11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(3)斯波家
1350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>年表
<斯波家>>
◆斯波氏:室町時代に幕府の三管領筆頭になり、越前・若狭・越中・山城・能登・遠江・信濃・尾張・加賀・安房・佐渡などを領した守護としては屈辱的な時期でした。
武衛騒動を起こした一人、武衛家11代当主斯波 義廉(しば よしかど)は西軍に属し、西軍の主力として各地を転々とした。しかし、重臣であった
朝倉孝景が越前に下向した後東軍に属し、また、甲斐敏光も東軍に帰順して孤立、幕府から追討を受けると、尾張の尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国して盛り返すも幕府から「凶徒」と断じられ、尾張での支持勢力を全て失った。
武衛家10代当主斯波 義敏(しば よしとし)は東軍に属して戦い、越前において西軍の義廉陣営を掃討していった。将軍より武衛家家督と三ヶ国守護がそれぞれ返還されると朝倉孝景が寝返り、次いで越前守護の任命を受けた甲斐敏光も寝返り有利な立場に立った。
しかし、朝倉孝景が同じ東軍でありながらかつて敵対し、越前一国をほぼ奪われることになった。義敏は武衛家家督を義寛に隠居した。
義敏の子、斯波 義寛(しば よしひろ )は、応仁の乱1467-1477年)が終わった文明15年(1483年)、朝倉氏景 (8代当主)と甲斐敏光が和睦して、「越前守護代は朝倉氏、遠江守護代は甲斐氏、尾張守護代は織田氏」と決められました。しかし、朝倉氏景は守護の斯波義寛の命を聞く素振りを見せません。
朝倉氏景から見れば、越前を再統一したのは朝倉氏であり、さらに文明3年(1471年)5月21日に室町幕府から父へ越前守護職の確約を認める書状が届けられ父が公然と東軍に寝返った経緯を考えれば、斯波氏に従う気になりませんでした。しかし、書状は正式な経緯を辿っていなかった為か、足利義尚の六角征伐の際に出された「長享の訴訟」で、先の将軍である義政から守護に任じられたとは主張しませんでした。朝倉氏が守護に任じられたと主張するのは、延徳2年(1490年)足利義政公が亡くなられたからのことです。
長享元年(1487年)の足利義尚による近江守護・六角高頼攻め(長享・延徳の乱)が起こると、斯波義寛は尾張守護代織田敏定、織田寛広ら織田氏一族以下8000の大軍を率いて幕府軍に参陣します。そこに朝倉貞景も参陣すると聞いて、朝倉氏の越前押領を訴えました。(長享の訴訟)足利義尚は国内の寺社本所領を返進し、朝倉貞景を守護代とし、さらに将軍奉公衆とするという曖昧な決着に双方納得いきませんでした。
六角征伐は六角高頼が甲賀郡に逃亡し、ゲリラ戦を仕掛けるので決着がつきません。足利義尚は近江鈎に陣取ってしまい長期戦の様相を見せ、かつ、越前の解決を見ない状態でしたので、斯波義寛は翌年2月23日に京に入り、東山の義政公に謁見すると京に留まりますが、同2月に朝倉景冬が斯波氏との争論への御礼として、3000人の人数で仙洞旧跡の松を東山山荘に運ぶと、3月4日に斯波義寛は近江の陣払いを命じます。
長享2年(1488年)8月)、美濃龍門寺領を巡って、京都の蔭凉軒主から広近宛に書状が送られた。おそらく、これに関係して織田家で紛争が起き、斯波義寛は尾張に下国します。
足利義尚が病死し、第10代将軍足利義稙に変わっても六角高頼が寺社本所領の返還を認めるわけもなく、延徳二年(1490年)に義稙は細川政元を近江守護に任命し、さらに延徳三年(1491年)八月、再び六角征伐を行います。
