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2015年1月

今日のタマねい〔一燈照隅(いっとうしょうぐう)〕

「人が悲しんでいれば、一緒に哀しみ。楽しい時は共に喜ぶ。そんなあなたが大好きよ。でも、あなたが悲しんで何もしないと、もっと多くの人を哀しませる。すべてを忘れて、何も手がつかないなんて許さないわ」

物事をよく知り、何事の理を理解した人は、物事に動じなくなるという。

昔、白隠禅師(はくいんぜんし)のもとに参じた老婆がいました。その老婆には孫があり、あるとき、この孫が亡くなったのです。老婆は深く悲しみ、嘆いていたろころ、そこに老婆を尊敬していた男が悔やみに訪ねて、「あなたのように禅に参じて、できた人でも、お孫さんを亡くしたら悲しいですか」と尋ねました。すると、老婆は、「孫が死んで悲しくないよう禅ならやめてしまえ」といったそうです。

物事を理解し、世の中の通を知るということは、喜怒哀楽を失うことであってはなりません。人間性を失うような学問なら止めて方がいいでしょう。況して、物の理を知り、治国を目指す者ならなおのことです。

「修身」とは、「格物至知」(物事の通りを知る)、「誠意正心」(偽りのない心、偽りのない意志)を育てることです。上に立つ人が身を正さないようでは、下々で用を為すことができる訳もありません。

しかし、そうした良くできた人は、物事の合理性を追求するあまり、無感情になってしまう。あるいは鈍感になってしまうようです。

たとえば、阪神・淡路大震災の被害数は、死者 6,434名、行方不明者 3名、負傷者 43,792名であり、東北地方太平洋沖地震は、死者および届出があった行方不明者の数は合わせて18,483人。関東大震災は105,385人で、明治三陸地震は21,959人と、人の命を数字で見てしまいます。復興率をパーセントで聞くと、進んでいるから大丈夫と納得してしまい。人々の悲しみとか、苦しみを真摯に受け止めることを止めてしまいます。

喜怒哀楽とは、数字などで表せないものなのです。

上に立つ人ほど、喜怒哀楽を嗜み。一緒に涙する者でありたいものです。

ところで、『一燈照隅 万燈照国(いっとうしょうぐう ばんとうしょうこう)』」をご存じでしょうか。

伝教大師 最澄の言葉に「一隅を照らす、此れすなわち国宝なり」とあり、一つの灯りは隅しか照らせないが、万の灯りは国全体を照らすことができる。転じて、一人一人が自分の役割を懸命に果たすことが、国家すべてが巧く機能して豊かになる。ゆえに、一人一人が足元を照らすことが国の宝なのである。

一人一人が自分にできることを尽くせば、誰かの為に、そして、それは国、世界全体の為に繋がっているのだと思えると、一人一人の何気ない善意でも大切に思えてきます。これに心支えられた方も多いのではないでしょうか。

「一隅を照らす」は千年来、多くの人心を捉え、勇気を与え、生きる指針となってきました。

私もそうです。

この言葉は今日も一日がんばろうと思えてきます。

しかし、その意訳が間違っているという説もあるのです。

この言葉は「天台法華宗年分学生式一首」に出てくる言葉であり、伝教大師(最澄)が弟子に言った言葉だそうです。伝教大師は非常に弟子の育成に熱心だったそう、その弟子に足元を照らすことを良しとするのはおかしいという説です。

最澄「山家学生式」(弘仁9年・818)

「古人曰く」として引く言葉で、『史記』田敬仲完世家に見られる、斎の威王と魏王の問答に、魏王が、「我が国には、直径一寸、車十二台分を照らすほどの国宝の珠がある」と自慢したところ、威王は、「我が国の宝は宝石類などではなく、四人の優秀な臣下である。彼らはよく国の一隅を守り、まさに国の宝として千里を照らすものだ」と答えたのによると説かれている。

なるほど、この「照千一隅」の部分は従前「照于一隅(一隅を照らす)」と読まれていたが誤りであり、伝教大師の筆跡を調べると、「千」であって、「于」ではなかったとあります。

「一燈照隅 万燈照国」(国の一隅を守り、まさに国の宝として千里を照らすものだ)と、弟子達に説いた思えば納得です。伝教大師は弟子達に千里を照らす人と成れと言っていたのです。

