を軽く凌駕するものでした。徳川が大阪城から持ち出した金銀の量は相当な額になると言われています。流通を支配するということはそう言うことなのです。つまり、豊臣を滅ぼし、すでに10年以上が過ぎた家光の時代にこの諸法度三条のみを例外とすると改正するだけで、徳川の財政難は解決したのです。あるいは、織田信長が今川義元から学んだ楽市楽座の座制度を復活するだけでも良かったのです。

現代風に言うならば、

・信長は場所代として税を掛けるので取得税のようなものです。

・秀吉は流通から富を掬うので消費税のようなものです。

徳川家は貨幣経済などという難しい原理を理解ですとも、織田信長や豊臣秀吉の例を学ぶだけで全国183大名(幕末266大名)3000万石に見合う富みを得ることができたのです。

当時の日本を世界と比べますと、

・庶民は読み書きそろばんなど知識層が8割を超え、就学率・識字率はともに世界一です。

・金銀の輸出量は世界トップクラスの資源国でした。

・人口は3000万人で世界8億人の3.9%になります。

つまり、幕府が財政難を克服してさえいれば、明治維新などせずに文明開化を受け入れて、近代化を軽々とやってのけるだけの底力を初めから持っていたのです。

しかし、三河武士の方々は大権現様の申されたことをすべて正しいとされ、それを変えることは悪だったのです。様々の改革の前に立ちはだかる大権現様の影の為に江戸幕府は慢性的な財政難を背負うことになったのです。

上記に書いたことは、上念氏が書かれた事とバッティングしますが、「経済で見る歴史学」であります。これらの基礎知識も元に本文を読めば、より理解しやすいと思います。 

<江戸の貴穀賤金で財政難>

地震・雷・火事・親父というのは、昔からどうしようもなく怖いものという言い合せです。因みに、この「おやじ」は本来「台風(おおやまじ)」ではないと言われています。どうなのでしょうね。

いずれにしろ、天災が起こると江戸幕府の財政難が発生します。流通の富をすべて商人や庶民に奪われていた幕府は献身的な国家でした。歪ではありますが世界のどこより資本主義と自由主義が花開いた国家だったのです。もしも幕府が西洋の知識を率先して庶民に解放していたなら、近代科学は西洋ではなく、この日本で起こったのかもしれません。

信長・秀吉で完成した「経済インフラ」のおかげで江戸時代は飛躍的に経済力を付けます。金銀の財宝で幕府の財政赤字は隠ぺいされ、四代家綱まで問題なく運営できました。しかし、五大将軍綱吉になって財政難が露わになります。これを萩原重秀が『貨幣改鋳』で乗り切ります。

萩原重秀は貨幣を通貨として認識したのです。上念氏はこれを通貨発行益(シニョレッジ)による財源の拡大と呼んでいます。ところが元禄地震などの天災が襲うとその貯蓄もアッと言う間に底を付きます。

ところが、江戸幕府の欠点は意思決定が度々変わることにあります。綱吉の亡くなると萩原重秀は失脚し、新井白石などが実権を握りました。新井白石は小判を通貨として認識しておらず、金という貴金属として認識していたので、元の価値に戻してしまうのです。

新井白石は金銀の流出したことが幕府の財政問題の本質であり、なるべく流出しないようにすれば財政は立ちなおせると言います。さらに「貴穀賤金」とは、米などの農産物は貨幣より尊く、お金は賤しいものだ。一時的に物価が上がっているがそれは偽りのものである。つまり、米の価値は尊いので、いずれは価値が戻ると言うのです。

カエサルは言います。

『人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない。』

米を財源とする武士にとって、米の価値がいつか戻ってくると願うのは当たり前のことであり、新井白石の言葉は希望の火だったのです。

もちろん、経済を理解している方は経済が膨らむ中で通貨量を減らすとどうなるかはお判りでしょう。デフレギャップが発生し、物価が断続的に下がり、通貨の価値が上がってゆきます。上がるハズの米価は逆に下落してゆくのです。そこで家継が亡くなり暴れん坊将軍の吉宗が登場します。吉宗は新井白石を失脚させるのですが、吉宗自身も「貴穀賤金」に囚われており、江戸の経済は混乱を続けます。