延徳三年(1491年)8月15日、足利義稙の要請で応じて尾張から上洛準備を開始します。22日に近江着陣すると斯波軍の装いは「武衛衆の壮麗、山名衆に勝る。同日に語るべからず」と賞賛されるほど華麗な軍勢であったと伝えられております。斯波義寛の参陣の本気度が伺えます。そして、斯波義寛は再び「延徳の訴訟」を提訴します。足利義稙は斯波義寛の熱意に応え、10月12日に朝倉貞景の退治を命じる御内書を武衛斯波義寛に発して頂いたのですが、朝倉氏の精鋭1万といわれる軍事力に二の足を踏み、特に織田氏の反対も強くすぐに実現するものではありませんでした。
延徳三年10月18日、管領細川政元の家臣上原氏、朝倉貞景はさしあたり武衛斯波義寛に服すべきことなどの五ヶ条の裁定案を朝倉貞景に示しましたが、受け入れなかったようです。
延徳三年11月18日、尾張守護代織田敏定が先陣を担うと、六角征伐ではゲリラ戦により疲弊させるつもりが織田の働きがめざましく重臣山内政綱を打ち取った。
明応元年(1492年)3月29日、近江愛智河原の戦いで再び尾張守護代織田敏定が先陣を担い武功をあげて大勝利を上げます。
5月4日、将軍足利義稙が武衛斯波義寛を総大将にして甲賀に逃げた六角氏を攻めるように申し付けますが、伊勢国に逃亡した為に討伐は断念されました。しかし、近江をほぼ制圧し、幕府奉公衆に対して寺社本所領を宛が得たことで満足し、六角虎千代を近江守護に任命したのち京都に凱旋しました。
斯波義寛は将軍足利義稙の憶えめでたく、管領への復帰、越前朝倉討伐への野心を膨らせます。
年が明けた明応2年(1493年)2月25日、畠山政長の対抗者畠山義就が死去したことを機に畠山基家追討のため河内へ出陣します。管領畠山政長、武衛斯波義寛や武田元信等守護大名従軍しました。
明応2年(1493年)4月22日、明応の政変が勃発し、細川政元、日野富子、伊勢貞宗に擁立され、室町幕府第11代将軍足利 足利義高(後に義澄に改名)が将軍になりました。伊勢貞宗から「謀書」が送られるとほとんどが京都に帰還してしまいます。
明応2年(1493年)4月25日、斯波義寛も他の諸公と共に状況を見守る為に堺に兵を移した後に帰参させました。義寛は赤松政則に伴われ新将軍足利義高(義澄)の元に出仕し、細川政元の前に屈服した。
細川政元は河内に軍を派遣して畠山政長を自害に追い込むと、足利義稙は京都に連れ戻されて龍安寺に幽閉されたが、同年6月29日に側近らの手引きで京都を脱出して政長の領国である越中の放生津に下向し、政長の家臣・神保長誠を頼った。
越中の足利義稙は越中公方(越中御所)と呼ばれたが、斯波義寛はよしみを通じていたことが災いしました。足利義稙が斯波義寛を頼ることを懸念した幕府は、今川を通じて斯波氏の勢力を削る政策を取ります。
明応3年(1494年)8月、幕府の御家人伊勢新九郎盛時を通じて、今川氏親と細川政元が組み斯波氏分国遠江へ侵攻を開始することになったのです。今川軍の総大将となった伊勢新九郎盛時は佐野・山名・周知の遠江三郡から侵攻し、原氏、天方氏、大河内氏、井伊氏などと戦ったのです。
明応4年(1495年)7月、美濃の船田の乱で織田敏定が陣中にて病没すると尾張も遠江も混乱状態になります。遠江、尾張が混乱していても武衛斯波義寛は下国しておりません。これは前将軍を支持する武衛斯波義寛を下国させることが、「虎を野に放つ」と考えた細川政元によって離京できないと状況に追い詰められていたと考えられます。
しかし、斯波義寛も何もやっていない訳でもありません。
