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11350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>(1)

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『信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ

1350~1572年番外編 信長公記の軌跡背景<室町公と尾張・三河・遠江・駿河>年表

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【応仁の乱以前の三河国】

応仁の乱<応仁元年(1467)>以前は、足利尊氏が京に幕府を開いて以降、一色氏が三河国守護に任じられます。一色氏は三管四職(注1)の一角、足利幕府の柱石をなす家格です。若狭国、丹後国、三河国を支配地として持っておりました。三河国の経営は守護代を務めた吉良氏や西郷氏に委ね、京で国家運営に注力していました。

足利 義教(あしかが よしのり 在職:1428-1441年)が応永35年(1428年)117日、石清水八幡宮で籤が引かれ、籤引き将軍とも呼ばれる室町幕府の第6代将軍になると長い治世のうちに失墜した幕府権威の復興と将軍親政の復活を勢力的に行った。その1つが将軍職に不満を持つ鎌倉公方を討伐である。

一色氏は永享10年(1438年)永享の乱(えいきょうのらん)のおり、関東管領 幕府軍である上杉憲実 、足利義教に付かず、鎌倉公方の足利持氏に付いた。その報復として、一色家当主の一色義貫は、室町殿と対立していた鎌倉公方足利持氏に与したという疑いから室町殿の命令により、大和への出陣中、突如誅殺の憂き目にあった。そして、三河国守護職を奪われ、室町殿は讃岐細川家の持常に与えた。

 

細川持常は管領家の分家筋であり、元々讃岐国と阿波国守護です。持常の後を継いだ讃岐国と阿波国とを治めながら三河国守護職の任に就きました。

足利義教が亡くなると、一色家を継いだ一色義直の訴えに有力御家人達に三河復権を訴えますが、細川家も名家の為に中々果たされません。そして、やっと三河国渥美郡を手に入れて、三河渥美分国守護を取り戻しますが、一色義直にとっては納得のゆかない決着でしたでしょう。

さらに足利義教は細川持常に三河を与えたときに、三河の一部を直轄地としてしまいました。そこを治めたのは室町殿の側近衆です。

こうして、応仁の乱以前の三河の国は分断されたのです。

                             

01

◆吉良氏・(西郷氏):三河の清和源氏足利氏支族、三河守護一色氏の守護代として県政に携わっていた。その格式は「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」とまで庶民に言われていた。

◆牧野氏・西郷氏:三河の土民、三河<>守護細川氏の命で岡崎から北の井口という額田郡南部を地盤とする地侍・牢人たちの砦を落して土着する。

◆松平氏・(戸田氏):室町殿の直近である伊勢貞親に命で額田郡南部を地盤とする地侍・牢人たちを討伐して土着する。(牧野氏・西郷氏は砦を落しただけ)

◆戸田氏:尾張国海東郡戸田荘の土豪で、三河の国人ではなく、三河国碧海郡上野に移住する。

◆石川氏:石川政康、三河国碧海郡志貴荘村に移住。(蓮如の関東下向と同時期)

◆水野氏:尾張知多郡阿久比郷小河に移住して浦野氏あるいは小川氏(小河氏)を名乗り、水野に名を改める。

◆中条氏:将軍直轄地で奉公衆の一人、三河国加茂郡高橋荘(愛知県豊田市)地頭

 

◆奥平氏:三河北東部の作手地方を中心に活動した日本の氏族、児玉貞政は南朝の桃井満昌と共に奥平村で奥平監物と称した

 

【尾張・三河・遠江・駿河の守護職】

 

