上念司 経済で読み解く明治維新の概略4
概略1:第1部 江戸時代の経済、第1章「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」
概略2:第1部 江戸時代の経済、第2章「江戸幕府の慢性的な財政難」
明治維新を行った薩長連合は江戸を占領して明治政府を作ります。
ところが薩長には日本を管理する財政官はほとんどいませんでした。長く自民党政権が続いた現代日本でも政権交代が起こり、政治が変わると思うや否や、結局、同じ政治をしてしまいます。これは野党に日本を動かす官僚(財政官)が不足していたからです。
明治維新を成功させた薩長連合は明治政府を作るに当たって、徳川政権の幕臣を多く官僚として召し抱えます。
実際、彼らがいないと、どこに誰がいて、誰がどれほどの財産を持ち、どういう産業を行っているかという知識がある薩長の武士がいないのです。という訳で各セクションの重要な部には幕臣がそのままリクルートしてしまったのです。
そして、生真面目に最初決めたことを続けるという宗教にも似た気質を伝統として受け継いでしまったのです。そういう訳で「質素倹約」の緊縮財政は伝統中の伝統なのかもしれません。
最早、宗教です。
その宗教が江戸幕府を崩壊させ、明治維新という多くの血を流さないとならない内戦を引き起こしたという歴史の失敗を学ぼうとしないのです。
【経済で読み解く明治維新】
~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~
第3部 江戸幕府の滅亡
第5章、民間の活力と生かせなかった江戸幕府
橋本政権でバブルが崩壊してから緊縮財政で財政再建を30年間も続けてきた日本政府は国民に消費税や社会保険料の切り下げなどで負担を強いる緊縮財政を続けていました。
それは中興の祖である八代将軍吉宗は幕府の財政再建において成功した。「質素倹約」「贅沢禁止」の緊縮財政と百姓に課税を増すことで成功したことを真似た老中松平定信に似ております。1788年、寛政の改革のシンボルともいうべき倹約令では、
「百姓の儀は、粗末な服を着、髪などは藁をもって束ねることが、古来の風儀である。それなのに、近頃は何時からともなく贅沢をして、身分の程を忘れ、不相応の品を着用しているし、髪には油や元結を用いているので、費用がかかる。その結果、村も衰え、離散するようになっている。一人が離散すればその納めるべき年貢は、村が代わりに納めなければならないから村全体が難儀をする。〈中略〉百姓どもは、だから少しも贅沢すべきではなく、古来の風儀を忘れるべきではない。百姓が、余業として商いをすることも、村に髪結い床があることも不埒なことである。以後、贅沢なことを改めて、随分質素にし、農業に励むべきである。」と百姓にも「質素倹約」「贅沢禁止」を強いました。
バブル崩壊から増税と緊縮財政によって日本経済は不況になり、消費の低下は税収を著しく悪くさせます。それでも増税による社会保障への充実などと嘘八百を並べて、増税をしようとするのは、徳川幕府中興の祖と言われた徳川吉宗の忠臣で勘定奉行の神尾春央が『胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり』と言った伝説を信じているのかもれません。
日本経済をよくするには、経済を活性化させることが必要であり、財政出動が最も効果的なのに、伝統的手法の緊縮財政と増税によって政府を立て直そうというのは、最早宗教であります。
さて、江戸幕府もその宗教の虜でした。
<幕末の米価安の諸色高>
幕府は中央政府として日本全体を管理するのに対して、全国的な微税権を持ちません。替わりに各大名に普請を課す指揮権を持っていました。つまり、「使役(働く)に従うから税金を免除してくれ!」です。
これで各大名が各自にやりくりを行い、財政の健全化を実現していれば、何の問題もなかったのです。明治維新も入りません。西欧列強にも各藩が兵を出し合って連合軍を作ればいいだけのことです。海沿いは海軍、内陸部は陸軍を中心に編成すればいいだけのことです。徳川の作った藩体制が悪いのでなく、問題は『米本位制度』である『石高制』に問題があったのです。
経済が発展する過程で農産物も多品種化します。手工業も盛んになり、様々な物資が溢れます。明治維新後に生糸の他、茶、米、水産物といった1次産品を主要な輸出品は、江戸時代に発展したものです。生糸などは吉宗が推奨して全国的に広がっていました。
経済のパイが大きくなるにつれ、米に掛かる価値が下落します。全国的に豊作になれば、米が余りになれば、米価は暴落します。逆に多少の飢饉になると米価が上がって、大名の暮らしが少し楽になる感じというのが現実です。
〔全国の石高と人口の推移〕
このグラフは途中の二か所(吉宗と明治)で統計の違いがあり、簡単に線を引くことができませんが、基本的に人口は石高に比例して伸びていると推測できます。しかし、米将軍の吉宗が米への課税を強化したこと、藩の財政が悪化したことで百姓への取り立てが厳しくなったことを背景に農民の捨農者が増加しまし、幕府も対応する必要がでています。
・旧里帰農令(寛政の改革:松平定信)「援助するから帰ってちょ!」奨励
・人返しの法(天保の改革:水野忠邦)「つべこべいわずに、田舎へ帰れ!!」強制
