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1350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>年表

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信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ

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番外 11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(1)
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/113501572-fcb1.html

番外 11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(2)足利家
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/1135015722-a87a.html

番外 11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(3)斯波家
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/1135015722-219e.html

番外 11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(4)今川家
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/10/1135015724-9f06.html

〔室町公と尾張・三河・遠江・駿河の年表〕
◆観応元年(1350年)から観応3年(1352年)、仁木義長は観応の擾乱の功績により、伊勢・伊賀・志摩・三河・遠江の守護職を兼帯する。

◆建武3年(1336年)仁木義長は足利尊氏に従い、室町幕府が開かれた後に備後・遠江・伊勢・伊賀・志摩等の守護や侍所頭人などを歴任した。

◆建武3年(1336年)、建武の新政から離反する足利尊氏に従った功績により今川 範国(いまがわ のりくに)に遠江守護職、次いで駿河守護職を与えられた。

◆天授5年/康暦元年(1379年)康暦の政変(こうりゃくのせいへん)、室町幕府の管領・細川頼之が失脚した政変である。
政変後は大幅な守護改替が行われ、細川派から斯波派の大名への加増がほとんどであった。
越前:畠山基国→斯波義将
越中:斯波義将→畠山基国
伊勢:山名五郎→土岐頼康
摂津:細川頼元→渋川満頼
出雲:佐々木高秀→山名義幸
石見:荒川詮頼→大内義弘
隠岐:佐々木高秀→山名義幸
備後:今川了俊→山名時義
伊予:細川頼之→河野通堯
豊前:今川了俊→大内義弘
肥後:今川了俊→阿蘇惟村
日向:今川了俊→大友親世

◆明徳2年/元中8年(1391年)
斯波義将と正室・吉良氏の嫡男、斯波 義重(しば よししげ)は3代将軍足利義満に仕え、叔父の斯波義種に代わって加賀守護に任じられる。

◆明徳2年(1391年)12月
明徳の乱
斯波 義重、山名討伐の為に3代将軍足利義満に従って父に代わって斯波軍を率いて参陣する。
『明徳記』

◆明徳4年(1393年)
斯波 義種(しば よしたね)、義重に移っていた加賀守護に戻る。
斯波義種:越前の大野郡を本家の武衛家(越前守護)より任されたため大野斯波家の初代。将軍の推薦により朝廷より代々民部少輔に任命されたため斯波民部少輔家ともいう。大野斯波家はその後も武衛家の有力な分家である。

◆応永元年(1394年)
足利 義持(あしかが よしもち)、義満より9歳で家督が譲られ、室町幕府第4代将軍足利義持となるが、太政大臣となった義満がそのまま実権を握る。

◆応永2年(1395年)7月
今川 貞世(いまがわ さだよ)、九州探題を罷免され、遠江と駿河の半国守護を命じられ、それぞれ弟の仲秋、甥の今川泰範と分割統治する。
〔今川了俊と呼ばれる〕

◆応永6年(1399年)
応永の乱(おうえいのらん)、西国の有力守護大名大内氏、大内義弘が室町幕府に対して反乱。斯波 義重、父と共に幕府方として参戦する。今川 泰範(いまがわ やすのり)、幕府方として参戦する。
<応永の乱>守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こして堺に篭城して滅ぼされた。応永5年(1398年)、来日した朝鮮使節から義弘が莫大な進物を受け取っていたことを斯波義将らが「義弘は朝鮮から賄賂を受け取っている」と義満に讒言し、それが義弘に聞こえて激怒させている。
義満は度々義弘へ上洛を催促するが、「和泉、紀伊の守護職が剥奪される」「上洛したところを誅殺される」との噂が流れ、義弘を不安にさせた。
追い込まれた義弘は鎌倉公方足利満兼と密約を結んだ。この密約は今川了俊が仲介した。了俊は義満によって一方的に九州探題を解任され、遠江・駿河半国守護に左遷されていた。さらに義弘は、先年の土岐康行の乱で没落していた美濃の土岐詮直、明徳の乱で滅ぼされた山名氏清の嫡男宮田時清、近江の京極秀満(出雲守護京極高詮の弟)や比叡山・興福寺衆徒、楠氏・菊地氏ら旧南朝方と連絡をとり挙兵をうながした。

◆応永7年(1400年)<応永6年(1399年)>
斯波 義重、応永の乱の功績で尾張守護に任じらる。

◆応永7年(1400年)3月
鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪した。
満兼を謀叛に誘った今川了俊は幕府から討伐の命を受けたために上洛して謝罪し、助命された。但し遠江・駿河守護職は取り上げられ、甥の今川泰範に与えられる。
今川 泰範(いまがわ やすのり)、応永の乱で幕府軍側に参陣し、駿河今川氏の第3代当主となり、遠江・駿河守護職を与えられる。

◆1401年 第1回の遣明船。明と国交が樹立し、翌年に足利義満を日本国王とした国書が来る。

◆応永12年(1405年)7月
斯波 義重、義満からの寵愛を受け、名を義教と改め、幕府管領並びに遠江守護を加えられる。
〔斯波氏、越前・尾張・遠江の世襲守護職が確立〕

◆応永17年(1410年)
斯波 義淳(しば よしあつ)、斯波氏(武衛家)7代当主は祖父の義将が死去すると6月には管領職を解かれる。

◆応永21年(1414年)
斯波 満種(しば みつたね)、4代将軍足利義持の忌避に触れて加賀守護職を剥奪される。加賀守護職は近臣として台頭してきた富樫満成に与えられる。

◆応永35年(1428年)1月、足利義持が亡くなり、足利義教が第6代将軍に選ばれる。くじびきで選ばれた為に『籤引き将軍』と呼ばれる。これに意を唱えたのが鎌倉公方の足利持氏であった。

◆永享四年(1432年)、中条氏は義教の咎を受けて所領没収の処分を受けた。将軍義教の拝賀の供奉をした中条判官は、晴儀にふさわしくない衣装であったことを咎められて面目を失った。そして、高橋荘三十六郷年貢高三万六千貫は、三河守護一色持信と東条吉良義尚に分与され、尾張海東郡は尾張守護斯波義淳に与えられた。『満済准后日記』

◆永享8年(1436年)二月十一日、公方家の命を奉じて、平井加賀守広利が三千の兵を率いて京都から三河、遠江に下向し、新田の余族を捜索する。義教将軍が赤松満祐に弑された後、取り締まりが緩くなったので、桃井満昌は三河に帰り、大河内式部少輔と改称した。児玉貞政も、再び三河に来て作手に住み、奥平監物と称した。『浪合記』

◆永享10年(1438年)
永享の乱(えいきょうのらん)
関東地方で発生した戦乱。鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実の対立
室町幕府6代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件である。
関東管領 幕府軍:上杉憲実 、足利義教
鎌倉公方 一色軍:足利持氏 一色直兼
今川 範忠(いまがわ のりただ)、駿河今川氏の第5代当主。永享の乱の功績により室町幕府6代将軍足利義教より「天下一苗字」とすると褒められる。
今川 範将(いまがわ のりまさ)、遠江今川氏第5代当主。今川から堀越に姓を改める。

◆永享十二年(1440年)三河国守護、一色義貫が謀殺される。室町殿の足利義教、三河守護の地位は一色氏から召し上げ、管領家細川氏の一族細川持常に与える。
一色氏の分国のうち、若狭と尾張知多郡は武田信栄、三河は細川持常にそれぞれ与えられた.(「東寺執行日記」)。

◆嘉吉元年(1441年)6月24日嘉吉の乱(かきつのらん)、義教暗殺  伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』
室町殿の足利義教、赤松氏随一の武士安積行秀が義教の首を刎ねられる。

◆嘉吉元年(1441年)七月将軍専制体制を推進してきた義教は、播磨守護赤松満祐による嘉吉の乱において殺害されたのであった。ここにおいて幕府政治は大きく方向転換し、義教に勘気を受けていた人々はすべて赦免され、中条氏もまったく復活をとげることができた。

◆文安年間(1443年~1449年)戸田氏の先祖は尾張国海東郡戸田荘の土豪で、三河の国人ではなく、三河国碧海郡上野に移住する。(石川政康の三河移住、蓮如の関東下向とほぼ同時期である)

◆文安 3年(1446年)石川政康、三河国碧海郡志貴荘村に移住。小川城を築く。
『三河布教 / 蓮如の三河国における布教活動-蓮如上人御一代記聞書』

◆宝徳元年(1449年)
細川 成之(ほそかわ しげゆき)、阿波細川家当主の家督を引き継ぎ、阿波・三河守護となる。

◆享徳元年(1452年)9月
斯波 義敏(しば よしとし)、斯波氏(武衛家)10代当主。本家武衛家当主・斯波義健が若年で死去したため、分家である斯波民部少輔家(斯波大野家)当主斯波持種の子・義敏が将軍及び重臣に推薦され本家を継ぐこととなり、武衛家当主となる。

◆長禄3年(1459年)8月
中遠一揆
今川 範将、遠江守護斯波氏に内紛が起こったのを好機として、周辺の土豪たちを招き集めて叛乱を慣行した。
堀越流今川氏が領していた遠江五郷は、幕府に没収されて将軍家直轄領の御料所にされる。
『親元日記』
今川 貞延(いまがわ さだのぶ)、遠江今川氏6代目当主。一時、幕府に所領を没収されたが、返還され貞延による存続が許された。その子、一秀は二俣城を守っていたが、駿河守護今川義忠が遠江塩賀坂で不慮の死をとげるや駿府に移り、幼主竜王丸(のちの氏親)を補佐し、竜王丸の家督相続が確定すると、その功によって瀬名を与えられ、瀬名殿とよばれる。
〔遠江今川氏を保護することで、遠江斯波氏と駿河今川氏との対立構造がここで生まれる。〕

◆寛正6年(1465年)、岡崎から北の井口という額田郡南部を地盤とする地侍・牢人たちが蜂起する。三河国守護の細川成之は牧野出羽守と西郷六郎兵衛を差し向け、砦を攻略し、伊勢貞親の被官の戸田宗光と松平信光に一揆首謀者を討たせた。『今川記』
・三河国守護の細川成之は牧野出羽守と西郷六郎兵衛を差し向け、砦を攻略したものの、略奪と狼藉を繰り返す。近辺は将軍の直轄地であり、守護といえどもおいそれと手出しできず。守護の細川成之は伊勢貞親に相談し、松平信光と戸田宗光に命じて一揆首謀者を討たせる書状をしたためる。
『蜷川新右衛門尉親元の日記 親元日記』
〔松平信光と戸田宗光は伊勢貞親の命令を受けて、一揆討伐の行動にでます。松平信光は一揆勢の大将格の一人、大庭次郎左衛門を深溝に追い詰め、息子の大炊助正則に討たせました。大炊助正則はそのまま深溝に土着し、深溝松平家の祖となります。戸田宗光も敵大将を討ち、残りの者達も駿河まで逃げた所を今川義忠に捕捉され首が京都に送られたとの事です。〕

◆寛正6年(1465年)
武衛騒動(ぶえいそうどう)
斯波義敏(10代当主)と斯波義廉(11代当主)の管領家お家騒動であったが、将軍家家宰の伊勢貞親が介入した為に幕政を混乱に陥れた。
文正元年(1466年)7月23日、足利義政側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。8月25日には越前・尾張・遠江守護職も与えている。

◆寛正六年(1465)八月、勝間田修理亮は将軍の上意によって横地氏とともに見付(磐田市)の狩野氏を討ち取り、感状を授かったことがある。

◆文正元年(1466年)9月6日 文正の政変 斯波義廉と縁戚関係にあった宗全は一色義直や土岐成頼らと共に義廉を支持し、さらに貞親が謀反の噂を流して義視の追放、暗殺を図ったことから義視の後見人である勝元は宗全と協力して9月6日に貞親を近江に追放(文正の政変)、政変に巻き込まれた真蘂、義敏、赤松政則らも一時失脚して都を追われた。14日に家督は斯波義廉に戻された。

◆応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)
応仁の乱(おうにんのらん)
室町幕府管領家の細川勝元と山名持豊らの有力守護大名が争い。
【東軍】
将軍家:足利義政、足利義視(後に西軍へ)
幕府有力者:細川勝元(細川一門)、畠山政長、斯波義敏
その他の大名:赤松政則、京極持清、武田信賢、富樫政親、今川義忠
【西軍】
将軍家:日野富子(後に東軍へ)、足利義尚
幕府有力者:山名宗全(山名一門)、畠山義就、斯波義廉
その他の大名:一色義直、土岐成頼、六角高頼、(大内政弘、河野通春)
今川義忠、山名宗全は義忠を西軍を引き入れようとするが、将軍警固のために上洛したことを理由に東軍が占拠している花の御所へ入り、そのまま東軍へ属した。〔西軍の越前・尾張・遠江守護の斯波義廉に対抗し、東軍に参陣したと言われる。〕

◆応仁2年(1468年)7月
斯波義廉、幕府より管領・3ヶ国守護職を剥奪されるが、西軍内ではなおもその地位に留まった。

◆1471年(文明 三年)安祥城に松平信光が入った。〔安祥城城下に踊りの集団が現れ、お囃子を入れながら踊りを披露し始めます。それを見物に城兵達が城を出た所を、一軍を率いた松平信光が乗っ取った。〕大久保彦左衛門忠教『三河物語』

◆文明 3年(1471年)岩津松平信光、安祥城を奪取。三男親忠を置く。
『三河布教 / 蓮如の三河国における布教活動-蓮如上人御一代記聞書』

◆文明3年(1471年)5月21日、越前・遠江守護代の甲斐 敏光。朝倉孝景が足利義政から越前守護の任命されたことで西軍から東軍に寝返る。

◆文明5年(1473年)
応仁の乱のその後
幕府では富子の勢力が拡大し、「将軍職を譲る」と約束された義視が義政と仲違いし西軍へ身を投じたため、義政・富子の子である義尚が元服して義政が義尚に9代将軍職を譲って隠居した。管領には畠山政長が任じられた。勝元亡き後では順当の人事であったが、
応仁大乱のきっかけとなる御霊林の戦いを引き起こした政長が幕閣の頂点に立つのは諸大名の反感を呼び、政界の混乱が収まるはずはなかった。
形式的に東軍の意見が通っる事になり、西軍諸将は猛反発を引き起こす。こうして戦闘は継続され、応仁の乱が終わる気配は無かった。
こうして、敗者である西軍を処断できない幕府は権威を失墜させることになった。

◆文明5年(1473年)、駿河守護今川義忠は東軍の三河国守護・細川成之が美濃国守護代格・斎藤妙椿から攻撃を受けたため、将軍の命により三河へ出陣している。その為に将軍から兵糧用として預けられた所領を巡って同じ東軍の尾張国守護・斯波義良及び三河の吉良義真の被官となっていた遠江の国人巨海氏、狩野氏と対立して、これを滅ぼした。そのため、同じ東軍の義良、成之と敵対することになった。

◆文明7年(1475年)2月19日
西軍の斯波義廉の越前・遠江守護代甲斐八郎敏光、東軍斯波義良の遠江守護代となり遠江下向。『戦国史研究35』
文明7年(1475年)駿河守護今川義忠、東軍は西軍の義廉の重臣・甲斐敏光を寝返らせ遠江守護代として、義忠と敵対。遠江の情勢は混沌とする。義忠は遠江へ出陣して斯波義良方の国人と戦った。

◆文明7年(1475年)7月23日
駿河守護今川義忠、遠江勝田氏を破る。
『静岡県史資料編⑥』

◆文明7年(1475年)11月18日
斯波義廉、斯波氏の下国
文明3年(1471年)に有力家臣の1人である朝倉孝景が越前に下向した後東軍に属し、文明7年(1475年)に甲斐敏光も東軍に帰順して孤立、幕府から追討を受け、11月に尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国し、東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を一時同国から駆逐する。
『愛知県史資料編⑩』

◆文明8年(1476年)4月6日
塩買坂(菊川市高橋橋)の戦い
駿河国守護で駿河今川氏6代目当主 今川義忠(いまがわよしただ)が敵対した遠江の有力国人 横地氏の本城 横地城(静岡県菊川市)を攻略し、横地氏15代当主 横地四郎兵衛秀国を討ち取りました。
その夜、今川義忠は塩買坂(菊川市(旧小笠郡小笠町))で敵の残党による待ち伏せにあって、流れ矢で深手を負い討死。
今川彦五郎上総介治部大輔義忠、塩買坂(菊川市高橋シ)にて横地・勝間田残党に襲われ討死。41歳。法名「長保寺殿桂山昌公大禅定門」菩提寺ボダイジは長保寺(静岡市シズオカシ賎賎機キカイ山ヤマ山麓サンロク) 
久野清憲・松浦新左衛門通直・朝比奈氏・飯尾長連ら18人討死 
長谷川藤兵衛尉長重討死。法名「弘徳院殿」 
松井宗泰討死。『宗良親王信州大河原の三十年』 
宗長、今川家を辞して上洛。宗祗に入門「宗長」と号す。
〔今川 義忠の討死〕

◆文明8年(1476年)、一色勢が細川成之の守護代東条国氏を自害に追い込み優勢であったが、成之はこの事件を契機に幕府出仕を拒否、結局、文明10年(1478年)2月、義直が三河を放棄する旨を文書で表明し三河の一色軍は撤退した。

◆文明10年(1478年)
尾張守護代の織田敏広の更迭
斯波義敏・義寛父子の盛り返しにより織田敏広が守護代を更迭され、織田敏定が新たな守護代に任じられると、織田敏定は幕府から「凶徒退治」を命じられ下国、斯波義廉は織田敏広と共に幕府から「凶徒」と断じられ、尾張での支持勢力を全て失った。

