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和を以て貴しとなす

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今日のタマねい 2014-03-17

「君子は和して同ぜず小人は同じて和せずというけれど、中々和を為すことは難しいわね。聖徳太子の時代でも豪族が相争っていたので、和ぐことが最も大切だと教えたのよ。現代は利益主義で和ぐとしない。これは改めないとね」

 

和を以て貴しとなす

憲法十七条の一条「以和爲貴」(和を以て貴しとなす)から始まっている。和を(わ)と読んでいるが、正確には『和(やわらぐ)を以て……』と読む。

当時の聖徳太子の時代は豪族が鬩ぎ合っており、血で血を洗う紛争の時代でした。聖徳太子の父、橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)、つまり、用明天皇が崩御すると、重臣であった物部守屋と蘇我馬子が対立し、丁未の変(ていびのへん)が勃発しました。

その戦で勝利した蘇我馬子は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を大王として、崇峻天皇(すしゅんてんのう)に即位させるのだけれども、大王は馬子の権力が強いことを妬んだ。

592104日、献上された猪を見て、笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言したと言われるわ。それを聞いた馬子が東漢駒に暗殺をさせたと日本書記に書かれています。

中央の豪族と地方の豪族、さらに新羅、百済、任那という諸外国の勢力が相入りまって紛争を続けていた訳ね。

崇峻5年(592年)128 推古天皇(すいこてんのう)が即位すると、聖徳太子(厩戸皇子、上宮太子聖徳皇、『古事記』、上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』)は皇太子となって政治の表舞台に登場するよ。そして、最初の難関となったのが新羅の任那侵攻でした。

この任那の存在には、色々な学説があって存在しないなんて言っている人もいるけれど、宋朝の文帝(461年)は倭王済に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたと残っているので存在していたと思われる。でも、525年前後の『梁職貢図』百済条には任那の名は消えており、また、660年成立の『翰苑』新羅条には「任那」が書かれている。激しい勢力争いがあったことだけはそこから見て取れるようね。

聖徳太子が皇太子になった時期に新羅の勢力が増して、任那・加羅という国が消えようしていたのよ。推古8年(600年)2月に第1次新羅征討を派遣した大和朝廷は、日本書記には勝利して凱旋したことになっているけれど、大和朝廷軍が居なくなると新羅を再び襲ってきたと書かれている。実際のところ、本当に勝利したのかは疑わしいところね!

いずれにしろ、大和朝廷は外交を大きく変えることになるのよ。そう倭王の時代より100年以上も国交を断絶していた中国に遣使が遣わされることになったよ。それが第一回遣隋使と言う訳ね!

『隋書』の「東夷傳俀國傳」には、高祖文帝の問いに遣使が答えた様子が書かれているわ。

「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」

 (開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く跏趺(かふ)して座す。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。)

俀王は姓を阿毎(あめ)といい、字は多利思北孤(たりしひこ)、阿輩雞弥(おおきみ)と称したといい。倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねると言ったようよ。

これを聞いた文帝は「おかしな国だ。改めなさい」と言ったらしいわ。でも、それを聞いた聖徳太子がどう反応したのかは興味が尽きないわ。

もしかすると、細く笑みを浮かべていたかもしれない。

中国の皇帝は古くから北極星になぞられていた。一方、天照大神は日に纏わる神であり、卑弥呼も太陽を信仰していた。兄の文帝を北極星になぞらえて、弟の大王を太陽に祀ったことに気が付かないのなら中国の皇帝と言っても大したことないと思ったかもしれないわ。

いずれにしても、隋から倭国は蛮族の国と思われたことは間違いない。

聖徳太子はすぐにその過ちを正した。

冠位十二階』を定め、『憲法十七条』を制定した。さらに四天王寺を建立して、りっぱな文化国であることを印象付けることに尽力したのよ。そして、『日出處天子致書日沒處天子無恙』(日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや)と有名な国書を送ったのよ。明皇帝はこれを喜ばず、「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と言ったそうだけれども、中国と日本の対等な外交がここから始まったのよ。

卑弥呼が帝より王の称号を貰って権威の象徴としたのに対して、聖徳太子は同等の天子として合い向かった。国力から考えるなら相当の自信過剰と言えなくもないのだけれども、高句麗に遠征を控える隋にとって友好関係を構築するに値するか難しい判断を迫られた訳ね。翌年(608年)、明皇帝は文林郎(役名)である裴清(裴世清 はいせいせい)を倭国に派遣したわ。倭国に遣わされた裴世清はとても蛮族の国ではないと書き記している。

ここで気になるのは、やはり倭国王、阿毎多利思北孤(アマ・タリシヒコ)のことかしら。日本書記によれば推古天皇の時代であり、大王は女帝である。

しかし、裴世清の文章の中に女帝を思わせるものはない。

中国の文化で男尊女卑が厳しくなるのは唐代以降であるので、推古天皇が女帝であることをあながち隠す必要はない。では、阿毎多利思北孤(アマ・タリシヒコ)とは誰なのかしら。推古天皇9年(601年)に聖徳太子が斑鳩宮を造営したとある記述に注目したいわね。つまり、推古天皇は即位して間もなく、あるいは崇峻天皇から聖徳太子に大王の位を譲位していたのではないかしら、そうすると阿毎多利思北孤(アマ・タリシヒコ)が誰だったかは明らかになる。でも、その話をすると長くなるのでまた今度にするわ。

 

いずれにしろ、聖徳太子は隋の文帝から指摘されたことを修正し、規範を整え、法を定めた。秦の始皇帝が定めた規範が2000年(紀元前221年から1912年まで)近く使われたように、聖徳太子が定めた規範が現代の日本の規範に生きている。

そして、憲法十七条の第一条こそ、日本の心だと思うのよ。

以和爲貴』(和(やわらぎ)を以て貴しと為す)

和というのは調和や調律という意味ではなく、あらゆる意見や思惑を超えて、合議の内に答えを見つけ出すという意味よ。合理的、倫理的、道徳的な『和(やわらぎ)』ではなくてはならないのよ。

それをよく表しているのは、

『君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず』

と孔子の教えによく現れているわ。

和とは己の考え方かたや物の捉え方を話し合いによって摺り寄せてゆくことであり、恫喝したり、怒りに任せて力を酷使せずに妥協点や合議点を模索することで、その時の場の雰囲気に合わせることではない。そのことは憲法十七条の十条、十一条、十七条にも書き示されているわ。

そう考えると、現代のシステムは限りなく『和』を乱していると言えるわね。

・国会では、与野党が対立するだけで合議しようとしない。

・談合は、悪と決めつけられて強者が一人勝ちを続けている。

入札とかは平等のように思えるけれど、強い会社が勝つようにできている。一方、本来の談合はすべての会社に仕事が往き届くように配慮する。どちらが是で、どちらが非なのかは考えるべくもないわ。では、談合が悪だと言われるのはあれが談合ではなく、密約だからなのよ。談合なら公にしても何の差障りもない。

なぜなら、談合とは、すべてにおいて合理的で万人が納得する結論でなければならないからよ。

密約を談合と誤表記して、談合を悪に仕立てるのは非常に不愉快ね!