「一燈照隅 万燈照国」とは、政治を志す人達にこそ必要な言葉だったのです。

とは言うものの、足利直義像の「伝・頼朝像」と表記されるように、『一燈照隅』は千年来、この国の人々の心の支えとなってきたことには変わりません。千年も語り継がれている言葉が偽りであるハズもなく、誤訳であったとしても、その言葉が培ってきた心まで変わるものではありません。

小さき者は、足元を照らし、

志しある者は、千里を照らす。

これ万国の灯りなり。

これ無明の理なり。

私は小さき者なので、足元を照らし、民草の支えとならんことを願っています。

<原文>

天台法華宗年分学生式一首

国宝何物。宝道心也。有道心人、名為国宝。

故古人言、径寸十枚、非是国宝。照千(于)一隅、

此則国宝。古哲又云、能言不能行、国之師也。

能行不能言、国之用也。能行能言、国之宝也。

三品之内、唯不能言不能行、為国之賊。乃有道心

仏子、西称菩薩、東号君子。悪事向己、好事与他、

忘己利他、慈悲之極。

国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝と為す

故に古人の言わく、径寸十枚是れ国宝に非ず。一隅を守り、千里を照らす(又は、一隅を照らす)、此れ則ち国宝なりと。

古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり。能く行いて言うこと能わざるは国の用なり。能く行い能く言うは国の宝なり。三品の内唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。

乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向かえ、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは

慈悲の極みなり。

今日のタマねい〔飽後思味(ほうごしみ)〕

「一生に一度でよいから、ごちそうであった芋粥を食べたいと思った若者が食べきれないほどの芋粥が目にすると、たちまちに食欲が薄れてしまう。尽きることない欲望に振り回されず、ささやかな夢を抱く、自分を持ち続けなさい」

志をいつも持ちなさい。

「至誠天に通ず」、「志は気の帥なり」

この言葉は、吉田松陰がこよなく好んだ言葉です。人は志がなければ、何も成し遂げられません。志こそ、人が生きる根幹なのです。

一方、芋粥を腹いっぱい食べたいという夢は、個人の希望であり、欲望です。芥川龍之介の『芋粥』では、ささやかな夢を叶えた主人公が、そんなささやかな夢を想っていた自分を懐かしんでおります。欲望というのは果てしなく、満たされても満たされても尽きることなく湧いて来ます。国家の宰相となり、思うこと、願うことを叶えられる立場になっても、その欲望は尽きることなく膨らんでゆくものです。

至誠と思い描いていたことが、醜悪な願望に変わることもあります。かって朝鮮や中国に進出した日本人は、西洋の脅威を取り除き、大東亜の平和を渇望しました。町を作り、田畑を耕し、教育を施しました。りっぱな世界を想像し、平和な大東亜の夢は半ば実現し、夢の天空城が完成したのです。

しかし、そこに住む人々は天空城の主になることより、一杯の芋粥を欲する人々でした。何の犠牲もなく手に入れた天空城は、彼らを傲慢にし、尽きることなない欲望に呑み込まれて、お互いに傷つけ合う日々に変わっていったのです。

どんな素晴らしい志であっても、道を誤れば、醜悪な結果を招きます。

喩え、赤絨毯の上を歩く主になっても、山林の小道を歩く心を忘れてなりません。

志は人の根幹であるから、志が欲望に変わっていないか。その志は本当に正しいのか。時には振り返って、来た道を忘れないようにしないと、人はすぐに道を外してしまうのです。

尤もその志を持ち続ける方が、ずっと難しいのですが。

<原文>

飽後思味、則濃淡之境都消、色後思婬、則男女之見尽絶。

故人常以事後之悔悟、破臨事之癡迷、則性定而動無不正。

飽後(ほうご)、味を思えば、則(すなわ)ち濃淡の境(きょう)都(すべ)て消え、色後、婬(いん)を思えば、男女の見尽(けん・ことごと)く絶ゆ。

故(ゆえ)に人つねに事後の悔悟(かいご)をもって、臨事の癡迷(ちめい)を破らば、則(すなわ)ち性(せい)定まりて、動くこと正しからざるはなし。

孟子 公孫丑上

志気之帥也。

志は気の帥なり。

今日のタマねい〔和光同塵(わこうどうじん)〕

「自分が正しいと思ったことは貫きなさい。でも、人が間違っていると思って、間違いを無闇に指摘しては駄目よ。病は口から入ってくるけど、災いは口から出てゆく。自分の意見を無理に通そうとすると、自らを危うくするだけなのよ」

 

老子の玄同は複雑怪奇です。

仏教のいう所の和光同塵は教えを説く為に、本来の姿を隠して人間界に交わることを意味します。一方、老子では自分の才能を隠し、徳を隠し、世間に交わって慎み深く目立たないように暮らすことで沢山の災いから、その身を隠すことができるとも読めます。

では、自分だけが良ければいいのか?

