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2014年11月

1554年(天文23年)13・14.簗田弥次右衛門御忠節の事・武衛様御生害の事

13.簗田弥次右衛門御忠節の事、14.武衛様御生害の事

 

『信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ

 

 

簗田弥次右衛門御忠節の事

一、さる程に、武衛様の臣下に簗田弥次右衛門とて、一僕の人あり。面白き巧みにて知行過分に取り、大名になられ侯子細は、清洲に那古野弥五郎とて十六、七、若年の、人数三百計り持ちたる人あり。色々歎き候て、若衆かたの知音を仕り、清洲を引きわり、上総介殿の御身方候て、御知行御取り侯へと、時々宥め申し、家老の者どもにも申しきかせ、欲に耽り、尤と、各同じ事に侯。然る間、弥次右衛門、上総介殿へ参り、御忠節仕るべきの趣、内々申し上ぐるに付いて、御満足斜ならず。或る時、上総介殿御人数清洲へ引き入れ、町を焼き拡ひ、生城に仕り侯。信長も御馬を寄せられ侯へども、城中堅固に侯間、御人数打ち納れられ、武衛様も城中に御座候間、透を御覧じ、乗つ取らるべき御巧みの由、申すに付いて、清洲の城外輸より城中を大事と用心、迷惑せられ侯。

<現代訳>

武衛様の家来に簗田弥次右衛門というなかな多くの知行を貰う一角の者がいた。この簗田は清洲の那古野弥五郎という人数三百余りを持ち、1617才の若い大将を抱えると友人のような関係であり、あるとき彼に「信長公へ通じて清洲を分裂させよう」ともちかけた。さらに他の家老たちにも工作してみたところ、みな欲にかられて承諾した。刻を移さず、簗田は信長公のもとへ参上し、内々忠節の旨を言上した。信長公は御満足の様子であった。そして頃合いをみて、簗田は織田勢を清洲に引き入れ、城下を焼き払って生城にしてしまった。

 信長公も出馬して清洲の城に迫ったが、守備は堅固で武衛様も城中にあったため城攻めは控え、以後乗っ取りの策を練ることに苦労した。

 

武衛様御生害の事

一、七月十二日、若武衛様に御伴申す究竟の若侍、悉く川狩に罷り出でられ、内には、老者の仁体纔に少貼相残る。誰々在之と指折り、見申し、坂井大膳、河尻左馬丞、織田三位談合を究め、今こそ能き折節なりと、焜と四方より押し寄せ、御殿を取り巻く。面広間の口にて、何あみと申す御同朋、是れは謡を能く仕り侯仁にて侯。切つて出で働く事比類なし。又、はざまの森刑部丞兄弟切つてまはり、余多に手を負はせ討死。頸は、柴田角内ニッとるなり。うらの口にては、柘植宗花と申す仁切つて出で貼、比類なき働きなり。四方屋の上より弓の衆さし取り引きつめ、散貼に射立てられ、相叶わず、御殿に火を懸け、御一門数十人歴々御腹めされ、御上﨟衆は堀へ飛び入り、渡り越し、たすかる人もあり。水におぽれ死ぬるもあり、哀れなる有様なり。武衛様は川狩より、直ちにゆかたびらのしたてにて、信長を御憑み侯て、那古野へ御出で、すなわち弐百人扶持仰せ付けられ、天王坊に置き申され候。主従とは申しながら、筋日なき御謀反おぼしめしたち、仏天の加護なく、か様に浅猿敷、無下貼と御果て侯。若君一人、毛利十郎生捕に仕り侯て、那古野へ送り進上候ひしなり。御自減と申しながら、天道恐ろしき次第なり、城中にて、日夜、武衛様へ用心機遣ひ仕り、粉骨の族どもも、一旦憤を散ずるといへども、我も人も小屋貼やかれ候て、兵粮、着の莢等に闕く難儀の仕合にて候なり。

 

