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上念司 経済で読み解く明治維新の概略1

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<この歴史館へGO! 歴史のブログ

上念司 経済で読み解く明治維新の概略

概略1:第1部 江戸時代の経済、第1章「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」 

概略2:第1部 江戸時代の経済、第2章「江戸幕府の慢性的な財政難」 

概略3:第2部 大名と百姓 

概略4:第3部 江戸幕府の滅亡 

概略5:まとめ

この本は実にすばらしい。

日本史において様々な事が記録されているが、状態を相対的に検証と比較した歴史教科書はない。江戸において改鋳は改悪、改革は正義と称されているが、本当に正しいのかという疑問を持とうとしない。それは戦国、室町、鎌倉、平安、古代とすべてにおいて共通する日本の歴史教育における間違いである。

歴史とは検証する力を養う科目であり、人間の生き様を知るものでなくてはならない。『経済で読み解く明治維新~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~』は、その問題に一石を投じた作品である。

マイクロソフトの採用試験にこんな問題がある。

例題:底辺が10cm、高さ6cmで角ABCが直角の以下のような図の面積を求めなさい。

01

簡単すぎて、これが入社問題かと疑問に思う方もいるかもしれません。

三角形の面積を求める定理で10×6÷2=30cm²と解答された方はいるでしょうか?

そう、答えた方は間違いであり、採用されません。

答えはシンプルであり、そんな三角形は存在しないか。あるいは虚数であります。

馬鹿な!

と思う人がいるかもしれないが、解答を聞けば、「あっ、そうか」と頷くでしょう。

02

与えられた定義に何の疑問を持たない者は間違ってしまう。それがマイクロソフトの試験の目的です。同じように歴史の定義そのものを疑う必要があるのです。

歴史書には沢山の悪人が存在します。

蘇我氏は天皇家をないがしろにした悪人。

平清盛は多くの民を苦しめた極悪人。

信長は神も仏も恐れぬ残虐人。

綱吉は人より獣を尊んだ犬将軍。

金に混ざりものを加え粗悪な改鋳は庶民を騙す悪しき行為だ。

質素倹約の改革は贅沢を排した正義の行為だ。

歴史書に掛かれている定義から疑問に思わないと真実の歴史など見えてきません。根底を疑え、誰が誰に残した資料かを確認しろ。それが歴史には大切なことなのです。

しかし、誤りだらけの歴史教科書を一心に信じて疑わない日本の子供達がかわいそうです。文科省のお役人は正しい歴史感を持つという慣習がありません。そもそも歴史書とは、時の政権が正統性を讃える為に書かれています。様々な日記や地方の伝承や記録の確認を行って、真実の歴史を暴かねばなりません。

そう言った意味で、この『経済で読み解く明治維新~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~』は、一石を投じるすばらしい作品であると評価します。一度、購入されて読まれることを進めます。しかし、購入を進めても疑問を感じる方も多いでしょう。では、参考に簡単な概略を書いてみましょう。

【経済で読み解く明治維新】

~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~

第1部、江戸時代の経済

第1章、「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」

時代劇に見る百姓は悪代官に虐められるみじめな存在でしかありません。しかし、時代劇は紙芝居であり、江戸の百姓を描いている訳ではありません。近年では士農工商という身分差別すらなかったということが判ってきました。つまり、農民が苦しまれるだけの存在でなかったことが書かれています。

そう歴史書には矛盾が満載です。

犬将軍で有名な五代将軍徳川綱吉は、「生類憐れみの令」のような後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになったとされています。この数々の悪法によって財政が頻拍し、貨幣の改鋳を実施したが返って経済を混乱されたと歴史書には書かれており、後の吉宗が享保の改革によって立て直したことになっています。

しかし、ちょっと待って下さい。

元禄文化が華やいでいた江戸がある日を境にして、突然に財政難の苦境に立たされて江戸の庶民が困窮に追い遣られております。これがこの章の主観であり、歴史書には矛盾が満ちていると書かれています。

さて、本文にはありませんが、この矛盾を少し解説しましょう。

<全国の石高と人口の推移から見る>

1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を作ります。しかし、大阪夏の陣が終わるまでは戦国時代が続き、多くの武将や兵が命を散らします。そして、泰平の世が作られていったのです。これを石高と人口推移で見るとこんなグラフが出来上がります。

