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2016年6月

上念司 経済で読み解く明治維新の概略5

概略1:第1部 江戸時代の経済、第1章「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」 

 

概略2:第1部 江戸時代の経済、第2章「江戸幕府の慢性的な財政難」 

 

概略3:第2部 大名と百姓 

 

概略4:第3部 江戸幕府の滅亡 

 

概略5:まとめ

 

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私が私淑する安岡正篤先生は『続経世瑣言』で、史とはこう申しております。

「吾等如何に生き来ったという生活の記録であり、畢竟如何に生き来ったかという事の裡より如何に生くべきかの理法を明らかにするもの」

つまり、人の記録であり、人のいきざまであり、人生をどう決断してきたかという指標なのです。この一角の人物の人生史を嘗め尽くせば、その人なりに大成することができるのです。ただ、水を堰止めたダムのような知識ではなく、地下に溢れる井戸のように『有源の井水』となれるのです。堰止めただけの知識では水も腐ってしまうというモノです。

日本の子供は小学1年から高校3年まで12年間も歴史学を学んでいますが、何の力にもなりません。これは日本の歴史教育が『おしながき』だからです。『おしながき』とは、メニューのことであり、こんな奴です。

5 おしながき>

教科書には年表と事柄が書かれており、「胡麻とは、小さい粒の実で油などが取れます。豆腐とは、白く四角い食べ物です。」と説明されているだけで、実際に食することもなければ、良し悪しを比べることもありません。これでは唯の知識であり、人生を生きる助けになる知恵に昇華しません。況してや教科書を作っている人が実際に試行錯誤することなく、誰かが言った評価をそのまま写しているだけです。

ですから、元禄文化で景気が上がり幕府の富みも増していたに関わらず、吉宗が登場すると幕府の財政が破綻しているという矛盾を、放漫財政で破綻したと片づけてしまえるのです。少し調べれば、江戸時代は天災に対して非常に脆弱な体質であったことが判るのですが、それを調べるという努力をしません。

何故、そんな努力をしないのかと言えば、お偉い学者様がそう言っているから疑うことはできないという観念論が存在するからです。つまり、「教科書にそう教えているから疑うな!」と考えるという最も大切な『考える』ことを置き去りにしているからです。

ドイツの名宰相オットー・ビスマルクの言葉に

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」

という格言があります。

この言葉に疑問を持つ方も多いでしょう。歴史教科書を読んでも賢者になれる人は一人もいません。中身はありません。歴史と人物史であり、一角の人物の人生を嘗め尽くすことであります。意味を取り違えば、格言も間違ってしまいます。結局、日本の子供たちはみんな愚者からスタートしなければなりません。もしかすると、日本人が優秀になってもらっては困る誰かの陰謀なのでしょうか。大衆は常に愚者であった方が、為政者にとって都合がいいのです。

いずれにしろ、学校教育12年間で一角の人物を2・3人だけでも嘗め尽くせば、その子供達の人生は非常に豊かなものに変わるでしょう。

【経済で読み解く明治維新】

~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~

まとめ

上念 司の『経済で読み解く明治維新』は、明治維新に至る江戸時代をより詳しく書かれた歴史学書であります。

日本の歴史教科書は間違いだらけであり、その間違いを疑問に思うことすら禁止しております。歴史を学べば人生が変わります。なぜなら、歴史には、様々な人生禄が書き記されているからです。そして、それに気が付けば、江戸時代がどんなに優れていた時代か、気が付くでしょう。

私が初めてそれに気が付いたのはNHK『お江戸でござる』杉浦 日向子(すぎうら ひなこ)の間違い探しでした。多彩の江戸文化に興味を持って調べると江戸の凄さに驚愕します。西洋と比べて劣っておりません。金融システムにおいては世界最先端でした。

明治維新で『文明開化』を果たしたと言われますが、文明開化も何も科学技術以外は何も発展していません。そう考えると明治維新は何なのかという疑問に当たります。

そうです。思考すれば、解答に辿り着けるのです。

日本は戦後教育で資源のない国だと言われ続けていますし、それを信じている方々も多いですが、その根幹から間違っていたのです。

江戸から明治に移る日本は、

・日本の人口は3000万人もおり、世界の3.%を占め、経済力は世界最高水準だった。

・金銀銅などの資源を産出する資源国だった。

・国民の識字率は80%を超え、これを世界最高水準だった。

ということが判ります。『人・金・知識』が最初から揃っていたのです。なかったのは政治力だけでした。徳川幕府の誰かが政治体制を変えていれば、自国民が殺し合う内戦をする必要もなかったのです。つまり、明治維新とは、政治体制だけを変える戦いだったのです。

この『経済で読み解く明治維新』はそこを詳しく書かれているので、ぜひ購入してお読みになることをお勧めします。

また、上念 司氏には

【経済で読み解く徳川幕府】

~織田信長と羽柴秀吉の天下統一の謎を「経済の掟」で解明する~

が出版されることを強く希望します。

信長と秀吉の経済学もおもしろいですよ。信長は今川義元から楽市楽座を学び、津島衆から貨幣経済も学びます。信長と秀吉は貨幣で天下を統一した希少な武将です。貨幣へ戦国時代を読み解くことを強く推奨します。どこかの『逆説の日本史』より貴重な歴史書が完成することを強く望んでおります。

最後に、本書の概略を書き紹介しようと原稿用紙400字くらいのブログを書こうと思っておりましたが、筆が止まらず、注訳本、あるいは、過筆本的な量になってしまったことを謝ります。このまとめを読んで頂ければ、それで十分です。

この概略は、上念氏が敢えて書いていない部分も追加しています。もし、歴史に興味がある方は、興味半分でお読みになって頂くと嬉しい限りです。

また、もしかすると私の解釈が本書と違い、間違っているかもしれませんが、それはお愛嬌とお許し下さい。

(注).概略の中で『三河武士はお馬鹿でござる』、『大権現様の呪い』などという文章は、上念氏の本書にはありません。私が使っている言葉であります。

三河武士というのは、徳川の家臣であり、江戸に移封されるまで三河に住み、家康の家来だった者のことです。尾張の武士は信長、秀吉、丹羽長秀など経済に長けた武士が多くいるのに対して、三河の武士は勇猛果敢かつ義理堅いという人物を多く輩出します。要するに上司に言われたことを着実に守る人柄というべきでしょう。これは現代の官僚社会のルールみたいになっています。上司に逆らうことは、『正悪を別にして』やってはいけない事とされているのです。はっきり言って『悪習』です。これが徳川幕府を滅ぼし、現代の日本を滅ぼそうとしている元凶です。

次の『大権現様の呪い』も同じであり、徳川家康は『1.富士、2.鷹、3.なすび』と続けたように、『質素倹約』を旨とした方です。(決して、緊縮財政ではありませんでした)

それが3代家光が神として崇め、8代吉宗が『質素倹約』を復活させたことで、『質素倹約』と『緊縮財政』(百姓に重税を課す)がセットのように崇められました。江戸の3大革命の享保の改革・寛政の改革・天保の改革は、すべて『質素倹約』と『緊縮財政』であります。そして、平成の世も国民への重税を中心とした『質素倹約』と『緊縮財政』が叫ばれます。私はこれを『大権現様の呪い』と呼んでいるだけであります。

江戸の時代もリフレ派と反リフレ派が交互に政権交代をして江戸の体力を奪います。現在の日本もリフレ派と反リフレ派が交互に入れ替わって経済力を落しています。歴史は繰り返すといいますが、

『人間は歴史から何も学ばないということを、歴史から学んだ。』

というドイツの哲学者 ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの言葉が脳裏に浮かびます。

上念司 経済で読み解く明治維新の概略4

概略1:第1部 江戸時代の経済、第1章「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」 

概略2:第1部 江戸時代の経済、第2章「江戸幕府の慢性的な財政難」 

概略3:第2部 大名と百姓 

概略4:第3部 江戸幕府の滅亡 

概略5:まとめ

次に続く

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明治維新を行った薩長連合は江戸を占領して明治政府を作ります。

ところが薩長には日本を管理する財政官はほとんどいませんでした。長く自民党政権が続いた現代日本でも政権交代が起こり、政治が変わると思うや否や、結局、同じ政治をしてしまいます。これは野党に日本を動かす官僚(財政官)が不足していたからです。

明治維新を成功させた薩長連合は明治政府を作るに当たって、徳川政権の幕臣を多く官僚として召し抱えます。

実際、彼らがいないと、どこに誰がいて、誰がどれほどの財産を持ち、どういう産業を行っているかという知識がある薩長の武士がいないのです。という訳で各セクションの重要な部には幕臣がそのままリクルートしてしまったのです。

そして、生真面目に最初決めたことを続けるという宗教にも似た気質を伝統として受け継いでしまったのです。そういう訳で「質素倹約」の緊縮財政は伝統中の伝統なのかもしれません。

最早、宗教です。

その宗教が江戸幕府を崩壊させ、明治維新という多くの血を流さないとならない内戦を引き起こしたという歴史の失敗を学ぼうとしないのです。

【経済で読み解く明治維新】

~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~

第3部 江戸幕府の滅亡

第5章、民間の活力と生かせなかった江戸幕府

橋本政権でバブルが崩壊してから緊縮財政で財政再建を30年間も続けてきた日本政府は国民に消費税や社会保険料の切り下げなどで負担を強いる緊縮財政を続けていました。

それは中興の祖である八代将軍吉宗は幕府の財政再建において成功した。「質素倹約」「贅沢禁止」の緊縮財政と百姓に課税を増すことで成功したことを真似た老中松平定信に似ております。1788年、寛政の改革のシンボルともいうべき倹約令では、

「百姓の儀は、粗末な服を着、髪などは藁をもって束ねることが、古来の風儀である。それなのに、近頃は何時からともなく贅沢をして、身分の程を忘れ、不相応の品を着用しているし、髪には油や元結を用いているので、費用がかかる。その結果、村も衰え、離散するようになっている。一人が離散すればその納めるべき年貢は、村が代わりに納めなければならないから村全体が難儀をする。〈中略〉百姓どもは、だから少しも贅沢すべきではなく、古来の風儀を忘れるべきではない。百姓が、余業として商いをすることも、村に髪結い床があることも不埒なことである。以後、贅沢なことを改めて、随分質素にし、農業に励むべきである。」と百姓にも「質素倹約」「贅沢禁止」を強いました。

バブル崩壊から増税と緊縮財政によって日本経済は不況になり、消費の低下は税収を著しく悪くさせます。それでも増税による社会保障への充実などと嘘八百を並べて、増税をしようとするのは、徳川幕府中興の祖と言われた徳川吉宗の忠臣で勘定奉行の神尾春央が『胡麻の油と百姓は、絞れば絞るほど出るものなり』と言った伝説を信じているのかもれません。

日本経済をよくするには、経済を活性化させることが必要であり、財政出動が最も効果的なのに、伝統的手法の緊縮財政と増税によって政府を立て直そうというのは、最早宗教であります。

さて、江戸幕府もその宗教の虜でした。

<幕末の米価安の諸色高>

幕府は中央政府として日本全体を管理するのに対して、全国的な微税権を持ちません。替わりに各大名に普請を課す指揮権を持っていました。つまり、「使役(働く)に従うから税金を免除してくれ!」です。

これで各大名が各自にやりくりを行い、財政の健全化を実現していれば、何の問題もなかったのです。明治維新も入りません。西欧列強にも各藩が兵を出し合って連合軍を作ればいいだけのことです。海沿いは海軍、内陸部は陸軍を中心に編成すればいいだけのことです。徳川の作った藩体制が悪いのでなく、問題は『米本位制度』である『石高制』に問題があったのです。

経済が発展する過程で農産物も多品種化します。手工業も盛んになり、様々な物資が溢れます。明治維新後に生糸の他、茶、米、水産物といった1次産品を主要な輸出品は、江戸時代に発展したものです。生糸などは吉宗が推奨して全国的に広がっていました。

経済のパイが大きくなるにつれ、米に掛かる価値が下落します。全国的に豊作になれば、米が余りになれば、米価は暴落します。逆に多少の飢饉になると米価が上がって、大名の暮らしが少し楽になる感じというのが現実です。

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〔全国の石高と人口の推移〕

このグラフは途中の二か所(吉宗と明治)で統計の違いがあり、簡単に線を引くことができませんが、基本的に人口は石高に比例して伸びていると推測できます。しかし、米将軍の吉宗が米への課税を強化したこと、藩の財政が悪化したことで百姓への取り立てが厳しくなったことを背景に農民の捨農者が増加しまし、幕府も対応する必要がでています。

・旧里帰農令(寛政の改革:松平定信)「援助するから帰ってちょ!」奨励

・人返しの法(天保の改革:水野忠邦)「つべこべいわずに、田舎へ帰れ!!」強制

実際、川などが氾濫して使い物にならなくなった田畑を捨てて新田(2年間の税免除)に移った農民も多くいます。田畑を復興するにはお金がいますが、そんな蓄えのある百姓ばかりではありません。藩の財政も逼迫していたので、ボランティアで復興できる藩ばかりではなかったのです。そう言う理由もあり、捨農者は都心部へと流出したのです。

ここで疑問が1つ生まれます。

捨農者が増えて農作地が減っているのに米価は下がっていません。理由は上の文中にもあります。つまり、品種改良や新田の開発によって総石高はそれほど減っていなかったのです。もちろん、米以外の農産物も増加したこともあります。いずれにしろ、食糧という単位では減っていなかったということなのです。

私は酒屋を営んでいるので酒に関してこだわりはあります。

1860年(万延元年)三重県多気郡五ヶ谷村字朝柄の岡山友清氏(旧名定七)が選出。「伊勢錦」は一穂に350から420粒も付く典型的な穂重型品種です。兵庫県吉川町の田中新三郎氏が伊勢参りの際に伊勢市山田地区から持ち帰ったので山田穂と呼ばれるものであり、この「伊勢錦」が最高酒を作るのに適した「山田錦」お母君です。

漫画「夏子の酒」に出てくる「龍錦」なる幻の米は、明治26年の東北地方の大冷害にみまわれ、稲が全滅するという悲劇に遭います。しかし、その田んぼの中に三穂だけ黄金色に輝く稲穂を阿倍亀治という青年が見つけたのです。それが「龍錦」です。

何の話をしているのかと申しますと、

種もみ一粒を蒔いて何粒の収穫が得られるかを表す指標を収穫倍率といいます。小麦の収穫倍率は低く中世になっても3~4倍程度だったようです。米は奈良時代(8~9世紀)で1020倍あったといわれています。小麦よりは効率の良い作物でした。

平安時代の史料に、延喜主税式(巻二十六)に「凡公田獲稲上田五百束、中田四百束、下田三百束、下々田一百五中束、地子各依田品令輸五分之一」(前傾書p464-5)とあります。つまり、上田25倍、中田20倍、下田15倍、下々田4倍という数字であることがわかります。これが江戸時代にあると、平均的な10アール当たり収量は1石3斗(193キロ)と言われています。収穫率は30倍ということになります。

江戸時代は伊勢錦のような一穂に350から420粒も付ける品種改良や龍錦のような冷害に強い品種が見つけられ、米の収穫率が上がっていた時代なのです。

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〔各藩の石高の例〕

上杉謙信の時代の越後石高は40万石ですが、天保時代では100万石を越えております。河川の改修と新田開発、冷害に強い品種改良などの結果、東北地方の収穫はめざましく改善されています。一方、山城国や伊賀国、大和国など近畿は然程伸びていません。つまり、石高が上がった国と上がらない国があるのです。同じように幕府の幕臣が持つ領地でも米価安に対応できる幕臣とできない幕臣に生まれていたのです。

歴史の教科書を素直に見るなら、捨農者が増加すると全国で石高が低下して米価が上がらなくてはなりません。しかし、大飢饉が覆って一時的に米価が上がることはありますが、総じてそんな記録はどこにもありません。

富める大名は新田開発や品種改良で石高が上がり富み、貧しい大名は捨農者が増えて石高が下がって貧しくなる。

富める国が富み、貧しく国がより貧しくなる。

つまり、歴史教科書は各大名や幕臣の中で石高の格差が広がり、石高が上がらない農民は下がる米価に対して年貢が重く、捨農者が続出し、貧しい大名や幕臣が困り果てたので、「旧里帰農令」や「人返しの法」の法令を作る必要があったのですと書くべきなのです。

因みに、この現象を最近どこかで聞いたことはありませんか?