老子はそんなことを言っていません。自然に生きることが重要で、何かを堰き止めてまで、正そうということは自然ではないと説いているのです。でも、老子の言葉は誤解されやすので、世を治める君子から疎まれたのかもしれません。

馬鹿に付ける薬はない。

馬の耳に念仏など、何を言っても判らない人に、人間のあるべき道を説いても、その身を危うくするだけで何も意味をなしません。

カエサルが言う。

「民衆のは観たい事しか見ない」

聖人が多く住む世界は、理想郷であって、現実にはあり得ません。

いずれにしろ、無闇に自分の正しさを言う人間は嫌われるものです。そして、自分が正しいと思っていても、後から考えると正しくことではなかったのかもしれないと後悔することはありませんか。

自分の事で正しいことを曲げる必要はありませんが、人を巻き込むときは、そっと後ろを見て、本当に正しいか、それをみんなが望んでいるのか、そういったことを考えましょう。

 

<原文>

老子、第五十六章、老子、第四章、無源第四

挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。是謂玄同。

其の鋭を挫き、其の紛を解き、其の光を和げ、其の塵に同ず。是を玄同(げんどう)と謂う。

玄同玄妙な道に同化すること。

道冲而用之、或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛。和其光、同其塵。湛兮似或存。

道は冲にして之を用うるも、或しく盈たず。淵として万物の宗に似たり。其鋭を挫き、の紛を解く。其光を和げ、其の塵に同ず。湛として存する或るに似たり。

道冲而用之、或不盈。淵乎似萬物之宗。挫其鋭、解其紛、和其光、同其塵。湛兮似或存。吾不知誰之子。象帝之先。

道は冲にして之を用うるに、或は盈たず。淵として万物の宗に似たり。其鋭を挫(くじ)き、其紛を解き、其光を和らげ、其塵を同じくす。湛として存する或るに似る。吾、誰の子なるかを知らず。帝の先に象(に)たり。

傅ふ奕えき本では「盅」に作る。容器がからっぽであるさま。また、何も入っていないさま。

或不盈傅ふ奕えき本では「又不満」に作る。「盈」は一杯になる。

深いさま。

道蔵所収王弼おうひつ本・傅ふ奕えき本では「兮けい」に作る。「兮」は感嘆や強調の語気をあらわす助辞で、普通は読まない。

大本おおもと。祖先。

今日のタマねい〔格物至知(かくぶつちち)〕

「もう日曜日だから言って、いつまでも寝てないの。普段から身を慎みなさい。だらしない生活は心まで緩めてしまう。顔を洗って食事にしましょう。規則正しいリズムが大切なのよ。それが終わったら掃除、それから読書もしましょう。時間を大切に」

 

格物至知は、大学(孔子の教えを記した教え)の道を説いたもので、世の中を平和にするにはどうすればいいのかを示しています。よき治世を施した名君を時ほどして行けば、物事の本質をしっかりと理解することから始まる。ゆえに、物事の正しい知識や学問を磨き上げることがよい治世を作る根幹なのであると言っています。

安岡正篤先生は、その知識が「有源の井水」(ゆうげんのせいすい)でなければならないと言っております。知識を水に喩えるなら、巨大なダムのような知識を持っていても、水が滞っていれば、沼のように水は腐り、単なる雑学に成り下がってしまう。しかし、井戸のような小さな知識であっても止めどなく流れる水は、尽きることなく生きた知識となりうる。知識は活用するものであって、本棚に並べるものではありません。

格物至知の知は、知識でなく、知恵でなくてはならないのです。

孔子の儒教は、南宋の儒学者朱熹(しゅし)がまとめ、朱子学は宋学となり、現代の中国や朝鮮に伝わっております。しかし、朱子学の体系のみが残り、その中身は伝わっておりません。むしろ、儒教の国でない日本に神道と一体化して体現化しております。我々の祖先は、儒教や朱子学の殻を捨て知恵を学んだのです。

“誰も見ていなくても、お天道(おてんとう)様が見ていらしゃる”

(身を慎ましくし、悪事を働かない。悪いことをすれば、巡り巡って自分に厄災が帰ってくる。)