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吉宗の時代と明治の時代に大きな人口増加が起こっていますが、これは統計の基準が変わった為に発生した齟齬であり、爆発的な人口増加ではありません。一石は人間一人が一年間で消費する米の量を表わします。明治政府が改めて人口統計を取ると、日本には3000万人の民がいたことが判明しました。江戸時代は戸籍に載らない人間が人口統計に入りません。また、初期の大名は兵数を隠していました。何が言いたいのと申しますと、石高が人口にほぼ比例するということが明治になって証明されたということなのです。

家康、秀忠、家光の時代に戦で荒れた田畑を開墾することで石高が上がっていきました。そして、家綱の時代に寛永の大飢饉を体験した幕臣の保科正之は備蓄米の必要性を感じて、米の増産に重きを置きました。つまり、利根川の改修と新田開発などをより鮮明にしました。利根川の改修と新田開発と言えば、伊奈 忠次(いな ただつぐ)が有名です忠次の利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策などが江戸幕府の財政基盤を確立させます。そして、この方針を飛躍的に伸ばしたのが保科正之の文政政治であります。青色のライン、武蔵の国の石高が平均より上に伸びているのが割りますか。

関八州および保科公の会津は、治水と利水によって新田開発が進められて、より豊かな国作りがなされました。その結果として江戸は栄えて、『元禄文化』の基礎を作った訳です。江戸周辺から始まった新田開発の波は全国へと伝播してゆきます。今では当たり前のように米所と言われる新潟ですが、戦国時代までは米がほとんど取れない荒れ地だったなんて信じられませんね。

さて、幕府の財政は川の改修や新田開発に費やされて決して楽とは言えません。しかし、新田から上がる石高によって幕府の収入も増えゆきます。つまり、米が増産されて価格が下落してもそれを上回る米を手にしたので幕府の財政が困窮したというのは全くのデマなのです。

確かに米が増産されたことで米価が下がります。稗や粟を食っていた庶民も米価が下がることによって米を食べ始めます。家康から綱吉の時代まで人口増加率が高いのは、食が豊かになっていった証拠です。つまり、米価が下がったが消費者も増えた訳です。戦がなくり、生産力が増し、人口も増える。

では、何故?

吉宗の時代には幕府の財政が破たんしていたのでしょうか?

<天変地異に弱かった江戸幕府>

学校の教科書では元禄文化に華やいでいる江戸が、ある日突然に農民が貧しくなり、一揆を起こして幕府に訴えます???

本文では、この貧しさの定義があいまいと言っています。しかし、人口増加は石高に比例して増えています。それなのに突如として財政難で百姓が一揆を起こすのです。矛盾に満ちています。そして、究極の選択としてテストに出るから覚えろと教師が言うのです。

上のグラフをもう一度ご覧下さい。元禄文化から吉宗の時代の間に何か見落としたものはありませんか。

ヒントは、保科公が家光公より佐渡などの埋蔵金の財産を多く受け取っていますが、明暦の大火です。江戸の人口は当時50万人でしたが、この大火事によって10万人以上が亡くなるというのですから大変な被害だったと言われています。

毎日1000俵(約52.5トン)の米が炊き出しに使用され、合計で6000石(約900トン)の米が無くります。他にも救済金として、銀に換算して1万貫、金換算なら16万両もの支出を行い。被害にあった大名屋敷などの修復に銀100貫以上の恩貸銀を貸し出します。恩貸銀とは、今でいう低金利の10年債です。こうして、四代家綱は三代将軍から財産として受け取った600万両の財産は、大火の4年後には385万両に目減りしていました。そうなのです。大火事や天災に見舞われると、幕府の財政はあっという間に困窮するのです。

元禄文化で沸き立っていた吉綱は貨幣の改鋳によって500万両もの利鞘を稼ぎ出し、江戸の財政を立て直します。しかし、吉宗の時代との間には『元禄の大飢饉』が横たわっているのです。