実際、川などが氾濫して使い物にならなくなった田畑を捨てて新田(2年間の税免除)に移った農民も多くいます。田畑を復興するにはお金がいますが、そんな蓄えのある百姓ばかりではありません。藩の財政も逼迫していたので、ボランティアで復興できる藩ばかりではなかったのです。そう言う理由もあり、捨農者は都心部へと流出したのです。
ここで疑問が1つ生まれます。
捨農者が増えて農作地が減っているのに米価は下がっていません。理由は上の文中にもあります。つまり、品種改良や新田の開発によって総石高はそれほど減っていなかったのです。もちろん、米以外の農産物も増加したこともあります。いずれにしろ、食糧という単位では減っていなかったということなのです。
私は酒屋を営んでいるので酒に関してこだわりはあります。
1860年(万延元年)三重県多気郡五ヶ谷村字朝柄の岡山友清氏(旧名定七)が選出。「伊勢錦」は一穂に350から420粒も付く典型的な穂重型品種です。兵庫県吉川町の田中新三郎氏が伊勢参りの際に伊勢市山田地区から持ち帰ったので山田穂と呼ばれるものであり、この「伊勢錦」が最高酒を作るのに適した「山田錦」お母君です。
漫画「夏子の酒」に出てくる「龍錦」なる幻の米は、明治26年の東北地方の大冷害にみまわれ、稲が全滅するという悲劇に遭います。しかし、その田んぼの中に三穂だけ黄金色に輝く稲穂を阿倍亀治という青年が見つけたのです。それが「龍錦」です。
何の話をしているのかと申しますと、
種もみ一粒を蒔いて何粒の収穫が得られるかを表す指標を収穫倍率といいます。小麦の収穫倍率は低く中世になっても3~4倍程度だったようです。米は奈良時代(8~9世紀)で10~20倍あったといわれています。小麦よりは効率の良い作物でした。
平安時代の史料に、延喜主税式(巻二十六)に「凡公田獲稲上田五百束、中田四百束、下田三百束、下々田一百五中束、地子各依田品令輸五分之一」(前傾書p464-5)とあります。つまり、上田25倍、中田20倍、下田15倍、下々田4倍という数字であることがわかります。これが江戸時代にあると、平均的な10アール当たり収量は1石3斗(193キロ)と言われています。収穫率は30倍ということになります。
江戸時代は伊勢錦のような一穂に350から420粒も付ける品種改良や龍錦のような冷害に強い品種が見つけられ、米の収穫率が上がっていた時代なのです。
〔各藩の石高の例〕
上杉謙信の時代の越後石高は40万石ですが、天保時代では100万石を越えております。河川の改修と新田開発、冷害に強い品種改良などの結果、東北地方の収穫はめざましく改善されています。一方、山城国や伊賀国、大和国など近畿は然程伸びていません。つまり、石高が上がった国と上がらない国があるのです。同じように幕府の幕臣が持つ領地でも米価安に対応できる幕臣とできない幕臣に生まれていたのです。
歴史の教科書を素直に見るなら、捨農者が増加すると全国で石高が低下して米価が上がらなくてはなりません。しかし、大飢饉が覆って一時的に米価が上がることはありますが、総じてそんな記録はどこにもありません。
富める大名は新田開発や品種改良で石高が上がり富み、貧しい大名は捨農者が増えて石高が下がって貧しくなる。
富める国が富み、貧しく国がより貧しくなる。
つまり、歴史教科書は各大名や幕臣の中で石高の格差が広がり、石高が上がらない農民は下がる米価に対して年貢が重く、捨農者が続出し、貧しい大名や幕臣が困り果てたので、「旧里帰農令」や「人返しの法」の法令を作る必要があったのですと書くべきなのです。
因みに、この現象を最近どこかで聞いたことはありませんか?
<ギリシャ問題とユーロ連合、これって、幕藩連合と似てない>
本書には書かれていませんが、追加で書き添えます。
ユーロ統合とは貨幣を統合する総称です。
歴史的な一ページと言われたユーロ圏は、フランスやドイツを中心にEUと東欧を統合してゆきました。通貨を等しく保つ為にギリシャは財政再建と多く財政投資を行い経済の活性化をおこないましたが失敗します。ギリシャ崩壊という奴です。
本来、自国通貨を持っていた時代はドラグマというギリシャ貨幣が暴落して、ギリシャ安が発生し、オリーブなどの製品が安くなって外国に買われます。また、格安の観光になるので観光客も増えます。そうして、何度も財政破綻を繰り返しながらギリシャは崩壊することなく存続していました。
ところが、通貨を統合するとギリシャ安は起こりません。ギリシャの生産物が安くなることもなく、また、観光旅行も安くなりません。外貨を得る方法を失ってしまったのです。こうなると債権の利子を払えないのでギリシャ独力では中々財政再建できなくなるのです。
ところでドイツは好景気であり、本来ならマルク高が起こり、ドイツの商品が海外で売る場合は高くなるという現象が起こります。しかし、貧乏な東欧諸国や財政破綻寸前のギリシャがあるので、ユーロは逆に下がっているのでした。そう、逆に安く世界にドイツ製品を売るチャンスになってしまったのです。
富める国が富み、貧しく国がより貧しくなる。
ドイツが儲かっているのはユーロ安が大きな原因です。ユーロ安の原因は東欧諸国とギリシャなどです。つまり、ユーロ統合の欠点は微税権をユーロ連合が持っていないからです。すべての国から微税し、富める国から貧しき国へ所得の再配分を行う必要があったのです。この欧州一律で徴税権を持たないことが、おそらくユーロ崩壊に繋がるでしょう。
徴税権を持たない政権と言えば、ピーンと来ますね!
