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2013年11月

1、1538年 尾張国かみ下わかちの事

『信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ

尾張国かみ下わかちの事
さる程に、尾張国は八郡なり。上の郡四郡、織田伊勢守諸侍手に付け、進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。半国下の郡四郡、織田大和守が下知に随へ、上下、川を隔て、清洲の城に武衛様を置き申し、大和守も城中に侯て、守り立て申すなり。大和守内に三奉行これあり。織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠、此の三人、奉行人なり。弾正忠と申すは、尾張国端勝幡と云ふ所に居城なり。西巌、月巌、今の備後守舎弟与二郎殿、孫三郎殿、四郎二郎殿、右衛門尉とてこれあり。代々、武篇の家なり。
備後殿は、取り分け器用の仁にて、諸家中の能き者と御知音なされ、御手に付けられ、或る時、備後守が国中、那古野へこさせられ、丈夫に御要害仰せ付けられ、嫡男織田吉法師殿に、一おとた、林新五郎。二長、平手中務丞。三長、青山与三右衛門。四長、内藤勝介。是れらを相添へ、御台所賄の事平手中務。御不弁限りなく、天王坊と申す寺ヘ御登山なされ、那古野の城を吉法師殿へ御譲り侯て、熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵へ、備後守御居城なり。御台所賄山田弥右衛門なり。

<現代訳>
いつの頃か尾張国に八つの郡があり、上方の四郡を丹羽、羽栗、中島、春日井があり、下方の四郡を海東、海西、愛知、知多がありました。上四郡を織田伊勢守が岩倉城を拠点に領し。五条川を隔てて下四郡を織田大和守が守護代として、清州城にて武衛様を守り奉っていました。(武衛様とは尾張守護、斯波義統様です。)
大和守の配下に三人の奉行がおり、織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠と申します。
この三人を奉行人と申します。弾正忠と申すは尾張国の端にある勝幡を居城としておりました。家臣には、西巌、月巌、嫡男織田信秀(備後守)殿、次男織田信康(与二郎)殿、三男織田信光(孫三郎)殿、四男織田信実(四郎二郎)殿、五男織田信次(右衛門尉)殿などがおりました。代々武門の家柄でした。
織田信秀殿は取分け器量な御仁で、諸家中の有能な者と御昵懇にされて、味方に引き入れていった。
在るとき(天文七年(1538年))、織田信秀殿は尾張国の中ほどにある那古野に丈夫な城を作るよう命じられ、そこに居城を移されました。
織田信秀の嫡男である吉法師殿に、一おとな林新五郎秀貞、二長平手中務丞政秀、三長青山与三右衛門信昌、四長内藤勝介のおとな衆を任命されました。これらは吉法師殿の養育の担当で、御台所賄の平手政秀は手を焼くばかりでした。そして、天王坊と申す寺へ吉法師殿をご修学に出された。
天文八年(1539年)、織田信秀殿、那古野の城は吉法師殿へ御譲りになり、那古野と熱田の間にある古渡という所に新城を作り、御居城なさいました。御台所賄い人は山田弥右衛門なり。

■尾張国かみ下わかちの事
永正12年(1515年)8月、斯波氏(武衛家)13代当主斯波義達(しば よしたつ)は、遠江奪還の為に兵を率いて、再度今川軍と戦って敗れた。自身も捕虜となり、剃髪を強いられ尾張に送り返される恥辱を受けた義達は、尾張における覇権を失ってしまいます。
遠江派兵に当たり、抵抗した尾張守護代の大和守家織田達定の弟である織田達勝(おだ みちかつ)が義達を隠居させ、斯波義統(しば よしむね)を斯波氏(武衛家)14代当主に擁立し、義統を傀儡としました。
尾張の国は、
上四郡:丹羽、羽栗、中島、春日井
下四郡:海東、海西、愛知、知多

01
(谷口克広「戦争の日本史13 信長の天下布武への道」吉川弘文庫 2006年より)
に分かれており、大和守家は下四郡を支配していた。残る上四郡は、伊勢守家が支配していた。
大和守家織田達勝は清洲城を居城し、伊勢守家織田広高は岩倉城を拠点としており、伊勢守家は岩倉城を拠点としておりました。
〔伊勢守織田家と大和守織田家の家督〕
・伊勢守織田家:織田常松-織田郷広-伊勢守織田敏広-織田寛広(弟広近の子)- 織田広高(敏広の子)-織田信安(大和守家出身、敏信の子)
・大和守織田家:織田常竹-織田久長-織田敏定-織田寛定-織田寛村-織田達定-織田達勝(寛定の子)-織田信友(因幡守家織田達広の子)
明応5年(1496年)、伊勢守織田寛広の代で美濃斎藤氏の後ろ盾を失った為に衰退し、永正12年頃は勢力が盛んであった大和守家の織田信安が守護代として伊勢守家を継ぎます。
さて、大和守家織田達勝を支える中に三奉行人がおりました。
・織田因幡守[清洲城?]:織田達広?-織田広信(信友?)
・織田藤左衛門[小田井城]:織田常寛-織田寛故-織田寛維
・織田弾正忠[勝幡城]:織田良信(西巌)?-織田信定(月巌)-織田信秀(桃巌)
弾正忠家は大和守家の奉行人を務め、勝幡城を拠点に津島などを傘下に収めていました。津島などから上がる租税は弾正忠家を大いに潤した。拠点を那古野に移した弾正忠家は熱田も傘下に収めた。石高も豊かな尾張は、三河国・遠江国・駿河国に比べると倍近い石高を有しており、弾正忠家の財政は非常に豊かであったことが伺えます。(支配地域は尾張の四分の一程度であったので石高は13万石程度で、津島・熱田の租税が20万石並み以上と推測されます。)
大名並みの財力があったことは伊勢や朝廷の献上額から見ても判ります。
天文10年(1541年)伊勢神宮遷宮、材木や銭七百貫文を献上。
天文12年(1543年)朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上。
永禄3年(1560年)に毛利元就が正親町天皇の即位の際に2000貫文を寄進しており、その額と比べても大名並みの経済力があったことが伺えます。
<慶長三年時石高>
山城国 22万石
美濃国 54万石
尾張国  57万石
三河国  29万石
遠江国  25万石
駿河国  15万石
(三河国・遠江国・駿河国の合計  69万石)

織田氏は、明徳四年(1393)六月十七日付で劔神社宝前に奉納した藤原信昌・兵庫助将広父子置文に織田家の先祖に関するものがあり、織田庄は皇室領荘園であることから、その荘官か、あるいは劔神社の神官から出発したと思われる。そして、しだいに土豪として成長した。神官出身とすれば、本姓は忌部氏であったと思われます。
織田氏は各種系図によれば、平重盛の子・親実に始まる桓武平氏を名乗っておりますが、信長自身も初期のころは藤原氏で通しております。
応永七年(1400)、室町幕府管領家で越前守護斯波義教(義重)が尾張の守護を兼ね、兵庫助将広の子、織田伊勢入道常松が尾張守護代に抜擢され、また、常松は義教の補佐の為に在京することが多く、尾張の在地支配の為に、弟の織田出雲守入道常竹が又守護代として送られ、尾張織田氏が始まります。
織田常松の子、織田郷広が寺社領・本所領を横領して逐電したため、翌嘉吉2年(1442年)頃に織田敏広(おだ としひろ)が尾張守護代となったとされており、ここに伊勢守織田家(岩倉織田氏)が始まります。
一方、又守護代織田常竹の子、織田久長(おだ ひさなが)が、嘉吉3年(1443年)妙興寺に禁制を出しており、そこに「織田大和守」を名乗っておりました。その子、織田敏定(おだ としさだ)は尾張守護斯波義敏と共に東軍に属し守護代の職を得ることになります。
岩倉織田氏の守護代織田敏広が西軍に属した斯波義廉を擁立していた為に、大和守家織田敏定と対立することになる。弾正忠家の初代織田良信(おだ すけのぶ)の父は、この大和守家織田敏定です。
織田達勝が大和守家当主のおり、織田信秀は奉行人として仕えておりました。
・清洲織田氏(大和守家):織田常竹-織田久長-織田敏定-織田寛定-織田寛村-織田達定-織田達勝
・弾正忠家:(大和守家:織田敏定)-織田良信(西巌)--織田信定(月巌)-織田信秀

弾正忠家は代々武家の家柄で主家の大和守家、敏定から数えて2代目、織田信長の祖父にあたる織田信定は、津島の館を作り津島を支配化に置き、後の勝幡に居城を移しています。
織田信定の子供は、嫡男織田信秀(備後守)、次男織田信康(与二郎)、三男織田信光(孫三郎)、四男織田信実(四郎二郎)、五男織田信次(右衛門尉)がいます。
織田信秀はその中でも才能豊かな武人であり、家督を譲られると林新五郎秀貞や平手 政秀など多くの有能な家臣を味方に引き入れていきました。
天文七年(1538年)、今川氏豊の居城である那古屋城を落し、那古屋城を丈夫な城に改修するとそこを居城とします。
織田信秀の嫡男には吉法師、後の信長が生まれ、お目付け役に林秀貞、平手政秀、青山信昌、内藤勝介が選ばれます。その中でも教育係は平手政秀でありましたが、吉法師は好奇心旺盛な手の掛かる子供であり、祖父信定の影響を請けたのか、津島の者どもと揺れ合って商才に長けた子供であったようです。余り手が掛かるので天王坊と呼ばれた寺、亀尾天王社(那古屋神社)に預けられ修学させました。元々、神官筋の織田家は神官も兼ねておりましたから、吉法師は神官として修練されられました。
天文八年(1539年)、織田信秀は那古野の城を吉法師に譲り、古渡に新しい城を作り移ります。古渡城の御台所賄、つまり勘定方は山田弥右衛門でありました。
山田弥右衛門のいたと思われる山田荘は、尾張国山田郡は尾張の東部に位置します。この山田荘は天平勝宝4年(752年)東大寺大仏開眼供養のおり、天皇から寄進されたもので、東大寺領は郡名を荘号に使ったと言われます。
承久の乱に活躍した山田次郎重忠が治承3年 (1179年)、母のために霊鷲山の長母寺を創建し、はじめは亀鏡山桃尾寺と称す天台宗の寺でありましたが、臨済宗東福寺派に改め、北条時頼から寺領三百五十石を賜り、霊鷲山長母寺と称するようになる由緒正しいお寺であります。
東大寺領山田荘は、延暦4年(773年)で6町歩の広さでありましたが、天暦4年(950年)には36町歩に拡大していたと言われます。初期荘園であったようで、山田荘は東大寺と皇室領でありました。
永享3年(1431年)7月12日の尾張守護代宛ての書状は、尾張山田荘を一万部御経料所として指定しております。尾張守護代の織田氏が代官として室町幕府より任命されていたようで、織田信秀がそれを執り行っていたと考えられます。
尾張東部に進出した織田信秀は、由緒正しい山田荘の山田弥右衛門を家臣に加え、支配をより強固なものとしたようであります。
この山田弥右衛門は「二百貫の所領」を頂いたかもしれません。

■織田信秀登場の舞台裏
大和守織田家が尾張守護代として尾張を統治しておりましたが、斯波義寛が亡くなると斯波氏(武衛家)13代当主斯波義達が後を継がれて尾張守護になります。斯波義達は遠江遠征に反対していた織田達定を自害に追い込んで出兵されます。
永正12年(1515年)8月、斯波義達の遠江遠征における背景は、『信長公記の軌跡背景(4)今川家<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>』を参照下さい。
織田信秀は永正7年(1510年)に誕生し、当時、満6歳。
今川義元は永正16年(1519年)生まれですので誕生しておりません。
永正5年(1508年)7月に将軍足利義稙を擁立した大内義興と細川高国の幕政体勢が整い、今川氏親の遠江守護に任じられますが、それ以降の今川の西征は行われません。逆に永正六~七年(1509~1510年)に西条吉良の代官•大河内貞綱が三河勢を連れて遠江に逆侵攻しております。また、永正7年(1510年)から永正9年(1512年) に掛けて、守護斯波義達が遠江奪還へ出馬しております。そして、永正12年(1515年)8月に再び遠江に遠征を行って敗れ、斯波氏の威光を失います。
永正12年(1515年)8月に斯波義達が破れ斯波氏の威光が落ちると守護代織田達勝が台頭しました。織田達勝は敵対していた今川家と和睦を結んで親今川に転向したと思われます。大永年間(1521年 - 1528年)に見返りとして、愛知郡の今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築くことを許しました。那古野城には今川氏親の末子、今川氏豊が那古野氏の養子として入り城主となっております。
守護代織田達勝と今川氏親が戦った記録はなく、また、那古野氏とも争った記録も見受けられません。さらに、信長の時代では織田達勝の後を継いだ織田信友の部下に那古野弥五郎なる者を召し抱えております。那古野城を信秀に奪われたのちに、達勝を頼って清洲に逃げたと考える方が妥当でしょう。
つまり、織田達勝は今川氏豊を傘下に治めることで、今川氏親との和議を整えたと考えたのです。もしも今川氏親が尾張の守護に任じられれば、尾張の守護代としてもらう密約があったやもしれません。
一方、三河では、今川三河侵攻(永正5年(1508年))に活躍した松平長親は、家督を嫡男の松平信忠に譲り、宗家の岩津城に入ったと思われます。
実際のところ『柳営秘鑑』、『徳川実紀』、『三河物語』を見比べても不可解なことばかりです。松平長親-松平信忠-松平清康と3代の家督の譲り方が不自然で致し方ありません。
永正8年(1511年)、今川氏親は京都へ献馬する為に信濃への塩の道から飯田街道沿いを取っていることから、今川家と松平家の抗争は続いていたと推測されます。つまり、松平包囲網は健在であった訳です。
松平信忠は大久保忠教の『三河物語』で不器用者と罵られているが、岩津城の松平宗家が壊滅的打撃を受け、今川を中心とした反松平連合で囲まれている状態では、防戦一方になるのは致し方ないことです。さらに家督を継いだ松平信忠は、わずか11歳の子供でした。実権が誰にあったかは明白です。
さらに、今川三河侵攻(永正5年(1508年))のおりでも安祥城から出撃する松平長親の軍の中に石川を始めとする一向宗門徒の武将名がありません。永正3年11月15日付「桑子妙源寺宛今川氏親制札」に見られるように、今川氏親は仏門徒と争う気がなかったようであり、一向宗門徒の武将は今川との徹底抗戦に反対していたようです。一向宗門徒を多く抱える桜井城の松平信定がその急先鋒だったのでしょう。
そして、大永三年(1523年)に一門等が協議の上で信忠の隠居と嫡男清康への家督譲渡の方針が決まりました。次男の信定を跡継ぎにすべきと松平党が二派に分裂したと伝えられております。松平一門は信忠(26歳)を押しこめます。そして、松平清康は今川との徹底抗戦を破棄し、守護代西条吉良義堯の代官に戻りました。
これらをコーディネトしたのは、本願寺九世法主実如の子、三河本宗寺、播磨本徳寺の住持であった実円であったと思われます。
実円の仲介で、守護細川成之、守護代吉良義堯、代官松平清康という構図が完成したと思われます。
ところで吉良家は、応仁の乱以降、東条家と西条家に別れて争っておりました。

<東条家>吉良義藤-持清-持広
<西条家>吉良義真-義信-義元-義堯

東条家の吉良持広は『大館記』によると永正6年(1509年)12月3日に上洛して将軍足利義材(義植)に年始の祝儀として太刀一腰を献上しております。西条家が足利義澄派から義材派に転向していることから、最初から義材派であり、今川氏と早い時期に共闘しておりました。
西条家の吉良義信は足利義澄が新将軍となった後も幕府出仕を続けておりました。明応7年(1498年)12月に至って病と称して出仕を止め、文亀年間(1501~1504年)では今川に敵対する大河内貞綱を更迭するなど、義材方に協力的な姿勢を示しておりました。永正5年(1508年)将軍足利義材(義植)が幕政に返り咲くと、吉良義信の覚えめでたく在京して暮らしておりました。
西条家吉良氏と今川氏は少なくとも敵対関係でなかったことが伺われます。つまり、吉良氏の被官になることは松平・今川の和議を意味します。
永正年間(1504~1520年)の今川勢侵攻後に行われた大河内貞綱らの遠江奪還戦を繰り広げておりましたが、これを阻止しなかったのは将軍足利義材、あるいは細川高国の思惑を汲み取ってことと伺えます。しかし、西条家吉良義信は今川氏親と敵対する気はなく、大河内貞綱の謀反という体裁を取っております。
西条家の吉良義信の被官となった松平清康は、大永6年(1526年)または大永4年(1524年)、山中城を攻撃して西郷信貞(注1)を屈服させて離反した一門を組み込むと、大永5年(1525年)には加茂郡を北上して足助城の鈴木重直(注2)を降し、享禄2年(1529年)には、東三河(注3)に入り、吉田城の牧野氏、続いて田原城の戸田氏を下し、設楽郡内の山家三方衆を屈服させ、西条吉良氏は三河のほぼ一国を平定しております。

注1:三河松平氏3代当主松平信光の五男、松平光重は明大寺の地にあった岡崎城を貰い受け、岡崎松平家と呼ばれたが、松平清康に岡崎城を奪われて、大草城に移った為に大草松平家とも呼ばれている。また、松平光重は西郷弾正左衛門頼嗣の娘と婚姻し、婿として岡崎城に入ったことから、松平光重の子、岡崎松平家2代目は西郷左馬允親貞、3代目は西郷弾正左衛門信貞(松平昌安)、大草城に下った4代目は、大草松平家左近将監貞光を名乗っている。
注2:三河国の猿投神社の南側に高橋荘という荘園があり、中条氏が貰い受けていたが、永享二年(1430年)に高橋荘三十六郷年貢高三万六千貫は、三河守護一色持信と東条吉良義尚に分与された。中条氏の被官衆のひとりとして鈴木氏は成長、豊田・加茂一帯を勢力圏とした国人衆と成長し、鈴木重勝は矢並を拠点として、市木から寺部へ、酒呑から足助、さらに小原へと高橋荘東方を中心に勢力を広げていった。そして、高橋荘の寺部に進出し、寺部城を築城した。三河守護一色の領地は守護細川に委譲されていた為に、守護領奪還の大義名分に使われ、足助城の鈴木重直討伐となったと思われる。
注3:東三河入りは西城吉良と東条吉良の対立から助力、あるいは先鋒として参戦する。西条吉良を支援する戸田氏と西条に味方する設楽郡内の山家三方衆を加えた三河の国を争った天王山と言える。この東征に勝利した西条吉良家は三河統一を完成させた。三河物語などでは、松平清康の三河統一となっているが、最大の好敵手である今川方は、当時、尾張にも領地を持っている。それが鈴木氏に援軍を送ってこない事と松平の拡大を放置する理由が示されてない。また、大永六年(1526年)8月に今川氏親没していると言えど、今川方の吉田城・田原城が襲われているのに出陣しないのは不自然であります。そして、最大の理由が西条吉良氏と戦っていないことであります。

≪松平清康の活躍と周辺事情≫
□大永三年(1523年)松平信忠、押しこめて隠居させ、松平氏と西条吉良氏の和睦し、松平氏は守護代吉良の被官になる。
・大永三年(1523年)松平清康、家督継承し、明大寺城の岡崎松平信貞を攻める。
・大永四年(1524年)松平清康、山中城を奪取、岡崎松平家の信貞を大草に追いやり、松平信貞の娘を妻に迎えて、明大寺城(旧岡崎城)を乗っ取る。
・大永五年(1525年)松平清康、足助城の鈴木重政を降伏させる。
・大永六年(1526年)3月 松平信定、守山に扶植する。
△大永六年(1526年)8月 今川氏親没。氏輝が家督相続する。
・大永八年(1528年)松平清康、岡崎で鷹狩中に叶田大蔵に襲撃される。
・享禄二年(1529年)松平清康、荒川氏の家臣・鷹部屋鉾之助の小島城を攻め、鉾之助は荒川城に逃亡する。
・享禄二年(1529年)松平清康、牧野氏の吉田城を攻める。
・享禄二年(1529年)松平清康、田原城を攻めて、戸田宗光は降伏して松平方に付く。
・享禄三年(1530年)松平清康、岡崎城を明大寺から対岸の竜頭山に移し、岡崎城に築いて居城とする。
□享禄三年(1530年)松平清康、尾張出兵し、岩崎郷(日進市岩崎)・品野郷(瀬戸市品野町)を奪う。?
・享禄三年(1530年)松平清康、遠江国境に近い熊谷備中守の宇利城(三河新城)を攻める。
△享禄四年(1531年)6月 本願寺法主証如、北陸三ヶ寺の討伐令。実円出陣。(大小一揆)
・享禄四年(1531年)11月 松平清康、三宅周防守清貞の伊保城攻め、三宅加賀守を広瀬城に逃走する。
△天文二年(1533年)3月 松平清康、三宅・鈴木連合軍を岩津で撃破する。
□天文二年(1533年)12月 松平清康、桜井信定の領内の品野勢と井田野で戦う?
△天文三年(1534年)4月4日下間蓮応(頼玄)書状、石山本願寺への上洛要請。
△天文四年(1535年)6月 松平清康、猿投神社を焼く。
△天文四年(1535年)11月 石山本願寺、細川晴元の軍門に降る。
□天文四年(1535年)12月 松平清康、守山に出陣して陣没する。

松平清康は足助城主の鈴木重直や東条城の吉良持広に姉妹を嫁がせ、於波留を離縁すると青木筑後守貞景の娘を継室として迎えて松平信忠は味方を増やしてゆきました。
『三河物語』では、三河統一の余勢から森山(森山)に進出し、謀反によって殺害されております
しかし、大永六年(1526年)頃に守護代織田達勝の赦しを得て、桜井松平の信定が尾張の守山(名古屋市守山区)と品濃(瀬戸市)両城に拠って尾張東部に勢力を扶植させています。
守護代織田達勝は那古野城、守山城、品濃城に今川、松平勢を入れることで和議を実現し、東方からの脅威を取り除く政策を行っておりました。
これを実現させる為に織田達勝は、本願寺に影響力のある実円を頼ったと思われます。
『天文日記』には、天文五年(1536年)正月七日と三月十一日の条に尾張国海部郡の浄土真宗本願寺系の有力寺社である興善寺の統制への協力を織田達勝が本願寺に依頼し、本願寺はこれに応えたという記録があります。織田達勝は本願寺と親しい関係であったか、帰依していたと考えるべきでしょう。
享禄5年・天文元年(1532年)天文法華一揆の際に織田達勝が本願寺方に付いたことからも伺えます。
享禄三年(1530年)の尾張出兵は何だったのでしょうか?
尤も考えられる可能性は、享禄四年(1531年)6月に実円出陣する為の地均しという可能性が高そうです。伊保(三河)、猿投(三河・尾張国境付近)、品野(春日井郡)、守山(春日井郡)は三河から尾張に抜けるルートに当たります。この尾張出陣は抵抗勢力の一掃が目的だったのではないでしょうか。
ならば、天文四年(1535年)12月の森山出陣は、石山本願寺への最後の援軍だったのではないでしょうか。11月に石山本願寺は幕府に降伏しておりますが、これを不服と思う輩がいました。本願寺第10世法主証如の後見人の下間 頼秀(しもつま らいしゅう)、下間 頼盛(しもつま らいせい)とその二人の父である下間頼玄です。彼らは天文8年7月21日、堺で証如の刺客に暗殺されるまで抵抗を続けていました。
天文二年(1533年)3月に三宅氏・鈴木氏の連合軍が攻め寄せ、12月に春日井郡の品野勢と戦っております。これらは幕府から討伐軍と考えれば、話が見えてきました。
天文三年(1534年)4月4日下間蓮応(頼玄)書状が届き、一刻の猶予がない上洛を試みますが、猿投でも抵抗に合い、猿投神社を焼いて一旦引きます。
松平清康、あるいは実円は上洛の為に書状をしたためて助力を求めている間に11月になってしまい、石山本願寺は細川晴元の軍門に降ってしまいました。しかし、11月の講和の条件は下間兄弟の首を差し出すことでした。下間兄弟は実円にとって大切な後ろ盾であり、そんな条件を飲むことはできません。また、まだ若い松平清康も実円の威光を利用して、いずれは天下に名を広めようとか、大いなる野望を抱いていたのかもしれません。
松平清康の12月森山への出兵は起死回生の上洛を行います。しかし、そんな無謀な行為に一向宗の門徒にも疑問の声が上がります。否、上洛以前に幕府に抵抗し続けることに疑問が持たれたことでしょう。この森山へ出陣には、桜井松平信定も控えております。そして、松平清康は一向宗門徒の家臣、阿部弥七郎正豊の謀反によって討ち取られてしまいます。

○天文三年 下間蓮応(頼玄)書状
「お手紙差し上げます。最近、我々の近場にまで敵が現れて、方々に放火しております。石山本願寺は守備堅固とはいえ、用心が必要なので、美濃・尾張・三河三ヶ国の坊主衆に上洛あるべしと、証如様が仰せになっておられます。もちろん、あなたの所もです。大変だとは思うのだが、上洛をお待ち申し上げる。拙者も二月からここに伺候しております。お待ちしております。絶対ですよ。
四月四日 蓮応(花押)
照蓮寺御坊様」

○天文五年二月十三日条 本願寺十世法主の証如の日記
「美濃・尾張の坊主衆に加えて伊勢衆の三ヶ国の衆に対し(石山警護の番衆を上洛させるように)、一昨年(去々年)にも使者を送ったことがある。」

