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2013年10月

11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(4)今川家

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『信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ 

1350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>年表

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<<今川家>>
◆今川氏:今川 義忠が文明8年(1476年)遠江の塩買坂の戦いで横地氏・勝田氏ら地元国人衆の残党に襲われ戦死すると、5歳(満6歳)の龍王丸(後の氏親)は小鹿範満との家督争いが起こります。小鹿範満は今川氏の庶家にあたる小鹿範頼と堀越公方の執事上杉政憲(関東管領上杉氏の一族)の娘との間に生まれました。
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小鹿範頼は小鹿範慶の子で、小鹿範慶は駿河今川氏の第4代当主今川範政の側室の子で第5代当主範忠の弟に当たります。
しかし、今川氏は範忠(のりただ)、氏親(うじちか)、義元(よしもと)と三代にわたる家督争いを繰り返してきた訳でお家騒動の多い家柄です。将軍家、細川、畠山、斯波、織田等々と家督争いを繰り返した時代と言えます。
今川 義忠の死によって起こった家督争いで龍王丸(後の氏親)を支持したのは、母の北川殿(幕臣・伊勢盛定の娘)です。幕府は応仁の乱が終りましたが、室町幕府第8代将軍・足利義政は富子(妻)と義尚(11歳の息子)と不仲でした。義尚の力を増したいと思う富子は幕府政所執事伊勢貞親を通じて味方を増やそうと考えていました。つまり、今川家の家督を伊勢氏に近い者にしたかった訳です。
伊勢貞親は北川殿の弟で幕臣の伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)を仲介に向かわせます。小鹿範満の小鹿氏を始めて、三浦氏、朝比奈氏らが押し、何よりも堀越公方・足利政知がそれを強く望んでおりました。幕府もそれを無視することもできず、盛時は「和睦に反対する方を上杉氏らは攻撃する」と双方を騙して調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させました。
文明11年(1479年)、盛時は幕府に申請して前将軍・足利義政の名により龍王丸の家督継承の内書を得ておりますので書類上は家督を継いだことになりますが、小鹿範満はそれを無視し続けます。
文明19年(1487年)、北川殿と龍王丸は9代将軍足利義尚に訴えて、幕府は再び伊勢盛時を使わせます。11月、盛時は石脇城で兵を集めて駿河館を襲撃して範満を殺して、駿河今川家9代当主氏親(いまがわ うじちか)が家督を奪い返しました。
斯波 義寛にとって、文明8年(1476年)に遠江の塩買坂の戦いで今川義忠が討死し、家督争いを続けていた11年間は幸いでした。尾張を立て直し、遠江の勢力も取り戻すことができました。文明19年(1487年)に今川氏親が実権を取り戻しますが、失った権威の回復には時間が掛かっていたようで、明応2年(1493年)4月の明応の政変で義材を追放され、第11代将軍足利義澄の政権になるまで大きな動きは見られません。
第9代将軍足利 義尚(1473年~1489年)、第10代将軍足利義材〔後に義稙と改名〕(1490年~1493年)の時代は、斯波義寛が幕府に復権しようと躍起になっており、足利義尚・足利義材(義稙)の六角征伐に参陣しては幕府の影響力を取り戻していきまいた。
しかし、明応2年(1493年)に起こった明応の政変で一転します。
明応2年(1493年)4月、細川政元・富子・伊勢貞宗のクーデターで第11代将軍足利義高(後に義澄に改名)(あしかが よしずみ)が誕生すると、内政は細川政元・日野冨子・伊勢貞宗が取り仕切り、伊勢貞宗の勢力が増すことになりました。さらに相伴衆として日野高光・冷泉為広・正親町三条実望の公家3人が厚遇され、中でも正親町三条実望は今川氏親の義兄で足利義澄の側近随一と言われるようになります。
将軍足利義澄の父は堀越公方であった為に今川氏親は急接近することになったのです。

足利義澄の父、堀越公方足利政知(あしかが まさとも)は、補佐役である関東執事・渋川義鏡と上杉教朝を連れて幕府公認の鎌倉公方として派遣されるが、幕府と敵対状態にあった古河公方足利成氏の抵抗で伊豆の堀越で足止めされました。延徳3年(1491年)4月3日、足利政知が伊豆で病死すると、長子の茶々丸が反乱を起こし、義澄の実母、円満院と継弟・潤童子を殺害して堀越公方を名乗ります。「長享の乱」が起こり、将軍となった足利義澄は、謀反人の足利茶々丸を討伐せねばなりません。実際の軍事力を今川氏に頼らざる得ない事態となったのでした。
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管領細川政元と堀越公方足利政知の関係も只ならぬ関係でした。
康正元年(1455年)鎌倉公方足利成氏は上杉房顕と争いで、長禄元(1457)年、室町幕府第8代将軍足利義政は弟の足利政知を派遣することを決めたことを、細川勝元が「白川修理大夫」(白川直朝)として、「関東主君」として政知が決まったことを伝えたと細川勝元奉書(国分家文書)に残っております。
幕府公認の鎌倉公方として派遣される補佐役には、関東執事・渋川義鏡と上杉教朝を連れております。渋川義鏡の妻は山名氏で、その子に斯波氏(武衛家)11代当主になる斯波 義廉(しば よしかど)がいます。細川勝元の妻、春林寺殿も山名宗全の養女(山名熙貴の娘)です。細川勝元にとって親しい足利政知が鎌倉公方になることを強く望んでいたのでしょう。第9代将軍足利義尚が病死したのが長享3年3月26日(1489年4月26日)であり、管領・細川勝元(政元の父)が足利政知の子である足利義澄を将軍に推挙したのもそう言った関係からでした。
将軍足利義澄と関係が悪くなったおり、管領細川政元は武者小路隆光の縁者である九条政基から養子を貰い身内を固めて関係の改善を図ります。(文亀2年1502年)
しかし、細川一門から大きな反対でもあったのでしょうか、翌文亀3年(1503年)5月に阿波守護家(讃州家)から澄元を養子として迎えて家督相続を約束したために澄之を廃嫡することになります。これが後に、細川政元の暗殺を発端とする「永正の錯乱」(えいしょうのさくらん)へと発展します。

さて、長享3年(1489年)に細川政元が足利義澄を将軍に推挙した関係からでしょう。堀越公方足利政知は茶々丸を廃嫡し、弟の潤童子が後嗣とされました。諸説には、嫡男であったが素行不良の廉で父・政知の命により土牢に軟禁され廃嫡され、執事の上杉政憲は茶々丸の廃嫡を諌めたが聞き入れられず、自害させられたとあります。そして、延徳3年(1491年)4月3日、政知が伊豆で病死すると、継母の円満院に虐待されるも、7月に牢番を殺して脱獄し、堀越公方に決まっていた潤童子と継母を殺して、事実上の公方となったと言われております。
しかし、時期を考えると、文明19年(1487年)に足利政知は二男清晃(後の義澄)を連れて上京しております。そのおりに細川勝元と足利政知が画策し、細川勝元が義澄を将軍に推挙する話しが出来上がっていたのではないでしょうか。
その2年後(長享3年1489年)に足利政知は義澄と同腹の潤童子を世子据え、茶々丸を廃嫡したのではないでしょうか。しかし、茶々丸は素直に納得せず、土牢に軟禁されることになったと考えれば、執事の上杉政憲が反対したことも筋が通ります。
さらに、茶々丸を脱獄させるのを手伝ったのが、自害に追い込まれた上杉政憲の家臣と考えれば、茶々丸の行為を上杉家が妨害しなかったことも必然となる訳です。
明応2年(1493年)4月、足利義澄が将軍に就任すると、管領細川政元は父の思惑を潰した茶々丸を討伐することを思い、明応2年(1493年)夏に伊勢貞宗を通じて将軍の命で早雲庵宗瑞(伊勢新九郎盛時、出家して改名)に討伐を言い渡します。早雲庵宗瑞は今川の兵を率いて堀越公方を攻めることになったのです。
いずれにしろ、将軍の生母と実の弟を殺した堀越公方を討伐しないのは、幕府として権威を失い兼ねない事態であり、それを実行できる今川家は幕府にとって重要な地位を占めたのです。当然、今川氏親の義兄である正親町三条実望の影響力も増したという訳です。

今川氏親がどのようにして領国経営を進めたのかという資料は残っておりません。しかし、土地と農民を直接掌握する検地(永正十五年)を実施し、守護大名から戦国大名に脱皮を図る分国法といわれる「今川仮名目録三十三か条」の制定(大永六年四月十四日)を行っております。
業績として様々な産業の振興の一つが、安倍金山の開発です。金採取方法を砂金中心から坑道掘りに変え、金の産出量を飛躍的に増加させます。
明応2年以降の戦費を賄ったと考えれば、文明19年(1487年)から明応2年(1493年)4月までの間に産業の振興を行っていたのかもしれません。
梅ヶ島金山は梅ヶ島村の日影沢金山(ひかげざわきんざん)、関之沢金山(せきのさわきんざん)、および入島村の湯ノ森金山(ゆのもりきんざん)などの総称です。井川村の笹山金山(ささやまきんざん)を中心とする井川金山(いかわきんざん)も含めて、安倍金山(あべきんざん)と呼ばれております。
『今川記』によれば、安倍郡の金鉱は享禄以前から採掘されており、三条西実隆の記した日記『実隆公記』には、永正年間以来に今川氏から公家に金が贈られた記事が散見されております。永正16年(1519年)には今川氏親が年礼金10両を幕府に進呈し、享禄4年(1531年)には氏親の兄にあたる、中御門宣胤の男の宣秀の許へ金を贈っていると書かれております。つまり、永正元年(1504年)以降に金山の開発がより進んだことが見受けられるのです。
坑道掘りになると大量の油を必要とします。その多くの油は津島の港から出航したと言われ、信長の祖父、織田 信定が中島郡・海西郡に勢力を広げて津島の港を手中に収め、津島に居館を構えておりました。永正年間に勝幡城を築城し、大永年間に津島の館から拠点を移しております。今川の躍進と織田の発展は表裏一体だった訳です。
多くの国人が一年に何度も戦を行えないのに対して、織田信秀が一年中戦いを仕掛けます。これは津島から得る利財があったからです。同様に明応2年以降の毎年のように行われる今川氏親の戦費は金の採掘が資金源だったのかもしれません。

≪遠江への侵攻≫
明応2年(1493年)に第11代将軍足利義高(後に義澄に改名)が誕生し、その夏に伊勢新九朗盛時が今川の兵を率いて堀越公方足利茶々丸の居城である韮山城を攻めます。
さて、幕府にとって越中公方として越中の越中守護代、神保長誠の元に身を寄せている足利義材(義稙)が存命であり、義材派の斯波義寛の尾張・遠江も勢力は非常に危険な存在でした。将軍の命で今川に遠江の斯波氏方の討伐が下されます。
伊豆攻めの翌年(明応3年)には、伊勢新九朗盛時が兵を率いて遠江へ赴きます。
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▲明応3年(1494年)天方城を攻め、山内豊後守通秀を降らせる。
▲明応3年(1494年)10月13日、佐野・山名・周智3郡に侵攻し、殿谷城の原頼景を攻め落とす。
▽明応5年(1496年)、横地村に居館、横地四郎兵衛秀国の孤児、藤丸、家老、二俣、松井氏、門原(桃原)に居城の勝間田氏は、倉真(掛川市)の河合氏を滅ぼしている。
▲明応5年(1496年)志戸呂の戦い、横地・勝間田・河合氏ら斯波派遠江国人領主らを各地で攻め、志戸呂城において城主鶴見因幡守を打ち取る。
▲明応5年(1496年)年9月10日 松葉城の戦い、原氏と共同歩調をとる国人領主たちを追いつめる。
▲明応6年(1497年) 原要害(殿谷城)の戦い。殿谷城を攻め、説得して原氏は今川方にする。
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明応3~6年の今川氏親の遠江進出は分国守護斯波氏の領地である遠江東部海岸部に集中します。南北朝室町時代(1336?1392)に今川了俊が北朝であったことから、南朝の氏族が今川氏と敵対関係の斯波氏に付くという背景がありました。
明応8年(1499年)9月3日、斯波義寛、義稙派から義澄派に転向します。
将軍足利義澄が自ら政治を行うようになり、伊勢貞宗の権力にも陰りが見え始めました。今川氏親は義澄派から義稙派に転向し、周防の大内義興のもとに身を寄せている足利義尹(義稙)を支持するようになります。
幕府の支持を得た斯波義寛の反撃が始まります。
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明応10年・文亀元年(1501年)8月~9月 斯波義寛(しば よしひろ)は今川に降っていた山内豊後守通季の天方城の奪還を命じ、遠江守護代甲斐氏への援軍として義寛は弟である寛元、義雄を遠江に派遣し、さらに、信濃守護小笠原定基の援軍を得た。
遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍は天方城に迫ると、斯波軍の攻撃の前に山内豊後守通秀は城を捨て今川方に身を寄せた。天方城を攻略した連合軍は各地に転戦した。
座王城(久野城)にあった久野宗隆は小笠原是基・貞忠父子に攻められ苦戦し、城を奪われるが福島左衛門尉助春、本間宗季らの援助を得て勝利を収めた。また、形勢が逆転し、小笠原氏が天方城に立て篭ると久野宗隆は本間宗季らとともに攻撃した。
遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍は各地で激戦を繰り返すが、座王城・天方城を奪い返されると劣勢に転じた。
文亀元年(1501年)9月18日に早雲庵宗瑞は甲州の吉田城に乱入しましたが、遠江の戦況を見て陣を引いたようです。座王城(久野城)や天方城で苦戦を強いられる遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍は、早雲庵宗瑞が折り返してくることを察して軍を退いたと察せられます。
今川軍は久野城と天方城を奪還し、さらに社山城、引馬城、馬伏塚城、見付端城を奪い取りながら遠江西部を制圧し、三河東部に侵攻しました。
三河東部に侵攻した早雲庵宗瑞は岩津城まで迫り戦闘になったと推測されますが、本格的な侵攻は永正3年(1506年)8月20日まで待つことになります。
松平氏と今川氏は政所執事伊勢貞宗の下に友好な関係を持っていたと思われますが、今川氏親が義澄派から義稙派に転向したことで亀裂が生じました。松平氏が今川氏と組むことは幕府を敵に回すことになります。当然、三河守護細川成之、管領細川政元も敵に回すことを意味しました。
遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍が今川を叩く前に松平に兵を送ることになってしまいます。今川の風避けになる気のない松平氏は当然の事ながら幕府方に付いておりました。今川軍が迫ってくれば、戦わない訳にはいかない事情を抱えていた訳です。こうして、今川氏と松平氏の新たな対立が起こったのです。
一方、斯波氏は遠江の戦いで負けたことで遠江の支配力を失います。その後も遠江では斯波派が各地で抵抗を続けますが、組織的抵抗まで出来なくなってゆきました。
詳しい戦闘の文献を見つけられていないので何とも言えませんが、斯波連合軍は戦地を無為に拡大し、各地域に兵力を投入した為に兵力が分散し、各個撃破的に苦戦を強いられたのではないでしょうか?
後の北条氏は騎馬武者を中心とした機動力を活かし、籠城と挟撃を得意としております。この戦いでも今川方は籠城を基本戦略に置き、遊撃部隊が各個撃破を行っていったと考えれば、斯波連合軍の苦戦も納得いくというものです。