徳川幕府は全国3000万石を管理する中央政府でありながら、徴税権を持っていませんでした。富める者から貧しき者への所得再配分を行わなければ、幕藩体制が崩壊するのも当然なのです。そして、江戸時代の最も富める者である商人(流通)に課税しない制度は、欠陥制度としか言えません。
田沼意次は遅まきながらその欠陥に気付き、改革に取り掛かります。株仲間の冥加金制度、通貨統合、長崎貿易を奨励、および蘭学の奨励等々を行い、最後に全国課税を狙っていました。
失脚した田沼意次に代わって、幕政をとった松平定信は古典的な回帰主義でしたし、田沼の遺児も田沼時代に戻しただけであり、その先を目指しません。
結局、徴税権を持たないという欠点は補えなかったのです。
<無理ゲーの「天保の改革」>
水野忠邦は『重農主義・経費削減』を基本原則とし、『質素倹約・娯楽禁止・農業奨励・軍制改革(西洋砲術の導入)』などによって幕府の権威と統制を回復できると考えました。
水野忠邦の政策は主に
・株仲間の解散
・倹約令
・棄捐令
・人返し令(ひとがえしれい)
・上知令
・三方領知替(さんぽうりょうちがえ)
・薪水給与令:開国はできないが、薪と水の補給はします。
であります。
株仲間の解散は菱垣廻船を運営していた江戸十組問屋仲間などを含むすべての問屋を解散させます。現代風に言えば、闇カルテを作って物価を高止まりさせていると、談合企業を一刀両断した訳です。
天保年間と言えば、
「天保年間、江戸の人口は推定100万人と言われ、これは当時50万人のロンドン、54万人のパリをはるかに抜いた世界一の大都市であった。その上、江戸には高度な自治制がしかれたが行政の実権は町奉行配下の町年寄りにあった。 天保4年に始まった大飢饉のあと、急激に膨れあがった江戸の人口を減らす為に幕府は人返しのお触れを下して多数の人間をその生国に返したのであった。」
というナレーションで始まる『破れ傘刀舟悪人狩り』(やぶれがさとうしゅう あくにんがり)です。水野忠邦は「てめえら人間じゃねえや!叩っ斬ってやる!」と斬ってしまった訳です。本物悪人なら買いだめが解消されて物価が落ち着く訳なのですが、戸十組問屋仲間はそれなりに儲けていましたが、悪人ではなく。江戸に物資を運ぶ善良な商人だったのです。
物価は物資が足りない為に上がるのであり、その流通を担う商人を解散させれば、より物資が入らなくなり物価がさらに上昇します。
倹約令は、享保・寛政の改革にならって聖域なく将軍・大奥も対象とした贅沢を禁じ、庶民の風俗も取り締まるという法令です。幕府の財政を立て直すという意味で贅沢品を止めるのは別に悪いことではありません。それを庶民まで強いるのは、デフレ経済をより酷くするだけであります。高価な料理、食材や菓子、衣類、装飾品の取引を禁止し、役人が取締りを強化します。販売すれば重い処分がまっています。さらに、風俗や思想まで取り締します。様々な人々に影響を及ぼします。
浮世絵の葛飾北斎(かつしか ほくさい)などは、当時の浮世絵に贅沢品の藍染をふんだんに使っていましたから贅沢品としても風俗としても取締りの対象になります。そこで北斎は問題のない『富嶽百景』などを手掛けることになるのです。それでも江戸は窮屈になり、天保13年(1842年) 秋に信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ね、嘉永元年(1848年)まで滞在することになります。
人返し令は、江戸出稼人の帰農を強制し、新たに農村から江戸へ移住することを禁止する法令であり、農村の労働力を確保することを目的としました。
現在でも過疎化の問題が大きくなりますが、食っていけないから都市部に移動します。江戸の百姓も食えるくらいなら捨農などしません。「帰れ!」と言われて帰る馬鹿などおりません。
棄捐令は、困窮する旗本・御家人の生活を守ろうと、札差(ふださし)に低利貸出しを命じました。基本的に無利子、返済は20年、しかも借財が多い者は償還の措置をとるというものですから、誰が貸すのでしょうか。
この法令の発布後、当時の札差91軒のうち、半数以上にあたる49軒が店を閉じてしまいます。その後も紆余曲折ありますが、基本的に商人は儲ける為に商売をするのであって慈善事業ではないということが理解できなかったのでしょう。
上知令は、欧州列強の外国船と戦いになった場合、江戸・大坂十里四方は、幕府領(天領)、大名領、旗本領が入り組んでおり、不便が悪いという理由から領地替えで1つにまとめるものです。
三方領知替も庄内・長岡・川越の領地替え。上知令と同じ理由だと思われますが、文献には将軍の大名に対する絶対的権力を示そうとする記述もあります。