<ギリシャ問題とユーロ連合、これって、幕藩連合と似てない>

本書には書かれていませんが、追加で書き添えます。

ユーロ統合とは貨幣を統合する総称です。

歴史的な一ページと言われたユーロ圏は、フランスやドイツを中心にEUと東欧を統合してゆきました。通貨を等しく保つ為にギリシャは財政再建と多く財政投資を行い経済の活性化をおこないましたが失敗します。ギリシャ崩壊という奴です。

本来、自国通貨を持っていた時代はドラグマというギリシャ貨幣が暴落して、ギリシャ安が発生し、オリーブなどの製品が安くなって外国に買われます。また、格安の観光になるので観光客も増えます。そうして、何度も財政破綻を繰り返しながらギリシャは崩壊することなく存続していました。

ところが、通貨を統合するとギリシャ安は起こりません。ギリシャの生産物が安くなることもなく、また、観光旅行も安くなりません。外貨を得る方法を失ってしまったのです。こうなると債権の利子を払えないのでギリシャ独力では中々財政再建できなくなるのです。

ところでドイツは好景気であり、本来ならマルク高が起こり、ドイツの商品が海外で売る場合は高くなるという現象が起こります。しかし、貧乏な東欧諸国や財政破綻寸前のギリシャがあるので、ユーロは逆に下がっているのでした。そう、逆に安く世界にドイツ製品を売るチャンスになってしまったのです。

富める国が富み、貧しく国がより貧しくなる。

ドイツが儲かっているのはユーロ安が大きな原因です。ユーロ安の原因は東欧諸国とギリシャなどです。つまり、ユーロ統合の欠点は微税権をユーロ連合が持っていないからです。すべての国から微税し、富める国から貧しき国へ所得の再配分を行う必要があったのです。この欧州一律で徴税権を持たないことが、おそらくユーロ崩壊に繋がるでしょう。

徴税権を持たない政権と言えば、ピーンと来ますね!

徳川幕府は全国3000万石を管理する中央政府でありながら、徴税権を持っていませんでした。富める者から貧しき者への所得再配分を行わなければ、幕藩体制が崩壊するのも当然なのです。そして、江戸時代の最も富める者である商人(流通)に課税しない制度は、欠陥制度としか言えません。

田沼意次は遅まきながらその欠陥に気付き、改革に取り掛かります。株仲間の冥加金制度、通貨統合、長崎貿易を奨励、および蘭学の奨励等々を行い、最後に全国課税を狙っていました。

失脚した田沼意次に代わって、幕政をとった松平定信は古典的な回帰主義でしたし、田沼の遺児も田沼時代に戻しただけであり、その先を目指しません。

結局、徴税権を持たないという欠点は補えなかったのです。

<無理ゲーの「天保の改革」>

水野忠邦は『重農主義・経費削減』を基本原則とし、『質素倹約・娯楽禁止・農業奨励・軍制改革(西洋砲術の導入)』などによって幕府の権威と統制を回復できると考えました。

水野忠邦の政策は主に

・株仲間の解散

・倹約令

・棄捐令

・人返し令(ひとがえしれい)

・上知令

・三方領知替(さんぽうりょうちがえ)

・薪水給与令:開国はできないが、薪と水の補給はします。

であります。

株仲間の解散は菱垣廻船を運営していた江戸十組問屋仲間などを含むすべての問屋を解散させます。現代風に言えば、闇カルテを作って物価を高止まりさせていると、談合企業を一刀両断した訳です。

天保年間と言えば、

「天保年間、江戸の人口は推定100万人と言われ、これは当時50万人のロンドン、54万人のパリをはるかに抜いた世界一の大都市であった。その上、江戸には高度な自治制がしかれたが行政の実権は町奉行配下の町年寄りにあった。 天保4年に始まった大飢饉のあと、急激に膨れあがった江戸の人口を減らす為に幕府は人返しのお触れを下して多数の人間をその生国に返したのであった。」

というナレーションで始まる『破れ傘刀舟悪人狩り』(やぶれがさとうしゅう あくにんがり)です。水野忠邦は「てめえら人間じゃねえや!叩っ斬ってやる!」と斬ってしまった訳です。本物悪人なら買いだめが解消されて物価が落ち着く訳なのですが、戸十組問屋仲間はそれなりに儲けていましたが、悪人ではなく。江戸に物資を運ぶ善良な商人だったのです。

物価は物資が足りない為に上がるのであり、その流通を担う商人を解散させれば、より物資が入らなくなり物価がさらに上昇します。

倹約令は、享保・寛政の改革にならって聖域なく将軍・大奥も対象とした贅沢を禁じ、庶民の風俗も取り締まるという法令です。幕府の財政を立て直すという意味で贅沢品を止めるのは別に悪いことではありません。それを庶民まで強いるのは、デフレ経済をより酷くするだけであります。高価な料理、食材や菓子、衣類、装飾品の取引を禁止し、役人が取締りを強化します。販売すれば重い処分がまっています。さらに、風俗や思想まで取り締します。様々な人々に影響を及ぼします。

浮世絵の葛飾北斎(かつしか ほくさい)などは、当時の浮世絵に贅沢品の藍染をふんだんに使っていましたから贅沢品としても風俗としても取締りの対象になります。そこで北斎は問題のない『富嶽百景』などを手掛けることになるのです。それでも江戸は窮屈になり、天保13年(1842年) 秋に信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸を訪ね、嘉永元年(1848年)まで滞在することになります。

人返し令は、江戸出稼人の帰農を強制し、新たに農村から江戸へ移住することを禁止する法令であり、農村の労働力を確保することを目的としました。

現在でも過疎化の問題が大きくなりますが、食っていけないから都市部に移動します。江戸の百姓も食えるくらいなら捨農などしません。「帰れ!」と言われて帰る馬鹿などおりません。

棄捐令は、困窮する旗本・御家人の生活を守ろうと、札差(ふださし)に低利貸出しを命じました。基本的に無利子、返済は20年、しかも借財が多い者は償還の措置をとるというものですから、誰が貸すのでしょうか。

この法令の発布後、当時の札差91軒のうち、半数以上にあたる49軒が店を閉じてしまいます。その後も紆余曲折ありますが、基本的に商人は儲ける為に商売をするのであって慈善事業ではないということが理解できなかったのでしょう。

上知令は、欧州列強の外国船と戦いになった場合、江戸・大坂十里四方は、幕府領(天領)、大名領、旗本領が入り組んでおり、不便が悪いという理由から領地替えで1つにまとめるものです。

三方領知替も庄内・長岡・川越の領地替え。上知令と同じ理由だと思われますが、文献には将軍の大名に対する絶対的権力を示そうとする記述もあります。

いずれの理由にしても、領地替えは多額の資金を必要としますから、幕府から全額補助するとでも言われないと賛同できなかったでしょう。

水野忠邦の政策の目的は判りますが、経済活動を完全に無視して思想のみで行っています。しかも米本位制度ですから、不況であるかどうかに興味がなく、幕府・大名・幕臣の生活をどう保障するかという目的のみに囚われています。

江戸時代において、古きを尊ぶ習慣が強く。それは決して悪いことなどではないのですが、因命を疎かにすると道を過ってしまいます。

詩経の大雅文王に「周という国はずいぶんと古い国ですが、その命は、維れ新たなり」と書かれています。国が古くなろうとも、悪い習慣は新たに変える。これが『維新』の語源であります。

大権現様や中興の祖を敬愛する余りに、新しい知識を受け入れないと最悪の結果を招くという典型的な例であります。

通貨経済を理解し、デフレを知ろうとしたならば、結果は異なっていたでしょう。

さて、そんな中で薪水給与令は開国はできないが薪と水の補給はしますというものであり、水野忠邦が行った政策の中で唯一まともな法令ではないでしょうか。

〔当時の主な流れ〕

1825年(文政8年)異国船打払令

1834年 水野忠邦、老中に就任。

1835年 『天保通宝(てんぽうつうほう)』を改鋳(流通した銭貨)幕府益は約18万両。

1836年 甲州郡内騒動、三河加茂一揆

1837年 大坂で大塩平八郎の乱が起こる。

1837年 モリソン号事件。漂流民を載せたアメリカ船のモリソン号を浦賀奉行が砲撃し、追い返す。

1838年(天保九年)水野忠邦、江戸の防備のため、江戸湾の調査を江川と鳥居に命じた。

1839年(天保十年)3月頃、渡辺崋山『初稿西洋事情書』『再稿西洋事情書』『外国事情書』『諸国建地草図』成稿 (崋山は打ち払い令が結局は諸外国による侵略の名目となりかねない)

1840年 (中国)アヘン戦争が起こり、清がイギリスに敗北する。

1840年 三方領知替

1841年5月 現在の東京都板橋区の武蔵徳丸ヶ原にて、幕府は西洋式の軍事演習を決行。

1841年5月 水野忠邦、天保の改革を開始し、奢侈禁止令や株仲間の解散令を出す。

1843年 水野忠邦、人返しの法、上知令などを出すが、失脚する。

1853年 ペリーの来航

<日本の「金融システム」はイギリスより進んでいた>

イギリスの経済学者アンガス・マディソンは平成18年に試算した1850年(嘉永3年)の日本のGDP217億ドルと西欧列強の一角であるスペインの161億ドルを抜いていたと報じた。もちろん、イギルス633億ドル、フランス580億ドルには遠く及ばない。

しかし、上下水道のインフラはペリー提督が「吾々が誇りとする合衆国の進歩した清潔と健康さより遥かに進んでいる」と舌を巻いています。

明治維新以降、日本はロンドンを中心とする世界の金融システムに組み込まれますが、ロンドンは金本位制を取り、金を裏付けとした紙幣を発行し、金と紙幣の交換レートを固定しているというシステムです。

江戸幕府も金・銀本位制で金貨・銀貨・銅貨を発行しますが、各藩が発行する藩札は米・金銀銭などを裏付けにする複雑な資産です。

藩札の実態は諸説ありますが、日本銀行の調査によれば、1871年(明治4年)の廃藩置県当時の発行残高は約9000万両に上りました。

藩札というは、藩が独自に出す通貨です。しかし、藩には幕府のように金銀を産出できる藩ばかりではありません。それゆえに米や特産物、金銀などの担保に藩券である藩札を発行しました。本来なら幕府が十分な通貨を発行していれば、物価が安定するですが、物価統計に基づいて貨幣量を微調整するなんて芸当は不可能でした。そもそも貨幣経済を理解している方が超少数派だったのです。

藩札は1661年(万治4年)に福井藩が幕府の許可を得て発行します。1700年代中頃になると慢性的な貨幣不足、各藩の財政悪化を理由に全国的に広がります。藩札は他藩で使えませんから通商では共通通貨に換金します。

日本人が海外に出掛けるときに、その時のレートに応じて円をドルやユーロに替えるのと同じです。藩内での貨幣不足を藩札が補うことで貨幣不足が緩和されたのです。

つまり、日本人は国内においても交換レートという認識を思って生活していたのです。世界金融に組み込まれて、交換レートを知っている日本人は簡単に対応できたのも頷けます。

<借財は悪ではない>

多く申しませんが、年収400万円の家庭で借金がゼロとします。世界のトヨタは凄い資産を持っていますが、負債は17兆円くらいだったと思います。銀行が金を貸してもいいと言うのはどちらでしょうか。

そうトヨタですね!

借金はそのまま規模の大きさを表します。収入と支出のバランスシートで決まるのです。藩札を大量に刷って、大量の借財を抱えているのは、その藩がそれだけ信用されているという証拠なのです。

日本政府は「借金が1000兆円を超えて大変だ。将来の財源を食っている。」などと大騒ぎしていますが、元財務官僚の高橋洋一氏よれば、国民に向けて借金1000兆円を訴えて増税を唆す一方で、海外にはバランスシートを見せて、実質の借金が400兆円未満であることを主張します。結果、日本の国債はマイナス金利になっています。

プライマリーバランス(税収と歳出を均衡)を健全化することは、私も大変好ましいことだと思いますが、それで緊縮財政になるくらい止めて方がマシです。投資を増やし、税収を多くするというのが健全な方策なのです。

どうしてもやりたいというなら、政府の『質素倹約』だけをやることをお勧めします。つまり、公務員の給与を半分にして、それを財政投資の財源にするのが一番よい方法なのです。財政投資の削減や増税は消費の低迷を生み、経済を不況にするだけであり、プライマリーバランスの健全化には役立ちません。

各藩の勘定方は借金返済のリスケジュールを組む必要にかられます。

最初に取りかかるのは、どうやって返済するかの方法です。次に期間の延長です。そして、金利の軽減を頼みます。一般的にこの方法が最もやられたと思われます。

しかし、藩によってはもっと強引な方法を使います。藩の黒字部分を残し、赤字部分を分割し、踏み倒すという方法です。

現代風にいうなら、採算部門を新会社に移行し、赤字会社は倒産させるのです。そして、新会社は借金を気にせずに事業を転換する。そういう強引なことをした藩もあります。

<やろうと思えば何とかできた諸藩の借金問題>

大名の財政は

〔貯蓄―投資〕+〔税収―財政支出〕=輸出―輸入

という経済活動になっており、どの藩も一藩のみで経済活動を完結していませんので自ずとそうなります。

忠臣蔵で有名の大石内蔵助は、赤穂藩を引き渡すときに藩札を引き上げて、問題なく藩を引き渡します。赤穂藩は特産品に塩を持っており、藩の財政は比較的に豊かでした。しかし、それでも藩札を配っておりました。

幕府は収入より支出が多く、石高制では基本的に赤字です。大大名は大大名としての沽券にこだわり、財政出動を惜しめませんから藩の財政は赤字です。特産物などがあり、比較的に豊かな大名は贅沢を止められないので赤字です。米しか収入がなく、新田の開発もままならない貧しい大名は漏れることなく赤字でした。

結局、幕藩体制において、財政を健全化させていた藩はなかったのです。しかし、本当に健全化できなかったのかと言えば違います。

●上杉鷹山:米沢藩

●山田方谷:備中松山藩

●松平治郷:出雲松江藩

この三方は藩の財政再建に成功した方です。他にも吉宗が紀州藩の財政再建に成功しています。この御三方に共通するのは、質素倹約ではありますが、緊縮財政ではありません。投資を行い、特産物を育てて藩の収入を増やすというものです。

上杉鷹山の米沢藩では、比較的早く財政破綻を起こします。そもそも上杉家は謙信公から来る名門であり、知行替えで領民が付いて行くほど慕われていました。また会津藩120万石の家臣団6000人をリストラせずに、米沢藩15万石(実質30万石)で召し抱えていましたから、人件費だけで破綻した訳です。

さて、米沢では大工や庭師を『御大工様』、『御庭様』と呼びます。どうして『御』と『様』を付けるのでしょうか。

それは大工や庭師が自分の上司だからです。そう、鷹山は副業を持たせることで知行以外の収入を得る方法を考えました。鎌倉時代の「いざ、鎌倉」と言われる『半士半農』ならぬ『半士半工』を奨励した訳です。こうして、手に職を身に付けた武士は、米価の変動に関係なく、一定の収入を得ることができるようになったのです。

山田方谷は幕末の人であり、備前松山も10万両の借金を抱えて財政破綻寸前でした。そこで商人に利子の軽減と編纂期限の延長を願い出て時間を稼ぎます。そして、地元の特産品を様々開発します。特に備前松山から取れる鉄に注目します。鉄を鉄として売らず、製鉄して鍬などの商品に変えます。さらに船を一艘買い上げて、大坂を通さずに自前で江戸まで運んで捌きました。備前松山藩の鍬はとても人気がよく、飛ぶように売れて余剰金が10万両になるほど儲けたのであります。

この方法は秀吉がやった自前で物流に関与する方法です。必要なところに必要な物を持ってゆく。その儲けは膨大な額になる訳です。備前松山藩の商人は黙って見ていたのでしょうか。いいえ、備前松山藩の商人も流通の過程で関与しています。しかし、すべてを商人で行おうとすれば、初期投資が大変な額になります。しかし、藩主がそれをすべて引き受けてくれるのですから、商人はローリターンですが、ローリスクです。決してそんな取引ではありません。借財の返還も滞りなく終ります。

因みに秀吉は全国に情報網を持っていました。

どこで何が売れるのか?

