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1542年(天文11年)2.あづき坂合戦の事

2、あづき坂合戦の事(小豆坂の合戦)

信長公記の軌跡 目次

あづき坂合戦の事

八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出で、七段に人数を備へ候、其の折

節、三川の内・あん城と云ふ城、織田傭後守かゝへられ侯ひき。駿河の由原先懸

けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。則ち備後守あん城より矢はぎへ懸け出で、

あづき坂にて傭後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、既

に一戦に取り結び相戦ふ。其の時よき働きせし衆。織田備後守・織田与二郎殿・

織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞殿、是れは鎗きず被られ・内藤勝介、

是れは、よき武者討ちとり高名。那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。下

方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永

田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かゝり合ひ貼、折しきて、お各手柄と云ふ

事限りなし。前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取

るなり。是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。

<現代訳>

二、小豆坂合戦の事

天文十一年(1542)八月十日

 駿河衆三河国の正田原へ出陣し、七段に軍勢を備え候。その折、三河内の安城という城、織田信秀が支配され候。駿河衆の由原が先陣にて、小豆坂へ軍勢を出し候。織田信秀すぐに安城より矢作へ軍を出し、小豆坂にて、織田信秀殿御舎弟衆織田信康殿・織田信光殿・織田信実殿をはじめとしてやがて一戦に取り結び相戦う。

 その時よき働きの衆、

  織田信秀

  織田信康

  織田信光

  織田信実

  織田信房(これは槍傷を被った)

  下方左近

  佐々政次

  佐々成経

  中野一安

  山口教継

  内藤勝介(これはよき武者討ちとり功名) ※吉法師、おとな衆の一人

  那古屋弥五郎(清州衆にて候、討死候なり)

  赤川彦右衛門

  神戸市左衛門

  永田次郎右衛門

 三度・四度懸り合い懸り合い戦が終わり、各々手柄を上げた者限りなし。前後不覚の容体これなり。ここにて那古屋弥五郎首は由原討取るなり。これにより駿河衆軍勢を撤退し候なり。

 

■あづき坂合戦の事

小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)は、岡崎城に近い三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市)で行われた戦国時代の合戦です。三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で天文11年(1542年)と17年(1548年)の2度にわたって繰り広げられた。

発端は松平氏家中の家督相続をめぐる対立ですが、これに領地拡大を図る織田氏と今川氏が介入し、事実上、松平氏に代わる西三河地方の覇権を巡って、織田信秀と今川義元との間で生じた抗争でした。

『信長記』には、天文十一年(1542)八月十日 とあり、

『三河物語』には、天文十七年(1548)三月十九日とあります。

あづき坂の戦いは織田信秀が三河へ侵略したような思惑がありますが、実は侵略などではなく、桜井松平家の復権が大きな目的でありました。

天文4年(1535年)、森山崩れで松平清康が死去すると、清康の遺児・松平広忠が家督するとされまいたが、桜井松平家の初代松平信定はこれを承服せず排して広忠を追放し、信定はその居城岡崎城を占領したと言われています。

〔天文5年(1536年)317日 今川氏輝が急死、家督争いに後に義元が当主になりました。(はなぞうのらん)〕

天文5年(1535年)、広忠の近臣・阿部定吉の働きなどにより、東条吉良氏や今川氏からの支持を相次いで取り付けた広忠らは、今川軍の後援を得て幡豆郡室城(牟呂城)に入城しました。

天文6年(1537年)531日、広忠は譜代衆の働きで、岡崎城留守居であった信定の同調者・松平信孝(三木松平家。信定の甥、清康の弟)も広忠派に転身し、広忠を岡崎城に迎え入れました。同年68日、情勢の不利を悟った信定はやむなく広忠に帰順したと思われます。

天文71127日(15381218日) 松平信定は恭順とは程遠い不遜な態度をとり続けながら死去すると、信定〔室(信秀の妹)、娘(大給松平親乗室)、娘(水野信元室)、娘(長沢松平康忠室)、娘(織田信光室)〕の子、桜井松平家2代松平清定は織田との縁を保っていました。

しかし、織田を仇と見る広忠は、織田と仲違いをして、戦果の口火を切ってしまいます。今川の侵攻に前に大きく三河で影響力を削がれた織田氏は、天文9年(1540年)6月、尾張古渡城主織田信秀が刈谷城の水野忠政を伴って3000の兵(内容は織田氏の騎馬隊2000に水野氏の歩兵1000)を率いて安祥城を攻撃しました。安祥城の落城によって、矢作川西岸の碧海郡は織田氏の勢力下となりました。<第一次安城合戦>

桜井松平家2代松平清定が城主に戻ったかは定かではありません。しかし、土地の豪族や国人が納得し、織田方に親しい清定を城主に戻すことが最も合理的でしたでしょう。

この後、尾張の奉行人であった織田信秀の財力が大きくなり、尾張守護代と肩を並べるという政変が起こり、水野忠政は娘の於大を広忠に嫁がせて和睦を図りました。

三河の情勢は流動的となり、今川義元と織田信秀は三河の支配権を賭けて『あづき坂の戦い』が起こったのでありました。

〔注〕松平広忠の放浪が天文5年(1535年)に終わったとは考えられ難い。花蔵の乱の事後処理で忙しい義元にそれだけの力があったかは不明である。少なくとも翌年以降でないかと推測されるが資料は少なく、特定は難しい。但し、信定が生前と思われるので天文7年以前であることを推測できるので天文6年か、7年ではないだろうか。

■第一次あづき坂の合戦

天文11810日(1542919日)

三河国額田郡小豆坂(愛知県岡崎市)

織田信秀の西三河平野部への進出に対し、松平氏を後援しつつ東三河から西三河へと勢力を伸ばしつつあった今川義元は、西三河から織田氏の勢力を駆逐すべく、天文11年(1542年)8月(一説に12月)、大兵を率いて生田原に軍を進めた。一方の織田信秀もこれに対して安祥城を発し、矢作川を渡って対岸の上和田に布陣。天文11810日(1542919日)三河国額田郡小豆坂、両軍は岡崎城東南の小豆坂において激突した。

この戦いは、織田方の小豆坂七本槍をはじめとした将士の奮戦によって織田軍の勝利に終わったとされている。

一方、『三河物語』では、今川勢の進出を聞いた信秀は、安祥を経て上和田に着き「馬頭の原」へ陣をとるため進発した。今川勢は藤川から上和田をめざして進軍し、小豆坂を上ったところで両者が遭遇し、戦いとなった。織田勢は上和田から安祥へ退陣し、今川勢も藤川へ戻ったが、「対々とは申せ共 弾正之中之方は二度追帰され申 人も多打れたれば 駿河衆之勝」であったという。また「三河にて小豆坂之合戦と申つたえしは此の事」とある。

また、小瀬甫庵「信長記」では、天文壬寅810日、今川義元は4万余騎を率いて「正田原」に出陣し、兵を二手に分けて小豆坂に押し寄せた。対する織田勢の兵力は4,000余騎で安城へ出向、織田「孫三郎」を大将として敵陣へ向かった。織田勢は坂の途中で防戦し、河尻与四郎が今川勢の足軽大将「由原」の首を取った。日暮れになって織田勢は坂の下へと追い詰められたが、織田造酒丞、下方左近、岡田助右衛門、佐々隼人正、同・孫助、中野又兵衛らの活躍で今川勢を追い返し、勝どきをあげたと書かれております。

さながら、敵の数を多く描いておりますが、多少今川軍が多かった程度でしょう。結局、織田も今川も面目を保った小競り合いでありました。

001

【小豆坂(岡崎市美合町)の戦い】

天文11年(1542年)810

太原崇孚、数千人率い三河入り。 

今川7段備え。先手庵原。先鋒奥平貞勝活躍。 

織田信秀4千出陣。織田信光先鋒。織田清正・織田信康・織田信実・赤川彦右衛門・神部市左衛門・内藤勝助・河尻与四郎。 

織田軍が盗木まで退き今川軍が追撃の所、織田信光・織田清正・下方彌三郎・岡田助右衛門・佐々隼人・弟佐々孫助・中野又兵衛反戦し今川軍を破る。庵原イハラ氏シ・永田四郎右衛門討死。 

松平隼人左信吉40余歳。法名「月秋」・松平伝十郎勝吉法名「梅栄」父子討死。『寛政重修諸家譜①』 

久野三郎左衛門忠宗、織田信光と槍合わせ、7本槍の武名上げる。『久野城物語り』 

那古野弥五郎重義討死。『今川家臣カ団の研究』 

織田方川口宗吉、首級を得る。『寛政重修諸家譜⑨』

祖父江大膳亮秀治、小豆坂合戦の功により、玉野(尾西市玉野)・西之御堂(一宮市萩原町西ニ御堂)・堀之内(稲沢市堀之内)・中小僧・中野(稲沢市中野)・茂本(稲沢市重)において五百貫文の知行拝領。『尾張織田氏』など資料が残っています。

別の面から見てみましょう。

安城合戦では、こんな手紙が残されています。

如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、仍三州之儀、駿州無相談、

去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、

殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、

因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、就中、駿州此方間之儀、預御尋候、

近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、抑自清須御使并預貴札候、忝候、

何様御禮自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々謹言、

十七年

三月十一日

氏康 在判

織田弾正忠殿

御返報

〔東京堂出版刊『戦国遺文 後北条氏編第一巻』百八頁所載の『○三二九北条氏康書状写 ○古証文六』〕

水野氏史研究会ブログでは、

「北条氏康の織田信秀に宛てた書状からすれば、素直に考えて安城城陥落は天文十六年である。横山氏は「去る年」とする解釈が可能だとするが、天文十七年に出された書状に七年も前の信秀の手柄をことさら書く必要などあったのだろうか。それに天文十年に水野氏の惣領である忠政の娘於大が松平広忠に嫁いでいるが、天文九年に信秀による安城城攻略があったとするならば、忠政はそのような時期に信秀と敵対する相手との関係を強化したことになる。そしてその忠政の死が契機となったと言われるが、水野氏は天文十二年か十三年に信秀との同盟に踏み切り、於大は広忠から離縁されている。こうしてみると水野氏は、西三河で信秀が優勢になってから劣勢に立たされた広忠と婚姻関係を結び、その二年後には方針を百八十度転換して信秀と同盟を結んだことになる。このような経緯の理解は、水野氏の外交政策に一貫性がなく支離滅裂な印象を与えるが、それというのも天文九年に安城城が攻略されたことを前提にしたからなのである。それと反対に、天文十六年になってから信秀による安城城攻略があったとするならば、こうした経緯の解釈はどのように変わるであろうか。」と書かれております。