 

『和を以て貴しとなす』

何事も一人で決めず、合議の内に決めてゆく。決して独りよがりのことをしない。これは日本の心だと思うわ。

 

【憲法十七条、十七条の憲法

夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。

 一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

 二曰、篤敬三寶。々々者佛法僧也。則四生之終歸、萬國之禁宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡。能敎従之。其不歸三寶、何以直枉。

 三曰、承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆臣載。四時順行、萬気得通。地欲天覆、則至懐耳。是以、君言臣承。上行下靡。故承詔必愼。不謹自敗。

 四曰、群卿百寮、以禮爲本。其治民之本、要在禮乎、上不禮、而下非齊。下無禮、以必有罪。是以、群臣禮有、位次不亂。百姓有禮、國家自治。

 五曰、絶饗棄欲、明辨訴訟。其百姓之訟、一百千事。一日尚爾、況乎累歳。頃治訟者、得利爲常、見賄廳讞。便有財之訟、如右投水。乏者之訴、似水投石。是以貧民、則不知所由。臣道亦於焉闕。

 六曰、懲惡勸善、古之良典。是以无匿人善、見-悪必匡。其諂詐者、則爲覆二國家之利器、爲絶人民之鋒劔。亦佞媚者、對上則好説下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民。是大亂之本也。

 七曰、人各有任。掌宜-不濫。其賢哲任官、頌音則起。姧者有官、禍亂則繁。世少生知。剋念作聖。事無大少、得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此國家永久、社禝勿危。故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。

 八曰、群卿百寮、早朝晏退。公事靡監。終日難盡。是以、遲朝不逮于急。早退必事不盡。

 九曰、信是義本。毎事有信。其善悪成敗、要在于信。群臣共信、何事不成。群臣无信、萬事悉敗。

 十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。、我獨雖得、從衆同擧。

 十一曰、明察功過、賞罰必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿、宜明賞罰。

 十二曰、國司國造、勿収斂百姓。國非二君。民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。

 十三曰、諸任官者、同知職掌。或病或使、有闕於事。然得知之日、和如曾識。其以非與聞。勿防公務。

 十四曰、群臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、々亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。所以、智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治國。

 十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同、非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。

 十六曰、使民以時、古之良典。故冬月有間、以可使民。從春至秋、農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

 十七曰、夫事不可獨斷。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故與衆相辮、辭則得理。

 

 『日本書紀』第二十二巻 豊御食炊屋姫天皇 推古天皇十二年

 

 

夏四月丙寅朔の戊辰の日に、皇太子、親ら肇めて憲法十七條(いつくしきのりとをあまりななをち)を作る。

 一に曰く、和(やわらぎ)を以て貴しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。人皆党(たむら)有り、また達(さと)れる者は少なし。或いは君父(くんぷ)に順(したがわ)ず、乍(また)隣里(りんり)に違う。然れども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

 二に曰く、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり。則ち四生の終帰、万国の禁宗なり。はなはだ悪しきもの少なし。よく教えうるをもって従う。それ三宝に帰りまつらずば、何をもってか柱かる直さん。

 三に曰く、詔を承りては必ず謹(つつし)め、君をば天(あめ)とす、臣をば地(つち)とす。天覆い、地載せて、四の時順り行き、万気通ずるを得るなり。地天を覆わんと欲せば、則ち壊るることを致さんのみ。こころもって君言えば臣承(うけたま)わり、上行けば下…(略)

 四に曰く、群臣百寮(まえつきみたちつかさつかさ)、礼を以て本とせよ。其れ民を治むるが本、必ず礼にあり。上礼なきときは、下斉(ととのは)ず。下礼無きときは、必ず罪有り。ここをもって群臣礼あれば位次乱れず、百姓礼あれば、国家自(おのず)から治まる。

 五に曰く、饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁(さだ)めよ。(略)

 六に曰く、悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古の良き典(のり)なり。(略)

 七に曰く、人各(おのおの)任(よさ)有り。(略)

 八に曰く、群卿百寮、早朝晏(おそく)退でよ。(略)

 九に曰く、信は是義の本なり。(略)

 十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(略)

 十一に曰く、功と過(あやまち)を明らかに察(み)て、賞罰を必ず当てよ。(略)

 十二に曰く、国司(くにのみこともち)・国造(くにのみやつこ)、百姓(おおみたから)に収斂することなかれ。国に二君非(な)く、民に両主無し、率土(くにのうち)の兆民(おおみたから)、王(きみ)を以て主と為す。(略)

 十三に曰く、諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ。(略)

 十四に曰く、群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ。(略)

 十五に曰く、私を背きて公に向くは、是臣が道なり。(略)

 十六に曰く、民を使うに時を以てするは、古の良き典なり。(略)

 十七に曰く、夫れ事独り断むべからず。必ず衆(もろもろ)とともに宜しく論(あげつら)ふべし。(略)

 

 

「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」

 

君子は和して同ぜず小人は同じて和せずとは、すぐれた人物は協調はするが、主体性を失わず、むやみに同調したりしない。つまらない人物はたやすく同調するが、心から親しくなることはないということ。

 

 

【年表】

敏達16年(587年)丁未の変

 

崇峻5年(592年)113 崇峻天皇、東漢直駒に弑殺

 

崇峻5年(592年)128 推古天皇(すいこてんのう)の即位

 

推古8年(600年)2月、第1次新羅征討

 任那を救援するために新羅へ出兵し、蘇我氏の一族である境部臣(さかひべのおみ)が征討大将軍に任命され、副将軍は穂積臣であった。五つの城が攻略され、新羅は降伏した。しかし、倭国の軍が帰国したのち、新羅はまた任那へ侵攻した。

 

推古8年(600年)第一回遣隋使

〔『隋書』「東夷傳俀國傳」は高祖文帝の問いに遣使が答えた様子を載せている〕

 

推古天皇9年(601年) 聖徳太子、斑鳩宮を造営。

 

推古天皇10年(602年) 2次新羅征討計画、再び新羅征討の軍を起こす。

 4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営。

 63日、百済より大伴連囓于と坂本臣糠手が帰国。来目皇子が病を得て新羅への進軍を延期とした。

 10月に百済の僧侶観勒が倭国に訪れる。

 

推古天皇11年(603年)125日、冠位十二階を定める。

 

推古天皇12年(604年)『憲法十七条』の制定

 

推古15年(607年)第二回遣隋使

〔『隋書』「東夷傳俀國傳」〕

「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)

 

「皇帝問倭皇 使人長吏大禮 蘇因高等至具懷 朕欽承寶命 臨養區宇 思弘德化 覃被含靈 愛育之情 無隔遐邇 知皇介居海表 撫寧民庶 安樂 風俗融合 深氣至誠 遠脩朝貢 丹款之美 朕有嘉焉 稍暄 比如常也 故遣鴻臚寺掌客裴世清等 旨宣往意 并送物如別」『日本書紀』

(皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、みずからの徳をひろめて、すべてのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したというこころに、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う。)

『日本書紀』

 

推古16年(608年) 第三回遣隋使

『隋書』煬帝紀

 

推古18年(610年) 第四回遣隋使

『隋書』煬帝紀

 

推古22年(614年) 第五回遣隋使

 

推古26年(618年) 隋滅ぶ

 

 

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『隋書』倭国伝

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm

 倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。

 倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。

 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。

 漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴國。桓、靈之間、其國大亂、遞相攻伐、歴年無主。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立為王。有男弟、佐卑彌理國。其王有侍婢千人、罕有見其面者、唯有男子二人給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀、城柵皆持兵守衛、為法甚嚴。自魏至于齊、梁、代與中國相通。

 後漢の光武帝の時(2557年)、遣使が入朝し、大夫を自称した。

 安帝の時(106125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。

 桓帝と霊帝の間(146189年)、その国は大いに乱れ、順番に相手を攻伐し、何年もの間、国主がいなかった。卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は(卑彌呼を)王に共立した。弟がいて、卑彌呼の国政を補佐した。その王には侍婢が千人、その顔を見た者は極めて少なく、ただ二人の男性が王の飲食を給仕し、言葉を伝えるため通じる。その王の宮室や楼観、城柵には皆、兵が持して守衛しており、法は甚だ厳しい。魏より斉、梁に至るが、代々中国と相通じた。

 開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。

 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。

 王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大德、次小德、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。

 王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。

 軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。

 其服飾、男子衣裙襦、其袖微小、履如屨形、漆其上、繁之於。人庶多跣足。不得用金銀為飾。故時衣橫幅、結束相連而無縫。頭亦無冠、但垂髮於兩耳上。

 その服飾は、男子の衣は裙襦、その袖は微小、履(靴)は草鞋(わらじ)のような形で、漆(うるし)をその上に塗り、頻繁にこれを足に履く。庶民は多くが裸足である。金銀を用いて装飾することを得ず。故時、衣は幅広で、互いを連ねて結束し、縫製はしない。頭にも冠はなく、ただ髮を両耳の上に垂らしている。

 至隋、其王始制冠、以錦綵為之、以金銀鏤花為飾。婦人束髮於後、亦衣裙襦、裳皆有○。竹為梳、編草為薦。雜皮為表、縁以文皮。有弓、矢、刀、矟、弩、欑、斧、漆皮為甲、骨為矢鏑。雖有兵、無征戰。其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。戸可十萬。

 隋に至り、その王は初めて冠を造り、錦の紗(薄絹)を以て冠と為し、模様を彫った金銀で装飾した。婦人は髮を後で束ね、また衣は裙と襦、裳には皆(ちんせん)がある。竹を櫛と為し、草を編んで薦(ムシロ)にする。雑皮を表面とし、文様のある毛皮で縁取る。