豪商たちは秀吉と情報戦を張り合うのではなく、秀吉に協力して甘い汁を啜ることにした訳です。全国の流通から上がる収益が秀吉の税源だったのです。山田方谷は徳川家康が取り戻してくれた流通の自由を巧く利用して財政再建に成功した訳です。

松平治郷の出雲松江藩も放漫財政から50万両に及ぶ借金を抱え、財政破綻を起こします。7代藩主松平宗衍はその責任で隠居し、明和四年(1767年)に松平宗衍は17歳で当主となります。年貢の徴税権を担保に70年割賦払いでリスケジュールを行い、まずは米高を上げる為の川の開削や砂防など治水工事を行います。そして、倹約令で大量のリストラも行います。さらに繁殖産業を推奨し、木綿に加えて朝鮮人参など、より価値の高い物を栽培しました。付加価値の高い物に目を付けたのがよかったのでしょう。

この他にも佐賀藩の鍋島直正は、「粗衣粗食令」とリストラで財政削減を行い、下級藩士から有用な人材を抜擢すると農民保護政策を打ち出し、ハゼの木の栽培で「和ロウソク」を作って財政を立て直します。その財貨を元手に日本初の反射炉、大砲鋳造、1855年(安政2年)には、蒸気車と蒸気船の雛形を作り、10年後に国産蒸気船「凌風丸」を完成させています。

大抵の藩は財政再建をしようと思えば、アイデア1つで出来るハズなのです。しかし、産業を育成するというのは簡単な話ではなく、正しい投資を行わないと返って財政を悪化させます。

本書では、「歴史教科書に書いてある藩政改革は、基本的にIMF的な緊縮を礼賛するものばかりです。基本フォーマットは、倹約と徴税の厳格化、それに産業振興の組み合わせです。」と書かれています。

さらに「IMFの緊縮策では通貨危機を引き起こすだけなのです。経済危機を救うのは、緊縮財政ではなく、経済成長なのです。」とも書かれています。まったく、同感です。

<薩摩と長州の藩政改革>

借金の返済と言えば、利率の減額、償還期限の延長などリスケジュールを組むのは当たりまです。しかし、大名は支配階級に君臨しています。ですから、その権限、踏み倒しを酷使する大名もいました。

その代名詞が薩摩藩と長州藩です。

薩摩藩は1773年(宝暦3年)の木曾三川の手伝普請で40万両の支出がり、70万両に上る債務があったことから、合計の債務は100万両を越えました。第25代島津重豪は、一方的に「デフォルト」を宣言し、大坂の銀主たちの借金を踏み倒しました。

怒った大坂の銀主たちが幕府に訴えますが、大大名の島津藩に文句を言える勘定方などいません。大坂の銀主たちは泣き寝入りです。もちろん、4年後に「泉岳寺大火」が原因で薩摩藩の江戸屋敷が全焼しても、大坂の銀主たちは誰も金を貸しませんでした。重豪は、金利の高い江戸の金融業者から借りて凌ぎます。

1883年に重豪が亡くなる頃には、500万両の借金に膨れ上がっていました。この時、重豪の遺言が実行されます。500万両の証文を集め、預かるとそれを火にくべて燃やしてしまいます。そして、一方的に金利なしの250年の分轄払いというリスケジュールを発表します。尤も薩摩藩は律義に廃藩置県で藩がなくなる時まで、毎年2万両づつ返還したそうです。

薩摩藩の収入は、金山からの金の産出と琉球貿易による砂糖の販売が大きな収入源でした。薩摩藩が藩政改革で不正役人を処分し、砂糖の情報操作をして高値で売り抜けるようにして、毎年4万両もの利益を上げたそうです。10年後の1839年(天保10年)には、各藩でサトウキビの栽培がされて価格は半値に下がっていましたが、100万両の貯蓄に成功していました。

長州藩も1840年(天保11年)時点で141万両の債務がありました。長州藩の収入は約63000両でしたので返済に22年も掛かります。藩政改革を行い、俸禄を半分にするという大改革です。庶民にも所得の4.5%を納税させて、年9万両の財源を確保すると、金利を3%に引き下げ、元本は37年払いを宣言します。

不採算部門は長州藩に押し付ける形で処理すると、採算部門は毛利家(撫育方)に移します。「製塩業」「金融業」「製紙業」「綿工業」などの殖産興業を推進しました。廃藩置県の頃には、100万両の余剰金を生んでいます。

<致命的な「為替レート」の失敗>

司馬遼太郎の「竜馬がいく」などの小説やドラマ、映画などでもよく紹介されます。

メキシコ銀貨(1ドル)4枚は天保一分銀12枚に交換し、天保一分銀12枚は小判3枚に交換できます。この小判3枚を上海に持って行けば、メキシコ銀貨12枚と交換でき、交換するだけで3倍になるのです。

6

もちろん、すぐにその欠点を気づいた幕府は、「安政二朱銀」という貿易通貨を発行しました。

メキシコドル4枚=安政二朱銀8枚=天保一分銀4枚=小判1枚

為替対策の「安政二朱銀」ですが、長崎の役人がその事を説明できるハズもなく、武力の威嚇も相まって効果を失います。結局、「万延の改鋳」(1860211日より)によって国際レートに修正するしかなかったのです。

つまり、

天保小判1枚=万延小判3枚=天保一分銀12枚=メキシコドル12枚

金1に対して銀12の国債レートに改編した訳です。

しかし、それは単純に国内の貨幣量が急増することを意味します。

天保小判一両⇒万延小判三両一分二朱

安政小判一両⇒万延小判二両二分三朱

短期間で貨幣量が増加すれば、インフレが発生します。それもハイパーインフレ並み奴がきます。

落語で必ずといってよく出てくるのが、うどんやそばであります。

「そば一杯、頂こうか!」

「へぃ、16文でございます」

ところが翌日に行くと、

「お代はいくらだい!」

「へぃ、24文でございます」

「おぃ、おぃ、そりゃ高すぎるだろう」

二八そばの価格は68文に時代が続き、12文、16文と緩やかに値段が上昇しますが、1865年(慶応元年)になりますと、一気に24文に上がっています。さらに明治では五厘(50文)まで上がっています。物価の上昇が庶民に与える影響は図りしれません。

教科書には物価高からくる人々の困窮まで記載していませんし、大河ドラマなどでもほとんど描かれた形跡は見られません。

上念氏は「人々は経済的に困窮すると極端な思想や考え方に救済を見出すからです。」と指摘しているように、「開国したことが生活悪化の原因だ!」と素朴に信じてしまうのです。為替レートの失敗は攘夷派の心の火を付けたのは間違いないでしょう。

もちろん、為替の暴落は幕府への信用が低下した事を示します。幕藩体制は幕府と藩の信頼で成り立っている政権ですから、徳川は沈みゆく船となったのです。

そもそも『日米修好商条約』とは何だったのでしょうか?

日本は鎖国を始めて

①固定相場制    ○

②金融政策の自由  ○

③資本取引の自由  ×

資本取引を止めたことで、自国通貨の自由な金融政策(貨幣の改鋳)を手に入れました。

天保一分銀4枚=天保小判1枚

というのは、日本独自の金融ルールに過ぎないのです。出島などでオランダや中国と取引をしていますが、これは金や銀の重さで取引きを行っているのであって、日本国内での自由な取引を許していません。

ところが、『日米修好商条約』によって資本取引の自由を許可した為に、

①固定相場制    ○

②金融政策の自由  ×

③資本取引の自由  ○

いままで自由にしていた国内での金融政策の自由を失うのです。つまり、ハリスとの『日米修好商条約』の同意は、国際レートに合わせた金銀レートの合わせることを承知したことを意味します。

幕府は本来、移行期間を設けて、

天保一分銀12枚=天保小判1枚

を実現する必要があり、そのことを各藩に伝える義務があったのです。しかし、この為替レートの変更を幕府自身が、気が付いていなかったのです。

この『日米修好商条約』に当たっていた下田奉行の井上清直と岡田忠養は貨幣経済について理解していません。さらに彼らの上司である海防掛目付の岩瀬忠震も、川路聖謨も、水野忠徳も貨幣経済を理解していませんでした。

両替商の商人でもアドバイザーとして、商人達を連れてきた方がよかったでしょう。彼らはそんなことは絶対にしません。田沼意次のように、商人も大名と同じほどに経済に影響力があると考える武士はごく少数だったのです。ほとんどが「貴穀賤金」を信奉し、自分達の方が偉いと信じていたのです。

現代の日本の財務官僚は、絶対に経済学者や経営者の話を聞かないと元財務官僚の高橋洋一氏は言います。彼らは自分達の方が偉いと信じているからです。しかし、彼らは東大法学部の卒業生であり、経済を学んでもおりません。出向で本当の意味での会社の経営に携わった経験もありません。出向そのものは意味があるのですが、出向先で出世が決まっているので多彩な知識というものに昇華しません。つまり、農業も林業も水産業も工業も科学技術も専門知識を持ち合わせていないのです。何も知らない者が日本を舵取りしているのですから迷宮するのも頷けます。現在の官僚と江戸の幕臣が余り似過ぎて笑えません。

いずれにしろ、幕府の失策によって日本が大きく激動の時代に突入するのですが、その原因を正しく記載する教科書が存在しないことが残念でなりません。

第6章、明治維新は必要だった?

金の怨みが恐ろしい。

最初に本書の初めに明治維新の本質を捉えているのではないでしょうか。幕府の命運は「薩長同盟」によって決まりました。米と武器の交換などと言いますが、実際に薩摩で米が不住していたかは疑問です。開国により日米不平等条約を結ばされ、国内の混乱と金の流出、そして、インフレによる物価高は何かと混乱に拍車を掛けることになります。幕府の統治機構に見切りを付けたというのが本音ではないです。実際の薩摩の心変わりは現代でも不明のままですが、時間の問題であったことも事実であります。

いずれにしろ、大政奉還が実現した時点で薩長の目的は達していたと思われるのですが、そのまま兵を進めて、鳥羽・伏見の戦い、江戸城無血開城、最後に箱館五稜郭まで突き進みます。徳川家を排除するという一点を除けば、戦う必要のない内戦でした。そこから関ヶ原の怨み説とか、島津久光の将軍説とか、長州の借金説とか、様々な逸話が生まれています。

私には、一度動かすと人の意思を無視して突き進むのが戦争であり、とどのつまりは『金の怨み』があぶれた武士の長年の怨みとなって駆り立てたのではないでしょうか。

<明治維新をしても変わらない生活?>

この本書の肝は何といっても維新後の明治政府が大衆から信用されていなかったという一言に尽きるのではないでしょうか。

新政府が発行した太政官札は信用されず、江戸時代から使われていた金貨・銀貨・銅貨および藩札の方が信用されています。

太政官札に対して金の交換レートは、

太政官札100両 対 金100

とならず、

太政官札120両 対 金100

という実勢レートを追認せざる得ません。金貨より3割ほど低い価値しか大衆は認めていなかったのです。そこで新政府は金本位制を軸に金1.5gを含有した1円硬貨を作り、補助通貨として銀貨・銅貨を定めます。

1871年(明治4年)、円の誕生です。紙幣についてはドイツに委託して「明治通宝」を発行し、太政官札を回収します。しかし、円が誕生するとお金不足のデフレが発生します。金本位制度というのは金の保有量以上の紙幣を発行できない制度であります。『日本米価変動史』には、「年末には8割下落」と書いてあります。年貢で財政を保つ新政府の財政が悪化したのは当然ですが、農民も困窮します。しかもデフレは景気を悪化させますからあらゆる方面で失業者を生み出した訳です。

ところで、戊辰戦争における懲罰的な領地替えがありましたが、「廃藩置県」が実施される1871年(明治4年)まで藩も年貢も存在します。また、年貢が地祖に改められるのはその2年後です。

この廃藩置県で大名が反乱を起こさないかったことが不思議ですね。その答えが書かれています。

廃藩置県の2年前に「版籍奉還」が1869年(明治2年)に行われています。版籍奉還とは、大名の所領と領民を朝廷に返すというものです。中でも「禄制改革」が大きな魅力であり、旧藩主は旧領地の石高の10%を家禄として支給されるとありました。藩の運営は難しく、石高10%の実禄はありません。それを新政府が保証してくれるというのですからおいしい話です。しかも旧債一切を引き受けてくれるというおまけ付きです。廃藩置県がスムーズに進んだのは下準備が終わっていたからです。

結局、新政府は何をしたのでしょうか?

円を導入した以外は何も経済活動をいじくっておりません。廃藩置県で大名を排して中央集権体制を作った以外は何も変わりません。

序でに言えば、明治政府の役人の多くが江戸幕府の幕臣であります。大久保 利通、西郷隆盛、木戸孝允など高級武士は別にして、薩長の武士たちは国政など扱ったものはほとんどいません。国政を扱える武士は江戸の幕臣しかいなかったのです。

教科書では「文明開化」が日本の近代化に繋がったと書かれていますが、本書が書いているように、日本の『文明開化』は「ちょんまげを切った」、「洋服を着用した」というものであり、ヨーロッパ列強と同じ水準の経済システムを持ち、文化度も劣っていなかったのです。

明治初期に日本に来日したイザベラ・バードの『日本奥地紀行』には、「(私の)全行程を踏破したヨーロッパ人はこれまでに一人もいなかった」としるし、「私はそれから奥地や蝦夷を1200マイルに渡って旅をしたが、まったく安全でしかも心配もなかった。世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」と決して野蛮な未開の地ではないことを語っている。

『朝鮮紀行』では「人工の道や橋も少なく、道と言っても獣や人間の通行でどうやら識別可能な程度についた通路に過ぎない」「ソウルには芸術品や公園や劇場、旧跡や図書館も文献もなく、寺院すらないため、清や日本にある宗教建築物の与える迫力がソウルにはない」と書かれているように日本と比べようもありません。

結局、明治維新とは何だったのか?

明治維新とは、徳川267年の忘れ物を為した事業なのです。つまり、石高制の廃止も地租改革も貨幣制度の安定も金本位制もやろうと思えばできたのにやらなかった徳川幕府の宿題を、西欧列強の植民地にさせないという気合いで薩長連合がやってのけただけの事と上念氏は言っております。

私も同感であり、私は『大権化様の呪い』と言っています。そして、『大権化様の呪い』は現官僚にも引き継がれ、「やれ質素倹約だ」「緊縮財政は正義だ」「胡麻の油と国民は、絞れば絞るほど出るものなり」と躍起立てているのではないでしょうか。

次に続く

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上念司 経済で読み解く明治維新の概略3

概略1:第1部 江戸時代の経済、第1章「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」 

 

概略2:第1部 江戸時代の経済、第2章「江戸幕府の慢性的な財政難」 

 

概略3:第2部 大名と百姓 

 

概略4:第3部 江戸幕府の滅亡 

 

概略5:まとめ

次に続く

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むかし、文明は進化すると思っていた。

50年前は今より劣っており、100年前はもっと酷かった。200年前は、500年前は、2000年前は・・・・・・。

そんなのは幻想である。

未来が現代よりすばらしいと限らないと同じくらい、過去の文化も劣っているとは限らない。大正時代はテレビとスマートホン以外は何でもあった。ローマ時代は風呂もあったし、レジャー施設もあり、中世のヨーロッパより遥かに清潔で快適な暮らしを行っていた。

文化は進化もすれば、後退もする。

江戸時代は猫の蚤取り屋があるほど多彩な職業に分かれ、文化の華を咲かせていた。天文家の渋川春海はコンピューターないのに地球の公転速度を求め、太陽と地球の近点と遠点を求め、日食と月食を計算した。

誰か太陽と月の天文データーを上げるから日食と月食の時間を当ててくれと頼まれて、「はい、判りました」と言える人は何人いるだろうか。

渋川春海が生きたのは四代将軍家綱の時代であり、同じ時代に活躍した和算の関孝和もいる。また、江戸中期には算額も盛んであった。神社やお寺に数学の問題を書いた絵馬を奉納し、その絵馬を見たものが解答を考えて解答を絵馬に奉納した。学問においては漢文を嗜み、趣味に日本画や和歌、俳句を好む。科学技術の差こそあれ、江戸時代と現代の学習能力の差はない。

もし、江戸の庶民が産業革命の蒸気機関を見たなら、平賀源内のような物好きが集まって、あっと言う間に習得してしまっただろう。鎖国の特例で外国留学を認めれば、各藩と豪商が手を取り合って世界に学生を送る。

しかし、隠ぺい体質というのか、村社会体質というのか、変化を恐れて新しいことに幕府は挑戦しない。大権現様を拝んでいれば、平和は続くと信じていた。

【経済で読み解く明治維新】

~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~

第2部 大名と百姓

第3章、「大名と百姓のビジネス」

百姓が貧乏だったというのは間違いである。

徳川家康は豊臣政権から公儀を掠め取る。豊臣政権の命脈は流通を支配していることであったので、その流通から得る富みを奪った。「刀狩」、「太閤検地」などで解るように秀吉が奪った各大名の徴税権を各大名に戻した。関ヶ原で敗北した豊臣政権は財政の基礎を失う。それでも蓄えた金銀財宝は山のようにあり、大阪冬の陣、大阪夏の陣を賄うのは容易い。

教科書では、徳川政権を武家諸法度や参勤交代で縛り、難癖を付けて改易する独裁政権と書いている。しかし、独裁政権に近いのは豊臣秀吉であった。

朝鮮出兵にどんな意義をあったか考えても想像が付かない。仮に明国との戦争に勝利して明国と対等に近い同盟を結べたとするなら、日本に入ってくる富みの量は想像を絶する。豊臣政権が流通を支配する政権であったことを示す教科書はない。(資料はあるのに書かないのは謎だ)中国東北部の貿易をすべて秀吉が握ったとするなら、その価値はどれほどか想像も付かない。

しかし、本書が書く通りに秀吉が亡くなると兵をあっさりと引き上げている。膨大な目に見えない利益より、隣の大名の脅威の方が恐ろしかったのだ。

関ヶ原をえて徳川は互助会というべき大名を募った。木曽川の普請などを見れば判るように、大規模工事を各大名が分担して負担をわかち合う。震災が襲えば、幕府が他藩を募って救済する。互助会という連合幕府というのが徳川政権の正体である。

私はこれを狼に喩えると判り易いと思う。

狼はボスがおり、他の狼にもそれぞれの役職が与えられる。見張りするもの、食事を狩るもの、子育てをするものなどに分かれている。ボスは群れの秩序を守る為に存在する。ルールを破るもの、群れに敵対するものを排除する。そして、役割を果たしたものに称賛を与える。