<現代訳>

天文23(1554)年7月12日、武衛様の若君は家中の若侍を伴に川狩りに出かけた。城中にはわずかな老臣たちだけが残った。坂井大膳らはこれを奇貨とし、兵を催して守護館を取り囲んだ。守護勢は懸命に防戦したが多勢に押され、警護役の森刑部丞兄弟切って周り、数多に手傷を負わせ討死する。首は柴田角内が二つ共取った。裏口にては柘植宗花と申す者が切って出て比類なき働きをした。四方の屋上より弓衆が散々に射て応戦したが敵わなかった。ついに館に火をかけて斯波義統様をはじめ一門衆数十人ことごとく自害した。上臈たちは堀に飛び降りて溺れ、まことに哀れな様であった。

若君義銀様は川狩り先でこの変事を知り、那古野の信長公のもとへ駆け込んだ。信長公は義銀様に二百人扶持をあたえ、天王寺に住まわせた。主筋とはいえ清洲に対し無謀な謀反を思い立ち、案の定仏天の加護なくこのように零落してしまった。

武衛様の息子一人を毛利十郎がかくまい候て、那古野へ送り進上している。まったくの自滅ではあるが恐ろしいものである。武衛様に近侍していた家臣たちも拠る辺を失い、衣食にも困る有様となった。

 

<<斯波義統>>

尾張守護斯波氏(武衛家)14代当主の斯波義統は、父である斯波義寛が永正12年(1515年)8月に今川軍と再度戦って敗れた上に、捕虜となって剃髪を強いられ尾張に送り返される恥辱を受けた為に隠居させられた。永正10年(1513年)に生まれた義統は満3才の赤子で当主になったことになる。しかし、父の義寛は天文2年(1533年)7月に京から下向した山科言継や飛鳥井雅綱らの公卿達と交流していることから23歳頃までは存命していたと思われる。

大和守家の守護代の織田達定の反対を押し切って挙兵し敗れた斯波義寛は、義統共に討たれた織田達定の大和守家である織田達勝・織田信友に擁される。

しかし、傀儡であった尾張守護斯波義統も成長すると徐々に実権を取り戻していった。天文6年(1537年)4月の寺領安堵状を初見として、尾張守護としての活動が見られるようになっていった。

おそらく、奉行の弾正忠家の織田信秀の台頭において、尾張守護として持ち上げた為であろう。斯波家と弾正忠家の蜜月がこの頃から始まった。この後、弾正忠家の織田信秀は朝廷にも献金して従五位下に叙位され、備後守に任官される。さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁している。これらは斯波家の協力なしには成し得ないことから弾正忠家の庇護下という限定的ではあるが、尾張守護としての力を復活させていった。

しかし、第2次小豆坂の戦いで今川氏に敗れて以降、その威光も失われ、信秀の死によって弾正忠家が分裂すると、守護代織田信友の下で実権を握っていた又代の坂井大膳らが弾正忠家(信長)と敵対し、尾張守護の斯波義統を傀儡としていった。

そして、天文23712日(155384日)に坂井大膳・河尻左馬丞・織田三位は義統を襲撃して一門数十人もろとも死に追いやった。

 

<<簗田弥次右衛門>>

簗田弥次右衛門はなかなか知恵の働く男で多くの知行を貰って大名になっていたとある。ここでいう大名とは大いに名の轟く者のことであり、一角の人物という意味だ。

九之坪城(北名古屋市九之坪西城屋敷)の梁田(やなだ)氏は、清須守護斯波氏の古い家臣で梁田弥次右衛門出羽守政綱(鬼九郎)は、弥次右衛門尉広政の子として、永正13年(1516年)に生まれ、親子共に信長の父織田信秀に仕えた。

信長の清須攻略後は信長に従い、岩倉浮野合戦の功により九日市場(一宮市)、九之坪地区の領主となり、この地に城館を築いた。永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で、信長は「治部少輔(今川義元)の首をあげるのみ」と、梁田党親子を現地に遣わした。蜂須賀、前野党両者には「梁田党と協力しよ」と命じ、情報作戦を展開し勝利を得た功により梁田親子は沓掛城(豊明市)三千貫文を賜った。梁田氏は弥次右衛門尉広政、政綱(鬼九郎)、左衛門太郎と三代に渡って出羽守を称し、天正3年(1575年)には別喜右近を称した。