 弓、矢、刀、矟、弩、欑、斧があり、皮を漆で塗って甲とし、骨を矢鏑とする。兵はいるが、征服戦はない。その王の朝会では、必ず儀仗を陳設し、その国の音楽を演奏する。戸数は十万ほどか。

 其俗殺人強盜及姦皆死、盜者計贓酬物、無財者沒身為奴。自餘輕重、或流或杖。毎訊究獄訟、不承引者、以木壓膝、或張強弓、以弦鋸其項。或置小石於沸湯中、令所競者探之、云理曲者即手爛。或置蛇甕中、令取之、云曲者即螫手矣。

 そこの俗では殺人、強盜および姦通はいずれも死罪、盜者は盗品の価値を計り、財物で弁償させ、財産のない者は身を没収して奴隷となす。その余は軽重によって、あるいは流刑、あるいは杖刑。犯罪事件の取調べでは毎回、承引せざる者は、木で膝を圧迫、あるいは強弓を張り、弦でその項を撃つ。あるいは沸騰した湯の中に小石を置き、競いあう者もこれを探させる、理由は正直ではない者は手が爛れるのだという。あるいは蛇を甕の中に置き、これを取り出させる、正直ではない者は手を刺されるのだという。

 人頗恬靜、罕爭訟、少盜賊。樂有五弦、琴、笛。男女多黥臂點面文身、沒水捕魚。無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。知卜筮、尤信巫覡。

 人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。楽器には五弦、琴、笛がある。男女の多くが臂(肩から手首まで)、顔、全身に刺青をし、水に潜って魚を捕る。文字はなく、ただ木に刻みをいれ、繩を結んで(通信)する。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて得、初めて文字を有した。卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている。

 毎至正月一日、必射戲飲酒、其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候温暖、草木冬青、土地膏腴、水多陸少。以小環挂鸕○項、令入水捕魚、日得百餘頭。俗無盤俎、藉以檞葉、食用手餔之。性質直、有雅風。女多男少、婚嫁不取同姓、男女相悅者即為婚。婦入夫家、必先跨犬〔2〕、乃與夫相見。婦人不淫妒。

 毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。

 俗では盆や膳はなく、檞葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように使う。性質は素直、雅風である。女が多く男は少ない、婚姻は同姓を取らず、男女が愛し合えば、すなわち結婚である。妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨ぎ、夫と相見える。婦人は淫行や嫉妬をしない。

 死者斂以棺槨、親賓就屍歌舞、妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外、庶人卜日而瘞。及葬、置屍船上、陸地牽之、或以小輿。有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行禱祭。有如意寶珠、其色青、大如雞卵、夜則有光、云魚眼精也。新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。

 死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。

 大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」

 大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。

 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。

 その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。

 明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。

 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

 倭王遣小德阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多、從二百餘騎郊勞。既至彼都、其王與清相見、大悅、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝德並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。

 倭王は小德の阿輩臺を遣わし、従者数百人、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来迎した。十日後にまた、大禮の哥多を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。

 既に彼の都に至り、その王、裴世清と相見え、大いに悦び、曰く「我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く故に遣わして朝貢した。我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。これを以て境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待ち、願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」。

 裴世清が答えて曰く「皇帝の德は併せて二儀、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て化し、故に使者を来たらしめ、ここに諭を宣す」。

 既に裴世清は引き上げて館に就く。その後、裴世清が人を遣わして、その王に曰く「朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う」。

 ここ於いて宴を設け、裴世清を遣わして享受させ、再び使者を裴世清に随伴させて方物を貢献させに来た。この後、遂に途絶えた。

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裴世清

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B4%E4%B8%96%E6%B8%85

 世清(はい せいせい、生没年不明)は、7世紀前半に中国王朝煬帝による命令で俀國(倭国)を訪れた使者。

 

隋書』によれば、俀王多利思北孤大業3年(607)に第2遣隋使を派遣した。煬帝はその国書に立腹したが、翌大業4年(608)、文林郎である裴清(世については太宗朝の二代目皇帝李世民)の世民のため避諱された)をその答礼使として派遣した。

                             

01



三国史記

三国史記』卷第27 百済本紀第5 武王93月によれば「九年 春三月 遣使入隋朝貢 隋文林郞裴淸奉使倭國 經我國南路」とあり裴清は百済南部を経由したことが記述されている。

 

日本書紀

日本書紀』では次のとおり裴世清と記されている。その12人の一行は小野妹子とともに筑紫に着き、難波吉士雄成が招いた。難波高麗館の上に館を新しく建てた。615日難波津に泊まった。船30艘で歓迎、新館に泊めた。83日に京に入った。「鴻臚寺掌客」である裴世清の「皇帝問倭皇」という書を阿部臣が大門の机の上においた。95日に難波大都に、11日に帰った。

 

02



 

翌年(608年)、明皇帝は文林郎(役名)である裴清(裴世清)を倭国に派遣したわ。百済より、竹島に渡り、羅国を望み、都斯麻(対馬)国を経て、大海を渡る。東に一支(壱岐)国、さらに竹斯(筑紫)国、さらに東に秦王国に至る。

倭王は小徳の位にあるオオダイ(阿輩台)を出迎えに派遣した。数百人の従者を整列させ、太鼓を叩き角笛を鳴らして使者を歓迎した。十日後、大礼の位にあるカタヒ(歌多比)と二百余の騎馬隊に伴われて、王宮へと向かった。

倭国王は大使・裴世清と会って、大いに喜びこう言った。「大海の西に大国隋があり、礼儀を重んじるとお聞きし朝貢の使者をお送りした。私は辺境に住む未開人(夷人)なので礼儀を知らず、お伺いすることができなかった。今回、道を整え館を飾り、貴下をお迎えできるのは光栄である。ぜひ、お教えいただきたい。」

裴世清はこう答えた。「皇帝の徳は並ぶものはないくらい高く、四海(世界)に及んでいる。辺境の王はいずれも皇帝の徳を慕う。だから今回この国を教え諭すため、私(裴世清)を遣わしたのである。」そして、裴世清は館に迎えられた。

後に、倭国王は人を遣わして、裴世清にこのように述べた。「皇帝のご命令はすでに実行しました。気をつけてお帰りください。」そして、裴世清一行のため盛大な宴を設けるとともに、多くの貢物を用意した。その後、国交は絶えた。

 

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聖徳太子伝補闕記

http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/hoketsuki/fr.htm

日本書紀暦録并四天王寺聖德王傳 具見行事奇異之状 未儘委曲而 憤々不尠 因斯略訪耆舊 兼探古記 償得調使膳臣等二家記 雖大抵同古書 而説有奇異 不可捨之 故録之云爾

石余池邊宮御宇天皇 庶妹間人穴太部皇女爲后 后夢有金色僧 容儀太艶 對后而立 謂之曰 吾有救世願 願暫宿后腹 后夢中許諾 自此以後始知有
 經十二箇月 后巡宮中 至于厩下 不覺有産 女嬬抱持 疾入寢殿 后亦安臥 忽有赤黄光 至自西照于殿内 良久而止 天皇大異 敕群臣曰 此兒必後有異於世 即定大湯坐 若湯坐 沐浴抱擧 數月之後 能言能知人擧動 不妄啼哭

三歳之後 常旦日東向 稱南無佛而再拜 不因人敎 嬭母大奇

至六歳宮中有諸小王子鬪叫之聲 天皇聞著 設笞追召諸王子等 皆悚逃隱 而太子脱衣獨進 天皇問之 兄弟不和 諸小王子等輙以口鬪 今將笞誨皆悉隱避 而汝何獨進 太子合掌對天皇皇后 低首奏曰 不得立橋於天而昇 不得穿穴於地而隱 故自進受笞 天皇皇后大悦 敕曰 汝之岐
  朕今知之 皇后披懷而抱 其身大香 香氣非常 皇后大異 乃最加愛 一説云 一抱太子 即數月懐香 故後宮爭欲奉抱 皇后亦屢加抱