この説を取ると、

天文 4年 守山崩れ、松平清康が暗殺される。

(同年 井田野に戦い、織田信秀・松平蔵人信孝・松平十郎三郎康孝が岡崎を攻める)

同年    松平広忠(10才)、岡崎城を脱出。

天文 5年 今川義元、今川氏輝の急死により花倉の乱が勃発。

天文 6年 松平広忠、松平内膳正信定と和議をなし、岡崎帰還。

天文 7年 織田信秀、今川氏豊の那古屋城を攻め取る。

天文 7年 松平信定、死去。

天文 9年 松平広忠、織田の鳴尾城を攻めるが失敗する。

(天文9年  第一回安祥城の戦い)<水野が織田に組みしている?>

天文10年 水野忠政の娘、於大が松平広忠に嫁ぐ。

(天文11年 第一回 小豆坂戦い)

天文11年 水野忠政の娘、於大が竹千代を出産する。

天文12年 松平信孝が岡崎老衆に排斥される。(三木松平家初代)<信秀を頼った>

同年、   水野忠政が死去

天文13年 織田・水野の同盟

天文14年 水野忠政の娘、於大が松平広忠と離縁する。

天文16年 第二回安祥城の戦い、織田方により安城城攻略

同年    人質である竹千代が今川への途中に強奪されて尾張へ

天文17年 小豆坂戦い

同年    松平広忠が暗殺

天文18年 今川方により安城城奪還

このように水野氏の動きから見ると、安祥城の攻略に参加した水野が、その後に敵方の松平広忠に娘を嫁がせるという奇妙な動きをしているように思われます。しかし、天文9年「安祥城の戦い」、天文11年「小豆坂戦い」が無かったと仮定すれば、すっきりとします。以上のことから水野氏史研究会はこの2つの戦はなかったのでないかと言っております。

≪水野氏史研究会ブログより≫

http://mizunoclan.exblog.jp/9521856/

しかし、前置きに書いた通り、天文9年「安祥城の戦い」と天文11年「小豆坂戦い」には色々な意味が異なります。むしろ、敏に乗じて敵味方を変えるのは応仁の乱以降の常識でした。

◆織田信秀の台頭

天文4年「井田野に戦い」

天文9年  第一回安祥城の戦い<水野が織田に参陣している?>

天文11年 第一回 小豆坂戦い<水野が織田に参陣していない?>

天文4年(1535年)125日に出陣した三河国岡崎城主・松平清康が家臣の阿部正豊に暗殺されます。〔守山崩れ〕清康は何の為に尾張まで出陣したのでしょうか?

時代背景をもう少し詳しく見てみましょう。

002

当時、畠山と細川の戦いに巻き込まれた本願寺は京都と山城の法華宗徒による法華一揆によって山科本願寺を消失し、石山に拠点を移していました。その石山本願寺も細川・六角・法華一揆連合軍に攻められており、天文2年(1533年)第12代将軍足利義晴から細川晴元へ本願寺討伐令が発せられます。石山本願寺は天文4年(1535年)6月に細川軍の総攻撃で本願寺の敗北に終わります。

松平清康の元には、石山本願寺から証如様を通じて救援の書状が多く届いておりました。

【下間蓮応(頼玄)書状】(天文3年)

お手紙差し上げます。最近、我々の近場にまで敵が現れて、方々に放火しております。石山本願寺は守備堅固とはいえ、用心が必要なので、美濃・尾張・三河三ヶ国の坊主衆に上洛あるべしと、証如様が仰せになっておられます。もちろん、あなたの所もです。大変だとは思うのだが、上洛をお待ち申し上げる。拙者も二月からここに伺候しております。お待ちしております。絶対ですよ。

四月四日 蓮応(花押)

照蓮寺御坊様

さらに、本願寺十世法主の証如の日記(天文五年二月十三日条)に以下のようにあります。

美濃・尾張の坊主衆に加えて伊勢衆の三ヶ国の衆に対し(石山警護の番衆を上洛させるように)、一昨年(去々年)にも使者を送ったことがある。

証如が天文4年に三河衆の上洛を望んでいたと書かれています。

一方、天文一揆は1535年(天文 四年)三月二十五日に下間頼盛が石山本願寺を退去し、替わって四月九日に伊勢国長島願証寺に避難していた連淳・実淳親子が石山本願寺に入山します。蓮淳は本願寺の方針を転換させ和睦を勧めます。そして、蓮淳は三河三ヶ寺の本證寺と勝鬘寺にも書状を送り、伊勢国長島願証寺の指導のもとに、蓮如の遺文に基づいた布教活動(王法に従うこと)に専念するよう求めています。

三河衆には三河三ヶ寺があり、三河三ヶ寺の上には一門寺院である本宗寺があります。この本宗寺を飛び越して、伊勢国長島願証寺の直接指揮下に入るように求めているわけです。もうこれは蓮淳派と下間頼玄と共にある実円派の権力争いを呈していたのです。

(円実:三河国土呂本宗寺の住持であり、兼ねて播磨国英賀(あが)に本徳寺を創建する。本徳寺は伊勢国長島願証寺と併せて双璧と言うべき水砦寺院でした)

003

桜井松平家は織田達勝から守山城を貰い受け、また、品野城攻めに参加し、品野城を頂いております。つまり、織田氏の傘下です。しかし、同時に松平清康を当主とする松平一門衆でもありました。それゆえに桜井松平家の信定は清康の守山出陣に反対し、兵を出しておりません。

そんな背景を持って、松平清康は尾張守山へ出陣したのであります。清康が上洛を目指していたのか、裏切った織田方を攻めるつもりだったのかは判りません。清康は守山に着く途上で阿部正豊に暗殺されたのです。

【井田野に戦い】

125日、阿部正豊に松平清康が暗殺されると、1212日に織田軍は岡崎城まで攻め上がります。織田信秀8000余りに対して、松平蔵人信孝・松平十郎三郎康孝双方800が二手にわかれて戦い敗走させたとあります。『三河物語』には「三河にて伊田合戦と申しけるは是なり」と淡々と書かれております。また、『三河国額田郡誌』には、松平方林藤蔵・植村新蔵・高力左近・高力平三郎ら四十余人討死。織田方百六十余人を討取ると討ち取られた数が示されています。他にも「家忠日記増補」、「岡崎領主古記」、「岡崎領主古記」、「寛永所家系図伝」、「三州八代記古伝集」にも示されております。

そして、岡崎城の武者達は10倍の織田軍を敗走に追いやります。そして、10歳の清康の子、8代広忠が家督を継がせました。しかし、その混乱に乗じて桜井松平家の信定が松平宗家を乗っ取って、清康の子である広忠を岡崎城から追放したと書かれております。

10倍の敵を追いやる岡崎城の武者も凄いですが、そんな武者がいるのにご当主の追放を阻止できないのは可笑しな話です、

当時の政治体制は合議制です。

当主が何かをすると決めると、家臣がそれに従う独裁政治ではありませんでした。それは今川義元も武田晴信(信玄)も織田信秀も同じです。

三河における一向宗は、本願寺八代蓮如自らが布教に足を運び、有力な寺院を一向宗本願寺派へ転向されることに成功しました。その中で本證寺(ほんしょうじ・安城市野寺町)、上宮寺(じょうぐうじ・岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(しょうまんじ・岡崎市針崎町)の三寺を「三河三ケ寺」と呼ばれていました。武士・農民などの門徒はあわせて数千人に及び、松平当主の意見を左右するほどの権威を持っていたのです。

下間頼玄と共にある実円派である三河三ケ寺は、松平清康に上洛を迫ったに違いありません。しかし、石山本願寺に入った蓮淳は幕府に逆らうようなことはせず、布教活動に専念するよう求めています。

円実が住持である三河国土呂本宗寺(岡崎市美合町)は岡崎にあり、岡崎付近が最も強硬派がいたのではないでしょうか。

そう考えると、守山崩れからが松平宗家になることまで1つの流れに乗ります。

松平宗家当主清康は実円派の家臣から上洛を進められ、幕府側である織田の守山城を攻めます。しかし、すでに石山本願寺は幕府と和議に入っており、三河松平軍は賊軍の汚名を被ることになります。多くの家臣は幕府に逆らうことを止めますが、実円派の家臣達が阻みます。このままでは松平家は賊軍として攻め滅ぼされてしまいます。

そこで家臣の阿部正豊が当主に暗殺して押し留めました。そこで織田信秀が幕府、あるいは蓮淳派の意向を持って三河に攻め上ります。正確には守護代織田達勝の奉行人としての派兵でありました。安祥城付近にも一向宗の教団徒を多く抱えています。安祥城庶流の一門衆は桜井松平内膳信定であり、福釜松平右京亮親盛らありました。信定が守山攻めに参加していないことから、安祥城庶流の一門衆は中立か、蓮淳派であったことが伺われます。そう言った事情から信秀は松平の居城である安祥城付近を信秀が易々と通過できました。

安祥城は三代松平当主信光が謀略用いて無血開城して以来、四代目松平清康の拠点でありました。三河に侵攻した信秀が安祥城を攻め落とさず、岡崎城に向かった理由は何故でしょうか。

そうです。

実円派の家臣団の拠点だったからです。10倍の織田勢に囲まれた岡崎勢は絶体絶命な状態に追い込まれます。そこに桜井松平家の信定が仲介役として現れます。

松平信定の室は織田信秀の妹であり、娘は織田信光の妻になっております。賊徒を追討に来た信秀も松平信定が懇願すれば、兵を引かざる得ません。

「今後、このような事があらぬように、信定殿が手綱を持つと言うのであれば、兵を引きましょう」

そんな会話が交わされたのかもしれません。

実力で打ち破られた実円派の家臣団の勢力を削がれ、安祥城庶流の一門衆の支持を得た松平信定を当主に据えるしか道はありません。広忠の身を案じた家臣によって岡崎城より連れ出され伊勢を目指し、広忠は流浪の身となりました。

このとき織田信秀は守護代織田達勝の奉行人として三河に入ったのみであり、侵略や勢力拡大の意図はありません。当時の信秀は奉行人であり、そこまで強い勢力も持っていませんでした。むしろ三河の松平信定が松平の実権を持ち、信秀の後ろ盾となって信秀の勢力拡大に寄与した方が大きいでしょう。

00451536

信秀は東条吉良氏から嫡子を人質に貰い受けるなど、三河はほぼ斯波(織田)方の勢力が蔓延りました。今川氏にとって面白い話ではありませんが、この三河の事件が氏輝の面目を落し家臣の『押籠』が行われ、天文5年(1536年)317日に今川氏輝は死去しています。

