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今日のタマねい〔和光同塵(わこうどうじん)〕

「自分が正しいと思ったことは貫きなさい。でも、人が間違っていると思って、間違いを無闇に指摘しては駄目よ。病は口から入ってくるけど、災いは口から出てゆく。自分の意見を無理に通そうとすると、自らを危うくするだけなのよ」

 

老子の玄同は複雑怪奇です。

仏教のいう所の和光同塵は教えを説く為に、本来の姿を隠して人間界に交わることを意味します。一方、老子では自分の才能を隠し、徳を隠し、世間に交わって慎み深く目立たないように暮らすことで沢山の災いから、その身を隠すことができるとも読めます。

では、自分だけが良ければいいのか?

老子はそんなことを言っていません。自然に生きることが重要で、何かを堰き止めてまで、正そうということは自然ではないと説いているのです。でも、老子の言葉は誤解されやすので、世を治める君子から疎まれたのかもしれません。

馬鹿に付ける薬はない。

馬の耳に念仏など、何を言っても判らない人に、人間のあるべき道を説いても、その身を危うくするだけで何も意味をなしません。

カエサルが言う。

「民衆のは観たい事しか見ない」

聖人が多く住む世界は、理想郷であって、現実にはあり得ません。

いずれにしろ、無闇に自分の正しさを言う人間は嫌われるものです。そして、自分が正しいと思っていても、後から考えると正しくことではなかったのかもしれないと後悔することはありませんか。

自分の事で正しいことを曲げる必要はありませんが、人を巻き込むときは、そっと後ろを見て、本当に正しいか、それをみんなが望んでいるのか、そういったことを考えましょう。

 

<原文>

老子、第五十六章、老子、第四章、無源第四

挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。

其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和げ、其の塵に同ず。是を玄同(げんどう)と謂う。

玄同玄妙な道に同化すること。

道冲而用之、或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛。和其光、同其塵。湛兮似或存。

道は冲にして之を用うるも、或しく盈たず。淵として万物の宗に似たり。其鋭を挫き、の紛を解く。其光を和げ、其の塵に同ず。湛として存する或るに似たり。

道冲而用之、或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似或存。吾不知誰之子。象帝之先。

道は冲にして之を用うるに、或は盈たず。淵として万物の宗に似たり。其鋭を挫(くじ)き、其紛を解き、其光を和らげ、其塵を同じくす。湛として存する或るに似る。吾、誰の子なるかを知らず。帝の先に象(に)たり。

傅ふ奕えき本では「盅」に作る。容器がからっぽであるさま。また、何も入っていないさま。

或不盈傅ふ奕えき本では「又不満」に作る。「盈」は一杯になる。

深いさま。

道蔵所収王弼おうひつ本・傅ふ奕えき本では「兮けい」に作る。「兮」は感嘆や強調の語気をあらわす助辞で、普通は読まない。

大本おおもと。祖先。

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