≪三河への侵攻≫
明応10年・文亀元年(1501年)に三河に入った今川軍ですが、永正3年(1506年)まで再び三河に侵攻する様子を見せません。相模国・遠江と拡大した領地の安定と関東勢、甲斐の武田との戦いもあり、小競り合いを繰り返す時期になります。
文亀2年(1502年)7月21日に将軍足利義高は義澄と改名します。幕政を自ら行うとする義澄と管領細川政元の間でしばしば衝突が起こるようになっていたようです。文亀2年(1502年)に摂関家の九条家から家督相続を条件に澄之を養子として迎えるのも、澄之(すみゆき)の母が将軍と母と武者小路隆光の娘ということもあるのでしょう。しかし、澄之を養子に据えたことで、細川一門から不満の声が上がったのでしょう。翌年には澄之を廃嫡して、阿波守護家(讃州家)から澄元を養子に向か入れます。それによって澄之・澄元両派の対立が起こったようです。
今川氏親が文亀元年(1501年)から永正3年(1506年)までの5年間、三河への侵攻を控えたのは、管領細川政元・三河守護細川成之(ほそかわ しげゆき)との対決を避けたに違いありません。何と言っても細川氏は丹波国・摂津国・阿波国・讃岐国・土佐国・淡路国・三河国を治める守護であり、畠山を討って大和国や河内国にも支配権を広げていました。氏親は義稙派に転向しても幕府を蔑ろにした訳でなく、寧ろ永正年間に入ると多額の寄付を行って幕府に貢献しております。
永正5年(1508年)に義稙が義澄から政権を奪還すると、将軍足利義稙はすぐに今川氏親に遠江守護を与えていることから細川氏および幕閣への裏工作を担当していたと思われます。特に今川氏親の義兄である相伴衆の正親町三条実望を通じて、働き掛けを続けていたのかもしれません。
いずれにしろ、永正3年(1506年)4月21日に細川澄元が兵を京に上らせて、澄之・高国と家督を巡り争うこととなります。今川氏親は澄之・高国方に肩入れしたようで、細川一門方の澄元に組みしていたと思われる三河守護細川成之の領地である三河へ踏み込みます。
永正3年(1506)8月、幕府・伊勢氏が三河分郡守護を務めた所領回復の為、伊勢氏代官・松平家の横領を停止させると大義名分を上げて兵を起こします。細川京兆家高国は幕府側であり、幕府から三河討伐を今川氏親に命じられたのでしょう。
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今川方は松平と敵対する勢力に助力を求めました。
吉良氏、戸田氏、奥平氏、中条氏と協力関係を結び、信濃小笠原氏と和睦を申し出ております。
永正3年(1506年)8月20~21日に早雲庵宗瑞は岩津城の戦いを始めると、取って返したように8月26日~11月4日に今橋城に戻って牧野古伯を打ち取ります。
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今橋城(吉田城)の関係も複雑です。
戸田宗光(田原城主)は渥美郡の完全支配を目指し、今川義忠亡き後の停滞期を狙って二連木城(吉田城の東2㌔)を築き、今川方の船形山城を落とすなどして戸田氏は勢力を伸ばしました。一方、応仁の乱で一色義直に従った牧野氏は一色城主の一色時家を討ち滅ぼした波多野時政を攻めた。明応の政変が起こった明応2年(1493年)12月に灰野原の戦いで討ち取って波多野氏を滅ぼして、その土地を奪った経緯がある。波多野氏が所領した宝飯郡(ほいぐん)は、現在の豊川市の当たりであり、渥美郡の付け根でありました。
戸田宗光が今川方の船形山城を落すなど今川方と敵対していたので、牧野古白は今川氏と組んで対抗したと思われます。
明応6年(1497年)に三遠国境の船形山城を手中にした戸田宗光は勢いに乗じて遠江に進攻、浜名湖西岸から北岸(三ケ日町)にかけてその所領を拡大した。
しかし、明応8年(1499年)、今川氏親は掛川城の朝比奈氏に宗光討伐を命じ、船形山城は朝比奈泰以に率いられた今川勢の猛攻を受けて落城した。諏訪信濃守と戸田宗光はこの戦で討死したそうです。(戸田宗光は永正5年(1508年)6月19日没説もあります。)こうして、戸田氏が今川に降ったことで、牧野古白と今川氏の間に微妙な亀裂が起こったのです。
戸田氏と牧野氏は領地で紛争を続ける間がらでしたが、戸田氏が今川に降ると牧野氏にとって今川が味方という訳にはいかなくなります。そこで今川と対立関係にあった松平氏と内通するようになっていったのかもしれません。
牧野氏の領地を狙っている戸田氏はそれを今川に報告しました。
早雲庵宗瑞は一計を案じて、岩津城を攻撃すると牧野古白に出陣を申し付け、城から出たところを早雲庵宗瑞は兵を今橋城へ反転させ、戸田宗光の嫡子憲光と共同で挟撃したということが在ったのかもしれません。
『牛窪密談記』には、「牛久保牧野氏からも援軍として牧野新二郎(新三郎とも)が後詰めに出陣したが敗北にともない散兵を収めて牛久保に帰陣した」と書かれております。
また、『三河海東記』では、「西三河の松平長親が今川氏進攻の急報に接し、援兵を東三河に送った。長親は援兵を宝飯郡の八幡(愛知県豊川市八幡町)に派遣、後陣を西三河の大平河(岡崎市大平付近)に置いたが東三河勢が大敗したとの報を受け大平河の松平軍が大いに動揺した」ともあります。
いずれにしろ、今橋城を落とした今川軍は東に進路を取り、松平領を侵攻します。
三河への侵攻を前の8月に今川氏親は奥平八朗左衛門入道に書状を当てている。内容は細川の一城を落とすので積極的な協力を求めるというもので、矢作川の東部に当たる上野通路したいので上野の一族の調略をお願いしたいというものでありました。
上野郷は矢作川の西岸です。岩津城・岡崎城が矢作川の東側にあり、安祥城(あんじょうじょう)の北部に当たる一帯です。
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中条氏は加茂郡西部を所領していたが、加茂の領主が松平に敗れて以降、南部を松平氏に奪われ、矢作川を越えた西部地域で覇権を失っていました。今川氏の三河侵攻で加茂郡の領主たちと競合して奪い返しに出ています。中条の支配地と隣接する岩津総領家にとっては一大問題です。岩津総領家は矢作川を越えた西部地域を失っていたかもしれません。一時的であれ、勢力を取り戻した中条氏は永正五年の時点で重原庄(安祥城の西側)の支配を掲げていました。重原庄の南部に拠点を据える水野氏とって問題であり、それが原因で関係を悪くしたと思われます。
吉良氏は将軍家一門としての格式は有するものの小領主でありました。三河においては幡豆郡・額田郡・宝飯郡を所有していましたが、応仁の乱以降は幡豆郡か、宝飯郡の西側を所領していたと思われる。
吉良当主、吉良義信は足利義澄との関係が悪化しており、今川勢に義稙との仲介を求めています。永正五年に義稙が将軍に復帰すると近臣として役割を果たしており、文亀の頃から今川とは好を通じていたのかもしれません。『宗長手記』の一節、大永二年(1522年)の回想に文亀年間(1501~1504年)で、「吉良義信の「奉行」として浜松庄を管轄していた大河内貞綱がそうした今川方と争い、結局、義信は貞綱を更迭した。」と書かれています。吉良義信の今川への貢献が評価されています。今川氏の三河侵攻で吉良氏が松平に武力を酷使したという記述は見当たりませんが、今川氏へ協力を惜しむことはなかったでしょう。
奥平氏は三河北東部を所領する氏族です。
当主は久保城の奥平貞昌でした。永正3年(1506)8月に今川氏親から奥平八郎左衛門入道宛てに書状が届けられております。内容は細川の一城を落すので矢作川の西側に当たる上野の通行できるように加西衆を動員できるようにしておいて貰いたいというものです。

「先度以状申述候、為其国合力、来十六日諸勢可差越候、田原申合、抽而其動肝要候、例式於無沙汰者不可然候、此方勢衆逗留之内ニ細川ニ一城取立、上野通路無相違候様ニ、調談専一候、此儀就庶幾者、各以近番、加西衆可■相踏候、巨細諸勢相立候時可申越候、為心得先兼日申述候、恐々謹言、
八月五日
氏親 判
奥平八郎左衛門入道殿」

1506(永正3)年8月5日『今川氏親書状写』

奥平貞昌は永正2年(1505年)に遠江国浜松荘の一部を所領としてもらっておりましたので、この時点では今川方になっております。三河攻めに参加したかは、この書状から見受けられませんが、戸田氏と同じく参戦して可能性は高いと思われます。
水野氏は斯波家の織田家家臣ですから参戦することはありません。しかし、義稙派だった為に今川氏と良好な関係を持っておりました。永正5年(1508年)に義稙が将軍に復権した際に今川氏親は京に献馬を送りましたが刈谷城水野近守は通行を許可し、さらに護衛するなど協力を惜しんでおりません。また、その年、尾張国水野為則が下野守任官の礼として三条西実隆を尋ねております。
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今川氏親の妻、寿桂尼は甘露寺房長を経由して縁者に当たります。氏親が公卿に金を寄付しておりますが、当然、三条西実隆もその一人です。今川氏と水野氏は公卿を通して、関係を深めていった訳です。
また、隣国の諏訪の小笠原定基にも早雲庵宗瑞から手紙がしたためられ、関係の改善を図っております。
こうして、今川氏親は三河の吉良氏、戸田氏、奥平氏、中条氏、水野氏を味方に引き入れてから永正3年(1506年)8月に三河侵攻を開始した訳です。
11月15日付で岡崎の妙源寺に今川氏親制札が発行しれていますので、11月頃には岩津・岡崎周辺まで今川の勢力が達していたことが伺えます。
今川氏親が奥平貞昌に送った書状には矢作川の西岸の通路とありましたから、今川軍の目的は尾張であり、松平の排除はその過程と思われます。しかし、松平衆は強固に粘り、落城まで至らなかったというのが実情でしょう。
永正3年(1506年)8月から永正5年(1508年) 10月19日まで、今川軍は幾度となく兵を送ります。永正五年の岩津攻めでは遠江衆も参加したとありますから、相模衆から三河衆まで総勢一万を超えていたかもしれません。
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永正5年(1508年)7月1日、室町幕府第10代将軍 足利義稙は大内家の軍事力に支えられ、11代将軍・義澄や細川家後継者争いで高国と対立していた管領・細川澄元を追放し将軍職に復帰しました。今川氏親を遠江守護に任じられ、順風満帆に思われます。
しかし、好事魔多しとお申しますように、突如、永正五年(1508年) 10月19日に早雲庵宗瑞の率いる今川軍が撤退しました。
『三河物語』に語られている今川勢は牛久保の牧野、二連木の戸田、西之郡の鵜殿、作手の奥平、段嶺の菅沼、長篠の菅沼、野田の菅沼、設楽・嵩瀬・西郷・伊奈の本多、吉田の人々とあり、三河の国のその他をすべて敵に回しています。しかも『柳営秘鑑』では長親の先陣を務めた本多氏が今川方に加わっております。
そして、『三河物語』では、松平長親はただ五百騎とのみ安祥城より出撃し、井田野で今川軍一万余と対戦し、激戦の末これを退去させたとあります。
五百騎で一万余を撃退とは、織田信長も諸葛亮孔明もさぞびっくりでしょう。

