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上念司 経済で読み解く明治維新の概略3

概略1:第1部 江戸時代の経済、第1章「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」 

 

概略2:第1部 江戸時代の経済、第2章「江戸幕府の慢性的な財政難」 

 

概略3:第2部 大名と百姓 

 

概略4:第3部 江戸幕府の滅亡 

 

概略5:まとめ

次に続く

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むかし、文明は進化すると思っていた。

50年前は今より劣っており、100年前はもっと酷かった。200年前は、500年前は、2000年前は・・・・・・。

そんなのは幻想である。

未来が現代よりすばらしいと限らないと同じくらい、過去の文化も劣っているとは限らない。大正時代はテレビとスマートホン以外は何でもあった。ローマ時代は風呂もあったし、レジャー施設もあり、中世のヨーロッパより遥かに清潔で快適な暮らしを行っていた。

文化は進化もすれば、後退もする。

江戸時代は猫の蚤取り屋があるほど多彩な職業に分かれ、文化の華を咲かせていた。天文家の渋川春海はコンピューターないのに地球の公転速度を求め、太陽と地球の近点と遠点を求め、日食と月食を計算した。

誰か太陽と月の天文データーを上げるから日食と月食の時間を当ててくれと頼まれて、「はい、判りました」と言える人は何人いるだろうか。

渋川春海が生きたのは四代将軍家綱の時代であり、同じ時代に活躍した和算の関孝和もいる。また、江戸中期には算額も盛んであった。神社やお寺に数学の問題を書いた絵馬を奉納し、その絵馬を見たものが解答を考えて解答を絵馬に奉納した。学問においては漢文を嗜み、趣味に日本画や和歌、俳句を好む。科学技術の差こそあれ、江戸時代と現代の学習能力の差はない。

もし、江戸の庶民が産業革命の蒸気機関を見たなら、平賀源内のような物好きが集まって、あっと言う間に習得してしまっただろう。鎖国の特例で外国留学を認めれば、各藩と豪商が手を取り合って世界に学生を送る。

しかし、隠ぺい体質というのか、村社会体質というのか、変化を恐れて新しいことに幕府は挑戦しない。大権現様を拝んでいれば、平和は続くと信じていた。

【経済で読み解く明治維新】

~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~

第2部 大名と百姓

第3章、「大名と百姓のビジネス」

百姓が貧乏だったというのは間違いである。

徳川家康は豊臣政権から公儀を掠め取る。豊臣政権の命脈は流通を支配していることであったので、その流通から得る富みを奪った。「刀狩」、「太閤検地」などで解るように秀吉が奪った各大名の徴税権を各大名に戻した。関ヶ原で敗北した豊臣政権は財政の基礎を失う。それでも蓄えた金銀財宝は山のようにあり、大阪冬の陣、大阪夏の陣を賄うのは容易い。

教科書では、徳川政権を武家諸法度や参勤交代で縛り、難癖を付けて改易する独裁政権と書いている。しかし、独裁政権に近いのは豊臣秀吉であった。

朝鮮出兵にどんな意義をあったか考えても想像が付かない。仮に明国との戦争に勝利して明国と対等に近い同盟を結べたとするなら、日本に入ってくる富みの量は想像を絶する。豊臣政権が流通を支配する政権であったことを示す教科書はない。(資料はあるのに書かないのは謎だ)中国東北部の貿易をすべて秀吉が握ったとするなら、その価値はどれほどか想像も付かない。

しかし、本書が書く通りに秀吉が亡くなると兵をあっさりと引き上げている。膨大な目に見えない利益より、隣の大名の脅威の方が恐ろしかったのだ。

関ヶ原をえて徳川は互助会というべき大名を募った。木曽川の普請などを見れば判るように、大規模工事を各大名が分担して負担をわかち合う。震災が襲えば、幕府が他藩を募って救済する。互助会という連合幕府というのが徳川政権の正体である。

私はこれを狼に喩えると判り易いと思う。

狼はボスがおり、他の狼にもそれぞれの役職が与えられる。見張りするもの、食事を狩るもの、子育てをするものなどに分かれている。ボスは群れの秩序を守る為に存在する。ルールを破るもの、群れに敵対するものを排除する。そして、役割を果たしたものに称賛を与える。

徳川政権は豊臣より緩い政権であり、徴税権などの様々な権益が大名の元に戻された。河川の工事や新田開発など多くに普請が舞い込んでくる。教科書には大名の力を削ぐ為に課したとあるが、必要なものだから課したのである。幕府は参勤交代など多くのお供を連れてくると百姓の負担が大きくなるから控えるように触れを出している。大名の富を削ぐなら、もっと増やせと煽ったのではないだろうか。つまり、百姓の暮らしなどを良くする為に必要だから普請を課し、ルールを守らない大名や徳川に逆らいそうな大名を改易していったのだ。そして、よく働く大名には金銀財宝か領地を褒美として与えた。