太子生年十四 丁未年七月 物部弓削守屋大連與宗我大臣縁佛法興不之論 内忘姻親之義 外蔑君臣之道 發睚眦之怨 興志逆之軍 率己黨類 以稻爲城 調練軍士 擬襲京城 朝廷震恐 事倉卒 大臣奉勸太子 興整軍士 眞難波自後而襲 以平群臣神手爲少軍 自志紀襲於澁川 賊勢二分 東西相戰 大連登榎木 與太子軍爲戰甚強 官軍中矢者衆矣 太子在殿 士卒氣衰 軍政秦川勝
軍奉護太子 見官軍氣衰 馳啓太子 太子立謀 即令川勝採白樛木 刻造四天王像 擎立鋒 太子自率壯士而迫賊 賊與太子相去不遠 賊誓放物部府都大神之矢 中太子鎧 太子亦誓放四天王之矢 即中賊首大連胸 倒而墜樹 衆亂躁 川勝進斬大連之頭 少將軍撃平餘黨 係虜賊首家口 覆奏於玉造之東岸上【在東生郡】 即以營爲四天王寺 始立垣基 大臣與太子還宮覆奏 平群臣神手 軍政人秦造川勝等三人各有等差 後制新位之時 神手叙小德 川勝等叙大仁 四天王寺後遷荒墓村

小治田大宮御宇天王 以太子爲儲
 天下政事決於太子 太子即制十七條政事身事【在別卷】 爾於天下大嘉

此時高麗慧慈法師慕化來朝 太子悦爲師受業 問一知十 問十知百 不問而知 不思而逹 二年業成 道被幽顯 八人時共聲白事 太子一一能辨 各得情無復再訪 聰敏叡智 是以名稱厩戸豊聰八耳皇子 又奉稱大法皇 太子謂慧慈法師曰 法華經中此句脱字 師之所見者如何 法師答啓 他國之經亦無有字 戊辰年九月十五日 閇大殿戸 七日七夜 不召羣臣 又不御膳 夫人已下不得近習 時人太異 法師曰 太子入三昧定 宜勿奉驚 八日之旦 御机之上有法華一部 驚深加恭敬 出自定後 常有口遊曰 可怜可怜 大隋國僧我善知識 好々讀書 不讀書非爲君子 是敕戒之辭 太子薨後 王子山代大兄 日夜六時禮拜此經 癸卯年十月廿三日夜半 忽失此經不知所去 王子大恠 復以大憂【今在經者 小野妹子所持也 事在太子傳】 十一月十一日亥時 宗我林臣入鹿等 興軍燒滅宮室 王子王孫廿三王等 一時解尸 共昇蒼天

太子生年卅六 己巳四月八日始製勝鬘經疏 辛未年正月廿五日了 壬申年正月十五日始製維摩經疏 癸酉九月十五日了 甲戌年正月八日始製法華經疏 乙亥年四月十五日了 制諸經疏 義儻不達 太子毎夜夢見金人來授不解之義 太子乃解之 以問於慧慈法師 法師亦領悟 發不思歎未曾有 皆稱上宮疏 謂弟子曰 是義非凡 持還本國欲傳聖趣 庚戌年四月持渡本國 講演彼土

丙子年五月三日天皇不
 太子立願 延天皇命立諸寺家 即以平復 諸國國造伴造亦各始誓立寺 先是太子巡國至于山代楓野村 謂羣臣曰 此地爲體 南弊北塞 河注其前 龍常守護 後世必有帝王建都 吾故時遊賞 即於蜂岳南下立宮 秦川勝率己親族祠奉不怠 太子大喜 即叙小德 遂以宮預之 又賜新羅國所獻佛像 故以宮爲寺 施入宮南水田數十町并山野地等

丁丑年四月八日 太子講説勝鬘經 三日而畢 其儀如僧 天皇大悦 王子羣臣大夫已下莫不信受 天皇以針間國佐勢田地五十戸末代奉施 即頒入斑鳩寺中宮寺等

太子己卯年十一月十五日巡看山西科長山本陵處 還向之時 即日申時 枉道入於片岡山邊道人家 即有飢人臥道頭 去三丈許 太子之馬至此不進 雖鞭猶駐 太子自言 哀々【用音】 即下馬 舍人調使麻呂握取御杖 近飢人下臨而語之 可々怜々 何爲人耶 如此而臥 即脱紫御袍覆其人身 賜歌曰

   
 

科照 片岡山 飯 居耶世屢【四字以音】 其旅人 可怜祖無 那禮【二字以音】成 刺竹 君波也无母 飯 居耶世屢 其旅人可怜【此歌以夷振歌之】

 


起首進答曰

   
 

斑鳩 富小川 絶者己曾 我王 御名忘也米

 


飢人之形 面長頭大 兩耳亦長 目細而長 開目而看 内有金光異人 大有奇相 亦其身太香 命麻呂曰 彼人香哉 麻呂啓太香 命曰 汝者壽可延長 飢人太子相語數十言 舍人等不知其意 了即死 太子大悲 即命厚葬 多賜歛物 造墓高大 時大臣馬子宿禰已下王臣大夫等咸奉譏曰 殿下雖大聖而有不能之事 道頭飢是卑賤者 何以下馬與彼相語 亦賜詠歌 及其死無由厚葬 何能治大夫已下耶 太子召所譏大夫七人 命曰 卿等七人往片岡山開墓看 七大夫等依命退往開墓 而其屍 棺内大香 所歛御衣并新賜彩帛等帖在棺上 唯太子所賜紫袍者無 七大夫等看之 大奇嘆聖德 還來報命 太子日夕詠歌 慕戀飢人 即遣舎人取衣服 而御之如故

庚午年四月卅日夜半有災斑鳩寺 太子謂夫人膳大郎女曰 汝我意觸事不違 吾得汝者我之幸大 思羣臣預知而召之 一事已上 太子所念 咸預識之

如太子馬其毛烏斑 太子馭之 凌室踑雲 能餝四足 東登輔時岳 三日而還 北遊高志之州 二日而還 太子欲臨看之地 此馬奉駕三四五六日 莫處不詣 太子毎命曰 吾得意馬 甚善々々 儻有錯
 終日不喫 似有悔過 太子宣喫 敢乃喫草飮水 辛巳年十二月廿二日斃 太子愴之 造墓葬墓 今中宮寺南長大墓是也

宗我大臣輔政 太子與之興隆三寳 紹發二諦 始起四天王寺 元興寺【一説法隆寺】 中宮寺 橘寺 蜂岳寺【并宮領賜川勝秦公】 池後寺 葛木寺【賜葛木臣】 又制爵十二級【大德 小德 大仁 小仁 大禮 小禮 大信 小信 大義 小義 大智 小智】

太子舍人有宮池鍛師之犬 咋鹿之脛 太子
其放之 又同犬咋折同鹿之四脛三段 太子恠之 誓夢而見之 欲知其趣 夢見 艶僧至自東 謂太子曰 此鹿與犬過去宿業也 鹿爲嫡犬妾 時嫡折妾子之脛 因此九百九十九世結怨而來 于今千世正滿足耳

壬午年二月廿二日庚申 太子無病而薨 時年卌九 慧慈法師在高麗國 聞之大慟 奉爲太子講經發願 願曰 生々世々必逢上宮聖王於淨土也 吾以來年二月廿二日必死 竟如其言 明年二月廿二日无病而逝 時人大異 彼此大聖 誰測其際

癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢德太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害【今見計名有廿
王】

                                                               
 

山代大兄王

 
 

 殖栗王

 
 

 茨田王

 
 

末呂王

 
 

 菅手古

 
 

 舂米女王 

 
 

近代王

 
 

 桑田女王

 
 

 礒部女王

 
 

三枝末呂古王

 
 

 財王

 
 

 日置王

 
 

片岳女王

 
 

 白髪部王 

 
 

 手嶋女王

 
 

孫 難波王

 
 

 末呂

 
 

 弓削王

 
 

佐保女王

 
 

 佐々王

 
 

 三嶋女王

 
 

甲可王

 
 

 尾張王

 