<暴れん坊将軍は経済オンチ>

八代将軍吉宗は政権につくと「質素倹約」、「贅沢禁止」の緊縮財政を始め、さらに上米の制、定免法、新田開発などを行います。

・上米の制:米を上納させ、見返りに大名は参覲交代の江戸在住の期間を半減する。

・定免法:豊作凶作に関係なく一定額を年貢とする。

・新田開発:米の生産量を増やし、幕府の収入を増加させる。

つまり、節約によって支出を減らし、収入を増やして財政を立て直すというものでしたが、江戸の最大の消費地であります。その中の最大の消費者が幕府であり、その幕府が節約するとどうなるのでしょうか。幕府の中でも特に大奥が最上級の顧客でした。吉宗はその中で大奥の奥女中の中堅である表使という50人をリストラしました。(表使は50両の給金を貰っていましたから250両程度の削減になります。)

もちろん、それで終わる訳もありません。幕末に行われた大奥の財政再建では、食事、香、筆、墨、紙、薪、油などを節約し、廊下行灯の数を減らすなどして、24万両以上にもなっていた大奥の経費は17万両にまで減ったとあります。吉宗の節約がそこまで切実でなかったとしても数万両の節約はあったと思われます。

数万両の経済効果が一度に失われるとどうなるでしょうか?

当然、関係の業者に仕事がなくなり、そこに雇われていた職人から材料など扇を広げるように裾野が広がっていました。少なくとも数十万両が失われ、同じ数の失職者が発生します。金が無くなれば、物を買いませんから景気が低迷します。苦労して増やした米も米価も下がりますから幕府の収入も減ってしまいます。節約した以上に収入が減って改革の効果がなくなるのです。

経済オンチの吉宗はデフレを悪化させてしまったのです。

吉宗はこんなハズではなかったのにと悔やんだことでしょう。かって第5代紀州藩主に就任する吉宗は、この「質素倹約」、「贅沢禁止」の緊縮財政と木材やみかんなどの特産物を積極的に推進する生産増で収入を増やし、紀州の財政を健全化させました。吉宗は消費地と生産地の違いを理解していなかったのです。しかし、それで終わらないのが暴れん坊将軍でした。

享保15年(1730年)に吉宗は方針を大転換します。諸大名に米を買わせる「買米令」、飢饉に備え米を備蓄しておく「囲米」、江戸や大阪に米の流入を防ぐべく「廻米制限令」であり、投機的な取引で米価を上げる「堂島の米の先物取引」をはじめます。さらに「酒造制限令」を解禁し、むしろ酒造を奨励します。米を江戸の減らし、米価を上げようとしたのです。ところがこの政策も余り成果をあげません。

「パンがなければ、お菓子を食べればいい」

マリー・アントワネットが言ったかどうかは知りませんが、物資が豊富な江戸では豆腐などの諸品目の値段が上がりますが、米価は上がらない『米価安諸色高』になってしまうのです。つまり、米の値段が上がらないので収入は増えないが、物価が上がって必要経費が増えて、より貧乏になってしまうのです。

同年612日に改革を推進してきた老中水野忠之が罷免され、ブレインが大岡越前に変わります。元文元年5月(1736年)には『元文の改鋳』が始まり、旧金貨100両を新金貨165両、銀10貫目を新銀15貫目としたのですが、抗議と嘆願により「古金1両=新金165両」のレートを認められ差益をあまり得ることはできませんでしたが、それでも出目は約100万両を得ることができました。また、上方と江戸の金銀交換レートが「金安銀高」から「金高銀安」に変わることで上方からの物量が増し、江戸の物価が下がるという効果を生み出そうとしたのです。

その他にも通貨を増やす方策として、藩札禁止令を解除し、藩札という形の貨幣代替物も解禁しています。

紆余曲折、色々と問題もありましたが通貨の流通量が増えたことで、十分な通貨を得られたので換金の為に放出される米が減り、米価は米1石銀35匁が45匁強となり、その後も上がって2倍近く上がります。

こうなってくると年貢率を46民から55民に引き上げたことや上米の制、定免法、新田開発など政策が生きてきます。収入が増えて江戸の財政を立て直し、『中興の祖』と呼ばれたのは所以です。