氏輝の死去を『押籠』と決めつけるのは強引なところですが、同日に次弟の彦五郎も死去していることから暗殺説や毒殺説が疑われており、『押籠』でないとも言えません。

いずれにしろ、松平信定は信秀以外にも刈屋の水野家と縁戚関係を結び、その基盤を固めようとしました。しかし、岡崎城にいる安祥松平家の家臣団との間に良好な関係を築けなかったようです。徳川家康も一本気な家臣団の気質に何度も手を妬いているように、謀略に近い形で竹千代(広忠)を追い出した信定に臣従できなかったのでしょう。

今川氏輝没し、家督争いで揉めはじめたことで東三河の豪族たちを俄かに活気付けることになりました。天文6年には戸田宗光(康光)が、戸田宣成に吉田城を攻略させ牧野成敏を追い払うなど、戸田氏などが勢力を拡大してゆきます。広瀬の三宅氏や足助の鈴木氏が南下しました。

東条吉良持広の正室は清康の娘で持広は竹千代(広忠)の伯父に当たります。持広は天文5年に三河の混乱で奇貨として、竹千代(広忠)を伊勢より向かい入れたのかもしれません。

『徳川幕府家譜』では、天文8年(1539年)、大蔵によって吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。111日には元服し、持広より一字を拝領して“二郎三郎広忠”と改めた。しかし同年9月の持広の死去後、養嗣子・吉良義安の織田氏加担で庇護者を失うと、大蔵に伴われて三河へ再逃亡。ただ岡崎帰参は叶わぬため、長篠領民を頼んで暫く雌伏。そこから、岡崎帰参を今川義元に執り成してもらうべく駿河へ赴いた大蔵を追うように、遠州「掛塚」に止宿。さらに駿河へ渡って翌9年秋まで滞在する。天文9年(1540年)義元の計らいで三河「牟呂城」に移され、天文11531日、松平信孝・松平康孝の協力を得て岡崎へ帰城するとあります。

また、『阿部家夢物語』では、天文4年「極月5日」に清康が「御腹を召され」た。<中略>翌年61日に岡崎において本意をとげ、駿河へ迎えをおくって25日に「御若子」が入城したとあります。

また、『三河物語』では、「伊田合戦」の後「内前」は広忠を「立出し」、そのため「阿部之大蔵」は13歳(天文4年)の広忠に供して伊勢へ逃れた。14歳まで滞在した後に駿河へ渡り、15歳(天文6年)の秋に義元の援軍を得て「茂呂の城」へ入った。。「内前」は大久保新八郎に7枚の起請文を書かせ、茂呂を攻撃する。大久保は「有間」へ湯治に行くとの信孝の申し出を受け、この間に広忠を岡崎城へ入れたとあります。

その他にも「松平記」、「武徳大成記」、「朝野旧聞裒藁」に書かれておりますが、期日はバラバラです。森山崩れから安祥城、あづき坂の戦いに至るまでかなりの混乱があるようです。

松平広忠が天文68年の間に岡崎城に戻ったのは間違いありませんが、、天文6年(1537年)113日に「西条城(西尾市錦城)の戦い」があり、吉良義郷討死とあることから天文6年に広忠の岡崎帰城を取ります。

(注)、菩提寺実相寺に伝わった吉良氏系図では天文9年(1540年)423日死去とあり、「西条城(西尾市錦城)の戦い」が天文9年であった場合は根底が崩れてしまいます。

そもそも東条吉良持広は伊勢に逃亡させた広忠を誰が三河に呼び戻したのでしょうか?

斯波氏(織田方)の勢力が三河で強くなるのを嫌がったのは今川氏であり、氏輝は好戦的ではありませんでしたが、遠江に福島正成などの家臣団がおり、三河が斯波勢に抑えられるのを快く思っている訳もありません。

東条吉良持広は今川方に組みしていたので今川方が持広を遣って、広忠を三河に呼び戻したのかもしれません。そうすると、阿部定吉が広忠に駿河に逃亡することを勧めたことに筋が通ります。

いずれにしろ、天文5524日~610日に起こった「花倉の乱」によって、今川家の威信は大きく崩れます。家督争いが終わっても北条との「河東の乱」が勃発し、東三河の国人衆は覆いに湧き、西三河の国人衆は織田勢を恐れたことでしょう。

西条吉良左衛門佐義郷の家臣、妻の父である後藤平太夫は一計を案じて、義郷を尾張守護斯波義達の婿にすることに先んじて成功します。一計とは何であるかは判りません。斯波義達の娘が吉良義堯に嫁いだという記録は見当たりません。後藤平太夫の娘を斯波義達の養女として、改めて吉良義堯に嫁いだかもしれませんし、斯波義達の養子になったのかもしれません。

義郷は織田方と組んで2男の義安を東条吉良持広の養子として送り込み、東西吉良統一を謀ろうと画策したようです。

松平広忠を預かっていた東条吉良持広は松平信定と斯波勢の圧力を一人で受けることになりました。『徳川幕府家譜』では、持広の死後に養嗣子・吉良義安の織田氏加担で広忠は今川へ逃亡したことになっているが、義安は天文5年(1536年)に西条城主吉良義堯の次男として生まれ、東条の持広の養子に入っています。天文8年説を取ったとしても3歳でしかない。この義安が持広を織田に引き渡そうと画策できる訳もありません。その中に広忠を織田の人質として出される話も上がっていたのではないでしょうか。

吉良義安は天文18年に織田方に通じて今川を裏切った為に隠居させられます。持広は広忠の烏帽子親ですから持広の名誉を守る為に罪を義安に被せたのだろうと思われるのです。

◆守山崩れから松平広忠帰城の一連の流れ◆

12月 守山崩れ、松平清康の不慮の死

  12月 織田信秀、織田達勝の命で三河に侵攻

  12月 織田信秀、岡崎勢を打ち破る・

  12月 松平信定、松平の家督を継ぐ。

  12月 松平広忠、竹千代は東条吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸城まで逃れる。

  12月 織田信秀、東条吉良持広の東条城に圧力を掛け、持広は嫡男吉次を織田の人質に差し出す。

<斯波(織田達勝)の三河全域をほぼ手中にする>

天文51月、今川氏輝、東条吉良持広を遣って、広忠を三河に呼び戻す。(松平家督争いに介入)

天文5111日 東条吉良持広、竹千代は元服し、持広より一字を拝領して““二郎三郎広忠”と改めた。

天文5317日、今川氏輝、突然の死去。弟次弟の彦五郎も死去している。〔押籠〕

<花倉の乱で動揺する三河衆>

天文5317日~610日 花倉の乱、今川義元(栴岳承芳)と玄広恵探との家督争い。武田信虎を味方にすることで義元が勝利する。

天文5年    西条吉良義郷、織田方と画策し、2男の義安を東条吉良持広の養子として送り込む。

天文5年    東条吉良持広、織田氏と結び今川義元と断交する。

天文5年    阿部定吉、松平広忠を人質に差し出すという話を聞き付けて救い出し、今川を頼って掛塚に居を移し、十郎島の鍛冶五郎の家に身を隠す。

天文584日 松平広忠、松平広忠、掛塚発し今橋牧野氏へ。

天文5815日 松平広忠、今橋から世喜へ。

天文5826日 松平広忠、世喜から形原へ。

天文59月   今川義元、小島領主後藤三左衛門直光(基昌)を遣わし松平広忠迎える。

天文59月   荒川義広(吉良持広の弟)、義元に味方し、今川軍を居城である荒川城(現・西尾市八ツ面町)に入れた為に、城近くの荒川山(八ツ面山)付近で度々合戦となる。

天文5910日 松平広忠、富永忠安(荒川義広の家臣)の牟呂城に入る。

天文59月   松平信定、牟呂城(西尾市室町)を攻める。

天文59月   大窪忠俊、先陣として矢を射掛けさせるが広忠に寝返る。

天文51010日 阿部定吉、駿府へ趣き、朝比奈駿河守氏秀を頼る。(注1)

天文5年閏107日 松平広忠、今橋城へ退く。更に駿府に到り今川義元に面す。

天文6113日 今川義元、朝比奈泰能3千・松平軍、西条城攻め、吉良義郷討死。(注2)

天文6226日~10月下旬 第1次河東一乱、北条氏綱は遠江の堀越氏・井伊氏と挟み撃ちにすることで義元を攻める

天文661日 大窪忠俊、岡崎城松平信孝と謀って、岡崎城に広忠を入れる。

天文667日 松平広忠、松平内膳正信定と交渉。翌日に和議が成立する。

天文73月   織田信秀、今川氏豊の那古屋城を攻め取る。

(注1). 松平信定が牟呂城(西尾市室町)を攻めたおり、大窪忠俊(宇津忠茂の子、後に大久保と改める。蟹江七本槍の一人)を先陣として矢を射掛けさせた。桜井松平信定はそれでも安心せず、伊賀八幡の七枚起請を三回、都合二十一枚の起請文を大窪忠俊に書かせた。しかし、大窪忠俊は神罰よりも松平仙千代に対する忠誠の方に重きをおいて、神罰覚悟で破った。〔三河物語〕

(注2). 吉良氏の菩提寺実相寺に伝わった吉良氏系図では天文9年(1540年)423日死去。

【西条の戦い】

天文6年625日、松平広忠(12歳)は岡崎城に帰城し、そして、東条吉良持広を烏帽子親として元服します。東条吉良氏と松平氏(広忠派)が今川に臣従しました。

広忠が帰城する少し前、同年4月、西条吉良氏は織田方に加担していたので今川義元はそれに対して、朝比奈泰能3千・松平軍に西条城攻めを命じます。それが西条の戦いです。その戦いで吉良義郷は討死しました。今川は東条に養子に出していた義堯の子、義郷の弟である義安に家督を継がせます。

今川勢の力を見せつけられた松平一門衆は、松平を二分して今川と対決することを避けた方が得策と考え、多くの一門衆や家臣団が広忠の帰還を指示し、桜井松平信定はそれを認めました。