天文三年の書状に美濃・尾張・三河の三ヶ国と書かれていたのが、三河の文字が消え、天文五年の日記には美濃・尾張・伊勢の三ヶ国に変わっております。天文三年から天文五年に掛けて三河の実円の威光が失われたことが伺われます。
同時に実円の後ろ盾を失った守護代織田達勝の威光は薄れ、相対的に弾正忠家の勢力が尾張に確固たる地位を確立したと思われます。
それは天文6年(1537年)4月の寺領安堵状を初見として、尾張守護義統としての活動が見られるようになることからも伺われます。織田達勝の傀儡であった守護斯波義統(満20才)ですが、織田信秀に擁立されて守護として少しずつ権威を取り戻してゆくきっかけとなったようです。

■織田信秀の血統
鎌倉から室町時代の戦はその人格を良血か否かで見分けます。よって、ほとんどの一族が源氏、平氏、橘氏、藤原氏のいずれかを名乗っておりました。織田家は当初は藤原氏を名乗り、信長の時代に入ってからは平氏を名乗っております。
母は藤左衛門家当主織田良頼の娘で名をいぬゐ、法名は含笑院殿殿茂岳凉繁といいます。(いぬゐは土田秀久の妹という説もある。)
織田弾正忠家、織田藤左衛門家の両当主の間に生まれた織田信秀は織田家のサラブレットだったのでしょう。
とは言え、名前だけでは評判が上がるものではありません。容姿、振る舞いなどが伴わなければなりません。弾正忠家の織田信定の息子の中でも、嫡男の信秀が器量良しと言われておりますから、信秀は良き体格と風貌を持っていたに違いありません。
さらに、信秀は林新五郎秀貞、平手中務丞政秀を家臣に持ちます。
当時、兵を集めるには名声が重要とされ、血統や役職、名家の家臣を持っているかが大きなファクターを占めておりました。
林家は南北朝期に南朝方に忠節を尽くした河野一門の末裔で、南朝方の御大将、新田義貞の軍団では常に先陣にあり、「朝廷軍の露払い」を勤めることが先例としてほど有名な一族でした。美濃国は三河や遠江に一族は生き残り、日本(ひのもと)に武名の鳴り響いた将の末裔を各地の諸将が家臣団に迎えておりました。
林家は尾張の西春や美濃にも所領があり、斎藤道三の「槍奉行」を務めておりました。裏を返せば、林家は主人に忠誠を示す為に死をも恐れない壮烈な戦いをする一族でした。
信秀の父、織田信定(月巌)は林佐渡守通村の娘を側室に迎えておりましたから、その縁で林新五郎秀貞と知り合い、「秀貞は我が典偉だ」と褒め称えて家臣に加えました。
典偉とは、三国志に出て来る魏の曹操に仕えた悪来典偉のことで、主人を逃がす為に陣門で仁王立ちになって敵を防ぎ、壮絶な死を遂げた英雄のことであり、死を恐れない林家ととって最高の褒め言葉だったでしょう。
また、平手家は源氏の名門世良田家の末裔で、三河の吉良家や、駿河今川家、尾張石橋家、斯波家に武家の家格では劣らないものでした。その中でも政秀の素養は秀でたものがあり、天文2年(1533年)7月には信秀のもとに来客した山科言継、飛鳥井雅綱を接待し、政秀の「数寄の座敷一段」と都人を驚かせております。信秀は「我が荀彧」と褒め称えております。
将軍家の同族として中央でも名が通じ、武家としての血筋の良さ、文化的な面での品格、その商売的な信用性で、弾正忠家の柱石ともいえる重臣となってゆきました。
このような二人を家臣に持つ信秀には、多くの諸将が我先にと参陣し、武功を競い合ったようです。
その信秀は、主家の大和守織田達勝から室を頂きます。しかし、天文元年(1532年)には織田達勝と争いますから、織田達勝の娘との婚姻は大永年間(1521年~1527年)ではないかと推測されます。また、いくさに当たって妻を実家に帰すという習わしがありましたから織田達勝の娘は天文元年以前に離縁されたと思われます。
そして、信長の生母になる土田御前が継室に迎えられました。天文3年(1534年)5月12日には、那古野城にて嫡男、信長が誕生していることからも天文元年以降ではないかと察せられます。
土田御前は土田政久(どた まさひさ)の娘と言われており、『美濃国武家諸家譜』(東大史科編纂所蔵)によると、可児郡の土田氏は土田彦五郎秀久が親類筋である土岐氏庶流の明智氏に仕え、その子源左衛門泰久、その子源太夫と続いて、土田源太夫は弘治二年(1556)に明智兵庫頭光安入道宗宿とともに明智城において討死したとされています。
「建部系図」(『百家系図稿』巻四所収)では、土田氏は近江の佐々木山内氏の出で、山内信詮の孫建部源八郎詮秀の子孫とされています。
山内信詮─義重─詮秀─義綱─重秀(土岐に仕え美濃へ移住)―義重─義綱―頼秀─土田秀遠─土田秀久―土田政久-土田御前
しかし、これでは明智の親類筋であると言えません。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」から見ると、土岐頼貞―明智頼重―明智国篤―明智頼秋―明智頼秀―明智頼高―明智頼久となり、伝え聞く所によると、山内頼久は土田秀遠とも近江守秀定とも伝える人物と重なり合うとも言われています。さてさて、山内頼久と土田秀遠の関係は判り兼ねますが、土田秀久の父、近江守秀定の時代に近江から美濃国可児郡に遷住し土田に居住したと言われます。山内秀遠の娘が明智頼久の養猶子(女婿)として迎え入れられたと考えれば、土田秀久の実父は明智頼久となります。秀遠と頼久の一字ずつ頂いて『秀久』と考えるのは出来過ぎた話でしょうか?
また、土田氏の祖先は征東大将軍・木曾義仲の四天王と謳われた根井行親の末裔と伝わっており、根井行親の子孫は、南近江守護・六角氏の家臣として仕え文明年間(1469年〜1486年)の頃に、近江国蒲生郡から美濃国可児郡の木曽川河畔にある土田村に移住したと言われます。(どちらが正しいのかなど図りかねますが?)
美濃土田で3万石の石高があったとされ、土田村だけでなく周辺一帯を支配していた豪族であると伺われます。
英雄色を好むと言いますが、織田信秀は土田御前以外にも多く側室を抱えています。織田敏信の娘、養徳院殿(池田政秀の娘)、岩室殿(岩室孫三郎次盛の娘)、尾張熱田の商家の娘です。信長の兄に当たる信広が嫡子と数えられないのは、生母が側室という立場だったからですが生母の名前は見当たりません。
他にも池田政秀の娘で織田信長の乳母も務め、大御乳様(おおちちさま)と呼ばれたお方は、娘、小田井殿(栄輪院、信長の異母妹、恒興の異父妹。織田信直正室)を出産しています。さてさて、他にも何人の側女がいたことでしょうか?

■織田信秀の台頭
尾張の守護は斯波氏であるが、実権は守護代の大和守織田氏が握っていました。その守護代も上四郡を支配する伊勢守家と下四郡を支配する大和守に分かれ対立しあっていた為に紛争は絶えない状態でありました。
大永年間(1521年~1527年)、元服した織田信秀とその父信定と共に活躍した時代であります。特に津島を手中したことが後の信秀の原動力となしました。
津島の繁栄ぶりは、連歌師宗長の日記に示されており、大永六年(1526)に津島を訪問した際の記載に津島湊の繁栄ぶりと当時十七歳の息子三郎(信秀)とともに信定は挨拶に来たとあります。津島は当時伊勢大湊を中心とした伊勢湾の交易圏の中核をなす港町で、大橋、岡本、恒川、山川という4家が大きな勢力を持っていたとされています。
『大橋家譜』の記述によると、「大永年中、織田氏ト諍論、数度ニ及ブ。同四年(1524)ノ夏、織田兵津島ヲ焼払フ。早尾(愛知県海部郡立田村付近)ノ塁ニ退キ又戦フ。・・(中略)・・・時ニ織田ト和睦有リ。而シテ同年十一月、信長公息女御蔵御方、実ハ信秀ノ女,大橋清兵衛重長ニ入輿ス。母ハ林佐渡守通村ノ女、是ヨリ津嶋一輩、信長公ノき下ニ属ス。」(引用:津島市史 1975年 P10から)と大永年間(1521年~1527年)初頭より何度も津島衆と織田氏の間に諍いがあり、大永4年(1524年)夏に織田氏が津島町を焼き払って武力制圧しようと兵を出したことが記されています。大永6年には完全に支配し終え、経済基盤を手に入れたことが伺えます。信秀は大橋清兵衛重長に娘くらの方が輿入れさせて津島との繋がりを強固なものとしてゆきます。
大永六年(1526年)頃、本願寺九世法主実如の子、実円に説得された尾張守護代織田大和守達勝は、上四郡守護代伊勢守から奪い取った春日井郡の守山に桜井松平家の信定を尾張の守山(名古屋市守山区)と品濃(瀬戸市)両城に拠って尾張東部に扶植させています。
桜井松平信定は松平長親の二子で桜井松平家の初代松平宗家であります。その妻は織田信定の娘とありますので、進出してきた桜井松平家と織田信定がよしみを通じていたことが伺われます。また、織田信定の子である織田信光の正室に松平信定の娘を嫁がせていることからも、大永六年(1526年)以降も弾正忠家織田信定・信秀と桜井松平信定・清定は良好な関係を維持していたことが伺われます。


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(享禄 元年 (1531) 信秀の台頭前夜 風雲勢力図ブログより)

大永七年(1527年)管領細川高国が桂川原の合戦に敗れて将軍足利義晴とともに京都を脱出して近江国朽木に逃れ、泉州堺に幕府を開いた堺公方、足利義維が幕政を握ります。織田大和守達勝は堺公方に与する事で失地回復を図りますが、堺に参陣するまでは至りません。
将軍足利義晴・管領細川高国と堺公方足利義維・細川晴元・三好元長の私闘は限りなく繰り返されます。

・永正15年8月2日(1518年)、大内義興の周防への帰国
・永正16年(1519年)、細川澄元・三好之長らは摂津に侵攻。
・永正16年(1519年)10月22日夜半、田中城の戦い。(高国軍は惨敗)
・永正17年(1520年)2月、細川高国は近江坂本まで退散。(堺公方、京を奪取)
・永正17年(1520年)5月、六角氏・朝倉氏・土岐氏らの支援を仰ぎ、再度挙兵。京へ反撃侵攻した高国勢は三好之長を自害に追い込む。(細川澄元、摂津に敗走)
・永正17年(1520年)6月2日、細川澄元が阿波で病死。
・永正18年・大永元年(1521年)室町幕府第10代将軍足利義稙と細川高国の関係悪化。
・永正18年・大永元年(1521年)3月7日、義稙は再び和泉国堺に出奔
・永正18年・大永元年(1521年)12月24日、細川高国は義澄の遺児を元服させて第11代将軍足利義晴にする。
・大永6年(1526年)7月13日、細川高国は細川尹賢の讒言を信じて、重臣の香西元盛を謀殺。
・大永6年(1526年)7月、香西元盛の実兄である波多野稙通と柳本賢治が謀反。(討伐を失敗)
・大永7年(1527年)2月、尖兵柳本賢治や三好元長らに京まで侵攻。(足利義晴・細川高国は近江に逃亡)
・大永7年(1527年)7月13日、三好元長・細川晴元らは、足利義澄の次男である足利義維を擁立。(従五位下・左馬頭に叙任され、堺公方と呼ばれる)
・大永8年・享禄元年(1528年)1月、細川高国、三好元長と講和を図るが破れて再び近江に逃亡。
・大永8年・享禄元年(1528年)、細川晴元、柳本賢治を使って京都周辺を寇掠させる。
・享禄2年(1529年)、三好元長は堺幕府を離脱して三好氏の本貫地である阿波国に帰国。
・享禄3年(1530年)5月、足利義晴・細川高国、伊賀の仁木義広や婿で伊勢国司の北畠晴具、朝倉孝景や出雲の尼子経久らの助力により備前国の浦上村宗と共に播磨国で挙兵。
・享禄3年(1530年)6月、織田達勝も上洛し、高国討伐の柳本賢治の軍に参陣。
・享禄3年(1530年)6月29日、柳本賢治が播磨で陣没し幕府軍は退却。
・享禄4年(1531年)2月、細川高国の進撃に慄いた細川晴元は三好元長に援けを求め、三好元長は堺に入り反撃を開始。
・享禄4年(1531年)3月、新参・木沢長政が京の防備を放棄する。(高国の京入)
・享禄4年(1531年)6月、優勢だった高国軍は増援として現れた赤松政祐の裏切りにより、呆気なく敗れる。(摂津国天王寺の合戦)
・享禄4年(1531年)6月8日、細川高国、大物広徳寺で自害。
・享禄4年(1531年)6月、細川晴元、第11代将軍足利義晴と和睦。(細川晴元の裏切)
・享禄4年(1531年)8月、足利義維を将軍に推す堺公方派、三好元長が細川晴元に反旗を示す。(河内北半国守護管領畠山義堯、山城守護代三好元長 vs 山城守護管領細川晴元、河内北半国守護代木沢長政の抗争へ発展)
・享禄5年・天文元年(1532年)、細川晴元の被官茨木長隆の縁者を介して浄土真宗本願寺の第10世法主証如に助力を依頼
・享禄5年・天文元年(1532年)6月15日、石山本願寺に結集した門徒は飯盛城下に押し寄せえる。(畠山義堯、三好元長が討ち取られる)
・享禄5年・天文元年(1532年)、「天文の錯乱」が勃発。大和の興福寺を始め、暴徒化した門徒が筒井順興・越智利基などを攻め始める。
・享禄5年・天文元年(1532年)8月23日、細川晴元、六角定頼、法華宗徒連合の軍勢は本願寺の総本山である山科本願寺を包囲し、翌24日には火を放って総攻撃をかけたが、一向宗は石山本願寺に拠点を移して徹底抗戦の構えを見せた。
・享禄5年・天文元年(1532年)12月、石山本願寺もまた細川・六角・法華一揆連合軍に包囲される。
・天文2年(1533年)2月、一向宗門徒、勢力を盛り返し、細川晴元の拠る堺に進撃する。(細川晴元や茨木長隆は淡路島に逃亡)
・天文2年(1533年)2~4月、町衆を中心とした法華宗徒が警察権を握り、浄土真宗の僧侶を捕えて処刑する。
・天文2年(1533年)4月、細川晴元、摂津国池田城に入城し、さらに要害である摂津国芥川城に移ると膠着状態に陥る。
・天文2年(1533年)6月20日、三好元長の遺児千熊丸(後の三好長慶)の仲介により細川晴元と本願寺の和睦が成立する。
・天文3年(1534年)5月29日、本願寺証如、和睦を破棄し、再戦を挑む。
・天文4年(1535年)6月、細川軍の総攻撃によって本願寺は敗北する。
・天文4年(1535年)9月、本願寺と細川との和睦交渉が妥結。

このように細川高国の迷走から始まった混乱は、本願寺を巻き込んで宗教戦争に発展しまいました。
享禄4年(1531年)、苦戦する細川晴元を本願寺第10世法主証如が助力したことで将軍足利義晴は京に帰還し、細川晴元も政権に復権できました。最大の功労者は本願寺だったハズなのですが、一向一揆の門徒が暴徒化し、討伐される羽目に会います。
松平清康は加賀の小一揆討伐に対する実円の派兵に協力していたと思われ、本願寺教団と縁の深い関係です。織田達勝も本願寺教団は協力者という立場になっており、幕府に討伐される側になったのです。
織田信秀の支配地である津島は伊勢国長島願証寺と木曽川・揖斐川・長良川の三川の河口に面していました。織田信秀の狙いは津島と木曽川を挟んで対岸にある伊勢国長島だったのではないでしょうか。勝幡築城と同時期に長島には連淳が願証寺を建てておりました。木曽川対岸の寺内町を取り込んでしまおうと考えていたのかもしれません。
幕府から難を避けて連淳が逃げ込んだことを知った信秀は幕府軍の勝利を確信したのか、幕府側に組みすることを表明し、主家である織田達勝に戦いを挑みます。
天紋元年8月に起こった天文法華一揆(山科本願寺合戦)は、12月頃になると細川晴元に属する摂津国衆らが摂津国の上郡と下郡への同時侵攻作戦を展開し、一向一揆の拠点である道場を攻め立てたため、その一帯は焦土と化したと言われます。
しかし、天文二年(1533年)2月になると事態は一変します。一揆勢は勢力を盛り返して細川晴元の拠る堺に進撃し、2月には細川晴元や茨木長隆を淡路島に後退します。4月には盛り返して摂津国池田城に入城するに至るのですが、幕府軍は摂津国芥川城に移りますが、淀川を挟んで石山道場に立て籠もる一向一揆と膠着状態になっていました。
天文二年(1533年)6月には、三好長慶(千熊丸、三好元長の遺児)の斡旋によって幕府と本願寺の和議となりました。
一方、織田信秀も手詰まりに陥っていたのかもしれません。幕府軍が勝つと思った予想が大きく外れ、思わぬ膠着状態に苦戦を強いられたと予想されます。幕府方の勝ち戦の余勢を借りて取り込む計画が崩れ、泥沼のいくさを呈してきました。平手政秀を使い和睦のタイミングを図っていたと思われます。天文二年(1533年)7月11日、弟信康を清須に派遣して、早々に織田大和守達勝と和睦します。
この戦いでは織田信秀と本願寺の関係が崩れるほど激しい戦いはなかったようで、織田信秀は再び大和守守護代織田達勝の下に組みします。
もし、天文4年以降に織田信秀が単独で三河出陣ができる勢力を持っていたとするなら、守護代織田達勝との大きな戦が記録されていなければなりません。ならば、実権もない織田達勝が仲介を求める書状や免除状を発行しているのでしょうか?
天文五年(1536年)、証如の日記に織田達勝から本願寺に善興寺との争いの仲裁を求められた。

天文7年(1538年)織田達勝、尾張国性海寺への那古野城夫役を免除する。
「急度申遣候、仍性海寺内事者、従先々諸役免許之儀候之条、今度那古野へ夫丸之儀、可相除之候、謹言、
天文七十月九日
(織田達勝 花押)
 豊嶋隼人佐とのへ
 鎌田隼人佐とのへ
 林九郎左衛門尉とのへ
 林丹後守とのへ」
『愛知県史 資料編10「織田達勝書状」(性海寺文書)』

この天文7年(1538年)の那古野城夫役を見るに付け、少なくともこの時期までは織田達勝は間違いなく織田信秀より上の立場であったことが伺えます。
享禄5年・天文元年(1532年)に今川氏豊の居城である那古屋城を落したという説『名古屋合戦記』もありますが、尾張国熱田の加藤延隆に商売上の特権を与えるという書状が見られるのは、天文8年(1539年)三月廿日『「織田信秀判物」(西加藤家文書)』からです。そう考えると、天文7年(1538年)に織田達勝の命で那古屋城を奪ったと考える方が妥当ではないかと思えるのです。
尾張の中央部に位置する那古屋城は今川氏豊の居城があり、今川氏の支配下でありました。氏豊は歌などを好み、国人らも招きしばしば歌合わせを催していた文化人で、信秀も好を通じておりました。
「俄に信秀は体調を崩し勝幡城へ帰ることもままならず那古屋城に泊めてもらうことを願い出ます。氏豊は快く承諾して、近習共々を城に入れてやりました。夜が暮れると俄かに騒ぎ出し、信秀の近習共々が那古屋城の中から兵を挙げ、示し合わせていた日置城の織田丹波守も城外から攻めります。城の中と外から攻められた氏豊は為す術もなく逃亡し、わずかな手勢によって那古屋城を落した信秀はそこを居城としました。」
天文7年(1538年)が妥当と考えられる理由は、天文6年(1537年)から今川義元が松平広忠を擁して、三河に進行してきたことにあります。
三河守護代西条吉良義堯の子、吉良義郷を討ち取られ、三河における基盤を松平信定が失うと、さらに今川義元は反義元派であった見付端城主堀越用山(貞基)を犬居城主天野氏に命じて攻撃させこれを落とさせました。
動揺した松平家の家臣、大久保忠員・八国詮実・林忠満・成瀬正頼・大原惟宗は松平信定を裏切り、松平信定の留守を見計らって牟呂城(西尾市)を騙し取ります。
松平信定は岡崎城を引き渡すことで和睦が成立し、松平清康の死後、逃亡生活を続けていた松平広忠が岡崎に帰城することになります。
松平信定を支援する織田氏(織田達勝・織田信秀)には容認できない事態でありました。尾張織田方は駿河・遠江の今川方と対決することを決め、戦いとなれば、背後を襲われる可能性のある今川氏豊の那古屋城を織田達勝の命で織田信秀が天文7年(1538年)に騙し取ったと考えるのが最も合理的と思われます。
天文六年(1537年)6月、石山本願寺蓮淳は本証寺(愛知県安城市野寺町)と勝鬘寺(岡崎市の南部)に書状を送っております。内容は「本証寺と勝鬘寺に、伊勢長島願証寺の指導のもとに、蓮如の遺文に基づいた布教活動に専念すべし」と言うものです。
織田氏と今川氏の対立に関与しないように言い付けているのではないでしょうか?
織田達勝は本証寺の支援を受けられなくなり、求心力は落ちたことでしょう。
織田氏と今川氏の対立が激しくなってゆく中で、織田信秀の活躍が際立ち、守護代織田達勝の権威は薄れてゆくのでした。

≪森山崩れから松平広忠の岡崎帰城≫
・天文四年(1535年)12月5日、松平清康は尾張国守山に出陣して陣没します。
・天文四年(1535年)12月12日、天文の井田野合戦。
・天文四年(1535年)12月24日、阿部道音、没。
・天文四年(1535年)12月28日、松平広忠、岡崎脱出。『伊勢』へ落ち延びる。
・天文五年(1536年)3月17日、今川氏輝、彦五郎没。
・天文五年(1536年)3月17日、松平広忠、遠江国掛塚に到着。
・天文五年(1536年)6月10日、花倉の乱終息。
・天文五年(1536年)8月、本願寺と足利義晴が和睦。
・天文五年(1536年)9月10日、吉良持広、仙千代(松平広忠)を保護する。
・天文五年(1536年)閏10月7日、松平広忠、吉田に後退。
・天文五年(1536年)11月、西条吉良義安、東条吉良持広の養子になる。
・天文六年(1537年)正月、西条吉良義郷、没。義昭が家督を相続。
・天文六年(1537年)1月13日、西条城(西尾市錦城)の戦い。(吉良義郷、討死)
・天文六年(1537年)4月26日、見付端城(磐田市見付)の戦い。
・天文六年(1537年)5月29日夜、松平信定が留守の間に牟呂城(西尾市)を騙し取る。
△天文六年(1537年)6月、石山本願寺蓮淳は本証寺と勝鬘寺に書状。
・天文六年(1537年)6月2日、武田信虎の娘、今川義元に嫁ぐ。
・天文六年(1537年)6月7日、松平広忠、松平内膳正信定と和議。
・天文六年(1537年)6月25日、松平広忠は岡崎城に入城する。(松平広忠、満12歳)
・天文六年(1537年)12月9日、松平広忠、12歳元服、東条吉良持広烏帽子親。

■織田信秀の経済基盤
川港で門前町であった津島(愛知県津島市)を支配し、津島の商工業者達の既得権益を保護し、かつその商業の安全を保障しました。さらに津島の商工業者は尾張の辺境の開発した土豪や土倉などの金融業者、商売をしていた商人的武士団であった津島十五党と呼ばれていた有力者の権益を保障することで経済基盤を高めたと言われます。
その1つが油です。
元々、平安末期に始まった座は公家や寺社などの本所に保護されています。
近衛・兵衛府の保護下の四府駕輿丁座・織手座・白粉座・青苧座、興福寺の保護下の絹座・綿座・魚座・塩座、祇園社の保護下の綿座・錦座・材木座、石清水八幡宮の末社の離宮八幡宮に直属していた大山崎油座(荏胡麻油座)、北野神社の保護下の西京酒麹座、東大寺の保護下の木工座などが挙げられています。
石清水八幡宮の末社の離宮八幡宮に直属していた大山崎油座(荏胡麻油座)は遠く美濃尾張まで行商の旅に出ていたと書かれています。
・離宮八幡宮に残る最古の文献の貞応元年(1222年)12月の美濃国司の下文によると、「大山崎の神人が油や雑物 の交易のため、不破関の関料免除の特権を保持し、不破関を越えて、遠く美濃尾張まで行商の旅に出ていた。」
大山崎の神人は油の主原料は、近江・尾張・美濃・伊勢・河内・摂津・播磨・備前・阿波・伊予などでした。
大山崎油座神人は、荏胡麻の仕入れだけでなく、精製した油の販売においても広範囲に独占権を有しており、大和国を除く畿内(山城・摂津・河内・和泉)と、丹波・丹後・若狭・近江・美濃・尾張・備中・備後・紀伊・伊予などに及んでおりました。
しかし、応仁・文明の乱に際しては大山崎の侍は積極的に東軍に加担し、赤松政則や畠山政長などから感状を受けるなど自ら巻き込まれ、製油に携わる神人たちは逃散する事態となりました。応仁の乱以降、自ら生産販売する商人が出現し、大山崎の独占販売権も崩壊・有名無実化してゆきました。
さて、大山崎油座神人は尾張に材料の尾張に買い付けて来ております。津島神社には直系1.5センチほどの小粒の揚げた米団子「あかだ」という津島神社の供饌菓子が古くからあります。
弘法大師(774~835年)が津島を巡錫した際、この地で疫病が流行しており、庶民が苦しむ姿を哀れんだ大師は津島牛頭天王社に薬師如来を奉安し病気平癒を祈願されたと伝えられ、さらに悪病退散の祈願を込めて神前に供え、参詣した人々に分けたという菓子が、津島神社の供饌菓子と伝えられております。
この頃より津島神社周辺では油菓子に使う胡麻の生産が始まったと思われ、室町時代では神人たちが買い付けにくるくらいに発展していたようです。
大山崎油座(荏胡麻油座)の独占販売が崩壊したことによって、津島衆は覆いに潤い、その商売を保護する織田家も潤いました。特に今川氏親が金山の坑道掘りを手掛けた為に大量の油を必要としました。胡麻の生産地の1つであった尾張は油の利権でさたに覆いに潤うことになりました。
信長が上洛後、堺や尼崎などの湊や商業都市を重視したのも織田信定・信秀が行った津島や熱田で行った商業地政策の影響を受けてのことでしょう。