有能な人材を採用したり、抜本的な改革を断行するなど暴れん坊将軍の名に恥じない活躍ぶりで財政を立て直したのは立派ですが、経済オンチから庶民を混乱させたことは否めません。

<どこかの政治家じゃありませんが、こちらはホントにできることからコツコツと>

田沼 意次(たぬま おきつぐ)と言えば、賄賂を蔓延らせた教科書にも載る悪徳政治家であります。そして、意次の悪政を排除し、悪徳商品と悪徳代官を成敗した松平定信はヒーローのようです。

時代劇でよく出てくる。

「お代官だいかんさま、この金色のおかし(小判こばん)をお受けとり下さい。」

「ほほう、○○屋、おぬしも悪ワルよのう(笑)。」

という賄賂政治が田沼時代に横行し、一部の幕府と大商人だけが儲かったと揶揄します。

2

(小学館「学習まんが 日本の歴史」より)

物価が上がり、天変地異も起こって多くの百姓が飢え、一揆も勃発しました。まるで暗黒時代です。そして、松平定信の時代になるとこんな狂歌が歌われます。

「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」

教科書解説:「白河の清き」とは、白河藩出身の老中松平定信を暗示した一節で、善政をひいたと言われる一方、庶民にとっては暮らしにくい世の中になったことを皮肉ったものです。

江戸の学問は朱子学を中心としたものであり、儒教の価値観では、「士農工商」の差別意識があり、物を生み出さず商品を流通させ利潤をえる「商人」は、泥棒と同じと考えていました。新井白石の「貴穀賤金」もここから来ています。

田沼政治を「重商主義」と評されますが、イギリスの国策のような「重商主義」でありません。意次は単に商人を軽んじてはならないと戒めたに過ぎません。

意次の政策を見ると、株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手するなどと書かれております。

株仲間の結成とは、商工業者の組合のようなもので、便宜を図る代わりに営業税を取りました。販売の独占権を与える代わりに、冥加金(みょうがきん)を徴収することにしたのです。これが賄賂というなら年貢も賄賂なのですが、農は尊く、商は賤しいので、年貢は正しく。冥加金は悪なのです。(教科書を作っているみなさん、冥加金が悪なら法人税も悪ですよ。撤廃を訴えて下さい。笑)

また、外神田の田沼屋敷には訪れる人が絶えなかったと残されています。大名は元より、農民から商人に至るまで意次の家を訪ねてきたといいます。そして、意次はそのすべてにあったと残されています。もちろん、賄賂も多くありました。

前田家や細川家は豪華な夕食を贈り、某家からは青籠にキスを67匹生きたまま入れてあり、それに添えてあった青柚子には当時名人と言われた彫金師・後藤某の小刀が刺してありました。 別の家は「京から京人形をお届けします」と言って箱を贈ってきたのですが、箱を開けたら「美しい生きた京人形」だったそうです。

長崎奉行職になるには2千両、目付職で1千両の賄賂が相場だったそうで、その役職に付けば、それ以上のリターンが見込めたと考えれば、老中に送られる賄賂の額が天文的な数字であったことは間違いありません。

白河の清き水の松平定信も同じほど貰っていたのは疑いようもありませんが、悪名を残したのは、柳沢吉保と吉良上野介と田沼意次と鳥居耀蔵と決まっているのです。これは綱吉公が犬将軍で、吉宗公が名君と称されるのと同じ理由です。

三河武士は神君家康公を大権現様と尊び、大権現様が残された「質素倹約」と朱子学の教えをまこと大事にしていたからです。

ほとんど呪いです。

それはさておき、意次は下々にも会い、よりアイデアがあれば直ちに実行するという政治を行いました。悪徳商人だけに会っていたのではありません。

大岡越前の逸話に、「三方一両損」という話があります。

「拾った男は三両貰える所だったが二両しか貰えず、落とした男も本来の手持ちより一両少ない金が残り、私も一両を失った。これで三方一両損である」

本当にあったかどうか知りませんが、大岡越前が出された一両が公金であるハズがありません。大名行列の出費で公金が足りない場合、勘定方やお供衆が懐から私財を投げ打って足すというのは普通のことです。