いずれの理由にしても、領地替えは多額の資金を必要としますから、幕府から全額補助するとでも言われないと賛同できなかったでしょう。
水野忠邦の政策の目的は判りますが、経済活動を完全に無視して思想のみで行っています。しかも米本位制度ですから、不況であるかどうかに興味がなく、幕府・大名・幕臣の生活をどう保障するかという目的のみに囚われています。
江戸時代において、古きを尊ぶ習慣が強く。それは決して悪いことなどではないのですが、因命を疎かにすると道を過ってしまいます。
詩経の大雅文王に「周という国はずいぶんと古い国ですが、その命は、維れ新たなり」と書かれています。国が古くなろうとも、悪い習慣は新たに変える。これが『維新』の語源であります。
大権現様や中興の祖を敬愛する余りに、新しい知識を受け入れないと最悪の結果を招くという典型的な例であります。
通貨経済を理解し、デフレを知ろうとしたならば、結果は異なっていたでしょう。
さて、そんな中で薪水給与令は開国はできないが薪と水の補給はしますというものであり、水野忠邦が行った政策の中で唯一まともな法令ではないでしょうか。
〔当時の主な流れ〕
1825年(文政8年)異国船打払令
1834年 水野忠邦、老中に就任。
1835年 『天保通宝(てんぽうつうほう)』を改鋳(流通した銭貨)幕府益は約18万両。
1836年 甲州郡内騒動、三河加茂一揆
1837年 大坂で大塩平八郎の乱が起こる。
1837年 モリソン号事件。漂流民を載せたアメリカ船のモリソン号を浦賀奉行が砲撃し、追い返す。
1838年(天保九年)水野忠邦、江戸の防備のため、江戸湾の調査を江川と鳥居に命じた。
1839年(天保十年)3月頃、渡辺崋山『初稿西洋事情書』『再稿西洋事情書』『外国事情書』『諸国建地草図』成稿 (崋山は打ち払い令が結局は諸外国による侵略の名目となりかねない)
1840年 (中国)アヘン戦争が起こり、清がイギリスに敗北する。
1840年 三方領知替
1841年5月 現在の東京都板橋区の武蔵徳丸ヶ原にて、幕府は西洋式の軍事演習を決行。
1841年5月 水野忠邦、天保の改革を開始し、奢侈禁止令や株仲間の解散令を出す。
1843年 水野忠邦、人返しの法、上知令などを出すが、失脚する。
1853年 ペリーの来航
<日本の「金融システム」はイギリスより進んでいた>
イギリスの経済学者アンガス・マディソンは平成18年に試算した1850年(嘉永3年)の日本のGDPは217億ドルと西欧列強の一角であるスペインの161億ドルを抜いていたと報じた。もちろん、イギルス633億ドル、フランス580億ドルには遠く及ばない。
しかし、上下水道のインフラはペリー提督が「吾々が誇りとする合衆国の進歩した清潔と健康さより遥かに進んでいる」と舌を巻いています。
明治維新以降、日本はロンドンを中心とする世界の金融システムに組み込まれますが、ロンドンは金本位制を取り、金を裏付けとした紙幣を発行し、金と紙幣の交換レートを固定しているというシステムです。
江戸幕府も金・銀本位制で金貨・銀貨・銅貨を発行しますが、各藩が発行する藩札は米・金銀銭などを裏付けにする複雑な資産です。
藩札の実態は諸説ありますが、日本銀行の調査によれば、1871年(明治4年)の廃藩置県当時の発行残高は約9000万両に上りました。
藩札というは、藩が独自に出す通貨です。しかし、藩には幕府のように金銀を産出できる藩ばかりではありません。それゆえに米や特産物、金銀などの担保に藩券である藩札を発行しました。本来なら幕府が十分な通貨を発行していれば、物価が安定するですが、物価統計に基づいて貨幣量を微調整するなんて芸当は不可能でした。そもそも貨幣経済を理解している方が超少数派だったのです。
藩札は1661年(万治4年)に福井藩が幕府の許可を得て発行します。1700年代中頃になると慢性的な貨幣不足、各藩の財政悪化を理由に全国的に広がります。藩札は他藩で使えませんから通商では共通通貨に換金します。
日本人が海外に出掛けるときに、その時のレートに応じて円をドルやユーロに替えるのと同じです。藩内での貨幣不足を藩札が補うことで貨幣不足が緩和されたのです。
つまり、日本人は国内においても交換レートという認識を思って生活していたのです。世界金融に組み込まれて、交換レートを知っている日本人は簡単に対応できたのも頷けます。
<借財は悪ではない>
多く申しませんが、年収400万円の家庭で借金がゼロとします。世界のトヨタは凄い資産を持っていますが、負債は17兆円くらいだったと思います。銀行が金を貸してもいいと言うのはどちらでしょうか。
そうトヨタですね!
