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さくらさく 桜文化と桜の伝搬

<桜咲く3部>
さくらさく この花の起源
さくらさく 桜文化と桜の伝搬
ポトマック河畔にさくらさく

中国人学者の張氏は、宋の時代に日本に伝わったと主張されていますが、少し勉強不足のようです。

上に示したように、古代日本時代から桜は繁栄の証とされており、伝来はかなり昔と推測され、宋の時代(960年~1279年)は、平安時代(794年~1192年頃)の後期に重なります。花を観賞するという文化が輸入された可能性は否めさせんが、桜が宋から齎されたという主張は無理があります。ただ、宋(隋・唐等々)に赴いた僧や官僚が桜の木の苗を持ち帰った可能性は否定できません。

中国では牡丹などの花が喜ばれます。

では、何故、中国でそれほど注目されていない桜の木を持ち帰ったのでしょうか?

古代の中国では、シナミザクラのことをオウといい櫻と表記したそうです。

 Photo_5

古代中国では、貝は子安貝のことを表し貴重品や財宝として珍重されていました。

その貝が二つ並ぶことで、首飾りをあらわしていたそうです。

さくらんぼの実が首飾りの玉に似ているところと、母親のところにまとわりつく赤ちゃんの唇の色にも似ているところから櫻という字が使われるようになり、首飾りの玉のような実がなる木というのが一般的な解釈だそうです。

三国志に劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだ。これを『桃園の誓い』といいいます。桃と言われるので、桃の木と思えば差に非ず。桃色の美しい花をつける木のことです。

中国で「桜(櫻)」という字は、ユスラウメを意味しますが、「桜桃」(おうとう)もユスラウメと意味します。つまり、中国では同じ文字になってしまいます。

もしかすると、『桃園の誓い』は桜の木の下で行われたのかもしれないのです。

この『桜桃』(おうとう)がシナミザクラです。別名としてカラミザクラ(唐実桜)と呼ばれ、中国原産で食用になります。そうご存じ、サクランボのことなのです。

サクランボは、桜の実という意味の「桜の坊」が変化した言葉です。

中国の華北・華中を中心に支那桜桃(シナノミザクラ, Prunus pseudocerasus)・唐実桜(カラミザクラ)が分布し、漢の時代に編纂された礼記『月令』の仲夏(旧暦5)の条に「是月也,天子乃以雛嘗黍,羞以含桃,先薦寢廟」との記述も残っております。上で紹介した三国志の『桃園の誓い』に現れる木も『桜桃』(おうとう)で間違いないでしょう。

では、日本に入ってきたのはいつでしょうか。

正確に判るものでは、江戸時代に清から中国桜桃が伝わったがあまり広まらず、西日本の一部で現存しているだけです。

文献から調べてみますと、

国指定重要文化財の大善寺玉垂宮所蔵の掛軸(玉垂宮縁起、建徳元年銘《一三七〇》のいただいた由緒書によれば玉垂命は仁徳五五年(三六七)にこの地に来て、同五六年に賊徒(肥前国水上の桜桃ゆすら沈輪)を退治。同五七年にこの地(高村、大善寺の古名)に御宮を造営し筑紫を治め、同七八年(三九〇)この地で没したとあり、先の端正元年に没した玉垂命とは別人のようだ(『吉山旧記』による)。

『吉山旧記』の中の桜桃(ゆすら)は賊徒という人物名ですが、桜桃の文字が示されています。

つまり、かなり古い時代から桜桃が伝来したことが伺われます。

しかし、『桜桃』(おうとう)の資料に食用としての記述は中々見つかりません。梅のように食用として日本に伝わった可能性が小さいと思われます。

桜は古代日本にある花で『古事記』、『日本書紀』に書かれているように貴重な花とされていました。しかし、平安時代になるまで春の歌に使われるのは梅であり、桜の歌は数少ないのです。