≪永正五年 今川撤退と幕府の思惑≫
永正5年(1508年)7月1日、室町幕府第10代将軍 足利義稙は12代将軍として復帰を果たします。
「永正の錯乱」で永正4年(1507年)6月23日、薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らに唆された祐筆の戸倉氏によって細川政元が暗殺されて、翌24日には香西元長らによって、仏陀寺を宿所としていた細川澄元・三好之長を襲います。澄元は之長らの働きもあり、共に近江に逃れます。そして、薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らは将軍家より細川家の家督を澄之に承認させます。
6月26日、政元の命令を受けて丹後の一色義有を攻めていた赤沢朝経が軍を京都に撤退させようとしたが、一色義有や丹後の国人石川直経らの反撃を受け、自害に追い込まれました。その養子の長経は逃げ延び、澄元の配下になります。
野州家の細川高国は、摂津分郡守護細川政賢や淡路守護細川尚春、河内守護畠山義英と語らい、政元の後継者を澄元とすることで合意を得ると兵を差し向けました。
7月28日、薬師寺元一の子・万徳丸は長忠の居城茨木城を攻め落しました。続いて翌29日、細川高国らは香西元長の居城嵐山城を攻め落としました。
8月1日には、逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れ急ぎ京に戻った三好之長が、細川澄之の最後の砦となっていた遊初軒を高国勢とともに一気に攻め落し、澄之は自害した。翌2日、澄元は将軍に拝謁し、京兆家の家督と管領職を継ぐことになりました。
京兆家を継いだ澄元は直ちに畿内の平定を行います。
9月には、赤沢長経に命じて大和で反乱を起こした筒井順賢・十市遠治・越智家教ら大和国人衆を破り、大和を征圧させました。
細川澄元は三好之長を高く評価していたらしく、政治の全般を委任したと言われます。澄元を守ってくれた之長を高く評価するのは間違っていませんが、澄之の自害に追いやったのは高国と一緒に戦った者です。勝敗が決した頃に遅れてきた之長が高く評価されるのは、共に戦った者達として面白くありません。さらに根が田舎者の三好之長は祭り事に疎く、三好之長の幕政に不満を持つ者達は自然と細川高国の元に集まっていきました。
三好之長の命令で阿波細川党の邸宅の堀づくりにかりだされた彼らは、その心境を次のような落首に託しています。
「ながらえば またみよし(三好之長)をやしのばまし
          うきかうさい(香西元長)ぞ 今はこいしき」

まさしく、嫌々堀を掘っていたのだが、河原林政頼もこの様子を、
 「はげしかりし 嵐の風(嵐山城主香西元長)は 音を立てて 
              今をさかりしみよし(三好之長)のの花」
と、諷している。
この細川家の内乱に乗じて周防の第10代将軍足利義稙が大内義興に擁立されて上洛を開始しました。永正4年末には、備後鞆(広島県沼隈郡)まで寄せて様子を伺っておりました。細川高国は大内義興の上洛阻止の為に澄元の命令で和睦交渉に当たりましたが、逆に高国が懐柔されたのか、3月17日に伊勢参宮と称して京都を脱出し伊勢に逃れると、伊賀守護の仁木高長に身を寄せるという大事件が起きました。
細川高国謀反の噂は忽ち広がり、4月9日、澄元の領国だった摂津・丹波の主だった国人達は之長への不満から高国方に組みすることを表明します。大内義興に支えられた第10代将軍足利義稙は備後鞆を出発し、堺に近づいておりました。
細川澄元や三好之長は、自らの屋敷に火を放ち再び近江に落ち延びた。また、将軍足利義澄も近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れました。
翌4月10日、細川高国は仁木高長、伊丹元扶、内藤貞正らと呼応して京に入ります。
永正5年(1508年)4月下旬、足利義尹一行は堺に到着し、当地で細川高国・畠山尚順ら畿内諸大名の歓迎を受け、6月8日に義尹共々宿願の入京を果たし、7月に室町幕府第12代将軍に復権しました。
7月18日、細川高国は右京大夫・管領と細川家督を承認され、大内義興と細川高国の幕政体勢が整います。
同年7月に今川氏親の遠江守護が申し渡されます。
さて?
7月という事は、幕政の最初の仕事として今川氏親の遠江守護に任じられております。
前文の足利義尹(義稙)の上洛中に今川氏親が直接活躍の場はありません。今川氏親が義稙に貢献できたことは三つです。
1つ、義稙を支持していると高らかに宣言することです。有力守護が義稙派であることは非常に政治的に有効です。
1つ、公卿に寄付を行い、義稙派への懐柔を行ったことでしょう。
1つは、細川高国に敵対していた澄元派の三河守護細川成之の幕臣松平氏を攻めていたことでしょう。
今川氏親の貢献は大きく、それを評価した結果が遠江守護に任じられたのでしょう。しかし、三河を攻めていた今川勢が突如撤退してゆきます。
『三河物語』では、松平長親が五百騎で一万余を撃退したとありますが現実的でありません。
戸田宗光あるいは戸田憲光が寝返って退路を断たれることを恐れた為とありますが、牧野氏を攻めたと同じように戸田氏も滅ぼせばよいだけのことで理由には説得力がありません。
では!?
何故、今川勢は撤退したのでしょうか?
理由は一つしか考えられません。
主君であり今川氏親が撤退を命じたからに違いありません。そして、今川氏親に三河からの撤退を申し付けたのは幕府(足利義稙・細川高国)以外に考えられないからです。
おそらく、細川高国が管領に任じられると同時に三河守護細川成之が降って来たと考えられます。松平氏は今にも陥落しそうな状態です。一旦でも今川の手に落ちれば、取り返すことは容易ではありません。泣きついてでも高国に願い出たに違いありません。高国にしても細川家の領地を易々と今川に奪われるのを心地よく思うことはないでしょう。
また、足利義稙が将軍に返り咲くと斯波義寛も謝罪に訪れていたかもしれません。裏切った斯波義寛を許したかどうかは判り兼ねましが、一方、色々と貢献してくれた今川氏親ですが、義澄派から義稙派へ転向した守護を信用したでしょうか?
その裏切って味方になった守護が、駿河・遠江・相模・三河、もしかすると尾張も支配化に置くかもしれません。今川氏親が再び寝返って、義澄派になった場合、大内義興に匹敵する勢力に成りかねません。おそらく、苦楽を共にしていない今川氏親を信用することはなかったでしょう。
尾張斯波、三河細川、遠江・駿河今川と拮抗していれば、幕府を脅かす勢力に成り得ません。幕府(足利義稙・細川高国)は今川氏親を駿河・遠江に押し込めるつもりだったと考えれば、遠江守護を与えて満足させた上で、三河からの撤退を内々に申し付けたのは自明の理であります。
今川氏親も悩んだことでしょう。
しかし、幕府との関係を悪化させることは得策ではないと氏親は判断したと思われます。三河が細川高国の勢力になれば、労せずして三河を通過することもできます。尾張・斯波氏との決戦に支障はないと判断したのでしょう。
戸田宗光あるいは戸田憲光は早雲庵宗瑞に「このまま松平を滅ぼすべきだ」と進言していたかもしれません。あるいは、身内の松平氏を思いやって「幕府の命に従って撤退すべき」と叫んでいたのかもしれません。
いずれにしろ、今川方の内部でも意見が対立していては話になりません。早雲庵宗瑞は撤退の決意を下します。
早雲庵宗瑞が撤退を決意した最大の理由は相模と三河の距離でしょう。伊豆に拠点を置く早雲庵宗瑞にとって、相模と三河は遠いと感じたに違いありません。姓も伊勢氏から北条氏に改めて、早雲庵宗瑞の視点から三河・尾張が外れ、相模から関東へと重心を置き換えることになってゆきます。
翌年(永正6年)から早雲庵宗瑞は相模方面に集中し、遠江・甲斐は氏親が率いる福島氏らに任せるようになります。これは決別ではなく、氏親らの成長によって任せることにしたと捉えることもできますが価値観の相違を思わずにいられません。

今川氏親はどう思って兵を撤退させたかは定かではありませんが、永正6年以降、遠江の国人の反乱や三河勢の逆襲に手を妬くことになります。
永正12年(1515年)斯波義寛の子で斯波氏(武衛家)13代当主の斯波義達が遠江の国人である大河内貞綱や井伊直平と共に遠州に進撃し、氏親配下の武将・朝比奈泰以と飯尾賢連の前に大敗を喫するまで斯波氏の抵抗は続きました。
大永年間(1521年 - 1528年)になると、三河を飛び越して今川の勢力は尾張まで延びております。今川氏の一族である今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築き、今川氏親の末子の今川氏豊を今川那古野氏の養子として入れ、那古野城主としています。
元々駿河の今川氏が一時尾張守護を兼ねていた時期に庶流の那古野氏が領有し、斯波氏が尾張を領有した後もこの地に留まっていた一族ですが、斯波氏の意向が地に落ち、尾張の動乱を見兼ねて今川氏親を頼ったのではないでしょうか。
しかし、大永6年(1526年)6月23日、氏親は中風に犯され五十六歳で駿府の今川館で息を引き取りました。嫡子氏輝は弱冠十四歳の若武者であった為に、三河では松平清康が台頭し、尾張では織田信秀が頭角を現すこととなりました。

続きは、氏輝・義元はこちらをご覧下さい。
番外 名君義元 東海一の弓取りの事(1)<<甲斐の虎を制した事>>   
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/1-392c.html

番外 名君義元 東海一の弓取りの事(2)<<相模の穴熊を屈させた事>> 
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-ad06.html

<<永正六年以降の今川の遠江における動き>>
▲永正6~7年(1509~1510年)、西条吉良の代官?大河内貞綱が三河勢を連れて遠江に逆侵攻する。
◆永正七庚牛年(1510年)三月廿日 今川氏親、本間宗季の軍忠状を認定する
▲永正7年(1510年)11月26日、斯波氏の拠点、引間城(浜松市)を今川軍が奪う。
◆永正7年(1510年)12月28日夜~永正9年(1512年) 閏4月3日伊達忠宗、今川氏に刑部城を巡る攻防戦の成果を報告する
◆永正8年(1511年)、今川氏親、京都へ献馬する為に信濃への塩の道、飯田街道沿いの中条氏と水野氏に協力を申し出る。
☆永正8年(1511年)斯波 義達(しば よしたつ)、斯波氏(武衛家)13代当主、尾張守護を継ぐ。
▲永正8年(1511年)10月19日、武衛尾張守護斯波義達が遠江奪還へ出馬し、斯波氏に属する勢力、刑部や井伊谷、三岳城などを拠点に今川氏に侵攻する。
◆永正9年(1512年)から永正14年(1517年)にかけての5年間、『遠江大乱』 遠江を中心とした地域で、斯波家と今川家の同族相争う。三河国の反今川の同盟者で、津島大橋家の婿、吉良家の家老・大河内貞綱が、遠江曳馬城(浜松)に乱入。
▲永正9年(1512年)4月6日、斯波義達が気賀および下気賀に大規模な攻撃を仕掛けたが勝敗は決まらない。
▲永正9年(1512年)閏4月2日、義達は信濃国の小笠原氏や三河国の土豪らと共に浜名湖南の村櫛に大攻勢を仕掛けた。しかし、この戦いは今川方が勝利した為に斯波氏は遠江における拠点をすべて奪う。
◆永正10年(1513年)
斯波 義達(しば よしたつ)、反攻を図って遠江の国人である大河内貞綱や井伊直平と共に遠州に進撃したが、氏親配下の武将・朝比奈泰以と飯尾賢連の前に大敗を喫する。
◆永正11年(1514年)尾張国、大橋家の縁者で尾張・三河・遠江に所領を持つ豪族・中根家、熱田を支配する千秋家を柱とする義達軍が大挙北進し、遠江国の刑部城を攻撃する。
◆永正12年(1515年)8月 斯波 義達(しば よしたつ)、今川軍と再度戦ったが、またも大敗したうえ、今度は自身も捕虜となってしまう。虜囚となった義達は、同族である氏親の情けによって一命は取り留めたものの、剃髪を強いられ尾張に送り返される恥辱を受けた。
斯波 義統(しば よしむね)、わずか3歳の義統は守護職を譲られ、斯波氏(武衛家)14代当主、尾張守護を継ぐ
◆大永年間(1521年 - 1528年)今川氏親、今川氏の一族である今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築き、末子の氏豊を今川那古野氏の養子として入れ、那古野城主とする。
☆大永6年(1526年)6月23日、氏親は駿府の今川館で息を引き取った。今川 氏輝(14歳)で第9代当主となる。
◆享禄5年(1532年)
今川 氏豊、勝幡城主織田信秀の奇計によって兵を城に侵入され、那古屋城を落とされた。
『名古屋合戦記』
◆天文2年(1532年)今川氏輝は遠江において検地を行う
◆永正17年(1520年)、柴屋軒宗長が刈谷城水野近守のために連歌集『老葉』に注釈を付した『老葉集』を記した時に、八葉周辺が戦場になり、上洛の途中で立ち往生した宗長は近守が乗り出してくれたので窮地を脱したという。