◆1478(文明10)年、将軍足利義政は東軍の斯波義敏についていた織田大和守敏定を尾張国守護代に任じ、そして、斯波義廉と織田伊勢守敏広を討つよう命じます。敏定と敏広の対峙・和議が繰り返されるうちに敏広が没し、尾張を統一するに至らず、尾張北四群(敏広・岩倉派)と南四群(敏定・清洲派)が争うことになる。

◆文明15年(1483年)3月
斯波 義寛(しば よしひろ)、尾張清洲城に入城し、ここを守護所と定め、甲斐敏光を遠江守護代に任じて今川に対する守りを固めた。

◆文明17年(1485年)
斯波 義寛(しば よしひろ)、諱を『義寛』と改め従四位下左兵衛佐に任じられると、同年出家した父の跡を継いで名実共に武衛家当主となる。

◆文明19年、長享元年(1487年)11月
今川 氏親(いまがわ うじちか)、盛時は石脇城(現在の静岡県焼津市)を拠点に兵を集めて駿河館を襲撃して範満を殺した。龍王丸は駿河館に入って元服して氏親と名乗り、今川家の当主となった。

◆長享元年(1487年)長享・延徳の乱が起こる。
足利義尚による近江守護・六角高頼攻めると、九月晦日、斯波義寛は尾張守護代織田敏定、織田寛広ら織田氏一族以下8000の大軍を率いて幕府軍に参陣し、その主力となった。

◆長享元年(1487年)、斯波氏、長享の訴訟に乗り出す。
「長享の相論」尾張から出陣した武衛斯波義寛と朝倉氏との間に、越前国宗主権をめぐる訴訟問題が持ち上がる。
将軍親征の目的が寺社領・諸荘園の押領停止であるならば、その典型ともいえる朝倉氏の越前押領の非を訴える斯波氏の主張は、正当なものであるだけに、幕府にとっても厄介な案件であった といえる。
細川政元が将軍の命として越前支配については「守護は斯波氏で朝倉氏が守護代の地位にある」としながらも、「朝倉は忠節によって将軍の直奉公分になった」
つまり、守護は斯波氏、朝倉氏は守護代であるが、朝倉氏は直奉公分になった。

◆長享元年(1487年)十二月九日、足利義尚の陣にあった武衛義寛に従っている守護代織田氏の岩倉方の広近(敏広弟)の陣所(近江守山)で出火する事件があり、鷹二羽、馬三頭、武具家具などの相当の損害がでた。これといっ た戦いが無いなかでの長滞陣であり、これを機会に陣払いが具体化したものと考えられる。<長享・延徳の乱の後期>

◆長享二年(1488年)二月二十三日、武衛斯波義寛は、手勢を率いて近江から京に入り、前将軍義政を東山山荘に訪ね、そのまま父義敏がいる武衛邸に入り鈎には戻らなかった。そして、陣払いを指示したらしく、三月四日、織田軍も近江から尾張へと軍を引き上げた。<長享・延徳の乱の末期>

◆延徳2年(1490年)1月
足利義政没。

◆延徳3年(1491)足利義稙の第二次六角征伐 参陣、斯波義寛、畠山尚順 、武田国信、山名俊豊、一色義秀、大内政弘、赤松政則、京極政経、細川政元(安富元家)、富樫政親

◆延徳3年(1491)第二次六角征伐、斯波義寛はまたも大軍を率いて参陣「武衛衆の壮麗、山名衆に勝る。同日に語るべからず」と賞賛されるほど華麗な軍勢で、播磨の赤松勢と共に六角一族の山内政綱を討ち取る戦功を挙げた。そして、義寛は義稙に重ねて越前回復を訴え、義稙はついに「朝倉退治」の御教書を義寛に下された。(結局、幕府は朝倉氏の精鋭1万といわれる軍事力に二の足を踏み越前回復はならなかった)

◆延徳3年(1491年)1月7日
足利義視没。

◆明応2年(1493年)10月13日
松平親忠、三河上野城主阿部満五郎・寺部城主鈴木日向守・挙母城主中条出羽守・伊保城主三宅加賀守・八草城主那須惣左衛門三千余人との井田野合戦に勝利する。
『戦国の兵士と農民』
<井田野合戦>加茂碧海国人連合軍が岩津城を奪取して岡崎城に迫る。矢作川を渡って井田野(岡崎市)に押し寄せてきた戦い。この戦で岩津松平家が激しく損耗し、この後、安祥松平家が一族の支流になってゆく。この合戦で勝利した松平氏は碧海郡の南部を支配化に置いた。
明応2年(1493年)井田野合戦、中条氏など加茂郡の諸勢力を安城松平の親忠が撃破した。

◆明応二年(1493年)十月、18日、甲斐勢は加賀の一向一揆とともに越前に侵攻して、朝倉貞景の軍と戦う。21日甲斐勢は大野郡や豊原寺へ侵攻し、朝倉勢と激戦のすえ加賀に退却した(同 同年十一月六・九日条、『後慈眼院殿御記』同年十月十二・十九日条)

◆明応2年(1493年)10月、興国寺城の伊勢新九朗盛時が韮山城の堀越公方足利茶々丸を攻める。

◆明応3年(1494年)
駿河守護の今川氏親、義寛が守護を兼ねる遠江に侵攻を開始。

◆明応3年(1494年)遠江・天方城の(天方氏)山内豊後守通秀は駿河の今川氏親は伊勢新九郎(北条早雲)を大将として遠江国に大軍を発し、このとき通季は今川氏に降った。

◆明応3年(1494年)10月13日
殿谷城(掛川市本郷)の戦い
伊勢盛時数千(杉山太郎左衛門従軍)、佐野・山名・周智3郡侵攻。殿谷城原頼景攻め落とす。高山円通院(掛川市寺島)住持松堂高盛・安里山長福寺(掛川市本郷)住持恵珊長老焼失。この後、餓死者が出る。 
(遠州侵攻は、将軍足利義澄・細川政元支持の元行なわれる。前将軍足利義材と通じていた遠江守護斯波義寛は中央が変化する文亀年間まで動けず。) 
遠江守護斯波義寛の意向を受けて足利茶々丸を支援するのを牽制の為。
『今川氏と遠江・駿河の中世』
秋、今川氏親の命を受けた伊勢新九郎長氏が原野谷川流域に侵攻し、放火や略奪を行った『円通松堂禅師語録』

◆明応4年(1495年)3月
船田合戦、美濃守護土岐成頼の後継者を巡る斎藤妙純と石丸利光の合戦。近隣の近江・越前・尾張も巻き込んでの争乱となった。

◆明応5年(1496年)、横地四郎兵衛秀国の孤児、藤丸は家老、二俣、松井氏に護られ、再び横地村に居館し、勢力を盛り返さんとし、勝間田氏は門原(桃原)に居城し、倉真(掛川市)の河合氏を滅ぼしている。▲明応5年(1496年)志戸呂の戦い、横地・勝間田・河合氏ら斯波派遠江国人領主らを各地で攻め、志戸呂城において城主鶴見因幡守を打ち取る。

◆明応5年(1496年)7月
二十年近くの空白を経て氏親が遠江侵入を開始する。
「河井宗忠、反今川勢により松葉城で倒れる。」
明応三年(一四九四)  のことと思われる。氏親の遠江における初見文書は、明応五年(一四九六)七月◎遠州東部
①河村荘
②堀内城
③横地城
④長松院
⑤山口
⑥法泉寺
⑦松葉城
⑧安養寺
⑨河村家
⑩法昌院
⑪天王山
⑫横岡城
⑬勝間田城
⑭孕石
⑮湯日

◎遠州中部
①原田荘
②高籐城
③円通院
④堀越
⑤川井
⑥友永
⑦掛塚
 十八日長松院(現掛川市日坂町)に出した禁制である。
「今川氏の遠江支配」(48)

◆明応5年(1496年)9月10日
松葉城(掛川市倉真)の戦い
松葉城は国人領主川井成信(号宗忠)の居城であっ た。 『掛川市史年表』

▲明応6年(1497年)4月25日 柏久保城(修善寺町)の戦い
狩野氏と激しい戦いを行った。大見三人衆の働きで勝利を収める。(伊勢新九朗)
柏久保城(修善寺町チョウ)伊勢盛時と狩野氏(伊東氏の娘婿)・圓覚援軍戦い。狩野一族、国清寺で自害。狩野道一柿本戦い敗退し修善寺で自害。
伊勢盛時、大見3人衆(佐藤藤左衛門・梅原六郎左衛門・佐藤七郎左衛門)に感状。伊豆の中・南部が味方につけばさらに恩賞を約束する。『伊豆の郷土研究24』

▲明応6年(1497年)11月13日 倉真城の戦い?

◆明応6年(1497年)11月13日 
原要害(殿谷城)の戦い (掛川市細谷)
殿谷城原頼景、今川軍に攻められる。本郷城孕石行重、侵攻を阻もうとする原氏を説得して今川方とする。小沢八郎英永帰農。『今川氏と遠江・駿河の中世』

◆明応6年(1497年) 船形山城の戦い、三遠国境の船形山城を手中にした戸田宗光は勢いに乗じて遠江に進攻、浜名湖西岸から北岸(三ケ日町)にかけてその所領を拡大した。

◆明応7年(1498年)8月25日 東海大地震
「大地震之日、伊勢、参河、駿河、伊豆大浪打寄、海辺二三十町之民屋悉溺水、人歿命、其外牛馬類不知其数云々、前代未聞事也」
『御湯殿の上の日記』、『後法興院記』、『実隆公記』、『言国卿記』および『大乗院寺社雑事記』
津波は紀伊から房総にかけての沿岸に襲来し、波高は駿河湾沿岸の江梨や小川で8m、伊勢、志摩で6 - 10mであった。津波規模は安政東海地震を上回り、伊豆半島西岸や志摩半島では局所的に大規模な津波が襲来していた。
「加之大地震動海水大涌。而溺死者大凡二萬六千人也。林叟之旧地忽変巨海也」
『林叟院創記』
駿河湾岸の志太郡付近で水死2万6千とされる。
「諸国大地震、遠州前坂ト坂本ノ間ノ川ニ津波入リ、一里余ノ波シトナル、是ヲ今切ト号ス」『東栄鑑』
「湖水変為潮海矣」『遠江国風土記伝』
淡水湖であった浜名湖が、津波により太平洋とつながり今切と呼ばれる湾口を形成し、湖が拡大した。
「今度大地震ノ高塩ニ、大湊ニハ家千間余人五千人許流死ト云々、其外伊勢島間ニ彼是一萬人許モ流死也」
『内宮子良館記』
伊勢大湊で家屋流失1千、溺死5千、伊勢、志摩で溺死1万とされている。

◆明応8年(1499年)、船形山城の戦い。今川氏親は掛川城の朝比奈氏に宗光討伐を命じ、船形山城は朝比奈泰以に率いられた今川勢の猛攻を受けて落城した。諏訪信濃守と戸田宗光はこの戦で討死し、戸田氏は今川に降る。

◆明応10年・文亀元年(1501年)8月10日、松平氏の第4代当主、松平親忠は71歳で死去した。

◆文亀元年(1501年)
斯波 義寛(しば よしひろ)、遠江守護代甲斐氏への援軍として義寛は弟である寛元、義雄を遠江に派遣し攻勢をかける。

◆文亀元(1501)年8月~9月、座王城(久野城)・天方城の戦い。遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍が反撃を開始しますが今川氏親はこれを撃破。
(久野佐渡守宗隆、福島左衛門尉助春、本間宗季らと小笠原定基、斯波義寛の戦い)
今川に降っていた山内豊後守通季の天方城を斯波 義寛(しば よしひろ)、遠江守護代甲斐氏への援軍として義寛は弟である寛元、義雄を遠江に派遣し、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍の攻勢をかける。
遠江国守護斯波氏は信濃国の小笠原氏と連携して久野城と天方城を攻略したが、このとき山内豊後守通季は天方城を捨てて今川氏を頼って落ち、その後奪還した。
・中遠地方の座王御城(ざおうごじょう)〔久野城(袋井市)〕・天方城(周智郡森町)・馬伏塚城(まむしづかじょう)(磐田郡浅羽町)などでも激戦があった。
『今川方の本間宗李(むねすえ)の軍忠状』
・八月十二日付「右馬助方二俣(うまのすけかたふたまた)に在庄す。 まことに以て祝着に候。 よって、この時別して合力に預かるべき事、本望に候」
『斯波義雄が松尾(長野県飯田市)系の小笠原是基(さだもと)・貞忠(さだただ)父子にあてた書状』
右馬助貞朝の軍勢が二俣(天竜市)までやってきていることを伝え、重ねて合力を要請している。

◆文亀元年(1501年)9月14日 早雲庵宗瑞は甲斐の国に侵入するが武田信純に阻まれて陣を退く。

◆文亀元年(1501年)9月、今川氏親の重臣伊勢新九郎長氏が三河岩津城攻る。
「其後信光公の御孫徳川次郎三郎長親公の御時 文亀元辛酉年九月 今川家大将 伊勢新九郎長氏入道早雲と岩付の城下に於て御合戦御勝利なり。此時の先陣ハ 酒井左衛門尉氏忠入道浄賢 舎弟与四郎親重 并本多 大久保 柳原所なり」
『柳営秘鑑』(『徳川実紀』では、永正3年(1506年)8月20日のこととする。)
大軍で東三河を制した今川氏親は西三河に進攻、長親は籠城策を採らず野戦を選択。みずから手勢を率いて安祥を出陣。駿・遠と東三河の勢を合わせて1万余という大軍に対し長親は500余の手勢で迎撃を試みた。
松平勢の決死の戦いぶりに今川方は戦意の低い東三河勢がまず破られた。その後も長親は新手を撃ち破り、最後は今川軍の大将の伊勢盛時の旗本勢まで打ち崩した。日没後も松平勢はよく持ちこたえ、その夜は矢作川を前に宿陣した。今川軍は思わぬ苦戦の結果、渥美半島の田原城から戸田氏にその背後を衝かれることを恐れて、翌朝には東三河の今橋城を経て本国へ撤退した。『三河物語』(永正5年(1508年)説)

◆文亀2年(1502年)4月23日 細川政元は、山城国槙島にいる赤沢朝経の討伐のため出陣しょうとしたが、第11代将軍義高に諌められる。4月25日 細川政元帰京する。

◆文亀2年(1502年)7月21日 将軍足利義高は義澄と改名する。

◆文亀2年(1502年)8月04日 足利義澄は、細川政元の驕慢に怒り、岩倉の金竜寺に去る。

◆文亀2年(1502年)9月某日 細川政元は九条政基の子を養子にし、澄之と命名する。

◆文亀3年(1503年)葛山孫四郎、甲斐に進撃し、戦死。

◆文亀4年・永正元年(1504年)扇谷朝良・氏親・早雲の連合軍、立河原の戦いで山内顕定に勝利する。

◆文亀4年・永正元年(1504年)8月 堀江城の戦い (早雲庵宗瑞と堀江下野守の戦い)

◆文亀4年・永正元年(1504年)12月01日 上杉顕定・房能の兵上杉朝良の武蔵国椚田の保塁を攻めこれを抜く。

◆永正2年(1505年)2月、足利義澄が夫人と不和で離縁し、後室に武衛斯波義寛女が入ります。

◆永正2年(1505年)、三河国東部、奥平 貞昌 今川氏親により遠江国浜松荘(現在の静岡県浜松市付近)の一部を所領として宛がわれた。

◆永正三年(1506年)、勝間田氏の後裔が小幡勘兵衛景憲は伊勢新九郎(北条早雲)の反今川勢力の掃討戦に破れ、野に下り、一族とともに横地村に土着した。

◆永正3年(1506年)、今川氏親、奥平氏に送られた書状、戸田氏の要請で今橋城を攻める為に貢献を求める。
「先度以状申述候、為其国合力、来十六日諸勢可差越候、田原申合、抽而其動肝要候、例式於無沙汰者不可然候、此方勢衆逗留之内ニ細川ニ一城取立、上野通路無相違候様ニ、調談専一候、此儀就庶幾者、各以近番、加西衆可■相踏候、巨細諸勢相立候時可申越候、為心得先兼日申述候、恐々謹言、
八月五日
氏親 判
奥平八郎左衛門入道殿」
1506(永正3)年8月5日『今川氏親書状写』
◆永正3年、久野、堀越、向笠、蝮塚氏ら今川家由来の領主の軍団を先頭に、一万を越える今川軍を遠江一帯に展開し、斯波軍を攻め立てた。浜名湖周辺をほぼ制圧、その余勢をかって東三河にまで侵入した。今川氏親は三河の今橋(豊橋市)に吉田城を築き、三河の有力領主である松平長親に備えた。さらに氏親は早雲の助けを得て地元の戸田憲光を討ち、東三河の平定に向かう足掛かりを造ったのだ。『北条早雲伝』<草 舎人>

◆永正3年(1506年)3月19日 吉田城 牧野古白 伊勢新九郎に負け瀬木城に落ち今川氏親に仕える

◆永正3年(1506年)4月21日 管領細川政元の養子澄元は兵を京に上らせ澄之・高国と家督を巡り争う。

◆永正3年(1506)8月 幕府・伊勢氏が三河分郡守護を務めた時の所領回復の為、伊勢氏代官・松平家の横領を停止させる為に三河国に出陣する。伊勢長氏(伊勢入道早雲)
細川京兆家と阿波守護家の対立より、三河守護細川成之は宗家の細川政元側で前将軍義材に組みする。一方、細川京兆家高国は幕府側であり、幕府から三河討伐を今川氏親に命じた。
・「牛久保牧野氏からも援軍として牧野新二郎(新三郎とも)が後詰めに出陣したが敗北にともない散兵を収めて牛久保に帰陣した」『牛窪密談記』
・「西三河の松平長親が今川氏進攻の急報に接し、援兵を東三河に送った。長親は援兵を宝飯郡の八幡(愛知県豊川市八幡町)に派遣、後陣を西三河の大平河(岡崎市大平付近)に置いたが東三河勢が大敗したとの報を受け大平河の松平軍が大いに動揺した」『三河海東記』