劇的に桜が見直されるきっかけがあったハズなのです。

実は仏像に秘密が隠されていました。

京都東寺(教王護国寺)の兜跋毘沙門像は、中国産の魏氏桜桃Prunus Wilsoni Koehneで造られているのです。

他にも、京都清涼寺阿弥陀堂本堂の釈迦如来像(本尊)、神奈川清雲寺の滝見観音像(裳裏)、神奈川清雲寺の滝見観音像(背下)も魏氏桜桃の木を使っています。

この東寺の兜跋毘沙門と清原寺 の釈迦像は、東大寺の僧 奝念(ちょうねん)が平安中期の永延元年(九八七年)に宋から請来したものです。

昭和二十年代に従来の国宝が重要美術品と呼ばれる格づけになり、この像も新国宝にするため調査が行われました。すると、胎内に五臓模型が収められてい ることがわかり、世界最古の内臓模型をもつものとして世の注目を浴び ることになったのです。さらに、胎内から記録が出て、奝念が揚子江の沿岸の台州で造像博士張延皎に模刻させて持ち帰ったことも明らかになった訳です。伝承では、インドから中国、そして日本と三国伝来と言われていた仏像が中国で造られた仏像であったことが明らかになった訳です。

こうして、この仏像の用材が台州付近に産する魏氏桜桃であることが判明したのです。

もしかすると、奝念が『桜桃』(おうとう)の一枝が持ち帰られ、それを源流として日本の桜が生まれたのかもしれません。

『日本後記』弘仁三年二月辛丑に「神泉苑の幸して花樹を覧る。文下に命じて棉を賜うこと差あり、花宴の節はここに始また。」『編年記』

このとき南殿の桜が嵯峨天皇の勅命で植えられた。いろいろな桜が一所に植えられたので、花におのずから遅速であり、「開花又異なり其の色もまた各別である」と記されています。

つまり、記録に残る日本最古の桜のお花見は、嵯峨天皇が812年(弘仁3年)に神泉苑にてもよおした日本後紀に記される『花宴の説』だのです。

奝念(ちょうねん)が仏像を持ち帰ったのが987年ですから、175年も前から桜の花見が催されていたことなります。812年(弘仁3年)は中国ではまだ唐の時代です。唐より後の宋の時代から桜を持ち帰り、それを日本人が愛でるようになったという理屈は無理のようですね。

しかし、桜文化のヒントはそこに隠されていました。

平安時代は、

日本天台宗の開祖である伝教大師 最澄(767~822)、高野山に真言宗を開いた弘法大師 空海(774~835)と平安仏教が花開いた時代です。

特に吉野では、桜が蔵王権現(ざおうごんげん)の神木であるとされ、行者達は桜材を使い権現を彫刻し、これを祀る習わしとなりました。

蔵王権現(ざおうごんげん)は、インドに起源を持たない日本独自の仏で「権(かり)の姿で現れた神仏」という意味です。役小角が吉野の金峯山で修業中に示現し、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の合体したものとされています。

この高野山と吉野を拠点としたのが、弘法大師 空海です。

・木造兜跋毘沙門天立像(奈良県指定文化財)平安時代 一木造りサクラ材

・法隆寺 釈迦三尊像 平安時代 一木造りサクラ材

奈良時代でサクラ材を使った仏像はあまり見当たりません。

やはり、弘法大師やその他の遣唐使たちが持ち帰った知識と考えられます。

そうなのです。

吉野に桜が多いのは、こうした理由からなのです。

そう中国よりサクラ材で仏像を彫るという知識が伝搬したからこそ起こった一大センセーショナルなのです。

桜の木は古来より神聖な木とされており、その神聖な木で仏像を彫るとありがたい仏像が生まれるという考え方が生まれたのです。

平安の世が落ち着いてゆくにしたがった貴族たちが挙って仏像を造らせました。

その材料となる桜が各地で植えら、山々や貴族の田園や庭にも植えられ、春を鮮やかに飾る桜文化が華開いたのであります。

平安時代に桜文化が花開いた日本では、野山に咲く桜だけでなく、中国や朝鮮からも多くの苗を取り入れたことでしょう。

いつの時代までかは特定できませんが、桜桃の苗も輸入されたかもしれません。

原種の植物は、基本的に異品種の交配により、同種内の遺伝子に幅を持たせるような遺伝子構造を持っております。多くの桜が交配されて、新しい桜が生まれていったことでしょう。そんなことを繰り返しながら、現代の桜の祖先が生まれていったことでしょう。