徳川政権は豊臣より緩い政権であり、徴税権などの様々な権益が大名の元に戻された。河川の工事や新田開発など多くに普請が舞い込んでくる。教科書には大名の力を削ぐ為に課したとあるが、必要なものだから課したのである。幕府は参勤交代など多くのお供を連れてくると百姓の負担が大きくなるから控えるように触れを出している。大名の富を削ぐなら、もっと増やせと煽ったのではないだろうか。つまり、百姓の暮らしなどを良くする為に必要だから普請を課し、ルールを守らない大名や徳川に逆らいそうな大名を改易していったのだ。そして、よく働く大名には金銀財宝か領地を褒美として与えた。

ねっ、狼みたいでしょう。

仕事した狼を褒め、ルールを守らない狼や反抗する狼を仕置きする。狼たちはこぞってボス狼に尽くすようになるのです。北風と太陽、あるいは、飴と鞭を上手に使っています。

どこかの逸話かもしれませんが、

諸大名からのお祝いの席で家光が「その方らは父・祖父と盟友だった時期があったかもしれないが、余は生まれながらの将軍である。もし不満なら領国に帰って戦さの準備をしろ。徳川家800万石がお相手する」というと、伊達政宗は、「そんな輩がいれば将軍家の手を煩わすまでもなく、伊達家40万石がお相手します」と切りだし、諸大名が我も我もと続いた。こんな話がでるくらい諸大名は徳川をボスとして祀り上げていたのです。

<本当の勝者は百姓と商人だった>

秀吉の朝鮮出兵が失業対策と言われるように戦がなくなった兵士は失業します。徳川幕府の失業対策は開墾や新田開発にあったのではないでしょうか。

一方、江戸は江戸屋敷が建てられ各大名の奥方などが集まり、大名方々は生産することのない消費者です。すると収穫された米が大坂に集まり江戸に送られ、江戸・大坂が一大消費地へと変貌していきました。暮らしが楽になると様々な物産も盛んになり、木綿・油・綿・酒・酢・醤油などが取引されるようになり、特に奥方などは絹製品などを好んで買いました。米から高級品まで商人は濡れ手に粟の大騒ぎ、現在風にいいますと大坂・江戸はバブルに湧いておりました。

将軍が上洛すれば、衣装から食う呑む寝るなどの消費は数十万両に及びます。参勤交代も同じく小判を巻きながら行進するようなものです。江戸で大火が起これば、木曽から木材が舟で運ばれます。戦国時代を生き残った豪商は大いに財を貯めた訳です。

一方、百姓はといいますと大名も新田などの新たな田畑には3年間の税を免除するなどして奨励しました。収穫を上げるために新しい飼料が考えられ、灰や下肥え、菜種油の搾り粕などが使われるようになります。イナゴの被害も度々起こりましたが、クジラの油を田畑に撒くとイナゴの幼虫が死に絶えるなどの研究もなされます。農機具を新たになり、千歯こきというもみ取りが開発されて、白い米を食べる習慣がこの頃に定着します。今ではのどかな田舎の風景とされる水車小屋もそうです。鉄の鍬などの普及率も上がります。

みかんや西瓜、さらにカンボジアからカボチャ、ジャカルタからジャガタライモ(バレイショ)、北九州から琉球イモ(サツマイモ)等々、様々な産物が生産されて大坂・江戸に運ばれていきます。

江戸時代以前も蚕を飼って糸を取り、絹が作られていましたが、中国産ほど白くでないので絹製品は輸入にたよっていましたが。金銀流出を恐れて鎖国を強化すると、養蚕は非常に盛んになり、全国に広がっていきました。

要するに才覚のある百姓は、土地を広げ、様々な農産物を扱うようになり、豊かな本百姓もいれば、貧しい水呑百姓も生まれてきたのです。

総じて言えば、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウンする)」というトリクルダウン理論が実証されて、商人と百姓が豊かになってゆきました。

この現象を見れば、トリクルダウンを起こしたいのであれば、それこそコップの水がじゃばじゃばと零れるくらいの大量のお金を上から注ぐと発生するのです。

アベノミクスが成功するには、途中で堰き止めることが出来ないほどの財政投資を行えば成功したのです。この江戸の例を取れば、単年度予算の2倍くらいの財政投資(100兆円くらい)を行えば、発生することになります。家康・秀忠・家光がどれほど潤沢に金銀を放出したのが伺われます。

<国際金融のトリレンマ>

年間1tの金の産出量が徳川政権を支えていましたが、大久保長安が失脚することには産出量が激減します。それでも徳川政権時の平均が400kgですから500kg近くはあったのではないでしょうか。

しかし、江戸の繁栄ぶりは凄まじく、特に大奥や大名の奥は絹織物を重宝しました。江戸の初期の貿易は、

輸入品 生糸 絹織物 皮革 香料 薬種 砂糖

輸出品 金・金製品 銀・銀製品 銅・銅製品 樟脳

と貴金属がほとんどできした。江戸時代の初めには、年間20万kgの銀が海外へ流出し、世界の生産量の30~40%を供給したと云われ、その輸入品の内訳は、生糸と絹織物が92%、毛織物が6%、綿織物が1%、麻布が1%でした。

金銀の産出量が激減する中で、海外へ流出する金銀の量が増えれば、誰でも枯渇するのではないかと心配するものです。

『絹の文化誌』から <町人は東福門院和子を真似たがる>  天和三年(1683)正月には「女衣類の製作禁止品目」として、金紗、惣鹿子(そうかのこ)小袖などを禁制品に指定し、同じ年に「町人男女衣類之事」とか「町人の衣類は絹袖、木綿、麻のうち分に応じて選ぶこと」といった内容のお触れが矢つぎ早に出された。ところが数年後にはまた元の木阿弥になってしまう。そしてまた禁令、と江戸時代を通じてこの繰り返しであった。

 延享元年(1744)には「絹袖、木綿布の外は一切用いるべからず、もし着せしを見及ばば、めし捕べきと申付べし」というお触れが出ているが、実際に町人で召し捕らえられた者もいた。天保の改革期に着飾った花見の女たちが逮捕された時の落首に、

  かるき身へおもき御趣意の木綿ものうらまでも絹ものはなし

 というのがあった。軽い身分の者に重い禁令だが、木綿を着ていて、裏地にも絹は使われていない、といった意味であろう。財力のある商人などは、表地は木綿にし、裏地に絹を用いたのであり、そのために裏地のような見えないところに銭をかける粋な風俗が出てきたのである。

 絹と同じようにぜいたく品として、禁令の対象にされたものに、タバコがあるが、これに関連して、 

  きかぬもの煙草の法度銭法度玉のみこゑに玄沢の医者

 という落首が残っている。玄沢の医者というのは、藪医者のことである。この煙草や銭を絹にかえても同じである。

 結局のところ、為政者による奢侈禁令や過差の禁のお触れは、下級階級がぜいたくな衣服を着ることによって、上流階級を真似ることを禁止し、自分たちの地位を保ち続けることに狙いがあったのである。徳川家から後水尾天皇に入内した東福門院の衣装狂いは有名であるが、富を貯えた町人に、これを真似るな、と言っても無理なはなしである。

(「絹の文化誌」から)

いずれにしろ、家光は金銀流出を恐れて鎖国を強化しました。その偶然の産物として、「国際金融のトリレンマ」が働いたのであります。

①固定相場制

②金融政策の自由

③資本取引の自由

金銀を通貨にしており、江戸は相場が固定化されていました。金銀の価値は世界共通なので資本取引が自由に行えましたが、金銀の流出を防ごうと資本取引を止めると、国内の通貨は固定されるので金融政策を自由に扱えるようになったのであります。つまり、鎖国によって貨幣の改鋳を自由に行えるようになったのです。

上念氏は貨幣の改鋳ができる環境を作ったのは、この鎖国政策のおかげであると言っています。

第3章、「借金苦に喘ぐ大名、アイデアに溢れる商人」

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

江戸時代の主役、豪商たちです。

本来、幕府が大名の支配化にある商人は、自由な輸送や取引の自由など存在しません。独立商人として武力を保有していた戦国の堺衆などと違い、江戸の商人は武力を持ちません。

これって、高度成長時代の日本に似ていますね。

防衛はひたすら米軍に任せて、経済発展だけを満喫する。自衛の為の武力を保有しない為に財政上で非常に有利な経済運営ができました。江戸の商人も本来の社会保障費を無償で受け取っており、上納金というわずかな金でその自由を買い取っていました。

大坂冬の陣で家康に恩を売った岡本三郎右衛門常安は、堂島に倉屋敷を建てて大坂に集まってきた米を一手に取扱いました。宝永2年(1705年)、五代目の淀屋廣當が22歳の時に幕府の命により闕所処分となり、没収された財産は、金12万両、銀125000貫(小判に換算して約214万両)、100万石で40万両と言われますから535万石並の資産です。他に北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などでした。

「火事と喧嘩は江戸の華」

数十年おきに明暦の大火のような大火災が発生して大名屋敷が焼けてしまう。木材が大量に売れることで紀伊國屋の文左衛門も豪商へと昇ってゆきます。他にも河村瑞賢、越後屋の三井高利、奈良屋茂左衛門、鴻池善右衛門、本間宗久、銭屋五兵衛など多くの商人が活躍したとは一章で紹介した通りです。

しかし、儲かるものが入れば、出費する者もいる訳です。大名屋敷が全焼すれば、建替えなくてはなりません。その都度の出費がかさんでゆきます。江戸幕府の金銀が豊富な頃は、潤沢な補助金を出してくれましたが、産出量が減ってからは目減りするばかりです。

大名は贅沢を止めて身丈にあった生活に改善すればよかったのですが、一度贅沢を覚えると元に戻すというのは苦労するようです。

さらに新田開発の効果が出て、米価がじわりと下がってゆきます。真綿で首を絞めるようにじわじわっと大名の財政は頻拍してゆきます。

米価の動向を見ると、

3
幕府は財政難を乗り切る為に元禄の貨幣改鋳を行います。綱吉は大判振る舞いで消費も伸びて米価も上がって、大名のやりくりも何とか凌いでいました。しかし、一旦、景気が冷え込むと、借財は後から追い駆けてきました。もう参勤交代も負担になっていました。

江戸の借金は

①質入借金型(百姓・小市民)

②書入借金型(寺社・武士・上級市民)

③無担保借金型(上級武士・大名)

絹織物など高級品を買い、金を貸せば、貸しただけ使ってくれる大名はお得意様です。豪商たちはごぞって大名に金を貸しました。

元禄のバブルがはじけると、借金は雪ダル式に増えてゆきます。そして、大名の頼みを断れない豪商たちの貸付額も天文的な数字に上ってゆきます。しかし、大名を倒産させる訳にはいきません。借金は不良債権化して55人の豪商の内、30人が大名貸で破産するという悲惨な事態を招いたのです。

三井高利などは早くから大名貸から足を洗い、庶民に反物を分け売りするデスカントを始め、大いに潤います。庶民は大名ほど資産を持っていませんが、消費意欲は盛んであり、尚且つ、その数が多い。

元禄文化を通じて、力を貯め続けた庶民と消費を続けて力を失った大名の消費比率が逆転したのではないかと私は考えます。

経済活動において消費が大名を庶民が追い越してしまったのです。

<ラストチャンスの田沼意次>

米本位制を維持する限り、財政上の欠点を解決できません。

貨幣改鋳は一時的な対処療法であり、抜本的な改革になりません。それでも各藩によって事情は大きく異なります。また、財政改善によって藩の財政を健全化する所もありました。しかし、大本の幕府は、「貴穀賤金」の考えに取りつかれて、抜本的な改革を後回しにしていたのです。

中興の祖である吉宗は、「質素倹約」と「百姓への増税」で対応しようとしました。それが失敗したことは2章で説明しましたが、その後の元文の改鋳を行うことで面目を保ったことで、その政策が正しいと勘違いしたことが問題です。

吉宗が百姓に重税を課したことで水呑み百姓は土地を捨てて都心に流れてゆきます。現在でも農村部が限界集落になっているのは高齢化の為ではなく、田舎では食っていけないから都心部に流れてゆくのと同じなのです。

石高が減って困るのは幕府であり、大名であります。飢饉などが起きても本百姓は何も米だけを収穫にしている訳ではありませんから大きなダメージにはならなかったでしょうが、小百姓や水呑み百姓は食っていけません。また、庄屋など本百姓がすべてを助ける財力もなかったでしょう。

田沼時代は重農政策から重商政策へ転換したことにより、人口移動の受け皿を用意し、経済の好循環を作ります。しかし、一度震災が起これば、被災者救援の為に膨大な財貨を放出せねばなりません。

田沼意次はそこで各大名が財政を管理するより、幕府が一元的に管理した方が合理的であると考えました。400万石で3000万石を管理するという不合理な制度に疑問を持った訳です。遅まきながらも抜本的な税制の改革に着手したのです。

1707年(宝永7年)に富士山の大噴火で甚大な被害が出て、小笠原藩を救済する為に幕府は全国一律に2%の資産課税である国役金を徴収します。これを恒久化しようとしたのが田沼意次です。1786年(天明6年)に百姓は百石当たり0.42両、町人は間口一間当たり0.05両、寺社山伏には格式に応じて最高15両を毎年5年間にわたって課すという法令が出されました。

集めたお金は大坂表会所で大名に年利7%で貸し付けます。担保は大名の米切手もしくは村高証文です。返済を滞ったら転換され、物成り(現物引き渡し)によって返済させます。

返済できない大名が多く出てくることを承知で行いました。つまり、徴税権を大名から幕府に移す、幕府が中央政府として全国に課税できるようにする布石を打った訳です。

田沼意次は大名から租税徴収権を奪い「日本惣戸税」ともいわれる新御用金令により変則的課税矛盾の解決しようとしたのです。

気が付いた大名は必死に抵抗したでしょう。運が悪いのか、それも陰謀説を説きましょうか。その2ヶ月後に10代将軍家治が死去します。田沼意次は失脚し、舞台から退場します。仮に将軍が生きていても、様々な抵抗で意次の「日本惣戸税」は完成しなかったと思われますが、それでも税体系の矛盾が一部でも緩和されていれば、江戸幕府の財政も少しはマシになっていたでしょう。

結局、経済を理解しないお馬鹿さん達が徳川家延命のチャンスを自らドブに捨ててしまったのです。

現在、平成の日本を支えるお馬鹿さん達が同じ間違いをしないことを祈りたいですね。

次に続く

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上念司 経済で読み解く明治維新の概略2

概略1:第1部 江戸時代の経済、第1章「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」 

 

概略2:第1部 江戸時代の経済、第2章「江戸幕府の慢性的な財政難」 

 

概略3:第2部 大名と百姓 

 

概略4:第3部 江戸幕府の滅亡 

 

概略5:まとめ

次に続く

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【経済で読み解く明治維新】

~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~

第1部、江戸時代の経済

第2章、「江戸幕府の慢性的な財政難」

この2章を要約するならば、

・三河武士は馬鹿だった。

 

・豊臣政権を略奪したツケを後で払わされた。

 

・金銀で奪った天下であった。

この3つにまとめることができます。

三河武士と私が要約しましたが、三河でなくても貨幣経済というモノを理解していた者はいなかったでしょう。商人を始め、一部の武士にはそれを理解した者がいました。その成功者が織田信長、羽柴秀吉であり、それが太閤豊臣秀吉政権へと繋がるのです。信長・秀吉は経済を支配することで天下を統一し、統一の過程で道を整備され、貨幣も統一されました。これが経済の発展に繋がったのです。

上念氏は、

①物流の自由

②決済手段の確保

③商取引のルール整備

この3つの社会インフラが整ったことで、経済が発展したと書かれています。しかし、「経済で見る歴史学」を知らない方々にはピーンと来ないでしょう。

軽く復習をしてみましょう。

<聖徳太子から始まった貨幣経済>

日本の貨幣経済は、聖徳太子が送り出した遣唐使が持ち帰ったと思われる銅銭『開元通宝』から始まったと思われます。そして、国産の銅銭『和同開珎』が作られ、一日の労働を一文(米2kg)と定めます。銭を使うと現物をすぐに用意する必要がありません。平城京遷都などで大量に人夫が必要だった政権は現物のない米の代わりに銅銭で支払ったのです。この当時は、米・布が基準通貨でしたから、これに銅銭が加わった訳です。

しかし、760年(天平宝字4年)には万年通宝が発行され、和同開珎10枚と万年通宝1枚の価値が同じものと定めたことで混乱が生じます。ほとんど、同じ材質で価値が違うというのは当時の人間には受け入れられないことでした。

この当時の銅銭は溶かす教典を入れる銅管が作れます。銅の保管という意味でも銅銭は役にたっていました。つまり、金・銀・銅・鉄と言った鉱物は、その鉱物に価値があった訳です。ところが万年通宝には、いきなり10倍の価値があると言った訳です。経済は混乱し、万年通宝の価値は認められずに和同開珎万年通宝は同価値であるということを政権が後追いで認める事態が起きています。

それは江戸時代でも同じでありました。萩原重秀が行った貨幣改鋳では、2枚の小判を3枚に替えるものです。

「物質が落ちたのに、同じ価値とはこれ如何に」

新井白石などは、朝鮮人参との取引などで混乱をきたしたことを例に上げて、萩原重秀を糾弾します。しかし、江戸時代と平城時代では1つ条件が異なります。それは織田信長が貨幣以外での取引を禁止したからです。つまり、米や布を貨幣の代わりに使うことが出来なくなっていたのです。

現代に置き換えるなら、スーパーで買い物をします。

「お買い物は1700円になります」

「じゃあ、1700円の価値の米10kgを置いてゆくよ」

「ありがとうござます」

こんな光景が日常にあった訳です。つまり、信長以前は米や布をお金の代わりに使っても良かったのです。それを信長が貨幣に交換してから物を買うようにしました。この貨幣経済を徹底させたことが大きな意味を持ちます。

もちろん、萩原重秀が一枚の小判から10枚の小判を作っていたら、どうなっていたか判りません。

考えてみれば、当たり前ですよね!