江戸時代の民衆は、お金を落ちていても誰も拾わない。家に鍵が掛かっていないなど、一人一人が身を慎ましく暮らしていたそうです。最近でこそ、留守にするときは鍵をしますが、幼い頃は家に鍵などしたこともありません。随分と世知がない世の中になったものです。

日本を治める総理大臣が、法に触れなければ何をしてもいいなんて、随分と酷いことを言うのですから、世の民の世相が乱れるのも致し方ありません。

治世を望むなら、身を慎み、物事の知を知ることなのです。

 

<原文>

 大学(大学 経一章)

大学之道 在明明德  在止于至善。

大学の道は、明徳めいとくを明らかにするにあり、民を親たにするにあり、至善しぜんに止とどまるにあり。

明徳天から授かった徳性。

至善最高の善。

知止而后有定 定而后能静 静而后能安 安而后能 而后能得。

(とど)まるを知ってのち定まるあり、定まってのちよく静かに、静かにしてのちよく安(やす)く、安くしてのちよく慮(おもんぱか)り、慮りてのちよく得()

物有本末 事有始。知所先后 近道矣。

物に本末あり、事に終始あり。先後(せんこう)するところを知ればすなわち道に近し。

古之欲明明德于天下者 先治其国。

古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、まずその国を治む。

欲治其国者 其家。

その国を治めんと欲する者は、まずその家を斉(ととの)う。

其家者 先修其身。

その家を斉(ととの)えんと欲する者は、まずその身を修む。

欲修其身者 先正其心。

その身を修めんと欲する者は、まずその心を正しくす。

欲正其心者 其意

その心を正しくせんと欲する者は、まずその意を誠(まこと)にす。

其意者 先致其知。

その意を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。

致知在格物。

知を致すは物に格(いた)るに在り。

物格而后知至

物格ってのち知至る。

知至而后意

知至ってのち意誠なり。

=誠

而后心正。

意誠にしてのち心正し。

心正而后身修。

心正しくしてのち身修まる。

身修而后家

身修ってのち家斉(とと)のう。

而后国治。

家斉のいてのち国治まる。

国治而后天下平。

国治まってのち天下平らかなり。

自天子以至于庶人 壹是皆以修身本。

天子よりもって庶人に至るまで、壱是(いっし)にみな身を修むるをもって本となす。

壱是一切。

其本乱而末治者否矣。

その本乱れて末(すえ)治まる者はあらず。

其所厚者薄 而其所薄者厚 末之有也。

その厚くするところの者薄くして、その薄くするところの者厚きは、いまだこれあらざるなり。

右經一章。蓋孔子之言、而曾子述之。

右経一章。けだし孔子の言にして、曾子これを述ぶ。

其傳十章、則曾子之意、而門人記之也。

その伝十章はすなわち曾子の意にして、門人これを記するなり。

舊本頗有錯簡。

旧本すこぶる錯簡(さっかん)あり。

錯簡本文の入れ違えや前後した箇所。

今因程子所定、而更考經文、別爲序次如左。

今は程子の定むるところにより、さらに経文(けいぶん)を考えて、別に序次をなすこと左(さ)のごとし。

今日のタマねい〔糞虫至穢(ふんちゅうしわい)〕

「苦しいことに弱気になったり、不満を嘆いてしまう。人の心は弱いものだからそれをはしかたないわ。でも、蝉はゴミの中で育ち、蛍は腐った草の中から生まれる。仏花の蓮も泥の中にしか咲かない。苦しみや悲しみが人を育てる。境遇を嘆くだけで終わるのは止しなさい」

糞虫至穢、変為蝉而飲露於秋風。
腐草無光、化為蛍而燿釆於夏月。
固知潔常自汚出、明毎従晦生也。

糞虫(ふんちゅう)は至穢(しわい)なるも、変じて蝉(せみ)となりて露(つゆ)を秋風に飲む。
腐草(ふそう)は光なきも、化して蛍(ほたる)となりて釆(さい)を夏月(かげつ)に耀(かがや)かす。
周(まこと)に知る、潔きは常に汚れより出で、明るきは毎(つね)に晦(みそか)より生ずるを。

ゴミの中で湧いたうじ虫はまっこと見るに堪えたい。身の毛もよだつとはあのことだ。しかし、変じて蝉になると、その響きは情緒となって悪いものでもない。
況して、秋の川辺で心を和ましてくれる蛍の光は、弱々しくそれでいて可憐だ。その蛍も幼生の間は腐った草の中で過ごしている。
この世の中は生きるだけで、苦しみや悲しみが押し寄せてくるようになっている。
そんな苦しみや悲しみを知り、心を砕かれずに前に進んだ者のみが、明るい光を生み出せるようになるのである。