■東海道一円の永楽通寶
織田信長の旗印に永楽通寶があります。
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信長は末永く楽が続く世の中を造りたかったのでしょうか。それとも銭の力でのし上がるという意味でしょうか。将又、三途の川の渡し賃という意味でしょうか。
実際のところ、信長が何を思って「永楽通寶」を旗印に使用したかは、永遠の謎であります。タイムスリップでもして、本人に聞きに行かなくてはなりません。
さて、この「永楽通寶」が東海一円に広く流通したのは応永10年(1403年)8月、唐船が相州三崎に漂着しましたことが始まりではないかという説があります。
室町幕府は1401年から1547年の頃まで遣明使を遣わし明と貿易を行っておりました。
日本に通貨が広まったのは平清盛が末法思想の流行で仏具の材料として銅の需要が高まり宋銭(1文銭)を銅の材料として輸入していたことに目を付けたのが始まりです。当時の日本の鋳造技術では粗悪な偽物が大量に出回るので通貨政策が失敗しており、絹織物や米などが通貨の代わりに流通しておりました。
しかし、宋の鋳造技術は非常に高く、偽物を簡単に造れません、
平清盛はそこに目を付けます。大量の宋銭を輸入して国内で流通させ平氏政権の政権基盤のための財政的な裏付けとしました。当時の朝廷の皇朝十二銭の廃絶し、それまでは価格統制の法令として沽価法による価格換算に基づいて算出された代用貨幣である絹の量を元にして、一国平均役や諸国所課を算出します。
これによって安定的な通貨を朝廷が供給することに成功し、政権基盤を築いてゆきまいた。ところが宋銭の流通が九州、中国、近畿と広まり、さらに中部、東海、関東と広まってゆくと通貨の供給量が不足してゆきます。宋船は年に一度しか寄港しません。流通の拡大に通貨発行のスピードが追い付きません。
それによって通貨の価値の上昇、デフレが発生します。
宋銭一枚が絹織物一反だった価値が、翌年には宋銭一枚が絹織物二反と宋銭の価値が上がります。絹や米の価値が暴落した訳です。領地の価値が亡くなっていくことに東国の領主は怒ります。そうして東国の武士団に祭り上げられた源頼朝によって平家政権は打倒され滅ぼされます。
鎌倉幕府を討伐した足利政権は平清盛と同じ政策を取り、明国との交易を再開し、永楽銭を輸入し、日本の通貨とすることで財政基盤を整えました。西国には比較的通貨の流通がスムーズに行われますが、東国は又してもデフレが発生します。
そんな折です。
応永10年(1403年)8月、唐船が相州三崎に漂着しました。その船の中に数千貫文の永楽銭があり、これを接収した鎌倉の管領足利満兼が、「若干の永楽銭を徒らに費やすべからずとて、法を定めて之を用ゆ」として、永楽銭の流通が始まりました。
管領足利満兼はこの数千貫文の永楽銭により地域の掌握をスムーズに行うことができた訳です。これによって東海一円の永楽銭普及が加速します。
貿易路は平戸-博多-堺を経由して京に入ります。そして、京-津島-熱田-東海一円と繋がっておりました。急激に供給量が増す東海の永楽銭の需要に津島は大いに栄えたことでしょう。
さて、明貿易を再開しますが、日本から輸出品は金・銀・銅などの鉱物が主だったものだったようです。平清盛の宋貿易では奥州の金が主な輸出品目でした。当初はやはり金・銀が主だった輸出品目ではなかったかと推測されます。しかし、中国明朝の永楽帝の頃(1400年代初期)に鋳造された銭貨はメキシコや日本から大量に流入した銀が通貨として鋳造されます。洪武帝の時代に永楽通宝などの銅銭も発行されましたが、通貨政策の失敗から銀貨が通貨としての価値を得てゆきます。洪武帝が銅銭の流通を禁止した為に通貨として価値は失われ、海外へ輸出品として使用されます。明朝において銀の価値が上がる中、日本からの輸出品に銀の割合が増して行きました。
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は海外渡来の銀精錬技術である灰吹法を取り入れることで石見銀山の生産量は画期的に増すことに成功します。その他の日本の銀山の産出量も増し、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて当時、日本で算出される銀の生産量は年間200トン、その内、石見銀山が38トン(10000貫)程度だったと言われます。日本の銀産出量は世界全体の三分の一に達しておりました。
明貿易では以下の取引が行われていました。
輸出品:銀・銅・刀剣・硫黄・扇・屏風・蒔絵など
輸入品:明銭(永楽・洪武・宣徳通宝)・生糸・絹織物・書画・骨董品など
明国の通貨である銀貨の生産は日本によって支えられていたのかもしれません。

明貿易を再開した当初は使われなった古銭の大中通宝「銅銭」、洪武通宝、宣徳通宝、弘治通宝、嘉靖通宝を輸出していたのではないかと推測されます。文明17年(1485年)に近い頃、新たに「永楽通寶」が鋳造されるようになり、古銭ではなく新銭が輸出されるようになります。
この「永楽通寶」がすぐに普及した訳ではありません。古ぼけた黒色の古銭に対して、黄金色に輝く銅貨は人々を驚かせます。
重さ 4.9g、直径 25.0mm、厚み 1.7mm、溝掘りも深く、新5円玉のように鮮やかに輝いておりました。もしかしたら、この輝きに信長が未来のあるべき姿と見出したのかもしれません。しかし、古銭に慣れ親しんだ大衆は驚天動地でありました。
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これは偽物だ。
誰も「永楽通寶」を使用しないので、大内氏は文明17年(1485年)4月15日にこんな撰銭令を発行します。
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「銭100文のうち20~30文は嫌がらずに使え」というお触れです。
今迄に慣れ親しんだ『古銭(ふるぜに)』は、滅亡していた唐・北宋の銭です。大中通宝、洪武通宝、宣徳通宝、弘治通宝、嘉靖通宝は先の皇帝が鋳造された銅銭です。しかし、永楽通寶は非常に良質な銅を使用しており、天正年間以降永楽通宝1枚が鐚銭4文分と等価とされたそうです。
その他の東国大名が示した永楽銭の価値は以下の通りです。
・永禄8年(1565年) 伊勢大湊  永楽銭1枚の価 ひた7枚
・永禄12年(1569年) 小田原北条氏 永楽銭1枚の価 精銭3枚
・天正5年(1577年) 小田原北条氏 永楽銭1枚の価 精銭2枚
・天正12年(1584年) 駿河徳川氏 永楽銭1枚の価 鐚銭4枚
(ひた、精銭、鐚銭は、永楽銭以外の渡来銭または、できの悪い銭のことと思われます。)
しかし、天文19年(1550年)の頃に「関東の諸民鐚と云悪銭を鋳出し、永楽銭に交へて同じ直段に用い」、良銭と悪銭が混合したトラブルが多発したそうです。
その後、天文の末に北条氏康が関東を制覇したとき、「鳥目は品々あれども其位永楽銭に及ぶものなし、由て自今関東は永楽銭を用ひ他銭を禁ずべし」としました。
天正18年(1590年)に徳川氏が関東に来たときも永楽銭を用いていましたが、鐚をなくすこともできず、慶長9年(1604年)正月に、「悉く永楽銭を用ゆ、然れども一向鐚を棄るにもあらずとて、他銭4銭を以て永楽一銭の代りにすべし」と決めたそうです。
トラブルを無くす為に永楽銭に統一しようとすると、鐚銭を持ったものが群れを成して抗議され、他の鐚銭を廃しすることもできず、仕方なく他銭4銭を永楽一銭として使うことを容認しました。その後もトラブルは続き、徳川幕府は慶長13年(1608年)に金1両=銀50匁=銭4貫文という通貨基準を定め、永楽銭とその他の基準貨幣としての取り扱いを廃止します。
そして、寛永13年(1636年)に寛永通宝という新銭貨の鋳造に踏み切り、永楽銭問題に終止符が打たれます。

この「永楽通寶」の流通ルートは平戸-博多-堺-京-津島-熱田-東海一円であり、東海から関東一円への中継港として津島は栄えました。その栄え振りから「尾張の金銀はすべて津島を通貨する。」とまで言われえたそうです。
応仁の乱以降は、摂津・山城・近江と戦乱にあって荒廃し、幕府の統制が崩れると大内氏は自ら明貿易船を出し、巨額の富を得るようになります。織田家も京が荒廃により堺-京-津島ルートが使えなくなりました。しかし、神武東征で使われた紀伊水道から熊野灘を迂回する堺-伊勢-津島ルートに変わります。
幕府の束縛を離れた「永楽通寶」が津島を経由して、さらに東海、関東へと流れてゆきました。応仁の乱以降の津島が如何に繁栄していたかが伺えます。

■居城の移転
織田信秀は居城の移転を何度も行っております。それも元の本拠の住人・家臣の大半が移動するというものでした。信秀は尾張中央部の那古野に進出します。那古野城を攻め落とすと勝幡の総構えを放棄して、那古野へ移住してしました。那古野への移動は織田信秀が尾張中央部へ進出してゆく布告でした。さらに那古野奪取の翌年には那古野を信長とその守役平手政秀にまかせ、古渡城(名古屋市中区古渡町付近)へ本拠を移します。それは門前町熱田の商業地を勢力範囲に置く為でしょう。また、桜井松平信定と共に三河へ睨みを利かす意味もあります。さらに晩年には末森に居城を移します。
常に最前線に居城を移すことで武家に配下を城下に配置し、臨機応変に事態に対処したようです。また、商家の武装集団は土地に縛られないというメリットを最大限に生かしたのかもしれません。土豪など領主は農民を徴集するのに時間が掛かるのに対して、少数精鋭であってもすぐに陣触れができることがメリットでありました。
 この居城移転は織田信長の時代になると、さらに頻繁におこなわれるようになります。これを実現させたのは半農半兵から常備軍へ移行でした。那古野→清洲→小牧→岐阜→安土と必要に応じて拠点を移して行きます。信長の拠点を移すという戦略は織田信秀の下で育てられたのかもしれません。

■直轄地と代官支配
織田信秀の行った政策の1つに、直轄地に代官を置くことです。
代官とは、その土地を代わって管理する者のことで、預所代、国司の目代、守護代、小守護代、地頭代、陣代などを代官である叉代と呼びます。織田信長は家臣を城下に居住させ、領主不在の領地や家臣の知行地もまとめて代官に管理させるようにしました。
信秀は攻め取った土地を直轄地(蔵入地)として代官支配させました。たとえば、岩倉織田氏の中島郡を攻め取ると、その地を掌握すると共に津島衆の者に行政的役人として据えます。つまり、代官による支配を行った訳です。代官は直轄地から蔵米知行として回収します。織田の家臣は土地から直接に米を得るのではなく、織田直轄地から与えられた蔵米を支給される米を得て知行とした訳です。
当時は奪った土地を家臣に与えて領地を安堵するのが一般でしたから、異質に写ったかもしれません。しかし、これは斬新な考え方という訳ではなく、幕府が守護や守護代をその国に派遣して支配するやり方を郡や荘レベルに縮小したものです。
尾張西部の海東・海西郡は商工業が発達し、人の出入りが激しい土地柄から土豪や地侍層などが室町時代に生まれた百姓・商人が作る自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)の惣(そう)や相互扶助の精神で成り立っている結(ゆい)の発達が非常に早かったのかもしれません。
織田信秀は下手な領地・領民の入れ替えは土一揆に成りかねないことを感じ取り、土地の者を家臣に取り入れるか、直轄地として代官を配置するようになって行きます。
おそらく、織田信定・信秀親子が津島を手に入れる為に相応の苦労をしたことが、後々の政策に影響したのではないでしょうか。

●奉行衆
祖父江秀重、氷屋秀重・五郎右衛門尉。海東郡津島牛頭天王社神官。
祖父江、法師。津島神社神官。1550年織田信秀から尾張国内の代官職の継承者に任命される。
河村勝久、助右衛門。津島神社神官。
河村秀彰、津島・八郎・九郎大夫・伊之助。津島神社神官。河村秀清の子。津島社禰宜「津島九郎大夫」慶満の養子に迎えられる
河村秀綱、津島・九郎大夫・勘左衛門。津島神社神官。津島社禰宜「津島九郎大夫」。1562年家督相続。弟・将昌が跡職継承。
河村将昌、津島・九郎大夫・久五郎。津島神社神官。津島社禰宜「津島九郎大夫」。兄の死により家督。1561年「森部の合戦」に従軍。敵将・神部将監を討つ軍功。兄・秀綱の養子として跡職継承。
大橋重一、大河内・源左衛門。津島神社神官。大河内重元(左衛門佐・元綱とも)の息。母は大橋定広の娘。大橋家、和泉守・定安の養子。兄弟に牧村源次郎・政忠(斎藤道三家臣)。
大橋重長、清兵衛。津島社家。津島の豪族。大橋重一の子(又は弟)。祖母は熱田大宮司・千秋家の娘。織田信秀の娘(御蔵ノ方)婿。兄弟に大河内源三郎・政局、中根平左衛門・政照。子・大橋長将は堀田正道の娘婿。
河口盛祐、大橋・川口・帯刀左衛門。大橋定広の息(次男)。河口宗持の養子。室は徳川家康の祖母。息に宗吉。孫に宗勝。
長田広政、大橋・喜八郎・広正。大橋定広の養子。母は熱田千秋家の娘。長田政度の養子。息に大浜の長田重元(信長初陣の敵)。孫に永井直勝。
堀田之重、紀・天王右馬大夫。津島神社神官。津島社禰宜「天王右馬大夫」。
堀田正道、紀・弥三郎・加賀守。津島神社神官。
服部、久左衛門。津島神社神官(御師)。
服部康信、平左衛門。海東郡服部の豪族。室は大野佐治家の娘。

?生駒家長、八右衛門。尾張の丹羽郡小折村の豪商・生駒家宗の子。生駒親重(親正の父)の甥。犬山城主・伊勢守家織田信清の配下

●織田一門
織田信辰、)(小瀬・菅屋)・造酒丞・造酒佐・信房。
飯尾定宗、(織田)・近江守。織田信秀の従兄弟(または叔父)。飯尾家に養子。
飯尾尚清、(織田)・茂助・隠岐守・出羽守・信宗。尾張豪族。長谷川秀一は娘婿。

下方貞清、弥三郎・左近将監・(匡範?)。
中川重政、織田忠政・中河・八郎右(左)衛門・駿河守・入道土玄。中川治部左衛門・伊治の養子。
津田盛月、織田・左馬允・隼人正・四郎左衛門。中川重政の弟。

●馬廻衆
赤川景弘、坂井通盛・(彦右衛門)・三郎右衛門。
山口教継、(大内?)・左馬介・(義継)。
佐々成経、孫介・盛種。佐々成政の兄。
岡田重善、助右衛門・重能・直教。尾張国の土豪、岡田重頼の子。
内藤勝介。
神戸市左衛門。
永田、長田・次郎右衛門。
川尻秀隆、河尻秀隆・与兵衛・肥前守・鎮吉・重遠。愛知郡岩崎村出身。親重の子。

●家臣
山口教吉、九郎二郎。
中条家忠、小一郎・将監・秀長。尾張刈安賀の豪族。信長の馬廻、譜代の侍大将。
佐々成吉、隼人正・下野守・政次・長盛。元は尾張北守護代(岩倉)家の家臣。
中野一安、又兵衛・(重吉?)。
佐々成政、内蔵助・陸奥守。本拠地は南尾張清洲の東方の春日郡・比良城城主。
毛利秀高、毛利良勝・新助・(十郎?)・新左衛門。毛利秀頼を養育。
平井長康、平出・久右衛門・久左衛門。
伊東、武兵衛。
水野忠光、帯刀左衛門・<忠広カ>。三河出身。
松岡、九郎次郎・九郎二郎。
生駒、(土田)・勝介・勝助・正之助・庄之助。生駒摂津守・久通の子。生駒親重(親正の父)の甥。
蜂屋頼隆、兵庫頭・出羽守。和泉守護。美濃出身・金森長近と同郷。丹羽長秀の妹婿。
野々村正成、三十郎。美濃出身。
中島、主水正。犬山衆。織田信清の家臣。堀秀重(1532~1606)の娘婿。堀秀政の義兄弟。

●熱田衆
千秋季光、藤原季光・紀伊守。熱田大宮司。尾張国の豪族。
千秋季忠、藤原。熱田大宮司。尾張国の豪族。
浅井、四郎左衛門・備中守・「黒鬼」。尾張国の熱田豪族。千秋季忠は娘婿。季信は孫。
浅井充秀、源五郎・又左衛門。藤次郎・安親の息。尾張国の熱田豪族。
加藤順光、東加藤。加藤惣領家。熱田加藤12代目。加藤景繁の子。加藤延隆の兄。
加藤順盛、東加藤・図書助。加藤順光の子。熱田加藤13代目。羽城に居し東加藤と呼称される。
加藤順政、東加藤・又八郎・図書助・吉郷・入道道珠。熱田加藤14代目。加藤順盛の子。
加藤延隆、西加藤・紀左衛門・隼人正・景隆。熱田西加藤家。延隆の息(長男)。
加藤元隆、西加藤。熱田西加藤家。延隆の子(次男)。
加藤家勝、奥村家勝・西加藤・与三郎・家唯。西加藤家の入婿。前田利家と相婿で義兄弟。

1350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>年表

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信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ

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番外 11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(1)
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/113501572-fcb1.html

番外 11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(2)足利家
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/1135015722-a87a.html

番外 11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(3)斯波家
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/1135015722-219e.html

番外 11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(4)今川家
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/1135015724-9f06.html

〔室町公と尾張・三河・遠江・駿河の年表〕
◆観応元年(1350年)から観応3年(1352年)、仁木義長は観応の擾乱の功績により、伊勢・伊賀・志摩・三河・遠江の守護職を兼帯する。

◆建武3年(1336年)仁木義長は足利尊氏に従い、室町幕府が開かれた後に備後・遠江・伊勢・伊賀・志摩等の守護や侍所頭人などを歴任した。

◆建武3年(1336年)、建武の新政から離反する足利尊氏に従った功績により今川 範国(いまがわ のりくに)に遠江守護職、次いで駿河守護職を与えられた。

◆天授5年/康暦元年(1379年)康暦の政変(こうりゃくのせいへん)、室町幕府の管領・細川頼之が失脚した政変である。
政変後は大幅な守護改替が行われ、細川派から斯波派の大名への加増がほとんどであった。
越前:畠山基国→斯波義将
越中:斯波義将→畠山基国
伊勢:山名五郎→土岐頼康
摂津:細川頼元→渋川満頼
出雲:佐々木高秀→山名義幸
石見:荒川詮頼→大内義弘
隠岐:佐々木高秀→山名義幸
備後:今川了俊→山名時義
伊予:細川頼之→河野通堯
豊前:今川了俊→大内義弘
肥後:今川了俊→阿蘇惟村
日向:今川了俊→大友親世

◆明徳2年/元中8年(1391年)
斯波義将と正室・吉良氏の嫡男、斯波 義重(しば よししげ)は3代将軍足利義満に仕え、叔父の斯波義種に代わって加賀守護に任じられる。

◆明徳2年(1391年)12月
明徳の乱
斯波 義重、山名討伐の為に3代将軍足利義満に従って父に代わって斯波軍を率いて参陣する。
『明徳記』

◆明徳4年(1393年)
斯波 義種(しば よしたね)、義重に移っていた加賀守護に戻る。
斯波義種:越前の大野郡を本家の武衛家(越前守護)より任されたため大野斯波家の初代。将軍の推薦により朝廷より代々民部少輔に任命されたため斯波民部少輔家ともいう。大野斯波家はその後も武衛家の有力な分家である。

◆応永元年(1394年)
足利 義持(あしかが よしもち)、義満より9歳で家督が譲られ、室町幕府第4代将軍足利義持となるが、太政大臣となった義満がそのまま実権を握る。

◆応永2年(1395年)7月
今川 貞世(いまがわ さだよ)、九州探題を罷免され、遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の仲秋、甥の今川泰範と分割統治する。
〔今川了俊と呼ばれる〕

◆応永6年(1399年)
応永の乱(おうえいのらん)、西国の有力守護大名大内氏、大内義弘が室町幕府に対して反乱。斯波 義重、父と共に幕府方として参戦する。今川 泰範(いまがわ やすのり)、幕府方として参戦する。
<応永の乱>守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こして堺に篭城して滅ぼされた。応永5年(1398年)、来日した朝鮮使節から義弘が莫大な進物を受け取っていたことを斯波義将らが「義弘は朝鮮から賄賂を受け取っている」と義満に讒言し、それが義弘に聞こえて激怒させている。
義満は度々義弘へ上洛を催促するが、「和泉、紀伊の守護職が剥奪される」「上洛したところを誅殺される」との噂が流れ、義弘を不安にさせた。
追い込まれた義弘は鎌倉公方足利満兼と密約を結んだ。この密約は今川了俊が仲介した。了俊は義満によって一方的に九州探題を解任され、遠江・駿河半国守護に左遷されていた。さらに義弘は、先年の土岐康行の乱で没落していた美濃の土岐詮直、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男宮田時清、近江の京極秀満(出雲守護京極高詮の弟)や比叡山・興福寺衆徒、楠氏・菊地氏ら旧南朝方と連絡をとり挙兵をうながした。

◆応永7年(1400年)<応永6年(1399年)>
斯波 義重、応永の乱の功績で尾張守護に任じらる。

◆応永7年(1400年)3月
鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪した。
満兼を謀叛に誘った今川了俊は幕府から討伐の命を受けたために上洛して謝罪し、助命された。但し遠江・駿河守護職は取り上げられ、甥の今川泰範に与えられる。
今川 泰範(いまがわ やすのり)、応永の乱で幕府軍側に参陣し、駿河今川氏の第3代当主となり、遠江・駿河守護職を与えられる。

◆1401年 第1回の遣明船。明と国交が樹立し、翌年に足利義満を日本国王とした国書が来る。

◆応永12年(1405年)7月
斯波 義重、義満からの寵愛を受け、名を義教と改め、幕府管領並びに遠江守護を加えられる。
〔斯波氏、越前・尾張・遠江の世襲守護職が確立〕

◆応永17年(1410年)
斯波 義淳(しば よしあつ)、斯波氏(武衛家)7代当主は祖父の義将が死去すると6月には管領職を解かれる。

◆応永21年(1414年)
斯波 満種(しば みつたね)、4代将軍足利義持の忌避に触れて加賀守護職を剥奪される。加賀守護職は近臣として台頭してきた富樫満成に与えられる。

◆応永35年(1428年)1月、足利義持が亡くなり、足利義教が第6代将軍に選ばれる。くじびきで選ばれた為に『籤引き将軍』と呼ばれる。これに意を唱えたのが鎌倉公方の足利持氏であった。

◆永享四年(1432年)、中条氏は義教の咎を受けて所領没収の処分を受けた。将軍義教の拝賀の供奉をした中条判官は、晴儀にふさわしくない衣装であったことを咎められて面目を失った。そして、高橋荘三十六郷年貢高三万六千貫は、三河守護一色持信と東条吉良義尚に分与され、尾張海東郡は尾張守護斯波義淳に与えられた。『満済准后日記』

◆永享8年(1436年)二月十一日、公方家の命を奉じて、平井加賀守広利が三千の兵を率いて京都から三河、遠江に下向し、新田の余族を捜索する。義教将軍が赤松満祐に弑された後、取り締まりが緩くなったので、桃井満昌は三河に帰り、大河内式部少輔と改称した。児玉貞政も、再び三河に来て作手に住み、奥平監物と称した。『浪合記』

◆永享10年(1438年)
永享の乱(えいきょうのらん)
関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立
室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件である。
関東管領 幕府軍:上杉憲実 、足利義教
鎌倉公方 一色軍:足利持氏 一色直兼
今川 範忠(いまがわ のりただ)、駿河今川氏の第5代当主。永享の乱の功績により室町幕府6代将軍足利義教より「天下一苗字」とすると褒められる。
今川 範将(いまがわ のりまさ)、遠江今川氏第5代当主。今川から堀越に姓を改める。

◆永享十二年(1440年)三河国守護、一色義貫が謀殺される。室町殿の足利義教、三河守護の地位は一色氏から召し上げ、管領家細川氏の一族細川持常に与える。
一色氏の分国のうち、若狭と尾張知多郡は武田信栄、三河は細川持常にそれぞれ与えられた.(「東寺執行日記」)。

◆嘉吉元年(1441年)6月24日嘉吉の乱(かきつのらん)、義教暗殺  伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』
室町殿の足利義教、赤松氏随一の武士安積行秀が義教の首を刎ねられる。

◆嘉吉元年(1441年)七月将軍専制体制を推進してきた義教は、播磨守護赤松満祐による嘉吉の乱において殺害されたのであった。ここにおいて幕府政治は大きく方向転換し、義教に勘気を受けていた人々はすべて赦免され、中条氏もまったく復活をとげることができた。

◆文安年間(1443年~1449年)戸田氏の先祖は尾張国海東郡戸田荘の土豪で、三河の国人ではなく、三河国碧海郡上野に移住する。(石川政康の三河移住、蓮如の関東下向とほぼ同時期である)