于時王等皆入山中 經六箇日 辛卯辰時 弓削王在斑鳩寺 大狛法師手殺此王 山代大兄王子率諸王子 出自山中 入斑鳩寺塔内 立大誓願曰 吾暗三明之智 未識因果之理 然以佛言推之 吾等宿業于今可賽 吾捨五濁之身 施八逆之臣 願魂遊蒼旻之上 陰入淨土之蓮 擎香爐大誓 香氣郁烈 上通雲天上 三道現種々仙人之形 種々伎樂之形 種々天女之形 種々六蓄之形 向西飛去 光明炫燿 天華零散 音樂妙響 時人仰看 遙加敬禮 當此時諸王共絶 諸人皆歎未曾有曰 王等靈魂天人迎去而滅 賊臣等目唯看黒雲微雷掩于寺上 賊臣滅太子子孫 後乃告於大臣 大臣大驚曰 聖德太子子孫無罪 奴等専輙奉除 我族滅亡其期非遠 未幾大臣合門被誅 亦如其言 可何奇

壬辰年三月八日 東方種々雲氣飛來覆斑鳩宮上 連於天良久而消 又有種々奇鳥 自上下自四方飛來悲鳴 或上天或居地 良久即指東方去 又池溝瀆川魚龞咸自死也 天下生民皆悉哭愴 又池水皆變色水大臭矣 又同年六月海鳥飛來居上宮門 又十一月 飽波村有虹 終日不移 人皆異之 又王宮有不知草 忽開青華須臾而萎 又有二蟇 如人立行 又有二赤牛 如人立行 又無量蛙
伏王門 有小子 造弓射蛙爲樂 有童子相聚 謠曰

   
 

盤上 子猿居面【二字以音】燒 居面太邇毛 多氣天【已上八字以音】今核 鎌宍伯父

 


又曰

   
 

山代 菟手氷金 相見己世禰 菟手支

 


此二謠皆有驗 預言太子子孫滅亡之讖 斑鳩寺被災之後 衆人不得定寺地 故百濟入師率衆人 令造葛野蜂岡寺 令造川内高井寺 百濟聞師 圓明師 下氷君雜物等三人合造三井寺 家人馬手 草衣之馬手 鏡中見 凡波多 犬甘弓削 薦何見等 並爲奴婢 黒女蓮麻呂爭論麻呂弟万須等 仕奉寺法頭家人奴婢等根本妙敎寺令白定 麻呂年八十四 己巳年死 子足人 古年 十四年壬午八月廿九日出家大官大寺 麻呂者聖德太子十三年丙午年十八年始爲舍人 癸亥年二月十五日始出家爲僧云云


上宮聖德太子傳補闕記一卷



 『群書類従 第五輯 傳部 卷第六十四』 を底本としました。 ただし以下の点を独断により修正してあります。
 底本=「自此以後始知有
」  修正=「自此以後始知有
 底本=「軍政秦川勝
軍奉護太子」  修正=「軍政秦川勝軍奉護太子」
 底本=「小治田大宮御宇天王 以太子爲儲
」  修正=「小治田大宮御宇天王 以太子爲儲
 底本=「太子即十七條政事
身事」  修正=「太子即十七條政事身事」
 底本=「丙子年五月三日天皇不
」  修正=「丙子年五月三日天皇不
 底本=「而
其屍 棺内大香」  「屍が無かった」という奇瑞譚であるから、「不有」または「」に改めるべきだろうが、ここは底本のままにしておく。
 底本=「太子
其放之」  修正=「太子其放之」
 底本=「今見計名有廿
(欠字)王」  修正=「今見計名有廿王」
 底本=「
末呂王」  修正=「末呂王」
 底本=「菅手古王」  修正=「菅手古
王」
 底本=「末呂
王」  修正=「末呂王」
 底本=「又無量蛙
伏王門」  修正=「又無量蛙伏王門」

 

『日本書紀』・『暦録』并せて『四天王寺聖德王傳』は、具(つぶさ)に行事奇異の状(かたち)を見(あらわ)すも、未だ委曲を儘(つく)さずして、憤々尠(すくな)からず。 斯(これ)に因(よ)りて耆舊(しきゅう)を略訪し、兼(か)ねて古記を探り、調使(つきのおみ)膳臣(かしわでのおみ)等二家記を償得す。 大抵(おおよそ)古書に同じと雖(いえど)も、而(しか)るに奇異有るを説(い)い、これを捨てる可(べ)からず。 故にこれを録して云うこと爾(しか)り。

石余池邊宮御宇天皇
(いわれいけのべのみやにあめのしたしらしめししすめらみこと/=用明天皇、庶妹(ままいも)間人穴太部皇女(はしひとあなほべのひめみこ)を后(きさき)と爲(し)たまう。 后、夢みて金色の僧有り。 容儀太いに艶(うるわ)し。 后に對(むか)いて立ち、これに謂いて曰く、「吾に救世(ぐぜ)の願有り。願わくは暫(しばら)く后が腹に宿らん」と。 后、夢の中に許諾したまう。 此(これ)より以後始めて(しん)有るを知りたまう。 十二箇月を經て、后、宮中を巡り厩(うまや)の下(もと)に至り、覺(さと)らずして産(さん)有り。 女嬬(めのわらわ)(いだ)き持ち、疾(と)く寢殿に入る。 后もまた安臥(あんが)したまう。 忽(たちま)ち赤黄の光有り、西より至り殿内を照らし、良(やや)久しくして止(や)む。 天皇、大いに異とし、群臣に敕(みことのり)して曰く、「此の兒(こ)必ず後に世に異なること有らん」と。 即ち大湯坐(おおゆざ)・若湯坐(わかゆざ)を定め、沐浴して抱き擧げたまう。 數月の後、能く言い能く人の擧動を知り、妄(みだ)りに啼哭(な)きたまわず。

三歳の後、常に旦
(あした)に日に東に向い、南無佛を稱して再拜したまう。 人の敎えに因(よ)らず。 嬭母(めのと)大いに奇とす。

六歳に至り宮中に諸の小さき王子の鬪
(いさか)い叫ぶ聲有り。 天皇、聞著(きこしめし)たまい、笞を設けて諸の王子等を追い召したまうに、皆悚(おそ)れ逃げ隱れたまう。 而るに太子は衣を脱ぎ獨り進みたまう。 天皇これを問いたまいしく、「兄弟不和にして諸の小さき王子等は輙(たやす)く口を以って鬪う。今將に笞の誨(おしえ)せんとするに皆悉く隱れ避く。而るに汝は何ぞ獨り進める」と。 太子、合掌して天皇・皇后に對(むか)い、首を低(た)れ奏(もう)して曰く、「橋を天に立てて昇ることも得ず、穴を地に穿ちて隱るることも得ず。故に自ら進み笞を受けん」と。 天皇・皇后、大いに悦びたまい、敕して曰く、「汝の岐  (ききょく)なること、朕今これを知れり」と。 皇后、懷(ふところ)を披(ひら)きて抱(いだ)きたまうに、その身大いに香(かぐ)わし。 香氣、常にあらず。 皇后、大いに異とし、乃(すなわ)ち最も愛(いつくしみ)を加えたまう。 一説に云う、『一たび太子を抱けば、即ち數月懐(ふところ)(かぐわ)し。 故に後宮爭いて抱き奉(まつ)らんと欲す。 皇后もまた屢(しばしば)抱くことを加えたまう』と。

太子生
(あ)れまして年十四、丁未(ひのとひつじ)の年の七月。 物部弓削守屋大連(もののべのゆげのもりやのおおむらじ)宗我大臣(そがのおおおみ)と佛法を興(お)こすおこさざるの論に縁(よ)りて、内に姻親の義を忘れ、外に君臣の道を蔑(あなど)り、睚眦(がいし/=睚・眦ともに「まなじり」の怨を發(お)こし、志逆の軍を興(お)こし、己が黨類を率(ひき)い、稻を以って城と爲し、軍士を調練し、京城を襲うを擬(はか)る。 朝廷震恐し、倉卒(そうそつ/=あわただしいさまを事とす。 大臣(おおおみ/=曾我馬子、太子に勸め奉り、軍士を興し整え、難波に眞(あた/=「直」か?り後ろよりして襲う。 平群臣神手(へぐりのおみかみて)を以って少軍と爲し、志紀より澁川を襲う。 賊勢二分し、東西相戰う。 大連は榎木に登り、太子の軍と戰(いくさ)(し)て甚だ強し。 官軍、矢に中る者衆(おお)し。 太子は殿に在(ましま)す。 士卒は氣衰う。 軍政の秦川勝(はたのかわかつ)は、軍をいて太子を護り奉る。 官軍の氣衰うを見て、馳せて太子に啓(もう)す。 太子、謀(はかりごと)を立て、即ち川勝をして白樛木(ぬるで)を採らしめ、四天王の像を刻み造り、擎(うやま)いて鋒に立てたまう。 太子自ら壯士を率いて賊に迫る。 賊、太子と相去ること遠からず。 賊、誓いて物部府都大神(もののべのふつのおおみかみ)の矢を放ち、太子の鎧に中(あた)る。 太子もまた誓いて四天王の矢を放ち、即ち賊首大連の胸に中り、倒れて樹より墜ち、衆、亂れ躁ぐ。 川勝進みて大連の頭を斬り、少將軍は撃ちて餘黨を平げ、虜賊の首を家口に係け、玉造の東岸の上に覆奏(かえりごともう)す【東生郡に在り】。 即ち營を以って四天王寺と爲し、始めて垣の基を立つ。 大臣は太子と宮に還り覆奏す。 平群臣神手、軍政人秦造川勝等三人は各(おのおの)等差有り。 後に新たに位を制したまいし時に、神手は小德に叙し、川勝等は大仁に叙す。 四天王寺は後に荒墓村に遷る。

