11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(2)足利家
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1350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>年表
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【応仁の乱以降の将軍職と尾張・三河・遠江・駿河】
<<足利将軍家>>
足利 義稙(あしかが よしたね)は応仁の乱以後、父義視と共に美濃の土岐成頼(一色義遠の子)を頼って美濃革手に下向し、文明10年(1478年)7月には、大御所・義政と義視の和議が正式に成立します。
長享3年(1489年)1月、義視は富子に頼んで義稙(義材)を継嗣の無かった義尚の猶子として元服させました。義尚も満23歳と若く猶子を定めておく年でもありません。義視が「私の子とあらば、世の誹りを受けるかもしれません」などと涙脆く富子に泣き付いたのではないでしょうか。おそらく、義稙(義材)の後見人、あるいは烏帽子親に近いものだったのでしょう。
長享3年(1489年)3月26日巳の刻(午前10時に室町幕府第9代将軍足利義尚が陣中で病死すると、室町幕府第8代将軍・足利義政の弟で、一時兄の養子として継嗣に擬せられた足利義視を父に持つ足利義稙(義材)が富子の推挙で第10代将軍に擁立された。
これに強く反対していたのは、幕閣の実力者である細川政元であった。義稙は畠山政長と親密だったことを懸念して、堀越公方・足利政知の子・香厳院清晃(後の足利義澄)を将軍候補に推して反対したが覆ることはなかった。
長享4年(1490年)7月5日、足利 義材(あしかが よしき、後の改名して義稙)は室町幕府第10代将軍に就任する。
延徳3年(1491年)1月に「大御所」と称した義政が死去すると、前管領・畠山政長と協調して権力の掌握に勤めた。まず義稙は奉公衆を掌握する。さらに義尚の後を継いだと表明して足利義稙の第二次六角征伐が行われた。斯波義寛、畠山尚順 、武田国信、山名俊豊、一色義秀、大内政弘、赤松政則、京極政経、細川政元(安富元家)、富樫政親などが参陣したが、六角軍は前回と同様に甲賀郡へ引き籠り、幕府軍との直接対決を避けた。六角軍はゲリラ戦で疲弊させる予定だったが巧く往かず、逆に重臣山内政綱が謀殺され、明応元年(1492年)に愛知川簗瀬河原にて大敗を喫するなど戦況ははかばかしくなかった為に伊勢に逃亡した。近江を制圧した義稙は、幕府奉公衆に対して寺社本所領を宛がい、六角虎千代を近江守護に任命したのち京都に凱旋する。
明応2年(1493年)2月15日、足利義稙は応仁の乱終結後も分裂状態が続いていた畠山氏で、畠山政長の対抗者・畠山義就が死去したのに乗じて、義就の後継者・義豊を討伐するため、畠山政長らを率いて河内に赴いた。
細川政元は義材に不満を抱き始めた富子や赤松政則、伊勢貞宗を抱き込み、4月22日夜に清晃を還俗させて11代将軍に擁立した。富子は政元に京都を制圧させ、その兵に義稙の弟慈照院周嘉らが殺害させた。また、伊勢貞宗から義稙に同行する守護や奉公衆・奉行衆に対して新将軍に従うようにとする内容の「謀書」が送られると、27日までに義稙の側近であった者も含めてほとんどが京都に帰還してしまい、義稙勢は崩壊してしまった。
明応2年(1493年)6月、幽閉されていた義稙は、側近らの手引きで越中射水郡放生津へ下向し、畠山政長の重臣であった婦負郡・射水郡分郡守護代・神保長誠を頼った。
明応2年(1493年)4月、清晃は管領・細川政元や日野富子、伊勢貞宗らによって擁立され、室町幕府第11代将軍足利 足利義高(後に義澄に改名)(あしかが よしずみ)となった。しかし、幼い将軍の補佐として、実権は細川政元・日野冨子・伊勢貞宗が取り仕切り、相伴衆として日野高光・冷泉為広・正親町三条実望の公家3人が厚遇された。中でも正親町三条実望は今川氏親の義兄で足利義澄の側近随一と言われていた。
覇権を掌握した細川政元にも問題は起こった。明応の政変において活躍した上原元秀の能力を評価して重用したが、それが評定衆を構成する他の内衆からの反感を買って元秀は殺害されてしまう。更に山城守護職の地位を巡って阿波守護の細川義春と幕府政所執事伊勢貞陸が争った。政元が幕府内に大きな権力を持つ貞陸に妥協して貞陸を新しい守護にしたところ、貞陸は細川氏の被官が多く加わっている山城国一揆を弾圧して解散に追い込まれ、更に義春は阿波に帰国して三好之長ら国人を起用して現地内衆に対抗させるなどの反抗的な態度を示すようにもなった。
文亀年間(1501年~1503年)、足利義澄は20歳に達し、自らの意思を実行するようになり、伊勢貞宗が後見する体制は終結する。伊勢氏の力が弱まると、前将軍足利義稙派だった斯波氏は足利義澄と和睦をし、当時今川氏親に奪われていた遠江奪還に動いている。
永正3年(1506年)、細川政元は勢力拡大を目指して河内・大和・丹後など諸国に軍を派遣した。その為に政元の身辺には軍がいないという事態が続いた。永正4年(1507年)6月23日、政元は澄之を推す薬師寺長忠(薬師寺元一の弟)・香西元長らによって暗殺されてしまう。
永正5年(1508年)4月、足利 義稙は大内家の軍事力に支えられ、細川高国らの勢力に迎えられて中国地方や九州の諸大名とともに上洛を開始する。6月京都を占領して11代将軍・義澄や細川家後継者争いで高国と対立していた管領・細川澄元を追放し、7月には将軍職に復帰した。今川氏親はすぐさま将軍回復の祝儀を贈り、念願の遠江守護職を拝領している。
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