幕府が母屋とするなら、各部局の役人は離れみたいなものであり、離れに持ってくる上納金を賄賂とするか、プール金とするかはその役職に付く人物の裁量だったのです。意次は間違いなく後者であります。

意次の遺書の中には、

「いくら借金を重ねていようとも、それを民百姓の年貢の増でまかなおうとするのは筋違いである。このような無慈悲なことは、領民からの信頼を失い、御家の害となり、決してしてはならないことである」

これは間違いなく、中興の祖を批判した言葉ではないでしょうか。

田沼意次の家訓に、

一・主君に対しては忠誠を誓い、このことは決して忘れ損じてはならない。当家(田沼家)においては特に、九代家重様、十代家治様に多大な御恩を受けているのだから、夢々忘れてはならない。

二・親に対する孝行、親族に対する配慮をおろそかにしてはならない。

三・同族間ではもちろんのこと、同席の衆、親しい人に対し態度を変えることなく接するように。どんなに身分が低くても、情をかけるところは差別のないようにすること。

四・家中の者に対しては、依怙贔屓(えこひいき)がないように気をつけて接すること。使いやすい人、使いにくい人にも、大いに気配りをして、しっかり召し使うこと。

五・武芸は怠ることなく心がけ、家中の者にも重々申し付けること。若者には特に精を出させ、大いに励ませるべきこと。ただし、武芸に精を出した上は、その余力で遊芸に励むことは勝手次第で、それを止めだてする必要は毛頭ない。

六・権門の衆中には隔意失礼のないように心がけること。公儀(幕府)に関わることはどんなに些細なことでも慎重に行い、諸事入念が肝要である。

七・諸家の勝手向(財政)が不調なのはどこも同じようで、好調なるは稀である。不勝手が募ると幕府御用にも支障が置き、軍役も充分に勤まることが出来ず、領地を拝領している意味がない(大名が領地を貰うのは、軍役も兼ねている)。家の経済を守ることはとても大切なことであるので、常に心がけることが肝要である。

と書かれています。

身分の差別なく付き合うことを家訓に残す意次が、私財を貯めることに精魂を尽くした人物とは思えません。実際に天明6年(1786年)825日、将軍家治が死去し、意次は失脚する。閏105日には2万石を没収され、大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられます。その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受け、孫の龍助(田沼意明)が陸奥1万石に減転封のうえで家督を継ぐことを許されたとありますが、江戸や大坂の屋敷から金銀財宝が山のように湧いてきたとは残されていません。

<白河の清き松平定信と寛政の改革>

天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発し、その他にも役人の賄賂などがあったため、田沼意次は失脚する。

調べると書かれていますが、天明6年(1786年)825日、将軍家治が死去し、827日に老中を辞任ですであり、一揆や打ちこわしや賄賂など関係なく、後盾を失った為に失脚です。

実際、意次は中興の祖の政策を批判的に受け取っており、天明の大飢饉などの救済に幕府の金を吐き出し、おそらく、私財も投げ出していたと思われます。晩年の意次は大名も幕府が管理した方がいいと言っていましたから反発も大きかったのでしょう。

老中が松平定信に変わって、意次の政策を全否定すると吉宗の緊縮財政に戻してゆきます。風紀を取り締まり、役人以外にも質素倹約の緊縮財政を推し進めたので江戸の火が消えたのは間違いありません。松平定信が亡くなっても松平信明が意思を継ぎ、31年間も続きます。上念氏はこれを『失われた30年』と揶揄します。

1818年に田沼の遺児である水野忠成が老中に就任すると、緊縮モードからリフレ政策に変わり、貨幣改鋳で財政を補います。

上念氏はここで強く主張しています。

歴史教科書では「庶民は物価の高騰に苦しんだ」といった根拠のない記述がありますが、騙されないで下さい。物価の高騰よりも、幕府内の権力闘争によって老中の構成が変わることで「リフレから緊縮」「緊縮からリフレ」へというかたちで何度も経済政策が転換されたことが真の問題でした。

もちろん、最大の問題は“根拠なき緊縮政策”が新井白石や松平定信などによって推進されたことでした。

まったく、その通りです。

歴史教科書を作る方は、文字づらを合わすばかりで客観的に物事の推移を見ようしません。また、数字から実際の実情を知ろうともしません。新井白石や松平定信が言った言動をそのまま鵜呑みして、歴史のおける流れを見ようとしないのです。