小治田大宮御宇天王
(おはりたのおおみやにあめのしたしらしめししすめらみこと/=推古天皇、太子を以って儲(もうけのきみ)と爲(し)たまう。 天下の政事は太子に決す。 太子は即ち十七條の政事・國をめ身をむる事【在別卷】を制したまう。 爾(ここ)に於いて天下大いに嘉(よみ)す。

此の時に高麗の慧慈法師
(えじほうし)、化を慕いて來朝す。 太子、悦び師と爲て業を受けたまう。 一を問いて十を知り、十を問いて百を知り、問わずして知り、思わずして逹したまう。 二年にして業成り、道は幽顯(ゆうけん)を被(おお)いたまう。 八人(やたり)時に聲を共にして事を白(もう)すに、太子は一一能く辨じたまい、各(おのおの)情を得てまた再び訪(と)うこと無し。 聰敏にして叡智なり。 是を以って名を厩戸豊聰八耳皇子(うまやととよとやみみのみこ)と稱し、また大法皇(おおのりのみこ)と稱し奉る。 太子、慧慈法師に謂いて曰く、「法華經の中の此の句は字を脱(もら)せり。師の見る所は如何」と。 法師答えて啓す、「他國の經もまた字の有ること無し」と。 戊辰(つちのえいぬ)の年の九月十五日、大殿の戸を閇(とざ)し、七日七夜羣臣を召さず、また御膳(みおし)めさず。 夫人已下も近習することを得ず。 時の人、太いに異とす。 法師、曰く、「太子は三昧定(ざんまいじょう)に入りたまう。宜しく驚かせ奉ること勿(なか)れ」と。 八日の旦(あした)に御机の上に法華(ほけ/=法華経一部有り。 驚きて深く恭敬を加えたまう。 定めてより出でまして後に、常に口遊(くちすさみ)したまいて曰く、「可怜(あはれ)可怜、大隋國の僧は我が善知識なり。好(よきかな)々、書を讀むこと。書を讀まずは君子と爲すに非ず」と。 是は敕戒の辭なり。 太子、薨じたまいて後に、王子(みこ)山代大兄(やましろのおおえ)は日夜六時に此の經を禮拜したまう。 癸卯(みずのとう)の年の十月廿三日の夜半に、此の經忽ちに失せて去る所を知らず。 王子、大いに恠(いぶか)しみ、また以って大いに憂(うれ)いたまう【今在る經は小野妹子(おののいもこ)の持たらせる所なり。事は太子傳に在り】。 十一月十一日亥(い)の時に、宗我林臣入鹿(そがのはやしのおみいるか)等、軍を興(おこ)し宮室を燒き滅ぼし、王子・王孫廿三王等、一時に尸(し)を解(と)け、共に蒼天に昇りたまう。

太子生れまして年卅六、己巳
(つちのとみ)の四月八日に始めて勝鬘經疏(しょうまんぎょうそ)を製したまい、辛未(かのとひつじ)の年の正月廿五日に了(おわ)りぬ。 壬申(みずのえさる)の年の正月十五日に始めて維摩經疏(ゆいまきょうそ)を製したまい、癸酉(みずのととり)の九月十五日に了りぬ。 甲戌(きのえいぬ)の年の正月八日に始めて法華經疏(ほけきょうそ)を製したまい、乙亥(きのとい)の年の四月十五日に了りぬ。 諸經疏を制して、義、儻(も)し達せざれば、太子、毎夜(よごと)夢みて金人の來り解けざる義を授けられ、太子乃ちこれを解く。 以って慧慈法師に問い、法師もまた領悟し、思わざるを發し未曾有のことを歎(たた)え、皆上宮の疏と稱し、弟子に謂いて曰く、「是の義非凡なり。本國に持ち還り聖趣を傳えんと欲う」と。 庚戌(かのえいぬ)の年四月に本國に持ち渡り、彼の土に講演す。

丙子
(ひのえね)の年の五月三日に天皇不(いたづき)たまう。 太子は願を立て、天皇の命を延べ諸の寺家を立てたまう。 即ち以って平復したまう。 諸の國の國造・伴造もまた各(おのおの)始めて誓いて寺を立つ。 是より先に、太子、國を巡り山代の楓野村に至りたまい羣臣に謂いて曰く、「此の地は體を爲す。南は弊(おお)い北は塞(ふさ)ぎ、河はその前に注ぎ、龍、常に守護す。後世必ず帝王の都を建つこと有らん。吾は故に時に遊賞す」と。 即ち蜂岳の南の下(ふもと)に宮を立つ。 秦川勝は己が親族を率い祠(うやま)い奉ること怠らず。 太子大いに喜び、即ち小德に叙し、遂に宮を以ってこれに預けたまう。 また新羅國の獻ずる所の佛像を賜い、故に宮を以って寺と爲し、宮の南の水田數十町并びに山野の地等を施入したまう。

丁丑
(ひのとうし)の年の四月八日、太子、勝鬘經を講説したまう。 三日にして畢(おわ)り、その儀は僧の如し。 天皇大いに悦びたまい、王子・羣臣・大夫已下信受せざるは莫(な)し。 天皇、針間國(はりまのくに)佐勢田(させた)の地の五十戸を以って末代に施し奉る。 即ち斑鳩寺・中宮寺等に頒(わか)ち入る。

太子、己卯
(つちのとう)の年の十一月十五日に巡りて山西(やましな)の科長山(しながのやま)の本の陵の處を看たまう。 還り向いし時、即ち日は申(さる)の時、道を枉(ま)げて片岡山の邊(ほとり)の道の人家に入りたまう。 即ち飢えたる人の臥して道の頭(ほとり)に有り。 去ること三丈許。 太子の馬、此に至り進まず、鞭すと雖ども猶(なお)(とど)まる。 太子自ら言いたまいしく、「哀々【音を用う】」と。 即ち馬を下りたまう。 舍人(とねり)調使麻呂、握して御杖を取る。 飢えたる人に近づき下臨(のぞ)みてこれに語らいたまいしく「可々怜々(あはれあはれ)、何(いか)なる人なるや、如此(かく)して臥(こや)せる」と。 即ち紫の御袍(みそ)を脱ぎその人の身を覆い、歌を賜いて曰く。

   
 

科照(しなてる) 片岡山(かたおかやまに) 飯(いひにゑて) 居耶世屢(こやせる)【四字音をもちう】 其旅人(そのたひと) 可怜祖無(あはれおやなきに) 那禮(なれ)【二字音をもちう】成(なりけむや) 刺竹(さすだけの) 君波也无母(きみはやなきも) 飯(いひにゑて) 居耶世屢(こやせる) 其旅人可怜(そのたひとあはれ)【此の歌は夷振歌(ひなふりうた)を以ってす】

 

 

                                   
 

(参考)

 
 

 
 

 日本書紀 卷第二十二 推古天皇二十一年十二月

 
 

斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屡 諸能多比等 阿波禮 於夜那斯爾 那禮奈理鷄迷夜 佐須陀氣能    枳彌波夜祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮 (しなてる かたおかやまに いひにゑて こやせる そのたひと あはれ おやなきに なれなりけめや さすだけの きみはやなき いひにゑて こやせる そのたひとあはれ)

 
 

 
 