◆文安 3年(1446年)石川政康、三河国碧海郡志貴荘村に移住。小川城を築く。
『三河布教 / 蓮如の三河国における布教活動-蓮如上人御一代記聞書』

◆宝徳元年(1449年)
細川 成之(ほそかわ しげゆき)、阿波細川家当主の家督を引き継ぎ、阿波・三河守護となる。

◆享徳元年(1452年)9月
斯波 義敏(しば よしとし)、斯波氏(武衛家)10代当主。本家武衛家当主・斯波義健が若年で死去したため、分家である斯波民部少輔家(斯波大野家)当主斯波持種の子・義敏が将軍及び重臣に推薦され本家を継ぐこととなり、武衛家当主となる。

◆長禄3年(1459年)8月
中遠一揆
今川 範将、遠江守護斯波氏に内紛が起こったのを好機として、周辺の土豪たちを招き集めて叛乱を慣行した。
堀越流今川氏が領していた遠江五郷は、幕府に没収されて将軍家直轄領の御料所にされる。
『親元日記』
今川 貞延(いまがわ さだのぶ)、遠江今川氏6代目当主。一時、幕府に所領を没収されたが、返還され貞延による存続が許された。その子、一秀は二俣城を守っていたが、駿河守護今川義忠が遠江塩賀坂で不慮の死をとげるや駿府に移り、幼主竜王丸(のちの氏親)を補佐し、竜王丸の家督相続が確定すると、その功によって瀬名を与えられ、瀬名殿とよばれる。
〔遠江今川氏を保護することで、遠江斯波氏と駿河今川氏との対立構造がここで生まれる。〕

◆寛正6年(1465年)、岡崎から北の井口という額田郡南部を地盤とする地侍・牢人たちが蜂起する。三河国守護の細川成之は牧野出羽守と西郷六郎兵衛を差し向け、砦を攻略し、伊勢貞親の被官の戸田宗光と松平信光に一揆首謀者を討たせた。『今川記』
・三河国守護の細川成之は牧野出羽守と西郷六郎兵衛を差し向け、砦を攻略したものの、略奪と狼藉を繰り返す。近辺は将軍の直轄地であり、守護といえどもおいそれと手出しできず。守護の細川成之は伊勢貞親に相談し、松平信光と戸田宗光に命じて一揆首謀者を討たせる書状をしたためる。
『蜷川新右衛門尉親元の日記 親元日記』
〔松平信光と戸田宗光は伊勢貞親の命令を受けて、一揆討伐の行動にでます。松平信光は一揆勢の大将格の一人、大庭次郎左衛門を深溝に追い詰め、息子の大炊助正則に討たせました。大炊助正則はそのまま深溝に土着し、深溝松平家の祖となります。戸田宗光も敵大将を討ち、残りの者達も駿河まで逃げた所を今川義忠に捕捉され首が京都に送られたとの事です。〕

◆寛正6年(1465年)
武衛騒動(ぶえいそうどう)
斯波義敏(10代当主)と斯波義廉(11代当主)の管領家お家騒動であったが、将軍家家宰の伊勢貞親が介入した為に幕政を混乱に陥れた。
文正元年(1466年)7月23日、足利義政側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。8月25日には越前・尾張・遠江守護職も与えている。

◆寛正六年(1465)八月、勝間田修理亮は将軍の上意によって横地氏とともに見付(磐田市)の狩野氏を討ち取り、感状を授かったことがある。

◆文正元年(1466年)9月6日 文正の政変 斯波義廉と縁戚関係にあった宗全は一色義直や土岐成頼らと共に義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放、暗殺を図ったことから義視の後見人である勝元は宗全と協力して9月6日に貞親を近江に追放(文正の政変)、政変に巻き込まれた真蘂、義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われた。14日に家督は斯波義廉に戻された。

◆応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)
応仁の乱(おうにんのらん)
室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの有力守護大名が争い。
【東軍】
将軍家:足利義政、足利義視(後に西軍へ)
幕府有力者:細川勝元(細川一門)、畠山政長、斯波義敏
その他の大名:赤松政則、京極持清、武田信賢、富樫政親、今川義忠
【西軍】
将軍家:日野富子(後に東軍へ)、足利義尚
幕府有力者:山名宗全(山名一門)、畠山義就、斯波義廉
その他の大名:一色義直、土岐成頼、六角高頼、(大内政弘、河野通春)
今川義忠、山名宗全は義忠を西軍を引き入れようとするが、将軍警固のために上洛したことを理由に東軍が占拠している花の御所へ入り、そのまま東軍へ属した。〔西軍の越前・尾張・遠江守護の斯波義廉に対抗し、東軍に参陣したと言われる。〕

◆応仁2年(1468年)7月
斯波義廉、幕府より管領・3ヶ国守護職を剥奪されるが、西軍内ではなおもその地位に留まった。

◆1471年(文明 三年)安祥城に松平信光が入った。〔安祥城城下に踊りの集団が現れ、お囃子を入れながら踊りを披露し始めます。それを見物に城兵達が城を出た所を、一軍を率いた松平信光が乗っ取った。〕大久保彦左衛門忠教『三河物語』

◆文明 3年(1471年)岩津松平信光、安祥城を奪取。三男親忠を置く。
『三河布教 / 蓮如の三河国における布教活動-蓮如上人御一代記聞書』

◆文明3年(1471年)5月21日、越前・遠江守護代の甲斐 敏光。朝倉孝景が足利義政から越前守護の任命されたことで西軍から東軍に寝返る。

◆文明5年(1473年)
応仁の乱のその後
幕府では富子の勢力が拡大し、「将軍職を譲る」と約束された義視が義政と仲違いし西軍へ身を投じたため、義政・富子の子である義尚が元服して義政が義尚に9代将軍職を譲って隠居した。管領には畠山政長が任じられた。勝元亡き後では順当の人事であったが、
応仁大乱のきっかけとなる御霊林の戦いを引き起こした政長が幕閣の頂点に立つのは諸大名の反感を呼び、政界の混乱が収まるはずはなかった。
形式的に東軍の意見が通っる事になり、西軍諸将は猛反発を引き起こす。こうして戦闘は継続され、応仁の乱が終わる気配は無かった。
こうして、敗者である西軍を処断できない幕府は権威を失墜させることになった。

◆文明5年(1473年)、駿河守護今川義忠は東軍の三河国守護・細川成之が美濃国守護代格・斎藤妙椿から攻撃を受けたため、将軍の命により三河へ出陣している。その為に将軍から兵糧用として預けられた所領を巡って同じ東軍の尾張国守護・斯波義良及び三河の吉良義真の被官となっていた遠江の国人巨海氏、狩野氏と対立して、これを滅ぼした。そのため、同じ東軍の義良、成之と敵対することになった。

◆文明7年(1475年)2月19日
西軍の斯波義廉の越前・遠江守護代甲斐八郎敏光、東軍斯波義良の遠江守護代となり遠江下向。『戦国史研究35』
文明7年(1475年)駿河守護今川義忠、東軍は西軍の義廉の重臣・甲斐敏光を寝返らせ遠江守護代として、義忠と敵対。遠江の情勢は混沌とする。義忠は遠江へ出陣して斯波義良方の国人と戦った。

◆文明7年(1475年)7月23日
駿河守護今川義忠、遠江勝田氏を破る。
『静岡県史資料編⑥』

◆文明7年(1475年)11月18日
斯波義廉、斯波氏の下国
文明3年(1471年)に有力家臣の1人である朝倉孝景が越前に下向した後東軍に属し、文明7年(1475年)に甲斐敏光も東軍に帰順して孤立、幕府から追討を受け、11月に尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国し、東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を一時同国から駆逐する。
『愛知県史資料編⑩』

◆文明8年(1476年)4月6日
塩買坂(菊川市高橋橋)の戦い
駿河国守護で駿河今川氏6代目当主 今川義忠(いまがわよしただ)が敵対した遠江の有力国人 横地氏の本城 横地城(静岡県菊川市)を攻略し、横地氏15代当主 横地四郎兵衛秀国を討ち取りました。
その夜、今川義忠は塩買坂(菊川市(旧小笠郡小笠町))で敵の残党による待ち伏せにあって、流れ矢で深手を負い討死。
今川彦五郎上総介治部大輔義忠、塩買坂(菊川市高橋シ)にて横地・勝間田残党に襲われ討死。41歳。法名「長保寺殿桂山昌公大禅定門」菩提寺ボダイジは長保寺(静岡市シズオカシ賎賎機キカイ山ヤマ山麓サンロク) 
久野清憲・松浦新左衛門通直・朝比奈氏・飯尾長連ら18人討死 
長谷川藤兵衛尉長重討死。法名「弘徳院殿」 
松井宗泰討死。『宗良親王信州大河原の三十年』 
宗長、今川家を辞して上洛。宗祗に入門「宗長」と号す。
〔今川 義忠の討死〕

◆文明8年(1476年)、一色勢が細川成之の守護代東条国氏を自害に追い込み優勢であったが、成之はこの事件を契機に幕府出仕を拒否、結局、文明10年(1478年)2月、義直が三河を放棄する旨を文書で表明し三河の一色軍は撤退した。

◆文明10年(1478年)
尾張守護代の織田敏広の更迭
斯波義敏・義寛父子の盛り返しにより織田敏広が守護代を更迭され、織田敏定が新たな守護代に任じられると、織田敏定は幕府から「凶徒退治」を命じられ下国、斯波義廉は織田敏広と共に幕府から「凶徒」と断じられ、尾張での支持勢力を全て失った。

◆1478(文明10)年、将軍足利義政は東軍の斯波義敏についていた織田大和守敏定を尾張国守護代に任じ、そして、斯波義廉と織田伊勢守敏広を討つよう命じます。敏定と敏広の対峙・和議が繰り返されるうちに敏広が没し、尾張を統一するに至らず、尾張北四群(敏広・岩倉派)と南四群(敏定・清洲派)が争うことになる。

◆文明15年(1483年)3月
斯波 義寛(しば よしひろ)、尾張清洲城に入城し、ここを守護所と定め、甲斐敏光を遠江守護代に任じて今川に対する守りを固めた。

◆文明17年(1485年)
斯波 義寛(しば よしひろ)、諱を『義寛』と改め従四位下左兵衛佐に任じられると、同年出家した父の跡を継いで名実共に武衛家当主となる。

◆文明19年、長享元年(1487年)11月
今川 氏親(いまがわ うじちか)、盛時は石脇城(現在の静岡県焼津市)を拠点に兵を集めて駿河館を襲撃して範満を殺した。龍王丸は駿河館に入って元服して氏親と名乗り、今川家の当主となった。

◆長享元年(1487年)長享・延徳の乱が起こる。
足利義尚による近江守護・六角高頼攻めると、九月晦日、斯波義寛は尾張守護代織田敏定、織田寛広ら織田氏一族以下8000の大軍を率いて幕府軍に参陣し、その主力となった。

◆長享元年(1487年)、斯波氏、長享の訴訟に乗り出す。
「長享の相論」尾張から出陣した武衛斯波義寛と朝倉氏との間に、越前国宗主権をめぐる訴訟問題が持ち上がる。
将軍親征の目的が寺社領・諸荘園の押領停止であるならば、その典型ともいえる朝倉氏の越前押領の非を訴える斯波氏の主張は、正当なものであるだけに、幕府にとっても厄介な案件であった といえる。
細川政元が将軍の命として越前支配については「守護は斯波氏で朝倉氏が守護代の地位にある」としながらも、「朝倉は忠節によって将軍の直奉公分になった」
つまり、守護は斯波氏、朝倉氏は守護代であるが、朝倉氏は直奉公分になった。

◆長享元年(1487年)十二月九日、足利義尚の陣にあった武衛義寛に従っている守護代織田氏の岩倉方の広近(敏広弟)の陣所(近江守山)で出火する事件があり、鷹二羽、馬三頭、武具家具などの相当の損害がでた。これといっ た戦いが無いなかでの長滞陣であり、これを機会に陣払いが具体化したものと考えられる。<長享・延徳の乱の後期>

◆長享二年(1488年)二月二十三日、武衛斯波義寛は、手勢を率いて近江から京に入り、前将軍義政を東山山荘に訪ね、そのまま父義敏がいる武衛邸に入り鈎には戻らなかった。そして、陣払いを指示したらしく、三月四日、織田軍も近江から尾張へと軍を引き上げた。<長享・延徳の乱の末期>

◆延徳2年(1490年)1月
足利義政没。

◆延徳3年(1491)足利義稙の第二次六角征伐 参陣、斯波義寛、畠山尚順 、武田国信、山名俊豊、一色義秀、大内政弘、赤松政則、京極政経、細川政元(安富元家)、富樫政親

◆延徳3年(1491)第二次六角征伐、斯波義寛はまたも大軍を率いて参陣「武衛衆の壮麗、山名衆に勝る。同日に語るべからず」と賞賛されるほど華麗な軍勢で、播磨の赤松勢と共に六角一族の山内政綱を討ち取る戦功を挙げた。そして、義寛は義稙に重ねて越前回復を訴え、義稙はついに「朝倉退治」の御教書を義寛に下された。(結局、幕府は朝倉氏の精鋭1万といわれる軍事力に二の足を踏み越前回復はならなかった)

◆延徳3年(1491年)1月7日
足利義視没。

◆明応2年(1493年)10月13日
松平親忠、三河上野城主阿部満五郎・寺部城主鈴木日向守・挙母城主中条出羽守・伊保城主三宅加賀守・八草城主那須惣左衛門三千余人との井田野合戦に勝利する。
『戦国の兵士と農民』
<井田野合戦>加茂碧海国人連合軍が岩津城を奪取して岡崎城に迫る。矢作川を渡って井田野(岡崎市)に押し寄せてきた戦い。この戦で岩津松平家が激しく損耗し、この後、安祥松平家が一族の支流になってゆく。この合戦で勝利した松平氏は碧海郡の南部を支配化に置いた。
明応2年(1493年)井田野合戦、中条氏など加茂郡の諸勢力を安城松平の親忠が撃破した。

◆明応二年(1493年)十月、18日、甲斐勢は加賀の一向一揆とともに越前に侵攻して、朝倉貞景の軍と戦う。21日甲斐勢は大野郡や豊原寺へ侵攻し、朝倉勢と激戦のすえ加賀に退却した(同 同年十一月六・九日条、『後慈眼院殿御記』同年十月十二・十九日条)

◆明応2年(1493年)10月、興国寺城の伊勢新九朗盛時が韮山城の堀越公方足利茶々丸を攻める。

◆明応3年(1494年)
駿河守護の今川氏親、義寛が守護を兼ねる遠江に侵攻を開始。

◆明応3年(1494年)遠江・天方城の(天方氏)山内豊後守通秀は駿河の今川氏親は伊勢新九郎(北条早雲)を大将として遠江国に大軍を発し、このとき通季は今川氏に降った。

◆明応3年(1494年)10月13日
殿谷城(掛川市本郷)の戦い
伊勢盛時数千(杉山太郎左衛門従軍)、佐野・山名・周智3郡侵攻。殿谷城原頼景攻め落とす。高山円通院(掛川市寺島)住持松堂高盛・安里山長福寺(掛川市本郷)住持恵珊長老焼失。この後、餓死者が出る。 
(遠州侵攻は、将軍足利義澄・細川政元支持の元行なわれる。前将軍足利義材と通じていた遠江守護斯波義寛は中央が変化する文亀年間まで動けず。) 
遠江守護斯波義寛の意向を受けて足利茶々丸を支援するのを牽制の為。
『今川氏と遠江・駿河の中世』
秋、今川氏親の命を受けた伊勢新九郎長氏が原野谷川流域に侵攻し、放火や略奪を行った『円通松堂禅師語録』

◆明応4年(1495年)3月
船田合戦、美濃守護土岐成頼の後継者を巡る斎藤妙純と石丸利光の合戦。近隣の近江・越前・尾張も巻き込んでの争乱となった。

◆明応5年(1496年)、横地四郎兵衛秀国の孤児、藤丸は家老、二俣、松井氏に護られ、再び横地村に居館し、勢力を盛り返さんとし、勝間田氏は門原(桃原)に居城し、倉真(掛川市)の河合氏を滅ぼしている。▲明応5年(1496年)志戸呂の戦い、横地・勝間田・河合氏ら斯波派遠江国人領主らを各地で攻め、志戸呂城において城主鶴見因幡守を打ち取る。

◆明応5年(1496年)7月
二十年近くの空白を経て氏親が遠江侵入を開始する。
「河井宗忠、反今川勢により松葉城で倒れる。」
明応三年(一四九四)  のことと思われる。氏親の遠江における初見文書は、明応五年(一四九六)七月◎遠州東部
①河村荘
②堀内城
③横地城
④長松院
⑤山口
⑥法泉寺
⑦松葉城
⑧安養寺
⑨河村家
⑩法昌院
⑪天王山
⑫横岡城
⑬勝間田城
⑭孕石
⑮湯日

◎遠州中部
①原田荘
②高籐城
③円通院
④堀越
⑤川井
⑥友永
⑦掛塚
 十八日長松院(現掛川市日坂町)に出した禁制である。
「今川氏の遠江支配」(48)

◆明応5年(1496年)9月10日
松葉城(掛川市倉真)の戦い
松葉城は国人領主川井成信(号宗忠)の居城であっ た。 『掛川市史年表』

▲明応6年(1497年)4月25日 柏久保城(修善寺町)の戦い
狩野氏と激しい戦いを行った。大見三人衆の働きで勝利を収める。(伊勢新九朗)
柏久保城(修善寺町チョウ)伊勢盛時と狩野氏(伊東氏の娘婿)・圓覚援軍戦い。狩野一族、国清寺で自害。狩野道一柿本戦い敗退し修善寺で自害。
伊勢盛時、大見3人衆(佐藤藤左衛門・梅原六郎左衛門・佐藤七郎左衛門)に感状。伊豆の中・南部が味方につけばさらに恩賞を約束する。『伊豆の郷土研究24』

▲明応6年(1497年)11月13日 倉真城の戦い?

◆明応6年(1497年)11月13日 
原要害(殿谷城)の戦い (掛川市細谷)
殿谷城原頼景、今川軍に攻められる。本郷城孕石行重、侵攻を阻もうとする原氏を説得して今川方とする。小沢八郎英永帰農。『今川氏と遠江・駿河の中世』

◆明応6年(1497年) 船形山城の戦い、三遠国境の船形山城を手中にした戸田宗光は勢いに乗じて遠江に進攻、浜名湖西岸から北岸(三ケ日町)にかけてその所領を拡大した。

◆明応7年(1498年)8月25日 東海大地震
「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」
『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『実隆公記』、『言国卿記』および『大乗院寺社雑事記』
津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、波高は駿河湾沿岸の江梨や小川で8m、伊勢、志摩で6 - 10mであった。津波規模は安政東海地震を上回り、伊豆半島西岸や志摩半島では局所的に大規模な津波が襲来していた。
「加之大地震動海水大涌。而溺死者大凡二萬六千人也。林叟之旧地忽変巨海也」
『林叟院創記』
駿河湾岸の志太郡付近で水死2万6千とされる。
「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」『東栄鑑』
「湖水変為潮海矣」『遠江国風土記伝』
淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した。
「今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々、其外伊勢島間ニ彼是一萬人許モ流死也」
『内宮子良館記』
伊勢大湊で家屋流失1千、溺死5千、伊勢、志摩で溺死1万とされている。

◆明応8年(1499年)、船形山城の戦い。今川氏親は掛川城の朝比奈氏に宗光討伐を命じ、船形山城は朝比奈泰以に率いられた今川勢の猛攻を受けて落城した。諏訪信濃守と戸田宗光はこの戦で討死し、戸田氏は今川に降る。

◆明応10年・文亀元年(1501年)8月10日、松平氏の第4代当主、松平親忠は71歳で死去した。

◆文亀元年(1501年)
斯波 義寛(しば よしひろ)、遠江守護代甲斐氏への援軍として義寛は弟である寛元、義雄を遠江に派遣し攻勢をかける。

◆文亀元(1501)年8月~9月、座王城(久野城)・天方城の戦い。遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍が反撃を開始しますが今川氏親はこれを撃破。
(久野佐渡守宗隆、福島左衛門尉助春、本間宗季らと小笠原定基、斯波義寛の戦い)
今川に降っていた山内豊後守通季の天方城を斯波 義寛(しば よしひろ)、遠江守護代甲斐氏への援軍として義寛は弟である寛元、義雄を遠江に派遣し、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍の攻勢をかける。
遠江国守護斯波氏は信濃国の小笠原氏と連携して久野城と天方城を攻略したが、このとき山内豊後守通季は天方城を捨てて今川氏を頼って落ち、その後奪還した。
・中遠地方の座王御城(ざおうごじょう)〔久野城(袋井市)〕・天方城(周智郡森町)・馬伏塚城(まむしづかじょう)(磐田郡浅羽町)などでも激戦があった。
『今川方の本間宗李(むねすえ)の軍忠状』
・八月十二日付「右馬助方二俣(うまのすけかたふたまた)に在庄す。 まことに以て祝着に候。 よって、この時別して合力に預かるべき事、本望に候」
『斯波義雄が松尾(長野県飯田市)系の小笠原是基(さだもと)・貞忠(さだただ)父子にあてた書状』
右馬助貞朝の軍勢が二俣(天竜市)までやってきていることを伝え、重ねて合力を要請している。

◆文亀元年(1501年)9月14日 早雲庵宗瑞は甲斐の国に侵入するが武田信純に阻まれて陣を退く。

◆文亀元年(1501年)9月、今川氏親の重臣伊勢新九郎長氏が三河岩津城攻る。
「其後信光公の御孫徳川次郎三郎長親公の御時 文亀元辛酉年九月 今川家大将 伊勢新九郎長氏入道早雲と岩付の城下に於て御合戦御勝利なり。此時の先陣ハ 酒井左衛門尉氏忠入道浄賢 舎弟与四郎親重 并本多 大久保 柳原所なり」
『柳営秘鑑』(『徳川実紀』では、永正3年(1506年)8月20日のこととする。)
大軍で東三河を制した今川氏親は西三河に進攻、長親は籠城策を採らず野戦を選択。みずから手勢を率いて安祥を出陣。駿・遠と東三河の勢を合わせて1万余という大軍に対し長親は500余の手勢で迎撃を試みた。
松平勢の決死の戦いぶりに今川方は戦意の低い東三河勢がまず破られた。その後も長親は新手を撃ち破り、最後は今川軍の大将の伊勢盛時の旗本勢まで打ち崩した。日没後も松平勢はよく持ちこたえ、その夜は矢作川を前に宿陣した。今川軍は思わぬ苦戦の結果、渥美半島の田原城から戸田氏にその背後を衝かれることを恐れて、翌朝には東三河の今橋城を経て本国へ撤退した。『三河物語』(永正5年(1508年)説)

◆文亀2年(1502年)4月23日 細川政元は、山城国槙島にいる赤沢朝経の討伐のため出陣しょうとしたが、第11代将軍義高に諌められる。4月25日 細川政元帰京する。

◆文亀2年(1502年)7月21日 将軍足利義高は義澄と改名する。

◆文亀2年(1502年)8月04日 足利義澄は、細川政元の驕慢に怒り、岩倉の金竜寺に去る。

◆文亀2年(1502年)9月某日 細川政元は九条政基の子を養子にし、澄之と命名する。

◆文亀3年(1503年)葛山孫四郎、甲斐に進撃し、戦死。

◆文亀4年・永正元年(1504年)扇谷朝良・氏親・早雲の連合軍、立河原の戦いで山内顕定に勝利する。

◆文亀4年・永正元年(1504年)8月 堀江城の戦い (早雲庵宗瑞と堀江下野守の戦い)

◆文亀4年・永正元年(1504年)12月01日 上杉顕定・房能の兵上杉朝良の武蔵国椚田の保塁を攻めこれを抜く。

◆永正2年(1505年)2月、足利義澄が夫人と不和で離縁し、後室に武衛斯波義寛女が入ります。

◆永正2年(1505年)、三河国東部、奥平 貞昌 今川氏親により遠江国浜松荘(現在の静岡県浜松市付近)の一部を所領として宛がわれた。

◆永正三年(1506年)、勝間田氏の後裔が小幡勘兵衛景憲は伊勢新九郎(北条早雲)の反今川勢力の掃討戦に破れ、野に下り、一族とともに横地村に土着した。

◆永正3年(1506年)、今川氏親、奥平氏に送られた書状、戸田氏の要請で今橋城を攻める為に貢献を求める。
「先度以状申述候、為其国合力、来十六日諸勢可差越候、田原申合、抽而其動肝要候、例式於無沙汰者不可然候、此方勢衆逗留之内ニ細川ニ一城取立、上野通路無相違候様ニ、調談専一候、此儀就庶幾者、各以近番、加西衆可■相踏候、巨細諸勢相立候時可申越候、為心得先兼日申述候、恐々謹言、
八月五日
氏親 判
奥平八郎左衛門入道殿」
1506(永正3)年8月5日『今川氏親書状写』
◆永正3年、久野、堀越、向笠、蝮塚氏ら今川家由来の領主の軍団を先頭に、一万を越える今川軍を遠江一帯に展開し、斯波軍を攻め立てた。浜名湖周辺をほぼ制圧、その余勢をかって東三河にまで侵入した。今川氏親は三河の今橋(豊橋市)に吉田城を築き、三河の有力領主である松平長親に備えた。さらに氏親は早雲の助けを得て地元の戸田憲光を討ち、東三河の平定に向かう足掛かりを造ったのだ。『北条早雲伝』<草 舎人>