三河における織田の勢力を一掃された織田方は、天文7年に信秀が今川氏豊を騙して、那古屋城を奪い取る策を労しました。

【織田信秀、那古野城を奪う事】

天文元年(1532)頃、今川義元は氏親の代より西上をうかがい、遠江から三河に入り、西三河から尾張に侵略しその勢力は鳴海、呼続。井戸田から遠く那古野台地の北端におよび、ここに一城を築いて義元の弟、氏豊(うじとよ)を置き、今川西上の前線拠点とした。当時今川氏は足利氏と同宗の名家として、七頭衆の一家であり、駿河、遠江、三河を領有し、東海の雄国として強大を誇りました。氏豊は文学の風があり、国主斯波義統(よしむね)の姉を妻とし、連歌、猿楽など公家にならった生活に日を送っていました。勝幡(しょばた)城の信秀は今川の動静をたえず注意しておりました。しかし、表向きは従順を装い、音信を通じ、やがて氏豊が連歌に熱心なのを知り、共にこれに耽るかのようにし、それより相互に詠句を交換し、親密になっていったのです。そのような時、庄内川の洪水によって勝幡の使者が詠草の文筥(ふみばこ)を流失した事がありました。この為に氏豊は連歌をもようするよう信秀に那古野城に滞留するよう言いますと、信秀はこの時とばかり、すぐ少人数の従者を連れて氏豊の元を訪れました。数日客として厚遇を受けているうちに、俄かに病と称して臥し、早速これを勝幡に伝え、日々見舞いとして家臣が集まり多くは数十人に達しました。そして、城中の油断を狙って、今市場の一隅に火を放ち、炎が郭中を包むころにいきなり武装した信秀の兵数十名が蜂起して、狼狽する城兵を倒し、遂に氏豊に迫ったのです。氏豊はわずかに身をもって窮地を脱し、京都に脱走しました。これは天文元年三月の事です。こうした謀略によって信秀は今川氏の尾張につくった前衛を一挙に壊滅するとともに、那古野城を手中におさめ、以後勝幡から此処に移り本城としました。

〔名古屋城振興協会発行 名古屋城叢書1特別史蹟名古屋城より一部引用〕

織田信秀がいつ那古野城を騙し取ったのかは不明です。天文元年三月と天文七年説の2つありますが、天文47年の動乱に乗じて、織田信秀が今川氏豊の那古野城を奪い取ったというのは非常に有力な説です。もちろん、天文元年も今川氏親が亡くなり、信秀が狙ったとしてもおかしくありません。

諸説様々な資料があります。特に天文七年(1538年)十月九日に織田達勝から信秀に尾張国性海寺への那古野城夫役を免除するという「織田達勝書状」(性海寺文書)が残され、また、天文八年(1539年)三月二十日 織田信秀、尾張国熱田の加藤延隆に、商売上の特権を与えるという「織田信秀判物」(西加藤家文書)が残されております。

これらの資料を見るに、天文七年三月に氏豊を騙して「柳の丸」を乗っ取り、那古屋城と改名したと考えられます。

00571538

今川義元が動き、岡崎城に松平広忠が入ると織田方に染まっていた三河がオセロをひっくり返したように今川方に変わりました。織田信秀が那古屋城を奪って一矢報いたことになります。しかし、信秀側から見れば、那古屋城を奪うことを織田の命運を握る上で重要でした。今川氏豊の那古屋城が残っていれば、今川軍は那古野城より押し寄せてくることになります。それは脅威でしかありません。信秀は自衛の為に今川の尾張攻略の足掛かりである那古屋城を奪ったとも言えるのです。

天文7年(1538)1127日に広忠に対して恭順とは程遠い不遜な態度をとり続けた松平信定が亡くなり、桜井松平家の権威は落ちてゆきます。信定の子・松平清定(内膳正・与一)も従順とは言えませんが、安祥松平家臣団を率いるほどの力量はなかったようです。

天文8年に東条吉良持広が死去すると家督した吉良義安(3歳)でした。義安は西条吉良義堯の次男であり、持広の養子として迎え入れられていました。吉良義安は兄の義郷が戦死したこともあり、西条吉良家の家督を相続していまいたが、東条吉良持広が死去すると東条の家督を継承し、そして、西条は吉良義堯の三男である義昭に家督を譲りました。

東条吉良持広の実子である吉次(もとは義次、9歳)は、織田氏に人質として尾張へ送られていました。東条吉良吉次(義次)が天文4年の「守山崩れ」から「井野田の戦い」を経て織田の人質になったと思われますが、残念ながら詳しい資料は見当たりません。

東条吉良の人質を持っていた織田方としては肩透かしを食らったようなものです。守護代織田達勝もこれに怒ったのかもしれません。

東条吉良持広が死去に伴って、当然、長子である吉次が家督を継ぐと考えた織田方にとって、東条吉良も義安(3歳)が継承するのは納得いかない事態でした。簒奪された東条家を奪い返すという大義名分を織田方は得た訳です。

【第一回安城の戦い】

天文9年(1540年)2月、いつ攻めてくるとしれない織田勢の先を制して、松平広忠は尾張国鳴海城を攻めますが敗北し撤退します。

松平広忠が尾張に攻め入ることができたのは、桜井松平家を制していたからです。桜井松平家は守山城、品野城など春日井郡を領地として持っていましたから広忠は易々と尾張領地に進軍できた訳です。

一方、桜井松平家の信定の子、松平清定(内膳正・与一)は織田家と縁深い間柄です。抵抗らしい抵抗もなく織田勢を通過させたことでしょう。

天文9年(1540年)6月、安祥城の城代は松平長家(清康の大叔父)を置き、その他一門衆5名と1000弱の兵を配備していました。織田信秀が刈谷城の水野忠政を伴って3000の兵を率いて安祥城を攻撃します。そして、激戦の末に安祥城を落城させ、矢作川西岸の碧海郡を織田氏の勢力下に入る下準備を完了させたのです。

安祥城攻めに水野氏も参加していることから織田達勝の命で奉行人として織田信秀が指揮したと思われます。安祥城を攻略した織田信秀は、桜井松平家の清定に安祥城を預けたのではないでしょうか。

これは天文4年の井田野の戦いで織田の力を誇示することで相手を服従させた戦いと同じです。こういった戦い方は当時としては当たり前のことです。あの今川義元も吉良義郷を討ち取った後に、自らの家臣を送るようなこともせず、義安に家督と継がせております。

いずれにしろ、織田信秀は大いに面目を高めたことでしょう。

織田信秀は最も飛躍することになったのは熱田を手に入れたことです。津島と熱田を支配することになった信秀は、十数万石の大名に匹敵する財力を得ていたのです。

特に今川氏親の代になってから、金山の開発が盛んになり、それに伴って油を大量に使用するようになりました。(注)今川家が金山の開発を進めるほど、油を売る尾張も潤うという社会構造が生まれていたのです。

信秀は天文9年(1540年)に伊勢外宮仮殿造替費に七百貫寄進し、そのお礼として、天文10年(1541年)9月に三河守に任じられました。また、天文12年(1543)214日に家老平手政秀を名代として上洛させ、朝廷に禁裏築地修理料として四千貫を献上しております。もう一守護代の奉行人という域を超えておりました。

因みに、三河守という地位は、従五位の位であり、朝廷に拝謁できる非常に高い位です。信長でよく使われる上総介(かずさのすけ)は自称なので価値はありませんが、朝廷が与えた場合、正六位です。

国よって位が異なり、主に

大国:大和、河内、伊勢、武蔵、上総、下総など

上国:山城、摂津、尾張、三河、駿河、甲斐など

中国:安房、若狭、能登、長門、土佐、薩摩など

小国:和泉、伊賀、志摩、伊豆、淡路、壱岐など

大国の守:従五位上

上国の守:従五位下(織田信秀)

大国の介:正六位下(織田信長)

中国の守:正六位下

上国の介:従六位上

下国の守:従六位下

信秀の従五位下は枕草紙で有名な少納言と同じ位です。主家の織田達勝が大和守ですから、従五位上とほぼ肩を並べたことになります。しかし、達勝に七百貫や四千貫を寄進する余裕はありません。外交上手の平手政秀は達勝の面目を保ちつつ寄進したことでしょう。公家に対して、達勝は信秀の財力が欠かせない状況が生まれ、尾張における信秀の権威は上がり、『あづき坂の戦い』は信秀にとって初陣となる戦いでした。

安城の戦いでは参陣していた水野氏が、『あづき坂の戦い』では名が上がっておりません。これは織田信秀の自身の戦いであり、尾張の支配として名乗りを上げた戦いだったのです。

(注). 永正14年(1517年)、今川軍が遠江守護の斯波義達の居城引間城を攻めた際、安倍の金堀衆らに城内の井戸を堀崩させて攻め落としたことが『宗長日記』や『今川家譜』に記されていることより、氏親は「追掘(おっぽり)」といい安倍川・大井川の河岸段丘に堆積した砂金を採取する方法から、「問掘(といぼり)」と呼ばれる坑道を掘って金鉱石を採取する工法に変えることで、莫大な資金を手に入れた。

◆水野忠政の憂鬱

水野氏(みずのし)は、清和天皇の第6皇子貞純親王と右大臣源能有の娘の間に生まれた清和源氏の初代 源 経基(みなもと  つねもと)を祖に掲げる清和源氏満政流である。

源経基の子に鎮守府将軍源 満政(みなもと  みつまさ)があり、その長男である忠重(ただしげ)は、美濃から尾張、三河方面にかけて進出し、嫡流の八島氏からは浦野氏、山田氏、高田氏、水野氏、足助氏、小河氏、小島氏、佐渡氏、木田氏、山本氏など多くの氏族が輩出した。尾張国春日井郡浦野邑からの重遠後裔の大族の尾張源氏は、浦野氏族と呼ばれるようになります。『吾妻鏡』には、文治2年の条に浦野荘が挙げられ、日吉神社の社領だと書いてあります。源 満政から数えて7世、重房の代に至って尾張知多郡阿久比郷小河に移住して浦野氏あるいは小川氏(小河氏)を名乗り、重房の子の代に至って水野氏を名乗ったと言われております。水野氏は清和源氏の流れを汲む、尾張、三河に根を張った浦野一族の一員です。

その水野氏ですが、高屋敷のような刈谷古城は文明8(1476)頃に水野貞守によって築かれたと云われ、その後に尾張国小河(知多郡東浦町緒川)に移り、緒川城を拠点としたと言われます。さらに、水野忠政のときには三河国碧海に勢力を伸ばして刈谷城に拠った。

十四世紀の中ごろ三河守護の一色氏が知多半島へ進出し実権を握ります。しかし、一色氏の支配も文明の乱の頃になると、一族たちが戦う羽目となり自滅します。代わって知多半島を支配したのが、一色氏の被官であった佐治氏と田原城主の戸田氏でありました。佐治氏は大野・内海を拠点に知多半島の西海岸の支配権を握り、戸田氏は半島の河和・富貴を領有し先端の師崎を佐治氏と共有して、三河湾の制海権を握りました。

しかし、応永35年(1428年)の永享の乱(えいきょうのらん)の影響から一色義貫が謀殺され、三河国守護が細川持常に与えられ、佐治氏と戸田氏は後ろ盾を失います。室町幕府相伴衆、阿波・三河守護の細川持常は赤松満祐の将軍暗殺などもあり、三河の守護職に高い関心を持たず、京に在住して国の管理を守護代に任せたと思われます。

一色義貫の死後、一色 教親(いっしき のりちか)が一色家の家督を得て、丹後・伊勢北半国の守護となり、さらに後に尾張国海東郡・知多郡の分郡守護となりますが、一色氏の三河における勢力は戻ることはなく、この佐治・戸田両氏を脅かしたのは、新興勢力である緒川の水野氏でした。