借金はそのまま規模の大きさを表します。収入と支出のバランスシートで決まるのです。藩札を大量に刷って、大量の借財を抱えているのは、その藩がそれだけ信用されているという証拠なのです。
日本政府は「借金が1000兆円を超えて大変だ。将来の財源を食っている。」などと大騒ぎしていますが、元財務官僚の高橋洋一氏よれば、国民に向けて借金1000兆円を訴えて増税を唆す一方で、海外にはバランスシートを見せて、実質の借金が400兆円未満であることを主張します。結果、日本の国債はマイナス金利になっています。
プライマリーバランス(税収と歳出を均衡)を健全化することは、私も大変好ましいことだと思いますが、それで緊縮財政になるくらい止めて方がマシです。投資を増やし、税収を多くするというのが健全な方策なのです。
どうしてもやりたいというなら、政府の『質素倹約』だけをやることをお勧めします。つまり、公務員の給与を半分にして、それを財政投資の財源にするのが一番よい方法なのです。財政投資の削減や増税は消費の低迷を生み、経済を不況にするだけであり、プライマリーバランスの健全化には役立ちません。
各藩の勘定方は借金返済のリスケジュールを組む必要にかられます。
最初に取りかかるのは、どうやって返済するかの方法です。次に期間の延長です。そして、金利の軽減を頼みます。一般的にこの方法が最もやられたと思われます。
しかし、藩によってはもっと強引な方法を使います。藩の黒字部分を残し、赤字部分を分割し、踏み倒すという方法です。
現代風にいうなら、採算部門を新会社に移行し、赤字会社は倒産させるのです。そして、新会社は借金を気にせずに事業を転換する。そういう強引なことをした藩もあります。
<やろうと思えば何とかできた諸藩の借金問題>
大名の財政は
〔貯蓄―投資〕+〔税収―財政支出〕=輸出―輸入
という経済活動になっており、どの藩も一藩のみで経済活動を完結していませんので自ずとそうなります。
忠臣蔵で有名の大石内蔵助は、赤穂藩を引き渡すときに藩札を引き上げて、問題なく藩を引き渡します。赤穂藩は特産品に塩を持っており、藩の財政は比較的に豊かでした。しかし、それでも藩札を配っておりました。
幕府は収入より支出が多く、石高制では基本的に赤字です。大大名は大大名としての沽券にこだわり、財政出動を惜しめませんから藩の財政は赤字です。特産物などがあり、比較的に豊かな大名は贅沢を止められないので赤字です。米しか収入がなく、新田の開発もままならない貧しい大名は漏れることなく赤字でした。
結局、幕藩体制において、財政を健全化させていた藩はなかったのです。しかし、本当に健全化できなかったのかと言えば違います。
●上杉鷹山:米沢藩
●山田方谷:備中松山藩
●松平治郷:出雲松江藩
この三方は藩の財政再建に成功した方です。他にも吉宗が紀州藩の財政再建に成功しています。この御三方に共通するのは、質素倹約ではありますが、緊縮財政ではありません。投資を行い、特産物を育てて藩の収入を増やすというものです。
上杉鷹山の米沢藩では、比較的早く財政破綻を起こします。そもそも上杉家は謙信公から来る名門であり、知行替えで領民が付いて行くほど慕われていました。また会津藩120万石の家臣団6000人をリストラせずに、米沢藩15万石(実質30万石)で召し抱えていましたから、人件費だけで破綻した訳です。
さて、米沢では大工や庭師を『御大工様』、『御庭様』と呼びます。どうして『御』と『様』を付けるのでしょうか。
それは大工や庭師が自分の上司だからです。そう、鷹山は副業を持たせることで知行以外の収入を得る方法を考えました。鎌倉時代の「いざ、鎌倉」と言われる『半士半農』ならぬ『半士半工』を奨励した訳です。こうして、手に職を身に付けた武士は、米価の変動に関係なく、一定の収入を得ることができるようになったのです。
山田方谷は幕末の人であり、備前松山も10万両の借金を抱えて財政破綻寸前でした。そこで商人に利子の軽減と編纂期限の延長を願い出て時間を稼ぎます。そして、地元の特産品を様々開発します。特に備前松山から取れる鉄に注目します。鉄を鉄として売らず、製鉄して鍬などの商品に変えます。さらに船を一艘買い上げて、大坂を通さずに自前で江戸まで運んで捌きました。備前松山藩の鍬はとても人気がよく、飛ぶように売れて余剰金が10万両になるほど儲けたのであります。
この方法は秀吉がやった自前で物流に関与する方法です。必要なところに必要な物を持ってゆく。その儲けは膨大な額になる訳です。備前松山藩の商人は黙って見ていたのでしょうか。いいえ、備前松山藩の商人も流通の過程で関与しています。しかし、すべてを商人で行おうとすれば、初期投資が大変な額になります。しかし、藩主がそれをすべて引き受けてくれるのですから、商人はローリターンですが、ローリスクです。決してそんな取引ではありません。借財の返還も滞りなく終ります。
因みに秀吉は全国に情報網を持っていました。
どこで何が売れるのか?