≪伊勢新九朗盛時(早雲庵宗瑞)≫
早雲庵宗瑞の行動は以下のように行われます。

・嘉吉三年(1443年) 伊勢盛経、法泉寺へ寺領寄進
・宝徳元年(1449年)伊勢貞国、政所執事をやめる
・康正元年(1455年)、鎌倉公方足利成氏は上杉房顕と争いに足利政知を派遣することを細川勝元が「白川修理大夫」(白川直朝)として伝える。
・康正元年(1455年) 伊勢貞国、没する。
〇長禄元年(1457年) 伊勢新九郎、上京
〇寛正五年(1464年) 伊勢新九郎、義視に仕える。
〇応仁元年(1467年) 伊勢新九郎、足利義視に従い伊勢に下る。
・文明二年(1470年) 今川龍王丸(氏親)生まれる。
・文明8年(1476年)遠江の塩買坂の戦いで今川義忠が討死する。伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が龍王丸と小鹿範満を和睦させる。
〇応仁三年(1469年)二月、新九郎、妹と従行して駿河今川家に赴く。
・文明11年(1479年)、龍王丸の家督が幕府で認められるが、小鹿範満は実行支配を止めない。
・文明15年(1483年)、「都鄙和睦」 (関東管領・両上杉氏と古河公方・足利成氏が和睦) 都鄙和睦によって、堀越公方・政知は苦境に立った。
〇文明十五年(1483年)10月11日、伊勢新九郎、申次衆に召される。
〇文明十七年(1485年) 備中祥雲寺の寺領紛争がおこり、伊勢新九郎、幕府へ覚え書を提出する。
〇文明十七年(1485年)小笠原氏の娘と再婚。
・文明19年(1487年)、足利政知の二男清晃(後の義澄)が上京する。
〇長享元年(1487年) 夏、駿河の今川家に紛争再燃し、伊勢新九郎、下向する。
◎文明19年(1487年)11月9日、龍王丸は伊勢新九郎盛時と共に朝比奈氏らの応援で小鹿範満を討つ。
・長享元年(1487年)、伊勢新九郎(早雲)、興国寺城を与えられる。(自ら選んだとされる。)
〇長享元年(1487年)伊勢新九郎、長子氏綱生まれる
・長享元年(1487年)~永正2年(1505年)、長享の乱(ちょうきょうのらん)、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正で起こった戦い。
〇延徳元年(1489年) 伊勢新九郎、次男氏時生まれる。実母小笠原氏、産後悪しく没する。
・長享3年(1489年)3月26日、管領・細川勝元が足利義澄を将軍に推挙する。
・延徳3年(1491年)4月3日、足利政知が伊豆で病死する。茶々丸が反乱を起こす。
・延徳3年(1491年)5月、早雲庵宗瑞は京へ赴く。
・延徳3年(1491年)7月、茶々丸は継母・円満院と継弟・潤童子を殺害して、鎌倉公方を僭称する。(伊豆守護・山内上杉顕定は茶々丸の行動を黙認)
・延徳3年(1491年)8月、早雲庵宗瑞は駿河に下国する。
・明応2年(1493年)4月、足利義澄が将軍に就任すると、早雲庵宗瑞に茶々丸討伐の命を出す。伊豆公方茶々丸を討つと韮山城に拠る。
◎明応2年(1493年)夏、堀越御所の手薄を狙って、陸路興国寺から韮山を急襲する。
◎明応3年(1494年) 伊勢新九郎、松田頼重らの協力により、小田原大森氏を小田原から追い落とす。
◎明応3年(1494年)扇谷方として武蔵国高見原に出兵するが、扇谷定正の急死により撤退する。
▲明応3年(1494年)早雲庵宗瑞の視線は早くも西を捕える。数千の兵を率いて遠江へ侵攻する今川氏親軍の軍師を務めたのだ。佐野・山名・周知の遠江三郡を狙い、原氏の居城・高藤城(殿合城)を攻撃。民家を幾千万焼き払い、山林も灰燼帰すというほど激しい戦いの末、落城させた。
▲明応3年(1494年)早雲庵宗瑞を大将に遠江侵攻する。天方城の山内豊後守通秀が今川に降る。
・明応3年 (1494年)10月05日 扇谷上杉定正は上杉顕定と武蔵国高見に対陣するが病死する。
▲明応3年(1494年)10月13日、早雲庵宗瑞は佐野・山名・周智3郡に侵攻し、殿谷城の原頼景を攻め落とす。
・明応3年 (1494年)10月18日 越前国守護朝倉貞景が甲斐八郎の兵と越前で交戦する。
・明応4年(1495年)8月25日 鎌倉に大地震発生、津波のため鎌倉大仏殿など破壊する。溺死するもの多数でる。
◎明応4年(1495年)8月  伊勢新九郎、甲斐に出兵して守護武田信縄と戦う。
◎明応4年(1495年)9月某日、早雲庵宗瑞は鷹狩と称して出陣し、小田原城の大森藤頼を攻める。(明応10年(1501年)までの間とする説もある)
◎明応4年(1495年)茶々丸、宗瑞によって伊豆国から追放され、山内上杉氏や武田氏を頼る
▲明応5年(1496年)志戸呂の戦い、今川氏親は横地・勝間田・河合氏ら斯波派遠江国人領主らを各地で攻め、この志戸呂城において城主鶴見因幡守を打ち取る。
・明応5年(1496年)5月20日 日野富子(57才)没する。
◎明応5年(1496年)山内方が相模西部に進軍して小田原城を攻める。城を守る弟の弥二郎と大森氏は敗走。
▲明応5年(1496年)年9月10日 松葉城の戦い、今川氏親は原氏と共同歩調をとる国人領主たちを追いつめていった

 

▲明応6年(1497年)4月25日 柏久保城(修善寺町)の戦い
・明応6年(1497年)6月、東海大地震、「御所が死んだ」『普王寺年代記』
・明応6年(1497年)8月19日 足利義材が名を義尹に改める。
◎明応6年(1497年)8月26~ 27日、西伊豆から関戸吉信の下田・深根城を攻めた。伊豆平定。
・明応6年(1497年)6月28~29日、伊豆に台風の直撃
▲明応6年(1497年)11月13日 倉真城の戦い
▲明応6年(1497年) 原要害(殿谷城)の戦い
・明応7年(1498年)6月25日、東海大地震(余震)
◎明応7年(1498年)8月、甲斐国(伊豆深根城とも)で宗瑞に捕捉され、茶々丸は自害した。
・明応7年(1498年)8月25日、明応大地震〔この東海地震で津波が発生し、浜名湖が外海に繋がる。遠江灘から駿河湾沿岸までの8kmで被害が出る。死者1万6000人、伊豆、志摩で1万人が溺死と伝わる。〕
・明応8年(1499年)6月10日、東海大地震
・明応8年(1499年)、足利義稙は北陸の兵を率いて近江にまで侵攻し、比叡山延暦寺を味方に付けますが、六角氏に敗れる。
・明応8年(1499年)9月3日、将軍足利義澄が武衛斯波義寛の屋敷(武衛陣)へ避難しました。(足利義澄と斯波義寛の和解)<斯波義寛、義稙派から義澄に転向>
・文亀元年(1501年)、将軍足利義澄(20才)は伊勢貞宗が後見する体制を終わらせ、自ら政治を取る。<幕府と今川の蜜月の終焉>
・文亀元年(1501年)5月26日 幕府管領細川政元が閉居する。
・文亀元年(1501年)6月13日 足利義尹は周防にて諸国に兵を集め、上洛を計る。
・文亀元年(1501年)6月17日 京極材宗が美濃にて挙兵し、近江今浜で守護の京極高清と交戦するが負ける。
▲文亀元年(1501年)8月~9月 座王城(久野城)の戦い。(久野佐渡守宗隆、福島左衛門尉助春と小笠原定基、斯波義寛の戦い)
斯波 義寛(しば よしひろ)、遠江守護代甲斐氏への援軍として義寛は弟である寛元、義雄を遠江に派遣し、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍の攻勢をかける。
◎文亀元年(1501年)9月14日 早雲庵宗瑞は甲斐の国に侵入するが武田信純に阻まれて陣を退く。
▲明応10年・文亀元年(1501年)9月 早雲庵宗瑞、今川家の武将として三河に出兵し、三河岩津城を攻め、さらに松平長親と戦う。
・文亀2年(1502年)4月23日 細川政元は、山城国槙島にいる赤沢朝経の討伐のため出陣しょうとしたが、第11代将軍義高に諌められる。4月25日 細川政元帰京する。
・文亀2年(1502年)7月21日 将軍足利義高は義澄と改名する。
・文亀2年(1502年)8月04日 足利義澄は、細川政元の驕慢に怒り、岩倉の金竜寺に去る。
・文亀2年(1502年)9月某日 細川政元は九条政基の子を養子にし、澄之と命名する。
◎文亀4年・永正元年(1504年)扇谷朝良・氏親・早雲の連合軍、立河原の戦いで山内顕定に勝利する。
▲文亀4年・永正元年(1504年)8月 堀江城の戦い (早雲庵宗瑞と堀江下野守の戦い)
・文亀4年・永正元年(1504年)12月01日 上杉顕定・房能の兵上杉朝良の武蔵国椚田の保塁を攻めこれを抜く。
☆永正2年(1505年)2月、足利義澄が夫人と不和で離縁し、後室に武衛斯波義寛女が入ります。
・永正3年(1506年)4月21日 管領細川政元の養子澄元は兵を京に上らせ澄之・高国と家督を巡り争う。
・永正4年(1507年)6月23日 細川政元(42)が子の澄之と香西元長・薬師寺長忠らに謀殺される。
・永正4年(1507年)6月24日 香西元長らが細川澄元を攻め、細川澄元は敗れて三好之長らと近江甲賀に逃れ、山中為俊を頼る。
・永正4年(1507年)8月01日 細川高国らが細川政元の子澄之を襲い殺害する。香西元長、薬師寺長忠らも没する。 8月02日 細川澄元が細川政元の継嗣となり上洛する。
・永正5年(1508年)6月8日 新たに足利将軍となった義稙(義尹)が大内義興らと入京する。
▲永正5年(1508年)10月某日 今川氏親は早雲庵宗瑞に三河国の諸城を攻略させるが松平長親に敗れる。
▲永正6~7年(1509~1510年)、西条吉良の代官?大河内貞綱が三河勢を連れて遠江に逆侵攻する。
◎永正6年(1509年)早雲庵宗瑞、武蔵に出兵して江戸城に迫る。
・永正7年(1510年)1月29日 将軍足利義尹は管領細川高国、大内義興らに前将軍足利義澄の討伐を命じ、管領細川高国らが敗れて帰京する。
◎永正7年(1510年)7月19日 上杉朝良の家臣上田政盛が早雲庵宗瑞に応じて武蔵権現山を攻める。上田政盛を扇谷家から離反させ権現山城で挙兵させるが、両上杉方の反攻により敗北する。(権現山城の戦い)
▲永正7年(1510年)11月26日、斯波氏の拠点、引間城(浜松市)を今川軍が奪う。
・永正8年(1511年)8月14日 足利義澄(32)近江岡山で没する。
・永正8年(1511年)8月16日 足利将軍義尹、細川高国らは政賢らの攻撃を受け、丹波国に逃げる。
▲永正8年(1511年)10月19日、武衛尾張守護斯波義達が遠江奪還へ出馬し、斯波氏に属する勢力、刑部や井伊谷、三岳城などを拠点に今川氏に侵攻する。
▲永正9年(1512年)4月6日、斯波義達が気賀および下気賀に大規模な攻撃を仕掛けたが勝敗は決まらない。
▲永正9年(1512年)閏4月2日、義達は信濃国の小笠原氏や三河国の土豪らと共に浜名湖南の村櫛に大攻勢を仕掛けた。しかし、この戦いは今川方が勝利した為に斯波氏は遠江における拠点をすべて奪う。
・永正9年(1512年)6月18日 関東公方足利政氏は子の高基と不和になり、古河より下野の小山政長を頼る。
◎永正9年(1512年)8月13日 早雲庵宗瑞は三浦義同の居城相模国岡崎城を攻撃し抜く。さらに住吉城を攻略、三浦義同・義意父子を三崎城(新井城)に追い込む。
・永正9年(1512年)11月09日 将軍足利義尹は義稙と改名する。
・永正12年(1515年)10月17日 甲斐武田信虎が甲斐国上野城に大井信達を攻めるが敗れる。
・永正13年(1516年)12月27日 足利成氏は小山政長と別れて武蔵国岩槻城に入る。
◎永正13年(1516年)早雲庵宗瑞、三崎城(新井城)を攻略、相模三浦氏を滅ぼす。相模平定。
◎永正13年(1516年)早雲庵宗瑞、上総の真里谷武田氏を支援して房総半島に渡り、翌年まで転戦。
◎永正15年(1518年)早雲庵宗瑞、家督を嫡男氏綱に譲る。 伊勢(後北条)氏、虎の印判状の使用を開始。
◎永正16年(1519年)8月15日 早雲庵宗瑞(伊勢新九郎長氏、入道宗瑞)が伊豆韮山にて没する。行年88歳。