水野貞守が刈屋に城(刈谷古城)を建てる頃の少し以前、文安年間(1443年~1449年)に戸田氏の先祖は尾張国海東郡戸田荘から三河国碧海郡上野に移住します。

006文安年間(1443年~1449年)戸田氏の移動>

享徳元年(1452年)頃、水野貞守は刈屋に城(現在は刈谷古城と呼ばれる)を建てると、緒川付近を戸田氏と争うようになります。

文明8(1476)頃、水野貞守によって高屋敷のような刈谷古城を築き、水野貞守は応仁の乱の混乱に乗じて勢力を拡大する松平と結び付くことで東三河湾の勢力を確実なモノとしてゆきます。文明年間(1469年-1487年)に水野貞守は尾張国小河(知多郡東浦町緒川)に移り、水野氏発祥の高藪城付近に緒川城(おがわじょう)を築城します。

斯波氏が尾張守護職に就く以前は、美濃の土岐氏が守護職でした。尾張守護を土岐頼康は13511388年の間を務め、守護代も同じ土岐氏の直氏でした。美濃と尾張の位置関係も近く、土岐氏に組みする者も多かったでしょう。

水野氏の祖先である八代の小川正房は尾張守護土岐氏の軍勢に攻撃され討死したと言われます。積年の恨みを持っていたに違いありません。応仁の乱で苦戦していた東軍の織田敏定を強力(ごうりき)したと考えれば、佐野氏(甲斐氏)、戸田氏と争いながら勢力を広げ、大高城、常滑城、亀崎城、宮津城、鷲塚城等を手に入れることができたのです。斯波家臣の中に織田家家臣団に水野氏の名前が佐治氏と共に併記されています。

永享十二年(1440年)に三河国守護の一色義貫が謀殺されて、三河守護を取り上げられて管領家細川氏の一族細川持常に与えられましたが、程なくして室町殿足利義教が赤松満祐に暗殺されます。三河国守護の細川成之は細川氏の息のかかった者を守護代に据えるのですが、寛正6年(1465年)にその守護代が国一揆を起こされて追放されたという事件が起こります。成之は牧野出羽守と西郷六郎兵衛を差し向けると砦を攻略したものの、略奪と狼藉を繰り返すばかりで手に負えません。近辺は将軍の直轄地であり、守護といえどもおいそれと手出しできず。守護の細川成之は伊勢貞親に相談し、松平信光と戸田宗光に命じて一揆首謀者を討たせる書状をしたためで討伐させました。

一色家の影響下にある土豪・国人の勢力を削ぐために戸田氏や石川氏のような三河国外の有力者が呼び寄せられ、松平氏のような伊勢氏の被官を留め置いたのでしょう。

松平信光は岩津、深溝、矢作川・広田川沿いの各所に進出し、戸田宗光は知多半島の河和・富貴を領するに至ります。

両軍の総大将の山名宗全・細川勝元はともに病死し、細川政元が当初西軍についていた日野富子、足利義尚母子を抱きこみ、細川派、つまり東軍の勝ちが鮮明になると、戸田宗光は機を逃しません。西軍方根拠地である渥美半島の田原を攻め、一色政照を渥美郡の大草に流し、自らは一色政照の養子分として渥美郡の支配権を得たのです。

007

水野忠政は三河の勢力を押さえる為に松平に接近しました。松平昌安(まつだいら まさやす)の娘を妻に迎えます。松平昌安は大草松平家初代当主・松平光重の子と言われます。松平光重は三河松平氏3代当主松平信光の五男です。松平信光は室町幕府の政所執事伊勢貞親に仕え応仁の乱で活躍しました。

008

明応5年(1496年)127日、斉藤妙純が近江で戦死したため、美濃斎藤氏の後ろ盾を失って、没落した岩倉城の守護代「織田伊勢守家」に代わり、織田大和守家出身とされる織田信安が守護代として台頭します。

織田大和守家の弾正忠家の主家に当たる織田 敏定(おだ としさだ)は、斯波義廉を擁立して西軍に属した岩倉城を拠点とする織田伊勢守家出身の守護代織田敏広と対立しました。文明10年(1478年)99日、敏定は室町幕府から尾張守護代に任じられ、「凶徒退治」敏広と戦い勝利しますが、斉藤妙椿が敏広救援に乗り出してきたため形勢は逆転します。文明11年(1479年)119日に両軍は斉藤妙椿の仲介で和睦し、大和守家は尾張の南東部を安堵されて伊勢守家と尾張を共同統治することになっていました。

織田信安の台頭によって、織田大和守家の家臣筋にあたる清洲三奉行の一家・織田弾正忠家、織田 信定(おだ のぶさだ)に脚光が当たることになります。尾張国勝幡城城主だった織田信定は、永正13年(1516年)に妙興寺の寺領や末寺を安堵する連署状を「織田弾正忠信貞」で署名しております。中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収めます。信定は、大永7年(1527年)17歳の信秀に家督譲り、天文7年(1538年)に亡くなります。

織田家家臣団である水野氏ですが、三河に接していた為か、こちらの争乱にはあまり関わっていなかったようです。しかし、交易を通じて今川とも友好的な関係を築いていった斯波氏と今川氏の争乱では板挟みになります。

両軍が移動する際は必ず衣ケ浦を渡らねばなりません。斯波氏、今川氏、織田氏、松平氏という様々な勢力に対して常に気を付けていなければならなかったのです。

水野忠政にとって松平広忠の岡崎城帰城は大きな衝撃でした。しかし、安祥周辺を支配しているのは桜井松平信定であります。信定の妻は織田信秀の妹であり、娘は織田信光の室でした。水野忠政の妻は松平昌安の娘ですから信定とは従兄妹に当たります。水野忠政は松平と良好な関係を維持しておりましたから織田・松平・水野の関係も友好的でした。

天文7(1538)1127日に信定が亡くなると、織田と松平の関係は急激に悪化してゆきます。広忠は今川義元の支援によって復帰しましたが、そもそも織田勢が押し寄せたことが流浪に旅に出るきっかけでしたから織田をよく思っているハズもありません。

相互不信、お互いに歩み寄ろうという姿勢もないまま安祥周辺の一門衆および家臣団を焚きつけて織田との交戦は避けられない状態になっていったのです。

守護代織田達勝は織田信秀に命じて、三河攻略を命じます。織田家臣団に名を連ねる水野氏も安祥城攻略に参陣しました。『安城の合戦』は双方で500とも、1000とも言われる被害を出して織田方の勝利で終わります。

水野忠政の目には、松平広忠侮り難しと映ったのでないでしょうか。

実際に織田は碧海郡の支配地を得たのみで引き上げております。松平と領地を接する水野忠政は、松平との和睦の道を探り、昌安の人脈から娘の於大(おだい)を広忠の嫁として送り込むことに成功します。つまり、松平家と和睦した訳です。

しかし、背後の尾張では、織田信秀の勢力が大きく伸びできます。津島に続き、熱田を勢力下に治めることに成功した信秀の財力は、守護代を飛び越え、守護を凌駕するほどになって逝きます。

さらに朝廷から三河守の称号を得ると、尾張の実権は達勝から信秀へと移って行きました。前門に飢えた狼の広忠、後門に凶暴な虎の信秀が水野を挟んで対峙することになり、水野忠政はさぞ憂鬱な日々を送ったことでしょう。

第一次あづき坂の戦いは、信秀が力を鼓舞する為の戦いであり、水野氏が参加した資料は見当たりません。天文12年(1543年)水野忠政が死去し、水野信元が家督を継ぐと諸勢力を呑み込んで肥大化する信秀に対して、外交的手腕で独立を維持することは敵わなくなり、天文13年に織田との同盟を結びます。

一方、松平広忠は虎視眈々と尾張を睨んでおりました。

天文13922日「加納口の戦い」で戦い信秀が敗北すると、織田を攻撃することを決め、妻の於大を兄の水野信元の元に送り返します。

しかし、第2次安城の合戦に敗れた広忠は面目を失い、没落への道を辿ります。そして、北条家との争いを鎮めた今川義元が三河に標的を定めました。

信秀は再び美濃に攻め上がり、5000人が討死したと言われるほどの大敗をしたことで水野信元は信秀に対する信頼を失い。密かに今川義元に通じて、『第2次あづき坂の戦い』を迎えることになります。

大国に挟まれた小国は常に先を読んで動かねば、滅びるしかないのです。

◆今川義元の動向

今川義元は何故、織田方の安祥城攻略に介入しなかったのでしょうか?

一番の理由は、松平家が助力を求めなかったからです。

義元は家督争いに勝利する為に甲斐の武田信虎と結びます。しかし、武田と北条は領有地を争っており、仇敵を味方にすることに北条氏綱は激怒し、今川に敵対する行動を取りました。今川家は氏親の時代に守護代伊勢宗瑞(北条早雲)が築いた国であり、駿河・遠江には北条と結ぶ者が多くおりました。

北条と戦いながら、駿河・遠江の国人を屈服させる為に多くの時間を割かねばならなかったのです。三河の国で広忠を松平の当主に据え、吉良を抑えた義元は国内の統一を優先させたのです。

◆北条と武田と今川の動向◆

天文6113日 今川義元、朝比奈泰能3千・松平軍、西条城攻め、吉良義郷討死。

天文6年(1537年)210 武田信虎と甲駿同盟。今川義元と信虎娘が結婚。

天文6年(1537年)218 北条氏綱出陣。興津を焼く。

天文6年(1537年)226日~10月下旬 第1次河東一乱(北条氏綱)

天文6年(1537年)426日 見付端城(磐田市見付)の戦い(遠江)

天文6年(1537年)61日 松平広忠、岡崎城に帰城する。

天文6年(1537年)吉田城(豊橋市今橋)の戦い。戸田宣成が牧野成敏を攻略する。

天文6年(1537年)922 石橋館(作手町清岳)の戦い(西遠江)

天文73月   織田信秀、今川氏豊の那古屋城を攻め取る。

天文7年(1538年)10 第一次国府台合戦、北条氏綱と北条氏綱・里見義堯

天文7年(1538年)10 古河公方足利晴氏、北条氏綱と同盟

天文8年(1539年)78日 蒲原城(静岡市清水区蒲原)の戦い。(北条氏綱)