◆永正3年(1506年)3月19日 吉田城 牧野古白 伊勢新九郎に負け瀬木城に落ち今川氏親に仕える

◆永正3年(1506年)4月21日 管領細川政元の養子澄元は兵を京に上らせ澄之・高国と家督を巡り争う。

◆永正3年(1506)8月 幕府・伊勢氏が三河分郡守護を務めた時の所領回復の為、伊勢氏代官・松平家の横領を停止させる為に三河国に出陣する。伊勢長氏(伊勢入道早雲)
細川京兆家と阿波守護家の対立より、三河守護細川成之は宗家の細川政元側で前将軍義材に組みする。一方、細川京兆家高国は幕府側であり、幕府から三河討伐を今川氏親に命じた。
・「牛久保牧野氏からも援軍として牧野新二郎(新三郎とも)が後詰めに出陣したが敗北にともない散兵を収めて牛久保に帰陣した」『牛窪密談記』
・「西三河の松平長親が今川氏進攻の急報に接し、援兵を東三河に送った。長親は援兵を宝飯郡の八幡(愛知県豊川市八幡町)に派遣、後陣を西三河の大平河(岡崎市大平付近)に置いたが東三河勢が大敗したとの報を受け大平河の松平軍が大いに動揺した」『三河海東記』

◆永正3年(1506)8月 今川氏親、奥平八朗左衛門入道に書状を当てる。
戸田と申し合わせて細川の一城(松平)を取るので積極的に協力してもらいたい。

◆永正3年(1506年)、吉良義信が三河に侵攻した今川氏親・伊勢宗瑞に対して行き掛りを廃して連携しようとしている。

◆永正3年(1506年)8月20~21日 岩津城の戦い (松平長親と伊勢早雲の戦い)

◆永正3年(1506年) 8月26日~11月4日 今橋城の戦い (伊勢早雲と牧野古伯の戦いで古伯は戦死する)

◆永正3年(1506年)9月21日、北条早雲が小笠原定基宛てに手紙を書きました。
『関右馬充の事、我等と一躰(いったい)に候(そうろう)。伊勢国関と申す所に在国に依(よ)って、関と名乗り候。根本は兄弟従(よ)り相分かるる名字に候』
『早雲寺』(神奈川県足柄下郡箱根湯本)
信濃の小笠原定基(おがさわらさだもと)に小笠原の家臣であった関右馬充春光(せきうまのじょうはるみつ)と出自が同じである事を語り、これから懇意にしてもらいたいという内容で献上の刀と共にお願いしている。さらに今橋を陥落させて19日に端城を攻めて乗っ取ったった。よってもうすぐですと書いてある。
永正三年(1506年)の9月19日に、松平方の牧野古白(まきのこはく)が守る今橋城を攻め落としているので、永正三年(1506年)9月21日付けであろうとされている。

◆永正3年11月15日付「桑子妙源寺宛今川氏親制札」(『妙源寺文書』)
今川氏の勢力が西三河の岡崎市付近まで及んでいた。

◆永正4年(1507年)6月23日 細川政元(42)が子の澄之と香西元長・薬師寺長忠らに謀殺される。

◆永正4年(1507年)6月24日 香西元長らが細川澄元を攻め、細川澄元は敗れて三好之長らと近江甲賀に逃れ、山中為俊を頼る。

◆永正4年(1507年)8月01日 細川高国らが細川政元の子澄之を襲い殺害する。香西元長、薬師寺長忠らも没する。 8月02日 細川澄元が細川政元の継嗣となり上洛する。

◆永正5年(1508年)6月8日 新たに足利将軍となった義稙(義尹)が大内義興らと入京する。

◆永正五年(1508年)東三河に長篠城を菅沼元成が今川氏親の命により築城する。

◆永正五年(1508年)尾張国水野為則、下野守任官の礼として三条西実隆を尋ねる
四日、庚午、入夜小雨、(中略)
尾州水野右衛門大夫任下野守云々、称礼来携太刀、大隅引導也、対面了、
(後略)
五日、辛未、晴、早朝遣太刀於水野許了、(中略)水野送一荷鯉等、不慮芳志也、(後略)
『実隆公記』(愛知県史 資料編10)
4日(庚午)夜に入って小雨。尾張国水野右衛門大夫が下野守に任じられたということで、礼と称して太刀を携えて来た。大隅が案内して対面した。
5日(辛未)晴れ。早朝に水野の元に太刀を送った。(中略)水野が1荷の鯉などを送ってきた。思いがけぬ芳志である。

◆永正五年(1508年)今川氏親の重臣伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)による三河岩津城攻めの際にその配下遠州衆の中に加わっていた。「三河物語」無笠

◆永正五年(1508年)7月1日室町幕府第10代将軍 足利 義稙(あしかが よしたね)は大内家の軍事力に支えられ、11代将軍・義澄や細川家後継者争いで高国と対立していた管領・細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰した。

◆永正五年(1508年)義材派から義澄派に転向した斯波氏の立場微妙となる(今川氏は義材支持)

◆永正五年(1508年)10代将軍足利義稙は今川氏親を遠江守護に任じられる。

◆永正五年(1508年)10月19日伊勢宗瑞、巨海越中守に、彼の合力を今川氏親に報告したと連絡
今度於参州十月十九日合戦、当手小勢ニ候之処、預御合力候、令祝着候、御粉骨無比類之段、屋形様江申入候、猶自朝比奈弥三郎方可在伝聞候、恐々謹言、
十一月十一日
宗瑞(花押)
巨海越中守殿
『伊勢宗瑞書状写』(愛知県史 資料編10)
 この度10月19日に三河国で合戦し、こちらが小勢であったところ、合力をいただきまして祝着です。ご活躍は比類がなく、屋形様へ報告しました。さらに朝比奈弥三郎からお伝えするでしょう。

◆永正五年(1508年) 10月19日、三州合戦 今川軍が三河より敗走する。(松平長親と伊勢早雲の戦い)

◆永正5年(1508年)11月7日
「七日、辛丑、晴、(中略)大隈来、参川国去月駿河・伊豆衆敗軍事語之、」永正五年十一月七日条『実隆公記』
三条西実隆が三河国での今川方敗退

◆永正五年(1508年)今川氏親、三河国における伊達蔵人の奮戦を賞す
於今度三川陣、抽而令粉骨由候、神妙尤感悦候、於向後弥可走廻候段喜悦候、猶朝比奈弥三郎可申聞候、恐々謹言、
十一月十六日
氏親(花押)
伊達蔵人丞殿
『今川氏親感状』(愛知県史 資料編10)
この度の三河国出陣で、ぬきんでた活躍をしてくれたとのこと。神妙でとても感悦しました。今後においてもますます奔走していただけると幸甚です。さらに朝比奈弥三郎がご説明するでしょう。

◆永正5年(1508年)11月16日、応仁の乱の発端を担った元越前・尾張・遠江守護斯波義敏没(74才)

◆永正六~七年(1509~1510年)、西条吉良の代官?大河内貞綱が三河勢を連れて遠江に逆侵攻する。

◆永正6年(1509年)早雲庵宗瑞、武蔵に出兵して江戸城に迫る。

◆永正7年(1510年)1月29日 将軍足利義尹は管領細川高国、大内義興らに前将軍足利義澄の討伐を命じ、管領細川高国らが敗れて帰京する。

◆永正七庚牛年(1510年)三月廿日 今川氏親、本間宗季の軍忠状を認定する
遠江国山名郡石野郷内小野田村之事
 右、任本地致知行、御入国以来忠節仕条々、
一座生御城江信州一国罷立相攻候処、久野佐渡守及難儀半、属福嶋左衛門尉助春手彼城中ニ走入、励軍忠久野同前得勝利候、
一天方城敵相楯籠候時、久野并渋谷相共遂合戦、佐野小次郎討捕、其頸福嶋玄番允渡之畢、
馬伏塚敵可乗取支度仕候時、宗季最前彼城エ懸入、依助春令知之、企謀略之族則令出奔畢、
関東御進発御供仕、於武州立河原御合戦大利上軍功其一数候、
一三州江福嶋玄蕃允為助春代、罷立候時、令同心候、其後御進発之刻、御供仕、今橋城攻仁百余日尽忠功候、同於石巻之城、渋谷同前六十余日粉骨、無其隠候、以此条々下給御証判、可備後代亀鏡之旨、宜預御披露候、仍目安状如件、
永正七庚牛年三月廿日
本間源次郎宗季
披見申候(今川氏親花押)
『本間宗季軍忠状写』(静岡県史 資料編10)
遠江国山名郡石野郷内小野田村のこと。右、本領を任せ知行をし、ご入国以来忠節を行なってきた事柄である。一、座生城へ信濃国が国を挙げて共同で攻め立てたところ、久野宗隆が戦況不利になった際に、福嶋助春の部隊としてあの城に駆け込み、軍を励まして久野と共に勝利を得ました。一、天方城に敵が立て篭もった際、久野・渋谷と共に戦闘し、佐野小次郎を討ち取ってその首級を福嶋玄蕃允に渡しました。一、馬伏塚で敵が乗っ取りの準備をしていた際、宗季はすぐにその城へ駆け込んで助春に謀反を知らせた。謀略を企てていた輩は出奔した。一、三河国へ福嶋玄蕃允が助春の代官となり出立する際、同心となりました。その後ご進発の際はお供して、今橋攻城に100余日忠功を尽くしています。同じく石巻の城、渋谷でも同じく60余日粉骨したことは隠れもないことです。これらの事柄をもってご証判を下され、後代の規範である旨備えるようにと、宜しくご披露を預かりました。目安のことはこのようになっています。

◆永正 7年(1510年)3月20日、本間宗季、今川氏親に軍忠状を提出し、証判を受ける。

◆永正7年(1510年)7月19日 上杉朝良の家臣上田政盛が早雲庵宗瑞に応じて武蔵権現山を攻める。上田政盛を扇谷家から離反させ権現山城で挙兵させるが、両上杉方の反攻により敗北する。(権現山城の戦い)

◆永正7年(1510年)12月28日夜~永正9年(1512年) 閏4月3日伊達忠宗、今川氏に刑部城を巡る攻防戦の成果を報告する
武衛様御陣所度々火事之事
一[永正七年十二月廿八日夜]まきの寺御陣所火事にて花平へ御移候、
一[永正八年 午剋時分]正月五日 花平御陣所・御番所・同御たい所火事
一 二月廿日夜[子剋時分]すゑ野殿御陣所并御被官衆陣所卅間火事
一 同夜[亥剋時分] ミたけ井伊次郎陣所・番所火事 是ハしのひヲ付申候、
一 三月九日[寅剋時分]太田左馬助陣所初而其外卅余火事
同、
一 形部城へ敵度々討詰候事
[永正八年]
二月十二日 引間衆物見ニ出候跡ニ三百計、
七月九日 引間衆原口へ五百計、
十月十七日 武衛御自身四手ニ分、千余ニて討詰候き、
同十九日 形部口原口へ千五百計、是ハ五手ニ分、詰候き、
同廿三日 形部口原口へ人数千余ニて、二手ニ分、詰候き、
同廿四日 形部口へ井伊次良四百計にて、
原口へ引間衆千余にて、討詰候、武衛御自身、気賀へ打詰させられ候、御人数千計にて候き、
十一月五日 形部口へ三百計、
同六日 片山半六大将にて、武衛衆五百計打まハり、
同廿七日 形部口より気賀へ働候衆七八百、
十二月一日 村櫛・新津へ詰候而、退候処を出合、しやうし淵にて、のふしはしかへさせ候き、
[永正九年]
正月十日 夜中ニ五百計、打詰候ツ、
同廿一日 人数五百計にて、形部口へてちかく打詰候き、
同三月九日 川むかいまて、七八百打出候ツる、
同十七日 気賀へ打詰、むきをなけ、一日野ふしはしかへ候き、引間ハ原口へ打詰、
巳剋より未剋まてやいくさてちかく仕候、
四月六日 武衛衆・引間衆・井伊衆千五百計にて、三手ニ分、ほり河へ一手打詰、せめ入候を、形部より出合、おいこミ、ていたく仕候き、
同廿三日ニ武衛衆・井伊衆、下気賀まて打詰、むきをなけ、苗代をふミ返しのき候を、清水口へよこあひにのふしをかけ、さつゝゝにおいちらし候、
壬四月二日 武衛衆・井伊衆・引間衆太勢にて、村櫛・新津城へ取詰候而、新津のね小屋焼払候を、形部より村櫛へ七十計、舟にて合力仕候、
同三日 井伊谷へ朝かけニ形部より働候而、三人いけ取退候を、敵したい候間、城より出合候而、神明ふちにて、はたえを合をいこミ退候き、
其後も度々罷出候へ共、指儀不仕候処、則引間為御退治、御進発、原河ニ御座之後者、一向不相働候、
伊達蔵人丞忠宗
『戦国遺文 今川氏編「伊達忠宗軍忠状」(京都大学総合博物館所蔵駿河伊達文書)』
武衛様(斯波氏)陣営地が度々火事となったこと。
1510(永正7)年12月28日夜。まきの寺のご陣所が火事で花平へ移動しました。
1511(永正8)年1月5日正午頃。花平の陣所・番所・台所で出火。
同年2月20日午前零時頃。すゑ野殿の陣所とその被官衆の陣所30間で出火。同夜22時頃。御嶽の井伊次郎陣所・番所で出火。これは忍びに指示したものです。
同年3月9日4時頃。太田左馬助の陣所を始めとしてその他30余で出火。
同じく
刑部城へ出撃し度々敵を討ち詰めたこと。
1511(永正8)年、
2月12日。引間衆が偵察に出た後に2~300ばかり。
7月9日。引間衆原口(掛川市)へ500ばかり。
10月17日。武衛(斯波義達)自身が4手に分かれて1000余人で打ち詰めました。
同月19日。刑部口・原口へ1,500ばかり、これは5手に分かれて詰めました。
同月23日。刑部口・原口へ1,000余人にて、2手に分かれて詰めました。
同月24日。刑部口に井伊次郎400ばかりにて、原口へ引間衆1,000余人にて討ち詰めました。武衛ご自身が気賀(浜松市北区)へ討ち詰められまして、その軍勢は数千ばかりでした。
11月5日。刑部口へ300ばかり。
同月6日。片山半六が大将で武衛衆500ばかりが討ち回り。
同月27日。刑部口より気賀へ出撃した衆が7~800。
12月1日。村櫛(浜松市西区)・新津へ詰めまして、退却するところを邀撃し、しょうじ淵で野武士に橋換えさせました。
1512(永正9)年、
1月10日。夜中に500ばかり討ち詰めました。
同月21日。500ばかりで刑部口へ接近して討ち詰めました。
3月9日。川向かいまで7~800が出撃してきました。
同月17日。気賀へ討ち詰め、『むき』を投げ、1日野武士橋換えし、引間は原口へ討ち詰め、
4月6日。武衛衆・引間衆・井伊衆が1,500ばかりで3点に分かれ、堀河へ一手に討ち詰めて攻め入りましたところを、刑部から邀撃して追い込み、手痛く打撃を与えました。
同月23日に武衛衆・井伊衆が、下気賀にまで討ち詰め、『むき』(武器?)を投げ苗代を踏み返し退却したところを、清水口へ横合いから野武士を仕掛け、散り散りに追い散らしました。
閏4月2日。武衛衆・井伊衆・引間衆が多勢で、村櫛・新津城へ取り詰めて、新津の根小屋を焼き払ったところを、刑部から村櫛へ70ばかりで援軍を出しました。
同月3日。刑部から井伊谷に朝駆けして活躍し、3名を生け捕りしたところ、敵が追撃してきましたので、城から出撃し、神明淵で『はたえ』を合わせ追い込み退きました。
その後も度々出撃しましたが、さしたることもなかったのですが、引間を退治するためにご進発、原河におられる後は一向に働きもありませんでした。

◆永正八年(1511年)、今川氏親、京都へ献馬する為に信濃への塩の道、飯田街道沿いの中条氏と水野氏に協力を申し出る。

◆永正8年(1511年)
斯波 義達(しば よしたつ)、斯波氏(武衛家)13代当主、尾張守護を継ぐ。

◆永正8年(1511年)10月19日、(永正7年(1510年)12月28日夜~永正9年(1512年) 閏4月3日)
武衛尾張守護斯波義達が遠江奪還へ出馬し、斯波氏に属する勢力、刑部や井伊谷、三岳城などを拠点に今川氏に侵攻する。
・元遠江守護の斯波義達は5000騎で井伊谷西牧の宝光庵に陣を敷く。井伊直平は三岳城にたてこもる。今川氏親は伊達蔵人忠宗を刑部城・堀川城に入れて、忍びの放火により斯波・井伊を攻めた。宝光庵火災。
・引馬城主大河内貞綱が尾張斯波義達と結んで反今川の兵を挙げたとき、井伊直盛はこれに呼応して三岳城に籠もったが、今川氏の武将朝比奈泰以の猛攻を受けて落城し奥山城へ逃れ後に今川氏に降った。

◆永正九年(1512年)から永正十四年(1517年)にかけての5年間、『遠江大乱』 遠江を中心とした地域で、斯波家と今川家の同族相争う。三河国の反今川の同盟者で、津島大橋家の婿、吉良家の家老・大河内貞綱が、遠江曳馬城(浜松)に乱入。

◆永正10年(1513年)
斯波 義達(しば よしたつ)、反攻を図って遠江の国人である大河内貞綱や井伊直平と共に遠州に進撃したが、氏親配下の武将・朝比奈泰以と飯尾賢連の前に大敗を喫する。

◆永正11年(1514年)尾張国、大橋家の縁者で尾張・三河・遠江に所領を持つ豪族・中根家、熱田を支配する千秋家を柱とする義達軍が大挙北進し、遠江国の刑部城を攻撃する。

◆永正12年(1515年)
今川氏親、遠江国で尾張守護の斯波義達と戦い勝利し、斯波氏の威は衰えた。

◆永正12年(1515年)8月
斯波 義達(しば よしたつ)、今川軍と再度戦ったが、またも大敗したうえ、今度は自身も捕虜となってしまう。虜囚となった義達は、同族である氏親の情けによって一命は取り留めたものの、剃髪を強いられ尾張に送り返される恥辱を受けた。
斯波 義統(しば よしむね)、わずか3歳の義統は守護職を譲られ、斯波氏(武衛家)14代当主、尾張守護を継ぐ。

◆永正17年(1520年)、柴屋軒宗長が刈谷城水野近守のために連歌集『老葉』に注釈を付した『老葉集』を記した時に、八葉周辺が戦場になり、上洛の途中で立ち往生した宗長は近守が乗り出してくれたので窮地を脱したという。

◆大永元年(1521年)龍拈寺 吉田城 主牧野信成が父牧野古白の菩提を弔うために建立

◆大永年間(1521年 - 1528年)今川氏親、今川氏の一族である今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築き、末子の氏豊を今川那古野氏の養子として入れ、那古野城主とする。

◆大永6年(1526年)6月23日、今川氏親は駿府の今川館で息を引き取った。今川 氏輝(14歳)で第9代当主となる。

◆享禄2年(1529年)2年5月28日吉田城 岡崎城主・松平清康が牧野伝蔵と御油で交戦、今橋城(吉田城)を陥とす

◆享禄2年(1529年)2年5月28日伊奈城主 本多正忠 松平清康(徳川家康の祖父)と吉田城を攻める

◆享禄5年(1532年)
今川 氏豊、勝幡城主織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、那古屋城を落とされた。
『名古屋合戦記』

◆天文2年(1532年)今川氏輝は遠江において検地を行う

◆天文4年(1535年)1月15日
尾張国に大雨が降る。『愛知県史資料編⑩』

◆天文4年(1535年)2月10日、
尾張国に大雨が降る。『愛知県史資料編⑩』

◆天文4年(1535年)7月14日、
尾張国に大雨が降る。『愛知県史資料編⑩』

◆天文4年(1535年)12月4日、
尾張守山城織田信光(妻は松平清康の娘)に松平清康陣。上野城松平内膳正信定従わず。
『東三河の戦国時代』
足利義晴派の松平清康、東条松平義春との下和田(岡崎市下和田町)の知行権争いを一つの契機として、宗家との争いに至った足利義維派桜井松平信定を守山に攻める。
『戦国史研究59』
東条松平義春:三河松平氏宗家5代松平長親(長忠・出雲守・道閲)の子で東条松平家の祖。岡崎市の中島から羽角・野馬・六栗を縦貫する道、中島道は中世以来の道とされ、この地域はかつて幡豆郡に属し東条吉良氏の支配地域であったとされる。
義春の主要な事績としては、「三河物語」等によれば、岡崎の松平宗家6代目の家督を義春の次兄の桜井松平信定が長兄の信忠と争い、信忠隠退後もその嫡子清康から8代広忠の代まで係争を続けた間も常に宗家に忠節であったことが伝えられている。そして「三河物語」はさらに岡崎登城の際、道で行き会ったときは主従一同が互いに刀の反りをうたせて反目したほど仲が悪かったと伝える。 同物語では、内膳殿(信定)が病死すると前後して義春も亡くなったので、結局は何事も起きなかったとする。

◆天文4年(1535年)12月5日、
森山崩れ〔守山崩れ〕
三河国岡崎城主・松平清康が、尾張国春日井郡森山(現在の愛知県名古屋市守山区)の陣中において、家臣の阿部正豊に暗殺された。
阿部定吉が敵に通じる噂あり。子阿部彌七郎、村正刀で松平清康(25歳)を斬り殺す。法名「善徳院殿年波道甫居士」

清洲城より約10キロの清洲城の支城・守山城は、織田信秀の弟、信光が城主を務める。
森山出陣の頃、清康の家臣である阿部定吉が、織田信秀と内通して謀反を企んでいるという噂があった。清康はこれを信じていなかったようだが、家臣の多くは定吉に対して疑念を抱いていたらしい。このため、定吉は嫡男の正豊を呼んで、「もし自分が謀反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」と、誓書を息子に手渡していた。
そして守山布陣の翌12月5日早暁、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こった。これを正豊は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いし、本陣にいた清康を背後から惨殺したとされる。 正豊はその場で殺されたが、父定吉は、松平広忠に許された。

◆天文4年(1535年)12月12日
井田野に戦い
岡崎城を攻めにきた織田信秀8千余を、松平蔵人信孝・松平十郎三郎康孝8百、井田野に戦い敗走させる。
『安城町誌』 
青山忠世討死。
『三河ミカワ国クニ額田ヌカタ郡グン誌シ』 
松平方林藤蔵・植村新蔵・高力左近・高力平三郎ら四十余人討死。織田方百六十余人を討取る。
『三河後風土記正説大全』

◆天文4年(1535年)12月
吉田城(豊橋市今橋)の戦い
朝比奈越前守輝勝・朝比奈摂津守・伊東左近将監祐時・岡部出雲守輝綱・長谷川石見守吉一、吉田城戸田金七郎・牧野伝兵衛成敏攻め落す。
〔清康が横死して松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となる〕

◆天文5年(1536年)2月
松平仙千代広忠、伊勢神戸東条左兵衛佐持広に身を寄せる。
『曹洞宗の地域的展開』
〔伊勢神戸東条左兵衛佐持広が三河東条城主吉良左兵衛佐持広と思われる。松平次郎三郎広忠の義理の伯父に当たる。御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐといわれるほどの名家三河吉良家の一門である。〕

◆天文5年(1536年)2月23日
戸田孫四郎宗光、太平寺(豊橋市老津町)の不入を安堵。
『田原町史㊤』

◆天文5年(1536年)3月
松平広忠、阿部定吉ら6、7人と伊勢神戸城吉良義安を脱出。(吉良持広没し後継いだ吉良義安が、松平広忠を織田方へ渡そうとする為)

◆天文5年(1536年)3月17日
松平広忠、阿部定吉・酒井正親・酒井忠次・石川清兼・石川数正に守られ遠州掛塚十郎島村(磐田市十郎島)鍛治五郎の許に到る。阿部四郎兵衛定次(大蔵弟)と対面。

◆天文5年(1536年)3月27日
伊勢御師木戸孫三郎忠顕、伊勢宇治山田田中六禰宜忠彦ヒコに、直銭百貫文で尾張の道者に宿を提供する権益を売却。尾張の道者名簿に那古屋城主今川氏豊の名。
『新修名古屋市史②』
今川 氏豊(いまがわ うじとよ ):駿河守護今川氏親の末子。今川義元の実弟。幼名は竹王丸。那古野城主。
〔享禄5年(1532年)、勝幡城主織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、城を落とされた。『名古屋合戦記』〕

◆天文5年(1536年)5月24日~6月10日 
花蔵の乱
当主の今川氏輝と、上位継承者である弟の彦五郎が急死する。
正室の寿桂尼や、太原雪斎、重臣たちは栴岳承芳(義元)を還俗させ、京の足利将軍から偏諱を賜り、義元と名乗らせるが、今川家の有力被官で、遠江、甲斐方面の外交や軍事を司っていた福島氏が反対。福島氏は氏親の側室が福嶋助春の娘で外戚にあたり、子の玄広恵探を擁立して対抗した。

◆天文5年(1536年)5月24日
寿桂尼、福島越前守宿所訪れる。
『高白斎記』

◆天文5年(1536年)5月25日
福島越前守、当構(駿府館)に夜襲。義元方岡部左京進親綱・三浦小次郎元辰の活躍で反撃。夜に福島党は久能山に引き籠る。
『藤枝市史通史編㊤』

◆天文5年(1536年)6月6日
今川義元軍、駿府周辺制圧  
今川義元、瑞応院(静岡市駿河区小坂)に禁制。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文5年(1536年)6月15日
吉田城主戸田橘七郎宣成・戸田孫四郎宗光、小松原山東観音寺(豊橋市小松原町)に、三代戸田政光の寄進にまかせて渥美郡赤羽根関の関銭徴収権を造営料として寄進。『一向一揆の基礎構造』

◆天文5年(1536年)8月4日
松平広忠、掛塚発し今橋牧野氏へ。

◆天文5年(1536年)8月15日
松平広忠、世喜へ。

◆天文5年(1536年)8月26日
松平広忠、形原へ移る。
『岡崎市史』

◆天文5年(1536年)9月
松平広忠、今川義元が小島領主後藤三左衛門直光(基昌)を遣わし松平広忠迎える。

◆天文5年(1536年)9月16日
松平広忠、牟呂城(西尾市室町)富永忠安に入る。
富永忠安:東条吉良氏に仕える。

◆天文5年(1536年)9月
松平信定、牟呂城(西尾市室町)を攻める。
◆天文5年(1536年)10月10日
〔松平広忠〕阿部大蔵定吉、駿府へ趣き朝比奈駿河守氏秀を頼る。 
今川義元「廃たるを興すは武門の面目なり。広忠の亡父清康は、今川家と好を通じ、両国の兵、互いに助成す。依ってその旧好を忘れず、又吉良持広存命の内、広忠を岡崎に還す事を堅く約束した今なお疎意なき旨を誓う。」
『静岡県史資料編⑦』