02

・建武3年(1336年)、建武の新政から離反する足利尊氏に従った功績により今川 範国(いまがわ のりくに)に遠江守護職、次いで駿河守護職を与えられた。

・応永2年(1395年)7月、今川 貞世(いまがわ さだよ)九州探題を罷免され、遠江と駿河の半国守護を命じられる。

・応永6年(1399年)応永の乱における大内氏討伐の功により斯波義重は尾張守護職を与えられる。今川 泰範(いまがわ やすのり)、幕府方として参戦する。

・応永7年(1400年)3月 鎌倉公方足利満兼は伊豆三島神社に願文を奉献し、「小量をもって」幕府に二心を起こしたことを謝罪した。

満兼を謀叛に誘った今川了俊は幕府から討伐の命を受けたために上洛して謝罪し、助命された。但し遠江・駿河守護職は取り上げられ、甥の今川泰範に与えられる。

今川 泰範(いまがわ やすのり)、応永の乱で幕府軍側に参陣し、駿河今川氏の第3代当主となり、遠江・駿河守護職を与えられる。

1400年頃,斯波義重(義教)が尾張守護に着任する

・応永12年(1405年)7月 斯波 義重、義満からの寵愛を受け、名を義教と改め、幕府管領並びに遠江守護を加えられる。

 

03

・応永35年(1428年)1月、『籤引き将軍』足利義教が第6代将軍に選ばれ、鎌倉公方の足利持氏と対立し、永享の乱(えいきょうのらん)が起こる。

・一色直兼が鎌倉公方に組みした為に、三河国守護の一色義貫が謀殺され、管領家細川氏の一族細川持常に与える。

・嘉吉元年(1441年)624日、室町殿の足利義教、赤松氏随一の武士安積行秀が義教の首を刎ねられると、

 

04

・長禄3年(1459年)8月、中遠一揆が起こり、今川貞延は遠江守護斯波氏周辺の土豪たちを招き集めて叛乱を起こしたが鎮圧されて領地を没収される。今川貞延の子、今川一秀は駿府に逃れ、幼主竜王丸(のちの氏親)の補佐を行い、その巧で瀬名を与えられる。(堀越流今川氏にとって遠江奪還の待望が生まれ、斯波氏と今川氏の対立関係が生まれる)

・寛正6年(1465年)武衛騒動は、足利義政側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言から始まる。越前・尾張・遠江守護職が斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。しかし、文正の政変によって斯波義廉に家督が戻された。(伊勢貞親と伊勢新九郎盛時(北条早雲)は同族の上、妻同士が姉妹と言われ、今川方の策謀も見え隠れする。)

 

【応仁の乱による尾張・三河・遠江・駿河】

籤引き将軍足利義教は嘉吉元年(1441年)624日に赤松満祐の屋敷に「御成」になられて殺害された。“嘉吉の乱”である。

政所執事伊勢貞国の屋敷で養育されていた足利 義勝(あしかが よしかつ)は、嘉吉2年(1442年)に管領細川持之らに擁されて9歳で将軍職を継ぎ、第7代将軍となったが、早世され在任わずか8ヶ月であった。

永享8年(1436年)12日、第6代将軍足利義教の3男義政(よしまさ)が継ぐことになる。8歳と幼い将軍の補佐は管領の畠山持国・山名持豊や生母の日野重子らが執り行った。義政初期の政治は祖父の3代将軍足利義満や父の政策を復活させようと積極的に外交に介入するものであった。政所執事伊勢貞親を筆頭とする政所・奉行衆・番衆を中心とする将軍側近集団を基盤として守護大名の勢力に対抗して将軍の親裁権強化を図ろうとした。また、守護大名では家督相続に関する内紛が多く、それらの解決にも介入したことで政権そのものを危うくすることになる。

斯波氏の武衛騒動や管領の畠山氏では畠山持国の家督継承をめぐる争いが起こり、さらにその火種を残しつつ、将軍家のお家騒動が勃発します。

寛正51126日(14641224日)、足利義政は29歳になって男子がいないことから室町幕府6代将軍足利義教の子で、堀越公方足利政知(次兄)があった出家して義尋(ぎじん)を還俗させて、管領の細川勝元を後見人として次期将軍候補として義視(よしみ)と改名し養子に入ったが、寛正6年(1465年)、義政と富子の間に実子の義尚が誕生すると、富子は義尚の将軍後継を望み、義視らと対立するようになった。