国民一人当たり10万円を配ったとしてもそれは税金を返しただけであり、単なる減税です。しかし、一人当たりに1億円を配ったとします。国民全員に宝くじが当たったのと同じです。1億円もあれば、車くらい買っても減りませんから誰も車を買うでしょう。すると車の数が足りません。ディラーは車の値段を上がります。あっというまに一台が300万から500万、800万円になるでしょう。スーパーのキャベツも取り合いになり、1個十万円に値上がりするかもしれません。一枚の一万円札の価値があっと言う間に目減りしてゆくのです。これがハイパーインフレという奴です。

紙幣を大量に刷れば、紙幣の価値が暴落してハイパーインフレが発生します。タイの国でリュック一杯の紙幣と同じ重さの米が交換される『アジア通貨危機』を覚えている方はいるでしょうか。

つまり、萩原重秀が2枚の小判を3枚にする貨幣改鋳は、物価のインフレ率と通貨不足を解消する過程で許容範囲だったから容認されたのです。

聖武天皇の死後2年、760年に孝謙上皇が「万年通宝」の発行に踏切り、さらに5年後の10倍の「神功通宝」が発行されます。

「和同開珎」100=「万年通宝」10=「神功通宝」1

このようにして、貨幣の価値を根幹から潰された日本では、以後150年間も黄金(コガネ)の国にお金がない(貨幣を使わない)国となってしまったのです。

<平清盛の貨幣経済復活とデフレ経済>

平安末期になると武士が力を付けてきます。

平氏は宋貿易を盛んにし、宋銭を大量に輸入するようになります。宋銭は精巧な銅銭であり、日本の技術では同じものを造ることができません。つまり、偽物を作ることができない信用力に高い銭の出現です。

宋銭を大量に出回ると再び貨幣経済が活性しました。ところが宋銭は宋舟を出さないと手に入りません。宋銭の流通が広がり、西国で使われるようになると、貨幣不足が発生します。宋銭の価値が上がるデフレ(通貨不足)経済が発生します。宋舟を出しているのが平家ですから、宋舟が帰ってくる度に平氏には巨万の富が流れ込みました。しかし、東国では慢性的な宋銭不足が起こり、物資が手に入らない事態になったのです。西国が富み、東国が貧する経済格差が起こったのです。これに怒った東国武士が源氏を担ぎ出して平家を倒し鎌倉幕府を打ち立てます。

<鎌倉幕府の文化開花と振り出しに戻った貨幣経済>

鎌倉幕府は土地の分轄することで主従の関係を築きました。主な収入は調停料(紛争などを治める役)としての年貢です。宋貿易も続きますが、平家ほど積極的でなかったので銭不足から渡来銭を真似た銭(島銭、鋳写鐚銭)の鋳造が行われます。撰銭(えりぜに)と呼ばれ、これら粗悪な銭貨は「鐚銭」(びたせん)又は「悪銭」(あくせん)とされて、一時は鐚銭四枚で一文とする取り決まりがなされたとあります。銭の取引もなされる中で米や布の方が安定通貨として使われるように戻りました。

ところで平氏が持ち帰った宋貿易には様々な文化もあり、民衆の中に大衆文化が生まれ始めます。また、これが発火点となり、鎌倉仏教(浄土宗、日蓮宗など)の華が開いていきました。この緩やかな大衆文化が組合や互助会といった性質の惣(そう)になるのは室町時代を待つことになりますが、大衆に大きな変化が現われてきます。商人の前進となる様々な職種の登場や地侍といった新興勢力が成長する時代でありました。

鎌倉幕府は年貢を税収とする脆弱な財政でありまして、元寇のような外敵が襲ってきたことにより財政破綻をきたします。つまり、どんなに幕府の役に立っても褒美を貰えない。そんな不満を募らせた地侍が悪党という集団を組んで幕府に抵抗を始めます。

<鎌倉幕府の討伐と後嵯峨天皇の宋贔屓>

元寇の為に度重なる出費に鎌倉幕府は財政破綻を起こします。給金を貰えない武士が反乱を起こしました。反乱軍討伐の武士を組織して反乱を治めると反乱軍討伐の武士に払う給金が足りないので、またその武士が反乱に加担をする。ねずみ講のようなエンドレスの財政危機に襲われたのです。

そうした中に楠木正成など悪党と朝廷の後嵯峨天皇が繋がって鎌倉幕府運動へと発展します。この運動が成功し、後嵯峨天皇を中心とした建武の新政が始まります。この旗頭であった後嵯峨天皇は宋国への憧れが強い方でして、強力な中央集権国家を作ろうとしたのです。

建武の中興

・院政、幕府、摂政、関白のすべてを無くして、天皇にすべての権限を集中させる。

・すべての土地は天皇の綸旨(天皇の命令)で定める。

・記録所(記録荘園券契所)や雑訴決断所(引付衆のような機関)で管理を一元化する。

・東北地方に陸奥将軍府、関東地方に鎌倉将軍府を作り、皇子を派遣する。

武家のしきたりを無視して、中央集権体制の人事に代えてゆきます。何と言ってもすべての土地を一旦天皇へ返上するといった天武天皇以来の大号令はを掛けたので、地方の豪族は大慌てです。持っている土地をすべて奪われては堪らないと失脚しかけた足利尊氏の元に結集して後嵯峨天皇に対抗したのです。

教科書では建武の新政を「人事を混乱させた」だけの政策と余り評価していませんが、決してそんなことはありません。ただ、問題なのは軍事を武士が担っていたと問題を軽んじていたことです。楠正成や新田義貞などの軍勢を排除した足利尊氏らは緩やかな統治機構の室町幕府を成立したのです。

室町幕府は様々な豪族の寄り合い所帯であり、その連合の棟梁でしかない足利家は直轄領も少なく、小さな力の幕府でした。しかも吉野に隠居した後嵯峨上皇が南朝を設立します。

その土地の権利は、北朝(朝廷・幕府)と南朝(後嵯峨上皇)の双方から発信されるという混乱した有様でした。日本全国で紛争が勃発し、緩やかな未曾有の混乱期に突入します。室町末期には守護同士の争いから応仁の乱を引き押して、戦国時代への門を開くことになります。

紛争だらけの室町時代ですが、実に華やかに文化が開花します。朝廷の力が衰弱すると共に地方の豪族が力を貯め、守護となって跋扈した時代です。大衆も様々な組合の惣(そう)が生まれます。そして、それを後押ししたのが貨幣経済の導入でした。

<日明貿易で開花した日本の貨幣経済>

室町幕府の財政的に非常に脆弱な基盤しかありませんでした。そこで奥州から上納される金を明国に持っていって、宋銭に替える政策を取ります。元を滅ぼした明国は宋銭の使用を禁止した為に、宋銭が大量に余っておりまた。宋銭は非常に精巧な銅銭であり、粗悪な紛い物を作ることができません。つまり、貨幣としての信頼性が高かったのです。

室町時代の物価は、100文で米1斗(14キロ)、1日の労賃も100文余であり、100文あれば、家族が1日生活できたと言われています。

100文の重さは375gです。米俵1俵(60kg=1俵=4斗)が400文(1.5kg)になります。銭1貫(1000枚=3.75kg)を持って歩くのは、米俵2.5俵を持ち歩くのと同じです。これは便利だと思ませんか?

油を買いに行くにしても、鉄を買いに行くとしても、荷車で米俵を引いていくより、銭を使う方が非常に便利です。

・大量の宋銭(共通通貨の出現)

・惣(そう)など大衆組合の成長

この2つが結び付いて、室町文化が花開いたのです。職業の分業化が進み、様々な業種が増えてゆきます。その中間地点となる町も大きく発展してゆきます。室町後期では惣と惣が結び付いて、一揆を起こして守護を追放するほど力を貯めることになってゆきます。

さて、織田信長の貨幣経済が完成するには、もう1つの偶然が必要になります。足利義満が京都の北山に金閣寺を建てた年から(北山文化 1397年)6年後、応永10年(1403年)8月、唐船が相州三崎に漂着しました。その船の中に数千貫文の永楽銭があり、これを接収した鎌倉の管領足利満兼が、「若干の永楽銭を徒らに費やすべからずとて、法を定めて之を用ゆ」として、永楽銭の流通が始まりました。貨幣経済に乗り遅れていた関東・東海地方に一気に貨幣経済の波が押し寄せました。一度、貨幣経済が始まると経済活動が広がってゆき、関東・東海地方の貨幣不足を補う為に次々と送られてゆくようになります。その中継地点であった尾張の国(津島)は、大いに賑わいました。

信長の父、信秀が朝廷の内裏築地の修理費に大枚四千貫文の寄付、伊勢神宮遷宮に材木や銭七百貫文を献上しています。他と比較すると以下のようになります。

【朝廷に献上した主な例】(100疋=1貫)

永正 7年 朝倉貞景 ⇒ 5万疋(即位反鋳)

天文 4年 大内義隆 ⇒ 21.4万疋(即位費)

天文 6年 大内義隆 ⇒ 10万疋(?)

天文12年 織田信秀 ⇒ 40万疋(内裏修理費)<四千貫文

天文12年 今川義元 ⇒ 5万疋(内裏修理費)

天文15年 有馬晴純 ⇒ 3万疋(?)

天文16年 大内義隆 ⇒ 3.2万疋(?)

天文18年 大友義鑑 ⇒ 3万疋(?)

天文19年 大内義隆 ⇒ 3.4万疋(三節会費)

弘治3年 三好長慶  ⇒ 6万疋(大葬費)

永禄2年 本願寺   ⇒ 3万疋(?)

100万石に近い大内義隆でさえ、二千貫文余です。織田信秀の財力が如何に凄かったことが判ります。流通が生み出す利鞘が如何に大きいかを目の当たりにして育った信長が天下の副将軍を蹴ってでも大津・堺を最初に手に入れたようとしたのは訳がありました。それを引き継いだ豊臣秀吉も九州平定で博多を最初に調略しています。

<信長が作った貨幣経済と第六天魔王>

信長は兵の移動と物流の為に本街道三間二尺(約6.5m)、脇道二間二尺(約4.5m)、在所道一間(約2m)と道を改修します。さらに銅銭の不足から来るデフレを解消する為に、金・銀を貨幣に導入する金1=7.5=1500文とする三貨制度を開始します。この三貨制度が完成するのは徳川時代になります。

いずれにしろ、貨幣経済が急速に膨らむ中で貨幣不足から起こるデフレを解消し、貨幣の流通量を増やしたことは驚愕に値します。貨幣経済などという言葉は知らなくても直感で必要なものを感じ取っていたとしか思えません。信長と秀吉はこの財力を持って天下を統一しようとしたのです。

① 物流の自由(交通手段の確保)

② 決済手段の確保(通貨価値の統一)

③ 商取引のルール整備(調停人の存在)

この3つの経済インフラが整備されたことが経済発展に繋がったと上念氏は言っております。私もまったく同じ意見であります。

遣唐使から始まった貨幣経済の流入に信長・秀吉によって完成したと言っていいでしょう。しかし、貨幣経済を理解する武士は皆無であり、秀吉政権でも石田三成や小西行長など少数の武将しか理解していなかったのが実情です。

さて、信長は若かりし頃、津島衆の力を借りで尾張を統一します。この津島衆は後嵯峨天皇が起こした南朝を支持した一族でした。後嵯峨天皇が亡くなると『第六天魔王』となって京の町に猛威を振るったと伝えられます。信長が『第六天魔王』を名乗ったのは、「我は後嵯峨天皇の生まれ変わりなり」と言っているに過ぎないのです。しかし、言魂とは恐ろしいものであります。

呪いでしょうか?

堺や大津といった商家衆を取り込むと、比叡山や本願寺といった神仏衆を敵に回し、さらに幕府を討幕することになります。後嵯峨天皇を隠居させた尊氏の子孫を信長が追放するのです。そして、最後に第106代正親町天皇の第五皇子の誠仁親王の第五王子である邦慶親王(五宮)を信長の猶子にしました。

平清盛のように天皇に織田の妻を送ることで緩やかに朝廷を簒奪し、後嵯峨天皇が夢見た中央集権体制の『建武の中興』が完成したのかもしれません。そして、それを阻止しようとしたのでしょうか。源氏の尊、明智光秀が謀反を起こし、249年前と同じく中興は阻止されたのであります。

<政権を奪った徳川幕府とそれを支えた金銀財宝>

明智光秀を倒した羽柴秀吉は、柴田勝家などを蹴落として織田政権を簒奪しました。このとき毛利輝元や徳川家康らを取りいれる為に中央集権から連合国家へと変化します。しかし、それでも豊臣を中心とする政治体制であることには変わりありません。枡を統一して石高に応じた負担を求め、刀狩などで武器を武士以外が持つことを禁じる。また、国替えで土民と大名の関係を断ち切るなどの政策を断行します。ところが、秀吉が亡くなると五奉行の石田三成と五大老の徳川家康が対立します。

石田三成:大名の権限を抑止する政策、堺衆などを厳しくして流通を独占する政策

徳川家康:大名の権限を保護する政策、流通を自由にして経済を活性化する政策

家康は味方を増やす為に大名たちや商人に媚びを売り、豊臣の財源を枯渇させることを狙った政策を打ち出します。

未曾有の大震災の慶長伏見地震や朝鮮出兵で多額に費用を必要とされた大名の家計は火の車状態でありました。そんな中に悠々自適な生活をしていたのが徳川家康であります。家康は武田を攻め滅ぼした時に金山衆を所有したことが大きな意味を持ちます。

秀吉は1587年に通貨単位を統一と共に金銀山の所有を独占しました。秀吉が直轄した金山の数は21ヶ所、銀山は十ヶ所であり、年間黄金3397枚(1165gとして56.05kg)、銀79415枚だったと示されています。その他の銅鉱や諸役などの献上金は金1002枚、銀13950枚に上ったそうです。豊臣政権が徳川より少ない直轄地200万石で全国を統治するには、流通の独占と金銀鉱山の独占によって成り立っていたのです。

天正18年(1590年)に北条を討ち滅ぼした秀吉は家康に関東への移封を命じます。この時、伊豆に持っていた北条の金山は豊臣の水軍に蹂躙されて廃墟と化しました。この伊豆も徳川の領土となります。

文献には残っていませんが、この年よりこっそりと金山の再建が行われ、関ヶ原の戦いに勝利した翌年には、堂々と彦坂小刑部元成が伊豆の金山奉行を拝命します。しかし、彦坂小刑部元成は余り良い成果を残せなかったようで、慶長11年(1606年)全国金山奉行の大久保石見守長安が伊豆金山奉行を拝命して本格的に伊豆金山の採掘がはじまります。その金の採掘量は年間1tに上りました。黄金3397枚(56.05kg)と比べても桁違いの採掘量であることが判ります。

徳川家康は関ヶ原に勝って幕府を開くことができました。しかし、400万石の大名に過ぎません。もし、長安がいなかったなら豊潤な財源を持たない徳川家は豊臣家を滅亡に追い遣り、267年の長期政権を維持できたでしょうか。おそらく、室町幕府のような脆弱な幕府となっていたでしょう。しかし、金山という潤沢な財源を持った徳川はそれと同等の軍事力を持ったに等しいのです。山師である長安を家康が拾ったことが、家康の天下取りを現実のものとしたのです。

<三河武士は馬鹿でござる>

関ヶ原の戦いで勝利した家康は、豊臣家と豊臣恩顧の大名の力を削ぐことに心血を注ぎます。大阪夏の陣で豊臣家を滅ぼした後も二代将軍秀忠は大名の財力を削ります。また、外様有力大名の福島正則(広島50万石)、田中忠政(筑後柳川32万石)、最上義俊(山形57万石)、蒲生忠郷(会津若松60万石)、さらには弟の松平忠輝(越後高田75万石)、家康側近だった本多正純(宇都宮15万5000石)など、幕府の脅威になりそうな大名、外様23家、親藩・譜代16家を改易して取り潰します。さらに3代将軍家光は外様29家、譜代・親藩20家の合計400万石も取り潰し、幕府の基礎を盤石にしました。