◆天文5年(1536年)閏10月7日
松平広忠 松平信定に攻められ今橋城へ退く。更に駿府に到り今川義元に面す。
『岡崎市史』

◆天文5年(1536年)11月3日
今川義元、岡部左京進の戦功を賞し、給地を与える
今度一乱、於当構并方上城・葉梨城、別而抽粉骨畢、甚神妙至感悦也、然間、一所有東(有度郡)福島彦太郎分、一所小柳津真金名斉藤四郎衛門分、一所勝田内柿谷篠原形部少輔分等之事、一円於子孫充行畢者、弥可抽忠功之状如件、
天文五丙申年十一月三日
義元(花押)
岡部左京進殿
<静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(土佐国蠧簡集残編三)>

◆天文5年(1536年)11月15日
今橋城主牧野田兵衛尉成敏・牛久保城主牧野民部丞平成勝、宝飯郡八幡(豊川市八幡町)の八幡宮禰宜孫左衛門尉に寄進状。
『東三河の戦国時代』

◆天文6年(1537年)1月13日
西条城(西尾市錦城)の戦い
吉良左衛門佐義郷、後藤平太夫の計により尾張守護斯波義達の婿になった為、朝比奈泰能3千・松平軍、西条城攻め吉良義郷討死。 
荒川甲斐守頼時・吉良上野介義安(神戸城東条持広養子)降参。吉良義昭を西条城に入れる。吉良義安を駿河藪田に蟄居させる。大橋知尚を吉田城におく。
〔今川義元、朝比奈小隼人を松平広忠に遣わし、松平広忠1千5百余人と東三河軍兵1千余人で西条城を攻めさせる。〕
西条城:西尾城(にしおじょう)と呼ばれ、三河国幡豆郡西尾(現在の愛知県西尾市錦城町)にある。愛知県の三河平野の南部、矢作川と古矢作川に囲まれた西尾市の中心部にあり、西尾城の歴史は古く、1221年(承久3年)に承久の乱で戦功を挙げた足利善氏は矢作川(今の矢作古川)を境に西条城と東条城を築いのが始まりとされる。
義氏は長男長氏に西条城を三男義継に東条城を与えたといわれ、長氏は吉良荘の地頭として土着し、吉良を姓とした。
〔神戸城東条持広養子である吉良上野介義安は織田方に組みして、松平広忠を織田に引き渡そうとした人物〕

◆天文6年(1537年)2月10日
武田信虎と甲駿同盟。今川義元と信虎娘が結婚。
武田信虎、娘の化粧料として、興国寺城・富士下方12郷を今川義元に贈る
『勝山記』

◆天文6年(1537年)4月26日
見付端城(磐田市見付)の戦い
見付城堀越六郎氏延(犬居城主天野与四郎景貞も篭城)、今川軍に攻められ敗死。天野小四郎虎景・天野孫四郎景義が見付端城乗ノ崩時6人疵を蒙る。 
堀越氏延、堀越に引き退く。
『中世の伊豆国』 
堀越六郎氏延の従兄瀬名氏貞の子瀬名貞綱がこの直後没落
『戦国大名今川氏四代』
遠江・見付端城(みつけはじょう):静岡県磐田市見付字古城、今川義元は反義元派であった見付端城主堀越用山(貞基)を犬居城主天野氏に命じて攻撃させこれを落とした。
堀越用山(貞基):今川貞世を祖とする遠江今川氏、5代目の孫六郎貞基。今川氏輝の死去後に反義元派に属した。

◆天文6年(1537年)5月29日夜、
松平信定が有馬温泉に赴く隙に、大久保忠員・八国詮実・林忠満・成瀬正頼・大原惟宗、迎えに牟呂城(西尾市)に至る。
『岡崎市史』
有馬温泉:摂津国の西北にある温泉地
桜井松平信定:桜井松平家の初代、信定の兄である信忠~清康~広忠に仕えてきた松平一門衆から見れば亜流の血筋に当たる。外縁の隣国尾張織田の支援を受け、家臣団の統制に苦労する。
大窪忠俊:松平仙千代(広忠)が東条吉良持広の支援を受け、牟呂に立てこもったおり、大窪忠俊を先陣として矢を射掛けさせたという。桜井松平信定はそれでも安心せず、伊賀八幡の七枚起請を三回、都合二十一枚の起請文を大窪忠俊に書かせたという。『三河物語』
〔当然、松平信定がこの時期に摂津国まで行くとは考えられない。〕

◆天文6年(1537年)6月1日
大久保忠俊、岡崎城を恢恢復し、使いを駿府に遣わして松平広忠を迎える。
『岡崎市史』

◆天文6年(1537年)6月7日
松平広忠、松平内膳正信定と交渉。

◆天文6年(1537年)6月8日
松平広忠、松平内膳正信定と和議。
『岡崎市史』

◆天文6年(1537年)6月25日
松平広忠、駿河より岡崎帰還。

◆天文6年(1537年)9月
荒川山合戦。吉良左衛門佐義郷と荒川城主荒川義広戦う。
富永忠安、戦死。墓は富永一族の吉良町寺島の大通院
『岡崎領主古事』

◆天文6年(1537年)9月23日
松平広忠、矢田松平甚六郎康忠・大久保新八郎忠俊・成瀬又太郎正頼・大原左近右衛門・林藤助忠満へ15貫文加増。

◆天文6年(1537年)10月23日
松平広忠、石川四郎康繁を駿府へ遣わし恩を謝す。 
松平広忠、八国甚六郎・大久保忠俊・成瀬正頼・大原惟宗・林忠満に、三河国帰国に際しての忠節を賞し田地を宛行う。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文6年(1537年)12月9日
松平広忠、12歳元服、東条吉良持広烏帽子親。
『岡崎市史』
◆天文6年(1537年)
吉田城(豊橋市今橋)の戦い
大崎城主戸田金七郎宣成、牧野成敏家臣戸田新次郎・戸田宗兵衛尉と吉田城牧野伝兵衛成敏を攻略する。
『豊橋市史①』 
戸田宗光、次男戸田宣光を伊奈の加治城に入れ、小坂井・牛久保の牧野氏へのおさえとし、長男チ堯堯光を田原城におく
〔牧野氏を追った戸田宣成が城主となる〕

◆天文7年(1538年)
織田信秀、那古屋城今川氏豊攻め取る。今川氏豊、妻(斯波義達)の娘の縁を頼って京都に逃げる。
『新説桶狭間合戦』 
上野村(名古屋市千種区)下方角右衛門貞経・戸部水野家が織田信秀に仕える。
『新修名古屋市史②』 
中村元勝、父である今川氏豊家臣広井城主中村元親が那古屋城攻防戦で戦死したため還俗して今川義元に仕える。
『新修名古屋市史②』 
那古屋の若宮・天王坊・天水寺・安養寺が兵火により焼失。
『新修名古屋市史②』
〔享禄5年(1532年)、勝幡城主織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、城を落とされた。『名古屋合戦記』?〕

◆天文8年(1539年)7月8日
蒲原城(静岡市清水区蒲原)の戦い」
小島又八郎、蒲原城子宮口で山田新五を討取る。 
朝比奈弥八郎・瀬見大炊助、蒲原城大手で入鑓し北条軍を押崩す。

◆天文8年(1539年))8月17日
三河に大雨洪水津波起こる。ウンカ発生し三遠地方飢餓となる。
『田原町史㊤』

◆天文8年(1539年)9月18日
荒川山戦い
吉良氏と荒川氏が戦い荒川氏敗れる。

◆天文8年(1539年)10月1日
今川義元、三浦弥次郎に、遠州当知行分安堵。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文8年(1539年)10月22日
吉良中務大輔持広没。法名「花岳寺殿聖山常諦」
『改正三河後風土記㊤』

◆天文9年(1540年)4月
吉良義郷、織田信秀との戦いで討死。
『今川ワ氏と遠江・駿河の中世』

◆天文9年(1540年)6月6日
安祥城(安城市安城町)の戦い 
織田信秀3千余騎を率い、水野忠政を先鋒に安祥城松平左馬助長家を攻める。
『知立市史㊤』 
佐崎城松平三左衛門忠倫、渡村・筒針砦を構える。 
松平清定(信定の子)・酒井将監忠尚・大原左近右衛門・今村伝次郎呼応。(入城に功あった、石川安房守忠成・酒井雅楽助政家を罰するよう迫るが松平広忠断わる。) 
広忠側援軍、松平源次郎信康・五井松平外記忠次・矢田松平甚六郎康忠。 
安城松平長家・松平信康・松平甚六郎康忠・藤井松平彦四郎利長・林藤助忠満(法名「道見」)・内藤善左衛門・近藤与市郎・足立弥市郎・宗四郎兄弟・髙木入道・永見中ナカ務ム貞近・安藤太郎左衛門家重・渡辺助右衛門照綱・本多弥八郎正定・本多弥七郎正行ら50人討死。 
松平家臣渡辺助右衛門照綱討死。49歳。『寛政重修諸家譜⑧』 
松平家臣成瀬弥兵衛国重討死。『寛政重修諸家譜⑮』 
松平家臣カ阿部新四郎重尚、上野城攻めで討死。38歳。『寛政重修諸家譜⑪』 
松平康忠、柱岩寺に葬られる。『愛知県幡豆郡誌』 
安祥城(安城市安城町)は、天文16年ネンまで、織田信秀に接収されていない。『古城54』

◆天文9年(1540年)7月5日
松平家臣榊原摂津守忠次、三河国広久手において討死。
『寛政重修諸家譜⑯』

◆天文9年(1540年)
諸国疫病流行し、後奈良天皇宸宸筆の心経を諸国一宮に納める。この春・秋、天下大飢饉・疫病。
『田原町史㊤』『中世災害・戦乱の社会史』

◆天文9年(1540年)
織田信秀、伊勢外宮仮殿造替費に7百貫寄進。

◆天文10年(1541年)春
百年にも無いといわれるほどの餓死者が出る。
『武田氏年表信虎信玄勝頼』

◆天文10年(1541年)6月14日
武田信虎、駿府へ赴く。
『王代記』
◆天文10年(1541年)6月16日
駒井高白斎、武田信虎の駿府行きを初めて知る。
『高白斎記キ』
◆天文10年(1541年)6月28日
武田信玄、家督相続の儀式執行。
『高白斎記』
岡部美濃守貞綱・太原崇孚、甲府で信虎の隠居分手当について交渉。
『堀江文書』
武田信虎、僧となり、我斎と号す。48歳。 
(始め、板垣信方に命じ、信玄を駿府に幽閉しようとする。板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌と共謀し、今井市郎を駿府へ送り今川義元と謀る。駿府にて、一男上野介信友トモ・一女今出川晴季の廉中誕生。) 
柳沢弥三郎信景は武田信虎に従う。後に足利義晴の許に使わされる。『寛政重修諸家譜③』 
秋山土佐守正次は武田信虎に従う。『寛政重修諸家譜④』 
土屋伝助昌遠は武田信虎に従う。『寛政重修諸家譜⑨』 
武田信虎腹臣小山田氏一族某、遠州に入国し幡鎌氏シと称す。『掛川の古コ城址』 
武田信虎の近習に笠井定明。『遠州の古寺』

◆天文10年(1541年)9月
織田信秀、豊受大神宮仮殿造替カの費用を献上する。三河守に任。

◆天文10年(1541年)12月22日
今川義元、岡部元綱に一字を授与

 藤原元綱
天文十一年二月廿二日
治部大輔義元(花押)
岡部小次郎殿
<静岡県史 資料編7「今川義元一字状」(岡部長武氏所蔵文書)>

◆天文10年(1541年)
松平広忠、水野忠政娘於の方を娶る。松平広忠、仕えていた大給松平乗正の娘・松平勘六忠政母子を桑谷村(岡崎市)に移し250石を与える。
『岡崎市史』『松平町誌』

◆天文11年(1542年)5月23日
松平家臣加藤助右衛門、三河国における合戦で討死。子加藤正成、その敵を討取る。
『寛政重修諸家譜⑬』

◆天文11年(1542年)8月10日
小豆坂(岡崎市美合町)の戦い
太原崇孚、数千人率い三河入り。 
今川7段備え。先手庵原。先鋒奥平貞勝活躍。 
織田信秀4千出陣。織田信光先鋒。織田清正・織田信康・織田信実・赤川彦右衛門・神部市左衛門・内藤勝助・河尻与四郎。 
織田軍が盗木まで退き今川軍が追撃の所、織田信光・織田清正・下方彌三郎・岡田助右衛門・佐々隼人・弟佐々孫助・中野又兵衛反戦し今川軍を破る。庵原イハラ氏シ・永田四郎右衛門討死。 
松平隼人左信吉40余歳。法名「月秋」・松平伝十郎勝吉法名「梅栄」父子討死。『寛政重修諸家譜①』 
久野三郎左衛門忠宗、織田信光と槍合わせ、7本槍の武名上げる。『久野城物語り』 
那古野弥五郎重義討死。『今川家臣カ団の研究』 
織田方川口宗吉、首級を得る。『寛政重修諸家譜⑨』
祖父江大膳亮秀治、小豆坂合戦の功により、玉野(尾西市玉野)・西之御堂(一宮市萩原町西ニ御堂)・堀之内(稲沢市堀之内)・中小僧・中野(稲沢市中野)・茂本(稲沢市重)において五百貫文の知行拝領。『尾張織田氏』

◆天文11年(1542年)12月24日
織田信秀、三河上野城攻める。内藤弥次右衛門清長・甥内藤四郎左衛門正成16歳防戦し敵を数十人射殺す。
『寛政重修諸家譜⑬』

◆天文12年(1542年)1月
松平広忠、松平蔵人信孝を代りに駿府へ新年の祝賀へ行かせる。其隙に三木城攻め没収。 
(松平蔵人信孝、松平太郎親長死んで岩津・松平十郎三郎康孝死んで三木手に入れる。岡崎阿部定吉・石川清兼・酒井正親・植村新太郎と話して決める。) 
本多平八郎忠高・酒井雅楽助正親・石川安芸守清兼・阿部大蔵定吉・植村新太郎代わる代わる今川義元に説得し認めさせる。 
松平蔵人信孝三河へ帰り、上和田松平三左衛門忠倫・上野城酒井将監忠尚共に、織田に通じる。

◆天文12年(1542年)2月26日
松平広忠、称名寺(碧南市築山町)夢想の発句で一座興行。 
「神々のなかき浮世を守かな」
『宗碩と地方連歌カ』

◆天文12年(1542年)3月5日
尾州浪人南嶋屋敷の中村九郎右衛門・西中島屋敷の山口右衛門太夫・高道屋敷の戸田半弥・小馬場屋敷の本多内記・東あら家屋敷の牧野玄蕃、田タ守社を勧請する。
『三河国宝飯郡誌』

◆天文12年(1542年)4月7日
三条公頼、三河国に下向する。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文12年(1542年)6月
三木城(岡崎市三ッ木)の戦い」 
松平広忠、三木城松平蔵人信孝(後見役)死んだ弟、十郎康孝の所領合わせ、宗家に匹敵する勢力。広忠、信孝に今川義元への使者に駿河に行かせた後、所領没収。信孝は織田信秀に属し太田砦に入り安城防衛。

◆天文12年(1542年)6月16日
松平広忠、大竹源六・中根弥太郎タの三木松平信孝からの寝返を賞す。
『愛知県史資料編⑩』
◆天文12年(1542年)6月18日
三条公頼、三河国より帰洛し、礼銭5千疋を後奈良天皇に進上する。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文12年(1542年)8月10日
松平広忠、内藤甚三の三木松平信孝からの寝返りを賞す。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文12年(1543年)10月15日
今川義元、三河国今橋の東観音寺に禁制を発す
(今川義元花押)
禁制
一 軍勢甲乙人等濫妨狼籍之事
一 寺内山林竹木截取事
一 軍勢寺中陣取并号見物出入之事
 右、於背此旨輩者、速可加成敗者也、仍如件、
天文十二年十月十五日
小松原山
 東観音寺
ーーーーーーーーーーーーー
  一、軍勢と軍属などが暴行すること。
 一、寺内の山林・竹木を伐採すること。
 一、軍勢が寺の中に陣取ったり、見物するといって出入りすること。
 右に背く輩は速やかに成敗を加えるものである。
ーーーーーーーーーーーーー
愛知県豊橋市にある臨済宗妙心寺派の寺院
<「今川義元禁制」(豊橋市小松原町・東観音寺文書)>

◆天文13年(1544年)9月22日
織田信秀、美濃に侵攻し敗退する
甲辰 十三 九月廿二日未刻、濃州於井ノ口 尾州衆二千人打死、大将衆也、
<愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書)>

◆天文13年(1544年)9月23日
斎藤利政は安心軒・瓦礫軒に水野十郎左衛門への連絡を依頼
斎藤利政の手紙
其以後無音非本意存候、仍一昨日及合戦切崩討取候頸註文水十へ進之候、可有御伝語候、其方御様躰雖無案内候懸意令申候、此砌松次三被仰談御家中被固尤候、是非共貴所御馳走簡要候、就者談近年織弾任存分候、貴趣自他可申顕候、岡崎之義御不和不可然候、尚期来信候、恐々謹言
九月廿三日
斎藤左近大夫
利政
安心軒
瓦礫軒
 玉床下
<新編東浦町誌「斎藤利政判物」>

◆天文13年(1544年)9月25日
長井久兵衛、水野十郎左衛門に戦果を報告して織田信秀の排斥を勧める
長井久兵衛の手紙
先度以後可申通覚悟候処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候、御理瓦礫軒・安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次郎・朝倉太郎左衛門・尾州織田衆上下具足数二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此雖無人候、罷出及一戦、織田弾正忠手へ切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進候、此外敗北之軍兵、木曽川へ二三千溺候、織弾六七人召具罷退候、近年之躰、御国ニ又人もなき様ニ相働候条、決戦負候、年来之本懐此節候、随而此砌、松三へ被仰談、御国被相固尤存候、尚礫軒演説候、可得御意候、恐惶謹言、
九月廿五日
長井久兵衛
 秀元
水野十郎左衛門殿
<新編東浦町誌「長井久兵衛書状」>

◆天文13年(1544年)11月11日
三河国安城の与二郎ひろ定、深溝松平家への年貢納入を約束する

こゝもとなりかにて弐十俵、明年よりいらんなくしんしやう申へく候、すこしも無さた申ましく候、そのためこ一筆申候、かしく、
天文十三年 十一月十一日
ひろ定(花押)
(ウワ書)「(墨引)ふかうす殿御上さま 参 人々御中
         あんしやうより 与二郎」
<愛知県史資料編10「与二郎ひろ定請文」(本光寺常盤歴史館所蔵文書)>

◆天文13年(1544年)11月11日
十郎左衛門が信秀に参陣 
織田信秀の手紙
此方就在陣之儀、早々預御折帋、畏存候、爰許之儀差儀無之候、可被御安心候、先以其表無異儀候由、尤存候、弥無御油断、可被仰付儀肝要候、尚林新五郎可申候、恐々謹言、
閏十一月十一日
信秀
水野十郎左衛門尉殿
     御返報
<新編岡崎市史 「織田信秀書状写」>
(織田信秀、水野十郎左衛門尉に陣中の様子を伝えて油断のないように求める)

◆天文13年(1544年)11月20日 
上総介殿形儀の事 清洲衆と鉾楯に及ぶ事   
霜月(十一月)廿日、此の留守に、尾州の内・清洲衆ガ、備後守殿古渡新城へ人数を出だし、町口放火候て、此の如く候間、備後守御帰陣なり。是れより鉾楯(戦争)に及び候へき。
『信長公記』

◆天文13年(1544年)12月
水野十郎左衛門信近、「入海神社」の奉造立棟札『東浦雑記』:天文十三年十二月、「入海神社奉造立御神殿壹宇/旦那衆伍貫文/水野十郎左衛門信近/天文十三年甲辰十二月(忠政卆後翌年也)/以下略」
「或記云此社楠ヲ以テ作レリ棟札水野十郎左衛門信近ト有リ是藤九郎也」
『張州雑志・第十七』(1770 年~1778年頃、尾張藩九代藩主・徳川宗睦の命で編纂)
「此神社往古ハ水野下野守信元氏神ノ由申伝天文十三年甲辰十二月造立ノ棟札アリ文字サダカナラズト也」
『知多徇行記』

◆天文14年(1545年)11月9日
武田晴信、松井山城守に後北条氏との和平案を示す
今度為合力、越山候意趣者、去酉年義元御縁嫁之儀、信虎被申合候、然処、以後一儀駿・豆執合之由、於世間風聞、依之晴信五ヶ年之間、別而申合候、此度同心申相動候処、為始吉原之儀、御分国悉御本意、一身之満足不過之候、内々此上行等、雖可申合候、北条事御骨肉之御間、殊駿府大方思食も難斗候条、一和ニ取成候、就中長久保之城責候者、或者経数日、或者敵味方手負死人有出来者、近々之間之執合、更無所詮候哉、縦氏康雖滅亡候、過数十ヶ年、関東衆相・豆本意候者、所領之論却、只今ニ可相戻候哉、彼此以一統、可然候条、如此走廻候、自今以後、有偏執之族者、此旨各分別候間、長久之儀肝要候、恐々謹言、
十一月九日
晴信(花押)
松井山城守殿
上包如此
「松井山城守 晴信」
<戦国遺文 武田氏編「武田晴信書状写」(内閣文庫所蔵「土佐国蠧簡集残篇六」)>

◆天文15年(1546年)3月28日
鵜殿長持、安心に対して飯尾豊前守への織田信秀密書仲介を責める
貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、惣別彼被仰様、古も其例多候、項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦可果之由、項羽自雖被打向候、高祖敵之調略非可乗との依遠慮、果而得勝事、漢之代七百年を被保候、縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、但駿遠若武者被聞及候者、朝蔵・庵原為始、可為其望候哉、此段之事候へ者、去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候、武新二前被申様ニより、重而談合可申候、恐惶謹言、
三月廿八日
鵜殿長持
安心
 参 御報
<静岡県史「鵜殿長持書状写」>

◆天文15年(1546年)6月15日
今川義元、長興寺・龍門寺・伝法寺に禁制を発す
[印分「如律令」]
当手軍勢甲乙人乱暴狼藉之事、堅令停止之訖、若於違犯之輩、可処厳科者也、仍如件、
天文十五[丙午]
 六月十五日
長興寺
龍門寺
伝法寺
<「今川義元朱印状」(田原市大久保・長興寺文書)>
長興寺(ちょうこうじ):愛知県豊田市にある臨済宗東福寺派の別格寺院
龍門寺(りゅうもんじ、りょうもんじ):愛知県田原市田原町新町にある曹洞宗
伝法寺:愛知県一宮市丹陽町

◆天文15年(1546年)9月6日
上野城(豊田市上郷町)の戦い
松平広忠、上野城松平監物家次(イエツグ)を攻落オとす。『古城コジョウ54』
松平広忠方金田惣八郎正祐討死。22歳。『寛政重修諸家譜⑨』
松平広忠方小林新平貞正討死。法名「浄林」『寛政重修諸家譜⑯』

◆天文15年(1546年)9月28日
牧野康成、三河国今橋・田原等の処置につき、今川義元に願い出る
(松平蔵人佐と安心軒、今川義元の決裁に異議がないことを確認している)
条目
一今橋・田原御敵ふせらるゝにおゐてハ、今橋跡職、名字之知にて御座候間、城共に可被仰付、御訴訟申候処、両所御敵を仕候間、今はし・田原之知行、河より西をさかい入くミなしに可被仰付候由候、此上兎角申たてかたく候間、如此候、伊奈之儀、本知之事候間、不及申候、然者西三河猶一篇之上、若又両所御成敗之時も此分ニ可被仰付事候、
一同主田原・今橋申様御座候者、御味方に可被成事、於我等忝存候、右之申分ハ御敵等参候者の申事候、
一長沢敵ニ参御成敗候ハゝ、彼跡職一円ニ被仰付て可被下候、今之城、不被仰付候間、此儀今以播面目候ために如此申上候、
一長沢御味方ニ参候者、下条之郷・和田之郷・千両上下・大崎郷・佐脇郷上下・六角郷・此都合八百貫余、可有御座候、以上使被成御糾明、可被仰付候事
此小書うら書と同筆にて
此一ヶ条之事ハ、長沢被付御敵之上、只今之被仰事、入間敷存候間、可被除之候、
一御馬出候歟、又御人数西郷へ御行候ハゝ、質物渡可申事
右之条々、有御分別御披露可畏入候、然者御聴も被合御判形を可被下候、
以上
天文十五年丙午 九月廿八日
牧野田三郎
保成判
右之裏書ニ
此五ヶ条之内一ヶ条を除四ヶ条之事者、先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候、猶只今承候間、我等加印申候者也、仍如件、
十一月廿五日
泰能判
親徳判
崇孚判
<愛知県史 資料編10「牧野保成条目写」(松平奥平家古文書写)>
泰能判:朝比奈左京亮 泰能
親徳判:朝比奈 親徳
崇孚判:太原崇孚
(牧野保成:渥美郡の吉田城周辺に牧野保成の所領が認められる)
吉田城:三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった城