元禄時代の災害は、元禄の大飢饉が起こり、東北を中心に起こった飢饉は収穫を平均28%も落ち込ませ、死者が5万人を出したと言われます。そして、元禄161123日(17031231日)午前2時ごろに房総半島南端にあたる野島崎を震源とする元禄地震(げんろくじしん)が起こり、その4年後の宝永4年(1707年)に宝永地震が発生し、時をおかずに宝永大噴火(ほうえいだいふんか)と言われる富士山の大噴火が起こります。100km離れた江戸にも火山灰が降ったことが記録されています。凶作と天変地異が一度に起こってしまったのであります。500万両もの貯蓄はあっと言う間に消え去り、宝永5年(1708年)閏正月7日に被災地復興の基金「諸国高役金」として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金を言い渡します。こうして宝永5年中に金488770両余、銀1870目余を集めます。(しかし、被災地救済に支出されたのは62500両余とする史料もあります。)

それでも足りなかったようで財政負担の不足分を元禄小判で利鞘を稼いだように宝永通宝と言われる銅銭の改鋳で乗り切ろうと考えたようですが、5代将軍徳川綱吉が没したことで程なく中止となります。

つまり、好景気の元禄文化時代からある日、突然に財政難に落ちた訳ではなく、天変地異という不確定要因によって財政が困窮したのであります。元禄文化で華やいでいると教えておきながら、一方で綱吉の放漫財政で幕府を破綻させたように教える日本の歴史教科書の愚かさは救いようがありません。(もっとも放漫財政であったことは間違いないのですが、それで財政が破綻したのではないのです。)

<貨幣改鋳で500万両も儲けた綱吉>

四代将軍家綱から五代将軍綱吉に政権を引き継いだとき、幕府の財政は空になっていました。家綱政権も努力をしていない訳ではありません。

近年、映画のなった『天地明察』は渋川春海が家綱の時代に保科公より暦を作るように申し付けられます。暦が幕府公認となれば、使用料で幕府に膨大な利権が入ってきます。ところが渋川春海が天文の理を求め、暦『貞享暦(じょうきょうれき)』を完成させたのは貞享211日(168524日)ですから綱吉の時代になっていました。家綱の努力は綱吉の時代に花開いた訳です。しかし、綱吉が幕府を受け継いで39年後の話ですから財政難をそれ以前になんとかしないといけません。

そこで幕臣の荻原重秀は慶長小判2枚を元禄小判3枚にする貨幣の改鋳によって500万両もの利鞘を稼ぎ出します。この改鋳によって経済に混乱をきたしたと教科書には書かれていますが、改鋳後の元禄時代の11年間のインフレ率は名目約3%であり、おおむね良好な経済成長をしております。混乱していたというには穏やかで、日本の高度成長時代でインフレ率10%ですから、これで混乱したというなら『混乱』という定義を改める必要があります。

通貨の基本は、大衆がそれを受け入れるかに掛かっています。

つまり、

通貨=信用力

幕府が2枚を3枚に改鋳しても、1枚の価値を保障するといい。それを大衆が受け入れるなら、それは貨幣となるのです。

ところが教科書は新井白石の『正徳の治』を評価します。綱吉を犬将軍と悪者に仕立てて、綱吉の政治と経済政策を全否定する。本当に愚かしいことです。

荻原重秀が失脚すると通貨政策を改め、インフレ鎮静の為に慶長金銀の品位に復帰する良質の正徳金銀を鋳造し直しはデフレを引き起こした。これで新井白石は幕府の財政を完全に破綻させました。新井白石の経済音痴には舌を巻きます。儒教である朱子学の学者としては決して無能ではないのですが、経済活動を理解しない学者が政に首を突っ込むとロクなことになりません。

それより愚かしいのは、歴史を教える教師とその教科書を作る文科省の役人です。新井白石の言動を評価するなら、紙の上にインクを垂らしただけの紙幣には、ゴミ以下の価値しかありません。彼らは貰った給料を火に投じて、「こんなものに価値はない」と宣言するべきです。彼らは一体どんな経済基盤の上で生活しているかを見つめ直してから教科書を作るべきです。