しかし、これだけの権力を思うままにした徳川幕府の財政を見れば、家康の死後に秀忠が受け取った財産は約600万両であり、家光が受け取った財産が366万両です。しかし、家綱が家光から受け取った財産も600万両と言われます。資料によって様々であり、一概に結論を申せませんが、はっきり言えることは1613年に大久保長安の死去以前に全国の鉱山の採掘量が減って、家康は長安の役職を罷免していたという事実です。

推定埋蔵量から逆算して江戸時代の採掘量は金が400kgとされますので、1613年頃には最盛期の半分である500kg程度に落ちていたのではないでしょうか。

いずれにしろ、三代家光の時代では徳川家の財政は赤字となります。しかし、家光は父の秀忠に反発し、大権現様(家康)を尊敬していました。そして、大権現様を敬い、その政策と踏襲することに心血を注ぎます。そして、この50年間の徳川の政策の基礎は267年間も変わることがなかったのです。

現在の財務官僚(元大蔵官僚)は、先輩の決めた政策が間違っていても、それが間違っていると指定することはタブーとなっています。これを打ち破るには非常に大きなエネルギーが必要であり、1つの壁を打ち破るだけで一政権が命脈を断たれていては政策もできません。この日本人の悲しい性がこの江戸時代にできたのではないでしょうか。

家康が商人の規制を緩和したのは豊臣の命脈を断つ為であり、流通の独占こそ豊臣政権の財源だったからです。最も判り易い例が秀吉の『津軽や秋田への米の買い付け』です。

武家諸法度(ぶけしょはっと)

・道路・駅馬・舟梁等断絶無ク、往還ノ停滞ヲ致サシムベカラザル事。

・私ノ関所・新法ノ津留メ制禁ノ事。

・五百石以上ノ船、停止ノ事。

武家諸法度に何気なく書かれている流通の自由は、豊臣の財源を断つ為のものでした。秀吉は徳川ほど多くの金銀鉱山を持っていた訳ではありません。しかし、その財力は徳川を軽く凌駕するものでした。徳川が大阪城から持ち出した金銀の量は相当な額になると言われています。流通を支配するということはそう言うことなのです。つまり、豊臣を滅ぼし、すでに10年以上が過ぎた家光の時代にこの諸法度三条のみを例外とすると改正するだけで、徳川の財政難は解決したのです。あるいは、織田信長が今川義元から学んだ楽市楽座の座制度を復活するだけでも良かったのです。

現代風に言うならば、

・信長は場所代として税を掛けるので取得税のようなものです。

・秀吉は流通から富を掬うので消費税のようなものです。

徳川家は貨幣経済などという難しい原理を理解ですとも、織田信長や豊臣秀吉の例を学ぶだけで全国183大名(幕末266大名)3000万石に見合う富みを得ることができたのです。

当時の日本を世界と比べますと、

・庶民は読み書きそろばんなど知識層が8割を超え、就学率・識字率はともに世界一です。

・金銀の輸出量は世界トップクラスの資源国でした。

・人口は3000万人で世界8億人の3.9%になります。

つまり、幕府が財政難を克服してさえいれば、明治維新などせずに文明開化を受け入れて、近代化を軽々とやってのけるだけの底力を初めから持っていたのです。

しかし、三河武士の方々は大権現様の申されたことをすべて正しいとされ、それを変えることは悪だったのです。様々の改革の前に立ちはだかる大権現様の影の為に江戸幕府は慢性的な財政難を背負うことになったのです。

上記に書いたことは、上念氏が書かれた事とバッティングしますが、「経済で見る歴史学」であります。これらの基礎知識も元に本文を読めば、より理解しやすいと思います。 

<江戸の貴穀賤金で財政難>

地震・雷・火事・親父というのは、昔からどうしようもなく怖いものという言い合せです。因みに、この「おやじ」は本来「台風(おおやまじ)」ではないと言われています。どうなのでしょうね。

いずれにしろ、天災が起こると江戸幕府の財政難が発生します。流通の富をすべて商人や庶民に奪われていた幕府は献身的な国家でした。歪ではありますが世界のどこより資本主義と自由主義が花開いた国家だったのです。もしも幕府が西洋の知識を率先して庶民に解放していたなら、近代科学は西洋ではなく、この日本で起こったのかもしれません。

信長・秀吉で完成した「経済インフラ」のおかげで江戸時代は飛躍的に経済力を付けます。金銀の財宝で幕府の財政赤字は隠ぺいされ、四代家綱まで問題なく運営できました。しかし、五大将軍綱吉になって財政難が露わになります。これを萩原重秀が『貨幣改鋳』で乗り切ります。

萩原重秀は貨幣を通貨として認識したのです。上念氏はこれを通貨発行益(シニョレッジ)による財源の拡大と呼んでいます。ところが元禄地震などの天災が襲うとその貯蓄もアッと言う間に底を付きます。

ところが、江戸幕府の欠点は意思決定が度々変わることにあります。綱吉の亡くなると萩原重秀は失脚し、新井白石などが実権を握りました。新井白石は小判を通貨として認識しておらず、金という貴金属として認識していたので、元の価値に戻してしまうのです。

新井白石は金銀の流出したことが幕府の財政問題の本質であり、なるべく流出しないようにすれば財政は立ちなおせると言います。さらに「貴穀賤金」とは、米などの農産物は貨幣より尊く、お金は賤しいものだ。一時的に物価が上がっているがそれは偽りのものである。つまり、米の価値は尊いので、いずれは価値が戻ると言うのです。

カエサルは言います。

『人間はみな自分の見たいものしか見ようとしない。』

米を財源とする武士にとって、米の価値がいつか戻ってくると願うのは当たり前のことであり、新井白石の言葉は希望の火だったのです。

もちろん、経済を理解している方は経済が膨らむ中で通貨量を減らすとどうなるかはお判りでしょう。デフレギャップが発生し、物価が断続的に下がり、通貨の価値が上がってゆきます。上がるハズの米価は逆に下落してゆくのです。そこで家継が亡くなり暴れん坊将軍の吉宗が登場します。吉宗は新井白石を失脚させるのですが、吉宗自身も「貴穀賤金」に囚われており、江戸の経済は混乱を続けます。

<暴れん坊将軍は経済オンチ>

八代将軍吉宗は政権につくと「質素倹約」、「贅沢禁止」の緊縮財政を始め、さらに上米の制、定免法、新田開発などを行います。

・上米の制:米を上納させ、見返りに大名は参覲交代の江戸在住の期間を半減する。

・定免法:豊作凶作に関係なく一定額を年貢とする。

・新田開発:米の生産量を増やし、幕府の収入を増加させる。

つまり、節約によって支出を減らし、収入を増やして財政を立て直すというものでしたが、江戸の最大の消費地であります。その中の最大の消費者が幕府であり、その幕府が節約するとどうなるのでしょうか。幕府の中でも特に大奥が最上級の顧客でした。吉宗はその中で大奥の奥女中の中堅である表使という50人をリストラしました。(表使は50両の給金を貰っていましたから250両程度の削減になります。)

もちろん、それで終わる訳もありません。幕末に行われた大奥の財政再建では、食事、香、筆、墨、紙、薪、油などを節約し、廊下行灯の数を減らすなどして、24万両以上にもなっていた大奥の経費は17万両にまで減ったとあります。吉宗の節約がそこまで切実でなかったとしても数万両の節約はあったと思われます。

数万両の経済効果が一度に失われるとどうなるでしょうか?

当然、関係の業者に仕事がなくなり、そこに雇われていた職人から材料など扇を広げるように裾野が広がっていました。少なくとも数十万両が失われ、同じ数の失職者が発生します。金が無くなれば、物を買いませんから景気が低迷します。苦労して増やした米も米価も下がりますから幕府の収入も減ってしまいます。節約した以上に収入が減って改革の効果がなくなるのです。

経済オンチの吉宗はデフレを悪化させてしまったのです。

吉宗はこんなハズではなかったのにと悔やんだことでしょう。かって第5代紀州藩主に就任する吉宗は、この「質素倹約」、「贅沢禁止」の緊縮財政と木材やみかんなどの特産物を積極的に推進する生産増で収入を増やし、紀州の財政を健全化させました。吉宗は消費地と生産地の違いを理解していなかったのです。しかし、それで終わらないのが暴れん坊将軍でした。

享保15年(1730年)に吉宗は方針を大転換します。諸大名に米を買わせる「買米令」、飢饉に備え米を備蓄しておく「囲米」、江戸や大阪に米の流入を防ぐべく「廻米制限令」であり、投機的な取引で米価を上げる「堂島の米の先物取引」をはじめます。さらに「酒造制限令」を解禁し、むしろ酒造を奨励します。米を江戸の減らし、米価を上げようとしたのです。ところがこの政策も余り成果をあげません。

「パンがなければ、お菓子を食べればいい」

マリー・アントワネットが言ったかどうかは知りませんが、物資が豊富な江戸では豆腐などの諸品目の値段が上がりますが、米価は上がらない『米価安諸色高』になってしまうのです。つまり、米の値段が上がらないので収入は増えないが、物価が上がって必要経費が増えて、より貧乏になってしまうのです。

同年612日に改革を推進してきた老中水野忠之が罷免され、ブレインが大岡越前に変わります。元文元年5月(1736年)には『元文の改鋳』が始まり、旧金貨100両を新金貨165両、銀10貫目を新銀15貫目としたのですが、抗議と嘆願により「古金1両=新金165両」のレートを認められ差益をあまり得ることはできませんでしたが、それでも出目は約100万両を得ることができました。また、上方と江戸の金銀交換レートが「金安銀高」から「金高銀安」に変わることで上方からの物量が増し、江戸の物価が下がるという効果を生み出そうとしたのです。

その他にも通貨を増やす方策として、藩札禁止令を解除し、藩札という形の貨幣代替物も解禁しています。

紆余曲折、色々と問題もありましたが通貨の流通量が増えたことで、十分な通貨を得られたので換金の為に放出される米が減り、米価は米1石銀35匁が45匁強となり、その後も上がって2倍近く上がります。

こうなってくると年貢率を46民から55民に引き上げたことや上米の制、定免法、新田開発など政策が生きてきます。収入が増えて江戸の財政を立て直し、『中興の祖』と呼ばれたのは所以です。

有能な人材を採用したり、抜本的な改革を断行するなど暴れん坊将軍の名に恥じない活躍ぶりで財政を立て直したのは立派ですが、経済オンチから庶民を混乱させたことは否めません。

<どこかの政治家じゃありませんが、こちらはホントにできることからコツコツと>

田沼 意次(たぬま おきつぐ)と言えば、賄賂を蔓延らせた教科書にも載る悪徳政治家であります。そして、意次の悪政を排除し、悪徳商品と悪徳代官を成敗した松平定信はヒーローのようです。

時代劇でよく出てくる。

「お代官だいかんさま、この金色のおかし(小判こばん)をお受けとり下さい。」

「ほほう、○○屋、おぬしも悪ワルよのう(笑)。」

という賄賂政治が田沼時代に横行し、一部の幕府と大商人だけが儲かったと揶揄します。

2

(小学館「学習まんが 日本の歴史」より)

物価が上がり、天変地異も起こって多くの百姓が飢え、一揆も勃発しました。まるで暗黒時代です。そして、松平定信の時代になるとこんな狂歌が歌われます。

「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」

教科書解説:「白河の清き」とは、白河藩出身の老中松平定信を暗示した一節で、善政をひいたと言われる一方、庶民にとっては暮らしにくい世の中になったことを皮肉ったものです。

江戸の学問は朱子学を中心としたものであり、儒教の価値観では、「士農工商」の差別意識があり、物を生み出さず商品を流通させ利潤をえる「商人」は、泥棒と同じと考えていました。新井白石の「貴穀賤金」もここから来ています。

田沼政治を「重商主義」と評されますが、イギリスの国策のような「重商主義」でありません。意次は単に商人を軽んじてはならないと戒めたに過ぎません。

意次の政策を見ると、株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手するなどと書かれております。

株仲間の結成とは、商工業者の組合のようなもので、便宜を図る代わりに営業税を取りました。販売の独占権を与える代わりに、冥加金(みょうがきん)を徴収することにしたのです。これが賄賂というなら年貢も賄賂なのですが、農は尊く、商は賤しいので、年貢は正しく。冥加金は悪なのです。(教科書を作っているみなさん、冥加金が悪なら法人税も悪ですよ。撤廃を訴えて下さい。笑)

また、外神田の田沼屋敷には訪れる人が絶えなかったと残されています。大名は元より、農民から商人に至るまで意次の家を訪ねてきたといいます。そして、意次はそのすべてにあったと残されています。もちろん、賄賂も多くありました。

前田家や細川家は豪華な夕食を贈り、某家からは青籠にキスを67匹生きたまま入れてあり、それに添えてあった青柚子には当時名人と言われた彫金師・後藤某の小刀が刺してありました。 別の家は「京から京人形をお届けします」と言って箱を贈ってきたのですが、箱を開けたら「美しい生きた京人形」だったそうです。

長崎奉行職になるには2千両、目付職で1千両の賄賂が相場だったそうで、その役職に付けば、それ以上のリターンが見込めたと考えれば、老中に送られる賄賂の額が天文的な数字であったことは間違いありません。

白河の清き水の松平定信も同じほど貰っていたのは疑いようもありませんが、悪名を残したのは、柳沢吉保と吉良上野介と田沼意次と鳥居耀蔵と決まっているのです。これは綱吉公が犬将軍で、吉宗公が名君と称されるのと同じ理由です。

三河武士は神君家康公を大権現様と尊び、大権現様が残された「質素倹約」と朱子学の教えをまこと大事にしていたからです。

ほとんど呪いです。

それはさておき、意次は下々にも会い、よりアイデアがあれば直ちに実行するという政治を行いました。悪徳商人だけに会っていたのではありません。

大岡越前の逸話に、「三方一両損」という話があります。

「拾った男は三両貰える所だったが二両しか貰えず、落とした男も本来の手持ちより一両少ない金が残り、私も一両を失った。これで三方一両損である」

本当にあったかどうか知りませんが、大岡越前が出された一両が公金であるハズがありません。大名行列の出費で公金が足りない場合、勘定方やお供衆が懐から私財を投げ打って足すというのは普通のことです。

幕府が母屋とするなら、各部局の役人は離れみたいなものであり、離れに持ってくる上納金を賄賂とするか、プール金とするかはその役職に付く人物の裁量だったのです。意次は間違いなく後者であります。

意次の遺書の中には、

「いくら借金を重ねていようとも、それを民百姓の年貢の増でまかなおうとするのは筋違いである。このような無慈悲なことは、領民からの信頼を失い、御家の害となり、決してしてはならないことである」

これは間違いなく、中興の祖を批判した言葉ではないでしょうか。

田沼意次の家訓に、

一・主君に対しては忠誠を誓い、このことは決して忘れ損じてはならない。当家(田沼家)においては特に、九代家重様、十代家治様に多大な御恩を受けているのだから、夢々忘れてはならない。

二・親に対する孝行、親族に対する配慮をおろそかにしてはならない。

三・同族間ではもちろんのこと、同席の衆、親しい人に対し態度を変えることなく接するように。どんなに身分が低くても、情をかけるところは差別のないようにすること。

四・家中の者に対しては、依怙贔屓(えこひいき)がないように気をつけて接すること。使いやすい人、使いにくい人にも、大いに気配りをして、しっかり召し使うこと。

五・武芸は怠ることなく心がけ、家中の者にも重々申し付けること。若者には特に精を出させ、大いに励ませるべきこと。ただし、武芸に精を出した上は、その余力で遊芸に励むことは勝手次第で、それを止めだてする必要は毛頭ない。

六・権門の衆中には隔意失礼のないように心がけること。公儀(幕府)に関わることはどんなに些細なことでも慎重に行い、諸事入念が肝要である。

七・諸家の勝手向(財政)が不調なのはどこも同じようで、好調なるは稀である。不勝手が募ると幕府御用にも支障が置き、軍役も充分に勤まることが出来ず、領地を拝領している意味がない(大名が領地を貰うのは、軍役も兼ねている)。家の経済を守ることはとても大切なことであるので、常に心がけることが肝要である。

と書かれています。

身分の差別なく付き合うことを家訓に残す意次が、私財を貯めることに精魂を尽くした人物とは思えません。実際に天明6年(1786年)825日、将軍家治が死去し、意次は失脚する。閏105日には2万石を没収され、大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられます。その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受け、孫の龍助(田沼意明)が陸奥1万石に減転封のうえで家督を継ぐことを許されたとありますが、江戸や大坂の屋敷から金銀財宝が山のように湧いてきたとは残されていません。

<白河の清き松平定信と寛政の改革>

天明の大飢饉などで一揆や打ちこわしが続発し、その他にも役人の賄賂などがあったため、田沼意次は失脚する。

調べると書かれていますが、天明6年(1786年)825日、将軍家治が死去し、827日に老中を辞任ですであり、一揆や打ちこわしや賄賂など関係なく、後盾を失った為に失脚です。