天文8年(1539年)101日 今川義元、三浦弥次郎に、遠州当知行分安堵。

天文9年(1540年) 北条氏綱の娘が3代古河公方家高基の子、足利晴氏に嫁ぐ。

天文9年(1540年) 武田信虎 今井信元を浦城(旧北巨摩郡須玉町)で降伏させる

天文10年(1541年)523日 海野平合戦、村上義清・諏訪頼重・武田信虎が信濃小県郡へ侵攻する。

天文9年(1540年)66日 安祥城(安城市安城町)の戦い

天文10年(1541年)628日 武田晴信、信虎を『押籠』する。駿河に追放。

天文10年(1541年) 松平広忠、水野忠政娘於の方を娶る。

天文10年(1541年)719日 北条氏綱の死去、北条氏康が家督を相続する。

天文10年(1541年)10   扇谷上杉、河越城攻撃。江戸地域に侵攻する。

天文11年(1542年)523日 松平家臣加藤助右衛門、三河国における合戦で討死

天文11年(1542年)6月 桑原城の戦い、小笠原長時・諏訪頼重・村上義清、甲斐の武田晴信に攻め入る

天文111542年)6  上杉憲政、北条氏討伐の願文奉納

天文11年(1542年)    北条、相模国無量光寺に陣取禁止の制札

天文11年(1542年)6月頃 北条氏康、相模国で合戦する。

天文11年(1542年)810日 第一次あづき坂の合戦

今川の家臣には北条と縁の深い国人が多く、『河東の乱』は東と西で挟撃された形になります。遠江の反乱を鎮めた義元でしたが、河東地区を北条に奪われてしまいます。

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天文9年(1540年)66日に起こった「安祥城(安城市安城町)の戦い」では、信虎が信濃小県郡へ侵攻し、一方、北条氏綱は足利晴氏に娘を嫁がせ、虎視眈々と今川を狙っておりました。義元が松平に加勢に赴けば、背後を北条に襲われる心配がありました。

そして、何より三河の家臣団は誇り高く、他者に救援を求めることを是としませんでした。広忠の岡崎城に帰城に感謝こそすれ、自分から頭を下げて家臣にしてもらうなど考えておりません。

三河の家臣団は織田との睨み合いにしびれを切らし、自ら先じて鳴尾城を攻めるほど活気立っておりました。しかし、鳴尾城の攻略は失敗し、激戦でありましたが安祥城も攻略されてしまったのです。松平広忠の面目は大いに下がったことでしょう。広忠は求心力を著しく失っていったのです。

さて、天文910年に掛けて武田信虎は戦を多く仕掛けます。甲斐の国22.8万石と決して豊かな石高を持つ国でありません。絶え間ない戦乱に国人衆が反旗を翻し、それを力で押さえつけるということが起こっておりました。そして、家臣団に信虎は『押籠』られ、駿河に追放されます。

【近隣の諸国の石高(太閤検地1582年)】

常陸    53.0万石

下野    37.4万石

下総    37.3万石

上総    37.9万石

安房   4.5万石

越後    40.7万石

上野    49.6万石  

武蔵    66.7万石  

相模    19.4万石  

伊豆    7.0万石 

甲斐    22.8万石 

北信濃   23.3万石  

南信濃   17.5万石  

駿河    15.0万石  

遠江    25.5万石  

三河    29.0万石  

尾張    57.2万石 

美濃    54.0万石

(注).今川、武田、北条と20~30万石の大名同士の戦いであった。織田は尾張半国でも20万石はあったので互角の戦いになるのは当然で因果なのです。今川義元の桶狭間の戦いの時期に駿河・遠江・三河を加えても70万石弱であり、尾張・美濃が同盟を結んでいると100万石の大名になってしまいます。尾張と美濃を裂くことが基本戦略になるのも当然のことだったのです。

天文10年(1541年)719日に北条氏綱は病から死去します。家督は氏康が継ぎます。しかし、その隙をついて、扇谷上杉朝定は攻勢に出ました。扇谷上杉家は長年抗争していた宿敵・山内上杉家の上杉憲政と和睦し、同年11月に河越城を攻めました。

河越城は天文6年(1537年)7月に北条氏綱が家督を継いだばかりの上杉朝定の居城である河越城を攻めて奪った城です。以後の上杉朝定は松山城を居城としており、河越城を奪い返すチャンスを待っておりました。しかし、天文10年(1541年)11月の河越城の攻撃は、必死に防戦で失敗に終わります。

さらに無量光寺に対して陣取を禁止する制札を与えていることより、翌天文116月頃に相模国で抗争があったようです。相模国に攻撃をしかけたのは北条氏討伐の願文を奉納した山内上杉家の上杉憲政でしょう。

扇谷上杉朝定と山内上杉憲政の攻勢に家督を継いだ北条氏康は守勢を強いられておりました。

今川義元がその頃何をしていたのでしょうか?

天文58年は家督相続の争いから周辺の立て直しに大忙しな時期でありました。北条氏綱に対して後手・後手を打ち、守勢の時期でありました。駿河・遠江の平定に時を裂かれました。

北条氏綱は今川と争いながら武蔵に兵を進め、領土を拡大しております。

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また、武田信虎は非常に野心家であり、今川が隙を見せれば、いつ同盟を破棄して駿河遠江を攻めてくるか判らない人物でした。

義元が天文911年に掛けて遠江に重点しておることが、義元の出した判物の分布から伺えます。

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天文 9年 今川義元判物・朱印状 12通(遠江9通)

天文10年 今川義元判物・朱印状 9通(遠江7通)

天文11年 今川義元判物・朱印状19通(駿河11通、遠江7通、尾張1通)

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〔遠江国榛原郡吉永郷円永坊に神講田・屋敷を安堵状〕

しかし、天文11年になって駿河に出した判物が多く目立ってきます。これは富士郡にある大石寺に禁制や、村山浅間神社へ判物を発給しているなど、河東方面に集中していることから、北条氏康の背後をいつでも襲える準備を行っていたことが伺えます。逆に三河に当てた書状がないことから、この時点で松平家が今川を頼りにしていないことも現れているのです。

これらの書状の中に武田の『押籠』で有名な晴信と信虎から手紙や書状は、小説のフィクションですから実際に残っている訳ではありません。つまり、残っている文献がすべてを指示している訳ではありません。1つの発見がこれまでの見解を一転させる可能性は常にあります。

いずれにしろ、義元は911年のあづき坂の戦いまで内政に勤め、大規模な軍事行動はとっていなかったようです。

さてさて、「御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われる将軍家につながる名門であり、領主を領主とも思わない一揆体制の解体を宣言している『分国法「仮名目録追加」第20条』を宣言し、『海道一の弓取り』と称される今川義元公は何をしていたのでしょうか?

北条氏綱が亡くなると、扇谷上杉朝定と宿敵の山内上杉家憲政が和睦します。

扇谷上杉家は足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕を祖とする家で南北朝期の貞治年間に重顕の養孫にあたる上杉顕定が関東に下向し、重顕の兄弟上杉憲房の諸子から出た諸上杉家と同じく鎌倉公方(関東公方)に仕えて鎌倉の扇谷に居住したことから扇谷家の家名が起こった。

山内上杉家は、足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いた。山内上杉家は上杉氏の宗家となり、関東管領の職をほとんど独占し、上野を本拠に武蔵、伊豆に勢力を張った。

扇谷上杉家は他の上杉諸家と同じく関東管領を継承する家格をもったが、山内上杉家が宗家として独占していたので陽の目を見ることはなかった。

しかし、長尾景春の乱(文明8年(1476年)から文明12年(1480年))が起こり、両上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)及び幕府から派遣された堀越公方足利政知(8代将軍足利義政の異母兄)と抗争に介入した。特に扇谷家の家宰太田資清(道真)・資長(道灌)父子の活躍がめざましく、扇谷上杉家の面目を保った。

太田資清(道灌)の活躍で扇谷上杉家の面目を保った一方、関東管領である上杉顕定と山内上杉家の権威は落ち込んだ。これをきっかけに周辺の諸派を引き込んで、扇谷上杉家と山内上杉家は抗争を繰り広げます。結局、文明18年(1486年)から天文10年(1541年)まで、55年の抗争を繰り返していました。

この両者を和解に導き、新たな脅威に共に戦うという道筋を付けたのが今川義元です。義元は足利一門ですから両上杉を橋渡しするのに最適でした。

天文9年に北条氏綱の娘が3代古河公方家高基の子、足利晴氏(4代)に嫁ぎ、関東における威光を手に入れていましたから、両上杉には十分過ぎる脅威です。翌10年に氏綱が病死し、氏康が家督を継ぎました。この好機を逃したくないと思った上杉朝定は、義元の誘いに乗り上杉憲政と和睦し河越城を攻めた訳です。

天文11年に駿河の国、特に河東地域に書状が多くなっているのは、扇谷上杉家と山内上杉家が北条を攻めたことに関係したとしか思えません。

一方、北条氏康もこの頃に織田信秀に手紙を送ったのではないでしょうか。

織田の動きを察した義元は、天文118月に急遽三河へ兵を動かします。そして、あづき坂の戦いになったのではないでしょうか。

今川義元は織田信秀を撃退したことを誇示しております。

今川義元が尾張国に送った相手は水野十郎左衛門尉です。

先度以後可申通覚悟処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期無其儀候、其御理瓦礫軒安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次々■朝倉太郎左衛門、尾川州織田衆、上下具足二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此方雖無人候罷出、及一戦織田弾正忠手江切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進之候、此外敗北之軍兵、木曽川へ二三千溺候、織田六七人召具罷退候、近年之体、隣国ニ又人もなき様ニ相働候条、次勝負候、年来之本懐此節候、随而此砌松三被仰談御国被相国尤存候、猶瓦礫軒可有御演説候、可得御意候、恐惶謹言、

九月廿五日

【静岡県史「今川義元書状写」(古簡雑纂七・水府明徳会彰考館所蔵)】

義元は多くの織田勢を撃破したと書かれております。結局、北条を攻めて、河東地区を取り戻すことはできませんでしたが、今川義元の戦略に武田と北条が翻弄されたことになります。

■第二次あづき坂の合戦

天文17319日(1548427日)

三河国額田郡小豆坂(愛知県岡崎市)

小豆坂の最初の激突の後、織田氏の尾張・三河国境地帯に対する影響力は高まった。伊勢神宮遷宮、材木や銭七百貫文を献上する。その礼として朝廷より三河守に任じられる。信秀はさらに朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上するなど、朝廷への働きを色濃くし、織田弾正家の権威を上げました。

天文12年に水野忠政が死去し、水野信元が家督を継ぐと水野氏と同盟を結び、美濃へ侵入しますが惨敗を喫します。松平広忠はこれを好機と見て、水野信元の妹である於大を離縁し、安祥城を攻めたが新兵器の火縄銃の前に攻めあぐね、さらに信秀の援軍と挟撃に合い敗退し、広忠は面目を失い三河国人の協力を得られなくなりました。