<百姓一揆は年中行事、毎年どこかで起こっていた>

さて、財政が破綻するのはそれなりの理由があることを理解して頂けたと思いますので、次は一揆が起こった理由を書いておきます。

御厨一揆(駿河国駿東郡の御厨地方)のように、天変地異や冷害で収穫が落ち、大凶作になったのに対して年貢減免などを打ち出さなかったことにより、小田原藩に実力行使で訴えた。これが『御厨一揆』であります。これは史実であり、おそらく事実でしょう。ただ、このように農民は重税で苦しめられ、食うに困って、遂に実力行使に出たのでしょうか?これは農民が常に従順であり、代官などが悪人という先入観念に過ぎません。

士農工商(官吏・農民・職人・商人)の身分制度があり、農民は武士になれないという思い込みがあるからおかしな認識が生まれるのです。農民は元々半農半士の地侍や土豪であったことも忘れています。

時代は違いますが、二宮金治郎は百姓の子倅でしたが、家は貧しく貧乏でした。父が亡くなると土地も手放し、祖父萬兵衛の家に身を寄せるほど酷い有様でした。しかし、金治郎はそこから持前の知恵と努力で復活を果たし、百姓に戻り、さらに小田原藩に使え、遂に幕臣に迎え入れられるという出世を果たしたのであります。

また、山田方谷は備中松山藩の清和源氏の流れを汲む武家でありましたが、貧しく武士では食っていけないので田に鍬をいじる百姓になっておりました。方谷はその勉学の才能を認められ、士分に取立てられると藩政にも参加し、遂に老中とあって藩の財政を立て直し、明治政府は彼の才能を惜しんで政府に参加するように声を掛けましたが、彼は一民間教育者として亡くなります。

このように、農民が武士になり、貧しい武士が農民に落ち、才覚のない農民は土地を手放して奴隷農民になり、土地を貰えない次男・三男は奉公に出されて商人になる。士農工商という身分制度は戸籍によって存在しますが、行き来自由な実に緩い身分制度だったのです。

テレビ時代劇『暴れん坊将軍』では、毎週悪代官と桔梗屋が重税で農民を苦しめています。お役人様は葵の御紋を盾に悪どいことをし放題です。しかし、現実はまったく異なります。

初代から四代まで藩を取り潰しで土地を没収された大名は139件に上ります。主に外様大名であり、徳川の基盤を確かなものにする為です。四代家綱の時代に緩和されて以後、その数は激減します。さて、この幕府が召し上げた土地は四代家綱が死亡する1680年の時点では、326万石に達していました。中でも代官を派遣いて統治する土地を代官統治の蔵入地と呼び、幕府直轄地の天領です。因みに『天領』と呼び方は、他の大名の農民と違うという農民のプライドからから来る農民の自称であります。

幕府の公定年貢率が四公六民であり、普通の大名領が五公五民であったことを考えても随分と楽な年貢です。しかし、老中水野忠邦が出した上知令(1843年)の中には、実質は三ツ五分と書かれています。3.56.5民と5%も目減りしているのです。

幕府直轄領に派遣される代官の数は少なく、数で勝る農民は代官など一捻りでした。四公を守れという頭の固い代官がやってくれば、「悪徳代官」に仕立てて一揆を起こして代官を排除してしまう。調査に来た幕臣に「ウチの娘が手籠めにされて・・・」などと嘘拭いて、代官を失脚させるなどは簡単なことでした。

幕府にしても年貢を取り立てる為に兵を派遣していては赤字になる有様です。上役からは「巧くやれ!」という一言で片づけられてしまいます。つまり、幕布直轄地に住む農民と周辺の環境、そして、代官の才覚で収納率が決まっていたのであります。幕府直轄領の農民が起こした一揆は、江戸期全体を通じて480件に上ります。

テレビの紙芝居を鵜のみにして農民はすべて従順であり、代官は桔梗屋と悪巧みする悪徳代官、農民は貧しさから悪政に耐えかねて蜂起したとなんていう嘘を教えてはいけません。

一揆の一番の原因は贅沢です。人間は一度贅沢を覚えると中々にそれを止めることができません。農民も同じであり、米を食べ、味噌汁を呑み、餅をほおばるようになると、稗や粟しか食っていなかった時代に戻れなくなるのです。要するに代官はまるで和尚のように道徳を説き、生活を引き締めて贅沢をしてはいけないと説得する存在でないと成功しないのです。稀に宮本武蔵のような剣豪な武士が無理矢理に従わせるなどということもあったかもしれませんが、基本的に幕府直轄領の農民は代官を舐めており、一揆がよく起こりました。264年間で480件ですから一揆のなかった年はなかったのでないでしょうか。