実際、意次は中興の祖の政策を批判的に受け取っており、天明の大飢饉などの救済に幕府の金を吐き出し、おそらく、私財も投げ出していたと思われます。晩年の意次は大名も幕府が管理した方がいいと言っていましたから反発も大きかったのでしょう。

老中が松平定信に変わって、意次の政策を全否定すると吉宗の緊縮財政に戻してゆきます。風紀を取り締まり、役人以外にも質素倹約の緊縮財政を推し進めたので江戸の火が消えたのは間違いありません。松平定信が亡くなっても松平信明が意思を継ぎ、31年間も続きます。上念氏はこれを『失われた30年』と揶揄します。

1818年に田沼の遺児である水野忠成が老中に就任すると、緊縮モードからリフレ政策に変わり、貨幣改鋳で財政を補います。

上念氏はここで強く主張しています。

歴史教科書では「庶民は物価の高騰に苦しんだ」といった根拠のない記述がありますが、騙されないで下さい。物価の高騰よりも、幕府内の権力闘争によって老中の構成が変わることで「リフレから緊縮」「緊縮からリフレ」へというかたちで何度も経済政策が転換されたことが真の問題でした。

もちろん、最大の問題は“根拠なき緊縮政策”が新井白石や松平定信などによって推進されたことでした。

まったく、その通りです。

歴史教科書を作る方は、文字づらを合わすばかりで客観的に物事の推移を見ようしません。また、数字から実際の実情を知ろうともしません。新井白石や松平定信が言った言動をそのまま鵜呑みして、歴史のおける流れを見ようとしないのです。

<ぬるま湯の江戸幕府>

18世紀にイギリスが産業革命を成功させると世界情勢が大きく変わります。江戸幕府は鎖国していたといいますが長崎・対馬・薩摩・松前を開き、貿易の独占と情報の独占をしておりました。当然、オランダからイギリスやフランスの情勢を逐一で聞き及んでいたのです。外国の情勢を知る徳川斉昭(水戸)、島津斉彬(薩摩)、松平春嶽(越前)、山内容堂(土佐)などが早くから海防強化や攘夷を主張します。

しかし、それらの対応は常に後手に回り、ペリー来訪と共に一気の加速するのです。

天保11年(1840年)阿片戦争

嘉永6年(1853年)黒船来航

アヘン戦争からペリー来訪まで13年もの猶予がありながら、結局、幕府はなんら施策を取らずにいたのです。否、小田原評定を永遠と続けていたのです。

孫子曰く、

彼れを知り、己れを知れば、百戦殆うからず。

彼れを知らずして、己れを知れば、一勝一負す。

彼れを知らず、己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし。

最も情報を得ることができた幕府が、それこそオランダを通じでイギリスやフランス、アメリカに留学生でも送っておくべきだったのです。

12代将軍家慶の時代になっておりましたが、11代将軍家斉が大御所として君臨し、老中の水野忠邦が登場します。世に言う『天保の改革』の改革です。

江戸の改革は享保の改革・寛政の改革・天保の改革を合わせて「江戸幕府の三大改革」と呼ばれます。揃いもそろって「質素倹約」「貴穀賤金」の緊縮財政しかありません。

私は決して11代将軍家斉の老中水野忠成の賄賂政治を良しとはしませんが、化政文化が華開いたのも事実であります。そして、教科書はまたまた放漫財政で幕府が破綻の危機に瀕したと書かれていますが、もちろん違います。

1 全国の石高と人口の推移>

最初にお見せした図ですが、元禄文化や田沼政治の後ろに大飢饉が書かれており、化政文化の後半にも天保の大飢饉が発生しております。江戸幕府は毎度のことですが、大飢饉に襲われると財政難に陥るのです。そして、この日本は不定期ですが100年間に2回ほど大飢饉に襲われるのです。

天保の大飢饉で財政難になった幕府を『天保の改革』で経済を混乱させ、さらに身内揉めしているぬるま湯の政策を世界は許してくれませんでした。

私が思うには、水野忠邦が最初にすべきは大名や幕臣に世界情勢を知らしめることだったのでしょう。

結局、攘夷と開国が右往左往しただけであり、ペリー来訪によりすべてが始まったのであります。

「泰平の眠りをさます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」

上念氏も「安政の開国」という第2の開国へ向けた流れは、もう誰も止められなくなったと書かれています。

私が描くターニングポイントは三代将軍家光であります。彼が家康と大権現様と神格化した張本人であり、水野忠邦が行おうとした天領が別れているので1つにまとめるなど、行政の簡素化、大名の統治の幕府直轄の介入などを行うことのできる最後のチャンスだったのでないでしょうか。

 

四代家綱以降は尾張・紀州・水戸等々など一門衆でも力が分散してしまい大名の改易など軽々しくできなくなります。理想を言うならば、織田信長・豊臣秀吉の良き点を理解して、徳川幕府に組み入れることができれば、財政問題は解決し、明治維新なしに文明開化をやり遂げる財政を得ることができたでしょう。

 

歴史に『もし』はありませんが、

 

財政問題を抱えない江戸幕府は増長して放漫財政を悪化させ、激しい増税の末に民衆が反旗を翻してフランス革命が起こっていたかもしれません。現実はフランスなどの悪政に苦しむ大衆など日本には存在せず、商人や百姓に優しい江戸幕府ではフランス革命が起こる素養がまったくなかったのです。

 

教科書を読むと悪政に苦しむ百姓が描かれていますが、まったく嘘です。百姓より貧しい武士がいる幕府では、百姓が立ち上がるより武士が立ち上がるでしょう。明治維新のように!

 

〔参考資料:秀吉の流通独占例〕

文禄4年(1595年)、大阪周辺の米価は、黄金1枚で三十石だったのに対して、同じ時期の津軽や秋田では八倍の二百四十石も買えた。秀吉は豪商に指図して舟を確保すると遠隔地から大阪に米を運んだ。豪商も回船代と積米代の半分を受け取った。こうして豪商と組んで流通に率先的に介入することで秀吉は膨大な富を蓄積できたのです。

〔参考資料:金の生産関連の年表〕

1582年、大久保長安が家康に取り立てられ、甲州金山等の管理を任される。

1600年 大久保長安が大和代官、石見銀山検分役、佐渡金山接収役、甲斐奉行、石見奉行、美濃代官、佐渡奉行、所務奉行(勘定奉行)など、主に鉱山奉行を歴任。

1601年 彦坂小刑部元成が伊豆の金山奉行を拝命。

1601年 発行された慶長小判の枚数は、14,727,055両。金の年間生産量は平均で約1tと推測される。

1602年 佐渡金銀1万貫を算出。石見銀山の運上銀3600貫を献上する。

1603年秋 大久保長安、従五位下に叙せられ、石見守という受領職を授けられ、以後大久保石見守長安と名乗った。

1604年 陸中白根金山が運上金1000枚、砂金5000斤を貢上。

1606年 大久保長安、伊豆金山奉行を拝命して本格的に伊豆金山の開発に力を注いだ。

 伊豆の諸金山は長安の導入した新技術によって生産量を飛躍的に増大させた。

1608年~1610年、大阪城から金法馬24個を大判に改鋳し、45070枚を作る。但し、これは一部で総重量は1970貫に上る。

1613年、大久保長安の死去。(晩年は全国の鉱山からの採掘量が減ったことより役職をほとんど解任させられる)

1616年、家康の死去。駿府金蔵より銀10貫入り4983箱。金二千両入り箱470箱が貯蔵されていた。

1622年、生野銀山で最盛期を迎え、1ヶ月に銀137500匁を算出。

1624年~1630年、7年間の全国産出金の1ヶ月産出平均192315匁(720kg)、(内訳、佐渡99120匁、薩摩78829匁、伊豆124匁、豊前749匁、豊後395匁、駿河999匁、但馬210匁)

1635年、生野銀山が運上金1200貫を貢上する。

1638年、薩摩お山々野金山が発見。1656年から金銀年200貫を算出。(稀の1659年は438貫余を算出)

1642年、備中小泉(吉岡)銅山が幕府直轄の銅山となり、毎年5300斤の銅を産出。

1643年、長登銅山は湧水が甚だしくなり中止

1651年、丸山銅山が湧水のため中止

1652年、薩摩、芹ヶ野金山が発見

1664年、佐渡銀山が衰退し、1ヵ年の産出額が銀978850

1668年、全国銅産出総額は900万斤(5,400t)、絞り銀は700貫で、銅産額中9分の1は国内で消費し、その他は尽く輸出された。当時の銅山労働者は約20万人、炭焼人夫約10万人、大阪の銅屋には南蛮絞りに従事する職工が約1万人いた

1669年、白根金山は金鉱の品位が次第に下がって銅鉱となった。尾去沢金山の鉱石も次第に変じて、ついに銅山となった。

1670年、阿仁銅山を発見する。

1671年、生野銀山が1ヵ年の銀999254匁を産出したが、その後衰退する。

1675年、佐渡銀山割間歩の諏訪間歩が回復し、産出額は銀1995860匁であった。

1683年、生野銀山では両国山が修繕回復し、銀356572匁を産出。

1688年、足尾銅山が衰退し、幕府金5千両を貸下げ挽回させようとしたが困難であった。

1695年、金銀が減少し流通に不足したが、国内産出量で補充できない為に、貨幣の品位を落とす試みを試されたが失敗した。その為に金銀山の発見が奨励され、誰でも開削が許可される。

1696年、生野銀山で銀920970匁を産出。

1697年、佐渡鉱山では見捨ててきた貧鉱を処理するため、水車砕鉱を始めた。

1700年、羽後国尾改澤(荒川)銅山が発見

1703年、佐渡鉱山の水車砕鉱の結果、金156503匁、銀1396408匁を産出した。

次に続く

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上念司 経済で読み解く明治維新の概略1

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<この歴史館へGO! 歴史のブログ

上念司 経済で読み解く明治維新の概略

概略1:第1部 江戸時代の経済、第1章「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」 

概略2:第1部 江戸時代の経済、第2章「江戸幕府の慢性的な財政難」 

概略3:第2部 大名と百姓 

概略4:第3部 江戸幕府の滅亡 

概略5:まとめ

この本は実にすばらしい。

日本史において様々な事が記録されているが、状態を相対的に検証と比較した歴史教科書はない。江戸において改鋳は改悪、改革は正義と称されているが、本当に正しいのかという疑問を持とうとしない。それは戦国、室町、鎌倉、平安、古代とすべてにおいて共通する日本の歴史教育における間違いである。

歴史とは検証する力を養う科目であり、人間の生き様を知るものでなくてはならない。『経済で読み解く明治維新~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~』は、その問題に一石を投じた作品である。

マイクロソフトの採用試験にこんな問題がある。

例題:底辺が10cm、高さ6cmで角ABCが直角の以下のような図の面積を求めなさい。

01

簡単すぎて、これが入社問題かと疑問に思う方もいるかもしれません。

三角形の面積を求める定理で10×6÷2=30cm²と解答された方はいるでしょうか?

そう、答えた方は間違いであり、採用されません。

答えはシンプルであり、そんな三角形は存在しないか。あるいは虚数であります。

馬鹿な!

と思う人がいるかもしれないが、解答を聞けば、「あっ、そうか」と頷くでしょう。

02

与えられた定義に何の疑問を持たない者は間違ってしまう。それがマイクロソフトの試験の目的です。同じように歴史の定義そのものを疑う必要があるのです。

歴史書には沢山の悪人が存在します。

蘇我氏は天皇家をないがしろにした悪人。

平清盛は多くの民を苦しめた極悪人。

信長は神も仏も恐れぬ残虐人。

綱吉は人より獣を尊んだ犬将軍。

金に混ざりものを加え粗悪な改鋳は庶民を騙す悪しき行為だ。

質素倹約の改革は贅沢を排した正義の行為だ。

歴史書に掛かれている定義から疑問に思わないと真実の歴史など見えてきません。根底を疑え、誰が誰に残した資料かを確認しろ。それが歴史には大切なことなのです。

しかし、誤りだらけの歴史教科書を一心に信じて疑わない日本の子供達がかわいそうです。文科省のお役人は正しい歴史感を持つという慣習がありません。そもそも歴史書とは、時の政権が正統性を讃える為に書かれています。様々な日記や地方の伝承や記録の確認を行って、真実の歴史を暴かねばなりません。

そう言った意味で、この『経済で読み解く明治維新~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~』は、一石を投じるすばらしい作品であると評価します。一度、購入されて読まれることを進めます。しかし、購入を進めても疑問を感じる方も多いでしょう。では、参考に簡単な概略を書いてみましょう。

【経済で読み解く明治維新】

~江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する~

第1部、江戸時代の経済

第1章、「農民の価値観を疑え、貧農史観を捨てよ」

時代劇に見る百姓は悪代官に虐められるみじめな存在でしかありません。しかし、時代劇は紙芝居であり、江戸の百姓を描いている訳ではありません。近年では士農工商という身分差別すらなかったということが判ってきました。つまり、農民が苦しまれるだけの存在でなかったことが書かれています。

そう歴史書には矛盾が満載です。

犬将軍で有名な五代将軍徳川綱吉は、「生類憐れみの令」のような後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになったとされています。この数々の悪法によって財政が頻拍し、貨幣の改鋳を実施したが返って経済を混乱されたと歴史書には書かれており、後の吉宗が享保の改革によって立て直したことになっています。

しかし、ちょっと待って下さい。

元禄文化が華やいでいた江戸がある日を境にして、突然に財政難の苦境に立たされて江戸の庶民が困窮に追い遣られております。これがこの章の主観であり、歴史書には矛盾が満ちていると書かれています。

さて、本文にはありませんが、この矛盾を少し解説しましょう。

<全国の石高と人口の推移から見る>

1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を作ります。しかし、大阪夏の陣が終わるまでは戦国時代が続き、多くの武将や兵が命を散らします。そして、泰平の世が作られていったのです。これを石高と人口推移で見るとこんなグラフが出来上がります。

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吉宗の時代と明治の時代に大きな人口増加が起こっていますが、これは統計の基準が変わった為に発生した齟齬であり、爆発的な人口増加ではありません。一石は人間一人が一年間で消費する米の量を表わします。明治政府が改めて人口統計を取ると、日本には3000万人の民がいたことが判明しました。江戸時代は戸籍に載らない人間が人口統計に入りません。また、初期の大名は兵数を隠していました。何が言いたいのと申しますと、石高が人口にほぼ比例するということが明治になって証明されたということなのです。

家康、秀忠、家光の時代に戦で荒れた田畑を開墾することで石高が上がっていきました。そして、家綱の時代に寛永の大飢饉を体験した幕臣の保科正之は備蓄米の必要性を感じて、米の増産に重きを置きました。つまり、利根川の改修と新田開発などをより鮮明にしました。利根川の改修と新田開発と言えば、伊奈 忠次(いな ただつぐ)が有名です忠次の利根川や荒川の付け替え普請、知行割、寺社政策などが江戸幕府の財政基盤を確立させます。そして、この方針を飛躍的に伸ばしたのが保科正之の文政政治であります。青色のライン、武蔵の国の石高が平均より上に伸びているのが割りますか。

関八州および保科公の会津は、治水と利水によって新田開発が進められて、より豊かな国作りがなされました。その結果として江戸は栄えて、『元禄文化』の基礎を作った訳です。江戸周辺から始まった新田開発の波は全国へと伝播してゆきます。今では当たり前のように米所と言われる新潟ですが、戦国時代までは米がほとんど取れない荒れ地だったなんて信じられませんね。

さて、幕府の財政は川の改修や新田開発に費やされて決して楽とは言えません。しかし、新田から上がる石高によって幕府の収入も増えゆきます。つまり、米が増産されて価格が下落してもそれを上回る米を手にしたので幕府の財政が困窮したというのは全くのデマなのです。

確かに米が増産されたことで米価が下がります。稗や粟を食っていた庶民も米価が下がることによって米を食べ始めます。家康から綱吉の時代まで人口増加率が高いのは、食が豊かになっていった証拠です。つまり、米価が下がったが消費者も増えた訳です。戦がなくり、生産力が増し、人口も増える。

では、何故?

吉宗の時代には幕府の財政が破たんしていたのでしょうか?

<天変地異に弱かった江戸幕府>

学校の教科書では元禄文化に華やいでいる江戸が、ある日突然に農民が貧しくなり、一揆を起こして幕府に訴えます???