窮地に立った広忠は今川に救援を求め、嫡男の竹千代を人質に出すように要求し、竹千代を駿河に送ることを承諾しました。天文16年(1547年)当時6歳の竹千代は、駿河に送られる途中に護送の任にあたった田原城の城主・戸田康光の裏切りによって織田方に引き渡されてしまいます。

織田は広忠に対し今川を離反して織田の傘下に入るよう説得したが広忠は受け入れず、田原戸田氏は松平・今川軍によって滅ぼされます。

松平広忠の調略に失敗した信秀は打って返したように再び美濃に侵攻し、5000人余りの大敗北を喫します。そこで信秀は方針を変え、斎藤利政(後の道三)との和睦を考えました。美濃は内陸部に位置し、朝倉、浅井、織田の包囲網の為に物資が不足しており、信秀の案を受け入れ、信長の下へ濃姫(帰蝶)の輿入れを決めます。

斉藤家と和睦したことで一定の面目を保った信秀は、織田弾正家の権威が落ちていないことを世に示す為に三河に侵攻します。信秀は北条氏康に手紙を送り、後方支援を願ったようですが、氏康から色よい返事は貰えませんでした。今川義元も氏康の動向を睨みながら三河へ兵を送ります。

天文17年(1548年)3月、信秀は岡崎城を攻略しようと出陣しますが、今川義元も太原雪斎、朝比奈泰能を三河に送り、同月19日(427日)に織田軍先鋒の信広と接触し、第二次あづき坂の戦いとなったのです。

今川勢は坂の頂上付近に布陣していたために攻めあぐね、信広隊も劣勢を悟って信秀本隊の盗木の付近まで下げます。本隊と合流した織田方は押し寄せた松平勢を押し返し、敗走する松平勢を追って、再び今川本隊に向かいました。しかし、山の中腹に達したところで今川の伏兵が横槍を入れ、織田勢は二つに引き裂かれます。逃げていた松平勢と今川本隊が反撃に転じて先鋒は壊滅状態になり、織田勢は総崩れとなり矢作川を渡って安祥城まで敗走しました。

天下の面目を失った織田信秀は、再び返り咲くことなく消えてゆきます。

なぜ、信秀はあづき坂の合戦を選んでしまったのでしょうか?

今川義元と北条氏康は天文1410月下旬に第2次河東の乱で停戦に至ります。信秀と氏康の手紙にその事ははっきりと書かれています。ただ、氏康が義元を完全に信用していないように、義元も氏康を信用していません。あづき坂の合戦の勝ちに乗じて、安祥城、さらには尾張まで進出できる機会を逃しています。いつ裏切るとしれない氏康を警戒していたのでしょう。

一方、天文16年の秋に大敗を喫した織田勢が無理をして、三河に進出したのは、岡崎城の老衆が寝返る兆候を見せていたからではないでしょうか。

三河武者は非常に一本気な所があると同時に傲慢な性格を持っていました。

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1523年(大永 三年)に6代松平信忠が嫡子清康に家督譲渡して大浜に隠遁しています。当時、信忠は33歳であり、人生50年の働き盛りです。それを隠居させて12歳の若武者に家督と譲るのはおかしな話です。『三河物語』などは信忠の事を『非器』、『不器量』と暗愚だったから一門・郎党に見放されたため、隠居したと書いております。

中世の政治体制は国人衆と呼ばれる豪族が集まった合議制です。主君と言えど、簡単に家臣を扱うことができない時代でした。あの有名な毛利元就も家臣に所領を横領され城から追放されたことがあります。そして、父・兄を酒毒でなくした為に当主に返り咲くという典型的な『主君押籠』でした。

6代信忠は『主君押籠』で隠遁されられたのです。しかし、5代長親も46歳で隠居し、11歳だった子の信忠に家督を譲っております。孫の清康が家督を継ぐと長親は鬱憤を晴らすように活躍しております。7代清康、8代広忠が暗殺されます。

こんな家臣団が従順な訳がありません。

8代広忠は天文149月の安祥城の攻略の失敗から面目を失って三河の国人衆から見限られてゆきます。嫡子の竹千代を人質にすることもあっさり了承する広忠に家臣団は落胆したことでしょう。田原城の戸田康光が織田信秀の元に竹千代を送ったのも今川に恭順したくない為であり、三河物語に書かれているように金目当てというのは筋が通りません。

広忠の叔父に当たる松平信孝は、広忠に騙されて追放された後に信秀を頼って山崎城を貰い受けて果敢に岡崎を攻めておりました。

松平の家臣団は今川の下僕に成り下がるより、独立を維持して織田方に付くことを望む者が多くなっていたのではないでしょうか。あづき坂の合戦直後に関わらず、今川軍が引いた直後にも岡崎を攻めております。

天文17415日、松平信孝は岡崎城を攻撃しようと出陣し、耳取縄手で広忠軍の射た矢に当たって討ち死してしまった。

なぜ、織田信秀は三河に進出したのか?

そうです。

信秀は自ら主導的に三河に兵を推し進めたのではありません。岡崎城の動向から駿河今川が動き、呼応して三河に兵を送る必要が出たのです。

■時代背景

『信長公記』に書かれている“あづき坂合戦の事”は、第一次あづき坂合戦を描いております。当時の尾張・三河の主な氏族は以下の通りです。

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さらに尾張を詳しくみると、(大和家)織田達勝の清須勢と(岩倉家)織田信安の岩倉勢が勢力を二分しております。奉行人の織田信秀は勝幡城と日置城を持つのみであります。那古屋城には駿河守護今川氏親の末子、今川氏豊が構えており、春日井郡(かすがいぐん)の守山城と品野城には桜井松平信定が構えていました。

. 大永六年(1526)頃に守護代織田達勝の赦しを得て、桜井松平の信定が尾張の守山(名古屋市守山区)と品濃(瀬戸市)両城に拠って尾張東部に勢力を扶植させています。

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(享禄 元年 (1531) 信秀の台頭前夜 風雲勢力図ブログより)

中央の目を移すと、

室町幕府第11代将軍足利義澄(あしかが よしずみ)は、10代将軍・足利義材が細川政元によって追放されると、政元が暗殺され11代将軍として擁立されました。しかし、細川政元の後継者争いで永正の錯乱が起こると細川氏は勢力を二分して戦うことになります。

細川氏が家督争いに乗じて、前将軍・義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍が上洛してくると、義澄を排して第10代将軍足利義稙は復権します。

大内義興の軍に支えられた義稙であった為に義興が帰国すると軍事的支えを失い、それを好機と見た細川澄元が蠢動し反撃します。これに細川高国が参戦し、細川澄元と細川高国に激しい戦いになります。

永正18年(1521年)37日、管領・細川高国と対立した義稙が京都を出奔したことで、同月22日に行われた後柏原天皇の即位式に出仕しなかったことに激怒した朝廷は、11代将軍・義澄の遺児、足利義晴を第12代将軍に据えます。

享禄464日(1531717日)、)、摂津大物で赤松政祐・細川晴元・三好元長の連合軍と細川高国・浦上村宗の連合軍が戦った。世に言う『大物崩れの戦い』(天王寺の戦い・天王寺崩れ)である。この戦いで敗れた管領細川高国は尼崎広徳寺で自害させられる。この勝者の細川晴元に助力したのが、本願寺蓮淳でありました。

河内守護畠山義堯から離反して晴元への転属を画策していた木沢長政は、晴元への内応の仲介依頼を蓮淳に託すが義堯に知られてしまう。義堯は木沢長政討伐に乗り出した義堯には三好元長まで加担した。

そこで晴元は、長政の一件の発端を作った蓮淳に対して協力を依頼した。

『単なる武家の騒乱でありながら宗門が参戦する』

蓮淳は、17歳になった証如に勧めて法主である証如自らに出陣させ、畿内における『浄土真宗と法華宗の最終決戦』と位置づけることで全畿内の門徒結集を促して、この戦いを大きく盛り上げた。10万の本願寺門徒の参戦で戦況は一変し、畠山義堯を自害させた上に、堺に鎮座していた足利義維の四国追放も重なって堺幕府も消滅させた。

しかし、一向宗に一度付いた火は消えず、法華宗以外の仏教宗派も追放すべきだとする門徒の声が上がりました。大和では興福寺と筒井順興・越智利基を攻め滅ぼす為に一揆軍が奈良に突入しました。筒井氏・越智氏と十市遠治の働きで追い払われますが、このことにびっくりした管領細川晴元は、本願寺との決別と一向一揆鎮圧を決意しました。

天文元年(1532年)87日、法華一揆は六角軍と連合して山科本願寺焼討を決行します。山科本願寺を失った証如は石山御坊を「石山本願寺」と改めて根拠地とします。

迫ってくる細川・六角・法華一揆連合軍に対して、証如は蓮淳に代わって門徒達を指揮していた下間頼秀・頼盛兄弟に防戦を命じました。この『天文の錯乱・天文法華の乱』も佳境に入った訳です。天文4年(1535年)6月に細川軍の総攻撃が始まると本願寺の敗北に終わります。

11代将軍足利義澄と第10代将軍足利義稙の家督争いに巻き込まれる形で、今川氏と斯波氏が対立し、尾張・三河・遠江・駿河では、今川の勝利という形で終わりますが、京の権力争いは泥沼化してゆきます。

永正3年(1506年)8月から永正5(1508) 1019日まで、今川軍は幾度となく三河に兵を送ります。

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今川勢は

●今川氏親、伊勢宗瑞、駿遠国人、東三河国人、戸田憲光

対する松平勢は、

●岩津松平氏、安祥松平長親、岡崎松平、酒井、本多、大久保他

中立勢力は

●本願寺教団

永正5年、今川氏親は東三河国人達を従えて井田野に殺到しました。

永正5(1508)に義稙が義澄から政権を奪還すると、将軍足利義稙はすぐに今川氏親に遠江守護を与えました。そして、幕府(足利義稙・細川高国)は今川氏親に三河から撤退を命じます。それは大内義興の軍を頼る義稙ですが、味方になったと言っても今川氏親を信用していいのか判りません。三河を制定した後に斯波氏の尾張を分捕り、伊豆国、駿河国、遠江国、三河国、尾張国の東海五カ国を支配する一大勢力になった今川氏が足利義澄や細川澄元に加担すれば、すべてがひっくり返ってしまいます。そんな巨大な勢力を作らせたくないという思惑が幕府にあったハズです。

また、足利義稙が京に上洛したとき、伊勢貞宗はこれを迎い入れて幕閣に残ります。本願寺法主実如の母は伊勢家の出でありました。三河に攻め上っている今川の伊勢宗瑞です。三河には一向宗が多く、今川を三河に入れると影響力が大きくなります。何と言っても三河の守護は細川成之であり、細川一族の支配化でした。細川高国が今川氏親の介入を快く思う訳もありません。しかし、三河守護細川成之は細川澄元を支える為に奔走しており、いわば高国にとって敵に当たります。