【今川の内乱と侵攻】
1433年
  今川氏の内紛
・彦五郎範忠‥‥出家するが、将軍の支援を得て、家督を継ぐ。岡部氏、朝比奈氏、矢部氏。
・弥五郎範頼‥‥範忠が出家した後、細川持之の支援。矢部氏、朝比奈氏。
・千代秋丸‥‥‥母は扇谷上杉氏正の娘、父範政が希望。山名時煕の支援。狩野氏、富士氏、興津氏、三浦氏、進藤氏。
9月3日、狩野氏の湯ケ島城が今川貞秋の軍に包囲され陥落する事によって終焉する。

1441年
  嘉吉の乱
今川範忠は、石川、新野、庵原らを上洛させる。

1467年
  応仁の乱
義忠、小笠原、笠原、浜松、庵原、新野、高木、葛山、朝比奈らの軍勢を率いて上洛し、細川の陣に投じる。

 

1468年9月16日
手越河原の戦い
○今川義忠×●斯波氏
今川方の伊東伊賀入道道安は嫡子の九郎祐範、弟修理時氏、同被官小北小三郎祐貞戦死。

1471年3月
三島の戦い
○古河公方足利成氏×○堀越公方足利政知
古河公方方‥‥‥小山氏、結城氏。
堀越公方方‥‥‥駿河より加勢、上杉氏の被官矢野安芸入道が奮戦。

1473年
  小夜の中山の戦い
○横地、勝間田、鶴見×●堀越貞延戦死
今川方‥‥‥堀越貞延率いる一千騎。

1474年11月20日
見付城の戦い ○今川義忠×●狩野七郎右衛門自刃、巨海新左衛門尉(吉良氏被官)
今川方‥‥‥原氏、小笠原氏、久野氏ら中遠一揆

1476年2月9日
塩買坂の戦い
○横地、勝間田氏残党×●今川義忠戦死

 

1476年
  今川氏の内紛
・小鹿範満‥‥関口氏、新野氏、名児耶氏、蒲原氏、庵原氏、由比氏、堀越公方、扇谷上杉氏。
・竜王丸‥‥‥堀越一秀。三浦氏、朝比奈氏、長谷川、斎藤、伊勢早雲。
堀越公方足利政知は上杉政憲に三百の兵を付けて駿府に送り込む。
扇谷上杉定正は家宰太田資長に三百の兵を付けて駿府に送り込む。
早雲の活躍で和解し、浅間神社の神前で神水を飲み交わして、お互いに争わない事を誓い合う。

 

1487年11月9日
駿府今川屋形の戦い
○伊勢早雲×●小鹿範満
早雲は、駿河国興国寺城と富士下方12ケ郷を与えられ、氏親の部将となる。

 

1491年10月11日
堀越御所の戦い(1493年10月11日の説もあり)
○伊勢早雲×●足利茶々丸
伊勢方‥‥‥今川氏親、葛山氏堯の援軍を引き連れる。
茶々丸は敗れ、近くの願成就院に逃れ自刃する。

1491年
  深根城の戦い(1493年の説もあり)
○伊勢早雲×●関戸吉信

 

1492年9月
今川氏親、甲斐に進攻。
1494年 秋
殿谷(とんのや)城の戦い
○伊勢早雲×●原頼景
早雲が数千の軍兵を率いて遠江の3郡(佐野、山名、周智)に乱入し、在家が残らず灰燼に帰す。

1495年8月
鎌山の戦い
△伊勢早雲(今川方)×△武田信虎

1496年
  志戸呂の戦い 
○今川氏親×●鶴見因幡守戦死(鶴見氏滅亡)

1496年9月10日
松葉城(掛川市倉真)の戦い
○今川氏親×●松葉城主 川井成信

 

1497年
  原要害(殿谷城)の戦い 
○今川氏親×●原氏

1497年
4月25日
柏久保城(修善寺町)の戦い 
○伊勢早雲×●狩野氏
早雲方‥‥‥大見三人衆、佐藤藤左衛門、梅原六郎左衛門、佐藤七郎左衛門の活躍。

1497年
11月13日
倉真城の戦い 
○今川氏親×●松浦兵庫頭自刃
松浦方‥‥‥殿谷城の原頼景、志戸呂城(横岡城)の鶴見因幡守

1501年8月~9月
座王城(久野城)の戦い
○久野佐渡守宗隆、福島左衛門尉助春×●小笠原定基、斯波義寛
斯波方‥‥‥義寛の本拠は尾張清須、小笠原定基は信濃守護

1501年9月18日
今川の部将、伊勢早雲、甲斐に進攻。

1503年
  葛山孫四郎、甲斐に進撃し、戦死。

1504年8月
堀江城の戦い 
○伊勢早雲×●堀江下野守

1506年8月20~21日
岩津城の戦い 
○松平長親×●伊勢早雲

1506年8月26日~11月4日
今橋城の戦い 
○伊勢早雲×●牧野古伯戦死

1508年10月19日
三州合戦 
○松平長親×●伊勢早雲

1510年10月19日(12月28日~1512年閏4月3日)
井伊谷(いいのや)の戦い 
○今川氏親×●斯波義達
 斯波方‥‥‥斯波義達、井伊谷の井伊氏、引間の大河内備中守の千五百。
    今川方‥‥‥伊達忠宗。忍びを使い放火。
・井伊谷三人衆(1568年)‥‥‥近藤石見守康久、鈴木三郎重時、菅沼次郎右衛門忠久

 

1513年3月7日、
引馬城の戦い 
○今川氏親×●大河内貞綱
引馬城の大河内貞綱が反今川の兵を挙げる。この時、見付城の堀越用山も大河内に与同したため、氏親は急ぎ討伐軍を組織し遠江に進撃し引馬城を攻めた。氏親の攻撃が早かったため、結局、斯波義達軍と合流できず、大河内は降伏。氏親は大河内を殺そうとしたが、大河内の主家筋である吉良氏が間に入って謝罪したため、城を取り上げられただけで死を許される。代わって引馬城には、同じ吉良氏の被官の飯尾善四郎賢連が入る。
1514年3月10日、
三嶽城の戦い 
○今川氏親×●斯波義達
斯波義達が大河内貞綱を助けるため、五千三百余の兵を率いて遠江に来たため、井伊直平もこれに加わり、斯波義達、大河内貞綱、井伊直平の三人が連合して、氏親と戦う事となる。義達らは三嶽城にこもり、守りを固める。氏親は笠井庄の楞厳寺に出馬し、大菩薩山に着陣。今川勢の主力は掛川城の朝比奈泰以。泰煕が没し、その子泰能がまだ幼かったため、泰煕の弟泰以が代わって出陣。泰以の猛攻により三嶽城は落ち、義達はさらに奥山城に走って退勢を挽回しよとしたがかなわず、尾張に逃げる。

 

1514年8月18日、
引馬城の戦い 
○今川氏親×●大河内貞綱 おおみ
今川の軍勢が駿河に引き上げると、大河内貞綱は飯尾賢連を追って引馬城に入り、巨海新左衛門と共に引馬城に立てこもる。今川軍に攻められ、大河内らは逃げる。

 

1515年、今川氏親、二千の兵(葛山、庵原、福島)を引き連れ、甲斐に進攻。
    
1517年正月2日~12日、
吉田城の戦い 
○小林尾張入道×●今川氏の軍勢

 

1517年6月21日~8月19日、
引馬城の戦い 
○今川氏親×●斯波義達、大河内貞綱
1515年、氏親は甲斐に出陣し、駿河遠江が手薄になり、1416年3月、再び、大河内が反乱を起こす。斯波義達も6月には引馬城に入り、大掛かりの反乱となる。
宗長が間に入り、竹田信虎と講和した氏親は、1517年6月18日、水かさの増した天竜川に船橋を架けて渡り、21日、引馬城を攻める。容易に引馬城は落ちなかったので、氏親は安倍金山から金掘りを呼び寄せ、城中の水の手を断つ。大河内兄弟、巨海、高橋ら討ち死に。尾張守護の斯波義達は氏親に降伏し、普済寺に入り頭を丸めて尾張に送り返される。

 

1518年正月、
舟形城の戦い 
○戸田政光×●多米又三郎(今川方)

 

1521年10月16日、
飯田河原の戦い 
○武田信虎×●福島兵庫頭正成
今川氏親は、遠江土方城主福島正成に一万五千の駿河遠江勢を率いさせ、河内路を大挙して北上させる。9月6日に大島において武田勢と戦い、これを敗り、次いで同16日、大井氏の富田城を占拠し、ここを前線基地とする。その知らせを聞くと身重だった信虎夫人は深夜、躑躅ケ崎館を去って積翠寺要害山城に難を避けた。正成は富田城にしばらく留まった後、釜無川に沿って北上、甲府への進撃を始める。信虎は荒川を防御線とし、正成率いる今川勢は登美の竜地台に布陣し、荒川を挟んで対峙する。この時、信虎の軍勢二千ばかりにすぎず。
10月16日、今川勢は進撃、信虎は荒川を挟んで、これを迎え撃ち、両軍は飯田河原において激しい戦いを繰り広げる。今川勢百余人が戦死。このため、正成は一旦退却し、11月10日に曽根の勝山城に移る。この最中、11月3日、信虎夫人は晴信を産む。11月23日の上条河原における戦いで、信虎は敵将正成を戦死させて圧勝を収め、今川勢は退却。

 

1521年11月23日、
上条河原の戦い 
○武田信虎×●福島正成
今川勢は正成以下六百余人が戦死。
武田方の老臣荻原常陸介昌勝が活躍。正成の首を取ったのは原能登守友胤。

 

1524年正月、北条氏綱、扇谷上杉朝興を江戸に攻める。

 

1524年2月11日、
猿橋の戦い 
△武田信虎×△北条氏綱

 

1526年6月23日、今川氏親、病死。妻は落飾し寿桂尼と称し、氏輝、義元の後見をする。

 

1530年4月23日、
八坪坂の戦い 
○北条氏綱×●小山田信有

 

1532年2月11日、
那古野城の戦い 
○織田信秀×●今川氏豊

 

1535年7月5日、
鳥波の戦い 
○武田信玄×●今川氏輝

 

1535年8月19日、
万沢口の戦い 
△武田信虎×△今川氏輝

 

1536年5月25日、
駿府の戦い 
○今川氏×●福島越前守
3月17日、今川氏の当主氏輝が24歳で亡くなり、氏輝に子が無く、家督を誰にするかで内訌が生じる。福島越前守が謀反を起こすが、他の家臣らが結束して対したので、福島は敗走し、久能山に籠る。

 

1536年6月8~14日、
花倉の乱 
○梅岳承芳×●玄広恵探
今川氏輝が3月17日に没した時、すぐ下の弟彦五郎も没した。恵探は当時、志太郡花倉の遍照光寺の住持、承芳は富士郡瀬古(富士市今泉)の善得寺の喝食。恵探の母親は氏親の側室、福島上総介の娘。承芳の母親は氏輝と同じく正妻の寿桂尼、養育係の太原崇孚、北条氏綱が付く。
承芳は重臣の一人岡部左京進親綱に命じ、恵探方の軍勢のこもる方の上城を攻める。恵探は花倉城に逃げる。さらに花倉城も攻められ、山を越え瀬戸谷に逃げ込み、そこの普門庵に入り自刃(6月14日)。
 義元方‥‥‥岡部氏、朝比奈氏、
  恵探方‥‥‥福島氏、堀越氏、

 

1537年2月26日、
興津の戦い 
○北条氏綱×○今川義元、武田信虎

 

1537年4月26日、
見付端城の戦い 
○今川義元×●堀越貞基討死
堀越氏は今川一族だったが、花倉の乱において、恵探派に与した事から、義元の征伐を受ける事となる。また、一説に駿河と相模の不和により、北条氏綱の娘を妻に持つ堀越貞基が北条氏の駿河侵入に呼応して、今川氏に反旗を翻したとも言う。
  義元方‥‥‥天野虎景