◆永正3年(1506)8月 今川氏親、奥平八朗左衛門入道に書状を当てる。
戸田と申し合わせて細川の一城(松平)を取るので積極的に協力してもらいたい。

◆永正3年(1506年)、吉良義信が三河に侵攻した今川氏親・伊勢宗瑞に対して行き掛りを廃して連携しようとしている。

◆永正3年(1506年)8月20~21日 岩津城の戦い (松平長親と伊勢早雲の戦い)

◆永正3年(1506年) 8月26日~11月4日 今橋城の戦い (伊勢早雲と牧野古伯の戦いで古伯は戦死する)

◆永正3年(1506年)9月21日、北条早雲が小笠原定基宛てに手紙を書きました。
『関右馬充の事、我等と一躰(いったい)に候(そうろう)。伊勢国関と申す所に在国に依(よ)って、関と名乗り候。根本は兄弟従(よ)り相分かるる名字に候』
『早雲寺』(神奈川県足柄下郡箱根湯本)
信濃の小笠原定基(おがさわらさだもと)に小笠原の家臣であった関右馬充春光(せきうまのじょうはるみつ)と出自が同じである事を語り、これから懇意にしてもらいたいという内容で献上の刀と共にお願いしている。さらに今橋を陥落させて19日に端城を攻めて乗っ取ったった。よってもうすぐですと書いてある。
永正三年(1506年)の9月19日に、松平方の牧野古白(まきのこはく)が守る今橋城を攻め落としているので、永正三年(1506年)9月21日付けであろうとされている。

◆永正3年11月15日付「桑子妙源寺宛今川氏親制札」(『妙源寺文書』)
今川氏の勢力が西三河の岡崎市付近まで及んでいた。

◆永正4年(1507年)6月23日 細川政元(42)が子の澄之と香西元長・薬師寺長忠らに謀殺される。

◆永正4年(1507年)6月24日 香西元長らが細川澄元を攻め、細川澄元は敗れて三好之長らと近江甲賀に逃れ、山中為俊を頼る。

◆永正4年(1507年)8月01日 細川高国らが細川政元の子澄之を襲い殺害する。香西元長、薬師寺長忠らも没する。 8月02日 細川澄元が細川政元の継嗣となり上洛する。

◆永正5年(1508年)6月8日 新たに足利将軍となった義稙(義尹)が大内義興らと入京する。

◆永正五年(1508年)東三河に長篠城を菅沼元成が今川氏親の命により築城する。

◆永正五年(1508年)尾張国水野為則、下野守任官の礼として三条西実隆を尋ねる
四日、庚午、入夜小雨、(中略)
尾州水野右衛門大夫任下野守云々、称礼来携太刀、大隅引導也、対面了、
(後略)
五日、辛未、晴、早朝遣太刀於水野許了、(中略)水野送一荷鯉等、不慮芳志也、(後略)
『実隆公記』(愛知県史 資料編10)
4日(庚午)夜に入って小雨。尾張国水野右衛門大夫が下野守に任じられたということで、礼と称して太刀を携えて来た。大隅が案内して対面した。
5日(辛未)晴れ。早朝に水野の元に太刀を送った。(中略)水野が1荷の鯉などを送ってきた。思いがけぬ芳志である。

◆永正五年(1508年)今川氏親の重臣伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)による三河岩津城攻めの際にその配下遠州衆の中に加わっていた。「三河物語」無笠

◆永正五年(1508年)7月1日室町幕府第10代将軍 足利 義稙(あしかが よしたね)は大内家の軍事力に支えられ、11代将軍・義澄や細川家後継者争いで高国と対立していた管領・細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰した。

◆永正五年(1508年)義材派から義澄派に転向した斯波氏の立場微妙となる(今川氏は義材支持)

◆永正五年(1508年)10代将軍足利義稙は今川氏親を遠江守護に任じられる。

◆永正五年(1508年)10月19日伊勢宗瑞、巨海越中守に、彼の合力を今川氏親に報告したと連絡
今度於参州十月十九日合戦、当手小勢ニ候之処、預御合力候、令祝着候、御粉骨無比類之段、屋形様江申入候、猶自朝比奈弥三郎方可在伝聞候、恐々謹言、
十一月十一日
宗瑞(花押)
巨海越中守殿
『伊勢宗瑞書状写』(愛知県史 資料編10)
 この度10月19日に三河国で合戦し、こちらが小勢であったところ、合力をいただきまして祝着です。ご活躍は比類がなく、屋形様へ報告しました。さらに朝比奈弥三郎からお伝えするでしょう。

◆永正五年(1508年) 10月19日、三州合戦 今川軍が三河より敗走する。(松平長親と伊勢早雲の戦い)

◆永正5年(1508年)11月7日
「七日、辛丑、晴、(中略)大隈来、参川国去月駿河・伊豆衆敗軍事語之、」永正五年十一月七日条『実隆公記』
三条西実隆が三河国での今川方敗退

◆永正五年(1508年)今川氏親、三河国における伊達蔵人の奮戦を賞す
於今度三川陣、抽而令粉骨由候、神妙尤感悦候、於向後弥可走廻候段喜悦候、猶朝比奈弥三郎可申聞候、恐々謹言、
十一月十六日
氏親(花押)
伊達蔵人丞殿
『今川氏親感状』(愛知県史 資料編10)
この度の三河国出陣で、ぬきんでた活躍をしてくれたとのこと。神妙でとても感悦しました。今後においてもますます奔走していただけると幸甚です。さらに朝比奈弥三郎がご説明するでしょう。

◆永正5年(1508年)11月16日、応仁の乱の発端を担った元越前・尾張・遠江守護斯波義敏没(74才)

◆永正六~七年(1509~1510年)、西条吉良の代官?大河内貞綱が三河勢を連れて遠江に逆侵攻する。

◆永正6年(1509年)早雲庵宗瑞、武蔵に出兵して江戸城に迫る。

◆永正7年(1510年)1月29日 将軍足利義尹は管領細川高国、大内義興らに前将軍足利義澄の討伐を命じ、管領細川高国らが敗れて帰京する。

◆永正七庚牛年(1510年)三月廿日 今川氏親、本間宗季の軍忠状を認定する
遠江国山名郡石野郷内小野田村之事
 右、任本地致知行、御入国以来忠節仕条々、
一座生御城江信州一国罷立相攻候処、久野佐渡守及難儀半、属福嶋左衛門尉助春手彼城中ニ走入、励軍忠久野同前得勝利候、
一天方城敵相楯籠候時、久野并渋谷相共遂合戦、佐野小次郎討捕、其頸福嶋玄番允渡之畢、
馬伏塚敵可乗取支度仕候時、宗季最前彼城エ懸入、依助春令知之、企謀略之族則令出奔畢、
関東御進発御供仕、於武州立河原御合戦大利上軍功其一数候、
一三州江福嶋玄蕃允為助春代、罷立候時、令同心候、其後御進発之刻、御供仕、今橋城攻仁百余日尽忠功候、同於石巻之城、渋谷同前六十余日粉骨、無其隠候、以此条々下給御証判、可備後代亀鏡之旨、宜預御披露候、仍目安状如件、
永正七庚牛年三月廿日
本間源次郎宗季
披見申候(今川氏親花押)
『本間宗季軍忠状写』(静岡県史 資料編10)
遠江国山名郡石野郷内小野田村のこと。右、本領を任せ知行をし、ご入国以来忠節を行なってきた事柄である。一、座生城へ信濃国が国を挙げて共同で攻め立てたところ、久野宗隆が戦況不利になった際に、福嶋助春の部隊としてあの城に駆け込み、軍を励まして久野と共に勝利を得ました。一、天方城に敵が立て篭もった際、久野・渋谷と共に戦闘し、佐野小次郎を討ち取ってその首級を福嶋玄蕃允に渡しました。一、馬伏塚で敵が乗っ取りの準備をしていた際、宗季はすぐにその城へ駆け込んで助春に謀反を知らせた。謀略を企てていた輩は出奔した。一、三河国へ福嶋玄蕃允が助春の代官となり出立する際、同心となりました。その後ご進発の際はお供して、今橋攻城に100余日忠功を尽くしています。同じく石巻の城、渋谷でも同じく60余日粉骨したことは隠れもないことです。これらの事柄をもってご証判を下され、後代の規範である旨備えるようにと、宜しくご披露を預かりました。目安のことはこのようになっています。

◆永正 7年(1510年)3月20日、本間宗季、今川氏親に軍忠状を提出し、証判を受ける。

◆永正7年(1510年)7月19日 上杉朝良の家臣上田政盛が早雲庵宗瑞に応じて武蔵権現山を攻める。上田政盛を扇谷家から離反させ権現山城で挙兵させるが、両上杉方の反攻により敗北する。(権現山城の戦い)

◆永正7年(1510年)12月28日夜~永正9年(1512年) 閏4月3日伊達忠宗、今川氏に刑部城を巡る攻防戦の成果を報告する
武衛様御陣所度々火事之事
一[永正七年十二月廿八日夜]まきの寺御陣所火事にて花平へ御移候、
一[永正八年 午剋時分]正月五日 花平御陣所・御番所・同御たい所火事
一 二月廿日夜[子剋時分]すゑ野殿御陣所并御被官衆陣所卅間火事
一 同夜[亥剋時分] ミたけ井伊次郎陣所・番所火事 是ハしのひヲ付申候、
一 三月九日[寅剋時分]太田左馬助陣所初而其外卅余火事
同、
一 形部城へ敵度々討詰候事
[永正八年]
二月十二日 引間衆物見ニ出候跡ニ三百計、
七月九日 引間衆原口へ五百計、
十月十七日 武衛御自身四手ニ分、千余ニて討詰候き、
同十九日 形部口原口へ千五百計、是ハ五手ニ分、詰候き、
同廿三日 形部口原口へ人数千余ニて、二手ニ分、詰候き、
同廿四日 形部口へ井伊次良四百計にて、
原口へ引間衆千余にて、討詰候、武衛御自身、気賀へ打詰させられ候、御人数千計にて候き、
十一月五日 形部口へ三百計、
同六日 片山半六大将にて、武衛衆五百計打まハり、
同廿七日 形部口より気賀へ働候衆七八百、
十二月一日 村櫛・新津へ詰候而、退候処を出合、しやうし淵にて、のふしはしかへさせ候き、
[永正九年]
正月十日 夜中ニ五百計、打詰候ツ、
同廿一日 人数五百計にて、形部口へてちかく打詰候き、
同三月九日 川むかいまて、七八百打出候ツる、
同十七日 気賀へ打詰、むきをなけ、一日野ふしはしかへ候き、引間ハ原口へ打詰、
巳剋より未剋まてやいくさてちかく仕候、
四月六日 武衛衆・引間衆・井伊衆千五百計にて、三手ニ分、ほり河へ一手打詰、せめ入候を、形部より出合、おいこミ、ていたく仕候き、
同廿三日ニ武衛衆・井伊衆、下気賀まて打詰、むきをなけ、苗代をふミ返しのき候を、清水口へよこあひにのふしをかけ、さつゝゝにおいちらし候、
壬四月二日 武衛衆・井伊衆・引間衆太勢にて、村櫛・新津城へ取詰候而、新津のね小屋焼払候を、形部より村櫛へ七十計、舟にて合力仕候、
同三日 井伊谷へ朝かけニ形部より働候而、三人いけ取退候を、敵したい候間、城より出合候而、神明ふちにて、はたえを合をいこミ退候き、
其後も度々罷出候へ共、指儀不仕候処、則引間為御退治、御進発、原河ニ御座之後者、一向不相働候、
伊達蔵人丞忠宗
『戦国遺文 今川氏編「伊達忠宗軍忠状」(京都大学総合博物館所蔵駿河伊達文書)』
武衛様(斯波氏)陣営地が度々火事となったこと。
1510(永正7)年12月28日夜。まきの寺のご陣所が火事で花平へ移動しました。
1511(永正8)年1月5日正午頃。花平の陣所・番所・台所で出火。
同年2月20日午前零時頃。すゑ野殿の陣所とその被官衆の陣所30間で出火。同夜22時頃。御嶽の井伊次郎陣所・番所で出火。これは忍びに指示したものです。
同年3月9日4時頃。太田左馬助の陣所を始めとしてその他30余で出火。
同じく
刑部城へ出撃し度々敵を討ち詰めたこと。
1511(永正8)年、
2月12日。引間衆が偵察に出た後に2~300ばかり。
7月9日。引間衆原口(掛川市)へ500ばかり。
10月17日。武衛(斯波義達)自身が4手に分かれて1000余人で打ち詰めました。
同月19日。刑部口・原口へ1,500ばかり、これは5手に分かれて詰めました。
同月23日。刑部口・原口へ1,000余人にて、2手に分かれて詰めました。
同月24日。刑部口に井伊次郎400ばかりにて、原口へ引間衆1,000余人にて討ち詰めました。武衛ご自身が気賀(浜松市北区)へ討ち詰められまして、その軍勢は数千ばかりでした。
11月5日。刑部口へ300ばかり。
同月6日。片山半六が大将で武衛衆500ばかりが討ち回り。
同月27日。刑部口より気賀へ出撃した衆が7~800。
12月1日。村櫛(浜松市西区)・新津へ詰めまして、退却するところを邀撃し、しょうじ淵で野武士に橋換えさせました。
1512(永正9)年、
1月10日。夜中に500ばかり討ち詰めました。
同月21日。500ばかりで刑部口へ接近して討ち詰めました。
3月9日。川向かいまで7~800が出撃してきました。
同月17日。気賀へ討ち詰め、『むき』を投げ、1日野武士橋換えし、引間は原口へ討ち詰め、
4月6日。武衛衆・引間衆・井伊衆が1,500ばかりで3点に分かれ、堀河へ一手に討ち詰めて攻め入りましたところを、刑部から邀撃して追い込み、手痛く打撃を与えました。
同月23日に武衛衆・井伊衆が、下気賀にまで討ち詰め、『むき』(武器?)を投げ苗代を踏み返し退却したところを、清水口へ横合いから野武士を仕掛け、散り散りに追い散らしました。
閏4月2日。武衛衆・井伊衆・引間衆が多勢で、村櫛・新津城へ取り詰めて、新津の根小屋を焼き払ったところを、刑部から村櫛へ70ばかりで援軍を出しました。
同月3日。刑部から井伊谷に朝駆けして活躍し、3名を生け捕りしたところ、敵が追撃してきましたので、城から出撃し、神明淵で『はたえ』を合わせ追い込み退きました。
その後も度々出撃しましたが、さしたることもなかったのですが、引間を退治するためにご進発、原河におられる後は一向に働きもありませんでした。

◆永正八年(1511年)、今川氏親、京都へ献馬する為に信濃への塩の道、飯田街道沿いの中条氏と水野氏に協力を申し出る。

◆永正8年(1511年)
斯波 義達(しば よしたつ)、斯波氏(武衛家)13代当主、尾張守護を継ぐ。

◆永正8年(1511年)10月19日、(永正7年(1510年)12月28日夜~永正9年(1512年) 閏4月3日)
武衛尾張守護斯波義達が遠江奪還へ出馬し、斯波氏に属する勢力、刑部や井伊谷、三岳城などを拠点に今川氏に侵攻する。
・元遠江守護の斯波義達は5000騎で井伊谷西牧の宝光庵に陣を敷く。井伊直平は三岳城にたてこもる。今川氏親は伊達蔵人忠宗を刑部城・堀川城に入れて、忍びの放火により斯波・井伊を攻めた。宝光庵火災。
・引馬城主大河内貞綱が尾張斯波義達と結んで反今川の兵を挙げたとき、井伊直盛はこれに呼応して三岳城に籠もったが、今川氏の武将朝比奈泰以の猛攻を受けて落城し奥山城へ逃れ後に今川氏に降った。

◆永正九年(1512年)から永正十四年(1517年)にかけての5年間、『遠江大乱』 遠江を中心とした地域で、斯波家と今川家の同族相争う。三河国の反今川の同盟者で、津島大橋家の婿、吉良家の家老・大河内貞綱が、遠江曳馬城(浜松)に乱入。

◆永正10年(1513年)
斯波 義達(しば よしたつ)、反攻を図って遠江の国人である大河内貞綱や井伊直平と共に遠州に進撃したが、氏親配下の武将・朝比奈泰以と飯尾賢連の前に大敗を喫する。

◆永正11年(1514年)尾張国、大橋家の縁者で尾張・三河・遠江に所領を持つ豪族・中根家、熱田を支配する千秋家を柱とする義達軍が大挙北進し、遠江国の刑部城を攻撃する。

◆永正12年(1515年)
今川氏親、遠江国で尾張守護の斯波義達と戦い勝利し、斯波氏の威は衰えた。

◆永正12年(1515年)8月
斯波 義達(しば よしたつ)、今川軍と再度戦ったが、またも大敗したうえ、今度は自身も捕虜となってしまう。虜囚となった義達は、同族である氏親の情けによって一命は取り留めたものの、剃髪を強いられ尾張に送り返される恥辱を受けた。
斯波 義統(しば よしむね)、わずか3歳の義統は守護職を譲られ、斯波氏(武衛家)14代当主、尾張守護を継ぐ。

◆永正17年(1520年)、柴屋軒宗長が刈谷城水野近守のために連歌集『老葉』に注釈を付した『老葉集』を記した時に、八葉周辺が戦場になり、上洛の途中で立ち往生した宗長は近守が乗り出してくれたので窮地を脱したという。

◆大永元年(1521年)龍拈寺 吉田城 主牧野信成が父牧野古白の菩提を弔うために建立

◆大永年間(1521年 - 1528年)今川氏親、今川氏の一族である今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築き、末子の氏豊を今川那古野氏の養子として入れ、那古野城主とする。