この簗田弥次右衛門が那古屋弥五郎に目を付け、那古屋弥五郎を信長側に引き入れて清洲織田家勢力の分裂を謀ったのである。

<<那古野弥五郎>>

那古野荘たる那古屋氏の裔かと思われる。那古野荘は尾張国愛智郡内にあり、東西は大曽根から枇杷島あたり、南北は田幡、児玉から前津、日置あたりです。

元々駿河の今川氏が一時尾張守護を兼ねていた時期に庶流の那古野氏が領有し、斯波氏が尾張を領有した後もこの地に留まって、今川氏豊(氏親の末子)が那古野氏の家督を継いで那古野に築城したと言われます。

享禄5年、天文元年(1532年)、勝幡城(稲沢市)の織田信秀は今川氏豊を騙して城を奪い取り滅ぼしました。しかし、小豆坂の戦いの記事に「那古屋弥五郎 清洲衆にて候 討死候なり (中略) 那古屋弥五郎頸は由原討取るなり」 とあり、 小豆坂の戦いで討死した那古屋弥五郎は簗田弥次右衛門と手を組んで信長に仕えた那古野弥五郎の父親と推測されます。那古野氏は信秀の部下となって仕えていたことが伺えます。

永禄二年(1559年)信長は時の将軍足利義輝に拝謁する為に上京したときに、美濃の斎藤氏から信長を暗殺すべく刺客が放たれたようですが、那古屋弥五郎配下の丹羽兵蔵の機転により信長はその難を逃れています。

那古野弥五郎は「清洲には那古野弥五郎とて十六七若年の人数三百ばかり持ちたる人あり」と書かれておりますので、老中に行かないまでもそれなり待遇を受けた一角の武将と察せられます。

簗田弥次右衛門御忠節の事

なぜ、斯波義統の殺害に至ったのかを考えると不思議としか言いようがない。

太田牛一の『信長公記』の首巻には、歴史的順序がカオス化している。

九、備後守病死の事

十、山城道三と信長御参会の事

十一、三の山赤塚合戦の事

十二、深田松葉両城手変わりの事

十三、簗田弥次右衛門御忠節の事

十四、武衛様御切腹の事

十五、柴田権六中市場合戦の事

十六、村木ノ砦攻めらるるの事

十七、織田喜六郎殿事御生害(付織田彦五郎生害)

十八、勘十郎殿、林、柴田御敵の事

十九、三郎五郎殿御謀反の事

二十、おどり御張行の事(山口左馬助父子御成敗並びに海西、知多郡の事)

二十一、天沢長老物語の事

二十二、六人衆と言う事

二十三、鳴海の城へ御砦の事

二十四、今川義元討死の事

となっているが、『十六、村木ノ砦攻めらるるの事』は、時期的に『十四、武衛様御切腹の事』は順序が逆である。

天文21816日 萱津の戦い(深田松葉両城手変わりの事)

天文23118日 村木攻め(村木ノ砦攻めらるるの事)

天文23712日 斯波義統の殺害(武衛様御切腹の事)

天文23718日 安食の戦い(柴田権六中市場合戦の事)

また、町田家伝来の『信長公記』には、この『二十四、今川義元討死の事』で「天文二十一年壬子五月十七日、 一、今川義元が沓懸へ参陣した。十八日夜になって・・・」と始まっている。天文2133日に信秀が没したという説をとるなら、その二ヶ月後に来襲したことになる。書き間違いか、それとも故意だろうかと疑ってしまう。

また、『九、備後守病死の事』では、織田信秀の死、葬儀、平手政秀の自害が1つに書かれているが、最長なら2年と9か月、最短でも9か月の隔たりがある。『信長公記』の流れなら3月に父が亡くなり、翌正月付近で葬儀があり、平手が自害したことになる。ならば、信秀の死と葬儀の間に起こった2つの事件『十一、三の山赤塚合戦の事』、『十二、深田松葉両城手変わりの事』も関連させて明記するべきではないか?