◆天文15年(1546年)10月16日
〔今川義元、太原崇孚雪斎の指揮下で三河侵攻を開始する〕
牧野保成、所領の不入などを今川氏に求める
(河より東の領内は我々のものだが、川より西は書面のように相違があってはならないこと。)
一本知新知万不入ニ可被仰付事、
一拙者知行之内并家中之者共、御国之衆へ致被官之義、無御許容之事、
一度々如申上候、河より東之領中内に候共、川より西候者、一書のことく相違有間敷事、
以上
天文十五年十月十六日 牧野田三郎 保成 判
朝三兵
雪斎
参人々御中
右之裏ニ 泰能 判
親徳 判
崇字 判
<静岡県史 資料編7「牧野保成条目写」(松平奥平家古文書写)>
牧野保成は、のちに吉田城(今橋城)主になる。
河とは吉田城(今橋城)の西にある豊川と思われる。

◆天文15年(1546年)10月22日
松平広忠家臣杉浦弥市郎親貞、野田で討死。35歳イ。『寛政重修諸家譜⑨』

◆天文15年(1546年)10月30日
岡崎の慶度、西嶺に金田宗八郎討ち死にを伝える

「上書 西嶺様[是ハ大林寺隠居之事、] 自 三河岡崎 慶度」
 此所ニ二下り候へとも、かミ悪敷成見へ不申候、
 阿大より可被申上とも、取乱候間無其儀候、駿河衆至今橋とりかけ候、今日迄させる行なとも候ハす候、味方中堅固被申付候、可被御心易候ゝゝ、
其後者御床敷令存候、仍今度不慮之儀候而金田宗八郎討死事候、彼仁子もなく候間、跡職少々儀、今以寺乞たて度由阿大被申候、屋敷者野々山弥右衛門屋敷にて、此間宗八郎屋敷とかへられ候、定而可有御存候、石川式部殿近所おかしき家とも被作候、御越候者、造作なとをも可申付候、寺領なとゝ申ても、過分の儀者有間敷候、五貫目付可申候、他国にて過分子細候共、御住国事候間、可有御渡海候、目出度奉待候、当座之儀、随分馳走可仕候、必々御越待申候、猶林空より可被仰候、恐惶謹言、
十月卅日
「名字岡部」
けいたく(花押影)
「右の岡崎けいたくと申候ハ、広忠公御時代ばんこさい・慶度両人乍御右筆、諸事御用人役也、」
<戦国遺文 今川氏編「岡部慶度書状写」(徳川林政史研究所所蔵古案三州聞書)>

◆天文15年(1546年)11月24日 
今川、東三河の吉田城の戦い
太原崇孚・松平広忠、吉田城戸田橘四郎宣成60余歳を攻め滅ぼす。
野々山甚九郎内通する。石川式部忠成・阿部大蔵定吉・酒井将監忠尚功績。由比源左衛門光詔討死。
大村弥三郎綱次、外構乗っ取の時、伊藤氏を討取り鑓疵蒙る。

◆天文15年(1546年)11月25日
今川義元、三河国今橋城攻撃における天野景泰の戦功を賞す。今橋城の落城

今度三州今橋之城小口取寄之時、了念寺へ可相移之由成下知候之処、不及異儀■前馳合堅固相踏之旨、忠功之至感悦也、今月十■日辰剋、同城外構乗崩之刻、不暁ニ宿城江乗入、自身■粉骨、殊同名親類被官以下蒙疵、頸七討捕之条、各別紙遺感状也、誠以度々軍功神妙之至也、弥可抽忠勲之状如件、
十一月廿五日
義元(花押)
天野安芸守殿
<愛知県史 資料編10「今川義元感状」(天野文書)>
今橋城:吉田城の別名、築城当初に今橋城と呼ばれた。)
戸田金七郎宣成(とだきんしちろうのぶなり)が城主を務めていた今橋城を陥落させる。

◆天文15年(1546年)11月26日 
今川義元、妙覚寺(沼津市下河原)に諸役免除。
<沼津市史 通史編(原始・古代・中世) >

◆天文15年(1546年)12月14日
太原崇孚、野々山甚九郎の忠節を賞して兵員を増派する

今度依忠節、当城扶助員数、代官等為替地、細屋郷可被捕任也、出仕之上御判■■沙汰者也、仍如件、
 天文十五
 十二月十四日
 雪斎 崇孚判(花押影)
 野々山甚九郎殿
右ハ折紙也、
<愛知県史 資料編10「太原崇孚判物写」(野々山文書)>
野々山甚九郎(ののやまじんくろう)

◆天文16年(1546年)2月3日
今川義元、野々山甚九郎の三河国今橋城での忠節を賞し、細谷郷を与える

■年於参河国今橋城、令内通存忠節、任契約之旨、細谷代官并給分■拾貫文令補任之、
右、任雪斎契約之旨、所充行之也、■可抽忠節之状如件、
天文十六
二月三日
治部大輔(花押影)
野々山甚九郎殿
<愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(野々山文書)>

◆天文16年(1547年)1月
今川治部大輔義元、新谷与左衛門尉に本領を安堵。『静岡県史中世資料編補遺』

◆天文16年(1547年)2月3日
今川義元、天野景泰の医王山砦構築を称え、三河国本意のため近日出馬すると伝える
去比医王山取立候、普請早出来、各馳走之段注進、誠以悦然候、近年者東西陣労打続候、勲功之至候、仍三州此刻可達本意候、近日可出馬候間、其心得肝要候、謹言、
七月八日
義元(花押)
天野安芸守殿
<愛知県史 資料編10「今川義元書状」(天野文書)>

◆天文16年(1547年)3月2日
今川義元、匂坂ニ六右衛門尉長能に、豊田郡匂坂郷を安堵。(『静岡県史資料編⑦』

◆天文16年(1547年)4月2日
寿桂尼、瑞光院道音(寿桂尼の奏者)に長慶寺領安堵。『静岡県史資料編⑦』
(長慶寺:愛知県豊川市金沢町藤弦3-4?、愛知県豊橋市杉山町孝仁?)

◆天文16年(1547年)6月6日
松平広忠、鳥居仁左衛門の三木松平信孝からの寝返を賞す。『愛知県史資料編⑩』

◆天文16年(1547年)6月13日
太原崇孚・禰宜藤原源右衛門尉重勝・大工権大夫、今川義元を大檀那に、吉田牛頭天王社(豊橋市関屋町)造営し神興1丁寄進。『豊橋市史①』

◆天文16年(1547年)7月8日
今川義元、松井宗信と共に、医王寺(岡崎市)裏山医王山砦を普請竣工した天野安芸守景泰に感状。近日の出馬を伝える。『戦国遺文今川氏編②』

◆天文16年(1546年)閏7月3日
今川軍、田原城(田原市田原)攻撃開始。『渥美郡史』

◆天文16年(1547年)閏7月5日
今川軍、上郷を悉く放火。飯尾豊前守乗連が常光寺に陣取る。『渥美郡史』

◆天文16年(1547年)閏7月23日
松平家広、牢人中の懇意を感謝して、松平清善に知行を与える
(松平家広が本意を遂げて牢人から復帰する)
 今度牢人仕候て其方へ憑入参候処、種々御懇候得共、殊過分之御取かへなされ、進退をつゝけ本意仕候、色々御忠節共、あまりニ祝着千万候まゝ、於平地領中五拾貫之分末代遣置候、彼於知行子々孫々申事有間敷候、亦何やうニ成行候て、今度牢人いたし候時、方々へ出し置候知行、手ニ入候事候共、其方へ遣候知行ハ申事有間敷候、扨天文拾六年よりまへの借物過分ニ成行候処、彼知行遣し候付て御さしをき、是又畏入候、か様ニ色々御ちうせつ祝着候まゝ知行遣し候、於向後何事も如在申間敷候、仍為後日如件、
天文拾六年 丁未 潤月七月廿三日
形原又七 家広 判有
竹谷与次郎殿 まいる
<愛知県史 資料編10「松平家広証状写」(竹谷松平家文書)>

◆天文16年(1546年)8月2日
松平広忠の使者石川安芸守清兼・天野甚右衛門景隆、駿府に至り、岡部次郎右衛門・雪斎に会い今川方に援を請う。
松平広忠、竹千代6歳(石川数正・平岩親吉・榊原康政・天野康景・上田慶宗・金田政貞・金田正房・松平忠正・平岩親長・村越平三郎・江原孫三郎・阿倍正勝28人、兵50人)を人質に駿府へ送る。
田原城戸田弾正左衛門宗光・子戸田五郎政直、湖見坂で竹千代を奪い、家臣戸田又右衛門を遣わし織田信秀に送る。今川方飯尾勘助(飯尾乗連の弟オ)・戸田方戸田五左衛門と渡辺平馬・松平方金田政貞討死。
竹千代を舟に乗せた後、林佐渡守通勝・岩室長門守百騎で兵船2艘で奪う。
織田信秀、竹千代を、熱田加藤図書順盛邸に拘束。
松平広忠、石川安芸守清兼を使者に駿府へ。今川義元、朝比奈彌太郎泰成を使者に岡崎へ。
織田信秀、山口惣十郎弘孝使者に、松平広忠に好を結ぶよう伝える。

◆天文16年(1547年)8月25日
今川義元、奥平定能・同貞友に、三河国山中の新知行を安堵する
(今川義元は奥平定能と貞友に医王山砦での功を賞し、東西で紛争があっても所領は変わらないと保障する)
参河国山中新知行之事
右、医王山取出割、就可抽忠節、以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、彼地之事、永不可有相違也、弥可専勲功状如件、
天文十六
八月廿五日
今川義元也 治部大輔判
作手仙千代殿
藤河久兵衛尉殿
<愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)>

◆天文16年(1546年)8月25日
今川治部大輔義元、作手奥平仙千代貞能・藤河奥平久兵衛尉貞友に、竹尾平左衛門150貫文除く三河山中7郷(岡崎市)知行宛行。『静岡県史資料編⑦』

◆天文16年(1547年)8月26日
太原崇孚は牧野保成に陣備えを指示して今川義元出馬を伝える
 広瀬源兵衛口上之儀、何も承届候、委細御返事申入候、世谷口重御普請太儀察存候、御取手之御太儀候共、其口ニ御人数百宛被置、長沢ニ五十計、両所百五十之分四番ニ被定候て、可為六百之御人数候、是も田原一途間、可被仰付候、近日可被出馬候、如何様当年中可有一行候、可御心■候、委細重可申入候、恐々謹言、
 尚ゝ其辺之儀、疑心之事にて長辺へ人を越候ニてハなく候、方々のうたかいむつかしく候て、彼両人覚計の儀ニ越申候、屋形之儀、愚僧・朝三なと此分候、神も照覧あれ、無別儀候、可御心■候、
八月廿六日
雪斎 崇字判
牧野田三郎殿 参御報
<静岡県史 資料編7「太原崇孚書状写」(松平奥平家古文書写)>

◆天文16年(1547年)8月29日
太原崇孚、牧野保成に援軍と兵糧について指示

 両度以書状申候、参着候哉、仍御人数之儀、飯豊・井次其外境目之衆悉被仰付、西郷谷へ可有着陣候、其地御用次第可被招置候、兵粮之儀肝要候、今橋へ弾橘入城候者、於彼地商買之儀、可為不弁之条、此方より尾奈・比々沢迄可届申候、其間之儀、御調法候てめしよセられへく候、兵粮方之儀者、涯分つゝけ申へく候、御本意之上、可有御返弁候、此由西郡へも申度候、委細先書申候間、不能詳候、恐々謹言、
八月廿九日
雪斎 崇字判
牧野田三郎殿御宿所
<静岡県史資料編7 「太原崇孚書状写」(奥平松平家古文書写)>

◆天文16年(1547年)9月10日
太原崇孚、天野景泰の戦功を今川義元に報告したと伝える

去五日辰刻御合戦之様体、具御注進披露申候、御手負以下注進状ニ先被加御判候、追感状可有御申候、急候間早々申候、恐々謹言、
九月十日
雪斎
崇孚(花押)
尚々松井殿其方取分御粉骨之由、自諸手被申候、雖毎度之儀候、御高名之至候、
天野安芸守殿
  御報
<静岡県史資料編7 「太原崇孚書状」(天野文書)>

◆天文16年(1547年)9月20日
今川義元は天野景泰が田原攻略で活躍したことを賞す

去五日三州田原本宿へ馳入、松井八郎相談、以見合於門際、同名・親類・同心・被官以下最前ニ入鑓、各粉骨無比類候旨、誠以神妙之至也、殊被官木下藤三・溝口主計助・気多清左衛門突鑓走廻云々、弥可抽軍忠之状如件、
九月廿日
義元(花押)
天野安芸守殿
<静岡県史資料編7 「今川義元感状」(天野文書)>

◆天文16年(1546年)9月28日
「渡村河原(岡崎市渡)戦い」
松平広忠、松平山城守信孝5百・上和田城主(岡崎市上和田)松平忠倫と渡村河原戦いに敗れる。鳥居忠宗は松平清兵衛に討取られる。『碧海郡誌』
松平弥九郎忠次は先鋒に進み、敵鳥居又次郎と戦い討死。27歳。法名「源栄」『寛政重修諸家譜①』
梅坪城三宅隼人正師貞、織田軍を岩瀬山で防戦し討死。子藤左衛門政貞、即時その敵を討取る。『岡崎市史①』
上和田城(岡崎市上和田)松平忠倫・三ッ木松平信孝、西条吉良義安・東条吉良義昭を尾張に属させ岡崎を窺う。『吉良の人物史』

◆天文16年(1546年)9月29日
松平広忠家臣中根正雄、渡村河原において討死。『寛政重修諸家譜⑭』

◆天文16年(1546年)10月18日
松平広忠、筧平三郎重忠に命じ、上和田城(岡崎市上和田)松平三左衛門忠倫を刺殺させる『愛知県史資料編⑩』

◆天文16年(1546年)10月
大浜(碧南市音羽町)の戦い
織田信長初陣(平手政秀ら八百人従軍)、大浜羽城長田重元攻め放火し帰陣。那古野城→古渡城→熱田神宮→沓掛城→刈谷城→大浜羽城『桶狭間への道』
今川義元、大浜湊(碧南市)に端城築き長田平右衛門重元を城代としていた。『今川義元』

◆天文16年(1547年)10月20日
松平広忠、筧重忠の松平忠倫殺害を賞す

今度三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠於子々孫々忘間敷候、然者為給恩、万疋之知出置候、雖為何儀候、於末代不可有相違候、在所者別ニ日記出置候也、
天文拾六年
十月廿日
広忠 御在判
筧平三とのへ
<愛知県史 資料編10「松平広忠判物写」(譜諜余録)1>

◆天文16年(1546年)12月25日
金田正房、竹千代を救う計略に失敗し死す。『三河後風土記正説大全』

◆天文16年(1546年)
織田信秀、安祥城(安城市安城町)攻略
佐崎城(岡崎市上佐々木)松平三左衛門忠倫、松平広忠に逆ギ心し渡村・筒針砦を構える。井田城(岡崎市井田町)酒井左衛門尉忠次、織田信秀側につく。織田信秀、松平三左衛門忠倫を上和田城(岡崎市上和田)に、松平蔵人佐信孝衆を岡の城(岡崎市岡)・三木城に、酒井左衛門尉忠次を上野城(豊田市上郷町)を置く。『古城54』

◆天文17年(1548年)1月26日
今川義元、奥平定勝が久兵衛謀反を通報して実子を人質に出したことを賞す

去年息千々代・同名親類等依忠節、新地山中七郷充行分[但此内百五十貫文、竹尾平左衛門割分除之、]本知行并遠江国高部給分、弟日近久兵衛尉知行分、同去年配当形之厚分等之事
右、依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細申分、則実子千々代為人質出置、抽忠節上、抛先非如前々所充行之也、弥可専忠信之状、仍如件、
天文十七戌申年正月廿六日
治部大輔判
奥平監物丞殿
<愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)>

◆天文17年(1548年)2月15日
今川義元、本多縫殿助忠俊に、伊奈(豊川市)・前芝湊(豊橋市)の支配権と湊役徴収権・渡津平井村(新城市平井)の船役徴収権安堵。(前マエ芝シバ・牟呂の河口から終点平井までの豊川舟運を支配する地位にあり、入船料や船役徴収権を認められ流域物資流通に関わる商人でもあった。)『永原慶著作選集⑥』

◆天文17年(1548年)3月2日
今川軍2万5千大将太原崇孚・副将朝比奈備中守泰能・搦手岡部五郎兵衛尉元信・朝比奈藤三郎泰秀出陣、藤枝着。

◆天文17年(1548年)3月4日
今川軍引馬着。
◆天文17年(1548年)3月5日
今川軍吉田着。
◆天文17年(1548年)3月6日
今川軍藤川(岡崎市)着陣。
織田信秀・副将織田三郎五郎信広・先手弟津田孫三郎信光8千、清洲城を出陣し笠寺・鳴海に着陣。
◆天文17年(1548年)3月8日
織田信秀、安祥城着。
◆天文17年(1548年)3月9日
織田信秀、矢作川渡り上和田城(岡崎市上和田町)着陣。

◆天文17年(1548年)3月11日
北条氏康、織田信秀の軍功を讃えつつ、自らは今川氏と和平したことを伝える

如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、就中、駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、抑自清須御使并預貴札候、忝候、何様御禮自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々謹言、
十七年
三月十一日
氏康 在判
織田弾正忠殿
御返報
<戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状案写」>

◆天文17年(1548年)3月12日
今川義元、戸田一門を匿った長興寺へ最少六6反歩の寄進状を送る。『田原町史㊤』
◆天文17年(1548年)3月17日
今川氏輝13回忌。法事に際し、京都天竜寺三秀院住持江心承薫、拈拈香文を読み上げる。『大龍山臨済寺の歴史』

◆天文17年(1548年)3月19日
第2次小豆坂の戦い(岡崎市羽根町)
庵原安房守元政の斥候、庵原右近忠春が織田軍を見付けて報告。今川軍小豆坂上り陣し織田軍待つ。 
今川方先手朝比奈備中守泰能3千余と朝比奈小三郎泰秀3千余突戦す。 
織田方先鋒織田酒造允信房攻め上がる。弟織田与二郎信康・弟織田四郎次郎信実・弟織田孫次郎信次・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・内藤東助・川尻与兵衛鎮能・槍武藤三位入道(織田家随一の豪勇)・小瀬修理太夫直澄・川崎傳助友勝・土肥孫左衛門通平・那古屋弥五郎重義・永田四郎右衛門重宗・大久保半助乗忠(今樊)・山口右馬助・平手中務・川尻与四郎・柴田・滝川・林・梁田など従軍。 
織田方内藤藤助は強敵を斬る。川尻與四郎鎮吉は庵原氏と組クて討取る。那古屋弥五郎重義討死・永田四郎右衛門重宗討死。 
先陣朝比奈藤三郎信置1番槍。叱咤し敵軍に入り群がる敵相手に奮戦。 
1の備織田三郎五郎信広、織田オダ信秀本陣まで敗走。小豆坂7本槍(津田孫三郎信光・織田酒造允信房・岡田助右衛門直教・佐々孫助勝重・佐々隼人正勝道・中野又兵衛忠利・下方彌三郎匡範)の働きで今川軍敗走。岡崎衆松平太郎左衛門信吉・弟傳十郎信勝・林藤五郎忠満・小林源之助重次防戦するが数十人討死。 
伏兵岡部五郎兵衛尉元信・西郷弾正左衛門尉正守、織田信秀本陣へ横槍し織田軍敗走。 
持舟城主関口政興負傷。 
小倉与助正孝、物頭織田家随一の豪勇槍武藤を組伏討ち取り功第一。(後に美濃・和泉の日根野五郎左衛門従三位備中守弘就・日根野彌次右衛門・青木筑後守一重青木加賀守右衛門重直・小原肥前守兄弟・坂井大膳を推薦して仕えさせる)織田軍50余人討死。 
酒井雅楽頭正親、織田信広従士鳴海大学助を討取る。『寛政重修諸家譜②』 
松平家臣今村彦兵衛勝長戦功。『寛政重修諸家譜⑬』 
松平家臣小林平左衛門重次、織田平八郎信重・織田平九郎信正を討取り、永井藤助と戦い討死。70歳。弟小林源之ノ助重吉討死。『寛政重修諸家譜⑯』 
榊原彦内政吉戦功。 
松井惣左衛門家保、最前に馬を入れる。殿時には松井宗信と朝比奈備中守泰能に同心する。 
久米次郎左衛門親吉、久米四郎父子、小豆坂合戦で高名。『南紀徳川史⑤』 
青山忠門、舎弟善四郎重成と従軍し功あり。『三河国額田郡誌』 
水野信元家臣高木清秀、今川軍の兵と馬上に組みその首を取る。『碧海郡誌』 
今川方藤川戻る。織田信秀、織田信光を上和田城・信広を安祥城に置き清洲へ戻る。

◆天文19年(1550年)1月17日
犬山織田氏・楽田織田氏が織田信秀に反旗を翻す。
『愛知県史研究⑮』

◆天文19年(1550年)1月23日
今川義元、武田使者駒井政武と対面。三国同盟への話し合い。
『高白斎記』

◆天文19年(1550年)1月26日
太原崇孚、内裏で和漢御会を主催。出席者に後奈良天皇・三条西公条・三条大納言・中山孝親・山科言継・四辻季遠・広橋国光・雅業王・高辻長雅・相国寺仁如・妙心寺亀年・天竜寺江心。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)3月28日
鵜殿長持、安心に対して飯尾豊前守への織田信秀密書仲介を責める
鵜殿長持より安心軒への書状
 貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、惣別彼被仰様、古も其例多候、項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦可果之由、項羽自雖被打向候、高祖敵之調略非可乗との依遠慮、果而得勝事、漢之代七百年を被保候、縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、但駿遠若武者被聞及候者、朝蔵・庵原為始、可為其望候哉、此段之事候へ者、去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候、武新二前被申様ニより、重而談合可申候、恐惶謹言、
三月廿八日
鵜殿長持
安心
 参 御報
<静岡県史「鵜殿長持書状写」>

◆天文19年(1550年)夏
今川氏、三河大樹寺領で検地。
『一向一揆の基礎構造』

◆天文19年(1550年)5月
信長家臣佐久間甚四郎、織田方に大高城を攻略される
「天文十九年五月吉日を改、 (中略)松平蔵人元康公となり、 (中略)同年八月十六日 御父弘忠公御病死。 (中略)去程に信長家臣佐久間甚四郎と云者、尾州大高の城に押シ寄セ攻メ取ルに、兵甲斐無き者共にて、逆茂木一重破リ捨テ、城中ニ切リ入リ、究竟の兵共廿五人討取リしかば、士卒は残ラズ駿河にぞ引キ退ける。 <元康公御出張之事> 已に今川大高城攻られ崩し候故、三州押として元康公岡崎へ再び返城仰付けられけり。」
『三河海東記』

◆天文19年(1550年)閏5月26日
今川義元の娘没。法名「隆福院殿月汀宗真大禅定尼」『静岡県地域史研究会報77』

◆天文19年(1550年)6月2日
今川義元夫人没。32歳。法名「定恵院殿南室妙康大禅定尼」
乗炬を太原崇孚、鎖龕を黙宗瑞淵、記龕を梅室、奠湯を南陽、収骨を文益座元等により葬儀が行なわれる。
『戦国遺文今川氏編②』
太原崇孚の法語「頽乎久臥寝室、俄然終入帝郷、妃嬪僂ショウ倚柱惆悵、臣民走卒仰天蒼黄」『大龍山臨済寺の歴史』

◆天文19年(1550年)6月
今川藤島城主(日進町藤島)丹波隼人佐、福谷城(三好町福谷)に在番する。

◆天文19年(1550年)7月5日?
近衛稙家、織田信秀との和睦継続を今川義元に求める
久閣筆候、疎遠之至■、仍就土岐美濃守入国之儀、尾州織田備後守令相談■由候、然者彼国境目等不及再■、弥無事之段、可喜思食■、武家御内書如此候、依■有見除子細、被仰候、■佐々木弾正少弼使僧可申伝候也、状如件、
七月五日
今川治部大輔■ 
愛知県史 資料編10「近衛種家書状案」(近衛文書)
<1551(天文20)年に比定。ほぼ同文の、太原崇孚・朝比奈泰能・飯尾乗連宛文書がある>

◆天文19年(1550年)8月2日
遠州大洪水。大窪山徳願寺(静岡市駿河区向敷地)開祖天叟祖寅寂。
『大窪山徳願寺史誌』
尾張で大雨洪水。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文19年(1550年)8月
刈谷城の返還交渉が成立したとあり
『東照軍鑑』
「尾州錯乱、八月義元八万騎にて智多郡へ出陣」
『定光寺年代記』
今川義元5万騎で尾張知多郡に出陣。織田方は尾州錯乱
『新説桶狭間合戦』

◆天文21年(1552年)9月
織田信秀が没し、今川義元が出兵する

壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、九月駿州義元八事マテ出陣、
<愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書)>

◆天文19年(1550年)9月9日
今川義元、四宮右近・庵原彌兵衛を甲州へ遣わし、北条氏康より依頼された上野国に武田信玄が手を出さないよう伝え甲相和平を求める。

◆天文19年(1550年)9月16日
朝比奈左京亮泰能、長沢城を今川軍に渡すことを約束した牧野田三朗に感状。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文19年(1550年)9月17日
今川義元、白坂(愛知県瀬戸市)雲興寺へ禁制。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)9月19日
飯尾乗連・太原崇孚、長沢城を今川軍に渡すことを約束した牧野田三郎に感状。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文19年(1550年)9月27日
今川治部大輔義元、陣中より伊勢御師亀田大夫に、重原庄(愛知県刈谷市)内の所領百貫文寄進し、今度の出陣における武運長久を祈願させる。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)9月28日
今川治部大輔義元、知多郡での戦いで、大村彌三郎高重へ感状。