文正元年(1466年)96日、文正の政変(ぶんしょうのせいへん)義視謀反の噂が立つが、義視は勝元に無実を訴え、義尚の乳父だった伊勢貞親が讒訴の罪を問われ、貞親と季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則ら貞親派が失脚する。

足利義政の失政から足利将軍家の家督相続問題と畠山氏・斯波氏の家督相続問題が絡みあって細川勝元と山名宗全が対立し、応仁の乱へとなります。

 

・応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)応仁の乱(おうにんのらん)、8代将軍の足利義政の養子である足利義視と義政の息子である足利義尚の家督争い。

足利義尚側には山名持豊(宗全)が推挙し、利義視を管領の細川勝元が押した。

細川勝元方(東軍)・・・足利義政、足利義視、畠山政長、斯波義敏、武田信賢、赤松政則、京極氏など

山名宗全方(西軍)・・・足利義尚、畠山義就、斯波義廉、一色義直、六角氏など

 

05

しかし、この戦いは当初から混迷を極めます。応仁元年(1467年)5月に義政が失脚していた伊勢貞親を幕府に呼び寄せます。足利義視は自分を排斥しようとした貞親を応仁2年(1468年)閏10月に正式に復帰させたことに怒り、義視が同年11月に出奔して西軍に擁立され、家督争いだったハズ戦いが将軍と次期将軍の戦いへと変貌します。戦乱は混乱を極め長期化する事態となってしまいました。

文明3年(1471年)521日には斯波義廉の重臣で西軍の主力となっていた朝倉孝景が将軍足利義政による越前守護職補任(守護代)をうけて東軍側に寝返り、このことで東軍は決定的に有利となります。東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕も生まれた。

しかし、文明5年(1473年)に細川勝元と山名宗全があいつで死去すると、文明5年(1473年)1219日(147417日)足利義政は義尚に将軍職を譲って隠居し、うやむやの内に東軍の勝利が確定した。

応仁の乱後、幕府の権威は大きく衰退し、長享元年(1487年)912日、足利義尚は公家や寺社などの所領を押領した近江守護の六角高頼を討伐するため、諸大名や奉公衆約2万もの軍勢を率いて近江へ出陣しました。(長享・延徳の乱)

六角高頼は音寺城を捨てて甲賀郡へ逃走し、各所でゲリラ戦を展開して抵抗したため、義尚は死去するまでの15ヶ月もの間、近江鈎(まがり・滋賀県栗東市)への長期在陣を余儀なくされたと言われています。これが“間借り”の語源であります。

 

長享3年(1489年)326日巳の刻(午前10時)、足利義尚は近江鈎の陣中で病死します。

 

●今川氏:今川義忠は応仁2年(1468年)応仁の乱に駿河守護今川義忠が兵を率いて上洛し斯波義廉が西軍にいた為に東軍に加わります。しかし、横地氏・勝間田氏が攻め取った狩野氏の見付城を霞め取るなど遠江へ野心から勝間田氏と不和になり、美濃国守護代斎藤妙椿の途上で、東軍に属していた遠江国狩野氏と巨海(こみ)氏を滅ぼします。横地氏・勝間田氏などを滅ぼした今川義忠は遠江国の東軍派に敵を作り命を落とすことになります。

●斯波氏:武衛家一門である大野斯波家からの養子であった義敏と、渋川氏出身の義廉とが家督を巡って争う事となった武衛騒動から応仁の乱へと発展して行きます。義廉は西幕府の管領として西軍の主力となり、東軍に属した義敏も越前に下ってその一円支配を目指すものの、結局は遠江を今川氏に、越前を朝倉氏に奪われて領国の大半を失い、尾張で義敏の子孫が守護代の織田氏に推戴され、斯波氏の力が衰退していゆきます。