 七代記

 
 

斯那提留夜 可多乎可夜摩邇 伊比邇宇惠底 許夜世留他比等 阿波禮於夜奈志邇 奈禮奈利介米夜 佐須陁氣乃 岐彌波夜奈吉母 伊比邇宇惠天 許夜世留諸能多比等安波禮 (しなてるや かたおかやまに いひにうゑて こやせるたひと あはれおやなしに なれなりけめや さすだけの きみはやなきも いひにうゑて こやせるそのたひとあはれ)

 
 

 
 

 聖徳太子伝暦 下卷

 
 

支那照耶 片岡山迩 飯飢而 臥其旅人 可伶 祖無迩 汝成介米耶 刺竹之君 速無母 飯飢而 臥其旅人 可伶 (しなてるや かたおかやまに いひにゑて こやせるそのたひと あはれ おやなきに なれなりけめや さすだけのきみ はやなきも いひにゑて こやせるそのたひと あはれ)

 


首を起し進みて答えて曰く。

   
 

斑鳩(いかるがの) 富小川(とみのおがわの) 絶者己曾(たえばこそ) 我王(わがおほきみの) 御名忘也米(みなわすらやめ)

 

 

                                   
 

(参考)

 
 

 
 

 上宮聖徳法王帝説

 
 

伊加留我乃 止美能乎何波乃 多叡婆許曾 和何於保支美乃 弥奈和須良叡米 (いかるがの とみのおがはの たえはこそ わがおほきみの みなわすらえめ)

 
 

 
 

 七代記

 
 

伊珂瑠賀能 等美能乎何波能 多延婆許曾 和賀於保吉美能 彌奈和須良延米 (いかるがの とみのおがはの たえばこそ わがおほきみの みなわすらえめ)

 
 

 
 

 聖徳太子伝暦 下卷

 
 

斑鳩之 富小河之絶者社 我王之 御名者忘目 (いかるがの とみのおがわのたえばこそ わがおほきみの みなはわすれめ)

 


飢えたる人の形は、面長く頭大きく、兩耳もまた長く、目は細くして長し。 目を開きて看るに、内に金の光の人に異なる有り。 大いに奇相有り。 またその身も太いに香(かぐ)わし。 麻呂に命じて曰く、「彼の人、香わしきや」と。 麻呂、太いに香わしと啓(もう)す。 命じて曰く、「汝は壽(よわい)延び長かるべし」と。 飢えたる人・太子、相語ること數十言。 舍人等その意を知らず。 了りて即ち死す。 太子大いに悲しみたまいて、即ち命じて厚く葬らしめ、多く物を歛(あた)え賜い、墓を高く大きく造らしめたまう。 時に大臣馬子宿禰(おおおみうまこのすくね)已下、王臣・大夫等咸(ことごと)く譏(そし)り奉りて曰く、「殿下は大いに聖なりと雖(いえど)も、而して能わざる事有り。道の頭に飢えたるは是(これ)卑賤の者なり。何を以ってか下馬し彼と相語り、また歌を詠みて賜い、その死に及びては由(よし)無く厚く葬りたまう。何ぞ能く大夫已下を治めたまわんや」と。 太子、譏りし所の大夫七人を召し、命じて曰く、「卿等七人、片岡山に往き墓を開きて看よ」と。 七大夫等、命に依りて退き往きて墓を開く。 而るにその屍り、棺の内、大いに香し。 歛(あた)えし所の御衣并びに新たに賜う彩帛等、帖(つ)きて棺の上に在り。 唯(ただ)太子の賜いし所の紫袍は無し。 七大夫等これを看、大いに聖德を奇嘆し、還り來て報命(かえりごともう)す。 太子、日夕に歌を詠み、飢えたる人を慕い戀いたまう。 即ち舎人を遣わし衣服を取らしめ、而して故(もと)の如くこれを御(め)したまう。

庚午
(かのえうま)の年の四月卅日の夜半に斑鳩寺(いかるがでら)に災有り。 太子、夫人の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)に謂いて曰く、「汝は我が意を觸(ふ)れて事違(たが)わざれ。吾の汝を得たるは、我の幸い大なり」と。 羣臣を思い預(あらかじ)め知りてこれを召すこと一事已上。 太子の念(おも)う所は、咸(ことごと)く預(あらかじ)めこれを識りたまう。

太子の馬の如きは、その毛烏斑なり。 太子これを馭るに、室を凌ぎ雲に踑
(か)け、能く四足を餝(かざ)り、東に岳に登り輔(たす)けし時は三日にして還り、北に高志の州に遊びては二日にして還る。 太子の臨み看んと欲せし地は、此の馬に駕し奉りて三四五六日、詣(いた)らざる處莫し。 太子、命(みことのり)の毎(たび)に曰く、「吾、意の馬を得たり。甚だ善きかな、々々」と。 儻(たまたま)(あやま)  (ふ)むこと有り終日喫(く)わず。 過ちを悔ゆる有るに似たり。 太子、喫うを宣(ゆる)したまい、敢(あえ)て乃(すなわ)ち草を喫い水を飮む。 辛巳(かのとみ)の年の十二月廿二日に斃(し)す。 太子これを愴(いた)み、墓を造り墓に葬る。 今、中宮寺南の長大なる墓これなり。

宗我大臣、政
(まつりごと)を輔(たす)く。 太子はこれと與(とも)に三寳を興隆し、二諦を紹發し、始めて四天王寺・元興寺【一説法隆寺】・中宮寺・橘寺・・蜂岳寺【并びに宮領を川勝秦公に賜う】・池後寺・葛木寺【葛木臣に賜う】を起こしたまう。 また爵十二級【大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智】を制したまう。

太子の舍人宮池鍛師
(みやちのかじし/=人名の犬有り。 鹿の脛(はぎ)を咋(く)う。 太子、それをみこれを放つに、また同じ犬、同じ鹿の四脛(よつはぎ)を三段(みきだ)に咋い折る。 太子これを恠(あや)しみ、夢に誓いてこれを見、その趣を知らんと欲す。 夢見たまうに、艶(うるわし)き僧の東より至り、太子に謂いて曰く、「この鹿と犬とは過去の宿業なり。鹿は嫡(むかひめ)と爲し、犬は妾(をむなめ)なり。時に嫡、妾の子の脛を折る。これに因りて九百九十九世怨を結びて來(きた)り、今、千世にして正(まさ)に滿足(たる)のみ」と。

壬午
(みずのえうま)の年の二月廿二日庚申(かのえさる)。 太子、病(やまい)無くして薨じたまう。 時に年卌九。 慧慈法師、高麗國に在り、これを聞き大いに慟(おどろ)き、太子の爲に經を講ずることを發願し奉る。 願に曰く、「生々世々必ず淨土に上宮聖王に逢わん。吾は以って來る年の二月廿二日に必ず死せん」と。 竟(つい)にその言の如く、明くる年の二月廿二日に病无くて逝にき。 時の人大いに異とす。 彼もこれも大いなる聖にして、誰そその際を測らん。

癸卯
(みずのとう)の年の十一月十一日丙戌(ひのえいぬ)(い)の時。 宗我大臣(そがのおおおみ)并びに林臣入鹿(はやしのおみいるか)・致奴王子(ちぬのみこ)の兒、名は輕王(かるのみこ)・巨勢德太古臣(こせのとこだこのおみ)・大臣大伴馬甘連公(おおおみおおとものうまかいのむらじのきみ)・中臣鹽屋枚夫(なかとみのしおやのひらふ)等六人、惡逆を發し太子が子孫を計るに至る。 男女廿三王、罪無くして害さる【今見て名を計るに廿王有り】。

                                                                                                                               
 

 やましろのおおえのみこ

 
 

    ゑくりのみこ

 
 

    まむたのみこ

 
 

山代大兄王

 
 

 殖栗王

 
 

 茨田王

 
 

 おまろのみこ

 
 

    すかてこのひめみこ

 
 

    つきしねのひめみこ

 
 

末呂王

 
 

 菅手古

 
 

 舂米女王 

 
 

 ちかしろのみこ

 
 

    くはたのひめみこ

 
 

    いそべのひめみこ

 
 

近代王

 
 

 桑田女王

 
 

 礒部女王

 
 

 さきくさのまろこのみこ

 
 

    たからのみこ

 
 

    ひおきのみこ

 
 