ねっ、狼みたいでしょう。

仕事した狼を褒め、ルールを守らない狼や反抗する狼を仕置きする。狼たちはこぞってボス狼に尽くすようになるのです。北風と太陽、あるいは、飴と鞭を上手に使っています。

どこかの逸話かもしれませんが、

諸大名からのお祝いの席で家光が「その方らは父・祖父と盟友だった時期があったかもしれないが、余は生まれながらの将軍である。もし不満なら領国に帰って戦さの準備をしろ。徳川家800万石がお相手する」というと、伊達政宗は、「そんな輩がいれば将軍家の手を煩わすまでもなく、伊達家40万石がお相手します」と切りだし、諸大名が我も我もと続いた。こんな話がでるくらい諸大名は徳川をボスとして祀り上げていたのです。

<本当の勝者は百姓と商人だった>

秀吉の朝鮮出兵が失業対策と言われるように戦がなくなった兵士は失業します。徳川幕府の失業対策は開墾や新田開発にあったのではないでしょうか。

一方、江戸は江戸屋敷が建てられ各大名の奥方などが集まり、大名方々は生産することのない消費者です。すると収穫された米が大坂に集まり江戸に送られ、江戸・大坂が一大消費地へと変貌していきました。暮らしが楽になると様々な物産も盛んになり、木綿・油・綿・酒・酢・醤油などが取引されるようになり、特に奥方などは絹製品などを好んで買いました。米から高級品まで商人は濡れ手に粟の大騒ぎ、現在風にいいますと大坂・江戸はバブルに湧いておりました。

将軍が上洛すれば、衣装から食う呑む寝るなどの消費は数十万両に及びます。参勤交代も同じく小判を巻きながら行進するようなものです。江戸で大火が起これば、木曽から木材が舟で運ばれます。戦国時代を生き残った豪商は大いに財を貯めた訳です。

一方、百姓はといいますと大名も新田などの新たな田畑には3年間の税を免除するなどして奨励しました。収穫を上げるために新しい飼料が考えられ、灰や下肥え、菜種油の搾り粕などが使われるようになります。イナゴの被害も度々起こりましたが、クジラの油を田畑に撒くとイナゴの幼虫が死に絶えるなどの研究もなされます。農機具を新たになり、千歯こきというもみ取りが開発されて、白い米を食べる習慣がこの頃に定着します。今ではのどかな田舎の風景とされる水車小屋もそうです。鉄の鍬などの普及率も上がります。

みかんや西瓜、さらにカンボジアからカボチャ、ジャカルタからジャガタライモ(バレイショ)、北九州から琉球イモ(サツマイモ)等々、様々な産物が生産されて大坂・江戸に運ばれていきます。

江戸時代以前も蚕を飼って糸を取り、絹が作られていましたが、中国産ほど白くでないので絹製品は輸入にたよっていましたが。金銀流出を恐れて鎖国を強化すると、養蚕は非常に盛んになり、全国に広がっていきました。

要するに才覚のある百姓は、土地を広げ、様々な農産物を扱うようになり、豊かな本百姓もいれば、貧しい水呑百姓も生まれてきたのです。

総じて言えば、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)」というトリクルダウン理論が実証されて、商人と百姓が豊かになってゆきました。

この現象を見れば、トリクルダウンを起こしたいのであれば、それこそコップの水がじゃばじゃばと零れるくらいの大量のお金を上から注ぐと発生するのです。

アベノミクスが成功するには、途中で堰き止めることが出来ないほどの財政投資を行えば成功したのです。この江戸の例を取れば、単年度予算の2倍くらいの財政投資(100兆円くらい)を行えば、発生することになります。家康・秀忠・家光がどれほど潤沢に金銀を放出したのが伺われます。

<国際金融のトリレンマ>

年間1tの金の産出量が徳川政権を支えていましたが、大久保長安が失脚することには産出量が激減します。それでも徳川政権時の平均が400kgですから500kg近くはあったのではないでしょうか。

しかし、江戸の繁栄ぶりは凄まじく、特に大奥や大名の奥は絹織物を重宝しました。江戸の初期の貿易は、

輸入品 生糸 絹織物 皮革 香料 薬種 砂糖

輸出品 金・金製品 銀・銀製品 銅・銅製品 樟脳

と貴金属がほとんどできした。江戸時代の初めには、年間20万kgの銀が海外へ流出し、世界の生産量の30~40%を供給したと云われ、その輸入品の内訳は、生糸と絹織物が92%、毛織物が6%、綿織物が1%、麻布が1%でした。