●吉良氏:吉良氏:三河吉良氏は清和源氏足利氏支族で今川氏の本流に当たります。満義・満貞父子が本拠地の吉良荘を留守にしている間に、満義の四男尊義が吉良荘の東条を押領し、東条吉良氏として自立するという事件が起きる。以後、尊義の東条吉良氏と、西条に勢力を限定された満貞の西条吉良氏とは、互いに正統性を主張しあって譲らず、両者の子孫が約1世紀にわたって三河一国を舞台に抗争を繰り広げます。応仁の乱においては西条家の義真が東軍、東条家の義藤が西軍にそれぞれ属して戦っています。西軍の組みした義藤は松平の猛攻で松平に下ったようです。

●松平氏:室町殿の直近である伊勢貞親に命で三河に来た松平氏と戸田氏は足利義政の側近の部下に当たる。当然、伊勢貞親について東軍に組みした。三河国内の西軍派の拠点である安祥城の攻略を主筋にあたる伊勢貞親の承認があったと思われる。松平信光はこれを機に三河で大きな基盤を築くことに成功します。

●戸田氏:応仁の乱では一色氏に近い為か西軍に属し勢力を広げ一族の支配基盤を確立していきますが、西軍の敗色が濃厚になると渥美半島の一色氏を襲って東軍に寝返ります。

●中条氏 :中条氏は将軍義政に近侍していたことは間違いないが、応仁の乱に中条氏がどのように対したのかは判りません。乱後の長享元年(1487)、ときの中条氏の惣領政秀は将軍義尚に仕えて、近江六角氏攻めに供奉して近江に出陣しております。政秀は評定衆の一員でもあり、『蔭涼軒目録』によれば、奉公衆のなかでは最大の所領を有していたことが知られています。

●奥平氏:赤松氏の分流と思われる奥平氏は、加賀半国守護となって再興を果たした、赤松政則(満祐の大甥)と一緒に東軍に組みしたと考えられる。

●牧野氏:平三郎成興は応仁の乱で西軍の一色義直に従い京合戦に参陣したとされています。 その主君一色義直が将軍足利義政に和睦を認められ三河守護職を放棄したために、その後牧野は衰えました。額田郡一揆では牧野・西郷氏が守護の命令にもかかわらず、一揆鎮圧に失敗しているので親西軍だったと考えられます。

●西郷氏:三河国守護代西郷稠頼、そして、その子頼嗣により三河国岡崎城築城。次第に松平に安祥城を奪われるなど松平氏に圧迫されます。その後、その姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服しました。また、駿河の今川氏が戦国大名として台頭するとこれに服し、西三河の松平清康が全三河を従える勢いとなると松平氏に服属し、1530年に清康が宇利城(現在の新城市)を攻めたときもこれに従った。しかし、1535年に清康の横死(森山崩れ)によって松平氏が弱体化すると今川氏に再属します。

●織田氏:尾張守護代の織田伊勢守敏広は西軍の斯波義廉に付き、小田井城主・織田大和守敏定は東軍の斯波義敏につきます。応仁の乱後期、西軍の斯波義廉が遠江から逃れて尾張に下国すると、東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を駆逐しますが、文明10年(1478年)に織田敏広が守護代を更迭され、織田敏定が新たな守護代に任じられると勢力は逆転します。敏定と敏広が対峙・和議が繰り返されるうちに敏広が没し、敏定が実権を握っていくことになります。しかし、尾張を統一するに至らず、尾張北四群(敏広・岩倉派)と南四群(敏定・清洲派)が争うことを続けます。

●横地氏:遠江東部における最古の武士団、横地城を中心に支族が各地に広がっている。永承六年(1051)の前九年の役に際して奥州へ下る途中、相良荘司藤原維頼(光頼とも云われる)の娘が義家の寵愛を受けて男子を出生した。この男子が横地太郎家長なる。東軍に組みした横地氏は当初は今川氏と旗を並べましたが、今川とたもとを別ちます。