 

1541年7月17日、北条氏綱死去。

 

1545年8月16日、
狐橋の戦い 
○今川義元×●北条氏康
今川方‥‥‥天野景泰、同虎景活躍。

 

1545年9月16日、
吉原の戦い 
○今川義元×●北条氏康
武田信玄が今川軍を支援したため、北条方の拠点だった吉原は今川方の手に落ちる。

 

1545年9月19~20日、
長久保城の戦い 
○今川義元×●北条氏康
 今川方‥‥‥葛山氏元

 

1548年3月19日、
小豆坂の戦い 
○今川軍×●織田信秀
 今川方‥‥‥太原雪斎を大将、朝比奈泰能を副将。岡崎衆(松平)、岡部長教。
  織田方‥‥‥四千の兵。

 

1560年5月19日、
桶狭間の戦い 
○織田信長×●今川義元
 今川方‥‥‥旗本頭三浦義就、軍奉行吉田氏好、旗奉行庵原元政、槍奉行伊豆元利、先陣大将朝比奈秀詮、前備大将藤枝氏秋、左備大将岡部甲斐守、後備大将乾元清。先鋒井伊直盛。二万五千、四万と号す。内武士は二千~三千、残りは農兵。
  織田方‥‥‥六、七百~二千。

 

1562年7月26日、
中山の戦い 
○朝比奈泰長(今川方)×●西郷正勝(徳川方)

 

1563年6月2日、
見付端城の戦い 
○今川氏真×●堀越氏延
  今川義元が桶狭間で戦死した後、堀越貞基の子氏延は武田氏から誘われ謀反を起こす。
  今川方‥‥‥匂坂六右衛門、糟谷但馬守、大原肥前守、三浦左衛門尉ら

 

1563年9月5日~1564年2月28日、
三河一向一揆 
○徳川家康×●一向一揆

 

1568年12月13日、
駿府今川屋形の戦い 
○武田信玄×●今川氏真
 武田方‥‥‥馬場美濃守信房

 

1568年12月27日、
掛川城の戦い 
○徳川家康×●今川氏真、朝比奈泰朝

 

1569年2月1日、
大宮城の戦い 
○今川方 富士信忠、信通×●武田方 穴山梅雪、葛山氏元

 

1569年6.23~7.2 
大宮城の戦い
○武田信玄×●富士信忠、信通

 

1569年12月7日、
駿府今川屋形の戦い 
○武田信玄×●岡部正綱
今川方‥‥‥岡部次郎右衛門正綱、弟治部右衛門、久野弾正宗政、小原長次郎、三浦兵部、安倍大蔵定吉、小倉、森川、富永、沢木、長井、酒井ら四百人。
   ・臨済寺の鉄山宗鈍の仲裁により、無血開城し、岡部正綱は武田に仕える事となる。

 

1570年正月、
徳之一色城の戦い 
○武田信玄×●長谷川正長

 

1570年4月、
深沢城の戦い 
○北条氏康×●駒井昌直(武田方)

 

1570年暮~1571年正月16日、
深沢城の戦い 
○武田信玄×●北条左衛門大夫綱成

 

1571年3月、
高天神城の戦い 
●内藤昌豊(武田方)×○小笠原与八郎長忠(徳川方)

 

1571年10月3日、北条氏康死去。

 

1572年12月22日、
三方ケ原の戦い 
○武田信玄×●徳川家康

 

1574年5月12~17日、
高天神城の戦い 
○武田勝頼×●小笠原長忠(徳川方)

 

1582年4月8日、
庵原館の戦い 
○徳川軍×●朝比奈信置(武田方)自刃

11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(3)斯波家

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『信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ

1350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>年表

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<斯波家>>

◆斯波氏:室町時代に幕府の三管領筆頭になり、越前・若狭・越中・山城・能登・遠江・信濃・尾張・加賀・安房・佐渡などを領した守護としては屈辱的な時期でした。

武衛騒動を起こした一人、武衛家11代当主斯波 義廉(しば よしかど)は西軍に属し、西軍の主力として各地を転々とした。しかし、重臣であった

朝倉孝景が越前に下向した後東軍に属し、また、甲斐敏光も東軍に帰順して孤立、幕府から追討を受けると、尾張の尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国して盛り返すも幕府から「凶徒」と断じられ、尾張での支持勢力を全て失った。

武衛家10代当主斯波 義敏(しば よしとし)は東軍に属して戦い、越前において西軍の義廉陣営を掃討していった。将軍より武衛家家督と三ヶ国守護がそれぞれ返還されると朝倉孝景が寝返り、次いで越前守護の任命を受けた甲斐敏光も寝返り有利な立場に立った。

しかし、朝倉孝景が同じ東軍でありながらかつて敵対し、越前一国をほぼ奪われることになった。義敏は武衛家家督を義寛に隠居した。

義敏の子、斯波 義寛(しば よしひろ )は、応仁の乱1467-1477年)が終わった文明15年(1483年)、朝倉氏景 (8代当主)と甲斐敏光が和睦して、「越前守護代は朝倉氏、遠江守護代は甲斐氏、尾張守護代は織田氏」と決められました。しかし、朝倉氏景は守護の斯波義寛の命を聞く素振りを見せません。

朝倉氏景から見れば、越前を再統一したのは朝倉氏であり、さらに文明3年(1471年)521日に室町幕府から父へ越前守護職の確約を認める書状が届けられ父が公然と東軍に寝返った経緯を考えれば、斯波氏に従う気になりませんでした。しかし、書状は正式な経緯を辿っていなかった為か、足利義尚の六角征伐の際に出された「長享の訴訟」で、先の将軍である義政から守護に任じられたとは主張しませんでした。朝倉氏が守護に任じられたと主張するのは、延徳2年(1490年)足利義政公が亡くなられたからのことです。

長享元年(1487年)の足利義尚による近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると、斯波義寛は尾張守護代織田敏定、織田寛広ら織田氏一族以下8000の大軍を率いて幕府軍に参陣します。そこに朝倉貞景も参陣すると聞いて、朝倉氏の越前押領を訴えました。(長享の訴訟)足利義尚は国内の寺社本所領を返進し、朝倉貞景を守護代とし、さらに将軍奉公衆とするという曖昧な決着に双方納得いきませんでした。

六角征伐は六角高頼が甲賀郡に逃亡し、ゲリラ戦を仕掛けるので決着がつきません。足利義尚は近江鈎に陣取ってしまい長期戦の様相を見せ、かつ、越前の解決を見ない状態でしたので、斯波義寛は翌年223日に京に入り、東山の義政公に謁見すると京に留まりますが、同2月に朝倉景冬が斯波氏との争論への御礼として、3000人の人数で仙洞旧跡の松を東山山荘に運ぶと、34日に斯波義寛は近江の陣払いを命じます。

長享2年(1488年)8月)、美濃龍門寺領を巡って、京都の蔭凉軒主から広近宛に書状が送られた。おそらく、これに関係して織田家で紛争が起き、斯波義寛は尾張に下国します。

足利義尚が病死し、第10代将軍足利義稙に変わっても六角高頼が寺社本所領の返還を認めるわけもなく、延徳二年(1490年)に義稙は細川政元を近江守護に任命し、さらに延徳三年(1491年)八月、再び六角征伐を行います。

延徳三年(1491年)815日、足利義稙の要請で応じて尾張から上洛準備を開始します。22日に近江着陣すると斯波軍の装いは「武衛衆の壮麗、山名衆に勝る。同日に語るべからず」と賞賛されるほど華麗な軍勢であったと伝えられております。斯波義寛の参陣の本気度が伺えます。そして、斯波義寛は再び「延徳の訴訟」を提訴します。足利義稙は斯波義寛の熱意に応え、1012日に朝倉貞景の退治を命じる御内書を武衛斯波義寛に発して頂いたのですが、朝倉氏の精鋭1万といわれる軍事力に二の足を踏み、特に織田氏の反対も強くすぐに実現するものではありませんでした。

延徳三年1018日、管領細川政元の家臣上原氏、朝倉貞景はさしあたり武衛斯波義寛に服すべきことなどの五ヶ条の裁定案を朝倉貞景に示しましたが、受け入れなかったようです。

延徳三年1118日、尾張守護代織田敏定が先陣を担うと、六角征伐ではゲリラ戦により疲弊させるつもりが織田の働きがめざましく重臣山内政綱を打ち取った。

明応元年(1492年)329日、近江愛智河原の戦いで再び尾張守護代織田敏定が先陣を担い武功をあげて大勝利を上げます。

54日、将軍足利義稙が武衛斯波義寛を総大将にして甲賀に逃げた六角氏を攻めるように申し付けますが、伊勢国に逃亡した為に討伐は断念されました。しかし、近江をほぼ制圧し、幕府奉公衆に対して寺社本所領を宛が得たことで満足し、六角虎千代を近江守護に任命したのち京都に凱旋しました。

斯波義寛は将軍足利義稙の憶えめでたく、管領への復帰、越前朝倉討伐への野心を膨らせます。

年が明けた明応2年(1493年)225日、畠山政長の対抗者畠山義就が死去したことを機に畠山基家追討のため河内へ出陣します。管領畠山政長、武衛斯波義寛や武田元信等守護大名従軍しました。

明応2年(1493年)422日、明応の政変が勃発し、細川政元、日野富子、伊勢貞宗に擁立され、室町幕府第11代将軍足利 足利義高(後に義澄に改名)が将軍になりました。伊勢貞宗から「謀書」が送られるとほとんどが京都に帰還してしまいます。

明応2年(1493年)425日、斯波義寛も他の諸公と共に状況を見守る為に堺に兵を移した後に帰参させました。義寛は赤松政則に伴われ新将軍足利義高(義澄)の元に出仕し、細川政元の前に屈服した。

細川政元は河内に軍を派遣して畠山政長を自害に追い込むと、足利義稙は京都に連れ戻されて龍安寺に幽閉されたが、同年629日に側近らの手引きで京都を脱出して政長の領国である越中の放生津に下向し、政長の家臣・神保長誠を頼った。

越中の足利義稙は越中公方(越中御所)と呼ばれたが、斯波義寛はよしみを通じていたことが災いしました。足利義稙が斯波義寛を頼ることを懸念した幕府は、今川を通じて斯波氏の勢力を削る政策を取ります。

明応3年(1494年)8月、幕府の御家人伊勢新九郎盛時を通じて、今川氏親と細川政元が組み斯波氏分国遠江へ侵攻を開始することになったのです。今川軍の総大将となった伊勢新九郎盛時は佐野・山名・周知の遠江三郡から侵攻し、原氏、天方氏、大河内氏、井伊氏などと戦ったのです。

明応4年(1495年)7月、美濃の船田の乱で織田敏定が陣中にて病没すると尾張も遠江も混乱状態になります。遠江、尾張が混乱していても武衛斯波義寛は下国しておりません。これは前将軍を支持する武衛斯波義寛を下国させることが、「虎を野に放つ」と考えた細川政元によって離京できないと状況に追い詰められていたと考えられます。

しかし、斯波義寛も何もやっていない訳でもありません。

明応8年(1499年)、越中国へ亡命していた足利義稙は北陸の兵を率いて近江にまで侵攻し、比叡山延暦寺を味方に付けます。711日、細川政元は延暦寺を攻撃しました。足利義稙は近江坂本で六角高頼に敗れ、河内に入り挙兵した政長の子・畠山尚順と戦いますが、細川政元に敗れて大和国に逃亡します。

明応8年(1499年)93日、足利義稙と畠山尚順が大和から京都攻撃体勢にはいったと知らせがあった為、将軍足利義澄が武衛斯波義寛の屋敷(武衛陣)へ避難しました。斯波義寛は時間を掛けて和解していたのです。

足利義稙は細川政元に敗れて、周防の大内義興のもとに身を寄せます。

文亀元年(1501)、20歳に達した足利義澄は伊勢貞宗が後見する体制を終わらせ、自ら政権を担うようになってゆきます。伊勢貞宗の力が弱まると、それを頼りとしていた今川氏の勢力を削ぐことになります。ここに斯波義寛がどう関与していたかは判りません。斯波氏の幕府における力がわずかでも復権されたのは間違いないでしょう。

文亀元(1501)8月、義寛弟斯波義雄も合流し、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍で反撃を開始しますが今川氏親にこれを撃破されます。幕府の後盾を失った今川氏親はやっきとなって遠江を攻めることになりました。

永正2年(1505年)2月、足利義澄が夫人と不和で離縁し、後室に武衛斯波義寛女が入ります。ここに至って、幕府内でも今川方の有利は失われます。

永正五年(1508)71日、室町幕府第10代将軍 足利 義稙(あしかが よしたね)は大内家の軍事力に支えられ、11代将軍・義澄や細川家後継者争いで高国と対立していた管領細川澄元を追放します。幕府は隠居の斯波義敏、朝倉貞景に足利義稙の入京を防ぐように命じますが、斯波義敏は動きませんでした。