豪商たちは秀吉と情報戦を張り合うのではなく、秀吉に協力して甘い汁を啜ることにした訳です。全国の流通から上がる収益が秀吉の税源だったのです。山田方谷は徳川家康が取り戻してくれた流通の自由を巧く利用して財政再建に成功した訳です。
松平治郷の出雲松江藩も放漫財政から50万両に及ぶ借金を抱え、財政破綻を起こします。7代藩主松平宗衍はその責任で隠居し、明和四年(1767年)に松平宗衍は17歳で当主となります。年貢の徴税権を担保に70年割賦払いでリスケジュールを行い、まずは米高を上げる為の川の開削や砂防など治水工事を行います。そして、倹約令で大量のリストラも行います。さらに繁殖産業を推奨し、木綿に加えて朝鮮人参など、より価値の高い物を栽培しました。付加価値の高い物に目を付けたのがよかったのでしょう。
この他にも佐賀藩の鍋島直正は、「粗衣粗食令」とリストラで財政削減を行い、下級藩士から有用な人材を抜擢すると農民保護政策を打ち出し、ハゼの木の栽培で「和ロウソク」を作って財政を立て直します。その財貨を元手に日本初の反射炉、大砲鋳造、1855年(安政2年)には、蒸気車と蒸気船の雛形を作り、10年後に国産蒸気船「凌風丸」を完成させています。
大抵の藩は財政再建をしようと思えば、アイデア1つで出来るハズなのです。しかし、産業を育成するというのは簡単な話ではなく、正しい投資を行わないと返って財政を悪化させます。
本書では、「歴史教科書に書いてある藩政改革は、基本的にIMF的な緊縮を礼賛するものばかりです。基本フォーマットは、倹約と徴税の厳格化、それに産業振興の組み合わせです。」と書かれています。
さらに「IMFの緊縮策では通貨危機を引き起こすだけなのです。経済危機を救うのは、緊縮財政ではなく、経済成長なのです。」とも書かれています。まったく、同感です。
<薩摩と長州の藩政改革>
借金の返済と言えば、利率の減額、償還期限の延長などリスケジュールを組むのは当たりまです。しかし、大名は支配階級に君臨しています。ですから、その権限、踏み倒しを酷使する大名もいました。
その代名詞が薩摩藩と長州藩です。
薩摩藩は1773年(宝暦3年)の木曾三川の手伝普請で40万両の支出がり、70万両に上る債務があったことから、合計の債務は100万両を越えました。第25代島津重豪は、一方的に「デフォルト」を宣言し、大坂の銀主たちの借金を踏み倒しました。
怒った大坂の銀主たちが幕府に訴えますが、大大名の島津藩に文句を言える勘定方などいません。大坂の銀主たちは泣き寝入りです。もちろん、4年後に「泉岳寺大火」が原因で薩摩藩の江戸屋敷が全焼しても、大坂の銀主たちは誰も金を貸しませんでした。重豪は、金利の高い江戸の金融業者から借りて凌ぎます。
1883年に重豪が亡くなる頃には、500万両の借金に膨れ上がっていました。この時、重豪の遺言が実行されます。500万両の証文を集め、預かるとそれを火にくべて燃やしてしまいます。そして、一方的に金利なしの250年の分轄払いというリスケジュールを発表します。尤も薩摩藩は律義に廃藩置県で藩がなくなる時まで、毎年2万両づつ返還したそうです。
薩摩藩の収入は、金山からの金の産出と琉球貿易による砂糖の販売が大きな収入源でした。薩摩藩が藩政改革で不正役人を処分し、砂糖の情報操作をして高値で売り抜けるようにして、毎年4万両もの利益を上げたそうです。10年後の1839年(天保10年)には、各藩でサトウキビの栽培がされて価格は半値に下がっていましたが、100万両の貯蓄に成功していました。
長州藩も1840年(天保11年)時点で141万両の債務がありました。長州藩の収入は約6万3000両でしたので返済に22年も掛かります。藩政改革を行い、俸禄を半分にするという大改革です。庶民にも所得の4.5%を納税させて、年9万両の財源を確保すると、金利を3%に引き下げ、元本は37年払いを宣言します。
不採算部門は長州藩に押し付ける形で処理すると、採算部門は毛利家(撫育方)に移します。「製塩業」「金融業」「製紙業」「綿工業」などの殖産興業を推進しました。廃藩置県の頃には、100万両の余剰金を生んでいます。
<致命的な「為替レート」の失敗>
司馬遼太郎の「竜馬がいく」などの小説やドラマ、映画などでもよく紹介されます。
メキシコ銀貨(1ドル)4枚は天保一分銀12枚に交換し、天保一分銀12枚は小判3枚に交換できます。この小判3枚を上海に持って行けば、メキシコ銀貨12枚と交換でき、交換するだけで3倍になるのです。