金銀の産出量が激減する中で、海外へ流出する金銀の量が増えれば、誰でも枯渇するのではないかと心配するものです。

『絹の文化誌』から <町人は東福門院和子を真似たがる>  天和三年(1683)正月には「女衣類の製作禁止品目」として、金紗、惣鹿子(そうかのこ)小袖などを禁制品に指定し、同じ年に「町人男女衣類之事」とか「町人の衣類は絹袖、木綿、麻のうち分に応じて選ぶこと」といった内容のお触れが矢つぎ早に出された。ところが数年後にはまた元の木阿弥になってしまう。そしてまた禁令、と江戸時代を通じてこの繰り返しであった。

 延享元年(1744)には「絹袖、木綿布の外は一切用いるべからず、もし着せしを見及ばば、めし捕べきと申付べし」というお触れが出ているが、実際に町人で召し捕らえられた者もいた。天保の改革期に着飾った花見の女たちが逮捕された時の落首に、

  かるき身へおもき御趣意の木綿ものうらまでも絹ものはなし

 というのがあった。軽い身分の者に重い禁令だが、木綿を着ていて、裏地にも絹は使われていない、といった意味であろう。財力のある商人などは、表地は木綿にし、裏地に絹を用いたのであり、そのために裏地のような見えないところに銭をかける粋な風俗が出てきたのである。

 絹と同じようにぜいたく品として、禁令の対象にされたものに、タバコがあるが、これに関連して、 

  きかぬもの煙草の法度銭法度玉のみこゑに玄沢の医者

 という落首が残っている。玄沢の医者というのは、藪医者のことである。この煙草や銭を絹にかえても同じである。

 結局のところ、為政者による奢侈禁令や過差の禁のお触れは、下級階級がぜいたくな衣服を着ることによって、上流階級を真似ることを禁止し、自分たちの地位を保ち続けることに狙いがあったのである。徳川家から後水尾天皇に入内した東福門院の衣装狂いは有名であるが、富を貯えた町人に、これを真似るな、と言っても無理なはなしである。

(「絹の文化誌」から)

いずれにしろ、家光は金銀流出を恐れて鎖国を強化しました。その偶然の産物として、「国際金融のトリレンマ」が働いたのであります。

①固定相場制

②金融政策の自由

③資本取引の自由

金銀を通貨にしており、江戸は相場が固定化されていました。金銀の価値は世界共通なので資本取引が自由に行えましたが、金銀の流出を防ごうと資本取引を止めると、国内の通貨は固定されるので金融政策を自由に扱えるようになったのであります。つまり、鎖国によって貨幣の改鋳を自由に行えるようになったのです。

上念氏は貨幣の改鋳ができる環境を作ったのは、この鎖国政策のおかげであると言っています。

第3章、「借金苦に喘ぐ大名、アイデアに溢れる商人」

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

江戸時代の主役、豪商たちです。

本来、幕府が大名の支配化にある商人は、自由な輸送や取引の自由など存在しません。独立商人として武力を保有していた戦国の堺衆などと違い、江戸の商人は武力を持ちません。

これって、高度成長時代の日本に似ていますね。

防衛はひたすら米軍に任せて、経済発展だけを満喫する。自衛の為の武力を保有しない為に財政上で非常に有利な経済運営ができました。江戸の商人も本来の社会保障費を無償で受け取っており、上納金というわずかな金でその自由を買い取っていました。

大坂冬の陣で家康に恩を売った岡本三郎右衛門常安は、堂島に倉屋敷を建てて大坂に集まってきた米を一手に取扱いました。宝永2年(1705年)、五代目の淀屋廣當が22歳の時に幕府の命により闕所処分となり、没収された財産は、金12万両、銀125000貫(小判に換算して約214万両)、100万石で40万両と言われますから535万石並の資産です。他に北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などでした。

「火事と喧嘩は江戸の華」

数十年おきに明暦の大火のような大火災が発生して大名屋敷が焼けてしまう。木材が大量に売れることで紀伊國屋の文左衛門も豪商へと昇ってゆきます。他にも河村瑞賢、越後屋の三井高利、奈良屋茂左衛門、鴻池善右衛門、本間宗久、銭屋五兵衛など多くの商人が活躍したとは一章で紹介した通りです。

しかし、儲かるものが入れば、出費する者もいる訳です。大名屋敷が全焼すれば、建替えなくてはなりません。その都度の出費がかさんでゆきます。江戸幕府の金銀が豊富な頃は、潤沢な補助金を出してくれましたが、産出量が減ってからは目減りするばかりです。