幕府の思惑を知ってか、伊勢宗瑞(後の北条早雲)は方角を東に代え、伊豆さらに関東を目指すようになります。

幕府の意思が働いたのかどうかは判りませんが、今川が三河から撤退すると鎮圧した遠江で守護家の斯波義達が息を吹き返し再び制圧しなければならない事態となった訳です。

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幕府の意図があったどうかは判りませんが、今川氏親が三河から兵を引き上げると尾張守護斯波義達が息を吹き返します。

幕府(細川高国)―守護 斯波義達―吉良義信―吉良御家人 大河内貞綱

御家人 中条常隆

斯波義達は三河衆の力を得て再戦に挑みました。

永正5年(1508年)西条吉良家当主吉良義信は将軍足利義植を京の館に招いて歓待しております。少なくとも足利義植と吉良義信の関係が悪くなかったことを証明しております。永正8年(1511年)10月、斯波義達は自ら遠江に出陣したおりも、信濃守護小笠原貞朝と連合し、三岳城を根拠に井伊直宗や大河内貞綱と連合して攻勢に出ています。

幕府が影で糸を引いているからこそ、これだけダイナミックな連携が取れたのではないでしょうか。

一方、松平氏第5代当主松平長親は隠居して13歳の信忠に家督を譲ったとあります。今川氏親の三河侵攻に最も活躍した武将であり、『三河物語』等の記述によると、今川軍の大将の伊勢盛時の旗本勢まで打ち崩したとあります。しかし、これだけ活躍した当主長親はこの戦いの後に隠居するのはおかしな話です。

ちなみに徳川家康が隠居して大御所となって政治手腕を発揮したことを例に取り、松平家では院政を引く習わしがあったのかもしれません。長親の父である親忠が文亀元年810日(1501922日)に亡くなっております。頻繁に“押籠” が起こっていたと考えることもできますが、この説を有力な1つです。

いずれにしろ、今川の侵攻によって岩津城を居城にしていた岩津松平家が壊滅したことにより松平家の力が減少したのは間違いありません。

幕府にとって最も厄介な勢力は本願寺勢力でした。伊勢貞宗が幕府の下ったことで、本願寺法主実如を押さえることができましたが、一向宗門徒の不満はくすぶり続けます。

永正3年(1506年)本願寺九世法主、実如の命を受け、本泉寺の蓮悟は加賀国に動員令を発します。その数は30万人であり、能登畠山氏、越中長尾氏、そして越前の朝倉氏に襲い掛かりました。そして、吉崎坊を炎火に埋め尽くしました。

足利義植が幕府に返り咲いた折も、越前朝倉、能登畠山氏、越中長尾氏との間で一向宗と争いを続けております。三河、尾張、そして、京まで飛び火することを何としても避けたいと考えたのは普通の道理であります。

そういう意味でも、伊勢宗瑞が実権を握る今川家が大きくなるのは防ぎたかったかもしれません。

三河で最も多くの門徒を抱えていたのが松平家でした。吉良義信が三河の勢力を従え、お目付けとして守護斯波義達が睨みを効かせる。この体制によって幕府は三河の本願寺勢力を押さえておくことに成功した訳です。しかし、その体勢は長く続きませんでした。

永正8年(1511年)10月、斯波義達、大河内貞綱、小笠原貞朝の連合軍が今川氏親に敗れてしまいます。

隠居した松平長親は吉良家に服従し松平家の分家を多く作りました。次男信定に桜井、三男義春に青野、四男親盛に福釜、五男利長に東端を預けます。そして、近隣の豪族と婚姻を多く結びました。松平信忠も大河内貞綱の一族の娘を娶りました。そして、信忠の妹を吉良家の家臣富永氏に嫁がせております。一方、大樹寺には松平親忠の子孫(つまり安祥家一門)は男女の別なく大樹寺に帰依することという約定を交わしております。

幕府の思惑は斯波義達が今川氏親に負け続けた為に、この一向宗を押さえる体制に歪が生じます。氏親も末子氏豊を那古屋に送り込むことに成功しました。

そんな中で永正18年・大永(1521年)足利義稙が京都を出奔し、足利義晴を第12代将軍に変わってしまいます。織田達勝や吉良義信にすれば、後見人が消え去り、突然に梯子を外された状態になってしまった訳です。

その翌年にあたる大永 2年(1523年)に親忠の『押籠』が起こり、家督を清康が継承します。この『押籠』は二派に別れておりました。1つは桜井松平信定を押す勢力です。信定を押す勢力は一門衆でした。信定は織田信秀や水野忠政らと婚姻関係を持ち、織田達勝や吉良義信の庇護を受けることも用意です。岡崎松平家も信定なら惣領家家督に反対しません。

もう1つは安祥松平清康を押す勢力です。清康を押す勢力は家臣団でした。安祥家正嫡ですが十三歳の幼君に家督を任せるのは普通なら不安です。そんな無理を押し通したような継承を誰が望んだのでしょうか。

今川氏親は伊勢宗瑞(北条早雲)、北条氏綱を使って相模国一国を平定し、武蔵・下総への進出していました。(守護今川氏親、守護代 伊勢宗瑞・北条氏綱)

背後を襲われたくないという思いと、今川が三河を攻めれば、結託して抵抗するのは見えています。尾張・三河の連合体を崩壊させることが今川にとって好都合に思えます。

その対立軸にあるのが本願寺であり、清康を押す勢力は家臣団、一向宗の門徒たちだったのです。家臣団は強引に家督を清康に継がせると、反対する大草の岡崎城(明大寺旧城)の2代目大草松平家左馬允親貞を襲ったのです。親貞の弟、松平昌安は岡崎城とその所領を明け渡しました。

一向宗との戦いは、突然身内から裏切り者が現われることです。織田信秀も一向宗との戦いに難儀しましたが、後の徳川家康も譜代の家臣に裏切られてほとほと困り果てます。

大草松平家の家臣団の中にも門徒がいたでしょう。身内から離反者が現われては一溜りもありません。一門衆も清康の家督相続に否と言えなくなったのではないでしょうか。

以後、松平家は反目する周辺の豪族を潰してゆきました。

もちろん、織田達勝もただ見ていただけではありません。桜井松平家の信定に領地を与えて懐柔を図ります。

大永6327日条の連歌師である宗長が記した『宗長日記』に尾張国守山にある松平与一信定の館で千句の興行があったことが記されていることから、守護代織田達勝が桜井松平信定に那古屋に程近い守山に領地を与えております。

松平家は対立こそしませんでしたが、清康派と信定派と大きく二派に別れたままでした。

また、永正15年(1518年)伊勢氏綱、伊豆守護に任じられたときか、駿河の守護代伊勢宗瑞の名が消え、伊勢氏には伊豆・相模を分国し、駿河・遠江は氏親の直轄統治に変わってゆきます。しかし、今川家が主家であり、北条家は家臣であることには変わりなく、義元の花倉の乱まで、この関係は引き継がれていきました。

◆松平の年表◆

永正8年(1511年)823日 船岡山の戦い、足利義稙と足利義澄の戦い。 高国と大内義興の連合が勝利する。澄元は阿波に帰還し、細川成之も同年に78歳で死去した。

 10月、遠江侵攻 斯波義達、大河内貞綱、小笠原貞朝の連合軍が今川氏親に敗れる。

永正8年(1511年)    松平清康(1)、生誕。

永正10年(1513年) 遠江侵攻 斯波義達、大河内貞綱、井伊直平と共に進撃し、朝比奈泰以と飯尾賢連の前に大敗を喫する。

永正14年(1517年) 遠江侵攻 斯波義達、大河内貞綱、大河内貞綱は引馬で今敗死。斯波義達を捕らえ、因果を含めて尾張国に送り返します。末子の氏豊を那古屋に送り込みました。(斯波の没落)

永正15年(1518年)    伊勢氏綱、伊豆守護に任じられる。

              今川氏親、遠江の検地、金山の開発を助力。

永正16年(1519年)    早雲の隠居により北条氏綱が家督を相続する。

永正16年(1519年)    早雲、韮山城で死去。

大永 元年(1521年)    足利義材、阿波に亡命。足利義晴将軍位相続。

大永 3年(1523年)    清康(13)、家督継承。(明大寺)岡崎親貞と戦争を始める。

大永 3年頃(1523年)    伊勢氏から北条氏に改姓。

大永 4年(1524年)    清康(14)、岡崎親貞を大草に追い、岡崎に移る。

大永 5年(1525年)    清康(15)、足助、鈴木重政を降伏させる。(鈴木氏の中条から離反)

大永 6年(1526年) 3月 松平信定、この頃までに守山を領有

 6月 今川氏親、分国法『今川仮名目録』を制定

 8月 今川氏親没。氏輝が家督相続

大永 8年(1528年)    清康(18)、岡崎で鷹狩中に叶田大蔵に襲撃される。

享禄 2年(1529年)    清康(19)、小島城を攻める。

              松平信定、尾張品野城攻めに従軍し、品野城を与えられる。

享禄 3年(1 530年)    織田達勝、守護の斯波氏の代理として兵を率い上洛。

清康(20)、岡崎城を明大寺から竜頭山に移す。

              清康、尾張出兵、

              清康、宇利城を攻める。

              清康、吉田城を攻める。

享禄 4年(1531年) 6月 本願寺法主証如、北陸三ヶ寺の討伐令。実円出陣。(大小一揆)

 11月 清康(21)、伊保の三宅加賀守を広瀬城に追う。

天文 2年(1533年) 3月 清康(23)、中条常隆が三宅・鈴木・那須・阿部氏らと連合するが清康に井田野で戦い敗れた。(中条家の凋落)

 12月 清康、品野(桜井信定?)勢と井田野で戦う。

天文 4年(1535年) 6月 石山本願寺、細川軍の総攻撃、本願寺の敗北

 6月 清康、猿投神社を焼く。

 11月 石山本願寺、和睦が成立。細川晴元の軍門に降る。

 11月 石山本願寺、下間兄弟は和議に反対。

 12月 清康(25)、守山に出陣して陣没(守山崩れ)

天文 5年(1536年) 3月 今川氏輝没。花倉の乱を経て今川義元が家督相続。

(注).鈴木重政は大永5(1525)松平清康によって攻められ降ったが、それ以降も離反・従属を繰り返している。元亀2(1571)武田信玄の西三河侵攻により真弓山城は落城し、城主鈴木重直は岡崎へ逃れた。これにより一時的に武田方の持城となったが武田信玄が病没すると徳川家康の軍勢が武田氏の軍勢を追い払い、再び鈴木重直が城主となった。

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