菜 根 譚(さいこんたん)の25項に書かれる『糞虫至穢』とは、苦しみを知らない人は、楽しみや幸福を知ることができないと説いております。
同じ意味で「吃得苦中苦,方为人上人」と言う言葉もあります。苦しみを知らない人は人の上に立つことができないという意味です。どちらにおいても、人間形成において、苦しみや悲しみが人を育てるという意味です。
ただ、苦しみや悲しみで心がねじ曲がってしまう方もおり、必ずしも苦労が人間を正しく育てるとは言えません。
良い人との出会いがあって、初めて人としての形成に役立つのです。

今日のタマねい 四耐

「人は昔から『四耐』しなければならない。四耐(したい)というのは、冷ややかなことに耐える。苦しいことに耐える。煩らわしいことに耐える。閑(かん)に耐えなければならない。
中でも閑(かん)、暇なことに耐えるのが一番難しいと言われるわ。でも、私は最初の三つを耐えるだけでも大変、気分が上がったり落ちたり、あなたもそうならないように気を付けない」

お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる

あけまして おめでとうございます。

本年もよろしくお願い申します。

年の初めは、初詣です。

今年は多賀大社に行ってまいりました。

多賀と言えば、「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」、あるいは「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」と言われるほど有名な古くからある神社です。

よいお参りでした。

多賀大社

所在地 滋賀県犬上郡多賀町多賀604

主祭神

伊邪那岐命

伊邪那美命

由緒

和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の一部には「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とある。

日本最古の書物「古事記」によると、この両神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、我国の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。このように、命の親神様であることから、古くから延命長寿、縁結び、厄除けの霊神として信仰を集め、鎌倉から江戸時代にかけては、武家や民衆の信仰が一気に広まりました。

例えば、甲斐の武田信玄は25歳の厄年に際し、黄金2枚を寄進して厄除けを祈願しておりますし、太閤秀吉は母大政所の病気に際して「命の議、三カ年、ならずんば二年、げにげにならずんば三十日にても」と祈願文を寄せ、米一万石を寄進しております。幸いに大政所は治癒され、その一万石で正面の太閤橋や奥書院庭園が築造されました。

春のしだれ桜、秋の奥書院の紅葉などもみごとで、また、近辺には彦根城や湖東三山、琵琶湖などの名所にも恵まれ、年間約170万人の参拝者を迎えています。

神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。

藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。 「二座」とあるため、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命2柱が祀られていた。

摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される

まずJRに乗って彦根に向かいます。大阪から米原行きの新快速で一気にいけるから便利ですね!

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彦根に近づくと、琵琶湖の対岸が雪化粧に変わってゆきます。写真を取ろうかと思うとSDカードが入っていないことに気が付きました。

ヤバい!ヤバい!
JR彦根駅を降りて、彦根城側の改札を降りると階段下にセブンイレブンがあり、そこでSDカードをゲット!

改札を回って近江鉄道に乗り換えます。
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レトロな電車が近江鉄道です。無人の駅もあり、整理券が車内にありました。3駅ほど向こうで高宮で乗り換えて、多賀大社前へ移動です。
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うっすらと雪化粧して、寒い!
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参道前に大きな鳥居が立って、迎えてくれていました。

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古風な町を歩くこと10分程度ですかね!
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手前の日向神社fが見えてくれば、ゴールです。

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雪の為でしょうか?

少し空いているような気もしますが、私的には助かります。

さあ、鳥居をくぐってお参りに行きます。

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境内入口を入るとそり橋があり、そり橋の奥に神門が立っておりました。住吉大社もこんな感じですが、住吉さんはそり橋を渡ることができます。

多賀さんは左側通行で渡ることはできません。

でも、真ん中をあるのは駄目ですよ。

真ん中は神さまの通る道ですから空けておきましょう。

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境内に入ったら、手を洗います。

シャクで直接口を付ける人がいますが駄目ですよ。

いい大人が礼儀を知らないとは情けない。

 

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神殿に進んでお参りです。順番はちゃんと守りましょうね!

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お参りをおえたら、おみくじです。

右横にくじがありましたが、入って左にもあります。どっちでも同じですけどね!

おっと、右奥には神楽社が立って、奉納の舞を踊っているではありませんか!?

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解説がほしいところですが、それが残念です。かかとを付けないで歩くのは何か意味があるのかな???

なごり惜しいですが、朱印を貰って帰ることにします。

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