●勝間田氏:東遠土着の国人で一貫して幕府方にあって活躍していた。応仁の乱勃発時においても勝間田氏は今川義忠とともに東軍細川方として在京していた。しかし、修理亮は京の陣を引き払い帰郷してしまった。寛正六年(1465)八月に勝間田修理亮は将軍の上意によって横地氏とともに見付(磐田市)の狩野氏を討ち取り、感状を授かったことがある。ところが見付城には今川一族の堀越貞延が入ったのである。血を流して戦った修理亮らは獲物を横取りされたようなものであった。文明5年(1473年)、今川義忠は東軍の救援に赴き、そのおり、遠江の国人巨海氏、狩野氏と兵糧用として預けられた所領を巡って対立して、今川に滅ぼされました。

●巨海氏:大河内氏の支流で三河国幡豆郡巨海を本貫地とする。吉良義真の被官となっていた巨海 道綱(こみ みちつな)は遠江・引馬城で今川義忠に滅ぼされます。

●狩野氏:狩野氏は寛正六年(1465)八月に将軍の上意によって横地氏・勝間田氏に攻められます。狩野氏の巨城である見付城(磐田市)が今川義忠によって奪われます。横地氏・勝間田氏にとってはかすめ取られたようなものであり容認できません。狩野氏は吉良義真の被官となっていきますが、応仁の乱の前か後か不明です。応仁の乱の後期には東軍の吉良義真の被官となっており、同じ東軍の遠江の国人巨海氏と共に糧用として預けられた所領を巡って、今川義忠と対立して滅ぼされます。

 

 

06

応仁の乱は。応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって起こされました。利害関係や寝返りなどで勢力は前半と後半で大きく変わってゆきます。

文明3年(1471年)521日、朝倉孝景が足利義政から越前守護の任命されたことで西軍から東軍に寝返ります。越前・遠江守護代の甲斐 敏光は朝倉孝景と共に戦っていたので同時に西軍から東軍に寝返ることになると、遠江守護代の寝返りによって情勢が大きく変化しました。

文明5年(1473年)、駿河守護今川義忠は東軍の三河国守護・細川成之が美濃国守護代格・斎藤妙椿から攻撃を受けたため、将軍の命により三河へ出陣しています。しかし、同じ東軍の遠江の国人巨海氏、狩野氏と兵糧用として預けられた所領を巡って対立して、今川義忠はこれを滅ぼします。これは今川義忠が遠江の支配権に固執している表れと思われました。遠江守護代甲斐八郎敏光が東軍に寝返った為に西軍の斯波義廉についていた遠江の国人の多くが東軍に寝返ったと思われます。今川義忠にとって遠江を伺う機会が減っていった訳です。しかし、今川義忠は東軍であるハズの国人巨海氏、狩野氏、勝間田氏、横地氏と機会ごとに戦火を広げていきました。

文明7年(1475年)219日、越前・遠江守護代甲斐八郎敏光、東軍斯波義良の遠江守護代となり遠江下向します。これは今川義忠への牽制の意味合いも大きかったでしょう。西軍の斯波義廉は孤立して、11月に尾張守護代の織田敏広を頼って尾張に下国することになります。斯波義廉の下国によって尾張では織田敏広が東軍に与した義敏・義寛父子と織田敏定らの勢力を一時同国から駆逐されました。

文明7年(1475年)723日に駿河守護今川義忠、東軍の遠江勝田氏を破る。さらに文明8年(1476年)46日、今川義忠は敵対した遠江の有力国人 横地氏の本城 横地城(静岡県菊川市)を攻略し、横地氏15代当主 横地四郎兵衛秀国を討ち取りました。

(横地城の13代横地太郎長秀は足利義政に仕えていたので東軍であります。)

しかし、今川義忠は塩買坂(菊川市(旧小笠郡小笠町))で敵の残党による待ち伏せにあって、流れ矢で深手を負い討死します。遠江の実質的な支配権を得た駿河今川氏でありましたが、今川義忠の死によって再び昏倒とした状態に戻ってゆきます。

 

07

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