◆大永6年(1526年)6月23日、今川氏親は駿府の今川館で息を引き取った。今川 氏輝(14歳)で第9代当主となる。

◆享禄2年(1529年)2年5月28日吉田城 岡崎城主・松平清康が牧野伝蔵と御油で交戦、今橋城(吉田城)を陥とす

◆享禄2年(1529年)2年5月28日伊奈城主 本多正忠 松平清康(徳川家康の祖父)と吉田城を攻める

◆享禄5年(1532年)
今川 氏豊、勝幡城主織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、那古屋城を落とされた。
『名古屋合戦記』

◆天文2年(1532年)今川氏輝は遠江において検地を行う

◆天文4年(1535年)1月15日
尾張国に大雨が降る。『愛知県史資料編⑩』

◆天文4年(1535年)2月10日、
尾張国に大雨が降る。『愛知県史資料編⑩』

◆天文4年(1535年)7月14日、
尾張国に大雨が降る。『愛知県史資料編⑩』

◆天文4年(1535年)12月4日、
尾張守山城織田信光(妻は松平清康の娘)に松平清康陣。上野城松平内膳正信定従わず。
『東三河の戦国時代』
足利義晴派の松平清康、東条松平義春との下和田(岡崎市下和田町)の知行権争いを一つの契機として、宗家との争いに至った足利義維派桜井松平信定を守山に攻める。
『戦国史研究59』
東条松平義春:三河松平氏宗家5代松平長親(長忠・出雲守・道閲)の子で東条松平家の祖。岡崎市の中島から羽角・野馬・六栗を縦貫する道、中島道は中世以来の道とされ、この地域はかつて幡豆郡に属し東条吉良氏の支配地域であったとされる。
義春の主要な事績としては、「三河物語」等によれば、岡崎の松平宗家6代目の家督を義春の次兄の桜井松平信定が長兄の信忠と争い、信忠隠退後もその嫡子清康から8代広忠の代まで係争を続けた間も常に宗家に忠節であったことが伝えられている。そして「三河物語」はさらに岡崎登城の際、道で行き会ったときは主従一同が互いに刀の反りをうたせて反目したほど仲が悪かったと伝える。 同物語では、内膳殿(信定)が病死すると前後して義春も亡くなったので、結局は何事も起きなかったとする。

◆天文4年(1535年)12月5日、
森山崩れ〔守山崩れ〕
三河国岡崎城主・松平清康が、尾張国春日井郡森山(現在の愛知県名古屋市守山区)の陣中において、家臣の阿部正豊に暗殺された。
阿部定吉が敵に通じる噂あり。子阿部彌七郎、村正刀で松平清康(25歳)を斬り殺す。法名「善徳院殿年波道甫居士」

清洲城より約10キロの清洲城の支城・守山城は、織田信秀の弟、信光が城主を務める。
森山出陣の頃、清康の家臣である阿部定吉が、織田信秀と内通して謀反を企んでいるという噂があった。清康はこれを信じていなかったようだが、家臣の多くは定吉に対して疑念を抱いていたらしい。このため、定吉は嫡男の正豊を呼んで、「もし自分が謀反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明してほしい」と、誓書を息子に手渡していた。
そして守山布陣の翌12月5日早暁、清康の本陣で馬離れの騒ぎが起こった。これを正豊は、父が清康に誅殺されたためであると勘違いし、本陣にいた清康を背後から惨殺したとされる。 正豊はその場で殺されたが、父定吉は、松平広忠に許された。

◆天文4年(1535年)12月12日
井田野に戦い
岡崎城を攻めにきた織田信秀8千余を、松平蔵人信孝・松平十郎三郎康孝8百、井田野に戦い敗走させる。
『安城町誌』 
青山忠世討死。
『三河ミカワ国クニ額田ヌカタ郡グン誌シ』 
松平方林藤蔵・植村新蔵・高力左近・高力平三郎ら四十余人討死。織田方百六十余人を討取る。
『三河後風土記正説大全』

◆天文4年(1535年)12月
吉田城(豊橋市今橋)の戦い
朝比奈越前守輝勝・朝比奈摂津守・伊東左近将監祐時・岡部出雲守輝綱・長谷川石見守吉一、吉田城戸田金七郎・牧野伝兵衛成敏攻め落す。
〔清康が横死して松平氏の直臣の城番が撤退、かわって非直臣の城番の一人牧野成敏がそのまま城主となる〕

◆天文5年(1536年)2月
松平仙千代広忠、伊勢神戸東条左兵衛佐持広に身を寄せる。
『曹洞宗の地域的展開』
〔伊勢神戸東条左兵衛佐持広が三河東条城主吉良左兵衛佐持広と思われる。松平次郎三郎広忠の義理の伯父に当たる。御所(足利将軍家)が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐといわれるほどの名家三河吉良家の一門である。〕

◆天文5年(1536年)2月23日
戸田孫四郎宗光、太平寺(豊橋市老津町)の不入を安堵。
『田原町史㊤』

◆天文5年(1536年)3月
松平広忠、阿部定吉ら6、7人と伊勢神戸城吉良義安を脱出。(吉良持広没し後継いだ吉良義安が、松平広忠を織田方へ渡そうとする為)

◆天文5年(1536年)3月17日
松平広忠、阿部定吉・酒井正親・酒井忠次・石川清兼・石川数正に守られ遠州掛塚十郎島村(磐田市十郎島)鍛治五郎の許に到る。阿部四郎兵衛定次(大蔵弟)と対面。

◆天文5年(1536年)3月27日
伊勢御師木戸孫三郎忠顕、伊勢宇治山田田中六禰宜忠彦ヒコに、直銭百貫文で尾張の道者に宿を提供する権益を売却。尾張の道者名簿に那古屋城主今川氏豊の名。
『新修名古屋市史②』
今川 氏豊(いまがわ うじとよ ):駿河守護今川氏親の末子。今川義元の実弟。幼名は竹王丸。那古野城主。
〔享禄5年(1532年)、勝幡城主織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、城を落とされた。『名古屋合戦記』〕

◆天文5年(1536年)5月24日~6月10日 
花蔵の乱
当主の今川氏輝と、上位継承者である弟の彦五郎が急死する。
正室の寿桂尼や、太原雪斎、重臣たちは栴岳承芳(義元)を還俗させ、京の足利将軍から偏諱を賜り、義元と名乗らせるが、今川家の有力被官で、遠江、甲斐方面の外交や軍事を司っていた福島氏が反対。福島氏は氏親の側室が福嶋助春の娘で外戚にあたり、子の玄広恵探を擁立して対抗した。

◆天文5年(1536年)5月24日
寿桂尼、福島越前守宿所訪れる。
『高白斎記』

◆天文5年(1536年)5月25日
福島越前守、当構(駿府館)に夜襲。義元方岡部左京進親綱・三浦小次郎元辰の活躍で反撃。夜に福島党は久能山に引き籠る。
『藤枝市史通史編㊤』

◆天文5年(1536年)6月6日
今川義元軍、駿府周辺制圧  
今川義元、瑞応院(静岡市駿河区小坂)に禁制。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文5年(1536年)6月15日
吉田城主戸田橘七郎宣成・戸田孫四郎宗光、小松原山東観音寺(豊橋市小松原町)に、三代戸田政光の寄進にまかせて渥美郡赤羽根関の関銭徴収権を造営料として寄進。『一向一揆の基礎構造』

◆天文5年(1536年)8月4日
松平広忠、掛塚発し今橋牧野氏へ。

◆天文5年(1536年)8月15日
松平広忠、世喜へ。

◆天文5年(1536年)8月26日
松平広忠、形原へ移る。
『岡崎市史』

◆天文5年(1536年)9月
松平広忠、今川義元が小島領主後藤三左衛門直光(基昌)を遣わし松平広忠迎える。

◆天文5年(1536年)9月16日
松平広忠、牟呂城(西尾市室町)富永忠安に入る。
富永忠安:東条吉良氏に仕える。

◆天文5年(1536年)9月
松平信定、牟呂城(西尾市室町)を攻める。
◆天文5年(1536年)10月10日
〔松平広忠〕阿部大蔵定吉、駿府へ趣き朝比奈駿河守氏秀を頼る。 
今川義元「廃たるを興すは武門の面目なり。広忠の亡父清康は、今川家と好を通じ、両国の兵、互いに助成す。依ってその旧好を忘れず、又吉良持広存命の内、広忠を岡崎に還す事を堅く約束した今なお疎意なき旨を誓う。」
『静岡県史資料編⑦』

◆天文5年(1536年)閏10月7日
松平広忠 松平信定に攻められ今橋城へ退く。更に駿府に到り今川義元に面す。
『岡崎市史』

◆天文5年(1536年)11月3日
今川義元、岡部左京進の戦功を賞し、給地を与える
今度一乱、於当構并方上城・葉梨城、別而抽粉骨畢、甚神妙至感悦也、然間、一所有東(有度郡)福島彦太郎分、一所小柳津真金名斉藤四郎衛門分、一所勝田内柿谷篠原形部少輔分等之事、一円於子孫充行畢者、弥可抽忠功之状如件、
天文五丙申年十一月三日
義元(花押)
岡部左京進殿
<静岡県史 資料編7「今川義元判物写」(土佐国蠧簡集残編三)>

◆天文5年(1536年)11月15日
今橋城主牧野田兵衛尉成敏・牛久保城主牧野民部丞平成勝、宝飯郡八幡(豊川市八幡町)の八幡宮禰宜孫左衛門尉に寄進状。
『東三河の戦国時代』

◆天文6年(1537年)1月13日
西条城(西尾市錦城)の戦い
吉良左衛門佐義郷、後藤平太夫の計により尾張守護斯波義達の婿になった為、朝比奈泰能3千・松平軍、西条城攻め吉良義郷討死。 
荒川甲斐守頼時・吉良上野介義安(神戸城東条持広養子)降参。吉良義昭を西条城に入れる。吉良義安を駿河藪田に蟄居させる。大橋知尚を吉田城におく。
〔今川義元、朝比奈小隼人を松平広忠に遣わし、松平広忠1千5百余人と東三河軍兵1千余人で西条城を攻めさせる。〕
西条城:西尾城(にしおじょう)と呼ばれ、三河国幡豆郡西尾(現在の愛知県西尾市錦城町)にある。愛知県の三河平野の南部、矢作川と古矢作川に囲まれた西尾市の中心部にあり、西尾城の歴史は古く、1221年(承久3年)に承久の乱で戦功を挙げた足利善氏は矢作川(今の矢作古川)を境に西条城と東条城を築いのが始まりとされる。
義氏は長男長氏に西条城を三男義継に東条城を与えたといわれ、長氏は吉良荘の地頭として土着し、吉良を姓とした。
〔神戸城東条持広養子である吉良上野介義安は織田方に組みして、松平広忠を織田に引き渡そうとした人物〕

◆天文6年(1537年)2月10日
武田信虎と甲駿同盟。今川義元と信虎娘が結婚。
武田信虎、娘の化粧料として、興国寺城・富士下方12郷を今川義元に贈る
『勝山記』

◆天文6年(1537年)4月26日
見付端城(磐田市見付)の戦い
見付城堀越六郎氏延(犬居城主天野与四郎景貞も篭城)、今川軍に攻められ敗死。天野小四郎虎景・天野孫四郎景義が見付端城乗ノ崩時6人疵を蒙る。 
堀越氏延、堀越に引き退く。
『中世の伊豆国』 
堀越六郎氏延の従兄瀬名氏貞の子瀬名貞綱がこの直後没落
『戦国大名今川氏四代』
遠江・見付端城(みつけはじょう):静岡県磐田市見付字古城、今川義元は反義元派であった見付端城主堀越用山(貞基)を犬居城主天野氏に命じて攻撃させこれを落とした。
堀越用山(貞基):今川貞世を祖とする遠江今川氏、5代目の孫六郎貞基。今川氏輝の死去後に反義元派に属した。

◆天文6年(1537年)5月29日夜、
松平信定が有馬温泉に赴く隙に、大久保忠員・八国詮実・林忠満・成瀬正頼・大原惟宗、迎えに牟呂城(西尾市)に至る。
『岡崎市史』
有馬温泉:摂津国の西北にある温泉地
桜井松平信定:桜井松平家の初代、信定の兄である信忠~清康~広忠に仕えてきた松平一門衆から見れば亜流の血筋に当たる。外縁の隣国尾張織田の支援を受け、家臣団の統制に苦労する。
大窪忠俊:松平仙千代(広忠)が東条吉良持広の支援を受け、牟呂に立てこもったおり、大窪忠俊を先陣として矢を射掛けさせたという。桜井松平信定はそれでも安心せず、伊賀八幡の七枚起請を三回、都合二十一枚の起請文を大窪忠俊に書かせたという。『三河物語』
〔当然、松平信定がこの時期に摂津国まで行くとは考えられない。〕

◆天文6年(1537年)6月1日
大久保忠俊、岡崎城を恢恢復し、使いを駿府に遣わして松平広忠を迎える。
『岡崎市史』

◆天文6年(1537年)6月7日
松平広忠、松平内膳正信定と交渉。

◆天文6年(1537年)6月8日
松平広忠、松平内膳正信定と和議。
『岡崎市史』

◆天文6年(1537年)6月25日
松平広忠、駿河より岡崎帰還。

◆天文6年(1537年)9月
荒川山合戦。吉良左衛門佐義郷と荒川城主荒川義広戦う。
富永忠安、戦死。墓は富永一族の吉良町寺島の大通院
『岡崎領主古事』

◆天文6年(1537年)9月23日
松平広忠、矢田松平甚六郎康忠・大久保新八郎忠俊・成瀬又太郎正頼・大原左近右衛門・林藤助忠満へ15貫文加増。

◆天文6年(1537年)10月23日
松平広忠、石川四郎康繁を駿府へ遣わし恩を謝す。 
松平広忠、八国甚六郎・大久保忠俊・成瀬正頼・大原惟宗・林忠満に、三河国帰国に際しての忠節を賞し田地を宛行う。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文6年(1537年)12月9日
松平広忠、12歳元服、東条吉良持広烏帽子親。
『岡崎市史』
◆天文6年(1537年)
吉田城(豊橋市今橋)の戦い
大崎城主戸田金七郎宣成、牧野成敏家臣戸田新次郎・戸田宗兵衛尉と吉田城牧野伝兵衛成敏を攻略する。
『豊橋市史①』 
戸田宗光、次男戸田宣光を伊奈の加治城に入れ、小坂井・牛久保の牧野氏へのおさえとし、長男チ堯堯光を田原城におく
〔牧野氏を追った戸田宣成が城主となる〕

◆天文7年(1538年)
織田信秀、那古屋城今川氏豊攻め取る。今川氏豊、妻(斯波義達)の娘の縁を頼って京都に逃げる。
『新説桶狭間合戦』 
上野村(名古屋市千種区)下方角右衛門貞経・戸部水野家が織田信秀に仕える。
『新修名古屋市史②』 
中村元勝、父である今川氏豊家臣広井城主中村元親が那古屋城攻防戦で戦死したため還俗して今川義元に仕える。
『新修名古屋市史②』 
那古屋の若宮・天王坊・天水寺・安養寺が兵火により焼失。
『新修名古屋市史②』
〔享禄5年(1532年)、勝幡城主織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、城を落とされた。『名古屋合戦記』?〕

◆天文8年(1539年)7月8日
蒲原城(静岡市清水区蒲原)の戦い」
小島又八郎、蒲原城子宮口で山田新五を討取る。 
朝比奈弥八郎・瀬見大炊助、蒲原城大手で入鑓し北条軍を押崩す。

◆天文8年(1539年))8月17日
三河に大雨洪水津波起こる。ウンカ発生し三遠地方飢餓となる。
『田原町史㊤』

◆天文8年(1539年)9月18日
荒川山戦い
吉良氏と荒川氏が戦い荒川氏敗れる。

◆天文8年(1539年)10月1日
今川義元、三浦弥次郎に、遠州当知行分安堵。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文8年(1539年)10月22日
吉良中務大輔持広没。法名「花岳寺殿聖山常諦」
『改正三河後風土記㊤』

◆天文9年(1540年)4月
吉良義郷、織田信秀との戦いで討死。
『今川ワ氏と遠江・駿河の中世』

◆天文9年(1540年)6月6日
安祥城(安城市安城町)の戦い 
織田信秀3千余騎を率い、水野忠政を先鋒に安祥城松平左馬助長家を攻める。
『知立市史㊤』 
佐崎城松平三左衛門忠倫、渡村・筒針砦を構える。 
松平清定(信定の子)・酒井将監忠尚・大原左近右衛門・今村伝次郎呼応。(入城に功あった、石川安房守忠成・酒井雅楽助政家を罰するよう迫るが松平広忠断わる。) 
広忠側援軍、松平源次郎信康・五井松平外記忠次・矢田松平甚六郎康忠。 
安城松平長家・松平信康・松平甚六郎康忠・藤井松平彦四郎利長・林藤助忠満(法名「道見」)・内藤善左衛門・近藤与市郎・足立弥市郎・宗四郎兄弟・髙木入道・永見中ナカ務ム貞近・安藤太郎左衛門家重・渡辺助右衛門照綱・本多弥八郎正定・本多弥七郎正行ら50人討死。 
松平家臣渡辺助右衛門照綱討死。49歳。『寛政重修諸家譜⑧』 
松平家臣成瀬弥兵衛国重討死。『寛政重修諸家譜⑮』 
松平家臣カ阿部新四郎重尚、上野城攻めで討死。38歳。『寛政重修諸家譜⑪』 
松平康忠、柱岩寺に葬られる。『愛知県幡豆郡誌』 
安祥城(安城市安城町)は、天文16年ネンまで、織田信秀に接収されていない。『古城54』