永正五年(1508)715日、足利義稙は室町幕府第12代将軍に復権すると、支持してくれた今川氏親に遠江守護職を与えます。

永正七年(1510)1126日、斯波氏の拠点、引間城(浜松市)を今川軍に奪われ、永正八年(1511)1019日、武衛尾張守護斯波義達が遠江奪還へ出馬し、斯波氏に属する勢力、刑部や井伊谷、三岳城などを拠点に今川氏に侵攻する。1017日、斯波義達が気賀へ向けて進軍すると戦いが激化したが決着は付かず、永正九年(1512年)46日、斯波義達が気賀および下気賀に大規模な攻撃を仕掛けたが勝敗は決まらなかった。

永正九年(1512年)閏4月2日、義達は信濃国の小笠原氏や三河国の土豪らと共に浜名湖南の村櫛に大攻勢を仕掛けた。しかし、この戦いは今川方が勝利した為に斯波氏は遠江における拠点をすべて失うこととなった。

永正10年(1513年)417日、武衛尾張守護斯義達が没すると、守護代織田達定は遠江奪還に拘る義寛の跡を継いだ斯波氏(武衛家)13代当主斯波 義統(しば よしむね)に対して反乱を起こすが敗れて自害することになる。

永正12年(1515年)、今川氏親が武田氏の内紛に介入し、甲斐に侵攻したのを好機ととらえた大河内貞綱は翌永正13年(1516年)3月、三度目の挙兵し引馬城を占拠する。永正14年(1517年)3月、斯波義達も尾張から駆けつけ引馬城に入城すると、氏親は武田信虎と和議を結び、6月から引馬城攻撃を開始した。819日、引馬城は陥落し、貞綱・巨海道綱兄弟は自害する。斯波義達は同族のよしみで命を助けられ、出家させられて尾張へ送還された。これによって尾張における斯波氏の支持が失われることになった。

永正14年(1517年)、斯波義達は隠居させられ、わずか3歳の義統が斯波氏(武衛家)14代当主となる。幼い義統はかつて父義達に討伐された守護代家(大和守家)の織田達勝・織田信友に擁される傀儡的存在になるのみになった。

進む<(4)今川家>

 

 

11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(2)足利家

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1350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>年表

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【応仁の乱以降の将軍職と尾張・三河・遠江・駿河】

<<足利将軍家>>

足利 義稙(あしかが よしたね)は応仁の乱以後、父義視と共に美濃の土岐成頼(一色義遠の子)を頼って美濃革手に下向し、文明10年(1478年)7月には、大御所・義政と義視の和議が正式に成立します。

長享3年(1489年)1月、義視は富子に頼んで義稙(義材)を継嗣の無かった義尚の猶子として元服させました。義尚も23歳と若く猶子を定めておく年でもありません。義視が「私の子とあらば、世の誹りを受けるかもしれません」などと涙脆く富子に泣き付いたのではないでしょうか。おそらく、義稙(義材)の後見人、あるいは烏帽子親に近いものだったのでしょう。

長享3年(1489年)326日巳の刻(午前10時に室町幕府第9代将軍足利義尚が陣中で病死すると、室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視を父に持つ足利義稙(義材)が富子の推挙で第10代将軍に擁立された。

これに強く反対していたのは、幕閣の実力者である細川政元であった。義稙は畠山政長と親密だったことを懸念して、堀越公方・足利政知の子・香厳院清晃(後の足利義澄)を将軍候補に推して反対したが覆ることはなかった。

長享4年(1490年)75日、足利 義材(あしかが よしき、後の改名して義稙)は室町幕府第10代将軍に就任する。

延徳3年(1491年)1月に「大御所」と称した義政が死去すると、前管領・畠山政長と協調して権力の掌握に勤めた。まず義稙は奉公衆を掌握する。さらに義尚の後を継いだと表明して足利義稙の第二次六角征伐が行われた。斯波義寛、畠山尚順 、武田国信、山名俊豊、一色義秀、大内政弘、赤松政則、京極政経、細川政元(安富元家)、富樫政親などが参陣したが、六角軍は前回と同様に甲賀郡へ引き籠り、幕府軍との直接対決を避けた。六角軍はゲリラ戦で疲弊させる予定だったが巧く往かず、逆に重臣山内政綱が謀殺され、明応元年(1492年)に愛知川簗瀬河原にて大敗を喫するなど戦況ははかばかしくなかった為に伊勢に逃亡した。近江を制圧した義稙は、幕府奉公衆に対して寺社本所領を宛がい、六角虎千代を近江守護に任命したのち京都に凱旋する。

明応2年(1493年)215日、足利義稙は応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏で、畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じて、義就の後継者・義豊を討伐するため、畠山政長らを率いて河内に赴いた。

細川政元は義材に不満を抱き始めた富子や赤松政則、伊勢貞宗を抱き込み、422日夜に清晃を還俗させて11代将軍に擁立した。富子は政元に京都を制圧させ、その兵に義稙の弟慈照院周嘉らが殺害させた。また、伊勢貞宗から義稙に同行する守護や奉公衆・奉行衆に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」が送られると、27日までに義稙の側近であった者も含めてほとんどが京都に帰還してしまい、義稙勢は崩壊してしまった。

明応2年(1493年)6月、幽閉されていた義稙は、側近らの手引きで越中射水郡放生津へ下向し、畠山政長の重臣であった婦負郡・射水郡分郡守護代・神保長誠を頼った。

明応2年(1493年)4月、清晃は管領・細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって擁立され、室町幕府第11代将軍足利 足利義高(後に義澄に改名)(あしかが よしずみ)となった。しかし、幼い将軍の補佐として、実権は細川政元・日野冨子・伊勢貞宗が取り仕切り、相伴衆として日野高光・冷泉為広・正親町三条実望の公家3人が厚遇された。中でも正親町三条実望は今川氏親の義兄で足利義澄の側近随一と言われていた。

覇権を掌握した細川政元にも問題は起こった。明応の政変において活躍した上原元秀の能力を評価して重用したが、それが評定衆を構成する他の内衆からの反感を買って元秀は殺害されてしまう。更に山城守護職の地位を巡って阿波守護の細川義春と幕府政所執事伊勢貞陸が争った。政元が幕府内に大きな権力を持つ貞陸に妥協して貞陸を新しい守護にしたところ、貞陸は細川氏の被官が多く加わっている山城国一揆を弾圧して解散に追い込まれ、更に義春は阿波に帰国して三好之長ら国人を起用して現地内衆に対抗させるなどの反抗的な態度を示すようにもなった。

文亀年間(1501年~1503年)、足利義澄は20歳に達し、自らの意思を実行するようになり、伊勢貞宗が後見する体制は終結する。伊勢氏の力が弱まると、前将軍足利義稙派だった斯波氏は足利義澄と和睦をし、当時今川氏親に奪われていた遠江奪還に動いている。

永正3年(1506年)、細川政元は勢力拡大を目指して河内・大和・丹後など諸国に軍を派遣した。その為に政元の身辺には軍がいないという事態が続いた。永正4年(1507年)623日、政元は澄之を推す薬師寺長忠(薬師寺元一の弟)・香西元長らによって暗殺されてしまう。

永正5年(1508年)4月、足利 義稙は大内家の軍事力に支えられ、細川高国らの勢力に迎えられて中国地方や九州の諸大名とともに上洛を開始する。6月京都を占領して11代将軍・義澄や細川家後継者争いで高国と対立していた管領・細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰した。今川氏親はすぐさま将軍回復の祝儀を贈り、念願の遠江守護職を拝領している。

先に進む<斯波家>

 

11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(1)

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【応仁の乱以前の三河国】

応仁の乱<応仁元年(1467)>以前は、足利尊氏が京に幕府を開いて以降、一色氏が三河国守護に任じられます。一色氏は三管四職(注1)の一角、足利幕府の柱石をなす家格です。若狭国、丹後国、三河国を支配地として持っておりました。三河国の経営は守護代を務めた吉良氏や西郷氏に委ね、京で国家運営に注力していました。

足利 義教(あしかが よしのり 在職:1428-1441年)が応永35年(1428年)117日、石清水八幡宮で籤が引かれ、籤引き将軍とも呼ばれる室町幕府の第6代将軍になると長い治世のうちに失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活を勢力的に行った。その1つが将軍職に不満を持つ鎌倉公方を討伐である。

一色氏は永享10年(1438年)永享の乱(えいきょうのらん)のおり、関東管領 幕府軍である上杉憲実 、足利義教に付かず、鎌倉公方の足利持氏に付いた。その報復として、一色家当主の一色義貫は、室町殿と対立していた鎌倉公方足利持氏に与したという疑いから室町殿の命令により、大和への出陣中、突如誅殺の憂き目にあった。そして、三河国守護職を奪われ、室町殿は讃岐細川家の持常に与えた。

 

細川持常は管領家の分家筋であり、元々讃岐国と阿波国守護です。持常の後を継いだ讃岐国と阿波国とを治めながら三河国守護職の任に就きました。

足利義教が亡くなると、一色家を継いだ一色義直の訴えに有力御家人達に三河復権を訴えますが、細川家も名家の為に中々果たされません。そして、やっと三河国渥美郡を手に入れて、三河渥美分国守護を取り戻しますが、一色義直にとっては納得のゆかない決着でしたでしょう。

さらに足利義教は細川持常に三河を与えたときに、三河の一部を直轄地としてしまいました。そこを治めたのは室町殿の側近衆です。

こうして、応仁の乱以前の三河の国は分断されたのです。

                             

01

◆吉良氏・(西郷氏):三河の清和源氏足利氏支族、三河守護一色氏の守護代として県政に携わっていた。その格式は「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで庶民に言われていた。

◆牧野氏・西郷氏:三河の土民、三河<>守護細川氏の命で岡崎から北の井口という額田郡南部を地盤とする地侍・牢人たちの砦を落して土着する。

◆松平氏・(戸田氏):室町殿の直近である伊勢貞親に命で額田郡南部を地盤とする地侍・牢人たちを討伐して土着する。(牧野氏・西郷氏は砦を落しただけ)

◆戸田氏:尾張国海東郡戸田荘の土豪で、三河の国人ではなく、三河国碧海郡上野に移住する。

◆石川氏:石川政康、三河国碧海郡志貴荘村に移住。(蓮如の関東下向と同時期)

◆水野氏:尾張知多郡阿久比郷小河に移住して浦野氏あるいは小川氏(小河氏)を名乗り、水野に名を改める。

◆中条氏:将軍直轄地で奉公衆の一人、三河国加茂郡高橋荘(愛知県豊田市)地頭

 

◆奥平氏:三河北東部の作手地方を中心に活動した日本の氏族、児玉貞政は南朝の桃井満昌と共に奥平村で奥平監物と称した

 

【尾張・三河・遠江・駿河の守護職】

 

02

・建武3年(1336年)、建武の新政から離反する足利尊氏に従った功績により今川 範国(いまがわ のりくに)に遠江守護職、次いで駿河守護職を与えられた。

・応永2年(1395年)7月、今川 貞世(いまがわ さだよ)九州探題を罷免され、遠江と駿河の半国守護を命じられる。

・応永6年(1399年)応永の乱における大内氏討伐の功により斯波義重は尾張守護職を与えられる。今川 泰範(いまがわ やすのり)、幕府方として参戦する。

・応永7年(1400年)3月 鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪した。

満兼を謀叛に誘った今川了俊は幕府から討伐の命を受けたために上洛して謝罪し、助命された。但し遠江・駿河守護職は取り上げられ、甥の今川泰範に与えられる。

今川 泰範(いまがわ やすのり)、応永の乱で幕府軍側に参陣し、駿河今川氏の第3代当主となり、遠江・駿河守護職を与えられる。

1400年頃,斯波義重(義教)が尾張守護に着任する

・応永12年(1405年)7月 斯波 義重、義満からの寵愛を受け、名を義教と改め、幕府管領並びに遠江守護を加えられる。

 

03

・応永35年(1428年)1月、『籤引き将軍』足利義教が第6代将軍に選ばれ、鎌倉公方の足利持氏と対立し、永享の乱(えいきょうのらん)が起こる。

・一色直兼が鎌倉公方に組みした為に、三河国守護の一色義貫が謀殺され、管領家細川氏の一族細川持常に与える。

・嘉吉元年(1441年)624日、室町殿の足利義教、赤松氏随一の武士安積行秀が義教の首を刎ねられると、

 

04

・長禄3年(1459年)8月、中遠一揆が起こり、今川貞延は遠江守護斯波氏周辺の土豪たちを招き集めて叛乱を起こしたが鎮圧されて領地を没収される。今川貞延の子、今川一秀は駿府に逃れ、幼主竜王丸(のちの氏親)の補佐を行い、その巧で瀬名を与えられる。(堀越流今川氏にとって遠江奪還の待望が生まれ、斯波氏と今川氏の対立関係が生まれる)