三枝末呂古王

 
 

 財王

 
 

 日置王

 
 

 かたおかのひめみこ

 
 

    しらかべのみこ

 
 

    てしまのひめみこ

 
 

片岳女王

 
 

 白髪部王 

 
 

 手嶋女王

 
 

 うまご なにはのみこ

 
 

    まろこのみこ

 
 

    ゆげのみこ

 
 

孫 難波王

 
 

 末呂

 
 

 弓削王

 
 

 さほのひめみこ

 
 

    ささのみこ

 
 

    みしまのひめみこ

 
 

佐保女王

 
 

 佐々王

 
 

 三嶋女王

 
 

 こうかのみこ

 
 

    おはりのみこ

 
 

甲可王

 
 

 尾張王

 

時に王等(みこたち)皆山中に入りたまいて六箇日を經て、辛卯(かのとう)(たつ)の時に、弓削王、斑鳩寺に在(ましま)す。 大狛(おおこま)の法師は手ずからこの王を殺す。 山代大兄王子は諸の王子を率い、山中より出でて、斑鳩寺の塔の内に入り、大誓願を立てて曰く、「吾は三明の智に暗く、未だ因果の理を識(し)らず。然れども佛言を以ってこれを推(お)すに、吾等が宿業、今に賽(つぐな)うべし。吾は五濁の身を捨て、八逆の臣に施さん。願わくは魂を蒼旻(そうびん)の上に遊ばし、陰(ひそか)に淨土の蓮(はちす)に入らん」と。 香爐を擎(ささ)げ大誓したまう。 香氣は郁烈(いくれつ)として、上は雲天上に通(かよ)い、三道に種々の仙人の形・種々の伎樂の形・種々の天女の形・種々六蓄の形現われ、西に向かい飛び去る。 光明(こうみょう)は炫燿(げんよう)として、天華(てんか)は零散(れいさん)し、音樂は妙響(みょうきょう)す。 時の人仰ぎ看て、遙かに敬禮を加う。 當にこの時に諸の王共に絶えぬ。 諸人みな未曾有(みぞう)を歎きて曰く、「王等の靈魂は、天人迎え去りて滅びぬ」と。 賊臣等の目は唯(ただ)黒雲・微雷の寺の上に掩(おお)うを看る。 賊臣、太子の子孫を滅ぼし、後に乃ち大臣に告ぐ。 大臣、大いに驚きて曰く、「聖德太子が子孫は罪無きに、奴等(やっこら)、専(もは)ら輙(たやす)く除き奉る。我が族(うがら)の滅亡するその期(とき)遠からじ」と。 未だ幾(いくばく)ならずして大臣は門を合(こぞ)り誅せらる。 またその言の如し。 何をか奇とすべき。

壬辰
(みずのえたつ)の年の三月八日。 東方より種々の雲氣飛び來り斑鳩宮の上を覆い、天に連(つら)なり良久(ややひさし)くして消ゆ。 また種々の奇鳥有り、上下より四方より飛び來りて悲鳴し、或いは天に上(のぼ)り、或いは地に居り、良久(ややひさし)くして即ち東方を指して去る。 また池溝は瀆(にご)り川魚・龞、咸(ことごとく)く自ら死ぬ。 天下の生民、皆悉く哭愴す。 また池の水皆色を變じ、水は大いに臭し。 また同じ年の六月に海鳥飛び來り上宮の門に居る。 また十一月、飽波村(あくなみのむら)に虹有りて終日移らず。 人皆これを異とす。 また王宮に知らざる草有りて、忽ち青き華を開き須臾にして萎(な)えぬ。 また二つの蟇有りて人の如く立ちて行く。 また二つの赤牛有りて人の如く立ちて行く。 また無量の蛙(かわず)王門に(はらば)う。 小子有りて弓を造り蛙を射て樂しびと爲す。 童子有りて相聚(つど)い謠(うた)いて曰く。

   
 

盤上(いはのへに) 子猿居面【二字は音を以う】燒(こさるこめやく) 居面太邇毛(こめだにも) 多氣天【已上の八字は音を以う】今核(たげていまさね) 鎌宍伯父(かまししのをぢ)

 

 

                       
 

(参考)

 
 

 
 

 日本書紀 卷第二十四 皇極天皇二年十月

 
 

伊波能杯儞 古佐屢渠梅野倶 渠梅多儞母 多礙底騰裒囉栖 歌麻之々能烏膩 (いはのへに こさるこめやく こめだにも たげてとほらせ かまししのをぢ)

 
 

 
 

 聖徳太子伝暦 下卷

 
 

盤上丹 兒猿米燒 米谷裙 喫而今核 山羊之伯父 (いはのへに こさるこめやく こめたにも くひていまさね やまししのをぢ)

 


又曰く。

   
 

山代(やましろの) 菟手氷金(うてのひかねに) 相見己世禰(あいみきせに) 菟手支(うてし)

 

 

           
 

(参考)

 
 

 
 

 聖徳太子伝暦 下卷

 
 

山背之 菟手之枝枝 水金丹 相看杜根 菟手之枝枝 (やましろの うてのえだえだ みづかねに あいみるもりね うてのえだえだ)

 


この二つの謠は皆驗有り。 預め太子の子孫滅亡の讖(しん)を言う。 斑鳩寺、災を被りて後、衆人、寺の地を定めることを得ず。 故に百濟の入師、衆人を率い、葛野の蜂岡寺を造らしめ、川内の高井寺を造らしむ。 百濟の聞師・圓明師・下氷君雜物等三人、合(こぞ)りて三井寺を造る。 家人の馬手・草衣の馬手・鏡中見・凡波多・犬甘弓削・薦何見等、並びに奴婢と爲る。 黒女連麻呂、麻呂が弟の万須等と爭論す。 寺の法頭に仕え奉る家人奴婢等、根本妙敎寺に白(もう)し定めしむ。 麻呂、年は八十四にして己巳(つちのとみ)の年に死す。 子の足人・古年は十四年壬午(みずのえうま)の八月の廿九日に大官大寺に出家す。 麻呂は聖德太子の十三年丙午(ひのえうま)の年の十八年に始めて舍人と爲る。 癸亥(みずのとい)の年の二月十五日に始めて出家し僧と爲ると云云(しかいう)


上宮聖德太子傳補闕記一卷



 『群書類従 第五輯 傳部 卷第六十四』 を底本としました。 ただし以下の点を独断により修正してあります。
 底本=「自此以後始知有
」  修正=「自此以後始知有
 底本=「軍政秦川勝
軍奉護太子」  修正=「軍政秦川勝軍奉護太子」
 底本=「小治田大宮御宇天王 以太子爲儲
」  修正=「小治田大宮御宇天王 以太子爲儲
 底本=「太子即十七條政事
身事」  修正=「太子即十七條政事身事」
 底本=「丙子年五月三日天皇不
」  修正=「丙子年五月三日天皇不
 底本=「而
其屍 棺内大香」  「屍が無かった」という奇瑞譚であるから、「不有」または「」に改めるべきだろうが、ここは底本のままにしておく。
 底本=「太子
其放之」  修正=「太子其放之」
 底本=「今見計名有廿
(欠字)王」  修正=「今見計名有廿王」
 底本=「
末呂王」  修正=「末呂王」
 底本=「菅手古王」  修正=「菅手古
王」
 底本=「末呂
王」  修正=「末呂王」
 底本=「又無量蛙
伏王門」  修正=「又無量蛙伏王門」

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コメント

【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。

むらかみからむ さん、コメントありがとうございます。
詳しい返事は後にするとして、簡単に答えさせて貰います。


まず、古事記、日本書記が正しいかと言えば、ウソ・偽りが必ず含まれています。
また、万世一系を謳うことができるのは、桓武天皇、つまり、平安京以降となります。
天智・天武の権力闘争
聖徳太子の部族紛争
このどちらにも不明な点が多く、一言で語ることができません。

日本の心という意味で、古事記・日本書記を語り、歴史は別の観点から語らねばなりません。


石渡信一郎の著書は直接読んだことはありませんが、間接的に読んでいるかもしれません。
いずれにしろ、
非常に興味深いものを感じます。

なんといっても、都合の悪いことを残すハズがない。
逆に都合が悪いのだが、残さないと問題が生ずること。
その匙加減に歴史の真実が隠されていると思うのです。

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