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1、1538年 尾張国かみ下わかちの事

歴史館にようこそ!

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『信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ 

尾張国かみ下わかちの事
さる程に、尾張国は八郡なり。上の郡四郡、織田伊勢守諸侍手に付け、進退して、岩倉と云ふ処に居城なり。半国下の郡四郡、織田大和守が下知に随へ、上下、川を隔て、清洲の城に武衛様を置き申し、大和守も城中に侯て、守り立て申すなり。大和守内に三奉行これあり。織田因幡守、織田藤左衛門、織田弾正忠、此の三人、奉行人なり。弾正忠と申すは、尾張国端勝幡と云ふ所に居城なり。西巌、月巌、今の備後守舎弟与二郎殿、孫三郎殿、四郎二郎殿、右衛門尉とてこれあり。代々、武篇の家なり。
備後殿は、取り分け器用の仁にて、諸家中の能き者と御知音なされ、御手に付けられ、或る時、備後守が国中、那古野へこさせられ、丈夫に御要害仰せ付けられ、嫡男織田吉法師殿に、一おとた、林新五郎。二長、平手中務丞。三長、青山与三右衛門。四長、内藤勝介。是れらを相添へ、御台所賄の事平手中務。御不弁限りなく、天王坊と申す寺ヘ御登山なされ、那古野の城を吉法師殿へ御譲り侯て、熱田の並び古渡と云ふ所に新城を拵へ、備後守御居城なり。御台所賄山田弥右衛門なり。

<現代訳>
いつの頃か尾張国に八つの郡があり、上方の四郡を丹羽、羽栗、中島、春日井があり、下方の四郡を海東、海西、愛知、知多がありました。上四郡を織田伊勢守が岩倉城を拠点に領し。五条川を隔てて下四郡を織田大和守が守護代として、清州城にて武衛様を守り奉っていました。(武衛様とは尾張守護、斯波義統様です。)
大和守の配下に三人の奉行がおり、織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠と申します。
この三人を奉行人と申します。弾正忠と申すは尾張国の端にある勝幡を居城としておりました。家臣には、西巌、月巌、嫡男織田信秀(備後守)殿、次男織田信康(与二郎)殿、三男織田信光(孫三郎)殿、四男織田信実(四郎二郎)殿、五男織田信次(右衛門尉)殿などがおりました。代々武門の家柄でした。
織田信秀殿は取分け器量な御仁で、諸家中の有能な者と御昵懇にされて、味方に引き入れていった。
在るとき(天文七年(1538年))、織田信秀殿は尾張国の中ほどにある那古野に丈夫な城を作るよう命じられ、そこに居城を移されました。
織田信秀の嫡男である吉法師殿に、一おとな林新五郎秀貞、二長平手中務丞政秀、三長青山与三右衛門信昌、四長内藤勝介のおとな衆を任命されました。これらは吉法師殿の養育の担当で、御台所賄の平手政秀は手を焼くばかりでした。そして、天王坊と申す寺へ吉法師殿をご修学に出された。
天文八年(1539年)、織田信秀殿、那古野の城は吉法師殿へ御譲りになり、那古野と熱田の間にある古渡という所に新城を作り、御居城なさいました。御台所賄い人は山田弥右衛門なり。

■尾張国かみ下わかちの事
永正12年(1515年)8月、斯波氏(武衛家)13代当主斯波義達(しば よしたつ)は、遠江奪還の為に兵を率いて、再度今川軍と戦って敗れた。自身も捕虜となり、剃髪を強いられ尾張に送り返される恥辱を受けた義達は、尾張における覇権を失ってしまいます。
遠江派兵に当たり、抵抗した尾張守護代の大和守家織田達定の弟である織田達勝(おだ みちかつ)が義達を隠居させ、斯波義統(しば よしむね)を斯波氏(武衛家)14代当主に擁立し、義統を傀儡としました。
尾張の国は、
上四郡:丹羽、羽栗、中島、春日井
下四郡:海東、海西、愛知、知多

01
(谷口克広「戦争の日本史13 信長の天下布武への道」吉川弘文庫 2006年より)
に分かれており、大和守家は下四郡を支配していた。残る上四郡は、伊勢守家が支配していた。
大和守家織田達勝は清洲城を居城し、伊勢守家織田広高は岩倉城を拠点としており、伊勢守家は岩倉城を拠点としておりました。
〔伊勢守織田家と大和守織田家の家督〕
・伊勢守織田家:織田常松-織田郷広-伊勢守織田敏広-織田寛広(弟広近の子)- 織田広高(敏広の子)-織田信安(大和守家出身、敏信の子)
・大和守織田家:織田常竹-織田久長-織田敏定-織田寛定-織田寛村-織田達定-織田達勝(寛定の子)-織田信友(因幡守家織田達広の子)
明応5年(1496年)、伊勢守織田寛広の代で美濃斎藤氏の後ろ盾を失った為に衰退し、永正12年頃は勢力が盛んであった大和守家の織田信安が守護代として伊勢守家を継ぎます。
さて、大和守家織田達勝を支える中に三奉行人がおりました。
・織田因幡守[清洲城?]:織田達広?-織田広信(信友?)
・織田藤左衛門[小田井城]:織田常寛-織田寛故-織田寛維
・織田弾正忠[勝幡城]:織田良信(西巌)?-織田信定(月巌)-織田信秀(桃巌)
弾正忠家は大和守家の奉行人を務め、勝幡城を拠点に津島などを傘下に収めていました。津島などから上がる租税は弾正忠家を大いに潤した。拠点を那古野に移した弾正忠家は熱田も傘下に収めた。石高も豊かな尾張は、三河国・遠江国・駿河国に比べると倍近い石高を有しており、弾正忠家の財政は非常に豊かであったことが伺えます。(支配地域は尾張の四分の一程度であったので石高は13万石程度で、津島・熱田の租税が20万石並み以上と推測されます。)
大名並みの財力があったことは伊勢や朝廷の献上額から見ても判ります。
天文10年(1541年)伊勢神宮遷宮、材木や銭七百貫文を献上。
天文12年(1543年)朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上。
永禄3年(1560年)に毛利元就が正親町天皇の即位の際に2000貫文を寄進しており、その額と比べても大名並みの経済力があったことが伺えます。
<慶長三年時石高>
山城国 22万石
美濃国 54万石
尾張国  57万石
三河国  29万石
遠江国  25万石
駿河国  15万石
(三河国・遠江国・駿河国の合計  69万石)

織田氏は、明徳四年(1393)六月十七日付で劔神社宝前に奉納した藤原信昌・兵庫助将広父子置文に織田家の先祖に関するものがあり、織田庄は皇室領荘園であることから、その荘官か、あるいは劔神社の神官から出発したと思われる。そして、しだいに土豪として成長した。神官出身とすれば、本姓は忌部氏であったと思われます。
織田氏は各種系図によれば、平重盛の子・親実に始まる桓武平氏を名乗っておりますが、信長自身も初期のころは藤原氏で通しております。
応永七年(1400)、室町幕府管領家で越前守護斯波義教(義重)が尾張の守護を兼ね、兵庫助将広の子、織田伊勢入道常松が尾張守護代に抜擢され、また、常松は義教の補佐の為に在京することが多く、尾張の在地支配の為に、弟の織田出雲守入道常竹が又守護代として送られ、尾張織田氏が始まります。
織田常松の子、織田郷広が寺社領・本所領を横領して逐電したため、翌嘉吉2年(1442年)頃に織田敏広(おだ としひろ)が尾張守護代となったとされており、ここに伊勢守織田家(岩倉織田氏)が始まります。
一方、又守護代織田常竹の子、織田久長(おだ ひさなが)が、嘉吉3年(1443年)妙興寺に禁制を出しており、そこに「織田大和守」を名乗っておりました。その子、織田敏定(おだ としさだ)は尾張守護斯波義敏と共に東軍に属し守護代の職を得ることになります。
岩倉織田氏の守護代織田敏広が西軍に属した斯波義廉を擁立していた為に、大和守家織田敏定と対立することになる。弾正忠家の初代織田良信(おだ すけのぶ)の父は、この大和守家織田敏定です。
織田達勝が大和守家当主のおり、織田信秀は奉行人として仕えておりました。
・清洲織田氏(大和守家):織田常竹-織田久長-織田敏定-織田寛定-織田寛村-織田達定-織田達勝
・弾正忠家:(大和守家:織田敏定)-織田良信(西巌)--織田信定(月巌)-織田信秀