◆天文9年(1540年)7月5日
松平家臣榊原摂津守忠次、三河国広久手において討死。
『寛政重修諸家譜⑯』

◆天文9年(1540年)
諸国疫病流行し、後奈良天皇宸宸筆の心経を諸国一宮に納める。この春・秋、天下大飢饉・疫病。
『田原町史㊤』『中世災害・戦乱の社会史』

◆天文9年(1540年)
織田信秀、伊勢外宮仮殿造替費に7百貫寄進。

◆天文10年(1541年)春
百年にも無いといわれるほどの餓死者が出る。
『武田氏年表信虎信玄勝頼』

◆天文10年(1541年)6月14日
武田信虎、駿府へ赴く。
『王代記』
◆天文10年(1541年)6月16日
駒井高白斎、武田信虎の駿府行きを初めて知る。
『高白斎記キ』
◆天文10年(1541年)6月28日
武田信玄、家督相続の儀式執行。
『高白斎記』
岡部美濃守貞綱・太原崇孚、甲府で信虎の隠居分手当について交渉。
『堀江文書』
武田信虎、僧となり、我斎と号す。48歳。 
(始め、板垣信方に命じ、信玄を駿府に幽閉しようとする。板垣信方・甘利虎泰・飯富虎昌と共謀し、今井市郎を駿府へ送り今川義元と謀る。駿府にて、一男上野介信友トモ・一女今出川晴季の廉中誕生。) 
柳沢弥三郎信景は武田信虎に従う。後に足利義晴の許に使わされる。『寛政重修諸家譜③』 
秋山土佐守正次は武田信虎に従う。『寛政重修諸家譜④』 
土屋伝助昌遠は武田信虎に従う。『寛政重修諸家譜⑨』 
武田信虎腹臣小山田氏一族某、遠州に入国し幡鎌氏シと称す。『掛川の古コ城址』 
武田信虎の近習に笠井定明。『遠州の古寺』

◆天文10年(1541年)9月
織田信秀、豊受大神宮仮殿造替カの費用を献上する。三河守に任。

◆天文10年(1541年)12月22日
今川義元、岡部元綱に一字を授与

 藤原元綱
天文十一年二月廿二日
治部大輔義元(花押)
岡部小次郎殿
<静岡県史 資料編7「今川義元一字状」(岡部長武氏所蔵文書)>

◆天文10年(1541年)
松平広忠、水野忠政娘於の方を娶る。松平広忠、仕えていた大給松平乗正の娘・松平勘六忠政母子を桑谷村(岡崎市)に移し250石を与える。
『岡崎市史』『松平町誌』

◆天文11年(1542年)5月23日
松平家臣加藤助右衛門、三河国における合戦で討死。子加藤正成、その敵を討取る。
『寛政重修諸家譜⑬』

◆天文11年(1542年)8月10日
小豆坂(岡崎市美合町)の戦い
太原崇孚、数千人率い三河入り。 
今川7段備え。先手庵原。先鋒奥平貞勝活躍。 
織田信秀4千出陣。織田信光先鋒。織田清正・織田信康・織田信実・赤川彦右衛門・神部市左衛門・内藤勝助・河尻与四郎。 
織田軍が盗木まで退き今川軍が追撃の所、織田信光・織田清正・下方彌三郎・岡田助右衛門・佐々隼人・弟佐々孫助・中野又兵衛反戦し今川軍を破る。庵原イハラ氏シ・永田四郎右衛門討死。 
松平隼人左信吉40余歳。法名「月秋」・松平伝十郎勝吉法名「梅栄」父子討死。『寛政重修諸家譜①』 
久野三郎左衛門忠宗、織田信光と槍合わせ、7本槍の武名上げる。『久野城物語り』 
那古野弥五郎重義討死。『今川家臣カ団の研究』 
織田方川口宗吉、首級を得る。『寛政重修諸家譜⑨』
祖父江大膳亮秀治、小豆坂合戦の功により、玉野(尾西市玉野)・西之御堂(一宮市萩原町西ニ御堂)・堀之内(稲沢市堀之内)・中小僧・中野(稲沢市中野)・茂本(稲沢市重)において五百貫文の知行拝領。『尾張織田氏』

◆天文11年(1542年)12月24日
織田信秀、三河上野城攻める。内藤弥次右衛門清長・甥内藤四郎左衛門正成16歳防戦し敵を数十人射殺す。
『寛政重修諸家譜⑬』

◆天文12年(1542年)1月
松平広忠、松平蔵人信孝を代りに駿府へ新年の祝賀へ行かせる。其隙に三木城攻め没収。 
(松平蔵人信孝、松平太郎親長死んで岩津・松平十郎三郎康孝死んで三木手に入れる。岡崎阿部定吉・石川清兼・酒井正親・植村新太郎と話して決める。) 
本多平八郎忠高・酒井雅楽助正親・石川安芸守清兼・阿部大蔵定吉・植村新太郎代わる代わる今川義元に説得し認めさせる。 
松平蔵人信孝三河へ帰り、上和田松平三左衛門忠倫・上野城酒井将監忠尚共に、織田に通じる。

◆天文12年(1542年)2月26日
松平広忠、称名寺(碧南市築山町)夢想の発句で一座興行。 
「神々のなかき浮世を守かな」
『宗碩と地方連歌カ』

◆天文12年(1542年)3月5日
尾州浪人南嶋屋敷の中村九郎右衛門・西中島屋敷の山口右衛門太夫・高道屋敷の戸田半弥・小馬場屋敷の本多内記・東あら家屋敷の牧野玄蕃、田タ守社を勧請する。
『三河国宝飯郡誌』

◆天文12年(1542年)4月7日
三条公頼、三河国に下向する。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文12年(1542年)6月
三木城(岡崎市三ッ木)の戦い」 
松平広忠、三木城松平蔵人信孝(後見役)死んだ弟、十郎康孝の所領合わせ、宗家に匹敵する勢力。広忠、信孝に今川義元への使者に駿河に行かせた後、所領没収。信孝は織田信秀に属し太田砦に入り安城防衛。

◆天文12年(1542年)6月16日
松平広忠、大竹源六・中根弥太郎タの三木松平信孝からの寝返を賞す。
『愛知県史資料編⑩』
◆天文12年(1542年)6月18日
三条公頼、三河国より帰洛し、礼銭5千疋を後奈良天皇に進上する。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文12年(1542年)8月10日
松平広忠、内藤甚三の三木松平信孝からの寝返りを賞す。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文12年(1543年)10月15日
今川義元、三河国今橋の東観音寺に禁制を発す
(今川義元花押)
禁制
一 軍勢甲乙人等濫妨狼籍之事
一 寺内山林竹木截取事
一 軍勢寺中陣取并号見物出入之事
 右、於背此旨輩者、速可加成敗者也、仍如件、
天文十二年十月十五日
小松原山
 東観音寺
ーーーーーーーーーーーーー
  一、軍勢と軍属などが暴行すること。
 一、寺内の山林・竹木を伐採すること。
 一、軍勢が寺の中に陣取ったり、見物するといって出入りすること。
 右に背く輩は速やかに成敗を加えるものである。
ーーーーーーーーーーーーー
愛知県豊橋市にある臨済宗妙心寺派の寺院
<「今川義元禁制」(豊橋市小松原町・東観音寺文書)>

◆天文13年(1544年)9月22日
織田信秀、美濃に侵攻し敗退する
甲辰 十三 九月廿二日未刻、濃州於井ノ口 尾州衆二千人打死、大将衆也、
<愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書)>

◆天文13年(1544年)9月23日
斎藤利政は安心軒・瓦礫軒に水野十郎左衛門への連絡を依頼
斎藤利政の手紙
其以後無音非本意存候、仍一昨日及合戦切崩討取候頸註文水十へ進之候、可有御伝語候、其方御様躰雖無案内候懸意令申候、此砌松次三被仰談御家中被固尤候、是非共貴所御馳走簡要候、就者談近年織弾任存分候、貴趣自他可申顕候、岡崎之義御不和不可然候、尚期来信候、恐々謹言
九月廿三日
斎藤左近大夫
利政
安心軒
瓦礫軒
 玉床下
<新編東浦町誌「斎藤利政判物」>

◆天文13年(1544年)9月25日
長井久兵衛、水野十郎左衛門に戦果を報告して織田信秀の排斥を勧める
長井久兵衛の手紙
先度以後可申通覚悟候処、尾州当国執相ニ付而、通路依不合期、無其義候、御理瓦礫軒・安心迄申入候、参着候哉、仍一昨日辰刻、次郎・朝倉太郎左衛門・尾州織田衆上下具足数二万五六千、惣手一同至城下手遣仕候、此雖無人候、罷出及一戦、織田弾正忠手へ切懸、数刻相戦、数百人討捕候、頸注文進候、此外敗北之軍兵、木曽川へ二三千溺候、織弾六七人召具罷退候、近年之躰、御国ニ又人もなき様ニ相働候条、決戦負候、年来之本懐此節候、随而此砌、松三へ被仰談、御国被相固尤存候、尚礫軒演説候、可得御意候、恐惶謹言、
九月廿五日
長井久兵衛
 秀元
水野十郎左衛門殿
<新編東浦町誌「長井久兵衛書状」>

◆天文13年(1544年)11月11日
三河国安城の与二郎ひろ定、深溝松平家への年貢納入を約束する

こゝもとなりかにて弐十俵、明年よりいらんなくしんしやう申へく候、すこしも無さた申ましく候、そのためこ一筆申候、かしく、
天文十三年 十一月十一日
ひろ定(花押)
(ウワ書)「(墨引)ふかうす殿御上さま 参 人々御中
         あんしやうより 与二郎」
<愛知県史資料編10「与二郎ひろ定請文」(本光寺常盤歴史館所蔵文書)>

◆天文13年(1544年)11月11日
十郎左衛門が信秀に参陣 
織田信秀の手紙
此方就在陣之儀、早々預御折帋、畏存候、爰許之儀差儀無之候、可被御安心候、先以其表無異儀候由、尤存候、弥無御油断、可被仰付儀肝要候、尚林新五郎可申候、恐々謹言、
閏十一月十一日
信秀
水野十郎左衛門尉殿
     御返報
<新編岡崎市史 「織田信秀書状写」>
(織田信秀、水野十郎左衛門尉に陣中の様子を伝えて油断のないように求める)

◆天文13年(1544年)11月20日 
上総介殿形儀の事 清洲衆と鉾楯に及ぶ事   
霜月(十一月)廿日、此の留守に、尾州の内・清洲衆ガ、備後守殿古渡新城へ人数を出だし、町口放火候て、此の如く候間、備後守御帰陣なり。是れより鉾楯(戦争)に及び候へき。
『信長公記』

◆天文13年(1544年)12月
水野十郎左衛門信近、「入海神社」の奉造立棟札『東浦雑記』:天文十三年十二月、「入海神社奉造立御神殿壹宇/旦那衆伍貫文/水野十郎左衛門信近/天文十三年甲辰十二月(忠政卆後翌年也)/以下略」
「或記云此社楠ヲ以テ作レリ棟札水野十郎左衛門信近ト有リ是藤九郎也」
『張州雑志・第十七』(1770 年~1778年頃、尾張藩九代藩主・徳川宗睦の命で編纂)
「此神社往古ハ水野下野守信元氏神ノ由申伝天文十三年甲辰十二月造立ノ棟札アリ文字サダカナラズト也」
『知多徇行記』

◆天文14年(1545年)11月9日
武田晴信、松井山城守に後北条氏との和平案を示す
今度為合力、越山候意趣者、去酉年義元御縁嫁之儀、信虎被申合候、然処、以後一儀駿・豆執合之由、於世間風聞、依之晴信五ヶ年之間、別而申合候、此度同心申相動候処、為始吉原之儀、御分国悉御本意、一身之満足不過之候、内々此上行等、雖可申合候、北条事御骨肉之御間、殊駿府大方思食も難斗候条、一和ニ取成候、就中長久保之城責候者、或者経数日、或者敵味方手負死人有出来者、近々之間之執合、更無所詮候哉、縦氏康雖滅亡候、過数十ヶ年、関東衆相・豆本意候者、所領之論却、只今ニ可相戻候哉、彼此以一統、可然候条、如此走廻候、自今以後、有偏執之族者、此旨各分別候間、長久之儀肝要候、恐々謹言、
十一月九日
晴信(花押)
松井山城守殿
上包如此
「松井山城守 晴信」
<戦国遺文 武田氏編「武田晴信書状写」(内閣文庫所蔵「土佐国蠧簡集残篇六」)>

◆天文15年(1546年)3月28日
鵜殿長持、安心に対して飯尾豊前守への織田信秀密書仲介を責める
貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、惣別彼被仰様、古も其例多候、項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦可果之由、項羽自雖被打向候、高祖敵之調略非可乗との依遠慮、果而得勝事、漢之代七百年を被保候、縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、但駿遠若武者被聞及候者、朝蔵・庵原為始、可為其望候哉、此段之事候へ者、去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候、武新二前被申様ニより、重而談合可申候、恐惶謹言、
三月廿八日
鵜殿長持
安心
 参 御報
<静岡県史「鵜殿長持書状写」>

◆天文15年(1546年)6月15日
今川義元、長興寺・龍門寺・伝法寺に禁制を発す
[印分「如律令」]
当手軍勢甲乙人乱暴狼藉之事、堅令停止之訖、若於違犯之輩、可処厳科者也、仍如件、
天文十五[丙午]
 六月十五日
長興寺
龍門寺
伝法寺
<「今川義元朱印状」(田原市大久保・長興寺文書)>
長興寺(ちょうこうじ):愛知県豊田市にある臨済宗東福寺派の別格寺院
龍門寺(りゅうもんじ、りょうもんじ):愛知県田原市田原町新町にある曹洞宗
伝法寺:愛知県一宮市丹陽町

◆天文15年(1546年)9月6日
上野城(豊田市上郷町)の戦い
松平広忠、上野城松平監物家次(イエツグ)を攻落オとす。『古城コジョウ54』
松平広忠方金田惣八郎正祐討死。22歳。『寛政重修諸家譜⑨』
松平広忠方小林新平貞正討死。法名「浄林」『寛政重修諸家譜⑯』

◆天文15年(1546年)9月28日
牧野康成、三河国今橋・田原等の処置につき、今川義元に願い出る
(松平蔵人佐と安心軒、今川義元の決裁に異議がないことを確認している)
条目
一今橋・田原御敵ふせらるゝにおゐてハ、今橋跡職、名字之知にて御座候間、城共に可被仰付、御訴訟申候処、両所御敵を仕候間、今はし・田原之知行、河より西をさかい入くミなしに可被仰付候由候、此上兎角申たてかたく候間、如此候、伊奈之儀、本知之事候間、不及申候、然者西三河猶一篇之上、若又両所御成敗之時も此分ニ可被仰付事候、
一同主田原・今橋申様御座候者、御味方に可被成事、於我等忝存候、右之申分ハ御敵等参候者の申事候、
一長沢敵ニ参御成敗候ハゝ、彼跡職一円ニ被仰付て可被下候、今之城、不被仰付候間、此儀今以播面目候ために如此申上候、
一長沢御味方ニ参候者、下条之郷・和田之郷・千両上下・大崎郷・佐脇郷上下・六角郷・此都合八百貫余、可有御座候、以上使被成御糾明、可被仰付候事
此小書うら書と同筆にて
此一ヶ条之事ハ、長沢被付御敵之上、只今之被仰事、入間敷存候間、可被除之候、
一御馬出候歟、又御人数西郷へ御行候ハゝ、質物渡可申事
右之条々、有御分別御披露可畏入候、然者御聴も被合御判形を可被下候、
以上
天文十五年丙午 九月廿八日
牧野田三郎
保成判
右之裏書ニ
此五ヶ条之内一ヶ条を除四ヶ条之事者、先日松平蔵人佐・安心軒在国之時、屋形被遣判形之上、不可有別儀候、猶只今承候間、我等加印申候者也、仍如件、
十一月廿五日
泰能判
親徳判
崇孚判
<愛知県史 資料編10「牧野保成条目写」(松平奥平家古文書写)>
泰能判:朝比奈左京亮 泰能
親徳判:朝比奈 親徳
崇孚判:太原崇孚
(牧野保成:渥美郡の吉田城周辺に牧野保成の所領が認められる)
吉田城:三河国渥美郡今橋(現在の愛知県豊橋市今橋町、豊橋公園内)にあった城

◆天文15年(1546年)10月16日
〔今川義元、太原崇孚雪斎の指揮下で三河侵攻を開始する〕
牧野保成、所領の不入などを今川氏に求める
(河より東の領内は我々のものだが、川より西は書面のように相違があってはならないこと。)
一本知新知万不入ニ可被仰付事、
一拙者知行之内并家中之者共、御国之衆へ致被官之義、無御許容之事、
一度々如申上候、河より東之領中内に候共、川より西候者、一書のことく相違有間敷事、
以上
天文十五年十月十六日 牧野田三郎 保成 判
朝三兵
雪斎
参人々御中
右之裏ニ 泰能 判
親徳 判
崇字 判
<静岡県史 資料編7「牧野保成条目写」(松平奥平家古文書写)>
牧野保成は、のちに吉田城(今橋城)主になる。
河とは吉田城(今橋城)の西にある豊川と思われる。