<貧しい人ほどデモなんか行かない>

これは私の意見ですが、現在でも同じことが言えます。

毎日汗水を流して働く工場労働者は、その日の日銭を稼ぐ為に国会のデモなど行きません。そんな暇があったら働いています。しかし、ちょっと贅沢なブルジョワな方は暇を持て余して国会前に毎日通っています。ですから、数十年に一回くらいしか行われないデモは信憑性が高いですが、毎日詰め寄せるデモは結局のところ金持ちの遊びなのです。本人は真剣に政治をよくしようとがんばっていますが、貧しい者から見れば、ブルジョワジーの遊びに過ぎません。個人的にはマスコミがあの方々を国民と呼ぶのは止めて貰いたいものです。

また、30才の女教師が月給32万円で大阪府の方針で減額されることになると、「32万しかないのに、減額されらた食っていけないわ」とツイッターで呟くと大炎上しました。

「月30万以上も貰って何が足りないんだ」

「私なんて20万もないわよ」

「半分になってしまえ!」

30代で30万円以上貰えている人が少数の時代ですから、その教師の世間の相場感が判っていない状態が露わになりました。

それと同じく、幕府直轄地の農民は32万円を31万円に減らすと申し付けると一揆をするようなことが起こっていた訳です。これでは一揆がなくなりません。

<江戸時代の農民が貧しいというのは思い込み>

さて、天変地異や大凶作で本当の一揆も起こりましたが、なんちゃって一揆も数にカウントされているということを理解すれば、年中行事のようなものであり、

『一揆』=『農民は貧しい』

という定義は成り立たないのです。

貧しさの定義が曖昧などころか、農民が貧しかったのか検証する必要があります。確かに貧しい農家が常にいたことは間違いありません。才覚のある農家は豊かになり、才能や運の悪い農家は没落してゆきます。二ノ宮金次郎の家では、災害で農地が荒れ、整備する金もなく、父も亡くなったことで農地を手放します。

また、幕末に近づくほど各藩の財政は悪化し、収穫された米をすべて大阪に持っていって金に換えるなどということも横行します。そういった諸々の藩の行政手腕や天候など不確定要素などもあり、農家が貧しかった事実を探せば必ずどこかに出てきます。大切なことは個々の事案と相対的な比較を検証することなのです。

江戸時代は貧富の差が拡大し、富める者と貧しき者がはっきりとした時代であります。ただ、面白いのは支配層であった武士が貧しき貧困層に分類されていたという構図であります。先程の天領以外は大名か、家臣が土地の持ち主になります。そして、そのほとんどが総じて貧乏だった訳です。

「武士は食わねど高楊枝」

「鯛が買えないから、絵の鯛を飾ってごまかした」

「貧しくとも、心が満ち、足りていれば豊かと言うべし」

このような言葉は武士が貧しかったことを如実に表しています。決して、悪代官がむしりとって農民が貧しかった訳ではありません。

最下級武士のことを『ドサンピン』と呼びますが、「三両」のサンと、「一人扶持」の一、すなわちピンを合わせて「ドサンピン」というわけです。1両の貨幣価値が10万円くらいと推定されますから、1年間でわずか30万円ほどの現金と五俵のお米だった訳です。これでは食っていけないので剣道の師範や塾の塾長、あるいは笠張りをせねば食っていけません。こんな状態ですから、そりゃ山田方谷の祖先が自分で土地を耕す農民に落ちる訳です。

同じように才覚を持ってのし上がる農民が生まれてきます。江戸時代中期には農村部にも商品経済が浸透して、薬を買い求める農家も多くなっています。当時の薬は非常に高価であり、貧しい農家が買うことなどできません。しかし、農村部まで薬を売りに来たということは、富める農家もいたことを証明しています。また、健康ブームで湯治場が盛んに使われるようにもなっています。つまり、農民は貧しかったのではなく、『富農―大百姓―中百姓―小百姓―水呑』といった階層が生まれていった時代なのです。