<ぬるま湯の江戸幕府>

18世紀にイギリスが産業革命を成功させると世界情勢が大きく変わります。江戸幕府は鎖国していたといいますが長崎・対馬・薩摩・松前を開き、貿易の独占と情報の独占をしておりました。当然、オランダからイギリスやフランスの情勢を逐一で聞き及んでいたのです。外国の情勢を知る徳川斉昭(水戸)、島津斉彬(薩摩)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)などが早くから海防強化や攘夷を主張します。

しかし、それらの対応は常に後手に回り、ペリー来訪と共に一気の加速するのです。

天保11年(1840年)阿片戦争

嘉永6年(1853年)黒船来航

アヘン戦争からペリー来訪まで13年もの猶予がありながら、結局、幕府はなんら施策を取らずにいたのです。否、小田原評定を永遠と続けていたのです。

孫子曰く、

彼れを知り、己れを知れば、百戦殆うからず。

彼れを知らずして、己れを知れば、一勝一負す。

彼れを知らず、己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。

最も情報を得ることができた幕府が、それこそオランダを通じでイギリスやフランス、アメリカに留学生でも送っておくべきだったのです。

12代将軍家慶の時代になっておりましたが、11代将軍家斉が大御所として君臨し、老中の水野忠邦が登場します。世に言う『天保の改革』の改革です。

江戸の改革は享保の改革・寛政の改革・天保の改革を合わせて「江戸幕府の三大改革」と呼ばれます。揃いもそろって「質素倹約」「貴穀賤金」の緊縮財政しかありません。

私は決して11代将軍家斉の老中水野忠成の賄賂政治を良しとはしませんが、化政文化が華開いたのも事実であります。そして、教科書はまたまた放漫財政で幕府が破綻の危機に瀕したと書かれていますが、もちろん違います。

1 全国の石高と人口の推移>

最初にお見せした図ですが、元禄文化や田沼政治の後ろに大飢饉が書かれており、化政文化の後半にも天保の大飢饉が発生しております。江戸幕府は毎度のことですが、大飢饉に襲われると財政難に陥るのです。そして、この日本は不定期ですが100年間に2回ほど大飢饉に襲われるのです。

天保の大飢饉で財政難になった幕府を『天保の改革』で経済を混乱させ、さらに身内揉めしているぬるま湯の政策を世界は許してくれませんでした。

私が思うには、水野忠邦が最初にすべきは大名や幕臣に世界情勢を知らしめることだったのでしょう。

結局、攘夷と開国が右往左往しただけであり、ペリー来訪によりすべてが始まったのであります。

「泰平の眠りをさます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」

上念氏も「安政の開国」という第2の開国へ向けた流れは、もう誰も止められなくなったと書かれています。

私が描くターニングポイントは三代将軍家光であります。彼が家康と大権現様と神格化した張本人であり、水野忠邦が行おうとした天領が別れているので1つにまとめるなど、行政の簡素化、大名の統治の幕府直轄の介入などを行うことのできる最後のチャンスだったのでないでしょうか。

 

四代家綱以降は尾張・紀州・水戸等々など一門衆でも力が分散してしまい大名の改易など軽々しくできなくなります。理想を言うならば、織田信長・豊臣秀吉の良き点を理解して、徳川幕府に組み入れることができれば、財政問題は解決し、明治維新なしに文明開化をやり遂げる財政を得ることができたでしょう。

 

歴史に『もし』はありませんが、

 

財政問題を抱えない江戸幕府は増長して放漫財政を悪化させ、激しい増税の末に民衆が反旗を翻してフランス革命が起こっていたかもしれません。現実はフランスなどの悪政に苦しむ大衆など日本には存在せず、商人や百姓に優しい江戸幕府ではフランス革命が起こる素養がまったくなかったのです。

 

教科書を読むと悪政に苦しむ百姓が描かれていますが、まったく嘘です。百姓より貧しい武士がいる幕府では、百姓が立ち上がるより武士が立ち上がるでしょう。明治維新のように!