◆天文19年(1550年)9月28日
今川治部大輔義元、遠江国千手院に、三河国における白山先達職を安堵。『愛知県史資料編⑩』

◆天文19年(1550年)10月10日
今川義元、大樹寺(岡崎市鴨田町)に寺領安堵し禁制を与える。寺領・祠堂銭を徳政から除外する。
『史叢46』

◆天文19年(1550年)10月12日
今川義元、筧平三重忠に松平広忠の給恩地チを安堵。
『駿河の今川氏⑧』

◆天文19年(1550年)10月19日
越中国菩提心院日覚、越後国ニ本成寺に、尾張国の洪水や今川氏の尾張進入などの伝聞を伝える。駿河・遠江・三河の軍勢が六万ばかりで織田信秀を攻めてきたが、尾張側はこれを国境で支える為にことごとく出陣しており、今でも那古野の辺りまで兵の姿が見えない。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文19年(1550年)11月8日
今川治部大輔義元、牧野出羽守保成に、財賀寺領(豊川市財賀町)を不入地として安堵。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)11月9日
今川治部大輔義元、桜井寺(岡崎市桜井寺町)に、三河国における白山先達職安堵。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)11月19日
今川治部大輔義元、長田喜八郎重吉に、天文17年松平広忠に背いて織田方に属した熊野社禰宜河井惣太夫の所職を、没収して長田氏に与えた松平竹千代知行大浜(碧南市大浜上町)上宮神田を、上の宮前神主河村惣太郎からの熊野社領は特別相伝性が強いという理由よりの訴訟に対し安堵。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)11月25日
今川治部大輔義元、三河御油林二郎兵衛に、三河八幡惣社領内屋敷3間分の諸役免除。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)11月29日
太原崇孚・朝比奈備中守泰能、後奈良天皇の命を受け、大樹寺(岡崎市鴨田町)寺領安堵。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)12月1日
義元が丹波隼人佐に沓懸・高大根・部田・大脇、知多郡の横根を安堵
「沓掛・高大根・部田村之事。右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件。天文十九、十二月朔日。治部大輔(花押)丹羽隼人佐殿」 
『今川義元判物・手鑑/豊明市史』

◆天文19年(1550年)12月2日
今川義元、奥平定勝が高橋筋で奔走していることを労う
就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候、■気之時分、辛労無是非候、飯尾豊前守・二俣近江守有談合、馳走専要候所、注進可差遣之人数候、猶朝比奈備中守可申候、恐々謹言、
十二月二日
義元判
奥平監物丞殿
<静岡県史「今川義元書状写」(松平奥平家古文書写)>

◆天文19年(1550年)12月5日
今川義元、妙源寺(岡崎市大和町)・阿部与五左衛門に、中村城主(名古屋市南区呼続町)山口左馬助教継が忠誠を誓った事を喜ぶ。しかし、織田信秀の懇願により刈谷城(刈谷市城町)包囲を解く事を伝え、山口教継が不満の持つ事が無く講和に協力するよう説得命じる。
『歴史群像85』

◆天文19年(1550年)12月5日
妙源寺(岡崎市大和町)住職・阿部与五左衛門らの工作により、山口左馬助教継が今川方になったので、後詰を諦めた織田信秀は、刈谷城主(刈谷市城町)水野藤九郎守忠以下の赦免を条件に刈谷城を開城する。松井宗信、刈谷城開城時に尾張衆が防いだ為、直ちに馳せ入り度々の合戦で同心・親類・被ヒ官、随分の者数多く討死する。
『古城54』

◆天文19年(1550年)12月11日
太原崇孚、今川義元の諮問に答え、10条今川家諸宗礼式を定める。
信仰する宗門については、各自崇め敬う事随意。 
・公家への礼儀作法は管領家への作法と同じ様にするべき。 
・僧侶への白洲(玄関先)への送り迎カえについて。 
・諸宗へ乗物で参詣するにあたって。 
・増善寺(氏親菩提寺ジ)に対する礼儀について。(西谷貞林寺仙林慧慧椿で今川氏と俗縁『関東中心戦後史論集』) 
・得願寺に対して。 
・曹洞宗の紫衣クについて。 
・禅師号・上人号申し請けについて。 
・聖道家カ(天台・真言)について。 
・年始の御礼に来る僧の扱い。 
今川家当主の1月8日における神主・僧侶に対する年始の対面は、早朝、駿府浅間社新宮・惣社両神主・惣持院別当との対面ンから始める。
『大龍山臨済寺の歴史』

◆天文19年(1550年)12月15日
太原崇孚、牧野保成に、長沢両人が保成の知行を宛行なわれた件は不法であると連絡
(牧野保成が長沢領を召し上げられた抗議を受け善処を約す。同書状内で岡崎筋で奔走していることを労う)

御同名八大夫殿御越候、委細承候、仍山田源助御判形給、御知行之内より万疋可請取之由被申候哉、愚僧事、就善得寺造営、昨日迄河原ニ候へハ、今朝承驚入候、殊山源五六日以前河原へ被越候間、其時ハ以別事対談候、此訴訟之事、愚僧ニ一言も不被申出候、衣鉢三安云々、不存候間、不及押置候、如何様之申掠ニ候哉、御判形被出候、不審ニ候、朝丹無疎意候、諸老も別儀不被存候、涯分可被申立候、定依申掠一端被仰出候哉、於御心中有御疎略間敷候、尚口上申候、恐々謹言、
   就高橋雑説、自最前岡崎筋御馳走、御陣労察存候、
十二月十五日
林際寺 崇字 判
牧野出羽守殿 御返報
<静岡県史 資料編7「太原崇孚書状写」(松平奥平家古文書写)>
〔同姓八大夫殿がお越しになり、詳しく承りました。山田源助が御判形を受け、あなたの知行から1万疋を受け取ったとのことを申されたのでしょうか。愚僧は善徳寺の造営で昨日まで河原におりましたので、今朝聞いて驚いています。特に山田源助は5~6日前に河原へ来ていて、その時は別の件を話していました。この訴訟のこと、愚僧には一言も言いませんでした。衣鉢三安うんぬんと。存じなかったので、確保には及びませんでした。どのような不正訴状でしょうか。御判形が出されたとのこと、不審です。朝比奈親徳に疎意はありません。諸家老も異義はありません。可能な限り起訴すべきでしょう。恐らく不正訴状によって一旦仰せ出されたものでしょうか。最前より岡崎方面で奔走され、ご陣労察しております。〕

◆天文19年(1550年)12月23日
織田信長、笠寺の権益を保証する

笠寺別当職備後守任判形之旨、御知行分参銭・開帳、寺山、寺中御計之上者、雖誰々申掠候、不可有相違者也、仍如件、
天文拾九
十二月廿三日
信長(花押)
座主
 床下
<織田信長文書の研究(上) 「織田信長判物」(尾張密蔵院文書)>

◆天文21年(1552年)4月17日
赤塚の戦い 鳴海城主の山口教継の寝返り
「天文廿一年(1552)四月十七日、織田上総介信長十九歳、…御敵山口九郎二郎廿の年、三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出で候」
『信長公記』

◆天文19年(1550年)12月
尾張知多郡に出陣した今川義元5万騎帰陣。
『新説桶狭間合戦』

◆天文20年(1551年)2月10日
近衛稙家稙、足利義輝の意をウけ、織田信秀との和睦について今川方に対処を求める。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文20年(1551年)5月
水野清近(信近)、尾張国祐福寺に禁制を発す


  祐福寺并寮舎
一濫妨狼籍并伐竹木、不可陳取之事
一兵粮米・津銭并諸課役、不可申懸之事
一不謂敵味方、越物已下不可改之事
一俵物等出入、不可相留之事
一寺中引得之田地等、不可有違乱之事
右条々、於末代不可有相違、若当年面々於令違犯者、可処厳科者也、仍而如件、
天文廿 辛亥 五月日
水野藤九郎
清近(花押影)
<愛知県史 資料編10「水野清近禁制写」(祐福寺文書)>

◆天文20年(1551年)6月28日
足利義輝、織田信秀との和睦継続を今川家中に求めるよう近衛稙家を起用

於参州織田備後守間之事、重不及鉾楯弥属無事、都鄙儀令馳走者可喜入之段、対今川治部大輔遺内書候、無相違様被仰下者可為喜悦候、此等趣、可加意見之旨、彼年寄中被加芳言者可然候、猶聖護院殿可有演説候、恐惶謹言、
六月廿八日
義藤 御判
<愛知県史 資料編10「将軍足利義藤御内書写」(御内書要文)>

◆天文20年(1551年)7月4日
今川義元、匂坂長能に長沢城駐屯を命じる

参河国奥郡野田郷一円代官職之事、散田共ニ、
一就長沢在城、惣員数之内弐百五十貫文、為給恩可引取之事
 付、此内五十貫文与五右衛門尉ニ宛行之、
一為不入申付上者、諸課役并吉田之原普請人足等停止之、長沢之城中普請無油断可申付、彼地百姓等并他被官以下、対代官於存譴意者、遂糾明理非落着之上可令改易之事
一親類・同心等構述懐就付他者、如法度給分等召放、別人江長能可申付之事
右、三州吉田以来田原本意之上迄、異于他励粉骨之条、忠功之至也、然上長沢在城所申付也、根小屋・あき屋敷等長能被官等可置之、并竹木諸普請之具人足等、如前々長沢郷中■可申付、但彼城就上表者、野田代官職共可令上表也、弥可抽奉公之状如件、
天文二十年
七月四日
治部大輔判
匂坂六右衛門尉殿
<静岡県史「今川義元判物写」>

◆天文20年(1551年)7月5日
近衛稙家、今川義元・太原崇孚・朝比奈泰能・飯尾乗連に尾張国との和睦継続を依頼する

久閣筆候、疎遠之至■、仍就土岐美濃守入国之儀、尾州織田備後守令相談■由候、然者彼国境目等不及再■、弥無事之段、可喜思食■、武家御内書如此候、依■有見除子細、被仰候、■佐々木弾正少弼使僧可申伝候也、状如件、
七月五日
今川治部大輔■
<愛知県史 資料編10「近衛種家書状案」(近衛文書)>

◆天文20年(1551年)8月2日
今川義元、松平三蔵の所領を安堵

去己酉年山口内蔵令同意、依可抽忠節造意現形、於尾州数ヶ所知行捨置馳来、其以来無足奉公、甚以忠節之至也、既安城陣之刻、以阿部大蔵、兄三左衛門尉跡職之内百貫文地、雖可出置之由申、一円彼跡職之知行可請取之由令遅延云云、然者、任安城陣之刻約束之旨、佐々木郷内伊奈分・又太郎分・東浦分・中切分参ヶ壱但除松平彦九郎相拘之分、藤野柳原、百貫文之分所宛行之也、縦雖有及異儀輩、不能許容、可知行之、弥可励忠節之状如件、
天文弐拾年
八月二日
治部大輔(花押)
松平三蔵殿
<静岡県史「今川義元判物」>

◆天文20年(1551年)11月5日
織田寛近、織田信秀の代わりに土岐小次郎に進退保障を行なう

美濃守殿御儀、不慮之仕合、無是非儀ニ候、御身上之儀、相違有間敷候由、道三申候、委細可被任稲葉伊予守差図者也、備後守病中故、我等方より如此ニ候、恐惶謹言、
十一月五日
織田與十郎 寛近(花押影)
土岐小次郎殿
<岐阜県史「織田寛近書状写」(村山文書)>

◆天文20年(1551年)12月2日
今川氏家臣、松平甚太郎に甚二郎領地の継承を安堵する

甚二郎殿別儀付而、具承候、 御屋形様并竹千代丸江忠節之事候間、甚二郎殿あとしき、無相違渡可申候、本知あいはの事ハ、只今東条殿へ被進候間、いまハなりかたく候、おつての儀たるへく候、将又うり地の事、甚二郎別儀の上ハ新地ニ成候事候間、無別儀申調可進候、如此上者、松井・山内両人ニ可任置候、委細酒井小五郎ニ申候間、諸事彼意見可被聞候、
 右、此条ゝ申合候儀、三人偽候ニ付而者、
日本国中大小神祇、別而者八幡大〓(艸+廾)・富士浅間大〓(艸+廾)・白山妙理大権現・天満自在天神御罰可罷蒙者也、仍如件、
天文廿年
十二月二日
飯豊 乗連(花押)
二近 持長(花押)
山新 景隆(花押)
松平甚太郎殿
  参
<新編岡崎市史「岡崎城代山田景隆等連署血判起請文」(観泉寺所蔵文書)>

◆天文20年(1551年)12月2日
今川義元、大村弥三郎が天文18年の吉良攻めで功績を挙げたことを賞す

去酉年九月廿日、三河内吉良江取懸遂一戦敵追入、於端城随分之者討捕之旨、甚以神妙之至也、弥可抽忠功之状如件、
天文廿年
十二月二日
義元
大村弥三郎殿
<静岡県史「今川義元感状写」>
◆天文20年(1551年)12月5日
今川義元、妙源寺(岡崎市大和町)住持・阿部与五左衛門に、織田信秀との和睦条件(織田信秀が懇望するので刈谷水野氏領を今川領国に編入せず存続を認め、今川に属した国境一帯の者に対し報復するなという要求)を示し交渉窓口の山口左馬助教継を説得するよう指示する。
『愛知県史研究⑮』

◆天文20年(1551年)12月
伊勢外宮禰宜等、前回の正遷宮が内宮であったことや、先例から言えば外宮が先であることを、朝廷・幕府に主張する。
『国史学160』

◆天文21年(1552年)3月9日
織田信秀が没し、今川義元が八事に出兵する

壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、九月駿州義元八事マテ出陣、
<愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書)>

◆天文21年(1552年)6月3日
今川義元、松平甚太郎部下の大給城での功績を褒める
去月廿六日、於大給城北沢水手、被官石原藤二郎・蜂谷又一郎・加納甚三・松平彦一・小者藤若、敵三人討捕之云々、誠以神妙之至也、弥可励忠節者也、仍如件、
天文廿一年
六月三日
義元(花押)
松平甚太郎殿
<静岡県史「今川義元感状」>
大給城:愛知県豊田市大内町にあった山城

◆天文21年(1552年)8月25日
今川義元、岡部元信が小豆坂で活躍したことを賞す

先年参州小豆坂合戦之刻、味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利、甚以感悦也、此時之出立、筋馬鎧并猪立物也、因茲敵令褒美、於向後分国之武士、彼出立所令停止、若至于違乱之輩者、可加下知者也、仍如件、
天文廿一年
八月廿五日
治部大輔(花押)
岡部五郎兵衛尉殿
<静岡県史「今川義元感状」>

◆弘治元年(1555年)2月5日
山口父子は義元に誅殺
「弘治元~三年の間に、山口親子が滅ぼされ、今川氏の派遣した城代岡部五郎兵衛が置かれて、鳴海城近辺は今川氏の直接支配下に入った」
弘治元年(1555)二月五日付判物と弘治三年十二月三日付の朱印状
『新修名古屋市史』

◆弘治2年(1556年)3月20日~弘治3年(1557年)12月3日
山口父子が誅殺
「去年弘治三年の春より、尾州の侍皆駿河へ心を寄、御手を引申候故、智多郡は過半駿河へ陣参す、依之中村城・鳴海城・科野城皆駿河へ籠る、又信長の弟織田武蔵守(信勝)も義元と内通し、兄の信長をたをし、其跡を知行せんとの儀也」
『松平記』

◆弘治2年(1556年)3月20日
水野右衛門大夫殿御子、水野和泉守殿 一貫文施入
「寛政十二年(1800)四月/現住等玄記/・・・弘治二年(1556)三月廿日 法名 春江全芳禅定門/水野右衛門大夫殿御子、水野和泉守殿一貫文施入・・・」
乾坤院文書『水野氏法名一覧』
〔乾坤院(けんこんいん)、愛知県知多郡東浦町にある曹洞宗の寺院〕

◆弘治3年(1557年) 12月3日
岡部元信、笠寺在城衆全員が笠寺砦を支えきれずに鳴海城へ撤退
「鳴海東宮大明神並八幡神田之事。右、拾貫参百文、下分壱貫四百文、あいはらのやふ下弐百五十文・禰宜屋敷壱間以上拾壱貫九百五十文云々、去年散田入落之残員数分弐貫八百文、依顕印判令難渋云々、只今惣高辻■之分共拾壱貫九百五十文之由申条、依為神慮、任前々之旨、永領掌了、然者神事祭礼等無怠慢可勤之、近年押領之禰宜雖令難渋、不可許容、在城衆存此旨堅可申付者也、仍如件。弘治参年十二月三日。禰宜二郎左衛門尉」
弘治三年、義元朱印状

◆永禄元年(1559年)2月28日
駿河勢が笠寺から撤退
「去晦之状令披見候。廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候。猶々堅固ニ可被相守也。謹言.永禄元年三月三日、義元(花押)浅井小四郎・飯尾豊前守・三浦左馬助・葛山播磨守殿、笠寺城中」信秀はすでに死に、この頃の信長が弾正忠を名乗った形跡はない。但し、『松平記』には「永禄元年三月、(中略)笠寺に葛山備中守・三浦左馬之助・飯尾豊前寺・浅井小四郎四百余人にて籠る」
永禄元年二月廿八日付、笠寺城中衆宛義元書状

◆永禄3年(1560年)4月12日
水野十郎左衛門尉に書状:永禄三年四月十二日、今川義元から刈谷の水野氏に下記の書状が来ている。(東京大学史料編纂所)
「夏中可令進発候条(私は夏に兵を進めますから)其以前尾州境取手之儀申付(その前に尾張の国境に砦を作る役割のことを申しつけるによって)人数遣候(人数を差し出して下さい)然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言(いよいよ奮闘努力をしてください。なおこのことは大高の朝比奈備中守に連絡しておきます 敬具)
「四月十二日 義元 水野十郎左衛門尉殿」

◆永禄3年(1560年)5月
「鳴海城堅固に持詰段、甚以粉骨至也、・・・ 剰[あまつさえ]苅屋城以 籌策[ちゅうさく](はかりごと)、城主水野籐九郎其外随分者、数多打捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也 ・・・」(東京大学史料編纂所)
敗戦後、岡部元信は駿府への帰路わざわざ遠回りして刈谷城を襲撃放火、城主水野の首を討ち取っている。岡部元信の胸中には、首尾一貫せぬ水野の姿勢に、武士の風上におけぬ奴と云う強い怒りがあって、これを誅したものであろう。そのことは氏真が岡部に与えた感状の中にも表れている。城主水野外多数を討ち、城に放火して全焼させたのは、他に類を見ない苦労であり功績であると氏真が岡部を讃えているのは、水野氏の不信行為に対する怨念が汲みとれる一幕である。

◆今川氏真、岡部五郎兵衛尉の鳴海城守備を讃え没収した知行の回復を保障する
駿・遠両国内知行勝間田并桐山・内田・北矢部内被官給恩分等事
右、今度於尾州一戦之砌、大高・沓掛両城雖相捨、鳴海堅固爾持詰段、甚以粉骨至也、雖然依無通用、得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也、彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、永不可相違、然者如前々可令所務、守此旨、弥可抽奉公状如件
永禄三 庚申 年
六月八日
氏真(花押)
岡部五郎兵衛尉殿
『豊明市史「今川氏真判物」(岡部文書)』
“「駿河・遠江国内の知行、勝間田並びに桐山・内田・北矢部のうちの被官控除分のこと」右の所領は、今度の尾張での一戦で、大高と沓掛が捨てられたのに対して、鳴海を堅固に守備し、大変な働きした。とはいいながら作戦上どうしようもなく、結局私の指示があって撤退となったが、城中の人間を全員間違いなく撤収させている。忠節は比べるものもない。その上、刈谷城で計略を働かし、城主水野藤九郎その他たくさんの人間を討ち取り城内全てを焼き払った。この働きは他と比べられるものではない。あの本領は事情があってここ数年没収となっていたが、褒美として相違なく返還する。前々からの領地を守り、いよいよ勤務に励むように。”

◆永禄3年(1560年)12月2日
「父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事。・・・一、苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事。・・・右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、遠州蒲東方同名内膳亮、令扶助参拾貫文、其外相定引物之、参百拾八貫文余蔵入分、令扶助訖、此外於増分出来者、令所務随其可勤相当之役、・・・永禄三庚申年十二月二日」
『土佐国蠧簡集残編三・今川氏真判物写』
父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事
一 東取合之刻、於当国興国寺口今沢、自身砕手、親類・与力・被官数多討死、無比類動之事
一 参州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事
一 松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、医王山堅固爾相拘、其以後於小豆坂、駿・遠・三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、無比類之事
一 苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事
一 吉良於西条、味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠、依其防戦、同心両人・益田兄弟四人、遂討死之事
一 大給筋動之時、天野安芸・同小四郎其外手負大切処、宗信相支、無相違引取之旨、無比類之事
一 去五月十九日、天沢寺殿尾州於鳴海一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死、誠後代之亀鏡、無比類之事
右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、遠州蒲東方同名内膳亮、令扶助参拾貫文、其外相定引物之、参百拾八貫文余蔵入分、令扶助訖、此外於増分出来者、令所務随其可勤相当之役、殊於彼地先祖古山城討死之由申之間、彼地之事於子孫不可有相違、然者内膳公文等問答之未進事、可為左右方間、於向後此未進分一切不可有其綺、并長田・鶴見弐ケ村事、依訴訟今度相改、可令代官、但高辻弐百五貫文之外参拾貫者、如先代官時、為定納之余分令扶助、何茂知行分為不入上者、彼地事可為同前、弥守此旨、可専戦功之状如件
   永禄三庚申年 
      十二月二日
                         氏真(花押)
                  松井八郎殿」

◆永禄3年(1560年)12月20日
今川氏真、岡部真尭に一字を授与
一字  真尭
永禄三 庚申年十二月廿日
氏真判
岡部小次郎殿
<静岡県史 資料編7「今川氏真一字状写」(土佐国蠧簡集残編残編三)>

◆元亀3年(1572)大御堂寺文書
「野間大御堂寺従前代雖為守護不入、猶以御理之儀候条、一円令免許上者、諸役等寺中之竹木夫以下此外於向後も申事有間敷者也仍状如件
元亀三年 壬申 十月十八日
水野十郎左衛門尉
柿並
寺中参
是後ノ十郎左衛門也
元藤四郎元茂ト云 」

(書き下し文)

「野間大御堂寺、前代より守護不入たりといえども、猶もって御理之儀候之条、一円免許せしむる上は、諸役等寺中の竹、木、夫丸以下、このほか、猶向後も申す事あるまじきもの也。よって状くだんの如し。
元亀三年 壬申 十月十八日
水野十郎左衛門尉
柿並 寺中参
これ 後の十郎左衛門也 
元藤四郎元茂という」

『東浦町誌』

〔蓮如の時代〕
応永22年(1415)京都東山の本願寺で生まれる。
長禄元年(1457)本願寺の留守職を相続。
寛正6年(1465)延暦寺、大谷本願寺を破却。隠居を強いられる。
応仁3年(1469)大津南別所に顕証寺を建立、長男・順如を住持として祖像を同寺に置く。
文明3年(1471)吉崎御坊を建立。
文明6年(1474)加賀国富樫氏の内紛に介入。
文明7年(1475)吉崎を退去。
文明15年(1483)山科本願寺の落成。
文明18年(1486)紀伊に下向。のちの鷺森別院の基礎ができる。
長享2年(1488)加賀の一向一揆。
延徳元年(1489)寺務を子の実如にゆずり、山科南殿に隠居。
明応5年(1496)大坂石山の地に石山御坊を建立。後の石山本願寺。
明応8年(1499)山科にて入滅。

◆松平親忠が建立した大樹寺

貴人は自らの官職をそのままで呼ばずに、中国の朝廷での官職になぞらえて呼ぶことが流行っていました。例えば、『右京太夫』を『京兆』、『中納言』を『黄門』、『内大臣』を『内府』等、等。これを唐名といいます。その伝で言えば、唐名『大樹』に相当する日本の官職は『将軍』にあたります。
松平親忠の『親』の字は伊勢貞親の偏諱とされており、主持ちでした。その彼が『大樹』が『将軍』の唐名であることを知らないとは思えません。
親忠には兄が二人おり、後にそれぞれ岩津と大給を与えられております。つまり親忠は分家筋です。親忠が立てる以前にもともと大寿寺という草庵があったという説もあります。でも、これをわざわざ『将軍』寺という寺号にしてしまうことに、憚りがないとは思えないのが正直な所です。

永享十年(1438年)松平親忠生誕
寛正六年(1465年)額田郡一揆。
応仁元年(1467年)8月、応仁の井田野合戦。
応仁二年(1468年)知恩院、戦火で被災。第二十二世周誉珠琳、近江国伊香立に避難。
文明三年(1471年)松平信光、安祥を奪取。
文明七年(1475年)井田野に怪異発生。松平親忠、念仏堂を建てる。後、勢誉と大樹寺を創建。
文明十一年(1479年)信光明寺、勅願所となる。
文明十三年(1481年)妙心寺、勅願所となる。超誉、信光明寺で得度する。
長享ニ年(1488年)松平信光没。
明応二年(1493年)10月、明応の井田野合戦。
文亀元年(1501年)松平親忠没
永正元年(1503年)勢誉、知恩院第二十三世住持になる。
永正三年(1506年) 伊勢宗瑞、三河侵攻(~1510年 永正三河乱)
永正八年(1511年)信光明寺の肇誉、知恩院に転昇。超誉、信光明寺の住持になる。
永正十八年(1521年)超誉、知恩院二十五世の住持になる。
大永三年(1523年)浄土宗総本山論争。知恩院と知恩寺で決着はつかず。
大永七年(1526年)超誉、後柏原天皇崩御の折に臨終の善知識を勤める。
大永七年(1527年)超誉、知恩院を辞山。信光明寺の住持に復帰。
天文十四年(1545年)超誉、高月院に隠棲。
1549年(天文十四年)超誉、逝去。

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