今日のタマねい〔一燈照隅(いっとうしょうぐう)〕
「人が悲しんでいれば、一緒に哀しみ。楽しい時は共に喜ぶ。そんなあなたが大好きよ。でも、あなたが悲しんで何もしないと、もっと多くの人を哀しませる。すべてを忘れて、何も手がつかないなんて許さないわ」
物事をよく知り、何事の理を理解した人は、物事に動じなくなるという。
昔、白隠禅師(はくいんぜんし)のもとに参じた老婆がいました。その老婆には孫があり、あるとき、この孫が亡くなったのです。老婆は深く悲しみ、嘆いていたろころ、そこに老婆を尊敬していた男が悔やみに訪ねて、「あなたのように禅に参じて、できた人でも、お孫さんを亡くしたら悲しいですか」と尋ねました。すると、老婆は、「孫が死んで悲しくないよう禅ならやめてしまえ」といったそうです。
物事を理解し、世の中の通を知るということは、喜怒哀楽を失うことであってはなりません。人間性を失うような学問なら止めて方がいいでしょう。況して、物の理を知り、治国を目指す者ならなおのことです。
「修身」とは、「格物至知」(物事の通りを知る)、「誠意正心」(偽りのない心、偽りのない意志)を育てることです。上に立つ人が身を正さないようでは、下々で用を為すことができる訳もありません。
しかし、そうした良くできた人は、物事の合理性を追求するあまり、無感情になってしまう。あるいは鈍感になってしまうようです。
たとえば、阪神・淡路大震災の被害数は、死者 6,434名、行方不明者 3名、負傷者 43,792名であり、東北地方太平洋沖地震は、死者および届出があった行方不明者の数は合わせて1万8,483人。関東大震災は10万5,385人で、明治三陸地震は2万1,959人と、人の命を数字で見てしまいます。復興率をパーセントで聞くと、進んでいるから大丈夫と納得してしまい。人々の悲しみとか、苦しみを真摯に受け止めることを止めてしまいます。
喜怒哀楽とは、数字などで表せないものなのです。
上に立つ人ほど、喜怒哀楽を嗜み。一緒に涙する者でありたいものです。
ところで、『一燈照隅 万燈照国(いっとうしょうぐう ばんとうしょうこう)』」をご存じでしょうか。
伝教大師 最澄の言葉に「一隅を照らす、此れすなわち国宝なり」とあり、一つの灯りは隅しか照らせないが、万の灯りは国全体を照らすことができる。転じて、一人一人が自分の役割を懸命に果たすことが、国家すべてが巧く機能して豊かになる。ゆえに、一人一人が足元を照らすことが国の宝なのである。
一人一人が自分にできることを尽くせば、誰かの為に、そして、それは国、世界全体の為に繋がっているのだと思えると、一人一人の何気ない善意でも大切に思えてきます。これに心支えられた方も多いのではないでしょうか。
「一隅を照らす」は千年来、多くの人心を捉え、勇気を与え、生きる指針となってきました。
私もそうです。
この言葉は今日も一日がんばろうと思えてきます。
しかし、その意訳が間違っているという説もあるのです。
この言葉は「天台法華宗年分学生式一首」に出てくる言葉であり、伝教大師(最澄)が弟子に言った言葉だそうです。伝教大師は非常に弟子の育成に熱心だったそう、その弟子に足元を照らすことを良しとするのはおかしいという説です。
最澄「山家学生式」(弘仁9年・818)
「古人曰く」として引く言葉で、『史記』田敬仲完世家に見られる、斎の威王と魏王の問答に、魏王が、「我が国には、直径一寸、車十二台分を照らすほどの国宝の珠がある」と自慢したところ、威王は、「我が国の宝は宝石類などではなく、四人の優秀な臣下である。彼らはよく国の一隅を守り、まさに国の宝として千里を照らすものだ」と答えたのによると説かれている。
なるほど、この「照千一隅」の部分は従前「照于一隅(一隅を照らす)」と読まれていたが誤りであり、伝教大師の筆跡を調べると、「千」であって、「于」ではなかったとあります。
「一燈照隅 万燈照国」(国の一隅を守り、まさに国の宝として千里を照らすものだ)と、弟子達に説いた思えば納得です。伝教大師は弟子達に千里を照らす人と成れと言っていたのです。
「一燈照隅 万燈照国」とは、政治を志す人達にこそ必要な言葉だったのです。
とは言うものの、足利直義像の「伝・頼朝像」と表記されるように、『一燈照隅』は千年来、この国の人々の心の支えとなってきたことには変わりません。千年も語り継がれている言葉が偽りであるハズもなく、誤訳であったとしても、その言葉が培ってきた心まで変わるものではありません。
小さき者は、足元を照らし、
志しある者は、千里を照らす。
これ万国の灯りなり。
これ無明の理なり。
私は小さき者なので、足元を照らし、民草の支えとならんことを願っています。
<原文>
天台法華宗年分学生式一首
国宝何物。宝道心也。有道心人、名為国宝。
故古人言、径寸十枚、非是国宝。照千(于)一隅、
此則国宝。古哲又云、能言不能行、国之師也。
能行不能言、国之用也。能行能言、国之宝也。
三品之内、唯不能言不能行、為国之賊。乃有道心
仏子、西称菩薩、東号君子。悪事向己、好事与他、
忘己利他、慈悲之極。
国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝と為す
故に古人の言わく、径寸十枚是れ国宝に非ず。一隅を守り、千里を照らす(又は、一隅を照らす)、此れ則ち国宝なりと。
古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり。能く行いて言うこと能わざるは国の用なり。能く行い能く言うは国の宝なり。三品の内唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。
乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向かえ、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは
慈悲の極みなり。
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