もちろん、すぐにその欠点を気づいた幕府は、「安政二朱銀」という貿易通貨を発行しました。
メキシコドル4枚=安政二朱銀8枚=天保一分銀4枚=小判1枚
為替対策の「安政二朱銀」ですが、長崎の役人がその事を説明できるハズもなく、武力の威嚇も相まって効果を失います。結局、「万延の改鋳」(1860年2月11日より)によって国際レートに修正するしかなかったのです。
つまり、
天保小判1枚=万延小判3枚=天保一分銀12枚=メキシコドル12枚
金1に対して銀12の国債レートに改編した訳です。
しかし、それは単純に国内の貨幣量が急増することを意味します。
天保小判一両⇒万延小判三両一分二朱
安政小判一両⇒万延小判二両二分三朱
短期間で貨幣量が増加すれば、インフレが発生します。それもハイパーインフレ並み奴がきます。
落語で必ずといってよく出てくるのが、うどんやそばであります。
「そば一杯、頂こうか!」
「へぃ、16文でございます」
ところが翌日に行くと、
「お代はいくらだい!」
「へぃ、24文でございます」
「おぃ、おぃ、そりゃ高すぎるだろう」
二八そばの価格は6~8文に時代が続き、12文、16文と緩やかに値段が上昇しますが、1865年(慶応元年)になりますと、一気に24文に上がっています。さらに明治では五厘(50文)まで上がっています。物価の上昇が庶民に与える影響は図りしれません。
教科書には物価高からくる人々の困窮まで記載していませんし、大河ドラマなどでもほとんど描かれた形跡は見られません。
上念氏は「人々は経済的に困窮すると極端な思想や考え方に救済を見出すからです。」と指摘しているように、「開国したことが生活悪化の原因だ!」と素朴に信じてしまうのです。為替レートの失敗は攘夷派の心の火を付けたのは間違いないでしょう。
もちろん、為替の暴落は幕府への信用が低下した事を示します。幕藩体制は幕府と藩の信頼で成り立っている政権ですから、徳川は沈みゆく船となったのです。
そもそも『日米修好商条約』とは何だったのでしょうか?
日本は鎖国を始めて
①固定相場制 ○
②金融政策の自由 ○
③資本取引の自由 ×
資本取引を止めたことで、自国通貨の自由な金融政策(貨幣の改鋳)を手に入れました。
天保一分銀4枚=天保小判1枚
というのは、日本独自の金融ルールに過ぎないのです。出島などでオランダや中国と取引をしていますが、これは金や銀の重さで取引きを行っているのであって、日本国内での自由な取引を許していません。
ところが、『日米修好商条約』によって資本取引の自由を許可した為に、
①固定相場制 ○
②金融政策の自由 ×
③資本取引の自由 ○
いままで自由にしていた国内での金融政策の自由を失うのです。つまり、ハリスとの『日米修好商条約』の同意は、国際レートに合わせた金銀レートの合わせることを承知したことを意味します。
幕府は本来、移行期間を設けて、
天保一分銀12枚=天保小判1枚
を実現する必要があり、そのことを各藩に伝える義務があったのです。しかし、この為替レートの変更を幕府自身が、気が付いていなかったのです。
この『日米修好商条約』に当たっていた下田奉行の井上清直と岡田忠養は貨幣経済について理解していません。さらに彼らの上司である海防掛目付の岩瀬忠震も、川路聖謨も、水野忠徳も貨幣経済を理解していませんでした。
両替商の商人でもアドバイザーとして、商人達を連れてきた方がよかったでしょう。彼らはそんなことは絶対にしません。田沼意次のように、商人も大名と同じほどに経済に影響力があると考える武士はごく少数だったのです。ほとんどが「貴穀賤金」を信奉し、自分達の方が偉いと信じていたのです。
現代の日本の財務官僚は、絶対に経済学者や経営者の話を聞かないと元財務官僚の高橋洋一氏は言います。彼らは自分達の方が偉いと信じているからです。しかし、彼らは東大法学部の卒業生であり、経済を学んでもおりません。出向で本当の意味での会社の経営に携わった経験もありません。出向そのものは意味があるのですが、出向先で出世が決まっているので多彩な知識というものに昇華しません。つまり、農業も林業も水産業も工業も科学技術も専門知識を持ち合わせていないのです。何も知らない者が日本を舵取りしているのですから迷宮するのも頷けます。現在の官僚と江戸の幕臣が余り似過ぎて笑えません。
いずれにしろ、幕府の失策によって日本が大きく激動の時代に突入するのですが、その原因を正しく記載する教科書が存在しないことが残念でなりません。
第6章、明治維新は必要だった?