厭々、最長なら道三の会見も入ってくるので、いったい何時から何時までの時期なのかまったく不明である。

いずれにしろ、『信長公記』の信憑性も首巻において疑う必要があるが、資料が少ないこともあり、推測を重ねるしかない。

 

さて、斯波義統の殺害に至る前段階となる『簗田弥次右衛門御忠節の事』に応えを探してみよう。

天文23年(1554年)118日 村木攻めに勝利した織田信長は、美濃斉藤道三をバックに尾張の平定を勧める。斯波義統の死後になるが弘治2年(1556年)には三河守護細川成之・吉良義昭と尾張守護斯波義銀・織田信長の同盟を成立させている。一時的であれ、尾張における実権が信長に回復したことが伺える。

十三、簗田弥次右衛門御忠節の事が起こった時期を考えると、天文23712日に斯波義統の殺害される以前であり、尚且つ、天文23年(1554年)118日の村木攻め以降である。

清須城の家老や国人たちは、信長と敵対してゆくことが正しいのか、和睦する方が得策かを議論していた。しかし、首謀者である小守護代(守護又代)坂井大膳、河尻与一(左馬丞)、織田三位は首謀者だけに猛反発しただろう。そんな動揺する清須に簗田弥次右衛門御忠節は那古野弥五郎を通じて、清須の家老たちに懐柔を促した。同時に清須を攻め城下を焼き払って力を誇示したと考えれば、信友や坂井大膳らの力が無力であることをしました。

懐柔と恐喝の二段構えである。

反信長派が支流で占めていれば、守護斯波義統を殺害するのは自殺行為である。守護斯波義統の実権はなくとも尾張の支配者という権威を持っている。仮に信長が義統に坂井大膳の討伐令を貰っていても、その本人が人質に取られているのだから攻め難い。そんな最大の外交カードを手放す理由がない。

息子の斯波義銀が家中の若侍を伴に川狩りに出た隙を伺ったことから推測できるように、坂井大膳ら手勢は多くない。清須は守護代織田信友の城で信友も始め、家老達が義統に頭を下げることで清須の調略は終わっていたのではないだろうか?

 

さて、織田信光の動向である。

『信長公記』「織田喜六郎殿御生害の事」では、信長と敵対する「織田大和守家」当主織田信友の重臣坂井大膳の誘いに応じるふりをし、天文24419日(1555年)に清須城に入城。翌20日、信友を謀殺して清洲城を奪い、大膳は今川義元の下に逃れた。信光は信長に清須城を渡すと、自身は信長より譲られた那古屋城に入ったが、弘治元年1126日(155617日)に不慮の死を遂げた.とある。

 

織田信光の動向から逆算すると、天文23712日の斯波義統の殺害は動かしようがない。また、『系図纂要』から斯波義統の改名「徳照院殿道鑑天與」は、天文23712日と推測される。つまり、「簗田弥次右衛門御忠節の事」はそれ以前でならなければならない

天文21816日「深田・松葉両城手かはりの事」の末尾には、撤退した敵を追って清須に迫ったとある。この折に、簗田弥次右衛門が那古野弥五郎と謀って、信長を清洲城下へ導いた可能性も残る。しかし、天文21年当時の信長が謀り事を行える余裕があったとも思えない。

情勢が大きく変わったのは、天文224月に斉藤利政(後の道三)と会見を行い、美濃斉藤勢が信長を支援することを表明した後である。また、天文231月に「村木攻め」を成功させたことが大きい。信長と道三に挟まることになった清須は、信長との和議を考えたのであろう。和議を取り持てるのは斯波義統以外にあり得なかった。

 

さて、「簗田弥次右衛門御忠節の事」では、簗田弥次右衛門を一僕と書かれ、とても身分の低い者と扱っている。

1.『信長公記』には、として、「一、さる程に、武衛様(斯波義統)の臣下に、とて、一僕の(身分の低い)人あり。面白き巧(企)みにて知行ヲ過分に取り、大名になられ候仔細は、清洲に那古野弥五郎とて、十六、七ノ若年の人数三百計り持ちたる人あり、(略)」と書き、簗田は織田勢を清洲に引き入れ、城下を焼き払って裸城にし、信長も出馬して清洲の城に迫ったが、守備が堅固で武衛様も城中にあったため城攻めは控え、以後乗っ取りの策を練ることに苦慮したとある。その後簗田は信長公に取り立てられたといいます

2.『信長公記』の「大河内国司退城の事」では、城北に布陣したなかに斎藤新五・坂井政尚・蜂屋頼隆・簗田弥次右衛門・中条将監・磯野丹波守員昌・中条又兵衛とある。

3.2007.07.07) 『富士見道記』「廿二日、今春大夫勧進能芝居より九坪松平院に趣けり。(中略)簗田出羽守息酒爲持給へるに、酔を重て、(中略)。廿四日、くらかけといふ城をも出羽守知れる所(知行する)なれば、十里に少し不足道。こゝろの儘にて、田楽がくぼとて、おだしからぬ山の峠などに、迎數多待せけるをもかへして、三河の堺川を前なる社福寺に入て(後略)」