明応8年(1499年)、越中国へ亡命していた足利義稙は北陸の兵を率いて近江にまで侵攻し、比叡山延暦寺を味方に付けます。7月11日、細川政元は延暦寺を攻撃しました。足利義稙は近江坂本で六角高頼に敗れ、河内に入り挙兵した政長の子・畠山尚順と戦いますが、細川政元に敗れて大和国に逃亡します。
明応8年(1499年)9月3日、足利義稙と畠山尚順が大和から京都攻撃体勢にはいったと知らせがあった為、将軍足利義澄が武衛斯波義寛の屋敷(武衛陣)へ避難しました。斯波義寛は時間を掛けて和解していたのです。
足利義稙は細川政元に敗れて、周防の大内義興のもとに身を寄せます。
文亀元年(1501年)、20歳に達した足利義澄は伊勢貞宗が後見する体制を終わらせ、自ら政権を担うようになってゆきます。伊勢貞宗の力が弱まると、それを頼りとしていた今川氏の勢力を削ぐことになります。ここに斯波義寛がどう関与していたかは判りません。斯波氏の幕府における力がわずかでも復権されたのは間違いないでしょう。
文亀元(1501)年8月、義寛弟斯波義雄も合流し、遠江守護斯波氏・信濃守護小笠原氏連合軍で反撃を開始しますが今川氏親にこれを撃破されます。幕府の後盾を失った今川氏親はやっきとなって遠江を攻めることになりました。
永正2年(1505年)2月、足利義澄が夫人と不和で離縁し、後室に武衛斯波義寛女が入ります。ここに至って、幕府内でも今川方の有利は失われます。
永正五年(1508年)7月1日、室町幕府第10代将軍 足利 義稙(あしかが よしたね)は大内家の軍事力に支えられ、11代将軍・義澄や細川家後継者争いで高国と対立していた管領細川澄元を追放します。幕府は隠居の斯波義敏、朝倉貞景に足利義稙の入京を防ぐように命じますが、斯波義敏は動きませんでした。
永正五年(1508年)7月15日、足利義稙は室町幕府第12代将軍に復権すると、支持してくれた今川氏親に遠江守護職を与えます。
永正七年(1510年)11月26日、斯波氏の拠点、引間城(浜松市)を今川軍に奪われ、永正八年(1511年)10月19日、武衛尾張守護斯波義達が遠江奪還へ出馬し、斯波氏に属する勢力、刑部や井伊谷、三岳城などを拠点に今川氏に侵攻する。10月17日、斯波義達が気賀へ向けて進軍すると戦いが激化したが決着は付かず、永正九年(1512年)4月6日、斯波義達が気賀および下気賀に大規模な攻撃を仕掛けたが勝敗は決まらなかった。
永正九年(1512年)閏4月2日、義達は信濃国の小笠原氏や三河国の土豪らと共に浜名湖南の村櫛に大攻勢を仕掛けた。しかし、この戦いは今川方が勝利した為に斯波氏は遠江における拠点をすべて失うこととなった。
永正10年(1513年)4月17日、武衛尾張守護斯義達が没すると、守護代織田達定は遠江奪還に拘る義寛の跡を継いだ斯波氏(武衛家)13代当主斯波 義統(しば よしむね)に対して反乱を起こすが敗れて自害することになる。
永正12年(1515年)、今川氏親が武田氏の内紛に介入し、甲斐に侵攻したのを好機ととらえた大河内貞綱は翌永正13年(1516年)3月、三度目の挙兵し引馬城を占拠する。永正14年(1517年)3月、斯波義達も尾張から駆けつけ引馬城に入城すると、氏親は武田信虎と和議を結び、6月から引馬城攻撃を開始した。8月19日、引馬城は陥落し、貞綱・巨海道綱兄弟は自害する。斯波義達は同族のよしみで命を助けられ、出家させられて尾張へ送還された。これによって尾張における斯波氏の支持が失われることになった。
永正14年(1517年)、斯波義達は隠居させられ、わずか3歳の義統が斯波氏(武衛家)14代当主となる。幼い義統はかつて父義達に討伐された守護代家(大和守家)の織田達勝・織田信友に擁される傀儡的存在になるのみになった。
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