◆天文15年(1546年)10月22日
松平広忠家臣杉浦弥市郎親貞、野田で討死。35歳イ。『寛政重修諸家譜⑨』

◆天文15年(1546年)10月30日
岡崎の慶度、西嶺に金田宗八郎討ち死にを伝える

「上書 西嶺様[是ハ大林寺隠居之事、] 自 三河岡崎 慶度」
 此所ニ二下り候へとも、かミ悪敷成見へ不申候、
 阿大より可被申上とも、取乱候間無其儀候、駿河衆至今橋とりかけ候、今日迄させる行なとも候ハす候、味方中堅固被申付候、可被御心易候ゝゝ、
其後者御床敷令存候、仍今度不慮之儀候而金田宗八郎討死事候、彼仁子もなく候間、跡職少々儀、今以寺乞たて度由阿大被申候、屋敷者野々山弥右衛門屋敷にて、此間宗八郎屋敷とかへられ候、定而可有御存候、石川式部殿近所おかしき家とも被作候、御越候者、造作なとをも可申付候、寺領なとゝ申ても、過分の儀者有間敷候、五貫目付可申候、他国にて過分子細候共、御住国事候間、可有御渡海候、目出度奉待候、当座之儀、随分馳走可仕候、必々御越待申候、猶林空より可被仰候、恐惶謹言、
十月卅日
「名字岡部」
けいたく(花押影)
「右の岡崎けいたくと申候ハ、広忠公御時代ばんこさい・慶度両人乍御右筆、諸事御用人役也、」
<戦国遺文 今川氏編「岡部慶度書状写」(徳川林政史研究所所蔵古案三州聞書)>

◆天文15年(1546年)11月24日 
今川、東三河の吉田城の戦い
太原崇孚・松平広忠、吉田城戸田橘四郎宣成60余歳を攻め滅ぼす。
野々山甚九郎内通する。石川式部忠成・阿部大蔵定吉・酒井将監忠尚功績。由比源左衛門光詔討死。
大村弥三郎綱次、外構乗っ取の時、伊藤氏を討取り鑓疵蒙る。

◆天文15年(1546年)11月25日
今川義元、三河国今橋城攻撃における天野景泰の戦功を賞す。今橋城の落城

今度三州今橋之城小口取寄之時、了念寺へ可相移之由成下知候之処、不及異儀■前馳合堅固相踏之旨、忠功之至感悦也、今月十■日辰剋、同城外構乗崩之刻、不暁ニ宿城江乗入、自身■粉骨、殊同名親類被官以下蒙疵、頸七討捕之条、各別紙遺感状也、誠以度々軍功神妙之至也、弥可抽忠勲之状如件、
十一月廿五日
義元(花押)
天野安芸守殿
<愛知県史 資料編10「今川義元感状」(天野文書)>
今橋城:吉田城の別名、築城当初に今橋城と呼ばれた。)
戸田金七郎宣成(とだきんしちろうのぶなり)が城主を務めていた今橋城を陥落させる。

◆天文15年(1546年)11月26日 
今川義元、妙覚寺(沼津市下河原)に諸役免除。
<沼津市史 通史編(原始・古代・中世) >

◆天文15年(1546年)12月14日
太原崇孚、野々山甚九郎の忠節を賞して兵員を増派する

今度依忠節、当城扶助員数、代官等為替地、細屋郷可被捕任也、出仕之上御判■■沙汰者也、仍如件、
 天文十五
 十二月十四日
 雪斎 崇孚判(花押影)
 野々山甚九郎殿
右ハ折紙也、
<愛知県史 資料編10「太原崇孚判物写」(野々山文書)>
野々山甚九郎(ののやまじんくろう)

◆天文16年(1546年)2月3日
今川義元、野々山甚九郎の三河国今橋城での忠節を賞し、細谷郷を与える

■年於参河国今橋城、令内通存忠節、任契約之旨、細谷代官并給分■拾貫文令補任之、
右、任雪斎契約之旨、所充行之也、■可抽忠節之状如件、
天文十六
二月三日
治部大輔(花押影)
野々山甚九郎殿
<愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(野々山文書)>

◆天文16年(1547年)1月
今川治部大輔義元、新谷与左衛門尉に本領を安堵。『静岡県史中世資料編補遺』

◆天文16年(1547年)2月3日
今川義元、天野景泰の医王山砦構築を称え、三河国本意のため近日出馬すると伝える
去比医王山取立候、普請早出来、各馳走之段注進、誠以悦然候、近年者東西陣労打続候、勲功之至候、仍三州此刻可達本意候、近日可出馬候間、其心得肝要候、謹言、
七月八日
義元(花押)
天野安芸守殿
<愛知県史 資料編10「今川義元書状」(天野文書)>

◆天文16年(1547年)3月2日
今川義元、匂坂ニ六右衛門尉長能に、豊田郡匂坂郷を安堵。(『静岡県史資料編⑦』

◆天文16年(1547年)4月2日
寿桂尼、瑞光院道音(寿桂尼の奏者)に長慶寺領安堵。『静岡県史資料編⑦』
(長慶寺:愛知県豊川市金沢町藤弦3-4?、愛知県豊橋市杉山町孝仁?)

◆天文16年(1547年)6月6日
松平広忠、鳥居仁左衛門の三木松平信孝からの寝返を賞す。『愛知県史資料編⑩』

◆天文16年(1547年)6月13日
太原崇孚・禰宜藤原源右衛門尉重勝・大工権大夫、今川義元を大檀那に、吉田牛頭天王社(豊橋市関屋町)造営し神興1丁寄進。『豊橋市史①』

◆天文16年(1547年)7月8日
今川義元、松井宗信と共に、医王寺(岡崎市)裏山医王山砦を普請竣工した天野安芸守景泰に感状。近日の出馬を伝える。『戦国遺文今川氏編②』

◆天文16年(1546年)閏7月3日
今川軍、田原城(田原市田原)攻撃開始。『渥美郡史』

◆天文16年(1547年)閏7月5日
今川軍、上郷を悉く放火。飯尾豊前守乗連が常光寺に陣取る。『渥美郡史』

◆天文16年(1547年)閏7月23日
松平家広、牢人中の懇意を感謝して、松平清善に知行を与える
(松平家広が本意を遂げて牢人から復帰する)
 今度牢人仕候て其方へ憑入参候処、種々御懇候得共、殊過分之御取かへなされ、進退をつゝけ本意仕候、色々御忠節共、あまりニ祝着千万候まゝ、於平地領中五拾貫之分末代遣置候、彼於知行子々孫々申事有間敷候、亦何やうニ成行候て、今度牢人いたし候時、方々へ出し置候知行、手ニ入候事候共、其方へ遣候知行ハ申事有間敷候、扨天文拾六年よりまへの借物過分ニ成行候処、彼知行遣し候付て御さしをき、是又畏入候、か様ニ色々御ちうせつ祝着候まゝ知行遣し候、於向後何事も如在申間敷候、仍為後日如件、
天文拾六年 丁未 潤月七月廿三日
形原又七 家広 判有
竹谷与次郎殿 まいる
<愛知県史 資料編10「松平家広証状写」(竹谷松平家文書)>

◆天文16年(1546年)8月2日
松平広忠の使者石川安芸守清兼・天野甚右衛門景隆、駿府に至り、岡部次郎右衛門・雪斎に会い今川方に援を請う。
松平広忠、竹千代6歳(石川数正・平岩親吉・榊原康政・天野康景・上田慶宗・金田政貞・金田正房・松平忠正・平岩親長・村越平三郎・江原孫三郎・阿倍正勝28人、兵50人)を人質に駿府へ送る。
田原城戸田弾正左衛門宗光・子戸田五郎政直、湖見坂で竹千代を奪い、家臣戸田又右衛門を遣わし織田信秀に送る。今川方飯尾勘助(飯尾乗連の弟オ)・戸田方戸田五左衛門と渡辺平馬・松平方金田政貞討死。
竹千代を舟に乗せた後、林佐渡守通勝・岩室長門守百騎で兵船2艘で奪う。
織田信秀、竹千代を、熱田加藤図書順盛邸に拘束。
松平広忠、石川安芸守清兼を使者に駿府へ。今川義元、朝比奈彌太郎泰成を使者に岡崎へ。
織田信秀、山口惣十郎弘孝使者に、松平広忠に好を結ぶよう伝える。

◆天文16年(1547年)8月25日
今川義元、奥平定能・同貞友に、三河国山中の新知行を安堵する
(今川義元は奥平定能と貞友に医王山砦での功を賞し、東西で紛争があっても所領は変わらないと保障する)
参河国山中新知行之事
右、医王山取出割、就可抽忠節、以先判充行之上、当国東西鉾楯雖有時宜変化之儀、彼地之事、永不可有相違也、弥可専勲功状如件、
天文十六
八月廿五日
今川義元也 治部大輔判
作手仙千代殿
藤河久兵衛尉殿
<愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)>

◆天文16年(1546年)8月25日
今川治部大輔義元、作手奥平仙千代貞能・藤河奥平久兵衛尉貞友に、竹尾平左衛門150貫文除く三河山中7郷(岡崎市)知行宛行。『静岡県史資料編⑦』

◆天文16年(1547年)8月26日
太原崇孚は牧野保成に陣備えを指示して今川義元出馬を伝える
 広瀬源兵衛口上之儀、何も承届候、委細御返事申入候、世谷口重御普請太儀察存候、御取手之御太儀候共、其口ニ御人数百宛被置、長沢ニ五十計、両所百五十之分四番ニ被定候て、可為六百之御人数候、是も田原一途間、可被仰付候、近日可被出馬候、如何様当年中可有一行候、可御心■候、委細重可申入候、恐々謹言、
 尚ゝ其辺之儀、疑心之事にて長辺へ人を越候ニてハなく候、方々のうたかいむつかしく候て、彼両人覚計の儀ニ越申候、屋形之儀、愚僧・朝三なと此分候、神も照覧あれ、無別儀候、可御心■候、
八月廿六日
雪斎 崇字判
牧野田三郎殿 参御報
<静岡県史 資料編7「太原崇孚書状写」(松平奥平家古文書写)>

◆天文16年(1547年)8月29日
太原崇孚、牧野保成に援軍と兵糧について指示

 両度以書状申候、参着候哉、仍御人数之儀、飯豊・井次其外境目之衆悉被仰付、西郷谷へ可有着陣候、其地御用次第可被招置候、兵粮之儀肝要候、今橋へ弾橘入城候者、於彼地商買之儀、可為不弁之条、此方より尾奈・比々沢迄可届申候、其間之儀、御調法候てめしよセられへく候、兵粮方之儀者、涯分つゝけ申へく候、御本意之上、可有御返弁候、此由西郡へも申度候、委細先書申候間、不能詳候、恐々謹言、
八月廿九日
雪斎 崇字判
牧野田三郎殿御宿所
<静岡県史資料編7 「太原崇孚書状写」(奥平松平家古文書写)>

◆天文16年(1547年)9月10日
太原崇孚、天野景泰の戦功を今川義元に報告したと伝える

去五日辰刻御合戦之様体、具御注進披露申候、御手負以下注進状ニ先被加御判候、追感状可有御申候、急候間早々申候、恐々謹言、
九月十日
雪斎
崇孚(花押)
尚々松井殿其方取分御粉骨之由、自諸手被申候、雖毎度之儀候、御高名之至候、
天野安芸守殿
  御報
<静岡県史資料編7 「太原崇孚書状」(天野文書)>

◆天文16年(1547年)9月20日
今川義元は天野景泰が田原攻略で活躍したことを賞す

去五日三州田原本宿へ馳入、松井八郎相談、以見合於門際、同名・親類・同心・被官以下最前ニ入鑓、各粉骨無比類候旨、誠以神妙之至也、殊被官木下藤三・溝口主計助・気多清左衛門突鑓走廻云々、弥可抽軍忠之状如件、
九月廿日
義元(花押)
天野安芸守殿
<静岡県史資料編7 「今川義元感状」(天野文書)>

◆天文16年(1546年)9月28日
「渡村河原(岡崎市渡)戦い」
松平広忠、松平山城守信孝5百・上和田城主(岡崎市上和田)松平忠倫と渡村河原戦いに敗れる。鳥居忠宗は松平清兵衛に討取られる。『碧海郡誌』
松平弥九郎忠次は先鋒に進み、敵鳥居又次郎と戦い討死。27歳。法名「源栄」『寛政重修諸家譜①』
梅坪城三宅隼人正師貞、織田軍を岩瀬山で防戦し討死。子藤左衛門政貞、即時その敵を討取る。『岡崎市史①』
上和田城(岡崎市上和田)松平忠倫・三ッ木松平信孝、西条吉良義安・東条吉良義昭を尾張に属させ岡崎を窺う。『吉良の人物史』

◆天文16年(1546年)9月29日
松平広忠家臣中根正雄、渡村河原において討死。『寛政重修諸家譜⑭』

◆天文16年(1546年)10月18日
松平広忠、筧平三郎重忠に命じ、上和田城(岡崎市上和田)松平三左衛門忠倫を刺殺させる『愛知県史資料編⑩』

◆天文16年(1546年)10月
大浜(碧南市音羽町)の戦い
織田信長初陣(平手政秀ら八百人従軍)、大浜羽城長田重元攻め放火し帰陣。那古野城→古渡城→熱田神宮→沓掛城→刈谷城→大浜羽城『桶狭間への道』
今川義元、大浜湊(碧南市)に端城築き長田平右衛門重元を城代としていた。『今川義元』

◆天文16年(1547年)10月20日
松平広忠、筧重忠の松平忠倫殺害を賞す

今度三左衛門生害之儀、忠節無比類候、此忠於子々孫々忘間敷候、然者為給恩、万疋之知出置候、雖為何儀候、於末代不可有相違候、在所者別ニ日記出置候也、
天文拾六年
十月廿日
広忠 御在判
筧平三とのへ
<愛知県史 資料編10「松平広忠判物写」(譜諜余録)1>

◆天文16年(1546年)12月25日
金田正房、竹千代を救う計略に失敗し死す。『三河後風土記正説大全』

◆天文16年(1546年)
織田信秀、安祥城(安城市安城町)攻略
佐崎城(岡崎市上佐々木)松平三左衛門忠倫、松平広忠に逆ギ心し渡村・筒針砦を構える。井田城(岡崎市井田町)酒井左衛門尉忠次、織田信秀側につく。織田信秀、松平三左衛門忠倫を上和田城(岡崎市上和田)に、松平蔵人佐信孝衆を岡の城(岡崎市岡)・三木城に、酒井左衛門尉忠次を上野城(豊田市上郷町)を置く。『古城54』

◆天文17年(1548年)1月26日
今川義元、奥平定勝が久兵衛謀反を通報して実子を人質に出したことを賞す

去年息千々代・同名親類等依忠節、新地山中七郷充行分[但此内百五十貫文、竹尾平左衛門割分除之、]本知行并遠江国高部給分、弟日近久兵衛尉知行分、同去年配当形之厚分等之事
右、依今度久兵衛尉謀反現形、最前ニ馳来于吉田、子細申分、則実子千々代為人質出置、抽忠節上、抛先非如前々所充行之也、弥可専忠信之状、仍如件、
天文十七戌申年正月廿六日
治部大輔判
奥平監物丞殿
<愛知県史 資料編10「今川義元判物写」(松平奥平家古文書写)>

◆天文17年(1548年)2月15日
今川義元、本多縫殿助忠俊に、伊奈(豊川市)・前芝湊(豊橋市)の支配権と湊役徴収権・渡津平井村(新城市平井)の船役徴収権安堵。(前マエ芝シバ・牟呂の河口から終点平井までの豊川舟運を支配する地位にあり、入船料や船役徴収権を認められ流域物資流通に関わる商人でもあった。)『永原慶著作選集⑥』

◆天文17年(1548年)3月2日
今川軍2万5千大将太原崇孚・副将朝比奈備中守泰能・搦手岡部五郎兵衛尉元信・朝比奈藤三郎泰秀出陣、藤枝着。

◆天文17年(1548年)3月4日
今川軍引馬着。
◆天文17年(1548年)3月5日
今川軍吉田着。
◆天文17年(1548年)3月6日
今川軍藤川(岡崎市)着陣。
織田信秀・副将織田三郎五郎信広・先手弟津田孫三郎信光8千、清洲城を出陣し笠寺・鳴海に着陣。
◆天文17年(1548年)3月8日
織田信秀、安祥城着。
◆天文17年(1548年)3月9日
織田信秀、矢作川渡り上和田城(岡崎市上和田町)着陣。

◆天文17年(1548年)3月11日
北条氏康、織田信秀の軍功を讃えつつ、自らは今川氏と和平したことを伝える

如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候、仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、就中、駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、抑自清須御使并預貴札候、忝候、何様御禮自是可申入候、委細者、使者可有演説候、恐々謹言、
十七年
三月十一日
氏康 在判
織田弾正忠殿
御返報
<戦国遺文 後北条氏編 「北条氏康書状案写」>

◆天文17年(1548年)3月12日
今川義元、戸田一門を匿った長興寺へ最少六6反歩の寄進状を送る。『田原町史㊤』
◆天文17年(1548年)3月17日
今川氏輝13回忌。法事に際し、京都天竜寺三秀院住持江心承薫、拈拈香文を読み上げる。『大龍山臨済寺の歴史』

◆天文17年(1548年)3月19日
第2次小豆坂の戦い(岡崎市羽根町)
庵原安房守元政の斥候、庵原右近忠春が織田軍を見付けて報告。今川軍小豆坂上り陣し織田軍待つ。 
今川方先手朝比奈備中守泰能3千余と朝比奈小三郎泰秀3千余突戦す。 
織田方先鋒織田酒造允信房攻め上がる。弟織田与二郎信康・弟織田四郎次郎信実・弟織田孫次郎信次・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・内藤東助・川尻与兵衛鎮能・槍武藤三位入道(織田家随一の豪勇)・小瀬修理太夫直澄・川崎傳助友勝・土肥孫左衛門通平・那古屋弥五郎重義・永田四郎右衛門重宗・大久保半助乗忠(今樊)・山口右馬助・平手中務・川尻与四郎・柴田・滝川・林・梁田など従軍。 
織田方内藤藤助は強敵を斬る。川尻與四郎鎮吉は庵原氏と組クて討取る。那古屋弥五郎重義討死・永田四郎右衛門重宗討死。 
先陣朝比奈藤三郎信置1番槍。叱咤し敵軍に入り群がる敵相手に奮戦。 
1の備織田三郎五郎信広、織田オダ信秀本陣まで敗走。小豆坂7本槍(津田孫三郎信光・織田酒造允信房・岡田助右衛門直教・佐々孫助勝重・佐々隼人正勝道・中野又兵衛忠利・下方彌三郎匡範)の働きで今川軍敗走。岡崎衆松平太郎左衛門信吉・弟傳十郎信勝・林藤五郎忠満・小林源之助重次防戦するが数十人討死。 
伏兵岡部五郎兵衛尉元信・西郷弾正左衛門尉正守、織田信秀本陣へ横槍し織田軍敗走。 
持舟城主関口政興負傷。 
小倉与助正孝、物頭織田家随一の豪勇槍武藤を組伏討ち取り功第一。(後に美濃・和泉の日根野五郎左衛門従三位備中守弘就・日根野彌次右衛門・青木筑後守一重青木加賀守右衛門重直・小原肥前守兄弟・坂井大膳を推薦して仕えさせる)織田軍50余人討死。 
酒井雅楽頭正親、織田信広従士鳴海大学助を討取る。『寛政重修諸家譜②』 
松平家臣今村彦兵衛勝長戦功。『寛政重修諸家譜⑬』 
松平家臣小林平左衛門重次、織田平八郎信重・織田平九郎信正を討取り、永井藤助と戦い討死。70歳。弟小林源之ノ助重吉討死。『寛政重修諸家譜⑯』 
榊原彦内政吉戦功。 
松井惣左衛門家保、最前に馬を入れる。殿時には松井宗信と朝比奈備中守泰能に同心する。 
久米次郎左衛門親吉、久米四郎父子、小豆坂合戦で高名。『南紀徳川史⑤』 
青山忠門、舎弟善四郎重成と従軍し功あり。『三河国額田郡誌』 
水野信元家臣高木清秀、今川軍の兵と馬上に組みその首を取る。『碧海郡誌』 
今川方藤川戻る。織田信秀、織田信光を上和田城・信広を安祥城に置き清洲へ戻る。

◆天文19年(1550年)1月17日
犬山織田氏・楽田織田氏が織田信秀に反旗を翻す。
『愛知県史研究⑮』

◆天文19年(1550年)1月23日
今川義元、武田使者駒井政武と対面。三国同盟への話し合い。
『高白斎記』

◆天文19年(1550年)1月26日
太原崇孚、内裏で和漢御会を主催。出席者に後奈良天皇・三条西公条・三条大納言・中山孝親・山科言継・四辻季遠・広橋国光・雅業王・高辻長雅・相国寺仁如・妙心寺亀年・天竜寺江心。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)3月28日
鵜殿長持、安心に対して飯尾豊前守への織田信秀密書仲介を責める
鵜殿長持より安心軒への書状
 貴札委細拝見申候、仍信秀より飯豊へ之御一札、率度内見仕候、然者御され事共、只今御和之儀申調度半候事候条、先飯豊へ者不遣候、我等預り置候、惣別彼被仰様、古も其例多候、項羽・高祖之戦、支那四百州之人民煩とて、両人之意恨故相戦可果之由、項羽自雖被打向候、高祖敵之調略非可乗との依遠慮、果而得勝事、漢之代七百年を被保候、縦御一札飯豊披見候共、御計策ニ者同意有間敷候哉、但駿遠若武者被聞及候者、朝蔵・庵原為始、可為其望候哉、此段之事候へ者、去年以来拙者存分不相叶事候間、兎ニ角ニ御無事肝要候、武新二前被申様ニより、重而談合可申候、恐惶謹言、
三月廿八日
鵜殿長持
安心
 参 御報
<静岡県史「鵜殿長持書状写」>

◆天文19年(1550年)夏
今川氏、三河大樹寺領で検地。
『一向一揆の基礎構造』

◆天文19年(1550年)5月
信長家臣佐久間甚四郎、織田方に大高城を攻略される
「天文十九年五月吉日を改、 (中略)松平蔵人元康公となり、 (中略)同年八月十六日 御父弘忠公御病死。 (中略)去程に信長家臣佐久間甚四郎と云者、尾州大高の城に押シ寄セ攻メ取ルに、兵甲斐無き者共にて、逆茂木一重破リ捨テ、城中ニ切リ入リ、究竟の兵共廿五人討取リしかば、士卒は残ラズ駿河にぞ引キ退ける。 <元康公御出張之事> 已に今川大高城攻られ崩し候故、三州押として元康公岡崎へ再び返城仰付けられけり。」
『三河海東記』

◆天文19年(1550年)閏5月26日
今川義元の娘没。法名「隆福院殿月汀宗真大禅定尼」『静岡県地域史研究会報77』

◆天文19年(1550年)6月2日
今川義元夫人没。32歳。法名「定恵院殿南室妙康大禅定尼」
乗炬を太原崇孚、鎖龕を黙宗瑞淵、記龕を梅室、奠湯を南陽、収骨を文益座元等により葬儀が行なわれる。
『戦国遺文今川氏編②』
太原崇孚の法語「頽乎久臥寝室、俄然終入帝郷、妃嬪僂ショウ倚柱惆悵、臣民走卒仰天蒼黄」『大龍山臨済寺の歴史』

◆天文19年(1550年)6月
今川藤島城主(日進町藤島)丹波隼人佐、福谷城(三好町福谷)に在番する。

◆天文19年(1550年)7月5日?
近衛稙家、織田信秀との和睦継続を今川義元に求める
久閣筆候、疎遠之至■、仍就土岐美濃守入国之儀、尾州織田備後守令相談■由候、然者彼国境目等不及再■、弥無事之段、可喜思食■、武家御内書如此候、依■有見除子細、被仰候、■佐々木弾正少弼使僧可申伝候也、状如件、
七月五日
今川治部大輔■ 
愛知県史 資料編10「近衛種家書状案」(近衛文書)
<1551(天文20)年に比定。ほぼ同文の、太原崇孚・朝比奈泰能・飯尾乗連宛文書がある>

◆天文19年(1550年)8月2日
遠州大洪水。大窪山徳願寺(静岡市駿河区向敷地)開祖天叟祖寅寂。
『大窪山徳願寺史誌』
尾張で大雨洪水。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文19年(1550年)8月
刈谷城の返還交渉が成立したとあり
『東照軍鑑』
「尾州錯乱、八月義元八万騎にて智多郡へ出陣」
『定光寺年代記』
今川義元5万騎で尾張知多郡に出陣。織田方は尾州錯乱
『新説桶狭間合戦』

◆天文21年(1552年)9月
織田信秀が没し、今川義元が出兵する

壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、九月駿州義元八事マテ出陣、
<愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書)>

◆天文19年(1550年)9月9日
今川義元、四宮右近・庵原彌兵衛を甲州へ遣わし、北条氏康より依頼された上野国に武田信玄が手を出さないよう伝え甲相和平を求める。

◆天文19年(1550年)9月16日
朝比奈左京亮泰能、長沢城を今川軍に渡すことを約束した牧野田三朗に感状。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文19年(1550年)9月17日
今川義元、白坂(愛知県瀬戸市)雲興寺へ禁制。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)9月19日
飯尾乗連・太原崇孚、長沢城を今川軍に渡すことを約束した牧野田三郎に感状。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文19年(1550年)9月27日
今川治部大輔義元、陣中より伊勢御師亀田大夫に、重原庄(愛知県刈谷市)内の所領百貫文寄進し、今度の出陣における武運長久を祈願させる。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)9月28日
今川治部大輔義元、知多郡での戦いで、大村彌三郎高重へ感状。

◆天文19年(1550年)9月28日
今川治部大輔義元、遠江国千手院に、三河国における白山先達職を安堵。『愛知県史資料編⑩』

◆天文19年(1550年)10月10日
今川義元、大樹寺(岡崎市鴨田町)に寺領安堵し禁制を与える。寺領・祠堂銭を徳政から除外する。
『史叢46』

◆天文19年(1550年)10月12日
今川義元、筧平三重忠に松平広忠の給恩地チを安堵。
『駿河の今川氏⑧』

◆天文19年(1550年)10月19日
越中国菩提心院日覚、越後国ニ本成寺に、尾張国の洪水や今川氏の尾張進入などの伝聞を伝える。駿河・遠江・三河の軍勢が六万ばかりで織田信秀を攻めてきたが、尾張側はこれを国境で支える為にことごとく出陣しており、今でも那古野の辺りまで兵の姿が見えない。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文19年(1550年)11月8日
今川治部大輔義元、牧野出羽守保成に、財賀寺領(豊川市財賀町)を不入地として安堵。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)11月9日
今川治部大輔義元、桜井寺(岡崎市桜井寺町)に、三河国における白山先達職安堵。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)11月19日
今川治部大輔義元、長田喜八郎重吉に、天文17年松平広忠に背いて織田方に属した熊野社禰宜河井惣太夫の所職を、没収して長田氏に与えた松平竹千代知行大浜(碧南市大浜上町)上宮神田を、上の宮前神主河村惣太郎からの熊野社領は特別相伝性が強いという理由よりの訴訟に対し安堵。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)11月25日
今川治部大輔義元、三河御油林二郎兵衛に、三河八幡惣社領内屋敷3間分の諸役免除。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)11月29日
太原崇孚・朝比奈備中守泰能、後奈良天皇の命を受け、大樹寺(岡崎市鴨田町)寺領安堵。
『静岡県史資料編⑦』

◆天文19年(1550年)12月1日
義元が丹波隼人佐に沓懸・高大根・部田・大脇、知多郡の横根を安堵
「沓掛・高大根・部田村之事。右、去六月福外在城以来、別令馳走之間、令還付之畢、前々売地等之事、今度一変之上者、只今不及其沙汰、可令所務之、并近藤右京亮相拘名職、自然彼者雖属味方、為本地之条、令散田一円可収務之、横根・大脇之事、是又数年令知行之上者、領掌不可有相違、弥可抽奉公者也、仍如件。天文十九、十二月朔日。治部大輔(花押)丹羽隼人佐殿」 
『今川義元判物・手鑑/豊明市史』

◆天文19年(1550年)12月2日
今川義元、奥平定勝が高橋筋で奔走していることを労う
就高橋筋之儀、早速至于岡崎着陣之由候、■気之時分、辛労無是非候、飯尾豊前守・二俣近江守有談合、馳走専要候所、注進可差遣之人数候、猶朝比奈備中守可申候、恐々謹言、
十二月二日
義元判
奥平監物丞殿
<静岡県史「今川義元書状写」(松平奥平家古文書写)>

◆天文19年(1550年)12月5日
今川義元、妙源寺(岡崎市大和町)・阿部与五左衛門に、中村城主(名古屋市南区呼続町)山口左馬助教継が忠誠を誓った事を喜ぶ。しかし、織田信秀の懇願により刈谷城(刈谷市城町)包囲を解く事を伝え、山口教継が不満の持つ事が無く講和に協力するよう説得命じる。
『歴史群像85』

◆天文19年(1550年)12月5日
妙源寺(岡崎市大和町)住職・阿部与五左衛門らの工作により、山口左馬助教継が今川方になったので、後詰を諦めた織田信秀は、刈谷城主(刈谷市城町)水野藤九郎守忠以下の赦免を条件に刈谷城を開城する。松井宗信、刈谷城開城時に尾張衆が防いだ為、直ちに馳せ入り度々の合戦で同心・親類・被ヒ官、随分の者数多く討死する。
『古城54』

◆天文19年(1550年)12月11日
太原崇孚、今川義元の諮問に答え、10条今川家諸宗礼式を定める。
信仰する宗門については、各自崇め敬う事随意。 
・公家への礼儀作法は管領家への作法と同じ様にするべき。 
・僧侶への白洲(玄関先)への送り迎カえについて。 
・諸宗へ乗物で参詣するにあたって。 
・増善寺(氏親菩提寺ジ)に対する礼儀について。(西谷貞林寺仙林慧慧椿で今川氏と俗縁『関東中心戦後史論集』) 
・得願寺に対して。 
・曹洞宗の紫衣クについて。 
・禅師号・上人号申し請けについて。 
・聖道家カ(天台・真言)について。 
・年始の御礼に来る僧の扱い。 
今川家当主の1月8日における神主・僧侶に対する年始の対面は、早朝、駿府浅間社新宮・惣社両神主・惣持院別当との対面ンから始める。
『大龍山臨済寺の歴史』

◆天文19年(1550年)12月15日
太原崇孚、牧野保成に、長沢両人が保成の知行を宛行なわれた件は不法であると連絡
(牧野保成が長沢領を召し上げられた抗議を受け善処を約す。同書状内で岡崎筋で奔走していることを労う)

御同名八大夫殿御越候、委細承候、仍山田源助御判形給、御知行之内より万疋可請取之由被申候哉、愚僧事、就善得寺造営、昨日迄河原ニ候へハ、今朝承驚入候、殊山源五六日以前河原へ被越候間、其時ハ以別事対談候、此訴訟之事、愚僧ニ一言も不被申出候、衣鉢三安云々、不存候間、不及押置候、如何様之申掠ニ候哉、御判形被出候、不審ニ候、朝丹無疎意候、諸老も別儀不被存候、涯分可被申立候、定依申掠一端被仰出候哉、於御心中有御疎略間敷候、尚口上申候、恐々謹言、
   就高橋雑説、自最前岡崎筋御馳走、御陣労察存候、
十二月十五日
林際寺 崇字 判
牧野出羽守殿 御返報
<静岡県史 資料編7「太原崇孚書状写」(松平奥平家古文書写)>
〔同姓八大夫殿がお越しになり、詳しく承りました。山田源助が御判形を受け、あなたの知行から1万疋を受け取ったとのことを申されたのでしょうか。愚僧は善徳寺の造営で昨日まで河原におりましたので、今朝聞いて驚いています。特に山田源助は5~6日前に河原へ来ていて、その時は別の件を話していました。この訴訟のこと、愚僧には一言も言いませんでした。衣鉢三安うんぬんと。存じなかったので、確保には及びませんでした。どのような不正訴状でしょうか。御判形が出されたとのこと、不審です。朝比奈親徳に疎意はありません。諸家老も異義はありません。可能な限り起訴すべきでしょう。恐らく不正訴状によって一旦仰せ出されたものでしょうか。最前より岡崎方面で奔走され、ご陣労察しております。〕

◆天文19年(1550年)12月23日
織田信長、笠寺の権益を保証する

笠寺別当職備後守任判形之旨、御知行分参銭・開帳、寺山、寺中御計之上者、雖誰々申掠候、不可有相違者也、仍如件、
天文拾九
十二月廿三日
信長(花押)
座主
 床下
<織田信長文書の研究(上) 「織田信長判物」(尾張密蔵院文書)>

◆天文21年(1552年)4月17日
赤塚の戦い 鳴海城主の山口教継の寝返り
「天文廿一年(1552)四月十七日、織田上総介信長十九歳、…御敵山口九郎二郎廿の年、三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、なるみより十五、六町あり。九郎二郎人数千五百計りにて、赤塚へかけ出で候」
『信長公記』

◆天文19年(1550年)12月
尾張知多郡に出陣した今川義元5万騎帰陣。
『新説桶狭間合戦』

◆天文20年(1551年)2月10日
近衛稙家稙、足利義輝の意をウけ、織田信秀との和睦について今川方に対処を求める。
『愛知県史資料編⑩』

◆天文20年(1551年)5月
水野清近(信近)、尾張国祐福寺に禁制を発す


  祐福寺并寮舎
一濫妨狼籍并伐竹木、不可陳取之事
一兵粮米・津銭并諸課役、不可申懸之事
一不謂敵味方、越物已下不可改之事
一俵物等出入、不可相留之事
一寺中引得之田地等、不可有違乱之事
右条々、於末代不可有相違、若当年面々於令違犯者、可処厳科者也、仍而如件、
天文廿 辛亥 五月日
水野藤九郎
清近(花押影)
<愛知県史 資料編10「水野清近禁制写」(祐福寺文書)>

◆天文20年(1551年)6月28日
足利義輝、織田信秀との和睦継続を今川家中に求めるよう近衛稙家を起用

於参州織田備後守間之事、重不及鉾楯弥属無事、都鄙儀令馳走者可喜入之段、対今川治部大輔遺内書候、無相違様被仰下者可為喜悦候、此等趣、可加意見之旨、彼年寄中被加芳言者可然候、猶聖護院殿可有演説候、恐惶謹言、
六月廿八日
義藤 御判
<愛知県史 資料編10「将軍足利義藤御内書写」(御内書要文)>

◆天文20年(1551年)7月4日
今川義元、匂坂長能に長沢城駐屯を命じる

参河国奥郡野田郷一円代官職之事、散田共ニ、
一就長沢在城、惣員数之内弐百五十貫文、為給恩可引取之事
 付、此内五十貫文与五右衛門尉ニ宛行之、
一為不入申付上者、諸課役并吉田之原普請人足等停止之、長沢之城中普請無油断可申付、彼地百姓等并他被官以下、対代官於存譴意者、遂糾明理非落着之上可令改易之事
一親類・同心等構述懐就付他者、如法度給分等召放、別人江長能可申付之事
右、三州吉田以来田原本意之上迄、異于他励粉骨之条、忠功之至也、然上長沢在城所申付也、根小屋・あき屋敷等長能被官等可置之、并竹木諸普請之具人足等、如前々長沢郷中■可申付、但彼城就上表者、野田代官職共可令上表也、弥可抽奉公之状如件、
天文二十年
七月四日
治部大輔判
匂坂六右衛門尉殿
<静岡県史「今川義元判物写」>

◆天文20年(1551年)7月5日
近衛稙家、今川義元・太原崇孚・朝比奈泰能・飯尾乗連に尾張国との和睦継続を依頼する

久閣筆候、疎遠之至■、仍就土岐美濃守入国之儀、尾州織田備後守令相談■由候、然者彼国境目等不及再■、弥無事之段、可喜思食■、武家御内書如此候、依■有見除子細、被仰候、■佐々木弾正少弼使僧可申伝候也、状如件、
七月五日
今川治部大輔■
<愛知県史 資料編10「近衛種家書状案」(近衛文書)>

◆天文20年(1551年)8月2日
今川義元、松平三蔵の所領を安堵

去己酉年山口内蔵令同意、依可抽忠節造意現形、於尾州数ヶ所知行捨置馳来、其以来無足奉公、甚以忠節之至也、既安城陣之刻、以阿部大蔵、兄三左衛門尉跡職之内百貫文地、雖可出置之由申、一円彼跡職之知行可請取之由令遅延云云、然者、任安城陣之刻約束之旨、佐々木郷内伊奈分・又太郎分・東浦分・中切分参ヶ壱但除松平彦九郎相拘之分、藤野柳原、百貫文之分所宛行之也、縦雖有及異儀輩、不能許容、可知行之、弥可励忠節之状如件、
天文弐拾年
八月二日
治部大輔(花押)
松平三蔵殿
<静岡県史「今川義元判物」>

◆天文20年(1551年)11月5日
織田寛近、織田信秀の代わりに土岐小次郎に進退保障を行なう

美濃守殿御儀、不慮之仕合、無是非儀ニ候、御身上之儀、相違有間敷候由、道三申候、委細可被任稲葉伊予守差図者也、備後守病中故、我等方より如此ニ候、恐惶謹言、
十一月五日
織田與十郎 寛近(花押影)
土岐小次郎殿
<岐阜県史「織田寛近書状写」(村山文書)>

◆天文20年(1551年)12月2日
今川氏家臣、松平甚太郎に甚二郎領地の継承を安堵する

甚二郎殿別儀付而、具承候、 御屋形様并竹千代丸江忠節之事候間、甚二郎殿あとしき、無相違渡可申候、本知あいはの事ハ、只今東条殿へ被進候間、いまハなりかたく候、おつての儀たるへく候、将又うり地の事、甚二郎別儀の上ハ新地ニ成候事候間、無別儀申調可進候、如此上者、松井・山内両人ニ可任置候、委細酒井小五郎ニ申候間、諸事彼意見可被聞候、
 右、此条ゝ申合候儀、三人偽候ニ付而者、
日本国中大小神祇、別而者八幡大〓(艸+廾)・富士浅間大〓(艸+廾)・白山妙理大権現・天満自在天神御罰可罷蒙者也、仍如件、
天文廿年
十二月二日
飯豊 乗連(花押)
二近 持長(花押)
山新 景隆(花押)
松平甚太郎殿
  参
<新編岡崎市史「岡崎城代山田景隆等連署血判起請文」(観泉寺所蔵文書)>

◆天文20年(1551年)12月2日
今川義元、大村弥三郎が天文18年の吉良攻めで功績を挙げたことを賞す

去酉年九月廿日、三河内吉良江取懸遂一戦敵追入、於端城随分之者討捕之旨、甚以神妙之至也、弥可抽忠功之状如件、
天文廿年
十二月二日
義元
大村弥三郎殿
<静岡県史「今川義元感状写」>
◆天文20年(1551年)12月5日
今川義元、妙源寺(岡崎市大和町)住持・阿部与五左衛門に、織田信秀との和睦条件(織田信秀が懇望するので刈谷水野氏領を今川領国に編入せず存続を認め、今川に属した国境一帯の者に対し報復するなという要求)を示し交渉窓口の山口左馬助教継を説得するよう指示する。
『愛知県史研究⑮』

◆天文20年(1551年)12月
伊勢外宮禰宜等、前回の正遷宮が内宮であったことや、先例から言えば外宮が先であることを、朝廷・幕府に主張する。
『国史学160』

◆天文21年(1552年)3月9日
織田信秀が没し、今川義元が八事に出兵する

壬子 廿一 三月九日ニ織田備後殿死去、九月駿州義元八事マテ出陣、
<愛知県史 資料編10「定光寺年代記」(定光寺文書)>

◆天文21年(1552年)6月3日
今川義元、松平甚太郎部下の大給城での功績を褒める
去月廿六日、於大給城北沢水手、被官石原藤二郎・蜂谷又一郎・加納甚三・松平彦一・小者藤若、敵三人討捕之云々、誠以神妙之至也、弥可励忠節者也、仍如件、
天文廿一年
六月三日
義元(花押)
松平甚太郎殿
<静岡県史「今川義元感状」>
大給城:愛知県豊田市大内町にあった山城

◆天文21年(1552年)8月25日
今川義元、岡部元信が小豆坂で活躍したことを賞す

先年参州小豆坂合戦之刻、味方及難儀之処、自半途取返、入馬敵突崩得勝利、甚以感悦也、此時之出立、筋馬鎧并猪立物也、因茲敵令褒美、於向後分国之武士、彼出立所令停止、若至于違乱之輩者、可加下知者也、仍如件、
天文廿一年
八月廿五日
治部大輔(花押)
岡部五郎兵衛尉殿
<静岡県史「今川義元感状」>

◆弘治元年(1555年)2月5日
山口父子は義元に誅殺
「弘治元~三年の間に、山口親子が滅ぼされ、今川氏の派遣した城代岡部五郎兵衛が置かれて、鳴海城近辺は今川氏の直接支配下に入った」
弘治元年(1555)二月五日付判物と弘治三年十二月三日付の朱印状
『新修名古屋市史』

◆弘治2年(1556年)3月20日~弘治3年(1557年)12月3日
山口父子が誅殺
「去年弘治三年の春より、尾州の侍皆駿河へ心を寄、御手を引申候故、智多郡は過半駿河へ陣参す、依之中村城・鳴海城・科野城皆駿河へ籠る、又信長の弟織田武蔵守(信勝)も義元と内通し、兄の信長をたをし、其跡を知行せんとの儀也」
『松平記』

◆弘治2年(1556年)3月20日
水野右衛門大夫殿御子、水野和泉守殿 一貫文施入
「寛政十二年(1800)四月/現住等玄記/・・・弘治二年(1556)三月廿日 法名 春江全芳禅定門/水野右衛門大夫殿御子、水野和泉守殿一貫文施入・・・」
乾坤院文書『水野氏法名一覧』
〔乾坤院(けんこんいん)、愛知県知多郡東浦町にある曹洞宗の寺院〕

◆弘治3年(1557年) 12月3日
岡部元信、笠寺在城衆全員が笠寺砦を支えきれずに鳴海城へ撤退
「鳴海東宮大明神並八幡神田之事。右、拾貫参百文、下分壱貫四百文、あいはらのやふ下弐百五十文・禰宜屋敷壱間以上拾壱貫九百五十文云々、去年散田入落之残員数分弐貫八百文、依顕印判令難渋云々、只今惣高辻■之分共拾壱貫九百五十文之由申条、依為神慮、任前々之旨、永領掌了、然者神事祭礼等無怠慢可勤之、近年押領之禰宜雖令難渋、不可許容、在城衆存此旨堅可申付者也、仍如件。弘治参年十二月三日。禰宜二郎左衛門尉」
弘治三年、義元朱印状

◆永禄元年(1559年)2月28日
駿河勢が笠寺から撤退
「去晦之状令披見候。廿八日之夜、織弾人数令夜込候処ニ早々被追払、首少々討取候由、神妙候。猶々堅固ニ可被相守也。謹言.永禄元年三月三日、義元(花押)浅井小四郎・飯尾豊前守・三浦左馬助・葛山播磨守殿、笠寺城中」信秀はすでに死に、この頃の信長が弾正忠を名乗った形跡はない。但し、『松平記』には「永禄元年三月、(中略)笠寺に葛山備中守・三浦左馬之助・飯尾豊前寺・浅井小四郎四百余人にて籠る」
永禄元年二月廿八日付、笠寺城中衆宛義元書状

◆永禄3年(1560年)4月12日
水野十郎左衛門尉に書状:永禄三年四月十二日、今川義元から刈谷の水野氏に下記の書状が来ている。(東京大学史料編纂所)
「夏中可令進発候条(私は夏に兵を進めますから)其以前尾州境取手之儀申付(その前に尾張の国境に砦を作る役割のことを申しつけるによって)人数遣候(人数を差し出して下さい)然者其表之事、弥馳走可為祝着候、尚朝比奈備中守可申候、恐々謹言(いよいよ奮闘努力をしてください。なおこのことは大高の朝比奈備中守に連絡しておきます 敬具)
「四月十二日 義元 水野十郎左衛門尉殿」

◆永禄3年(1560年)5月
「鳴海城堅固に持詰段、甚以粉骨至也、・・・ 剰[あまつさえ]苅屋城以 籌策[ちゅうさく](はかりごと)、城主水野籐九郎其外随分者、数多打捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也 ・・・」(東京大学史料編纂所)
敗戦後、岡部元信は駿府への帰路わざわざ遠回りして刈谷城を襲撃放火、城主水野の首を討ち取っている。岡部元信の胸中には、首尾一貫せぬ水野の姿勢に、武士の風上におけぬ奴と云う強い怒りがあって、これを誅したものであろう。そのことは氏真が岡部に与えた感状の中にも表れている。城主水野外多数を討ち、城に放火して全焼させたのは、他に類を見ない苦労であり功績であると氏真が岡部を讃えているのは、水野氏の不信行為に対する怨念が汲みとれる一幕である。

◆今川氏真、岡部五郎兵衛尉の鳴海城守備を讃え没収した知行の回復を保障する
駿・遠両国内知行勝間田并桐山・内田・北矢部内被官給恩分等事
右、今度於尾州一戦之砌、大高・沓掛両城雖相捨、鳴海堅固爾持詰段、甚以粉骨至也、雖然依無通用、得下知、城中人数無相違引取之条、忠功無比類、剰苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内悉放火、粉骨所不準于他也、彼本知行有子細、数年雖令没収、為褒美所令還付、永不可相違、然者如前々可令所務、守此旨、弥可抽奉公状如件
永禄三 庚申 年
六月八日
氏真(花押)
岡部五郎兵衛尉殿
『豊明市史「今川氏真判物」(岡部文書)』
“「駿河・遠江国内の知行、勝間田並びに桐山・内田・北矢部のうちの被官控除分のこと」右の所領は、今度の尾張での一戦で、大高と沓掛が捨てられたのに対して、鳴海を堅固に守備し、大変な働きした。とはいいながら作戦上どうしようもなく、結局私の指示があって撤退となったが、城中の人間を全員間違いなく撤収させている。忠節は比べるものもない。その上、刈谷城で計略を働かし、城主水野藤九郎その他たくさんの人間を討ち取り城内全てを焼き払った。この働きは他と比べられるものではない。あの本領は事情があってここ数年没収となっていたが、褒美として相違なく返還する。前々からの領地を守り、いよいよ勤務に励むように。”

◆永禄3年(1560年)12月2日
「父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事。・・・一、苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事。・・・右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、遠州蒲東方同名内膳亮、令扶助参拾貫文、其外相定引物之、参百拾八貫文余蔵入分、令扶助訖、此外於増分出来者、令所務随其可勤相当之役、・・・永禄三庚申年十二月二日」
『土佐国蠧簡集残編三・今川氏真判物写』
父左衛門佐宗信及度々抽軍忠之事
一 東取合之刻、於当国興国寺口今沢、自身砕手、親類・与力・被官数多討死、無比類動之事
一 参州入国以来、於田原城際、味方雖令敗軍相支、敵城内江押籠、随分之者四人討捕之事
一 松平蔵人・織田備後令同意、大平・作岡・和田彼三城就取立之、医王山堅固爾相拘、其以後於小豆坂、駿・遠・三人数及一戦相退之故、敵慕之処、宗信数度相返条、無比類之事
一 苅屋入城之砌、尾州衆出張、雖覆通路取切之処、直馳入、其以後度々及一戦、同心・親類・被官随分之者、数多討死粉骨之事
一 吉良於西条、味方令敗軍之刻、宗信相返敵追籠、依其防戦、同心両人・益田兄弟四人、遂討死之事
一 大給筋動之時、天野安芸・同小四郎其外手負大切処、宗信相支、無相違引取之旨、無比類之事
一 去五月十九日、天沢寺殿尾州於鳴海一戦、味方失勝利処、父宗信敵及度々追払、数十人手負仕出、雖相与之不叶、同心・親類・被官数人、宗信一所爾討死、誠後代之亀鏡、無比類之事
右、度々忠節感閲也、然間、苅屋在城以後弐万疋、近年万疋、彼三万疋、以蔵入雖出置之、依今度忠節、為彼三万疋之改替、遠州蒲東方同名内膳亮、令扶助参拾貫文、其外相定引物之、参百拾八貫文余蔵入分、令扶助訖、此外於増分出来者、令所務随其可勤相当之役、殊於彼地先祖古山城討死之由申之間、彼地之事於子孫不可有相違、然者内膳公文等問答之未進事、可為左右方間、於向後此未進分一切不可有其綺、并長田・鶴見弐ケ村事、依訴訟今度相改、可令代官、但高辻弐百五貫文之外参拾貫者、如先代官時、為定納之余分令扶助、何茂知行分為不入上者、彼地事可為同前、弥守此旨、可専戦功之状如件
   永禄三庚申年 
      十二月二日
                         氏真(花押)
                  松井八郎殿」

◆永禄3年(1560年)12月20日
今川氏真、岡部真尭に一字を授与
一字  真尭
永禄三 庚申年十二月廿日
氏真判
岡部小次郎殿
<静岡県史 資料編7「今川氏真一字状写」(土佐国蠧簡集残編残編三)>

◆元亀3年(1572)大御堂寺文書
「野間大御堂寺従前代雖為守護不入、猶以御理之儀候条、一円令免許上者、諸役等寺中之竹木夫以下此外於向後も申事有間敷者也仍状如件
元亀三年 壬申 十月十八日
水野十郎左衛門尉
柿並
寺中参
是後ノ十郎左衛門也
元藤四郎元茂ト云 」

(書き下し文)

「野間大御堂寺、前代より守護不入たりといえども、猶もって御理之儀候之条、一円免許せしむる上は、諸役等寺中の竹、木、夫丸以下、このほか、猶向後も申す事あるまじきもの也。よって状くだんの如し。
元亀三年 壬申 十月十八日
水野十郎左衛門尉
柿並 寺中参
これ 後の十郎左衛門也 
元藤四郎元茂という」

『東浦町誌』

〔蓮如の時代〕
応永22年(1415)京都東山の本願寺で生まれる。
長禄元年(1457)本願寺の留守職を相続。
寛正6年(1465)延暦寺、大谷本願寺を破却。隠居を強いられる。
応仁3年(1469)大津南別所に顕証寺を建立、長男・順如を住持として祖像を同寺に置く。
文明3年(1471)吉崎御坊を建立。
文明6年(1474)加賀国富樫氏の内紛に介入。
文明7年(1475)吉崎を退去。
文明15年(1483)山科本願寺の落成。
文明18年(1486)紀伊に下向。のちの鷺森別院の基礎ができる。
長享2年(1488)加賀の一向一揆。
延徳元年(1489)寺務を子の実如にゆずり、山科南殿に隠居。
明応5年(1496)大坂石山の地に石山御坊を建立。後の石山本願寺。
明応8年(1499)山科にて入滅。

◆松平親忠が建立した大樹寺

貴人は自らの官職をそのままで呼ばずに、中国の朝廷での官職になぞらえて呼ぶことが流行っていました。例えば、『右京太夫』を『京兆』、『中納言』を『黄門』、『内大臣』を『内府』等、等。これを唐名といいます。その伝で言えば、唐名『大樹』に相当する日本の官職は『将軍』にあたります。
松平親忠の『親』の字は伊勢貞親の偏諱とされており、主持ちでした。その彼が『大樹』が『将軍』の唐名であることを知らないとは思えません。
親忠には兄が二人おり、後にそれぞれ岩津と大給を与えられております。つまり親忠は分家筋です。親忠が立てる以前にもともと大寿寺という草庵があったという説もあります。でも、これをわざわざ『将軍』寺という寺号にしてしまうことに、憚りがないとは思えないのが正直な所です。

永享十年(1438年)松平親忠生誕
寛正六年(1465年)額田郡一揆。
応仁元年(1467年)8月、応仁の井田野合戦。
応仁二年(1468年)知恩院、戦火で被災。第二十二世周誉珠琳、近江国伊香立に避難。
文明三年(1471年)松平信光、安祥を奪取。
文明七年(1475年)井田野に怪異発生。松平親忠、念仏堂を建てる。後、勢誉と大樹寺を創建。
文明十一年(1479年)信光明寺、勅願所となる。
文明十三年(1481年)妙心寺、勅願所となる。超誉、信光明寺で得度する。
長享ニ年(1488年)松平信光没。
明応二年(1493年)10月、明応の井田野合戦。
文亀元年(1501年)松平親忠没
永正元年(1503年)勢誉、知恩院第二十三世住持になる。
永正三年(1506年) 伊勢宗瑞、三河侵攻(~1510年 永正三河乱)
永正八年(1511年)信光明寺の肇誉、知恩院に転昇。超誉、信光明寺の住持になる。
永正十八年(1521年)超誉、知恩院二十五世の住持になる。
大永三年(1523年)浄土宗総本山論争。知恩院と知恩寺で決着はつかず。
大永七年(1526年)超誉、後柏原天皇崩御の折に臨終の善知識を勤める。
大永七年(1527年)超誉、知恩院を辞山。信光明寺の住持に復帰。
天文十四年(1545年)超誉、高月院に隠棲。
1549年(天文十四年)超誉、逝去。

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