本文では、この貧しさの定義があいまいと言っています。しかし、人口増加は石高に比例して増えています。それなのに突如として財政難で百姓が一揆を起こすのです。矛盾に満ちています。そして、究極の選択としてテストに出るから覚えろと教師が言うのです。

上のグラフをもう一度ご覧下さい。元禄文化から吉宗の時代の間に何か見落としたものはありませんか。

ヒントは、保科公が家光公より佐渡などの埋蔵金の財産を多く受け取っていますが、明暦の大火です。江戸の人口は当時50万人でしたが、この大火事によって10万人以上が亡くなるというのですから大変な被害だったと言われています。

毎日1000俵(約52.5トン)の米が炊き出しに使用され、合計で6000石(約900トン)の米が無くります。他にも救済金として、銀に換算して1万貫、金換算なら16万両もの支出を行い。被害にあった大名屋敷などの修復に銀100貫以上の恩貸銀を貸し出します。恩貸銀とは、今でいう低金利の10年債です。こうして、四代家綱は三代将軍から財産として受け取った600万両の財産は、大火の4年後には385万両に目減りしていました。そうなのです。大火事や天災に見舞われると、幕府の財政はあっという間に困窮するのです。

元禄文化で沸き立っていた吉綱は貨幣の改鋳によって500万両もの利鞘を稼ぎ出し、江戸の財政を立て直します。しかし、吉宗の時代との間には『元禄の大飢饉』が横たわっているのです。

元禄時代の災害は、元禄の大飢饉が起こり、東北を中心に起こった飢饉は収穫を平均28%も落ち込ませ、死者が5万人を出したと言われます。そして、元禄161123日(17031231日)午前2時ごろに房総半島南端にあたる野島崎を震源とする元禄地震(げんろくじしん)が起こり、その4年後の宝永4年(1707年)に宝永地震が発生し、時をおかずに宝永大噴火(ほうえいだいふんか)と言われる富士山の大噴火が起こります。100km離れた江戸にも火山灰が降ったことが記録されています。凶作と天変地異が一度に起こってしまったのであります。500万両もの貯蓄はあっと言う間に消え去り、宝永5年(1708年)閏正月7日に被災地復興の基金「諸国高役金」として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金を言い渡します。こうして宝永5年中に金488770両余、銀1870目余を集めます。(しかし、被災地救済に支出されたのは62500両余とする史料もあります。)

それでも足りなかったようで財政負担の不足分を元禄小判で利鞘を稼いだように宝永通宝と言われる銅銭の改鋳で乗り切ろうと考えたようですが、5代将軍徳川綱吉が没したことで程なく中止となります。

つまり、好景気の元禄文化時代からある日、突然に財政難に落ちた訳ではなく、天変地異という不確定要因によって財政が困窮したのであります。元禄文化で華やいでいると教えておきながら、一方で綱吉の放漫財政で幕府を破綻させたように教える日本の歴史教科書の愚かさは救いようがありません。(もっとも放漫財政であったことは間違いないのですが、それで財政が破綻したのではないのです。)

<貨幣改鋳で500万両も儲けた綱吉>

四代将軍家綱から五代将軍綱吉に政権を引き継いだとき、幕府の財政は空になっていました。家綱政権も努力をしていない訳ではありません。

近年、映画のなった『天地明察』は渋川春海が家綱の時代に保科公より暦を作るように申し付けられます。暦が幕府公認となれば、使用料で幕府に膨大な利権が入ってきます。ところが渋川春海が天文の理を求め、暦『貞享暦(じょうきょうれき)』を完成させたのは貞享211日(168524日)ですから綱吉の時代になっていました。家綱の努力は綱吉の時代に花開いた訳です。しかし、綱吉が幕府を受け継いで39年後の話ですから財政難をそれ以前になんとかしないといけません。

そこで幕臣の荻原重秀は慶長小判2枚を元禄小判3枚にする貨幣の改鋳によって500万両もの利鞘を稼ぎ出します。この改鋳によって経済に混乱をきたしたと教科書には書かれていますが、改鋳後の元禄時代の11年間のインフレ率は名目約3%であり、おおむね良好な経済成長をしております。混乱していたというには穏やかで、日本の高度成長時代でインフレ率10%ですから、これで混乱したというなら『混乱』という定義を改める必要があります。

通貨の基本は、大衆がそれを受け入れるかに掛かっています。

つまり、

通貨=信用力

幕府が2枚を3枚に改鋳しても、1枚の価値を保障するといい。それを大衆が受け入れるなら、それは貨幣となるのです。

ところが教科書は新井白石の『正徳の治』を評価します。綱吉を犬将軍と悪者に仕立てて、綱吉の政治と経済政策を全否定する。本当に愚かしいことです。

荻原重秀が失脚すると通貨政策を改め、インフレ鎮静の為に慶長金銀の品位に復帰する良質の正徳金銀を鋳造し直しはデフレを引き起こした。これで新井白石は幕府の財政を完全に破綻させました。新井白石の経済音痴には舌を巻きます。儒教である朱子学の学者としては決して無能ではないのですが、経済活動を理解しない学者が政に首を突っ込むとロクなことになりません。

それより愚かしいのは、歴史を教える教師とその教科書を作る文科省の役人です。新井白石の言動を評価するなら、紙の上にインクを垂らしただけの紙幣には、ゴミ以下の価値しかありません。彼らは貰った給料を火に投じて、「こんなものに価値はない」と宣言するべきです。彼らは一体どんな経済基盤の上で生活しているかを見つめ直してから教科書を作るべきです。

<百姓一揆は年中行事、毎年どこかで起こっていた>

さて、財政が破綻するのはそれなりの理由があることを理解して頂けたと思いますので、次は一揆が起こった理由を書いておきます。

御厨一揆(駿河国駿東郡の御厨地方)のように、天変地異や冷害で収穫が落ち、大凶作になったのに対して年貢減免などを打ち出さなかったことにより、小田原藩に実力行使で訴えた。これが『御厨一揆』であります。これは史実であり、おそらく事実でしょう。ただ、このように農民は重税で苦しめられ、食うに困って、遂に実力行使に出たのでしょうか?これは農民が常に従順であり、代官などが悪人という先入観念に過ぎません。

士農工商(官吏・農民・職人・商人)の身分制度があり、農民は武士になれないという思い込みがあるからおかしな認識が生まれるのです。農民は元々半農半士の地侍や土豪であったことも忘れています。

時代は違いますが、二宮金治郎は百姓の子倅でしたが、家は貧しく貧乏でした。父が亡くなると土地も手放し、祖父萬兵衛の家に身を寄せるほど酷い有様でした。しかし、金治郎はそこから持前の知恵と努力で復活を果たし、百姓に戻り、さらに小田原藩に使え、遂に幕臣に迎え入れられるという出世を果たしたのであります。

また、山田方谷は備中松山藩の清和源氏の流れを汲む武家でありましたが、貧しく武士では食っていけないので田に鍬をいじる百姓になっておりました。方谷はその勉学の才能を認められ、士分に取立てられると藩政にも参加し、遂に老中とあって藩の財政を立て直し、明治政府は彼の才能を惜しんで政府に参加するように声を掛けましたが、彼は一民間教育者として亡くなります。

このように、農民が武士になり、貧しい武士が農民に落ち、才覚のない農民は土地を手放して奴隷農民になり、土地を貰えない次男・三男は奉公に出されて商人になる。士農工商という身分制度は戸籍によって存在しますが、行き来自由な実に緩い身分制度だったのです。

テレビ時代劇『暴れん坊将軍』では、毎週悪代官と桔梗屋が重税で農民を苦しめています。お役人様は葵の御紋を盾に悪どいことをし放題です。しかし、現実はまったく異なります。

初代から四代まで藩を取り潰しで土地を没収された大名は139件に上ります。主に外様大名であり、徳川の基盤を確かなものにする為です。四代家綱の時代に緩和されて以後、その数は激減します。さて、この幕府が召し上げた土地は四代家綱が死亡する1680年の時点では、326万石に達していました。中でも代官を派遣いて統治する土地を代官統治の蔵入地と呼び、幕府直轄地の天領です。因みに『天領』と呼び方は、他の大名の農民と違うという農民のプライドからから来る農民の自称であります。

幕府の公定年貢率が四公六民であり、普通の大名領が五公五民であったことを考えても随分と楽な年貢です。しかし、老中水野忠邦が出した上知令(1843年)の中には、実質は三ツ五分と書かれています。3.56.5民と5%も目減りしているのです。

幕府直轄領に派遣される代官の数は少なく、数で勝る農民は代官など一捻りでした。四公を守れという頭の固い代官がやってくれば、「悪徳代官」に仕立てて一揆を起こして代官を排除してしまう。調査に来た幕臣に「ウチの娘が手籠めにされて・・・」などと嘘拭いて、代官を失脚させるなどは簡単なことでした。

幕府にしても年貢を取り立てる為に兵を派遣していては赤字になる有様です。上役からは「巧くやれ!」という一言で片づけられてしまいます。つまり、幕布直轄地に住む農民と周辺の環境、そして、代官の才覚で収納率が決まっていたのであります。幕府直轄領の農民が起こした一揆は、江戸期全体を通じて480件に上ります。

テレビの紙芝居を鵜のみにして農民はすべて従順であり、代官は桔梗屋と悪巧みする悪徳代官、農民は貧しさから悪政に耐えかねて蜂起したとなんていう嘘を教えてはいけません。

一揆の一番の原因は贅沢です。人間は一度贅沢を覚えると中々にそれを止めることができません。農民も同じであり、米を食べ、味噌汁を呑み、餅をほおばるようになると、稗や粟しか食っていなかった時代に戻れなくなるのです。要するに代官はまるで和尚のように道徳を説き、生活を引き締めて贅沢をしてはいけないと説得する存在でないと成功しないのです。稀に宮本武蔵のような剣豪な武士が無理矢理に従わせるなどということもあったかもしれませんが、基本的に幕府直轄領の農民は代官を舐めており、一揆がよく起こりました。264年間で480件ですから一揆のなかった年はなかったのでないでしょうか。

<貧しい人ほどデモなんか行かない>

これは私の意見ですが、現在でも同じことが言えます。

毎日汗水を流して働く工場労働者は、その日の日銭を稼ぐ為に国会のデモなど行きません。そんな暇があったら働いています。しかし、ちょっと贅沢なブルジョワな方は暇を持て余して国会前に毎日通っています。ですから、数十年に一回くらいしか行われないデモは信憑性が高いですが、毎日詰め寄せるデモは結局のところ金持ちの遊びなのです。本人は真剣に政治をよくしようとがんばっていますが、貧しい者から見れば、ブルジョワジーの遊びに過ぎません。個人的にはマスコミがあの方々を国民と呼ぶのは止めて貰いたいものです。

また、30才の女教師が月給32万円で大阪府の方針で減額されることになると、「32万しかないのに、減額されらた食っていけないわ」とツイッターで呟くと大炎上しました。

「月30万以上も貰って何が足りないんだ」

「私なんて20万もないわよ」

「半分になってしまえ!」

30代で30万円以上貰えている人が少数の時代ですから、その教師の世間の相場感が判っていない状態が露わになりました。

それと同じく、幕府直轄地の農民は32万円を31万円に減らすと申し付けると一揆をするようなことが起こっていた訳です。これでは一揆がなくなりません。

<江戸時代の農民が貧しいというのは思い込み>

さて、天変地異や大凶作で本当の一揆も起こりましたが、なんちゃって一揆も数にカウントされているということを理解すれば、年中行事のようなものであり、

『一揆』=『農民は貧しい』

という定義は成り立たないのです。

貧しさの定義が曖昧などころか、農民が貧しかったのか検証する必要があります。確かに貧しい農家が常にいたことは間違いありません。才覚のある農家は豊かになり、才能や運の悪い農家は没落してゆきます。二ノ宮金次郎の家では、災害で農地が荒れ、整備する金もなく、父も亡くなったことで農地を手放します。

また、幕末に近づくほど各藩の財政は悪化し、収穫された米をすべて大阪に持っていって金に換えるなどということも横行します。そういった諸々の藩の行政手腕や天候など不確定要素などもあり、農家が貧しかった事実を探せば必ずどこかに出てきます。大切なことは個々の事案と相対的な比較を検証することなのです。

江戸時代は貧富の差が拡大し、富める者と貧しき者がはっきりとした時代であります。ただ、面白いのは支配層であった武士が貧しき貧困層に分類されていたという構図であります。先程の天領以外は大名か、家臣が土地の持ち主になります。そして、そのほとんどが総じて貧乏だった訳です。

「武士は食わねど高楊枝」

「鯛が買えないから、絵の鯛を飾ってごまかした」

「貧しくとも、心が満ち、足りていれば豊かと言うべし」

このような言葉は武士が貧しかったことを如実に表しています。決して、悪代官がむしりとって農民が貧しかった訳ではありません。

最下級武士のことを『ドサンピン』と呼びますが、「三両」のサンと、「一人扶持」の一、すなわちピンを合わせて「ドサンピン」というわけです。1両の貨幣価値が10万円くらいと推定されますから、1年間でわずか30万円ほどの現金と五俵のお米だった訳です。これでは食っていけないので剣道の師範や塾の塾長、あるいは笠張りをせねば食っていけません。こんな状態ですから、そりゃ山田方谷の祖先が自分で土地を耕す農民に落ちる訳です。

同じように才覚を持ってのし上がる農民が生まれてきます。江戸時代中期には農村部にも商品経済が浸透して、薬を買い求める農家も多くなっています。当時の薬は非常に高価であり、貧しい農家が買うことなどできません。しかし、農村部まで薬を売りに来たということは、富める農家もいたことを証明しています。また、健康ブームで湯治場が盛んに使われるようにもなっています。つまり、農民は貧しかったのではなく、『富農―大百姓―中百姓―小百姓―水呑』といった階層が生まれていった時代なのです。

<農民の定義が間違っている>

本文では、一言で百姓と言いますが、全人口の85%を占めると『新しい社会 歴史』(平成26年度版)東京書籍が書いています。さらに「厳しい身分による差別」「貿易振興から鎖国」とネガティブな記述が続きます。

農民が貧しくなかったと説明しましたが、百姓が85%も占めるのに誰が海運を営んでいたのでしょう。誰が人足や鍛冶師などになっていたのでしょう。しかも教科書には百姓は自給自足の生活だったと書かれていますから経済発展の見込みはありません。薬屋さんは誰に薬を売りにいったのでしょうか。

この百姓には農民と非農民が含まれており、人足などの単純労働から行商人などのサービス業を含めての数と考えれば、総じて自給自足なのかもしれません。

間違いだらけの教科書です。

教科書にはこう書くべきです。

・幕府は財政難でロクに役人を派遣できず、天領では年貢をまともに取り立てることもできずに一揆を起こされていました。

・貨幣は金であろうと紙であろうと大衆が信用すれば貨幣となり、逆に信用を失えばガラクタに落ちる。貨幣の改鋳は決して悪行ではなく、必要に応じて行うものである。

・百姓は豊かになり、分業化が進み様々な業種が生まれた。百姓85%と言っても農民以外の業種が多く含まれている。

それらを総じて上念氏は、

① 財政構造:徳川家は400万石しかないのに、3000万石の日本全体を治めなければならない。

② 管理通貨制度:たとえ瓦礫のごときのなりとも、これに官府の捺印を施し民間に通用せしなば、すなわち貨幣となるは当然なり。

③ 百姓は農民に非ず:百姓は決して農民と同義ではなく、たくさんの非農業民を含む。

と定義しています。

ところで、武士が貧しいかったならどこが儲かっていたのでしょうか。

<儲かっている所に手を入れれば、財政難は解決したのにね>

江戸初期で代表的な者は『淀屋』でしょう。淀川の河川工事を家康から許されて堂島を作り、天下の台所と言われるほどの米市を持ちました。余りの贅沢で囮潰しになった時に没収された金は、金12万両、銀125000貫(小判に換算して約214万両)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品などです。大名に貸し付けていた利子だけでも銀1億貫(およそ100兆円)という膨大な額です。淀屋を幕府直轄にするだけで利子だけでも銀1億貫が手に入ったのですよ。頭のいい勘定方はいなかったのでしょうかね?

次に紀伊國屋の文左衛門は、安いミカンを紀州で買って江戸に持って行き、大阪で洪水が起こると流行病には塩鮭が一番と風潮して売った。そして、明暦の大火では木曾谷の材木を買占めて一気におよそ百万両を手にしたと言われます。しかし、側用人の柳沢吉保とか荻原重秀に盛んに賄賂を贈っていたから受注できたなどとの悪評も多いのですが、「御用商人」になって当然なのです。豊臣から徳川の時代に移る頃から海賊が消え、海運を行う初期豪商が現われます。港を整備して江戸までの海路を自ら作っていったのです。文左衛門もその一人です。本来は幕府が行う事業を豪商が変わって行う。持ちつ持たれつ関係であり、「御用商人」に取り立てられたのも当然だったのです。

他にも河村瑞賢、越後屋の三井高利、奈良屋茂左衛門、鴻池善右衛門、本間宗久、銭屋五兵衛など多くの商人が活躍をします。このような商人たちが富める層の者ですが、支配層ではありませんから、社会に何某か貢献しているのであります。

江戸時代は商人が活性化して、大衆が跋扈した時代と書く教科書はありません。農民は貧しく、善良な商人は弾圧を受けていた。いったいどこの国の話でしょう。まるで小説ですね。

もちろん、他の時代と同じく災害や天変地異が起こり、苦渋を味わった方々も多いでしょう。しかし、平均すると平穏な時代であり、石高も増加し、人口も安定していました。そもそも江戸時代の農民が貧しかったという評価は間違っているのです。

貧農史観は、現代の教科書が抱く幻想であり、相対的な評価がありません。

この1章は上念氏が教科書がおかしいと言いたかったのかは判りませんが、私にはそう読めました。

次に続く

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