大名は贅沢を止めて身丈にあった生活に改善すればよかったのですが、一度贅沢を覚えると元に戻すというのは苦労するようです。

さらに新田開発の効果が出て、米価がじわりと下がってゆきます。真綿で首を絞めるようにじわじわっと大名の財政は頻拍してゆきます。

米価の動向を見ると、

3
幕府は財政難を乗り切る為に元禄の貨幣改鋳を行います。綱吉は大判振る舞いで消費も伸びて米価も上がって、大名のやりくりも何とか凌いでいました。しかし、一旦、景気が冷え込むと、借財は後から追い駆けてきました。もう参勤交代も負担になっていました。

江戸の借金は

①質入借金型(百姓・小市民)

②書入借金型(寺社・武士・上級市民)

③無担保借金型(上級武士・大名)

絹織物など高級品を買い、金を貸せば、貸しただけ使ってくれる大名はお得意様です。豪商たちはごぞって大名に金を貸しました。

元禄のバブルがはじけると、借金は雪ダル式に増えてゆきます。そして、大名の頼みを断れない豪商たちの貸付額も天文的な数字に上ってゆきます。しかし、大名を倒産させる訳にはいきません。借金は不良債権化して55人の豪商の内、30人が大名貸で破産するという悲惨な事態を招いたのです。

三井高利などは早くから大名貸から足を洗い、庶民に反物を分け売りするデスカントを始め、大いに潤います。庶民は大名ほど資産を持っていませんが、消費意欲は盛んであり、尚且つ、その数が多い。

元禄文化を通じて、力を貯め続けた庶民と消費を続けて力を失った大名の消費比率が逆転したのではないかと私は考えます。

経済活動において消費が大名を庶民が追い越してしまったのです。

<ラストチャンスの田沼意次>

米本位制を維持する限り、財政上の欠点を解決できません。

貨幣改鋳は一時的な対処療法であり、抜本的な改革になりません。それでも各藩によって事情は大きく異なります。また、財政改善によって藩の財政を健全化する所もありました。しかし、大本の幕府は、「貴穀賤金」の考えに取りつかれて、抜本的な改革を後回しにしていたのです。

中興の祖である吉宗は、「質素倹約」と「百姓への増税」で対応しようとしました。それが失敗したことは2章で説明しましたが、その後の元文の改鋳を行うことで面目を保ったことで、その政策が正しいと勘違いしたことが問題です。

吉宗が百姓に重税を課したことで水呑み百姓は土地を捨てて都心に流れてゆきます。現在でも農村部が限界集落になっているのは高齢化の為ではなく、田舎では食っていけないから都心部に流れてゆくのと同じなのです。

石高が減って困るのは幕府であり、大名であります。飢饉などが起きても本百姓は何も米だけを収穫にしている訳ではありませんから大きなダメージにはならなかったでしょうが、小百姓や水呑み百姓は食っていけません。また、庄屋など本百姓がすべてを助ける財力もなかったでしょう。

田沼時代は重農政策から重商政策へ転換したことにより、人口移動の受け皿を用意し、経済の好循環を作ります。しかし、一度震災が起これば、被災者救援の為に膨大な財貨を放出せねばなりません。

田沼意次はそこで各大名が財政を管理するより、幕府が一元的に管理した方が合理的であると考えました。400万石で3000万石を管理するという不合理な制度に疑問を持った訳です。遅まきながらも抜本的な税制の改革に着手したのです。

1707年(宝永7年)に富士山の大噴火で甚大な被害が出て、小笠原藩を救済する為に幕府は全国一律に2%の資産課税である国役金を徴収します。これを恒久化しようとしたのが田沼意次です。1786年(天明6年)に百姓は百石当たり0.42両、町人は間口一間当たり0.05両、寺社山伏には格式に応じて最高15両を毎年5年間にわたって課すという法令が出されました。

集めたお金は大坂表会所で大名に年利7%で貸し付けます。担保は大名の米切手もしくは村高証文です。返済を滞ったら転換され、物成り(現物引き渡し)によって返済させます。

返済できない大名が多く出てくることを承知で行いました。つまり、徴税権を大名から幕府に移す、幕府が中央政府として全国に課税できるようにする布石を打った訳です。

田沼意次は大名から租税徴収権を奪い「日本惣戸税」ともいわれる新御用金令により変則的課税矛盾の解決しようとしたのです。

気が付いた大名は必死に抵抗したでしょう。運が悪いのか、それも陰謀説を説きましょうか。その2ヶ月後に10代将軍家治が死去します。田沼意次は失脚し、舞台から退場します。仮に将軍が生きていても、様々な抵抗で意次の「日本惣戸税」は完成しなかったと思われますが、それでも税体系の矛盾が一部でも緩和されていれば、江戸幕府の財政も少しはマシになっていたでしょう。

結局、経済を理解しないお馬鹿さん達が徳川家延命のチャンスを自らドブに捨ててしまったのです。

現在、平成の日本を支えるお馬鹿さん達が同じ間違いをしないことを祈りたいですね。

次に続く

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