4.『武功夜話』では、「信長は間合いこそ肝要なりと指示して情報戦担当者として簗田弥次右衛門・鬼九郎親子を現地へ送り込んでいる事も話した」とか「十八日夜の情報分析では大高へ向かう可能性が高い事まで解った・・・」とか、「梁田弥次右衛門の家臣、岡崎付近から義元軍の荷担ぎ人夫に紛れ込み沓掛城中にあった与曽平というしのびの者が伝えた。小六正勝・前野長康らは直ちに祐福寺村の村長藤左衛門らと協議、与曽平の情報を確認して同夜の内に清須・竜泉寺城等に飛報を飛ばした。」などと書き、簗田出羽守政綱と書かずに、簗田弥次右衛門の子息・鬼九郎の働きである。

 

武功夜話では、弥次右衛門広政と鬼九郎政綱親子は、信秀の代から弾正忠家に随身して岩倉城攻めや浮野の戦いで功があり、九日市場(一宮市)や九之坪辺りを知行して、九之坪に城館を築いたとしています。この、梁田氏の武功については沓掛三千貫についても伝承だけであって検証されていません。

『信長公記』桶狭間のくだりで簗田氏の名前は一度も出ておりませんし、ここでは一僕の(身分の低い)人と称されております。故意に簗田氏を貶めているのか、『武功夜話』が捏造か、それとも別の同姓者か。いずれにしろ、清洲の重鎮である那古野弥五郎を調略し、清須の武将を信長派に変えた立役者の一人であることは間違いありません。

 

■武衛様御生害の事

尾張守護斯波氏(武衛家)14代当主の斯波義統を坂井大膳らが殺害するのはただ事ではありません。つまり、坂井大膳らが殺害する事態に推移しなければ、殺害の動機が生まれません。天文23(1554)年7月12日の時点では、清須における義統の影響力が大きくなり、坂井大膳らよりも大きな影響力を持っていたことが伺われるのです。

しかし、それでも守護を殺害するという大罪を犯すには至らないでしょう。後年、荒木村重(あらき むらしげ)が信長に謀反を起こしますが、単独で謀反を起こすとは誰も考えておりません。毛利との密約があったゆえに村重は謀反に至ったのです。

同じように、坂井大膳らが謀反に至るには理由がありました。それが室町幕府に大きな影響力を持つ今川義元公であります。今川義元から誘いがあったからこそ、坂井大膳らを排除することができたのです。清須城から追われた坂井大膳が今川方の服部友貞(はっとり ともさだ)の荷ノ上城に逃げたことから推測されます。

 

正史には、大和守家の織田信友は義統が弾正忠家の信秀に接近することを快く思わず、また、義統も自身を傀儡として扱う信友に不満を抱き両者の溝が深まっていった。そして、天文23年(1554年)信友が弾正忠家の織田信長を謀殺する計画を企てたとき、信長にその計画を密告して自身の助けを求めたとあり、それを知った信友は激怒し、同年712日に義統嫡男の義銀が屈強な家臣を率いて川狩りに出かけた隙を突いて、小守護代坂井大膳をはじめとして、腹心の織田三位、河尻左馬助、川原兵助らとともに守護邸に攻め入ったとされています。

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<清洲城館内より 尾張を統一掌握した頃の清須城は守護館

 

上の清須城は信長が入城した後のものであり、織田信友の時代はこの川の左半分が清洲城であったと思われます。清洲城の中に守護邸もあり、信長も攻めるのに苦労したと『信長公記』に書かれているように義統の元に屈強の家臣がいたとするなら、清須攻略に信長が苦労する理由はありません。

つまり、那古野弥五郎の懐柔により清須城の家老共々が義統にひれ伏し、天文23年(1554年)時点で斯波義統は屈強の家臣を率いるまで威信を回復し、信友の傀儡から脱していたことが伺われます。

712日、義統嫡男の義銀は父の義統が討ち取られたのを聞き、那古屋城の信長に助力を求めました。

『信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ

 

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