<農民の定義が間違っている>

本文では、一言で百姓と言いますが、全人口の85%を占めると『新しい社会 歴史』(平成26年度版)東京書籍が書いています。さらに「厳しい身分による差別」「貿易振興から鎖国」とネガティブな記述が続きます。

農民が貧しくなかったと説明しましたが、百姓が85%も占めるのに誰が海運を営んでいたのでしょう。誰が人足や鍛冶師などになっていたのでしょう。しかも教科書には百姓は自給自足の生活だったと書かれていますから経済発展の見込みはありません。薬屋さんは誰に薬を売りにいったのでしょうか。

この百姓には農民と非農民が含まれており、人足などの単純労働から行商人などのサービス業を含めての数と考えれば、総じて自給自足なのかもしれません。

間違いだらけの教科書です。

教科書にはこう書くべきです。

・幕府は財政難でロクに役人を派遣できず、天領では年貢をまともに取り立てることもできずに一揆を起こされていました。

・貨幣は金であろうと紙であろうと大衆が信用すれば貨幣となり、逆に信用を失えばガラクタに落ちる。貨幣の改鋳は決して悪行ではなく、必要に応じて行うものである。

・百姓は豊かになり、分業化が進み様々な業種が生まれた。百姓85%と言っても農民以外の業種が多く含まれている。

それらを総じて上念氏は、

① 財政構造:徳川家は400万石しかないのに、3000万石の日本全体を治めなければならない。

② 管理通貨制度:たとえ瓦礫のごときのなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしなば、すなわち貨幣となるは当然なり。

③ 百姓は農民に非ず:百姓は決して農民と同義ではなく、たくさんの非農業民を含む。

と定義しています。

ところで、武士が貧しいかったならどこが儲かっていたのでしょうか。

<儲かっている所に手を入れれば、財政難は解決したのにね>

江戸初期で代表的な者は『淀屋』でしょう。淀川の河川工事を家康から許されて堂島を作り、天下の台所と言われるほどの米市を持ちました。余りの贅沢で囮潰しになった時に没収された金は、金12万両、銀125000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などです。大名に貸し付けていた利子だけでも銀1億貫(およそ100兆円)という膨大な額です。淀屋を幕府直轄にするだけで利子だけでも銀1億貫が手に入ったのですよ。頭のいい勘定方はいなかったのでしょうかね?

次に紀伊國屋の文左衛門は、安いミカンを紀州で買って江戸に持って行き、大阪で洪水が起こると流行病には塩鮭が一番と風潮して売った。そして、明暦の大火では木曾谷の材木を買占めて一気におよそ百万両を手にしたと言われます。しかし、側用人の柳沢吉保とか荻原重秀に盛んに賄賂を贈っていたから受注できたなどとの悪評も多いのですが、「御用商人」になって当然なのです。豊臣から徳川の時代に移る頃から海賊が消え、海運を行う初期豪商が現われます。港を整備して江戸までの海路を自ら作っていったのです。文左衛門もその一人です。本来は幕府が行う事業を豪商が変わって行う。持ちつ持たれつ関係であり、「御用商人」に取り立てられたのも当然だったのです。

他にも河村瑞賢、越後屋の三井高利、奈良屋茂左衛門、鴻池善右衛門、本間宗久、銭屋五兵衛など多くの商人が活躍をします。このような商人たちが富める層の者ですが、支配層ではありませんから、社会に何某か貢献しているのであります。

江戸時代は商人が活性化して、大衆が跋扈した時代と書く教科書はありません。農民は貧しく、善良な商人は弾圧を受けていた。いったいどこの国の話でしょう。まるで小説ですね。

もちろん、他の時代と同じく災害や天変地異が起こり、苦渋を味わった方々も多いでしょう。しかし、平均すると平穏な時代であり、石高も増加し、人口も安定していました。そもそも江戸時代の農民が貧しかったという評価は間違っているのです。

貧農史観は、現代の教科書が抱く幻想であり、相対的な評価がありません。

この1章は上念氏が教科書がおかしいと言いたかったのかは判りませんが、私にはそう読めました。

次に続く

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