 

〔参考資料:秀吉の流通独占例〕

文禄4年(1595年)、大阪周辺の米価は、黄金1枚で三十石だったのに対して、同じ時期の津軽や秋田では八倍の二百四十石も買えた。秀吉は豪商に指図して舟を確保すると遠隔地から大阪に米を運んだ。豪商も回船代と積米代の半分を受け取った。こうして豪商と組んで流通に率先的に介入することで秀吉は膨大な富を蓄積できたのです。

〔参考資料:金の生産関連の年表〕

1582年、大久保長安が家康に取り立てられ、甲州金山等の管理を任される。

1600年 大久保長安が大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、甲斐奉行、石見奉行、美濃代官、佐渡奉行、所務奉行(勘定奉行)など、主に鉱山奉行を歴任。

1601年 彦坂小刑部元成が伊豆の金山奉行を拝命。

1601年 発行された慶長小判の枚数は、14,727,055両。金の年間生産量は平均で約1tと推測される。

1602年 佐渡金銀1万貫を算出。石見銀山の運上銀3600貫を献上する。

1603年秋 大久保長安、従五位下に叙せられ、石見守という受領職を授けられ、以後大久保石見守長安と名乗った。

1604年 陸中白根金山が運上金1000枚、砂金5000斤を貢上。

1606年 大久保長安、伊豆金山奉行を拝命して本格的に伊豆金山の開発に力を注いだ。

 伊豆の諸金山は長安の導入した新技術によって生産量を飛躍的に増大させた。

1608年~1610年、大阪城から金法馬24個を大判に改鋳し、45070枚を作る。但し、これは一部で総重量は1970貫に上る。

1613年、大久保長安の死去。(晩年は全国の鉱山からの採掘量が減ったことより役職をほとんど解任させられる)

1616年、家康の死去。駿府金蔵より銀10貫入り4983箱。金二千両入り箱470箱が貯蔵されていた。

1622年、生野銀山で最盛期を迎え、1ヶ月に銀137500匁を算出。

1624年~1630年、7年間の全国産出金の1ヶ月産出平均192315匁(720kg)、(内訳、佐渡99120匁、薩摩78829匁、伊豆124匁、豊前749匁、豊後395匁、駿河999匁、但馬210匁)

1635年、生野銀山が運上金1200貫を貢上する。

1638年、薩摩お山々野金山が発見。1656年から金銀年200貫を算出。(稀の1659年は438貫余を算出)

1642年、備中小泉(吉岡)銅山が幕府直轄の銅山となり、毎年5300斤の銅を産出。

1643年、長登銅山は湧水が甚だしくなり中止

1651年、丸山銅山が湧水のため中止

1652年、薩摩、芹ヶ野金山が発見

1664年、佐渡銀山が衰退し、1ヵ年の産出額が銀978850

1668年、全国銅産出総額は900万斤(5,400t)、絞り銀は700貫で、銅産額中9分の1は国内で消費し、その他は尽く輸出された。当時の銅山労働者は約20万人、炭焼人夫約10万人、大阪の銅屋には南蛮絞りに従事する職工が約1万人いた

1669年、白根金山は金鉱の品位が次第に下がって銅鉱となった。尾去沢金山の鉱石も次第に変じて、ついに銅山となった。

1670年、阿仁銅山を発見する。

1671年、生野銀山が1ヵ年の銀999254匁を産出したが、その後衰退する。

1675年、佐渡銀山割間歩の諏訪間歩が回復し、産出額は銀1995860匁であった。

1683年、生野銀山では両国山が修繕回復し、銀356572匁を産出。

1688年、足尾銅山が衰退し、幕府金5千両を貸下げ挽回させようとしたが困難であった。

1695年、金銀が減少し流通に不足したが、国内産出量で補充できない為に、貨幣の品位を落とす試みを試されたが失敗した。その為に金銀山の発見が奨励され、誰でも開削が許可される。

1696年、生野銀山で銀920970匁を産出。

1697年、佐渡鉱山では見捨ててきた貧鉱を処理するため、水車砕鉱を始めた。

1700年、羽後国尾改澤(荒川)銅山が発見

1703年、佐渡鉱山の水車砕鉱の結果、金156503匁、銀1396408匁を産出した。

次に続く

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