弾正忠家は代々武家の家柄で主家の大和守家、敏定から数えて2代目、織田信長の祖父にあたる織田信定は、津島の館を作り津島を支配化に置き、後の勝幡に居城を移しています。
織田信定の子供は、嫡男織田信秀(備後守)、次男織田信康(与二郎)、三男織田信光(孫三郎)、四男織田信実(四郎二郎)、五男織田信次(右衛門尉)がいます。
織田信秀はその中でも才能豊かな武人であり、家督を譲られると林新五郎秀貞や平手 政秀など多くの有能な家臣を味方に引き入れていきました。
天文七年(1538年)、今川氏豊の居城である那古屋城を落し、那古屋城を丈夫な城に改修するとそこを居城とします。
織田信秀の嫡男には吉法師、後の信長が生まれ、お目付け役に林秀貞、平手政秀、青山信昌、内藤勝介が選ばれます。その中でも教育係は平手政秀でありましたが、吉法師は好奇心旺盛な手の掛かる子供であり、祖父信定の影響を請けたのか、津島の者どもと揺れ合って商才に長けた子供であったようです。余り手が掛かるので天王坊と呼ばれた寺、亀尾天王社(那古屋神社)に預けられ修学させました。元々、神官筋の織田家は神官も兼ねておりましたから、吉法師は神官として修練されられました。
天文八年(1539年)、織田信秀は那古野の城を吉法師に譲り、古渡に新しい城を作り移ります。古渡城の御台所賄、つまり勘定方は山田弥右衛門でありました。
山田弥右衛門のいたと思われる山田荘は、尾張国山田郡は尾張の東部に位置します。この山田荘は天平勝宝4年(752年)東大寺大仏開眼供養のおり、天皇から寄進されたもので、東大寺領は郡名を荘号に使ったと言われます。
承久の乱に活躍した山田次郎重忠が治承3年 (1179年)、母のために霊鷲山の長母寺を創建し、はじめは亀鏡山桃尾寺と称す天台宗の寺でありましたが、臨済宗東福寺派に改め、北条時頼から寺領三百五十石を賜り、霊鷲山長母寺と称するようになる由緒正しいお寺であります。
東大寺領山田荘は、延暦4年(773年)で6町歩の広さでありましたが、天暦4年(950年)には36町歩に拡大していたと言われます。初期荘園であったようで、山田荘は東大寺と皇室領でありました。
永享3年(1431年)7月12日の尾張守護代宛ての書状は、尾張山田荘を一万部御経料所として指定しております。尾張守護代の織田氏が代官として室町幕府より任命されていたようで、織田信秀がそれを執り行っていたと考えられます。
尾張東部に進出した織田信秀は、由緒正しい山田荘の山田弥右衛門を家臣に加え、支配をより強固なものとしたようであります。
この山田弥右衛門は「二百貫の所領」を頂いたかもしれません。

■織田信秀登場の舞台裏
大和守織田家が尾張守護代として尾張を統治しておりましたが、斯波義寛が亡くなると斯波氏(武衛家)13代当主斯波義達が後を継がれて尾張守護になります。斯波義達は遠江遠征に反対していた織田達定を自害に追い込んで出兵されます。
永正12年(1515年)8月、斯波義達の遠江遠征における背景は、『信長公記の軌跡背景(4)今川家<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>』を参照下さい。
織田信秀は永正7年(1510年)に誕生し、当時、満6歳。
今川義元は永正16年(1519年)生まれですので誕生しておりません。
永正5年(1508年)7月に将軍足利義稙を擁立した大内義興と細川高国の幕政体勢が整い、今川氏親の遠江守護に任じられますが、それ以降の今川の西征は行われません。逆に永正六~七年(1509~1510年)に西条吉良の代官•大河内貞綱が三河勢を連れて遠江に逆侵攻しております。また、永正7年(1510年)から永正9年(1512年) に掛けて、守護斯波義達が遠江奪還へ出馬しております。そして、永正12年(1515年)8月に再び遠江に遠征を行って敗れ、斯波氏の威光を失います。
永正12年(1515年)8月に斯波義達が破れ斯波氏の威光が落ちると守護代織田達勝が台頭しました。織田達勝は敵対していた今川家と和睦を結んで親今川に転向したと思われます。大永年間(1521年 - 1528年)に見返りとして、愛知郡の今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築くことを許しました。那古野城には今川氏親の末子、今川氏豊が那古野氏の養子として入り城主となっております。
守護代織田達勝と今川氏親が戦った記録はなく、また、那古野氏とも争った記録も見受けられません。さらに、信長の時代では織田達勝の後を継いだ織田信友の部下に那古野弥五郎なる者を召し抱えております。那古野城を信秀に奪われたのちに、達勝を頼って清洲に逃げたと考える方が妥当でしょう。
つまり、織田達勝は今川氏豊を傘下に治めることで、今川氏親との和議を整えたと考えたのです。もしも今川氏親が尾張の守護に任じられれば、尾張の守護代としてもらう密約があったやもしれません。
一方、三河では、今川三河侵攻(永正5年(1508年))に活躍した松平長親は、家督を嫡男の松平信忠に譲り、宗家の岩津城に入ったと思われます。
実際のところ『柳営秘鑑』、『徳川実紀』、『三河物語』を見比べても不可解なことばかりです。松平長親-松平信忠-松平清康と3代の家督の譲り方が不自然で致し方ありません。
永正8年(1511年)、今川氏親は京都へ献馬する為に信濃への塩の道から飯田街道沿いを取っていることから、今川家と松平家の抗争は続いていたと推測されます。つまり、松平包囲網は健在であった訳です。
松平信忠は大久保忠教の『三河物語』で不器用者と罵られているが、岩津城の松平宗家が壊滅的打撃を受け、今川を中心とした反松平連合で囲まれている状態では、防戦一方になるのは致し方ないことです。さらに家督を継いだ松平信忠は、わずか11歳の子供でした。実権が誰にあったかは明白です。
さらに、今川三河侵攻(永正5年(1508年))のおりでも安祥城から出撃する松平長親の軍の中に石川を始めとする一向宗門徒の武将名がありません。永正3年11月15日付「桑子妙源寺宛今川氏親制札」に見られるように、今川氏親は仏門徒と争う気がなかったようであり、一向宗門徒の武将は今川との徹底抗戦に反対していたようです。一向宗門徒を多く抱える桜井城の松平信定がその急先鋒だったのでしょう。
そして、大永三年(1523年)に一門等が協議の上で信忠の隠居と嫡男清康への家督譲渡の方針が決まりました。次男の信定を跡継ぎにすべきと松平党が二派に分裂したと伝えられております。松平一門は信忠(26歳)を押しこめます。そして、松平清康は今川との徹底抗戦を破棄し、守護代西条吉良義堯の代官に戻りました。
これらをコーディネトしたのは、本願寺九世法主実如の子、三河本宗寺、播磨本徳寺の住持であった実円であったと思われます。
実円の仲介で、守護細川成之、守護代吉良義堯、代官松平清康という構図が完成したと思われます。
ところで吉良家は、応仁の乱以降、東条家と西条家に別れて争っておりました。

<東条家>吉良義藤-持清-持広
<西条家>吉良義真-義信-義元-義堯

東条家の吉良持広は『大館記』によると永正6年(1509年)12月3日に上洛して将軍足利義材(義植)に年始の祝儀として太刀一腰を献上しております。西条家が足利義澄派から義材派に転向していることから、最初から義材派であり、今川氏と早い時期に共闘しておりました。
西条家の吉良義信は足利義澄が新将軍となった後も幕府出仕を続けておりました。明応7年(1498年)12月に至って病と称して出仕を止め、文亀年間(1501~1504年)では今川に敵対する大河内貞綱を更迭するなど、義材方に協力的な姿勢を示しておりました。永正5年(1508年)将軍足利義材(義植)が幕政に返り咲くと、吉良義信の覚えめでたく在京して暮らしておりました。
西条家吉良氏と今川氏は少なくとも敵対関係でなかったことが伺われます。つまり、吉良氏の被官になることは松平・今川の和議を意味します。
永正年間(1504~1520年)の今川勢侵攻後に行われた大河内貞綱らの遠江奪還戦を繰り広げておりましたが、これを阻止しなかったのは将軍足利義材、あるいは細川高国の思惑を汲み取ってことと伺えます。しかし、西条家吉良義信は今川氏親と敵対する気はなく、大河内貞綱の謀反という体裁を取っております。
西条家の吉良義信の被官となった松平清康は、大永6年(1526年)または大永4年(1524年)、山中城を攻撃して西郷信貞(注1)を屈服させて離反した一門を組み込むと、大永5年(1525年)には加茂郡を北上して足助城の鈴木重直(注2)を降し、享禄2年(1529年)には、東三河(注3)に入り、吉田城の牧野氏、続いて田原城の戸田氏を下し、設楽郡内の山家三方衆を屈服させ、西条吉良氏は三河のほぼ一国を平定しております。

注1:三河松平氏3代当主松平信光の五男、松平光重は明大寺の地にあった岡崎城を貰い受け、岡崎松平家と呼ばれたが、松平清康に岡崎城を奪われて、大草城に移った為に大草松平家とも呼ばれている。また、松平光重は西郷弾正左衛門頼嗣の娘と婚姻し、婿として岡崎城に入ったことから、松平光重の子、岡崎松平家2代目は西郷左馬允親貞、3代目は西郷弾正左衛門信貞(松平昌安)、大草城に下った4代目は、大草松平家左近将監貞光を名乗っている。
注2:三河国の猿投神社の南側に高橋荘という荘園があり、中条氏が貰い受けていたが、永享二年(1430年)に高橋荘三十六郷年貢高三万六千貫は、三河守護一色持信と東条吉良義尚に分与された。中条氏の被官衆のひとりとして鈴木氏は成長、豊田・加茂一帯を勢力圏とした国人衆と成長し、鈴木重勝は矢並を拠点として、市木から寺部へ、酒呑から足助、さらに小原へと高橋荘東方を中心に勢力を広げていった。そして、高橋荘の寺部に進出し、寺部城を築城した。三河守護一色の領地は守護細川に委譲されていた為に、守護領奪還の大義名分に使われ、足助城の鈴木重直討伐となったと思われる。
注3:東三河入りは西城吉良と東条吉良の対立から助力、あるいは先鋒として参戦する。西条吉良を支援する戸田氏と西条に味方する設楽郡内の山家三方衆を加えた三河の国を争った天王山と言える。この東征に勝利した西条吉良家は三河統一を完成させた。三河物語などでは、松平清康の三河統一となっているが、最大の好敵手である今川方は、当時、尾張にも領地を持っている。それが鈴木氏に援軍を送ってこない事と松平の拡大を放置する理由が示されてない。また、大永六年(1526年)8月に今川氏親没していると言えど、今川方の吉田城・田原城が襲われているのに出陣しないのは不自然であります。そして、最大の理由が西条吉良氏と戦っていないことであります。

≪松平清康の活躍と周辺事情≫
□大永三年(1523年)松平信忠、押しこめて隠居させ、松平氏と西条吉良氏の和睦し、松平氏は守護代吉良の被官になる。
・大永三年(1523年)松平清康、家督継承し、明大寺城の岡崎松平信貞を攻める。
・大永四年(1524年)松平清康、山中城を奪取、岡崎松平家の信貞を大草に追いやり、松平信貞の娘を妻に迎えて、明大寺城(旧岡崎城)を乗っ取る。
・大永五年(1525年)松平清康、足助城の鈴木重政を降伏させる。
・大永六年(1526年)3月 松平信定、守山に扶植する。
△大永六年(1526年)8月 今川氏親没。氏輝が家督相続する。
・大永八年(1528年)松平清康、岡崎で鷹狩中に叶田大蔵に襲撃される。
・享禄二年(1529年)松平清康、荒川氏の家臣・鷹部屋鉾之助の小島城を攻め、鉾之助は荒川城に逃亡する。
・享禄二年(1529年)松平清康、牧野氏の吉田城を攻める。
・享禄二年(1529年)松平清康、田原城を攻めて、戸田宗光は降伏して松平方に付く。
・享禄三年(1530年)松平清康、岡崎城を明大寺から対岸の竜頭山に移し、岡崎城に築いて居城とする。
□享禄三年(1530年)松平清康、尾張出兵し、岩崎郷(日進市岩崎)・品野郷(瀬戸市品野町)を奪う。?
・享禄三年(1530年)松平清康、遠江国境に近い熊谷備中守の宇利城(三河新城)を攻める。
△享禄四年(1531年)6月 本願寺法主証如、北陸三ヶ寺の討伐令。実円出陣。(大小一揆)
・享禄四年(1531年)11月 松平清康、三宅周防守清貞の伊保城攻め、三宅加賀守を広瀬城に逃走する。
△天文二年(1533年)3月 松平清康、三宅・鈴木連合軍を岩津で撃破する。
□天文二年(1533年)12月 松平清康、桜井信定の領内の品野勢と井田野で戦う?
△天文三年(1534年)4月4日下間蓮応(頼玄)書状、石山本願寺への上洛要請。
△天文四年(1535年)6月 松平清康、猿投神社を焼く。
△天文四年(1535年)11月 石山本願寺、細川晴元の軍門に降る。
□天文四年(1535年)12月 松平清康、守山に出陣して陣没する。

松平清康は足助城主の鈴木重直や東条城の吉良持広に姉妹を嫁がせ、於波留を離縁すると青木筑後守貞景の娘を継室として迎えて松平信忠は味方を増やしてゆきました。
『三河物語』では、三河統一の余勢から森山(森山)に進出し、謀反によって殺害されております
しかし、大永六年(1526年)頃に守護代織田達勝の赦しを得て、桜井松平の信定が尾張の守山(名古屋市守山区)と品濃(瀬戸市)両城に拠って尾張東部に勢力を扶植させています。
守護代織田達勝は那古野城、守山城、品濃城に今川、松平勢を入れることで和議を実現し、東方からの脅威を取り除く政策を行っておりました。
これを実現させる為に織田達勝は、本願寺に影響力のある実円を頼ったと思われます。
『天文日記』には、天文五年(1536年)正月七日と三月十一日の条に尾張国海部郡の浄土真宗本願寺系の有力寺社である興善寺の統制への協力を織田達勝が本願寺に依頼し、本願寺はこれに応えたという記録があります。織田達勝は本願寺と親しい関係であったか、帰依していたと考えるべきでしょう。
享禄5年・天文元年(1532年)天文法華一揆の際に織田達勝が本願寺方に付いたことからも伺えます。
享禄三年(1530年)の尾張出兵は何だったのでしょうか?
尤も考えられる可能性は、享禄四年(1531年)6月に実円出陣する為の地均しという可能性が高そうです。伊保(三河)、猿投(三河・尾張国境付近)、品野(春日井郡)、守山(春日井郡)は三河から尾張に抜けるルートに当たります。この尾張出陣は抵抗勢力の一掃が目的だったのではないでしょうか。
ならば、天文四年(1535年)12月の森山出陣は、石山本願寺への最後の援軍だったのではないでしょうか。11月に石山本願寺は幕府に降伏しておりますが、これを不服と思う輩がいました。本願寺第10世法主証如の後見人の下間 頼秀(しもつま らいしゅう)、下間 頼盛(しもつま らいせい)とその二人の父である下間頼玄です。彼らは天文8年7月21日、堺で証如の刺客に暗殺されるまで抵抗を続けていました。
天文二年(1533年)3月に三宅氏・鈴木氏の連合軍が攻め寄せ、12月に春日井郡の品野勢と戦っております。これらは幕府から討伐軍と考えれば、話が見えてきました。
天文三年(1534年)4月4日下間蓮応(頼玄)書状が届き、一刻の猶予がない上洛を試みますが、猿投でも抵抗に合い、猿投神社を焼いて一旦引きます。
松平清康、あるいは実円は上洛の為に書状をしたためて助力を求めている間に11月になってしまい、石山本願寺は細川晴元の軍門に降ってしまいました。しかし、11月の講和の条件は下間兄弟の首を差し出すことでした。下間兄弟は実円にとって大切な後ろ盾であり、そんな条件を飲むことはできません。また、まだ若い松平清康も実円の威光を利用して、いずれは天下に名を広めようとか、大いなる野望を抱いていたのかもしれません。
松平清康の12月森山への出兵は起死回生の上洛を行います。しかし、そんな無謀な行為に一向宗の門徒にも疑問の声が上がります。否、上洛以前に幕府に抵抗し続けることに疑問が持たれたことでしょう。この森山へ出陣には、桜井松平信定も控えております。そして、松平清康は一向宗門徒の家臣、阿部弥七郎正豊の謀反によって討ち取られてしまいます。

○天文三年 下間蓮応(頼玄)書状
「お手紙差し上げます。最近、我々の近場にまで敵が現れて、方々に放火しております。石山本願寺は守備堅固とはいえ、用心が必要なので、美濃・尾張・三河三ヶ国の坊主衆に上洛あるべしと、証如様が仰せになっておられます。もちろん、あなたの所もです。大変だとは思うのだが、上洛をお待ち申し上げる。拙者も二月からここに伺候しております。お待ちしております。絶対ですよ。
四月四日 蓮応(花押)
照蓮寺御坊様」

○天文五年二月十三日条 本願寺十世法主の証如の日記
「美濃・尾張の坊主衆に加えて伊勢衆の三ヶ国の衆に対し(石山警護の番衆を上洛させるように)、一昨年(去々年)にも使者を送ったことがある。」

天文三年の書状に美濃・尾張・三河の三ヶ国と書かれていたのが、三河の文字が消え、天文五年の日記には美濃・尾張・伊勢の三ヶ国に変わっております。天文三年から天文五年に掛けて三河の実円の威光が失われたことが伺われます。
同時に実円の後ろ盾を失った守護代織田達勝の威光は薄れ、相対的に弾正忠家の勢力が尾張に確固たる地位を確立したと思われます。
それは天文6年(1537年)4月の寺領安堵状を初見として、尾張守護義統としての活動が見られるようになることからも伺われます。織田達勝の傀儡であった守護斯波義統(満20才)ですが、織田信秀に擁立されて守護として少しずつ権威を取り戻してゆくきっかけとなったようです。

■織田信秀の血統
鎌倉から室町時代の戦はその人格を良血か否かで見分けます。よって、ほとんどの一族が源氏、平氏、橘氏、藤原氏のいずれかを名乗っておりました。織田家は当初は藤原氏を名乗り、信長の時代に入ってからは平氏を名乗っております。
母は藤左衛門家当主織田良頼の娘で名をいぬゐ、法名は含笑院殿殿茂岳凉繁といいます。(いぬゐは土田秀久の妹という説もある。)
織田弾正忠家、織田藤左衛門家の両当主の間に生まれた織田信秀は織田家のサラブレットだったのでしょう。
とは言え、名前だけでは評判が上がるものではありません。容姿、振る舞いなどが伴わなければなりません。弾正忠家の織田信定の息子の中でも、嫡男の信秀が器量良しと言われておりますから、信秀は良き体格と風貌を持っていたに違いありません。
さらに、信秀は林新五郎秀貞、平手中務丞政秀を家臣に持ちます。
当時、兵を集めるには名声が重要とされ、血統や役職、名家の家臣を持っているかが大きなファクターを占めておりました。
林家は南北朝期に南朝方に忠節を尽くした河野一門の末裔で、南朝方の御大将、新田義貞の軍団では常に先陣にあり、「朝廷軍の露払い」を勤めることが先例としてほど有名な一族でした。美濃国は三河や遠江に一族は生き残り、日本(ひのもと)に武名の鳴り響いた将の末裔を各地の諸将が家臣団に迎えておりました。
林家は尾張の西春や美濃にも所領があり、斎藤道三の「槍奉行」を務めておりました。裏を返せば、林家は主人に忠誠を示す為に死をも恐れない壮烈な戦いをする一族でした。
信秀の父、織田信定(月巌)は林佐渡守通村の娘を側室に迎えておりましたから、その縁で林新五郎秀貞と知り合い、「秀貞は我が典偉だ」と褒め称えて家臣に加えました。
典偉とは、三国志に出て来る魏の曹操に仕えた悪来典偉のことで、主人を逃がす為に陣門で仁王立ちになって敵を防ぎ、壮絶な死を遂げた英雄のことであり、死を恐れない林家ととって最高の褒め言葉だったでしょう。
また、平手家は源氏の名門世良田家の末裔で、三河の吉良家や、駿河今川家、尾張石橋家、斯波家に武家の家格では劣らないものでした。その中でも政秀の素養は秀でたものがあり、天文2年(1533年)7月には信秀のもとに来客した山科言継、飛鳥井雅綱を接待し、政秀の「数寄の座敷一段」と都人を驚かせております。信秀は「我が荀彧」と褒め称えております。
将軍家の同族として中央でも名が通じ、武家としての血筋の良さ、文化的な面での品格、その商売的な信用性で、弾正忠家の柱石ともいえる重臣となってゆきました。
このような二人を家臣に持つ信秀には、多くの諸将が我先にと参陣し、武功を競い合ったようです。
その信秀は、主家の大和守織田達勝から室を頂きます。しかし、天文元年(1532年)には織田達勝と争いますから、織田達勝の娘との婚姻は大永年間(1521年~1527年)ではないかと推測されます。また、いくさに当たって妻を実家に帰すという習わしがありましたから織田達勝の娘は天文元年以前に離縁されたと思われます。
そして、信長の生母になる土田御前が継室に迎えられました。天文3年(1534年)5月12日には、那古野城にて嫡男、信長が誕生していることからも天文元年以降ではないかと察せられます。
土田御前は土田政久(どた まさひさ)の娘と言われており、『美濃国武家諸家譜』(東大史科編纂所蔵)によると、可児郡の土田氏は土田彦五郎秀久が親類筋である土岐氏庶流の明智氏に仕え、その子源左衛門泰久、その子源太夫と続いて、土田源太夫は弘治二年(1556)に明智兵庫頭光安入道宗宿とともに明智城において討死したとされています。
「建部系図」(『百家系図稿』巻四所収)では、土田氏は近江の佐々木山内氏の出で、山内信詮の孫建部源八郎詮秀の子孫とされています。
山内信詮─義重─詮秀─義綱─重秀(土岐に仕え美濃へ移住)―義重─義綱―頼秀─土田秀遠─土田秀久―土田政久-土田御前
しかし、これでは明智の親類筋であると言えません。
「明智氏一族宮城家相伝系図書」から見ると、土岐頼貞―明智頼重―明智国篤―明智頼秋―明智頼秀―明智頼高―明智頼久となり、伝え聞く所によると、山内頼久は土田秀遠とも近江守秀定とも伝える人物と重なり合うとも言われています。さてさて、山内頼久と土田秀遠の関係は判り兼ねますが、土田秀久の父、近江守秀定の時代に近江から美濃国可児郡に遷住し土田に居住したと言われます。山内秀遠の娘が明智頼久の養猶子(女婿)として迎え入れられたと考えれば、土田秀久の実父は明智頼久となります。秀遠と頼久の一字ずつ頂いて『秀久』と考えるのは出来過ぎた話でしょうか?
また、土田氏の祖先は征東大将軍・木曾義仲の四天王と謳われた根井行親の末裔と伝わっており、根井行親の子孫は、南近江守護・六角氏の家臣として仕え文明年間(1469年〜1486年)の頃に、近江国蒲生郡から美濃国可児郡の木曽川河畔にある土田村に移住したと言われます。(どちらが正しいのかなど図りかねますが?)
美濃土田で3万石の石高があったとされ、土田村だけでなく周辺一帯を支配していた豪族であると伺われます。
英雄色を好むと言いますが、織田信秀は土田御前以外にも多く側室を抱えています。織田敏信の娘、養徳院殿(池田政秀の娘)、岩室殿(岩室孫三郎次盛の娘)、尾張熱田の商家の娘です。信長の兄に当たる信広が嫡子と数えられないのは、生母が側室という立場だったからですが生母の名前は見当たりません。
他にも池田政秀の娘で織田信長の乳母も務め、大御乳様(おおちちさま)と呼ばれたお方は、娘、小田井殿(栄輪院、信長の異母妹、恒興の異父妹。織田信直正室)を出産しています。さてさて、他にも何人の側女がいたことでしょうか?

■織田信秀の台頭
尾張の守護は斯波氏であるが、実権は守護代の大和守織田氏が握っていました。その守護代も上四郡を支配する伊勢守家と下四郡を支配する大和守に分かれ対立しあっていた為に紛争は絶えない状態でありました。
大永年間(1521年~1527年)、元服した織田信秀とその父信定と共に活躍した時代であります。特に津島を手中したことが後の信秀の原動力となしました。
津島の繁栄ぶりは、連歌師宗長の日記に示されており、大永六年(1526)に津島を訪問した際の記載に津島湊の繁栄ぶりと当時十七歳の息子三郎(信秀)とともに信定は挨拶に来たとあります。津島は当時伊勢大湊を中心とした伊勢湾の交易圏の中核をなす港町で、大橋、岡本、恒川、山川という4家が大きな勢力を持っていたとされています。
『大橋家譜』の記述によると、「大永年中、織田氏ト諍論、数度ニ及ブ。同四年(1524)ノ夏、織田兵津島ヲ焼払フ。早尾(愛知県海部郡立田村付近)ノ塁ニ退キ又戦フ。・・(中略)・・・時ニ織田ト和睦有リ。而シテ同年十一月、信長公息女御蔵御方、実ハ信秀ノ女,大橋清兵衛重長ニ入輿ス。母ハ林佐渡守通村ノ女、是ヨリ津嶋一輩、信長公ノき下ニ属ス。」(引用:津島市史 1975年 P10から)と大永年間(1521年~1527年)初頭より何度も津島衆と織田氏の間に諍いがあり、大永4年(1524年)夏に織田氏が津島町を焼き払って武力制圧しようと兵を出したことが記されています。大永6年には完全に支配し終え、経済基盤を手に入れたことが伺えます。信秀は大橋清兵衛重長に娘くらの方が輿入れさせて津島との繋がりを強固なものとしてゆきます。
大永六年(1526年)頃、本願寺九世法主実如の子、実円に説得された尾張守護代織田大和守達勝は、上四郡守護代伊勢守から奪い取った春日井郡の守山に桜井松平家の信定を尾張の守山(名古屋市守山区)と品濃(瀬戸市)両城に拠って尾張東部に扶植させています。
桜井松平信定は松平長親の二子で桜井松平家の初代松平宗家であります。その妻は織田信定の娘とありますので、進出してきた桜井松平家と織田信定がよしみを通じていたことが伺われます。また、織田信定の子である織田信光の正室に松平信定の娘を嫁がせていることからも、大永六年(1526年)以降も弾正忠家織田信定・信秀と桜井松平信定・清定は良好な関係を維持していたことが伺われます。


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(享禄 元年 (1531) 信秀の台頭前夜 風雲勢力図ブログより)

大永七年(1527年)管領細川高国が桂川原の合戦に敗れて将軍足利義晴とともに京都を脱出して近江国朽木に逃れ、泉州堺に幕府を開いた堺公方、足利義維が幕政を握ります。織田大和守達勝は堺公方に与する事で失地回復を図りますが、堺に参陣するまでは至りません。
将軍足利義晴・管領細川高国と堺公方足利義維・細川晴元・三好元長の私闘は限りなく繰り返されます。

・永正15年8月2日(1518年)、大内義興の周防への帰国
・永正16年(1519年)、細川澄元・三好之長らは摂津に侵攻。
・永正16年(1519年)10月22日夜半、田中城の戦い。(高国軍は惨敗)
・永正17年(1520年)2月、細川高国は近江坂本まで退散。(堺公方、京を奪取)
・永正17年(1520年)5月、六角氏・朝倉氏・土岐氏らの支援を仰ぎ、再度挙兵。京へ反撃侵攻した高国勢は三好之長を自害に追い込む。(細川澄元、摂津に敗走)
・永正17年(1520年)6月2日、細川澄元が阿波で病死。
・永正18年・大永元年(1521年)室町幕府第10代将軍足利義稙と細川高国の関係悪化。
・永正18年・大永元年(1521年)3月7日、義稙は再び和泉国堺に出奔
・永正18年・大永元年(1521年)12月24日、細川高国は義澄の遺児を元服させて第11代将軍足利義晴にする。
・大永6年(1526年)7月13日、細川高国は細川尹賢の讒言を信じて、重臣の香西元盛を謀殺。
・大永6年(1526年)7月、香西元盛の実兄である波多野稙通と柳本賢治が謀反。(討伐を失敗)
・大永7年(1527年)2月、尖兵柳本賢治や三好元長らに京まで侵攻。(足利義晴・細川高国は近江に逃亡)
・大永7年(1527年)7月13日、三好元長・細川晴元らは、足利義澄の次男である足利義維を擁立。(従五位下・左馬頭に叙任され、堺公方と呼ばれる)
・大永8年・享禄元年(1528年)1月、細川高国、三好元長と講和を図るが破れて再び近江に逃亡。
・大永8年・享禄元年(1528年)、細川晴元、柳本賢治を使って京都周辺を寇掠させる。
・享禄2年(1529年)、三好元長は堺幕府を離脱して三好氏の本貫地である阿波国に帰国。
・享禄3年(1530年)5月、足利義晴・細川高国、伊賀の仁木義広や婿で伊勢国司の北畠晴具、朝倉孝景や出雲の尼子経久らの助力により備前国の浦上村宗と共に播磨国で挙兵。
・享禄3年(1530年)6月、織田達勝も上洛し、高国討伐の柳本賢治の軍に参陣。
・享禄3年(1530年)6月29日、柳本賢治が播磨で陣没し幕府軍は退却。
・享禄4年(1531年)2月、細川高国の進撃に慄いた細川晴元は三好元長に援けを求め、三好元長は堺に入り反撃を開始。
・享禄4年(1531年)3月、新参・木沢長政が京の防備を放棄する。(高国の京入)
・享禄4年(1531年)6月、優勢だった高国軍は増援として現れた赤松政祐の裏切りにより、呆気なく敗れる。(摂津国天王寺の合戦)
・享禄4年(1531年)6月8日、細川高国、大物広徳寺で自害。
・享禄4年(1531年)6月、細川晴元、第11代将軍足利義晴と和睦。(細川晴元の裏切)
・享禄4年(1531年)8月、足利義維を将軍に推す堺公方派、三好元長が細川晴元に反旗を示す。(河内北半国守護管領畠山義堯、山城守護代三好元長 vs 山城守護管領細川晴元、河内北半国守護代木沢長政の抗争へ発展)
・享禄5年・天文元年(1532年)、細川晴元の被官茨木長隆の縁者を介して浄土真宗本願寺の第10世法主証如に助力を依頼
・享禄5年・天文元年(1532年)6月15日、石山本願寺に結集した門徒は飯盛城下に押し寄せえる。(畠山義堯、三好元長が討ち取られる)
・享禄5年・天文元年(1532年)、「天文の錯乱」が勃発。大和の興福寺を始め、暴徒化した門徒が筒井順興・越智利基などを攻め始める。
・享禄5年・天文元年(1532年)8月23日、細川晴元、六角定頼、法華宗徒連合の軍勢は本願寺の総本山である山科本願寺を包囲し、翌24日には火を放って総攻撃をかけたが、一向宗は石山本願寺に拠点を移して徹底抗戦の構えを見せた。
・享禄5年・天文元年(1532年)12月、石山本願寺もまた細川・六角・法華一揆連合軍に包囲される。
・天文2年(1533年)2月、一向宗門徒、勢力を盛り返し、細川晴元の拠る堺に進撃する。(細川晴元や茨木長隆は淡路島に逃亡)
・天文2年(1533年)2~4月、町衆を中心とした法華宗徒が警察権を握り、浄土真宗の僧侶を捕えて処刑する。
・天文2年(1533年)4月、細川晴元、摂津国池田城に入城し、さらに要害である摂津国芥川城に移ると膠着状態に陥る。
・天文2年(1533年)6月20日、三好元長の遺児千熊丸(後の三好長慶)の仲介により細川晴元と本願寺の和睦が成立する。
・天文3年(1534年)5月29日、本願寺証如、和睦を破棄し、再戦を挑む。
・天文4年(1535年)6月、細川軍の総攻撃によって本願寺は敗北する。
・天文4年(1535年)9月、本願寺と細川との和睦交渉が妥結。

このように細川高国の迷走から始まった混乱は、本願寺を巻き込んで宗教戦争に発展しまいました。
享禄4年(1531年)、苦戦する細川晴元を本願寺第10世法主証如が助力したことで将軍足利義晴は京に帰還し、細川晴元も政権に復権できました。最大の功労者は本願寺だったハズなのですが、一向一揆の門徒が暴徒化し、討伐される羽目に会います。
松平清康は加賀の小一揆討伐に対する実円の派兵に協力していたと思われ、本願寺教団と縁の深い関係です。織田達勝も本願寺教団は協力者という立場になっており、幕府に討伐される側になったのです。
織田信秀の支配地である津島は伊勢国長島願証寺と木曽川・揖斐川・長良川の三川の河口に面していました。織田信秀の狙いは津島と木曽川を挟んで対岸にある伊勢国長島だったのではないでしょうか。勝幡築城と同時期に長島には連淳が願証寺を建てておりました。木曽川対岸の寺内町を取り込んでしまおうと考えていたのかもしれません。
幕府から難を避けて連淳が逃げ込んだことを知った信秀は幕府軍の勝利を確信したのか、幕府側に組みすることを表明し、主家である織田達勝に戦いを挑みます。
天紋元年8月に起こった天文法華一揆(山科本願寺合戦)は、12月頃になると細川晴元に属する摂津国衆らが摂津国の上郡と下郡への同時侵攻作戦を展開し、一向一揆の拠点である道場を攻め立てたため、その一帯は焦土と化したと言われます。
しかし、天文二年(1533年)2月になると事態は一変します。一揆勢は勢力を盛り返して細川晴元の拠る堺に進撃し、2月には細川晴元や茨木長隆を淡路島に後退します。4月には盛り返して摂津国池田城に入城するに至るのですが、幕府軍は摂津国芥川城に移りますが、淀川を挟んで石山道場に立て籠もる一向一揆と膠着状態になっていました。
天文二年(1533年)6月には、三好長慶(千熊丸、三好元長の遺児)の斡旋によって幕府と本願寺の和議となりました。
一方、織田信秀も手詰まりに陥っていたのかもしれません。幕府軍が勝つと思った予想が大きく外れ、思わぬ膠着状態に苦戦を強いられたと予想されます。幕府方の勝ち戦の余勢を借りて取り込む計画が崩れ、泥沼のいくさを呈してきました。平手政秀を使い和睦のタイミングを図っていたと思われます。天文二年(1533年)7月11日、弟信康を清須に派遣して、早々に織田大和守達勝と和睦します。
この戦いでは織田信秀と本願寺の関係が崩れるほど激しい戦いはなかったようで、織田信秀は再び大和守守護代織田達勝の下に組みします。
もし、天文4年以降に織田信秀が単独で三河出陣ができる勢力を持っていたとするなら、守護代織田達勝との大きな戦が記録されていなければなりません。ならば、実権もない織田達勝が仲介を求める書状や免除状を発行しているのでしょうか?
天文五年(1536年)、証如の日記に織田達勝から本願寺に善興寺との争いの仲裁を求められた。

天文7年(1538年)織田達勝、尾張国性海寺への那古野城夫役を免除する。
「急度申遣候、仍性海寺内事者、従先々諸役免許之儀候之条、今度那古野へ夫丸之儀、可相除之候、謹言、
天文七十月九日
(織田達勝 花押)
 豊嶋隼人佐とのへ
 鎌田隼人佐とのへ
 林九郎左衛門尉とのへ
 林丹後守とのへ」
『愛知県史 資料編10「織田達勝書状」(性海寺文書)』

この天文7年(1538年)の那古野城夫役を見るに付け、少なくともこの時期までは織田達勝は間違いなく織田信秀より上の立場であったことが伺えます。
享禄5年・天文元年(1532年)に今川氏豊の居城である那古屋城を落したという説『名古屋合戦記』もありますが、尾張国熱田の加藤延隆に商売上の特権を与えるという書状が見られるのは、天文8年(1539年)三月廿日『「織田信秀判物」(西加藤家文書)』からです。そう考えると、天文7年(1538年)に織田達勝の命で那古屋城を奪ったと考える方が妥当ではないかと思えるのです。
尾張の中央部に位置する那古屋城は今川氏豊の居城があり、今川氏の支配下でありました。氏豊は歌などを好み、国人らも招きしばしば歌合わせを催していた文化人で、信秀も好を通じておりました。
「俄に信秀は体調を崩し勝幡城へ帰ることもままならず那古屋城に泊めてもらうことを願い出ます。氏豊は快く承諾して、近習共々を城に入れてやりました。夜が暮れると俄かに騒ぎ出し、信秀の近習共々が那古屋城の中から兵を挙げ、示し合わせていた日置城の織田丹波守も城外から攻めります。城の中と外から攻められた氏豊は為す術もなく逃亡し、わずかな手勢によって那古屋城を落した信秀はそこを居城としました。」
天文7年(1538年)が妥当と考えられる理由は、天文6年(1537年)から今川義元が松平広忠を擁して、三河に進行してきたことにあります。
三河守護代西条吉良義堯の子、吉良義郷を討ち取られ、三河における基盤を松平信定が失うと、さらに今川義元は反義元派であった見付端城主堀越用山(貞基)を犬居城主天野氏に命じて攻撃させこれを落とさせました。
動揺した松平家の家臣、大久保忠員・八国詮実・林忠満・成瀬正頼・大原惟宗は松平信定を裏切り、松平信定の留守を見計らって牟呂城(西尾市)を騙し取ります。
松平信定は岡崎城を引き渡すことで和睦が成立し、松平清康の死後、逃亡生活を続けていた松平広忠が岡崎に帰城することになります。
松平信定を支援する織田氏(織田達勝・織田信秀)には容認できない事態でありました。尾張織田方は駿河・遠江の今川方と対決することを決め、戦いとなれば、背後を襲われる可能性のある今川氏豊の那古屋城を織田達勝の命で織田信秀が天文7年(1538年)に騙し取ったと考えるのが最も合理的と思われます。
天文六年(1537年)6月、石山本願寺蓮淳は本証寺(愛知県安城市野寺町)と勝鬘寺(岡崎市の南部)に書状を送っております。内容は「本証寺と勝鬘寺に、伊勢長島願証寺の指導のもとに、蓮如の遺文に基づいた布教活動に専念すべし」と言うものです。
織田氏と今川氏の対立に関与しないように言い付けているのではないでしょうか?
織田達勝は本証寺の支援を受けられなくなり、求心力は落ちたことでしょう。
織田氏と今川氏の対立が激しくなってゆく中で、織田信秀の活躍が際立ち、守護代織田達勝の権威は薄れてゆくのでした。

≪森山崩れから松平広忠の岡崎帰城≫
・天文四年(1535年)12月5日、松平清康は尾張国守山に出陣して陣没します。
・天文四年(1535年)12月12日、天文の井田野合戦。
・天文四年(1535年)12月24日、阿部道音、没。
・天文四年(1535年)12月28日、松平広忠、岡崎脱出。『伊勢』へ落ち延びる。
・天文五年(1536年)3月17日、今川氏輝、彦五郎没。
・天文五年(1536年)3月17日、松平広忠、遠江国掛塚に到着。
・天文五年(1536年)6月10日、花倉の乱終息。
・天文五年(1536年)8月、本願寺と足利義晴が和睦。
・天文五年(1536年)9月10日、吉良持広、仙千代(松平広忠)を保護する。
・天文五年(1536年)閏10月7日、松平広忠、吉田に後退。
・天文五年(1536年)11月、西条吉良義安、東条吉良持広の養子になる。
・天文六年(1537年)正月、西条吉良義郷、没。義昭が家督を相続。
・天文六年(1537年)1月13日、西条城(西尾市錦城)の戦い。(吉良義郷、討死)
・天文六年(1537年)4月26日、見付端城(磐田市見付)の戦い。
・天文六年(1537年)5月29日夜、松平信定が留守の間に牟呂城(西尾市)を騙し取る。
△天文六年(1537年)6月、石山本願寺蓮淳は本証寺と勝鬘寺に書状。
・天文六年(1537年)6月2日、武田信虎の娘、今川義元に嫁ぐ。
・天文六年(1537年)6月7日、松平広忠、松平内膳正信定と和議。
・天文六年(1537年)6月25日、松平広忠は岡崎城に入城する。(松平広忠、満12歳)
・天文六年(1537年)12月9日、松平広忠、12歳元服、東条吉良持広烏帽子親。

■織田信秀の経済基盤
川港で門前町であった津島(愛知県津島市)を支配し、津島の商工業者達の既得権益を保護し、かつその商業の安全を保障しました。さらに津島の商工業者は尾張の辺境の開発した土豪や土倉などの金融業者、商売をしていた商人的武士団であった津島十五党と呼ばれていた有力者の権益を保障することで経済基盤を高めたと言われます。
その1つが油です。
元々、平安末期に始まった座は公家や寺社などの本所に保護されています。
近衛・兵衛府の保護下の四府駕輿丁座・織手座・白粉座・青苧座、興福寺の保護下の絹座・綿座・魚座・塩座、祇園社の保護下の綿座・錦座・材木座、石清水八幡宮の末社の離宮八幡宮に直属していた大山崎油座(荏胡麻油座)、北野神社の保護下の西京酒麹座、東大寺の保護下の木工座などが挙げられています。
石清水八幡宮の末社の離宮八幡宮に直属していた大山崎油座(荏胡麻油座)は遠く美濃尾張まで行商の旅に出ていたと書かれています。
・離宮八幡宮に残る最古の文献の貞応元年(1222年)12月の美濃国司の下文によると、「大山崎の神人が油や雑物 の交易のため、不破関の関料免除の特権を保持し、不破関を越えて、遠く美濃尾張まで行商の旅に出ていた。」
大山崎の神人は油の主原料は、近江・尾張・美濃・伊勢・河内・摂津・播磨・備前・阿波・伊予などでした。
大山崎油座神人は、荏胡麻の仕入れだけでなく、精製した油の販売においても広範囲に独占権を有しており、大和国を除く畿内(山城・摂津・河内・和泉)と、丹波・丹後・若狭・近江・美濃・尾張・備中・備後・紀伊・伊予などに及んでおりました。
しかし、応仁・文明の乱に際しては大山崎の侍は積極的に東軍に加担し、赤松政則や畠山政長などから感状を受けるなど自ら巻き込まれ、製油に携わる神人たちは逃散する事態となりました。応仁の乱以降、自ら生産販売する商人が出現し、大山崎の独占販売権も崩壊・有名無実化してゆきました。
さて、大山崎油座神人は尾張に材料の尾張に買い付けて来ております。津島神社には直系1.5センチほどの小粒の揚げた米団子「あかだ」という津島神社の供饌菓子が古くからあります。
弘法大師(774~835年)が津島を巡錫した際、この地で疫病が流行しており、庶民が苦しむ姿を哀れんだ大師は津島牛頭天王社に薬師如来を奉安し病気平癒を祈願されたと伝えられ、さらに悪病退散の祈願を込めて神前に供え、参詣した人々に分けたという菓子が、津島神社の供饌菓子と伝えられております。
この頃より津島神社周辺では油菓子に使う胡麻の生産が始まったと思われ、室町時代では神人たちが買い付けにくるくらいに発展していたようです。
大山崎油座(荏胡麻油座)の独占販売が崩壊したことによって、津島衆は覆いに潤い、その商売を保護する織田家も潤いました。特に今川氏親が金山の坑道掘りを手掛けた為に大量の油を必要としました。胡麻の生産地の1つであった尾張は油の利権でさたに覆いに潤うことになりました。
信長が上洛後、堺や尼崎などの湊や商業都市を重視したのも織田信定・信秀が行った津島や熱田で行った商業地政策の影響を受けてのことでしょう。

■東海道一円の永楽通寶
織田信長の旗印に永楽通寶があります。
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信長は末永く楽が続く世の中を造りたかったのでしょうか。それとも銭の力でのし上がるという意味でしょうか。将又、三途の川の渡し賃という意味でしょうか。
実際のところ、信長が何を思って「永楽通寶」を旗印に使用したかは、永遠の謎であります。タイムスリップでもして、本人に聞きに行かなくてはなりません。
さて、この「永楽通寶」が東海一円に広く流通したのは応永10年(1403年)8月、唐船が相州三崎に漂着しましたことが始まりではないかという説があります。
室町幕府は1401年から1547年の頃まで遣明使を遣わし明と貿易を行っておりました。
日本に通貨が広まったのは平清盛が末法思想の流行で仏具の材料として銅の需要が高まり宋銭(1文銭)を銅の材料として輸入していたことに目を付けたのが始まりです。当時の日本の鋳造技術では粗悪な偽物が大量に出回るので通貨政策が失敗しており、絹織物や米などが通貨の代わりに流通しておりました。
しかし、宋の鋳造技術は非常に高く、偽物を簡単に造れません、
平清盛はそこに目を付けます。大量の宋銭を輸入して国内で流通させ平氏政権の政権基盤のための財政的な裏付けとしました。当時の朝廷の皇朝十二銭の廃絶し、それまでは価格統制の法令として沽価法による価格換算に基づいて算出された代用貨幣である絹の量を元にして、一国平均役や諸国所課を算出します。
これによって安定的な通貨を朝廷が供給することに成功し、政権基盤を築いてゆきまいた。ところが宋銭の流通が九州、中国、近畿と広まり、さらに中部、東海、関東と広まってゆくと通貨の供給量が不足してゆきます。宋船は年に一度しか寄港しません。流通の拡大に通貨発行のスピードが追い付きません。
それによって通貨の価値の上昇、デフレが発生します。
宋銭一枚が絹織物一反だった価値が、翌年には宋銭一枚が絹織物二反と宋銭の価値が上がります。絹や米の価値が暴落した訳です。領地の価値が亡くなっていくことに東国の領主は怒ります。そうして東国の武士団に祭り上げられた源頼朝によって平家政権は打倒され滅ぼされます。
鎌倉幕府を討伐した足利政権は平清盛と同じ政策を取り、明国との交易を再開し、永楽銭を輸入し、日本の通貨とすることで財政基盤を整えました。西国には比較的通貨の流通がスムーズに行われますが、東国は又してもデフレが発生します。
そんな折です。
応永10年(1403年)8月、唐船が相州三崎に漂着しました。その船の中に数千貫文の永楽銭があり、これを接収した鎌倉の管領足利満兼が、「若干の永楽銭を徒らに費やすべからずとて、法を定めて之を用ゆ」として、永楽銭の流通が始まりました。
管領足利満兼はこの数千貫文の永楽銭により地域の掌握をスムーズに行うことができた訳です。これによって東海一円の永楽銭普及が加速します。
貿易路は平戸-博多-堺を経由して京に入ります。そして、京-津島-熱田-東海一円と繋がっておりました。急激に供給量が増す東海の永楽銭の需要に津島は大いに栄えたことでしょう。
さて、明貿易を再開しますが、日本から輸出品は金・銀・銅などの鉱物が主だったものだったようです。平清盛の宋貿易では奥州の金が主な輸出品目でした。当初はやはり金・銀が主だった輸出品目ではなかったかと推測されます。しかし、中国明朝の永楽帝の頃(1400年代初期)に鋳造された銭貨はメキシコや日本から大量に流入した銀が通貨として鋳造されます。洪武帝の時代に永楽通宝などの銅銭も発行されましたが、通貨政策の失敗から銀貨が通貨としての価値を得てゆきます。洪武帝が銅銭の流通を禁止した為に通貨として価値は失われ、海外へ輸出品として使用されます。明朝において銀の価値が上がる中、日本からの輸出品に銀の割合が増して行きました。
1533年(天文2年)8月、神谷寿貞は海外渡来の銀精錬技術である灰吹法を取り入れることで石見銀山の生産量は画期的に増すことに成功します。その他の日本の銀山の産出量も増し、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて当時、日本で算出される銀の生産量は年間200トン、その内、石見銀山が38トン(10000貫)程度だったと言われます。日本の銀産出量は世界全体の三分の一に達しておりました。
明貿易では以下の取引が行われていました。
輸出品:銀・銅・刀剣・硫黄・扇・屏風・蒔絵など
輸入品:明銭(永楽・洪武・宣徳通宝)・生糸・絹織物・書画・骨董品など
明国の通貨である銀貨の生産は日本によって支えられていたのかもしれません。

明貿易を再開した当初は使われなった古銭の大中通宝「銅銭」、洪武通宝、宣徳通宝、弘治通宝、嘉靖通宝を輸出していたのではないかと推測されます。文明17年(1485年)に近い頃、新たに「永楽通寶」が鋳造されるようになり、古銭ではなく新銭が輸出されるようになります。
この「永楽通寶」がすぐに普及した訳ではありません。古ぼけた黒色の古銭に対して、黄金色に輝く銅貨は人々を驚かせます。
重さ 4.9g、直径 25.0mm、厚み 1.7mm、溝掘りも深く、新5円玉のように鮮やかに輝いておりました。もしかしたら、この輝きに信長が未来のあるべき姿と見出したのかもしれません。しかし、古銭に慣れ親しんだ大衆は驚天動地でありました。
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これは偽物だ。
誰も「永楽通寶」を使用しないので、大内氏は文明17年(1485年)4月15日にこんな撰銭令を発行します。
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「銭100文のうち20~30文は嫌がらずに使え」というお触れです。
今迄に慣れ親しんだ『古銭(ふるぜに)』は、滅亡していた唐・北宋の銭です。大中通宝、洪武通宝、宣徳通宝、弘治通宝、嘉靖通宝は先の皇帝が鋳造された銅銭です。しかし、永楽通寶は非常に良質な銅を使用しており、天正年間以降永楽通宝1枚が鐚銭4文分と等価とされたそうです。
その他の東国大名が示した永楽銭の価値は以下の通りです。
・永禄8年(1565年) 伊勢大湊  永楽銭1枚の価 ひた7枚
・永禄12年(1569年) 小田原北条氏 永楽銭1枚の価 精銭3枚
・天正5年(1577年) 小田原北条氏 永楽銭1枚の価 精銭2枚
・天正12年(1584年) 駿河徳川氏 永楽銭1枚の価 鐚銭4枚
(ひた、精銭、鐚銭は、永楽銭以外の渡来銭または、できの悪い銭のことと思われます。)
しかし、天文19年(1550年)の頃に「関東の諸民鐚と云悪銭を鋳出し、永楽銭に交へて同じ直段に用い」、良銭と悪銭が混合したトラブルが多発したそうです。
その後、天文の末に北条氏康が関東を制覇したとき、「鳥目は品々あれども其位永楽銭に及ぶものなし、由て自今関東は永楽銭を用ひ他銭を禁ずべし」としました。
天正18年(1590年)に徳川氏が関東に来たときも永楽銭を用いていましたが、鐚をなくすこともできず、慶長9年(1604年)正月に、「悉く永楽銭を用ゆ、然れども一向鐚を棄るにもあらずとて、他銭4銭を以て永楽一銭の代りにすべし」と決めたそうです。
トラブルを無くす為に永楽銭に統一しようとすると、鐚銭を持ったものが群れを成して抗議され、他の鐚銭を廃しすることもできず、仕方なく他銭4銭を永楽一銭として使うことを容認しました。その後もトラブルは続き、徳川幕府は慶長13年(1608年)に金1両=銀50匁=銭4貫文という通貨基準を定め、永楽銭とその他の基準貨幣としての取り扱いを廃止します。
そして、寛永13年(1636年)に寛永通宝という新銭貨の鋳造に踏み切り、永楽銭問題に終止符が打たれます。

この「永楽通寶」の流通ルートは平戸-博多-堺-京-津島-熱田-東海一円であり、東海から関東一円への中継港として津島は栄えました。その栄え振りから「尾張の金銀はすべて津島を通貨する。」とまで言われえたそうです。
応仁の乱以降は、摂津・山城・近江と戦乱にあって荒廃し、幕府の統制が崩れると大内氏は自ら明貿易船を出し、巨額の富を得るようになります。織田家も京が荒廃により堺-京-津島ルートが使えなくなりました。しかし、神武東征で使われた紀伊水道から熊野灘を迂回する堺-伊勢-津島ルートに変わります。
幕府の束縛を離れた「永楽通寶」が津島を経由して、さらに東海、関東へと流れてゆきました。応仁の乱以降の津島が如何に繁栄していたかが伺えます。

■居城の移転
織田信秀は居城の移転を何度も行っております。それも元の本拠の住人・家臣の大半が移動するというものでした。信秀は尾張中央部の那古野に進出します。那古野城を攻め落とすと勝幡の総構えを放棄して、那古野へ移住してしました。那古野への移動は織田信秀が尾張中央部へ進出してゆく布告でした。さらに那古野奪取の翌年には那古野を信長とその守役平手政秀にまかせ、古渡城(名古屋市中区古渡町付近)へ本拠を移します。それは門前町熱田の商業地を勢力範囲に置く為でしょう。また、桜井松平信定と共に三河へ睨みを利かす意味もあります。さらに晩年には末森に居城を移します。
常に最前線に居城を移すことで武家に配下を城下に配置し、臨機応変に事態に対処したようです。また、商家の武装集団は土地に縛られないというメリットを最大限に生かしたのかもしれません。土豪など領主は農民を徴集するのに時間が掛かるのに対して、少数精鋭であってもすぐに陣触れができることがメリットでありました。
 この居城移転は織田信長の時代になると、さらに頻繁におこなわれるようになります。これを実現させたのは半農半兵から常備軍へ移行でした。那古野→清洲→小牧→岐阜→安土と必要に応じて拠点を移して行きます。信長の拠点を移すという戦略は織田信秀の下で育てられたのかもしれません。

■直轄地と代官支配
織田信秀の行った政策の1つに、直轄地に代官を置くことです。
代官とは、その土地を代わって管理する者のことで、預所代、国司の目代、守護代、小守護代、地頭代、陣代などを代官である叉代と呼びます。織田信長は家臣を城下に居住させ、領主不在の領地や家臣の知行地もまとめて代官に管理させるようにしました。
信秀は攻め取った土地を直轄地(蔵入地)として代官支配させました。たとえば、岩倉織田氏の中島郡を攻め取ると、その地を掌握すると共に津島衆の者に行政的役人として据えます。つまり、代官による支配を行った訳です。代官は直轄地から蔵米知行として回収します。織田の家臣は土地から直接に米を得るのではなく、織田直轄地から与えられた蔵米を支給される米を得て知行とした訳です。
当時は奪った土地を家臣に与えて領地を安堵するのが一般でしたから、異質に写ったかもしれません。しかし、これは斬新な考え方という訳ではなく、幕府が守護や守護代をその国に派遣して支配するやり方を郡や荘レベルに縮小したものです。
尾張西部の海東・海西郡は商工業が発達し、人の出入りが激しい土地柄から土豪や地侍層などが室町時代に生まれた百姓・商人が作る自治的・地縁的結合による共同組織(村落形態)の惣(そう)や相互扶助の精神で成り立っている結(ゆい)の発達が非常に早かったのかもしれません。
織田信秀は下手な領地・領民の入れ替えは土一揆に成りかねないことを感じ取り、土地の者を家臣に取り入れるか、直轄地として代官を配置するようになって行きます。
おそらく、織田信定・信秀親子が津島を手に入れる為に相応の苦労をしたことが、後々の政策に影響したのではないでしょうか。

●奉行衆
祖父江秀重、氷屋秀重・五郎右衛門尉。海東郡津島牛頭天王社神官。
祖父江、法師。津島神社神官。1550年織田信秀から尾張国内の代官職の継承者に任命される。
河村勝久、助右衛門。津島神社神官。
河村秀彰、津島・八郎・九郎大夫・伊之助。津島神社神官。河村秀清の子。津島社禰宜「津島九郎大夫」慶満の養子に迎えられる
河村秀綱、津島・九郎大夫・勘左衛門。津島神社神官。津島社禰宜「津島九郎大夫」。1562年家督相続。弟・将昌が跡職継承。
河村将昌、津島・九郎大夫・久五郎。津島神社神官。津島社禰宜「津島九郎大夫」。兄の死により家督。1561年「森部の合戦」に従軍。敵将・神部将監を討つ軍功。兄・秀綱の養子として跡職継承。
大橋重一、大河内・源左衛門。津島神社神官。大河内重元(左衛門佐・元綱とも)の息。母は大橋定広の娘。大橋家、和泉守・定安の養子。兄弟に牧村源次郎・政忠(斎藤道三家臣)。
大橋重長、清兵衛。津島社家。津島の豪族。大橋重一の子(又は弟)。祖母は熱田大宮司・千秋家の娘。織田信秀の娘(御蔵ノ方)婿。兄弟に大河内源三郎・政局、中根平左衛門・政照。子・大橋長将は堀田正道の娘婿。
河口盛祐、大橋・川口・帯刀左衛門。大橋定広の息(次男)。河口宗持の養子。室は徳川家康の祖母。息に宗吉。孫に宗勝。
長田広政、大橋・喜八郎・広正。大橋定広の養子。母は熱田千秋家の娘。長田政度の養子。息に大浜の長田重元(信長初陣の敵)。孫に永井直勝。
堀田之重、紀・天王右馬大夫。津島神社神官。津島社禰宜「天王右馬大夫」。
堀田正道、紀・弥三郎・加賀守。津島神社神官。
服部、久左衛門。津島神社神官(御師)。
服部康信、平左衛門。海東郡服部の豪族。室は大野佐治家の娘。

?生駒家長、八右衛門。尾張の丹羽郡小折村の豪商・生駒家宗の子。生駒親重(親正の父)の甥。犬山城主・伊勢守家織田信清の配下

●織田一門
織田信辰、)(小瀬・菅屋)・造酒丞・造酒佐・信房。
飯尾定宗、(織田)・近江守。織田信秀の従兄弟(または叔父)。飯尾家に養子。
飯尾尚清、(織田)・茂助・隠岐守・出羽守・信宗。尾張豪族。長谷川秀一は娘婿。

下方貞清、弥三郎・左近将監・(匡範?)。
中川重政、織田忠政・中河・八郎右(左)衛門・駿河守・入道土玄。中川治部左衛門・伊治の養子。
津田盛月、織田・左馬允・隼人正・四郎左衛門。中川重政の弟。

●馬廻衆
赤川景弘、坂井通盛・(彦右衛門)・三郎右衛門。
山口教継、(大内?)・左馬介・(義継)。
佐々成経、孫介・盛種。佐々成政の兄。
岡田重善、助右衛門・重能・直教。尾張国の土豪、岡田重頼の子。
内藤勝介。
神戸市左衛門。
永田、長田・次郎右衛門。
川尻秀隆、河尻秀隆・与兵衛・肥前守・鎮吉・重遠。愛知郡岩崎村出身。親重の子。

●家臣
山口教吉、九郎二郎。
中条家忠、小一郎・将監・秀長。尾張刈安賀の豪族。信長の馬廻、譜代の侍大将。
佐々成吉、隼人正・下野守・政次・長盛。元は尾張北守護代(岩倉)家の家臣。
中野一安、又兵衛・(重吉?)。
佐々成政、内蔵助・陸奥守。本拠地は南尾張清洲の東方の春日郡・比良城城主。
毛利秀高、毛利良勝・新助・(十郎?)・新左衛門。毛利秀頼を養育。
平井長康、平出・久右衛門・久左衛門。
伊東、武兵衛。
水野忠光、帯刀左衛門・<忠広カ>。三河出身。
松岡、九郎次郎・九郎二郎。
生駒、(土田)・勝介・勝助・正之助・庄之助。生駒摂津守・久通の子。生駒親重(親正の父)の甥。
蜂屋頼隆、兵庫頭・出羽守。和泉守護。美濃出身・金森長近と同郷。丹羽長秀の妹婿。
野々村正成、三十郎。美濃出身。
中島、主水正。犬山衆。織田信清の家臣。堀秀重(1532~1606)の娘婿。堀秀政の義兄弟。

●熱田衆
千秋季光、藤原季光・紀伊守。熱田大宮司。尾張国の豪族。
千秋季忠、藤原。熱田大宮司。尾張国の豪族。
浅井、四郎左衛門・備中守・「黒鬼」。尾張国の熱田豪族。千秋季忠は娘婿。季信は孫。
浅井充秀、源五郎・又左衛門。藤次郎・安親の息。尾張国の熱田豪族。
加藤順光、東加藤。加藤惣領家。熱田加藤12代目。加藤景繁の子。加藤延隆の兄。
加藤順盛、東加藤・図書助。加藤順光の子。熱田加藤13代目。羽城に居し東加藤と呼称される。
加藤順政、東加藤・又八郎・図書助・吉郷・入道道珠。熱田加藤14代目。加藤順盛の子。
加藤延隆、西加藤・紀左衛門・隼人正・景隆。熱田西加藤家。延隆の息(長男)。
加藤元隆、西加藤。熱田西加藤家。延隆の子(次男)。
加藤家勝、奥村家勝・西加藤・与三郎・家唯。西加藤家の入婿。前田利家と相婿で義兄弟。

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