・寛正6年(1465年)武衛騒動は、足利義政側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言から始まる。越前・尾張・遠江守護職が斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。しかし、文正の政変によって斯波義廉に家督が戻された。(伊勢貞親と伊勢新九郎盛時(北条早雲)は同族の上、妻同士が姉妹と言われ、今川方の策謀も見え隠れする。)

 

【応仁の乱による尾張・三河・遠江・駿河】

籤引き将軍足利義教は嘉吉元年(1441年)624日に赤松満祐の屋敷に「御成」になられて殺害された。“嘉吉の乱”である。

政所執事伊勢貞国の屋敷で養育されていた足利 義勝(あしかが よしかつ)は、嘉吉2年(1442年)に管領細川持之らに擁されて9歳で将軍職を継ぎ、第7代将軍となったが、早世され在任わずか8ヶ月であった。

永享8年(1436年)12日、第6代将軍足利義教の3男義政(よしまさ)が継ぐことになる。8歳と幼い将軍の補佐は管領の畠山持国・山名持豊や生母の日野重子らが執り行った。義政初期の政治は祖父の3代将軍足利義満や父の政策を復活させようと積極的に外交に介入するものであった。政所執事伊勢貞親を筆頭とする政所・奉行衆・番衆を中心とする将軍側近集団を基盤として守護大名の勢力に対抗して将軍の親裁権強化を図ろうとした。また、守護大名では家督相続に関する内紛が多く、それらの解決にも介入したことで政権そのものを危うくすることになる。

斯波氏の武衛騒動や管領の畠山氏では畠山持国の家督継承をめぐる争いが起こり、さらにその火種を残しつつ、将軍家のお家騒動が勃発します。

寛正51126日(14641224日)、足利義政は29歳になって男子がいないことから室町幕府6代将軍足利義教の子で、堀越公方足利政知(次兄)があった出家して義尋(ぎじん)を還俗させて、管領の細川勝元を後見人として次期将軍候補として義視(よしみ)と改名し養子に入ったが、寛正6年(1465年)、義政と富子の間に実子の義尚が誕生すると、富子は義尚の将軍後継を望み、義視らと対立するようになった。

文正元年(1466年)96日、文正の政変(ぶんしょうのせいへん)義視謀反の噂が立つが、義視は勝元に無実を訴え、義尚の乳父だった伊勢貞親が讒訴の罪を問われ、貞親と季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則ら貞親派が失脚する。

足利義政の失政から足利将軍家の家督相続問題と畠山氏・斯波氏の家督相続問題が絡みあって細川勝元と山名宗全が対立し、応仁の乱へとなります。

 

・応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)応仁の乱(おうにんのらん)、8代将軍の足利義政の養子である足利義視と義政の息子である足利義尚の家督争い。

足利義尚側には山名持豊(宗全)が推挙し、利義視を管領の細川勝元が押した。

細川勝元方(東軍)・・・足利義政、足利義視、畠山政長、斯波義敏、武田信賢、赤松政則、京極氏など

山名宗全方(西軍)・・・足利義尚、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏など

 

05

しかし、この戦いは当初から混迷を極めます。応仁元年(1467年)5月に義政が失脚していた伊勢貞親を幕府に呼び寄せます。足利義視は自分を排斥しようとした貞親を応仁2年(1468年)閏10月に正式に復帰させたことに怒り、義視が同年11月に出奔して西軍に擁立され、家督争いだったハズ戦いが将軍と次期将軍の戦いへと変貌します。戦乱は混乱を極め長期化する事態となってしまいました。

文明3年(1471年)521日には斯波義廉の重臣で西軍の主力となっていた朝倉孝景が将軍足利義政による越前守護職補任(守護代)をうけて東軍側に寝返り、このことで東軍は決定的に有利となります。東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕も生まれた。

しかし、文明5年(1473年)に細川勝元と山名宗全があいつで死去すると、文明5年(1473年)1219日(147417日)足利義政は義尚に将軍職を譲って隠居し、うやむやの内に東軍の勝利が確定した。

応仁の乱後、幕府の権威は大きく衰退し、長享元年(1487年)912日、足利義尚は公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣しました。(長享・延徳の乱)

六角高頼は音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走し、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの15ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされたと言われています。これが“間借り”の語源であります。

 

長享3年(1489年)326日巳の刻(午前10時)、足利義尚は近江鈎の陣中で病死します。

 

●今川氏:今川義忠は応仁2年(1468年)応仁の乱に駿河守護今川義忠が兵を率いて上洛し斯波義廉が西軍にいた為に東軍に加わります。しかし、横地氏・勝間田氏が攻め取った狩野氏の見付城を霞め取るなど遠江へ野心から勝間田氏と不和になり、美濃国守護代斎藤妙椿の途上で、東軍に属していた遠江国狩野氏と巨海(こみ)氏を滅ぼします。横地氏・勝間田氏などを滅ぼした今川義忠は遠江国の東軍派に敵を作り命を落とすことになります。

●斯波氏:武衛家一門である大野斯波家からの養子であった義敏と、渋川氏出身の義廉とが家督を巡って争う事となった武衛騒動から応仁の乱へと発展して行きます。義廉は西幕府の管領として西軍の主力となり、東軍に属した義敏も越前に下ってその一円支配を目指すものの、結局は遠江を今川氏に、越前を朝倉氏に奪われて領国の大半を失い、尾張で義敏の子孫が守護代の織田氏に推戴され、斯波氏の力が衰退していゆきます。

●吉良氏:吉良氏:三河吉良氏は清和源氏足利氏支族で今川氏の本流に当たります。満義・満貞父子が本拠地の吉良荘を留守にしている間に、満義の四男尊義が吉良荘の東条を押領し、東条吉良氏として自立するという事件が起きる。以後、尊義の東条吉良氏と、西条に勢力を限定された満貞の西条吉良氏とは、互いに正統性を主張しあって譲らず、両者の子孫が約1世紀にわたって三河一国を舞台に抗争を繰り広げます。応仁の乱においては西条家の義真が東軍、東条家の義藤が西軍にそれぞれ属して戦っています。西軍の組みした義藤は松平の猛攻で松平に下ったようです。

●松平氏:室町殿の直近である伊勢貞親に命で三河に来た松平氏と戸田氏は足利義政の側近の部下に当たる。当然、伊勢貞親について東軍に組みした。三河国内の西軍派の拠点である安祥城の攻略を主筋にあたる伊勢貞親の承認があったと思われる。松平信光はこれを機に三河で大きな基盤を築くことに成功します。

●戸田氏:応仁の乱では一色氏に近い為か西軍に属し勢力を広げ一族の支配基盤を確立していきますが、西軍の敗色が濃厚になると渥美半島の一色氏を襲って東軍に寝返ります。

●中条氏 :中条氏は将軍義政に近侍していたことは間違いないが、応仁の乱に中条氏がどのように対したのかは判りません。乱後の長享元年(1487)、ときの中条氏の惣領政秀は将軍義尚に仕えて、近江六角氏攻めに供奉して近江に出陣しております。政秀は評定衆の一員でもあり、『蔭涼軒目録』によれば、奉公衆のなかでは最大の所領を有していたことが知られています。

●奥平氏:赤松氏の分流と思われる奥平氏は、加賀半国守護となって再興を果たした、赤松政則(満祐の大甥)と一緒に東軍に組みしたと考えられる。

●牧野氏:平三郎成興は応仁の乱で西軍の一色義直に従い京合戦に参陣したとされています。 その主君一色義直が将軍足利義政に和睦を認められ三河守護職を放棄したために、その後牧野は衰えました。額田郡一揆では牧野・西郷氏が守護の命令にもかかわらず、一揆鎮圧に失敗しているので親西軍だったと考えられます。

●西郷氏:三河国守護代西郷稠頼、そして、その子頼嗣により三河国岡崎城築城。次第に松平に安祥城を奪われるなど松平氏に圧迫されます。その後、その姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服しました。また、駿河の今川氏が戦国大名として台頭するとこれに服し、西三河の松平清康が全三河を従える勢いとなると松平氏に服属し、1530年に清康が宇利城(現在の新城市)を攻めたときもこれに従った。しかし、1535年に清康の横死(森山崩れ)によって松平氏が弱体化すると今川氏に再属します。

●織田氏:尾張守護代の織田伊勢守敏広は西軍の斯波義廉に付き、小田井城主・織田大和守敏定は東軍の斯波義敏につきます。応仁の乱後期、西軍の斯波義廉が遠江から逃れて尾張に下国すると、東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を駆逐しますが、文明10年(1478年)に織田敏広が守護代を更迭され、織田敏定が新たな守護代に任じられると勢力は逆転します。敏定と敏広が対峙・和議が繰り返されるうちに敏広が没し、敏定が実権を握っていくことになります。しかし、尾張を統一するに至らず、尾張北四群(敏広・岩倉派)と南四群(敏定・清洲派)が争うことを続けます。

●横地氏:遠江東部における最古の武士団、横地城を中心に支族が各地に広がっている。永承六年(1051)の前九年の役に際して奥州へ下る途中、相良荘司藤原維頼(光頼とも云われる)の娘が義家の寵愛を受けて男子を出生した。この男子が横地太郎家長なる。東軍に組みした横地氏は当初は今川氏と旗を並べましたが、今川とたもとを別ちます。

●勝間田氏:東遠土着の国人で一貫して幕府方にあって活躍していた。応仁の乱勃発時においても勝間田氏は今川義忠とともに東軍細川方として在京していた。しかし、修理亮は京の陣を引き払い帰郷してしまった。寛正六年(1465)八月に勝間田修理亮は将軍の上意によって横地氏とともに見付(磐田市)の狩野氏を討ち取り、感状を授かったことがある。ところが見付城には今川一族の堀越貞延が入ったのである。血を流して戦った修理亮らは獲物を横取りされたようなものであった。文明5年(1473年)、今川義忠は東軍の救援に赴き、そのおり、遠江の国人巨海氏、狩野氏と兵糧用として預けられた所領を巡って対立して、今川に滅ぼされました。

●巨海氏:大河内氏の支流で三河国幡豆郡巨海を本貫地とする。吉良義真の被官となっていた巨海 道綱(こみ みちつな)は遠江・引馬城で今川義忠に滅ぼされます。

●狩野氏:狩野氏は寛正六年(1465)八月に将軍の上意によって横地氏・勝間田氏に攻められます。狩野氏の巨城である見付城(磐田市)が今川義忠によって奪われます。横地氏・勝間田氏にとってはかすめ取られたようなものであり容認できません。狩野氏は吉良義真の被官となっていきますが、応仁の乱の前か後か不明です。応仁の乱の後期には東軍の吉良義真の被官となっており、同じ東軍の遠江の国人巨海氏と共に糧用として預けられた所領を巡って、今川義忠と対立して滅ぼされます。

 

 

06

応仁の乱は。応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって起こされました。利害関係や寝返りなどで勢力は前半と後半で大きく変わってゆきます。

文明3年(1471年)521日、朝倉孝景が足利義政から越前守護の任命されたことで西軍から東軍に寝返ります。越前・遠江守護代の甲斐 敏光は朝倉孝景と共に戦っていたので同時に西軍から東軍に寝返ることになると、遠江守護代の寝返りによって情勢が大きく変化しました。

文明5年(1473年)、駿河守護今川義忠は東軍の三河国守護・細川成之が美濃国守護代格・斎藤妙椿から攻撃を受けたため、将軍の命により三河へ出陣しています。しかし、同じ東軍の遠江の国人巨海氏、狩野氏と兵糧用として預けられた所領を巡って対立して、今川義忠はこれを滅ぼします。これは今川義忠が遠江の支配権に固執している表れと思われました。遠江守護代甲斐八郎敏光が東軍に寝返った為に西軍の斯波義廉についていた遠江の国人の多くが東軍に寝返ったと思われます。今川義忠にとって遠江を伺う機会が減っていった訳です。しかし、今川義忠は東軍であるハズの国人巨海氏、狩野氏、勝間田氏、横地氏と機会ごとに戦火を広げていきました。

文明7年(1475年)219日、越前・遠江守護代甲斐八郎敏光、東軍斯波義良の遠江守護代となり遠江下向します。これは今川義忠への牽制の意味合いも大きかったでしょう。西軍の斯波義廉は孤立して、11月に尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国することになります。斯波義廉の下国によって尾張では織田敏広が東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を一時同国から駆逐されました。

文明7年(1475年)723日に駿河守護今川義忠、東軍の遠江勝田氏を破る。さらに文明8年(1476年)46日、今川義忠は敵対した遠江の有力国人 横地氏の本城 横地城(静岡県菊川市)を攻略し、横地氏15代当主 横地四郎兵衛秀国を討ち取りました。

(横地城の13代横地太郎長秀は足利義政に仕えていたので東軍であります。)

しかし、今川義忠は塩買坂(菊川市(旧小笠郡小笠町))で敵の残党による待ち伏せにあって、流れ矢で深手を負い討死します。遠江の実質的な支配権を得た駿河今川氏でありましたが、今川義忠の死によって再び昏倒とした状態に戻ってゆきます。

 

07

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