<<『桜の起源は中国 宋代に日本に伝わる』は大間違い>>

桜の原種はヒマラヤ山脈かもしれません。しかし、数百万年前の地層から桜の葉の化石が日本で発見されているように、最古の話で人類が存在する以前の話なのです。

中国や朝鮮の桜の起源が日本などとは申しませんが、日本にも昔から桜があったのです。

仏教の伝来と同じくして、桜の苗が梅などと元に日本に伝来したかもしれません。

中国に20種、その内の9種が日本に入ったと一般的に言われます。

それらの桜と日本原種の桜が交配し、現代の桜を形成しています。

中国科学院武漢植物園の専門家の張忠慧氏は

当初の桜、つまり山桜と野桜は代表的な中国の桜だ。

日本の桜は重弁花で、野桜と山桜は単弁花だと主張されています。

しかし、日本の原種のエドヒガン (江戸彼岸)も単弁花もあり、樹齢2000年の神代桜はエドヒガンの自生種です。

Photo_2

〔中国産の桜桃〕

Photo

〔日本産のエドヒガン〕

中国の桜が単弁花だから、日本の単弁花の桜はすべて中国から伝来したというのは思い上がりというものです。

2000年も遥か古代に、食用でもない桜の木を誰が運んだのでしょうか?

宋の時代(960年~1279年)以前に日本にも桜が自生したことも知らないのでしょうか。

もう少し勉強された方がよろしいのではないでしょうか。

ただ、何度も申しますように、

平安時代、遣唐使などを通して仏教がより深く伝来し、それに伴って桜文化が花開きました。より美しい桜の花を咲かせる為に、多くの人たちが努力されたことでしょう。

その中に中国や朝鮮などから新しい桜の苗が取り入れられたとしても不思議ではありません。

すばらしいものを受け入れることに、何の抵抗があるのでしょう。

桜の木材で仏像を彫るという技術が伝搬し、

神聖な桜の木で仏像を彫る。

仏像を彫る為に桜の木を植える。

植えた桜の木で花見を行い、春を楽しむ。

日本に桜文化をもたらしたのは中国なのです。

私は日本にすばらしい文化を齎した中国に感謝しています。

どうか、その感謝を自ら泥を塗るような稚拙な嘘で穢さないで下さい。

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中国専門家:桜の起源は中国 宋代に日本に伝わる

http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2013-03/27/content_28371002.htm

武漢大学のキャンパスは桜の名所だ。記者がこのほど武漢の桜の名所を取材した際、武漢大学園林環境衛生サービスセンターの黄徳明主任、中国科学院武漢植物園の専門家の張忠慧氏、磨山管理所の園林エンジニアの張艶芳氏は、桜は中国原産で、宋代に日本に伝わったと主張した

 

日本の史書、桜の原産地は中国と証明

張氏は、「日本の権威ある桜専門書・桜大鑑には、桜の原産地は中国であり、日本で名を馳せたとされている。桜の起源はヒマラヤ山脈にあり、その後日本に伝わり、桜の変種が発展した地方となった」と述べた。

張氏は、「当初の桜、つまり山桜と野桜は代表的な中国の桜だ。日本の桜は中国の宋代の頃より、中国の野生の桜の栽培を開始した。さらに現地で改良を続け、現在の有名な日本の桜に進化した」と語った。

日本の桜は重弁花で、野桜と山桜は単弁花だ。これを鑑賞した場合、日本の桜はボリューム感があり、野桜と山桜は寂しさが目立ち、木の寿命も短い。しかし野桜と山桜の鑑賞期間は20日以上に達し、日本の桜より1週間ほど長い。

文化の差、桜が日本の象徴に

桜は中国原産であるにも関わらず、なぜ桜は日本の象徴とされるのだろうか。

 

張氏は、「これは長期的な文化の差により形成された誤解だ。中国の歴史において、桜は他の名花ほど知られていなかった。中国人は富を象徴する牡丹、高潔な品格を示す梅の花を好む。日本人にとって、桜は純粋かつ剛直で、潔く滅び行くイメージがあり、武士道の精神に合致する」と指摘した。

 

「中国網日本語版(チャイナネット)」 2013327

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