金の怨みが恐ろしい。
最初に本書の初めに明治維新の本質を捉えているのではないでしょうか。幕府の命運は「薩長同盟」によって決まりました。米と武器の交換などと言いますが、実際に薩摩で米が不住していたかは疑問です。開国により日米不平等条約を結ばされ、国内の混乱と金の流出、そして、インフレによる物価高は何かと混乱に拍車を掛けることになります。幕府の統治機構に見切りを付けたというのが本音ではないです。実際の薩摩の心変わりは現代でも不明のままですが、時間の問題であったことも事実であります。
いずれにしろ、大政奉還が実現した時点で薩長の目的は達していたと思われるのですが、そのまま兵を進めて、鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城、最後に箱館五稜郭まで突き進みます。徳川家を排除するという一点を除けば、戦う必要のない内戦でした。そこから関ヶ原の怨み説とか、島津久光の将軍説とか、長州の借金説とか、様々な逸話が生まれています。
私には、一度動かすと人の意思を無視して突き進むのが戦争であり、とどのつまりは『金の怨み』があぶれた武士の長年の怨みとなって駆り立てたのではないでしょうか。
<明治維新をしても変わらない生活?>
この本書の肝は何といっても維新後の明治政府が大衆から信用されていなかったという一言に尽きるのではないでしょうか。
新政府が発行した太政官札は信用されず、江戸時代から使われていた金貨・銀貨・銅貨および藩札の方が信用されています。
太政官札に対して金の交換レートは、
太政官札100両 対 金100両
とならず、
太政官札120両 対 金100両
という実勢レートを追認せざる得ません。金貨より3割ほど低い価値しか大衆は認めていなかったのです。そこで新政府は金本位制を軸に金1.5gを含有した1円硬貨を作り、補助通貨として銀貨・銅貨を定めます。
1871年(明治4年)、円の誕生です。紙幣についてはドイツに委託して「明治通宝」を発行し、太政官札を回収します。しかし、円が誕生するとお金不足のデフレが発生します。金本位制度というのは金の保有量以上の紙幣を発行できない制度であります。『日本米価変動史』には、「年末には8割下落」と書いてあります。年貢で財政を保つ新政府の財政が悪化したのは当然ですが、農民も困窮します。しかもデフレは景気を悪化させますからあらゆる方面で失業者を生み出した訳です。
ところで、戊辰戦争における懲罰的な領地替えがありましたが、「廃藩置県」が実施される1871年(明治4年)まで藩も年貢も存在します。また、年貢が地祖に改められるのはその2年後です。
この廃藩置県で大名が反乱を起こさないかったことが不思議ですね。その答えが書かれています。
廃藩置県の2年前に「版籍奉還」が1869年(明治2年)に行われています。版籍奉還とは、大名の所領と領民を朝廷に返すというものです。中でも「禄制改革」が大きな魅力であり、旧藩主は旧領地の石高の10%を家禄として支給されるとありました。藩の運営は難しく、石高10%の実禄はありません。それを新政府が保証してくれるというのですからおいしい話です。しかも旧債一切を引き受けてくれるというおまけ付きです。廃藩置県がスムーズに進んだのは下準備が終わっていたからです。
結局、新政府は何をしたのでしょうか?
円を導入した以外は何も経済活動をいじくっておりません。廃藩置県で大名を排して中央集権体制を作った以外は何も変わりません。
序でに言えば、明治政府の役人の多くが江戸幕府の幕臣であります。大久保 利通、西郷隆盛、木戸孝允など高級武士は別にして、薩長の武士たちは国政など扱ったものはほとんどいません。国政を扱える武士は江戸の幕臣しかいなかったのです。
教科書では「文明開化」が日本の近代化に繋がったと書かれていますが、本書が書いているように、日本の『文明開化』は「ちょんまげを切った」、「洋服を着用した」というものであり、ヨーロッパ列強と同じ水準の経済システムを持ち、文化度も劣っていなかったのです。
明治初期に日本に来日したイザベラ・バードの『日本奥地紀行』には、「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」としるし、「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」と決して野蛮な未開の地ではないことを語っている。
『朝鮮紀行』では「人工の道や橋も少なく、道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」「ソウルには芸術品や公園や劇場、旧跡や図書館も文献もなく、寺院すらないため、清や日本にある宗教建築物の与える迫力がソウルにはない」と書かれているように日本と比べようもありません。
結局、明治維新とは何だったのか?
明治維新とは、徳川267年の忘れ物を為した事業なのです。つまり、石高制の廃止も地租改革も貨幣制度の安定も金本位制もやろうと思えばできたのにやらなかった徳川幕府の宿題を、西欧列強の植民地にさせないという気合いで薩長連合がやってのけただけの事と上念氏は言っております。
私も同感であり、私は『大権化様の呪い』と言っています。そして、『大権化様の呪い』は現官僚にも引き継がれ、「やれ質素倹約だ」「緊縮財政は正義だ」「胡麻の油と国民は、絞れば絞るほど出るものなり」と躍起立てているのではないでしょうか。
« 上念司 経済で読み解く明治維新の概略3 | トップページ | 上念司 経済で読み解く明治維新の概略5 »
「歴史」カテゴリの記事
- 信長公記の軌跡 目次(2018.12.07)
- 古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊(2017.10.21)
- 古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 瀬織津姫④瀬織津姫とかぐやの里(2017.10.20)
- 古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 目次(2017.10.19)
- 古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》 5. 日本の神話 国産み(2017.10.18)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント