1546年(天文15年)3.吉法師殿御元服の事
3.吉法師殿御元服の事
吉法師殿御元服の事
吉法師殿十三の御歳、林佐渡守・平手中務・青山与三右衛門・内藤勝介御伴申
し、古渡の御城にて御元服、欝三郎信長と進められ・御酒宴御祝儀斜斜めならず。
翌年、織田三郎信長、御武者始めとして、平手中努丞、その時の仕立、くれなゐ
筋のづきん、はをり・馬よろひ出立にて、駿河より人数入れ置き侯三州の内吉良
大浜へ御手遣はし、所々放火侯て、其の日は、野陣を懸げさせられ、次の日、那
古野に至つて御帰陣。
<現代訳>
三、吉法師殿御元服の事
天文十五年(1546年)、吉法師殿十三の御歳。林秀貞、平手政秀、青山信昌、内藤勝介、御共し古渡の御城にて御元服。織田三郎信長と進められ、御酒宴御祝儀が厳粛に行われた。
天文十六年(1547)、織田三郎信長御武者始として、平手政秀がその時の仕立てをした。紅筋の頭巾・羽織・馬鎧の出で立ちにて、駿河より軍勢を入れ置いている三河国内の吉良大浜へ手勢を率い、所々放火しその日は野営をし、次の日那古野に至って御帰陣。
■吉法師殿御元服の事
織田 信長(おだ のぶなが)は、織田信秀の嫡男として天文3年5月12日(1534年6月23日)に生まれます。幼名を吉法師(きっぽうし)と言います。信長の祖父である信定(のぶさだ)が、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の当主として、尾張国の海西郡を手中に治めた時に大中臣安長の屋敷跡に勝幡城を築城したといわれます。この地は元々「塩畑(しおばた)」と呼ばれていましたが、白旗と聞こえるので縁起が悪いという理由で「勝ち旗」と改め「勝幡」とされました。
本丸は方形で東西29間、南北43間で、巾3間の土塁がめぐり、その外側を二重堀で囲み、三宅川が外堀の役目をはたしています。出入口は東西に一箇所ずつ描かれています。
公卿の山科言継の日記『言継卿記』より、勝幡城には商業地の津島を支配下に置き、経済的に豊かであったと示されております。津島は津島神社の門前町として栄え、弘法大師が神前に供えた「あかだんご」の油菓子の逸話が残っていることから奈良時代から平安時代に開かれたと思われます。
社伝によると、須佐之男命韓(から)国に渡りましける時、その荒御魂(あらみたま)は尚出雲國に鎮まりまして日御崎の神となり給ひ、又和御魂(にぎみたま)は孝霊天皇の四十五年乙卯(前二四五)に一旦西海の對馬州(対馬あるいは対馬)に鎮まりまし、欽明天皇の元年庚申(五四○)〔旧暦6月1日〕この地藤浪の里馬津港居森の地神島の南(南参道居森社の地)に移らせ給ひ、聖武天皇の天平元年己巳(七五七)神託によりて北方柏森(境内栢森社の地)に移し奉り、嵯峨天皇の弘仁九年庚寅(八一〇)今の地に移り給ふたとあります。
神々には二つの家系があり、陽神の系譜はイザナギ-アマテラス-高天原の神々という流れであるのに対して、陰神の系譜は、イザナミ-スサノオ-オオクニヌシ-根の国の神々という流れがあります。この他に国津の神々という家系もあるのですが、オオクニヌシーオオモノヌシと一体化しております。
単純に言えば、イザナミは新羅の家系と言う訳です。この尾張の地には新羅から移住してきた民を多くいたことが伺えます。天智天皇の時代(668年)に新羅人によって、天叢雲剣(草薙剣)が盗難に合うという事件がありますが、新羅王家にとって天叢雲剣は王家の証となる貴重な剣だったようです。
いずれにしろ、津島神社の門前町として栄えた津島は、平安、鎌倉、室町の物流の拠点として栄えました。また、永楽通寶などは、平戸-博多-堺―京(応仁の乱以降は伊勢)-津島-熱田-東海一円と繋がっておりました。急激に需要量が増す関東一円に供給量が不足し、銭社会の到来を幼い信長は肌に感じていたのです。
〔1538年尾張国かみ下わかちの事の東海道一円の永楽通寶を参照して下さい〕
信長の祖父信定は武将というよりは商人のような才覚を持っていたようです。そして、父の信秀は代官支配を推進し、信長はそれを引き継ぎます。
勝幡城で生まれた吉法師には、池田政秀の娘が乳母として迎い入れられます。池田政秀の娘(養徳院)は、池田恒利の妻であります。2つ下で生まれている恒興(つねおき)と乳兄弟として、おそらく、信長の子分として付き従ったのかもしれません。また、養育係として、後の宿老となる林秀貞、平手政秀、青山信昌(与三右衛門)、内藤勝介の四人も呼ばれたことでしょう。
暦的には、天文7年に信秀が那古屋城を奪い、四人におとな衆として吉法師(信長)に仕えることを命じております。そして、翌年(天文8年)には那古野と熱田の間にある古渡という所に御居城を移し、那古屋城を吉法師(信長)に譲っております。
信長は幼少の頃から暴れん坊で並はずれて奇妙な少年であったと書かれているものを在りますが、資料として残っているものはありません。祖父信定に可愛がられ、商家に慣れ親しんだことが後の奇怪な行動の原点です。
青年になった信長の奇行は、『上総介殿形儀の事』の章に書かれておりますので、そこで詳しく検証することにしますが、人前で恥ずかしげもなく飲み食いするのは、商家の者の真似であります。商人は時間を惜しむ人種であり、移動しながら食事を取る習慣がありました。留まって、その場で食事をするなど、時間の無駄と考えていたようです。また、帯の代わりに藁縄を腰に巻いていたのは、帯より縄が丈夫な為であります。また、ひょうたんには水が入っておりました。熱田の鍛冶屋が熱中症にならない為に細目に水を補給できるように腰にひょうたんを巻いてあるのを真似た訳です。その他にも火打ちなど実用性が高いものを身に付けていました。つまり、信長は非情用の携帯品を身に付けていたような恰好だったのです。
いずれにしろ、応仁の乱によって古い秩序が壊れ、永楽通寶と共に新しい時代の波を受けて育った信長は、古い風習に捕らわれず、合理性を富む性格に育っていったようです。
天文15年(1546年)、御年十三歳の吉法師は古渡城にて元服の儀式が執り行われ、名を織田三郎信長と改めました。
『政秀寺古記』(張州府志)には、信秀によって依頼された禅僧沢彦が他日国家を掌握する目出度い名前として『信長』を選んだとされると言われます。
そして、その翌年に信長は初陣を果たしました。
天文16年(1547年)7月頃に松平広忠と松平信孝が矢作川の河原で戦い、松平広忠が敗北するという戦いが起こっております。同年の9月に「加納口の戦い」が起こり、織田が敗北していますから、信長の初陣は6月から8月頃であったことが伺われます。
その信長初陣は、平手政秀が後見を務め、その出立ちは、紅筋の頭巾、羽織、馬鎧。今川氏の属城である吉良の大浜城にて所々を放火し、その日は野陣して翌日那古野城に戻ります。
吉良の大浜城というと碧南市羽根町の『大浜古城』の事だと思われます。
『大浜古城』は、守山崩れの後に起こった松平一族の争いで山崎城(安城市)の松平信孝は織田氏に属して忠広の岡崎城を攻めようとしました。しかし、天文17年(1548年)、広忠が頼っていた今川方の武将上田兵庫元俊が明大寺「耳取縄手の戦い」で信孝軍を破り、今川義元から大浜に領地をもらっております。
その翌年、天野孫三朗が大浜を50貫文で領し、次に稲熊氏が大浜に居住しまたが、このときの砦を『大浜古城』と称しております。そして、桶狭間合戦後に稲熊氏は大浜を去り、大浜古城は荒廃したそうです。
信長の初陣は、「耳取縄手の戦い」の一環だったのか、あるいは、戦の後に上田兵庫元俊が大浜城に入った直後のいずれかでしょう。
信長の初陣ですから、林秀貞、平手政秀、青山信昌(与三右衛門)、内藤勝介の四人も参陣していたことは疑いようもありません。
筆頭家老林秀貞は、通勝(みちかつ)という名でしたが、信秀より一字賜って、『秀貞』と名を改めた人物であり、「佐渡守」の受領名を名乗っておりまいた。『言継卿記』によれば秀貞の実父は八郎左衛門であり、『浅井文書』には秀貞の養父を林九郎勝隆であると記されております。『天龍寺周悦文書』に「林佐渡守秀貞」と署名されていることから秀貞で間違いないようです。
林家の祖先は河野一族に繋がり、美濃の稲葉氏と同族にあたります。
林秀貞の祖先である河野 通清(こうの みちきよ)は、平安時代末期の治承4年(1180年)8月に源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、通清も挙兵して平維盛の目代を討ち、伊予の支配権を得た人物です。鎌倉幕府の御家人となり西国の部将でありながら大きな力をつけました。南北朝時代では南朝方に忠節を尽くし、南朝方の御大将、新田義貞の軍団では常に先陣にあり、「朝廷軍の露払い」を勤めることが先例としてほど有名な一族(得能氏・土居氏)でした。
そんな武勇を誇る一族と同族の林家は尾張の西春や美濃にも所領があり、斎藤道三の「槍奉行」を務めておりました。林家は主人に忠誠を示す為に死をも恐れない壮烈な戦いをする一族でした。
信秀の父、織田信定(月巌)は林佐渡守通村の娘を側室に迎えておりましたから、その縁で林新五郎秀貞と知り合い、信秀は「秀貞は我が典偉だ」と褒め称えて家臣に加えました。
典偉とは、三国志に出て来る魏の曹操に仕えた悪来典偉のことで、主人を逃がす為に陣門で仁王立ちになって敵を防ぎ、壮絶な死を遂げた英雄のことであり、死を恐れない林家ととって最高の褒め言葉だったのでしょう。
秀貞は天正8年(1580年)10月15日に亡くなっておりますが、生誕は不明です。死亡時の年齢が70~80歳と推測すると、信長の父、信秀と同年代であったとのではないかと思われます。
そんな武勇の誉れ高い林秀貞にとって若き信長は疎ましい存在であったに違いありません。信長の戦い方は兵を二手に分けて挟撃し、相手の意表を突く。あるいは騙し討ちや兵糧攻めなど、勝利を貪欲に追及するという感じです。
イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが著書『日本史』の中で信長は、「彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髭は少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。」と書き遺しております。大徳寺総見院
木像 織田信長坐像や信長所用と伝わる甲冑などからの推定するに身長は約165cm~170cm程度と当時の戦国武将では小さい部類に入ります。
由来は安土城内に建てた總見寺に由来するもの。1周忌に描かれたと伝えられています。
〔江戸時代に狩野永徳が描いたとされる肖像画を模写した「信長」〕
〔京都大徳寺蔵の秘蔵「信長」〕
中日新聞より~2011年6月12日 *一部加筆修正抜粋
秀吉が命令?地味に描き直す
京都の大徳寺が所蔵する織田信長の肖像画。表面(左)は小袖の色や模様が地味に描かれているが、裏面(左右を反転)には華麗な信長像が残っていた=京都国立博物館提供
安土桃山時代の絵師狩野永徳作とされ、大徳寺(京都市)が所蔵する織田信長の肖像画が、完成後に服装の色や模様を地味にし、刀の本数も少なくするなど描き直されていたことが、京都国立博物館(同市)の調査で分かった。
元の肖像画は2008年9月~09年10月に解体修理し、山本室長が調査。裏面に緑と茶の2色の小袖をまとい、大ぶりな桐(きり)の紋や2本の脇差しなど、華麗な雰囲気の信長を描いた跡が残っていた。
・元の肖像画は、右腕はもえぎ色、左腕は薄茶色と派手な色使いだった。
・右手に持つ扇子が長く幅も広かったほか、左脇に差した刀も裏面の方が1本多かった。
・信長の 髭は、先が、上を向いて跳ね上がっていた
左 描き直された現在の織田信長の肖像画
右 本来の織田信長の肖像画
信長の初陣は敵の後背に回り、火を放って戦意を奪う。
肖像画は大徳寺で営まれた信長の3回忌に合わせて描かれたもので、当時権力を掌握しつつあった豊臣秀吉が法要を実質的に取り仕切った。
同博物館の山本英男美術室長は、秀吉が(1)若武者のような派手な服はふさわしくない(2)信長が自分より目立つのは面白くない-などの理由で描き直しを命じたと推測している。
肖像画は絹地に顔料で着色する「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)」で、色に深みが出るように裏面にも同じ色で描いている。縦115センチ、横51センチで、掛け軸の木の部分に、法要を翌月に控えた「天正12(1584)年5月」の制作と墨書した。
〔山形県天童織田氏に伝わる信長の肖像画〕
織田信長の次男である織田信雄が当時の外国人宣教師ジョバンニ・ニコラオに描かせた父、信長の姿といいます。
青年の頃は、女子と見まがう美男子であったとする記録もあるそうですが、どの資料かは見当たりません。外国人宣教師ジョバンニ・ニコラオに描かせた信長像を見れば嘘とも言えないかもしれませんがどうでしょうか。
いずれにしろ、父の信秀とは異なり、信長は体格に恵まれたということはなく、知恵を働かせて勝利をもぎ取ろうとしたようです。
姑息な勝利を良しとしない勇ましい武勇を誇りとする林秀貞と意見の対立も多かったと思われます。
初陣の信長は数の多い今川軍と対峙すると、正面から対峙することなく、少数で後背に回って田畑に火を放ちます。この『青田刈り』は、籠城などする敵地の青田を刈り取り、兵糧不足にして敵の動揺を誘う戦法です。対峙している後から火の手が上がったのを見た今川勢は肝を冷やしたことでしょう。
戦わずに戦果を残した信長は、翌日に那古野に帰陣します。相手の士気を挫いたとは言え、大浜城を落城させるまで至らないと考えた信長が引き返したと見るべきでしょう。
林秀貞は相手の士気が落ちているので一気に畳み掛けるように進言したに違いありません。信長は秀貞に大浜城が取れるかどうかを問い正し、秀貞は劣勢になれば、上田兵庫元俊は大浜城に籠るでしょうと答える。
少数の織田軍が城に籠る上田勢を陥落させるのは容易ではない。援軍の松平がいつ駆け付けてくるかもしれない。城が落とせないなら無駄に犠牲を出す必要はないと信長は撤退を決めるような駆け引きをあったやもしれません。
いずれにしろ、林秀貞は若く生意気な若武者を忌々しく思ったことでしょう。しかし、同時に若君の才覚を高く評価していたのではないかと思われます。
風評の残るように、本気で若君を大うつけと思い裏切るような軽率な者が、24年間も織田家中の家老として居座ることでできるのでしょうか。むしろ、信長の才覚を評価するが上に、その危険性を察知して、信勝を神輿に上げて反旗を翻したのはないかと思われるのです。
初陣を勝利で飾った信長は意気揚々と那古屋城に帰城したのでありました。
(注).信長誕生天文3年5月12日説はルイス・フロイスが「フロイス日本史」にある『信長は己の誕生日を祝わせた19日後に死亡した』という記述から、信長がこの日付は歴史研究家松田毅一が算出したものである。(『回想の織田信長』中公新書1973年)
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